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2018年6月14日 (木)

漢字習得定説のウソ・16

 ●卑弥呼の地上絵と淤能碁呂島聖婚説話・2
■沼津市の高尾山古墳が聖婚式場となった理由・根拠考
 
2008年、日本国誕生史の真相が科学的に証明できる遺跡が発見された。
 この遺跡は、A図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山古墳である。高尾山古墳は東日本における最古で最大の、全長が約62mの前期古墳である。
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 なぜ、高尾山古墳が日本国誕生史を証明できる遺跡であるかというと――その立地状況と出土物は『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話の全記事に合致し、また日本国誕生史を伝える幾つかの確かな古文献の記事や遺跡に合致するからである。
 『古事記』序は、上巻に記述された歴史の秘密を解明する方法を説明する。
 この説明を要約すると「わが国に、その昔(後期縄文時代初頭/今から約4070年前)、夏音(かおん)文字が伝来し、夏音文字は五帝時代初頭(5000年前)の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成の方法と原理を伝えた。倉頡は銀河各部の形状を字源・字形・字義と定める文字を考案したゆえ、『古事記』上巻に用いられる楷書(かいしょ)と〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換(へんかん)すれば真実の歴史が解明できる。というのも楷書も夏音文字と同じく倉頡が発明した漢字作成の方法や原理に則(のっと)って作られたからである。これゆえ楷書〔日下(にちげ)〕と夏音文字〔玖沙訶(くさか)〕は同義、楷書〔帯(たい)〕と夏音文字〔多羅斯(たらし)〕は同義とあることを序の末部に記した。この事例をもって、夏音文字と楷書は倉頡が発明した漢字作成の方法と原理に則って作られた事実と、夏音文字がわが国に伝来し習得された事実を伝えるものである。その証拠に、上巻に用いられた夏音文字と楷書を銀河各部の形状に変換すれば日本国が誕生した歴史の真実を後世の人々が知ることができる」と説明していることになる。
 このような『古事記』序が説明する上巻に記述された歴史解明方法にしたがえば、高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事に合致する。
 『古事記』上巻は大和朝廷にとってきわめて不都合な歴史、つまり皇祖(こうそ)天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す反逆(はんぎゃく)の史書であった。このため、『古事記』編纂(へんさん)スタッフは朝廷が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁止する日本国誕生史の真相を、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば解明できるという、手がこんだ仕組みにしたのである。
 現在の学者たちは、上記した(1)『古事記』序が説明する〔歴史解明方法〕を無視し排除(はいじょ)するだけでなく、さらに(2)『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えて『古事記』上巻に記述された真実の日本国誕生史と上古史をわれわれから奪(うば)う。
 多くの人々は「古墳」イコール「墓」と考えるかもしれないが、『古事記』は高尾山古墳について「伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本に封(ほう)ぜられて結婚した会場」であったと伝えている。ゆえに、高尾山古墳は「封土(ほうど)」いいかえると「盛土(もりつち)」つまり「結婚式場にして、土地神を祭るために造った盛り土」であったことになる。

◆A図に示したように、高尾山古墳周辺には、3世紀前半の遺跡や前期古墳が密集する。
 沼津市教育委員会は、高尾山古墳の墳丘内(ふんきゅうない)から出土した約2000点の土器には西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は出土しなかったので、墳丘は230年頃に完成したと推定した。
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また、B図に示す高尾山古墳の後方墳の主体部から出土した33点の鉄の鏃(やじり)の年代は250年頃のものと推定して、沼津市教育委員会は高尾山古墳の主体部は250年頃に製作されたと発表した。
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 C図に示す高尾山主体部における、250年頃に作られた33点の鉄鏃が集中して出土した箇所を示した。
 高尾山古墳の墳丘が完成したとされる230年は、呉の黄龍(こうりゅう)2年である。
 『三国志』呉書孫権伝(ごしょそんけんでん)の黄竜2(230)の条は「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 230年から8年前の202年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この赤壁の戦いで、わずか2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破して劇的な勝利をおさめた。この1万の呉の水軍が日本列島に所在する夷州と亶州に目指して、呉の黄竜2年・230年に遠征を決行した。しかし、この呉の遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)し、遠征は大失敗した。
 豊富な資料と正確な考証(こうしょう)によって正史と同様に史料価値が高い良書とされる『資治通鑑(しじつがん)』は呉軍の遠征目的について「その民を俘(とりこ)にしてもって衆を益()さんと欲す」と書く。つまり、当時の魏・蜀・呉の三国の天下取りの状況にあって、魏に対して人口が約半分であった呉の遠征目的は日本列島に所在する夷州・亶州の人民を捕虜(ほりょ)にして呉の兵士の人数を増やすための人狩り作戦であったと――『資治通鑑』は明記している。
 1万の呉の水軍が遠征しようとした夷州と亶州については、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は記述される。この記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 「会稽(かいけい/現在の浙江省紹興市)の海外に東鯷人国(とうていじんこく)がある。二十余国に分かれている。また夷州と澶州(せんしゅう/つまり亶州)にも分かれている。伝承されて言われていることは――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246年-同210年在位)が、方士(天文地理学士)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(青年男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)を求めるように命じたが手に入れることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの州(亶州・現在の静岡県と山梨県)に定住した――とのことである。代々たがいに受け継いで、現在(3世紀)、徐福一行の子孫は数万家となる。東鯷人国の人民は時々会稽までやってきてあきないをする。(中略)。東鯷人国の人民が往来する大海の道は、中国人にとっては遥(はる)かに遠い道のりとなり途中で絶えてしまうので往来することができない。」

◆C図の高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の破砕鏡(はさいきょう)の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」より約1m東と東南の箇所から230年頃(黄竜2年頃)の東海西部系の土器が発掘された。この土器は黄竜2年=230年頃に作られた土器であるゆえ――偶然(ぐうぜん)、東鯷人たちが台湾から会稽へ向かう海上で呉の遠征軍と遭遇したか、あるいは会稽で商(あきな)いしている時にその情報を聞きつけて、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に呉軍の遠征を報告した――様子を現在に伝える資料となる。また、この土器は黄竜2年の呉軍の東鯷人国遠征を知っていたが、黄竜2年に台湾沖で呉の遠征軍は壊滅したことを、日本防衛軍は知らなかったことを示す資料にもなる。というのも、A図に示した軍事集落跡の特色を有する足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と浮島沼(うきしまぬま)周辺にあるいくつかの軍事集落跡と考えられる遺跡は10年以上も営(いと)まれていたからである。日本防衛軍が呉の遠征軍の台湾沖における壊滅を知っていたならば、足高尾上・浮島沼周辺の軍事集落は10年以上も営まれずに、56年後には呉軍は遠征をあきらめたと判断して日本防衛軍は解散されて集落は廃(はい)されたことになる。だから、日本防衛軍は呉の遠征軍が台湾沖で壊滅したことを知らず、必ず呉の遠征軍は東鯷人国に襲撃して人狩りをおこなうにちがいないと考えて10年余も軍事集落を営んでいたことになる。
 赤壁の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破したゆえ、黄竜2年の1万の東鯷人国遠征軍の戦力は40万の魏の大軍にも勝利する無敵艦隊ということになる。ゆえに、東鯷人国王は呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、独立国をあきらめて倭国の属国になることを決意して、倭女王卑弥呼に倭からの防衛軍の派遣を要請した。したがって、黄竜2年直後に東鯷人国は滅び、日本防衛軍の女王に伊耶那美命が選ばれ、伊耶那岐命が軍王(いくさのおおきみ)に就任し、両人は小国・日本へ封(ほう)ぜられて高尾山古墳で結婚式をあげて日本国は誕生したことになる。

◆『古事記』が完成する10年前の702年、国号を「倭国」から「日本国」に改変する承認を唐王朝から得るために、第7回の遣唐使(けんとうし)が派遣(はけん)された。このときにおこなった遣唐使の小国・日本と倭国についての説明が、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に記され、下記の文から小国・日本は、D図に示す東日本(現在の静岡県中部・東部、山梨県、長野県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、千葉県、茨城県)であったことになる。
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 『旧唐書』倭国日本伝は、日本国の面積や位置を「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるをもって、ゆえに日本をもって名となすと。(中略)。日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」と記述する。
 『新唐書』日本伝は、日本国の面積や位置を「国日の出ずる所に近し。ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の幷(あわ)す所となる」と記述する。
 ゆえに上記した『旧唐書』の「その国日辺にある」という文と『新唐書』の「国日の出ずる所に近し」という文が示すように、D図に示した東日本が小国・日本であり旧東鯷人国であったことになる。
 小国・日本の範囲(はんい)を旧国名であらわすと、E図のごとくになる。
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 日本軍は黄竜2(230)に東鯷人がキャッチした情報にもとづき、呉の遠征軍の兵士は1万と想定して防衛戦略を考えたにちがいない。この1万の呉軍に対抗できる兵士の数を、E図に示した小国・日本の海岸線の全域に配置すると10数万余の兵士が必要となろう。ところが日本列島においては過去に大規模の戦争がおきていないうえに、倭においては卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国という脅威(きょうい)もあったために倭から派遣される兵士の数も限られていた。ゆえに、日本軍の兵士の総数は1万よりも少なかったと推測される。このため、日本軍は、呉軍の上陸地点が最も可能性が高い地域を限定して防衛戦略を考えたにちがいない。この日本軍が予想した防衛拠点が、A図に示した静岡県東部であったのである。

◆上記したように、『三国志』呉書孫権伝は「1万の呉の遠征軍に、夷州及び亶州を求めるようにした」と記述する。『魏志』倭人伝は「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人条」を省略した通称であるゆえ、「東夷」からして呉軍は夷州を――東鯷人国の東部に所在すると考える――と推測したにちがいない。
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 F図に示すように、伊豆半島沖にまで航海してきた呉軍は――夷州は相模湾側に所在する――と日本軍は推測した。そして呉軍の船団の先頭の船には遠目(とうめ)が利()く兵士たちが乗っていたにちがいないゆえ、伊豆半島沖から遥かに遠くにある富士山をキャッチすることになる。富士山は〔灸で療治(りょうじ)するときに用いる蓬(よもぎ)から作った艾(もぐさ)の形〕に相似するゆえ、徐福一行が不老長寿の霊薬を求めた蓬莱山は富士山と考えて呉軍は駿河湾を北進することになる。この呉軍の船影は足高山山麓の軍事基地の日本軍の兵士たちがとらえることができるゆえ、日本軍はいちはやく戦略とおりの陣容(じんよう)を整(ととの)えることができた。
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 呉軍は東鯷人国の様子を船上から知ろうとして伊豆半島の西海岸を横目(よこめ)に見て足高山を正面にとらえて駿河湾北進するにちがいないので、その景色は――G図に示すように、足高山の上に富士山が乗る形となる。この「富士山が足高山の尾根に乗る光景」は「亶州」の[]の字形をあらわす。わが国の古代中国漢字の第一人者とされる故・白川静博士が著作する『字統(じとう)(平凡社発行)[]の字形を「下部は建造物の下壇(
だん)、上部は廩蔵(りんぞう)の形で、神倉の象」と解説する。
 下の写真における手前の山が「足高山」であり、足高山は〔家の屋根の形〕に相似するゆえ、「足高山」が[]の「下部の建造物の土壇」に相当し、「足高山の上に乗る富士山」は[]の「上部の神の倉」に相当する。
 旧称「足高山」は、186033日に井伊直弼大老が桜田門外で刺殺(しさつ)された時には「愛鷹山」と表記されていた。
A

▲駿東郡清水町から見た富士山と足高山(愛鷹山)

 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・15」で詳細に解説したように、『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話に「久美度邇(くみどに)」という4字の夏音文字であらわされた。この「久美度邇」とは――東海道線の鈍行に乗って富士市の吉原駅から東京へ目指す進行方向から左側(北側)の車窓から富士山を眺(なが)めると、[]の「下部の建造物の土壇」に相当する「愛鷹山の尾根」の上に乗る「上部の神の倉」の「巨大な富士山」が愛鷹山の尾根に沿って東へ東へとあろうことか!滑(すべ)るように富士山が移動して見える神秘的な光景――この光景のことである。
 現在の浮島沼は3世紀の浮島沼よりずっと小さい。現在の浮島沼から見た富士山は愛鷹山(足高山)の尾根に裾野を隠して西側に所在する。この地点から東へ向かうと――G図に示したように、富士山は足高山の尾根に沿って東へ東へと移動して、沼津の東の三島では上掲した清水町の写真と同じく富士山は浮島沼の反対側=足高山の尾根の東側に所在する。このように夏音文字「久美度邇」という語は、G図に示した「富士山が足高山の尾根に沿って東へ滑るように移動する、神秘的な光景」のことである。
 「久美度邇」の後には「興而(おこして)」の2字の楷書が続く。白川静著『字統』は[]の字について「地霊をよび興(おこ)すことをいう」と解説する。G図の下部に示した「同緯度(北緯3501)の大瀬埼(おせざき)と淡島(あわしま)」が[]の字義「地霊をよび興す」をあらわす。だから、「大瀬崎と淡島」は「日本軍を守護する土地神(地霊)」となった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「大瀬崎と淡島」について「しかれども久美度邇興して、子の水蛭子(ひるこ)を生む。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()てき。次に淡島を生む。是()もまた子の列(かず)に入れざりき」と記述する。この文中に登場する「水蛭子」は「現在の沼津市の大瀬崎」のことであり、「淡島」もちろん「現在の沼津市の淡島」である。
 「浮島沼」という地名は、日本誕生史の秘密を現在に伝える。上記述したように、優れた史書と高く評価される『資治通鑑』は、黄竜2年の1万の呉軍の東鯷人国遠征について「その民を俘(とりこ)にしてもって衆を益()さんと欲す(東鯷人を俘にして呉軍の兵士の数を増やそうとした)」と記述する。[]の人偏を三水偏に変えると[]となり、『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字を「氾(うか)ぶなり」と解説し、白川静著『字統』は「氾は浮屍(ふし)の象」と解説する。「浮屍」とは「水に浮かぶ人間の死体」のことであり、「日本軍が呉軍の多くの兵士たちの死体を浮かべようとした、島(足高山を湖に浮かぶ島と見立てた)の南の沼」を省略した地名が「浮島沼」であったことになる。

◆『日本書紀』神武(じんむ)天皇紀の末部に――伊弉諾尊(いざなきのみこと)は「日本は浦安(うらやす)(平安な)国、細戈(くわしほこ/精兵)の千足(ちた)(具備した)国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまのくに)〔秀真国、これを袍図莽句儞(ほつまのくに)という〕である」と仰せられた――という記事がある。
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 上の記事に登場する「磯輪上」とは、H図に示すように「〔南〕を上にすると、房総半島の海岸、東京湾、相模湾、駿河湾の磯が輪のようになる」ことを指している。
 「袍図莽国(句儞)」の[]の字は「衣(布の袋)で包む」を意味し、[]は「はかりごと、戦略」のことであり、[]は「野原を全力で走る犬」を意味した。つまり「袍図莽」とは「もしも呉軍が相模湾に向かったならば、浮島沼・足高山の日本軍の精兵は荒原を全速力で走る犬のごとく東京湾に向かって駆けつけ、武蔵や上総の軍は浦賀水道を塞(ふさ)ぎ、呉軍を東京湾で[]つまり袋の中のネズミのごとく包みこんで滅ぼす戦略」をあらわした。したがって、[]は「浮島沼で、呉軍の船団を袋の中のネズミにして滅ぼす」をも意味したことになる。
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 G図の下に示した「久美度邇興しての水蛭子・大瀬崎」の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を、I図に示した。大瀬崎の地宜は海岸線からわずか数mの所に塩分がまったく含まれない「神池(かみいけ)」と呼ばれる、真水をたたえて多数の魚が生息する神秘的な池がある。この「神池」は「蛭が血を吸う吸盤の形」に相似する。チスイビルは体の5倍の血を吸い、ヤマビルは体の11倍の血を吸う。したがって、神池は「呉軍より数が少ない日本軍の兵士に、蛭(チスイビル、ヤマビル)のごとく数倍の呉の兵士を殺せ」と闘争心を奮(ふる)いたたせることに役立った。また「大瀬崎の磯が輪になって囲む神池」は、文字を知らない日本軍の兵士たちに[]の「呉軍を浮島沼あるいは東京湾に進入させて袋の中のネズミのごとくして、日本軍が攻撃する戦略」を理解させるのに役立った。また、大瀬崎の東にある淡島は文字を知らない日本軍の兵士たちに「呉軍が東方の東京湾に向かって進んだならば、浮島沼・足高山の本隊が荒野を全速力で走る犬のごとく駆けつける」という[]の戦略をあらわして、日本軍の全兵士が心を一つにして戦う戦法を理解させる役目を有した。また、海に浮かぶ淡島は乳房や妊婦のおなかのような形をして伊耶那美命が高尾山古墳における結婚式でとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】をも表現した。ゆえに、倭から派遣された兵士と旧東鯷人国の兵士とで組織された日本軍の兵士たちは熱烈に伊耶那美命に憧れたゆえ、淡島によって兵士たちのあいだに心を一つにして戦う団結力が生まれた。だから、『古事記』上巻にある「久美度に興して」という語は「水蛭子・大瀬崎と淡島は日本軍を守護する土地神(地霊)となった」と伝えていることになる。
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 J図に示す浦賀水道は、日本軍が呉の遠征軍を[]「袋の中のネズミ作戦」で滅ぼすと戦略を立てた東京湾への入口となる重要な場所である。この浦賀水道は、足高山の山頂と同緯度(北緯3512)である。だから、日本軍の本隊は呉の遠征軍が上陸する可能性が高い足高山に配備され――この足高山の頂上はもしも東京湾へ向かって呉軍が針路をとったならば足高山の本隊の兵士たちが東京湾に向かって全速力で走って駆けつける作戦を表示することになった。この作戦は、G図に示した「久美度邇興して」とH図に示した[]の字で示された。

◆『魏志』倭人伝には方位を記す記事が全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと、K図に示すように日本列島の東は南へ伸びて時計回りに90度方位が転回する。
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 上のK図が示す「時計回りに90度転回する方位規定」は[]の字源となり、この「時計回りに90度転回する方位規定」は倉頡から起源した。これについては、わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回・8回にて詳細に解説して証明した。
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 L図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候区であるが、沖ノ島と同緯度(北緯3415)の日本列島の東端の神津島(こうづしま)は亜熱帯地区であるゆえ冬になっても雪が降らない暖かい気候区である。ゆえに、日本列島は〔西冷東暖〕となる。中国の北部の海岸線地域は冷たい気候区、南部の海岸線地域は暖かい気候区である。ゆえに、中国の海岸線地域は〔北冷南暖〕となる。したがって、日本列島の〔西冷〕と中国の海岸線地域の〔北冷〕は冷たい気候区で合致し、日本列島の〔東暖〕と中国の海岸線地域の〔南暖〕は暖かい気候区で一致する。だから、「日本列島の〔東〕は中国の海岸線地域の〔南〕に伸びる」という転回日本列島地理を、卑弥呼王朝は制定(せいてい)したのである。
 倉頡が考案した[()]の字は「〔東〕を時計回りに90度転回して〔南〕とする方位規定」はあらわすことになって、この「転回方位」を[]の字が受け継いだ。ゆえに、K図の転回日本列島地理を制定した卑弥呼が治める国家名は「倭国」となった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「淤能碁呂」という4字に〔音〕という注をつけて「夏音文字である」と指摘する。[]の字義は「泥(どろ)」であり、「日本列島の地底は海水で泥状になる」と意味した。[]の字義は「熊(くま)」で「冬ごもりする熊の巣は横穴(よこあな)と縦穴(たてあな)があるが、その横穴を縦穴になるように時計回りに90度転回する」と意味した。[]はK図に示す「碁石(ごいし)のような小さな転回日本列島の緯度基点地となる沖ノ島と神津島」である。[]は「沖ノ島と神津島と、両島を結ぶ同緯度線」をあらわす。つまり、伊耶那美命と伊耶那岐命が封ぜられた日本国は倭国に属する小国であったゆえ、[]の「転回方位」をあらして「淤能碁呂島」と表記されることになったのである。その証拠に、淤能碁呂聖婚説話は「伊耶那岐命と伊耶那美命の二人は天浮橋(あめのうきはし)と名づけられた所に立ち、そこから天沼矛(あめのぬほこ)と呼ばれる矛を指しおろして、塩を許々袁々呂々(こおろこおろ)と画()き鳴らして、その矛の先端から垂(したた)り落ちる塩が積もり重なって島となった。これが淤能碁呂島である」と説明する。
 K図の右側に示したように、世界でも最高級の速度となってゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快に渦を巻く鳴門の渦潮は転回日本列島地理(淤能碁呂)の緯度基点地となる沖ノ島と神津島と同緯度である。ゆえに、伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本に赴任(ふにん)する前に倭地にて、塩分の濃い鹹水(かんすい)を塩焼き所で煮沸(しゃふつ)する塩水に「天沼矛」と名づけられた矛を指しおろしてこおろこおろと渦を画(えが)いて鳴らす転回日本列島地理を演出する淤能碁呂儀式をおこなったことになる。
 淤能碁呂島聖婚説話に登場する「天沼矛」は「浮島沼の形をした矛」の可能性があり、また「島」という語は「浮島沼」の「島」をあらわしていると思われる。

◆黄帝と倉頡が生存した五帝時代、また卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀においても、M図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして“迷っていない”と安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる。
 だから、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語は「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望した未曾有の国難」、すなわち「1万の呉軍の来襲」を表現するものであった。ゆえに、原始と上古の人々の最大の恐怖は「[]のキャッチに失敗して迷うことであった」のである。
 []の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得(こころえ)」をあらわした。この[]の字源を2世紀に成立した字源解説字書の『説文解字(せつもんかいじ)』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる、という心得」をあらわした。
 緯度は、北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度でも計測できたが――天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと原始や上古の人々は必ず命を失うことになった。
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 N図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、1分の精度でキャッチできる、M図に示した[]をキャッチできる眼力に人類は命を委(ゆだ)ねたのである。
 『魏志』倭人伝には「倭の風俗には、なにか事がおきる時や遠くの地に行ってもどって来るときには、骨を焼いて卜(ぼく)し、その吉凶を占(うらな)う」と説明する「易(えき)」についての記事がある。この[(えき)]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を旅しても、トカゲのごとく必ず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀、N図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかったゆえ、当時の人々が道に迷わずに命をまもる方法はM図の右上の[]をキャッチする方法であったことになる。
 前述したK図右側に示した日本列島の東西の端にある神津島と沖ノ島の同緯度はM図の[]のキャッチによるものであり、N図に示した直径約1200分の円を描く北極星では測量不可能であった。したがって、3世紀においては北極星で測量すると道に迷って命を失うことになったから方角や緯度を知る目星ではなかった。ゆえに、K図に示した[]の字源「転回方位規定」をあらわす淤能碁呂島・転回日本列島地理は、当時において、真実であると断定されることになったのである。また、[]は「天の神が地上の人々を祝福して多数の禾(/穀物)を与える」とあらわす字でもあったので、淤能碁呂島・転回日本列島地理は真実であると確信されることになったのである。

◆〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると――黄帝や倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭、O図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上にある「十字の銀河」がめぐってきた。つまり、当時、「十字の銀河」は中国各地の天頂緯度を測量する羅針盤(らしんばん)となって人々の命をまもった。
K515
(C) 2018 OHKAWA

 O図に示したように、「十字の銀河」には妊娠(にんしん)した女性の〔乳房〕に相似する箇所や〔子宮〕に相当する箇所があるので、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体」と定めた。というのも、黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったといわれ、黄帝は女性の生殖器(せいしょくき)・子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道を通過して出産する胎児の研究をおこなったからである。それ以前の三皇(さんこう)時代(紀元前4000年頃~紀元前3000年頃)に考案された易に用いられる記号では、黄帝の医学研究をあらわすことができなかった。ゆえに、倉頡は黄帝の研究をあらわす文字を銀河各部の形状から作る方法を発明することになったのである。
 倉頡は、P図に示す「娩出期(べんしゅつき)における、頭が生まれる子が母体の背を正面として生まれる様子」を注目した。
K521
(C) 2018 OHKAWA
 
 Q図に示すように、倉頡は「全文字の母体」と定めた「十字の銀河の股(また)の部分の〔南〕に、P図に示した〔頭が誕生する子の姿〕をあてはめた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 そうすると、子は〔東〕を正面として誕生することになるので――Q図の場合、「中国の女性たちが生む子は中国大陸の〔東の大海〕に生まれる」ということになる。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を「全文字を生む母体」と定める漢字作成原理には不合理が生じることに気づいた。
K523
(C) 2018 OHKAWA
 
 それゆえ、R図に示すように、倉頡は「中国の人々は〔大海の西側の大陸〕で生まれる」をあらわす[()]と、「娩出期における頭が誕生する出産児の様子」にもとづいて〔大海の西側で多数の子どもが生まれる〕をらわす[]の字を考案することにした。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「〔南〕が〔西〕となる、つまり時計回りに方位が90度転回する規定」をあらわし、[]の字源・字形・字義は「〔南〕が〔東〕となるがごとく、時計回りの逆の方向に方位が90度転回する規定」をあらわすことになった。
K524
(C) 2018 OHKAWA
 
 S図に示すように、倉頡が考案した[]の字形は「いね()の穂が十字の銀河の〔南〕から〔東〕へ垂れる形」と定められたゆえ、字義は「穀物」や「いね()」をあらわすことになった。後世、[]の下に「女体に相似する十字の銀河」をあらわす[]が加わる[()]の字が作られた。「十字の銀河」は「人体」に相似するゆえ、人偏に[]が加わる[]の字が作られた。そして、[][]は倉頡が考えた[]の「時計回りに方位が90度転回する方位規定」を受けついだ。だから、『魏志』倭人伝に記された15ヵ所の方位記事は[]の「転回方位」をあらわして全部正しいゆえ、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない。したがって、学者たちが加えた「文献批判」という考え方の実体は【誤読】であり、その意見・主張は事実無根(じじつむこん)の虚妄(デタラメ)であったのである。

◆巫女(みこ)たちは出産に立ち会って、外子宮口(がいしきゅうこう)から膣口(ちつこう)までの産道を胎児が頭を旋回(せんかい)させて通過する様子を知っていた。ゆえに、巫女たちは出産祝いや子授け祈祷(きとう)をおこなう時、頭を旋回して生まれる胎児の様子を真似(まね)して産道に見立てる土器を持って身をくねらせて舞った。
 倉頡は、巫女たちが祝祷(しゅくとう)の土器を持って、胎児が頭を旋回させて産道を通過する様子を真似て身をくねらせて舞う姿に注目した。
 ゆえに、T図に示すように、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「巫女が出産や子授祈願する時に用いる祝祷の土器」に見立てて、「子宮」を「飲食し言葉を出す[(くち)の字形]であらわす[(さい)]の字を作った。
K525
(C) 2018 OHKAWA
 
 「巫女が用いる祝祷の土器」を「飲食し言葉を出す[(くち)の字形]であらわしたのは、P図に示した出産した胎児は真っ先に〔口〕で呼吸し、その出産児が通過する産道の入口の外子宮口と出口の膣口は〔口〕のイメージとなるからである。 
 T図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を「身をくねらせて舞う巫女」に見立て、「祝祷する土器の[(さい)]」を〔巫女〕に見立てた「「十字の銀河」の西の肩の上に配置して「〔北〕が〔西〕へと時計回りと逆方向に90度転回する方位規定」をあらわす[]の字を考案した。というのも、R図の「十字の銀河の股の部分の〔南〕から〔東〕への逆時計回り」を表現する形の[]の字を考案すると、前述したように「子どもたちは陸地に生まれずに〔東の大海〕で生まれる」ことになって不合理となる。ゆえに、T図に示す「〔北〕から〔西〕への逆時計回りの90度の転回方位をもって、子どもたちは〔大海の西側の陸地〕で生まれる」をあらわす[]の字を、倉頡は作ったのである。
 倉頡は、[]の字源における「身をくねらせて舞う巫女のモデル」を「十字の銀河」のみに限定したわけではない(U図の左上を参照)。上掲した「文字作成銀河各部の名称図」のおける「夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部」つまり「夏の銀河全体像」をも「巫女のモデル」にして、倉頡は[]の字を考案した。
K531
(C) 2018 OHKAWA
 
 その証拠に、U図に示すように、[]のおける[(さい)]の字源は「こと座の東にある、暗い星々が土器の形となる暗黒天体部」でもある。また「夏の銀河の東北部の、人の横顔に酷似する銀河」は「巫女の顔」に見立てられて、[]の字が作られた。

◆U図上部の「鬼の横顔に似る銀河」において〔鬼の横顔となる部分に両目〕があり、〔鬼の首(後頭部とアゴの部分)にも両目〕があるゆえ、計〔目が四つ〕あって「四つ目」となる。倉頡は中国各地の天頂にめぐってきた「十字の銀河」を「中国各地の緯度が測定できる天頂」に見立てて[]の字源とし(O図を参照)、「鬼の姿に似る銀河(「鬼の横顔に似る銀河」を「顔」とする銀河)」を「[]をキャッチする人」に見立てて[]の字源とした。このため、倉頡が漢字を発明したと伝える伝説では「鬼の姿に似る銀河」は「四つ目の怪人」と呼ばれて「倉頡」に見立てられた。
 倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、「鳥獣の足跡」(倉頡が発明した漢字作成原理の名称)をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう/三皇時代の易に用いる記号)の方法から改めたので、天を祝福して禾(穀物)を降らせ、三皇時代の氏族たちの死霊(しれい)が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたというのである――と説明する。
 学者たちは倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」という語に対して「人間は四つも目を有していない! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ!」と断定して――倉頡が夜な夜な天に輝く銀河各部の形状から漢字を作る方法を発明した重大な事実を抹殺(まっさつ)する。
 B図に示した高尾山古墳の墳丘内から約2000点の土器が出土した。それらのうち沼津市教育委員会が「地元の土器」と指摘した土器の図を、V図に示した。
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 V図の高尾山古墳から出土した地元の土器の形は、U図の倉頡が[]における[(さい)]の字源とした「土器の形の暗黒天体部」にそっくりである。つまり、高尾山古墳から出土した土器は「倉頡が漢字を発明した」と説明する倉頡伝説は事実を語っていると証明できる資料となる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話には――伊耶那岐命と伊耶那美命はその島(浮島沼)に天降(あも)り坐()して(つまり、倭地から小国・日本の浮島沼東岸の高尾山古墳に到着して)、そこに天御柱(あめのみはしら)が建っていると見立てて、また八尋殿(やひろでん)も建っていると見立てて、両人が小国・日本に封ぜられることになった任務(呉軍を撃退する防衛)が成就(じょうじゅ)した時に天御柱が建てられ八尋殿が建造される様子を想像して高尾古墳において結婚式がおこなわれた時、伊耶那美命に向かって伊耶那岐命は「おまえの体はどのようにできているのか」と問うと、伊耶那美命は「わたくしの体はだんだん成り整ってきましたが、まだ整わないところが一ヵ所あります」と答えた。そこで伊耶那岐命は「われの体はだんだん成り整ってきたが、できすぎたところが一ヵ所ある。だから、われの体のできすぎたところをおまえの体の足りないところに刺し塞(ふさ)いで、国土(くに)を生もうと思う、この国生みの案はどう思う」と述べると、伊耶那美命は「良いと思います」と答えた――と説明する記事がある。
 この「女陰(じょいん)」と「男根(だんこん)」について問答(もんどう)する国生み(小国・日本の国生み)記事は、倉頡が「夏の銀河の東北部」を「女陰」、「夏の銀河の西南部」を「男根」に見立てて「性交によって多数の子どもが生まれる」という[]の字源の秘密を伝える共に、小国・日本の女王の伊耶那美命は成熟しない13歳の乙女・軍王の伊耶那岐命も若い18歳の青年であったことをあらわすものであったのである。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 その証拠に、W図に示す「夏の銀河の東北部の、コールサック」は「女陰」のイメージとなり、「夏の銀河の西南部の、南部からわし座までの銀河」は「男根」に相似する。
 伊耶那美命と伊耶那岐命の高尾山古墳における結婚式は、[(さい)]の字源・字形・字義にもとづいておこなわれた。ゆえに、この記事には「男根が女陰に刺し塞ぐ」と説明する箇所があり、[]の字が記される。
 白川静著『字統』は[]の字について――[]の下の[]は「土主(土地神)」、[]より上の字形部分は「建物の内部に、呪具(じゅぐ)である工を填塞(てんそく)する形で、これによって邪霊(じゃれい)をそこに封じこめるのである。これを道路の要所や辺境(へんきょう)の要害(ようがい)の地に設けて、異族邪霊を封ずる呪禁(じゅきん)とするもので、わが国でいう「さへの神」にあたる――と解説する。
 上記した白川静著『字統』の[]の解説文にある「填塞」という語は「うずめふさぐ」と意味する。高尾山古墳から出土した約2000点の土器は墳丘内に填塞、つまり土中にうずめふさがれていた。だから、土器は呪具の工(工具)であるゆえ高尾山古墳は[]の字源をあらわす墳丘であり、「さへの神」つまり「塞(さい)の神」を祭る封土(ほうど/盛り土)であったことになる。その証拠に、C図に示したように高尾山古墳の主体部には呪具の工(工具)となる鉄の鏃(やじり)33点、鉄製の槍が2点、銅鏡が1面、大工道具の槍鉋(やりがんな)1点、勾玉(まがたま)1点埋まっていた。
 []の上部字形があらわした「建物」は高尾山古墳の後方墳部に建造される予定であった『古事記』に記述された「八尋殿」である。しかし、「封じこめる異族邪霊である呉の遠征軍」は来襲しなかったため、八尋殿は建造されなかった。[]の下部にある[]があらわす「土地神」はG図に示した巨大な富士山を西から東へ移動させる「久美度邇興して」の日本軍の守護神となった「愛鷹山」と、H図に示した日本軍の「袍図莽(ほつま)作戦」をあらわした水蛭子(大瀬崎)・淡島(G図の下部とI図を参照)であった。
 A図に示した浮島沼周辺地域は戦前(1945年以前)まで農作物の生育に適さない湿地帯で人々が住まない片田舎(かたいなか)の辺境の地であった。だから、高尾山古墳が造られた敷地は[]の字源要素となる「道路の要所にして辺境の要害の地」であった。
 また、X図に示すように高尾山古墳から直ぐ東の地所は足柄路(あしがらろ)の出発点となり、東鯷人国王が居住する首都であった現在の山梨県富士吉田市(旧称は「家基都(かきつ)」へつながる道路の要所であった。
 ゆえに、高尾山古墳は[]の字源要素「道路の要所や辺境の要害の地」に築造された。
K534


 だから、高尾山古墳は伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場であるとともに、呉の遠征軍という異族邪霊を封じこめるための塞(さい)の土地神を祭る封土でもあったのである。

◆以上のごとく、高尾山古墳が伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場となった理由・根拠は以下のごとくなる。
 (1)浮島沼は人口密度が少ない辺境の地であったために人民たちに危害が及ばない戦場として適し、愛鷹山は駿河湾上にあらわれる呉軍の船団を見張るに好都合な場所であった。また、高尾山古墳の敷地は東鯷人国王が住む入口となる道路の要所であったゆえ、呉軍との戦いで勝利を祈願する塞の土地神を祭る封土を築造するのに最適地であった。
 高尾山古墳から出土した土器は、地元産のほかに、北陸や東海西部(尾張・三河・遠江)、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかった。したがって、倭から小国・日本へ派遣された兵士たちは北陸、東海西部、近江の出身者たちであったことになる。
 ゆえに、(2)高尾山古墳から遠く離れる倭地の北陸・近江・東海西部から派遣された王子や兵士たちが旅して、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式の日に間に合うように集合するためには高尾山古墳が結婚式場として最適地となった。
 K図の左下の神津島からは、現在も良質な黒曜石(こくようせき)が産出(さんしゅつ)する。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石の包丁(ほうちょう/石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海西部、近江、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代まで本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔(へで)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmもある。約3万年前の旧石器人は、M図に示した[玄]をキャッチする能力を有していたために海を往来し、北陸の能登半島などの遠い地から旅した人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、K図の転回日本列島地理・淤能碁呂島理論は[玄]のキャッチによるものであることに気づかないために、その実態は未だ謎のベールに包まれて不明であると定める。
 神津島の黒曜石の分布地域と高尾山古墳から出土した土器分布は一致する。ゆえに、倭地の北陸・近江・東海西部から派遣された王子や兵士たちは、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式が行われる日に間に合って式場となる高尾山古墳に集合できたのである。というのも、浮島沼は3万年前から神津島の黒曜石を求めて旅してきた北陸・近江・東海西部の人々の通路の要所となり、彼らは浮島沼の港から船に乗って神津島へ目指したからである。だから、倭からの派遣された北陸・近江・東海西部の王子と兵士たちが伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式に間に合うためには、浮島沼東方の東鯷人国の首都へ至る道路の入口となる場所に高尾山古墳を築造しなければならなかったのである。
 前述したように、(3)『史記』の徐福記事、『後漢書』倭伝の東鯷人国と徐福記事、『三国志』呉書孫権伝の1万の呉軍の遠征記事からして、呉軍の上陸地点の最も確率が高い地域は浮島沼・愛鷹山が所在する海岸線であると推測された。ゆえに、浮島沼・愛鷹山に日本軍の本隊の軍事基地は設営し、女王の伊耶那美命と軍王の伊耶那岐命が結婚する式場は浮島沼の東岸に築造されることになったのである。
 (4)強大な富士山を移動させる「久美度邇興しての愛鷹山」が日本軍を守護する土地神となったため、この強大な威力を有する土地神に守られていると示して兵士たちの戦闘意欲を奮(ふる)い立たせるために、また呉軍が東京湾側へと針路をとったならば袍図莽・袋の中のネズミ作戦を成功させるためにも浦賀水道と山頂が同緯度の愛鷹山を土地神にしなければならなかった。だから、愛鷹山を日本軍の守護神とするためには、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場・高尾山古墳は愛鷹山の麓に築造しなければならなかった。
 愛鷹山の山頂と浦賀水道が同緯度であることは、J図に示した。前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・15」で詳細に解説し証明したように、東鯷人国の首都(現在の山梨県富士吉田市)の古称が「家基都(かきつ)」であったのは愛鷹山の山頂と富士吉田市が同経度であったからである。ゆえに、東鯷人国では小国・日本となる以前において愛鷹山と浦賀水道が同緯度であることを測量し、これを倭王朝に報告して防衛戦略に役立てるように欲したにちがいない。だから、伊耶那岐命は日本軍をまもる土地神を愛鷹山と決めることになったのである。また、倭王朝の面々と東鯷人国王においても伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場は高尾山古墳が築造された地が最適地と決めていたにちがいない。

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