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2019年10月22日 (火)

#12 邪馬台国説はフェイクであった!

★令和元年10月22日の朝日新聞とあさひテレビの即位礼の報道は日本国民を愚弄する誤報なり!

◆当日の朝日新聞の11面の〔「即位の礼」と天皇制〕における「マイノリティーへ配慮を」で意見を述べた塚田穂高大学助教授とあさひテレビの羽鳥モーニングショウに出演した評論家は即位礼正殿の儀を「宗教儀式である」と断定し、「政教分離において問題がある」と主張していたが――この二氏の無知無能・傲慢(ごうまん)は許されない。
 朝日新聞・あさひテレビの「即位礼正殿の儀は宗教儀式」とする意見は空論・虚妄(きょもう/デタラメ)である。
 即位礼正殿の儀は、明確に学問儀式である。
 即位礼正殿の儀が学問儀式である事実は【剣璽(けんじ)と高御座(たかみくら)】によって証明することができる。
 【剣璽と高御座】は「わが国の繁栄基盤となった上古における学問」を現在に伝えている。
 だから、即位礼正殿の儀は「宗教的儀式」ではなく、日本国・日本国民にとって最も重大な学問儀式であった。
 【高御座】が学問儀式をあらわす証明を前回(11)でもおこなったが、前回に続いて今回も解説する。次回は【剣璽】もまた学問儀式をあらわすことを証明する。

◆令和元年1022日に行われる即位礼正殿の儀は、卑弥呼や邪馬台国論争で有名な古文献『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記述された【上古の学問】をあらわす儀式である。
 『魏志倭人伝』は3世紀後半(280289)に中国で著作された。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』の(1)500字・約25%の記事は「紀元前3000年ころに生存した中国・五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」について説明する。
 (2)『魏志倭人伝』の約400字・約20%の記事は「紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国は原初漢字の夏音(かおん)文字の学芸が伝来し習得した。ゆえに、わが国には倉頡が発明した漢字作成方法が正確に保存された」と説明している。
 (3)『魏志倭人伝』の後半の「景初(けいしょ)二年六月」という記事から末部までの約600字・約30%の記事は【日本国(小国・日本)誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】について説明している。

◆学者たちは九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説が【多数の誤読を加えて捏造(ねつぞう)する空理空論】であることにまったく気づいていない。
 九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は『魏志倭人伝』の約2000字の全記事と一ヵ所も関係しない【完全なる誤読の空論】である。
 このため、現在、上記した『魏志倭人伝』が伝える(1)(2)(3)の事実は皆目(かいもく)不明となったため、学者たちによって即位礼正殿の儀と大嘗祭(だいじょうさい)は宗教儀式であると指摘されることになったのである。
 学者たちが【誤読の論法】を駆使(くし)して排除(はいじょ)した(1)(2)の【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸の習得】と(3)の【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式が、即位礼正殿の儀であり大嘗祭であったのである。

◆九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は【誤読の空理空論】であり、【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を記述した文献である事実は、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に明確に解説し証明した。
 この点に疑問を抱く方は、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話初頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に詳細に記述された。
 ただし、淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を知るには、この説話における5ヵ所に〔音〕という注が付く夏音文字で構成される語に用いられる各字の字源・字形・字義の秘密を解明しなければならない。
 『古事記』序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭と末部は「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の語の秘密を解明すれば、『古事記』上巻に記述された歴史を明確に知ることができる」と解明方法を説明する。
 しかし、学者たちは『古事記』序が説明する歴史解明方法の記事を排除(はいじょ)・無視し、【多数の誤読】を加えて『古事記』上巻に記述された歴史を排除し不明にする。
 というのも学者たちは、本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が『古事記』序に書かれた歴史解明方法記事を排除して著作した注釈書『古事記伝』をテキストとするからである。このため、学者たち『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を理解することができない。

◆令和元年の即位礼正殿の儀では、天皇は高御座(たかみくら)に、皇后は御帳台(みちょうだい)に昇る。
 高御座と御帳台の屋根は、共に神輿(みこし)のような構造の八角形となる。
 「高御座と御帳台の屋根の八角形」は『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成方法】をあらわしたことは、前回(11)で解説し証明した。
 「高御座と御帳台の屋根の八角形」は『魏志倭人伝』の後半記事と『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をもあらわした。

◆代々の天皇は皇祖・天照大御神(『魏志倭人伝』が著作された同時代・3世紀後半に生存した第10代崇神天皇と崇神帝の生母)の遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)を厳重にまもったため、皇室は滅びず存続した。
 皇祖・天照大御神の遺勅は「皇室が永らく栄えるために、倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸を権力基盤とせよ。この権力基盤の学問に対して、人民にとっては【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが勝(まさ)るゆえ、国中の人民が【日本建国の〔愛〕の理念】をかかげて反乱を起こすと皇室は滅亡する可能性が大となる。だから、絶対に【日本誕生史】は後世に伝わらないように排除(はいじょ)し抹殺(まっさつ)せよ」であった。
 このため、上巻の淤能碁呂島聖婚説話で【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えた『古事記』は712128日に元明(げんめい)天皇に献上されたが、元明天皇は即座に献呈を拒絶した。
 このため、『古事記』は正史になれず皇室を滅亡させる危険思想を養う禁書となった。

2011730日に発行された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』(幻冬舎ルネサンス発行)で詳細に解説し証明したように。
 徳川家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生を賭けた。
 家康は死去する一年前の1615年に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し、その第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。
 この第一条は「天子(天皇・上皇)はわが国の文化(諸芸術・諸芸能、つまり文化)の生みの親と、皇祖・天照大御神の遺勅の学問(倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸)を第一番に大切にしてください」と意味した。
 『古事記』序(古事記上巻 幷せて序)の初頭部には「陰陽斯(いんようここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文がある。
 この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国の諸芸能(日本文化)の生みの親です」と意味した。
 だから、「禁中並公家諸法度」の第一条の「天子諸芸能ノ事」という文は「天子、わが国の諸芸能の生みの親である伊耶那美命と伊耶那岐命による【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興をお願いします」と意味するものであった。

◆家康が全情熱をかたむけた【日本国誕生史】を復興する心願は天照大御神の遺勅をまもり続ける皇室の方針によって成就しなかった。
 しかし、家康の遺志は将軍と江戸幕府が受け継いで達成する宿題となった。
 将軍秀忠と幕府は京都市に所在する桂離宮(かつらりきゅう)の庭園の平面図に【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】と【倉頡が発明した漢字作成方法】を設計して、第108代の後水尾(ごみずのお)上皇に家康の遺志・心願成就を願った。
 後水尾上皇はいっこうに【日本国誕生史】の復興を承認しなかった。
 幕府は1655年ころから1659年にかけて修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)を造営した。この離宮の大庭園・上御茶屋(かみのおちゃや)は「浴竜池(よくりゅういけ)」という名の池を中心として造られた。
 「浴竜池の平面図」は桂離宮庭園の東北部の大鳥の形をした庭園南部にある「天橋立(あまのはしだて)」の三つの築島(つきしま)周辺を設計するものであった。
 桂離宮離宮の三つの築島周辺は【倉頡が発明した漢字作成方法】をあらわし、また三つの築島周辺から表門にかけての平面図は「日本国(小国・日本)であった東日本(東海東部・関東地方)を象徴する富士山を模(かたど)る設計」となり、そして中央の築島の南面には「蓬莱山」の形に観える「蓬莱岩」を配置して【日本国誕生史】をあらわした。
 (注 【日本国誕生史】を設計する桂離宮の庭園は現在も失われずに保存されている)

 修学院離宮の浴竜池には桂離宮の築島と同じく三つ築島が配置され、北から順に「三保島」、「窮邃島(きゅうすいとう)」、「万松塢(まんしょうう)」という名がつけられた。
 「三保島」は「徳川家康が晩年を過ごした、富士山が見える名所・駿河の三保の松原」に由来し、「窮邃島」の[]の字を用いる「邃古」という語は「上古」を意味したゆえ「上古史を窮(きわ)めれば解明できる日本国誕生史」と意味した。「万松塢」の[]の字は「土手道(どてみち)」を意味したゆえ「幕府の万(多数)の松の木を植える東海道整備事業と示すところの松並木と、【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた伊耶那美命をあらわす土手道」を意味することになった。

◆後水尾上皇は16583月に始めて桂離宮を御幸(みゆき)して見学した。上皇は16633月にも桂離宮を見学した。
 上皇は桂離宮の「蓬莱岩」がある中央築島に相当する修学院離宮の浴竜池に浮かぶ「窮邃島」の建物「窮邃亭」に、陶器で作った扁額(へんがく)を創(つく)って、天照大御神の遺勅を廃して、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興を承認すると表示した。
 上皇が創った扁額は二つの八角形の両端が中央で重なり、八角形の枠(わく)は「四つの富士山を模る台形が連結して八角形」にしたものであった。
 八角形の枠は緑、右側の八角形中央に上皇直筆の[]の字を・左側の八角形中央に上皇直筆の[]の字を配置する。
 二つの八角形が重なり合う箇所は「縦長の六角形の亀甲文(きっこうもん)」となる。この「亀甲文」は桂離宮の「蓬莱岩」と古代絵図「亀の甲羅に乗る蓬莱山」をあらわす。
 扁額の亀甲文の中央には出産祝いに用いられる赤色の水引(みずひ)き文がデザインされ、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 また、八角形の緑色の枠は「万松塢」の「松の緑色の葉」をあらわし、また「桂離宮で有名な笹垣(ささがき)」をもあらわした。
 桂離宮の庭園を見学するときは、桂川の右岸の塢(土手道)を進む。道の右手に竹藪(たけやぶ)の緑色の小竹(こたけ)を折り曲げて編んだ竹の葉が、そのまま壁となる素朴でたいへん美しい生垣(いけがき)が約230メートルつづく。この生垣は「桂垣」または「桂の笹垣」と称されて有名である。笹垣の内側が桂離宮である。
 古図を見ると、桂の笹垣の左側の塢(土手道)はかつて松並木となっていた。だから、修学院離宮の浴竜池に浮かぶ「万松塢」は「幕府がおこなう万(たすう)の松の木を植える東海道の景色」から連想される「桂川の右岸の松並木と笹垣の土手道」を指していたことになる。

◆【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた「13歳で小国・日本の女王となった伊耶那美命」は『魏志倭人伝』に記載された倭国(西日本)の伊耶(伊邪)国で生まれた。
 したがって、小国・日本と倭国の人民は「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい女王」ということで、彼女を「伊耶那美命」と愛称して尊敬したのである。
 「伊耶国」は「旧国の丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)」であった。
 桂離宮の南側は伊耶那美命の生地丹波とつながる旧丹波街道である。
 『古事記』中巻の第9代開化天皇紀は「春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで天下を治めた天皇の正妃は、丹波出身の竹野比売(たかのひめ)であった」と記す。
 (注 開化天皇の居殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」が「若き日の開化帝は伊耶那岐命であった」、「開化帝の正妃の竹野比売は伊耶那美命」であったと伝える)
 だから、伊耶那美命の本名は「竹野比売」であり、日本最古の小説『竹取物語』のヒロイン「竹の筒が生まれたかぐや姫」のモデルであった。
 したがって『竹取物語』は「強大な権力・天照大御神の遺勅によって排除された【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマとする、反権力風刺小説」であったのである。その証拠に、『竹取物語』は最後には「伊耶那美命・竹野比売が女王に就任して赴任した小国・日本(日本国)」を象徴する「富士山」が登場する。

◆伊耶那美命の夏音名(夏音文字の名)は『魏志倭人伝』末部に記載される「壱与(いよ)」であった。
 『魏志倭人伝』の後半から壱与が登場する末部までの約600字・約30%の記事は――倭国の国中の人民は13歳のときに小国・日本の女王となった伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して、卑弥呼の墓を作ったときに百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪して武器を持って倭王朝軍と戦った。この倭国の大乱に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が戦争を挑んできたため、倭王朝は滅亡の危機におちいった。この災厄の原因は「【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた伊耶那美命に全責任がある」と倭王朝は非難し、伊耶那美命は倭女王壱与に就任して大乱を鎮(しず)めまた狗奴国を討伐しなければならないと、倭王朝は命令した――と説明するものであった。

◆以上のごとく、即位式正殿の儀において天皇と皇后が昇る高御座と御帳台は【倉頡が発明した漢字作成方法】をあらわした。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成方法】をあらわすならば、天皇の玉座(ぎょくざ)の高御座の一つの八角形の屋根だけですむ。
 なれど、即位式正殿の儀は修学院離宮の浴竜池の中央に浮かぶ浮島に建てられた窮邃亭にかかげられた二つの八角形の扁額の意匠(いしょう)をもって、後水尾上皇が【日本建国の〔愛〕の理念の復興】を承認したとあらわす儀式でもあった。
 だから、屋根が八角形となる高御座と御帳台に天皇と皇后が昇る即位式正殿の儀は、扁額中央の「赤色の水引き文」が「たくさんの子どもが生まれて国土に人民が満ち満ちあふれる」と表現する【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式でもあったことになる。

◆江戸中期の学者・新井白石(あらいはくせき)が【誤読の空論の九州邪馬台国説と畿内(大和)邪馬台国説】をとなえた以来約300年も経過したにもかかわらず、学者たちは「九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所も関係しない、完全なる誤読の空論」と指摘する学者は一人もいない。
 白石は1725年に没した。
 皇室は『魏志倭人伝』に多数の誤読を加えて捏造(ねつぞう)した空理空論の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説に激しいショックをうけた。
 白石がデッチあげた【誤読の邪馬台国説】は皇室を滅ぼし、日本国を滅ぼし、さらに日本民族は愚弄(ぐろう)されて滅びると激しいショックをうけた皇室は、白石の死後13年後の1738年、天照大御神の「日本国誕生史を抹殺せよ」という遺勅を破棄(はき)して、戦国時代から約220年間中断していた大嘗祭(だいじょうさい)を本格的に復興することにした。

◆令和元年の1114日夕方から翌日未明に、天皇が一代で一度だけ臨(のぞ)む大嘗祭においての中心儀式では――天皇の頭上に御菅蓋(ごかんがい)という王冠をかかげて、白い生絹(すずし)の御祭服(ごさいふく)をお召しになって、葉薦(はごも)の御筵道(ごえんどう)を進む。
 この儀式は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【皇室が天照大御神の遺勅を廃して日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念の復興を承認した事実】を表示するものであった。
 だから、天皇の頭上に高々とかかげられる王冠・御菅蓋の上の大鳥の飾りは桂離宮のおける大鳥の形の庭園に設計された【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】をあらわすデザインであった。
 また、御菅蓋の下の菅笠(すげかさ)は桂離宮庭園にある(1)「蓬莱岩」、(2)月波樓(げっぱろう)北隣に平面図が三角形の庭園、(3)平面図が「乳房を嘗()める乳児の横顔における口部の形」をした庭園池の西岸の南西と大山島西端連結部で表現された【日本建国の〔愛〕の理念】と「大嘗祭」という語の語源をあらわす意匠(いしょう)であった。
 (注 大山島の[]と乳児が母親の乳房を嘗めるの[]を加えると「大嘗」となる)

◆だから、白石の死から約300年間も学者たちが受け継ぎ、朝日新聞やNHKなどのメディアがもて囃(はや)して国中に蔓延(まんえん)拡散(かくさん)させた畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説は皇室を滅ぼし、日本国を衰退させ、「日本国民の頭脳や知性では畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説は誤読の空論である実体がわかりっこない」と日本国民を愚弄する詐欺(さぎ)・ウソ八百であったのである。
 『魏志倭人伝』の後半部の記事と『古事記』上巻に記述された「多数の子どもが生まれて国土に満ち満ちあふれる」とあらわす【日本建国の〔愛〕の理念】は廃(すた)れて、現在、わが国は人口減少・少子化によって国力衰退の坂道を転げ落ちている。
 畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説は皇室を滅ぼし、日本国を壊滅させ、日本国民を愚弄(ぐろう)して騙(だま)して国力を衰退させる祟(たた)りである。
 学者たちが学問を鼻にかけ、朝日新聞やNHKなどのメディアががやがやと言いたてて報道する畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説は日本国民にとって最悪の祟りである。
 だから、「九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は空理空論! 100%デタラメだ!」という事実を暴露(ばくろ)して、邪馬台国説を排除・抹殺する権利を日本国民は有している。
 

◆だから、令和元年1022日の朝日新聞・あさひテレビの即位礼正殿の儀や大嘗祭は宗教儀式と主張した学者と評論家の意見は空理空論、国民を愚弄する傲慢な意見であったことになる。

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