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2018年4月

2018年4月30日 (月)

漢字習得定説のウソ・9

 ●『魏志』倭人伝の小国位置の証明・1
■対馬国から奴国までの小国名の字源の解説

このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~4回まで、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明して起源した事実を詳細に解説して証明した。黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産(しゅっさん)の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明することになった。
 「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。倉頡は、下の写真の銀河(銀漢)の範囲(はんい)の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 
 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神(きじん)信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)な空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と思い違い、さらに『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が「わが国は倉頡の漢字の発明を保存する夏音文字を習得した」と伝える記事を誤読して立論した虚偽説によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされることになった。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 しかし、わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代初頭=後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)の人名・小国名・官職名となって現存する。だから、これから『魏志』倭人伝に記述された小国名の秘密を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国は夏音文字を習得していた」と伝えている。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字はともに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理にもとづいて作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 だから2世紀末~3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝は、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、正しい歴史を解明することができる文献(ぶんけん)であった。
ということは、『魏志』倭人伝は「漢字は銀河から作られた事実を科学的に証明できる書物」であったことになる。

712(和銅5)正月28日、元明(げんめい)天皇に『古事記』が献呈(けんてい)されたが、天皇は『古事記』を正史(せいし)として認めなかった。というのも、『古事記』上巻には朝廷が最も崇拝する至上神(しじょうじん)の皇祖(こうそ)・天照大御神の聖性(せいせい)をいちじるしく汚す歴史が記述されていたからである。
 『古事記』が成立する10年前の702年、第7回遣唐使(けんとうし)が派遣(はけん)された。中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――遣唐使が中国の王朝に「後稍夏音(のちややかおん)を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。(中略)。日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」と語った――という記事がある。
 この記事は――天武(てんむ)天皇は、壬申(じんしん)の乱の後、「稍(やや/少しだけ)夏音文字を習って(復興して)、小国・日本が誕生した時に国作りの柱を〔愛〕にすると伊耶那美命(いざなみのみこと)がとなえた歴史と、この【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して倭女王伊耶那美命の没後に倭女王を受け継いだ天照大御神が多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)の歴史を削除(さくじょ)して、夏音文字を政権基盤にして強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた天照大御神を絶賛する偽書(ぎしょ)を作成せよ」と命令した――と伝えるものであった。
 したがって、上記した『新唐書』日本伝の「倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。(中略)。日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」という記事は――倭女王の天照大御神がおこなった残虐(ざんぎゃく)な徇葬を人民は憎悪して倭という国号を憎み、人民は伊耶那美命が小国・日本の女王となった時に国作りの柱を〔愛〕と定めた、この「日本」という名に国号を改めることを熱望した。小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと・後の第9代開化天皇)は愛する正妃(せいひ)の伊耶那美命が没すると、倭女王を受けついだ第二后(きさき)の天照大御神がおこなった徇葬を怒り、熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に徇葬者とともに埋められた伊耶那美命の亡骸(なきがら)をおさめる棺(ひつぎ)を奪うクーデターをおこし、逃げる伊耶那岐命・日本兵士たち一行を追跡した倭の大軍を熊野速玉大社の境内(けいだい)となった地に誘導(ゆうどう)する作戦をもって撃破(げきは)し、千引石(ちびきのいわ/速玉大社から約1km南にある現在の和歌山県新宮市の神倉神社のご神体の巨大なごとびき岩)の前で捕虜(ほりょ)となった天照大御神と離縁して天照大御神を倭女王から失脚(しっきゃく)させ、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ国政を行うと宣誓(せんせい)して、伊耶那岐命は小国・日本と倭を併合(へいごう)する大王となった――と伝えるものであった。
 上記した歴史は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問(よみのくにほうもん)説話に記述された。この説話において、残虐な徇葬をおこなって伊耶那岐命から離縁された倭女王の名を「天照大御神」と記載すると、『古事記』は朝廷の怒りにふれて正史になれない。これゆえ、編纂スタッフは天武天皇の「偽書を作成せよ」という命令にしたがったかごとく見せかけて、「伊耶那美命」という名に[]1字を加えて「天照大御神」の名を「伊耶那美神命」という偽名を記した。天照大御神(伊耶那美神命)が離縁された千引石の前には、現在、神倉(かんのくら)神社の社殿が建造され、神倉神社は天照大御神を祭って『古事記』に「伊耶那美神命」と記述された伊耶那岐命の妻は「天照大御神」であたった――と、真実の歴史を現在に伝える。

◆『古事記』の「序」の真ん中に〔天武天皇の歴史書(『古事記』)撰録(せんろく)の企(くわだ)て〕という記事がある。この記事は――天武天皇が「私が聞くところによると、諸家で受け継ぎ伝える帝紀(天皇家の系譜を中心とした記録)と旧辞(きゅうじ/夏音文字で記述された歴史書。『古事記』上巻の原典)は、すでに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。いまこの時において、その誤りを改めないならば、幾年もたたないうちに、その旨(むね)は滅びてしまうであろう。この帝紀と旧辞は、国家組織の基本であり、天皇政治の政権基盤である。ゆえに、帝紀を書物として著(あらわ)し、旧辞をよく調べて正し、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」と仰(おっしゃ)った――と伝える。
 天武天皇は強大な権力を最も重視する天照大御神の政策を受け継いだ。このため、天皇の権力は絶大となり、天皇自身は神格化されるようになった。ゆえに、天皇の「天皇家の系譜を中心とした楷書で書く帝紀を書物にし、夏音文字で記述する旧辞をよく調べて、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」という言は「皇祖の天照大御神は夏音文字の学芸を政権基盤として大和王朝の基礎をきづいた。この天照大御神の事績(じせき)を伝える旧辞の夏音文字の記事をすべて削除すると、朝廷の政権基盤である夏音文字の学芸が時とともに衰退する。この衰退をふせぐために夏音文字を稍々(やや/少しだけ)残すようにせよ。なれど、旧辞に夏音文字で記述された伊耶那美命と伊耶那美命の歴史はすべて削除(さくじょ)して、天照大御神を絶賛する歴史書を著作せよ」と命令したことになる。
 ゆえに702年に派遣された遣唐使は、天武天皇の歴史書作成の命令を「後稍夏音を習う」と短く省略して、中国王朝に告げたことになる。
 この天武天皇の「稍夏音を習う」という命令に反して『古事記』の上巻の随所には〔音〕という注が付く夏音文字が多数記載され、この夏音文字を銀河の形状に変換すれば天武天皇が抹殺(まっさつ)しようとした【日本建国の〔愛〕の理念】と日本国誕生史が蘇(よみがえ)る巧妙(こうみょう)な仕組みになっている。したがって、『古事記』上巻は天武天皇の「稍夏音を習う」という命令に逆(さか)らって真実を伝える歴史書であった。だから、元明天皇は『古事記』献呈を拒否(きょひ)したのである。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻 序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく夏音文字が随所(ずいしょ)に記載され、この夏音文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された。
 夏音文字の習得については、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
 『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作()す」という文までは「わが国に中国の夏代初頭・わが国の後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と説明するものであった。
 『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷は、皇祖の天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す日本国誕生史は後世に絶対に伝えてはならないと禁じた。このため、編纂(へんさん)スタッフは天武帝の『稍夏音を習う』という命令にヒントを得て一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字を多数記載して、夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば日本国誕生史が蘇る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が明らかとなる仕組みの歴史書である」と、後世に歴史解明方法を具体的(ぐたいてき)に伝えていたことになる。
 つまり、『古事記』上巻は『魏志』倭人伝と同じく「銀漢(文字作成銀河)から作られた字であるから、漢字と名づけられたという事実」を証明できる文献であったのである。

◆人類は原始の時から、A図右上に示す[(げん)]=天頂(てんちょう)緯度線と子午線をキャッチする能力を研(みが)くと〔1度の60分の11分の精度で緯度〕が測定(そくてい)できる眼力と本能が脳にそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は苛酷(かこく)な原始の時代に滅亡せず、獲物(えもの)を追って移住生活をつづけても「迷った」とパニック状態におちいることがなくしっかりと位置(位置と方位)は認識していると自覚して生活し、大海で迷って漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
K131

(C) 2018 OHKAWA

 だから、紀元前3000年頃、黄帝の遠征軍は原始以来の慣習となる[]をキャッチして黄河(こうが)中流地域からはるかに遠い揚子江(ようすこう)・太湖(たいこ)まで遠征しても故郷に帰還することができた。
 〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、上掲した文字作成銀河各部の名称図の左上にある「十字の銀河」が中国全土各地の天頂にめぐってきたことが明らかとなる。B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖南岸の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
K132
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のような円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる母体(ぼたい)」と定め、また「十字の銀河の子宮(しきゅう)」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。これゆえ、B図の銀河と緯度の状況と、C図で説明した「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた文字が生まれる母体」という定理が、倉頡が発明した漢字作成原理となった。
K23
(C) 2018 OHKAWA
 
 
D図に示すように、出産の娩出期(べんしゅつき)終了時において頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
K191
(C) 2018 OHKAWA
 
 E図に示すがごとく、倉頡はすべての漢字の母体となる「十字の銀河」に「頭が誕生する子(出産児)の顔の向き」をあてはめた。
K192
(C) 2018 OHKAWA
 
 すると、「十字の銀河の背側に顔を向ける子」は〔東〕を向くことになり、中国の〔東〕は〔大海〕であるゆえ、「子どもは大海原(おおうなばら)に生まれて、陸地(中国全土)には生まれない」という状態となるゆえ、このままだと黄帝の研究と自らが発明した漢字作成原理との間に不合理・矛盾(むじゅん)が生ずることに、倉頡は気づいた。
 そこで倉頡は黄帝が徳(とく)をもって治める政事(まつりごと)をイメージし、このイメージと自らの「十字の銀河」を「すべての漢字を生む母体」とする漢字作成原理、この両者における相互の合理を求めて、F図に示すように、[()]の字を作って「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度方位が転回する規定」を定め、また[]の字を作って「〔南〕が〔東〕となる逆時計回りに90度方位が転回する規定」を定めた。
K193
(C) 2018 OHKAWA
 
 G図の右下に[]の契文形(けいぶんけい)を示した。契文形は紀元前1300年頃・殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字の字形である。
 []は「いね()の形」をあらわす図案である。
K194
(C) 2018 OHKAWA
 
 倉頡はE図に示した「子の生育(せいいく)」と「いねの生育」を同一視し、G図に示すように「十字の銀河」に「いねの図案」を重ねて「いねの穂が〔南〕から〔西〕の鬼の姿に似る銀河の口部に垂れるイメージ」を表現する[]の字を作った。つまり、[]は「天が恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えるように、徳政(とくせい)すなわち恵み深い政事(まつりごと)をおこなう」と意味することになった。この「黄帝の徳政」について、司馬遷(しばせん)著『史記(しき)』五帝本紀(ごていほんぎ)は「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」と記述する。
 なお、F図に示した「時計の針の逆方向の90度の転回方位」をあらわす[]は「子の生育」と「いねの生育」を同一視した考えにもとづいて「地上に多数の子が生まれる」とあらわすことになった。
 G図の下部に示すように、倉頡が作った[]の下に後世の人が[]の字を加えて[()]の字を作った。というのも、「いねの図案」と重なる「十字の銀河」は、C図に示したように「女体」に観えるからである。「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏(にんべん)[]が加わる[()]の字も作られることになった。後世に作られた[][]は倉頡が作った原字(げんじ)[]の字源・字義を受け継いで、G図の上部に示したように「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕となる方位規定」をあらわした。
 だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕=〔東〕が〔南〕となる方位規定」をあらわす[]の字源をあらわすことになった。したがって卑弥呼王朝は、H図に示す転回日本列島地理を制定し、卑弥呼が統治(する)国名をG図の転回方位規定を示す[][]の字が加わる「倭人国」と定めた。
K195

(C) 2018 OHKAWA
 
 この「倭人」という国名は「豊かな禾(穀物)に恵まれ、女性たちが多数の子を生み、人々が[]をキャッチする能力を養(やしな)って寿命を伸ばして幸せに生活する」と意味した。

◆「文字」の[]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字の字形)は倉頡の漢字作成原理をあらわして、I図に示すがごとく「十字の銀河」を「子宮に宿る子と腹部が円く大きくなった母体」に見立てた図案である。
K211

(C) 2018 OHKAWA
 
 また、J図に示すように「十字の銀河」は「すべての文字」をあらわす[(べん)]となり、「十字の銀河」の西隣の「鬼の姿に似る銀河」が[]の字源・字形・字義となり、[][]が加わる[]の字が作られて、倉頡が発明した漢字作成原理をあらわす図案となった。
K212
(C) 2018 OHKAWA
 
 注目すべきは、J図の[]の字源解明図とG図に示した[]の字源解明図の「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河の状況」は同じということである。
 倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。
 K図に示すように、「女性の生殖器(せいしょくき)の側身形(そくしんけい)」は「鳥(水鳥)の姿」に相似する。
K213
(C) 2018 OHKAWA
 
 L図に示すように、第7週頃の胎児の両目は獣(けだもの)のフタコブラクダの両目のごとく顔の両端にある。ゆえに、フタコブラクダは倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の「獣」をあらわし、「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣(せいじゅう)となった。
K214

(C) 2018 OHKAWA
 
 I図に示したように、「足跡」が連想される「十字の銀河の右足」に「すべての文字が生まれる十字の銀河の子宮が重なる」ゆえ、漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。

[]の字源は「ウマ」ではなく、「フタコブラクダ」であった。ゆえに、『魏志』倭人伝には「その地には牛と馬は無し」という記事があり、「倭国には[]の字源のフタコブラクダは生息(せいそく)しない」と説明する。なお、[]の字源は「ジャコウウシ」であるゆえ、「その地には[]は無し」つまり「倭にはジャコウウシは生息しなかった」ことになる。
 H図の上部に、『魏志』倭人伝初頭に登場する「狗邪韓国(くやかんこく)」の所在地を示した。『魏志』倭人伝は「狗邪韓国から始めて一海(いっかい)の千余里を渡ると、対馬(つしま)国に至る」と記す。
 M図に示すように、「十字の銀河」の東隣の「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠(さばく)」を連想するということで、「十字の銀河」は[]の字源「フタコブラクダ」をあらわした。
K215

(C) 2018 OHKAWA

 N図に示す「長崎県の対馬の上島(かみしま)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は[]の字源「フタコブラクダのオス(の正面の姿)」に相似すると見立てられた。「対馬の下島(しもしま)の地宜」は[]の字源「フタコブラクダのメスの尻尾(しっぽ)側のコブ」に見立てられた。フタコブラクダのオスはメスの尻尾側のコブにまたがって性交する。ゆえに、「上島と下島」は[]つまり「オスとメスの一対」をあらわすことになった。
K216
(C) 2018 OHKAWA
 
 フタコブラクダは中国北部にひろがるゴビ砂漠に住む人々にとっては欠くことのできないたいせつな家畜である。フタコブラクダの足の指はじょうぶで沙漠を歩くにつごうよくできており、N図の「対馬の下島の地宜(地図の形)」は倉頡が発明した「鳥獣の足跡」の「足跡」に合致する「フタコブラクダの足底の形」に相似すると見立てられた。ゆえに、「下島の北端」は「フタコブラクダの踵(かかと)」に相当し、「下島の南端」は「フタコブラクダ「蹄(ひづめ)がある二本の指先(ゆびさき)」に相似すると定められた。
 これゆえ、『魏志』倭人伝は「対馬から南一海を渡って一大(いちだい)国に至る、その千余里の海の名は瀚海(かんかい)である」と記す。「瀚海」は「ゴビ砂漠」を意味する。ゆえに、「対馬の下島の地宜」は「フタコブラクダの足底」に見立てられたことになる。
 B図に示したように、黄帝時代、「十字の銀河」は「中国全土各地の天頂」にめぐってきたので、O図に示すように[]の字源となった。
K221
(C) 2018 OHKAWA
 
 2世紀初頭に成立した“字書の聖典(せいてん)”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は、[]の字源・字形を「至高(しこう)にして上なし。一大(いちだい)に従う」と解説する。A図の右上に示した――[]=天頂緯度線は至高、つまり最も高くてそれ以上の天体部が無いゆえ――B図に示した「十字の銀河」は倉頡が発明した漢字作成原理における「至高にして上なしの銀河部」となる。ゆえに「一大に従う」の「一大」は、P図に示す「十字の銀河の子宮」であった。
K222
(C) 2018 OHKAWA
 
 女性の子宮は胎児(たいじ)の成長とともに大きくなるゆえ、P図に示すように「十字の銀河の子宮」は[]の字源となり[]をあらわすことになって「一大に従う」と定義(ていぎ)された。P図の「一大に従う」をあらわす「十字の銀河」はG図に示した「禾()・いね」とJ図に示した[(べん)]の向きと同じとなる。
 Q図に示すように、「長崎県の壱岐(いき)」が「十字の銀河の子宮」に見立てられた小国「一大国」であった。
K223
(C) 2018 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝は一大国の次の小国について「また千余里の海を渡り、末盧(まつろ)国に至る」と説明する。
 中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる古典の『易経(えききょう)』は「三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いた記号の名は結縄(けつじょう)、倉頡が発明した漢字の名は書契(しょけい)と呼んだ」と記述する。「書契」は「木に文字を刻む」と意味すると伝わる。
 R図に示すように、「十字の銀河の人体部となる部分より北側」は「縄の結び目」のごとくに観えるゆえ、三皇時代の易に用いられた記号は「結縄」と名づけられたと考えられる。そして「十字の銀河の人体部となる部分」は「木の切り株」に見立てられて「木に刻む文字」つまり「書契」と名づけられたことになる。
K224
(C) 2018 OHKAWA
 
 〔歳差〕によって、五帝時代初頭に黄帝陵の天頂にめぐってきて「十字の銀河の頭部」を貫通(かんつう)した北緯3536分の緯度線(B図参照)は、R図に示すように時代が下るごとに南下して紀元前5世紀になると北緯3536分の緯度線は「十字の銀河の子宮」を貫通した。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「来世(らいせ)」や「木の末端(まったん)」に見立てられて[(まつ)]の字源となった。
 「末盧」の[()]について、『説文解字』は「飯器(はんき)なり」つまり「米を煮()て飯(めし)を作る器具(土器)」と解説する。S図に示すように、今日の佐賀県・長崎県を占める旧国(きゅうこく)の「肥前(ひぜん)の北部の地宜」は[]の字源「十字の銀河の子宮」と[]の字源「飯器」に相似する。また、「肥前南部の地宜」は「飯器を煮る燃える火」に相似すると見立てられて、「肥前」は「末盧国」と名づけられた。
K225
(C) 2018 OHKAWA

◆『魏志』倭人伝は「末盧国から陸上を東南に五百里行くと伊都(いと)国に到着する」と記述する。『古事記』上巻の伊耶那岐命の禊祓(みそぎはら)い説話に「伊都久(いつく)」という3字が記載され、この「伊都久」は〔音〕すなわち〔夏音文字〕であると注が付く。ゆえに、「伊都久」にもとづくと「伊都」は「いと」ではなく「いつ」と読んだ可能性がある。
 「伊都久(いつく)」を楷書であらわすと[(いつく)]となる。
 T図に示すように、[]の上部の[]の字形はI図に示した「十字の銀河」の正面形を90度転回するものとなる。[斎の]下部は「十字の銀河の南北の乳房から垂れる三本線(三垂/さんすい)[]で形成される。
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 したがって、[]上部の[]はG図に示した「十字の銀河と重なるいねの穂の[][][]」の字源をあらわした。だから、夏音文字「伊都久」=楷書[]は、T図の左上に記したように[][][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 「伊都久」・「斎(いつ)く」は「心身をきよめ慎(つつし)んで神に奉仕する」を意味した。
 上記したように、『魏志』倭人伝は「魏の都・帯方郡・諸韓国が楷書で書く文書と卑弥呼が(夏音文字で)書く文書は相違していたので、伊都国の津(/)ではすべて点検し、確認して間違いないようにしていた」と伝える。卑弥呼が用いる夏音文字は上記した倉頡が
(1)銀河から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者 (2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者 (3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者は直(ただ)ちに死刑にすると定めた3つの掟を厳重にまもり、楷書は(1)(2)の掟を厳重にまもっていた。これゆえ、伊都国を治める王は漢字が銀河から作られた学芸の神に伊都久()・奉仕して諸国を威圧(いあつ)していたことになる。だから、『魏志』倭人伝は「女王国より以北に特に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を検察(けんさつ)させているので、倭の諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている」と記す。
 その証拠に『説文解字』は[]の下にある[()]の字源について「天、象(しょう)を垂れて吉凶(きっきょう)を見(しめ)す。人に示す所以(ゆえん)なり。(中略)。三垂は日月星なり。(中略)。示とは神事(しんじ)なり」と解説する。『魏志』倭人伝は「倭の吉凶を占(うらな)う易の辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法のごとくつまり甲骨文字における辞の法則のごとくであった」と伝えるゆえ、伊都国を治める一大率は夏音文字の易、すなわち鬼道(きどう)の神に奉仕してつかえる強力な大王であったことになる。
 H図に示したように、一大率が住む伊都国は倭国の端にあり、魏の都や朝鮮半島に近い。 ということは、伊都国を治める一大率には魏と朝鮮半島から伝来する楷書が倭の国中に普及(ふきゅう)しないように水際(みずぎわ)でふせいで、楷書を政権基盤とする新王朝を創設(そうせつ)せんとする革命が起こらないように、倭の諸国を畏怖(いふ)させる役目を担(にな)っていたことになる。
 白川静著『字統』は「伊都国」の[]の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意(しんい)を媒介(ばいかい)する聖職者(せいしょくしゃ)の人をいう」と解説する。
 また、白川静著『字統』は[]の字について「丨(こん)と又()とに従う。手に神杖をもつ形で、それをもつものは聖職者である。杖は神霊(しんれい)の憑()りつくものであった」と解説する。
 U図に示すように、[]の字源は「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は「神霊の憑りつく杖(つえ)、つまり神杖」に見立てられた。[(ゆう/右手]の字源は「鬼の姿に似る銀河」である。
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 「杖」は師(先生)が言うことを聞かない弟子を罰するときに用いた。ゆえに、「神杖(神霊が憑りつく杖)」は「神意(神の意思)をあらわす法や制度を守らない人々に与える罰」をあらわした。この「神の罰(神杖)が手(右手)の鬼の姿に似る銀河に伝わる」が[]の字源となり、人偏が加わる[]は「神意を伝える(媒介する)聖職者」をあらわすことになった。
 ゆえに、一大率は鬼神(きじん)の意思となる倉頡が定めた3つの掟を守らない人々に神罰を与える、倭女王卑弥呼と共に立って倭王朝を支(ささ)える大王であったことになる。
 U図に示すように、「伊都国」の[]の字源は「十字の銀河の子宮」である。Q図に示したように、[]の字源の「十字の銀河の子宮」は「一大」の語源であった。
 白川静著『字統』は「伊都国」の[]の字源について「者は祝祷(しゅくとう)の器()である曰(えつ)を土中に埋めた形。聚落(しゅうらく)の周辺にめぐらした堰堤(えんてい)の要所(ようしょ)に、呪禁(じゅきん)として呪符(じゅふ)を埋めたもので、これを堵()といいう。(中略)。堵をめぐらした武装都市をいうものであろう」と解説する。この『字統』の[]の解説にもとづくと、夏音文字の「伊都久」の[]は――祝い祈祷(きとう)する器(土器)[]の字源は「一大」の語源でもある「十字の銀河の子宮」であり、倉頡が発明した「漢字作成原理」の秘密を厳重にまもる諸国が畏れる強力な大王が居住する武装都市――と意味する字であったにちがいない。

 現在方位だと肥前・佐賀県の松浦(まつうら)市と筑前・福岡県の糸島(いとしま)市の前原(まえばる)は〔東北〕となるため、『魏志』倭人伝の「末盧国の〔東南〕に陸を五百里行くと伊都国に到着する」という記事に合致しない。
 しかし、V図に示すように「伊都久」=[]の字形=[]の字源となる転回方位だと松浦市と糸島市前原は〔東南〕となるゆえ、『魏志』倭人伝の記事に合致する。
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◆『魏志』倭人伝は「伊都国から東南の奴()国には百里で至る」と記述する。ゆえに、V図に示したように[]の字源の転回方位で糸島市前原から東南となる福岡市の香椎宮(かしいみや)が奴国の旅程基点(りょていきてん)であったと考えられる。
 福岡市の北端(ほくたん)から伊都国の糸島半島に向かって斜(なな)めに伸びる海ノ中道(うむのなかみち)の先端には、志賀島(しかのしま)が所在する。志賀島から「漢委奴国王」という5字が刻まれた金印が出土している。
 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝には「建武中元(けんむちゅうげん)二年(西暦57)、倭の奴国、奉賀朝貢(ほうがちょうこう)す。使人(しじん)自ら大夫(たいふ)と称す。倭国の極南界(きょくなんかい)なり。光武(こうぶ)、賜(たま)うに印綬(いんじゅ)を以(もっ)てす」と伝える記事があり、志賀島から出土した金印は光武帝が授けた金印であると考えられている。これゆえ志賀島から出土した金印に刻まれた5文字は「漢の委(/)の奴()の国王」と読むのが定説となる。
 しかし『後漢書』倭伝の文中にある「極南界」を「はるか遠くの九州南端の地」と解釈して、九州南端ではない志賀島から出土した金印は光武帝から与えられたものではないと疑う学者も存在する。
 W図に示すように、海ノ中道の端は〔南〕、この〔南〕から繋(つな)がる志賀島は〔西〕へ転回して、G図で証明した[]の字源をあらわす。
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 ゆえに、海ノ中道と志賀島が繋がる〔南〕の地点が「極南界」であり、またF図に示した「十字の銀河の南端」が「極南界」ということになる。というのも、V図の右下にある「海ノ中道」はF図の[]の字源〔南→西〕を示す「十字の銀河の子宮が重なる右足(西側の足)」に相当すると見立てられたからである。
 志賀島における最も高い潮見台(しおみだい)に立つと、玄界灘に面した北岸の男性的な景観と、博多湾側(はかたわんがわ)の女性的な景観の対比が見られる。博多湾は女性の生殖器(せいしょくき)をまもる骨盤(こつばん)のような形をしている。だから、「海ノ中道と志賀島」がG図の[]、「博多湾」が[]をあらわして[]の字をあらわすことになった。
 志賀島の高台(たかだい)には、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)を祭る志賀海(しかうみ)神社がある。上記した『古事記』上巻の伊耶那岐命の禊祓い説話は「底津綿津見神と中津綿津見神と上津(うわつ)綿津見神の三柱(みはしら)の綿津見神は、阿曇蓮等(あづみのむらじら)の祖神(おやかみ)と伊都久(いつく)神なり」と記す。阿曇(安曇)氏は志賀島を本拠地とした海人族であった。
 前述したように「海ノ中道と志賀島」が[]、「博多湾」が[]をあらわして[]の字源をあらわした。ゆえに『後漢書』倭伝の使者が「倭国の極南界なり」と伝えた言葉は「わが国には倉頡が発明した漢字作成原理の[][]の字源をあらわす聖地・極南界が所在する」と意味したことになる。
 「海ノ中道」はU図に示した[]つまり「神杖をもつ右手」となる。[]の字源銀河は「鬼の姿に似る」である。
 だから、X図の右側に配した[]の字音は[]と同じく「ゆう」である。[]の金文形の左にある「渦巻き」はX図の左図の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の図案である。
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 D図に示した「頭が誕生する生子(せいし)」は、J図の[]の字源「頭が誕生する生子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」である。ゆえに、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「女性の生殖器」をあらわすことになって[]の字源でもあった。
 したがって、X図の「鬼の姿に似る銀河」は[][]が加わる[]の字源であった。だから、「海ノ中道・志賀島と博多湾の地宜(地図の形)」は[][]の字をあらわした。
 ゆえに、V図に示す西暦57年の時に委()の奴国であった志賀島・海ノ中道・福岡市は、『魏志』倭人伝が伊都国の次に説明した奴国であったことになる。
 []の下に[]を加えると[()]の字となる。胎児(だいじ)を娩出(べんしゅつ)するとき、母体には大声をあげていきみ・きばる怒責(どせき)がおこる。また、乾(かわ)いて固くなった土を耕すときには、怒って大声を挙げると強い大きな力を生み出すことができる。ゆえに、[]は「母体が子ども生む時、あるいは固い土を耕す時の強大な力」をあらわした。
 『魏志』倭人伝は奴国について「二万余戸がある」と伝える。当時は1戸に56人が住んでいたと考えられるゆえ、奴国の人口は10万~1314万人であったことになる。当時の人口密度から考えると、奴国の範囲は――Y図に示すように、阿蘇山(あそざん)がある熊本県までの広い地域であったと推測される。阿蘇山は世界的に有名な活火山であり、およそ10数万年から数回第噴火するものであったから、卑弥呼が生存した当時も噴煙を上げる怒る山、地下から巨大な力が生まれる[]の字を示す活火山であった。ゆえに奴国の範囲は、Y図に示すように熊本県までひろがると考えるべきことになる。
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  以上のごとく、対馬国から奴国までの小国名は倉頡が発明した漢字作成原理をあらわし、また各小国の地宜(平面的に図化した地図の形)は小国名に用いられる漢字の字源・字形・字義に合致する。
 ということは、学者たちがこぞって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀」であると断定する定説は、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が「わが国には夏代初頭に習得された夏音文字が存在した」と伝える記事を誤読し、この〔誤読〕を自由自在にあやつって、きわめて重大な事実を排除した空論・真っ赤なウソであったことになる。

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2018年4月24日 (火)

漢字習得定説のウソ・8

 ●卑弥呼が立論した日本列島地理の真実・2

人類は原始の時から、A図右上に示す[(げん)](天頂緯度線と子午線)をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると〔1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は迷わずに遠くの地へ移住することも、大海原で迷って漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
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 中国では紀元前1世紀に北極星をもっとも尊重するシナ天文が完成した。このため、[]をキャッチする習慣が次第に衰退(すいたい)した。『魏志』倭人伝に登場する倭女王の卑弥呼が生存した3世紀の三国時代になると、[]のキャッチの習慣は廃(すた)れた中国の人々には大海を越えて日本列島に渡ることができなくなった。
 わが国では、[]をキャッチする習慣・呪術(じゅじゅつ)は遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末から10世紀初頭まで栄えた。だから、中国では[]をキャッチする習慣が廃(すた)れた3世紀、『魏志』倭人伝は「倭の使節は魏の出張政庁(しゅっちょうせいちょう)がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏の都に到着して帰還(きかん)することができた」と記述する。

◆このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~4回まで、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明して起源した事実を詳細に解説して証明した。
 黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産(しゅっさん)の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明することになった。
 「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。倉頡は、下の写真の銀河(銀漢)の範囲(はんい)の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)、思い違い、幻想によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術の門が閉()ざされることになったのである。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。
 しかし、わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代(かだい)初頭=後期縄文時代初頭、倉頡が漢字を発明した状況を解明できる夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名となって現存(げんぞん)する。だから、これから『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に記述された歴史を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆〔歳差(さいさ)〕という天文現象を利用すると、紀元前3000年頃の五帝時代初頭において中国全土各地の天頂にめぐってきた銀河の様子を再現することができる。
 B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。「十字の銀河」は中国各地において緯度を測量できる羅針盤(らしんばん)となった。
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 というのも――前述したように、人類は原始以来、A図に示した[]となる天頂緯度線をキャッチする能力を有していたので、1度の60分の11分の精度で精密に緯度を測量することができた――この[]のキャッチをもって、五帝時代の人々は遠くの地に旅しても大海に入っても、天頂緯度線をキャッチして家族が待つ家に帰ることができた。だから、B図の「十字の銀河」は中国全土の天頂緯度を測量できる羅針盤となった。
 C図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のように円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる母体」と定め、また「十字の銀河の子宮」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。
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 D図に示すように、出産の娩出期(べんしゅつき)終了時において頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
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 E図に示すがごとく、倉頡はすべての漢字の母体となる「十字の銀河」に「頭が誕生する子(出産児)の顔の向き」をあてはめた。
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 すると、「十字の銀河の背側に顔を向ける子」は〔東〕を向くことになり、中国の〔東〕は〔大海〕であるゆえ、「子どもは大海原(おおうなばら)に生まれて、陸地(中国全土)には生まれない」と事態となるゆえ、このままだと黄帝の研究と自らが発明した漢字作成原理との間に不合理・矛盾(むじゅん)が生ずることに、倉頡は気づいた。
 そこで倉頡は天下を掌握(しょうあく)した黄帝が徳(とく)をもって治める政事(まつりごと)と自らの「十字の銀河」を「すべての漢字を生む母体」とする漢字作成原理、この両者における相互の合理を求めて、F図に示すように、[()]の字を作って「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度方位が転回する規定」を定め、また[]の字を作って「〔南〕が〔東〕となる逆時計回りに90度方位が転回する規定」を定めた。
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 G図の右下に[]の契文形(けいぶんけい)を示した。契文形は紀元前1300年頃・殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字の字形である。
 []は「いね()の形」をあらわす図案である。
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 倉頡はE図に示した「子の生育(せいいく)」と「いねの生育」を同一視し、G図に示すように「十字の銀河」に「いねの図案」を重ねて「いねの穂が〔南〕から〔西〕の鬼の姿に似る銀河の口部に垂れるイメージ」を表現する[]の字を作った。つまり、[]は「天が恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えるように、徳政(とくせい)すなわち恵み深い政事(まつりごと)をおこなう」と意味することになった。この「黄帝の徳政」について、司馬遷(しばせん)著『史記(しき)』五帝本紀(ごていほんぎ)は「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」と記述する。
 なお、F図に示した「時計の針の逆方向の90度の転回方位」をあらわす[]は「子の生育」と「いねの生育」を同一視した考えにもとづいて「地上に多数の子が生まれる」とあわことになった。
 G図の下部に示すように、倉頡が作った[]の下に後世の人が[]の字を加えて[()]の字を作った。というのも、「いねの図案」と重なる「十字の銀河」は、C図に示したように「女体」に観えるからである。「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏(にんべん)[]が加わる[()]の字も作られることになった。後世に作られた[][]は倉頡が作った原字(げんじ)[]の字源・字義を受け継いで、G図の上部に示したように「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕となる方位規定」をあらわした。
 だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕=〔東〕が〔南〕となる方位規定」をあらわす[]の字源を伝えることになった。
なお、「倭人」という国名は「黄帝がおこなった徳政に見習(みなら)って豊かな禾(穀物)に恵まれ、女性たちが多数の子を生み、人々が[]をキャッチする能力を養(やしな)って寿命を伸ばして幸せに生活できる」と意味することになった。

幾人かの学者たちは――『魏志』倭人伝の方位記事にもとづくと、日本列島の〔東〕は〔南〕へと伸びることになる――と指摘する。
 『魏志』倭人伝の方位記事は全部で15ヵ所あるが、この全15ヵ所の方位記事に1ヵ所の【文献批判(ぶんけんひはん)】つまり【誤読】を加えなければ、H図のごとく[]の字源に合致して「日本列島の〔東〕は〔南〕に90度方位が転回している」ことになる。
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 だから倭女王の卑弥呼(ひみこ)は、H図に示すように「日本列島は東ではなく南へ伸びる」と[]の字源をあらわす転回日本列島地理を制定して、国名を「倭人国」としたのである。(「倭人」の[]には[]の契文形や金文形が示すように「少々霧がかかった状態でも、“産道を通過する胎児のごとく常に無欲であれ”を心得として[]がキャッチできる呪力(じゅりょく)を養って寿命をのばす」と意味した)
 H図の左側に示す転回日本列島地理の緯度基点と沖ノ島は玄界灘に浮かぶ。この「玄界灘」という名は文字とおり「[]のキャッチによって往来できる陸地から遠く離れた波の荒い海」を意味した。
 紀元前1世紀にシナ天文が完成して中国で[]をキャッチする習慣が廃れた2世紀あるいは3世紀においても、倭国ではA図に示した[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬(たんれん)する習慣が生活の中心となって栄えていたので、H図に示す日本列島の西端(にしはし)にある沖ノ島と東端(ひがしはし)にある神津島(こうづしま)が両緯度(北緯3415)であることが測量することができた。

I図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島では冬に雪が降る。しかし、日本列島の東端の亜熱帯地区の神津島では冬になっても一年中暖かい。ゆえに、日本列島の地理と気候を合体させると〔西冷東暖(せいれいとうだん)〕となる。
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 中国の海岸線地域の北部の気候は冷たく、南部は暖かいので〔北冷南暖(ほくれいなんだん)〕となる。だから、中国海岸線地域の〔南〕と日本列島の〔東〕は共に暖かい気候で合致するゆえ、『魏志』倭人伝の方位記事が「日本列島の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕の方に伸びる」と示すように、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定して、国名は転回日本列島地理に合致させて「倭人国」としたのである。
 J図に〔西冷〕と沖ノ島と〔東暖〕の神津島が同緯度である状況を示した。
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 宗像市(むなかたし)に所在する沖ノ島には宗像三女神のうちの沖津宮(おきつみや)が鎮座(ちんざ)する。宗像市の大島に中津宮(なかつみや)が鎮座する。
 K図に示すように、宗像三女神のうちの湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祭る中津宮が鎮座する大島と伊豆諸島の神津島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は、「十字の銀河の子宮の形」に相似する。しかも、宗像市・中津宮は北緯3354分、神津島の物忌奈命(ものいみなのみこと)神社は北緯3412分で、その緯度の差はわずか18分である。
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 だから、I図に示した沖ノ島と神津島の〔西冷南暖〕と中国海岸線地域の〔北冷南暖〕によって成立した、H図に示した転回日本列島地理は天地の鬼神(かみ)が示す真実であると絶対視されることになったのである。

◆I図に示した転回日本列島地理の基点となった神津島からは、太古から良質の黒曜石(こくようせき)が産出(さんしゅつ)した。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手(じょうじゅ)に刃()をつけて石斧(せきふ)や石槍(いしやり)や矢の先端の鏃(やじり)、皮はぎや肉切りの石包丁(いしほうちょう/石器)として利用された。良質な神津島の黒曜石は、関東地方(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県、茨城県、山梨県)、東海西部(愛知県、静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布していた。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが判明(はんめい)し、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代の3世紀においても本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30kmも海で隔(へだ)たれ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmも隔たる。約3万年前の旧石器人たちは、A図の右上の[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすることができたから海を往来して神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態は未(いま)だ謎(なぞ)のベールにつつまれて不明とする。人類には原始の時から、脳に[]で精密に緯度測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1分の緯度差を測定できる神秘的な能力がそなわっていたのである。
 神津島の黒曜石の歴史は約3万年からはじまるものであったゆえ、卑弥呼が生存した当時、先祖代々から伝わって倭国中の多くの人々が沖ノ島と神津島が同緯度であることは知っていたのである。というのも、神津島の黒曜石が分布する近江と北陸地方と東海西部の愛知県は、H図に示したように倭国に属する小国であったからである。卑弥呼が倭国を統治(とうち)する以前の縄文時代からこれらの地域から神津島の緯度と黒曜石について伝えられていたにちがいなく、倭国の夏音文字の学芸を有する人々はもちろん国中の多くの人々は沖ノ島と神津島が同緯度であることは知っていたのである。
 だから、約3万年前から人々が[]をキャッチして海を往来し黒曜石を求めた神津島が転回日本列島地理の緯度基点となったがために――『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が伝える・[]の字源に合致する・卑弥呼が立論した転回日本列島地理は、夏音文字の学芸を有する王・女王・氏族の長や巫女(みこ)や神官たちによって真理であると信じられることになったのである。このように、神津島は約3万年の歴史を有する[]の字源・字形・字義の秘密に伝える重大な地であったため、神津島と同緯度の沖ノ島が浮かぶ大海の名は「玄界灘」と[]の字が付いて現在まで失われなかったにちがいないのである。

◆『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(せいやく)説話末部には「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と、遠江・静岡県西部の豪族の名が記される。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」の8回・9回・16回で詳細に解説して証明したように――建比良鳥命とその一族は260年頃から30年後の290年頃に、L図に示す1千万坪の大鳥の地上絵を完成させた。この大鳥の地上絵を、わたくしは2014年以前では「建比良鳥の地宜(ちぎ)」と呼び、2014年以後は「卑弥呼の地上絵」と改名した。
 現在、卑弥呼の地上絵は静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形として残る。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝(ぶてい)の晩年である太康(たいこう)年間(280289)であった」と指摘する。『魏志』倭人伝は「『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部にある、倭人条」の通称である。ゆえに、『魏志』倭人伝は280年~289年に著作されたことになる。
 上記したように、L図に示した卑弥呼の地上絵は260年~290年に作成された。したがって、卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代に作成されたことになる。
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(C) 2018 OHKAWA

 L図の卑弥呼の地上絵の大鳥の頭は「夏至の日の出の方角」を向いて「わが国に夏音文字の学芸が伝来し習得されていた」と示している。
 L図のA地地点は、卑弥呼の地上絵をちょうど1千万坪に作成することができる経緯度原点である。経緯度原点のA地点は滝峯不動尊(たきみねふどうそん)という名の地点と同緯度(北緯3448)である。この二地の同緯度は、A図に示した[]をキャッチして測定(そくてい)された。西のA地点の真東にある滝峯不動尊と結ぶ緯度線は、春分の日の朝に地平線から出現する太陽を指差(ゆびさ)す。
 “字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は、卑弥呼の地上絵を作った建比良鳥命の先頭の[]の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つるなり」と解説する。「朝律を立つるなり」とは「西の経緯度原点地の真東の地点に[(ふで)]の字源となる〔垂直の柱〕を立てると、春分の日の朝、[]の柱の背後から太陽が昇る」と意味した。したがって、「A地点・滝峯不動尊の緯度線」は「朝律を立つなり」と解説される[]の字源を今日伝えていることになる。建比良鳥命という名にある「比良」は「平面的に図化された地図の形=地宜」である。ゆえに、L図の「卑弥呼の地上絵」が「比良」となる。また「大鳥の形をした卑弥呼の地宜(地上絵)」は[]をあらわす。したがって、卑弥呼の地上絵は「建・比良・鳥」とあらわすゆえ、L図の大鳥の地上絵には作成者の名が「建比良鳥命」と署名(しょめい/サイン)されていることになる。

◆M図の上図は、I図の〔北冷南暖〕の中国の海岸線で包まれる中国の国土地宜(地図)である。山東(さんとう)半島の海岸線は「鳥の頭の形」に相似し、「山東半島の付け根から南と北へ伸びる海岸線」は「鳥の翼の形」に観える。ゆえに、中国国土地図の形は遠江の豪族「建比良鳥」という名に配する「鳥」の形となる。
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 L図に示した卑弥呼の地上絵における東と南の境界線は「鳥の頭と両翼の形」となる。
 M図の下図は、L図の〔鳥の頭がある南〕を〔東〕に向くようにした卑弥呼の地上絵に、鳥の形をした山東半島の地宜(地図の形)を重ねる図にした。卑弥呼の地上絵の鳥の頭は〔北〕を向き、山東半島の鳥の頭は〔東〕を向く。ゆえに、「北が東となる方位規定」は[]([][])の字源を示し、「東が北となる方位規定」は[]の字源を示すことになる。
 その全15ヵ所の方位記事が「卑弥呼王朝は[]の字源に合致する転回日本列島地理を制定した」と伝える『魏志』倭人伝と同時代に作成された卑弥呼の地上絵の東と南の境界線は、M図に示したように中国の海岸線の形に設計された。
 
 ゆえに、I図で証明したように中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕が合理になるように、卑弥呼は「日本列島の東は中国の海岸線地域の南へと伸びると立論した」と、卑弥呼の地上絵によっても証明される。
 
 つまり、卑弥呼の地上絵は『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝えることが【科学】が成立して証明できる重大な遺跡である。
 
 また卑弥呼の地上絵は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭(後期縄文時代初頭)にわが国に夏音文字が伝来し習得された――この事実も明らかになる遺跡である。
 「卑弥呼」の3字を「ひみこ」と読むのは「夏音文字の字音」であることが、言語学・音韻学(おんいんがく)の成果によって証明することができる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9頁の末部から10頁初頭で「わが国の漢字音」と題して「わが国には中国の最古の漢字音である上古音よりも古い、いま残されているもののなかで最も古い時期の漢字音が残っていることが明らかになった」と、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊(こと)にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展(しんてん)をみせている。そしてその結果(けっか)、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、この上古音において紀元前1046年から始まる周代の漢字音が最も古い。中国の上古音で「卑弥呼」の3字を読むと「ぴみか」となる。言語学・音韻学によって「ひみこ」という漢字音は「ぴみか」より古い漢字音であると証明されている。だから、L図の卑弥呼の地上絵における「夏至の日の出の方向を向く大鳥の頭」は「わが国は夏代初頭に、夏音文字を習得した」と表示するものとなる。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回と35回~40回をもって詳細に解説して証明したように、太安万侶(おおのやすまろ)が記述した『古事記』上巻の「序」冒頭の「臣(しん)安万侶言(もう)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(なす)」までの文は「夏代初頭(後期縄文時代初頭)、わが国に夏音文字が伝来して習得された」と語っていることになる。
 したがって、『魏志』倭人伝の人名・小国名(H図参照)・官職名には、中国の最古の上古音よりも約1000年も古い紀元前2070年頃~紀元前2050年頃にわが国が習得した、現在残っている最古の漢字音を伝える夏音文字が用いられていることが事実となる。
 ところが、日本の考古学研究をリードしてきた学者の故・森浩一(もりこういち)教授はわが国が漢字を最初に習得したのは5世紀か6世紀であると断定する定説にもとづき、仁徳天皇が生存した古墳時代には漢風(かんぷう)の諡号(しごう)が存在せず奈良時代に漢風の諡号は作られたと思い込んで、「仁徳天皇陵」を古墳が所在する地名を適用して「大山(だいせん)古墳」と改名する、ウソ八百説を定着させた。この森教授のデタラメ説は、今や教科書に記載されて子どもたちにウソを真実だと思い込むように洗脳(せんのう)している。
 『古事記』上巻の「序」を要約すると「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された歴史は鮮烈(せんれつ)・明白に蘇(よみがえ)る。したがって、『古事記』上巻は夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、真実の歴史が解明できる仕組みとなる史書である」と後世に警告(けいこく)していることになる。
 『古事記』上巻の「序」が警告する歴史解明方法にしたがって、『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)神話に随所に記載される夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河の各部の形状に変換すると、伊耶那岐命は『古事記』中巻に「春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と記述される第9代開化(かいか)天皇であったことが証明される。この「開化」という天皇名は「伊耶那美命の没後、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ」と伝える、つまり「開化」という2字は字源・原義(げんぎ)を伝えて「[]すなわち母体の子宮口がすっかり開いて、[]すなわち多数の子どもたちが産道を無事に通過して出産する」とあらわしていることが明らかとなる。また、伊耶那岐命・開化天皇は230年頃に18歳であり、おそらく255年~260年より少し前に死去したことも証明される。
 したがって、3世紀に生存した天皇の「開化」という名は正しい字源を伝える漢風諡号であることになる。だから、森浩一説は【誤読】を立論基盤として捏造(ねつぞう)した虚偽(きょぎ)説であったことになるゆえ、早速、教科書は「大山古墳」を「仁徳天皇陵」と書き換えなければならないことになる。

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2018年4月18日 (水)

漢字習得定説のウソ・7

 ●卑弥呼が立論した日本列島地理の真実・1

◆「銀河」の別名は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。この事実を、このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~前回(6)まで一貫して証明してきた。今後も、この証明を続ける。
 紀元前3000年頃、中国の五帝時代初頭、黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡(あしあと)」という名の漢字作成原理を発明した。
 また倉頡は、下の写真の銀河範囲の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真
 
 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 つまり、倉頡の発明は五帝時代初頭の信仰「鬼神(きじん)」と結びついて、漢字は「鬼神(かみ)の心をあらわすことば、鬼神の心にしたがわなければならないことば」となった。このため、人々は鬼神が下す門戸滅亡、さらに氏族衰退まで及ぶ大罪(たいざい)をおそれて上記の3つの掟を人々は厳重にまもったのである。
 紀元前1世紀に成立した司馬遷(しばせん)著『史記(しき)』五帝本紀(ごていほんぎ)・第一は「天子は天地山川の鬼神をまつって封禅(ほうぜん)をおこなうのが例であるが、古来の帝王がおこなった封禅のうちで、黄帝のおこなったそれが最も盛大であったといわれる」と記述する。この記事が示すように、黄帝は鬼神をまつっていた。

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されないため、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。

◆上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。しかし、これから、『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に記述された歴史を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 712年に成立した『古事記(こじき)』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻 序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく文字が随所(ずいしょ)に記載され、この文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された夏音文字であり、この夏音文字を利用して後世に真実の歴史を伝える方法で『古事記』上巻は著作されたからである。
 夏音文字がわが国に伝来した当時は、中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。この夏音文字の伝来と習得については、わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」で解説した。また、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
 『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作()す」という文までは「わが国に後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と伝えるものであった。
 『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷が最も崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)すゆえ、上巻の神話には絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じられた日本国誕生史の真実を記述することにした。ゆえに、編纂(へんさん)スタッフは一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば日本国誕生史が明確に蘇(よみがえ)る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換して真実の歴史を知ることができる仕組みの歴史書である」と、後世に歴史解明方法を伝えていたことになる。
 つまり、『古事記』上巻は「銀漢(文字作成銀河)から作られた字であるから、漢字と名づけられたという事実」を伝える歴史書であり、また証明できる文献(ぶんけん)であった。

280289年に著作(ちょさく)された『魏志』倭人伝には「卑弥呼(ひみこ)は鬼道(きどう)を事(まつ)る」(「事る」は「つかえる」とも読む)という記事があり、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「卑弥呼は鬼神の道を事(まつ)る」と記述する。したがって、『魏志』倭人伝の「鬼道」は、『後漢書』倭伝の「鬼神の道」の略称(りゃくしょう)であった。したがって卑弥呼は、中国の五帝時代初頭の黄帝がまつっていた「鬼神」に事(つか)えていたのである。
 だから、『古事記』上巻の序に伝えるように、わが国では紀元前21世紀に夏音文字を習得し、夏音文字は卑弥呼王朝の政権基盤であったのである。

その証拠に『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字(こうこつもじ)〕の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国では夏音文字を習得していた」である。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝えている。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字も倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理をまもって作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 だから2世紀末~3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝もまた、『古事記』同様に、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、正しい歴史を解明することができる文献(ぶんけん)であった。

 ということは、『魏志』倭人伝も『古事記』同様に「漢字は銀河から作られた事実を科学的に証明できる書物」であったのである。
 楷書は隋代(ずいだい/589618)に完成した。この現在われわれが用いる漢字に直結(ちょっけつ)する隋代の楷書のおいても、紀元前3000年頃に生存した倉頡が発明した漢字作成原理にしたがって作成された。したがって、紀元前3000年~6世紀の隋代まで、漢字は倉頡が発明した漢字作成原理の則って作られたことになる――この事実を科学的に証明できる文献が『魏志』倭人伝と『古事記』上巻であり、また、この事実はわが国で作られて現存する幾つかの遺跡や遺物((1)秋田県鹿角市の大湯環状列石、(2)静岡県沼津市の高尾山古墳、(3)静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵、(4)京都市の龍安寺の石庭、(5)滋賀県彦根市の行政区域の地図の形として現存する3千万坪の大鳥の地上絵、(6)京都市の桂離宮の平面図、(7)京都市の修学院離宮の上御茶屋の浴竜池の平面図、(8)皇室最大の神事である大嘗会における天皇即位式で用いられる王冠の意匠など)によって科学的に証明できる。

◆『魏志』倭人伝は、280年~289年に晋(しん)の陳寿(ちんじゅ)が著述した『三国志(さんごくし)』魏書(ぎしょ)東夷伝(とういでん)の末部にある「倭人伝」の通称(つうしょう)である。ゆえに、『魏志』倭人伝の最初の文字は「倭人伝」である。この「倭人伝」に続く本文冒頭は「倭人在」であるゆえ、これまた「倭人」である。
 前々回と前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ」の5回と6回で詳細に解説して証明したように、[]の字はA図に示すように「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす。この転回方位規定は倉頡がB図のごとく「いねの穂が垂れる形」を考えて[()]の字と定めた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静(しらかわしずか)博士が著作して『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]の字形について「いねの象形(しょうけい)、また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形」と解説する。つまり、黄帝は[]の形をした組木(くみき/標木と袖木)を軍門としたことになる。
 B図の「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は、上掲(じょうけい)した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある。
 天文における「歳差(さいさ)」という現象にもとづくと、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、C図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」と「四つ目の銀河」がめぐってきた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 黄帝時代、B図の[(いね)]の字と重なる「十字の銀河」は中国国土各地の天頂にめぐってきて、緯度(位置)と経度(方位)を精密に測定できる羅針盤(らしんばん)となった。B図の「いねの穂が垂れる方向にある、鬼の横顔に似る銀河」も、C図に示すように中国の各地の天頂にめぐってきて緯度と経度が精密に測定できる羅針盤となった。ゆえに、倉頡はB図のごとく「十字の銀河」に「いねの図案」を重ね、「いねの穂は西の鬼の横顔に似る銀河の口の方へ垂れる」と考える[]の字が作成された。
 倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』の[]は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)に宿(やど)る胎児(たいじ)や出産器官の産道(さんどう)」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明したのである。
 D図に示すように、「十字の銀河」の西側には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のように円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「女体(にょたい)」に見立てた。
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(C) 2018 OHKAWA
 

 そして、倉頡は「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は、十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。この倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。
 E図に示す[]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字)は、「十字の銀河」を「母体の正面」に見立てて「子宮に子が宿る、おなかが前へつき出て円くなる妊婦の姿」をあらわす図案である。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 F図に示すように、「十字の銀河」は[(べん)]の字源・字形・字義となり、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義となり、[][]が加わって[]の字源となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
◆娩出期(べんしゅつき)終わりにおいて、頭が誕生する子の顔の正面は、G図に示すように、母体の背側に向く。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 倉頡の漢字発明は黄帝の医学研究をあらわす文字を作成することであったゆえ、倉頡は「すべての漢字を生む母体と定めた、十字の銀河」に「頭が誕生する子の顔の向き」を加える――H図のごとく想像した。
K174
(C) 2018 OHKAWA
 
 この倉頡のイメージは、H図が示すように、頭が誕生する子の顔は「十字の銀河の背側・東側」を向くことになる。この顔の向きにもとづくと、子どもたちは中国の陸地では生まれずに、海で生まれることになり不合理となった。
 それゆえ倉頡は合理にするために、I図のごとく「十字の銀河の南から生まれた子は、90度方位が転回して西側(十字の銀河の腹側)の陸地にて生まれるとあらわす[]の字を作成することにしたのである。
K175
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示したように、黄帝時代には「十字の銀河の子宮」は中国南部の揚子江(ようすこう)の天頂にめぐってきた。この地域は、禾・いねの生育(せいいく)にめぐまれていた。「禾・いねの生育」と「子の生育」を同一視(どういつし)した倉頡は、B図のごとく[]の字を作り、[]はA図に示すように「時計回りに〔南〕が〔西〕になるように、90度方位が転回する方位規定」を定めたのである。
 B図の下部に示すように、倉頡が作った[]に後世の人が[]を加えて[()]の字を作った。というのも、D図に示したごとく、「十字の銀河」は女体に相似するので[]の字源と定まっていたからである。また「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏に[]が加わる[]の字が出現することになったのである。[][]は倉頡が作った原字(げんじ)[]の字源・字義を受け継いでA図・B図・I図に示した「時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は倉頡が発明した漢字作成原理をあらわしてB図に示した[][][]の字源・字形・字義の秘密を伝えることになった。
 幾人かの学者たちが認めているように、『魏志』倭人伝は「日本列島の〔東〕は〔南〕となる」と記述していることになる。『魏志』倭人伝には方位記事は15ヵ所あるが、この全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【文献批判】つまり【誤読】を加えないと、A図とB図とI図のごとく、[]の字源に合致して日本列島は〔東〕ではなく〔南〕へ伸びていることになる。
 だから黄帝と同様に鬼神につかえた倭女王の卑弥呼は、J図に示すように「日本列島は東ではなく南に伸びる」と考える転回日本列島地理を制定して、国名を「倭人国」と定めたことになる。
K181
(C) 2018 OHKAWA
 
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で詳細に解説し証明したように、「倭人国」の[]の字源はK図に示す「だいぶ人らしくなって、いくらか膝を曲げて子宮に宿る子(胎児)の姿(側身形)」であった。
K182
(C) 2018 OHKAWA
 
 中国を代表する思想家・老子は『老子』第一章で「常に無欲にして以(もっ)てその妙(みょう)を観()(中略)、玄(げん)のまた玄、衆妙(しゅうみょう)の門」と説き、「常に産道を通過する時の子(出産児)のごとく無欲であれば人間にそなわる妙な(不思議で神秘的な)[]をキャッチできる能力で命をまもって寿命を延ばすことができた。[]は衆つまりすべての人々の命の門であった」と伝える。
 つまり、古代の人々の命をまもる門であった[]をキャッチする時の心得である「無欲で産道(さんどう)を通過して命が与えられる子(出産児)」が[]の字源であった。
 だから、「倭人国」の[]の字は「産道を通過する子(胎児の)ごとく無欲になって[]をキャッチせよ。日々、[]をキャッチする眼力と技術(わざ)を鍛錬すれば、天頂緯度線と子午線は測量できて生きながらえることができる」と意味するものであったのである。

L図の右上に[]の字を配した。[]の字は[(とう)][(よう)]が加わって形成される。[]は「天頂緯度線と子午線」である。[]は上記した「無欲で産道を通過する子(出産児)」である。
K183
(C) 2018 OHKAWA
 
 J図の左側に配する沖ノ島は玄界灘に浮かぶ――「玄界灘」は、その名のとおり「[]をキャッチできれば往来できる、陸地から遠く離れた波の荒い海」であった。ゆえに、玄界灘は[]をキャッチできないと、死ぬことになる陸地から遠く離れる波の荒い海であった。
 人類は原始の時から、L図右上に示す[]をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると〔1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は迷わずに遠くの地へ移住することも、大海原で漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
 卑弥呼が生存した3世紀、わが国では[]をキャッチする呪術(じゅじゅつ)と習慣が栄えていた。このため、J図の左側に示す――日本列島の西端(にしはし)の玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ沖ノ島と東端(ひがしはし)の伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であることは[]をキャッチする眼力と技術をみがいて長寿であらんと欲(ほっ)する多くの人々が知っていた。だから、沖ノ島と神津島の同緯度を理論基盤にして卑弥呼が[]の字源に合致して「日本列島の東方は南に伸びる」ととなえた転回日本列島地理論を、夏音文字の学芸を有する人々は真実であると確信したのである。
 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・6」で詳細に解説して証明したように、紀元前5世紀の周代(しゅうだい)の易の考え方を伝える『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)にある漢字起源記事は「仰いでは天象を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」と伝える。
 この文中にある「近くはこれを身に取る」とは、上記した『老子』第一章が説く[]のキャッチ、つまり「常に無欲して以て妙を観、(中略)、玄のまた玄、衆妙の門」という文をあらわした。
 上記の『易経』の漢字起源記事に登場する「遠くは物に取る」という文は、J図の左図に示すように沖ノ島と神津島のごとくに遠く離れる二地の地理論(方位規定)をあらわした。つまり、倉頡は沖ノ島と神津島のごとく遠く離れる地理においては、[]の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って地理を考えたべきであると定めた。したがって、五帝時代初頭の黄帝が祭った鬼道につかえる卑弥呼王朝はJ図に示した日本列島転回地理を制定したことになる。
 だから、卑弥呼が統治した国は「倭人国」と名づけられることになったのである。ゆえに、『魏志』倭人伝の「日本列島の東方は南に伸びる」と表示する全15ヵ所の方位記事は、倉頡が立論した神聖な学芸意見を伝えるものであった。

[]における天頂緯度線となる銀河部位は、L図に示すように、東北から出でて西北に没する。この出没地点にG図・H図で示した黄帝の医学研究が加わって、倉頡は遠くの地理の方位規定は90度転回する、I図をもって解説した[]の理論をあらわす字を考案した。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で詳細に解説したように、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすためにM図のごとく「時計の針の逆回りに方位は90度転回して、〔南〕は〔東〕になる」と考える[]の字も作った。
K184
(C) 2018 OHKAWA
 
 しかし、前述したようにM図に示した[]の解釈は〔すべての子が、東の海から生まれる〕ことになって不合理である。ゆえに、倉頡はN図に示す[]の字を作った。
K185

   倉頡は「十字の銀河の子宮」を「出産祝いや子授(かざず)け祈祷(きとう)する時に用いる土器」に見立てた。この土器は「天頂に口部を向けて用いられた」ので、[(さい)]の字源となった。この「口部を天頂に向けて祝祷(しゅく)する土器の口(さい)が十字の銀河の頭部の〔北〕から時計の逆回りに90度転回して〔西〕となる方位規定」をあらわす[]の字を、倉頡は作成した。ゆえに、N図の右側の[]の金文形は「胎児が身をくねらせて産道を通過する様子をあらわして、巫女が身をくねらせて祝祷の土器の[(さい)]を右肩(西の肩)に上に挙げながら踊る姿」を図案するものであった。
 この[]の字源は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえおとこお)」という10字の夏音文字の秘密となった。
 [][]の転回方位規定は「文字作成銀河から作られたすべての文字は、十字の銀河を母体として生まれる」と定めた倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に加えられたために、楷書が完成した6世紀の隋代まで失われなかった。これゆえ、紀元前1世紀に〔北〕が〔北〕となって〔東〕にも〔西〕にもならない北極星を最も重視したシナ天文学が完成したが、5世紀、6世紀にあっても中国では方位が90度転回する[][]の理論にもとづく国名や地理観が依然(いぜん)として根強く生き残ったのである。
 前述したように、中国では紀元前1世紀に北極星をもっとも尊重するシナ天文が完成した。このため、[]をキャッチする習慣が次第に衰退(すいたい)した。『魏志』倭人伝に登場する倭女王の卑弥呼が生存した3世紀の三国時代になると、[]のキャッチの習慣は廃(すた)れた中国の人々には大海を越えて日本列島に渡ることができなくなった。
 わが国では、[]をキャッチする習慣・呪術(じゅじゅつ)は遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末から10世紀初頭まで栄えた。だから、中国では[]をキャッチする習慣が廃れた3世紀、『魏志』倭人伝は「倭の使節は魏の出張政庁(しゅっちょうせいちょう)がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏の都に到着して帰還(きかん)することができた」と記述する。
 だから倉頡が考案した[][]の方位規定は、卑弥呼が生存した中国の三国時代(220年~280)においても失われずに残っていた。
 当時、中国の北方の国の名は「魏」、南方の国の名は「呉」であった。「魏」は[][]が加わる字であるゆえ「時計回りに90度方位が転回して、適量の降水量にめぐまれて穀物が豊かに実る国」、「呉」は「時計回りの逆方向に90度に方位が転回して、多数の子が生まれて栄える国」とあらわす国名であった。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で指摘したように――中国の正史の一書に『後魏書(ごぎしょ)』または『魏書(ぎしょ)』と呼ばれる文献があり、この正史は全部で130巻からなる紀伝体(きでんたい)で、本伝と列伝は554年に、志の部分は559年に成立した。
 上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)における、直木孝次郎教授は「邪馬臺国の位置論」という論述にて「明治の学者の内藤湖南(ないとうこなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記している」と指摘する。この『後魏書』勿吉伝の〔東〕は〔南〕・〔西〕は〔北〕をかねる方位規定は[]の字源をあらわし、〔東南〕を〔東北〕と記す方位規定は〔呉〕の字源をあらわす。
 紀元前1世紀に完成した北極星を最も重視するシナ天文が完成したならば、まぎらわしくも混乱する[禾]と[呉]の転回方位規定は不要となった。にもかかわらず、中国では6世紀、7世紀にあっても[][]の転回方位規定は依然(いぜん)として必要とされた。というのも、漢字の学芸においては倉頡が発明した漢字作成原理は永遠不滅の法則であり、全文字の字源の合理性はC図・D図・E図・F図・G図・H図、そしてA図・B図に示した[]の転回方位規定とM図・N図に示した[]の転回方位規定によって成立するものであった。だから、倉頡が考えた[禾]と[呉]の転回方位規定は必要不可欠で排除(はいじょ)することができなかったのである。

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2018年4月13日 (金)

漢字習得定説のウソ・6

 ●『易経』繋辞下伝にある漢字起源記事

「銀河」の別名は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。この事実を、このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~前回(5)まで一貫して証明してきた。今回も、この証明をおこなう。
 紀元前3000年頃、中国の五帝時代初頭、黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡(あしあと)」という名の漢字作成原理を発明した。
 また倉頡は、下の写真の銀河範囲の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真
 
 
 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されないため、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。

◆上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。しかし、「漢字が文字作成銀河各部の形状から作られた事実」を証明するためには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 712年に成立した『古事記(こじき)』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻 序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく文字が随所(ずいしょ)に記載され、この文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された夏音文字であり、この夏音文字を利用して後世に真実の歴史を伝える方法で『古事記』上巻は著作されたからである。
 夏音文字がわが国に伝来した当時は、中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。この夏音文字の伝来と習得については、わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」で解説した。また、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
 『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作()す」という文までは「わが国に後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と伝えるものであった。
 『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷が最も崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)すゆえ、上巻の神話には絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じられた日本国誕生史の真実を記述することにした。ゆえに、編纂(へんさん)スタッフは一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば日本国誕生史が明確に蘇(よみがえ)る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換して真実の歴史を知ることができる仕組みの歴史書である」と、後世に歴史解明方法を伝えていたことになる。
 つまり、『古事記』上巻は「銀漢(文字作成銀河)から作られた字であるから、漢字と名づけられたという事実」を伝える歴史書であり、また証明できる文献(ぶんけん)であった。

280289年に著作(ちょさく)された『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字(こうこつもじ)〕の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国では夏音文字を習得していた」である。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝えている。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字も倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理をまもって作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 だから2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝もまた、『古事記』同様に、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、正しい歴史を解明することができる文献(ぶんけん)であった。

 ということは、『魏志』倭人伝も『古事記』同様に「漢字は銀河から作られた事実を科学的に証明できる書物」であった。

◆人類は原始の時から、A図右上に示す[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると〔1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は迷わずに遠くの地へ移住することも、大海原で漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
K131
(C) 2018 OHKAWA 
 
 中国では紀元前1世紀に北極星をもっとも尊重するシナ天文が完成した。このため、[]をキャッチする習慣が次第に衰退(すいたい)した。『魏志』倭人伝に登場する倭女王の卑弥呼が生存した3世紀の三国時代になると、[]のキャッチの習慣は廃(すた)れた中国の人々には大海を越えて日本列島に渡ることができなくなった。しかし、シナ天文が完成する以前の紀元前3世紀、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)に日本列島に存在する蓬莱山(ほうらいさん)の不老長寿の霊薬(れいやく)を探してくるように命じられた徐福(じょふく)は、青年男女数千人をひきいて大海を渡って日本列島の蓬莱山に到着した。しかし、この日本列島の蓬莱山には不老長寿の霊薬となる樹木が生えておらず手に入れることができなかったので死刑をおそれて徐福は日本列島に定住した――と、司馬遷(しばせん)が著作した『史記(しき)』や『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は伝える。
 わが国では、[]をキャッチする習慣・呪術(じゅじゅつ)は遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末から10世紀初頭まで栄えた。だから、中国では[]をキャッチする習慣が廃れた3世紀、『魏志』倭人伝は「倭の使節は魏の出張政庁(しゅっちょうせいちょう)がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏の都に到着して帰還(きかん)することができた」と記述する。
 天文における「歳差(さいさ)」という現象にもとづくと、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」と「四つ目の銀河」がめぐってきた。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 B図の下部にある「四つ目の銀河」を、C図に示した。C図に示したように「鬼の横顔に似る銀河の両目と首(後頭部とアゴ)につく両目」で「目が四つ」ある。こ「四つの目」の銀河を「四つ目の銀河」と名づけることにした。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は、C図に示すように「銀河から漢字が作られた事実」を伝える語であった。ところが、学者たちは「人間には目が四つ無い。デタラメだ」と鬼の首でも取ったかのごとく声高(こえだか)にケチをつけ「倉頡伝説は空想だ、ウソだ」と主張して事実を抹殺(まっさつ)した。このため、今日、「銀漢から作られた文字」であるから「漢字」と呼ばれる実体が不明となったのである。

◆倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』の[]は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)に宿(やど)る胎児(たいじ)や出産器官の産道(さんどう)」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明したのである。
 B図に示したように、「十字の銀河」は中国全土の各地の天頂にめぐってきた。したがって、「十字の銀河」は、[]のキャッチによって中国各地の天頂緯度が測量できる羅針盤(らしんばん)となった。
 D図に示すように、「十字の銀河」の西側には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のように円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「女体(にょたい)」に見立てた。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 そして、倉頡は「文字作成銀河各部の形状から作られた万物の情(じょう/イメージ)をあらわすすべての漢字は、十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。この倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。
 E図に示す[]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字)は、「十字の銀河」を「母体の正面」に見立てて「子宮に子が宿る、おなかが前へつき出て円くなる妊婦の姿」をあらわす図案である。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 F図に示すように、「十字の銀河」は[(べん)]の字源・字形・字義となり、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義となり、[][]が加わって[]の字源となった。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 このように、倉頡は漢字を作る範囲を秋に長時間見ることができる「秋の銀河の西部」と夏に長時間見ることができる「夏の銀河」と定めた。この漢字の範囲を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。(ゆえに、「春の銀河」と「冬の銀河」と「秋の銀河の東部」は「文字作成銀河」ではない)
 倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」について、学者たちは「漢字を作るヒントとなった雪や土の上に残る鳥や獣の足跡」と解釈するが、この意見はまちがっている。「鳥獣の足跡」は倉頡が「文字作成銀河各部の形状から作られた万物の情に類似するすべての漢字は、十字の銀河を母体にして生まれる」と定めた漢字作成原理の名称であった。

◆倉頡伝説は正しく漢字が起源した歴史を伝えた。しかし、中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる古典(こてん)の『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は「漢字を発明したのは、三皇時代初頭の包犧(ほうぎ)氏の王であった」と誤って伝える。
 また、『易経』繋辞下伝は倉頡について「上古の三皇時代は包犧氏が考案した結縄(けつじょう)をもって天下を治めたが、後世の聖人の倉頡が書契(しょけい)を発明して易()えた」とも記述する。この記事は正しい。
 『易経』繋辞下伝の漢字の起源を伝える前者の「包犧氏の王が漢字作成原理を考案した」という記事は矛盾(むじゅん)し明らかに誤っている。
 この誤りを伝える『易経』繋辞下伝の漢字起源記事は、下記のごとくである。
 「古者(いにしえ)包犧氏の王たるや、仰いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観、近くは諸(これ)を身()に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明(しんめい)の徳に通じ、もって万物の情に類(るい)して結縄を作った。」
 E図に示した[]の金文形は、黄帝の医学研究をあらわして「十字の銀河」を「胎児が宿る、円いおなかを有する妊婦の姿」を表現した図案である。この[]の金文形の図案は、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の理論をあらわす。だから、倉頡は「子宮に子が宿る妊婦」に見立てた「十字の銀河」を[]の字源・字形・字義と定めたゆえ、上記した『易経』繋辞下伝の漢字起源記事は漢字作成原理を「鳥獣の文」と記したのである。しかし、包犧氏の王は女性の生殖器や子宮に宿る胎児(たいじ)の研究をおこなわなかった。だから、『易経』繋辞下伝の記事は矛盾して不合理で、事実を伝えていないことになる。
 『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の誤りを修正すると、下記のごとくなる。
 「女性の生殖器や子宮に宿る子の様子を研究した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡は仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文(漢字作成原理となった「十字の銀河」)と地宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る(ことにした)。ここにおいて始めて八卦を作り、神明の徳に通じ、万物の情に類する(起源漢字の)書契を作った。」

◆『易経』繋辞下伝の漢字起源記事のおける「仰いでは天象を観る」の「天象」の[]の字源について、“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。「至高にして上なし」とはA図の右上の[]における「最も高くて、それ以上の上がない天頂緯度線」のことであり、B図の上部の「十字の銀河」をあらわした。「十字の銀河」は五帝時代初頭から紀元前3世紀頃まで中国各地の天頂にめぐってきたが、『説文解字』が成立した2世紀初頭においては中国各地の天頂より少し北側を子午線通過した。しかし、後世において新しい漢字を作る時には――倉頡が発明した「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、B図に示した黄帝時代の天文状況で漢字を作ると定められていた。だから、「十字の銀河」が天頂を通過しなかった後漢時代に著作された『説文解字』の[]の解説は誤っておらず、正しいことになる。
 したがって、G図に示すように、倉頡が発明した「鳥獣の足跡」に則り、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半の契文(けいぶん/亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字)も紀元前1046年から始まる周代(しゅうだい)の金文においても、別の銀河部を[]の字源・字形・字義と定めることをせずに、「十字の銀河」を[]の字源・字形・字義とした。
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(C) 2018 OHKAWA 
 

「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形・字義となると定められ、「子どもが宿る子宮」は聖域(せいいき)であると尊重されて「一大」と名づけられた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」が「一大」となった秘密を伝えて『説文解字』は「一大に従ふ」と解説したのである。
 『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の「仰いでは天象を観る」の「天象」は「十字の銀河・十字の銀河の子宮」、「仰いでは見る」はH図に示す「鬼の姿に似る銀河」があらわした。
 また「俯しては地法を観る」の「俯しては観る」は、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」があらわした。
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C図に示した「鬼の横顔に似る銀河の両目」は、I図の左図の〔高度が60度ぐらいになった「十字の銀河」を仰ぎ見る両目〕をあらわし、C図の「鬼の首に付く両目」はI図の右図の〔高度が90度の天頂に位置する「十字の銀河」を仰ぎ見る両目〕をあらわした。
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 このように、I図の「仰いでは天象を観る」のポーズは、C図の「四つ目」の銀河が示すことになった。ゆえに、H図における「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」が「仰いでは天象(十字の銀河・十字の銀河の子宮)を観る」という文をあらわすことになった。
 「俯しては地法を観る」という文における「地法」の[]の正字(せいじ)を、J図の左側に配した。[]の正字の旁(つくり)[鹿][][]が合体して形成される。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 [鹿]は――J図の左図に示す「鹿の横顔」に相似する中国の「山東(さんとう)半島」と、「オス鹿の角(つの)」に見立てられた「廟島列島(びょうとうれっとう)」があらわした。
 [][]は――K図に示す中国国土地図における海岸線が「翼を有する鳥の姿」に相似する。この「鳥」は東の海へ「去る」ように観える。だから、「鳥」の形をした中国海岸線が[][]をあらわした。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 K図に示す中国を代表する大河の黄河と長江の水は西の地から東の地に向かって流れて海に入って去る。だから、[]の偏は「水」をあらわす三水(さんずい)となった。
 したがって、「地法」は「西から東へ大河の水が流れる、東の海へ去るように観えるオス鹿の横顔(J図の左図)と鳥の形に相似する海岸線(K図)に包まれる中国国土地図」をあらわした。
 いっぽう「仰いでは天象を観る」の「天象」は、「地法」とは逆方向に「東から西へ去る(移動する)十字の銀河の運行」をあらわした。
 『易経』繋辞下伝の漢字起源記事に登場する「地宜(ちぎ)」という語は、「平面的に図化した地図の形」を意味した。というのも、L図に示すように「天から人の横顔に酷似する銀河が俯(うつむ)いて地上を見ると、山や海岸の高低差が無くなって地図の形は料理に使う俎板(まないた)の表面のように平面的になる」と定義されることになったからである。
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(C) 2018 OHKAWA 
 

『易経』繋辞下伝の漢字起源記事にある「近くはこれを身に取る」の[]の字形について、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「みごもっている人の側身形(そくしんけい)」と解説する。
 M図の右側に配した[]の金文形は「みごもっている人(妊婦)の側身形」である。M図に示すように、人は妊婦のごとくおなかを前へつきだして妊婦のような姿勢になると[]がキャッチできて天頂緯度線が測定できた。ゆえに、M図の左図は「近くはこれを身に取る」という文をあらわすことになる。
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 N図は、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の「遠くはこれを物に取る」の解説図である。
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 N図に示す「夏の銀河の西南部」は上掲した「文字作成銀河各部の名称図」における右下の隅(すみ)にある。この「夏の銀河の西南部」は「鬼の姿に似る銀河」から遠くにある。N図に示すように「夏の銀河の西南部」には「ジャコウウシの横顔に似る銀河」がある。わがブログ「漢字習得定説のウソ・3」で詳細に解説して証明したように、「ジャコウウシ」は[][]の字源となった。『説文解字』は[]の字源を「牛を大物と為()す」と解説し、また「万物なり」とも解説する。天敵のオオカミにおそわれると、ジャコウウシの群れは真ん中に子どもをかくして円陣を作る。このジャコウウシの習性が女性の生殖器の大半を包む骨盤(こつばん)に相似すると見立てられて、ジャコウウシは漢字作成原理「鳥獣の足跡」を象徴(しょうちょう)する聖獣(せいじゅう)となった。ジャコウウシは遠いツンドラ地帯に生息した。「文字作成銀河各部の名称図」の左上の隅にある「三つ輪の銀河」(H図を参照)は「ジャコウウシの円陣」をあらわした。したがって、「文字作成銀河の隅にある、三つ輪の銀河と夏の銀河の西南部のジャコウウシの横顔に似る銀河」は「遠くはこれを物に取る」をあらわした。『説文解字』は[]の字源を「万物なり」と解説するゆえ、N図の「夏の西南部の銀河内にあるジャコウウシの銀河」は「遠くはこれを物に取る」と「万物の情に類して漢字を作った」という文をあらわすことになった。
 「仰いでは天象を観る」と「近くはこれを身に取る」という文の「天象」や「近く」をあらわす「十字の銀河・十字の銀河の子宮」が天頂に位置すると「東・西・南・北」の四方位が測量できた。A図に示すように「十字の銀河」は「東北」から出でて「西北」に没した。N図の「夏の銀河の西南部」は「東南」から出でで「西南」に没する。したがって、「東・西・南・北」の四方位と「東北・西北・東南・西南」の四方角で、計八方位すなわち『易経』繋辞下伝の漢字起源記事に登場する「八卦」をあらわした――ゆえに、周代に完成した易の判断の基礎となる八つの象(かたち)は、「東・西・南・北」と「東北・西北・東南・西南」の八方位に配置されることになった。
 以上のごとく、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事は「包犧氏の王が漢字を発明した」と記述して誤っているが、倉頡伝説が伝えるように「倉頡が漢字を発明した」と改めれば「漢字は文字作成銀河各部の形状から作られ、倉頡が発明した漢字作成原理に則(のっと)って作られた事実」を伝えることになる。また、この記事は「人々は[]をキャッチして1分の緯度差を測定できる呪術(じゅじゅつ)によって生命を保持(ほじ)していた」(A図を参照)と伝えていたことになる。

◆O図に示すように、頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られた文字を生む母体」と定めたので――「十字の銀河」に「頭が誕生する子の母体の背側に顔を向ける姿」を加えると、P図のごとくなる。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 そうすると、生まれてくる子の向きは「中国大陸の東の海にて生まれる」とあらわすゆえ不合理となった。
 そこで、Q図に示すように、「十字の銀河の〔南〕を〔西〕にする、時計回りに90度方位を転回する規定」をあらわす[()]の字、「十字の銀河の〔南〕を〔東〕にする、時計回りの逆方向に90度方位を転回する規定」を示す[]の字が作られることになった。
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 したがって、R図に示す「いね()の穂が南から西へと垂れる象形」の[]の字が作られ、[][]が加わる[()]が作られ、人偏に[]が加わる[()]が作られた。
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 [][]の字はR図に示した[]の字と同じく「時計回りに方位が90度転回する、つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定」をあらわすことになった。
 『魏志』倭人伝に記された方位記事は全部で15ヵ所あるが、この記事に1ヵ所も【誤読】を加えなければ[]の字があらわす転回方位に合致して「日本列島の東方は南へ伸びる」ことになる。ゆえに、『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝は[]の字源をあらわす転回日本列島地理を制定し、国名を〔倭〕と定めた」と伝えていたことになる。
 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で詳細に解説して証明したように――S図のごとく「十字の銀河の子宮」を「出産祝いをする時や子授(こさず)け祈祷(きとう)する時に用いる器(土器)」に見立てて、「時計の針の逆回りに方位が90度転回する規定」をあらわす[]の字が作られた。
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 出産祝いや子授け祈祷する時には器(土器)の口部(こうぶ)は天頂に向けられる。ゆえに、T図に示すように「口部を天頂に向ける祝祷(しゅくとう)する時に用いる器」は[(さい)]の字源・字形・字義となった。
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 P図やQ図に示したように、〔南〕は〔東〕となる転回方位規定だと生まれる子どもは東の海で生まれることになって不合理となる。ゆえに、U図の右側に配した[]の金文形の右上の[(さい)]は〔西〕となる「十字の銀河の肩」の上に配置されて、「〔北〕は〔西〕となる、つまり時計の逆回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
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 「十字の銀河」は「出産祝いや子授け祈願する時、身をくねらせて産道を通過する子を表現して身をくねらせて踊る巫女(みこ)」に見立てられた。
 ゆえに、U図の[]の金文形は「祝祷する器である口(さい)の口部を天頂に向け、巫女が身をくねらせて踊る姿」をあらわす図案であった。
◆転回方位規定の[][][][]は、地名や地理に用いる学術用語であった。
 A図に示した[]をキャッチは、原始以来の人類が生存するための不変の法則であった。そして、M図に示した天頂緯度を測定する人が、倉頡が発明した漢字作成方法から生まれた[][]の転回方位規定について考えると天頂緯度線をキャッチできず風雨にさらされる白骨死体となった。
 これについて、孔子と並ぶ中国の二大思想家の紀元前5世紀から紀元前4世紀頃に生存した老子は『老子』第一章で「常に無欲(むよく)にして以(もっ)て其()の妙(みょう)を観、常に有欲(ゆうよく)にして以てその徼(きょう/)を観る。この両者は、同じく出でて名を異(こと)にし、同じく之(これ)を玄と謂()う」と説いている。老子は「常に産道を通過する胎児のごとく無欲であれば妙(不思議)なことに[]はキャッチできるが、必ず[]をキャッチすると欲を有すると徼()すなわち川や湖や海の岸に漂着する白骨死体となる。[][()]の字源となる銀河部は同じであるが、名を異にする。[][()]の両字は五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度つまり[]をあらわす」(B図参照)と説明するものであったことを、わがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で詳細に解説して証明した。
 M図に示した天頂緯度測定する人の心得は、「無」の境地になって一心不乱(いっしんふらん)に天頂を仰ぎ見ることであった。だから、天頂緯度測定する時には[][]の地名や地図に用いる学術用語の転回方位を考える余裕(よゆう)はまったく無い・無我の状態となって[]をキャッチしたことになる。
 したがって人類が原始以来受け継いできた[]をキャッチする呪術と習慣が栄えていた時代、[][]の転回方位規定が立論されても不都合(ふつごう)な混乱が生じなかったのである。というのも[]のキャッチは原始以来の不変の法則であり、[][]は倉頡の漢字発明によって新しく出現した「地名と地理に用いる学術用語」であったゆえ、両者の方位規程は全く別なる問題で、互いにまったく影響しないと定まっていたからである。

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2018年4月 7日 (土)

漢字習得定説のウソ・5

●『魏志』倭人伝に「倭人」と記された正式国名の解説


◆このブログ「漢字習得定説のウソ」は前回(4)まで――「銀河」の別名は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた事実を証明してきた。
 紀元前3000年ころ、黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は「四つ目の怪人」と名づけられた漢字を作る銀河の範囲を定め、また「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡(あしあと)」と名づけられた漢字作成原理をも発明した。倉頡が定めた漢字を作る銀河の範囲(四つ目の怪人)は、下の写真に示す秋の銀河の西部と夏の銀河であった。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真
 
 
 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物には神罰(しんばつ)が下って直(ただ)ちに死刑にすると定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されないため、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。
 また、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」について、学者たちは「とんでもない! 人間には目が四つも無い」とケチをつけて、倉頡伝説を「荒唐無稽(こうとうむけい)な空想!」と決めつけた。しかし、わがブログは前回の「漢字習得定説のウソ・1」において、「四つ目の怪人」とは上掲した「文字作成銀河の範囲」をあらわすものであることを証明した。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟の伝統は現在まで受け継がれている。

◆ 上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。しかし、「漢字が文字作成銀河各部の形状から作られた事実」を証明するためには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 712年に成立した『古事記(こじき)』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻 序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく文字が随所(ずいしょ)に記載され、この文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された夏音(かおん)文字である。この漢字がわが国に伝来した当時は、中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。わが国に以前に存在しなかった「画期的(かっきてき)な発明・文化の文字(夏音文字)」が伝来したため、中期縄文時代が幕を閉じることになり、後期縄文時代という新しい時代が始まったのである。この夏音文字の伝来と習得の歴史については、わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」にて解説した。また、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
 『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作()す」という文までは「わが国に後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と証言していることになる。
 『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷が最も崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)すゆえ、上巻の神話には絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じられた歴史を記述することにした。ゆえに、編纂(へんさん)スタッフは一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば歴史が明確に蘇(よみがえ)る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る方法をもって作成された歴史書である」と、後世に歴史解明方法を伝えていたことになる。
 現在の全学者たちは『古事記』上巻の字面(じづら)の表層(ひょうそう)だけをつまみ食いして〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換しない。この『古事記』上巻の「序」の要旨(ようし)を無視(むし)する方法だと、天照大御神が人民を弾圧して苦しめた歴史が解明できない空論・空想・妄想(もうそう)となる。しかし、『古事記』の「序」の説明・指示(しじ)のとおりにすれば『古事記』上巻に記述された歴史は解明できる。にもかかわらず――現在、『古事記』上巻の「序」の指示にしたがって上巻に記述された真実の歴史を解明し・証明する学者は一人も存在しない。

280289年に著作(ちょさく)された『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に登場する倭女王名の「卑弥呼」を、学者たちは「ヒミコ」と読む。現在、中国に残っている最古の漢字音である上古音で「卑弥呼」を読むと「ピミカ」となる。「ピミカ」は紀元前11世紀末の周代初頭から始まる漢字音である。一方、「ヒミコ」は紀元前21世紀末にわが国が習得した夏音文字の漢字音である。したがって、「ヒミコ」と読む字音は現在において中国に残る最古の上古音「ピミカ」よりも約1000年前の漢字音であるゆえ、現在、残っている最古の漢字音ということになる。
 『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字(こうこつもじ)〕の法(原理)のごとし」と伝えて、「わが国では夏音文字を習得していた」と伝えている。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
 つまり、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」と名づけられた漢字作成原理をまもって作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察し「鳥獣の足跡」のとおりに楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであったのである。
 したがって夏音文字が学芸・文化の基盤となる2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝もまた――伊都国の港では夏音文字と中国・朝鮮半島の楷書とを正しく変換できた点からしても――『古事記』同様に、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換し、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」のとおりに考えてこそ正しい歴史を解明できる文献(ぶんけん)であったことになる。

 なお、楷書は2世紀の後漢(ごかん)時代に出現して6世紀の隋代(ずいだい)に完成したが、この楷書も倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」をキチッとまもって作られた漢字であった。したがって、『魏志』倭人伝と『古事記』に用いられた楷書は「鳥獣の足跡」の漢字作成原理をまもる漢字であったことになる。というのも、『古事記』が成立した7120年当時、現在とまったく異(こと)なり地上灯火もスモッグの影響がまったくなかったので、夜となれば文字作成銀河は「あっ」と息をのんでさけぶほどに壮麗(そうれい)鮮烈(せんれつ)に輝いて「鳥獣の足跡」の原理を明確に示すものであったからである。

 現在、残っている最古の『魏志』倭人伝は、12世紀の南宋(なんそう)の紹煕刊本(しょうきかんぽん)の『三国志(さんごくし)』の魏書(ぎしょ)東夷伝(とういでん)にある一部の記事である。この「『魏志』倭人伝」と名づけられた文献の最初の文字は「倭人伝」であり、その次の本文冒頭は「倭人在帯方東南、云々(うんぬん)」であり――卑弥呼が統治(とうち)した国の正式名は「倭人国」であったと記述する。
 『魏志』倭人伝には、東西南北の方位を記す記事が全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所に一ヵ所も【誤読】を加えなければ、日本列島の東端(ひがしはし)は南へと伸びていることになり事実の日本地理と相違する。この「方位が時計の針が進む方向に90度転回して、〔東〕が〔南〕となる方位規定」が[]の字源・字形・字義となったのである。
 つまり、倉頡が定めた漢字作成原理「鳥獣の足跡」にもとづき、[]の字源・字形・字義では「方位規定を時計回りに90度転回する」と定められていたのである。
 A図は、内側の現在方位の〔東〕は外側の[]の字源では時計回りに90度方位が転回して〔南〕となると示す解説図である。したがって、A図は「日本列島の〔東方〕は〔南方〕へと伸びると定める方位規定」を示す[]の字源解説図である。
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(C) 2018 OHKAWA 

 「二十四史」と呼ばれる24の中国の正史の一書に『後魏書(ごぎしょ)』または『魏書(ぎしょ)』と呼ばれる文献がある。『後魏書』は全部で130巻からなる紀伝体(きでんたい)で、本伝(ほんでん)と列伝(れつでん)554年に、志の部分は559年に成立した。
 上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)は直木孝次郎教授が論述した「邪馬臺国の位置論」の323頁において「明治の学者の内藤湖南(ないとうこなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記している」と指摘(してき)する。この『後魏書』の勿吉伝の〔東南〕を〔東北〕に変換する方位規定は「時計回りの逆方向に90度回転する方位規定」であるゆえ、B図に示す[()]の字源・字形・字義となる地理における方位規定であったのである。
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(C) 2018 OHKAWA
 
◆倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内経』の[]は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮に宿る胎児(たいじ)や出産器官の産道(さんどう)」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇時代の易に用いられた記号では黄帝の研究をあらわすことができなかった。ゆえに、倉頡が黄帝の女性の生殖器・子宮に宿る胎児・出産状況の研究をあらわす文字を発明することになったのである。

 中国では黄帝時代からシナ天文が完成した紀元前1世紀の前漢時代までは、C図に示す天頂点(てんちょうてん)と重なる銀河部位が天頂点の間近(まぢか)において西から東へと平らに横へ一直線をえがく軌道すなわち緯度線をキャッチする呪術(じゅじゅつ)が栄えていた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 この呪術は、わが国では遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末頃まで栄えた。この天頂緯度線をキャッチする呪術は[(げん)]の字源・字形・字義となった。
 人間には原始の時から[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。ゆえに、[]のキャッチのおかげで人々は遠くの地へ旅しても家族が待つ家に帰ることができ、陸地から遠く離れる大海も無事に往来(おうらい)することができたのである。
 天文における「歳差(さいさ)」という現象にもとづくと、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、D図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝を祭る廟(びょう)と黄帝の墓とされる黄帝陵と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」と「四つ目の銀河」(「倉頡」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」のおける鬼の横顔の銀河の両目と首につく両目で目が四つとなる銀河)がめぐってきた。
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(C) 2018 OHKAWA
 

黄帝時代に中国各地の天頂緯度線の基準となった「十字の銀河」は、E図に示すように乳房や子宮に相当する箇所(かしょ)があるゆえ、女体(にょたい)に相似する。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 倉頡は、黄帝の医学研究をあらわすために「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。この倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と呼称(こしょう)されることになったのである。
 F図に示す[]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字)は、「十字の銀河」を「母体の正面」に見立てて「子宮に胎児を宿る、おなかが前へつきでて円い妊婦(にんぷ)」を図案している。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 G図に示すように、「十字の銀河」は[]の上部の[(べん)]の字源・字形・字義となり、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義となり、[][]が加わって[]の字源・字形・字義となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 前述した漢字作成原理「鳥獣の足跡」は「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めたゆえ、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれた子」であることを示して[]の字源・字形・字義となった。

◆C図の右上に示した[]の金文形を、H図の右側に配した。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 [][(とう)][(よう)]を加えて作られる。文字作成銀河を見て字源を解説した前漢の漢字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字形を「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたどる)る」と解説する。つまり、[]の字形はH図の左図の[]の下に図示した「頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の生子(せいし/出産児)」の図案である。
 出産をむかえて子宮口が全開大(ぜんかいだい)となってすっかり開く開口期(かいこうき)の終わりには、子宮内の胎児の頭は骨盤(こつばん)入口の上ではアゴを胸につけた姿勢で胎児の背は母体の左または右にあり、中ほどにくると胎児の頭は斜め後ろ(母体の腹側)に顔を向け、骨盤出口では顔を後方に向ける位置をとる。開口期の終わりでは、ほぼこの状態になる。次いで胎児の頭はふたたび母体の左または右を向くが、骨盤出口を肩の部分が通過する時に、胎児の肩はまず母体の腹側にあるほうから先に、ついで母体の背側の肩が出ると、あとは頭が一気に生まれて――H図に示す姿勢(胎児の顔は母体の背側を向く)となる。このような胎児が体をくねらせる生まれる様子を表現して、[]の字源「子の初生の姿」は[8]の字の形に図案されたのである。
 孔子(こうし)と並ぶ中国の思想家の紀元前54世紀頃に生存した老子(ろうし)の教えを説く『老子』第一章は、C図の[]をキャッチする時の心得(こころえ)について「常に無欲(むよく)にして以(もっ)て其()の妙(みょう)を観()、常に有欲(ゆうよく)にして以て其の徼(きょう)を観る。この両者は出()でて名を異(こと)にし、同じく之(これ)を玄と謂()う」と説明する。
 このように、[]をキャッチする時には――生まれてくる子が産道を通過する時のように常に無欲であれば1分の精度で[]をキャッチできる妙なる(不思議な)能力が人間にはそなわっているが、常に必ず[]をキャッチしようと欲を持つと川・湖・海などの岸や渚(なぎさ)にうち寄せられて風雨にさらされる徼の白骨死体となる。妙([]のキャッチ)と徼(白骨死体)は同じ字源銀河から出でたが(作られた)が、意味は異なる――と、老子は説く。
 この老子の言葉は老子みずからが考えた[]をキャッチする時の心得を述べたものではなく、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」が定めた[]をキャッチする時の心得を伝えるものであったのである。
 五帝時代、遠くの地・ツンドラ地帯に生息するジャコウウシを狩り行く人々が道すがらおこなうポーズは、I図のごとくであった。
K103
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 わがブログ「真実の日本国誕生史・40」で詳細に解説し証明したように、D図に示した五帝時代の[]のキャッチで測定(そくてい)できる天頂緯度線の状況と[]をキャッチする両目(鬼の横顔に似る銀河の両目)を図にすると、J図のごとくなる。
K104
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 I図の左図に示した「道すがら歩く時の狩人(かりうど)の両目」はJ図下部の「鬼の横顔に似る銀河の両目」に見立てられ、I図の右図の「[]をキャッチする時の狩人の両目」は「鬼の首(アコと後頭部に付く両目)」に見立てられた。
 K図に示すように、[]をキャッチする両目は「激流(げきりゅう)の銀河」を見ているように観える。
K105
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 「激流の銀河」が[]の字源である。[]の偏(へん)[]は「行く。歩く。旅する」をあらわす。[][(きょう)]の字も用いられる。[]の偏の[]は「川・湖・海の岸や渚に打ち寄せられて風雨にさらされる白骨死体」をあらわす。「北アメリカ星雲」は「人の頭蓋骨(ずがいこつ)」の形に相似する。ゆえに、「北アメリカ星雲」は「骸骨(がいこつ/どくろ。されこうべ)」に見立てられた。K図に示すように、「[]をキャッチする目の、鬼のアゴに付く細い目」の端を貫通した太湖南岸の天頂緯度線は[][]の字源「激流の銀河」をも貫通する。「天頂緯度線のキャッチ」は「[]のキャッチ」であるゆえ、老子は「[]と徼(/白骨死体)は同じく出でて名を異にし、同じく之を玄と謂う」、つまり「[][][()]」の字源銀河は同じである」と説いたのである。
 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・4」で解説したように、[]の古代字形は、L図の「だいぶ人らしくなる第8週中頃からの、いくらか膝(ひざ)を曲げて子宮に宿(やど)る胎児の側身形(そくしんけい)」の図案であった。
K111
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 []の字源は、前述した出産第1期の開口期終わりの「母体の背側に顔を向け、頭をすっかり後方に向けて骨盤出口のおける胎児」つまり、M図に示す「胎児のポーズ」であったのである。
K112
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 結局、G図に示した[]の字源の「首に[]をキャッチする両目を有する、鬼の姿に似る銀河」が[]の字源となった。つまり、倉頡は「鬼の姿に似る銀河」を「出産第1期の開口期の終わりから出産第2期の娩出期終わり(H図左図の[]の下の図)までの無欲で産道を通過する生子」に見立てて[]の字源と定めた。だから、老子は上記した『老子』の第一章で、漢字作成原理「鳥獣の足跡」において[]をキャッチする心得を定めたとおりに「産道を通過する子ども、つまり[]の字源の胎児のとおりに無欲であれ」と説いたのである。

◆したがって、『魏志』倭人伝冒頭の「倭人国」の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。というのも、倭国では[]をキャッチする習慣が栄えていたからである。
 倭国では沙漠(さばく)のごとく毎日乾燥(かんそう)して晴れの日が続かず、雨や曇の日々もあるゆえ、少々(しょうしょう)(きり)がかかっても[]をキャッチできる呪力(じゅりょく)が求められた。だから、「倭人国」の[]は「少しぐらい霧がかかっても、[]をキャッチすることができる呪力」をあらわしていたことになる。
 N図に示すように、すべての文字を生む母体の「十字の銀河」に「頭が誕生する生子の図」を加えると、「母体(十字の銀河)の背側に向ける生子の顔」は「東を向く」ことになる。このN図の状況だと、人が住む中国の陸地は西にあり、東は大海であるゆえ不合理となる。
K113
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 それゆえ合理を成立させるために、O図に示すように[]の字源「〔南〕が時計回りに90度転回して〔西〕となる方位規定」と[]の字源「〔南〕が逆時計回りに90度転回して〔東〕になる方位規定」が成立することになったのである。この[][]は人々の生命をまもる[]のキャッチの方位規定にはまったく影響(えいきょう)が及ばない、地名だけに用いられる字と定められた。
K114
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 A図の[]の方位規定とB図の[]の方位規定は、O図の「十字の銀河」の下部に示した方位規定に合致する。
 したがって、P図に示すように、「禾(イネ)の穂()は十字の銀河の南から西へと垂れる」と定められる[]の字が作られることになった。
K115
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 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)[]の字について「いねの象形(しょうけい)。また軍門(ぐんもん)の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形」と解説する。「軍門」とは「呉の地に遠征した黄帝軍の軍門」であったにちがいない。ゆえに、黄帝は黄帝軍の兵士たちが住む建物には、倉頡が図案した[]の字を模(かたど)る標木()を袖木でささえる組木装置(くみきそうち)が「門」となって設置されたと考えられる。
 P図の下に示すように、[]の下に「十字の銀河」は女体に相似するゆえ[]が加わって[]の字が作られ、「十字の銀河」は「人」の姿にも相似するので人偏(にんべん)[]の字が加わって[]の字が作られた。
 そして、[]の字は[]の字源「時計回りに方位が90度転回する方位規定」を受け継ぐものであったゆえ、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は「卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕は時計回りに90度転回して〔南〕となる転回日本列島地理を制定(せいてい)した」と伝えていることになる。
 倭では、卑弥呼王朝がA図に示した[]の字源に合致する転回日本列島地理を制定し、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」の、その首には[]をキャッチする呪力を示す両目の銀河が存在し(K図参照)、人々は[]をキャッチする呪力を最も重視するものであったゆえ、女王卑弥呼が統治(とうち)する国名の正式名は「倭人国」となったのである。

◆黄帝時代から卑弥呼が生存した三国時代においても、淮河(わいがわ)を境とする中国北方の華北(かほく)地方では中国南方の華南(かなん)地方よりも降水量が少なかったので、常に禾(稲や麦など穀物)の生育を心配することになった。このため、華北地方の地名は[]の方位規定であらわされることになった。ゆえに、三国時代、華北地方の国名は[][]が加わる[]の字で表示された。
 三国時代、淮河より南の華南地方の国名は[]であった。黄帝時代以来、降水量が多い華南地方では晴天の日々が少なかったので[]のキャッチに失敗して多数の人々が命を失ったので、人口の増加を天に願って子授(こさず)け祈願(きがん)や出産祝いが盛んにおこなわれた。
 Q図の金文形は、「十字の銀河」を「巫女(みこ)」に見立てて、「巫女が水を入れた土器の口部(こうぶ)を天頂に向けて、胎児が体をくねらせて産道を通過するように巫女が舞って子授け祈願と出産祝いをする様子」を図案するものであったのである。
K116
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 R図に示すように、「十字の銀河の子宮」は「口部が南となる土器」の形に見立てられた。
K121

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 R図右側の「十字の銀河の子宮」はS図の左下のごとく180度ひっくりかえされ、S図の左上のごとく「十字の銀河の子宮(上が口・産道、下が子宮底)」は解釈されることになった。というのも、「十字の銀河の子宮」に見立てられたR図右側の器(土器)は――S図の左側に示すように、胎児の命をまもる子宮内の羊水(ようすい)に見立てた水を入れて、その口部を天頂に向けて子授け祈願や出産祝いがなされたからである。この「出産祝いや子授け祈祷に用いられた器」は、[(さい)]の字源となった。
K122

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 その証拠に白川静著『字統』はS図右側の[(さい)]の字について「概(おおむ)ね祝祷(しゅくとう)する器の形である」と解説する。したがって「祝祷」は「祝い祈祷する」と意味するゆえ、五帝時代においては[(さい)]は「煮炊(にた)き器具や食器にも用いられたが、主として子授け祈願や出産祝いに用いられた土器」であったことになる。
 そして、わがブログ「漢字習得定説のウソ・3」で詳細に解説した「十字の銀河の腰周辺の幽(かす)かな眉と目の銀河」にもとづくと「十字の銀河の子宮」は「鼻」に相当する。そして、鼻の下の「口」は、T図の左図に示すように、[(さい)]の字源「祝祷する器具・土器の口部」がある下の南にある。また、「十字の銀河の子宮」を「女性の生殖器(せいしょくき)」に見立てると、「子宮口(内子宮口・外子宮口)から膣口(ちつこう)までの産道」は「十字の銀河の子宮の南部」にある。だから、S図の右側に配した[(さい)]の金文の字源は「T図の左図の〔口〕の部分」と「十字の銀河の子宮の口部(子宮口から膣口までの産道」となったゆえ、字形は[]の図案となり、字音は「さい」となったである。
K123
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 U図に示すように、女性の生殖器の大半を包んで胎児の命をまもる「骨盤(こつばん)」の、その「上口(じょうこう/骨盤出口上側の穴」は「十字の銀河の頭部」の形に相似する。
(
U図の上図の「十字の銀河の頭部」の上下を180度転回すると、両者の穴の形が相似する)
K124
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 ゆえに、V図に示すように、[]の金文形は「巫女に見立てた十字の銀河の頭部(骨盤上口に似る頭部)の隣(となり)の右肩(みぎかた)の上に、巫女が[(さい)]の口部を天頂に向けて身をくねらせて舞う図案」となって、「〔北〕は逆時計回りに90度転回して〔西〕になる」と表示されることになった。
K125


 これゆえ、白川静著『字統』は[]の字について「身をくねらせて舞う形で、神を悞(たの)しませ、祝祷を行う意」と解説する。
 以上のごとく、B図に示したように[]の字源は「時計の逆回りに90度方位を転回する方位規定」をあらわし、またQ図に示したように[]の金文形は「十字の銀河」を「巫女」に見立てて、「巫女が水を入れた土器の口部を天頂に向けて、胎児が体をくねらせて産道を通過するように巫女が舞って子授け祈願と出産祝いをする様子」を図案するものであったことになる。

◆ただし、前述したように倉頡が発明した「鳥獣の足跡」では、地理(地図)において[]([][][])と名づけられた遠くの地に旅した人々が迷わないために、その地にあっても[]のキャッチした「東・西」の緯度と「南・北」の経度は常に不変で変わらないと定めたのである。したがって、[]のキャッチと地名だけに用いられる[][][][]の方位規定は同一ではなく、両者はまったく別なるものと定まっていたことになる。だから、人々は、なんら生活において不便ではなく不都合(ふつごう)でもなかったのである。
 なお、O図に示した[][]の転回方位規定にもとづいて、「方位がわからなくなって、道にまよう」の「まよう」の字は之繞(しんにゅう)に「禾・いねの実」の[]が加わる[]となった。
 次回は、遠くの地に行っても常に人々の命をまもる方法であった[]のキャッチの方位規定は地名に用いられた[][][][][]などの方位規定に影響をうけなかったことを伝える記事が、『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)に記述されているので、この記事について解説する。

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