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2008年10月

2008年10月28日 (火)

18章 邪馬台国説は日本を滅ぼす-2

すべての邪馬台国説は「文献批判」という思考方法にもとづいて、『魏志倭人伝』の記事を曲げて読む。

要するに、この〈文献批判〉は邪馬台国説を正当化しようとする学識ある人々の愛称であるが、その実体から言うと〈文献批判〉の本名は〈誤読〉である。

〈文献批判〉は西欧近代科学の致命的欠陥《傲慢(ごうまん)な単純化》を親として生まれた子である。だから、〈文献批判〉の本名は〈誤読〉ということになる。

〈文献批判〉の実体は〈誤読〉であることは、文献批判で考える学者みずから表示している。

1979年11月1日に、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上〔邪馬薹国を中心に〕』(光文社)が初版第一刷発行された。この本の執筆者たちは、邪馬台国説の権威者たちである。彼らは学界を代表して〈文献批判〉は正しいと思考方法であると確固たる信念を抱く人たちということになる。

この本の執筆者たちは、石井謙治、石尾芳久、石野博信、井出至、上田正昭、江上波夫、大谷光男、大庭脩、大林太良、小田富士雄、笠井倭人、金関丈夫、国分直一、桜井徳太郎、潮見浩、直木孝次郎、西嶋定生、西谷正、原島礼二、樋口清之、松本清張、水野祐、森浩一、山尾幸久、山本武夫の各氏である。

この本の序は、当時の考古学者の第一人者と評される江上波夫氏が書いた。

江上氏は序文で、下記のごとく〈文献批判〉について説明する。

「伝承にしてもいろいろなものが各地域に存在しており、それらをある時期に適当に組み合わせてまとめたものが『古事記』や『日本書紀』であろうから、現代史学や文献批判の立場からすれば、それらに矛盾や不統一があって当然なのである。それをたんに矛盾や不統一がるからということで無視することは出来ない。そのことは広い意味の民族学、すなわち神話、伝承、民俗などを取り扱う学問では当然なことであるが、歴史学界では必ずしも一般的になっていないのが現状である。また軽々しく文献史料を信用してはいけないというが、なぜ信用してならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいはどのようなとらえ方をしたならば信用できるものとなるのか、などを見きわめて、史料を利用することが必要である。」

上記の江上教授の文章を2、3回繰り返して読めば、〈文献批判〉の実体は〈誤読〉であることが察知できる。

江上教授は「軽々しく文献史料を信用してはいけないというが、なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいはどのようなとらえ方をしたならば信用きるものとなるのか、などを見きわめて、史料を利用することが必要である」と述べているとおり、『魏志倭人伝』のどの記事も軽々しく信用してはいけないと主張する。このように、〈文献批判〉はすなわち〈誤読しなければいけない〉と言っていることになるので、〈文献批判〉はまさに〈誤読〉以外のなにものでもないことになる。

だから、すべての邪馬台国説は〈誤読〉して成立したものであるから、誤読説ということになる。

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2008年10月27日 (月)

17章 邪馬台国説は日本を滅ぼす-1

すべての邪馬台国説は誤読の空論である。

この誤読の空論の邪馬台国説と、いま起きている100年に一度と言われる世界同時不況は、同じ西欧近代科学の致命的欠陥《傲慢(ごうまん)の単純化》から生まれている。

世界同時不況が回復するのに3年、あるいは数年かかるだろうなんて、経済学者や彼らの言いなりになってマスメディアはおしゃっているが──これは経済学者やそれに関係する人々の希望的観測であるにちがいない。そこで、彼らの推理がたとえ正しいとしても、その直後から彼らやマスメディアがまったく予測しない日本滅亡が襲来する可能性大となる。いま起こっている世界同時不況は、ついに《傲慢な単純化》の合理思考による自由経済の繁栄がここに終焉〈しゅうえん)をむかえたと示すものであって、今世紀初頭に必ず起きると決まっていた織り込みずみの出来事であると考えざるをえない。

というのも、1980年代から今世紀において、経済に変わる新しい価値観が生まれると指摘していた学者や思想家たちが幾人かいたからである。この指摘にもとづくと、この21世紀初頭から経済はこの新しい価値観に支配され服従することになる。この21世紀の新しい価値観への変革のために、いま世界同時不況が起こっていることになる。いいかえると、世界同時不況は自由経済が新しい価値観に取って変われて支配され服従することになる出来事であって、20世紀末のような《傲慢な単純化》にもとづいて自由経済が回復して異常に重視され繁栄するような事態にはならない。もし、そうなったならば、日本どころか地球が滅び人類が滅びることとなろう。

1980年代から、先端科学者たちは「西欧近代科学には《傲慢な単純化》という欠陥がある」と国際会議まで開いて警告していた。

『魏志倭人伝』のすべての記事は一字も曲げずに読めば科学が成立する、すべての記事は歴史の事実を伝える史書である。

すべての邪馬台国説は、『魏志倭人伝』の記事を信用せず、数か所も曲げて読みながら科学を成立させることができず多数の矛盾点を有する。ゆえに、すべての邪馬台国説は、『魏志倭人伝』の記事を一字も曲げずに読めば史実を知ることができる正当な方法を《傲慢な単純化》で排除した亡国の空論ということになる。

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2008年10月 5日 (日)

16章 井伊家創設の秘密-7

引佐町井伊谷に所在する龍潭寺(りょうたんじ)の古文書の中に『井伊家伝記』がある。この『井伊家伝記』は18 世紀に著作された戦国期の井伊家の盛衰を記述する資料である。この『井伊家伝記』は、井伊家創設が『魏志倭人伝』に記述される鬼道の学芸にもとづいて元祖・共保(ともやす)の誕生儀式がおこなわれた様子を下記のごとく記述する。

──井伊家元祖の備中守共資公は、66代一条天皇の時代の寛弘7年(1010)正月元旦の朝寅の刻(午前4時ごろ)に井戸の中から現れる儀式をおこなって誕生した。遠州引佐郡井伊保(のちの井伊谷)に往古より八幡宮があり、この八幡宮は遠江国62社社の内引佐郡6社の第一位の社(やしろ)である。この八幡宮の神前の瑞籬(みずがき)の傍(かたわ)らに神田があり、この神田の中に御手洗(みたらし)の井戸がある。神主(つまり、建比良鳥家の家督者)が儀式の段取りにしたがって元旦詣でをした。この時、井戸の中から嬰児(えいじ)の共資公が出生するように演出した。そして、すぐに龍潭寺の中の自浄院で産湯(うぶゆ)をかけ、この鬼道の子捨て儀式にもとづいて共保公は実母がいないことになったので粥(かゆ)をあたえてご養育することになった。これは吉例として龍潭寺では代々の住持は今に至るまで、元旦の寅の刻には井戸の水を汲み、共保公に掛けたと古来より申し伝えて来た産湯を掛ける古式をおこない、粥を元祖・共保公の御影に献上して読経などをして古代より行事として決めて勤めてきた。この由緒については、共保公から13代の家督者となった信濃守直平(なおひら)公が龍潭寺へ寄進した書状の一通に記載してある。

この井戸の中から赤ん坊が誕生する儀式は、古来日本にあった風習で、現在も乳児を捨てて近所の人に拾ってもらうと丈夫に育つということでその風習がのこっている地域がある。ゆえに井戸の中から出生するという儀式は、丈夫に育って神官家から新しい武家の家系が生まれて幾久しく栄えよと祈願する子捨て儀式だったのである。このような子捨て儀式は、古代において、武家でよくおこなわれていた。神官だった建比良鳥家は嬰児・共保の子捨て儀式をおこなって武家となった。共保は7歳になると遠江守の公家・藤原共資の養子となり、井伊保の城山に見立城を築き居住した。この出生の秘密によって、家名が「井伊」となった。「井伊」の[井]はもちろん共保の子捨て儀式をおこなった「井戸」であり、[伊]は「伊耶那美命」「伊耶那岐命」の両神の略称の[伊]である。いいかえると、[伊]は3章で説明した千引の石で伊耶那岐命が宣誓した「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわす。

共保の井戸の中から出生する儀式がおこなわれた陰暦1010年の1月1日は、グレゴリオ暦で現代暦に換算すると、1月24日である。「歳差(さいさ)」と天文現象を用いて1010年の1月24日(陰暦1月1日)の寅の刻(午前4時)の星空を再現すると、伊耶那美命(壱与)が生存した3世紀中ごろに天頂を通過した銀河部が北から30度東に寄った北北東の地平線から生まれる(昇りはじめる)状況であることが証明される。この伊耶那美命の存命中の天頂を通過した銀河部は、井桁(木で[井]の字形に組んだ、井戸のふち)の形となり、[井]の字源となる銀河部である。だから、伊耶那美命と伊耶那岐命が生存した3世紀半ばに天頂を通過した[井]の字源となる井桁の形をした銀河部が地平線から生まれようと出現する1010年1月1日の寅の刻に、天上の鬼神(かみ)に祈願して元祖・共保が井戸の中から出生すると演出する、武家となるための子捨て儀式がおこなわれたのである。

神社に参拝する時、手を洗い清める手水舎がある。この手水舎の前身は、水が流れる川岸であった。この神前で手を洗い清める川は「御手洗川(みたらしがわ)」といった。[井]の字源となる銀河部の東隣は御手洗川のような形をした銀河部である。だから、共保出生の井戸は「御手洗の井」と呼ばれたのである。

なお、この共保の子捨て儀式がおこなわれた「御手洗の井」は、7章で説明した──銅鐸で天頂緯度を測定した経緯度原点(都田川の河口の東岸)とこの経緯度原点と同緯度の滝峯不動尊(経緯度基点)とから発した二本の線、すなわち経度軸から夏至の日の出の方向の角度(29度)を引いた61度の傾きとなる二本の線が交わる交点となる。この測量は、ちょうど1千万坪の建比良鳥の地上絵を制作した鬼道の天文地理学の秘密を表示するものである。

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2008年10月 2日 (木)

15章 井伊家創設の秘密-6

建比良鳥の地上絵(細江町)の北隣の地は、引佐町井伊谷(いなさちょういいのや)である。

この引佐町井伊谷を本拠地とする井伊家は、1010年(寛弘7)に創設された。この井伊家の創設は、公家の藤原共資(ともすけ)が遠江国村櫛半島の郷に下って志津城を築き、他所(よそ)から浸入してきた武士団が荘園を開墾して建比良鳥の地上絵を破壊するのを阻止する努力がなされてから約18年後のことである。

この約18年もの間、建比良鳥命の子孫たちは共資の努力を冷たく疑って見て見ぬふりをしていた。というのも、11章で説明したように、共資の先祖の不比等・房前父子は建比良鳥の地上絵が保存する〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史と『魏志倭人伝』の記事となる歴史を抹殺せんとして奔走したからである。簡単に信用して心をゆるして共資に裏切られたならば、およそ750年もの間まもってきた建比良鳥の地上絵は消滅し、それではこの遺跡をまもってきた建比良鳥家の先祖たちの努力が浮かばれなくなってしまう。また、建比良鳥の地上絵を制作した建比良鳥命の歴史の真相を後世に伝えんとした志(こころざし)も空(むな)しくなってしまう。

建比良鳥の地上絵を守るは「倫命(りんめい)」すなわち「人として実行しなければならない使命」と決意して公家から武士となってよそ者の地上絵の侵入をゆるさじと志津城を築いて努力する共資を約18年もの間疑惑の目で見ていた建比良鳥命の子孫たちが、ようやく信用することになったので井伊家は創設された。

井伊家の元祖は共保(ともやす)で、この共保は7歳の時に共資の養子となった。これによって井伊家は藤原北家の血統を引き継ぐ家系となったので、井伊家元祖の共保は長じて備中守に就任した。共保が共資の養子となると、井伊保城山に見立城が築かれ共保が居城した。この居城の縁(えにし)によって「井伊」が家名になった──と、『井伊家伝記』は記す。

井伊家創設の当時、建比良鳥家の家督者は神官であったと考えられる。というのも、当時、都から遠く離れた遠江において『魏志倭人伝』の記事となる鬼道の学芸と〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史を保存する遺跡・建比良鳥の地上絵をまもる財力と地位を得るには、神官という職につくしかないからであった。13章で紹介したように、『日本三大実録』の貞観8年(866年)12月26日の条は「遠江国正六位上蟾渭神及び鳥飼神を従五位下とする」と記述する。この正六位上の蟾渭神と従五位下の鳥飼神の神官は、建比良鳥命の子孫だったにちがいない。

『井伊家伝記』の井伊家元祖・共保の誕生儀式について書く記事の中に、神主が登場する。この神主こそ、共保の実父の建比良鳥家の家督者であったと考えられる。次章で、井伊家元祖・共保の誕生儀式の秘密を解説する。

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