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2018年2月

2018年2月27日 (火)

真実の日本国誕生史・40

 ●要約と結論・6
■現在の日本古代史学者たちの【科学】に反する三大不正行為・2

 現在の学者たちの(1)漢字の習得説はじめ、(2)新井白石から始まる邪馬台国学説と、(3)本居宣長が著した注釈書『古事記伝』を教科書とする日本神話学説は【科学】に反する誤読の空論である。
 この三つの学説が【科学】に反する実体が容易に理解できる6つの観点(根拠・理由、証拠となる遺跡・遺物)を取り上げて、1番目~5番目までの観点を前回「真実の日本国誕生史・39」で解説し、残った6番目の観点を今回「真実の日本国誕生史・40」にて解説することにした。
 なお、このブログ「真実の日本国誕生史」は、今回をもって終了とする。1回から34回の「真実の日本国誕生史」において、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話には【日本建国の〔愛」の理念】をかかげて日本国が誕生した真実の歴史が記述されていたことを詳細に解説して証明した。したがって、現在の学者たちの意見は日本人にとって最も大切な命と魂の尊厳をレイプ(強姦)する、〔誤読〕を使って騙(だま)すなんて! 最も卑劣な詐偽・ペテン・ウソ八百ということになる。


6. 『古事記』上巻 の「序」が説明する夏音文字の学芸をあらわす確かな遺跡・遺物は現存する。
 だから、学者たちが主張する(1)確かに存在する夏音文字の学芸を〔誤読〕で存在しないと抹殺(まっさつ)したウソ八百の漢字の習得説はじめ、(2)新井白石から始まる邪馬台国学説、(3)本居宣長著『古事記伝』を教科書とする日本神話学説は【科学】が成立しない【誤読の空理空論】であったことになる。
 いっぽう、『古事記』上巻の「序」の「わが国には夏音文字の学芸が存在した」と説明するとおりの確かな遺跡と遺物が多数現存する。この6番目の観点で取り上げる幾つかの現存する遺跡と確かな遺物によって、『古事記』上巻に記述された日本国誕生史は【科学】が成立して事実となる


 古代史学には――前人が作った文献に記述された記事・情報を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述された情報とおりの遺跡や遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが「前人が作った文献の記事を誤っている」と〔文献批判〕した意見は誤読の空想であり、妄想(もうそう)であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する
 
紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は、約350年後の紀元前850年ころに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 シュリーマンのトロイ遺跡発見が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対方法)が存在する。

 学者たちは「中国においてもわが国においても夏音(かおん)文字を記した史料が1点も発掘されていない」ことを理由・根拠にして、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の「序」が証言する夏音文字の学芸記事を無視して、「わが国には夏音文字は伝来していない」と断定する――このような〔文献批判説〕は【科学】が成立するものと学者たちは思い込む。しかし、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻には多数の夏音文字が記載されて実在し、『新唐書』日本伝には「後稍夏音(のちややかおん)を習う」という記事が存在する。さらに、さらにわが国には夏音文字の学芸が習得されていたと証明できる遺跡・遺物(証拠史料)が幾つか現存する。それだけではない、夏音文字の学芸を学び知得した多数の歴史上の人物も存在する。
 ゆえに、学者たちが〔文献批判〕を用いて【科学】が成立すると錯覚(さっかく)して「わが国には夏音文字の学芸は存在しなかった」と主張する意見は【科学】がまったく成立しない妄想(もうそう)・デタラメであったことになる。

(1)
秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡・野中堂遺跡は紀元前2070~紀元前2050年頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に作成され、夏音文字の学芸が現在も保存され残っている。ゆえに、『古事記』上巻の「序」の冒頭記事と漢字学と位置天文地理学にもとづいて学術調査すれば、わが国が夏音文字の学芸を習得した秘密は【科学】が成立して事実となる。わが国は紀元前21世紀に、中国から原初漢字の夏音文字が伝来し習得していた。したがって、学者たちが「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀もしくは6世紀である」と断定する定説は【科学】が成立しない、『古事記』上巻や『魏志』倭人伝はじめ諸々(もろもろ)の古文献を誤読して真実を排除した虚妄(きょもう/デタラメ)であったのである。
 この結果、わが国の天皇制の権力基盤は夏音文字の学芸であったことが、手に取るように明確に判明する。

(2)2008
年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する東日本最古で最大の前期古墳の高尾山(たかおさん)古墳は、『古事記』上巻の伊耶那岐命・伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場であった。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」は前回(39)までに詳細に科学的に証明したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載される夏音文字や夏音文字を表記する楷書(かいしょ)はじめ、『古事記』が成立した8世紀以前のすべての漢字は、下に示す「文字作成銀河各部の形状」から作られた。
 というのも、「銀河」の別称は「銀漢」であるからである。だから、「漢字」は「銀漢、つまり文字作成銀河各部の形状から作られた文字」の略称であった。

Ginga_2
 ▲文字作成銀河の写真

 淤能碁呂島聖婚説話に記載される〔音〕という注が付く「許々袁々呂々(こをろこをろ)7字、「淤能碁呂(おのごろ)」の4字、「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」の7字、「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」の10字、「久美度邇(くみどに)」の4字、この全5ヵ所の語を構成する夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、伊耶那岐命と伊耶那美命は封土(ほうど/盛り土)の高尾山古墳で結婚し、伊耶那美命は高尾山古墳で結婚した時に、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えたことが明らかとなる。
 沼津市教育委員会は高尾山古墳を陵墓であったと推定したが、高尾山古墳は伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚式場であったのである。
 沼津市委員会は高尾山古墳の墳丘は230年頃に完成し、高尾山古墳の後方墳中央の主体部は250年頃に作成されたと推定した。この沼津市教育委員会が推定した高尾山の墳丘と主体部の作成年代によって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は高尾山古墳・結婚式場とした歴史を語るものであったことが【科学】が成立して証明できる。また、高尾山古墳の主体部から出土した後漢製「上方作系浮彫式獣帯鏡(じょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」が破砕(はさい)されていた秘密は、この破砕鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の4つの絵柄と破砕された仙人の絵柄で伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を表現するものであったということが証明される。
 高尾山古墳から出土した鏡の砕かれた絵柄の「仙人」は[仙]の字の人偏が削られて[山]となり「仙人=山人(やまびと)」と表現されて、編纂スタッフは「【日本建国の〔愛」の理念】を後世に伝える『古事記』編纂事業をあらわす暗号」に用いた。この点からしても、高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に登場する結婚式場であったと証明される。  
 高尾山古墳の主体部から出土した「32点の鉄の鏃(やじり)」は「五帝時代初頭の黄帝」をあらわし、「2点の鉄の槍(やり)」は「黄帝につかえて、漢字を発明した倉頡(そうきつ)」をあらわす呪術(じゅじゅつ)器具であったと思われる。沼津市教育委員会が高尾山古墳の墳丘が完成したと推定した230年には、国中が未曾有(みぞう)の恐怖に支配されることになったため紀元前3000年頃に生存した黄帝と倉頡の精霊(呪霊)にまもってほしいと神に祈願する日本国(小国・日本)が誕生した事件がおきたのである。
 なお、夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すると、『魏志』倭人伝末部に登場する「倭女王壱与(いよ/夏音名)」は「伊耶那美命」であり、「武将の載斯烏越(そしあお/夏音名)」は「小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命」であったことになる。伊耶那岐命は後の春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住した第9代開化(かいか)天皇であり、開化天皇の正妃の丹波出身の竹野比売(たかのひめ)が伊耶那美命の本名であった。『魏志』倭人伝は、「丹波」は「小国・伊邪(いや)国」であったと記述する。[]の字と[]は同字であるゆえ「伊邪国=伊耶国」となる。したがって、「伊耶国出身の那(桃の花の)のように美しい小国・日本に赴任した女王」を略して、人民は壱与・竹野比売を「伊耶那美命」と愛称したのである。「伊耶那美命の夫の軍王」ということで、人民は載斯烏越・若き日の開化天皇を「伊耶那岐命」と愛称したことになる。「伊耶那岐命」は「開化天皇」であったゆえ、開化天皇が住んだ宮殿名は「伊耶那美命が生まれ育った小国名の〔伊耶〕」の2字がつく「伊耶河宮」であったのである。

(3)静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形は、高尾山古墳が舞台となった淤能碁呂島聖婚説話に記載された5ヵ所の夏音文字の語を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、日本誕生史の真相が解明できるように設計された1千万坪の大鳥の形に図化した地上絵(つまり、夏音文字の学芸遺跡)である。
 夏音文字の学芸の秘密を後世に伝える大鳥の地上絵は、高尾山古墳の主体部が作成されたわずか10年後の260年ころから作製が開始され30年後の290年ころに完成した。この現存する大鳥の形をした遺跡は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記された遠江の豪族とその一族が作製した。ゆえに、この遺跡をはじめわたくしは「建比良鳥の地上絵」または「建比良鳥の地宜(ちぎ)」と名づけたが、2014年以後は「卑弥呼の地上絵」という名称に変えた。というのも、この1千万坪の大鳥の地上絵によって『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝えていることが証明できるからである。
 『魏志』倭人伝は280年~289年頃に著作された。卑弥呼の地上絵は260年から作製が開始されて30年後の290年頃に完成した。したがって、『魏志』倭人伝と卑弥呼の地上絵は同時代に作られた。『魏志』倭人伝に記載された「東西南北」などの方位をあらわす全15ヵ所の方位記事を1ヵ所も改めないと「日本列島は東ではなく、南に伸びる」ということになる。この事実と異なる転回日本列島地理は、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえて漢字を発明した倉頡(そうきつ)の漢字作成原理「鳥獣の足跡」にもとづいて卑弥呼が立論した学術的な錯覚意見であった。だから、卑弥呼の地上絵の製作が開始する約10年前に完成した沼津市の高尾山古墳の主体部から出土した「32点の鉄鏃(てつぞく)」は「黄帝」をあらわし、「2点の槍(やり)」の[]の旁(つくり)[]は「倉頡」の[]をあらわすものであったと考えるべきことになる。(沼津市は旧国の駿河国の一角であり、駿河国の西隣りは卑弥呼の地上絵がある遠江である。ゆえに、わずか10年の差違しかない沼津市の高尾山古墳と卑弥呼の地上絵の両者は夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】を表示すると共に倉頡が発明した漢字作成原理を現在に伝えて、地理的にも近く密接な関係があったことはなんら不思議ではない)
 卑弥呼の地上絵によって、『魏志』倭人伝の全記事は正しいと証明され、また『古事記』上巻に記述された夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すると明らかになる日本国誕生史は事実であったことが、シュリーマンのトロイ遺跡と同様に学者たちの〔文献批判説〕は〔誤読の妄想〕であることが【科学」が成立して証明される。
 1010(寛弘7)、浜松市北区引佐(いなさ)(卑弥呼の地上絵の北隣)の井伊谷(いいのや)に居住していた建比良鳥家は武家の「井伊氏」を創設して、以後井伊氏は卑弥呼の地上絵の守り番となった。

(4)1562(永禄5)1月に、織田信長と徳川家康が結んだ清洲(きよす)同盟は熊野那智大社の主神の伊耶那美命と熊野速玉大社の主神の伊耶那岐命に、天下を統一して夏音文字の学芸の復興する」と誓う血盟(けつめい)であった。高尾山古墳の主体部に埋納された【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす上方作系浮彫式獣帯鏡の破砕鏡から約1m離れた東と東南の位置から「東海西部系(遠江・三河・尾張)の土器」が出土した。ゆえに、井伊氏が住んだ遠江だけでなく、家康の出身地の三河、信長が住んだ尾張には『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国誕生史の真相が根強く残っていたため、信長も家康も幼少から夏音文字の学芸を学ぶことになり夏音文字の学芸と日本国誕生史の復興を夢みて、清洲同盟を結んだのである。家康は8歳から駿府の今川義元の人質となり、義元の軍師であった夏音文字の学芸に精通した臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の高僧大原雪斎(たいげんせっさい)が没する14歳まで夏音文字の学芸を厳しく教育された。1582(天正10)62日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれた。関ケ原合戦の4ヵ月後の1601(慶長6)正月、譜代大名筆頭の地位につけた卑弥呼の地上絵の守り番の井伊直政に、家康は伊耶那美命と伊耶那岐命を祭る多賀大社の西方の近江佐保山城への移住を命じた。井伊直政は関ケ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌16022月に死去した。直政の死を乗り越えて夏音文字の学芸を復興するために家康と井伊藩は、1603(慶長8)に作製を開始して20年後の1622(元和8)に彦根の3千万坪の大鳥の地上絵を完成させた。この井伊直政・織田信長・徳川家康の一生の夢〔夏音文字の学芸と日本国誕生史の復興〕をあらわす彦根の大鳥の地上絵は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形となって存在する。家康は1616(元和2)に没したので、完成した彦根の大鳥の地上絵を見ていない。
 なお、彦根の3千万坪の地上絵(現在の彦根市の地図の形」は「未(いま)だ夏音文字の学芸は復興されず(習わず)」とあらわす翼が無い、鳰(にお)の海=琵琶湖に浮かぶ鳰(水鳥のカイツブリ)の姿に設計されている。

(5)1608
(慶長13)、家康は30才の駿府作事奉行の小堀正一(まさかず)の科学と芸術の卓絶たる才能に注目して、遠江守に取り立てて、遠州の卑弥呼の地上絵の研究を命じた。ゆえに、1608年以後、正一は「遠州の卑弥呼の地上絵」に因(ちな)み「遠州」と号した。1616年に死去した家康が一生追い求めた夏音文字の学芸と日本国誕生史の復興は、将軍と江戸幕府が実現する宿題となった。1622(元和8)45才になった小堀遠州は近江国奉行に任命され、完成した近江・彦根の大鳥の地上絵に注ぎ込まれた夏音文字の学芸知識を井伊藩から伝授された。翌1623年小堀遠州は京都の伏見奉行となり、将軍と幕府に京都市西京区に所在する桂離宮の庭園作りを命令された。1645(正保2)に病床に伏すまでの23年間、夏音文字の学芸と日本国誕生史の復興を後水尾(ごみずのお)上皇から承認を得るために、小堀遠州は桂離宮の庭園作りに情熱をかたむけた。桂離宮の庭園の平面図には、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史の全貌と『魏志』倭人伝の全記事は1ヵ所も改める必要がない事実が科学的に解明できる夏音文字の学芸知識が設計されて現存する。

(6)後水尾上皇は夏音文字の学芸を復興すると『日本書紀』の講書で隠蔽(いんぺい)した『古事記』上巻に記述された皇祖天照大御神の残酷な徇葬(じゅんそう)決行の歴史が解明されて皇室が滅亡すると心配して、小堀遠州の生前には桂離宮の庭園を一度も見学しなかった。遠州が没してから8年後の1655(明暦2)、幕府は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話末部に記載された「久美度邇(くみどに)」の4字の夏音文字を設計する庭園作りに着手し、1659(万治2)に完成させて後水尾上皇に献上した。この庭園は、京都市左京区に所在する修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)の庭園である。上御茶屋の中心となる「浴竜池(よくりゅういけ)」は「久美度邇」の語源「夏の銀河の西南部」を表示する形に設計されて「呉の黄竜(こうりゅう) 2年、すなわち230年」をあらわした。「230(呉の黄竜2)」は、沼津市に所在する高尾山古墳の墳丘が完成した年である。上皇は浴竜池の中央の築島(つきしま)の窮邃亭(きゅうすいてい)に陶板で作った篇額(へんがく)を掲げ、篇額の二つの八角形中央に「夏音文字の学術にもとづいて上古史を窮(きわ)める」([𨗉]は「上古」の意を有する)と意味する「窮邃」の2字を配置して夏音文字の学芸と日本誕生史の復興を認めると幕府に示した。というのも――篇額の二つの八角形は黄竜の「2年」をあらわし、また八角形は富士山をデザインするものであり、また浴竜池の設計テーマとなった夏音文字「久美度邇」の4字の語源は富士山の東南にある伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場(沼津市の高尾山古墳)を表現するものであったからである。さらに、八角形のふちどりの緑色で「笹や竹の筒の緑色、すなわち伊耶那美命の本名の竹野比売(たかのひめ)」をあらわし、さらに「二つの八角が組み合わさった中央の縦長の亀甲形(きっこうけい)に包まれる赤い水引きの結び模様(子ども誕生祝に用いる水引き結び模様)」で【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわして――上皇は皇祖天照大御神の残虐な徇葬を決行した歴史によって国民が皇室への反感を抱くことを防ぐためにまた朝廷と幕府が崩壊する革命に利用される可能性が十分あるゆえ厳重な機密とした夏音文字の学芸が一気に世に明るみにならないように慎重(しんちょう)に用心して、夏音文字の学芸を有する幕府中枢部ならば理解できる扁額という芸術作品をもって幕府の欲求(よっきゅう)に応えたのである。
 家康は没する1年前の1615年に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定した。この第一条は「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」であり、この条文は上皇が作った「窮邃」の篇額によって「天子、夏音文字の学芸は日本文化(諸芸能)の根源です。第一番目に重大な学問・夏音文字の学芸を失うことは日本国が滅亡することです」と意味するものであったことになる。

(7)上記した後水尾帝が小堀遠州の生前中に桂離宮の庭園を一度も見学しなかった一件は、後水尾天皇と幕府が正面衝突した紫衣(しえ)事件が影響した。遠州が桂離宮の作庭に着手した年の4年後の1627(寛永4)に紫衣事件がおきた。紫衣(紫色の法衣)を着用することは、禅宗と浄土宗の僧侶にとって最高の栄誉であるが、天皇が紫衣の許可を与えるには、上記した「禁中並公家諸法度」で事前に幕府の同意を必要と定められていた。しかし、天皇は以前の慣例にしたがって無断で許可を与えたため、これを幕府は無効と宣言した。天皇は怒って1629(寛永6)幕府に無断で譲位(じょうい)し、1620(元和6)に入内(じゅだい)した将軍秀忠の娘の東福門院(和子)が生んだ興子(おきこ)内親王に跡を継がせた。これが明正(めいしょう)天皇である。
 後水尾上皇は、幕府が修学院離宮の上御茶屋の浴竜池の工事に着手した3年後の1658(万治1)3月、初めて桂離宮を御幸(みゆき)なされた(この年は、小堀遠州が没してから11年後となる)。浴竜池・上御茶屋の庭園が完成した4年後の1663(寛文3)3月と11月にも、上皇は桂離宮離宮を御幸なされている。上皇が作った「窮邃(きゅうすい)」の篇額は、遠州が作った庭園の東北部と西南部の設計からデザインした作品であった。言いかえると、桂離宮の庭園の東北部と西南部は、上掲した「文字作成銀河の範囲」を示す作品でもあった。
 1725(享保10)に新井白石が没した。白石は『魏志』倭人伝の記事を〔文献批判〕して〔誤読〕を加える思考方法を基本にして立論した。今日の学者たちは白石が開発した〔文献批判〕の考え方を受け継ぐ。しかし『魏志』倭人伝は〔文献批判=誤読〕を1ヵ所も必要としない文献であり、『魏志』倭人伝に記載された夏音文字の学芸は日本の古代学問と日本文化(諸芸能)の根源であり、夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河各部の形状となって実在した原初漢字であった。したがって、白石は誤読の空論を後世に残した。
 白石の没年から13年後の1738(元文3)115代桜町(さくらまち)天皇の即位式において、大嘗会(だいじょうえ)が本格的に復興された。この大嘗会の復興は霊元(れいげん)上皇(112代天皇)の決断に将軍吉宗が協力して実現した。大嘗会は皇室最大の神事であり、霊元上皇による大嘗会の復興によって即位式に用いる天皇の王冠の上の飾りは、〔夏音文字の学芸をあらわす大鳥〕の意匠となった。この大鳥のモデルは、桂離宮の庭園東北部にある〔卑弥呼の地上絵〕(現存する遠州・浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形)の形に設計された庭園の平面図であった。天皇の王冠の下の飾りは、桂離宮の西南庭園部の〔母親の乳房と乳房を嘗()める子の横顔の形をした岸〕からデザインされることになった。
 家々の神棚にある〔水を入れる神具の水器(すいき)の蓋(ふた)〕は「母親の乳房」(水器の取っ手の摘(つま)みが乳首となる)をデザインするものである。水器の〔水を入れる容器〕は〔妊婦の腹部・子宮〕をデザインし、〔水器に入れる水〕は〔胎児の命をまもる羊水(ようすい)〕をあらわす。
 このように天皇の王冠の下の飾りは『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす〔母親の乳房の形をした水器の蓋〕の意匠であったゆえ、天皇の王冠は「菅蓋(かんがい)」と名づけられた。「菅」は天皇の王冠の材料の「草の菅(すげ)」であり、「蓋」はもちろん「水器の蓋(ふた)」である。天皇の王冠の〔母親の乳房の形をした水器の蓋〕を模る菅笠(すげかさ)は、日本国民のいのちと魂の根源となり・生活基盤であった【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。ゆえに、天皇の王冠は金や銀や宝玉で飾らず、夏に草のスゲ()の葉を刈って作る笠をもって国民が国家と朝廷に逆らって尊重した【日本建国の〔愛〕の理念】を表現することにしたのである。
 だから、新井白石がおこなった〔誤読(文献批判)〕によって夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】が失われて日本国はやがて滅亡すると深刻に心配した皇室は、大嘗会を本格的に復興して天皇即位式の王冠の意匠(いしょう)で「夏音文字の学芸は実在する」と表示したのである。
 というのも、学問の初歩的心得は文献の記事を忠実に読解することであるからである。したがって『魏志』倭人伝や『古事記』上巻の記事を真っ先に忠実に読解する人物こそが「学者」と呼べるゆえ、この二つの古文献の記事から学者ならば「夏音文字の学芸の存在」に必ず気づき天皇の王冠は「夏音文字の学芸は実在した」とあらわしていることに気づくにちがいないと考えたのである。それゆえ白石以後、〔誤読〕である〔文献批判〕が『魏志』倭人伝や『古事記』上巻における基本的思考方法になるなんていう今日のような事態は、大嘗会を本格的に復興した1738年の時点では皇室はまったく想像しなかったことになる。

 白石以後から現在までの多数の学者たちは『魏志』倭人伝に〔様々な多数の文献批判〕を加えて邪馬台国の所在地について立論する。しかし、いっこうに【科学】が成立しないために、邪馬台国論争は未だに決着がつかない。ところが、『魏志』倭人伝の「わが国には、夏音文字の学芸があった」と伝える記事を注目すると、『魏志』倭人伝には一ヵ所も〔文献批判〕を加える必要がない事実に気がつく。この『魏志』倭人伝の全記事が事実を伝えている秘密は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話にある倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の秘密にもとづく「許々袁々呂々」「淤能碁呂」「美斗能麻具波比」「阿那邇夜志愛袁登古袁」「久美度邇」の5カ所の夏音文字の語を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、1点も不合理が生じずに【科学】が成立して――白石以後の邪馬台国論争は千年経っても数万年経ってもいっこうに決着がつかない誤読の空論同志の争いであった――ことが明らかとなる。
 『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の両書は〔夏音文字の学芸〕によって一体となって繋(つな)がる。このため、3世紀における卑弥呼と伊耶那美命の歴史は、〔実在した夏音文字の学芸〕によって一挙に鮮烈に蘇る仕組みになっている。
 だから『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の「序」(「古事記上巻 序幷」)を読んで「夏音文字は存在しなかった」と文献批判・誤読した学者たちの意見は、間違いなく空理空論・妄想(もうそう)であったのである。

 この6番目の観点を説明する冒頭に掲載した〔古代史学における絶対原理〕の文を再度下に記載する。
 古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ多数の後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが〔文献批判〕を加えて否定した意見は〔誤読の空論〕であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 わが国には、夏音文字の学芸が存在したと証明できる遺跡が(1)大湯環状列石、(2)高尾山古墳、(3)卑弥呼の地上絵、(4)彦根の大鳥の地上絵、(5)桂離宮の庭園、(6)修学院離宮の上御茶屋の浴竜池など、幾つか存在する。また、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を証明できる遺物は〔1〕高尾山古墳の後方墳主体部から出土した上方作系浮彫式獣帯鏡、〔2〕後水尾上皇が作った「窮邃」の扁額、〔3〕大嘗会における天皇即位式で用いられる王冠「菅蓋」などが存在する。
 前述したとおり、多くの学者たちは〔文献批判〕を用いてホメロスの英雄叙事詩『イリアス』は「歴史を語るものではない」と断定したが、シュリーマンのトロイの遺跡発見によって歴史となった。このように古代史学には絶対原理が存在するゆえ、上記した現存する夏音文字の学芸を伝える遺跡と遺物と、そして夏音文字の学芸を知得した歴史上の人物たちと、また文字作成銀河各部の形状によって、「夏音文字の学芸は存在しなかった」とする学者たちの〔文献批判〕は〔誤読〕であったことになる。
 学者たちは「夏音文字の学芸は存在しなかった」とする〔誤読の空論・漢字習得の定説〕を巧(たく)みにあやつって、すべての日本人が知る権利がある日本誕生史と日本人の命と魂の根源(みなもと)である【日本建国の〔愛〕の理念】を荒唐無稽(こうとうむけい)の出鱈目(でたらめ)な世界の片隅の牢屋(ろうや)に押し込んで――そう、日本人のあなたを小馬鹿にしてまんまと騙(だま)す。
 しかし、「夏音文字の学芸は実在した」という【科学】は〔古代史学における絶対原理〕によって成立するゆえ――学者たちが主張する漢字習得の定説はじめ、新井白石以後の学者たちの邪馬台国説と、本居宣長著『古事記伝』を教科書とする学者たちの日本神話説は【明確なる誤読の空論】であり【真っ赤なウソ】であることは何人にも否定できない事実となる。
 『古事記』上巻の「序」は首尾一貫して「『古事記』上巻に記述された歴史は〔音〕という注を付けた夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すれば解明できる」と指摘する。この指摘を無視・排除して〔誤読」をあやつる学者たちの意見が正しいなんてことは絶対にありえないことなのである。学者たちの意見は「即妄想」と軽蔑すべき出来事なのである。
 要するに、学者たちが〔誤読〕という方法を用いて存在しないと断定した夏音文字の学芸が明確に存在するという事実によって、日本人の命の魂の根源【日本建国の〔愛」の理念】を伝える歴史は鮮烈に蘇る。したがって、学者たちの意見はまったくのウソ八百・詐偽・ペテンであったことが明白なる事実となる。
 だから、われわれは騙されてはならない。われわれは、学者たちの【科学】が成立しない誤読の空論をさっさと廃棄処分して真実の日本国誕生史を手に入れる権利を有する。

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2018年2月17日 (土)

真実の日本国誕生史・39

 ●要約と結論・5
■現在の日本古代史学者たちの【科学】に反する三大不正行為・1

現在の学者たちの(1)漢字の習得説はじめ、(2)新井白石から始まる邪馬台国学説と(3)本居宣長が著した注釈書『古事記伝』を教科書とする日本神話学説は【科学】に反する誤読の空論である。
 この三つの学説が【科学】に反する空論であることが容易に理解できる6つの観点(根拠・理由、証拠となる遺跡・遺物)を取り上げて、(1)(5)までの観点を今回「真実の日本国誕生史・39」に、残った(6)の観点を次回「真実の日本国誕生史・40」に分けて解説することにした。


学者たちは「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する。この意見を、以後、「定説」と表記する。

◆1.わが国の夏音(かおん)文字の字音は中国の最古の漢字音より古い、現存する最古の漢字音である

★A 漢字習得の定説は音韻学によるわが国の漢字音の研究に矛盾して【科学】が成立しない空論となる
 わが国の漢字研究の第一人者とされる故・白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統』(平凡社発行)9頁から10頁にかけては「わが国の漢字音」と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文は「いま中国に残っている最古の漢字音よりも、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載されて残った夏音文字の漢字音のほうが古い」と指摘していることになる。
 いま残っている中国の最古の漢字音は紀元前1046年から始まる周代初頭~後漢後期までの〔上古音〕である。わがブログ1回から前回までの38回までの「真実の日本国誕生史」シリーズにて証明したように、わが国には中国の最古の漢字音の〔上古音〕よりも約1000年も古い紀元前2070~紀元前2050年ころの夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に習得された〔夏音文字の漢字音〕が『古事記』上巻や『魏志』倭人伝そして『万葉集』に多数残っている。
 したがって、学者たちが主張する定説の漢字音は、中国の上古音よりも約1500年から約1600年も新しい。ゆえに、学者たちが絶対視する定説は、音韻学の研究意見に反して【科学】が成立しない。

★B 定説は『魏志』倭人伝の「わが国には夏音文字があった」と伝える二つの記事に矛盾して【科学】が成立しない
 3世紀後半に成立した『魏志』倭人伝には「2世紀末~3世紀半ばのわが国には漢字があった」と証言する記事が2ヵ所ある。
 その最初の記事を要約すると「倭の卜占(うらない)に用いられる辞(文字とことば)は、〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字の法(原理)のごとし」という証言となる。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の小国伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と証言する。
 したがって、わが国には5世紀より以前の2世紀末~3世紀半ばにおいて既(すで)に漢字が使用され、この文字は紀元前1300年頃に出現した甲骨文字のごとくであったことになる。
 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館発行)は「卑弥呼の発音について」と題する注で「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば〔ピミカ〕になる」と指摘する。
 「卑弥呼」を〔ヒミコ〕と読むと、中国の上古音よりも古い夏音文字の字音読みとなる。
 魏の都と朝鮮半島(帯方郡・諸韓国)で用いられた楷書と卑弥呼が文書に用いた夏音文字も共に、下に示す文字作成銀河各部の形状から作られた漢字であった。これゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を辞理(ことばと文字の原理)にして自国・倭国の夏音文字と外国(魏と諸韓国)の楷書を正しく変換することができたのである。

Ginga
▲文字作成銀河の写真

 このブログ「真実の日本国誕生史」が解説し証明したように、夏音文字の字源・字形・字義は上に示す文字作成銀河各部の形状であった。だから、夏音文字は実際に目撃出来て実在する文字であった。また、夏音文字を表記する楷書と同じく、夏音文字は字源・字形・字義・字音の4要素が成立するゆえ「文字」と定義すべきことになる。さらに、夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名となって実在する。
 だから、夏音文字は実際に存在すると目で見て確認できるゆえ、学者たちが絶対視する定説は『魏志』倭人伝の記事を誤読する【科学】が成立しない空理空論であったことになる。

◆2. 漢字の始祖の倉頡伝説を学者たちは「荒唐無稽(こうとうむけい)な話で、事実ではない」と否定するが、倉頡伝説は文字作成銀河によって事実を伝えていたと証明できる

 漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭・黄帝の時代に起源した。黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする方法を発明した。
 漢字の起源について、倉頡伝説は――黄帝の時代に生存した“四つ目の怪人・倉頡”が〔鳥獣の足跡〕と名づけられた漢字作成方法を発明して始めて文字を作り、古来(紀元前4000年頃から始まる
三皇時代)の占いに用いた記号であった結縄(けつじょう)と代えた。(結縄では古来の三人の大王の氏族名をあらわすことができなかったので、倉頡が発明した文字によって三人の大王の名は包犧(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)と定められた)。ゆえに、包犧、女媧、神農の各氏族たちの死霊は祝福して穀物を降らせ(つまり、雨を降らせて豊かな穀物を与え)、その死霊は感激して夜な夜な泣く声が空に聞こえるようになった(つまり、夜な夜な輝く文字作成銀河各部の形状が示す文字によって、三皇時代の歴史を知ることができた)――と伝える。
 上記した倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」という倉頡の別称に対し、学者たちはこぞって「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)な話であることは至極(しごく)当然である」と否定する。しかし、「四つ目の怪人」は上に掲載した「文字作成銀河の範囲」を表現するものであった。だから、学者たちがこぞって否定する「四つ目の怪人」という語は歴史上における重大な事実を伝えていたことになる。

 倉頡が定めた掟(おきて)のために、文字作成銀河各部には名称が存在しない。この伝統は現在まで受け継がれて、文字作成銀河各部の名称は無い。倉頡伝説における「四つ目の怪人」という別称は「文字作成銀河の範囲」を表現して事実を伝えている秘密を解明するには、文字作成銀河各部の名称が必要であるゆえ、わたくしは下のごとく名称を定めた。

Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 文字作成銀河各部の名称図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけたA図に示す銀河部がある。
S961
(C) 2018 OHKAWA

 倉頡が生存した紀元前3000年ころの五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代、「十字の銀河」は中国全土各地の天頂にめぐってきた。
 A図に示したように、「十字の銀河」の西側には〔乳房〕と〔妊婦のような腹部(おなか)〕と〔子宮に相当する銀河部〕がある。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を〔文字作成銀河各部から作られたすべての文字を生む母体〕と定めた。
 だから、B図に示すように「文字」の[]の金文形(周代に用いられた漢字の字形)は「十字の銀河」を「胎児が子宮に宿る、おなかが円い妊婦の正面形」とする図案となった。
S962
(C) 2018 OHKAWA 

 C図に示すように、「十字の銀河」は[(べん)]の字源・字形・字義となり、子どもの姿に相似する「鬼の姿に似る銀河」が[]の字源・字形・字義となって――[]の下に[]が加わって[]の字源・字形・字義となった。
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(C) 2018 OHKAWA

 A図やB図に示した「十字の銀河」は〔顔を天に向けて仰ぎながら西から東へ歩く人の姿、あるいは顔をやや下に俯(うつむ)いて東から西へ歩く女性の姿〕に相似する。
 D図の左図に示すように、五帝時代においては、遠くの地へ旅して家族が待つ家に帰るために人々は道すがらの精確な位置を示す天頂緯度を示す目印(めじるし)となる銀河部を天頂にめぐって来る様子を見ながら、あるいは時々D図の右図のごとく自分の位置(緯度)を確認するために立ち止まって妊婦のごとくおなかを前へ突き出し天頂緯度を測定した。ゆえに、五帝時代、夏音文字が出現した夏代、また契文(けいぶん/甲骨文字)が用いられた殷代(いんだい)・金文が用いられた周代(しゅうだい)の上古、遠くの地へ行()き来()する人々の姿は「十字の銀河の形状」に相似した。(なお、C図の[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「遠くの目的地に行くときの路、あるいは家族が待つ家に帰る路」に見立てられた)
S964
(C) 2018 OHKAWA

 E図に示す[]の字源となった「天頂緯度線」をキャッチすると、旅人は1度の60分の11分の精度で自分が居る場所の緯度が精確(せいかく)に測定できた。
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(C) 2018 OHKAWA 

 したがって、「天頂緯度測定も目印となる、印象深い銀河部」は「旅人の生死を決定する神」となった。このため「神」の偏(へん)[][]の原字となり、字義はもちろん「神」となった。その証拠に、F図の左側に配した[]の契文形(甲骨文字の字形)は、右側に配した「天頂緯度線と天頂緯度線に直角に交わる天頂緯度を測定する人の視線」で形成された。
S966
(C) 2018 OHKAWA

 G図に示すように、倉頡が生存した紀元前3000年ころの五帝時代初頭の黄帝時代、陝西省(せんせいしょう)黄陵(こうりょう)県に所在する黄帝陵(黄帝を祭る廟と黄帝の墓がある地)や中国南部の太湖(たいこ)など、中国の各地の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
S971
(C) 2018 OHKAWA

 H図に示すように、黄帝時代、黄帝陵の天頂緯度線は「鬼の姿の似る銀河の後頭部に付く目の銀河部位の中央」を貫通し、太古南岸の天頂緯度線「鬼の姿に似る銀河のアゴに付く目の銀河部位の南端」を貫通した。したがって、「鬼の姿に似る銀河の後頭部とアゴに付く目の形をした銀河部位」は「天頂緯度線をキャッチする両目」に見立てられた。
S972
(C) 2018 OHKAWA

 ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河の両目」は「歩く旅人の両目(天頂緯度線の目印となる銀河部が天頂にめぐって来るのを待ちながら旅路を歩く人の両目)」に見立てられた。
 したがって、倉頡が生存した五帝時代初頭、H図の「歩く旅人の両目」と「天頂緯度線をキャッチする両目」に見立てられた目の数は計「四つ」であるゆえ、「「四つ目」となった。
 I図に示すように、「十字の銀河」も「鬼の姿に似る銀河」も「人の姿」に相似する。
S973
(C) 2018 OHKAWA 

 J図に示すように、上に掲載した「文字作成銀河各部の名称図」における「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河から夏の銀河の西南部の形状」もまた「人の姿(東に振り向く妊婦の姿)
に相似する。
S974

(C) 2018 OHKAWA

 I図の「十字の銀河」からJ図の「夏の銀河の西南部」は「文字作成銀河の範囲」をあらわす。だから「四つ目の怪人」という語は「文字作成銀河の範囲」をあらわした。
 後漢時代の墓の内部から発見された石の画像に刻みつけられた倉頡の肖像画はじめそれ以後の倉頡の肖像画作品には、K図に示すように「四つの目」が描かれていた。
S975
 
 K図に示すように、古代の倉頡の肖像画の「四つ目」はH図に示した「天頂緯度線をキャッチする目」と「歩く旅人の目」を絵画的に処理して表現するものであったゆえ、「倉頡が定めた文字作成銀河の範囲」を表現するものであったことになる。
 したがって、学者たちが「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」と主張する意見こそがむしろ「荒唐無稽の空理空論」であったのである。

 
 (1)「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ、「漢字」は「銀漢すなわち文字作成銀河から作られた文字」の略称であった。また(2)中国においてもわが国においても文字作成銀河各部の名称が存在しない。さらに(3)倉頡が発明した五帝時代初頭から夏代の夏音文字と殷代前半期の漢字が記された史料が、中国とわが国において1点も発見されていない。
 それというのも、倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配したからである。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物には神罰(しんばつ)が下って即刻死刑にすると定めたことになる。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 上記の(3)の掟は『魏志』倭人伝に記載された「令亀(れいき)の法」つまり「甲骨文字」によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって〔文字が文字作成銀河から作られた事実〕は現在においても不明となり、また(2)の掟を受け継ぐ伝統によって〔文字作成銀河各部の名称〕は学問上確立されていない。
 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の起源漢字、紀元前2070年頃から始まる夏代夏音文字、紀元前1600年~紀元前1300年頃までの殷代前半期の漢字。これらの原初漢字は倉頡が定めた(3)の掟を厳重に守ったため、文字を記した史料が中国でもわが国でもいまだ1点も発見されない。ゆえに、新井白石(16571725)以後から現在までの学者たちは、上記した『魏志』倭人伝の重大な記事を排除して「わが国には2世紀末から3世紀半ばには、漢字は存在しなかった」と断定した。
 五帝時代初頭に生存した黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内経』の[]の字源・字形・字義は「女性の生殖器・子宮に宿る胎児の成長や出産器官の産道」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、三皇時代の結縄では黄帝の研究をあらわすことができなかったので、倉頡は「文字作成銀河の範囲」を定め、また「鳥獣の足跡」と名づけられた漢字作成原理を発明した。
 倉頡は――B図に示したように女体に相似する「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られる(生まれる)すべての文字の母体」に見立てると定め、「十字の銀河の子宮」から「すべての文字は生まれる」と定めた。そして、C図に示した「鬼の姿に似る銀河」を「産道を通過して誕生する子ども」と見立てると定めた――この定理が、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」である。ゆえに、倉頡から以後、「四つ目の怪人」と伝えられた「文字作成銀河の範囲の各部の形状」から、漢字作成原理「鳥獣の足跡」にもとづいて多数の漢字が創(つく)られることになった。
 以上のごとく、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」を「荒唐無稽の空想である」と主張する定説は事実に反する【科学】が成立しない空理空論であったのである。

◆3. 朝廷による『日本書紀』の講書は『古事記』上巻に記述された歴史を歪曲(わいきょく)・隠蔽(いんぺい)して後世に歴史を伝えないための学習会であった

 『古事記』が成立した8年後の720年、『日本書紀』30巻系図1巻が奏上(そうじょう)された。
 『日本書紀』は『古事記』が正史(せいし)になれずに焚書(ふんしょ)されて献呈(けんてい)を失敗したことに懲()りて、天皇から献呈許可を得ることを優先して編纂された。このため、夏音文字の記載は天武天皇の「稍(やや)夏音を習う」の命令とおりに極端に少なくし、天照大御神への批判や事実を率直(そっちょく)に伝える記事を削減(さくげん)し、抽象的な表現やアイマイな記述で遠回しに事実を伝えようとする表現方法が多用されることになった。だからこそ、『日本書紀』は献呈が許可されて正史となった。
 書名に「日本」と示したように『日本書紀』の作成目的は真実の日本国誕生史を後世に伝えることであったが――献呈が許可されて正史にしようとした意図が徒(あだ)になって『日本書紀』は、真実の日本国誕生史が後世に伝わらない失敗作品となった。
 この『日本書紀』の失敗は朝廷にとって好都合となった。
 朝廷は『日本書紀』が献呈された直後から「講書 (こうしょ/天皇や皇族に学者が書物の内容を講義する学習会)」を頻繁(ひんぱん)におこなって、『日本書紀』を最も信頼できる書物になるように権威づけることにした。この講書は『古事記』上巻の記事に隠蔽(いんぺい)、捏造(ねつぞう)、歪曲(わいきょく)の補注を加えて歴史を抹殺(まっさつ)するための学習会であったのである。このような『古事記』上巻の事実を伝える記事に逐一(ちくいち)誤っているとする批判や偽りを加える講書は、村上天皇の康保(こうほ)年間(964967)ごろまでおこなわれた。
 約250年間続けられた『日本書紀』の講書によって、『古事記』上巻に記載された夏音文字の学芸は存在しなかったことになり、上古の歴史は隠蔽(いんぺい)され、『古事記』上巻の日本神話は朝廷と国家の権力を尊重するために存在する物語と化した。したがって『古事記』上巻の日本神話に記述された伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を国民が生活の中心にして尊重した、この国民的生活を語る上古史は夏音文字の学芸とともに存在しないことになった。
 『古事記』上巻に記述された歴史を隠蔽する方法を研究する『日本書紀』の講書は、最も権威ある「学問」となり、9世紀の天台宗や真言宗などの宗派の成立とかかわった。
 この結果、日本の歴史学といえば『日本書紀』の講書の研究意見が基本となった。
 しかしながら「歴史が解明できる、ほんとうの学問」は「文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする夏音文字の学芸」であった。白川静著『字統』は[]の字源を「卜文(ぼくぶん/契文・甲骨文字)にみえるメンズハウス(学校)の建物は千木(ちぎ)形式で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」と指摘する。このように「わが国の千木形式の神社建築」は[]の字源・字形を伝えるものであった。だから、わが国における「ほんとうの学問」は「朝廷の政権基盤であったことを厳重な秘密にした夏音文字の学芸」であった。ゆえに、朝廷の『古事記』上巻に記述された歴史隠蔽事業に協力した天台宗と真言宗は秘密の夏音文字の学芸を研究したため「秘密仏教」略して「密教」と呼ばれるようになった。

◆4.本居宣長著『古事記伝』の注釈は『古事記』上巻の「序」に記述された歴史解明方法を無視する空想・物語である

 日本の歴史学といえば、『日本書紀』の講書による研究意見となった。
 このため、講書の影響を受ける解釈が中世から近世へと受け継がれ、いわゆる国学がおこって近世の国学者のあいだで次第に『古事記』への関心が高まった。この頂点に立ったのが本居宣長(もとおりのりなが/17301801)である。30余年間『古事記』を中心にして研究して、宣長が著作した注釈書『古事記伝』44巻は、現在の学者たちの教科書となる。宣長は上古の英雄たちの不思議な行動について、神の不思議な行動のままに解釈するべきだと主張した。ゆえに、「高天原(たかまのはら)」は「天上の国」、「天照大御神」は「太陽の女神」と考え、それ以上の解釈は無用とした。このような解釈にもとづき、宣長は古代人がどのようなものの考え方をしていたかを追及(ついきゅう)した。
 しかし、『古事記』上巻の「序」が説明するとおりに夏音文字を中心にして時には楷書の字源をも銀河各部の形状に変換すれば、「高天原」は「天上の国」ではなく、「“天照大御神“という渾名(あだな)で呼ばれた女王とその息子の大王が居住した奈良県の地」であったことになる。
 本居宣長が「古事記上巻 幷(あわ)せて序」という『古事記』上巻の「序」のきわめて特殊な表記に何か重大な秘密が隠されているのではないかと直感し、また「序」に続く冒頭の文を何度も何度も繰り返して読んで秘密の解明に挑戦すれば、天才宣長ならば銀河きらめく壮麗な銀河を仰ぎ見て「漢字」は「銀漢から作られた文字」の略称だから「漢字」と呼ばれた事実に気づいたにちがいない。この事実に宣長は気づかなかったため、現在の学者たちが教科書にする宣長が著した『古事記伝』の解釈は歴史とは無関係の物語・空想となった。
 というのも、『古事記伝』の注釈は『古事記』上巻の「序」が「上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実(まこと)の歴史が蘇(よみがえ)る」と説明する歴史解明方法を無視する〔誤読の空論〕であるからである。


◆5.津田左右吉教授の日本神話虚構説は〔誤読の空論〕であった
 

 戦後、「日本神話は歴史を説明するものではない」と断定されることになった。この意見・論考の出発点は、1961年に88歳の生涯を終えた早稲田大学教授・津田左右吉(つだそうきち)氏が主張した日本神話虚構説であった。
 津田左右吉著『神代史の研究』(岩波書店刊行・1933310日 第4刷発行の525)は、下記のごとく主張する。
 「すべてが皇室と其の權力とについてのみ語られてゐる證據である。さまざまの神の物語はあるが、さうして其の物語の主人公たる神々は一種の英雄と目すべきものであらうが、それに国民的生活が反映せられてゐるやうな形跡は見えず、国民的活動の面影などは、勿論、認められぬ。全民族の欲求なり理想なりによって動いてゐると思はれる神は少しも無い。いひかへると、神代上の神々は民族的もしくは國民的英雄では無いのである。」
 『古事記』上巻は、(1)伊耶那美命、(2)伊耶那岐命、(3)天照大御神、(4)須佐之男命(すさのおのみこと)(5)大国主神(おおくにぬしのかみ)(6)天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)(7)山幸彦(やまさちひこ)の火遠理命(ほおりのみこと)(8)海幸彦(うみさちひこ)の火照命(ほでりのみこと)などが登場する説話で構成される。この神々のうち、伊耶那美命、伊耶那岐命、須佐之男命、大国主命、山幸彦の火照命の5人は国民に慕われた英雄であると説明する。天照大御神、天孫の邇邇芸命、海幸彦の火遠理命の3人だけが国家権力を誇示する英雄である。
 だから、津田教授の「神代上の神々は民族的もしくは国民的英雄では無いのである」という意見は見当違いもはなはだしい空論であった。 
 そして、上巻初頭部の伊耶那岐命と伊耶那美命神話から上巻末部の火遠理命と火照命説話までは伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が貫いて語られている。その証拠に、上巻の9割以上を占める伊耶那岐命と伊耶那美命神話から火遠理命と火照命説話までの記事は――【日本建国の〔愛〕の理念】は伊耶那美命の死後に伊耶那岐命が受け継ぎ、次に伊耶那美命と伊耶那岐命の間に生まれた息子須佐之男命が受け継ぎ、その後を山陰出雲王朝の大国主神が受け継ぎ、さらに海幸彦の火照命が受け継いだ。そして【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する国民を弾圧(だんあつ)して苦しめた天照大御神が基礎を築いた大和王朝は大国主神王朝を討伐した。その後、天孫の邇邇芸命軍を九州に遠征させて、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する宗像(むなかた)王権をも討伐した。しかし火遠理命の代になって、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する弟の火照命王朝が栄えたために、大和王朝は衰退した。伊耶那美命を敬愛する国民は、天照大御神王朝に抵抗して【日本建国の〔愛〕の理念】を大事にする政事(まつりごと)を欲求し、【日本建国の〔愛〕の理念】を生活の中心にして尊重していた――と伝えている。
 だから、津田教授の「神々は一種の英雄と目すべきものであらうが、それに国民的生活が反映せられてゐるやうな形跡は見えず、国民的活動の面影などは、勿論、認められぬ。全民族の欲求なり理想なりによって動いてゐると思はれる神は少しも無い」という意見はまさに空論であり、トンチンカンもはなはだしい誤読の産物ということになる。
 戦後の「日本神話は歴史を語るものではない」と主張する日本神話虚構説は〔読解力ゼロの津田教授の空論、空想〕から始まった。だから、当然、津田教授の日本神話虚構説を受け継ぐ学者たちの意見は〔誤読〕を駆使(くし)して捏造(ねつぞう)した空理空論であったことになる。

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2018年2月 9日 (金)

真実の日本国誕生史・38

 ●要約と結論・4
■伊耶那岐命の熊野のクーデター

◆現存する最古の『古事記』の写本は、1372(応安5)に愛知県真福寺の僧侶によって書写された、下に示す国宝の「真福寺本(しんぷくじほん)」である。
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 ▲国宝・真福寺本『古事記』愛知・真福寺宝生院蔵

 上に示すように『古事記』の「序」は「古事記上巻」の下に、半分大の小さな字で「序幷」と記される。この「序」は「古事記上巻幷(あわ)せて序」と読まれる。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・35」で解説したように、『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、『古事記』の「序」は中巻と下巻の「序」ではなく、〔音〕という注が付く夏音(かおん)文字が多数記載される上巻だけの「序」である。ゆえに、「古事記上巻」の下に、中巻・下巻の「序」でないことを示して小さく「序幷」と記されたのである。
 また、「古事記上巻 序幷」という表記は――『古事記』上巻は朝廷の欲求(よっきゅう)を無視して、朝廷が最も崇拝する先祖の皇祖(こうそ)天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す歴史を記述した反逆の歴史書――であると示すものであった。
 
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話は――朝廷が絶対に後世に伝えてはならぬと厳重に禁じる【日本建国の〔愛〕の理念】すなわち伊耶那美命が小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた歴史を記述した。
 
 また、伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話には、今回の「真実の日本国誕生史・38」の後半で解説するとおり、朝廷が最も崇拝する先祖の皇祖(こうそ)天照大御神の聖性をいちじるしく汚す歴史が記述された。
 
 このように、『古事記』上巻は朝廷に歯向かう反逆の歴史書であった。
 朝廷は〔愛〕を掲(かか)げて誕生した日本国誕生史を後世に絶対に伝えてはならぬと禁じ、また「日本国は天照大御神母子によって誕生した」と伝える偽書の作成を欲求(よっきゅう)した。しかし、『古事記』編纂スタッフは朝廷の命令に逆(さか)らって真実の日本国誕生史をこっそりと後世に伝えることにした。この禁断(きんだん)の日本国誕生史は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて記載される多数の夏音(かおん)文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換する方法で伝えられた。

◆夏音文字は銀河各部の形状を字源・字形・字義とする原初漢字であり、“字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は〔銀河各部の形状を見て漢字の字源・字形・字義を解説する字書〕であり、『古事記』が成立した712年当時に使われていた楷書も夏音文字と同じく銀河各部の形状を字源・字形・字義とした。
 わが国には紀元前2070年~紀元前2050年頃、中国の夏代(かだい)初頭にしてわが国の後期縄文時代初頭、原初漢字の夏音文字が習得されていた。
 この夏音文字の習得について、わがブログ「真実の日本国誕生史・36」で証明・解説したように――『古事記』上巻の「序」の冒頭は「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元 既(すで)に凝()りて、気象、未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)に作()す」と説明した。
 上の記事末部の「参神造化の首に作す」という文が「中国の夏代初頭にしてわが国の後期縄文時代初頭の約4000年前、前期縄文時代から約2000年の土器・土偶を作った芸術の参神の伝統を受け継ぐ芸術家たちによって夏音文字の学芸が習得された」と表現するものであった。というのも、夏音文字の字源・字形・字義となった文字作成銀河とわが国の縄文時代の土器・土偶のモデルとなった芸術の参神は同一の銀河であったからである。したがって、縄文の芸術家たちによって、夏音文字の学芸は習得された。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・37」で詳細に解説し証明したように、『古事記』上巻の「序」の末部は――楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義である――と記述する記事は「楷書と夏音文字の語に用いられる文字の字源・字形・字義は、結局(けっきょく)、同一銀河の形状となるゆえ同義となる」と説明するものであった。
 皇祖の天照大御神母子は夏音文字の学芸を権力基盤にして強大な権力を手中にする大和朝廷の基礎を築いた。このため、朝廷は夏音文字を稍々(やや/少しだけ)記載して天照大御神が上古における最も偉大な先祖であり、天照大御神によって日本国が誕生したと記述する偽書の作成を編纂スタッフに欲求した。編纂スタッフは「稍(やや)夏音を習う(復興する)」と欲求する朝廷の命令からヒントを得て、真実の日本国誕生史を後世に伝えるために多数の夏音文字を習う(復興する)ことにした。つまり編纂スタッフは朝廷の欲求とおりに偽書を作成したと見せかける『古事記』上巻を作成し、〔音〕という注が付く多数の夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が蘇(よみがえ)る方法を考案した。
 だから、『古事記』上巻の「序」の役割は「(1)後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸が習得された。(2)夏音文字は楷書と同じく銀河各部の形状から作られ、また夏音文字は楷書と同じく字源・字形・字義・字音の4要素で構成される漢字(文字)であった。(3)朝廷の命令にしたがって『古事記』上巻には事実に反する虚偽を装(よそお)った記事を加えたが、随所(ずいしょ)に挿入(そうにゅう)した〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が解明できる」と説明することになった。このため、『古事記』上巻の「序」は「古事記上巻 序幷」と表記されることになったのである。
 なお、夏音文字の学芸は反体制側が習得し、革命に利用される可能性は十分あると朝廷は心配して、その学芸知識は朝廷と国家が独占管理して厳重に機密を保持するものであった。したがって、朝廷が命令するとおりに「稍(少々)の夏音の復興」ならば許されたが、『古事記』上巻のごとく多数の夏音文字の復興(記載)は朝廷に逆(さか)らう大罪であった。
 『古事記』上巻は(1)朝廷が絶対に後世に伝えてはならぬと命じる日本国誕生史の秘密を記述し、(2)多数の夏音文字を記載してはならぬという朝廷の命令に反する、二重の命令違反の反逆の歴史書であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられたのである。
 わが国で夏音文字の学芸が習得された約1000年前の紀元前3000年頃、五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が、下に示す銀河の範囲から漢字を作る方法を発明した。漢字が作られた銀河の範囲を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が習得して革命に利用したならば、王朝は容易に滅亡すると心配した。ゆえに倉頡は「文字の学芸=最強の威力を有する最高の支配者の神」と定めて、(1)文字作成銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露(ばくろ)した人物、(2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部の名称を付けた人物、(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない人物または消し忘れた人物。この3つの掟(おきて)を破った人物には、神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。
 だから、(3)の掟のために中国でもわが国でも夏音文字を書いた資料は1点も出土しないことになった。また、現在においても、(2)の掟のために文字作成銀河各部には名称が存在しない。また、新井白石(16571725)以後から現在までの学者たちは誰一人も、漢字は文字作成銀河から作られたから「漢字」と呼称された重大な事実に気づかない。
 『古事記』上巻に記述された真実の日本国誕生史を解明するためには、文字作成銀河の各部の名称がどうしても必要である。ゆえに、わたくしは下図のごとく各部の名称を定めた。

Photo_2
 ▲文字作成銀河各部の名称図


4 天武天皇の歴史書の録の企て
 
 『古事記』上巻冒頭の「序」の真ん中に〔天武天皇の歴史書の撰録(せんろく)の企て〕を説明する記事が配置される。この記事の末部は、舎人(とねり)の稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦習(しょうしゅう)について下記のごとく記述する。
 「目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」
 A図の上部に示した「十字の銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」の左上にある。
S951
(C) 2017 OHKAWA
 
 A図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河の横顔」には〔両目〕があり、「鬼の横顔に似る銀河の首(アゴと後頭部)」にも「両目(目の形に似る銀河)」がある。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河の横顔にある両目から鬼の横顔に似る銀河の首に付く両目までの様子」が「目に度れば(渡れば)」となる。
 「鬼の横顔に似る銀河の口・舌の様子」が「口に誦み」つまり「暗誦(あんしょう)した夏音文字の字音を声に出す」となる。
 A図には「耳に払るれば」の〔耳〕は「激流の銀河の岸辺」に位置するが、形として存在しない。A図の右側の[]の上部が[]の図案である。[]の契文形は「人の背後のほうに耳を傾ける様子」をあらわすゆえ、「耳に払るれば」は「人の背後のほうに耳を傾けて注意を払う、つまり注目する」と意味することになる。そして、A図に示すように、「鬼の姿に似る銀河の背後」には「心臓」や「心」に相当する箇所がある。
 []の字義は「なめしてやわらくにした獣の皮」であり、なめし革(かわ)を作るとき、川で獣の皮を何度も何度も洗う。A図の「激流の銀河」が「獣の皮を洗う川」となり、「長方形の暗黒天体部」が「獣の皮の洗い場」となる。ゆえに、「耳に払るれば」は「夏音文字の字源を暗記して口に誦むつまり小声で口遊(くちずさ)んで、節(ふし)やリズムを付けて歌う字音以外の雑音(汚れ)を洗い除去して耳に入らないようにする、つまり耳を澄ませる」と意味することになる。
 B図に示すように、[]の偏[]の字源銀河は「獣の皮の洗い場となる、長方形の暗黒天体部」である。そして、[]の旁(つくり)[]の字源は「左手の銀河」となって[]の金文の字形に合致する。

▼S95-2
S952
(C) 2017 OHKAWA 

 A図に示したように、「鬼の姿に似る横顔の、形として存在しない・見えない耳」は「獣の皮を洗う川の、激流の銀河の岸辺」に洗われ、[]の字源「長方形の暗黒天体部」に潜(もぐ)って見えない。この「激流の銀河の岸辺に潜って見えない耳」は、上記したように「耳に払るれば」つまり「鬼の姿に似る銀河の背後にある心に払()れる(触れる)、つまり暗誦した字音の詞は心に響く」となる。
 だから、「目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」とは「字源となる文字作成銀河各部のイメージが、心へと伝わるように、まず前の目の銀河部位から後ろの目の銀河部へと渡し、暗誦した字音(口に誦んだ字音)の詞に他の雑音が入らないように耳を澄ませて、心によく響くようにする」と意味するものであったことになる。
 流行歌手たちは多数の歌詞をおぼえている。多数の歴史年代を暗記するときには、「1192(イイクニ)作れ、鎌倉幕府」などと素朴な節(ふし)やリズムをつけておぼえる。歌にしておぼえると、記憶量が増大する。夏音文字は書いた文字が用済みになると必ず消さなければ神罰が必ず下って死刑となると厳重に定められた文字であったため、多数の字源解説は節やリズムのある歌詞のようにしておぼえなければならなかった。だかた、稗田阿礼の誦習(字源暗記)の文もおのずと素朴な節とリズムがつく歌詞となったことになる。

 ()『古事記』上巻の「序」(「古事記上巻 序幷」)は〔天武天皇の歴史書の撰録の企て〕について、難解な長い文を以て壬申の乱について語り、最後の文は――天皇は「帝紀を撰録し、旧辞(きゅうじ)を討覈 (とうかく/よく調べて正し)して、偽(いつわ)りを削(けず)り実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と仰せになられた――という文で終わる。この直後に、稗田阿礼が登場し、上記して解説した「目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」という文が続く。
 ()
中国の正史『新唐書』日本伝は〔天武天皇の歴史書の撰録の企て〕について――702年に中国に派遣された遣唐使は、中国王朝に「後稍(のちやや)夏音を習う」つまり「壬申(じんしん)の乱の後、稍々、夏音文字を復興することにした)」と伝えた――記す。
 そうすると、()天武天皇の「帝紀を撰録し、旧辞を討
覈して、偽を削り実を定めて後葉に流へむと欲ふ」という企ては、()遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えた「天照大御神を最高神と定める偽書を撰録せよ」と欲求するものであったことになる。
 というのも、天武天皇は天照大御神を崇拝(すうはい)し、絶大な権力を手に入れる政治体制をもって天下を治めたからである。天武天皇の政治体制を受け継いで推進した元明天皇は、真実の日本国誕生史を後葉(のちのよ)に流(つた)える『古事記』の献呈を拒絶して正史として認めなかった。そのわけは、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話には天照大御神が憎悪・蔑視(べっし)した【日本建国の〔愛〕の理念】が記述され、また伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王伊耶那美命の没後に倭女王となった天照大御神は、残虐な徇葬(じゅんそう)をおこない多数の青年男女を殺して、その死体を伊耶那美命の陵墓に埋葬(まいそう)した。これを怒った伊耶那岐命は反乱(クーデター)を決行して、天照大御神を倭女王から失脚(しっきゃく)させた――という事実を後世に伝えるものであったからである。その証拠に、「徇葬をおこなった黄泉国の女王」を「天照大御神」と表記すると即座に焚書(ふんしょ)・抹殺(まっさつ)されるゆえ、『古事記』は「徇葬をおこなった天照大御神」を「伊耶那美命」に「神」の字を加える偽名を作って「伊耶那美(いざなみのかみのみこと)」と表記している。
 だから、『古事記』上巻の「序」に記述された〔天武天皇の歴史書の撰録の企て〕の記事の字面(じづら)だけを解釈する意見は誤りとなり、『新唐書』日本伝にある「稍(やや)夏音を習う」という文にもとづき「稍々 (やや/少しだけ)、天照大御神の政治基盤であった夏音文字を復興して、伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を削(けず)り、天照大御神が残虐な徇葬を決行した歴史を削除(さくじょ)する偽書を作成せよと、天武天皇は欲求した」と解釈しなければならないことになる。
 したがって、『古事記』は天照大御神が徇葬をおこなわなかったと偽りを記述したと見せかける――実は真実の歴史を記述した反逆の歴史書であったことになる。

5 伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の天照大御神

 『古事記』序の冒頭の「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)に作()し、陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」の次に続く文は、「所以(このゆえ)に幽顕(ゆうけん)に出入(でいり)して」いう文である。この文は「これゆえ、伊耶那岐命は没した伊耶那美命を追って黄泉国(よみのくに)を訪(おとず)れ、この世に戻った」と意味する。
 上記したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話においては、黄泉国の女王の名は「伊耶那美(いざなみのかみのみこと)」と表記される。この「黄泉国の伊耶那美命」を「死んだ冥界(めいかい)の伊耶那美命」と学者たちは解釈するが、実は「天照大御神」であった。「黄泉国の女王」を「天照大御神」と表記すると、『古事記』は直(ただ)ちに焚書(ふんしょ)・抹殺(まっさつ)される。ゆえに、天武天皇が「稍夏音を習う」と命令したとおりの偽書を完成させたと元明天皇に呈示(ていじ)するために、『古事記』上巻の「序」では、伊耶那美命を最高神と讃える「二霊群品の祖と為る」という文の直後に、「所以(このゆえ)に幽顕に出入して」という文がつなげられた。この「所以に幽顕に出入して」という文は「伊耶那岐命の黄泉国訪問説話」をあらわすゆえ、「その耶那岐命の黄泉国訪問説話においては「天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記して偽書を作成したと見せかけることになったのである。
 夏音文字と楷書を文字作成銀河の形状に変換すれば――編纂スタッフが偽書を作成したと装(よそお)った『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話において、下記のごとく後世に事実を伝えていたことになる。
 「伊耶那岐命の第二后であった朝廷の至上神である天照大御神は、伊耶那岐命の正妃であった伊耶那美命没後に倭女王に即位し、多数の青年男女を殺して伊耶那美命の陵墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)=八雷神(やくさのいかづちがみ)
儀式をおこなった。伊耶那美命は倭女王となる以前に小国・日本の女王となり、国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた。この伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を天照大御神は憎悪し蔑視して徇葬をおこなった。愛する伊耶那美命を侮辱する天照大御神の徇葬を怒った伊耶那岐命は配下の日本兵を率いて伊耶那美命の陵墓から棺(ひつぎ)を略奪して、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本つまり現在の熊野速玉(はやたま)大社の境内において地元の熊野の勇士たちと日本兵たちを指揮して、天照大御神を守衛する倭の大軍=千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を撃破(げきは)してクーデターを成功させ、天照大御神を倭女王から失脚させた。伊耶那岐命は巨大な千引石(ちびきのいわ)=和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社のご神体の“ごとびき岩”の前で、捕虜となった天照大御神に離縁を言い渡した。その時、天照大御神は『伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの母親の産道を狭くして、一日に必ず千人ずつ生まれる子の頭を狭い産道で絞め殺す』と誓った。伊耶那岐命は『お前がそうするならば、吾は一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする』と述べて、【日本建国の〔愛〕の理念】を継承する政事(まつりごと)をおこなうと誓った。」
 伊耶那岐命が離縁を言い渡した千引石・神倉神社のご神体の“ごとびき岩”の前には、現在は神倉神社の社殿が造られており、神倉神社の主祭神は天照大御神である。また、神倉神社から約1㎞北には、天照大御神を守衛する倭の政府軍が大敗した熊野速玉大社が所在する。天照大御神を祭る神倉神社は熊野速玉大社の摂社(せっしゃ/速玉大社に付随し速玉大社に縁故の深い神を祭った神社)である。
 熊野速玉大社の主祭神は伊耶那岐命である。ゆえに、熊野速玉大社の摂社である神倉神社の主祭神は千引石(ちびきのいわ)つまり神倉神社のご神体のごとびき岩の前で離縁された天照大御神=伊耶那美命であったことになる。
 伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「伊耶那美命」の正体は「伊耶那岐命の第二后の天照大御神」であった。この秘密を現在に伝えて、熊野速玉大社には重要文化財の平安時代後期に作られた男神像の伊耶那岐命坐像、女神像の皇太神(すめのおおかみ)坐像、女神像の伊耶那美命坐像の三神坐像が所蔵される。
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▲平安時代後期の伊耶那岐命命坐像
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▲平安時代後期の伊耶那美命坐像
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▲平安時代後期の皇太神坐像

 上に示す「皇太神坐像」は、伊勢神宮の皇大(こうたい)神宮(内宮)に祭られる「天照大御神の坐像」であったのである。「熊野速玉大社が所蔵する伊耶那岐命坐像と皇太神坐像は夫婦として祭られていた、また皇太神は伊耶那美命であり皇太神と入れ替わった」と指摘する説がある。しかし、このような指摘は誤りで――『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「千引石(ちびきのいわ)=神倉神社のご神体のごとびき岩の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡された伊耶那美命」の正体は「天照大御神」であったと後世に伝えるものであったのである。

 「所以(このゆえ)に幽顕に出入して」の次の文は「日月目を洗ふに彰(あらは)()」である。この文はその字面(じづら)から学者たちや研究者たちに「禊(みそぎ)をして目を洗う時に日神(ひのかみ)と月神(つきのかみ)が現れた」と解釈されている。
 C図に示すように、[]の字源は「日神」をあらわす「三つ輪の銀河」、[]の字源は「三日月」の形に象られた[]の字源にもなった「北アメリカ星雲」、ゆえに「北アメリカ星雲」が「月神」をあらわした。
S953

 「目を洗う」は「月神=北アメリカ星雲」に隣接する「激流の銀河の水に洗われる、鬼の姿に似る銀河のアゴに付く細い目の銀河部」である。この「激流の銀河の水に洗われる細い目の銀河部」は――「日神(三つ輪の銀河)」を観、「月神(北アメリカ星雲)」を観る――と見立てると、「日月目を洗ふに彰れる」は「禊をして目を洗う時に日神と月神が現れた」となる。このように、銀河各部の形状を見なくても、学者や研究者たちが正しく解釈した文も存在するが――しかし、この「日月目を洗ふに彰れる」という文は、C図が示すように「漢字は銀河から作られた」とあらわすものであった。これゆえ、銀河を見なくても正しく解釈できたという理由にして「漢字」は「銀河から作られた文字ではなかった」という学者たちの反論は間違っている。

 山口佳紀・神野志隆光校注・訳者『新編日本古典文庫全集1 古事記』(小学館発行/1997年第1版第1)は「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という書き下すし文を「陰陽(めを)(ここ)に開けて、二はしらの霊群(まみもろもろ)の品(もの)の祖(おや)と為()れり」と書き下して、「陰と陽とが分かれて、二柱の神がすべてのものの生みの親となった」と訳する。このように元明天皇が読解したならば、編纂スタッフと安万侶は“してやったり!”とほくそ笑()み大喜びしたことになる。
 荻原浅男・鴻巣隼雄校注・訳者『日本古典文学全集1 古事記 上代歌謡』(小学館発行/1981年第10)は「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」と書き下して「陰と陽とがその時別になって、伊耶那岐・伊耶那美命の二神がすべてのものの生みの親となったのです」と訳す。このように「伊耶那美命はすべての生みのものの生みの親となる」と女帝(元明天皇)が解釈しないことを、編纂スタッフと「序」を書いた太安万侶(おおのやすまろ)は願った。というのも、編纂スタッフと安万侶は伊耶那岐命の黄泉国訪問説話にある「黄泉国の伊耶那美神命」という表記を、女帝が伊耶那美命を侮蔑するものであり偽りの歴史を記述するものと納得して献呈を許可することをひたすら願っていたからである。『古事記』は「天照大御神よりも伊耶那美命のほうが偉大である」と後世に伝える歴史書であった――この編纂スタッフの企みを女帝は察知して、『古事記』の献呈を拒絶して読むことを禁じる反逆の禁書(きんしょ」と定めた。

◆以上のごとく、「真実の日本国誕生史」の35回~38回まで解説して証明してきたように、『古事記』上巻の「序」の役目は「(1)後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸が習得された。(2)夏音文字は楷書と同じく銀河各部の形状から作られ、また夏音文字は楷書と同じく字源・字形・字義・字音で構成される漢字(文字)であった。(3)朝廷の命令にしたがって『古事記』上巻には事実に反する虚偽を装(よそお)った記事を加えたが、随所(ずいしょ)に挿入(そうにゅう)した〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が解明できる」と説明することであった。だから、『古事記』上巻の「序」は「古事記上巻」の下に小さな半分大の字で 序幷」と記されることになったのである。
 「古事記上巻 序幷」は「『古事記』上巻にある夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、真実の歴史が解明できる」と警告(けいこく)する。しかし、今日の学者たちは『古事記』上巻の「序」が警告する歴史解明方法を徹底的に無視・排除(はいじょ)して「『古事記』上巻は歴史ではなく物語である」と断定する。したがって、学者たちの『古事記』上巻の意見・論考は明らかに解明・思考方法がトンチンカンな〔誤読の空理空論〕であったことになる。
 つまり「夏音文字は実在した漢字であった」という、このシンプルな事実によって『古事記』上巻に記述された真実の上古史は鮮烈に蘇る仕組みになっている。また、このシンプルな事実によって『魏志』倭人伝は1ヵ所も〔誤読(文献批判)〕を加える必要が無いことになる。


 以上、現在の学者たちの〔誤読の空論」の漢字習得の定説によって、新井白石から始まる邪馬台国学説と本居宣長が著した注釈書『古事記伝』を教科書とする日本神話学説は完全なる誤読の空論となった。この実体が容易に理解できる6つの観点(伝由・根拠、証拠となる遺跡・遺物)を、次回から2回に分けて列記することにした。

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