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2018年6月20日 (水)

漢字習得の定説のウソ・17

 ●卑弥呼の地上絵と淤能碁呂島聖婚説話・3
■日本国誕生史の目撃者となった建比良鳥命

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は7回~14回まで、学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志』倭人伝を邪馬台国説のために存在する書物のごとくに変貌(へんぼう)してしまったが、実は『魏志』倭人伝は1ヵ所も【誤読】を加えなければ倉頡(そうきつ)が発明した漢字を作成する方法と原理が解明できる第一級の重大な書物であったことを詳細に解説して証明した。
 また、わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~4回までで――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡が漢字を発明した」という伝説は事実であった――ことを詳細に解説して証明した。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る方法と原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想にちがいないと思い込んだ。この学者たちの思い込みと、さらに『魏志』倭人伝は邪馬台国論のために存在する書物であると定めて数々の【誤読の空論】が捻出(ねんしゅつ)されたために【漢字が銀河から作られた学術の門】が閉()ざされてしまったのである。
 上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕のうちの(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 倉頡が発明した書契、夏代の夏音文字、殷代の契文(けいぶん/甲骨文字)、周代(しゅうだい)の金文、その後の大篆(だいてん)、小篆(しょうてん)、隷書(れいしょ)、そして楷書など――これら712年に『古事記』が成立した以前の古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた。この事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この事実によって、現在の学者たちが主張する邪馬台国説と『古事記』上巻の日本神話研究は【誤読の空論】であると断定することができる。
 というのも、上記したように、幾つかの【誤読(文献批判)】を加えて『魏志』倭人伝は邪馬台国説のために存在する古文献ではなく、【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えなければ倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理が解明できる古文献だからである。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」で解説し証明したように――『古事記』序は「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国が誕生された歴史はじめその他の説話に記述された上古の歴史の真相が明らかになる」と、歴史解明方法を説明している。しかし、現在、学者たちは誰一人、太安万侶(おおのやすまろ)が「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河の各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史を知ることができる」と説明する歴史解明方法に従わずに立論するゆえ、学者たちの意見は【誤読の空理空想】であると断定できる。

◆『古事記』序が「〔音〕という注が付く夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された上古の歴史を知ることができる」と説明するとおりに【誤読】を加えずに読み解明する、『古事記』上巻は朝廷が崇拝する皇祖(こうそ)の天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す反逆(はんぎゃく)の史書であったことになる。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王伊耶那美命の没後に倭女王に就任した天照大御神は、伊耶那美命が高尾山古墳で伊耶那岐命と結婚する時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という言で「日本国の国作りの柱を〔愛〕にしましょう」と唱えた、この【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して、多数の青年男女をころして伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に埋める残酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は配下の日本軍の兵士と熊野に住む戦士たちの協力を得て、伊耶那岐命は数人の日本兵とともに伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)に侵入して伊耶那美命の棺(ひつぎ)を奪って逃走した。天照大御神は伊耶那美命の墓の警護にあたっていた倭の大軍を逃走する伊耶那岐命一行の追跡を命じた。伊耶那岐命一行は松明(たいまつ)に灯をつけて夜の熊野路を逃走した。倭軍はその松明の灯を目標にして追跡したが、この松明の灯は日本兵と熊野の戦士たちの伊耶那岐命・クーデター軍本隊が待機する場所へ誘導する伊耶那岐命の罠(わな)であった。伊耶那岐命一行は本隊が密かに隠れる現在の熊野速玉大社の境内=黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(さかもと)に目指して逃走して合流して、倭軍が速玉大社の境内に到着するや伊耶那岐命軍は虚(きょ)をついて反撃した。数にまさると断然(だんぜん)有利と考えて油断した倭軍は罠にはまり、伊耶那岐命軍の反撃に面食(めんく)らって一挙にくずれ倭軍の兵士たちは一目散(いちもくさん)に必死に敗走した。
 かくして伊耶那岐命のクーデターは成功した。
 驚いたことに、天照大御神は大斎原(おおゆのはら/熊野本宮大社の旧社地)から熊野速玉大社までの夜の森林で覆われる真っ暗闇の熊野路を歩き、伊耶那岐命を必死に追跡してきた。天照大御神は日本軍の兵士にとらわれて捕虜(ほりょ)となって、熊野速玉大社から約1km南の現在の神倉神社(和歌山県新宮市磐盾町)の御神体となる巨大な岩=千引石(ちびきのいわ/現在は“ごとびき岩”と呼ばれる)の伊耶那岐命の背丈よりもさらに高い洞(ほら/空洞)に居る伊耶那岐命の所まで連行された。
 伊耶那岐命の正妃は伊耶那美命、伊耶那岐命の第二后は伊耶那岐命の父とも結婚した継母の天照大御神であった。
 伊耶那岐命は千引石の前の洞で捕虜となって連行された天照大御神と対面した時、夫婦離縁の誓いを言い渡した。これを聞いた天照大御神は「あなたがこのような無法なことをおこすならば、あなたの国の〔愛〕を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなるように呪(のろ)い祟(たた)って、狭い産道で一日に必ず千人ずつ生まれてくる子の頭を絞め殺す」と誓った。伊耶那岐命は「おまえがそうするならば、吾は一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つように、亡き妻が唱えた〔愛〕を尊重する政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓した――と、上古史を伝えている。
 上記したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――(1)天照大御神がおこなった徇葬と、(2)伊耶那岐命が伊耶那美命の棺を奪って逃走して熊野速玉大社の境内で倭の大軍を撃破したクーデターと(このクーデターは、毎年26日の夜に、近在の男たちが千人以上も集まって松明片手に神倉神社の参道の石段をかけ下る「お燈(とう)祭り」となる)(3)現在、神倉神社の社殿が建つごとびき岩(千引石)の洞で伊耶那岐命は天照大御神に離縁を言い渡し、(4)天照大御神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し祟った(このため、熊野速玉大社の主祭神は伊耶那岐命、神倉神社熊野速玉大社の摂社(せっしゃ)となり、神倉神社の主祭神は神倉神社の社殿が建つ場所で離縁を言い渡された天照大御神である)――と、皇祖天照大御神の不名誉な歴史を記述する。
 『古事記』が著作された7世紀末~8世紀初頭頃、朝廷は天照大御神を国家の至上神の皇祖と崇拝して強大な国家権力の充実化をはかっていた。これゆえ朝廷は天照大御神の聖性を汚すことを厳重に禁じ、天照大御神を徳高い人物にして神格化する偽書の作成を、『古事記』編纂スタッフに欲求していた。したがって、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話においては、残酷な徇葬を陣頭指揮して、伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚し、伊耶那岐命から離縁され、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し祟る呪(のろ)いを述べた倭女王の名を、そのまま「天照大御神」と表記できなかった。「天照大御神」と表記すれば『古事記』はただちに排除・抹殺(まっさつ)されるゆえ、編纂スタッフは元明(げんめい)天皇が献呈許可するように、朝廷の欲求とおりにしたがったと見せかけるために「天照大御神」を「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」と表記した。しかし、「天照大御神」を「伊耶那美神命」という偽名にしても、伊耶那岐命は愛妻伊耶那美命の棺を奪ってクーデターを成功させて天照大御神を倭女王から失脚させた歴史は依然として明かで隠蔽(いんぺい)できないと解釈した元明天皇は、『古事記』献呈を拒絶して以後抹殺(まっさつ)をはかった。
 このため、『古事記』序の末尾に「和銅五年正月廿八日」と明天皇に『古事記』が献上された年月日が記されているが、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には『古事記』献上記事は削除(さくじょ)されている。『古事記』上巻は真実の歴史を伝える反逆の史書であったゆえ、その痕跡(こんせき)を朝廷は消滅しようとしたのである。

◆『古事記』が元明天皇に献上された712(和銅5)128日の翌713(和銅6)52日の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記事は「元明天皇が、全国に『風土記(ふどき)』の編纂を命じた」と伝える。
 元明天皇の『風土記』の編纂命令を要約すると――(1)郡・郷の地名に好き字(()き字をえらび2字で表記)をつけること、(2)郡内の物産の品目のリストを書きあげる、(3)農地の肥沃(ひよく)か否(いな)かの状況、(4)山川原野などの地名の由来、(5)古老たちが語る伝承や珍しい話を史籍(しせき)に載せて言上(ごんじょう)せよ――となる。
 上記の(1)(4)(5)は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺するための政策であったことを示し、伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史はじめ天照大御神が人民を苦しめ弾圧した歴史を後世に伝えないための対策であった。というのも、【日本建国の〔愛〕の理念】を政治の基軸にかかげて人民たちに敬愛された伊耶那岐命と伊耶那美命の歴史と天照大御神への人民の抵抗・敵視・憎悪の歴史は、地名となり古老たちの話となって伝承されていたからである。つまり『古事記』上巻の夏音文字と楷書を文字作成銀河各部の形状に変換すれば解明できる歴史は、地名となって保存され、また古老たちが伝説・民話にして口承(こうしょう)するものであった。だから、(1)朝廷にとって不都合な歴史を保存する地名を2字にして廃棄(はいき)せよと命令し、(4)山川原野などの地名と(5)古老たちの伝承を監視(かんし)するため、『風土記』を史籍(歴史書)にして地名と古老たちの伝承を記載して言上せよ(報告せよ)と――元明天皇は全国に命令したのである。
 太政官(だじょうかん)の命令によって全国の60余ヵ国から提出を求めた『風土記』は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺するための史籍(歴史書の役目をはたす書籍)であった。しかし、そのほとんどは失われ、完全な写本の残るのは『出雲国風土記』の一ヵ国のみである。不完全な形で残った史籍もわずか『常陸国風土記』『播磨国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』の4ヵ国分にすぎない。
 『古事記』はその上巻が真実の歴史を残すものであったゆえ完全な写本が残った。いっぽう、『風土記』は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺する対策のための書籍であったのが原因で、全国60余ヵ国の『風土記』のほとんどが失われることになった。

「『魏志』倭人伝」とは陳寿(ちんじゅ)が著した「『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部の倭人条」の通称である。山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(280289)、陳寿の著作郎(歴史編纂官)時代という以上には限定できない」と指摘する。
 ゆえに、『魏志』倭人伝は3世紀に著作された。
 
学者たちは、わが国が最初に漢字を習得したのは6世紀ないし7世紀であると断定するが、3世紀に著作された『魏志』倭人伝には「倭には漢字が習得されていた」と明記する記事が2ヵ所存在する。
 最初は「倭において骨を灼()いて卜(ぼく)し吉凶を占う辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の如(ごと)くであった、つまり殷代の亀の甲羅に刻む契文(けいぶん/甲骨文字)の法の如くであった」という記事である。次に「魏の都・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁があった朝鮮半島の郡)・諸韓国で文書に用いる漢字(楷書)と卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の伊都国(いとこく)の港で点検し、確認して、楷書と卑弥呼の文字を正しく変換して」という記事である。
 わが国には文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする夏音文字が習得されており、楷書も文字作成銀河各部を字源・字形・字義とするものであったために、伊都国の港では文字作成銀河を字書としてあつかい観察して、魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を文字作成銀河で点検し確認して正しく変換していたのである。
 ゆえ、漢字習得の定説は【誤読の産物】の虚偽・欺瞞(ぎまん)であったことになる。

◆前回のブログ「漢字習得定説のウソ・16」で、A図に示す、2008年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場の封土(ほうど/盛り土)であったことを証明した。
K491
(C) 2018 OHKAWA

 B図に、高尾山古墳の規模をあらわした。
K492

(C) 2018 OHKAWA
 
 沼津教育委員会は出土した約2000点の土器にあって、西暦230年頃より新しい土器(250年頃の土器)が含まれていなかったゆえ、高尾山古墳の墳丘は230年頃に完成したと発表した。高尾山古墳の後方墳の主体部の埋納(まいのう)施設から出土した230年頃の土器はわずかであり、同じ種類の土器はほとんど主体部の外(墳丘上)で出土していることから、主体部の埋納施設は250年頃に構築されたと沼津市教育委員会は推定した。
 
C図に、高尾山古墳の主体部から出土した遺物をあらわした。
K493

(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示した高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の銅鏡は、仙人の絵柄が破砕(はさい)されていた。この破砕鏡から東南に約1mと東に約1mの場所から「東海西部系土器」が見つかった。
 「東海西部」は「遠江、三河、尾張」である。
 D図は、高尾山古墳の主体部の遺物が埋設された250年頃から約10年後の260年頃、ちょうど1千万坪に作製された大鳥の地上絵である。
K541
(C) 2018 OHKAWA
 
 D図の大鳥の地上絵は、現在、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形となる。
 D図の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵によって、(1)『古事記』序の冒頭は「紀元前2070年~紀元前2050年頃の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、夏音文字の学芸が伝来し、前期縄文時代以来の約2000年間におよぶ文字作成銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶(どぐう)を造った伝統をうけつぐ縄文の芸術家たちによって夏音文字の学芸は習得された」と記述してあるという意見が正しい解釈となり、学者たちの解釈・意見は記事の表層をなでるだけの粗雑な【誤読の空論・空想】ということになる。また、(2)『魏志』倭人伝は邪馬台国説のために存在する古文献ではなく、倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理を記述する学術書であると証明される。さらに(3)D図の大鳥の地上絵と伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場となった沼津市の高尾山古墳によって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事は史実を伝える記録であったと科学的に証明される。したがって、史実であることを解明できなかった本居宣長(もとおりのりなが/17301801)の解釈・意見を受けつぐ学者たちの意見・解釈は【誤読の空理空論】と断定すべきことになる。なぜならば、『古事記』序は、その全記事で「上巻に記述された歴史は、上巻に〔音〕という注がつく夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば解明できる仕組みになっている」と歴史解明方法を語っているにもかかわらず、宣長と学者たちは『古事記』序が指摘する歴史解明方法を排除・無視して、歴史が解明できない方法で解釈するからである。

◆わたくしは20142月以後、D図の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を「卑弥呼の地上絵」と呼ぶことにした。しかし、それ以前は「建比良鳥(たけひらとり)の地宜(ちぎ)」または「建比良鳥の地上絵」と名づけていた。というのも、細江町の大鳥の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に登場する「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と、その一族が作製したと証明できるからである。
 
C図の高尾山古墳の主体部から見つかった東海西部系土器の「東海西部」の一角は「遠江」である。だから、卑弥呼の地上絵を作製した東海西部・遠江の豪族の建比良鳥命は日本国誕生史の目撃者(もくげきしゃ)であった。
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――天照大御神王朝を倒さんとして五人の王と九州の宗像王(むなかたおう)の六人の王は熊野本宮大社の旧社地の大斎原に須佐之男王朝を樹立するクーデターを計画した。しかし、このクーデターを聞きつけた臨終間際の伊耶那岐命は伊耶那美命との間に生まれた息子の須佐之男命を枕元に呼びつけて「おまえの母・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】に背いてクーデターを決行するのか! クーデターの連鎖(れんさ)を断ち切るために吾は天照大御神の息子の天照大御神に天下を譲ったのだ」と怒って死去した。これゆえ、父の遺言をまもって須佐之男命はクーデターを断念したため、五人の王と宗像王の天照大御神母子の大和王朝を倒さんとしたクーデター計画は失敗した。遠江の豪族の建比良鳥命は宗像王が率いる7人の建比良鳥命の一人であった――と記述している。
 『古事記』序の「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換して歴史を解明せよ」という指摘にしたがうと、計381字で構成される『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事はA図に示した沼津市の高尾山古墳・浮島沼・愛鷹山(足高山)にて起きた日本国誕生史を伝えていることが【科学】が成立して証明される。
 C図の高尾山古墳の主体部から見つかった東海西部系土器の「東海西部」は「遠江」であるゆえ、卑弥呼の地上絵を作製した東海西部・遠江の豪族の建比良鳥命は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国誕生史の目撃者(もくげきしゃ)であった。
 このため、伊耶那美命を敬愛する天照大御神母子大和王朝を倒すクーデターに参加した遠江の建比良鳥命は日本国誕生史が後世まで保存されることを目的として、D図に示した卑弥呼の地上絵を『古事記』が完成する約450年前の260年頃から作製を開始して約30年後に完成した。

◆中国の五経の第一に挙げられる古典の『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は、倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理を「仰いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情(じょう/イメージ)に類して文字を作った」と説明する。
 上記の漢字起源記事中にある「天象」とは「文字作成銀河」を意味する。「地法」とは「天象(文字作成銀河)の各部位は東から西へと去るのに対し、中国の大地を流れる黄河と長江の二つの大河も水は逆向きに西から東へと流れ去り、また中国の海岸線の北部は東へ去るオス鹿の横顔に類似し、また中国の国土は東へ飛び去る鳥の姿に類似する」と意味した。
K542
(C) 2018 OHKAWA
 
 上のE図に示すように、「黄河と長江の水は西(上流)から河口がある東へと流れ去る」ゆえ、[]の三水偏となった。「中国の北部の廟島(びょうとう)列島はオス鹿の角、山東半島は東へ去る鹿の横顔」に見立てられて、正字[]の旁(つくり)部の上部の[鹿]となった。「山東半島を〔鳥の頭〕と見立てると、山東半島の付け根から南北の海岸線は〔鳥の翼〕に類似する」ゆえ、[]の旁部は[鹿][]の字が加えられることになった。したがって、[鹿]の字部は「東へ去る鹿の横顔と東へ飛び去る鳥の横顔」に相当する。
 上の漢字起源記事中の「鳥獣の文」は、倉頡が発明した漢字作成原理の名称である。わがブログ「漢字習得定説のウソ・14」で解説・証明したように、倉頡は[]の字源・字形・字義は「十字の銀河」と定め、「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた全文字の母体」と定め、また「全文字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。そして[]の字源・字形・字義を「鬼の姿に似る銀河」と定め、「十字の銀河」を[(べん)]の字源・字形・字義と定めて、[]の下に[]を加える[]も文字を作った。このような[][]の作成定理が「鳥獣の文」ということになる。
K543
(C) 2018 OHKAWA
 
 また、F図に示すように、倉頡は「十字の銀河」と「頭が誕生する子の顔の向き」とE図の「中国の海岸線」との三者による合理を成立させるために[()][]の字を作った。この[][]の作成定理も「鳥獣の文」ということになる。
 上記した漢字起源記事中の「地宜」は「平面的に図化した地図の形」の意である。つまり、D図の卑弥呼の地上絵やE図の中国地図が「地宜」ということになる。

 D図に示した卑弥呼の地上絵は『易経』繋辞下伝が伝える倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理にもとづいて作成された地宜である。ゆえに、建比良鳥命とその一族は倉頡が死刑と定めた掟を破る大罪(たいざい)を犯したことになる。さらに、卑弥呼の地上絵は
天照大御神母子・大和朝廷が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じた日本国誕生史を伝えるものであったゆえ、天照大御神王朝に発見されたならば一族全員は処刑されて滅亡する大罪であった。しかし、この大罪を犯して建比良鳥命は卑弥呼の地上絵を作製し、後世の子孫も代々卑弥呼の地上絵の保存に努めたため、今日まで卑弥呼の地上絵は残ったのである。

◆D図の卑弥呼の地上絵内から7ヵ所の地点から9口の銅鐸(どうたく)が出土した。この9
口の銅鐸は、G図に示した[]をキャッチして1000万坪の卑弥呼の地上絵を作製に用いられた道具であった。
K544
(C) 2018 OHKAWA
 
――その証拠に、9口の銅鐸のうちほぼ完全な形で出土した銅鐸を選んで、その精密な模造鐸(もぞうたく)を造って、鐸身(たくしん/)の中に頭を入れて夜間に天頂緯度測量してみれば、銅鐸は[]をキャッチするために様々な工夫(くふう)が加えられた構造となる道具であったことが証明される。
 卑弥呼の地上絵内から出土した9口の銅鐸は近畿式と三河・遠江に多数分布する三遠式(さんえんしき)銅鐸であり、これら近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は「終末期銅鐸と分類され、その製作・使用年代は260290年と考えられている。だから、卑弥呼の地上絵は260年~290年に作製されたということになる。
 上記したように、山尾幸久著『魏志倭人伝』にもとづくと、『魏志』倭人伝は280289年に著作されたことになる。
 ゆえに、卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代に作成された。
 同時代に作られた『魏志』倭人伝と卑弥呼の地上絵によって(1)倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想であったと断定した学説は空理空論、(2)33の小国名と幾つかの記事によって倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理が解明され、(3)『古事記』序冒頭に記述されたように夏音文字の学芸はわが国に伝来し、皇室が政権基盤にし、独占管理して厳重(げんじゅう)に機密保持(きみつほじ)していた秘密、この三点は【科学】が成立して事実となる。
 したがって、新井白石より始まった邪馬台国説の立論基盤となる【文献批判】の正体は、正真正銘(しょうしんしょうめい)の【空論・幻想】であったことになる。

◆H図にも、D図の卑弥呼の地上絵を示した。
K545
(C) 2018 OHKAWA
 
 H図に示すように、卑弥呼の地上絵の顔は「夏至の日の出の方向」を向き「卑弥呼の地上絵は夏音文字の学芸を保存する地上絵」であると表示する。言いかえると、「卑弥呼の地上絵」は『魏志』倭人伝に記述された「倉頡(そうきつ)が発明した文字作成銀河から漢字を作る方法と原理を保存する大鳥の地上絵」ということになる。
 H図に示すように、卑弥呼の地上絵の経緯度原点A地点と滝峯不動尊(たきみねふどうそん)1分も狂わずに同緯度(北緯3448)である。ゆえに、この同緯度はG図の[]のキャッチをもって測量したことになる。
 I図に示した北極星では経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度を測量することはできない。
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 3世紀の北極星は天の北極から直径約20(半径約10)の円を画くものであったゆえ、約20度つまり約1200分の直径を画く北極星で1200分の11分の精度が求められる経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度を測量することは不可能である。
 だから、経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度は、卑弥呼の地上絵内から出土した銅鐸で天頂緯度線をキャッチして測量したことになる。
 経緯度原点A地点の真東の滝峯不動尊から、春分の日の朝、太陽が昇る。“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つるなり」と解説する。「朝律を立つるなり」という字源解説は「春分の日の朝、経緯度原点地の真東から太陽が出現する」と意味する。だから、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点地A地点と滝峯不動尊」は『説文解字』が「朝律を立つるなり」と解説する[]の字源をあらわす。『古事記』上巻の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を『日本書紀』の神代紀は「泉津平坂(よもつひらさか)」と表記するゆえ「比良=平(ひら)」となる。だから、H図に示す「平面的に図化した地図の形=地宜」が「比良」となる。卑弥呼の地上絵は「鳥の地上絵」であるから「鳥」となる。このように卑弥呼の地上絵は[]・「比良」・「鳥」と表示するゆえ、卑弥呼の地上絵は建比良鳥命によって作製されたと証明される。
 H図に示すように、経緯度原点A地点と滝峯不動尊の経度軸から夏至の日の出の方角の29度に傾く線の交点は八幡宮となる。この三角測量を基(もと)に大小の三角形の網や鎖を形作って測量すれば、ちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を図化することができる。この卑弥呼の地上絵の地図作製原理は、現在の国土地理院の東京都港区麻布飯倉318に所在する旧東京天文台の子午儀の中心を経緯度原点にして、光波測距儀(こうはそくきょぎ)による三角測量をおこない、三角点の位置を決定する日本列島精密測地網地図の作製原理と同じである。
 だから、五帝時代初頭から夏代初頭までの約1000年のあいだ[]のキャッチで測量して作製された精密中国海岸線地図を夏代初頭に伝来した夏音文字の学芸がもたらすものであったゆえ、卑弥呼地上絵が作製されることになったのである。

図に示すように、卑弥呼の地上絵は(1)「大鳥の地宜」、(2)「都田川(みやこだがわ)の沖積(ちゅうせき)平野」、(3)「象の頭と鼻の形の地宜」の三区の地宜から成る。
K552
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 J図にお示した三区の地宜を、下のK図では漫画風に表現した。
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 L図に、文字作成銀河のうちの北半分の形状を示した。
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 J図・K図の「都田川の沖積平野」はL図の「鬼の姿に似る銀河」に呼応し、「鬼の姿に似る銀河」は「生子(せいし/無事に産道を通過して生まる子)」をあらわした。ゆえに、「都田川の沖積平野」は 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に記述された伊耶那岐命が千引石の前で「吾は一日に必ず千五百の産屋が立つようにする」と宣誓した言をあらわした。したがって、「都田川の沖積平野」は伊耶那美命が高尾山古墳で「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことになった。
 J図・K図の「象の頭と鼻の形の地宜」は、L図の「北アメリカ星雲」が呼応する。
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 M図に示すように、[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は「北アメリカ星雲」を「象の顔・象の鼻」に相似すると見立てて、「象の姿」に図案された。[]の篆文形(てんぶんけい)は「北アメリカ星雲」の東隣の「激流の銀河」の図案である。白川静著『字統』は[]の契文形を「手と象とに従う。手を以て象を使役(しえき)する形で、土木工事などの工作をすることをいう」と解説する。
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 []の字源解説において『字統』が指摘する「手」の字源銀河は、N図に示すように「北アメリカ星雲」に隣接する「鬼の姿に似る銀河」である。この[]の字源となる「鬼の姿に似る銀河」が、上記の[為]の字源解説に登場する「土木」の語源である。
K561
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 O図に示すように「松の木」に見える銀河において、N図の[手]の字源=「土木」の語源の「鬼の姿に似る銀河」は「木の幹」となる。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」はM図の[]の契文形では「手と象(北アメリカ星雲)とに従う。手を以て象(北アメリカ星雲)を使役する形で、土木工事などの工作をすることをいう」と、白川静著『字統』は解説したのである。

『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭は――卑弥呼と卑弥呼王朝の面々に伊耶那岐命と伊耶那美命に「この漂(ただよ)える国を修理(つく)り固めよ」と詔(みことのり)を下した――と記述する。この記事に登場する「修理」の[]の字源を、白川静著『字統』は「攸(ゆう)と彡(さん)とに従う。攸は人の後ろから水をかけてあらう洗う形」と解説する。だから、J図における「象の顔と鼻の形の地宜」はK図の下部の矢印で示したように「象が浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)の水を鼻に吸い込んで、後ろから大鳥の地宜に吹きかけて、大鳥の地上絵の南の羽が東になるように転回させる役目」があった。
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 P図の上図は、卑弥呼の地上絵における「象の顔と鼻の形の地宜」の役目によって「〔南〕の羽を〔東〕になるように転回させた卑弥呼の地上絵」ということになる。
 P図の上図の「頭が〔東〕に向く卑弥呼の地上絵」は下図の「地法の東へ飛び去る鳥の姿(海岸線)に包まれる中国地図」に相似する。
 「〔南〕を〔東〕に転回する」P図の上図は、F図に示した[]の字源「逆時計回りの〔南〕が〔東〕になる」をあらわす。
 P図の上図の右側に示すE図において「鹿と鳥の横顔」となった「山東半島」は〔東〕を向く。ところがP図の上図における「卑弥呼の地上絵の横顔」は〔北〕を向く。この「〔東〕が〔北〕を向く転回方位」もまた[]の字源「逆時計回りに方位を90度転回させる規定」をあらわす。(なお、P図の上図における〔北〕を〔東〕の転回方位、つまり卑弥呼の地上絵の横顔から山東半島の鹿と鳥の横顔への転回方位は、F図に示した[]の字源「時計回りに方位を90度転回させる規定」をあらわす)

◆P図の上図の〔北〕に横顔が向く卑弥呼の地上絵は、頭部が〔東〕に向く卑弥呼の地上絵ということになる。
 卑弥呼の地上絵がある遠江の〔東〕には、A図に示した沼津市の高尾山古墳がある。
 『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話冒頭は――是(ここ)に天(あまつ)神と諸(もろもろの)の命(みこと)は伊耶那岐命と伊耶那美命に
「この漂(ただよ)える国を修理(つく)り固めよ」と詔(みことのり)を下した――と記述するゆえ、上記したように「天つ神と諸の命」は「卑弥呼と卑弥呼王朝をささえる権力者の面々」ということになる。
 『三国志』呉書孫権伝(ごしょそんけんでん)の呉の黄竜2(230)の条は「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 呉の黄竜2年・230年から22年まえの208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この戦いで、わずか2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破して劇的な勝利をおさめた。この1万の水軍が日本列島に所在する夷州と亶州に目指して、呉の黄竜2年・230年に遠征を決行した。しかし、この呉の遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)し、遠征は大失敗した。
 1万の呉の水軍が遠征しようとした夷州と亶州については、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は記述される。この記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 「会稽(かいけい/現在の浙江省紹興市)の海外に東鯷人国(とうていじんこく)がある。二十余国に分かれている。また夷州と澶州(せんしゅう/つまり亶州)にも分かれている。伝承されて言われていることは――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246年-同210年在位)が、方士(天文地理学士)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(青年男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)を求めるように命じたが手に入れることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの州(亶州・現在の静岡県と山梨県)に定住した――とのことである。代々たがいに受け継いで、現在(3世紀)、徐福一行の子孫は数万家となる。東鯷人国の人民は時々会稽までやってきてあきないをする。(中略)。東鯷人国の人民が往来する大海の道は、中国人にとっては遥(はる)かに遠い道のりとなり途中で絶えてしまうので往来することができない。」
 C図の左側に示すように、高尾山古墳の主体部から230年頃(黄竜2年頃)の東海西部系の土器が発掘された。この土器は黄竜2年=230年頃に作られた土器であるゆえ――偶然(ぐうぜん)、東鯷人たちが台湾から会稽へ向かう海上で呉の遠征軍と遭遇したか、あるいは会稽で商(あきな)いしている時にその情報を聞きつけて、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に呉軍の遠征を報告した――様子を現在に伝える資料となる。また、この土器は黄竜2年の呉軍の東鯷人国遠征を知っていたが、黄竜2年に台湾沖で呉の遠征軍は壊滅したことを、日本防衛軍は知らなかったことを示す資料にもなる。というのも、A図に示した軍事集落跡の特色を有する足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と浮島沼(うきしまぬま)周辺にあるいくつかの軍事集落跡と考えられる遺跡は10年以上も営(いと)まれていたからである。日本防衛軍が呉の遠征軍の台湾沖における壊滅を知っていたならば、足高尾上・浮島沼周辺の軍事集落は10年以上も営まれずに、56年後には呉軍は遠征をあきらめたと判断して日本防衛軍は解散されて集落は廃(はい)されたことになる。だから、日本防衛軍は呉の遠征軍が台湾沖で壊滅したことを知らず、必ず呉の遠征軍は『後漢書』倭伝に記述された「蓬莱の神仙の霊薬がある足高山」に目指して遠征してくるにちがいないと考えて10年余も軍事集落を営んでいたことになる。
 赤壁の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破したゆえ、黄竜2年の1万の東鯷人国遠征軍の戦力は40万の魏の大軍にも勝利する無敵艦隊ということになる。ゆえに、東鯷人国王は呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、独立国をあきらめて倭国の属国になることを決意して、倭女王卑弥呼に倭からの防衛軍の派遣を要請した。したがって、黄竜2年直後に東鯷人国は滅び、日本防衛軍の女王に伊耶那美命が選ばれ、伊耶那岐命が軍王(いくさのおおきみ)に就任し、両人は、Q図に示す小国・日本へ封(ほう)ぜられて高尾山古墳で結婚式をあげて日本国は誕生したことになる。
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◆上記したように、高尾山古墳の墳丘内から出土した土器は2000点に上ったが、西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は含まれていなかったゆえ――沼津市教育委員会は、高尾山古墳の墳丘は西暦230年頃に完成したと推定した。ゆえに、小国・日本の軍王の伊耶那岐命と小国・日本の女王伊耶那美命の結婚式は、結婚式場である高尾山古墳の墳丘が完成した230年直後、多分234年頃におこなわれたことになろう。
 また、C図の左側に示す「230年頃の東海西部系土器」は「黄竜2年・230年の呉の東鯷人国の遠征軍遠征の情報をキャッチして、小国・日本が誕生した」とあらわしていることになる。
 「230年頃の東海西部系土器」が示すように、東海西部・遠江の建比良鳥命とその一族は倭から派遣された小国・日本を防衛するための軍士であった。したがって、卑弥呼の地上絵を作製した建比良鳥命とその一族は日本国誕生史の目撃者であったことになる。
 J図に示した卑弥呼の地上絵西部の「象の顔と鼻の形の地宜」の面積は大きいゆえ、L図に示した「北アメリカ星雲」と不釣り合いとなる。というのも、「象の顔と鼻の形の地宜」には、R図の左図に示す「わし座α星から夏の銀河の西南部」まが範囲となる「巨大な象の顔と鼻の形の銀河」をあらわす役目もあった。ゆえに、卑弥呼の地上絵における「象の顔と鼻の形の地宜」の面積は大きくなったのである。
K564
 
 R図の右図も同じ「わし座α星から夏の銀河の西南部像」までの範囲となる「巨龍の銀河像」である。「巨龍の顔と首がある、夏の銀河の西南部」は〔黄金〕に輝くゆえ、〔黄金」の「黄」と〔巨龍〕の「竜」で「黄竜」という元号をあらわす。だから、卑弥呼の地上絵西部の「象の顔と鼻の形の地宜」は「黄竜2年・230年、呉の1万の水軍が日本列島に所在する東鯷人国へ遠征しようとした直後に、東鯷人国は滅亡して卑弥呼が統治する倭国に属する小国・日本国が誕生した」とあらわしていることになる。
 卑弥呼王朝と日本軍は呉の遠征軍は、紀元前3世紀に徐福一行が不老長寿の霊薬が採集できると思い込んだ蓬莱山・足高山(愛鷹山)へ目指して襲来する可能性が最も高いと予想して、足高山(愛鷹山)を日本軍防衛の軍事基地とした。
 だから、伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場は、『古事記』上巻の淤能碁呂説話の全記事に合致する高尾山古墳であったことになる。

◆これまで解説し証明してきたように、日本国誕生史を後世へ伝えるために、卑弥呼の地上絵には下記の3つの機能が備わった。
 (1)「漢字は銀漢から作られた字」であるから略して「漢字」と称された秘密を伝えてーーJ図に示した卑弥呼の地上絵は、L図の左上端の銀河からR図の右図の「さそり座α星」までが、辞理=文字作成銀河の範囲(上掲した文字作成銀河各部の名称図を参照)であると表示する。だから、卑弥呼の地上絵によって全漢字の字源・字形・字義は文字作成銀河各部の形状であった事実が科学的に証明される。
 (2)卑弥呼の地上絵には、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が表示された。というのも卑弥呼の地上絵の作製目的は、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることであったからである。前述したように、J図の「都田川の沖積平野」が【日本建国の〔愛」の理念】を表示する。
 (3)卑弥呼の地上絵は、小国・日本は呉の黄竜2(230)の呉の1万の遠征軍が足高山(愛鷹山)・浮島原に来襲するにちがいないと――卑弥呼王朝と東鯷人(とうていじん)国王が予想して、伊耶那岐命が日本防衛軍の軍王として伊耶那美命が女王として小国・日本に赴任した歴史を表示する。J図の「象の顔と鼻の形の地宜」とR図に示した「黄金色に輝く巨龍の銀河」が「黄竜2年の1万の呉の日本列島の遠征」をあらわす。
 以上のごとく、『古事記』序の「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河の各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史は解明できる」という説明は事実であったことになる。

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