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2019年10月21日 (月)

#11 邪馬台国説はフェイクであった!

★令和元年1021日の朝日新聞の即位礼の報道はフェイクニュース!

◆当日の朝日新聞の3面の「即位礼の前例踏襲 課題は」と題する記事は完全なる虚偽報道である。
 この記事の副タイトルは「政教分離 残された疑念―剣璽や高御座「宗教的要素」」である。
 しかし、【剣璽や高御座】を「宗教的要素」とする意見(報道)は虚妄(きょもう/デタラメ)である。
 【剣璽と高御座】は正しくは「わが国の繁栄基盤となった上古における学問」を現在に伝える史料であった。
 ゆえに、即位礼正殿の儀について朝日新聞は「宗教的儀式である」と報道するが、即位礼正殿の儀は日本国・日本国民にとって最も重大な学問儀式であったのである。
 即位礼正殿の儀は学問儀式であった証明を、【高御座】で2回に分けて解説した後に、【剣璽】について解説する。

◆令和元年1022日に行われる即位礼正殿の儀は、単なる天皇の即位式ではない。
 卑弥呼や邪馬台国論争で有名な古文献『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は3世紀後半(280289)に中国で著作された。
 『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。
 学者たちは『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて空理空論を立論した。このため、『魏志倭人伝』の実体(全記事に記述された事実)は皆目(かいもく)不明となった。
 学者たちの【誤読の論法】のために不明となった重大な上古の学問の秘密を伝える儀式が、即位礼正殿の儀であったのである。


◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』の(1)500字・約25%の記事は「紀元前3000年ころに生存した中国・五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」について説明する。
 (2)『魏志倭人伝』の約400字・約20%の記事は「紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国は原初漢字の夏音(かおん)文字の学芸が伝来し習得した。ゆえに、わが国には倉頡が発明した漢字作成方法が正確に保存された」と説明している。
 (3)『魏志倭人伝』の後半の「景初(けいしょ)二年六月」という記事から末部までの約600字・約30%の記事は【日本国(小国・日本)誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】の秘密について説明している。

◆【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】は、3世紀前半から後半にかけての歴史を記述した『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話初頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に詳細に記述された。
 ただし、淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を知るには、この説話の5ヵ所に〔音〕という注が付く夏音文字の語の秘密を解明しなければならない。
 『古事記』序(古事記上巻 幷(あわ)せて序)の冒頭と末部は「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の語の秘密を解明すれば、『古事記』上巻に記述された歴史を明確に知ることができる」と解明方法を具体的に明確に伝えている。
 しかし、学者たちは『古事記』序に【誤読】を加えて「夏音文字の語の秘密を解明して歴史を知る方法」を理解せず、排除(はいじょ)・無視する。
 というのも、学者たちは『古事記』序を【誤読】して『古事記』上巻の歴史解明方法を無視して本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著作した注釈書『古事記伝』をテキストとするため、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を読解(どっかい)することができない。

◆即位礼正殿の儀における【高御座】は、上記した『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす装置(調度品)である。
 上記したように、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に詳細に記述されている。

◆九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は約2000字の『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所の記事と関連せず、【倉頡が発明した漢字作成法とわが国における夏音文字の学芸の習得史】を説明し、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を記述した文献である事実は、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に【科学】が成立するように解説し証明した。
 この点に疑問を抱く方は、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆令和元年の即位礼正殿の儀は皇居宮殿・正殿松の間でとり行われる。
 三権の長、皇族、天皇、皇后の順に正殿松の間に参入する。
 天皇が高御座(たかみくら)に、皇后が御帳台(みちょうだい)に昇る。
 参列者が鉦(かね)の合図により起立する。高御座と御帳台の帳(とばり)が開けられる。

◆天皇と皇后が昇る高御座と御帳台の屋根は、共に神輿(みこし)のような構造の八角形となる。
 なぜ「八角形か」と言うと、天皇は古代では「八隅(やすみ)知る天皇(すべらき)」と称されたからである。だから「八角形」は「八隅」をあらわす。

◆ではなぜ、「天皇」は「八隅知る皇(すべらき)」と称されたかというと。
 上記したように、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の約500字・約25%の記事は「倉頡が発明した漢字作成方法」について説明する。
 中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は【漢字作成方法】について、下記のごとく説明する。
 「仰(あお)いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけい)を作る云々(うんぬん)、以下省略」
 上記の文中の「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここに始めて八卦を作る」という文が「八隅知る皇(すべらき)」の「八隅」の語源である。
 つまり「ここに始めて八卦を作る」の「八卦」が「八隅」の語源である。
 字書・辞典では「八卦」は「易(えき/うらない)の判断の基礎となる八つの象(かたち)」と解説するが、この解釈は転義で、「八卦」の原義は「東・西・南・北と東北・西北・東南・西南の八方位」であった。
 「八方位」が「八卦」、「八卦」は「八方位」であるから「八隅」と言われることになったのである。

◆上記した『易経』繋辞下伝の「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここに始めて八卦を作る」という記事は下記のごとく意味した。
 「近くはこれを身に取る」という文は「地平線(水平線)よりも内側にある観測者の近くの土地の緯度と方位〔東・西・南・北〕は、[]の字源・字形をあらわす姿勢になって(つまり身重な妊婦のごとくおなかを前へつきだして)天頂(てんちょう)を仰ぐと[]のキャッチによって取ることができる(正確に測定することができる)」と意味した。
 次の「遠くはこれを物に取る」は「近くはこれを身に取るにおける[]をキャッチして観測地点の緯度と方位の東・西・南・北を正確に測定した天頂緯度線となった銀河部が遠くの地平線(水平線)からの出没方角と、全銀河の帯において最も大きな渦を巻く銀河部(つまり、銀河系宇宙の中心)の出没方角を測量する」と意味した。
 観測地点の緯度を正確に測定できる銀河部位は地平線(水平線)の東北から昇り地平線(水平線)の西北に没する。銀河系宇宙の中心は地平線(水平線)の東南から昇り地平線(水平線)の西南に没する。
 だから、「遠くはこれを物に取る」は「東北・西北・東南・西南の四方位」をあらわすゆえ、「近くこれを身に取る」の「東・西・南・北の四方位」を加える合計は「八方位」すなわち「八隅」となる。

◆銀河系宇宙の中心付近を、原始から現在まで、天の赤道と黄道(こうどう/天球上における太陽の軌道をあらわす大きな円)が通過する。
 天の赤道と黄道における二つの大きな円の交点は春分点・秋分点であり、春分点・秋分点より90度の方向の黄道上に夏至点と冬至点がある。
 したがって、「八隅知る天皇(すべらき)」は「天の赤道と黄道の大円を知る天皇」と意味した。
 円は360度であり、360度÷8(方位)45度となる。円の中心を45度ずつ分割する線は円周上の八つ交点となる。この八つの交点を線で結ぶと「八角形」となる。
 天皇と皇后が昇る高御座と御帳台の屋根の「八角形」は「八隅知る天皇」の「八隅」をあらわし、『易経』繋辞下伝が【漢字作成方法】を説明する記事の文中にある「八卦」をあらわしている。
 だから、高御座に天皇が昇る即位式正殿の儀は「『魏志倭人伝』は倉頡が発明した漢字作成方法を伝える史書である」、言いかえると「九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所も関係しない誤読の空論である」と明示する儀式であったのである。

◆代々の天皇が皇祖・天照大御神(3世紀後半に生存した第10代崇神天皇と崇神帝の生母)の遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)を厳重にまもったため、皇室は滅びず存続した。
 皇祖・天照大御神の遺勅は「皇室が永らく栄えるために、倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸の学問を権力基盤とせよ。この権力基盤の学問に対して、人民にとっては【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが勝(まさ)るゆえ、国中の人民が【日本建国の〔愛〕の理念】をかかげて反乱を起こすと皇室は滅亡する可能性が大となる。だから、絶対に【日本誕生史】は後世に伝わらないように排除(はいじょ)し抹殺(まっさつ)せよ」であった。
 このため、上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚説話をもって【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えた『古事記』は712128日に元明(げんめい)天皇に献上されたが、元明天皇は即座に献呈を拒絶した。
 このため、『古事記』は正史になれず皇室を滅亡させる危険思想を養う禁書となった。

◆次回(12 邪馬台国説はフェイクであった)では、即位礼正殿の儀が学問儀式であると示すため、高御座と御帳台は【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしている実体を解説し証明する。

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