2019年12月 5日 (木)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・9

★#9・大嘗祭における【日本建国の〔愛〕の理念】と壬申の乱

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

(2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回(8)まで解説し証明してきたように、【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された
 弥生時代(3世紀)に生存した天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母の伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視し、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。
 天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を最も偉大な皇室の先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝する大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。だから、天武・持統両天皇は――天皇の権力を絶大にするための最大の障害となった【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)しなければならない――と考えた。
 ところが、天武・持統両天皇が「絶対に後世に伝えてはならない」と禁じた【日本建国の〔愛〕の理と日本国誕生史】は、江戸時代に復興されることになった。
 つまり、(3)天武天皇が大嘗祭を始めた673年から約1070年後の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭にて、【日本建国の〔愛〕の理念】は表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、上記した(3)1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 このように、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆このブログの前々回(6)で指摘したように――大嘗祭を起源させた第40代・天武天皇の両親・第34代・舒明(じょめい)天皇と皇后の宝(たから)皇女(35代・皇極天皇にして第37代・斉明天皇)であった。
 天武天皇の父の舒明天皇は『万葉集』2番の「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌を作って、「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命をたたえた。また、舒明天皇は『万葉集』5番の「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌を作って、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)への憧れを表現した。
 そしてわがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、また、この前回(8)のブログで要約して現代語訳して証明したように、『万葉集』485番の岡本天皇(天武天皇の生母の宝皇女)が作った長歌は【日本国誕生史の秘密】を解明できる重大な糸口(いとぐち)となる、多数の『万葉集』の和歌にあって【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表現する最も代表的な作品である。
 岡本天皇(舒明天皇と宝皇女)の息子は66813日に即した第38代・天智(てんじ)天皇と、673227日に即位した第40代・天武天皇である。
 天智天皇は兄で皇太子の時の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であり、弟の天武天皇は皇太弟の時の名は「大海人(おおあまの)皇子」であった。

671(天智天皇10)10月、病床にあった兄天智天皇は皇太弟(こうたいてい)の大海人皇子(のちの天武天皇)を枕辺(まくらべ)にまねき、後事(こうじ)をたくそうとした。しかし大海人は用心して次の天皇になることをことわった。天智天皇は息子の大友(おおとも)皇子に譲位したかったので、大海人の出家と吉野隠退(よしのいんたい)の願いを聞き入れた。
 大海人の吉野入りに従う者は、正妃の菟野(うの)皇女(のちの持統天皇)とその子草壁(くさかべ)皇子、異母子の忍壁(おさかべ)皇子、舎人(とねり)40人余など計70人足らずであった。
 同年12月、天智天皇が近江で死去した。
 大海人が吉野に隠退してから半年ばかり経過すると、近江方の締()め付けがきびしくなり、近江から南の飛鳥(あすか)までの要所に監視人を置いて吉野の動静をうかがうようになった。
 おりしも、朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)が「私は私用で美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司(こくじ)に『天智天皇の山科陵(やましなりょう)を作るために、あらかじめ人夫を徴集(ちょうしゅう)しておけ』と命じておりました。ところが、その人夫たちに武器を持たせておりました。思いますに、これは必ず変事があることを示しているもので、もし速(すみ)やかに避()けられないと、きっと危険な目にあいましょう」と報告した。
 672624日、危険を察知した大海人は吉野を出立して東国へ逃れた。この時、吉野方の人数は女性や子どもたちまでふくんで50人足らずであった。(つまり、吉野へ隠退した時より大海人一行を護衛する兵士の舎人が約20人も減っていた)
 吉野を出発した日の朝、大海人一行は菟田(うだ)の安騎(あき)(現在の奈良県宇陀市の阿騎野)を通過し、甘羅村(かんらのむら)つまり現在の奈良県宇陀市の榛原町(はいばら)町の方へ向かった。
 甘羅村を過ぎた交通の東西要衝(ようしょう)の地にて、20人余りの猟師一行と出会った。
 この様子を、『日本書紀』巻二十八の天武天皇紀の東国の出発の条(くだり)は、次のように記述する。
 「甘羅村(榛原町)を過ぎると、猟師二十人余と出会った。大伴朴本連大国(おおともえのもとのむらじおおくに)は猟師の首領であったので、ことごとく召して一行の仲間に入れた。また、美濃国の王(美濃国の豪族)をも召され、お供(とも)に加わった。」

◆上記したように、大伴連大国がひきいる20人余りの猟師の一団には、朴井連雄君が大海人に「近江朝が美濃に人夫を徴集して武器を持たせていた」と報告した、その美濃国の王が一緒に行動していた。
 『日本書紀』神武天皇紀は「皇軍は、熊野の神邑(みわのむら)に到着し、天磐盾(あめのいわたて)に登った」という記事の後は、八咫烏(やたがらす)について下記のごとくの記事がある。〔なお、「天磐盾」は現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する、天照大御神を祭神として祀る神倉神社が所在する神倉山である〕。
 「大伴氏の先祖の日臣命(ひのおみのみこと)は、山を越え道を踏み分け、八咫烏の導くままに、仰ぎ見ながら(つまり、1度の60分の11分の精度で精確に緯度が測定できる天頂緯度線と経度軸をキャッチして)追跡して皇軍を先導した。皇軍は宇陀の下県(しもつこおり)に到着し、神武天皇はこの地を宇陀の穿邑(うかちむら)と名づけられた。そのとき、天皇は『お前は忠勇(ちゅうゆう)の士で、またよく道を導いた。この手柄にもとづきお前の名を改めて道臣(みちのおみ)としよう』と仰せられた。」
 大海人一行が出会った大伴連大国は現在の奈良県宇陀市榛原町の高星(たかへ)に居住していた。672年当時、榛原町高星は「高屋(たかや)」と呼ばれていた。
 この「甘羅邑の高屋・現在の榛原町高星」が『日本書紀』神武天皇紀の八咫烏の条に記載される、大伴氏の先祖の日臣命が皇軍を先導して到着した「宇陀の下県の穿邑」であった。その証拠に、「天磐盾(現在の和歌山県新宮市磐盾町の神倉山)」と「宇陀の穿邑(甘羅邑の高屋・現在の榛原町高星)」は共に東経13559分で同経度ある。先祖が日臣命である大伴連大国は、日臣命が皇軍を天磐盾から先導して到着した同経度(真北)の宇陀の下県の穿邑=甘羅邑の高屋に居住していたのである。
 大伴連大国は道臣命(日臣命)の末裔(まつえい)の、武家の名門・大伴連家と大伴家の宗家(そうけ)の頭領であった。
 女性や子どもたちをふくんでわずか50人足らずで東国へ逃れる窮地(きゅうち)におちいった大海人一を助けようと決意した大伴連大国が「道臣命の末裔」と名乗らずに「猟師の首領」と名乗ったわけは、出世や褒美(ほうび)を欲するものではなく、『古事記』伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念の復興】を願うものであったからである。

◆上記したように、吉野を出発した大海人一行は、現在の国道370号線を北へ進んで菟田の安騎(現在の奈良県宇陀市阿騎野)を通過した。さらに、北上して甘羅村(宇陀市榛原町)を通過した時に、大国・美濃の王等の一団と出会った。
 大海人と大国が出会った場所は、現在の榛原駅のすぐ東の国道370号線・国道369号線・国道165号線の合流地点であったと考えられる。というのも、南東へ向かう国道369号線の先は伊勢であり、『日本書紀』天武天皇紀が書いてあるとおり大海人・大国たちは伊勢国へ米を運ぶ駄馬50匹と遭遇(そうぐう)しているからである。また、国道370号線から北東へ向かう国道165号線を進むと大海人・大国たちが通過した大野(奈良県室生村大野)に至り、その先は一行が夜半に到着した隠郡(なばりのこおり/今の名張)となる。そして、三本の合流地点は、大国が居住した高屋からの道とも合流する。
 大海人と大国に出会った推定地点は、古くは吉野、大和、伊賀、東海道や東山道、伊勢を結ぶ東西交通の要衝(ようしょう)であった。ゆえに、この要衝に近くにある高屋は東海道と東山道の武士たちをたばねる強力な武将・大伴連大国が居住するのに最適地であったことになる。

672624日に大海人一行が吉野を出発した時の人数は女性や子供まで数に入れて五十人足らずであった。
 大国らが加わって、夜を徹(てっ)して逃れ、伊賀の山中に至るころ、伊勢の郡司らが数百の兵をつれて従った。翌25日には五百の軍勢が、さらに26日には美濃の軍勢三千人が加わった。27日には、尾張の国司が二万の兵をひきいて加わった。
 だから、美濃の王をひきいて大海人と出会った大伴連大国は、伊賀・美濃・尾張の東海道・東山道の軍勢の頭領であったのである。
 壬申の乱は、『日本書紀』が書いてあるとおり「近江朝が美濃・尾張両国の国司に『天智天皇の陵墓を作るために、あらかじめ人夫を徴集しておけ』と命じて、その人夫に武器を持たせた指令」から始まった。
 近江朝は五十人足らずの吉野に住む大海人を簡単に殺害できる。しかし、この暗殺隊を吉野に向けると大国が住む高屋に近い交通の要衝を通過しなければならない。このため、大海人暗殺隊を吉野に向かわすと、この変事(へんじ)に高屋に住む大国は気づくちがいないゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国は必ず軍勢を挙げると、近江朝は考える。したがって、近江朝の美濃・尾張の国司への命令は、先ず大伴連大国を討伐して、次に大海人を殺す陰謀をあらわすものにちがいない――と近江朝の命令を聞いた美濃の王は推察して、高屋に住む頭領の大国のもとにいち早く駆けつけたと推定される。
 だから、大海人と出会った時、美濃の王は大国と行動を共にしていたことになる。

◆当時、大伴連家の分家の大伴御行(おおとものみゆき)が、近江朝につかえていた。
 ゆえに、大伴御行は――大伴連大国は伊耶那美命・伊耶那岐命に熱烈に憧れるゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する東海道・東山道の兵士たちに敬愛される、大伴連・大伴両家の宗家の頭領である強力な武将である――と、近江朝に報告したにちがいない。
 だから、近江朝は朝廷の威厳(いげん)に美濃・尾張の武士たちが畏怖(いふ)し服従して頭領の大国を討伐するにちがいないと推断して、次に大海人を殺すという作戦を立てたことになる。
 いっぽう、大国は近江朝による大海人の殺害を心配した。だから、吉野に隠退する大海人一行が甘羅村を通過した時から壬申の乱がおこるまでの半年間、大国は大海人に危害がおよぶ気配が発生した時の作戦を東海道・東山道の各地に赴(おもむ)いて配下の国司・郡司・王(豪族)たちと綿密(めんみつ)に相談していた。ゆえに、壬申の乱の朝、大国は素早くに各地に伝令を送って指令(しれい)した後に、大海人と合流した。これゆえ、伊賀国の郡司の数百の兵士が、翌日には五百の軍勢が、二日後には美濃の軍勢三千人が、三日後には尾張の国司が二万の武士たちをひきいて、大国が護衛する大海人一行に合流できたと考えるべきことになる。
 〔注 二日目の美濃の軍勢三千人、三日目の尾張の国司がひきいた二万の兵士の大海人一行との合流は、近江朝が美濃・尾張の国司に徴集を命じた人夫(武器を持たせた兵士)を服従させて大国を討伐する作戦の誤算・失敗を明確に示す。〕

◆尾張の国司が二万の大軍をひきいて大海人に帰順したときである――この一報が伝わると、近江方は一大恐慌(いちだいきょうこう)におちいった。募兵(ぼへい)の試みは失敗し、けっきょく、現有兵力で戦わなければならなくなった。そのころ、大和に隠退(いんたい)していた大伴馬来田(おおとものまくた)・吹負(ふけい)兄弟は、大海人の味方となり、629日に急きょ飛鳥の古京を襲って占領したことを、大海人に報告した。近江方は数万の兵を不破(ふわ)に向かわせたが、内紛(ないふん)がおこって失敗に終わった。
 吉野の出発から8日後の72日、吉野軍は近江軍を圧倒する数万の大軍となった。
 かくして、722日の瀬田(せた)の決戦で近江軍は敗(やぶ)れた。天智天皇の子の大友皇子は逃げ場をうしない、翌日、長等(ながら)の山崎(やまざき/諸説あり)で自ら首をくくって死んだ。ときに、25歳であった。
 このように、壬申の乱はまる一ヶ月で終わった。
 壬申の乱で、にわかに吉野軍が大軍になったのは、東海道・東山道の武士と同じく【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国がいちはやく大海人一行に合流して護衛していたからである。大国は大伴連家と大伴家の宗家の頭領であったゆえ、大伴馬来田・吹負兄弟は大和に隠退して吉野方に味方し、将軍・大伴御行は近江朝を裏切って吉野方に加わった。ゆえに、近江方に内紛がおこって、吉野軍に大敗したのである。
 673(天武天皇2)2月、大海人皇子は即位して大嘗祭を初めて実施(じっし)して天照大御神の崇拝政策を示し、天智天皇の路線を引き継ぎ律令体制の強化をはかった。
 よって、天武朝は【日本建国の〔愛〕の理念の排除】を表明したゆえ、大国が期待した【日本建国の〔愛〕の理念の復興】は成就(じょうじゅ)しなかったことになる。
 壬申の乱で天武天皇が勝利したのは、【天智天皇の政策の、日本建国の〔愛〕の理念の排除】に対する反発が【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(下級官僚や庶民)のあいだにみなぎり、それが大海人への同情と期待となって、大伴連大国はじめ東海道・東山道の武士たちをつき動かすことになったからである。しかし、天武朝が表明した政治は【日本建国の〔愛〕の理念】に反するもので、大国たちの期待を裏切った。
 だから、吉野方に勝利を導いた最高の功労者・大伴連大国は、天武朝に参加せずに庶民となって、都から遠く離れる片田舎(かたいなか)の菟田(うだ)の高屋に居住した。 

◆このため、天武天皇にとって朝廷の律令政治に背を向け、【日本権力の〔愛〕の理念】を重んじる大伴連大国は最大最強の脅威(きょうい)となった。天皇は菟田の高屋にひきこもる大国の才能を惜しみ、なによりも彼の反乱をおそれた。また、都の東方を守備するためには、彼が有する兵力が不可欠(ふかけつ)であった。そこで、天皇は大国を懐柔(かいじゅう)するため、わが子を大国に与えることを思いついた。わが子を大国に預けて養育させれば、この子は成長して大国の後継者となる。わが子が東海道・東山道の武士たちを統率(とうそつ)する強力な武将となれば、都の東方の防衛は盤石(ばんじゃく)の備えとなる――と、天皇は目論(もくろ)んだのである。
 壬申の乱から4年後の676(天武天皇5)、新田部(にいたべ)皇女が天武天皇の子は出産した。これが、舎人(とねり)皇子である。
 797(延暦16)に完成した『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「舎人皇子は天武天皇の第三皇子」と記す。つまり、舎人皇子は多数の天武天皇の子どもたちにあって、皇位継承順位が三番目の地位が高い皇族して、大国を養父とする庶民でもあったのである。
 天武天皇の第一皇子は、正妃菟野皇女(のちの持統天皇)が生んだ草壁皇子である。天武天皇は第二皇子をもうけなかった。『日本書紀』は「大津皇子が天武天皇の第三皇子」と記す。だから、天武天皇の第二皇子というべき皇族は大津皇子と舎人皇子であったことになる。

◆舎人皇子が6歳であった681(天武天皇10)317日、『日本書紀』天武天皇紀は「天皇は大極殿(だいごくでん)にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子はじめ12人の皇族・貴族に詔(しょう)して、帝紀および上古の諸事を記し定めさせた」と記述する。
 この記事に登場する「上古の諸事」は、620(推古天皇28)に皇太子・聖徳太子と大臣・蘇我馬子に編纂を勅令(ちょくれい)した【国記】を指していたことになる。この【国記(上古の諸事)】は――645613日、乙巳(おつし)の変で蘇我蝦夷(そがのえみし)が殺される前に自邸に所管していたすべての天皇記・国記・珍宝を焼こうとしたが――船史恵尺(ふねのふびとえさか)が素早く取り出して焼失をまぬがれた。〔これについては、このブログ前々回(7)で詳細に解説した〕。
 【蘇我大臣家に所管されていていた、乙巳の変で焼失しなかった国記(上古の諸事)】を、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷わせて序)は、【国記(上古の諸事)】を「本辞(ほんじ)」、「旧辞(きゅうじ)」、「先代の旧辞」などの名称で呼ぶ。
 ゆえに、『古事記』という書名は――『日本書紀』天武天皇記における「上古の諸事を記し定めた」という記事にある[][][]3字に由来する――という説がある。
 しかし、天武天皇の【帝紀および上古の諸事の記定の勅令】は中止されて実現しなかった。
 というのも、天武天皇は皇室と国家権力を強化する律令体制を推進するため、【(1)天照大御神の聖性を絶対に汚してはならない歴史書の作成、(2)伊耶那美命がとなえた日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を削除(さくじょ)する、上古の諸事の記定】を命令するものであったからである。
 上記したように、大伴連大国は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の削除】をゆるすはずがなく挙兵するにちがいなかった。この大国の挙兵には、壬申の乱の勝利に導いた東海道・東山道の武士たちはもちろん、壬申の乱で敗れた近江軍の残党も大国軍に加わるにちがいなかった。このような大国軍と戦って、天武王朝軍の勝算は不確かで敗戦する可能性もあった。これゆえ、天武天皇は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を削除する、上古の諸事の記定事業】を断念した。
 しかし、天武天皇が【上古の諸事の記定】を強行していたならば、反乱を指揮する大国は天武天皇の子・舎人皇子をどのようにあつかっていたであろうか。大国は厳(きび)しく育てながら舎人皇子を深く愛していたであろうゆえ、大国は生涯でもっとも厳しい苦渋(くじゅう)の選択をしなければならなかった。天武天皇の【上古の諸事の記定の情報】は大国の耳にもとどき、また少年舎人皇子も実父天武帝と養父・大国の対立の気配は察知したにちがいない。このとき、少年舎人皇子の小さな胸は不安でおしつぶされて、自分の父は愛情をそそいで育ててくれた大国であると思いつめ、いっぽう大国は挙兵しても舎人皇子は人質であらずわが子であるゆえなんとしても彼の生命はまもると決断し、生()さぬ父子は従来に増して強い愛で結ばれたにちがいない。
 よって舎人皇子にとって、父は天武天皇ではなく、大伴連大国であったことになる。
 舎人皇子は伊耶那美命に憧れた大国の遺志を継ぎ、【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える歴史の保存に情熱をかたむけた。生さぬ父子の〔愛〕で結ばれる堅(かた)い絆が、強大な朝廷と国家の権力にたちむかったため、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を伝える『古事記』が成立することになったのである。

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2019年12月 4日 (水)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・8

★#8・中大兄皇子が作った「大和三山の歌」が伝える日本国誕生史の秘密

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆令和の即位式と大嘗祭では、(1)弥生時代(3世紀後半)から続く儀式は――『古事記』上巻に記述された天照大御神の歴史をあらわす「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回まで解説し証明してきたように、【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された
 弥生時代(3世紀)に生存した天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母の伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視し、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。
 天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を最も偉大な皇室の先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝する大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。だから、天武・持統両天皇は――天皇の権力を絶大にするための最大の障害となった【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)しなければならない――と考えた。
 ところが、天武・持統両天皇が「絶対に後世に伝えてはならない」と禁じた【日本建国の〔愛〕の理と日本国誕生史】は、江戸時代に復興されることになった。
 つまり、(3)天武天皇が大嘗祭を始めた673年から約1070年後の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭にて、【日本建国の〔愛〕の理念】は表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、上記した(3)1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 このように、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と【本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆このブログの前々回(6)で指摘したように――大嘗祭を起源させた第40代・天武天皇の両親・第34代・舒明(じょめい)天皇と皇后の宝(たから)皇女(35代・皇極天皇にして第37代・斉明天皇)は小国・日本の女王であった伊耶那美命(いざなみのみこと)と小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)への憧れを表現する和歌を作り、息子・天武天皇が「後世に絶対に伝えてはならない」と禁じた【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を題材にした和歌を作っている。
 舒明天皇と宝皇女が作った【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を詠()む和歌は、7791月に完成したと考えられる『万葉集』に収められている。

 『万葉集』2番は舒明天皇が作った「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌である。この長歌で舒明天皇は「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命を讃えている。
 『万葉集』5番は舒明天皇が作った「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌である。この長歌で、舒明天皇は伊耶那岐命の憧れを示して「小国・日本の軍王のちの開化天皇が、倭女王卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)(吉備地方)討伐を指揮した所縁(ゆかり)の安益郡(現在の香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、伊耶那岐命が本陣を設営した讃岐富士の飯野山(いいのやま)から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまを見ていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、蘇我入鹿と情を通じているにちがいないと噂(うわさ)される妻の宝皇女と離縁しようかと決意したものの妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。小国・日本へ赴任する時に伊耶那美命と伊耶那岐命が〔塩許々袁々呂々邇(しおこをろこをろに)と画()き鳴らす国土生み儀式〕をおこなった舞台となった瀬戸内海の一角にある網の浦の娘たちが焼いて塩を作る時の沸騰する熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間で苦悶するわが心よ」と表現している。

 そしてわがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、下記の『万葉集』485番の岡本天皇(天武天皇の生母の宝皇女)が作った長歌は【日本国誕生史の秘密】を解明できる重大な糸口(いとぐち)となる、多数の『万葉集』の和歌にあって【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表現する最も代表的な作品である。
 神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――神代の伊耶那美命が小国・日本の女王に就任して伊耶那岐命とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を覆って飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の無数の大群のように、わたくしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたくしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否して抱いてくれません。わたくしは、昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

◆舒明天皇と宝皇女の息子は66813日に即した第38代・天智(てんじ)天皇と、673227日に即位した第40代・天武天皇である。天智天皇は兄で皇太子の時の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であり、弟の天武天皇は皇太弟の時の名は「大海人(おおあまの)皇子」であった。
 中大兄皇子は【日本国誕生史の秘密】を詠()む、『万葉集』13番の「大和三山の歌」の長歌と14番の反歌(はんか)を作った。
 3世紀(280年~289)に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』において「景初二年六月倭の女王」という文から最終部までの記事は、中大兄皇子が作った『万葉集』13番・14番の和歌と同じく【日本誕生史の秘密】を伝える。〔注 『魏志倭人伝』の文字数は合計約2000字で構成され、【日本国誕生史の秘密】を伝える「景初二年六月倭の女王」という文から最終部までの記事は約600字・約30%である〕。

◆『魏志倭人伝』の後半にある「景初二年六月倭の女王」の記事から倭女王の壱与(いよ)が登場する末部までの約600字・約30%の記事は、下記のごとく説明するものであった。
 ――『魏志倭人伝』末部に登場する「倭女王・壱与」は、『古事記』上巻に登場する13歳で小国・日本の女王に就任した伊耶那美命の夏音名(夏音文字の名)であった。
 伊耶那美命・壱与は小国・日本の女王の就任式において18歳の伊耶那岐命と結婚する時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という10字の夏音文字の詞(ことば)で「日本国(小国・日本)の国土生みの柱を〔愛〕にいたしましょう。やさしい男(おのこ)よ」と宣誓した。この【日本建国の〔愛〕の理念】は一気に評判となり、小国・日本はもちろん卑弥呼が治める倭国の国中すみずみまでに知れ渡った。
 倭女王・卑弥呼は没して大きな墓が造られ、百余人の奴婢(ぬひ/18歳ころの青年と13歳ころの乙女)が殺されて卑弥呼の墓に埋められる徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。
 伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する倭国の国中の人民は、徇葬を憎悪して武器を持って倭王朝軍と戦った。倭王朝軍は反乱する人民を千余人殺した。
 この大乱(たいらん)に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が倭国を倒さんと戦争を大々的に仕掛けてきた。
 このため、倭国と倭王朝はにわかに滅亡の危機におちいった。
 卑弥呼の後を継()ぐ男王を大王と倭王朝の面々は「そもそも人民の反乱と狗奴国の襲撃は、壱与(伊耶那美命)がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を人民たちが憧れておきたゆえ、この禍災(わざわい)の原因は伊耶那美命にある」と非難して、倭国における小国・伊耶(いや)国出身の伊耶那美命を倭国に帰国させて、大乱を鎮圧(ちんあつ)して狗奴国を討伐(とうばつ)する倭女王に任命すると伊耶那美命に命令した。
 伊耶那美命が倭女王に就任することを知った反乱する人民たちは、〔愛〕の女王・伊耶那美命ならば必ず徇葬は否定して禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てたゆえ、倭国は平定された。
 伊耶那美命は狗奴国討伐に反対し、狗奴国の男王との話し合いで平和的に解決するようにと命じた。
 倭女王・伊耶那美命の命令に反対する倭王朝は、狗奴国討伐を命令し鼓舞(こぶ)する壱与の代役に天照大御神を就任させた。天照大御神は、伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。
 天照大御神・伊迦賀色許売命が伊耶那岐命の父の第8代・孝元(こうげん)天皇と結婚して、第10代・崇神(すじん)天皇を生んだ。伊耶那岐命は父の孝元帝の後を継ぐ第9代・開化(かいか)天皇であった。第10代・崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟であった。したがって、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇と結婚して第二后となったゆえ、伊耶那岐命の異母弟の崇神天皇は伊耶那岐命の養子であったことになる。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁されたため、伊耶那岐命の妻という戸籍を失った彼女は伊耶那岐命の祖父の孝霊(こうれい)天皇の娘「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびのももそひめのみこと)」という名を受け継いだ。だから、『日本書紀』崇神天皇紀は、「倭迹迹日百襲姫命(伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命)は崇神天皇の姑(おば)である」と記す。

◆『日本書紀』崇神天皇紀6年の条(くだり)には、下記のごとく「崇神天皇の異名(いみょう/別の名)は天照大御神であった」と伝える記事がある。
 「崇神天皇に諸々の氏族(百姓)が服従せずに流離(りゅうり)し、あるいは背(そむ)く者も出て、その勢いは徳をもって治めることができなかった。これゆえ、天皇は朝早く起きられ、夜遅くまで、謹んで天神地祇(ちぎ)をお祭りになって謝罪された。これより先に、天照大御神と倭大国魂(わのおおくにたま)のニ神を、天皇の大殿(居所)の中にお祭りした。ところが、ニ神は、それぞれの勢いを畏(おそ)れて、共に大殿の中に一緒(いっしょ)に住むことを安心なされなかった。そこで、天照大御神には、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をお付けになって、倭の笠縫邑(かさぬいむら/奈良県桜井市三輪の檜原社)に移して祭ることにした。そして、檜原神社の境内に磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)を立てた。〔つまり、天皇がお住みになられる皇居〈磯城瑞垣宮(しきのみずかきみや)〉という名にちなんで磯の石を並べて垣根にする祭場(聖域)を設置した。〕また、大殿の中に住む日本大国魂神(にほんおおくにたまのかみ)には渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)をお付けになって、祭るように命令した。しかし、渟名城入姫命は、髪がぬけ落ち、身体が痩()せ細って日本大国魂神をお祭りすることができなかった。」
 この記事が伝えるように、崇神天皇は天照大御神を崇拝した。だから、崇神天皇の異名は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀において「天照大御神」と表記されたのである。
 「倭大国魂」と「日本大国魂神」を名前が異なるが同一神である。ゆえに、小国・日本の女王・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪する崇神天皇・天照大御神は、「伊耶那美命」と「日本建国の〔愛〕の理念」に「倭大国魂」または「日本大国魂神」という名称を付けた。そして、天皇の呪詛(じゅそ/のろい)の害が天照大御神に及ばないようにするため、皇居から遠く離れる磯堅城の神籬に移して、豊鍬入姫命に祭らせることにした。
 日本大国魂神を祭ることになった渟名城入姫命は天皇の呪詛の害(多分、毒でも盛ったのであろう)によって、頭髪が抜け落ち、痩せ細って【日本建国の〔愛〕の理念=日本大国魂神】を祭ることができなかった。だから、髪が抜け落ちて痩せ細った渟名城入姫命は【天照大御神・崇神天皇が憎悪し呪詛して願った日本建国の〔愛〕の理念の消滅・抹殺】を意味した。
 『古事記』上巻は「伊耶那美命は淤能碁呂島(おのごろしま)で伊耶那岐命と結婚した時、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた」と記述する。「淤能碁呂島」の[]の字義は「どろ()、つまり稲が育つ水田の肥えた泥」である。「渟名城入姫命」の先頭字[]の字義は「水が停()まって流れないこと、つまり水田に溜まる流れない水」である。ゆえに、「渟名城入姫命」は「伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた淤能碁呂島」を表現する名であったことになる。
 『古事記』上巻に登場する天照大御神は最初に女性、後で男性となる――ゆえに、【前者の女性の天照大御神は、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命】。【後者の男性の天照大御神は伊迦賀色許売命の息子の崇神天皇】であったのである。
 そして、『魏志倭人伝』末部に登場する武将の載斯烏越(そしあお)は、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)の夏音名であった。倭王朝は伊耶那岐命・載斯烏越を討伐軍の大将に就任させて、狗奴国を滅亡させた。
 伊耶那美命の出生地は『魏志倭人伝』に登場する倭の小国「伊耶国」であった。伊耶国は「旧国丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)」であった。
 「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい女王」と人民に愛称されたゆえ「伊耶那美命」と呼ばれた小国・日本の女王は、上記したように後年に倭女王・壱与に就任し、伊耶那美命・壱与の本名は竹野比売(たかのひめ)であり、伊耶那岐命の正妃であった。
 『古事記』中巻の第9代開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売と結婚した」と記述する。開化天皇の居殿「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」に合致する。したがって、伊耶那岐命は後の開化天皇であったことになる。

◆中大兄(なかのおおえの)皇子・後の38代天智(てんち)天皇は狗奴国討伐をテーマにして長歌と反歌(はんか)を作った。この長歌と反歌は『万葉集』13番の「大和三山の歌」と14番の短歌となる。
 『万葉集』13番の「中大兄皇子の大和三山の歌」は下記のごとくである。
 「香具山(かぐやま)は 畝傍雄男(うねびをを)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も しかにあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
 この長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 「大和の香具山で象徴される伊耶那美命は、畝傍山で象徴される伊耶那岐命(狗奴国を討伐する夫)は雄男しすぎると嘆(なげ)き、耳成山に象徴される天照大御神と狗奴国討伐について意見が対立して争った。伊耶那美命は平和的に解決すべきであると主張したのに対して、天照大御神は狗奴国を討伐すべきであると主張した。このように、神代の伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命と第二后の天照大御神は争った。古代がそうであったように、今も吾と弟の大海人皇子(天武天皇)は額田王(ぬかだのおおきみ)を妻にしようとして争っている。このように、男女の仲は、昔も今も変わらず争いが絶えない。」

 『万葉集』14番の反歌は下記のごとくである。
 「香具山と 耳成山と あひし時 立ちて見に来()し 印南国原(いなみくにはら)
 この反歌を現代語訳すると、下記のごとくなる。
 「香具山・伊耶那美命(壱与・竹野比売)は狗奴国討伐に反対し、耳成山・天照大御神(壱与の代役をつとめた伊迦賀色許売命)が狗奴国討伐を賛成して、相(あい)対立したとき、この対立を心配して阿菩(あぼ)の大神が見に来たという、壱与の代役となって天照大御神が狗奴国討伐成就の願いがかなえられる地霊を呼び興(おこ)す聖地とした“印南国原”は、ここなんだ!」〔注 印南国原は伊耶那岐命と伊耶那美命を主祭神とする伊弉諾神宮の真北の、兵庫県明石市から加古川市にかけての平野部〕 
 この反歌に登場する「阿菩の大神」は「死んだ卑弥呼の霊魂」であったにちがいない。
 というのも[]の字義は、「大陵(大きな陵墓)」であるゆえ「大きな卑弥呼の陵墓」を指すからである。[]の字は「倍草。つまり、苗の時より収穫期には茎が数倍に増える禾()」を意味する。そして、[]の原字(最初の文字)は「稲」を意味する[()]であり、[]の字源は[]の字源を直接的に受け継いだ。だから、「阿菩の大神」は「大きな陵墓に葬られた倭女王・卑弥呼の霊魂」を意味したことになる。

 以上のように、661年春正月、斉明天皇(舒明天皇の皇后であった宝皇女)は船団を組んで、新羅(しらぎ)遠征のために印南野が見える播磨灘を通過する時、中大兄皇子が作った『万葉集』13番の長歌と14番の短歌は、令和元年の即位礼正殿の儀と大嘗祭において表現された【日本建国の〔愛〕の理念の秘密】を伝えていたのである。

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2019年12月 3日 (火)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・7

★#7・中大兄皇子が決行した乙巳の変は、大嘗祭の秘密を伝える

◆このブログが前回(6)でも指摘したように――令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継ぐ。
 令和の即位式と大嘗祭が受け継いだ、(1)【弥生時代(3世紀後半)から続く儀式】は――天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母・伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)の歴史を伝える「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)【天武天皇からの大嘗祭の伝統】は――このブログが前回まで解説し証明してきた【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された。

◆このブログで前回(6)まで解説してきたが――【夏の銀河から漢字が作られた学問】の詳細については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆弥生時代(3世紀後半)に生存した天照大御神母子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視すれば皇室は永らく栄えるという信念にもとづいて大和朝廷の基礎を築いた。
 このブログ前回(6)で解説したように、聖徳太子(しょうとくたいし)の【夏の銀河から漢字が作られた学問】を軽視する政策失敗によって、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなった皇室の権勢は衰弱して脆弱(ぜいじゃく)となった。

 第33代・推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥(おい)の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつ)を保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に擁護(ようご)されることになった。だから、皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を支配することができた蘇我大臣家は、にわかに強大な権力を手中におさめることになったのである。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、聖徳太子が排除した巫覡(ふげき)たちは百済から輸入した仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難(むずか)しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者(皇族や貴族)たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫覡たちを時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼する事態となった。
 当時の皇族・貴族たちは、【夏の銀河から漢字が作られた学問】のほうが【鬼道(きどう/神道の先祖)】よりも【仏教】よりも勝っていると考えていたのである。なぜならば、【鬼道】は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を母として生まれた子であり、仏教の経典は【夏の銀河から作られた楷書(漢字)】で記載されていたからである。つまり、【夏の銀河から作られた楷書】によって仏教を知ることができるゆえ、「当然、【仏教】よりも【夏の銀河から作られた夏音文字や楷書の学問】のほうが勝っている」と、彼らは考えたのである。
 聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちは過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための邪魔になると考えて排除したため、大失敗した。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる皇族・貴族たちは、仏教の経典の楷書の解読を成し遂げた巫覡たちを排除した結果、皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判に対して、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆推古天皇の後を、第34代・舒明(じょめい)天皇が62914日に即位した。舒明天皇の皇后は宝(たから)皇女である。宝皇女は642115日に即位した第35代・皇極(こうぎょく)天皇であり、また宝皇女は65513日に即位した斉明(さいめい)天皇であった。
 舒明天皇と宝皇女の息子が66813日に即位した第38代・天智(てんじ)天皇であり、673227日に即位した天智天皇の弟の第40代・天武天皇であった。この天武天皇の即位から大嘗祭は始まったとされる。
 上記した聖徳太子の政策失敗によって、蘇我馬子の息子の蝦夷(えみし)と孫の入鹿(いるか)の権勢が隆盛(りょうせい)を極(きわ)めていた。
 これゆえ、天智・天武両天皇の父・舒明天皇と母・皇極天皇の時代は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占できなくなった皇室の権勢は衰弱していた。
 天智天皇の皇太子時代の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であった。
 蘇我大臣家の天下は長く続かず、中大兄皇子と中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ/のちの中臣鎌足)によってほろぼされ、大化(たいか)の改新が断行された。ここに律令(りつりょう)制という新しい政治体制の基礎固めがなされた。

641年、舒明天皇が亡くなると、蘇我蝦夷は宝皇女を天皇に即位させた。これが、皇極天皇である。
 蝦夷は皇極天皇の許可も得ずにかってに大臣の位を子の入鹿にゆずった。
 643年、入鹿は兵をつかわして斑鳩宮(いかるがのみや)に住む聖徳太子の子である山背大兄(やましろおおえ)王一家を襲撃して皆殺しにした(山背大兄王の変)。この暴挙で入鹿は評判を落とし、蘇我氏打倒の気運が生じることになった。
 中大兄皇子と中臣鎌子連は、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)のところへ儒学(じゅがく)の勉強に通う往復の道で、蘇我氏打倒の計画を相談した。
 二人は仲間づくりを始め、中臣鎌子連はまず、蘇我一族のなかで蝦夷・入鹿をきらう蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだまろ)をだきこむため、彼の娘を中大兄皇子の妃(きさき)とする案を立て、倉山田麻呂を後援者にすることに成功した。またクーデターの実行にたずさわる人物として佐伯部子麻呂(さえきべのこまろ)、葛木稚犬養網田(かつらきのわかいぬかいのあみだ)の二人を引き入れた。
 645612日、宮中で三韓朝貢(さんかんちょうこう)の儀が行われ、入鹿も出席した。中大兄は倉山田麻呂に三韓の上表文を読ませ、その隙(すき)に入鹿を斬る計画を立てた。中大兄は自ら長槍(ながやり)をとって、式場内の柱の陰にかくれ、鎌子連らは弓矢をもって護衛した。しかし、子麻呂と犬養連網田は緊張(きんちょう)のあまり手足がふるえて斬りつけられなかった。上表文が終わりに近づいた倉山田麻呂は、子麻呂らが飛び出して来る気配がないため恐ろしくなり、全身に汗がふき出して、声も乱れ手も震えた。そばにいた入鹿は怪しんで「なぜ震えているのか」ととがめた。子麻呂らが恐怖で躊躇(ちゅうちょ)しているのを見た中大兄は「ヤア」と掛け声をあげるや子麻呂らも一緒になっておどり出て、中大兄は剣をもって入鹿の頭と肩に斬りつけた。おどろいた入鹿は座を立とうとすると、子麻呂らが剣をふるって入鹿の片方の足に斬りつけた。入鹿は天皇の御座の下に転落し、「日嗣(ひつぎ)の位においでいるのは天子である。私にいったいなんの罪があるのか。そのわけを言え」つまり「徳をもって私の命を救ってこそ天子である」と、天皇に必死に訴えた。
 天皇はたいへん驚き、中大兄に「これはいったい何事が起ったのか」と言われた。中大兄は平伏して「鞍作(くらつくり/入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」と奏上(そうじょう)した。
 つまり、中大兄は「棚から落ちた牡丹餅(ぼたもち)が口に入った」ごとく【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちのために権勢が隆盛になった入鹿が天子・天皇家に代わってどうして天下を治めることができるか。絶対に無理である!」と訴えたのである。
 天皇は事のあらましをさとり、奥へ退いてしまった。入鹿は子麻呂と犬養連網田にとどめをさされた。
 翌13日、蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。そのとき、船史恵尺(ふねのふびとえさか)は素早く焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。
 蝦夷は自殺し、蘇我大臣家はあっけなく滅びた。これを「乙巳(おつし)の変」という。

◆乙巳の変によって、皇室は【夏の銀河から漢字を作られた学問】を独占管理できて、従来(推古王朝以前)と同じく権勢をとりもどすことができた。
 『日本書紀』推古天皇紀は「推古天皇20(620)、皇太子・聖徳太子と大臣・蘇我馬子が相議(あいはか)って、天皇記および国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録した」と記述する。
 したがって、【乙巳の変で、蝦夷が焼いた天皇記・国記】は620(推古天皇20)に編纂(へんさん)が勅令(ちょくれい)された書物であったことになる。
 上記したように――聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)たちを、崇仏(すうぶつ)政策を推進するのに邪魔(じゃま)になると排除した。だから、巫覡(ふげき)たちは蘇我大臣家を頼った。これゆえ、蘇我大臣家は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通した巫覡によって、皇室と二分する権勢を手に入れることができて隆盛をきわめたのである。
 蘇我大臣家に擁護(ようご)された【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちは、仏教の経典に羅列(られつ)される難解きわまりない楷書を解読して皇族や貴族たちに最も信頼されていたゆえ、夏音文字や楷書で書く天皇記および国記などの編纂(へんさん)を担当することになったのである。だから、蘇我大臣家は本来皇室と国家が所蔵すべき天皇記・国記を所蔵できたゆえ、蝦夷は自らの家で保管する天皇記・国記を焼くことができたのである。
 したがって、乙巳の変の時に蘇我大臣家に天皇記と国記が所蔵されていたということは、聖徳太子に排除されて蘇我大臣家が擁護した巫覡たちが【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通していたことを証明し、また620年に推古天皇が編纂を勅令(ちょくれい)した天皇記および国記、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記などを整理する編纂は蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって成されたことになる。

◆上記したとおり、『日本書紀』は「乙巳の変で、船史恵尺によって国記は消失しなかったが、天皇記は消失した」と記述する。
 712(和銅5)正月28日に完成して元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の下巻は推古天皇紀で終わる。
 ということは、随所に〔音〕という注が付く多数の夏音文字を記載する【『古事記』上巻の原典】は、【蘇我大臣家で擁護された巫覡たちが編纂した国記、船史恵尺によって焼失しなかった国記】であったことになる。
 また、【乙巳の変で天皇記は消失した】ため、【『古事記』中巻・下巻の天皇紀】は【天皇家・各貴族家・臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らに残っていた資料など用いて、新たに編纂しなおした記録】であったことになる。
 『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)に登場する「本辞(ほんじ)」、「旧辞(きゅうじ)」、「先代の旧辞」は、推古天皇が勅令して巫覡たちが編纂された「国記」を指していることになる。
 『古事記』の序に登場する「帝紀(ていき)」、「帝皇日継(ていおうのひつぎ)」は「新たに編纂しなおした天皇紀」であったことになる。

◆以上のごとく、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は、皇室が“い”の一番・最初に必要とする最大・最強の政権基盤であった。
 聖徳太子が【夏の銀河から作られた学問】を知得する巫覡たちを排除したため、その巫覡たちが蘇我大臣家に擁護されて【夏の銀河から漢字が作られた学問】によって天下を治める権勢が二分されたように、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は独占管理して厳重(げんじゅう)に機密にしてこそ効力が発揮された。
 【夏の銀河から漢字が作られた学問の秘密】を知って、これを暴露した人物と一族は時の王朝の転覆を謀(はか)って国家安寧(こっかあんねい)を害する大罪を犯したことになるゆえ、即刻に死刑されたのである。
 【夏の銀河から作られた学問】は正(まさ)に「沈黙は金なり」で知っていても沈黙していることが賢明であったのである。沈黙していれば相当大なる権力と豊かな財力と人々に尊ばれる名誉を手に入れて安穏(あんのん)に生きていることができたからである。
 もしもある人物や家が天下を手に入れようとして「漢字は銀河から作られた」と暴露しても――この暴露によって多くの氏族・家柄・人々が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を学んで天下を手中に入れようとするため、戦乱が絶えなくなる。ゆえに、「漢字は銀河から作られた」と暴露した人物や家がたとえ一時(いっとき)天下をとっても、あっけなく滅亡することになったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は「沈黙は金なり」ということになったゆえ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理して厳重に機密を保持(ほじ)した皇室が永らく栄えて滅亡せずに現在まで存続したのである。
 したがって、令和の即位礼正殿の儀と大嘗祭は【紀元前3000年ころに生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法】と【紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭に、習得した夏音文字の学問】と【2世紀末から出現して7世紀に完成した楷書――夏音文字の音符となった楷書も夏の銀河から作られた】などと伝える【夏の銀河から漢字が作られた学問儀式】であったことになる。

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2019年12月 1日 (日)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・6

★#6・伊耶那岐命と伊耶那美命に憧れた舒明天皇と宝皇女

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく指摘した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)「弥生時代から続く祭儀」と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統」を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆令和の即位式と大嘗祭では、(1)弥生時代(3世紀後半)から続く儀式は――天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母・伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)の歴史をあらわす「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回まで解説し証明してきた【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された。というのも、大嘗祭が始める午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀における所作に相似する銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。だから、【天皇陛下の供饌の儀】と【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、共に【夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわしていたことになる。
 弥生時代(3世紀後半)に生存した天照大御神母子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視すれば皇室は永らく栄えるという信念にもとづいて大和朝廷の基礎を築いた。この天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を皇室が最も偉大な先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝するための大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。このため、天武・持統両天皇は「【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、抹殺(まっさつ)しなければならない」と考えた。というのも、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は【夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅威(きょうい)となり、しかも【天照大御神の聖性を著(いちじる)しく汚す】、天皇の権力を絶大にするための最大の障害となったからである。

 ところが、(3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において一大改革がなされ、天武・持統両天皇が「抹殺せよ」と命じた【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】が表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であったことになる。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と【本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
 なお、1022日に行われた【即位式正殿の儀】が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式である証明は、わがブログ「邪馬台国説はフェイクであった!」の1回~20回で解説し証明した。「邪馬台国説はフェイクであった!」の12回~20回までは【即位式正殿の儀】は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であることを具体的に解説し証明した。

◆このブログの初回(1)で詳細に解説したように、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷わせて序)初頭の記事は、下記のごとく記述する。
 【古事記上巻 幷わせて序】の冒頭は「臣安万侶言(しんやすまろまを)す」と記す。
 次の「それ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く、為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文である。
 この文で、太安万侶はわが国に中国から夏音文字が伝来して習得された歴史を、下記のごとく説明している。
 「漢字が発明されていなかった紀元前4000年ころの中国とわが国の各地において前期縄文時代初頭以前における天頂にめぐってくる銀河の形状は混沌(こんとん)として凝り固まっていましたが、文字となる気象(イメージ)は未だ現れていませんでした。ですから、文字で名をあらわすことも無く、文字で名をあらわす方法も存在しませんでした。ゆえに、現在において(『古事記』が完成した712年当時)、前期縄文時代初頭以前の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができません。しかし、紀元前4000年ころからから始まる前期縄文時代、倉頡が漢字作成方法を発明した紀元前3000年ころから始まる中期縄文時代、紀元前2070年~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭までの参時代においては、[]の字源・字形・字義となった【夏の銀河の最北端部にある、乾いた沙漠のようなイメージの銀河部】と、その隣に[]の字源・字形・字義となった【十字の銀河】が天頂にめぐってきましたから、わが国では造化(芸術作品)の〔【夏の銀河】の印象をあらわす、表面に渦巻き文が全面にほどこされる土器〕や〔【十字の銀河】や【人の横顔に酷似する銀河か夏の銀河の西南部】までの印象をあらわす、人体を模(かたど)る土偶(どぐう)〕が作られて、【夏の銀河を見たときの人々の印象】が伝えられ、後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)において、中国から名門益氏(えきし)の王子と青年たちが日本列島に移住してもたらした夏音文字の学芸は【夏の銀河の印象】をあらわす土器・土偶を造った芸術家たちによって習得されました。」
 したがって、【古事記上巻 幷わせて序】は――倉頡が漢字作成方法を発明した約950年後の紀元前2070年~紀元前2050年ころの後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が定めた掟によって、夏の銀河の各部の形状が文字(字源・字形・字義)となった夏音文字の学問】が中国から伝来して習得された――と伝えていたことになる。
 皇室は権力と財力基盤であった【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学問】を厳重な機密にして独占管理して栄えたゆえ、現在まで存続して滅びなかったのである。
 だから、現在の大嘗祭が本格的に復興された1738年当時の皇室は、上記した【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文が伝える事実をもちろん知っていた。だから、令和の大嘗祭において悠紀殿と主基殿で天皇陛下による供饌の儀は【倉頡が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわすことになったのである。
 しかし、現在の学者たちは一人も【古事記上巻 幷わせて序】の文を正確に読解(どっかい)できないゆえ、彼等は「学問儀式の【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」と錯覚する幻想に憑()りつかれている。

◆【古事記上巻 幷わせて序】の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字を習得した」という記述は事実であった。
 だから、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した字源を解説する字書の『字統(じとう)(平凡社発行)の〔わが国の漢字音〕と題する初頭の文は「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという定説は誤っている。中国の上古音よりも古い・現存する最古の漢字音がわが国には保存されている事実」を、次のように説明する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文が明確に伝えるように、【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字の学問を習得した」という説明を学者たちは正しく読解できずに【誤読】するゆえ、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという空理空論・空想・幻想に憑()りつかれる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて夏音文字は多数残されており、3世紀(280年~289)に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の人名・小国名・官職名に用いられて夏音文字は消滅せずに残っている。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」と断定する定説は空理空論・空想ということになる。

◆このブログの前回(5)は、「なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか」、この原因について下記のごとく解説した。
 第33代・推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥(おい)の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 この崇仏(すうぶつ)政策において、聖徳太子は大失敗した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつを保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に擁護(ようご)されることになった。だから、皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を蘇我氏は支配することができたため、にわかに強大な権力を手中におさめることになった。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、聖徳太子が排除した巫女と覡たちは百済から輸入した仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難(むずか)しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者(皇族や貴族)たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡を時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼する事態となった。
 当時の皇族・貴族たちは、【夏の銀河から漢字が作られた学問】のほうが【鬼道(きどう/神道の先祖)】よりも【仏教】よりも勝っていると考えていたのである。なぜならば、【鬼道】は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を母として生まれた子であり、仏教の経典は【夏の銀河から作られた楷書(漢字)】で記載されていたからである。つまり、【夏の銀河から作られた楷書】によって仏教を知ることができるゆえ、「当然、【仏教】よりも【夏の銀河から作られた夏音文字や楷書の学問】のほうが勝っている」と、彼らは考えたのである。
 聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡は過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための邪魔になると考えて排除したため、大失敗した。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる皇族・貴族たちは、仏教の経典の楷書の解読を成し遂げた巫覡を排除した結果、皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判に対して、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆聖徳太子が死去した4年後の626520日、大臣(おおおみ)の蘇我馬子が没した。
 息子の蝦夷(えみし)が大臣を継いだ。上記した聖徳太子の【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡を排除した崇仏政策による失政によって、当時の最も強大な政権基盤である【夏の銀河から漢字が作られた学問】の威厳が蘇我大臣家と二分して脆弱(ぜいじゃく)となった天皇の権勢が弱体したため、蘇我蝦夷の権勢は馬子の時よりも盛んとなった。
 当時における有力な皇族は田村(たむら)皇子と山背大兄(やましろのおおえの)王の二人であった。田村は皇室の嫡流(ちゃくりゅう)であり、山背は推古天皇の甥の聖徳太子の子であった。
 62837日、推古天皇は次の天皇に即位するのは田村と山背のどちらとも決めかねて死去した。
 蝦夷は自邸に有力豪族を招集して田村と山背のどちらを次の天皇に即位するのかについて意向(いこう)をたずね、全員の一致を得られないと知ると、山背を天皇にと考えるおじの境部摩理勢(さかいべのまりせ)父子を武力で討ち取り、強引に田村皇子を即位させた。これが、62914日に即位した第34代・舒明(じょめい)天皇であった。舒明天皇の皇后は宝(たから)皇女であり、宝皇女は642115日に即位した第35代・皇極(こうぎょく)天皇であり、また彼女は65513日に即位した第37代・斉明(さいめい)天皇であった。
 舒明天皇と宝皇女の息子が66813日に即位した第38代・天智(てんじ)天皇であり、673227日に即位した天智天皇の弟の第40代・天武天皇であった。この天武天皇の即位から大嘗祭が始まったとされる。
 したがって、天智・天武両天皇の父・舒明天皇と母・皇極天皇の時代は、蘇我蝦夷と息子の入鹿(いるか)の権勢が隆盛(りゅうせい)を極(きわ)めていた。
 これゆえ、舒明・皇極の両天皇の時代は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室が独占管理できなかったために、その権勢は衰弱していたことになる。

◆皇族や貴族において【強大の権力】を尊重する人々は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最高に勝るものと考えた。
 しかし、皇族や貴族において人民と同様に「【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが【夏の銀河から漢字が作られた学問】よりも勝っている」と考える人々もいた。
 3世紀前半期(230年ころ)13歳の小国の日本の女王・伊耶那美命(いざなみのみこと/旧国丹波国生まれの本名は竹野比売)18歳の小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命(いざなきのみこと/のちの第9代開化天皇)と結婚するとき(つまり、小国・日本国が誕生するとき)、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた。【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える『古事記』は、712年正月28日に第43代・元明(げんめい)天皇に献上して拒絶(きょぜつ)されて正史になれなかった。【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に10字の夏音文字「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」で記述されている。この10字の夏音文字は「小国・日本の国土(くに)生みの柱を〔愛〕にいたしましょう、やさしき男(おのこ)よ」と意味した。
 この伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本はもちろん、卑弥呼が治める倭国の国中のすみずみまでたちまち知れ渡り、諸々の地方の首領(豪族)はじめ人民たちに最も尊重された。
 倭国に一員であった小国・伊耶(いや)(旧国丹波)生まれの竹野比売(たかのひめ)を、人民たちは「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい小国・日本の女王」を省略して「伊耶那美命」と呼んで敬愛した。

7791月に完成したと考えられる『万葉集』には、蘇我大臣家と【夏の銀河から漢字が作られた学問】を二分して苦悩した舒明天皇と皇后・宝皇女(のちの皇極天皇、斉明天皇)が伊耶那美命と伊耶那岐命に憧れて【日本国誕生史】や【日本建国の〔愛〕の理念】を題材にして作った和歌が幾つか収められている。
 『万葉集』2番は舒明天皇が作った「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌である。この長歌で舒明天皇は「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命を讃えている。
 『万葉集』5番は舒明天皇が作った「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌である。この長歌で、舒明天皇は伊耶那岐命の憧れを示して「小国・日本の軍王のちの開化天皇が、倭女王卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)(吉備地方)討伐を指揮した所縁(ゆかり)の安益郡(現在の香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、伊耶那岐命が本陣を設営した讃岐富士の飯野山(いいのやま)から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまを見ていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、蘇我入鹿と情を通じているにちがいないという噂がある妻の宝皇女と離縁しようかと決意したものの妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。小国・日本へ赴任する時に伊耶那美命と伊耶那岐命が〔塩許々袁々呂々邇(しおこをろこをろに)と画()き鳴らす国土生み儀式〕をおこなった舞台・瀬戸内海の一角にある網の浦の娘たちが焼いて塩を作る時の沸騰する熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間で苦悶するわが心よ」と表現している。

◆わがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、下記の『万葉集』485番の岡本天皇(宝皇女)が作った長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――神代の伊耶那美命が小国・日本の女王に就任して伊耶那岐命とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を覆って飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の無数の大群のように、わたしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

 このように父・舒明天皇と母・宝皇女は【伊耶那美命と伊耶那美命】に憧れ、【日本建国の〔愛〕の理念】のテーマとする和歌を作ったが――息子の天武天皇は673227日に即位に際し、天皇の権力を絶大にするため「天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母)の聖性を著しく汚す【〔愛〕を国家理念に掲げた日本国誕生史】を抹殺せよ」と命じて、大嘗祭を起源させた。
 この【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】が大嘗祭で表現されることになったのは、天武天皇が即位した年から約1070年後の17381119日の桜町天皇の大嘗祭からであったのである。

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2019年11月22日 (金)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・5

★#5・なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか

◆このブログが前回(4)までで――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であった――と証明してきた。
 倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、孔子とならぶ中国の二大思想家の老子の教えを説く『老子』、“字書の聖典”と尊重された『説文解字』、『魏志倭人伝』そしてわが国の『古事記』上巻である。

◆大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明(文字の発明)を現在に伝えるビックイベント」であった。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。
 大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀の儀】は【倉頡が発明した漢字作成方法】を現在に伝える儀式であったのである。

◆わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在、世界中で用いられる大半の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされるからである。古代エジプト文字をルーツとする現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは、世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているゆえ、漢字を含むと、世界中で使用されている7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと証明されることになる。
 古代エジプト文字は、紀元前3100年ころ、起源したとされる。
 漢字は紀元前3000年ころに中国に生存した黄帝(こうてい)の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を目的にして、黄帝につかえていた史官(記録官)の倉頡が発明して起源した。
 だから、大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀】は紀元前3100年ころの古代エジプト文字と紀元前3000年ころの漢字は【夏の銀河各部の形状から作られた秘密】を現在に伝える壮大なイベントであったことになる。

◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)に説明されている。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた。この二重の大罪のため、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から倉頡が発明した漢字作成方法を伝える学問が伝来して習得した。この夏音文字によって、倉頡が発明した漢字作成方法が、わが国に保存されることになった。ゆえに、大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを学者たちは読解できず、【誤読】を加えて排除するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は楷書を音符にして表記するが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆倉頡は自らが発明した漢字作成方法が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れることができる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字作成方法を手に入れて革命に利用したならば、王朝は容易に滅亡すると心配した。
 ゆえに、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はじめ一族にも神罰が下って即刻に死刑に処すと定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
(1)
【夏の銀河の各部の形状】から文字が作られたと暴露した者
(2)
文字を容易に習得するために、【夏の銀河の各部】に名称を付けた者
(3)
書いた文字が用済みになったならば、文字を直()ぐに消さない者または消し忘れた者
 上記の(3)の掟は、紀元前1300年ころに出現した殷代(いんだい)後半期の亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた秘密」について現在の学者たちは気づかない。また、点()と点()を結んで作る星座の形は素人(しろうと)にはさっぱりわからない、その星座には名称があるが、(2)の掟によって素人でもその形が容易にわかる【銀河各部の名称】は存在しない。

 中国でもわが国でも(3)の掟は厳重にまもられたため、紀元前3000年ころ~紀元前2080年ころまでの五帝時代の書契(しょけい)、紀元前2080年ころ~紀元前1600年ころまでの夏音文字、紀元前1600年ころ~紀元前1300年ころまでの殷代前半期の原初漢字は、遺跡から文字を記した資料が1点も出土していない。
 倉頡が死刑と定めた三つの掟によって、【夏の銀河各部の形状】が文字(字源・字形・字義)と定められたが――五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字では文字数が少なかったゆえ、(3)の掟は体制維持するためにむしろ好都合でありまた文字を絶対化・神聖化するためにもむしろ好都合であったゆえ、(3)の掟は不便ではなかったゆえ厳重にまもられることになったのである。
 しかし、殷代後半になると1万を超える膨大な文字が作られたゆえ、(3)の掟の保持は不便・不自由となった。ゆえに、王朝体制維持と文字の絶対化・神聖化が図られて文字は亀の甲羅や獣骨などに刻まれることになって、(3)の掟は破られた。
 甲骨文字の以前の五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半期の原初漢字は(3)の掟を厳重にまもり、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】を文字(字源・字形・字義)と定めていた。
 他方、甲骨文字以後の漢字は(3)の掟を破る文字であったが、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】を文字(字源・字形・字義)と定めていた。
 だから、甲骨文字以前の【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とした原初漢字(書契・夏音文字・殷代前半期の漢字)】は【文字】として機能したゆえ、【最古の漢字】は【夏の銀河各部の形状】であったのである。
 したがって、学者たちは【最古の漢字】を【殷代後半の甲骨文字】と定めるが、この定説は空理空論・空想・幻想であったのである。

◆第33代・推古(すいこ)天皇の在位期間は593年~628年までである。
 600(推古天皇8)、推古天皇は隋に使節を派遣した。
 中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には、600年に中国に渡った遣隋使(けんずいし)が隋王朝に下記のごとく述べたという記事がある。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求め得て、はじめて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 この記事は「わが国には仏教の経典に用いる文字(楷書)が無い。ただ五帝時代の倉頡が考案した書契(わが国では「刻木」と称した)と三皇時代の卜筮(占い)に用いる記号の結縄が存在した。仏教を敬うことになり、朝鮮半島の百済から仏教の経典を求め得て、はじめて仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難しい楷書(文字)も存在することになった。これによって、中国の発達した卜筮(易学)を知ることができて、仏教の経典から極めて難しい楷書を解読した巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)は推古天皇王朝の体制者たちに最も信頼されて尊敬されることになった。」と解釈すれば、矛盾点も不合理な点も生じずに【科学】が成立する正しい現代語訳となる。

 ところが、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という空論・幻想を抱くため、「ただ刻木・結縄のみ」という文を「わが国には木を刻む方法や縄を結ぶ方法で、文字に類似する記号や数詞をあらわす原始的な方法があった」と解釈して、「ただ木を刻み、縄を結ぶのみ」と読み下す。
 このブログの初回(1)で指摘したように――3世紀(280年~289)に著作された中国の正史『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は約2000字で構成される。そのうち【1】『魏志倭人伝』冒頭の「倭人は帯方の東南」という文から30ヵ国の小国を説明するまでの約500字・約25%の記事で【倉頡が刻木を考案して、発明した漢字作成方法】を説明し、【2】また『魏志倭人伝』の約200字・約20%の記事は【夏音文字の習得】に説明する記事である。
 そして、『魏志倭人伝』は「卑弥呼(ヒミコ)はじめ人名・小国名・官職名においては夏音文字を当時の中国と朝鮮半島で用いられていた楷書で表記することができた」と記述する。
 ゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説は空想・幻想であり、「ただ木を刻み縄を結ぶだけ」と読んで「記号や数詞をあらわす文字に類似する原始的な方法があった」という解釈は【誤読の空理空論】であったことになる。
 倉頡が作った「書契」は「木に刻むこと」と後世に伝えられた。ゆえに、わが国では「倉頡が考案した書契」を「刻木」と名づけていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述されているとおり、3世紀、わが国では【夏の銀河各部の形状】を観察して夏音文字と楷書を正しく変換できた知識が存在していたので、仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書を【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通した巫覡(巫女と覡)は解読できたのである。
 「文字無し」を「遣隋使が中国に渡った7世紀初頭、わが国にはまったく文字が無かった」と解釈すると――漢字が1字も読めない外国人を集め、難解な漢字を次から次へと羅列(られつ)する仏教の経典の漢字は正しく解読してください――と要求して実験してみれば明白となるように、彼等には仏教の経典の楷書解読はまったく不可能ということになる。
 【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通していた倭の巫女と覡たちは、自分たちを排除しようとする聖徳太子(しょうとくたいし)に対抗して、仏教の経典に羅列されている極めて難しい楷書の解読に挑(いど)んで成功した。
 ゆえに、上記した『隋書』倭国伝の「尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」という記事が伝えるように、時の推古天皇王朝をささえる体制者たちは仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書を解読した巫覡を絶賛して聖徳太子よりも尊敬して最も信頼したのである。

◆『隋書』倭国伝には、隋の煬帝(ようだい)が治めていた大業3(西暦607)、聖徳太子が――「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々(うんぬん))」と書いた文書に対して、煬帝は「蛮夷(ばんい/野蛮な倭国)の書、無礼なる者有り(無礼だ)。ふたたび以聞(いぶん/上表)するな(つまり、天子たる吾に上げてくるな)」と怒った――という記事がある。
 しかし、『隋書』倭国伝は「翌年、煬帝は文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい)を倭国の使者として派遣(はけん)した」とも記述する。
 仏教を重んじていた煬帝は若い時に熱心に学問つまり【夏の銀河から漢字が作られた学問】に励んだ。だから、聖徳太子の書を自分が誤訳したことに気づき、煬帝は倭国の使者に裴清を遣(つか)わしたのである。
 仏教では「日没する」は「死去する」という意味あるゆえ、煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者あり」と怒った。
 しかし、【夏の銀河から漢字が作られた学問】においては「日没する時は日出ずる時より上位」と定めた。というのも、「日没する時から始まる夜間」に【夏の銀河】が出現するゆえ「日没する処は日出ずる処より上位」となり、「日出ずる時から始まる昼間」は【夏の銀河】が見えなくなるゆえ「日出ずる処は日没する処より下位」となるからである。
 したがって、聖徳太子は「日出ずる処(ところ)の下位の倭の天子が、書を日没する処の上位の隋の天子に致す、ご元気ですか、云々」と書いていたことになる。煬帝はこの事実に気づいて、裴清を倭に派遣したのである。

◆推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 この崇仏(すうぶつ)政策において、聖徳太子は大失敗した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつを保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に支援・擁護(ようご)を求めた。だから、蘇我氏は皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を配下にすることができ、にわかに強大な権力を手中におさめることになった。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、蘇我氏に擁護された巫女と覡は百済から輸入した仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡を時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼した事態となった。
 したがって、遣隋使を派遣した600年の直前において、聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡は過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための妨(さまた)げになると考えて排除しようとして、大失敗していたのである。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる体制者たちは「皇室の最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である」と考えた。ゆえに彼等は、巫覡を排除して皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判を、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆以上のごとく、令和元年の大嘗祭は皇室が強大な権力を独占管理して厳重な機密にした【夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわす儀式であったことになる。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、第40代・天武天皇から始まる大嘗祭の伝統を受け継ぐものではなく、1738(元文3)の第115代・桜町(さくらまち)天皇の時に本格的に復興した時に新しく加わった【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する儀式であった。
 いわゆる【皇祖・天照大御神の遺勅(ゆいちょく/死後に残された勅命)】は――皇室が栄えて永らく存続するために【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理して厳重な機密にせよ。この【夏の銀河から漢字が作られた学問】を滅亡させる妨(さまた)げとなる禍(わざわい)は【日本国(小国・日本)誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】である。ゆえに、【日本国誕生史と日本建国の【愛】の理念】は絶対に後世に伝えないために必ず抹殺(まっさつ)せよ――であった。
 にもかかわらず、17381119日に皇室は皇祖天照大御神の遺勅を破棄して、即位式と大嘗祭で【日本建国の〔愛〕の理念】を復興させることになった経緯は、(1)推古天皇の後を継いだ舒明(じょめい)天皇からの紆余曲折(うよきょくせつ)の歴史と(2)1725年に没した新井白石の【誤読の空論の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説】が関わっている。
 次回からは、舒明天皇以後から桜町天皇の代までの大嘗祭に関する歴史の経緯と新井白石の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説によって【日本建国の〔愛〕の理念】が即位式と大嘗祭で表示されることになった経緯を順次に解説して証明することにする。

 なお、1022日に行われた【即位式正殿の儀】が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式である証明は、わがブログ「邪馬台国説はフェイクであった!」の1回~20回で解説し証明した。「邪馬台国説はフェイクであった!」の12回~20回までは【即位式正殿の儀】は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であることを具体的に解説し証明した。

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2019年11月21日 (木)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・4

★#4・大嘗宮の建物によって、大嘗祭は学問儀式であったと証明できる

◆このブログが前回(3)までで証明したように――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であったと考えるべきことになる。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧(ていねい)に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が廻(めぐ)ってきて、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。

◆倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。
 この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、孔子とならぶ中国の二大思想家の老子の教えを説く『老子』、“字書の聖典”と尊重された『説文解字』、倭女王卑弥呼が登場する『魏志倭人伝』、そしてわが国の『古事記』上巻である。
 大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明の秘密を現在に伝えるビックイベント」であった。
 わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在、世界中で用いられる大半の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされるからである。古代エジプト文字をルーツとする現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは、世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているゆえ、漢字を含むと、世界中で使用されている7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと証明されることになる。
 古代エジプト文字は、紀元前3100年ころ、ちょうどエジプト第1王朝が始まる少し前に、起源したとされる。
 漢字は紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を作成目的にして、黄帝につかえていた史官(記録官)の倉頡が発明して起源した。

 だから、大嘗祭は紀元前3100年ころから始まる古代エキプト文字と紀元前3000年ころから始まる漢字は【夏の銀河各部の形状から作られた】という秘密を、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】で現在に伝える壮大なイベントであったことになる。


◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)が説明する。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】に記述された【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問の説明】を学者たちが正確に読解(どっかい)できず、彼等は【誤読】を加えて排除・否定する。
 【古事記上巻 幷わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は、(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた――この二重の大罪のため、元明(げんめい)天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から原初漢字の夏音(かおん)文字の学問が伝来して習得した。この夏音文字によって、倉頡が発明した漢字作成方法が、わが国に保存されることになった。ゆえに、大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを読解できず、【誤読】を加えて排除・否定するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注をつけて楷書を音符にして表記したが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。
 ゆえに、【古事記上巻 幷わせて序】は人類史上(学問史)にとって極めて重大な史料・証言ということになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は地平線上に現われるときには【夏の銀河の東端】となり、このブログの冒頭で指摘したように大嘗祭が開始された時の最も高い天体部に登る【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の北端】となる。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの【天皇陛下の額(ひたい)に相当する人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)は銀白色】に輝くゆえ「銀河」と呼ばれた。
 「北天の最輝部」は国際的天文学の用語であり、「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」であり、【人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の額(ひたい)の部分】にある。【人の横顔に酷似する銀河】は「白鳥座のγ星()からβ星()の中間」にある。「北天の最輝部」は「白鳥座γ星()からη星()の中間」にある(白鳥座β星はη星の南にある)
 【北天の最輝部を含める、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は全体的に「milky(ミルキー・母乳)のように白く輝く銀河」である。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「両翼を含まない、白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」である。ということは「鳥の頭から尾まで形をした星座が漬かる銀河が白く輝く」ゆえ、その星座は「白鳥座」と名づけられたと考えるべきことになる。
 テレビの画面に映されたように、大嘗祭において天皇陛下が最も神聖な色とされる【白色の祭服(さいふく)】につつまれ、皇后雅子さまが【白色の十二単(ひとえ)姿】になった。この秘密は、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】がmilky(母乳の色)のごとく【白色】に輝いているからであったのである。

◆わが国の中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、「学問」の[]の字について「もと屋上に千木(ちぎ)のある建物の形で、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)。卜文(注 甲骨文字)にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築と似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」と指摘する。
 したがって、[]の甲骨文字の字形はわが国の神社建築に相似すると同様に、テレビの画面に映されたように大嘗宮の建物にも相似する。ゆえに、大嘗宮の柴垣で囲まれた大小30余りのバラック建ての建物は「【夏の銀河各部の形状】から作られた漢字の字源・字形・字義を学ぶ校舎」であったことを現在に伝えているものと考えられる。
 三日月の夜の暗い場所から観察すると漢字の字源・字形・字義となる【夏の銀河各部の形状】が最も明確に見える。
 ところが、夜も明るい灯りがともされる皇居では瞳孔(どうこう)が縮小されるため、字源・字形・字義となる【夏の銀河各部の形状】をキャッチすることができない。
 だから、「【夏の銀河各部の形状】を字源・字形・字義とする漢字の学問を学ぶ校舎」は、瞳孔が拡大されて【夏の銀河各部の形状】がよく見える皇居から離れた人工灯火の影響がない人里離れた地に建てられた。
 ゆえに、大嘗宮の廻立殿(かいりゅうでん)・悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)などの建物は、「【夏の銀河各部の形状】を字源・字形・字義とする漢字の学問の校舎」をあらわすものであったにちがいない。
 テレビ画面に映った大嘗宮の入り口の「樹皮をつけたままの黒木の鳥居の門」は「皇室が独占管理して厳重な機密とした【夏の銀河各部の形状】から漢字が作られた学問を学ぶ学校の正門」をあらわしていると考えられる。
 令和元年の大嘗祭における悠紀殿と主基殿にも白川静著『字統』の[]の字源解説文に登場する「千木」が設置されていた。だから、悠紀殿と主基殿は「皇室が独占管理して厳重な機密とした【夏の銀河各部の形状】から漢字が作られた学問を学ぶ校舎の様子」を現在に伝えているにちがいない。

◆このブログが前回(3)までで指摘してきたように――令和元年1114日の午後6時半ころから始まったとき、大嘗宮の天頂付近に【白く輝く天皇陛下の供饌の儀における所作の銀河】が廻(めぐ)ってきていた。【天皇陛下の供饌の儀】の進行に呼応(こおう)して、天皇陛下が主基殿で供饌の儀を終了した15日未明の午前4時には、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は北北西に地平線に没した。
 前回のブログ(3)で指摘したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端】は【人の正面形に相似する銀河】であり、この銀河を私は【十字の銀河】と名づけた。
 大嘗祭が始まった14日の午前6時半、【十字の銀河】(天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端)は大嘗宮の天頂近くの高度80度~70度の位置に廻ってきて、【十字の銀河】は「地面に立つ人の正面形」に相似した――この【十字の銀河】が大嘗宮の真上に【廻る】と、【十字の銀河】が「地面に【立つ】人の正面形になる」ことから、大嘗宮の中核建物は【廻る】・【立つ】が合体して「廻立殿」と名づけられたにちがいない。

 【天皇陛下の供饌の儀】は五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を祈る儀式とされた。
 【天皇陛下の供饌の儀】では「供饌から三つのお供え物の食べ物を選んで、丁寧に【皿】に入れる所作が1000回余も繰り返された。
 もしも五穀豊穣に恵まれずに飢饉となった時には、皿は不用・無用の食器となる。
 日々国民が三度の食事を取るには、一日三食365日は1095回の皿を使う食事となるゆえ、天皇陛下は大嘗祭において、供饌から三つのお供え物の食べ物を箸に摘まんで丁寧に皿に入れる所作を1000回余も繰り返したのである。

 以上のごとく、このブログの冒頭で指摘した――大嘗祭が始まった14日の午後6時半、大嘗宮の天頂(高度90)~高度60度に存在した【白い、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭の進行に呼応して翌日未明の午前4時に北北西の地平線に没するまでの様子で、「大嘗祭は紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと伝える学問儀式である」と現在に伝えていたことになる。

【PR】日本国誕生史の証明|大川誠一

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2019年11月20日 (水)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・3

★#3・大嘗祭に【白く輝く、天皇陛下の供饌の儀の銀河】と【采女の銀河】

◆このブログが前回(2)まで証明したように――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であった。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。

◆倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、『老子』、『説文解字』、『魏志倭人伝』そしてわが国の『古事記』上巻である。
 大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明を現在に伝えるビックイベント」であった。
 わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在世界中で用いられる7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされ、現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているからである。

◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)に説明されている。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた。この二重の大罪のため、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から倉頡が発明した漢字作成方法を伝える学問が伝来して習得した。大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを学者たちは読解できず、【誤読】を加えて排除するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前々回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は楷書を音符にして表記するが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は地平線上に現われるときには【夏の銀河の東端】となり、このブログの冒頭で指摘したように大嘗祭が開始された時の最も高い天体部に登る【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の北端】となる。
 上記したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの【天皇陛下の額(ひたい)に相当する人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)は銀白色】に輝くゆえ「銀河」と呼ばれた。
 【北天の最輝部を含める、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は全体的にmilky(母乳)のように白く輝く。ゆえに、前回のブログでも指摘したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は英語「the Milky Way」すなわち「ミルキー・ウエイ」すなわち「銀河」の語源をあらわす「母乳(ミルキー)のように白く輝く銀河」であったことになる。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「両翼を含まない、白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」である。ということは「鳥の頭から尾まで形をした星座が漬かる銀河が白く輝く」ゆえ、その星座は「白鳥座」と名づけられたと考えるべきことになる。
 大嘗祭において天皇陛下が最も神聖な色とされる【白色の祭服(さいふく)】につつまれ、皇后雅子さまが【白色の十二単(ひとえ)姿】になったのは、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が「白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」であるゆえ、つまり白色に輝いているからであったのである。

◆各テレビ局・各新聞社は「大嘗祭は五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を祈り、新穀を供えて天皇陛下自らも食す儀式」であると伝えた。
 【大嘗祭において、天皇陛下が供饌から三つずつお供え物を選んで箸で摘()まみ丁寧に小皿に入れる合計1000回余おこなわれる所作】は【五穀豊穣】をあらわしていた。
 前回のブログで証明したように――テレビ各局や新聞各社が報道した「悠紀殿・主基殿の内部イメージ図」における【悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)の内部に配置されている、長方形の寝座(しんざ/神座)】が【国家安寧】をあらわした。
 というのも、大嘗祭は天武天皇から始められたと伝えられ、【古事記上巻 幷わせて序】には――天武(てんむ)天皇が歴史書(『古事記』)作成の企てを述べた時の言葉が記載されており、天武天皇は「国家組織の根本原理」を「邦家(ほうけ)の経緯」と表現した――と記述されているからである。悠紀殿・主基殿に設置される【長方形の寝座】は南北(経度線に沿って)に長く東西(緯度線に沿って)に短い長方形となるゆえ、天武天皇の「邦家の経緯」の「経緯」つまり「経度線と緯度線」をあらわした。
 紀元前2070年~紀元前2050年ころにわが国が習得した夏音文字の学問の天文地理学によって「天文の経度線・緯度線と地理の経度線・緯度線」を精確に測量する学術が完成し、皇室が独占管理して厳重に機密保持(きみつほじ)していた。天武天皇は【天文の経度線・緯度線と地理の経度線・緯度線を精確に測量する学術】を「国家組織の根本原理」と考えて「邦家の経緯」と表現した。
 だから、【長方形の寝座】は「邦家の経緯」すなわち「国家の経緯」をあらわした。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]の字について「夢は夢魔(ゆま)。夢魔に侵されて寝臥(しんが)する意である」と解説し、さらに「病気は夢、すなわち媚蠱(びこ)とよばれる呪霊(じゅれい)のなすわざとされた」と解説する。
 「国家の経緯」をあらわす【長方形の寝座】は[]の字源・字形・字義をあらわした。
 なぜならば【夏の銀河各部の形状から作られた漢字の学問】においては「地震・洪水(台風)・旱魃(かんばつ/日照り)など、飢餓(きが)や戦争や乱などの禍災(かさい/わざわい)は夢魔すなわち媚蠱とよばれる呪霊のなすわざ」と考えられていたからである。
 「邦家(国家)の経緯」をあらわした【長方形の寝座】は「すっかり呪霊を失った媚蠱の呪霊が病んで臥すベット(寝台)」でもあったのである。
 【夏の銀河各部の形状から作られた漢字の学問】では「媚蠱が病んで寝床に臥してすっかり呪霊を失うと、地震・洪水(台風)・旱魃など、飢餓や戦争や乱などの禍災(かさい)が起らない」と考えられていたゆえ、【長方形の寝座】は「媚蠱が病んで臥す寝台」をあらわすゆえ「国家安寧」をあらわした。

◆紀元前3000年ころの五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)は女性生殖器と子どもの出産の医学を研究した。ゆえに、黄帝につかえる倉頡は黄帝の医学研究をあらわすことができる文字の作成を目的にして、【夏の銀河各部の形状】から漢字を作成する方法を発明した。

 【天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端】にある銀河を、私は【十字の銀河】と名づけた。
 【十字の銀河】は【人の正面形に似る銀河】であり、「西側半分はおなかが大きな妊婦の姿に相似し、東側半分が左手に弓を持つ男性の姿に相似し、この男女半身ずつの銀河は合体して人の正面形・背面形」に相似する。
 倉頡は【西側半分が妊婦の姿に相似する、十字の銀河】を【夏の銀河各部の形状から作ったすべての漢字を生む母体】と定めた。
 【十字の銀河】の西隣は【子どもの姿に似る銀河】があり、この銀河の子どもの頭には一本の角(つの)が生えているゆえ、私は【鬼の姿に似る銀河】と名づけた。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河において、天皇陛下が箸を持つ右手の指の部分となる、鬼(子ども)の姿に似る銀河における横顔】には【はっきりと、両目の形をした銀河部】がある。
また【鬼(子ども)の横顔後頭部とアゴ】にも〔目〕にそっくり形がある。ゆえに、倉頡は【鬼(子ども)の姿に似る銀河】に見立てられて「四つ目の怪人・倉頡」と後世に呼ばれた。
 【四つ目の怪人、鬼(子ども)の姿に似る銀河】は[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[(べん)]の字源・字形・字義となり、[子]の字源・字形・字義となった【鬼(子ども)の姿に似る銀河】と合体して[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[]の字源・字形・字義となり、[]の字源・字形・字義の【鬼(子ども)の姿に似る銀河】とともに、倉頡が発明した漢字(文字)作成方法をあらわした。
 つまり、黄帝の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を目的した倉頡は「【十字の銀河】を【母体】にして、【鬼(子ども)の姿に似る銀河】を【出産する子ども】に見立てるようにすれば、【夏の銀河各部の形状】から黄帝の医学研究を後世に伝えることができる多数の文字を生む(作る)ことができる」という漢字作成方法を発明したのである。

◆大嘗祭では、【十字の銀河】は「供饌」つまり「全国から選んで神々に供える食べ物」に見立てられた。

そして、「洪水や日照りの災い・不順な天候をもたらす魔女」が【十字の銀河の腹部に隠れて棲む媚蠱】であった。
 出産期において、胎児の頭が骨盤出口に近づくと、母体の直腸を圧迫するので自然に怒責(どせき/いきみ、きばる行為)がおこり、母体の腹圧が加えられる。この腹圧を邪魔して子どもを死産させるのが【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱】であると考えられたのである。この解釈がさらに発展し、【十字の銀河の腹部に棲んで〔腹圧〕をあらわす媚蠱】は「洪水や日照りや戦争や乱などの禍災(わざわい)を起こす」と、漢字学では解釈されるようになった。
 「国家安寧」の[(ねい)]と類似する字に、[(ねい)]という字がある。
 []の最上部の[]の字源は【十字の銀河】であり、中央の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の心臓】であり、最下部の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の心臓がある胸骨の中ほどに、皿のごとくくぼんだ部分の鳩尾(みぞおち)】である。「鳩尾」は「胃の真ん中」にあたる。
 要するに、[]の最下部の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の胃に相当する銀河部】であった。
 []に類似する[][]より下の[][][]で構成される3字の字源は【人の姿に相似する、十字の銀河の胃に相当する銀河部】であった。
 【十字の銀河の腹部の胃の箇所】に「幽(かす)かに左右の眉(まゆ)と左右の目に見える銀河部」が【媚蠱の銀河】(媚蠱の両眉と両眼)である。
 【媚蠱の両眉と両眼の銀河部】の中央に、倉頡が「すべての漢字を生む子宮」と定めた【十字の銀河の子宮(子宮に相当する箇所の銀河部)】がある。
 【十字の銀河の子宮】の西隣は【媚蠱が棲む、十字の銀河の腹部】から垂れる【点々と並ぶ、その点と点をつなぐと線となる、三本線の銀河部】である。だから「線となる点々と並ぶ、その三粒(三点)の食べ物を盗んで魔力を有する【十字の銀河の腹部】に隠れて棲む魔女」が「五穀不作と国家に災害や戦乱をもたらす媚蠱」であった。
 ゆえに、飢えて体力が衰え病み伏すようにして媚蠱の呪力をことごとく奪うために、天皇陛下は供饌から媚蠱が食べる三粒の食べ物を箸で摘まんで横取りして皿に入れる所作を1000回余も丁寧に繰り返して五穀豊穣と国家安寧の儀式をおこなったのである。
 したがって、【天皇陛下が供饌から三粒を選んで箸で摘まんでお供えの食べ物を入れる皿】は、[]の字源【十字の銀河の胃】と[]の字源【鬼(子ども)の姿に似る胃】が示すように、「五穀豊穣によって国民が日々食物を胃に入れることができる吉なる(日々平穏な)状況をあらわすための皿」であった。
 以上のごとく、天皇陛下は供饌から三つの食べ物を分けて皿に入れる所作を1000回余も【丁寧に行ってこそ】、五穀豊穣と国家安寧が成就することになったのである。

◆人間の目は自動露出カメラのごとく、本人の意志にかかわりなく、明るさに応じて虹彩(こうさい/絞り)が縮小・拡大し、瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)は明るいところでは1.52mmに縮小し、暗闇では78mmくらいまで拡大する。
 最大に瞳孔径が拡大する暗闇から【夏の銀河各部の形状】を観察すると、【全漢字の字源・字形・字義】をキャッチすることはできない。
 夜間に明るい灯火が灯される皇居では瞳孔径が縮小するため、もちろん【全漢字の字源・字形・字義】をほとんどキャッチできない。
 【夏の銀河の各部における字源・字形・字義の形状】は、三日月の夜に暗い場所で観察すると最も良く見える。

 倉頡は「【夏の銀河各部の形状】から作られた全漢字が生まれる子宮」を【十字の銀河の子宮(子宮に相当する箇所にある銀河部)】と定めた。
 【十字の銀河の子宮】は三日月の夜に見える「媚蠱の鼻(両眉・両眼の中央の鼻)」となる。
 「媚蠱の鼻」となる【十字の銀河の子宮】を「女性生殖器の子宮と産道」と見立てると、【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱の両眉】は「女性生殖器の卵管采(らんかいさい)の形」、【十字の腹部に棲む媚蠱の両眼】は「女性生殖の卵巣(らんそう)の形」に観える。
 「卵管采」は「卵管腹腔口(らんかんふくこうこう)の周りにある房状の突起物」であり、「卵巣」は「卵子(らんし)をつくる器官」である。
 女性生殖器を図示する書物で調べれば――「卵管采」は「卵巣」を【撫でる】かのごとく形状となる。
 [撫でる][]の字源を、『説文解字』は「安(やす)んずるなり」と解説する。

三日月の夜の【十字の銀河の胸部の右(西)の胸部】には「M39」と呼ばれる肉眼で見える散開星団(さんかいせいだん)が重なる。
 三日月の夜に見える「M39」の形は【三日月】と【半月】の合体形となる。つまり、上部が【三日月】の形、下部は【半月(半円)(円弧を上・下部が直径となる【半円】)となり、上部の【三日月】と下部の【半月】の合体形となる。
 【十字の銀河】は「木」にも観えるゆえ、「M39」を「木(【十字の銀河】)になる果物」に見立てると、「【鬼(子ども)の姿に似る銀河の右手の銀河部】(39から鬼(子ども)の横顔の額に垂れる「右手」に観える帯状の銀河部)が、果物(39)をもぎとる」ように観える。
 『説文解字』は[]の字源を「捋取(らつしゅ)するなり」と解説する。「捋取」は「采取(さいしゅ)」と同義で「木の実をもぎとる」という意味である。
 したがって、[]の字源は【M39と鬼(子ども)の右手の銀河】であったことになる。
 また、上記したように、[]の字源は【女性生殖器の左右の卵管采に見立てられた、媚蠱の両眉】であったことになる。
 テレビ局と新聞社は「大嘗宮における悠紀殿と主基殿の内部には、〔天皇の給仕に当たった後宮(こうきゅう)の女官の【采女(うねめ)】〕が控えていたと推測される」と指摘した。
 【采女】の役割は[]の字源「安んずるなり」をもって「天皇陛下の供饌の儀における【国家安寧】の[]の祈りを協力することであったのである。
 【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱】の[]は「女性の三ヶ月のごとく細い眉」をあらわし、「三日月の夜、【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱の眉は三日月の形】をしているゆえ、禍災(わざわい)をおこす魔力(呪力)がある」とされたのである。
 [媚蠱][]は「密集して多数が集まる天蚕(てんさん/ヤママユ)」であると推測される。
 というのも、天蚕(ヤママユ)や蚕(カイコ)の胸脚と腹脚の中間の背中には「半月状の斑紋(はんもん)」があるゆえ、三日月よりさらに月の形が太くなって半月になると少しだけ明るくなって、【十字の銀河】は白く輝いて形が変わるからである。
 半月の夜の【十字の銀河】は全体的に白く輝き、「白く輝く胸部の両手の部分(十字形)の下部(南部)は、幽(かすか)かに見える亀の顔と両足と甲羅に乗る蓬莱山(ほうらいやま)の形」(古代絵図で有名な蓬莱山)となる。
 だから、半月の夜において、【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱の両眉と両眼】は「蓬莱山」の形の一部となって消滅する。
 しかし、【M39】は【媚蠱の両眉と両目】に変化し、【M39】の西側(右側)に【媚蠱の両眉と両眼】が現れる。これゆえ、半月の夜に見える【M39の眉と眼とM39の西側の眉と眼をもぎ取る】ために、悠紀殿と主基殿の内部に【采女】が控えていたことになる。

◆倉頡は「五穀」を代表する「イネ」を意味する[()]の字を作った。
 五帝時代、【十字の銀河】と【鬼(子ども)の横顔の銀河】が中国の各地の天頂にめぐってきて、中国の各地の緯度が測量できる羅針盤となった。イネは中国の南部が育成適正地域であったゆえ、倉頡は[]の字形について「【十字の銀河の南部(両股)】からイネの穂は【鬼(子ども)の横顔に似る銀河の開いた口と舌】がある方へ垂れる形にする」と定めた。
 ゆえに、「[禾(イネ)]の穂を【鬼(子ども)の横顔に似る銀河の口・舌】が嘗()める形状」が[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[]字形であるゆえ[]の字源となった。ゆえに、[]の【十字の銀河】と[]の字源【禾の穂を嘗める鬼(子ども)の横顔の口と舌の銀河】が「大嘗」の語源となった。
 【采女】は神道とは無関係である。だから、大嘗祭は〔【夏の銀河各部の形状】から漢字を作成する方法をあらわす学問儀式〕であった。
 []の字源「女性生殖器の卵管采」は「媚蠱の両眉を消滅させて、媚蠱の呪力を滅ぶす」と解釈され、また、[]の字源・字形・字義は【木の実をもぎ取るような形の、M39と鬼(子ども)の右手の銀河】であった。
 ゆえに、天皇の給仕に当たった後宮の女官の【采女】は、大嘗祭と密接に関わると解釈されて、【采女】は天皇陛下の供饌の儀の協力者に選ばれることになったのである。
 以上のごとく、大嘗祭はすべて【夏の銀河各部の形状】があらわす漢字の字源・字形・字義にもとづいて成立する。ゆえに、大嘗祭は宗教的儀式ではなく、学問儀式であった。

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2019年11月19日 (火)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・2

★#2・大嘗祭に【白く輝く、天皇陛下の供饌の儀の銀河】

◆令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わる大嘗祭(だいじょうさい)を報道した全テレビ局・全新聞社は、学者たちの「大嘗祭は宗教的儀式である」と主張する空想・幻想を信じて誤報・虚報を報道して大失敗した。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上に(高度60度~90度の天頂にかけて)【天皇陛下の供饌の儀でおこなう所作ソックリの銀河】が存在したからである。この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭の本質と実体を明確に示した。つまり、大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではなかった。
 だから、テレビ局各社はテレビの画面に――大嘗祭が始まる午後6時半の【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が、大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没するまでの運行の様子――を映せば、国民は「大嘗祭は宗教的儀式である」という意見が空想・幻想であることを察知した。だから、全テレビ局の大嘗祭の報道は大失敗したことになる。

 同様に、新聞社各社も【天皇陛下の供饌の儀でおこなう、供饌からお供え物を三つずつ選んで小皿に入れる合計1000回余も丁寧(ていねい)に繰り返して行う所作の銀河】の形と運行の様子を示す図を掲載すれば、国民は「大嘗祭は宗教的儀式である」と主張する学者たちの意見は空想・幻想であることを察知することができた。

◆各テレビ局・各新聞社は「大嘗祭は、天皇陛下が新米などを神々に供え、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を祈る儀式である」と報道した。
 ゆえに、賢明な国民は「大嘗祭でおこなった天皇陛下の供饌の儀の様子」から「大嘗祭は五穀豊穣の儀式である」と何となく推測したにちがいない。
 この推測は正しく、天皇陛下の「供饌からお供え物を三つずつ選んで小皿にいれる合計1000回繰り返す【丁寧な所作】」が「国家安寧」をあらわしていた。なぜならば、「丁寧」の[]の字は「国家安寧」の[]の字であるからだ。

◆前回(1)のブログで説明したように、全漢字は天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」から作られた。
 【夏の銀河】は要するに「銀河」と呼ばれた。
 大嘗祭が始まる14日の午後6時半、天頂近くにあった【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河】の一部、つまり【夏の銀河の北端】が【天皇陛下の供饌の儀の銀河】であった。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は白く輝いている。詳しく言うと、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの一部の【天皇のお顔の額(ひたい)中央に相当する箇所にある、北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)は銀白色】に輝き、【天皇陛下が箸を持つ右手に相当する銀河周辺一面は白色】に輝いている。だから、【天皇陛下の供饌の儀の銀河の一部、銀白色に輝く北天の最輝部】が代表して【夏の銀河】は「銀河」と呼ばれることになったのである。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して「漢字」と名づけられた。だから、全漢字は【夏の銀河の各部の形状】から作られた。言いかえると、全漢字の字源・字形・字義は【夏の銀河の各部の形状】から成立するものであった。
 上記したように、1114日の午前6時半から翌15日の未明午前4時ころに終了した大嘗祭において、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は14日の午後6時半では最も高い天空の天頂付近(高度90度~60度まで)に位置し、15日の午前4時ころには北北西の地平線に没して姿を消した。
 だから、大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀の進行】に呼応(こおう)して運行した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「大嘗祭はすべての漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた学問の秘密をあらわす儀式であって、宗教的儀式ではない」と示すものであったのである。

◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が考案した書契(しょけい)から7世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書までの全漢字は【夏の銀河の各部の形状】から作られた事実」を表示するものであった。
 この「【夏の銀河各部の形状】から全漢字が作られた事実」はこの事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、この【誤読の空論】によって未だに解明されていない。〔この古文献の代表的な書物は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、『老子』、『説文解字』、『魏志倭人伝』そしてわが国の『古事記』上巻である〕。
 大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明を現在に伝えるビックイベント」であった。
 わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在世界中で用いられる7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされ、現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているからである。

◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)に説明されている。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた。この二重の大罪のため、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から倉頡が発明した漢字作成方法を伝える学問が伝来して習得した。大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを学者たちは読解できず、【誤読】を加えて排除するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は楷書を音符にして表記するが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆地平線上に現われる【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の東端】となり、上記したように大嘗祭が開始された時の最も高い天体部に登る【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の北端】となる。
 上記したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの【北天の最輝部は銀白色】に輝き、【天皇陛下が箸を持つ右手に観える銀河周辺が白色】に輝くゆえ、【夏の銀河】は要するに「銀河」と呼ばれた。
 また前回のブログでも指摘したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、英語「the Milky Way」すなわち「ミルキー・ウエイ」すなわち「銀河」の語源をあらわす「母乳(ミルキー)のように白く輝く銀河」であったことになる。というのも、【天皇陛下が箸を持つ右手に観える銀河周辺の銀河】がmilky(母乳)のように白色に輝いているからである。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「両翼を含まない、白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬()かる銀河」である。ということは「鳥の頭から尾まで形をした星座が漬かる銀河が白く輝く」ゆえ、その星座は「白鳥座」と名づけられたと考えるべきことになる。
 大嘗祭において天皇陛下が最も神聖な色とされる【白色の祭服(さいふく)】につつまれ、皇后雅子さまが【白色の十二単(ひとえ)姿】になったのは、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が「白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」であるゆえ、つまり白色に輝いているからであったのである。

◆上記したように、【大嘗祭に、天皇陛下が供饌から三つずつお供え物を選んで箸で摘()まみ丁寧に小皿に入れる合計1000回余おこなわれる所作】から、【供饌】は【五穀豊穣】をあらわすと察知できる。
 しかし、【国家安寧】については「【五穀豊穣】ならば【国家安寧】につながる」と類推(るいすい)できても、明確には理解できない。
 テレビ各局や新聞各社は、「悠紀殿・主基殿の内部イメージ」を示す図を提示した。
 「悠紀殿・主基殿」の内部にある【長方形の寝座(しんざ/神座)】が【国家安寧】をあらわした。
 【古事記上巻 幷わせて序】には――天武(てんむ)天皇が歴史書(『古事記』)作成の企てを述べた時の言葉が記載されており、天武天皇は「国家組織の根本原理」を「邦家(ほうけ)の経緯」と表現した――と書かれている。
 大嘗祭は天武天皇から始められたと伝えられている。
 悠紀殿・主基殿に設置される【寝座】は「経度線・緯度線」に明確に示されて南北(経度線に沿って)に長く東西(緯度線に沿って)に短い長方形となる。天武天皇の「邦家の経緯」の「経緯」は「経度線と緯度線」を意味したのである。
 紀元前2070年~紀元前2050年ころに習得された夏音文字の学問の天文地理学によって「天文の経度線・緯度線と地理の経度線・緯度線」を精確に測量する学術が完成し、皇室が独占管理して厳重に機密保持(きみつほじ)していた。天武天皇は【天文の経度線・緯度線と地理の経度線・緯度線を精確に測量する学術】を「国家組織の根本原理」と考えて「邦家の経緯」と表現したのである。
 ゆえに、【長方形の寝座】は「邦家の経緯」すなわち「国家の経緯」をあらわした。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]の字について「夢は夢魔(ゆま)。夢魔に侵されて寝臥(しんが)する意である」と解説し、さらに「病気は夢、すなわち媚蠱(びこ)とよばれる呪霊(じゅれい)のなすわざとされた」と解説する。
 “字書の聖典”と古代の人々が尊重した、【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた学問】に精通していた2世紀前半に生存した中国の文字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字について「病みて臥するなり」と解説する。
 「国家」をあらわす【長方形の寝座】は[]の字源・字形・字義をあらわした。
 つまり【夏の銀河各部の形状から作られた漢字の学問】においては「地震・洪水(台風)・旱魃(かんばつ/日照り)など、飢餓(きが)や戦争や乱などの禍災(かさい/わざわい)は夢魔すなわち媚蠱とよばれる呪霊のなすわざ」と考えられていたのである。
 「邦家(国家)の経緯」をあらわした【長方形の寝座】は「すっかり呪霊を失った媚蠱の呪霊が病んで臥すベット(寝台)」でもあったのである。
 【夏の銀河各部の形状から作られた漢字の学問】では「媚蠱が病んで寝床に臥してすっかり呪霊を失うと、地震・洪水(台風)・旱魃など、飢餓や戦争や乱などの禍災(かさい)が起らない」と考えられていたゆえ、【長方形の寝座】は「媚蠱が病んで臥す寝台」をあらわすゆえ「国家安寧」をあらわすことになったのである。

◆紀元前3000年ころの五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)は女性生殖器と子どもの出産の医学を研究した。
 五帝時代以前の三皇(さんこう)時代では、易(えき)に用いる記号が考案されていたが、黄帝の医学研究をあらわすことができる文字は発明されていなかった。
 ゆえに、黄帝につかえる倉頡は黄帝の医学研究をあらわすことができる文字の作成を目的にして、【夏の銀河各部の形状】から漢字を作成する方法を発明した。

 【天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端】にある銀河を、私は【十字の銀河】と名づけた。
 【十字の銀河】は[][][]と「五穀豊穣」をあらわす[()](五穀)[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は【人の正面形に似る銀河】であり、「西側半分はおなかが大きな妊婦の姿に相似し、東側半分が左手に弓を持つ男性の姿に相似し、この男女半身ずつの銀河は合体して人の正面形・背面形」に相似する。
 このような【十字の銀河】は五帝時代の中国各地の天頂にめぐってきて、緯度と経度を正確に測量できる羅針盤となった。ゆえに、【十字の銀河】は「国家安寧」の「国家」をあらわした。
 倉頡は【妊婦の姿に相似する、十字の銀河】を【夏の銀河各部の形状から作ったすべての漢字を生む母体】と定め、また【十字の銀河】を「黄帝」に見立てたゆえ、【十字の銀河】は[]の字源となった。
 【十字の銀河】の西隣は【子どもの姿に似る銀河】があり、この銀河の子どもの頭には一本の角(つの)が生えているゆえ、私は【鬼の姿に似る銀河】と名づけた。
 【鬼(子ども)の姿に似る銀河における横顔】は五帝時代の中国各地の天頂にめぐってきて、緯度と経度を正確に測量できる羅針盤となった。子午線通過するとき、【鬼(子ども)の姿に似る銀河の首から下の下半身の銀河】は天頂より北側を通過した。
 【鬼(子ども)の姿に似る銀河の横顔には両目に観える箇所】があり、また【鬼(子ども)の横顔後頭部とアゴ】にも〔目〕の形にそっくり形がある。ゆえに、倉頡は【鬼(子ども)の姿に似る銀河】に見立てられて「四つ目の怪人・倉頡」と後世に呼ばれることになった。
 【四つ目の怪人、鬼(子ども)の姿に似る銀河】は[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[(べん)]の字源・字形・字義となり、[子]の字源・字形・字義となった【鬼(子ども)の姿に似る銀河】と合体して[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[]の字源・字形・字義となり、[]の字源・字形・字義の【鬼(子ども)の姿に似る銀河】とともに、倉頡が発明した漢字(文字)作成方法をあらわした。
 つまり、黄帝の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の作成を目的した倉頡は「【十字の銀河】を【母体】にして、【鬼(子ども)の姿に似る銀河】を【出産する子ども】に見立てるようにすれば、【夏の銀河各部の形状】から黄帝の医学研究を後世に伝えることができる多数の文字を生む(作る)ことができる」という漢字作成方法を発明したのである。

◆【十字の銀河】は「供饌」の語源にして、[]つまり「全国から選んで供える食べ物」の字源・字形・字義となる。というのも、[]字形の「人の正面形」に相似する【十字の銀河】は[]の下に[]を加える[]の字源・字形・字義であるからである。ゆえに、「洪水も日照りもおきない天の順調な気候によって地上に豊かな食べ物を与える」という考えにもとづいて、【十字の銀河】は[]の字源・字形・字義となった。
 いいかえると、「洪水や日照りの災い・不順な天候をもたらす魔女」が【十字の銀河の腹部に隠れて棲む媚蠱】であった。
 出産期において、胎児の頭が骨盤出口に近づくと、母体の直腸を圧迫するので自然に怒責(どせき/いきみ、きばる行為)がおこり、母体の腹圧が加えられる。この腹圧を邪魔して子どもを死産させるのが【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱】であると考えられたのである。この解釈がさらに発展し、【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱】は「洪水や日照りや戦争や乱などの禍災(わざわい)を起こす」と、漢字学では解釈されるようになった。
 「国家安寧」の[(ねい)]と類似する字に、[(ねい)]という字がある。
 []の最上部の[]の字源は【十字の銀河】であり、中央の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の心臓】であり、最下部の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の心臓がある胸骨の中ほどに、皿のごとくくぼんだ部分の鳩尾(みぞおち)】である。「鳩尾」は「胃の真ん中」にあたる。要するに、[]の最下部の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の胃がある箇所となる銀河部】であった。
 [][]より下部の三字で構成される字部の字源は【人の姿に相似する、十字の銀河の胃がある箇所の銀河部】である。
 【十字の銀河の腹部の胃の箇所】に「幽(かす)かに左右の眉(まゆ)と左右の目に見える銀河部」がある。この【幽かに見える両眉と両眼の銀河部】が「媚蠱。媚蠱の顔」であった。
 【媚蠱の両眉と両眼の銀河部】の中央に、倉頡が「すべての漢字を生む子宮」と定めた【十字の銀河の子宮(子宮に相当する箇所の銀河部)】がある。【十字の銀河の子宮】は【媚蠱の銀河の両眉と両眼の中央にある鼻】となる。
 【十字の銀河の子宮】の西隣は【媚蠱が棲む、十字の銀河の腹部】から垂れる【点々と並ぶ、その点と点をつなぐと線となる、三本線の銀河部】である。この【三本線の銀河】は[]の原字[]の字源である。『説文解字』は[]の字について「天、象(しょう)を垂れて吉凶を見(しめ)す。人に示す所以(ゆえん)なり。(中略)。三垂は日月星なり。天文を観て以て時変(じへん)を察す。示は神事なり」と解説する。
 【日月星を示す三垂は、点々と並んで線となる三本線の銀河】となる。だから「線となる点々と並ぶ、その三粒(三点)の食べ物を盗んで魔力を有する【十字の銀河の腹部】に隠れて棲む魔女」が「五穀不作と国家に災害や戦乱をもたらす媚蠱」であった。
 これゆえ、大嘗祭において天皇陛下は供饌から媚蠱が食べる三粒の食べ物を箸で摘まんで横取りして、飢えて体力が衰えた媚蠱が寝床に病み伏して呪力をことごとく奪うために皿に入れる所作を1000回余も丁寧に繰り返して五穀豊穣と国家安寧の儀式をおこなったのである。
 したがって、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】における【箸】は【十字の銀河】であった。【供饌から三粒を選んで箸で摘まんで皿に入れる食べ物】は、上記したように【媚蠱が隠れ棲む十字の銀河の腹部から垂れる、三本線の銀河において線を形成する点々と並ぶ、その小さな点の銀河部】であった。【天皇陛下が供饌から箸で摘まんで三粒を選ぶ食べ物を入れる皿】は「胃に食べ物を入れるために使用する食器の皿」であった。つまり、[]は「五穀豊穣によって日々食物を胃に入れることができる吉なる(日々平穏な)状況をあらわすための皿」であり、いいかえると「[]の字源【十字の銀河の胃】と[]の字源【鬼(子ども)の姿に似る胃】に入れるために用いる食器の皿」ということになる。
 以上のごとく、天皇陛下は供饌から三つの食べ物を分けて皿に入れる所作を1000回余も【丁寧に行ってこそ】、五穀豊穣と国家安寧が成就することになったのである。
 したがって、大嘗祭が始まった14日の午後6時半、大嘗宮の天頂(高度90)~高度60度に存在した【白い、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭の進行に呼応して翌日未明の午前4時に北北西の地平線に没するまでの様子で、「大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと伝える学問儀式である」と現在に伝えていたことになる。

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2019年11月17日 (日)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・1

★#1・大嘗祭に白く輝く【天皇陛下の供饌の儀の銀河】

◆令和元年1114日、夕方から翌15日未明にかけて大嘗祭(だいじょうさい)が行われた。
 大嘗祭が開始された午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)に灯りがともされ、【天皇陛下が供饌(きょうせん)の儀をおこなう所作(しょさ)を示す銀河の北端の銀河部】が子午線通過した。この【天皇陛下の供饌の所作を示す銀河の北端の銀河部】は大嘗祭が終わる時刻には北から25度くらいの北北西の地平線に没した。
 したがって、【白く輝く供饌の儀の所作を示す銀河の北端の銀河部】が子午線通過して地平線に没するまで、【白く輝く供饌の所作を示す銀河】に呼応(こおう)して、天皇陛下は五穀豊穣(こごくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を願って供饌の所作の儀礼を合計1000回余も丁寧(ていねい)に繰り返していたことになる。というのも、「国家安寧」の[]の字は「丁寧」の[]の字であったからである。
 【白く輝く供饌の所作を示す銀河の北端の銀河部】は【天皇陛下が供饌(きょうせん)の儀をおこなう所作(しょさ)で示される[][][]と「五穀豊穣」をあらわす[()](穀物)[]の文字(字源・字形・字義)となった銀河】であった。
 だから、【白く輝く天皇陛下の供饌の儀の銀河】が明示するように、大嘗祭の本質・実体は上古の学問を表示する儀式であって、大嘗祭は宗教的儀式ではなかったのである。

1114日の東京の日没時間は、大嘗祭が開始される2時間前の午後435分であった。
 太陽が地平線から姿を消しても、まだ空は真っ暗にならず、天文学で【夏の銀河】と呼ばれる「天の川」は見えない。このうす暗いころの時間を「薄明時(はくめいじ)」という。
 太陽が地平線下18度の所まで沈むと、薄明時が終わり、大嘗祭が開始される時刻(午後6時半)となって、空が真っ暗となり、電気が発明されていない地上灯火が乏しかった暗い江戸時代の東京(江戸)の空ならば【夏の銀河】は光り輝いた。
 【夏の銀河】は【夏の全星座が漬()かる銀河】であり、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は地平線から現れるときには【夏の銀河の東端】、高く登っている時には【夏の銀河の北端】となる。

◆大嘗祭が行われる令和元年1114日の朝日新聞の朝刊の1面記事は、13日午前に撮影した「報道関係者に公開された大嘗宮の写真」を掲載して、下記のごとく報道する。
 「宮内庁は13日、大嘗宮周辺の様子を報道陣に公開した。大嘗宮には砂利が敷き詰められ、悠紀殿(ゆきでん)や主基殿(すきでん)に続く廊下には白い布が敷かれるなど、準備は大詰めを迎えている。(中略)。大嘗祭は、天皇陛下が新米などを神々に供え、五穀豊穣(ごこくほうじょう)や国家安寧(こっかあんねい)を祈る儀式。大嘗宮の儀は、東側の悠紀殿は14日午後6時半から、西側の主基殿で15日午前0時半から行われる。」

14日の夕方午後6時半、すっかり辺り一面夜陰で暗闇と化し、大嘗宮(だいじょうきゅう)に焚き火の灯がともされた。
 午後6時半、テレビの画面に――白い布でおおわれた廊下に2名の侍従が葉薦(はこも)・別名御筵道(ごえんどう)を解き延べ先導する後ろに天皇陛下の頭上に御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高く差しかかげて、東側の悠紀殿に向かう天皇一行の行列が現れた。
 この大嘗祭が開始される2時間前の、薄明時が始まる午後435分、大嘗宮の天頂(最も高い高度90度の天体部)に、【人の横顔の酷似する銀河のほぼ中央の、右目の形となる銀河部】がめぐってきていた。この【人の横顔の酷似する銀河】は【夏の銀河の北部】に位置する。
 【人の横顔に酷似する銀河における両目の上の額(ひたい)の銀河部】には、天文学で「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる銀河部がある。
 「北天の最輝部」は「白く(銀白色に)輝く、北半球の人々が最も輝いて見える銀河部」である。
 1114日の薄明時が始まった午後435分、「北天の最輝部」は天頂点から北東45度の位置に存在した。さらに、「北天の最輝部」に隣接する「右手に観える銀河」や「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」さらにその後ろの北東45の高度70度~60度の位置に、[][][]の字源と[()](五穀豊穣をあらわすイネや麦などの穀物)の字源・字形・字義となった【人の正面形に似る銀河】が位置した。
 したがって、【人の正面形に似る銀河から人の横顔に酷似するまでの銀河までの形状】が、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】ということになる。【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、薄明時が始まる午後435分であったゆえ、その形状を見ることができなかった。
 薄明時が終わる午後6時半、星座盤で調べると、[][][][](五穀豊穣をあらわすイネや麦などの穀物)の字源となった【人の正面形に似る銀河】が大嘗宮の天頂(高度90)近くの真北(高度約70度~約80)で子午線通過していた。
 このとき、【人の正面形の銀河】の西側近くにある【天皇陛下のお顔】に相当する【人の横顔に酷似する銀河】の高度は約60度~約70度であった。
 したがって、大嘗祭が開始された午後6時半、【天皇陛下がお供えものを三つずつ白い小皿の合計1000回余も丁寧(ていねい)に繰り返して分ける所作の、供饌の儀の銀河部】が大嘗宮の真上の天空(高度60度~80)にめぐってきており、天皇陛下の供饌の儀の開始に呼応して北北西の地平線にて没するまでの運行が始まろうとしていたことになる。


 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】の東端部となる[][][][]の字源となる【人の正面形に似る銀河】は「西側半分が妊婦の姿に相似し、東側半分が左手に弓を持つ男性の姿に相似し、この男女一体の銀河は人の正面形」に相似する。(私が著作した書物では、この銀河を【十字の銀河】と名づけることにした)
 西側の「主基殿供饌(すきでんきょせん)の儀」が始まった15日の午前0時半、【十字の銀河(人の正面形に似る銀河)】は、北西の地平線近くに位置し、3時間半後の午後4時ころに北北西の地平線の下に没して姿を消した。
 この【十字の銀河(人の正面形に似る銀河)】が地平線に没するまでの間、天皇陛下は「主基殿供饌(しゅきでんきょうさん)の儀、つまり天皇陛下は正座して供饌から三つずつ小皿に丁寧に分ける500回余り繰り返す所作」をお勤(つと)めしていたことになる。

◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は白く輝き、そのうちの【天皇陛下のお顔に相当する、人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)】には【北天の最輝部】があり、銀白色に輝く。
 だから、銀白色に輝く【北天の最輝部】から白く輝く【十字の銀河】までで構成される【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「銀河」の語源であったことになる。
 また【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、英語「the Milky Way」すなわち「ミルキー・ウエイ」すなわち「銀河」の語源をあらわす「母乳(ミルキー)のように白く輝く銀河」であったことになる。

◆朝日新聞はじめすべてのテレビ局は「大嘗祭は宗教的儀式である」と報道した。
 だから、大多数の国民は「大嘗祭は宗教的儀式にちがいない」と思い込むかもしれない。
 しかし、大嘗祭の実体は――【天皇陛下の供饌の儀の銀河】の秘密をあらわす、いうなれば【全漢字は銀河から作られた】という古代学問の秘密をあらわす学問儀式――であったのである。
 天皇陛下が悠紀殿と主基殿で正座してピンセットのような竹製の箸(はし)でお供(そな)えものを摘()まんで小さな皿に移す行為を合計1000回余も辛抱強くおこなう所作(しょさ)のおける、「竹製の箸」・「供饌」に相当するのは【十字の銀河】である。
 供饌から小分けする三つの供え物(食べ物)」と「小皿」は【三つの粒(つぶ/短い三本線)の銀河部】が相当する。この【三つの粒の銀河部】は【妊婦の姿に似る十字の銀河西半分の妊婦の腹部(おなか)のように観える銀河部から垂れる、三つの粒または短い三本線の形状銀河部】である。また、【三つの粒の銀河部】は合計1000回余も繰り返して天皇陛下が供饌から三つずつ分けて【丁寧に】小皿に移す所作によって「国家安寧」の[]の字源・字形・字義をあらわした。
 【大嘗祭で天皇陛下が合計1000回余も丁寧に繰り返す供饌から三つだけお供えものをピンセットのような形をした箸で摘まんで小皿に移す所作】は【全漢字は銀河から作られた学問の秘密】をあらわしていた。
 「銀河」の別称は「銀漢」または「天漢」といい、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられたのである。
 【全漢字が作られた銀河】は、天文学では通称【夏の銀河】と呼ばれ、上記したように【夏の全星座が漬()かる銀河】を【夏の銀河】と呼ぶ。
 だから、【夏の銀河から作られた文字】は「漢字」と呼称されることになったのである。
 【夏の銀河】は「はくちょう座からさそり座までが漬かる銀河」であり、【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】よりも大きい、最も巨大にして各部の形が最も明確な・何万字という多数の漢字を生んだイメージ豊かな壮大な銀河である。
 上記した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「はくちょう座の両翼部分を含まない、はくちょう座の顔から胴体・尾の部分までが漬かる銀河」ということになる。
 
◆紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭の生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は漢字作成方法を発明した。
 7世紀の隋代(ずいだい)に楷書が完成した。この7世紀以前の倉頡が考案した書契(しょけい)までの全漢字は、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河の各部の形状】から作られた。
 【全漢字は夏の銀河から作られた事実】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆『古事記』上巻の序は太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。太安万侶は『古事記』の序を【古事記上巻 幷()わせて序】と表記し、「『古事記』上巻だけに〔音〕という注を付ける音文字は夏音(かおん)文字である。夏音文字は【夏の銀河の各部の形状】を【文字】(字源・字形・字義)とした」と説明するものであった。
 というのも、漢字作成方法を発明した倉頡は「書いた文字は用済みになったならば直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族には、天罰が下って即刻に死刑にする」と定めた。この掟のために、原初漢字の夏音文字では【夏の銀河の各部の形状】が【文字】(字源・字形・字義)となった。
 上記したように、楷書も倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河の各部の形状】を字源・字形・字義とした。だから、『古事記』上巻の随所に記載された〔音〕という注が付く夏音文字の語を記す楷書各字の字源・字形・字義によって、「楷書と夏音文字は共に【夏の銀河各部の形状】から作られた事実」が解明され証明されることになる。
 この秘密を、【古事記上巻 幷わせて序】の末部は――楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義である――と説明して、【楷書と夏音文字はじめ全漢字は倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって夏の銀河各部の形状から作られた事実】を伝えていたのである。
 【古事記上巻 幷わせて序】の冒頭は「臣安万侶言(しんやすまろまを)す」と記す。
 次の「それ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く、為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文で、太安万侶はわが国に中国から夏音文字が伝来して習得された歴史を、下記のごとく説明していたことになる。
 「漢字が発明されていなかった紀元前4000年ころの中国とわが国の各地において前期縄文時代初頭以前における天頂にめぐってくる銀河の形状は混沌(こんとん)として凝り固まっていましたが、文字となる気象(イメージ)は未だ現れていませんでした。ですから、文字で名をあらわすことも無く、文字で名をあらわす方法もありませんでした。ゆえに、現在において(『古事記』が完成した712年当時)、前期縄文時代初頭以前の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができません。しかし、紀元前4000年ころからから始まる前期縄文時代、倉頡が漢字作成方法を発明した紀元前3000年ころから始まる中期縄文時代、紀元前2070年~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭までの参時代においては、[]の字源・字形・字義となった【夏の銀河の最北端部にある、乾いた沙漠のようなイメージの銀河部】と、その隣に[]の字源・字形・字義となった【十字の銀河】が天頂にめぐってきましたから、わが国では造化(芸術作品)の〔【夏の銀河】の印象をあらわす、表面に渦巻き文が全面にほどこされる土器〕や〔【十字の銀河】や【人の横顔に酷似する銀河か夏の銀河の西南部】までの印象をあらわす、人体を模(かたど)る土偶(どぐう)〕が作られて、【夏の銀河を見たときの人々の印象】が伝えられ、後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、わが国に伝来した夏音文字は【夏の銀河の印象】をあらわす土器・土偶を造った芸術家たちによって習得されました。」
 だから、【古事記上巻 幷わせて序】は――倉頡が漢字作成方法を発明した約950年後の紀元前2070年~紀元前2050年ころの後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡の掟によって、夏の銀河の各部の形状が文字(字源・字形・字義)となった夏音文字の学問】が中国から伝来して習得された――と伝えていたことになる。
 皇室は【倉頡は発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸の学問】を権力と財力基盤にして厳重な機密にして独占管理して栄えたゆえ、現在まで存続して滅びなった。
 だから、現在の大嘗祭が本格的に復興された1738年当時の皇室は、上記した【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文が伝える事実をもちろん知っていた。ゆえに、大嘗祭において悠紀殿と主基殿で天皇陛下による供饌の儀がおこなわれる伝統が現在まで受け継がれることになった。しかし、現在の学者たちは一人も【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文を正確に読解(どっかい)できないゆえ、彼等は「学問儀式の【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」と錯覚する幻想に憑()りつかれる。

◆【古事記上巻 幷わせて序】の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字を習得した」という記述は事実であった。
 だから、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した字源を解説する字書の『字統(じとう)(平凡社発行)の〔わが国の漢字音〕と題する初頭の文は「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという定説は誤っている。中国の上古音よりも古い・現存する最古の漢字音がわが国には保存されている事実」を、次のように説明する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文が明確に伝えるように、【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字の学問を習得した」という説明を学者たちは正しく読解できずに【誤読】するゆえ、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという空理空論・空想・幻想に憑()りつかれる。
 中国における現存する最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、「紀元前1046年の周代初頭~2世紀の後漢時代までの漢字音」とされる。
 したがって、中国の上古音における最古は紀元前1046年ということになるゆえ、【古事記上巻 幷あせて序】が説明する「紀元前2070年~紀元前2050年ころの夏代初頭の夏音文字の字音」は、中国の上古音より約1000年前の現存する最古の漢字音となる。
 現存する最古の漢字音を伝える夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて楷書を音符にして多数表記される。
 だから、上記したように【天皇陛下の供饌の儀の銀河の各部の形状】が[][][][]はじめ[][][][][][]などの字源・字形・字義となるように、夏音文字は【夏の銀河の各部の形状】が字源・字形・字義となって現在も実在するものであったことになる。


◆「【天皇の神々の祈り・即位式正殿の儀・大嘗祭】は宗教的儀式である」と主張する学者たちは【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「わが国は夏音文字を習得した」と説明する記事を読解することができない。
 大嘗祭における悠紀殿の「悠紀」を「ゆき」と読んで「ゆうき」と読まない事情と、主基殿の「主基」を「すき」と呼んで「しゅき」と読まない事情は、11音読みの夏音文字の読み方をあらわしていたのである。
 3世紀(280289)に著作された倭女王卑弥呼が登場する『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
は約2000字で構成される。
 (1)『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は帯方の東南」という文から30の小国を説明する記事までの約500字・約25%の記事は【倉頡が発明した漢字作成方法】を説明するものであり、(2)また『魏志倭人伝』の約400字・約20%の記事は【夏音文字の習得】について説明する記事である。
 しかし、「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀ないし6世紀である」という空想・幻想を抱く学者たちには、『魏志倭人伝』の(1)【倉頡が発明した漢字作成方法】を説明する記事と、(2)【夏音文字の習得】を説明する記事がまったく読解できない。
 だから、大嘗宮の天頂近くの高い空にある【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が北北西の地平線に消えるまでの運行に呼応して、天皇陛下が供饌の儀をおこなった事実を――学者はじめメディアはまったく知らないゆえ「大嘗祭は宗教的である」と思い込んだのである。

学者たちは現存する最古の漢字音を保存する夏音文字が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っていることを知らない。だから、学者たちは「【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」という空理空論・妄想を抱く。
 上記した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】によって、【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は学問儀式であることが証明される。
 また【大嘗宮】はじめ【天皇陛下が着る最も清浄で神聖とされる白絹の祭服】、【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下一行の行列】、【悠紀殿・主基殿の内部の配置の様子の推測イメージ】などによっても、「大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と証明できる。
 次回から幾回になるかはわからないが、数回をもって「大嘗祭は学問儀式である証明」を解説する。

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2019年11月 8日 (金)

#20 邪馬台国説はフェイクであった!

★即位礼と大嘗祭は宗教的儀式ではなく、学問儀式である

◆学者たちはじめメディアは「天皇がおこなう神々の祈りは神道(しんとう)にもとづく祈りである。ゆえに、天皇の最も重要な任務は神道の神々への祈りであるから宗教的儀式という儀式となる。だから即位式正殿の儀と大嘗祭は宗教的儀式である」と思い込む。
 しかし、実体は【天皇の神々の祈りは上古の学問にもとづく祈りであるゆえ、宗教的儀式ではなく学問儀式であった。だから、即位式と大嘗祭は学問儀式であった】ことになる。
 このように、学者たちの「宗教的儀式」と錯覚(さっかく)する憶測(おくそく)・憶説(おくせつ)を信用して、メディアと国民はこぞって天皇を誤解している。
 このブログは、前回(19)で解説・証明しなかった『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌を注目して――令和元年1022日の即位式正殿の儀と翌1114日の夕方から翌日の未明の大嘗祭(だいじょうさい)は学問儀式であることを証明する。
 ゆえに、このブログで不明な点や説明不足な点は前回のブログを参照していただきたい。

◆前回のブログでも不明な点や説名不足な点は、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。
 ですから、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌の題詞は「岡本天皇の御歌(みうた)一首 幷()わせて短歌」である。ゆえに、この3首の和歌は飛鳥時代の女帝の第35代皇極(こうぎょく)天皇、また第37代斉明(さいめい)天皇が第34代舒明(じょめい)天皇の皇后・宝(たから)皇女と呼ばれていた時に作った和歌であると考えるべきことになる。宝皇女は第38代天智天皇と第40代天武天皇の生母である。

 「岡本天皇」は舒明天皇と宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)の二人であるが、歌の内容からして『万葉集』485番・486番・487番の3首の作者は「宝皇女」であったにちがいない。
 この3首は「舒明天皇が、宝皇女と蘇我入鹿(そがいるか)の仲を疑っている」と皇后が詠()んでいることになる。
 「岡本天皇」は「舒明天皇と皇后・宝皇女」であるゆえ、この3首は舒明天皇が皇后の身になって作った和歌であった可能性はゼロではないが、万が一舒明天皇が作った和歌であったとしても、舒明天皇が皇后と蘇我入鹿の仲を疑って詠んだことになる。
 朝日新聞の令和元年118日の27面「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事の一節は――文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」は天武天皇の即位に際してはじめて実施されている――と指摘する。
 即位において初めて大規模の大嘗祭をおこなった天武天皇の両親・岡本天皇のどちらかがが作った『万葉集』485番・486番・487番の3首によって、神秘のベールに包まれる大嘗祭の本質を知ることができる。

◆神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 神代のイザナミノミコト(伊耶那美命)が小国・日本の女王に就任してイザナキノミコト(伊耶那岐命)とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の大群のように、わたしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまえ、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

 伊耶那岐命は第9代開化天皇であった。『古事記』中巻の開化(かいか)天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた」と記述する。開化天皇が住んだ宮殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」の先頭2字「伊耶」と同字であるゆえ、「伊耶那岐命」は「開化天皇」であったことになる。
 伊耶那岐命・開化天皇の正妃(せいひ)は旧国・丹波(たんば)生まれの竹野比売(たかのひめ)である。ゆえに、「伊耶那美命」の本名は「竹野比売」であった。伊耶那美命の出身地「丹波」は3世紀後半に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記述された倭国の小国「伊耶(いや)国」であった。「【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた竹野比売」は「伊耶国生まれの[]つまり〔桃の花〕のように美しい女王」であるゆえ、国民は「伊耶那美命」と愛称したのである。
 伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は伊耶那岐命の父・第8代孝元(こうげん)天皇とも結婚している。ゆえに、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の継母であった。第10代崇神天皇は孝元天皇と伊迦賀色許売命の子であった。ゆえに、崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟(いぼてい)にして、伊耶那岐命と伊迦賀色許売命が結婚したために伊耶那岐命の養子となった。
 伊迦賀色許売命と崇神天皇の母子が大和朝廷の基礎を築いたアマテラスオオミカミ(天照大御神)であった。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁されて「伊耶那岐命の妻」という戸籍を失った。このため、彼女は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」と名乗った。天照大御神であった伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命は奈良県桜井市に所在する全長約280mの巨大な前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳に葬られた。

◆『万葉集』485番の初句「神代より」から5句「国には満ちて」までには、次のような事情が存在した。
 天照大御神(伊迦賀色許売命と崇神天皇の母子)は――倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法と夏音(かおん)文字の学芸を最も重んじて政権基盤とせよ。この学問を独占管理して厳重な機密とすれば皇室と国家は永らく繁栄して存続する。しかし、国民は伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を最も尊重するゆえ、革命や反乱に利用されると皇室と国家を滅びる可能性は十分ある。ゆえに、皇室と国家が滅亡しないためには、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は絶対に後世に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)し消滅せよ――という遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)をのこした。
 このブログが毎回説明するように、紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡は、天文学で【夏の銀河】とよばれる「夏の全星座が漬()かる銀河各部の形状」を字源・字形・字義とする漢字作成方法を発明した。
 このため、学問上においては、現在、【字源・字形・字義となった夏の銀河各部の形状】は【文字】ではないが、実際は【文字】であった。【夏の銀河】は「銀河」であり、「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「【銀漢、つまり夏の銀河各部の形状】から作られた字」を略して【漢字】と呼んだ。だから、【夏の銀河各部の形状】は【文字(漢字)】であった。
 『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)の冒頭記事は「紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】とする夏音(かおん)文字の学芸がわが国に伝来して【倉頡が発明した漢字作成方法】が習得された」と説明する。
 3世紀、中国の魏()、魏の出張政庁が所在した帯方郡(たいほうぐん)、諸韓国(朝鮮半島)で用いられていた楷書も【倉頡が発明した漢字作成方法】にのっとって作られた。だから、楷書の字源・字形・字義も【夏の銀河各部の形状】であった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭の伊都(いと)国の港では、魏の都・帯方郡・諸韓国の楷書で書かれる文書と、倭女王卑弥呼が書く文書の文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していたので、捜露(そうろ/点検して確認して)間違いがないようにしていた」と記述する。

したがって【夏音文字と楷書の字源・字形・字義となった夏の銀河各部の形状】は【文字】であったゆえ、倭国の伊都国の港では【夏の銀河各部の形状】にもとづき、魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を正しく訳することができたのである。

 『古事記』編纂(へんさん)スタッフは天照大御神の遺勅が抹殺・消滅せよと命じる【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えようと企(たくら)んだ。ゆえに、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば歴史(【日本国誕生史】とその後の上古史)が解明できるように仕組んだ。
 このため、『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)の末部は編纂スタッフの企んだ歴史解明方法を「夏音文字と楷書の字源・字形・字形は共(とも)に【夏の銀河各部の形状】である」と説明する代わりに「楷書【日下(にちげ)】と夏音文字【玖沙訶】は同義、楷書【帯(たい)】と夏音文字【多羅斯(たらし)】は同義である」と説明しているのである。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に【日本(小国・日本)国誕生史】が記述される。伊耶那美命は結婚する新郎の伊耶那岐命に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と10字の楷書で表記する夏音文字の言葉でとなえた。この語は「日本国の国土生みの柱を〔愛〕にしましょう」と意味したゆえ、この【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本はもちろん倭国の人民たちの心に響(ひび)いた。というのも、当時、中国は三国時代で人民が日々虫ケラのごとく殺され、日本列島では中国の戦乱の影響を受けて【卑弥呼王朝と国家】が重視され【人民の命や愛】は軽視されていたからである。ゆえに、伊耶那美命がとなえた【阿那邇夜志愛袁登古袁】つまり【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本から卑弥呼が統治する倭国の人民の心に響き、小国・日本と倭国の国中すみずみまで一気に広まって知れわたった。
 淤能碁呂島聖婚説話には5ヵ所の〔音〕という注がつく夏音文字の語が楷書で記載され、この【夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義】を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば【日本国誕生史】が鮮烈(せんれつ)に甦(よみがえ)る仕組みになっている。

 同様に、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話も夏音文字の語を表記する楷書各部の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば、下記のごとくの歴史が明白となる。
 この説話に登場する「天照大御神」は「伊耶那美命」に「神」の字を加えた「伊耶那美(いざなみのかみのみこと)」と表記された。皇室にとって最も偉大な先祖である「皇祖・天照大御神」を「天照大御神」と表記すれば、『古事記』は天照大御神の遺勅を否定し朝廷に歯向かう反逆の歴史書であることが明白となる。ゆえに、編纂スタッフは皇室が敵視する「伊耶那美命」に「神」を加える「伊耶那美神命」という名にすれば「天照大御神の遺勅とおりに【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺・消滅する偽書(ぎしょ)を作成した」と朝廷は喜び、天皇は『古事記』献呈を承認して正史にするであろうと策略(さくりゃく)したのである。
 だから、『古事記』上巻には「夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば歴史が解明できる方法が必要となった」のである。
 伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部に「千引石(ちびきのいわ)」が登場する。「千引石」は「現在の和歌山県新宮市の磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の巨岩・ゴトビキ岩」である。神倉神社の祭神は「天照大御神」である。ゆえに「伊耶那美神命」は、神倉神社の祭神「天照大御神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)」であった。

伊耶那岐命の黄泉国訪問説話を要略すると下記のごとくでなる。
 
 伊耶那美命の墓を作ったとき、第10代崇神(すじん)天皇の生母の伊迦賀色許売命(天照大御神)が倭女王に就任して、多数の青年と乙女を殺して伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原/おおゆのはら)に埋葬する徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。正妃の伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む青年(戦士)たちと協力して、倭王朝の大軍が衛(まも)る伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)にある棺(ひつぎ)を奪うクーデターに成功して、第二后の天照大御神を倭女王から失脚(しっきょく)させた。捕虜となった倭女王・天照大御神は伊耶那岐命が居る千引石の前に連行された。この千引石の前で天照大御神に向かって伊耶那岐命は離縁を言い渡し、「吾は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ。
 伊耶那岐命と日本兵が伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)から奪った伊耶那美命の死体について、『日本書紀』は「花の窟(いわや)に葬られた」と記述する。花の窟は、三重県熊野市有馬町に所在する。

 以上、『万葉集』485番の初句「神代より」から5句「国には満ちて」までには、上記のような歴史が秘められていた。
 次の6句「味群(あぢむろ)の」にある「味群」は「味鴨の大群」を意味する。
 現在の「トモエガモ」の古称が「味鴨」である。古代における飛翔(ひしょう)する味鴨の群れの長さは3kmに及んだといわれている。この習性ヒトが大量に狩猟しやすいゆえ、1970年代に絶滅が危惧(きぐ)されるほどに生息数が激減した。

◆山のはに 味群(あぢむろ)さわき 行()くなれど 我(われ)はさぶしえ 君にしあらねば(486)
 『万葉集』486番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 山の端()に、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して国に満ち満ちあふれる人民のごとく愛睦(あいむつ)まじく味鴨の大群が鳴きさわいで飛んで行きますが、わたしは寂(さび)しくてなりません。あなたはわたしが示す愛を疑い拒絶し、夜となってもわたしを抱いてくれませんもの……。

 近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日()のころごろは  恋ひつつもあらむ(487)
 『万葉集』487番を、現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 近江の琵琶湖に浮かぶ最大の島の沖島(おきのしま)の地図の形(北を下・南を上にした形)は「湖水に浮かぶ味鴨の姿」に相似しますから「鳥籠の山」と呼ばれています。「【日本建国の〔愛〕の理念】に譬(たと)えられる味鴨が籠()もる島(沖島)が「鳥籠の山」と呼ばれるのは、この島の最高所(標高220m)は伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた結婚式場の北側に所在しました古称「蓬莱山」と同名だからです。さらに、鳥籠の山(沖島)の真南には伊耶那美命が葬られた花の窟にあり、花の窟の経度線(東経13605)は鳥籠の山の東端を撫()でるがごとく貫通します。同様に花の窟の経度線は、鳥籠の山の東にある不知哉川の河口をも撫でるように貫通します。この川の名が「知らない(不知)」と示すように、わたしのあなたを恋する心を知ろうとせずにわたしを疑って信じないつれないあなたですけど、今日このごろは、わたしのことを恋しく思っていてくださるでしょうか。

 『万葉集』487番の3句「不知哉川」は、現在の愛知川(えちがわ)であった。
 「不知哉川」は宝皇女が考えた名称であるのか、それとも舒明天皇の在位期間当時(629641)に人々に呼ばれていた名称であるかは、不明である。いずれにせよ「不知哉川」を「イサヤかわ」と読むのは「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」を「イサ」と暗号・符合化して「日本国誕生史については知らない(不知である)」と意味して「不知哉川」と名づけられたにちがいない。というのも、当時、天照大御神の遺勅によって「【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は後世の人々が知らない(不知)となるように必ず抹殺・消滅せよ」と定められていたからである。
 「天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記して皇室が望む偽書を作ったと見せかけて、〔音〕と注がつく夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換して【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える――という策略のもとに『古事記』は、712年正月28日に元明(げんめい)天皇(707715年在位)に献上された。元明天皇は編纂スタッフの企みを見破って献呈拒否した。だから『古事記』は正史になれず、朝廷(皇室)と国家に歯向かう危険思想を養う読むことが禁じられた反逆の書物となった。 
 不知哉川・現在の愛知川は近江・滋賀県中東部の郡・町名となった「愛知(えち)」の河口近くを流れ、彦根市の南の境界線となる。
 「愛知」という地名は『古事記』が完成した直後の『日本書紀』の元正天皇紀(元正天皇の在位期間は715724)においては「依智(えち)」と表記された。「依智」という表記はおそらく「依()る智慧(ちえ)」を省略したと考えられる。つまり――【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の随所にある〔音〕という注がつく夏音文字を表記する楷書を【夏の銀河各部の形状】に変換する学問に〔依る智慧〕で知ることができる。ゆえに、「依る智慧」を略すると「依智」となる。
 「依智」だと意味曖昧(あいまい)となるゆえ、『延喜式(えんぎしき)』や『和妙抄(わみょうしょう)』では「愛智」と表記された。「愛智」ならば「〔愛〕を国家理念とした日本国誕生史は上古学問の智慧で知ることができる」とぐあいに、一段と明瞭(めいりょう)となる。

江戸時代の天保年間(18301844)以後は「愛知」と表記された。ゆえに、「【日本建国の〔愛〕の理念】を知る川」を略して「愛知川」と表記されることになったことになる。

◆鳥籠の山(沖島)・愛知川河口の東方には、多賀町(たがちょう)がある。
 多賀町多賀には伊耶那岐命と伊耶那美命を祭神とする多賀大社が所在する。
 『古事記』上巻の須佐之男命(すさのおのみこと)の啼()きいさち説話の末部は「伊耶那岐大神は淡海(あふみ)の多賀に坐()すなり」と記述して、「伊耶那岐命の霊魂は現在の多賀大社が建つ地所に鎮座(ちんざ)している」と指摘する。
 『古事記』上巻の三貴士(さんきし)の分治説話は「伊耶那岐命は養子の天照大御神・崇神天皇に高天原(たかまのはら)を治めるようにと委任(いにん)し、伊耶那美命が生んだ実子の須佐之男命には海原(うなばら/山陰出雲地方)を委任した」と記述する。
 『古事記』上巻の須佐之男命の昇天説話と天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――天照大御神母子(後の崇神天皇と生母)は伊耶那岐命のクーデターで天下を奪われたことを怨(うら)み天下を奪いかえそうと軍備を整えている様子から、伊耶那岐命は自分が死んだ後に養子の天照大御神(第二后・倭迹迹日百襲姫命の息子)と実子の須佐之男命が天下取りの戦争をして人民が困窮する大乱を心配した。ゆえに、伊耶那岐命は養子・天照大御神(後の崇神天皇)に天下を譲って高天原(たかまのはら/大和地方)を治めるようにし、実子・須佐之男命は山陰出雲地方を治めるようにして大乱を回避しようとした。ところが、五人の王と天照大御神(崇神天皇)に協力しなければならない北九州の宗像(むなかた)王、この【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する六人の王たちは、大和の天照大御神王朝は【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を憎悪して弾圧(だんあつ)する政事(まつりごと)をおこなうにちがいないと考えて、ひそかに須佐之男命を大王とする熊野王朝を創設するクーデターを企んだ。この情報を入手した死が迫っていた伊耶那岐命は須佐之男命を枕元に呼び「おまえは母の【日本建国の〔愛〕の理念】に背くのか!」と怒り没した。ゆえに、須佐之男命はクーデターを断念して天照大御神と不戦の誓いを結ぶことにした。この不戦の誓いにおいて、須佐之男命は天照大御神の策略にはまって、クーデターを計画した五人の王の名を異名(いみょう/あだな)で告げてしまった。これゆえ、天照大御神は宗像王と五人の王たちを討伐あるいは懐柔(かいじゅう)し、または威嚇(いかく)服従させて、大和朝廷の基礎を築いた――と記述する。

 崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇に天下を譲られたゆえ感謝して開化天皇陵を築造すべきであった。にもかかわらず、母親が倭女王から失脚された熊野におけるクーデターを怨んで開化天皇陵を築造しなかった。
 ゆえに、伊耶那岐命・開化天皇の一生を集約する沖島・鳥籠の山や不知哉川・愛知川の東方の現在の多賀大社が建つ地所が伊耶那岐命・開化天皇の霊を祀る聖地となったのである。
 開化天皇の陵墓は奈良市油坂町に所在する。しかし、その墳丘規模などから5世紀末~6世紀初頭ころに築造されたと推定されている。ゆえに、開化天皇陵は3世紀後半(多分、260年ころ)に没した開化天皇(伊耶那岐命)を慕(した)って5世紀末~6世紀初頭に築造された墳丘(ふんきゅう)であったことになる。
 開化天皇陵は『古事記』中巻の開化天皇紀が「天皇は春日の伊耶河宮に居住した」と記述する伊耶河宮の近くに築造された。ゆえに、開化天皇陵は須佐之男命が父・開化天皇を葬った墓があった地と推測して築造されたのかもしれないことになる。
 以上、伊耶那岐命・開化天皇の墳丘は開化天皇が死去した3世紀には築造されなかった。
 このため、愛妻伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那岐命・開化天皇の一生を集約すると、伊耶那美命が葬られた花の窟の真北の鳥籠の山(沖島)・不知哉川(愛知川)の河口の東方にある現在の多賀大社が建つ地所が伊耶那岐命・開化天皇の霊魂を呼び興(おこ)すことができる聖地と、人々は信仰していたことになる。
 岡本天皇が作った『万葉集』485番・486番・487番の3首は「鳥籠の山」と「不知哉川」の秘密と『古事記』が「伊耶那岐命の霊魂は現在の多賀大社が建つ地所(淡海の多賀)に鎮座する」という、これらの秘密を解明すれば「大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす大祭」であることが明白となる。

  なお、この「邪馬台国説はフェイクであった!」というブログは、今回、一旦(いったん」終わることにした。次回から「即位礼と大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない」というブログ名に改めて、続行することにした。したがって、後日、「邪馬台国説はフェイクであった!」という元のブログにもどることもありえます。

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