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2018年5月

2018年5月28日 (月)

漢字習得定説のウソ・14

 ●『魏志』倭人伝は漢字作成原理を伝える史書であった
■倉頡が「聖人」と呼ばれた秘密の解明

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回から4回まで詳細に証明したように――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説は事実であった。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 「倉頡が漢字を発明した」と伝える伝説が事実であったことは、280年~289年に著作された通称「『魏志』倭人伝」と呼ばれる文献にコンパクトに記述された。しかし、学者たちは多数の【誤読(文献批判)】を加えて『魏志』倭人伝を「邪馬台国論」のために存在する書物のごとくに変貌(へんぼう)させてしまった。でも、本来、『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成方法が解明できる――このために存在した書物であったのである。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で「『古事記』序の秘密」と題して詳細の解説し証明したように、712年に成立した『古事記』の序の記事は下記のごとく伝える。
(1)
『古事記』序は冒頭で「中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭/紀元前2070年頃~同2050年頃)、夏音(かおん)文字が日本列島に伝来して習得された」と説明する。
(2)
『古事記』が成立した当時に用いられていた楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義であった。というのも、楷書と夏音文字の両漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とするものであったからである。つまり、『古事記』の序は――楷書以前の全漢字は倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めて作成された。だから、楷書「日下」と夏音文字「玖沙訶」は同義、楷書「帯」と夏音文字「多羅斯」は同義となった――と現在に伝えていたのである。
(3)
『古事記』序は――『古事記』上巻は、その随所に〔音〕という注を付けて楷書で表記される多数の夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、おのずと楷書の字源・字形・字義も文字作成銀河各部の形状であることが立証され、真実の歴史を知ることはできる仕組みになっている――と、上古の真実の歴史を解明するために作成された。つまり『古事記』上巻は――大和朝廷が最も偉大な先祖と定める天照大御神が、伊耶那美命(いざなみのみこと)が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を苦しめた歴史――を伝える反逆の史書であった。だから、こ『古事記』序が説明する歴史解明方法を無視する今日の学者たちの解釈・意見は、当然、【誤読の空論】ということになる。
 大和朝廷は『古事記』上巻に記述された天照大御神の聖性をいちじるしく汚す真実の歴史を隠蔽(いんぺい)する虚構工作(きょこうこうさく)を、720年に完成した『日本書紀』を正史(せいし)と定めておこなった。『日本書紀』は日本国誕生史が不明確となる失敗作品であった。朝廷は『日本書紀』が完成した直後から村上天皇の康保(こうほ)年間(946967)までの約250年間、『日本書紀』の日本国が誕生した歴史をアイマイに伝える記述を利用して『古事記』上巻に記述された真実の歴史をねじ曲げる解釈を考えた学者たちの講義つまり講書(こうしょ)を幾度もおこなった。この講書の解釈・意見は、近世の本居宣長(もとおりのりなが/17301801)に受け継がれ、さらに宣長の意見・解釈を今日の学者たちは受け継ぐ。だから、今日の学者たちは『古事記』序が「『古事記』上巻は夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史を解明できる仕組みにした」と説明する歴史の解明方法を無視する。だから、今日の学者たちの解釈・意見は、当然、【誤読の空論】ということになる。学者たちは自分たちの解釈・意見は真実の歴史をねじ曲げる虚偽(きょぎ)、まったく空虚(くうきょ)なものであることに気づいていない。

倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代の夏音文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と、さらに『魏志』倭人伝に加えた数々の【誤読(文献批判)】によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされた。
 (3)の掟を破った殷代後半の甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 夏音文字、夏音文字を表記する楷書、契文(けいぶん/甲骨文字)、金文などすべての古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。この事実によって、現在の学者たちが主張する邪馬台国説と『古事記』上巻の意見は【誤読の空論】であることが科学的に証明される。

◆前述したように、『古事記』序の冒頭記事が証言するように――夏音文字は後期縄文時代初頭にわが国に伝来して習得された。ゆえに、3世紀後半に著作された『魏志』倭人伝に登場する倭女王の名「卑弥呼」を「ひみこ」と読むと――この字音は夏音文字の字音で読んだことになり、わが国には夏音文字は伝来してことを結果的に認めたことになる。
 しかし、新井白石(あらいはくせき/16251725)以後、学者たちは『魏志』倭人伝を多数の【誤読】を加える「文献批判」という立論方法を確立させた。このため1ヵ所も【誤読】を加えない立論方法は排除(はいじょ)されて、倉頡が発明した漢字作成原理を科学的に解明できる研究の門が厳重(げんじゅう)に閉()ざされて世界史的に重大な史実が失われた。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回・8回で、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ、〔東〕へ伸びる日本列島は〔南〕へ伸びるという考え(地理)こそがすべての矛盾点を解消して【科学】が成立することを証明した。この「時計回りに〔東〕が〔南〕となる転回方位」は倉頡が考えた[()]の字源をあらわすものであり、この[]の字源の「転回方位」は[()][()]の字に受け継がれた。ゆえに、卑弥呼王朝は倉頡が考えた転回方位にもとづき「日本列島の東方は南へ伸びる」という錯覚の転回日本列島地理を制定して、国名「倭人国」と定めたのである。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・9」では『魏志』倭人伝の対馬(つしま)国から奴()国までの小国名に用いられた各字の字源銀河を解明し、また「漢字習得定説のウソ・10」では対馬国・投馬(つま)国・邪馬壱(やまい)国・斯馬(しま)国・邪馬(やま)国の[]の字がつく5ヵ国の小国名の使用された字源銀河を解明して、これらの国名は倉頡が発明した漢字作成原理を伝えていることを証明した。また「漢字習得定説のウソ・11」では『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬台国」と表記せずに「邪馬壱国」と表記していることを指摘し、「邪馬壱国」の[]の字源銀河は「倉頡が発明した漢字作成原理=鳥獣の足跡」をあらわすことを証明した。また「漢字習得定説のウソ・12」では奴国・弥奴(みな)国・姐奴(つな)国・蘇奴(さな)国・華奴蘇奴(かなさな)国・鬼奴(きな)国・烏奴(あな)国・奴()国・狗奴(くな)国の9ヵ国の小国名につく[]の字源は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣「ジャコウウシ」に由来(ゆらい)することを証明した。
 前回の「漢字習得定説のウソ・13」では不弥(ふみ)国=北九州の宗像地方、呼邑(こお)国=近江・滋賀県、弥奴国=尾張・愛知県西部、好古都(こかた)国=三河・愛知県東部、不呼(ふこ)国=遠江・静岡県西部、この5ヵ国の小国名は水辺に生息する小鳥の「カンムリカイツブリ、ハジロカイツブリ、鳰(にお/カイツブリ)」をあらわしていることを証明した。つまり、上記の小国名に用いられる[]の字源は「カンムリカイツブリ」、[]の字源は「鳰(カイツブリ)」であった。「好古都国」の[]の字は「女性の生殖器の卵管采(らんかんさい)・卵巣(らんそう)の形に相似すると見立てられた飾羽(かざりばね)を顔に有するハジロカイツブリ」をあらわした。
 今回は、上記の小国名に用いられた[]は「カンムリカイツブリ」、[]は「鳰(カイツブリ)」、[]は「女性生殖器の卵管采と卵巣」の字源であった――この秘密に注目すると、倉頡が発明した漢字作成原理が明白となることを立証する。

◆夏音文字がわが国に伝来した約1000年前の五帝時代初頭に生存した
黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器・子宮と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡によって黄帝の医学研究をあらわすことができる漢字が発明されることになったのである。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 三皇時代・五帝時代、A図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができた。
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして“迷っていない”と安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる本能もそなわっていた。
 だから、『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語は「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望する未曾有(みぞう)の国難」を表現するものであった。ゆえに、原始と上古の人々の最大の恐怖は「[]のキャッチに失敗して迷うことであった」のである。
 []の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得(こころえ)」をあらわした。この[]の字源を2世紀に成立した字源を解説する字書の『説文解字(せつもんかいじ)』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる、という心得」をあらわした。
 緯度は、北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度でも計測できたが――天の北極の高度を緯度に換算する、この方法では原始から上古の人々は必ず命を失うことになった。
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 B図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、1分の精度でキャッチできる、A図に示した[]をキャッチできる眼力(がんりき)に人類は命を委(ゆだ)ねたのである。
 『説文解字』は、三皇時代の政権基盤であった[(えき)]の字源を「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を渡る旅しても、トカゲのごとくかならず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 黄帝や倉頡が生存した五帝時代初頭の北極星は天の北極を中心にして約100分の円周を描いていたので「死に直結(ちょっけつ)する星」であったので、人々は1分の精度で緯度を測量できる[]をキャッチして命をまもって生活を営んでいたことになる。
 卑弥呼が生存した3世紀、B図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかったゆえ、当時の人々が道に迷わずに命をまもる方法はA図の右上の[]をキャッチする方法であったことになる。
 〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづくと――紀元前3000年頃の五帝時代初頭、C図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上に示した「十字の銀河」と「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河の両目と首につく両目の計四つの目)」がめぐってきた。
K413
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◆D図の右図が示すように、「十字の銀河の西側半身」には「女性が有する乳房、妊婦(にんぷ)の腹部(おなか)、子宮(に相当する箇所)」に観()える部分がある。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 ゆえに、
倉頡は黄帝の女性生殖器の医学研究をあらわすために、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作る、すべての漢字を生む母体」、また「十字の銀河の子宮」を「すべての漢字が生まれる子宮」と定めた。だから、倉頡が定めた漢字作成原理をあらわして、D図の左側の[]の金文形(周代に用いられた字形)は「十字の銀河」を「女性の正面形」に見立てて、「子(胎児)が子宮に宿る妊婦の姿」に図案した。
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 E図に示すように、[(べん)]の字源・字形・字義は「文字作成銀河各部の形状から作られた全文字を母体となる十字の銀河」である。したがって、[]の字源・字形・字義は「文字作成銀河」でもあった。そして、[]の下に[]が加わる[]は「十字の銀河から生まれて繁殖(はんしょく)する多数の子=文字」をあらわした。
 このように、D図とE図の[][]の字源・字形・字義は、倉頡の漢字作成原理をあらわすことになった。
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 倉頡は、F図に示す「娩出期(べんしゅつき)における、頭が生まれる子は母体の背を正面として出産する様子(ようす)」に注目した。
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 G図に示すように、倉頡は全漢字の母体となる「十字の銀河の股(また)となる〔南〕」に〔頭が誕生する子の姿〕をあてはめた。そうすると、子は〔東〕を正面として誕生するゆえ――この様子だと「中国の人々が生む子は中国の〔東〕の〔大海〕から生まれて、大海の〔西〕の〔陸地〕では生まれない」ということになるので、D図の[]とE図の[]で示した漢字作成原理に不合理な点が生じると、倉頡は考えた。
K422

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 そこで、倉頡は「中国の人々は大海より〔西〕の陸地で生まれる」をあらわすために、H図の下部に示す[()][()]の字を考案した。
 このため、[]の字源・字形・字義は「〔南〕が時計回りに90度転回して〔西〕となる方位規定」をあらわすことになった。
 
◆I図に示すように、倉頡が考えた[]の字形は「いね()の穂が十字の銀河の〔南〕から〔東〕へ垂れる形」と定めたゆえ、字義は「穀物」や「いね()」をあらわすことになった。
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 後世、[]の下に「女体に相似する十字の銀河」から[]が加わる[()]の字が作られた。また、「十字の銀河」は「人体」に相似するゆえ、偏(へん)[][]が加わる[]の字が作られた。ゆえに、[][]は倉頡が考えた[]の定義「時計回りに方位を90度転回して、〔南〕は〔西〕になると定める方位規定」を受けついだ。
 だから『魏志』倭人伝に、J図に示す「転回日本列島地理」が記述されることになった。
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 J図の転回日本列島地理は「日本列島の〔東〕は〔南〕に伸びる」と示すゆえ、I図に示した「時計回りに90度転回して、〔東〕は〔南〕となる」をあらわす[][][]の字を示す。この「転回日本列島地理」は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えなければ成立する。
 だから、卑弥呼王朝はJ図に示す転回日本列島地理を制定していたことになる。
 J図の左側に玄界灘に浮かぶ沖ノ島を図示した。「玄界灘」の[]はA図に示した[]であるから、「玄界灘」という名は「天の北極の高度を緯度換算する方法だと往来することができないが、[]をキャッチすれば往来できる灘(陸地から遠く離れた波の荒い海原)」ということになる。
 日本列島の東と西の端にあって遠く離れる沖ノ島と神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であることは、B図に示した約1200分の円を描く北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法では測量することができない。したがって、沖ノ島と神津島の同緯度は、A図に示した[]のキャッチをもって測量されたことになる。
 だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は――A図に示した[]のキャッチによって測量された沖ノ島と神津島の同緯度にもとづき、卑弥呼王朝は[]の字源をあらわす転回日本列島地理を制定して、国名を「倭人国」と定めた――と伝えていたことになる。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 K図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候であるゆえ〔西冷〕となり、日本列島の東端の亜熱帯気候の神津島は冬になっても雪が降らない暖かい土地であるゆえ〔東暖〕となる。そして、中国の北の海岸線地域は冷たい気候であるから〔北冷〕となり、南の海岸線地域は暖かいゆえ〔南暖〕となる。そして中国海岸線地域の〔北冷〕の日本列島の〔西冷〕は〔冷たい気候〕で合致し、中国海岸線地域の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は〔暖かい気候〕で合致するゆえ、卑弥呼王朝は「日本列島の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕の方へと伸びる」と考えて転回列島地理を制定したことになる。

◆L図に示すように、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「巫女(みこ)たちが子どもの出産を祝いまた祈祷(きとう)するときに用いる土器」に見立てた。
K431

(C) 2018 OHKAWA
 
 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「口(くち)」の字形について「卜文(ぼくぶん/契文=甲骨文字)・金文にみえる字形のうち、口耳の口とみるべきものはほとんどなく、概(おおむ)ね祝祷(しゅくとう)の器の形である[(さい)]の形に作る」と解説する。
K432
(C) 2018 OHKAWA
 
 M図の右側に[(さい)]の字形を示した。[(さい)]の字源は「十字の銀河の子宮」であり、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「巫女が祝祷する時に用いる土器」に見立てて[(さい)]の字を作った。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 N図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を「巫女が体をくねらせて舞う姿」に見立てて、「祝祷する土器[(さい)]」を「十字の銀河」の西の肩の上に配置して「〔北〕が〔西〕へと時計回りと逆方向に90度転回する方位規定」を考案した。というのも、H図に示した[]の「〔南〕が〔東〕となる定義」だと「子どもたちは陸地に生まれずに東の大海で生まれる」ことになって不合理となるため、N図に示す「〔北〕が〔西〕へ逆時計回りに転回する方位規定」を倉頡は考案して「大海の西の陸地で子どもたちは生まれる」ようにしたのである。
 ところが、I図に示した[]の字の考案はなにゆえ「十字の銀河」が「いね()」の図案になるのか、その解釈は疑問視された。しかし、[]の形は「黄帝軍の軍門」をもあらわしたため、黄帝軍を畏怖(いふ)して批判の声を挙げる者はいなかった。いっぽう、N図の右側に配した[]の作字は不可解(ふかかい)、あるいは幻想、空想などと批判されることになった。この批判の声は、O図に示す[()]の契文・金文の両字形となって残った。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 なぜ「十字の銀河の子宮」を「巫女が祝祷する土器の[(さい)]」にとするのか理解にくるしむが、あえてこの意見に賛成することにしても――O図に示したように「十字の銀河の頭部」を「西に[(さい)]の口部を向ける形」に図案し、この[(さい)]の下に[]字形の身体の図案を加えれば簡潔な[]の字となるのではないか――と、倉頡が考案した[]の字は疑問を抱かれ困惑(こんわく)されて批判されることになったのである。
 だから、O図の[]の契文・金文の両字形は――心に疑惑を抱き、杖(つえ)で倉頡の[]の作字に賛同できずに体が凝()り固まって天頂にめぐってくる[]の字源「十字の銀河」を仰ぎ見る人の様子――をあらわす図案であったのである。

◆E図に示した、母体から生まれた[]をあらわす字源の「鬼の姿に似る銀河」を、P図の左側に配した。P図に示すように「鬼の姿に似る銀河の西方」は「カエルの後ろ足」のような形となる。鳰(カイツブリ)が泳ぐ姿は上から見ると、「鬼の姿に似る銀河の西部」のごとく「鳰の尻(しり)附近にある足をカエルの後ろ足」のごとく使う。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」から、倉頡は[()]の初文(しょぶん/最初の字)[()]の字を考案した。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 また、「鬼の姿に似る銀河」はP図の右図の「カンムリカイツブリの姿」に相似し、「鬼の姿に似る銀河の西部」は「カンムリカイツブリが求愛ダンス(繁殖行動)する時の飛び散る水飛沫(みずしぶき)」にも見立てることができる。したがって、「鬼の姿に似る銀河」から倉頡は[(/)]の初文の[()]の字も考案した。
 子宮は、長さ78cm、幅4cm、厚さ3cmほどで、妊娠すると胎児の成長にともなって増殖肥大(ぞうしょくひだい)し、子宮の筋層(きんそう)は非常に大きく引き伸ばされ、分娩後(ぶんべんご)には収縮(しゅうしゅく)する。
 P図で解説した[][]の字源となった「鳰」の全長は2529cmと小さく、1回に平均15秒ぐらいから30秒ほど潜水(せんすい)できる。[][()]の字源となった「カンムリカイツブリ」の全長は4661cmで、30秒以上も潜水することがある。子宮に宿る胎児は羊水(ようすい)の中に潜(もぐ)り、羊水は(1)羊膜(ようまく)と胎児との癒着(ゆちゃく)を防ぎ、(2)胎児の表面の乾燥を防ぎ、(3)外からの力が直接胎児や胎盤(たいばん)に加わるのを防ぎ、(4)また、逆に胎児の運動が子宮の壁(かべ)に激しくおよばないようにする役割がある。このように「羊水に潜る胎児」をあらわすため、倉頡は「子宮」と「胎児」を「鳰」と「カンムリカイツブリ」に見立てたて[][]の字を創(つく)ったのである。
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 Q図に示す鳰の浮巣(うきす)の産座(さんざ)で育つ卵は始め白いが次第に汚(よご)れて土色(褐色・かっしょく)となる。だから、倉頡は「土色に汚れる鳰の卵」から「子宮」を「土で作る土器」、すなわちM図に示したように「巫女が祝祷する時に用いる土器」と同一視(どういつし)する[(さい)]の字を考案した。
 ヒトの一生の始まりは男女の性交による卵(らん)と精子(せいし)の合体から始まる。卵と精子は肉眼で見ることができずきわめて微小(びしょう)であったゆえ、黄帝の女性生殖器の研究では発見されていなかった。
 しかし、黄帝は、R図の上図の「妊娠のはじまり」とされる「卵が子宮の内壁(ないへき)に着床(ちゃくしょう)する卵期の様子」を発見していたか、あるいはR図の下図の長円板状の「胎標(たいひょう)」を発見していた。胎標は後にヒトになる部分である。
 それというのも、R図の上下2図の形状は、Q図に示した「鳰の浮巣と卵を育てる産座」に相似するゆえ、黄帝はR図の上図か下図に示した様子を発見していたことになる。
K441
(C) 2018 OHKAWA
 
 黄帝はR図に示した上図の「卵の子宮内壁の着床」か下図の「胎標」のどちらかを発見していたゆえ、倉頡は[][]の字を創造(そうぞう)することになったのである。ゆえに、R図の状況によって「ヒトの年齢のはじまり=0歳」が定められたため、古代の人々の年齢(数え年)は「胎児が誕生した瞬間に一歳」と数えることになったと考えられる。
K442
(C) 2018 OHKAWA
 
 したがって、S図に示す[]の上の[]は「心臓の動悸(どうき)がはじまり、血液が流れはじまる第4週の後半ごろの胎児の姿」をあらわし、[]の下の[(べい)]は「鳰の浮巣の産座」に相似するR図の上図あるいは下図の様子をあらわすことになる。ゆえに、S図の[]の金文形は「数え年0(ゼロ)歳」をあらわす文字であったゆえ、[]の字義は「はじめ」となったと考えられる。

◆T図の左図は、上掲した「文字作成銀河」において右側(西側)の大部分の範囲を占()める、「巨大な夏の銀河像」(夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部)である。
K443
(C) 2018 OHKAWA
 
 T図に示すように、「わし座α星(彦星)がある銀河部から夏の銀河の西南部までの、巨大な銀河」は[]の字源「鳰」が歩く姿に相似する。
K444
(C) 2018 OHKAWA
 
 U図に示すように「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の額(ひたい)」には、天文学用語となる「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がある。「北天の最輝部」は「北半球に住む人々にとって最も輝いて見える銀河部」のことである。「北天の最輝部」の東側には、これまた天文学用語の「コールサック」がある。「コール」は「石炭」、「サック」は「袋」を意味するゆえ、「コールサック」は「真っ黒な石炭袋のような暗黒天体部」ということになる。
K451
(C) 2018 OHKAWA
 
 V図に「北天の最輝部」の形状を示した。「北天の最輝部」は「水飛沫(みずしぶき)を飛び散らせて激しい求愛ダンスをするカンムリカイツブリの姿」にそっくりである。というのも、「北天の最輝部」は銀白色に輝くからである。求愛ダンスする時に見えるカンムリカイツブリの喉(のど)から下の首・胸部・腹部は銀白色に輝く。ゆえに、「北天の最輝部」は「求愛ダンスするカンムリカイツブリの喉から下の銀白色の姿態(したい)」に酷似する。
 T図に示した「鳰の歩く姿」に相似する「わし座α星がある銀河部から夏の銀河の西南部」までは、W図に示す「男根(だんこん/男性の性器)の形」に相似する。このため、「コールサック」が「女陰(じょいん/女性の性器)」のイメージとなる。
K452

(C) 2018 OHKAWA
 
 上掲した「文字作成銀河の写真」を参照すれば、W図で示した「男根」のイメージには異論(いろん)なないにちがいないから、「コールサック」を「女陰」に見立てる解釈にも多くの人々が賛成するにちがいない。
 ヒトの一生は女陰と男根の合体からはじまるゆえ、倉頡は「男根」の形となる「わし座α星がある銀河部から夏の銀河の西南部」を注目して「鳰」をあらわす[]の字を考案し(T図を参照)、「女陰」に観える「コールサック」の西側の銀白色に輝く「北天の最輝部」に注目して「求愛ダンスをするカンムリカイツブリの喉から下の首・胸部・腹部の銀白色の姿態」にもとづく[]の字を考案したのである。
 X図は、C図と同じく五帝時代の天頂緯度線図であるが、C図と異なって「北緯30度」の緯度線で示すことにした。というのも[]は後世に[]の字となり、[]の字源は「鳰の姿に似る杭州湾(こうしゅうわん)」となり、杭州湾の南限は北緯30度であるからである。
K453
(C) 2018 OHKAWA
 
 X図の右端に示すように、「土器の形の暗黒天体部」があり、この天体部は「巫女たちが祝祷する時に用いた土器の形」に相似する。倉頡は、この「土器の形の暗黒天体部」を注目し、また「人の横顔に酷似する銀河」を「女の横顔」にさらに「夏の銀河の西南部」を「巫女の胸部から下の身体部」に見立ててN図の[]の字を創った(つまり倉頡は、N図に示した「十字の銀河」(注 X図の左上)と「夏の銀河」を「祝祷の土器を肩の上にかかげて身をくねらせて舞う巫女」に見立てて、[]の字を創ったことになる)。なお、X図の「土器の形の暗黒天体部」は、こと座(琴座)とはくちょう座の両星座が隣接しあう箇所となる。
 H図に示したように、倉頡は「十字の銀河の股(また)」に相当する箇所に「頭が誕生する出産児」を加える想像をして、「いね()」をあらわす[]と「巫女が祝祷する時に用いる土器を肩の上に上げて体をくねらせて舞う姿」の[]の字を考案した。[]の「いねの実()の米」を炊()くと口に入れる食料となり、禾・稲は泥状の水田で育成され、巫女が祝祷する時に用いる土器は水田の土のごとく泥状になったやわらかい土から作られる。胎児が出産する女性の外陰部(がいいんぶ)には口の唇(くちびる)の形に相似する「大陰唇(だいいんしん)」と「小陰唇(しょういんしん)」と名づけられた部分がある。このような事柄を総合(そうごう)して、倉頡は[(さい)]1字であらわすことができると考えたのである。だから、倉頡は前述したように「十字の銀河の子宮」を[(さい)]の字源と定めたのである。

◆Y図に示す「鬼の姿に似る銀河の横顔」には「両眼の銀河部」があり、「鬼の姿に似る銀河の首(後頭部とアゴ)」にも「両眼の形をした銀河部」がある。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」の別称を「四つ目の銀河」とした。
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 「四つ目の銀河の横顔の両目」は〔前を見る目〕となって、〔[][]の字が創(つく)られた「十字の銀河」を見る目〕となる。「四つ目の銀河の首につく両目」は〔後ろを見る両目〕となり、〔「夏の銀河」を見る目〕となる。
 要するに、倉頡は「四つ目の銀河」の前の「十字の銀河」と後ろの「夏の銀河」を見て、H図に示した[][]の字を作ったのである。(注 X図にも示したように、[]の字は「四つ目の銀河」の前の「十字の銀河」と後ろの「夏の銀河」を見て創られた)
 W図の下部に示した「赤い、さそり座α星」を中国では「大火(たいか)」と呼び、「大火西にくだる頃」と表現して「稲や麦などを収穫する秋の到来」を表現する。わが国では「さそり座α星」を「豊年星」、「あか星」、「酒酔い星」と称する。「豊年星」という名が示すように、さそり座α星は「秋における禾(いね)の豊作を願う星」であった。
 W図の下部の「銀河の中心からさそり座α星までの銀河」は「南から西へ飛ぶ鳥の姿」に観える。「南から西への飛ぶ鳥の姿」は、H図に示した[]の「〔南〕から〔西〕への時計回りの転回方位」をあらわす。
 また、H図に示した[]の「〔南〕から〔東〕の逆時計回りの転回方位」を、倉頡はX図に示した「土器の形の星座」(琴の形の星座)[(さい)]の字と定めて、N図に示した「〔北〕が〔西〕となる逆時計回りの転回方位」をあらわした。
 だから、倉頡は自らをY図における「四つ目の銀河」に見立てて、「四つ目の銀河」の前の「十字の銀河」と後ろの「夏の銀河」を観て[][]の字を考案したことになる。
 Y図の[]の契文形は「耳と後ろに向く人」で構成される。倉頡は自らを「四つ目の銀河」に見立てたゆえ、[]の契文の[]は「四つ目の銀河」に隣接する「北アメリカ星雲」を図案するものであったにちがいない。「北アメリカ星雲」を観てO図の[]の字義のごとく「耳に観える?」と疑い惑(まど)うかもしれないが――「四つ目の銀河」の周囲で「耳」の形にいちばん似ているのは「北アメリカ星雲」である。倉頡は、P図とY図に図示した「四つ目の銀河」における「後ろとなる部分」の形状を観て「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときの水しぶき」と「鳰が泳ぐときの足はカエルが泳ぐ足」をイメージして[][]の字を創った。この倉頡が多数の事柄を集約(しゅうやく)して[][]の字を創造したことを伝えるために、「耳に似ている」と指摘されると思わず疑いたくなる「北アメリカ星雲」から[]の字が図案されて[]を加えて[]の字形を成立させて、「倉頡は聡明(そうめい)であった」と伝えることになったのである。
 冒頭で「わが国は夏音文字を習得した」と記述する『古事記』序には「稗田阿礼(ひえだのあれ)は聡明で、目に度(わた)れ口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」という記事がある。Y図に示す「後ろを見る両目から前を見る両目」が「目に度る」となり、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口」が「口に誦み」のイメージとなるゆえ、「耳に払るれば」の「耳」は「北アメリカ星雲」と考えるべきことになる。
 倉頡以後、そのまま銀河の形をリアルに表現した字形は排除(はいじょ)されて漢字として認められなかったのである。漢字は芸術家が得意とする右脳(うのう)でイメージ思考する知恵の創造作品であったのである。したがって、論理思考の左脳(さのう)思考の人々には難解な作品が漢字として使用されることになったのである。

倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人(かいじん)がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)の方法を代()えたので、天は祝福して禾(こくもつ)を降らせ、死霊(しれい)が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたというのである――と説明する。
 したがって、倉頡伝説はすべてすべてほんとうのことを伝えていたのである。
 学者たちは「人間には目は四つあるはずがない。だから、荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定して、倉頡伝説が伝える事実を抹殺(まっさつ)した
 倉頡が発明した漢字作成原理を現在に伝えるE図に示した[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は、Y図に示した「四つ目の銀河」である。だから、「四つ目の銀河」は[][][]の字源となり、「四つ目の怪人」と称さられることになった。Y図に示した「四つ目の銀河」のうちの「後ろを見る両目」は、地上の人が身を弓形(ゆみなり)にして妊婦のごとくおなかを前に突き出して、C図とX図に示した「天頂緯度線をキャッチするための両目」をもあらわした。だから、「四つ目の怪人」を荒唐無稽のデタラメと否定されると倉頡が漢字を発明した事実が研究できないことになり、漢字が起源した史実は失われてしまう。
 倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は倉頡が発明した漢字作成原理の名称である。「古来の結縄の方法」は「三皇時代に考案された易の記号」を指す。
 倉頡伝説は――夜な夜な輝く文字作成銀河各部の形状から漢字は作られ、三皇時代には氏族名をあらわすことができる文字が存在していなかったので、倉頡の発明によって三皇時代に栄えた包犧(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)の三氏族はじめ幾つかの氏族名をあらわすことができ、また三皇時代の歴史も後世に伝えることができるようになったので、三皇時代の氏族たちの霊は感激して泣く涙つまり恵みの雨を降らせて、[]の「穀物」が豊かに実り、倉頡が[]の字に思いをこめた「子どもたちが多数生まれた――と、倉頡が漢字を発明した事実を後世に伝えるものであったことになる。
 []の字源「北天の最輝部」がある「人の横顔に酷似する銀河の顔」は俯(うつむ)いているゆえ、「天から禾(穀物)を降らせ、三皇時代の氏族の死霊が感激して泣く」つまり「天の神による恵みの雨」をあらわす[()]の字源となった。『説文解字』は夏音で「え」と読む[]の字訓(じくん)は「恵なり」と指摘する。これゆえ[][]の字音は同じ「え」となったのであろう。[]の字源「北天の最輝部」は「求愛ダンスするときのカンムリカイツブリの姿」にそっくりであるゆえ、[]をあらわすことになった。だから、[]の「豊かな穀物」と[]の「多数の子どもたち」は「神の恵み」と「[]という理念」をあらわした。
 []の字が[]をあらわした秘密は、『古事記』上巻の首尾一貫したテーマ【日本建国の〔愛〕の理念】で伝えられた。しかし、学者たちは『魏志』倭人伝と同様に、『古事記』上巻に多数の【誤読】を使って【日本建国の〔愛〕の理念】を排除(はいじょ)した。
 『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人(こうじん)に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。
 
この文が指摘するように――漢字は文字作成銀河から作られた学術と芸術の根本であり、中国とわが国の王道政治において真っ先に必要な政権基盤であった。そして「後人のもって古を識るなり」という文は「『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、後世の人が3世紀の歴史の真相を知ることができる方法である」と伝えていることになる。
 
その証拠に、『魏志』倭人伝と『古事記』の夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部に形状に変換すると真実の歴史が明らかとなる。だから、学者たちの意見や解釈は【誤読】を思考方とする空想・空論であったのである。

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2018年5月22日 (火)

漢字習得定説のウソ・13

 ●『魏志』倭人伝の小国位置の解明・5
■「カイツブリ」を名とする小国位置の解明
 
◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回から4回まで詳細に証明したように――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説は事実であった。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。

Ginga
▲文字作成銀河の写真

 「倉頡が漢字を発明した」と伝える伝説が事実であったことは、280年~289年に著作された通称「『魏志』倭人伝」と呼ばれる文献にコンパクトに表示され、この古文献に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解(どっかい)すれば科学的に証明される。

わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で「『古事記』序の秘密」と題して詳細の解説し証明したように――712年に成立した『古事記』の序の記事は、下記のごとく伝えている。
(1)
『古事記』序の冒頭記事は「中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭/紀元前2070年頃~同2050年頃)、夏音(かおん)文字が日本列島に伝来して習得された」と説明するものであった。
(2)
『古事記』が成立した当時に用いられていた楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義であった。というのも、楷書と夏音文字の両漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とするものであったからである。つまり、『古事記』に用いられた楷書以前の全漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則り、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めて作成された。だから、楷書「日下」と夏音文字「玖沙訶」は同義、楷書「帯」と夏音文字「多羅斯」は同義となった。
(3)
だから、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注を付けて楷書で表記されて多数記載された夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、おのずと楷書の字源・字形・字義も文字作成銀河各部の形状であることが立証され、真実の歴史を知ることはできる仕組みになっていた。というのも『古事記』上巻は――大和朝廷が最も偉大な先祖と定める天照大御神が、伊耶那美命(いざなみのみこと)が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を苦しめた歴史――を伝えていたからである。したがって、『古事記』上巻は〔音〕という注が付く夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史を知ることができる反逆の史書であった。だから、この真実を解明する方法を無視して立論する今日の学者たちの解釈・意見は、当然、【誤読の空論】ということになる。
 大和朝廷は『古事記』上巻に記述された天照大御神の聖性をいちじるしく汚す真実の歴史を隠蔽(いんぺい)する虚構工作(きょこうこうさく)を、720年に完成した『日本書紀』を正史(せいし)と定めておこなった。『日本書紀』は日本国誕生史が不明確となる失敗作品であった。朝廷は『日本書紀』が完成した直後から村上天皇の康保(こうほ)年間(946967)までの約250年間、『日本書紀』の日本国が誕生した歴史をアイマイに伝える記述を利用して『古事記』上巻に記述された真実の歴史をねじ曲げる解釈を考えた学者たちの講義つまり講書(こうしょ)を幾度もおこなった。この講書の解釈・意見は、近世の本居宣長(もとおりのりなが/17301801)に受け継がれ、さらに今日の学者たちが受け継ぐ。だから、今日の学者たちの解釈・意見は『古事記』序が「『古事記』上巻は夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史を知ることができる仕組みになっている」と説明する歴史解明手段を無視する【誤読の空論】となった。学者たちは自分たちの解釈・意見が真実の歴史をねじ曲げる欺瞞(ぎまん)であることにまったく気づいていない。

◆『古事記』序の冒頭記事が証言するように――夏音文字は後期縄文時代初頭にわが国に伝来して習得された。ゆえに、夏音文字は3世紀後半に著作された『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名にも用いられ、卑弥呼王朝は国名を倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて「倭人国」と定め、また[]の字源に則(のっと)る転回日本列島地理を制定し、夏音文字の学芸を政権基盤としてわが国最初の国家体制を創設した。「卑弥呼」の3字を「ひみこ」と読む字音は、夏音文字の字音である。この証明は、わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回~12(前回)までにおいて詳細に解説し、今回もおこなう
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代の夏音文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と、さらに『魏志』倭人伝に加えた数々の【誤読】によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされた。
 (3)の掟を破った殷代後半の甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 夏音文字、夏音文字を表記する楷書、契文(けいぶん/甲骨文字)、金文などすべての古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
Photo
▲文字作成銀河各部の名称図

 「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 現在、多くの人々が文字作成銀河(天の川)の写真を撮影する。この銀河の写真を観察すれば、卑弥呼王朝は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則って小国名を定め、『古事記』上巻は〔音〕という注が付く夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換する作業によって真実の歴史を知ることができるように著作された歴史書であったことが明白となる。

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回・8回で、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ、〔東〕へ伸びる日本列島は〔南〕へ伸びるという考え(地理)こそがすべての矛盾点を解消して【科学】が成立することを証明した。この「時計回りに〔東〕が〔南〕となる転回方位」は倉頡が考えた[()]の字源をあらわすものであり、この[]の字源の「転回方位」は[()][()]の字に受け継がれた。ゆえに、卑弥呼王朝は倉頡が考えた転回方位にもとづき「日本列島の東方は南へ伸びる」という錯覚の転回日本列島地理を制定して、国名「倭人国」と定めたことになる。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・9」では『魏志』倭人伝の対馬(つしま)国から奴()国までの小国名に用いられた各字の字源銀河を解明し、また「漢字習得定説のウソ・10」では対馬国・投馬(つま)国・邪馬壱(やまい)国・斯馬(しま)国・邪馬(やま)国の[]の字がつく5ヵ国の小国名の使用された字源銀河を解明して、これらの国名は倉頡が発明した漢字作成原理を伝えていることを証明した。また「漢字習得定説のウソ・11」では『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬台国」と表記せずに「邪馬壱国」と表記していることを指摘し、「邪馬壱国」の[]の字源銀河は「倉頡が発明した漢字作成原理=鳥獣の足跡」をあらわすことを証明した。また前回の「漢字習得定説のウソ・12」では奴国・弥奴(みな)国・姐奴(つな)国・蘇奴(さな)国・華奴蘇奴(かなさな)国・鬼奴(きな)国・烏奴(あな)国・奴()国・狗奴(くな)国の9ヵ国の小国名につく[]の字源は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣「ジャコウウシ」に由来(ゆらい)することを証明した。
 今回は不弥(ふみ)国・呼邑(こお)国・弥奴国・好古都(こかた)国・不呼(ふこ)国の5ヵ国の小国名は水辺に生息する小鳥の「カンムリカイツブリ、ハジロカイツブリ、鳰(にお/カイツブリ)」をあらわしていることを証明する。
 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・12」で詳細に解説したように、中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる『易経(えききょう)』繋辞上伝(けいじじょうでん)にある「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す」という記事の文中にある「弥綸」という語は、A図に示す中国全土を洩()れなく包みこむ海岸線」をあらわした。
K361
(C) 2018 OHKAWA

 A図に示す「山東半島」は[]の字源「カンムリカイツブリ」の頭に相似すると見立てられて、「中国の海岸線」は「弥綸す」つまり「カンムリカイツブリの頭と翼(つばさ)の形をした海岸線で洩れなく包みこみ、つくろいおさめる」と表現されたのである。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 B図の右下に、不弥国の位置と範囲を示した。
K363
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に、「不弥国」と呼ばれることになった[]の字源地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)となった「山東半島」の形に似る「福岡県福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき)海岸線」と[]の「カンムリカイツブリの首や翼の形に似る宗像市(むなかたし)平野部」を示した。
 古代の人々が“字書の聖典”と呼んで尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり。一に従う。一はなお天のごときなり」と解説する。
K364

(C) 2018 OHKAWA

 D図に示すように、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1ヵ所の【誤読】を加えなければ日本列島の〔東〕は〔南〕に伸びると伝える[]の字源「転回方位」にもとづくと、[]の字源地宜の「津屋崎町と宗像市平野部の地宜」は、『魏志』倭人伝に記述された小国「一大国」(長崎県の壱岐)のほうへ向かって『説文解字』の[]の「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従う。一はなお天のごときなり」という字源解説のイメージに合致する。
 だから、D図に示す「津屋崎海岸線と宗像市平野部と一大国の様子」にもとづいて、宗像周辺地域は「不弥国」と名づけられた。

◆『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。
 上記した『易経』繋辞上伝の中国海岸線を「弥綸す」と表現するうちの[]の「つくろいおさめる」という字義は、A図における「長江口(ちょうこうこう)北岸から杭州湾(こうしゅうわん)南岸までの[]のカンムリカイツブリの翼が裂()けてほころぶ形となる。しかし、杭州湾南岸より南部の海岸線はつくろいおさまって弓の形のごとき円弧(えんこ)を描く」と意味するものであったのである。
 A図における下部の[]の字義をあらわす「杭州湾の地宜」は「息を外()く口」に見立てられて[]の字源となった。
K365
(C) 2018 OHKAWA
 
 E図に示すように、「上南下北の杭州湾の地宜」は「鳰(カイツブリ)の姿」に相似する。
銭塘江(せんとうこう)の水は杭州湾に外()き出される。ゆえに、「その姿が杭州湾の地宜に相似する鳰」も[]の字源となった。
 鳰は水草の茎を支柱として、水面に草の葉や茎などで浮巣(うきす)を作る。この「浮巣の支柱となる水草の茎」を「杭(くい)」と見立てられた。
K371
(C) 2018 OHKAWA

 F図の上図に示ように、「杭州市」は「杭」すなわち「鳰の浮巣の支柱となる水草の茎」に相当する位置となる。だから、「杭州」「杭州湾」という地名は「鳰」が[]の字源であったことを現在に伝えている。
 「杭州湾と杭州市の地宜」は、F図の下図の「転回方位にもとづく琵琶湖の地宜」に相似する。ゆえに、「琵琶湖」の古称は「鳰の海」となったのである。
K372
(C) 2018 OHKAWA
 
 したがって『魏志』倭人伝に記述された対馬国から19番目の小国の「呼邑(こお)国」は、G図に示す「琵琶湖周辺の近江」、「現在の滋賀県」であったことになる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「呼邑」の[]の古代字形は「城壁(じょうへき)をめぐらす地所に多くの人が住む様子をあらわす図案」と説明する。ということは「琵琶湖」を「城」、「琵琶湖を包囲する野坂山地・比良山地・水口丘陵・鈴鹿山脈・伊吹山地」を「城壁」に見立てて[]の字源を示すと定めて、「滋賀県」は「呼邑国」と名づけられたことになる。〔注 G図の蘇奴(さな)国は旧の若狭・現在の福井県南西部、対蘇(つさ)国は旧国の美濃・現在の岐阜県中部と南部、華奴蘇奴(かなさな)国は旧国の山城・現在の京都府であったことについては、前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・12」で立証した〕。
 『魏志』倭人伝は対馬国から13番目となる小国の名は「弥奴(みな)国」であったと記す。前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・12」にて、「弥奴国」は「旧国の尾張」、「現在の愛知県西部」であると解説して証明した。
K373
(C) 2018 OHKAWA
 
 H図に示すように、「上南下北の尾張の地宜」は[]の字源「水しぶきが飛び散る激しい求愛ダンス(繁殖行動)をおこなうカンムリカイツブリ」と[]の字源「カイツブリが強大な力で直立姿勢となる姿」に相似すると見立てられて、「弥奴国」と名づけられた。

◆『魏志』倭人伝は弥奴国の次の14番目の小国は「好古都(こかた)国」であったと記す。
K374
(C) 2018 OHKAWA
 
 I図に示す「旧国の三河」、「現在の愛知県東部」が「好古都国」であった。
K375
(C) 2018 OHKAWA
 
 今から約5000年前の倉頡が生存した五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代、J図に示すように中国各地の天頂に「十字の銀河」がめぐってきて、中国各地の緯度を測定する羅針盤(らしんばん)となった。
 黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器・子宮と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすことができる漢字を発明することになったのである。
 倉頡は「十字の銀河」が「子宮」に相当する箇所を有するゆえ、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上にある「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られた全漢字を生む母体(妊婦/にんぷ)」、また「十字の銀河の子宮」を「すべての漢字が生まれる子宮」と定めた。
 『説文解字』は「好古都国」の[]の字源を「美なり」と解説する。
K381
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 []の字源は、K図に示す黄帝が研究した「女性の生殖器」であった。[]の楷書形の上部は[]、下部は[]である。「女性の生殖器の正面形」は「羊の顔の正面形」に相似し、「子宮に宿る胎児の成長とともに大きく」なり、「十字の銀河」は[]字形である。ゆえに、[]の字源は「女性の生殖器」、字源銀河は「十字の銀河の子宮」であった。
K382
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 「好古都」の「古都」は、上のL図に示す「秋田県の鹿角(かづの)市の国の特別遺跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)」を指すものであろう。I図に示した「知多(ちた)半島」をL図の「下北半島」に見立てると「渥美(あつみ)半島」は「津軽半島」に相当することになり、大湯環状列石は三河中央部に相当する。大湯環状列石はわが国に夏音文字が伝来して習得されたと伝える後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)の遺跡である。
K383
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 大湯環状列石を代表する中心的遺跡は、M図に示す直径48mの万座遺跡と直径が42mの野中堂遺跡である。野中堂遺跡の中心・野中堂遺跡内にある特殊組石(とくしゅくみいし)の日時計組石の中心と万座遺跡の中心・万座遺跡内にある日時計組石の中心を結ぶ延長線は、夏至の日没方向を指差(ゆびさ)す。この「夏至の日没方向」で「夏音文字は中国から伝来した」とあらわす。というのも、万座遺跡の中心に垂直に立つ柱と万座遺跡内の日時計組石は文字作成銀河各部の高度と方角を計測して文字作成銀河の形を知るための装置であったと証明することができるからである。また野中堂遺跡の中心に垂直に立つ柱は一年間の正午の太陽の南中高度を計測し、野中堂遺跡内の日時計組石は北斗七星でもっとも光が強いおおぐま座ε星(北斗七星の第5/光度は1.8)で日々の午前零時を計測して黄道(こうどう/天球上において太陽が一年間に通過する道)を測定する装置であることが証明される。ゆえに、野中堂遺跡と万座遺跡は夏音文字における天文学を伝える遺跡であった。
 ゆえに、「好古都」の「古都」は「大湯環状列石」を指していると思われる。
K384
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 N図に示す[(こう)]の契文形について、白川静著『字統』は「女を母の形に作り、あるいは子を抱く形に作るものがあって、婦人がその子女を愛好することを示す字である」と解説する。ゆえに、[]の偏[]の字源は「十字の銀河」、旁(つくり)[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となる。「十字の銀河から鬼の姿に似る銀河の頭に垂れる帯状(おびじょう)の銀河」を「子の頭を撫()でる母の手」に見立てると、N図は「母の手が子を抱く」あるいは「母が子の頭を撫でて愛好するイメージ」を表示することになる。
K385
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 O図に示すように、「三河の地宜」は「ハジロカイツブリの姿」に類似する。O図の下図の「ハジロカイツブリの顔にある飾羽(かざりばね)」から[]の字が連想された。ゆえに、「好古都」は「ハジロカイツブリ」を意味したにちがいない。
K386
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 P図に示すように、黄帝が研究した女性の生殖器の側身形における「卵管采(らんかんさい)」は「子の頭を撫でる母の手」に観え、「卵巣(らんそう)」は「母の手が頭を撫でる子」のごとき形をして[]の字をあらわす。また、「卵管采」は「夏羽のハジロカイツブリの顔にある美しい金色の飾羽の形」に相似する。「卵管采と夏羽のハジロカイツブリの顔の飾羽の形」は秋の七草の一つの「撫子(なでしこ)の上端が深く細かく裂ける花弁一片の形」に相似する。和歌などで「撫子の花」は「愛撫(あいぶ)する子」にかけて用いられた。したがって、「撫子」の語源は[]の字をあらわす「卵管采と卵巣」であったことになる。
 以上からして、O図に示したように「好古都国」は「旧国の三河」、「現在の愛知県東部」であったことになる。

◆『魏志』倭人伝に記載された対馬国から14番目の「好古都国」の次の15番目の小国は「不呼(ふこ)国」である。「不呼国」は「三河の隣国の、遠江」であった。
 白川静著『字統』は[]の字形について「もと象形(しょうけい)で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。「萼拊」または「萼」は「花弁をかこむ部分」で、「台(うてな)」ともいう。
K391
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 Q図に示すように、「花の生殖器官の萼」は「女性の生殖器官の膣(ちつ)」に相当するが、「花の萼」は「花弁をかこむ台(だい)」であるが「女性の膣」は「胎児が通過して生まれる産道(さんどう)」とある。ゆえに「萼は花の子(種子/たね)が育って花となって生まれる場所ではないから、子どもが生まれる女性の生殖器の産道の役割(やくわり)と違う」ということで、「花の萼」は否定・打消しの「ず」をあらわす[]の字源となったにちがいない。
K392

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 R図は、[]の字源「転回方位」にもとづく「遠江(現静岡県西部)の浜名湖の地宜」である。現在の浜名湖は遠州灘(外海)と通じているが、卑弥呼が生存した後期弥生時代の当時の浜名湖は外海と通じていなかった。1498(明応7)8月下旬の大地震で遠江国の荒井崎(現在の新居町)が壊れて外海と通じ、1510(永正7)8月下旬の津波によって今切が崩れて浜名湖は現在の形になったと言われる。
 R図の「浜名湖」を「花弁」に相似すると見立てると、「引佐細江(いなさほそえ)」という名の浜名湖の支湖(入り江)[]の字源「萼」に相当する。
K393
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 S図に示すように、[]の字源「花の萼」に見立てられた「引佐細江」の東側と西側は、「不呼」をあらわす地宜となる。
 長い人の横顔の形となる「村櫛(むらくし)半島の内浦」は「人が息を外へはきだす口」の形となって、『説文解字』が「息を外()くなり」と解説する[]の字源を示す。「内浦の北岸」は「鳥の頭」に相似して、『説文解字』の[]の「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」という字源解説をあらわす。「都田川(みやこだがわ)の河口」は「川の水を外(引佐細江)へはきだす箇所」であるゆえ、『説文解字』が解説する[]の字源をあらわす。「寸座岬(すんざみさき)の地宜」は〔人の鼻〕に相似し、「引佐細江の西岸」は「人が息を外へはきだす口」に相当するゆえ[]の字源をあらわす。Q図に示したように「花の萼に相当する引佐細江」は[]の字源をあらわすゆえ、その周囲の[]の字源をあらわす地宜によって、「引佐細江周辺の地宜」は小国名の「不呼」をあらわす。

◆『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(せいやく)説話末部には「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」という記事があり、遠江の豪族(ごうぞく)の名が記載される。
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 わがブログ「真実の日本国誕生史」の8回・9回・16回で詳細に解説し証明したように、――建比良鳥命とその一族は260年頃~290年頃までの約30年間かけて、T図に示すちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を作製した。この大鳥の地上絵を、わたくしは2014年以前では「建比良鳥の地宜」と呼び、2014年以後は「卑弥呼の地上絵」と改名した。
 現在、卑弥呼の地上絵は静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形として残る。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝(ぶてい)の晩年である太康(たいこう)年間(280289)であった」と解説する。『魏志』倭人伝は『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部にある「倭人条」の通称である。ゆえに、『魏志』倭人伝は280年~289年に著作されたことになる。
 上記したように、T図の卑弥呼の地上絵は260年頃~290年頃に作成された。したがって、『魏志』倭人伝と卑弥呼の地上絵は同時代に作成されたことになる。
 T図の卑弥呼の地上絵における大鳥の頭は「夏至の日の出の方角」を向いて「わが国に夏音文字の学芸が伝来し習得された」と伝えている。
 T図におけるA地点は滝峯不動尊(たきみねふどうそん)という地点と1分の誤差もなく、ぴったり同緯度(北緯3448)である。西のA地点とその真東にある滝峯不動尊を結ぶ緯度線は、春分の日の朝に地平線から出現する太陽を指差(ゆびさ)す。『説文解字』は建比良鳥命の先頭字の[]の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つるなり」と解説する。この「朝律を立つるなり」とは「西の経緯度原点地の真東の地点に[(いつ/]の字源となる〔垂直に立つ柱〕を立てると、[]の柱の背後から春分の日の朝の太陽が昇る」と意味した。したがって、「A地点・滝峯不動尊の緯度線」は[]の字源をあらわす。「建比良鳥命」の「比良」は「平面的に図化された地図の形、つまり地宜」のことである。そして、卑弥呼の地上絵は「翼を有する鳥の形」に設計される。このように、卑弥呼の地上絵は「建・比良・鳥」と表示するゆえ、T図の大鳥の地上絵には「建比良鳥命」と作者名が署名(しょめい)されている。
 T図の上部に示す龍潭寺(りょうたんじ)は、浜松市北区の引佐町(いなさちょう)井伊谷(いいのや)に所在する。
K401
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 U図の上図は、引佐町の金指(かなさし)地区と井伊谷地区の地宜を示す図である。「金指・井伊谷の地宜」は、U図の下図に示す「鳰と浮巣」の形となる。ゆえに、「金指・井伊谷の地宜」は、E図とF図で解説した[]の字源「鳰」をあらわす。その証拠に、「鳰の横顔に設計される金指地区の地宜」は「鳰が浮巣をつくるときに嘴(くちばし)にはさむ水草の茎(くき)で作る支柱」つまり「杭」を表現するために嘴の先端を切断して〔杭〕を表示する形に設計して、中国の「杭州・杭州湾」の地名の秘密を伝えている。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 V図の左上部にある「卑弥呼の地上絵の頭と両翼となる地域」は、D図に示した『説文解字』が解説する[]の字源「カンムリカイツブリが飛ぶ姿」をあらわす。V図の左下部の「金指・井伊谷の地宜」は[]の字源「鳰」をあらわす。だから、卑弥呼の地上絵は「遠江は『魏志』倭人伝に登場する不呼で国であった」と、今日に明確に伝えている。

◆V図に記入したように、卑弥呼の地上絵は(1)飛ぶ鳥(カンムリカイツブリ)(2)都田川の沖積平野(ちゅうせきへいや)(3)象の横顔の3ブロックで構成される。
K403
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 (2)(3)のブロックの形を明確に示すためにV図の上南下北図を改め――その上下をひっくりかえして、W図は上北下南図にして漫画的に表現した。
 (1)はV図で明確にしめされた「飛ぶ鳥(カンムリカイツブリ)ブロック」である。
 (2)の「都田川の沖積平野ブロック」は「生子(生まれた子)の形」となる。「生子の形をした沖積平野」は『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された――伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす。万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)は伊耶那美命が宣誓(せんせい)した【日本建国の〔愛〕の理念】を「銀(しろがね)も、黄金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」と詠()んだ。
 (3)の「象の横顔ブロック」は『易経』繋辞下伝(けいじげでん)の「仰いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって神明(しんめい)の徳に通じ、もって万物の情に類して漢字をつくった」と説明する文中にある()「天象」すなわち「文字作成銀河」をあらわし、また()「象の横顔」に相似すると見立てられた「北アメリカ星雲([]の字源銀河)」と、()「長い鼻を有する夏の銀河の西南部の東半分(夏の銀河の西南部からわし座α星付近までの銀河の形)」をあらわした。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の初頭部に――天神(あまつかみ)と諸命(もろもろのみこと)は伊耶那岐命と伊耶那美命の二人に「この漂(ただよ)える国を修理(つく)り固めなせ」と命令した――と説明する記事がある。この記事を現代語訳すると――卑弥呼王朝と諸々の体制者たちは伊耶那岐命と伊耶那美命の二人に「大海で迷って漂流する船に乗る死が目前にせまる人々のごとくに多数の人民が悲観して絶望する、この未曾有(みぞう)の国難の穢(けがれ)を修理して(洗い清めて)国土が安定するようにつとめよ」と命令した――となる。この記事に登場する「修理」という語の[]の字形について、白川静著『字統』は「人の後ろから水をかけて洗う形である」と説明する。
 この[]の字源の秘密を、建比良鳥命はW図に示した〔卑弥呼の地上絵における象の顔・鼻の形となる地宜〕とそっくりな「北アメリカ星雲」で表現した。ゆえに「北アメリカ星雲の形に相似する、象の横顔の地宜」は「象が引佐細江の水を吸って、卑弥呼の地上絵の後ろから水を外()き出す鼻息の力」をあらわした。

◆W図の下部に矢印で示したように、淤能碁呂島聖婚説話の文中にある「修理」という語の[]の字源をあらわす「象が後ろへ水をかける、その象の強い鼻息の力」で卑弥呼の地上絵の鳥の後頭部(こうとうぶ)に息を吹きかけると、X図の上図に示すように「卑弥呼の地上絵の頭部は〔南〕から〔東〕へと90度転回すること」になる。
K404

 X図の上図の頭部が〔東〕へ移動する卑弥呼の地上絵は、X図の下図の中国の海岸線と国土地宜に相似する。
 したがって、卑弥呼時代、わが国ではA図に示した「中国全土を洩れなく弥綸する海岸線地図の知識」を有していたことになる。
 というのも、司馬遷著『史記』の五帝本紀と夏本紀に登場する名門益(えき)氏が精密な中国海岸線地図を日本列島に移住してもたらしたからである。五帝時代の最後の五番目の帝舜(ていしゅん)の時代に精密な中国海岸線地図を作製する[()]という要職についた益氏は夏代初頭に夏の始祖の帝禹(ていう)の後を継いで帝位に就き、この帝益の孫の王子(天祖)と益氏の若者たちが大海をこえて日本列島に移住した。だから、精密な中国海岸線地図はじめ夏音文字の学芸がわが国に伝来した。以後、わが国では夏音文字の学芸は最も重大な文化遺産となって、M図に示した夏音文字の学芸による天文遺跡の大湯環状列石が今日まで残ったのである。『魏志』倭人伝には「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に到着するとみな自らを大夫(だいふ)と称す」という記事があり、万葉仮名では「大夫」を「ますらを」と読み、今日「ますらを」は「益荒男」と表記される。つまり「益氏の王子や若者たちのごとく、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を往来する雄々しい男子」と讃(たた)える語が「大夫」であり「益荒男」の語源であったのである。
 したがって、T図に示した卑弥呼の地上絵は精密な中国海岸線地図を作製する「虞」の官職を約200250年間ぐらい務めた名門益氏がもたらした地図作製方法が後期縄文時代初頭から約2300年間も保存されていたと示す確かな証拠となる。だから、X図における卑弥呼の地上絵の頭部・両翼部は中国の海岸線地図に相似することになったのである。
 X図の上図に示したように、卑弥呼の地上絵の頭部は〔北〕を向き、山東半島は〔東〕を向く。この卑弥呼の地上絵の頭部と山東半島の地宜を見て「〔北〕が時計の針のごとく90度移動して〔東〕となる転回方位」を示すという考えは倉頡が考えた[()]の字源〔後の[]の字源〕をあらわし、また「〔東〕が逆時計回りに90度移動して〔北〕となる転回方位」を示すという意見は倉頡が考えた[]の字源をあらわした。ゆえに、益氏が務めた官職の「虞」は[][]が加わる字となった。したがって、[]の字源の秘密は倉頡が考えた[]の字源定義が原因で「精密な中国海岸線地図を作製する官職名」となったのである。

◆倉頡は[]の字源を(1)[]の「カンムリカイツブリ」の字源銀河、(2)[]の「鳰」の字源銀河、(3)P図に示した「女性の生殖器」を観て成立させた。
 『易経』繋辞下伝には――上古(三皇時代)は「結縄(けつじょう)」と名づけた易卜(うらない)に用いる記号で天下を治めたが、後世(五帝時代初頭)の聖人は結縄に易()える「書契(しょけい)」、つまり「十字の銀河」を「銀河から作られたすべての漢字の母と定めた文字」を発明した――と伝える記事がある。
 この「漢字を発明した聖人」が「倉頡」であり、倉頡は[]の字を考案したために「聖人」と呼ばれることになったのである。したがって、『魏志』倭人伝に記載された「不弥国・弥奴国・呼邑国・好古都国・不呼国」という小国名は、倉頡が「聖人」と呼ばれた秘密が解明できる重大な資料となる。
 不呼国・遠江の豪族の建比良鳥命とその一族による卑弥呼の地上絵の作製は、この事業が露見(ろけん)したならば天照大御神・大和王朝に直(ただち)に一族皆殺しとなる大罪(たいざい)であった。しかし、彼らは倫命(りんめい/人間として実行すべき使命観)にもとづき伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】が後世・末永(すえなが)く伝承されることを願って、卑弥呼の地上絵を作製した。

 以上のごとく、わが国が習得した夏音文字と夏音文字を表記した楷書は共に倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則って文字作成銀河各部の形状から作られた。
 そして、建比良鳥命と共に同時代(3世紀半ば)に生存した伊耶那美命は小国・日本へ封(ほう)ぜられる女王に就任して、日本国の軍王(いくさのおおきみ)に就任した伊耶那岐命との結婚式において彼女は「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という10字の夏音文字による【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえる宣誓(せんせい)をした。だから、建比良鳥命一族の卑弥呼の地上絵の作製目的とその使命観は伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に・末永く伝えること――であったのである。
 卑弥呼の地上絵が完成してから約420年後の712年、〔音〕という注がつく夏音文字を多数記載する『古事記』が著作され、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話には、伊耶那美命がとなえた「阿那邇夜志愛袁登古袁」という10字の夏音文字が記載され、伊耶那美命は「日本国の国作り(国生み)の基本は〔愛〕にしましょう」と宣誓したと現在に伝えている。
 だから、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話と卑弥呼の地上絵の両者は、今日、真実であったと確かめえる日本人にとって最も重大な歴史を伝えていることになる。したがって、『古事記』序に記述された歴史解明方法を無視して夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換する作業を怠(おこた)る学者たちの解釈・意見は、当然、【誤読の空論】ということになる。

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2018年5月16日 (水)

漢字習得定説のウソ・12

 ●『魏志』倭人伝の小国位置の証明・4
[]の字がつく小国位置の証明
 
◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回から4回まで詳細に証明したように――「黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説は事実であった。
 つまり、倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を図案する原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 紀元前3000年ころに生存した黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器・子宮と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすことができる漢字を発明したのである。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と、さらに『魏志』倭人伝に加えた数々の【誤読】によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされた。
 (3)の掟を破った殷代後半の甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代初頭=後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名となって現存する。だから、これから『魏志』倭人伝に記述された小国名の秘密を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 現在、多くの人々が銀河(天の川)の写真を撮影する。この銀河の写真を観察し、故・白川静博士などの最先端研究の字源字書を参考にすれば、倉頡伝説は「倉頡は銀河(上掲した文字作成銀河)から漢字を作った」と語るものであったことが科学的に証明される。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ」の9回~前回(11)までで証明したように――『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成原理を最もコンパクトにまとめた貴重な史料である。
 江戸時代中期の新井白石(あらいはくせき/16571725)から今日まで約300年間、学者たちは【誤読】に「文献批判」と名を付ける欺瞞(ぎまん)・虚妄(デタラメ)の方法で、倉頡が漢字を発明した事実を解明できる学問の門を厳重に閉()ざしてしまった。
 だから、白石以来の学者たちの【誤読】を自由自在にあやつってデッチあげた邪馬台国説は、人類にとってきわめて重大な真実を虐殺(ぎゃくさつ)することになった。
 というのも、わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回をもって証明したように、古代エジプト文字つまりヒエログリフ(聖刻文字)もまた上掲した文字作成銀河から作られた事実が証明されるからである。
 古代エジプト文字が漢字と同じ文字作成銀河から作られた事実によって、原シナイ文字、フェニキア文字、フェニキア文字から子分かされた現代ヨーロッパ文字につながるギリシア文字、ラテン文字も文字作成銀河から作られたことが証明される。またフェニキア文字から子分かされて現代に至るペルシア文字、アラビア文字、ヘブライ文字、アムハラ文字も、そのルーツが文字作成銀河から作られたことが証明される。したがって、現在の地球上の70%~80%の人々が用いる文字のルーツが文字作成銀河から作られた事実が、『魏志倭人伝』に1点の【誤読】が加えなければ明らかとなる。
 以上からして、いくつもの【誤読】を加えて史実をねじ曲げる邪馬台国説は、人類にとってきわめて重大な真実を虐殺する人類共通の敵である。

◆後漢(ごかん)時代の文字学者の許慎(きょしん)は、100年頃に『説文解字(せつもんかいじ)』を完成させていたといわれる。『説文解字』は文字作成銀河を観察して著作された。ゆえに、漢字は銀河から作られた学芸の秘密を知っていた古代の人々は『説文解字』を“字書の聖典”と讃(たた)えて尊重した。
 わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、2頁で『説文解字』について下記のごとく指摘するが、この指摘は思い違いで明らかに間違っている。
 「許慎の時代には、(中略)、文字の最古の資料である甲骨文が、まだ地下深く埋もれたままであった。許慎が資料としたものは、古い金文の構造がいくらか伝えるところのある秦篆(しんてん)と、金文の便化した古文(こぶん)若干が主たるものであった。許慎が『説文解字』を完成したのはあたかも紀元一〇〇年であるから、文字が成立してから約一五〇〇年を経ている。そして許慎が用いることのできた資料は、その最後の五〇〇年間のものにすぎない。われわれはいま、その最初の一〇〇〇年間の、確実にして豊富な資料を手にすることができるのである。」
 上記した文章末部の「甲骨文字」を「その最初の一〇〇〇年間の、確実にして豊富な資料を手にすることができるのである」と断定する意見は誤っている。というのも、文字の最古の資料は甲骨文字ではなく、上掲した文字作成銀河だからである。
 『魏志』倭人伝に1ヵ所も【誤読】が加えなければ最古の文字資料は文字作成銀河であり、しかも倉頡が発明した漢字作成原理の詳細が明らかとなる。ゆえに、白川博士の「甲骨文字を最古の文字資料であった」という断定は根本的に誤っている。また、わが国には甲骨文が出現した紀元前1300年よりも約750年前の夏代(かだい/わが国の後期縄文時代)の初頭に夏音(かおん)文字が伝来し、夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられて現存するゆえ、断じて甲骨文は最古の文字資料ではないと断定できる。

現在のわが国の国語として用いる当用漢字に直結(ちょっけつ)する楷書(かいしょ)は、6世紀末~7世紀初頭の隋代(ずいだい)に完成した。この隋代の楷書は倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて字形が作られた。
 したがって、現在の当用漢字までも倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて作成されたことになる――この秘密を、『説文解字』の序は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文で伝える。この『説文解字』の序の文は「文字は学問と芸術の根本であり、王道政治において“い”の一番の真っ先に必要な政権基盤であり、漢字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば後人が真実の歴史を知ることができる方法である」と意味した。
 したがって、上記した『説文解字』の序にある「王政の始め」という語句は「楷書が完成した隋王朝の政権基盤も倉頡が発明した漢字作成原理であった」と語っていることになる。
 『説文解字』の序が伝えるように、古代王朝は創立する時に“い”の一番に倉頡が発明した漢字作成原理を政権基盤としたゆえ――西暦170年頃にわが国で最初に国家体制を創設した卑弥呼王朝は倉頡が発明した漢字作成原理を政治基盤にした――と『魏志』倭人伝は小国名はじめいくつかの記事をもって伝えていたのである。
 卑弥呼王朝は紀元前21世紀にわが国が習得した夏音文字の学芸知識を有していたので、倉頡が発明した漢字作成原理における[()]の字源をあらわす「転回日本列島地理」を制定し、倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて小国名を定めた。だから、わずか約2000字で構成される『魏志』倭人伝は倉頡が発明した「文字作成銀河から漢字を作る原理」が最もコンパクトにまとめられた貴重な史料であった。
 学者たちは卑弥呼が「邪馬台国」に居住したと主張するが、『魏志』倭人伝は「邪馬壱()国」であったと表記する。倉頡は「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字を生む子宮」となる銀河部を定め、この銀河部を[]の字源とした。この[]は楷書の[()]の字となり、[()]の字源は[]の字源と同じく「すべての文字を生む子宮」と定められた。だから、卑弥呼が居住した「邪馬壱国」の[]の字は倉頡が発明した漢字作成原理を現在に伝える。さらに、対馬(つしま)国・一大(いちだい)国・末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国・投馬(つま)国・邪馬壱国という小国名もまた、倉頡が発明した漢字作成原理をあらわすことは――前回の「漢字習得定説のウソ・11」にて証明した。
 前々回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・10」では、邪馬壱国に隣接する小国名の「斯馬」は「兔(ウサギ)」を意味することを証明し、「分娩(ぶんべん)」の旁(つくり)部の[][(ウサギ)]の楷書形が相似する秘密は倉頡が発明した漢字作成原理が原因していることを証明した。また、小国「邪馬(やま)国」は「旧国の大和(やまと)、現在の奈良県」であることを証明した。そして、小国名の「邪馬壱国」と「邪馬」における「邪馬」は「猪(イノシシ)」を意味することを解明し、また「猪」は上掲した〔文字作成銀河の名称図〕における「夏の銀河(夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部)」をあらわすことを証明した。「夏の銀河」は倉頡が定めた文字を作成する銀河範囲で最も広い面積を占める。

◆今回は、名に[]の字を配する弥奴(みな)国、姐奴(つな)国、蘇奴(さな)国、華奴蘇奴(かなさな)国、鬼奴(きな)国、烏奴(あな)国、そして奴(な・ぬ?)国と卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)国の8ヶ国と、ついでにこれら小国と隣接するあるいは関連する幾つかの小国の位置と範囲を解明する。
 なお前述した伊都国と不弥国の中間に所在した奴()国の位置と範囲については、わがブログ「漢字習得定説のウソ・9」の末部で詳細に解説し証明した。この証明において、[]の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河」であることを証明したが、上掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕には「鬼の姿に似る銀河」の箇所は表示していない。[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は、〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上の「十字の銀河」の右隣となる。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ」は9回~11回において、倉頡が生存した五帝時代初頭の黄帝時代、中国各地の天頂に「十字の銀河」がめぐってきたことを〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづいて証明した。
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 A図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・妊婦のような円いおなか・子宮に相当する箇所〕を有するゆえ、「十字の銀河」は「女体(にょたい)」に相似する。
 前述したように、倉頡は黄帝がおこなった女性の生殖器(せいしょくき)・子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字は作成することを目的とした。これゆえ、中国各地の天頂にめぐってきた「妊婦(にんぷ)」に見立てることができる「十字の銀河」を、倉頡は「文字作成銀河の各部の形状から作られる、すべての文字が生まれる母体」と定めた。
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 その証拠に、B図に示すように――「文字」の[]の金文形は「十字の銀河」を〔妊婦の正面の姿〕に見立てて「子を孕(はら)む妊婦の正面形」の図案とした。
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 C図は、「文字」の[]の金文形である。[(べん)]は「すべての文字を生む母体の十字の銀河=文字作成銀河」と倉頡が定めた漢字作成原理をあらわし、「鬼の姿に似る銀河」を[]の字源となり、[][]が加わって[]となった。したがって、C図に示すように、[]の上部の[]の字源となる「十字の銀河」は「文字作成銀河の各部の形状から作られた文字が生まれる母体」となった。また「十字の銀河の子宮」は「すべての文字が生まれる子宮」と定められ、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「文字作成銀河の各部の形状から作られた文字」をあらわした。
 だから、C図は倉頡が発明した漢字作成原理の基本をあらわした。
 倉頡伝説は――倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた――と伝える。ゆえに、わたくしはC図の「十字の銀河の子宮」に「鳥獣の足跡」という文字を加えた。というのも、わがブログ「漢字習得定説のウソ・11」で詳細に解説したように、『魏志』倭人伝に記述された「邪馬壱国」の[]の字源は「十字の銀河の子宮」であったことが「一大国・壱岐(いき/長崎県壱岐)」の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)によって立証されるからである。
 なお、C図に示すように「鬼の姿に似る銀河の顔には両目」があり、「鬼の姿に似る銀河の後頭部とアゴにも両目」があるゆえ、「鬼の姿に似る銀河」は「四つ目」となる。ゆえに、倉頡伝説は「漢字作成原理を発明した倉頡」を“四つ目の怪人”という異名(あだな)で表現した。このため、学者たちは早合点(はやがってん)して「人間には四つも目が無い。荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定した。しかし、学者たちが「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」になったと想像するならば――“四つ目の怪人・倉頡”とは「鬼の姿に似る銀河」を指すものであり、「鬼の姿に似る銀河」は「倉頡」に見立てられて[][][]の字源であった事実に気づいて、今日のごとく文字作成銀河から漢字が作られた学術研究の門は閉ざされることはなかったのである。

◆C図の下部の「鬼の姿に似る銀河」は[]の字源でもあった。
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 D図は、[][][]の字源解説図である。
 []の偏の[]は「子どもを生む女性の生殖器」をあらわす。ゆえに、[]の字源においては「鬼の姿に似る銀河」は「女性の生殖器から誕生する子ども」に見立てられた。
 []の旁(つくり)[]の字音は「ゆう」、「右手」をあらわした。ゆえに、「右手」をあらわす[]の字音は[]と同じく「ゆう」である。[]の金文形は「右手の図案」と「渦巻き」で組織され、「渦巻き」は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の図案であった。
 以上のごとく、[][]の字源は共に「鬼の姿に似る銀河」であるゆえ、[]の原字は[]であったことになる。
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 E図に、[]の女偏となった「子どもの頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)における女性の生殖器」を示した。[]の字源・字形・字義は「鬼の姿に似る銀河と、その周辺の形状」を、E図のごとく見立てて成立したことになる。
 『説文解字』は[]について「奴婢(ぬひ)、みな古(いにしえ)の辠(ざい/)人なり」とし、「周代の奴隷(どれい)であった」と指摘する。この[]の説明は字源とは無関係である。
 殷代には覡(げき/神官)と巫女(みこ)が王を葬るときに多くの人々を殺して墓に埋める残酷な徇葬(じゅんそう)を指揮した。この徇葬を憎悪した周王朝は殷王朝を滅亡させた。そして周王朝は「徇葬を指揮した神官と巫女たちを罪人にして奴隷にした」ため、『説文解字』は「奴婢、みな古(周代)の罪人なり」と説明したのである。
 だから、『説文解字』の[]の説明は周代の奴隷について説明したもので字源解説でなかった。これについては――『魏志』倭人伝の9ヶ国の小国名の[]を「罪人」に変えてみれば容易に理解できる。早速(さっそく)[]を「罪人」と変換すると、『魏志』倭人伝の小国は罪人国、弥罪人国、姐罪人国、蘇罪人国、華罪人蘇罪人国、鬼罪人国、烏罪人国、罪人国、狗罪人国となり、意味が不明にして奇怪(きっかい)となる。だから、小国名に用いられた[]の字源あるいは字義は「罪人」ではなかったことになる。
 『説文解字』は[(こく)]の字源を「牛、人に触()れる。角(つの)に横木を著()く。人に告げる所以(ゆえん)なり」と解説する。
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 F図は、『説文解字』の[]の字源解説図である。
 「牛」の字源は「ジャコウウシ」である。「ジャコウウシ」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の「獣」をあらわし、漢字作成原理を象徴する聖獣(せいじゅう)であった。「人に触れる」の「人」は、F図における「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」である。次の「角」は「ジャコウウシの角に相当する銀河」であり、「横木」は「十字の銀河」である。というのも、C図では「十字の銀河」は「横」となり、「木に相似する」と見立てられて「十字の銀河」は「横木」と説明された。そして「牛(ジャコウウシ)の口は人の横顔に酷似する銀河の頭に触れる(接続する)」ゆえ、「人に告げる所以なり」と解説されたのである。
◆G図の左図は、[]の字源「ジャコウウシ」の側身形(そくしんけい)図である。
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 「ジャコウウシの姿」は「第5週始め頃の胎児の姿」に相似すると見立てられた。また、ジャコウウシは天敵のオオカミに襲われると、子は真ん中に隠して、群れは円陣を作って子をまもる習性がある。女性の生殖器(せいしょくき)の大半は骨盤(こつばん)に包囲される。「ジャコウウシ」は「女性生殖器をまもる骨盤」に見立てられて倉頡の漢字作成原理を象徴する聖獣となった。
 「ジャコウウシ」は[()][(せい)]の字源となった。『説文解字』は[]の字源を「宗廟(そうびょう)の牲なり」、[]の字源を「牛、完全なり」と解説する。つまり、中国でジャコウウシが絶滅していなかった五帝時代、[]の字源「ジャコウウシ」は「天の神と地の神となった祖先の死霊(しれい)に祈願する時、祖先の魂を祭る宗廟(みたまや)にささげる犠牲(いけにえ)として最も完全な獣」とされた。
 F図における「ジャコウウシの顔の部分」はD図の[]の字源における[]の字源「鬼の姿に似る銀河」であった。だから、殷代において中国ではジャコウウシが絶滅していたので、「ジャコウウシ」と「鬼の姿に似る銀河」に見立てる犠牲(イケニエ)にふさわしいのは「たくましい肉体を有する青年や美しい乙女や生命力あふれる人物」とされた。ゆえに、彼らは殺されて死霊(しれい)となる王の墓に埋められることになったのである。
 []の字義は殷代では「王の墓に埋められた徇葬者(じゅんそうしゃ)」となり、徇葬を憎悪した周代では「徇葬を指揮した神官や巫女が罪人」が[]の字義となった。
 [][]の字源「ジャコウウシ」は「強大な力」を有した。
 ゆえに、わが国では殷代後半の甲骨文字よりも約750年前の夏音文字が習得されていたので、『魏志』倭人伝が列記(れっき)する小国名に用いられる[]の字は字源を失わず「ジャコウウシが有する力のごとく、もの凄(すご)い強い力」を意味した。というのも、D図に示した[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「強大な力がみなぎる右手」と見立てられて、F図では「強大な力を有するジャコウウシの横顔」に見立てられたため、小国名に用いられた[]の夏音文字は「ジャコウウシのごとく、もの凄く強大な力」をあらわすことになった。
 『魏志』倭人伝の小国名に用いられた夏音文字の[](1)「乾いて固くなった田の土を掘ることができる強大な力」、(2)「虎のごとく雷のごとく大声をあげる怒責(どせき)によって胎児(たいじ)を子宮から産道へと押し上げて出産するときの母体の強大な力」、(3)「重い体を浮かせることができる鳥や蝶(ちょう)の強大な力を有する羽()、または[()][]の字源となるカンムリカイツブリの求愛ダンスにおける水面上に重い体を立たせることができる強大な力」、また(4)「鳴門(なると)の渦潮(うずしお)の強大な力」、(5)「地下から溶岩や噴煙を噴出する阿蘇山(あそざん)火口の地下の強大な力」などをあらわした。
 また[奴]の字は(6)「固くなった田の土を掘ることができる強大な力を有する18歳ぐらいの青年」を意味した。このため、『魏志』倭人伝の末部には「卑弥呼の墓に、百余人の奴婢が殺されて埋められる徇葬がおこなわれた」と伝える記事がある。[奴婢]の[婢]は「暗い銀河部の形をキャッチできる澄んだ瞳(ひとみ)を有する13歳くらいの乙女」を意味した。つまり「奴婢」は「完全なる犠牲(いけにえ)のジャコウウシに見立てられた、人生で最も輝いて優れた能力を有する18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女」を意味した。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・9」にて証明したように、対馬国から5番目となる「奴国」は上記した(5)「火口の地下に強大な力を有する阿蘇山を範囲とする小国」であった。
 以上のごとく、『魏志』倭人伝に列記された小国名に用いられた[]は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の「獣」となった「ジャコウウシ」をあらわした。
 だから、小国名に用いられた[]の字は漢字作成原理を解明できる資料となった。

◆『魏志』倭人伝に列記される対馬国から数えて13番目の小国は「弥奴(みな)国」である。前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・11」で、「弥奴」の[]の字源は「水鳥のカンムリカイツブリ」であることを証明した。
 中国の五経の第一に挙げられる古典『易経(えききょう)』繋辞上伝(けいじじょうでん)には「易は天地と準(なずら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と漢字の起源について説明する記事がある。
 高田真治・後藤基巳(もとみ)訳者『易経()(岩波書店発行)は、上記の記事の文中にある「弥綸」という語は「つくろいおさめる、洩れなく包(つつ)みこむ」という注を加える。
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  H図に示すように、「山東半島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は「鳥の頭」に相似し、「山東半島の付け根から南と北へ分かれる海岸線」は「鳥の翼」の形に相似し、「長江口(ちょうこうこう)から杭州湾(こうしゅうわん)南岸までの海岸線」は「鳥の翼の形が裂()けて綻(ほころ)ぶ形」となるが、「杭州湾南岸より南の海岸線」は「つくろいおさまって」円いカーブを描く。だから、「中国の海岸線」は「中国全土をつくろいおさめる、洩れなく包みこむ」ゆえ、『易経』は「中国の海岸線」を「弥綸」と表現したのである。
  「山東半島」は[]すなわち「水鳥のカンムリカイツブリの頭」に見立てられた。ゆえに前述したように、小国名「弥奴」の[]の字源は「カンムリカイツブリ」であった。
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 I図に示すように、旧国「尾張(おわり)」、現在の「愛知県西部」が「弥奴国」であった。
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 J図の左図に示した「上南下北の尾張の地宜」は――[]の字源の「カンムリカイツブリ」が求愛ダンス(繁殖行動)をする時、メスとオスは[]の「強い力」で重い身を水面に直立させる姿――に相似する。ゆえに、「尾張」は小国「弥奴国」であった。その証拠に、「カンムリカイツブリの〔尾〕がある弥奴国北部はひろがって〔張る〕形」となるゆえ、「弥奴国・愛知県西部」の旧国名は「尾張」となったにちがいない。

◆対馬国から16番目の小国は「姐奴国」である。「姐奴」は「つな」と読む。
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 K図に示すように、若狭(わかさ/現在の福井県南部)と越前(えちぜん/福井県北部)の地宜は敦賀(つるが)半島で左右に分かれて綱引(つなひ)きをしているような形となる。そして「越前北部」は「太い綱(つな)の部分」に観える。ゆえに、「越前北部」を「太い綱=強大な力」と解釈すると[]の字源をあらわす。[]の字には「母。姐御(あねご)」という意味があり、K図に記したように「越前南部の地宜」は「たくましい母や姐御の豊かな胸部」のごとく形となる。したがって、「越前」が小国「姐奴国」であったと考えられる。
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 L図のごとく、「姐奴国の地宜」を「飛ぶ蝶(ちょう)の姿」に相似すると見立てると「越前北部の地宜」は[]の字源「重い体を浮かせる強い力を有する蝶の羽」と解釈できる。
 なぜL図のごとく、対馬国から16番目の小国「姐奴国の地宜」を「飛ぶ蝶の姿」に見立てたかといえば、「越前」の隣国の「若狭」は18番目の小国「蘇奴(さな)国」で、「蘇奴」の2字は「蝶の幼虫と蛹(さなぎ)」をあらわすと考えられるからである。
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 その証拠に、M図の左上の「若狭の地宜」は「蝶の幼虫、あるいは蛹の形」に相似する。蝶の蛹は死骸(しがい)のごとく観える。その死骸のような蛹の背中を[]の「強い力」で割って命が蘇(よみがえ)るごとく羽化(うか)して、蝶は空を飛翔(ひしょう)する美しい成虫となる。したがって、「蘇る」の[]と「蛹の背中を強い力で割る」の[]が加わって、「若狭の地宜」から「蘇奴国」と名づけられたことになる。
 対馬から17番目は[]の字がつく「対蘇(つさ)国」、18番目の小国が「若狭・蘇奴国」、19番目は「呼邑(こお)国」、20番目は「華奴蘇奴(かなさな)国」である。
 M図中央の旧国「近江」(現在の滋賀県)の小国名が「呼邑国」であったという証明は次回でおこなうゆえ、解説を省略する。
 M図に示す旧国「山城」(現在の京都府)の小国名は「華奴蘇奴国」であった。[]の金文形は「ヒメシロチョウが食べる草のクサフジの形」に相似し、「山城の地宜」は「ヒメシロチョウの成虫の姿」と「ヒメシロチョウの幼虫や蛹の形」にも相似する。ゆえに、[]は「クサフジとヒメシロチョウの成虫」、[]は「重い体を浮かすヒメシロチョウの羽」、[]は「ヒメシロチョウの幼虫や蛹」、[]は「羽化するときに蛹の背中を割る強い力」をあらわすゆえ、「山城」は「華奴蘇奴国」と名づけられたのである。
 M図における「美濃(みの)」の小国名は17番目の「対蘇国」であった。「美濃」は「現在の岐阜県中部と南部」であるゆえ、「岐阜」という地名がつく美しい蝶「ギフチョウ」を真っ先に思い浮かべる。
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 N図に示すように、「美濃西部の地宜」を「ギフチョウの幼虫と蛹の姿」に相似すると見立てると、「美濃の西部を除く大きな範囲の地宜」は「ギフチョウの成虫の姿」に見立てることができる。「ギフチョウの幼虫と成虫」で「一対」として[][]は「死骸のごとくの蛹から命が蘇る美しいギフチョウ」があらわすゆえ、「美濃」は「対蘇国」と名づけられたことになる。
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 上掲した「文字作成銀河の写真」を参照すると、O図の上図に示すように、「十字の銀河から鬼の姿に似る銀河とその周辺の形状」は「蝶の姿に観える銀河」となる。
 O図の下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河と、その北側の銀河の形状」は「蛹の背中を割って羽化した成虫・美しいギフチョウの姿」に相似する。
 ゆえに、L図に示すごとく「越前」は「蝶の姿」に見立てられ、M図に示すがごとく「若狭」は「蝶の幼虫や蛹」に、「山城」は「羽ばたくヒメシロチョウの成虫や幼虫や蛹」に、「美濃」は「ギフチョウの成虫や蛹」に見立てられたのである。
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 P図に示すようにイメージ解釈されて、「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・長方形の暗黒天体部と、その北側の銀河の形状」は[]の字源となった。P図における「鬼の姿に似る銀河」は、D図に示した[]の字源銀河であった。
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 ゆえに、Q図に示す旧国「紀伊(きい)」、現在の「和歌山県の地宜」は「タカが飛翔する姿」に見立てられて、対馬から23番目の小国「鬼奴(きな)国」となった。したがって、Q図に示す「強い力で重い体を浮揚(ふよう)させるタカの大きな翼」が、「鬼奴」の[]となった。だから、小国名に用いられた夏音文字[]の字義は「タカ」であったことになる。
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 R図に示した現在の「三重県南東部」の旧国「志摩(しま)の地宜」は「タカの顔」に相似する。ゆえに、「志摩」は対馬から21番目の小国「鬼()国」であったことになる。志摩の「英虞湾(あごわん)の海岸線周辺地宜」は「餌(えさ)をちぎって、ひなに与えるタカの嘴(くちばし)と餌の形」に相似する。
 オオタカの卵は24個、ハイタカは45個、クマタカは2個。第1卵の産卵(さんらん)後に第2卵を抱いて産卵するゆえ、雛(ひな)の孵化(ふか)は同時でないために、雛に強弱ができ、強いものが生き残る。強い雛は弱い雛を餌にするといわれる。このような「強い雛が弱い雛を餌にする、非情な繁殖習性」から、夏音文字では「タカ」が[(おに)]となったにちがいない。

◆対馬から28番目の小国名は「烏奴(あな)国」、29番目は5番目の「奴()国」と同じ「奴国」である。[]には「な」と「ぬ」の字音がある(注 「奴婢」の[]の字音は「ぬ」である)。したがって、5番目国は「奴国(なこく)」と読み29番目国は「奴国(ぬこく)」と読んだ可能性がある。あるいは、両国とも「なこく」と読んだかもしれない。
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 S図に示すように、「烏奴国」は「旧国の土佐、現在の高知県」、「奴国」は「旧国の伊予・讃岐・阿波であり、現在の愛媛県・香川県・徳島県」であると考えられる。
 前述したように、「鳴門の渦潮」は[]の字源「強大な力」をあらわした。ゆえに、「奴国」の[]は「鳴門の渦潮」があらわし、「奴国」は「四国の愛媛・香川・徳島の3県」であったと考えられる。
 下のT図のごとくを〔東〕が〔南〕になる転回方位に則(のっと)るように、S図を90度転回すると、「愛媛県」はD図で説明した「右手」、「香川・徳島の両県の地宜」は「右手をまげたときにできる筋肉のもりあがり、力瘤(ちからこぶ)」のイメージとなる。ゆえに、「愛媛県・香川県・徳島県の地宜」は、D図に示した[]」の字源銀河「鬼の姿に似る銀河」に見立てられて「強大な力を有する右手とその力瘤」をあらわしたことになる。
K342
(C) 2018 OHKAWA

 わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回・8回で詳細に解説して証明したように――『魏志』倭人伝にある15ヵ所すべての方位記事に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ、T図のごとく日本列島の〔東〕は〔南〕となる。卑弥呼が統治した国名の「倭人国」の[]の字源は「時計回りに90度転回して〔東〕が〔南〕となる転回方位」をあらわした。
 だから『魏志』倭人伝は――卑弥呼王朝はT図に示した[]の字源をあらわす「転回日本列島地理」を制定していた――という事実を記述していたことになる。
 この卑弥呼王朝が制定した日本列島地理の転回緯度基点(北緯3415)は玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうづしま)である。沖ノ島と神津島を結ぶ同緯度線上に、鳴門の渦潮がある。ゆえに、「鳴門の渦潮」は「日本列島の〔東〕を〔南〕に転回させる強大な力を秘める場所」となり、D図の右上の[][]の金文形の「渦巻き(北アメリカ星雲・ペリカン星雲)に呼応(こおう)する地点」となった。
 D図にて解説し証明したように、[()]の字源銀河は「右手」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」と「強大な力をあらわす渦巻き」の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」で構成される。ゆえに、[]の字源を示して「日本列島を転回させる強大な力」をあらわす「鳴門の渦潮」に近く、「右手とその力瘤に観える地宜」となる「愛媛県・香川県・徳島県」の小国名は「奴国」であったことになる。
K343

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 高知県の高知市南部に、浦戸湾(うらどわん)がある。
 U図の上図に示すように、「浦戸湾の地宜」は「カワセミ・ヤマセミの姿」あるいは「カワセミとヤマセミが川の土手の地中深く作る穴(あな)の巣)」に見立てられて[]の字源をあらわした。その証拠にU図の上図の右端の[]の金文形は「カワセミ・ヤマセミの姿」に相似する。
 カワセミは川の土手(どて)・畑・石垣などに深い横穴を作り、その奥に産卵し、産座(さんざ)には吐()き出した魚の骨を敷()く。ヤマセミは川岸の崖(がけ)などに深い横穴を作り、産座に魚の骨を敷く。ヤマセミは川沿いに鋭い鳴き声をあげて素早く直線状に飛ぶ。カワセミは渓流(けいりゅう)や池・沼などに沿う木の枝に静かに止まって水中の獲物(えもの)を探(さぐ)り、あるいは流れに沿って一直線に飛ぶ。
 U図の下図に示す「激流の銀河」は「渓流や川」のイメージとなり、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲の西隣の暗黒天体部(暗い小さな星々で包まれる部分)」」は「飛ぶカワセミ・ヤマセミの姿」に観える。ゆえに、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲の西隣の暗黒天体部」が[]の字源銀河であった。
 「浦戸湾」は[]の字源となり、[]の字源銀河(暗黒天体部)の北隣の「鬼の姿に似る銀河」は[]の字源銀河であり、「高知県の地宜」は「鬼の姿に似る銀河」に見立てられるゆえ[]の字源をあらわした。だから、「高知県」は「烏奴国」と名づけられたのである。

(へん)[]、旁(つくり)[][()]の字義は「土手」である。「丘や崖」をあらわす阜偏(こざとへん)[]が加わる[]の字義も「土手」である。したがって、[]の字源は「カラス」ではなく、「川の土手に巣を作るカワセミと川岸の崖に巣を作るヤマセミ」であったことになる。

◆対馬国から30番目の小国「狗奴(くな)国」について、「奴国(愛媛県・香川県・徳島県)の南に有る」と記述する。奴国(29番目)の中心地は愛媛県の県都・松山市であったと考えられる。T図の卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理にもとづくと岡山県の県都の岡山市は松山市の南(現在の東)にある。
K344
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 V図に示すように弥生中期から卑弥呼が生存した弥生後期にかけて、山丘上(さんきゅうじょう)の集落址(しゅうらくあと)が岡山県の中心地域を包囲するように点々と所在する。これらの集落は、瀬戸内海の海路を見張る軍事的すなわち烽火台(のろしだい)の遺構(いこう)が設置された集落であったと学者たちは指摘する。
 『魏志』倭人伝には(1)「狗奴国は男子を王とし、女王国・倭国には属さない」、(2)「西暦160年~170年頃に倭国は乱れ、敵国と何年ものあいだ互いに攻撃しあったが、一女子を立てて大王に即位させ、この倭女王の名は卑弥呼という」、(3)「倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」という記事がある。ゆえに、V図の軍事的集落に包囲される岡山市を小国の都とした狗奴国は吉備(きび)地方であったのである。
K345
(C) 2018 OHKAWA
 
 W図に示す「小豆島(しょうどしま)の地宜」は「狗(イヌ)の姿」に相似する。「児島半島から倉敷市(くらしきし)にかけての地宜」は「襲撃する天敵のオオカミに追われて、群れに向かって逃げるジャコウウシの後ろ姿」に相似する。ゆえに、「岡山県の内陸部」は「真ん中に子を隠して円陣を組むジャコウウシの群れ」に相当する。G図に示したように「ジャコウウシ」は[]の字源であったゆえ、W図の「岡山県」は「狗奴国」であったことになる。
 対馬国から28番目の小国は「烏奴国」、その前の27番目は「支惟(きい)国」である。
K351
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 []の字義は「分かれる」、[]の字義は「深く考え思う」である。「人間の大脳」は[]の字義に合致して「右半球(右脳)と左半球(左脳)に支(わか)れ」、[]の字義「深く考え思う」にも合致する器官である。ゆえに、X図に示すように、「支惟国」は「地宜が大脳の側面形に相似する――旧国の安芸(あき)と備後(びんご)南西部、備後の北東部を除く現在の広島県」であったと考えられる。
K352

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 したがって、Y図に示すように「狗奴国の範囲」は「備後の北東部・備中(びっちゅう)・備前(びぜん)・美作(みまさか)、現在の広島県の一部分と岡山県とそして香川県の小豆島」であったことになる。
K353

 
 上のZ図は、X図に示した「支惟国」の[]の旁部(つくりぶ)[(すい)]の字源銀河図である。「十字の銀河の子宮」は「小鳥の姿」に相似すると見立てられて、[]の字源となった。
 C図の上部に記したように、[]の字源銀河「十字の銀河の子宮」は「文字作成銀河各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮」であり、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」をあらわす中枢部(ちゅうすうぶ)であった。ゆえに、「漢字」は――銀河各部の形状を観察して、そのイメージを心に伝えて芸術的に考える、つまり思惟(しい)して、[]の字源「十字の銀河の子宮」から生まれる子――であった。だから、[][]が加わる[]の字義は「心に伝わる思いを深く考える」となったのである。
 W図にて証明したように、「狗奴国」の[]の字源はG図に示した「ジャコウウシ」であり、「ジャコウウシ」は「強大な力を有する獣」であるゆえ、小国名に用いられた[]の字は「強大な力」をあらわした。
 []の字源「ジャコウウシ」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」をあらわす聖獣であった。だから、『魏志』倭人伝に記載された9ヶ国の小国名の[]は漢字作成原理を解明し証明できる確かな資料であった。
 ゆえに、学者たちのごとく『魏志』倭人伝に【誤読(文献批判)】を加える方法は史実をねじ曲げる詐偽(さぎ)・捏造(ねつぞう)であり、【誤読】を1ヵ所も加えずに全記事を忠実に読解すれば漢字の起源の秘密が科学的に解明できたのである。だから、『魏志』倭人伝は漢字の起源の秘密がコンパクトにまとめられ、古代エジプト文字(ヒエログリフ)も漢字と同じ文字作成銀河から作られた事実も解明できる、世界的に第一級の貴重な文献だったのである。

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2018年5月12日 (土)

漢字習得定説のウソ・11

 ●『魏志』倭人伝の小国位置の証明・3
■邪馬台国説は世界中の笑いものとなるデタラメである
 
◆現在、銀河の動画や写真は多数の人々によって撮影される。

 その「銀河」の別称は「銀漢」である。したがって「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。だから、多数の人々が撮影した銀漢の動画や写真を注目すれば「約5000年前、黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が文字を作った」と語る伝説は真実であることが判明する。にもかかわらず、学者たちは銀河から漢字が作られた事実に目をつぶる。
 したがって、学者たちが『魏志』倭人伝に「文献批判」と名づけた【誤読】を1点も加えなければ「倉頡が漢字を作った」という伝説は真実であったことが、即座(そくざ)に明らかになる。『魏志』倭人伝は「銀河から漢字が作られた事実」が最もコンパクトに示されている貴重な史料であったのである。
 学者たちは倭女王の卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国」であったと主張するが、『魏志』倭人伝は「邪馬壱(やまい)国」と表記する。古代研究家の故・古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される「壹()86個と「臺()56個の文字を逐一(ちくいち)調べ、「壹()」を「臺()」と誤記した事例が存在しないことを証明した。『魏志』倭人伝に登場する[()]の字源には倉頡が「銀河から作られた全文字の子宮とする」と定めた漢字作成原理が秘められ、[()]の字源は倉頡が発明した漢字作成原理と直接的に関わらなかった。この[()][()]の字源の相違によって、「邪馬台国」は【誤読の産物】であると証明される。ゆえに「邪馬台国」という字を目にしたならば即座に「誤読の空論」と断定する人物こそが学者であって、「そんなことはない」と弁解・弁護する人々は偽(にせ)学者となる。
 というのも、わがブログ「古代エジプト文字の字源」1回~27回で証明したように、漢字が作られた同じ銀河から古代エジプト文字(ABCアルファベットのルーツのヒエログリフ)も作られた事実が判明するからである。つまり、今日の地球上の70%~から80%の人々が用いる文字のルーツは銀河から作られた事実が、『魏志』倭人伝に1点の【誤読】が加えなければ【科学】が成立して証明される。
 だから、邪馬台国説は世界中の人々に、笑いものとなる【誤読】を思考方法とする【無知なる空論】である。
 以上のごとく、「邪馬壱国」を「邪馬台国」と【誤読】しなければ漢字と古代エジプト文字は同じ銀河の範囲(はんい)から作られた事実が科学的に証明されるゆえ、「邪馬台国」が正しいと言い張る意見は「倫命(りんめい)」すなわち「人類に対して、実行すべき使命」を冒涜(ぼうとく)する暴挙(ぼうきょ)である。
 それでも強情に【誤読】を加える意見を続けるのは似非(えせ)学者がなせる業(ごう)で、【科学】に反する最悪の不正行為となる。

◆倉頡は、下の写真の銀河(銀漢)の範囲の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 このブログ「漢字習得定説のウソ」は前回まで、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した事実を詳細に解説して証明してきた。黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産(しゅっさん)の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすことができる漢字を発明したのである。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神(きじん)信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と、さらに『魏志』倭人伝に加えた数々の【誤読】によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされた。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代初頭=後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名となって現存する。だから、これから『魏志』倭人伝に記述された小国名の秘密を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo

 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国は夏音文字を習得していた」と伝えている。
 
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字はともに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理にもとづいて作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 このような夏音文字の二つの記事が示すように、2世紀末に出現(しゅつげん)した卑弥呼(ひみこ)王朝は、黄帝の歴史を復興し、倉頡が発明した漢字作成原理を保存する夏音文字の学芸を政権基盤にして、わが国のおける最初の国家体制を樹立(じゅりつ)した。これゆえ、卑弥呼王朝は小国名を倉頡が発明した漢字作成原理の基(もと)に定めたため、『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成原理をコンパクトに表示する貴重な史料となったのである。

人類は原始の時から、A図右上に示す[(げん)]=天頂(てんちょう)緯度線と子午線をキャッチする能力を研(みが)くと〔1度の60分の11分の精度で緯度〕が測定(そくてい)できる眼力と本能が脳にそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は苛酷(かこく)な原始の時代に滅亡せず、獲物(えもの)を追って移住生活をつづけても「迷った」とパニック状態におちいることがなくしっかりと位置(位置と方位)は認識していると自覚して生活し、大海で迷って漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
K131

(C) 2018 OHKAWA
 
 だから、紀元前3000年頃、黄帝の遠征軍は原始以来の慣習となる[]をキャッチして黄河(こうが)中流地域からはるかに遠い揚子江(ようすこう)・太湖(たいこ)まで遠征しても故郷に帰還することができた。
 〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、上掲した文字作成銀河各部の名称図の左上にある「十字の銀河」が中国全土各地の天頂にめぐってきたことが明らかとなる。B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖南岸の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
K132
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のような円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる母体(ぼたい)」と定め、また「十字の銀河の子宮(しきゅう)」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。これゆえ、B図の銀河と緯度の状況と、C図で説明した「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた文字が生まれる母体にする」という定理が、倉頡が発明した漢字作成原理となった。
K271
(C) 2018 OHKAWA
 
 
D図に示すように、出産の娩出期(べんしゅつき)終了時において頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
K191
(C) 2018 OHKAWA
  
 E図の上図に示すがごとく、倉頡はすべての漢字の母体となる「十字の銀河」に「頭が誕生する子(出産児)の顔の向き」をあてはめた。
K272

(C) 2018 OHKAWA
  
 すると、「十字の銀河の背側に顔を向ける子」は〔東〕を向くことになり、中国の〔東〕は〔大海〕であるゆえ、「子どもは大海原(おおうなばら)に生まれて、陸地(中国全土)には生まれない」という状態となるゆえ、このままだと黄帝の研究と自らが発明した漢字作成原理との間に不合理・矛盾(むじゅん)が生ずることに、倉頡は気づいた。
 そこで倉頡は黄帝が徳(とく)をもって治める政事(まつりごと)をイメージし、このイメージと自らの「十字の銀河」を「すべての漢字を生む母体」とする漢字作成原理、この両者における相互の合理を求めて、E図の下図に示すように、[()]の字を作って「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度方位が転回する規定」を定め、また[]の字を作って「〔南〕が〔東〕となる逆時計回りに90度方位が転回する規定」を定めた。
 F図の右下に[]の契文形(けいぶんけい/亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字の字形)を示した。[]の契文形は「いね()の形」をあらわす図案である。
K273
(C) 2018 OHKAWA
  
 倉頡はE図に示したように「子の生育(せいいく)」と「いねの生育」を同一視し、F図に示すように「十字の銀河」に「いねの図案」を重ねて「いねの穂が〔南〕から〔西〕の鬼の姿に似る銀河の口部に垂れるイメージ」を表現する[]の字を作った。つまり、[]は「天が恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えるように、徳政(とくせい)すなわち恵み深い政事(まつりごと)をおこなう」と意味することになった。
 なお、E図の下図に示した「時計の針の逆方向の90度の転回方位」をあらわす[]は「子の生育」と「いねの生育」を同一視した考えにもとづいて「地上に多数の子が生まれる」とあらわすことになった。
 F図の下部に示すように後世の人が、倉頡が作った[]の下に[]の字を加えて[()]の字を作った。というのも、「いねの図案」と重なる「十字の銀河」は、C図に示したように「女体」に観えるからである。「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏(にんべん)[]が加わる[()]の字も作られることになった。後世に作られた[][]は倉頡が作った[]の字源・字義を受け継いで、F図の上部に示したように「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕となる方位規定」をあらわした。
 だから『魏志』倭人伝には――実際には日本列島は〔東〕へ伸びるが、[]の字源のとおり日本列島の〔東方〕は〔南〕へと伸びる――と記述された。つまり、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は――倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕=〔東〕が〔南〕となる方位規定」の伝統を受け継ぐ――[]の字源をあらわした。
K274
(C) 2018 OHKAWA
  
 したがって卑弥呼王朝は、G図に示す転回日本列島地理を制定し、卑弥呼が統治(とうち)する国名をF図の転回方位規定を示す[][]の字が加わる「倭人国」と定めたとことになる。
 この「倭人」という国名は「豊かな禾(穀物)に恵まれ、女性たちが多数の子を生み、人々が[]をキャッチする能力を養(やしな)って寿命を伸ばして幸せに生活する」と意味した。

◆上記したように、「十字の銀河」は女体に相似するゆえ(C図参照)、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られる、すべての漢字が生まれる母体」と定めた。また、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。
 このように倉頡が発明した漢字作成原理をあらわす図案が、H図に示す「文字」の[]の金文形である。この字形は「十字の銀河」を「女体の正面形」に見立てて、「子宮に胎児(たいじ)がやどる、おなかが円い妊婦(にんぷ)の姿」を表現する。
K281
(C) 2018 OHKAWA
  
 I図は、「文字」の[]の金文形である。「十字の銀河」は「すべての文字が生まれる」をあらわす[(べん)]の下に[]の字源「鬼の姿に似る銀河」が加わって、[]となる。
 I図の「十字の銀河の子宮」に「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡(あしあと)」という文字を加えた理由は、倉頡が発明した漢字作成原理の名が「鳥獣の足跡」であったからである。
K282
(C) 2018 OHKAWA
  
 J図に示すように、H図の「十字の銀河」から作った[]の字形を90度転回させ、「鬼の姿に似る銀河」が[]の字となって、[(さい)]の楷書が作られた。
K283
(C) 2018 OHKAWA
  
 K図は、[]の下の[]の字源解説図である。J図の右図の「鬼の姿に似る銀河」は、A図に示した[]の「天頂緯度線を測定する人」に見立てられて、[]という字が作られた。[]は「神(かみ)」の初文(しょぶん/最初の文字)である。
K284
(C) 2018 OHKAWA
  
 天が示す象(ぞう)すなわちK図に示す天頂緯度線の測量に成功すれば吉、失敗すれば凶となった。ゆえに、天頂緯度線の測量は人の生死を示すものとなったゆえ、[]の字源「天頂緯度線の測定」は神事となった。だから、“字書の聖典”と古代の人々に尊重された『説文解字(せつもん)』は、[]の字源を「天は象(ぞう)を垂れて吉凶を見(しめ)す。人に示す所以(ゆえん)なり。(中略)。示とは神事(しんじ)なり」と解説した。
 K図の右側の[]の契文形において「上部の横線が1本と2本」の2種あるのは、「1本の契文形」は「天頂緯度を測定する」の「天頂緯度線」を注目した図案であり、「2本の契文形」は「地上から天頂緯度を測定する」の「地上の観測地点の緯度」を注目した図案である。『易経』繋辞上伝には「天は一、地は二なり」と解説する文がある。A図に示した[]のキャッチでは――K図に示すように「天頂緯度=観測地点は同一緯度」と定めたが、「天は一なり」と「地は二なり」(つまり、天の鬼神と地の鬼神は呼応しあうが、別種である)と区別したゆえ、[]の契文形は2種存在することになった。この秘密はJ図の[]の字に示され、『魏志』倭人伝に記述された〔天文方位の対馬国・一大国〕と〔転回地理方位(転回日本列島地理)の九州の各小国〕と分かれて、両者の相違が明確に示されることになった。

 J図の[]の字は、F図に示した[][][]と同じく「転回方位」をあらわす。ゆえに、[]はG図に示した卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理をあらわすことになった。
 L図に示すように、[]の古代字形は「子午線通過する時の十字の銀河の形」を図案するものであった。
K285

(C) 2018 OHKAWA
  
 『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従う」と解説する。B図に示したように、黄帝時代、中国各地の至高つまり最も高くて、それ以上の上がない天頂に「十字の銀河」がめぐってきたので、「子午線通過する時の十字の銀河の形状」が[]の字源となった。
 H図の[]の字源解説図は、L図の[]の字源解説図と同じく「子午線通過する時の十字の銀河の形状」によって字形が成立する。
 しかし、I図の[]の場合、その[]の字形は「鬼の姿に似る銀河が子午線通過する時の形状」によって成立するものであった。
 だから注目すべきは、M図の下図に示すように、F図の[]とI図の[]とJ図の[]の字形は、「鬼の姿に似る銀河が子午線通過する時、十字の銀河に対して鬼の姿に似る銀河が時計回りに90度転回する位置にある形状」から作られたことになる。
K286
(C) 2018 OHKAWA
 
◆前々回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・9」で詳細に解説して証明したように、『魏志』倭人伝に登場する小国の「対馬」は、N図に示す現在の「長崎県対馬」であった。
 N図に示すように[]の字源は「フタコブラクダの側身形(そくしんけい)」であるが、「対馬の上島の地宜」は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てられた。このため、「対馬の上島の地宜」はL図の「十字の銀河の正面形=子午線通過する時の十字の銀河」に相似すると見立てられて、[]の字源を示すことになった。
K291
(C) 2018 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝は「長崎県の壱岐」の小国名を「一大」と記す。前述したように『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従う」と解説する。この「一大」は[][]の字源が「十字の銀河の子宮」であり(L図参照)、「子宮で育つ胎児が大きくなるとともに子宮も大きくなる」ので「一大に従う」と解説されたのである。[]の字義は「一」であるゆえ、「一大国」の現在名は「壱岐」である。
 O図に「対馬国(対馬)」が[]の字源銀河の「十字の銀河」に、「一大国(壱岐)」が「十字の銀河の子宮」に見立てられて[]の字源を示すことになった様子をあらわした。
K292

(C) 2018 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝は「対馬国から南一海を渡る千余里すると、一大国に至る」と記述する。この記事にある「南」は――[]の字源の「十字の銀河」における〔南〕」をあらわすものであった。つまり、「対馬国と一大国の方位」は、K図に示した「上部が1本線の[]の契文形の図案」にもとづく〔天文方位〕である。
 他方(たほう)、O図における末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国・投馬(つま)国・邪馬壱(やまい)国の方位規定は、G図に示した〔地理の方位=転回日本列島地理の方位〕にして、K図に示した「上部が2本線の[]の契文形の図案」があらわす〔転回方位〕であった。
 O図では[]の字源にもとづく〔天文方位〕と転回日本列島地理にもとづく〔転回方位〕を一図にして示したが――両者の方位規定は同一ではなく互いに独立して別なるものであったゆえ、『魏志』倭人伝は〔天文方位の一大国〕から次の〔転回地理方位の末盧国〕までの「方位名」を矛盾なく表示することができなくなったため、方位名はを記していない。
 O図に示すように、[]の字源となる「十字の銀河」と「十字の銀阿の子宮」に見立てられた「対馬国」と「一大国」を結ぶ延長線上に、転回日本列島地理の方位にもとづく「伊都国の糸島半島と奴国の志賀島(しかのしま)」が所在する。
K293
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 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・10」で詳細に解説したように――P図に示した志賀島について、『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)の禊祓(みそぎばらい)説話は「底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)と中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)と上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)の三柱(みはしら)の綿津見神は、阿曇連等(あづみのむらじら)の祖神(おやかみ)と伊都久(いつく)神なり」と記述する。『古事記』は「伊都久」の3字には〔音〕という注を付け、「伊都久」は夏音文字であると表示する。現在、海ノ中道(うみのなかみち)を望む志賀島の高台には志賀海(しかうみ)神社が鎮座(ちんざ)し、祭神は底津綿津見神と中津綿津見神と表津綿津見神である。神名に「上津綿津見神」と「表津綿津見神」と[][]の違いがあるが両神の名は相似し、ほかの二神名は同名であるから、志賀海神社は阿曇氏の祖神を伊都久(いつく」祭る神社であったことになる。
 志賀島からは――『後漢書(ごかんじょ)』倭伝が「建武中元(けんむちゅうげん)二年(西暦57)、倭の奴国が奉貢朝賀(ほうこうちょうが)す。使人(しじん)みずから大夫(たいふ)と称す。倭国の極南界(きょくなんかい)なり。光武(こうぶ)、賜(たま)うに印綬(いんじゅ)を以(もっ)てす」と記述する――光武帝から与えられた金印が出土している。この金印には「漢委奴国王」の5字が刻まれ、「漢の委()の奴の国王」と読むのが定説である。F図に示したように、[][]の字源は同一であるから、定説のごとく[]を[]と解釈してもよいことになる。
 志賀島出土の金印記事にある「極南界」は「中心地から遠く離れた南端の地」と意味するものではなく、P図の中央に示すように「海ノ中道と志賀島をつなぐ〔南〕」を意味した。この極南界の〔南〕はF図に示した[][][]の字源「時計回りに〔南〕が〔西〕になる、時計回りに90度方位が転回する」をあらわし、つまりJ図の楷書[斎]の字源をあらわした。
 G図の転回日本列島地理の方位規定は、前述したように、J図の楷書の[]の字源を表示した。[]は「いつく」と読み、『古事記』は夏音文字で「伊都久」と表記する。
 だから、P図は現在方位で示したが、「伊都久の伊都国」はO図に示した転回方位を厳重(げんじゅう)に管理する特別な小国であった。『魏志』倭人伝は「一大率(いちだいそつ)という男王が特別に諸国を検察(けんさつ)して、伊都国の港では魏の都と朝鮮半島で文書に用いる楷書と倭の卑弥呼が文書に書く夏音文字が正しく変換していた」と記述する。
 Q図の上図に、現在方位にもとづく「不弥国」という名となった「津屋崎(つやざき)町の海岸線と宗像(むなかた)市平野部の地宜」を示した。Q図の下図に、[][]の転回方位にもとづく不弥国の地宜を示した。
K294
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 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(うけい)説話の末部は〔宗像大社の三女神〕について「宗像王たちが伊都久・斎(いつく)三前(みまえ)の大神なり」と記述する。Q図の下図は「宗像王たちが伊都久=斎(いつ)く転回方位の神に奉仕する様子」を示す図となる。
 だから、『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ解明できた、G図の転回日本列島地理は事実であったことになる。

◆前回のブログ「漢字習得定説のウソ・10」で詳細に解説したように――R図は、中国の五経の第一に挙げられる『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)が「易は天地に準(なぞらう)う。ゆえに能(よく)天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(あきらかに)する」と記述する、漢字起源の秘密を伝える記事の解説図である。
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 したがって、R図はA図に示した[]のキャッチ図とK図の[]の字源解説図は共に、五帝時代の王朝が1度の60分の11分の精度で緯度を測量できたので精密な中国海岸線地図を作製して厳重な機密にしていたと今日に伝えていることになる。
 高田真治・後藤基巳(もとみ)著『易経()(岩波書店発行)は、上記の文中にある「弥綸」という語は「つくろいおさめる、洩()れなく包(つつ)みこむ」と意味すると指摘する。この注の通り、中国の海岸線は鳥の姿に相似し、長江口(ちょうこうこう)から杭州湾(こうしゅうわん)南岸までは翼が裂けて綻(ほころ)ぶかのごとくの形状になるが杭州湾南岸からは円くカーブを描いてつくろいおさまって、中国全土を洩れなく包み込む。ゆえに、「中国の海岸線の形状」は「弥綸」という語をあらわしている。
 「弥綸」の[]という字は「首から腹部の体下面が絹のように美しく銀白色に輝く水鳥のカンムリカイツブリ」を意味した。
 R図の「中国海岸線の形状」は「[]のカンムリカイツブリが東の大空へ飛翔(ひしょう)する姿」に相似すると見立てられて、[]の字源となった。ゆえに、『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり。一に従う。一はなお天のごときなり」と解説する。
 S図の転回方位にもとづく「不弥国の地宜」は、[]の中国海岸線が相似する「カンムリカイツブリ」が一大国へ向かって飛翔する姿に観える。
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 ゆえに、[]の字源を示す「津屋崎海岸線と宗像市平野部の地宜」は、[]の字源「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従う。一はなお天のごときなり」、つまり――「壱岐の地宜」は[]の字源銀河「十字の銀河の子宮」に見立てられたゆえ、S図の「一大国・壱岐と津屋崎海岸線・宗像市平野部の地宜」は「[]に向かって飛翔して下り来ない弥(カンムリカイツブリ)の姿」に相似すると見立てられて、小国名「不弥」をあらわした。
 S図においても、K図で解説した2種の[]の契文形の相違が示される。S図上部の「一大国・壱岐」は〔1本線の[]の契文形の「天頂」=[]の字源〕を示し、「宗像神社」は〔2本線の[]の契文形、J図の[]の転回地理方位〕に奉仕してつかえる神社であった。その証拠に、G図の左側に示した沖ノ島には宗像大社の沖津宮が鎮座し、沖ノ島は転回日本列島地理の緯度基準基点地であった。

◆このブログの冒頭で指摘したように――『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬台国」ではなく、「邪馬壱(やまい)国」と表記する。
 G図に示したように「邪馬壱国」の範囲は「現在の島根県・鳥取県西部」、「旧国の石見(いわみ)・出雲(いずも)・伯耆(ほうき)」であった。
 T図に、『魏志』倭人伝が説明する2世紀末~3世紀半ばまでの卑弥呼時代の出雲の地宜を示した。
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 T図の上部の「神門水海(かんどのみずうみ)」という湖は、「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めになって、馬(フタコブラクダ)の姿に相似する。ゆえに、「神門水海」は[][]をあらわす地宜となった。当時の宍道湖(しんじこ)は転回方位地図で「人の右足の形」に相似していた。そして当時の「人の足の形をしている宍道湖の南方(現在方位の東方)の、その爪先(つまさき)」は、転回方位の〔西〕へと向いていた。C図に示したように、「十字の銀河の右足(西側の足)」は「十字の銀河の子宮」と重なる。[]の字源銀河は「十字の銀河の子宮」である。ゆえに、「転回方位にもとづく宍道湖の南方」は[]の字源地宜に相当することになった。だから、「神門水海」の[邪・馬]と「宍道湖の南方」の[]で、卑弥呼が居住した王国の名称は「邪馬壱国」となったのである。
 「邪馬台国」の[()]の字源銀河は、U図に示す〔台形〕の「長方形の暗黒天体部」である。「長方形の暗黒天体部」の西隣(にしとなり)の「北アメリカ星雲」は[(せき)][(げつ)]の字源となった。『説文解字』は[]の字源を「莫(くれ)なり。月の半ば見ゆるに従う」と解説して、「日が暮れて月が空に出現する夕方」であると表現する。
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 U図に示したように、[()]の字源は東の「十字の銀河の子宮」、[()]の字源は西の「長方形の暗黒天体部」であった。その証拠に、「長方形の暗黒天体部」は「台形状」となる。そして「落陽(らくよう)」すなわち「太陽が西に没する景色」は、台形状の[()]の字源「長方形の暗黒天体部」と[][]の字源「北アメリカ星雲」とがあらわすことになった。ゆえに、魏の都の名は[]に字に草冠の無い[]の字を配する「洛陽」であった。『魏志』倭人伝の末部は「倭の使節の掖邪狗(ややこ)など二十人を遣(つか)わし、因()りて臺()に詣(いた))」と記述する。このように、U図に示した[()]の字源銀河にもとづいて「魏都・洛陽」は[()]と省略された。

 卑弥呼が統治した倭国は中国の東方に位置し、しかもG図の転回日本列島地理では日本列島の東方に位置した。だから、卑弥呼が居住した王国の名は[()]の字を配する「邪馬壱()国」であったと考えるべきことになって、「邪馬台国」ではなかったことになる。

◆倉頡伝説では、倉頡が発明した漢字作成原理の名は「鳥獣の足跡」と呼ばれる。
 I図に示したように、「女性の子宮」のごとくと見立てられた「十字の銀河の子宮」に「鳥獣の足跡」という文字を付け加えた。
 V図に示すように、「女性の生殖器の側身形」は「鳥の姿」に相似する。
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 わがブログ「漢字習得定説のウソ・2」で詳細に解説し証明したように――W図に示す[]の字源の「ジャコウウシの姿」は「第5週始め頃の胎児の姿」に相似すると見立てられた。
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 また、ジャコウウシは天敵のオオカミに襲われると、子は真ん中に隠して、群れは円陣を作って子を護る習性がある。女性の生殖器(せいしょくき)の大半は骨盤(こつばん)に包囲される。「ジャコウウシ」は「女性生殖器を護る骨盤」に見立てられて倉頡の漢字作成原理を象徴(しょうちょう)する聖獣(せいじゅう)となった。
 N図に示した[]の字源「フタコブラクダの両目」は「顔の両端」に離れる。第7週頃の胎児の両目は、フタコブラクダの両目のごとく顔の両端に離れる。また、沙漠を旅している時の死者は深い穴が掘られ、一匹のフタコブラクダを殺してその墓に血を注(そそ)ぐと、雑草が生い茂って墓をおおい場所が判らなくなっても、ラクダは殺されたラクダの血を嗅ぎあてることができたために墓の場所がわかったという。このフタクブラクダの能力は、A図の「[]のキャッチ」を象徴することになり、フタコブラクダもジャコウウシと同様に倉頡が発明した漢字作成原理を象徴する聖獣となった。
 V図に示した「鳥」、W図に示した「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」の「獣」、そしてC図の「文字作成銀河各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮」と倉頡が定めた「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」と重なり、「足跡」をイメージとすることになった。だから、漢字作成原理の名称は「鳥獣の足跡」となった。
 倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」では、A図に示した「[]のキャッチ」が第一に不可欠な要素となった。また、B図に示した中国各地の天頂緯度線が貫通(かんつう)した「文字作成銀河から作られた全文字が生まれる母体」の「十字の銀河」と「全文字が生まれる子宮」の[]の字源「十字の銀河の子宮」が第二次に重大な要素となった。第三次の不可欠要素は、I図に示した[]の字源「鬼の姿に似る銀河」であった。というのも、B図が示すように、「鬼の姿に似る銀河の顔の部分」が中国の各地の天頂にめぐってきたが、その「鬼の姿に似る銀河の身体部」は中国各地の天頂より北側で子午線通過したから、「十字の銀河」より劣ることになった。
 第四次の不可欠要素は、E図の下図に示した[][]の字源定義であった。
 U図に示した[()]の字源は漢字作成原理にとって欠かせない重要な要素であったが――「鳥獣の足跡」という名称には直接的に関わらなかった。
 一方、「邪馬壱国」の[()])の字源「十字の銀河の子宮」は漢字作成原理の名称に直接的に関わった。このことを示して、わたくしはI図の「十字の銀河の子宮」に「鳥獣の足跡」という文字を加えた。

◆学者たちのごとく「邪馬壱国」は誤記で「邪馬台国」が正しいと主張すると、『魏志』倭人伝の倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を伝える記事組織は一気に崩壊(ほうかい)する。そうすると、このブログの冒頭で指摘したように、漢字が作られた文字作成銀河から古代エジプト文字(ヒエログリフ)も作られた、という人類にとってきわめて重大な真実もまた抹殺(まっさつ)されることになる。
 『魏志』倭人伝に【誤読】を1点も加えなければ、このブログで証明したように、『魏志』倭人伝によって「倉頡が発明した漢字作成原理」が、しかも【科学】が成立して証明することができる。
 邪馬台国説は多数の【誤読(文献批判)】を加えるが、いっこうに【科学】が成立して矛盾(むじゅん)が解消される意見が成立しない。ということは、邪馬台国説の実体は今後千年たっても一万年たっても【科学】が成立しない【誤読の空論】ということになる。
 『古事記』上巻には、〔音〕という注が付いて多数の夏音文字が記載されて残る。
 この多数残った夏音文字の役目は、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回~40回まで詳細に解説して証明したように――後世の人々に日本国が〔愛〕を掲げて誕生した歴史を伝えることであった。ゆえに、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』上巻の序において「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された〔愛〕を国家理念とした日本国誕生史は解明できる仕組みになっている」と警告(けいこく)した。しかし、学者たちは安万侶の警告に耳を傾けず漢字が銀河から作られた研究を怠(おこた)り、多数の【誤読】を駆使(くし)して日本国誕生史の真実を排除(はいじょ)する。
 このように【誤読】を思考方法とする邪馬台国説と日本神話学説は人類にとっても日本人にとっても重大な真実を排除するデマであり、ウソ八百のフェイク(虚偽)ニュースであったのである。
 【誤読の空論】の邪馬台国説と日本神話学説は人類に重大な損害を与えるとともに、日本人のいのちの尊厳となった〔愛〕を学者たちが群がってレイプするところの暴行説であったのである。
 邪馬台国説と日本神話学説はなにもかもがデタラメでインチキなのである。
 『魏志』倭人伝と『古事記』上巻は【誤読】を加えてはならない――文字作成銀河各部の形状を観れば真実が花ふぶきのように舞いおりる、日本人が日本人の魂に耳をかたむけて真実を知る書物なのである。

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2018年5月 6日 (日)

漢字習得定説のウソ・10

●『魏志』倭人伝の小国位置の証明・2

■「馬」の字がつく小国位置の証明

 

このブログ「漢字習得定説のウソ」は前回まで、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した事実を詳細に解説して証明してきた。黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産(しゅっさん)の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明することになった。
 「銀河」の別称は「銀漢」である。したがって「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。倉頡は、下の写真の銀河(銀漢)の範囲(はんい)の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神(きじん)信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)な空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と、さらに『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が「わが国は倉頡の漢字の発明を保存する夏音文字を習得した」と伝える記事を誤読して立論した虚偽説によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされることになった。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 前述したように、わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代初頭=後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)の人名・小国名・官職名となって現存する。だから、これから『魏志』倭人伝に記述された小国名の秘密を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆前述したように、倉頡が考案した五帝時代の書契とわが国に伝来した夏代の夏音文字と殷代前半期までの原初漢字は倉頡が定めた3つの掟をまもったため、文字を書いた資料が1点も出土しないゆえ、学者たちが「倉頡が漢字を発明した」という伝説を荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と決めつけたが原因で、倉頡が漢字を発明したと証明できる学術研究の道は閉()ざされた。
 しかし、倉頡が生存した約3300年後、晋(しん)の歴史編纂官(れきしへんさんかん)の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』魏書(ぎしょ)東夷伝(とういでん)末部の倭人伝、つまり『魏志(ぎし)』倭人伝は倉頡が漢字を発明した事実を証明できる貴重な史料であった。
 つまり、『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成原理がコンパクトに記述された貴重な史料であった。というのも、前述したように倉頡が死去してから約950年後の紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭、わが国に夏音文字の学芸が伝来して習得され、そして卑弥呼王朝は夏音文字の学芸を政権基盤としたからである。

『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国は夏音文字を習得していた」と伝えている。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字はともに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理にもとづいて作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 このような夏音文字の二つの記事が示すように、2世紀末に出現(しゅつげん)した卑弥呼(ひみこ)王朝は、黄帝の政治に復興し、倉頡が発明した漢字作成原理を保存する夏音文字の学芸を政権基盤にして、わが国のおける最初の国家体制を起源させた。そして、卑弥呼王朝は倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて小国名を定めたため――『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成原理をコンパクトに表示する貴重な史料となったのである。
 2世紀初頭に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は倉頡の発明にもとづいて文字作成銀河各部の形状を観察して字源・字形・字義を解説した。ゆえに、古代の人々は『説文解字』を“字書の聖典(せいてん)”と称賛して尊重した。『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人(こうじん)に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。この文を訳すると「考えるに、文字は学問と芸術の根本であり、(文字作成銀河各部の形状から作られた文字)は“い”の一番・真っ先に王道政治の政権基盤として必要であり、後世の人が歴史を正しく知る方法である」となる。
 2世紀において、『説文解字』の序が「文字は王政の始め」つまり「倉頡が銀河から作った文字は王政の政権基盤として真っ先に必要である」と指摘(してき)しているように、当時の中国では倉頡が発明した漢字作成原理を政権基盤とした。同様に『魏志』倭人伝が180年頃に生存したと記述する倭女王・卑弥呼もまた夏音文字の学芸で保存されていた倉頡が発明した漢字作成原理を政権基盤と定めたのである。(なお、『魏志』倭人伝は240年には卑弥呼はすでに死去していたと記述するゆえ、おそらく初代・二代という二人の卑弥呼が存在したため、卑弥呼は180年頃~235年頃まで生存したかのごとくになったと考えられる。)

人類は原始の時から、A図右上に示す[(げん)]=天頂(てんちょう)緯度線と子午線をキャッチする能力を研(みが)くと〔1度の60分の11分の精度で緯度〕が測定(そくてい)できる眼力と本能が脳にそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は苛酷(かこく)な原始の時代に滅亡せず、獲物(えもの)を追って移住生活をつづけても「迷った」とパニック状態におちいることがなくしっかりと位置(位置と方位)は認識していると自覚して生活し、大海で迷って漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
K131
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 だから、紀元前3000年頃、黄帝の遠征軍は原始以来の慣習となる[]をキャッチして黄河(こうが)中流地域からはるかに遠い揚子江(ようすこう)・太湖(たいこ)まで遠征しても故郷に帰還することができた。
 〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、上掲した文字作成銀河各部の名称図の左上にある「十字の銀河」が中国全土各地の天頂にめぐってきたことが明らかとなる。B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖南岸の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
K132
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のような円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる母体(ぼたい)」と定め、また「十字の銀河の子宮(しきゅう)」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。これゆえ、B図の銀河と緯度の状況と、C図で説明した「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた文字が生まれる母体」という定理が、倉頡が発明した漢字作成原理となった。
K23
(C) 2018 OHKAWA
 
 
D図に示すように、出産の娩出期(べんしゅつき)終了時において頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
K191
(C) 2018 OHKAWA
 
 E図に示すがごとく、倉頡はすべての漢字の母体となる「十字の銀河」に「頭が誕生する子(出産児)の顔の向き」をあてはめた。
K192
(C) 2018 OHKAWA
 
 すると、「十字の銀河の背側に顔を向ける子」は〔東〕を向くことになり、中国の〔東〕は〔大海〕であるゆえ、「子どもは大海原(おおうなばら)に生まれて、陸地(中国全土)には生まれない」という状態となるゆえ、このままだと黄帝の研究と自らが発明した漢字作成原理との間に不合理・矛盾(むじゅん)が生ずることに、倉頡は気づいた。
 そこで倉頡は黄帝が徳(とく)をもって治める政事(まつりごと)をイメージし、このイメージと自らの「十字の銀河」を「すべての漢字を生む母体」とする漢字作成原理、この両者における相互の合理を求めて、F図に示すように、[()]の字を作って「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度方位が転回する規定」を定め、また[]の字を作って「〔南〕が〔東〕となる逆時計回りに90度方位が転回する規定」を定めた。
K193
(C) 2018 OHKAWA
 
 G図の右下に[]の契文形(けいぶんけい)を示した。契文形は紀元前1300年頃・殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字の字形である。
 []の契文形は「いね()の形」をあらわす図案である。
K194
(C) 2018 OHKAWA

 倉頡はE図に示した「子の生育(せいいく)」と「いねの生育」を同一視し、G図に示すように「十字の銀河」に「いねの図案」を重ねて「いねの穂が〔南〕から〔西〕の鬼の姿に似る銀河の口部に垂れるイメージ」を表現する[]の字を作った。つまり、[]は「天が恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えるように、徳政(とくせい)すなわち恵み深い政事(まつりごと)をおこなう」と意味することになった。
 なお、F図に示した「時計の針の逆方向の90度の転回方位」をあらわす[]は「子の生育」と「いねの生育」を同一視した考えにもとづいて「地上に多数の子が生まれる」とあらわすことになった。
 G図の下部に示すように、倉頡が作った[]の下に後世の人が[]の字を加えて[()]の字を作った。というのも、「いねの図案」と重なる「十字の銀河」は、C図に示したように「女体」に観えるからである。「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏(にんべん)[]が加わる[()]の字も作られることになった。後世に作られた[][]は倉頡が作った原字(げんじ)[]の字源・字義を受け継いで、G図の上部に示したように「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕となる方位規定」をあらわした。
 だから『魏志』倭人伝には――実際には日本列島は〔東〕へ伸びるが、[]の字源のとおり倭国の〔東方〕は〔南〕へと伸びる―ー記述された。つまり、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は――倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕=〔東〕が〔南〕となる方位規定」の伝統を受け継ぐ――[]の字源をあらわした。したがって卑弥呼王朝は、H図に示す転回日本列島地理を制定し、卑弥呼が統治(する)国名をG図の転回方位規定を示す[][]の字が加わる「倭人国」と定めたとことになる。
K195
(C) 2018 OHKAWA
 
 この「倭人」という国名は「豊かな禾(穀物)に恵まれ、女性たちが多数の子を生み、人々が[]をキャッチする能力を養(やしな)って寿命を伸ばして幸せに生活する」と意味した。
 卑弥呼は天下を治める政権基盤の威厳(いげん)を示すために、倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて小国の名称を定めた。ゆえに、前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・9」で証明したように――『魏志』倭人伝に記述された対馬(つしま)国・一大(いちだい)国・末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国という5ヵ国の小国名は倉頡が発明した漢字作成原理を表示することになった。また、一大国・伊都国・奴国の3ヶ国の名は夏音文字「伊都久(いつく)」と楷書[]は同義であると示し、倉頡が作った[]の伝統を受け継ぐ[]の字源の秘密「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 学者たちは『魏志』倭人伝は不完全な文献であると思い込み、その全記事が正しい事実を伝えるなんて信じない。ゆえに、学者たちは全記事に1点の【誤読(文献批判)】を加えず、忠実に読解(どっかい)しようとしない。このため、G図にて証明したように[]の字源が「時計回りに90度転回する方位規定」の秘密を有することを知らず、『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事に何ヵ所か【誤読(文献批判)】を加える空論を主張しつづける。しかし、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ、卑弥呼王朝はH図に示した[]の字源の秘密をあらわす「日本列島の東方は南へ伸びる、転回日本列島地理」を制定した事実が【科学】が成立して証明される。

◆H図に示した倭人国における33ヶ国の小国名の字は、その各国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)の特徴(とくちょう)をあらわす。2世紀末~3世紀半ばに地図を作製できたということは信じがたいと思うかもしれないが――A図に示した[]のキャッチによって1分の精度で緯度が精確に測定できたので、当時、平面的に図化した地図を作製成することができたのである。だだし、この地図は卑弥呼王朝が独占管理して国家によって厳重に機密保持(きみつほじ)されていたゆえ、現在まで発見されないことになった。
 中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる『易経(えききょう)』の繋辞下伝(けいじげでん)は漢字の起源について「仰(あお)いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって神明の徳に通じ、もって万物の情(じょう/イメージ)に類(るい)して文字を作った」と伝える。この漢字起源記事は、五帝時代初頭の黄帝時代からA図に示した[]のキャッチによる、王朝が独占管理して厳重な機密とした地図の作製が始まっていたと伝えていることになる。
 上記の文中の「天象」とは「文字作成銀河」であり、「地法」は「銀河各部が東から西へ移動するのに対し、中国国土の地宜(地図の形)は西から東へ移動するオス鹿や鳥の姿のように観え、また中国の大河(たいが)の黄河(こうが)や長江(ちょうこう)の水も西から東へと移動する(流れる)形状」をあらわした。次の「鳥獣の文」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称であり、「地宜」は前述したように「平面的に図化した地図の形」を意味した。
 『魏志』倭人伝にて説明される倭の小国において「対馬国」を1番国と数えると、5番目の小国は奴()国、次の6番目の小国は「不弥(ふみ)国」、次の7番目は「投馬(つま)国」、次の8番目は「倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱(やまい)国」、さらに次の9番目の小国が「斯馬(しま)国」であったと説明する。また、24番目の小国は「邪馬(やま)国」である――と、説明する。このように、倭国には名に[]の字がつく小国は、卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」を含めて5ヶ国存在した。
 学者たちは【誤読(文献批判)】を用いて卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国」であったと主張するが、『魏志』倭人伝は「邪馬壱国」と表記する。古代史研究家の故・古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される「壹()86個と「臺()56個の文字を逐一(ちくいち)調べ、「壹()」を「臺()」と誤記(ごき)した事例が存在しないことを証明した。だから、卑弥呼が居住した王国の名は『魏志』倭人伝に記載されたとおり「邪馬壹()国」であった。
 前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」で解説し証明したように、『魏志』倭人伝は「末盧国の東南陸行五百里歩くと伊都国に至る。伊都国から東南百里歩くと奴国に至る。奴国から東へ百里歩くと不弥国に至る」と説明する。このように説明する各小国の旅程基点は――I図に示すように、末盧国は現在の長崎県松浦市、伊都国は福岡県糸島市の前原(まえばる)、奴国は福岡市の香椎宮(かしいみや)であったことを、前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」で解説し証明した。ただし、I図における方位は、H図で示した現在方位の〔西〕が〔北〕となる[倭]の字源の転回方位である。
 そうすると、I図の転回方位にもとづくと、奴国の香椎宮から東百里は宗像(むなかた)大社の辺津宮(へつみや)の所在地点となる。
K241
(C) 2018 OHKAWA
 
 したがって、J図に示す福岡県福津市の津屋崎(つやざき)海岸線と宗像市平野部の地宜から小国名が「不弥国」となったことになる。
K242

(C) 2018 OHKAWA 

◆『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約(うけい)説話の末部には「宗像の奥津宮(おくつみや/現在の沖津宮)・中津宮・辺津宮の三柱の神は、宗像君(宗像王)たちが伊都久(いつく/つつしんで奉仕する)三前(みまえ)の大神なり」という記事がある。前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」で解説したように「伊都久」は夏音文字であり、楷書だと1字で[斎]となる。この「伊都久」と[斎]の同義は[倭]とも同義となって「転回方位規定」をあらわした。
K243
(C) 2018 OHKAWA

 したがって、「宗像王たちが伊都久三前の大神なり」という意味は、K図に示す転回方位にもとづく不弥国(津屋崎海岸線と宗像市平野部)の地宜についての説明であったことになる。
K244

(C) 2018 OHKAWA
 
 L図に示すように、不弥国の地宜は長崎県の壱岐・一大国に向かって飛翔(ひしょう)する鳥のように観える。『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり。一に従う。一はなお天のごときなり」と解説する。
 前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」で解説したように――『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従う」と解説し、A図に示した[]の「至高つまり最も高い天体部の天頂緯度線」を[]の字源とし、B図に示した「中国各地の[]の字源となる天頂緯度線が貫通(かんつう)する羅針盤(らしんばん)」となる「十字の銀河」が[]の字源となると説明していたことになる。そして「十字の銀河の子宮」は[]の字源であり、女性の子宮が大きくなると子どもが出産すことになるので「一大に従う」と解説したのである。
 したがって、『説文解字』は[]の字源解説では「十字の銀河の子宮」を「一に従う」と指摘し、「十字の銀河の子宮」を「一はなお天のごときなり」と解説したのである。
 だから、L図の不弥国の地宜は「天のごとき十字の銀河の子宮」に見立てられた壱岐・一大国へ向かって飛び去る、つまり[]の字源「鳥飛んで上翔し、下り来らざりなり。一に従う。一はなお天のごときなり」を示す鳥の姿に見立てられたことになる。
 『易経』繋辞上伝(けいじじょうでん)にも「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(さっ)す」と記述する漢字起源記事がある。
 高田真治・後藤基巳(もとみ)著『易経()(岩波書店発行)は、上記文中にある「弥綸」という語は「つくろいおさめる、洩()れなく包(つつ)みこむ」と意味すると指摘する。
 M図に示すように、中国の海岸線は鳥の姿に相似し、長江口(ちょうこうこう)から杭州湾(こうしゅうわん)南岸までは翼が裂()けて綻(ほころ)ぶかのごとくになるが杭州湾南岸からは円くカーブを描いてつくろいおさまって、中国全土を洩れなくつつみこむゆえ「弥綸す」と表現された。ゆえに、[]の字源は「鳥の頭に観える山東半島と、その付け根から南北へと伸びる翼のように見える海岸線」である。この[]の字源となる「中国海岸線」の形は東の大海に向かって[]の字源「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」のごとくに観える。そして、[]の字源となる「中国海岸線」はL図の下側の「不弥国の津屋崎海岸線」の形に相似する。
K245
(C) 2018 OHKAWA

 []の正字は[][]の旁(つくり)部の[()]は「水鳥のカンムリカイツブリの首から腹部の体下面の絹のような美しく輝く銀白色」をあらわした。ゆえに、[]の字義は水鳥の「カンムリカイツブリ」である。カンムリカイツブリにはオスとメスが求愛ダンスをおこなう習性があり、[()]という字は「求愛ダンスする時にカンムリカイツブリのオスとメスが向かいあって互いに水面を進んで近づく様子」をあらわすものであった。

N図に示すように、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上にある「オス鹿の横顔に似る銀河」は[]の字源となった。
K251

(C) 2018 OHKAWA
 
 O図の右図に示すように「廟島列島(びょうとうれっとう)」を「鹿の角(つの)」に見立てると、「山東(さんとう)半島」は「鹿の横顔」に観える。これゆえ、N図の中国の天頂にめぐってきた[]の字源銀河とO図の[]の字源地宜にもとづき、上記したように『易経』繋辞上伝は「易は天地と準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す」と表現したのである。
K252
(C) 2018 OHKAWA

 A図に示した[]のキャッチによって中国海岸線の地図を作製できたゆえ、『易経』繋辞上伝は「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す(つまり、明らかとなった)」と表現したのである。[]は「遠くの地へ旅しても、あるいは大海を渡っても、家族が待つ家へ帰還できる術」であり、この術では「観測地点からの[]のキャッチによる天頂緯度(A図の右上参照)と観測地点の緯度は同じ数値」と定義されるものであったゆえ「易は天地と準う」と表現されたのである。
 O図の左側に[]の正字[]を配した。[]の旁部は[鹿][][]の合体形であり、M図の「中国海岸線」は「鹿」と「鳥」と「鹿と鳥が大海へと去る形」に観える。[]の偏の三水(さんずい)は「西から東へ水が去る(流れる)黄河と長江」をあらわす。ゆえに、上記したように、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の文中には「俯しては地法を観る」という語句が挿入(そうにゅう)されたのである。

◆『魏志』倭人伝は「不弥国から南へ水行二十日で投馬(つま)国に至る」と説明する。そうすると、P図の宗像市の港から宗像大社の沖津宮が祭られる沖ノ島を経由して、逆転方位で沖ノ島の〔南〕となる山口県の萩港(はぎこう)が投馬国の旅程基点であったと考えられる。
 ただし「水行二十日という距離」は、現代だと「航海で十日の距離」ということになる。というのも、『魏志』倭人伝には「倭では一日を二日(日中を一日・夜を一日)と数えていた」と説明する、二倍暦(にばいれき)の注が存在するからである。
K253
(C) 2018 OHKAWA
 
 Q図に示すように、「山陰地方の地宜」は「石などを投げる手のような形」をしており、「山口県北部の地宜」は[]の字源「フタコブラクダの二つのコブのような形」となる。だから、「山口県」が小国「投馬国」であったことになる。
K254
(C) 2018 OHKAWA
 
 前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」では、R図に示すように、対馬国の上島は「フタコブラクダのオスの正面形」、下島は「フタコブラクダのメスの背のコブ」に見立てて、「対馬国」の[]の字源は「フタコブラクダ」であることを証明した。
K255
(C) 2018 OHKAWA
 
 Q図に示した「山口県の地宜」は「フタコブラクダの横顔」のごとくに観える。しかし、むしろ「巣の中で冬ごもりするときの熊(クマ)の姿」により相似するように思える。ゆえに「投馬」は「フタコブラクダの横顔」ではなく「投げる腕力が強力な熊(クマ)」を意味したと考えられる。
 []の初文(しょぶん/初めの文字)はQ図左上の[(のう)]である。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]の字源を「「水中の昆虫の形に象(かたど)る」と解説する。「昆虫・ゲンジボタルの土の中の蛹(さなぎ)の姿」は「熊の姿」に相似する。『説文解字』は[]の字源を「熊の属(ぞく)なり。足は鹿に似たり」と解説し、「足は鹿に似たり」という解説は「鹿の足に似るウマ」を意味するのか? アイマイである。これゆえ、楷書の初文の[]は「ゲンジボタル・熊(クマ)・鹿の足に似る動物(ウマ?)」を指して意味が定かではないため、夏音文字では「クマ」を「投馬」と記したと思えてならない。
 Q図に示したように、倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国は旧国の石見(いわみ)・出雲(いずも)・伯耆(ほうき)にして、現在の島根県・鳥取県西部の広い範囲であったことになる。

◆『魏志』倭人伝は「投馬国から南へ、水行十日(現代の航行で五日の行程)陸行一月(現代では歩いて半月の行程)すると、女王が倭国の首都(みやこ)とした邪馬壱国に至る」と説明する。
 したがって、荻港から日本海に浮かぶ萩市の見島(みしま)を経由して、この見島の転回方位で南にある島根県の県庁著在地の松江市が邪馬壱国の旅程基点であったと考えられる。
 S図に、2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼が生存した当時の古代出雲の地宜を示した。
K261

(C) 2018 OHKAWA

 S図の上部の「神門水海(かんどのみずうみ)」という湖は、T図の左図に示したように「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めになって、馬(フタコブラクダ)の姿に相似する地宜」であった。したがって、「神門水海」は[][]の字をあらわす地宜であった。
 T図の右図が示すように、当時の「宍道湖(しんじこ)の地宜」は転回方位の地図では「人の右足の形」に相似していた。そして、当時の人の足の形をしている宍道湖の南岸の、その爪先(つまさき)は西へ向いていた。C図に示したように、「十字の銀河の西側の右足」は「十字の銀河の子宮」と重なる。上記したように『説文解字』の[]の「一に従う。一はなお天のごときなり」という字源解説文の[]の字源は、「十字の銀河の子宮」であった。ゆえに、T図の右図に示したように「宍道湖の南方(現在方位の東方)」は[]の字源「十字の銀河の子宮」が所在する位置に相当する。したがって、[]の字義は[]であるゆえ、「宍道湖の南部」が[]をあらわすことになった。
K262
(C) 2018 OHKAWA
 
 だから、S図の「古代出雲の地宜」から「邪馬壱」という国名が成立したことになる。

 『魏志』倭人伝は邪馬壱国の次は「斯馬(しま)国」であったと説明する。
 U図に示すように、「斯馬国」は邪馬壱国・伯耆の隣(とな)りの旧国の「因幡(いなば)・但馬(たじま)」にして、現在の「鳥取県東部・兵庫県北部」であったことになる。
K263
(C) 2018 OHKAWA
 
 「斯馬国の地宜」は馬の字源「フタコブラクダの姿」に相似しないが、因幡にはフタコブラクダが活躍するゴビ沙漠に類似する鳥取砂丘がある。「因幡」といえば、『古事記』上巻の大国主神(おおくにぬしのかみ)神話冒頭の因幡の素菟(しろうさぎ)説話が有名である。
 R図で[]の字源となった「十字の銀河」は、V図に示すように、「菟(ウサギ)の姿」にも観える。ゆえに、「斯馬」は「菟(ウサギ)」を意味したと考えられる。
 [(めん)]の字に相似する[][]の両字の字義も「ウサギ」である。
K264
(C) 2018 OHKAWA
 
 「子を生むこと。出産の出産」を「分娩(ぶんべん)」または「娩出(べんしゅつ)」という。
 V図の右側に配した「分娩」の[]の旁部の[(めん)]の金文形は、「女性の股間(こかん)から人()が出産する様子」をあらわす図案である。
 「十字の銀河の頭部」を「人の頭」と見立てると、「十字の銀河の頭部と連結する上の銀河部」は「頭にかぶる兜(かぶと)」に相当すると見立てられた。ゆえに、[]の字には「兜を免()ぐ」という意味がある。
 V図の左図において「十字の銀河の頭の上の兜を免()ぐ」と、菟(ウサギ)の耳が出現(しゅつげん)する。ゆえに、[]の金文形は「全速力でにげる脱兎(だっと)のごとく一気(いっき)に産道(さんどう)を脱出(だっしゅつ)して死を免(まぬか)れて母体の股間からこの世に出現して生まれる子」を表現する図案であった。したがって[(めん)][(兎・兔/ウサギ)]も黄帝の医学研究「子どもの出産」に直接関わる字であった。
 こういう事情によって、[(めん)]と「ウサギ」を字義とする[][][]3字の字形は相似することになったのである。
 山口廣夫氏が所蔵する兎形兜(とけいかぶと)は鍬形(くわがた)の部分が〔大きな兎(うさぎ)の両耳の形〕に作られ、鍬形台(くわがただい)は〔菟の顔〕に作られる。東京博物館が所蔵する椎実形兎耳兜(しいのみがたとじかぶと)は鍬形が〔兎の耳の形〕となる。この鍬形をウサギの形にした二つの兜は、[][(菟・兎)]の字の秘密を知っていて「たとえ自分が戦死しても子孫たちは健(すこ)やかに分娩して後世まで家は滅びずに栄える」という願いを表現するものであったにちがいない。

◆U図に示したように、『魏志』倭人伝において24番目に記される「邪馬(やま)国」は「旧国の大和(やまと)・現在の奈良県」であった。
 奈良盆地には多数の川が密集して流れる。だから、邪馬国・大和は豊作に恵まれる水量豊かな湿地帯(しっちたい)のごとき地域であった。
 S図に示した邪馬壱国の中心地・古代出雲の「邪馬」をあらわした「神門水海」と斐伊川(ひいがわ)河口周辺は、水量豊かな湿地帯・沼地(ぬまち)であった。
 「宍道湖」の[(じく・にく)][]の古字で、今は「にく」は[]、「しし」に[]
字をあてる。「宍道湖」の[]の「にく()」の意は「猪(いのしし)の肉」であったゆえ、[]は「しし」と読まれた秘密を伝えているにちがいない。
 注目すべきは、W図の左図に示すように、宗像大社の沖津宮が祭られる沖ノ島の地宜は「猪(イノシシ)の頭の形」に相似することである。
 猪は沼地や泥(どろ)の中をころげまわるのが好きで、猟師たちはこれを「にたを打つ」といい、泥浴(どろあ)び場を「にた場」という。「にた場」は「ぬた場」ともいう。新村出編『広辞苑(こうじえん)(岩波書店発行)は【ぬた場】について「狩猟者の間では、そこに山の神がいて、祈ると獣があらわれるとされている」と説明する。
 「邪馬壱国」と「邪馬国」の「邪馬」は「作物が豊かに育つ水量豊かな沼地(湿地帯)」を意味した。これゆえ「邪馬」は「沼地を好む獣」の「猪」を意味することになり、この「邪馬」という国名によって「猟師たちは、ぬた場には邪馬(やま)=山の神がいて、祈ると獣があらわれる」と信じるようになったにちがいない。
 H図の左側に示したように、卑弥呼は沖ノ島と神津島(こうづしま)を緯度基点地に定めて転回日本列島地理を立論した。この緯度基点地の沖ノ島の地宜は、W図の左図に示すように猪の頭の形に相似する。ゆえに、夏音文字「邪馬」という2字は「猪」を意味したにちがいない。沖ノ島に鎮座(ちんざ)する沖津宮(奥津宮)に祭られる女神に伊都久(いつく)不弥国の宗像王は、卑弥呼が立論した転回列島地理をまもり祭る神官王であったことになる。
 人間の目は周囲の明るさに応じて自動的に瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)が変えられる仕組みになっている。
 W図の右図は地上灯火の影響を受けない場所において、月があらわれない新月の夜、視界の中に光が入らない暗闇(くらやみ)から見た「夏の銀河の形」である。
 上掲した「文字作成銀河」における「夏の銀河の写真の形」は三日月の夜――視界に少し光が入った暗闇における瞳孔径に合致する写真機の絞(しぼ)りで撮影した形であるため、W図の右図の形と異なる。
 W図の右図の新月の暗闇で見える「夏の銀河像」は「猪の頭蓋骨(ずがいこつ)の形」にソックリである。
K265

   現代人にとって暗闇は不吉と感じるが――縄文人や弥生人にとって、新月の夜の暗闇や三日月の夜の視界に光が少し入る暗闇は[]のキャッチに最良・好条件の銀河各部の形が明確に見える神の存在を感ずる吉なる現象であったのである。これゆえ、日中あまり活動しないが、夜になると活動する猪は神聖な獣と信じたのである。
 G図に示した[]の「いね()」は沼地(水田)で育つ。卑弥呼が統治した国は[]の字部を有する[]の字を名に用いて「倭国」としたゆえ、「邪馬」が「沼」や「猪」を意味するのは[]の字にふさわしいことになる。

だから「邪馬」は「猪(イノシシ)」を意味したことになる。

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