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2018年6月 9日 (土)

漢字習得定説のウソ・15

 ●卑弥呼の地上絵と日本国誕生史・1
■日本国誕生史の遺跡は発見されていた
 
2008年、日本国誕生史の真相が科学的に証明できる遺跡が発見された。
 この遺跡は、静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山古墳である。高尾山古墳は東日本における最古で最大の、全長が約62mの前期古墳である。というのも、高尾山古墳の立地状況と出土物はともに『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話の全記事はじめ日本国誕生史を伝える幾つかの古文献の記事や遺跡に合致するからである。
 『古事記』序は「わが国に、その昔(後期縄文時代初頭/今から約4070年前)、夏音(かおん)文字が伝来し、夏音文字は五帝時代初頭(5000年前)の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理を伝える。倉頡は銀河各部の形状を字源・字形・字義と定める文字を考案したゆえ、『古事記』上巻に用いられる楷書(かいしょ)と〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換(へんかん)すれば真実の歴史が解明できる。というのも楷書も夏音文字と同じく倉頡が発明した漢字作成原理に則(のっと)って作られたからである。これゆえ楷書〔日下(にちげ)〕と夏音文字〔玖沙訶(くさか)〕は同義、楷書〔帯(たい)〕と夏音文字〔多羅斯(たらし)〕は同義とあることを序の末部に記して、夏音文字と楷書は倉頡が発明した漢字作成原理に則って作られた事実と、夏音文字がわが国に伝来し習得された事実を伝えて、上巻に記した夏音文字と楷書を銀河各部の形状に変換すれば日本国が誕生した歴史の真実を後世の人々が知ることができる仕組みにした」と首尾一貫(しゅびいっかん)して『古事記』上巻記事の歴史解明方法を説明している。
 というのも、『古事記』上巻は大和朝廷にとってきわめて不都合な歴史、つまり皇祖(こうそ)天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す反逆(はんぎゃく)の史書であった。だから、『古事記』編纂(へんさん)スタッフは夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が解明できる仕組みをもうけることにしたのである。
 現在の学者たちは、上記した(1)『古事記』序が説明する〔歴史解明方法〕を無視し排除(はいじょ)するだけでなく、さらに(2)『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えて『古事記』上巻に記述された真実の日本国誕生史と上古史をわれわれ日本人から奪(うば)う。
 上記した『古事記』序の説明に則って(1)夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、沼津市の高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事に合致する遺跡であることが明らかとなる。
 多くの人々は「古墳」イコール「墓」と考えるかもしれないが、『古事記』は高尾山古墳について「伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本に封(ほう)ぜられて結婚した会場」であったと記述する。ゆえに、高尾山古墳は「封土(ほうど)」いいかえると「盛土(もりつち)」つまり「結婚式場にして、天と山を祭るために造った盛り土」であったことになる。

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回から4回まで詳細に証明したように――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説は事実であった。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。


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 ▲文字作成銀河の写真

 「倉頡が漢字を発明した」と伝える伝説が事実であったことは、280年~289年に著作された通称「『魏志』倭人伝」と呼ばれる文献にコンパクトに記述された。この事実は、わがブログ「漢字習得定説のウソ」の714回までにおいて詳細に解説し証明した。
 しかし、学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志』倭人伝は「邪馬台国論」のために存在する書物のごとくに変貌(へんぼう)させてしまったが、もともと『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成方法が解明できる世界史的にも第一級の重大な史料であったのである。
 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代の夏音文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想にちがいないと思い込んだ。この学者たちの思い込みと、さらに『魏志』倭人伝は邪馬台国論のために存在する書物であると定めて数々の【誤読の空論】が捻出(ねんしゅつ)されたために【漢字が銀河から作られた学術の門】が閉()ざされてしまったのである。
 上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕のうちの(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 倉頡が発明した書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音文字、殷代(いんだ)の契文(けいぶん/甲骨文字)、周代(しゅうだい)の金文、その後の大篆(だいてん)、小篆(しょうてん)、隷書(れいしょ)、そして楷書など――これら712年に『古事記』が成立した以前の古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた。この事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。この事実によって、現在の学者たちが主張する邪馬台国説と『古事記』上巻の意見は【誤読の空論】であると断定することができる。

◆黄帝と倉頡が生存した
五帝時代、またわが国に夏音文字が伝来した中国の夏代初頭、そして卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀においても、A図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして“迷っていない”と安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる本能もそなわっていた。
 だから、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語は「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望した未曾有(みぞう)の国難」を表現するものであった。ゆえに、原始と上古の人々の最大の恐怖は「[]のキャッチに失敗して迷うことであった」のである。
 []の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得(こころえ)」をあらわした。この[]の字源を2世紀に成立した字源解説字書の『説文解字(せつもんかいじ)』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる、という心得」をあらわした。
 緯度は、北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度でも計測できたが――天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと原始や上古の人々は必ず命を失うことになった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 B図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、1分の精度でキャッチできる、A図に示した[]をキャッチできる眼力(がんりき)に人類は命を委(ゆだ)ねたのである。
 三皇時代の政権基盤であった[(えき)]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を渡る旅しても、トカゲのごとくかならず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀、B図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかったゆえ、当時の人々が道に迷わずに命をまもる方法はA図の右上の[]をキャッチする方法であったことになる。

◆天照大御神は日神(にちじん/太陽神)である。7世紀末、時の持統(じとう)上皇は、「日神」と「日本」の両者は「日輪(太陽)」のイメージで共通することに注目して、「日本」という国名に変えれば後世の学者たちは日神・天照大御神が日本国を誕生させたと騙(だま)されるにちがいないと考え、歴史書の編纂(へんさん)スタッフに偽書(ぎしょ)の作成を欲求(よっきゅう)した。しかし、日本国は伊耶那美命と伊耶那岐命によって誕生するものであったため、歴史書を編纂する皇族と貴族たちは上皇の欲求を拒絶(きょぜつ)した。この上皇と歴史書編纂スタッフの対立は皇室を二分する天照大御神崇拝派と伊耶那美命崇拝派との争いになった。というのも、伊耶那美命崇拝派は歴史書編纂メンバーから天照大御神崇拝派を排除して伊耶那美命崇拝派のみで組織して対抗したからである。このため、上皇が欲求する偽書の作成は実現不可能となった。これゆえ上皇は『古事記』が完成する10年前の702年、第7回の遣唐使(けんとうし)を派遣し、唐王朝から「倭」から「日本」への国名改変の承認を得て後世の歴史学者たちを騙すことにした。しかしながら、上皇が企む国名の改変はわざわざ中国から承認を得る必要もなく倭国で決定すればよいことであったゆえ、この点に不審(ふしん)を抱き怪(あや)しんだ唐の中央政府の外交官たちは遣唐使に執拗(しつよう)に質問することになった。ところが、真実を語る遣唐使は帰国したならば即刻に上皇に誅殺(ちゅうさつ)され、また真実を語れば伊耶那美命崇拝派と天照大御神崇拝派が皇室二分にしての戦争の原因になりかねない状況であったので、遣唐使は中国の外交官たちが満足する説明を示すことができなかった。この時の遣唐使の言動の様子は、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に下記のごとく記述された。
 『旧唐書』倭国日本伝には「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるをもって、ゆえに日本を以て名となす。あるいはいう。倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう。日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。その人、入朝(にゅうちゅう)する者、多く自ら矜大、実(じつ)をもって対(こた)えず。ゆえに中国これを疑う」と記述された。
 『新唐書』日本伝には「後稍(のちやや)夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。使者みずから言う。国日の出ずる所に近(ちか)し。ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の幷(あわ)す所となる」と記述された。
 『新唐書』日本伝の「後稍夏音を習う」という文は「壬申の乱の後、天武天皇と天武帝の皇后であった持統上皇は稍々(やや/少し)夏音文字を習うつまり復興して、天照大御神を絶賛する偽書(ぎしょ)の作成を欲求した」と意味した。しかし、伊耶那美命崇拝派で組織された編纂スタッフは『古事記』上巻に〔音〕という注を付けて多数の夏音文字を記載して、夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史を後世の人々が知ることができるように『古事記』上巻を著作した。
 天武帝と持統帝は――天照大御神は夏音文字の学芸を政権基盤にして大和王朝の基礎を築(きず)いたゆえ夏音文字をすべて削除(さくじょ)する偽書を作成すると、天照大御神の偉大さが後世の代々の天皇たちに伝わらず、また大和王朝の政権基盤である夏音文字の学芸の価値が薄れて朝廷は衰退して滅亡するにちがいないと――心配した。そこで、大和王朝が末永く栄えるためには夏音文字の学芸を政権基盤とする体制を堅持(けんじ)しなければならないと考えて、稍々(少しだけ)夏音文字を復興する歴史書の作成を命じたのである。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は――伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚した時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」つまり「小国・日本の国生み(国作り)の柱は〔愛〕とします」ととなえた――と記述する。この【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本から倭国のすみずみまで知れわたり、倭国と小国・日本の人民たちに尊重された。
 伊耶那美命の夏音名(夏音文字による名称)は、『魏志』倭人伝の末部に登場する「壱与(いよ)」であった。この記事は「卑弥呼は240年より少し前に死んだ。円墳部の直径が百余歩(150)の大きな墓が作られ、百余人の奴婢(ぬひ/18歳ぐらいの青年と13歳ぐらいの乙女)を犠牲(いけにえ)にして殺して卑弥呼の墓に埋められる徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。卑弥呼の後に男王が倭の大王に就任したが、卑弥呼の墓作りでおこなわれた徇葬を悪(にく)んで倭国の国中の人民たちは大王に服従せず、倭王朝軍と人民たちは互いに殺し合った。この大乱において倭王朝軍は千余人の人民を殺した。また倭王朝は13歳で(小国・日本の)女王となった壱与(伊耶那美命)を赴任地(小国・日本)から帰国させて倭女王に就任させたため、国中にひろがった大乱はやっと鎮(しず)まった」と説明する。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の末部の「しかれども久美度邇興(くみどにおこ)して、子の水蛭子(ひるこ)を生む。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()てき。次に淡島(あわしま)を生む。是()もまた子の列(かず)に入れざりき」という文は「壱与・伊耶那美命が結婚式の時にとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】に人民たちが熱烈に憧(あこが)れたために、倭国の大乱がおきた。ゆえに、大乱の全責任は壱与・伊耶那美命にあると倭王朝は非難して、小国・日本の国生み(国作り)の事績(じせき)を認めず、倭国に帰還して倭の大乱を鎮圧せよと命じた。だから、小国・日本の国生みの時に聖なる地霊となった水蛭子と淡島は伊耶那岐命と伊耶那美命の子(事業)として認められずに廃止(はいし)された」と伝えていたことになる。 
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば――壱与・伊耶那美命の没後、天照大御神が倭女王に就任し、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪する天照大御神は多数の青年と乙女(奴婢)を殺して伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に埋めた。この徇葬儀式に怒った小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)・伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む戦士たちの協力を得て倭王朝の大軍を撃破(げきは)してクーデターを成功させて、天照大御神を倭女王から失脚させた――という真実の歴史がよみがえる。
 ゆえに、上記した『旧唐書』の記事に登場する「倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」という文は「倭国の人民たちは自らの国名は二度にわたる残忍な徇葬で優雅でないと嫌悪(けんお)して、日本という国名に改めることを願った」と意味するものであった。また、『新唐書』の記事に登場する「倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す」という文も「残忍な徇葬を憎悪する人民たちは倭という国名を憎み、日本という国名に改めることを願った」と意味するものであった。
 そして、『旧唐書』に記載される「その国日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名とす」という文と『新唐書』に記載される「国日の出ずる所に近し。ゆえに名となす」という文は、C図に示す「日辺(日出ずる辺)」と「日出ずる所に近い国」の「東国・東日本」、すなわち「現在の静岡県中部・東部、山梨県、長野県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、千葉県、茨城県」が「小国・日本」であったと伝えていたことになる。
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(C) 2018 OHKAWA 

◆前述した『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事に合致する高尾山古墳は、D図に示す小国・日本の西端となる静岡県東部に所在する。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 高尾山古墳周辺には、3世紀前半の遺跡や前期古墳が密集する。沼津市教育委員会は、高尾山古墳の墳丘内(ふんきゅうない)から出土した約2000点の土器には西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は出土しなかったので、墳丘は230年頃に完成したと発表した。
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(C) 2018 OHKAWA
 

また、E図に示す高尾山古墳の後方墳の主体部から出土した33点の鉄の鏃(やじり)の年代は250年頃のものと推定して、沼津市教育委員会は高尾山古墳の主体部は250年頃に製作されたと発表した。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 F図に主体部における、250年頃に作られた33点の鉄鏃が集中して出土した箇所を示した。
 高尾山古墳の墳丘が完成したとされる西暦230年は、呉の黄龍(こうりゅう)2年である。
 『三国志』呉書孫権伝(ごしょそんけんでん)の黄竜2(230)の条は「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 230年から22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この赤壁の戦いで、わずか2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破して劇的な勝利をおさめた。この1万の呉の水軍が日本列島の東鯷人国(とうていじんこく)へ目指して、呉の黄竜2年・230年に遠征を決行した。しかし、この東鯷人国遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)して大失敗した。
 豊富な資料と正確な考証(こうしょう)は、正史と同様に価値の高い史書とされる『資治通鑑(しじつがん)』は呉の東鯷人国遠征の目的について「その民を俘(とりこ)にしてもって衆を益()さんと欲す」と書く。つまり、当時の魏・蜀・呉の三国の天下取りの争いの状況にもとづくと、呉の遠征目的は東鯷人の人民を捕虜(ほりょ)にして呉の兵士の人数を増やして魏を伐()つための人狩り作戦であったと――『資治通鑑』は明記する。
 1万の呉の水軍が遠征に向かった夷州と亶州について、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝末部は記述する。この記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 「会稽(かいけい/現在の浙江省紹興市)の海外に東鯷人国がある。二十余国に分かれている。また夷州及び澶州(せんしゅう/つまり亶州)にも分かれている。伝承されて言われていることは――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246年-同210年在位)が、方士(天文学地理士)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(青年男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)を求めるように命じたが手に入れることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還(きかん)せず、ついにこの州(亶州・現在の静岡県と山梨県)に定住した――とのことである。代々たがいに受け継いで、現在(3世紀)、徐福一行の子孫は数万家となる。東鯷人国の人民は時々会稽までやってきてあきないをする。(中略)。東鯷人国の人民が往来する大海の道は、中国人にとっては遥(はる)かに遠い道のりとなり途中で絶えてしまうので往来することができない。」

◆F図の高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の破砕鏡(はさいきょう)の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」より約1m東と東南の箇所から230年頃(黄竜2年頃)の東海西部系の土器が発掘された。この土器は黄竜2年=230年頃に作られた土器であるゆえ――偶然(ぐうぜん)、東鯷人たちが台湾から会稽へ向かう海上で呉の遠征軍と遭遇したか、あるいは会稽で商(あきな)いしている時にその情報を聞きつけて、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に呉軍の遠征を報告した――様子を現在に伝える資料となる。また、この土器は黄竜2年の呉軍の東鯷人国遠征を知っていたが、黄竜2年に台湾沖で呉の遠征軍は8割から9割の兵を失ったことを、日本防衛軍は知らなかったことを示す資料にもなる。というのも、D図に示した軍事集落跡の特色を有する足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と浮島沼(うきしまぬま)周辺にあるいくつかの軍事集落跡と考えられる遺跡は10年以上も営(いと)まれていたからである。日本防衛軍が呉の遠征軍の台湾沖の壊滅を知っていたならば、足高尾上遺跡群・浮島沼周辺の軍事集落跡は10年以上も営まれずに、56年後には呉軍は遠征をあきらめたと判断して日本防衛軍は解散されて集落は廃(はい)されたことになる。だから、日本防衛軍は必ず呉の遠征軍は東鯷人国に到着して人狩りをおこなうにちがいないと考えて10年余も軍事集落を営んでいたことになる。
 赤壁の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破したゆえ、230年・黄竜2年の1万の東鯷人国遠征軍の戦力は40万の魏の大軍にも勝利する無敵艦隊ということになる。ゆえに、東鯷人国の国王は呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、独立国をあきらめて倭国の属国になることを決意して、倭女王卑弥呼に倭からの防衛軍の派遣を要請した。したがって、黄竜2年直後に東鯷人国は滅び、日本防衛軍の女王に伊耶那美命が選ばれ、軍王(いくさのおおきみ)として伊耶那岐命が就任し、両人は小国・日本へ封(ほう)ぜられて日本国は誕生したことになる。
 ゆえに前述したように、『
古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語で表現した「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る上の人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望する未曾有の国難」は、「呉の遠征軍の小国・日本(旧東鯷人国)への襲来」であったのである。

◆上記した『後漢書』倭伝末部の東鯷人国説明記事にある「蓬莱の神仙」という語のうちの「神仙」は「仙人(せんにん)」を意味する。中国においては「桃の木」は「仙人(神仙)に力を与える樹木」とされて「仙木(せんもく)」と呼ばれ、「桃の実()」は「仙人に力を与える果実」ということで「仙果(せんか)」と称される。また、中国では「桃」は「不老長寿の力を与える植物」と親しまれる。
 紀元前1世紀に完成した司馬遷(しばせん)著『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝(わいなんしょうざんれつでん)」が伝える徐福一行の日本列島定住記事を要約(ようやく)して現代語に訳する下記のごとくになる。
 「秦の始皇帝に――東方の三神仙に不老長寿の霊薬がある――と具申(ぐしん)した徐福は、始皇帝の命令で三千人の童男女(青年男女)と百工(多くの技術者)を率いて、五穀(ごこく)の種子(たね)を持って、東南の蓬莱山に到着するように船出(ふなで)し、平原広沢(へいげんこうたく)を得て、王となりその地に止(とど)まり中国に戻らなかった。」
 上記の記事に登場する「平原広沢」は「広い平野の湿地」であったと伝わる。
 D図に示す「3世紀の浮島沼(うきしまぬま/別名「浮島原」)はまさに「平原広沢・広い平野の湿地」であった(現在は、3世紀当時の広大な浮島沼は消滅し、D図に示した浮島沼西方だけの一部分となってわずかに残っている。「沼津」という地名は「平原広沢=広大な平原の沼の津()」の略称である)
 『説文解字』は「平原広沢」の[]の字源は「光潤(こうじゅん)なり」または「水停(とど)まるを沢という」と説明する。浮島沼の水は富士山の雪解け水が湧出(ゆうしゅつ)するものであったゆえに所々は日光に浴びてきらきらと光り潤(うる)って急流のごとく流れ、ある箇所は水が停止して底は沼となっていた。白川静著『字統』(平凡社発行)は『風俗通』の〔山沢〕という文献が――[]を「水草交錯(こうさく)の處(ところ)」とし、水の発源の地をいう――と説明すると指摘する。3世紀、浮島沼は水草が交錯して生い茂り、水草は水底に重なって腐食して沼となっていたことが、沼津教育員会の調査で明らかとなる。前述したように、浮島沼の水底には多数の箇所に富士山の雪解け水の湧水泉(ゆうすいせん)が所在したゆえ、浮島沼は水の発源の地の[]であったことになる。
 D図に示す足高尾上遺跡群は、現在の愛鷹山(あしたかやま)中腹の3世紀(230250年頃)の遺跡群である。つまり、「愛鷹山」の古称は「足高山」である。
 愛鷹山の山頂には愛鷹明神を祭る「桃沢(ももさわ)神社」が祭られる。前述した「神仙(仙人)に力を与える樹木と果実」にして中国の人々が昔から不老長寿の植物として親しむ「桃」に浮島沼・平原広沢の「沢」が加わると、愛鷹山山頂の神社名「桃沢」となる。
 だから、山頂に桃沢神社が祭られる愛鷹山は『後漢書』倭伝の東鯷人国記事に登場する「秦の始皇帝に求めて来いと命じられた徐福一行が目指した、仙人に力を与える桃の木が生い茂ると思い込んだ蓬莱山」であった。ゆえに日本防衛軍は、呉の遠征軍は沼津市の愛鷹山・蓬莱山に目指して襲来すると推定したことになる。このため、愛鷹山の麓の浮島沼の東の岸辺に小国・日本の女王・伊耶那美命と軍王・伊耶那岐命が結婚する式場の高尾山古墳が築造されたのである。したがって前述したように、高尾山古墳は「墓」ではなく「呉軍との戦いの勝利を祈願して、天と富士山・愛鷹山を祭る封土(盛り土)」であったことになる。

◆山梨県富士吉田市の宮下家に所蔵した『宮下文書』については、文体・発音が江戸後期から近代の作品であるという理由で歴史学者たちは偽書(ぎしょ)と定めて、『宮下文書』の研究意見は史実をとらえるものではないと批判する。しかし、中国の学者たちはじめ中国では上記した『史記』淮南衝山列伝や『後漢書』倭伝の記事は事実を伝えていると定着(ていちゃく)しているゆえ、わが国の学者たちのごとく『宮下文書』を全面否定して研究しないという考え方にも問題があると反発して研究する方々もいる。
 19901220日発行の熊野地方史研究会・新宮市立図書館編集『熊野誌(36)』徐福研究特集号における下村巳六氏が『徐福伝説の周辺』と題する研究論文には、「『宮下文書』(『宮下古文書』とも)には」の後に続く文は、下記のごとくである。
 「孝霊7210月、木日国(紀伊)の木立野に徐福らが上陸、大山を望み、そこを久真野と名づけた。749月更に東へ航海して、住留賀(駿河)の宇記島原に上陸、富士山北麓の阿曽谷小室(今の河口湖附近か)の家基都(かきつ)に着いたのが10月。ここが目指した富士蓬莱の地だった。徐福はこの地で孝元72月に没した。その後寿福集団は分裂し、次男の福万が再び熊野へ戻った。」
 『熊野誌(36)』徐福研究特集号における奥野利雄氏の「徐福村訪問記と徐福の系譜・推定年表」は「徐福59歳であった紀元前219620日に徐福一行は中国から出帆(しゅっぱん)し、1025日に紀伊国に到着して、3年滞在(たいざい)した。紀元前217913日に浮島原、105日に富士吉田に到着した」と立論する。
 上記の下村氏と奥野氏の研究によって、徐福一行は紀元前217913日、D図に示した浮島沼(別称「浮島原・宇記島原」)に到着していることになる。その年の105日に、徐福一行は家基都・現在の山梨県富士吉田市に到着したことになる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚神話は、「久美度邇(くみどに)」という4字の夏音文字をもって浮島原(浮島沼)の北の「愛鷹山(旧称・足高山)が蓬莱山であった」と記す。下村・奥野両氏の研究によると「家基都・富士吉田市」が「富士蓬莱の地」であったことになる。したがって、浮島原に到着した徐福は愛鷹山には不老長寿の霊薬の桃の木が茂っていないことを知り、蓬莱の地を求めて富士吉田市に到着したがこの地も桃の産地でないことを知り、さらなる桃さがしを断念し、始皇帝に死刑にされることを畏れて富士吉田市で定住したことになる。そして上記した『史記』の記事によると、徐福は平原広沢・浮島原を領土とし駿河(静岡県東部)の王となったことになる。

◆「蓬莱」の「蓬(よもぎ)」は、キク科の多年草で、葉は羽状に裂け、裏面に白い綿毛を密生(みっせい)する。この葉の裏の白い綿毛がお灸に用いられる「艾(もぐさ)」となる。
 「蓬莱」の「莱(あかざ)」は、アカザ科の一年草で、古くは食用野草とされた。多く食べ過ぎると中毒症状をおこし日光にあたった部分に桃色の発疹(ほっしん)があらわれることがある。
 桃の実は「白桃(はくとう)」とも言われ、その白い桃の実の皮の表面に密生する白い綿毛はお灸の艾(もぐさ)の材料となる蓬(ヨモギ)の裏面の白い綿毛に相似する。莱(アカザ)を食べ過ぎるとできることがある発疹の色は、熟した桃の実の桃色である。だから、「桃」は「蓬」と「莱」をあらわすゆえ「蓬莱」を示すことになったゆえ、仙人の力を与える仙果(せんか)となり、中国では不老長寿の霊薬として親しまれることになったのである。その証拠に、桃は漢方では血行(けっこう)を改善する薬として婦人病などに用いられ、また、つぼみは「白桃花(はくとうか)」と呼ばれ、利尿薬(りにょうやく)、便秘薬(べんぴやく)に使われる。ゆえに、桃は蓬(よもぎ)の艾とともに病気を療治(りょうじ)する霊薬であったのである。
 倉頡は黄帝が研究した女性の生殖器(せいしょくき)と子どもの出産の研究をあらわすために、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成原理を発明した。前掲した「文字作成銀河各部の名称図」に示したように「文字作成銀河の写真の左上」に「十字の銀河」がある。「十字の銀河」は倉頡が生存した今から約5000年前の五帝時代初頭に中国各地の天頂にめぐってきて各地の緯度を測定する羅針盤となった。
K471
(C) 2018 OHKAWA
 

G図に示すように、「十字の銀河の西半身」には〔乳房、妊婦の腹部(おなか)、子宮(女性生殖器〕に観える箇所が存在するので、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河各部から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「全文字が生まれる子宮」と定めた。
 『説文解字』は[]の字源を「後よりこれを灸(きゅう)す。人の両脛(りょうけい)の後ろに距(ささえ)るに象(かたど)る」と解説する。
 G図に示す「十字の銀河」を「人の背面形」と見立てると、『説文解字』の[]の字源解説に合致して「十字の銀河の子宮」は「人の背中のお灸するときの、火がまだついていない白い艾(もぐさ)の形」に見立てることができる。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 []の字源銀河は「十字の銀河の子宮」であった。というのも、H図に示すように、「女性の子宮の正面形」は「羊(ひつじ)の顔」に相似し、子どもが宿(やど)ると子宮は大きくなる。ゆえに[][]が加わると[]となる。
 以上、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話末部に登場する「久美度邇(くみどに)」の先頭2字「久美」は「十字の銀河の子宮」であり「富士山」をあらわした。
 下のカラー写真は、前掲した文字作成銀河の写真を撮影した時より少しだけ明るい状況(絞り)で撮影したものである。

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 ▲「蓬莱」の語源となる銀河

 I図に、上のカラー写真における「十字の銀河、鬼の姿に似る銀河、北アメリカ星雲の様子」を示した。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 お灸で療治(りょうじ)するとき〔白い艾(もぐさ)〕は「富士山の形」にする。したがってI図における「十字の銀河の子宮」は「富士山の形」に相似するゆえ「蓬の艾」をあらわす。「鬼の横顔に似る銀河」は「桃色」に輝き、「鬼の横顔の桃尻(ももじり)の形となる頬(ほほ)」も「桃色」に輝き、「北アメリカ星雲」は「熟した桃のごとく赤く紅色」となる。また「十字の銀河の両足の脛(はぎ)の中央の股(また)」は「亀の頭の形」に観え、「十字の銀河の脛となる両足部分」は「亀の前足」に観える。
 だから、I図の「十字の銀河の子宮」は「艾」で[]、「鬼の横顔と北アメリカ星雲」は「桃色」で[]をあらわすゆえ、「蓬莱」の語源となった。
 その証拠にI図に示した「十字の銀河の両足とその南の銀河の形状」は、J図に示す古代絵画の蓬莱山図に合致して「亀の正面形」に見立てることができる。これゆえ「富士山の形の十字の銀河の子宮」は「亀の甲羅の上に乗る蓬莱山」のモデルであったことになる。
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(C) 2018 OHKAWA

◆下に、現在わずかに残る浮島沼(浮島原)から見た富士山と愛鷹山の写真を掲載した。
Photo_3
 ▲現在の浮島沼から見た富士山と愛鷹山

 写真に映る富士山の手前の紺色の部分は愛鷹山であり、沼津市西方の浮島沼から見た富士山の裾野は愛鷹山の西側の尾根に隠れる。しかし、沼津市西隣の富士市の田子の浦から見た富士山は田子の浦の海岸線の裾野から頂上まで標高3,776mそのままの姿となって聳(そび)える。したがって、上の写真の浮島沼から見た富士山は、巨大で不動のはずの富士山が西から東へと移動して愛鷹山の西側の尾根の背後に裾野が隠れた状態となる。“そんなバカな! 富士山が動くなんてウソだ!”と反論するかもしれないが――浮島沼の南岸を貫通する国道1号線を東へ東へ進めば進むほど、巨大で動くはずがない富士山は愛鷹山の尾根に沿って裾野を隠してより東へより東へと移動する。
 その証拠に、下の写真は、浮島沼がある沼津市よりも東に所在する駿東郡清水町で撮影した富士山・愛鷹山の写真である。
Photo_2
 ▲駿東郡清水町の富士山・愛鷹山

 清水町西方の浮島沼から見た富士山は愛鷹山の西の尾根に裾野が隠れて所在するが――、浮島沼東方の清水町の富士山は、上の写真に示したとおり、愛鷹山の尾根の愛鷹山の〔東〕の尾根に裾野が隠れる。
 K図は、上の写真で示した浮島沼から見た様子と清水町から見た富士山と愛鷹山の様子を示すイラストである。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 G図・H図・I図で証明した「久美」の「富士山」は、K図に示したように、田子の浦では愛鷹山の西(西北)にある富士山は、現在の浮島沼では東南へ度(わた)って愛鷹山の尾根の西側に移動する。ゆえに、富士山は[(わたる)]の初文の[]の字義「西(西北)から東(東南)へ渡る」をあらわす。浮島沼から清水町の富士山は愛鷹山の尾根の西側から東側へと移動して、[]の字義「西から東への移動」となる。ゆえに、夏音文字の「度邇」という語は「愛鷹山の西にある富士山は愛鷹山の西の尾根に度(わた)り、さらに[]の字義に合致して愛鷹山の尾根に沿って西から東へ移動する様子」をあらわことになる。
 だから『古事記』上巻の淤能碁呂島説話末部に記載された「久美度邇」という夏音文字は、上掲した清水町から見た「富士山と愛鷹山の光景」をあらわす語であったのである。
 K図に示した清水町から見た「久美度邇」の「富士山と愛鷹山」は、I図に示した「蓬莱」という語をあらわす。というのも、東の「十字の銀河の子宮」は「富士山」に相当して[]を、西の「鬼の横顔に似る銀河と北アメリカ星雲」は「愛鷹山」に相当して[]をあらわすことになるからである。
 [蓬莱]の語を成立させ、しかも「久美度邇」の語を成立させる「富士山の裾野が愛鷹山の〔東〕の尾根に隠れる光景」が示す「巨大で不動のはずの富士山を〔東〕へと移動させる愛鷹山の強大な力」によって、愛鷹山は日本防衛軍の守護神となった。というのも、C図に示した小国・日本のほとんどの地域は浮島沼より東方に位置し、しかも現在の浮島沼以東では富士山が東へ移動する光景を目撃できたので愛鷹山は富士山を動かす強大な力を有するということになって、愛鷹山は兵士たち全員の守護神と認識されることになったからである。「蓬莱」の「不老長寿」は「不死(死なない)」をあらわす。この「不死」の信仰によって、「愛鷹山」は「蓬莱山」と認識されて頂上に桃沢神社が祭られることになったのである。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 L図は、貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢和中辞典』(角川書店発行)1320頁より転載した中国の地方豪族の家廟(かびょう)図である。『角川漢和中辞典』はL図に示す「家廟」について「家族主義の中国では、家譜(かふ/系譜)を尊重するともに、宗廟(そうびょう)を建て、宗族の中心である祖先をまつった」と説明する。
 上掲した清水町から見る富士山・愛鷹山の写真が示すように、「愛鷹山」は「家廟(祖先を祭る宗廟)の屋根」の形にソックリである。
 したがって「桃沢神社を祭る愛鷹山の頂上」は「家廟の基本となる宗廟の屋根の頂(いただき)」に相当するゆえ、「愛鷹山山頂」は「家基」と略称されたのである。「家基・愛鷹山山頂」の経度は東経13848分であり、富士吉田市も東経13848分で同経度である。ゆえに、徐福の子孫が住んだ東鯷人国の都となった富士吉田市の古称は「家基」に「都」が加わって「家基都」となったのである。

◆インターネットで「写真 富士五湖 天の川 富士山」と検索(けんさく)すると、富士山の北側の富士五湖から「富士山と夏の銀河の西南部を撮影したカラー写真」が多数画面に現れる。これらの写真は「東鯷人国」という国名の由来を示すことになる。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 M図に示すように、富士五湖や家基都・富士吉田市から観察できる「富士山の真上にそびえる夏の銀河の西南部像」は[]の字義「ナマズ」の姿に相似する。
 そして、徐福一行が浮島沼に到着した紀元前3世紀、また伊耶那美命と伊耶那岐命が高尾山古墳で結婚した3世紀においても、M図の夏の銀河の西南部の北側となる「愛鷹山と富士吉田市の天頂」には、N図に示す「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がめぐってきた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上掲した「蓬莱」の語をあらわすカラー写真における「北天の最輝部の暗い部分」を凝視(ぎょうし)すると、O図のような形に見える。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 このカラー写真の「北天の最輝部の暗い部分」を凝視しないように瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)を縮小させると、「北天の最輝部」はP図に示すような形に見える。
K485
 
 P図は、O図の状況よりも目に光が少し入って瞳孔径が縮小した時の「北天の最輝部の形状」を示すものとなる。
 P図に示す「北天の最輝部像」は「艾(もぐさ)の材料となる葉の裏面に銀白色の綿毛が密集する蓬(よもぎ)の形」に相似するゆえ[]を、P図の「北天の最輝部の点を密集させて濃く(黒色化)した部分は桃花鳥色(桃色すなわち朱鷺色/ときいろ)に輝く」ゆえ[]をあらわす。だから、「北天の最輝部」は「蓬莱」の語源となった。(「蓬莱」の語源は「十字の銀河の子宮と鬼の横顔に似る銀河・北アメリカ星雲」と「北天の最輝部」の2カ所であった)
 N図に示した「北天の最輝部」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」にあるゆえ[]をあらわした――したがって、都であった富士吉田市は富士山の〔東〕にあり、M図に示した[(ナマズ)]の夏の銀河の西南部像と、「北天の最輝部」の[]が加わって、徐福の子孫が王となって統治した東日本(C図)の国名は「東鯷人国」となったのである。
 以上のごとく、徐福一行は「愛鷹山」を「蓬莱山」と思い込んで浮島沼に到着したが桃の林が見当たらなかったゆえ、北上して富士吉田市近辺に到着したが桃の林を見つけることができなかった。この状況を、『宮下文書』は「徐福一行は住留賀(駿河)の宇記島原に上陸、富士山北麓の阿曽谷小室の家基都に着いた。ここが目指した富士蓬莱の地だった」と記述したことになる。

◆『古事記』上巻は、中国の正史『新唐書』日本伝にある「後稍夏音を習う」という記事の事情、また『新唐書』日本伝と『旧唐書』倭国日本伝に「倭国という国名を憎み、日本という国名にした」という事情、また両書の「倭国と別種の小国であった」という秘密を後世に伝える歴史書であった。言いかえると、『古事記』上巻は天照大御神を皇祖と崇拝する大和朝廷にとってきわめて不都合な真実の歴史を後世に伝える反逆(はんぎゃく)の史書であった。だから、『古事記』序は首尾一貫して「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史は解明できる仕組み」を説明することになった。にもかかわらず、この立論方法を用いて歴史を解明し証明する学者は、現在、一人も存在しない。
 711(和銅4)918日、元明(げんめい)天皇は『古事記』の序を書いた太安万侶(おおのやすまろ)に「稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦()むところの天武天皇が勅(みことのり)で語った旧辞(きゅうじ/『古事記』の原典)を撰録(せんろく)して献上せよ」と命令した。その4か月後の712(和銅5)128日に『古事記』は元明天皇に献上されたが、天皇は即座(そくざ)に献呈拒否して『古事記』を排除(はいじょ)した。
 わが国の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の元明天皇が治める709(和銅2)926日の条(くだり)は「従五位下の藤原朝臣(あそん)房前(ふささき)を、東海道と東山道に遣(つか)わして、関や柵(さく)を検察(けんさつ)するとともに、人民のならわしを視察させた」と記述する。ゆえに、元明帝に『古事記』が献上された3年前の7099月下旬に東海道の検察の任務についた藤原房前は、天皇あるいは父の不比等(ふひと)に、徐福の子孫がもしも日本誕生史を詳細に筆録(ひつろく)した資料を作成していたならば、その資料を廃棄処分(はいきしょぶん)するようにと命令されていたにちがいない。
 したがって藤原房前が任務を遂行したのを確認して7119月中旬、元明天皇は太安万侶に『古事記』献呈を命令したのであって、この命令は『古事記』を廃棄処分するための罠(わな)であった。編纂スタッフは、天皇の罠を察知し太安万侶に献呈を命令した以前の710年頃、すでに『古事記』を完成させて複製本を幾冊作成していた。このため、朝廷は『古事記』を抹殺することができなかった。『古事記』の原本は元明天皇に献上した1冊のみでなく、後世へ残すための原本が数冊作られていたために現存することになったのである。
 これゆえ、『熊野誌(36)』徐福研究特集号における下村氏の研究論文には――さて、『宮下文書』だが、その原形は徐福が筆録したものとされ、「徐福文献」といわれている。その原典を、天智天皇10(671)、中臣藤原物部麿なる謎の人物が富士山麓を訪れ、「作正宇津須(うつす)した、つまり原典を改訂したといわれる――という文が記される。
 中臣藤原房前は「中臣藤原物部麿」と偽名を名乗り、日本国誕生史を記述する資料を廃棄処分したついでに「徐福文献」にデタラメ・虚偽を加えて改竄(つまり「作正宇津須」)した。これが『宮下文書』であった。でも、彼は「徐福文献」の全記事を改竄せずに所々に「徐福文献」の記事を残したため、下村・奥野両氏はじめ熊野地方史研究会の会員の研究は全面的に誤りとならずに部分的に事実をキャッチするものとなったのである。
 したがって、学者たちの『宮下文書』を研究する人々への批判は、日本人にとって最も大事な日本国誕生史の真実を解明するに役立つ研究を排除する不誠実な偏見(へんけん)となる。日本国誕生史は大和朝廷が後世に伝わったならば朝廷滅亡の原因になるとおそれた、タブーの歴史であったのである。日本国が誕生した230年当時、富士吉田市に居住した徐福の子孫は東鯷人国王であったゆえ、彼かその後の子孫が筆録したであろう日本国誕生史を伝える文献が廃棄処分された時に「徐福文献」は改竄されて『宮下文書』となって残ったのである。

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