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2019年11月

2019年11月22日 (金)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・5

★#5・なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか

◆このブログが前回(4)までで――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であった――と証明してきた。
 倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、孔子とならぶ中国の二大思想家の老子の教えを説く『老子』、“字書の聖典”と尊重された『説文解字』、『魏志倭人伝』そしてわが国の『古事記』上巻である。

◆大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明(文字の発明)を現在に伝えるビックイベント」であった。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。
 大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀の儀】は【倉頡が発明した漢字作成方法】を現在に伝える儀式であったのである。

◆わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在、世界中で用いられる大半の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされるからである。古代エジプト文字をルーツとする現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは、世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているゆえ、漢字を含むと、世界中で使用されている7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと証明されることになる。
 古代エジプト文字は、紀元前3100年ころ、起源したとされる。
 漢字は紀元前3000年ころに中国に生存した黄帝(こうてい)の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を目的にして、黄帝につかえていた史官(記録官)の倉頡が発明して起源した。
 だから、大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀】は紀元前3100年ころの古代エジプト文字と紀元前3000年ころの漢字は【夏の銀河各部の形状から作られた秘密】を現在に伝える壮大なイベントであったことになる。

◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)に説明されている。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた。この二重の大罪のため、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から倉頡が発明した漢字作成方法を伝える学問が伝来して習得した。この夏音文字によって、倉頡が発明した漢字作成方法が、わが国に保存されることになった。ゆえに、大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを学者たちは読解できず、【誤読】を加えて排除するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は楷書を音符にして表記するが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆倉頡は自らが発明した漢字作成方法が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れることができる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字作成方法を手に入れて革命に利用したならば、王朝は容易に滅亡すると心配した。
 ゆえに、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はじめ一族にも神罰が下って即刻に死刑に処すと定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
(1)
【夏の銀河の各部の形状】から文字が作られたと暴露した者
(2)
文字を容易に習得するために、【夏の銀河の各部】に名称を付けた者
(3)
書いた文字が用済みになったならば、文字を直()ぐに消さない者または消し忘れた者
 上記の(3)の掟は、紀元前1300年ころに出現した殷代(いんだい)後半期の亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた秘密」について現在の学者たちは気づかない。また、点()と点()を結んで作る星座の形は素人(しろうと)にはさっぱりわからない、その星座には名称があるが、(2)の掟によって素人でもその形が容易にわかる【銀河各部の名称】は存在しない。

 中国でもわが国でも(3)の掟は厳重にまもられたため、紀元前3000年ころ~紀元前2080年ころまでの五帝時代の書契(しょけい)、紀元前2080年ころ~紀元前1600年ころまでの夏音文字、紀元前1600年ころ~紀元前1300年ころまでの殷代前半期の原初漢字は、遺跡から文字を記した資料が1点も出土していない。
 倉頡が死刑と定めた三つの掟によって、【夏の銀河各部の形状】が文字(字源・字形・字義)と定められたが――五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字では文字数が少なかったゆえ、(3)の掟は体制維持するためにむしろ好都合でありまた文字を絶対化・神聖化するためにもむしろ好都合であったゆえ、(3)の掟は不便ではなかったゆえ厳重にまもられることになったのである。
 しかし、殷代後半になると1万を超える膨大な文字が作られたゆえ、(3)の掟の保持は不便・不自由となった。ゆえに、王朝体制維持と文字の絶対化・神聖化が図られて文字は亀の甲羅や獣骨などに刻まれることになって、(3)の掟は破られた。
 甲骨文字の以前の五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半期の原初漢字は(3)の掟を厳重にまもり、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】を文字(字源・字形・字義)と定めていた。
 他方、甲骨文字以後の漢字は(3)の掟を破る文字であったが、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】を文字(字源・字形・字義)と定めていた。
 だから、甲骨文字以前の【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とした原初漢字(書契・夏音文字・殷代前半期の漢字)】は【文字】として機能したゆえ、【最古の漢字】は【夏の銀河各部の形状】であったのである。
 したがって、学者たちは【最古の漢字】を【殷代後半の甲骨文字】と定めるが、この定説は空理空論・空想・幻想であったのである。

◆第33代・推古(すいこ)天皇の在位期間は593年~628年までである。
 600(推古天皇8)、推古天皇は隋に使節を派遣した。
 中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には、600年に中国に渡った遣隋使(けんずいし)が隋王朝に下記のごとく述べたという記事がある。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求め得て、はじめて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 この記事は「わが国には仏教の経典に用いる文字(楷書)が無い。ただ五帝時代の倉頡が考案した書契(わが国では「刻木」と称した)と三皇時代の卜筮(占い)に用いる記号の結縄が存在した。仏教を敬うことになり、朝鮮半島の百済から仏教の経典を求め得て、はじめて仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難しい楷書(文字)も存在することになった。これによって、中国の発達した卜筮(易学)を知ることができて、仏教の経典から極めて難しい楷書を解読した巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)は推古天皇王朝の体制者たちに最も信頼されて尊敬されることになった。」と解釈すれば、矛盾点も不合理な点も生じずに【科学】が成立する正しい現代語訳となる。

 ところが、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という空論・幻想を抱くため、「ただ刻木・結縄のみ」という文を「わが国には木を刻む方法や縄を結ぶ方法で、文字に類似する記号や数詞をあらわす原始的な方法があった」と解釈して、「ただ木を刻み、縄を結ぶのみ」と読み下す。
 このブログの初回(1)で指摘したように――3世紀(280年~289)に著作された中国の正史『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は約2000字で構成される。そのうち【1】『魏志倭人伝』冒頭の「倭人は帯方の東南」という文から30ヵ国の小国を説明するまでの約500字・約25%の記事で【倉頡が刻木を考案して、発明した漢字作成方法】を説明し、【2】また『魏志倭人伝』の約200字・約20%の記事は【夏音文字の習得】に説明する記事である。
 そして、『魏志倭人伝』は「卑弥呼(ヒミコ)はじめ人名・小国名・官職名においては夏音文字を当時の中国と朝鮮半島で用いられていた楷書で表記することができた」と記述する。
 ゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説は空想・幻想であり、「ただ木を刻み縄を結ぶだけ」と読んで「記号や数詞をあらわす文字に類似する原始的な方法があった」という解釈は【誤読の空理空論】であったことになる。
 倉頡が作った「書契」は「木に刻むこと」と後世に伝えられた。ゆえに、わが国では「倉頡が考案した書契」を「刻木」と名づけていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述されているとおり、3世紀、わが国では【夏の銀河各部の形状】を観察して夏音文字と楷書を正しく変換できた知識が存在していたので、仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書を【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通した巫覡(巫女と覡)は解読できたのである。
 「文字無し」を「遣隋使が中国に渡った7世紀初頭、わが国にはまったく文字が無かった」と解釈すると――漢字が1字も読めない外国人を集め、難解な漢字を次から次へと羅列(られつ)する仏教の経典の漢字は正しく解読してください――と要求して実験してみれば明白となるように、彼等には仏教の経典の楷書解読はまったく不可能ということになる。
 【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通していた倭の巫女と覡たちは、自分たちを排除しようとする聖徳太子(しょうとくたいし)に対抗して、仏教の経典に羅列されている極めて難しい楷書の解読に挑(いど)んで成功した。
 ゆえに、上記した『隋書』倭国伝の「尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」という記事が伝えるように、時の推古天皇王朝をささえる体制者たちは仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書を解読した巫覡を絶賛して聖徳太子よりも尊敬して最も信頼したのである。

◆『隋書』倭国伝には、隋の煬帝(ようだい)が治めていた大業3(西暦607)、聖徳太子が――「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々(うんぬん))」と書いた文書に対して、煬帝は「蛮夷(ばんい/野蛮な倭国)の書、無礼なる者有り(無礼だ)。ふたたび以聞(いぶん/上表)するな(つまり、天子たる吾に上げてくるな)」と怒った――という記事がある。
 しかし、『隋書』倭国伝は「翌年、煬帝は文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい)を倭国の使者として派遣(はけん)した」とも記述する。
 仏教を重んじていた煬帝は若い時に熱心に学問つまり【夏の銀河から漢字が作られた学問】に励んだ。だから、聖徳太子の書を自分が誤訳したことに気づき、煬帝は倭国の使者に裴清を遣(つか)わしたのである。
 仏教では「日没する」は「死去する」という意味あるゆえ、煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者あり」と怒った。
 しかし、【夏の銀河から漢字が作られた学問】においては「日没する時は日出ずる時より上位」と定めた。というのも、「日没する時から始まる夜間」に【夏の銀河】が出現するゆえ「日没する処は日出ずる処より上位」となり、「日出ずる時から始まる昼間」は【夏の銀河】が見えなくなるゆえ「日出ずる処は日没する処より下位」となるからである。
 したがって、聖徳太子は「日出ずる処(ところ)の下位の倭の天子が、書を日没する処の上位の隋の天子に致す、ご元気ですか、云々」と書いていたことになる。煬帝はこの事実に気づいて、裴清を倭に派遣したのである。

◆推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 この崇仏(すうぶつ)政策において、聖徳太子は大失敗した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつを保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に支援・擁護(ようご)を求めた。だから、蘇我氏は皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を配下にすることができ、にわかに強大な権力を手中におさめることになった。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、蘇我氏に擁護された巫女と覡は百済から輸入した仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡を時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼した事態となった。
 したがって、遣隋使を派遣した600年の直前において、聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡は過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための妨(さまた)げになると考えて排除しようとして、大失敗していたのである。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる体制者たちは「皇室の最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である」と考えた。ゆえに彼等は、巫覡を排除して皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判を、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆以上のごとく、令和元年の大嘗祭は皇室が強大な権力を独占管理して厳重な機密にした【夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわす儀式であったことになる。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆうきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、第40代・天武天皇から始まる大嘗祭の伝統を受け継ぐものではなく、1738(元文3)の第115代・桜町(さくらまち)天皇の時に本格的に復興した時に新しく加わった【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する儀式であった。
 いわゆる【皇祖・天照大御神の遺勅(ゆいちょく/死後に残された勅命)】は――皇室が栄えて永らく存続するために【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理して厳重な機密にせよ。この【夏の銀河から漢字が作られた学問】を滅亡させる妨(さまた)げとなる禍(わざわい)は【日本国(小国・日本)誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】である。ゆえに、【日本国誕生史と日本建国の【愛】の理念】は絶対に後世に伝えないために必ず抹殺(まっさつ)せよ――であった。
 にもかかわらず、17381119日に皇室は皇祖天照大御神の遺勅を破棄して、即位式と大嘗祭で【日本建国の〔愛〕の理念】を復興させることになった経緯は、(1)推古天皇の後を継いだ舒明(じょめい)天皇からの紆余曲折(うよきょくせつ)の歴史と(2)1725年に没した新井白石の【誤読の空論の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説】が関わっている。
 次回からは、舒明天皇以後から桜町天皇の代までの大嘗祭に関する歴史の経緯と新井白石の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説によって【日本建国の〔愛〕の理念】が即位式と大嘗祭で表示されることになった経緯を順次に解説して証明することにする。

 なお、1022日に行われた【即位式正殿の儀】が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式である証明は、わがブログ「邪馬台国説はフェイクであった!」の1回~20回で解説し証明した。「邪馬台国説はフェイクであった!」の12回~20回までは【即位式正殿の儀】は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であることを具体的に解説し証明した。

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2019年11月21日 (木)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・4

★#4・大嘗宮の建物によって、大嘗祭は学問儀式であったと証明できる

◆このブログが前回(3)までで証明したように――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であったと考えるべきことになる。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧(ていねい)に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が廻(めぐ)ってきて、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。

◆倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。
 この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、孔子とならぶ中国の二大思想家の老子の教えを説く『老子』、“字書の聖典”と尊重された『説文解字』、倭女王卑弥呼が登場する『魏志倭人伝』、そしてわが国の『古事記』上巻である。
 大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明の秘密を現在に伝えるビックイベント」であった。
 わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在、世界中で用いられる大半の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされるからである。古代エジプト文字をルーツとする現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは、世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているゆえ、漢字を含むと、世界中で使用されている7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと証明されることになる。
 古代エジプト文字は、紀元前3100年ころ、ちょうどエジプト第1王朝が始まる少し前に、起源したとされる。
 漢字は紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を作成目的にして、黄帝につかえていた史官(記録官)の倉頡が発明して起源した。

 だから、大嘗祭は紀元前3100年ころから始まる古代エキプト文字と紀元前3000年ころから始まる漢字は【夏の銀河各部の形状から作られた】という秘密を、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】で現在に伝える壮大なイベントであったことになる。


◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)が説明する。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】に記述された【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問の説明】を学者たちが正確に読解(どっかい)できず、彼等は【誤読】を加えて排除・否定する。
 【古事記上巻 幷わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は、(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた――この二重の大罪のため、元明(げんめい)天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から原初漢字の夏音(かおん)文字の学問が伝来して習得した。この夏音文字によって、倉頡が発明した漢字作成方法が、わが国に保存されることになった。ゆえに、大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを読解できず、【誤読】を加えて排除・否定するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注をつけて楷書を音符にして表記したが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。
 ゆえに、【古事記上巻 幷わせて序】は人類史上(学問史)にとって極めて重大な史料・証言ということになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は地平線上に現われるときには【夏の銀河の東端】となり、このブログの冒頭で指摘したように大嘗祭が開始された時の最も高い天体部に登る【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の北端】となる。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの【天皇陛下の額(ひたい)に相当する人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)は銀白色】に輝くゆえ「銀河」と呼ばれた。
 「北天の最輝部」は国際的天文学の用語であり、「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」であり、【人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の額(ひたい)の部分】にある。【人の横顔に酷似する銀河】は「白鳥座のγ星()からβ星()の中間」にある。「北天の最輝部」は「白鳥座γ星()からη星()の中間」にある(白鳥座β星はη星の南にある)
 【北天の最輝部を含める、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は全体的に「milky(ミルキー・母乳)のように白く輝く銀河」である。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「両翼を含まない、白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」である。ということは「鳥の頭から尾まで形をした星座が漬かる銀河が白く輝く」ゆえ、その星座は「白鳥座」と名づけられたと考えるべきことになる。
 テレビの画面に映されたように、大嘗祭において天皇陛下が最も神聖な色とされる【白色の祭服(さいふく)】につつまれ、皇后雅子さまが【白色の十二単(ひとえ)姿】になった。この秘密は、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】がmilky(母乳の色)のごとく【白色】に輝いているからであったのである。

◆わが国の中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、「学問」の[]の字について「もと屋上に千木(ちぎ)のある建物の形で、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)。卜文(注 甲骨文字)にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築と似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」と指摘する。
 したがって、[]の甲骨文字の字形はわが国の神社建築に相似すると同様に、テレビの画面に映されたように大嘗宮の建物にも相似する。ゆえに、大嘗宮の柴垣で囲まれた大小30余りのバラック建ての建物は「【夏の銀河各部の形状】から作られた漢字の字源・字形・字義を学ぶ校舎」であったことを現在に伝えているものと考えられる。
 三日月の夜の暗い場所から観察すると漢字の字源・字形・字義となる【夏の銀河各部の形状】が最も明確に見える。
 ところが、夜も明るい灯りがともされる皇居では瞳孔(どうこう)が縮小されるため、字源・字形・字義となる【夏の銀河各部の形状】をキャッチすることができない。
 だから、「【夏の銀河各部の形状】を字源・字形・字義とする漢字の学問を学ぶ校舎」は、瞳孔が拡大されて【夏の銀河各部の形状】がよく見える皇居から離れた人工灯火の影響がない人里離れた地に建てられた。
 ゆえに、大嘗宮の廻立殿(かいりゅうでん)・悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)などの建物は、「【夏の銀河各部の形状】を字源・字形・字義とする漢字の学問の校舎」をあらわすものであったにちがいない。
 テレビ画面に映った大嘗宮の入り口の「樹皮をつけたままの黒木の鳥居の門」は「皇室が独占管理して厳重な機密とした【夏の銀河各部の形状】から漢字が作られた学問を学ぶ学校の正門」をあらわしていると考えられる。
 令和元年の大嘗祭における悠紀殿と主基殿にも白川静著『字統』の[]の字源解説文に登場する「千木」が設置されていた。だから、悠紀殿と主基殿は「皇室が独占管理して厳重な機密とした【夏の銀河各部の形状】から漢字が作られた学問を学ぶ校舎の様子」を現在に伝えているにちがいない。

◆このブログが前回(3)までで指摘してきたように――令和元年1114日の午後6時半ころから始まったとき、大嘗宮の天頂付近に【白く輝く天皇陛下の供饌の儀における所作の銀河】が廻(めぐ)ってきていた。【天皇陛下の供饌の儀】の進行に呼応(こおう)して、天皇陛下が主基殿で供饌の儀を終了した15日未明の午前4時には、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は北北西に地平線に没した。
 前回のブログ(3)で指摘したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端】は【人の正面形に相似する銀河】であり、この銀河を私は【十字の銀河】と名づけた。
 大嘗祭が始まった14日の午前6時半、【十字の銀河】(天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端)は大嘗宮の天頂近くの高度80度~70度の位置に廻ってきて、【十字の銀河】は「地面に立つ人の正面形」に相似した――この【十字の銀河】が大嘗宮の真上に【廻る】と、【十字の銀河】が「地面に【立つ】人の正面形になる」ことから、大嘗宮の中核建物は【廻る】・【立つ】が合体して「廻立殿」と名づけられたにちがいない。

 【天皇陛下の供饌の儀】は五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を祈る儀式とされた。
 【天皇陛下の供饌の儀】では「供饌から三つのお供え物の食べ物を選んで、丁寧に【皿】に入れる所作が1000回余も繰り返された。
 もしも五穀豊穣に恵まれずに飢饉となった時には、皿は不用・無用の食器となる。
 日々国民が三度の食事を取るには、一日三食365日は1095回の皿を使う食事となるゆえ、天皇陛下は大嘗祭において、供饌から三つのお供え物の食べ物を箸に摘まんで丁寧に皿に入れる所作を1000回余も繰り返したのである。

 以上のごとく、このブログの冒頭で指摘した――大嘗祭が始まった14日の午後6時半、大嘗宮の天頂(高度90)~高度60度に存在した【白い、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭の進行に呼応して翌日未明の午前4時に北北西の地平線に没するまでの様子で、「大嘗祭は紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと伝える学問儀式である」と現在に伝えていたことになる。

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2019年11月20日 (水)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・3

★#3・大嘗祭に【白く輝く、天皇陛下の供饌の儀の銀河】と【采女の銀河】

◆このブログが前回(2)まで証明したように――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であった。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。

◆倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、『老子』、『説文解字』、『魏志倭人伝』そしてわが国の『古事記』上巻である。
 大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明を現在に伝えるビックイベント」であった。
 わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在世界中で用いられる7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされ、現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているからである。

◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)に説明されている。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた。この二重の大罪のため、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から倉頡が発明した漢字作成方法を伝える学問が伝来して習得した。大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを学者たちは読解できず、【誤読】を加えて排除するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前々回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は楷書を音符にして表記するが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は地平線上に現われるときには【夏の銀河の東端】となり、このブログの冒頭で指摘したように大嘗祭が開始された時の最も高い天体部に登る【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の北端】となる。
 上記したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの【天皇陛下の額(ひたい)に相当する人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)は銀白色】に輝くゆえ「銀河」と呼ばれた。
 【北天の最輝部を含める、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は全体的にmilky(母乳)のように白く輝く。ゆえに、前回のブログでも指摘したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は英語「the Milky Way」すなわち「ミルキー・ウエイ」すなわち「銀河」の語源をあらわす「母乳(ミルキー)のように白く輝く銀河」であったことになる。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「両翼を含まない、白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」である。ということは「鳥の頭から尾まで形をした星座が漬かる銀河が白く輝く」ゆえ、その星座は「白鳥座」と名づけられたと考えるべきことになる。
 大嘗祭において天皇陛下が最も神聖な色とされる【白色の祭服(さいふく)】につつまれ、皇后雅子さまが【白色の十二単(ひとえ)姿】になったのは、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が「白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」であるゆえ、つまり白色に輝いているからであったのである。

◆各テレビ局・各新聞社は「大嘗祭は五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を祈り、新穀を供えて天皇陛下自らも食す儀式」であると伝えた。
 【大嘗祭において、天皇陛下が供饌から三つずつお供え物を選んで箸で摘()まみ丁寧に小皿に入れる合計1000回余おこなわれる所作】は【五穀豊穣】をあらわしていた。
 前回のブログで証明したように――テレビ各局や新聞各社が報道した「悠紀殿・主基殿の内部イメージ図」における【悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)の内部に配置されている、長方形の寝座(しんざ/神座)】が【国家安寧】をあらわした。
 というのも、大嘗祭は天武天皇から始められたと伝えられ、【古事記上巻 幷わせて序】には――天武(てんむ)天皇が歴史書(『古事記』)作成の企てを述べた時の言葉が記載されており、天武天皇は「国家組織の根本原理」を「邦家(ほうけ)の経緯」と表現した――と記述されているからである。悠紀殿・主基殿に設置される【長方形の寝座】は南北(経度線に沿って)に長く東西(緯度線に沿って)に短い長方形となるゆえ、天武天皇の「邦家の経緯」の「経緯」つまり「経度線と緯度線」をあらわした。
 紀元前2070年~紀元前2050年ころにわが国が習得した夏音文字の学問の天文地理学によって「天文の経度線・緯度線と地理の経度線・緯度線」を精確に測量する学術が完成し、皇室が独占管理して厳重に機密保持(きみつほじ)していた。天武天皇は【天文の経度線・緯度線と地理の経度線・緯度線を精確に測量する学術】を「国家組織の根本原理」と考えて「邦家の経緯」と表現した。
 だから、【長方形の寝座】は「邦家の経緯」すなわち「国家の経緯」をあらわした。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]の字について「夢は夢魔(ゆま)。夢魔に侵されて寝臥(しんが)する意である」と解説し、さらに「病気は夢、すなわち媚蠱(びこ)とよばれる呪霊(じゅれい)のなすわざとされた」と解説する。
 「国家の経緯」をあらわす【長方形の寝座】は[]の字源・字形・字義をあらわした。
 なぜならば【夏の銀河各部の形状から作られた漢字の学問】においては「地震・洪水(台風)・旱魃(かんばつ/日照り)など、飢餓(きが)や戦争や乱などの禍災(かさい/わざわい)は夢魔すなわち媚蠱とよばれる呪霊のなすわざ」と考えられていたからである。
 「邦家(国家)の経緯」をあらわした【長方形の寝座】は「すっかり呪霊を失った媚蠱の呪霊が病んで臥すベット(寝台)」でもあったのである。
 【夏の銀河各部の形状から作られた漢字の学問】では「媚蠱が病んで寝床に臥してすっかり呪霊を失うと、地震・洪水(台風)・旱魃など、飢餓や戦争や乱などの禍災(かさい)が起らない」と考えられていたゆえ、【長方形の寝座】は「媚蠱が病んで臥す寝台」をあらわすゆえ「国家安寧」をあらわした。

◆紀元前3000年ころの五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)は女性生殖器と子どもの出産の医学を研究した。ゆえに、黄帝につかえる倉頡は黄帝の医学研究をあらわすことができる文字の作成を目的にして、【夏の銀河各部の形状】から漢字を作成する方法を発明した。

 【天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端】にある銀河を、私は【十字の銀河】と名づけた。
 【十字の銀河】は【人の正面形に似る銀河】であり、「西側半分はおなかが大きな妊婦の姿に相似し、東側半分が左手に弓を持つ男性の姿に相似し、この男女半身ずつの銀河は合体して人の正面形・背面形」に相似する。
 倉頡は【西側半分が妊婦の姿に相似する、十字の銀河】を【夏の銀河各部の形状から作ったすべての漢字を生む母体】と定めた。
 【十字の銀河】の西隣は【子どもの姿に似る銀河】があり、この銀河の子どもの頭には一本の角(つの)が生えているゆえ、私は【鬼の姿に似る銀河】と名づけた。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河において、天皇陛下が箸を持つ右手の指の部分となる、鬼(子ども)の姿に似る銀河における横顔】には【はっきりと、両目の形をした銀河部】がある。
また【鬼(子ども)の横顔後頭部とアゴ】にも〔目〕にそっくり形がある。ゆえに、倉頡は【鬼(子ども)の姿に似る銀河】に見立てられて「四つ目の怪人・倉頡」と後世に呼ばれた。
 【四つ目の怪人、鬼(子ども)の姿に似る銀河】は[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[(べん)]の字源・字形・字義となり、[子]の字源・字形・字義となった【鬼(子ども)の姿に似る銀河】と合体して[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[]の字源・字形・字義となり、[]の字源・字形・字義の【鬼(子ども)の姿に似る銀河】とともに、倉頡が発明した漢字(文字)作成方法をあらわした。
 つまり、黄帝の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を目的した倉頡は「【十字の銀河】を【母体】にして、【鬼(子ども)の姿に似る銀河】を【出産する子ども】に見立てるようにすれば、【夏の銀河各部の形状】から黄帝の医学研究を後世に伝えることができる多数の文字を生む(作る)ことができる」という漢字作成方法を発明したのである。

◆大嘗祭では、【十字の銀河】は「供饌」つまり「全国から選んで神々に供える食べ物」に見立てられた。

そして、「洪水や日照りの災い・不順な天候をもたらす魔女」が【十字の銀河の腹部に隠れて棲む媚蠱】であった。
 出産期において、胎児の頭が骨盤出口に近づくと、母体の直腸を圧迫するので自然に怒責(どせき/いきみ、きばる行為)がおこり、母体の腹圧が加えられる。この腹圧を邪魔して子どもを死産させるのが【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱】であると考えられたのである。この解釈がさらに発展し、【十字の銀河の腹部に棲んで〔腹圧〕をあらわす媚蠱】は「洪水や日照りや戦争や乱などの禍災(わざわい)を起こす」と、漢字学では解釈されるようになった。
 「国家安寧」の[(ねい)]と類似する字に、[(ねい)]という字がある。
 []の最上部の[]の字源は【十字の銀河】であり、中央の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の心臓】であり、最下部の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の心臓がある胸骨の中ほどに、皿のごとくくぼんだ部分の鳩尾(みぞおち)】である。「鳩尾」は「胃の真ん中」にあたる。
 要するに、[]の最下部の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の胃に相当する銀河部】であった。
 []に類似する[][]より下の[][][]で構成される3字の字源は【人の姿に相似する、十字の銀河の胃に相当する銀河部】であった。
 【十字の銀河の腹部の胃の箇所】に「幽(かす)かに左右の眉(まゆ)と左右の目に見える銀河部」が【媚蠱の銀河】(媚蠱の両眉と両眼)である。
 【媚蠱の両眉と両眼の銀河部】の中央に、倉頡が「すべての漢字を生む子宮」と定めた【十字の銀河の子宮(子宮に相当する箇所の銀河部)】がある。
 【十字の銀河の子宮】の西隣は【媚蠱が棲む、十字の銀河の腹部】から垂れる【点々と並ぶ、その点と点をつなぐと線となる、三本線の銀河部】である。だから「線となる点々と並ぶ、その三粒(三点)の食べ物を盗んで魔力を有する【十字の銀河の腹部】に隠れて棲む魔女」が「五穀不作と国家に災害や戦乱をもたらす媚蠱」であった。
 ゆえに、飢えて体力が衰え病み伏すようにして媚蠱の呪力をことごとく奪うために、天皇陛下は供饌から媚蠱が食べる三粒の食べ物を箸で摘まんで横取りして皿に入れる所作を1000回余も丁寧に繰り返して五穀豊穣と国家安寧の儀式をおこなったのである。
 したがって、【天皇陛下が供饌から三粒を選んで箸で摘まんでお供えの食べ物を入れる皿】は、[]の字源【十字の銀河の胃】と[]の字源【鬼(子ども)の姿に似る胃】が示すように、「五穀豊穣によって国民が日々食物を胃に入れることができる吉なる(日々平穏な)状況をあらわすための皿」であった。
 以上のごとく、天皇陛下は供饌から三つの食べ物を分けて皿に入れる所作を1000回余も【丁寧に行ってこそ】、五穀豊穣と国家安寧が成就することになったのである。

◆人間の目は自動露出カメラのごとく、本人の意志にかかわりなく、明るさに応じて虹彩(こうさい/絞り)が縮小・拡大し、瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)は明るいところでは1.52mmに縮小し、暗闇では78mmくらいまで拡大する。
 最大に瞳孔径が拡大する暗闇から【夏の銀河各部の形状】を観察すると、【全漢字の字源・字形・字義】をキャッチすることはできない。
 夜間に明るい灯火が灯される皇居では瞳孔径が縮小するため、もちろん【全漢字の字源・字形・字義】をほとんどキャッチできない。
 【夏の銀河の各部における字源・字形・字義の形状】は、三日月の夜に暗い場所で観察すると最も良く見える。

 倉頡は「【夏の銀河各部の形状】から作られた全漢字が生まれる子宮」を【十字の銀河の子宮(子宮に相当する箇所にある銀河部)】と定めた。
 【十字の銀河の子宮】は三日月の夜に見える「媚蠱の鼻(両眉・両眼の中央の鼻)」となる。
 「媚蠱の鼻」となる【十字の銀河の子宮】を「女性生殖器の子宮と産道」と見立てると、【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱の両眉】は「女性生殖器の卵管采(らんかいさい)の形」、【十字の腹部に棲む媚蠱の両眼】は「女性生殖の卵巣(らんそう)の形」に観える。
 「卵管采」は「卵管腹腔口(らんかんふくこうこう)の周りにある房状の突起物」であり、「卵巣」は「卵子(らんし)をつくる器官」である。
 女性生殖器を図示する書物で調べれば――「卵管采」は「卵巣」を【撫でる】かのごとく形状となる。
 [撫でる][]の字源を、『説文解字』は「安(やす)んずるなり」と解説する。

三日月の夜の【十字の銀河の胸部の右(西)の胸部】には「M39」と呼ばれる肉眼で見える散開星団(さんかいせいだん)が重なる。
 三日月の夜に見える「M39」の形は【三日月】と【半月】の合体形となる。つまり、上部が【三日月】の形、下部は【半月(半円)(円弧を上・下部が直径となる【半円】)となり、上部の【三日月】と下部の【半月】の合体形となる。
 【十字の銀河】は「木」にも観えるゆえ、「M39」を「木(【十字の銀河】)になる果物」に見立てると、「【鬼(子ども)の姿に似る銀河の右手の銀河部】(39から鬼(子ども)の横顔の額に垂れる「右手」に観える帯状の銀河部)が、果物(39)をもぎとる」ように観える。
 『説文解字』は[]の字源を「捋取(らつしゅ)するなり」と解説する。「捋取」は「采取(さいしゅ)」と同義で「木の実をもぎとる」という意味である。
 したがって、[]の字源は【M39と鬼(子ども)の右手の銀河】であったことになる。
 また、上記したように、[]の字源は【女性生殖器の左右の卵管采に見立てられた、媚蠱の両眉】であったことになる。
 テレビ局と新聞社は「大嘗宮における悠紀殿と主基殿の内部には、〔天皇の給仕に当たった後宮(こうきゅう)の女官の【采女(うねめ)】〕が控えていたと推測される」と指摘した。
 【采女】の役割は[]の字源「安んずるなり」をもって「天皇陛下の供饌の儀における【国家安寧】の[]の祈りを協力することであったのである。
 【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱】の[]は「女性の三ヶ月のごとく細い眉」をあらわし、「三日月の夜、【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱の眉は三日月の形】をしているゆえ、禍災(わざわい)をおこす魔力(呪力)がある」とされたのである。
 [媚蠱][]は「密集して多数が集まる天蚕(てんさん/ヤママユ)」であると推測される。
 というのも、天蚕(ヤママユ)や蚕(カイコ)の胸脚と腹脚の中間の背中には「半月状の斑紋(はんもん)」があるゆえ、三日月よりさらに月の形が太くなって半月になると少しだけ明るくなって、【十字の銀河】は白く輝いて形が変わるからである。
 半月の夜の【十字の銀河】は全体的に白く輝き、「白く輝く胸部の両手の部分(十字形)の下部(南部)は、幽(かすか)かに見える亀の顔と両足と甲羅に乗る蓬莱山(ほうらいやま)の形」(古代絵図で有名な蓬莱山)となる。
 だから、半月の夜において、【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱の両眉と両眼】は「蓬莱山」の形の一部となって消滅する。
 しかし、【M39】は【媚蠱の両眉と両目】に変化し、【M39】の西側(右側)に【媚蠱の両眉と両眼】が現れる。これゆえ、半月の夜に見える【M39の眉と眼とM39の西側の眉と眼をもぎ取る】ために、悠紀殿と主基殿の内部に【采女】が控えていたことになる。

◆倉頡は「五穀」を代表する「イネ」を意味する[()]の字を作った。
 五帝時代、【十字の銀河】と【鬼(子ども)の横顔の銀河】が中国の各地の天頂にめぐってきて、中国の各地の緯度が測量できる羅針盤となった。イネは中国の南部が育成適正地域であったゆえ、倉頡は[]の字形について「【十字の銀河の南部(両股)】からイネの穂は【鬼(子ども)の横顔に似る銀河の開いた口と舌】がある方へ垂れる形にする」と定めた。
 ゆえに、「[禾(イネ)]の穂を【鬼(子ども)の横顔に似る銀河の口・舌】が嘗()める形状」が[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[]字形であるゆえ[]の字源となった。ゆえに、[]の【十字の銀河】と[]の字源【禾の穂を嘗める鬼(子ども)の横顔の口と舌の銀河】が「大嘗」の語源となった。
 【采女】は神道とは無関係である。だから、大嘗祭は〔【夏の銀河各部の形状】から漢字を作成する方法をあらわす学問儀式〕であった。
 []の字源「女性生殖器の卵管采」は「媚蠱の両眉を消滅させて、媚蠱の呪力を滅ぶす」と解釈され、また、[]の字源・字形・字義は【木の実をもぎ取るような形の、M39と鬼(子ども)の右手の銀河】であった。
 ゆえに、天皇の給仕に当たった後宮の女官の【采女】は、大嘗祭と密接に関わると解釈されて、【采女】は天皇陛下の供饌の儀の協力者に選ばれることになったのである。
 以上のごとく、大嘗祭はすべて【夏の銀河各部の形状】があらわす漢字の字源・字形・字義にもとづいて成立する。ゆえに、大嘗祭は宗教的儀式ではなく、学問儀式であった。

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2019年11月19日 (火)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・2

★#2・大嘗祭に【白く輝く、天皇陛下の供饌の儀の銀河】

◆令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わる大嘗祭(だいじょうさい)を報道した全テレビ局・全新聞社は、学者たちの「大嘗祭は宗教的儀式である」と主張する空想・幻想を信じて誤報・虚報を報道して大失敗した。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上に(高度60度~90度の天頂にかけて)【天皇陛下の供饌の儀でおこなう所作ソックリの銀河】が存在したからである。この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭の本質と実体を明確に示した。つまり、大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではなかった。
 だから、テレビ局各社はテレビの画面に――大嘗祭が始まる午後6時半の【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が、大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没するまでの運行の様子――を映せば、国民は「大嘗祭は宗教的儀式である」という意見が空想・幻想であることを察知した。だから、全テレビ局の大嘗祭の報道は大失敗したことになる。

 同様に、新聞社各社も【天皇陛下の供饌の儀でおこなう、供饌からお供え物を三つずつ選んで小皿に入れる合計1000回余も丁寧(ていねい)に繰り返して行う所作の銀河】の形と運行の様子を示す図を掲載すれば、国民は「大嘗祭は宗教的儀式である」と主張する学者たちの意見は空想・幻想であることを察知することができた。

◆各テレビ局・各新聞社は「大嘗祭は、天皇陛下が新米などを神々に供え、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を祈る儀式である」と報道した。
 ゆえに、賢明な国民は「大嘗祭でおこなった天皇陛下の供饌の儀の様子」から「大嘗祭は五穀豊穣の儀式である」と何となく推測したにちがいない。
 この推測は正しく、天皇陛下の「供饌からお供え物を三つずつ選んで小皿にいれる合計1000回繰り返す【丁寧な所作】」が「国家安寧」をあらわしていた。なぜならば、「丁寧」の[]の字は「国家安寧」の[]の字であるからだ。

◆前回(1)のブログで説明したように、全漢字は天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」から作られた。
 【夏の銀河】は要するに「銀河」と呼ばれた。
 大嘗祭が始まる14日の午後6時半、天頂近くにあった【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河】の一部、つまり【夏の銀河の北端】が【天皇陛下の供饌の儀の銀河】であった。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は白く輝いている。詳しく言うと、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの一部の【天皇のお顔の額(ひたい)中央に相当する箇所にある、北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)は銀白色】に輝き、【天皇陛下が箸を持つ右手に相当する銀河周辺一面は白色】に輝いている。だから、【天皇陛下の供饌の儀の銀河の一部、銀白色に輝く北天の最輝部】が代表して【夏の銀河】は「銀河」と呼ばれることになったのである。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して「漢字」と名づけられた。だから、全漢字は【夏の銀河の各部の形状】から作られた。言いかえると、全漢字の字源・字形・字義は【夏の銀河の各部の形状】から成立するものであった。
 上記したように、1114日の午前6時半から翌15日の未明午前4時ころに終了した大嘗祭において、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は14日の午後6時半では最も高い天空の天頂付近(高度90度~60度まで)に位置し、15日の午前4時ころには北北西の地平線に没して姿を消した。
 だから、大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀の進行】に呼応(こおう)して運行した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「大嘗祭はすべての漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた学問の秘密をあらわす儀式であって、宗教的儀式ではない」と示すものであったのである。

◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が考案した書契(しょけい)から7世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書までの全漢字は【夏の銀河の各部の形状】から作られた事実」を表示するものであった。
 この「【夏の銀河各部の形状】から全漢字が作られた事実」はこの事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、この【誤読の空論】によって未だに解明されていない。〔この古文献の代表的な書物は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、『老子』、『説文解字』、『魏志倭人伝』そしてわが国の『古事記』上巻である〕。
 大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明を現在に伝えるビックイベント」であった。
 わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在世界中で用いられる7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされ、現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているからである。

◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)に説明されている。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた。この二重の大罪のため、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から倉頡が発明した漢字作成方法を伝える学問が伝来して習得した。大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを学者たちは読解できず、【誤読】を加えて排除するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は楷書を音符にして表記するが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆地平線上に現われる【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の東端】となり、上記したように大嘗祭が開始された時の最も高い天体部に登る【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の北端】となる。
 上記したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの【北天の最輝部は銀白色】に輝き、【天皇陛下が箸を持つ右手に観える銀河周辺が白色】に輝くゆえ、【夏の銀河】は要するに「銀河」と呼ばれた。
 また前回のブログでも指摘したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、英語「the Milky Way」すなわち「ミルキー・ウエイ」すなわち「銀河」の語源をあらわす「母乳(ミルキー)のように白く輝く銀河」であったことになる。というのも、【天皇陛下が箸を持つ右手に観える銀河周辺の銀河】がmilky(母乳)のように白色に輝いているからである。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「両翼を含まない、白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬()かる銀河」である。ということは「鳥の頭から尾まで形をした星座が漬かる銀河が白く輝く」ゆえ、その星座は「白鳥座」と名づけられたと考えるべきことになる。
 大嘗祭において天皇陛下が最も神聖な色とされる【白色の祭服(さいふく)】につつまれ、皇后雅子さまが【白色の十二単(ひとえ)姿】になったのは、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が「白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」であるゆえ、つまり白色に輝いているからであったのである。

◆上記したように、【大嘗祭に、天皇陛下が供饌から三つずつお供え物を選んで箸で摘()まみ丁寧に小皿に入れる合計1000回余おこなわれる所作】から、【供饌】は【五穀豊穣】をあらわすと察知できる。
 しかし、【国家安寧】については「【五穀豊穣】ならば【国家安寧】につながる」と類推(るいすい)できても、明確には理解できない。
 テレビ各局や新聞各社は、「悠紀殿・主基殿の内部イメージ」を示す図を提示した。
 「悠紀殿・主基殿」の内部にある【長方形の寝座(しんざ/神座)】が【国家安寧】をあらわした。
 【古事記上巻 幷わせて序】には――天武(てんむ)天皇が歴史書(『古事記』)作成の企てを述べた時の言葉が記載されており、天武天皇は「国家組織の根本原理」を「邦家(ほうけ)の経緯」と表現した――と書かれている。
 大嘗祭は天武天皇から始められたと伝えられている。
 悠紀殿・主基殿に設置される【寝座】は「経度線・緯度線」に明確に示されて南北(経度線に沿って)に長く東西(緯度線に沿って)に短い長方形となる。天武天皇の「邦家の経緯」の「経緯」は「経度線と緯度線」を意味したのである。
 紀元前2070年~紀元前2050年ころに習得された夏音文字の学問の天文地理学によって「天文の経度線・緯度線と地理の経度線・緯度線」を精確に測量する学術が完成し、皇室が独占管理して厳重に機密保持(きみつほじ)していた。天武天皇は【天文の経度線・緯度線と地理の経度線・緯度線を精確に測量する学術】を「国家組織の根本原理」と考えて「邦家の経緯」と表現したのである。
 ゆえに、【長方形の寝座】は「邦家の経緯」すなわち「国家の経緯」をあらわした。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]の字について「夢は夢魔(ゆま)。夢魔に侵されて寝臥(しんが)する意である」と解説し、さらに「病気は夢、すなわち媚蠱(びこ)とよばれる呪霊(じゅれい)のなすわざとされた」と解説する。
 “字書の聖典”と古代の人々が尊重した、【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた学問】に精通していた2世紀前半に生存した中国の文字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字について「病みて臥するなり」と解説する。
 「国家」をあらわす【長方形の寝座】は[]の字源・字形・字義をあらわした。
 つまり【夏の銀河各部の形状から作られた漢字の学問】においては「地震・洪水(台風)・旱魃(かんばつ/日照り)など、飢餓(きが)や戦争や乱などの禍災(かさい/わざわい)は夢魔すなわち媚蠱とよばれる呪霊のなすわざ」と考えられていたのである。
 「邦家(国家)の経緯」をあらわした【長方形の寝座】は「すっかり呪霊を失った媚蠱の呪霊が病んで臥すベット(寝台)」でもあったのである。
 【夏の銀河各部の形状から作られた漢字の学問】では「媚蠱が病んで寝床に臥してすっかり呪霊を失うと、地震・洪水(台風)・旱魃など、飢餓や戦争や乱などの禍災(かさい)が起らない」と考えられていたゆえ、【長方形の寝座】は「媚蠱が病んで臥す寝台」をあらわすゆえ「国家安寧」をあらわすことになったのである。

◆紀元前3000年ころの五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)は女性生殖器と子どもの出産の医学を研究した。
 五帝時代以前の三皇(さんこう)時代では、易(えき)に用いる記号が考案されていたが、黄帝の医学研究をあらわすことができる文字は発明されていなかった。
 ゆえに、黄帝につかえる倉頡は黄帝の医学研究をあらわすことができる文字の作成を目的にして、【夏の銀河各部の形状】から漢字を作成する方法を発明した。

 【天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端】にある銀河を、私は【十字の銀河】と名づけた。
 【十字の銀河】は[][][]と「五穀豊穣」をあらわす[()](五穀)[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は【人の正面形に似る銀河】であり、「西側半分はおなかが大きな妊婦の姿に相似し、東側半分が左手に弓を持つ男性の姿に相似し、この男女半身ずつの銀河は合体して人の正面形・背面形」に相似する。
 このような【十字の銀河】は五帝時代の中国各地の天頂にめぐってきて、緯度と経度を正確に測量できる羅針盤となった。ゆえに、【十字の銀河】は「国家安寧」の「国家」をあらわした。
 倉頡は【妊婦の姿に相似する、十字の銀河】を【夏の銀河各部の形状から作ったすべての漢字を生む母体】と定め、また【十字の銀河】を「黄帝」に見立てたゆえ、【十字の銀河】は[]の字源となった。
 【十字の銀河】の西隣は【子どもの姿に似る銀河】があり、この銀河の子どもの頭には一本の角(つの)が生えているゆえ、私は【鬼の姿に似る銀河】と名づけた。
 【鬼(子ども)の姿に似る銀河における横顔】は五帝時代の中国各地の天頂にめぐってきて、緯度と経度を正確に測量できる羅針盤となった。子午線通過するとき、【鬼(子ども)の姿に似る銀河の首から下の下半身の銀河】は天頂より北側を通過した。
 【鬼(子ども)の姿に似る銀河の横顔には両目に観える箇所】があり、また【鬼(子ども)の横顔後頭部とアゴ】にも〔目〕の形にそっくり形がある。ゆえに、倉頡は【鬼(子ども)の姿に似る銀河】に見立てられて「四つ目の怪人・倉頡」と後世に呼ばれることになった。
 【四つ目の怪人、鬼(子ども)の姿に似る銀河】は[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[(べん)]の字源・字形・字義となり、[子]の字源・字形・字義となった【鬼(子ども)の姿に似る銀河】と合体して[]の字源・字形・字義となった。
 【十字の銀河】は[]の字源・字形・字義となり、[]の字源・字形・字義の【鬼(子ども)の姿に似る銀河】とともに、倉頡が発明した漢字(文字)作成方法をあらわした。
 つまり、黄帝の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の作成を目的した倉頡は「【十字の銀河】を【母体】にして、【鬼(子ども)の姿に似る銀河】を【出産する子ども】に見立てるようにすれば、【夏の銀河各部の形状】から黄帝の医学研究を後世に伝えることができる多数の文字を生む(作る)ことができる」という漢字作成方法を発明したのである。

◆【十字の銀河】は「供饌」の語源にして、[]つまり「全国から選んで供える食べ物」の字源・字形・字義となる。というのも、[]字形の「人の正面形」に相似する【十字の銀河】は[]の下に[]を加える[]の字源・字形・字義であるからである。ゆえに、「洪水も日照りもおきない天の順調な気候によって地上に豊かな食べ物を与える」という考えにもとづいて、【十字の銀河】は[]の字源・字形・字義となった。
 いいかえると、「洪水や日照りの災い・不順な天候をもたらす魔女」が【十字の銀河の腹部に隠れて棲む媚蠱】であった。
 出産期において、胎児の頭が骨盤出口に近づくと、母体の直腸を圧迫するので自然に怒責(どせき/いきみ、きばる行為)がおこり、母体の腹圧が加えられる。この腹圧を邪魔して子どもを死産させるのが【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱】であると考えられたのである。この解釈がさらに発展し、【十字の銀河の腹部に棲む媚蠱】は「洪水や日照りや戦争や乱などの禍災(わざわい)を起こす」と、漢字学では解釈されるようになった。
 「国家安寧」の[(ねい)]と類似する字に、[(ねい)]という字がある。
 []の最上部の[]の字源は【十字の銀河】であり、中央の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の心臓】であり、最下部の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の心臓がある胸骨の中ほどに、皿のごとくくぼんだ部分の鳩尾(みぞおち)】である。「鳩尾」は「胃の真ん中」にあたる。要するに、[]の最下部の[]の字源は【鬼(子ども)の姿に似る銀河の胃がある箇所となる銀河部】であった。
 [][]より下部の三字で構成される字部の字源は【人の姿に相似する、十字の銀河の胃がある箇所の銀河部】である。
 【十字の銀河の腹部の胃の箇所】に「幽(かす)かに左右の眉(まゆ)と左右の目に見える銀河部」がある。この【幽かに見える両眉と両眼の銀河部】が「媚蠱。媚蠱の顔」であった。
 【媚蠱の両眉と両眼の銀河部】の中央に、倉頡が「すべての漢字を生む子宮」と定めた【十字の銀河の子宮(子宮に相当する箇所の銀河部)】がある。【十字の銀河の子宮】は【媚蠱の銀河の両眉と両眼の中央にある鼻】となる。
 【十字の銀河の子宮】の西隣は【媚蠱が棲む、十字の銀河の腹部】から垂れる【点々と並ぶ、その点と点をつなぐと線となる、三本線の銀河部】である。この【三本線の銀河】は[]の原字[]の字源である。『説文解字』は[]の字について「天、象(しょう)を垂れて吉凶を見(しめ)す。人に示す所以(ゆえん)なり。(中略)。三垂は日月星なり。天文を観て以て時変(じへん)を察す。示は神事なり」と解説する。
 【日月星を示す三垂は、点々と並んで線となる三本線の銀河】となる。だから「線となる点々と並ぶ、その三粒(三点)の食べ物を盗んで魔力を有する【十字の銀河の腹部】に隠れて棲む魔女」が「五穀不作と国家に災害や戦乱をもたらす媚蠱」であった。
 これゆえ、大嘗祭において天皇陛下は供饌から媚蠱が食べる三粒の食べ物を箸で摘まんで横取りして、飢えて体力が衰えた媚蠱が寝床に病み伏して呪力をことごとく奪うために皿に入れる所作を1000回余も丁寧に繰り返して五穀豊穣と国家安寧の儀式をおこなったのである。
 したがって、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】における【箸】は【十字の銀河】であった。【供饌から三粒を選んで箸で摘まんで皿に入れる食べ物】は、上記したように【媚蠱が隠れ棲む十字の銀河の腹部から垂れる、三本線の銀河において線を形成する点々と並ぶ、その小さな点の銀河部】であった。【天皇陛下が供饌から箸で摘まんで三粒を選ぶ食べ物を入れる皿】は「胃に食べ物を入れるために使用する食器の皿」であった。つまり、[]は「五穀豊穣によって日々食物を胃に入れることができる吉なる(日々平穏な)状況をあらわすための皿」であり、いいかえると「[]の字源【十字の銀河の胃】と[]の字源【鬼(子ども)の姿に似る胃】に入れるために用いる食器の皿」ということになる。
 以上のごとく、天皇陛下は供饌から三つの食べ物を分けて皿に入れる所作を1000回余も【丁寧に行ってこそ】、五穀豊穣と国家安寧が成就することになったのである。
 したがって、大嘗祭が始まった14日の午後6時半、大嘗宮の天頂(高度90)~高度60度に存在した【白い、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭の進行に呼応して翌日未明の午前4時に北北西の地平線に没するまでの様子で、「大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと伝える学問儀式である」と現在に伝えていたことになる。

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2019年11月17日 (日)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・1

★#1・大嘗祭に白く輝く【天皇陛下の供饌の儀の銀河】

◆令和元年1114日、夕方から翌15日未明にかけて大嘗祭(だいじょうさい)が行われた。
 大嘗祭が開始された午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)に灯りがともされ、【天皇陛下が供饌(きょうせん)の儀をおこなう所作(しょさ)を示す銀河の北端の銀河部】が子午線通過した。この【天皇陛下の供饌の所作を示す銀河の北端の銀河部】は大嘗祭が終わる時刻には北から25度くらいの北北西の地平線に没した。
 したがって、【白く輝く供饌の儀の所作を示す銀河の北端の銀河部】が子午線通過して地平線に没するまで、【白く輝く供饌の所作を示す銀河】に呼応(こおう)して、天皇陛下は五穀豊穣(こごくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を願って供饌の所作の儀礼を合計1000回余も丁寧(ていねい)に繰り返していたことになる。というのも、「国家安寧」の[]の字は「丁寧」の[]の字であったからである。
 【白く輝く供饌の所作を示す銀河の北端の銀河部】は【天皇陛下が供饌(きょうせん)の儀をおこなう所作(しょさ)で示される[][][]と「五穀豊穣」をあらわす[()](穀物)[]の文字(字源・字形・字義)となった銀河】であった。
 だから、【白く輝く天皇陛下の供饌の儀の銀河】が明示するように、大嘗祭の本質・実体は上古の学問を表示する儀式であって、大嘗祭は宗教的儀式ではなかったのである。

1114日の東京の日没時間は、大嘗祭が開始される2時間前の午後435分であった。
 太陽が地平線から姿を消しても、まだ空は真っ暗にならず、天文学で【夏の銀河】と呼ばれる「天の川」は見えない。このうす暗いころの時間を「薄明時(はくめいじ)」という。
 太陽が地平線下18度の所まで沈むと、薄明時が終わり、大嘗祭が開始される時刻(午後6時半)となって、空が真っ暗となり、電気が発明されていない地上灯火が乏しかった暗い江戸時代の東京(江戸)の空ならば【夏の銀河】は光り輝いた。
 【夏の銀河】は【夏の全星座が漬()かる銀河】であり、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は地平線から現れるときには【夏の銀河の東端】、高く登っている時には【夏の銀河の北端】となる。

◆大嘗祭が行われる令和元年1114日の朝日新聞の朝刊の1面記事は、13日午前に撮影した「報道関係者に公開された大嘗宮の写真」を掲載して、下記のごとく報道する。
 「宮内庁は13日、大嘗宮周辺の様子を報道陣に公開した。大嘗宮には砂利が敷き詰められ、悠紀殿(ゆきでん)や主基殿(すきでん)に続く廊下には白い布が敷かれるなど、準備は大詰めを迎えている。(中略)。大嘗祭は、天皇陛下が新米などを神々に供え、五穀豊穣(ごこくほうじょう)や国家安寧(こっかあんねい)を祈る儀式。大嘗宮の儀は、東側の悠紀殿は14日午後6時半から、西側の主基殿で15日午前0時半から行われる。」

14日の夕方午後6時半、すっかり辺り一面夜陰で暗闇と化し、大嘗宮(だいじょうきゅう)に焚き火の灯がともされた。
 午後6時半、テレビの画面に――白い布でおおわれた廊下に2名の侍従が葉薦(はこも)・別名御筵道(ごえんどう)を解き延べ先導する後ろに天皇陛下の頭上に御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高く差しかかげて、東側の悠紀殿に向かう天皇一行の行列が現れた。
 この大嘗祭が開始される2時間前の、薄明時が始まる午後435分、大嘗宮の天頂(最も高い高度90度の天体部)に、【人の横顔の酷似する銀河のほぼ中央の、右目の形となる銀河部】がめぐってきていた。この【人の横顔の酷似する銀河】は【夏の銀河の北部】に位置する。
 【人の横顔に酷似する銀河における両目の上の額(ひたい)の銀河部】には、天文学で「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる銀河部がある。
 「北天の最輝部」は「白く(銀白色に)輝く、北半球の人々が最も輝いて見える銀河部」である。
 1114日の薄明時が始まった午後435分、「北天の最輝部」は天頂点から北東45度の位置に存在した。さらに、「北天の最輝部」に隣接する「右手に観える銀河」や「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」さらにその後ろの北東45の高度70度~60度の位置に、[][][]の字源と[()](五穀豊穣をあらわすイネや麦などの穀物)の字源・字形・字義となった【人の正面形に似る銀河】が位置した。
 したがって、【人の正面形に似る銀河から人の横顔に酷似するまでの銀河までの形状】が、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】ということになる。【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、薄明時が始まる午後435分であったゆえ、その形状を見ることができなかった。
 薄明時が終わる午後6時半、星座盤で調べると、[][][][](五穀豊穣をあらわすイネや麦などの穀物)の字源となった【人の正面形に似る銀河】が大嘗宮の天頂(高度90)近くの真北(高度約70度~約80)で子午線通過していた。
 このとき、【人の正面形の銀河】の西側近くにある【天皇陛下のお顔】に相当する【人の横顔に酷似する銀河】の高度は約60度~約70度であった。
 したがって、大嘗祭が開始された午後6時半、【天皇陛下がお供えものを三つずつ白い小皿の合計1000回余も丁寧(ていねい)に繰り返して分ける所作の、供饌の儀の銀河部】が大嘗宮の真上の天空(高度60度~80)にめぐってきており、天皇陛下の供饌の儀の開始に呼応して北北西の地平線にて没するまでの運行が始まろうとしていたことになる。


 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】の東端部となる[][][][]の字源となる【人の正面形に似る銀河】は「西側半分が妊婦の姿に相似し、東側半分が左手に弓を持つ男性の姿に相似し、この男女一体の銀河は人の正面形」に相似する。(私が著作した書物では、この銀河を【十字の銀河】と名づけることにした)
 西側の「主基殿供饌(すきでんきょせん)の儀」が始まった15日の午前0時半、【十字の銀河(人の正面形に似る銀河)】は、北西の地平線近くに位置し、3時間半後の午後4時ころに北北西の地平線の下に没して姿を消した。
 この【十字の銀河(人の正面形に似る銀河)】が地平線に没するまでの間、天皇陛下は「主基殿供饌(しゅきでんきょうさん)の儀、つまり天皇陛下は正座して供饌から三つずつ小皿に丁寧に分ける500回余り繰り返す所作」をお勤(つと)めしていたことになる。

◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は白く輝き、そのうちの【天皇陛下のお顔に相当する、人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)】には【北天の最輝部】があり、銀白色に輝く。
 だから、銀白色に輝く【北天の最輝部】から白く輝く【十字の銀河】までで構成される【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「銀河」の語源であったことになる。
 また【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、英語「the Milky Way」すなわち「ミルキー・ウエイ」すなわち「銀河」の語源をあらわす「母乳(ミルキー)のように白く輝く銀河」であったことになる。

◆朝日新聞はじめすべてのテレビ局は「大嘗祭は宗教的儀式である」と報道した。
 だから、大多数の国民は「大嘗祭は宗教的儀式にちがいない」と思い込むかもしれない。
 しかし、大嘗祭の実体は――【天皇陛下の供饌の儀の銀河】の秘密をあらわす、いうなれば【全漢字は銀河から作られた】という古代学問の秘密をあらわす学問儀式――であったのである。
 天皇陛下が悠紀殿と主基殿で正座してピンセットのような竹製の箸(はし)でお供(そな)えものを摘()まんで小さな皿に移す行為を合計1000回余も辛抱強くおこなう所作(しょさ)のおける、「竹製の箸」・「供饌」に相当するのは【十字の銀河】である。
 供饌から小分けする三つの供え物(食べ物)」と「小皿」は【三つの粒(つぶ/短い三本線)の銀河部】が相当する。この【三つの粒の銀河部】は【妊婦の姿に似る十字の銀河西半分の妊婦の腹部(おなか)のように観える銀河部から垂れる、三つの粒または短い三本線の形状銀河部】である。また、【三つの粒の銀河部】は合計1000回余も繰り返して天皇陛下が供饌から三つずつ分けて【丁寧に】小皿に移す所作によって「国家安寧」の[]の字源・字形・字義をあらわした。
 【大嘗祭で天皇陛下が合計1000回余も丁寧に繰り返す供饌から三つだけお供えものをピンセットのような形をした箸で摘まんで小皿に移す所作】は【全漢字は銀河から作られた学問の秘密】をあらわしていた。
 「銀河」の別称は「銀漢」または「天漢」といい、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられたのである。
 【全漢字が作られた銀河】は、天文学では通称【夏の銀河】と呼ばれ、上記したように【夏の全星座が漬()かる銀河】を【夏の銀河】と呼ぶ。
 だから、【夏の銀河から作られた文字】は「漢字」と呼称されることになったのである。
 【夏の銀河】は「はくちょう座からさそり座までが漬かる銀河」であり、【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】よりも大きい、最も巨大にして各部の形が最も明確な・何万字という多数の漢字を生んだイメージ豊かな壮大な銀河である。
 上記した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「はくちょう座の両翼部分を含まない、はくちょう座の顔から胴体・尾の部分までが漬かる銀河」ということになる。
 
◆紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭の生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は漢字作成方法を発明した。
 7世紀の隋代(ずいだい)に楷書が完成した。この7世紀以前の倉頡が考案した書契(しょけい)までの全漢字は、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河の各部の形状】から作られた。
 【全漢字は夏の銀河から作られた事実】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆『古事記』上巻の序は太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。太安万侶は『古事記』の序を【古事記上巻 幷()わせて序】と表記し、「『古事記』上巻だけに〔音〕という注を付ける音文字は夏音(かおん)文字である。夏音文字は【夏の銀河の各部の形状】を【文字】(字源・字形・字義)とした」と説明するものであった。
 というのも、漢字作成方法を発明した倉頡は「書いた文字は用済みになったならば直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族には、天罰が下って即刻に死刑にする」と定めた。この掟のために、原初漢字の夏音文字では【夏の銀河の各部の形状】が【文字】(字源・字形・字義)となった。
 上記したように、楷書も倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河の各部の形状】を字源・字形・字義とした。だから、『古事記』上巻の随所に記載された〔音〕という注が付く夏音文字の語を記す楷書各字の字源・字形・字義によって、「楷書と夏音文字は共に【夏の銀河各部の形状】から作られた事実」が解明され証明されることになる。
 この秘密を、【古事記上巻 幷わせて序】の末部は――楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義である――と説明して、【楷書と夏音文字はじめ全漢字は倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって夏の銀河各部の形状から作られた事実】を伝えていたのである。
 【古事記上巻 幷わせて序】の冒頭は「臣安万侶言(しんやすまろまを)す」と記す。
 次の「それ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く、為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文で、太安万侶はわが国に中国から夏音文字が伝来して習得された歴史を、下記のごとく説明していたことになる。
 「漢字が発明されていなかった紀元前4000年ころの中国とわが国の各地において前期縄文時代初頭以前における天頂にめぐってくる銀河の形状は混沌(こんとん)として凝り固まっていましたが、文字となる気象(イメージ)は未だ現れていませんでした。ですから、文字で名をあらわすことも無く、文字で名をあらわす方法もありませんでした。ゆえに、現在において(『古事記』が完成した712年当時)、前期縄文時代初頭以前の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができません。しかし、紀元前4000年ころからから始まる前期縄文時代、倉頡が漢字作成方法を発明した紀元前3000年ころから始まる中期縄文時代、紀元前2070年~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭までの参時代においては、[]の字源・字形・字義となった【夏の銀河の最北端部にある、乾いた沙漠のようなイメージの銀河部】と、その隣に[]の字源・字形・字義となった【十字の銀河】が天頂にめぐってきましたから、わが国では造化(芸術作品)の〔【夏の銀河】の印象をあらわす、表面に渦巻き文が全面にほどこされる土器〕や〔【十字の銀河】や【人の横顔に酷似する銀河か夏の銀河の西南部】までの印象をあらわす、人体を模(かたど)る土偶(どぐう)〕が作られて、【夏の銀河を見たときの人々の印象】が伝えられ、後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、わが国に伝来した夏音文字は【夏の銀河の印象】をあらわす土器・土偶を造った芸術家たちによって習得されました。」
 だから、【古事記上巻 幷わせて序】は――倉頡が漢字作成方法を発明した約950年後の紀元前2070年~紀元前2050年ころの後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡の掟によって、夏の銀河の各部の形状が文字(字源・字形・字義)となった夏音文字の学問】が中国から伝来して習得された――と伝えていたことになる。
 皇室は【倉頡は発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸の学問】を権力と財力基盤にして厳重な機密にして独占管理して栄えたゆえ、現在まで存続して滅びなった。
 だから、現在の大嘗祭が本格的に復興された1738年当時の皇室は、上記した【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文が伝える事実をもちろん知っていた。ゆえに、大嘗祭において悠紀殿と主基殿で天皇陛下による供饌の儀がおこなわれる伝統が現在まで受け継がれることになった。しかし、現在の学者たちは一人も【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文を正確に読解(どっかい)できないゆえ、彼等は「学問儀式の【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」と錯覚する幻想に憑()りつかれる。

◆【古事記上巻 幷わせて序】の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字を習得した」という記述は事実であった。
 だから、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した字源を解説する字書の『字統(じとう)(平凡社発行)の〔わが国の漢字音〕と題する初頭の文は「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという定説は誤っている。中国の上古音よりも古い・現存する最古の漢字音がわが国には保存されている事実」を、次のように説明する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文が明確に伝えるように、【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字の学問を習得した」という説明を学者たちは正しく読解できずに【誤読】するゆえ、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという空理空論・空想・幻想に憑()りつかれる。
 中国における現存する最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、「紀元前1046年の周代初頭~2世紀の後漢時代までの漢字音」とされる。
 したがって、中国の上古音における最古は紀元前1046年ということになるゆえ、【古事記上巻 幷あせて序】が説明する「紀元前2070年~紀元前2050年ころの夏代初頭の夏音文字の字音」は、中国の上古音より約1000年前の現存する最古の漢字音となる。
 現存する最古の漢字音を伝える夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて楷書を音符にして多数表記される。
 だから、上記したように【天皇陛下の供饌の儀の銀河の各部の形状】が[][][][]はじめ[][][][][][]などの字源・字形・字義となるように、夏音文字は【夏の銀河の各部の形状】が字源・字形・字義となって現在も実在するものであったことになる。


◆「【天皇の神々の祈り・即位式正殿の儀・大嘗祭】は宗教的儀式である」と主張する学者たちは【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「わが国は夏音文字を習得した」と説明する記事を読解することができない。
 大嘗祭における悠紀殿の「悠紀」を「ゆき」と読んで「ゆうき」と読まない事情と、主基殿の「主基」を「すき」と呼んで「しゅき」と読まない事情は、11音読みの夏音文字の読み方をあらわしていたのである。
 3世紀(280289)に著作された倭女王卑弥呼が登場する『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
は約2000字で構成される。
 (1)『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は帯方の東南」という文から30の小国を説明する記事までの約500字・約25%の記事は【倉頡が発明した漢字作成方法】を説明するものであり、(2)また『魏志倭人伝』の約400字・約20%の記事は【夏音文字の習得】について説明する記事である。
 しかし、「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀ないし6世紀である」という空想・幻想を抱く学者たちには、『魏志倭人伝』の(1)【倉頡が発明した漢字作成方法】を説明する記事と、(2)【夏音文字の習得】を説明する記事がまったく読解できない。
 だから、大嘗宮の天頂近くの高い空にある【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が北北西の地平線に消えるまでの運行に呼応して、天皇陛下が供饌の儀をおこなった事実を――学者はじめメディアはまったく知らないゆえ「大嘗祭は宗教的である」と思い込んだのである。

学者たちは現存する最古の漢字音を保存する夏音文字が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っていることを知らない。だから、学者たちは「【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」という空理空論・妄想を抱く。
 上記した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】によって、【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は学問儀式であることが証明される。
 また【大嘗宮】はじめ【天皇陛下が着る最も清浄で神聖とされる白絹の祭服】、【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下一行の行列】、【悠紀殿・主基殿の内部の配置の様子の推測イメージ】などによっても、「大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と証明できる。
 次回から幾回になるかはわからないが、数回をもって「大嘗祭は学問儀式である証明」を解説する。

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2019年11月 8日 (金)

#20 邪馬台国説はフェイクであった!

★即位礼と大嘗祭は宗教的儀式ではなく、学問儀式である

◆学者たちはじめメディアは「天皇がおこなう神々の祈りは神道(しんとう)にもとづく祈りである。ゆえに、天皇の最も重要な任務は神道の神々への祈りであるから宗教的儀式という儀式となる。だから即位式正殿の儀と大嘗祭は宗教的儀式である」と思い込む。
 しかし、実体は【天皇の神々の祈りは上古の学問にもとづく祈りであるゆえ、宗教的儀式ではなく学問儀式であった。だから、即位式と大嘗祭は学問儀式であった】ことになる。
 このように、学者たちの「宗教的儀式」と錯覚(さっかく)する憶測(おくそく)・憶説(おくせつ)を信用して、メディアと国民はこぞって天皇を誤解している。
 このブログは、前回(19)で解説・証明しなかった『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌を注目して――令和元年1022日の即位式正殿の儀と翌1114日の夕方から翌日の未明の大嘗祭(だいじょうさい)は学問儀式であることを証明する。
 ゆえに、このブログで不明な点や説明不足な点は前回のブログを参照していただきたい。

◆前回のブログでも不明な点や説名不足な点は、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。
 ですから、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌の題詞は「岡本天皇の御歌(みうた)一首 幷()わせて短歌」である。ゆえに、この3首の和歌は飛鳥時代の女帝の第35代皇極(こうぎょく)天皇、また第37代斉明(さいめい)天皇が第34代舒明(じょめい)天皇の皇后・宝(たから)皇女と呼ばれていた時に作った和歌であると考えるべきことになる。宝皇女は第38代天智天皇と第40代天武天皇の生母である。

 「岡本天皇」は舒明天皇と宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)の二人であるが、歌の内容からして『万葉集』485番・486番・487番の3首の作者は「宝皇女」であったにちがいない。
 この3首は「舒明天皇が、宝皇女と蘇我入鹿(そがいるか)の仲を疑っている」と皇后が詠()んでいることになる。
 「岡本天皇」は「舒明天皇と皇后・宝皇女」であるゆえ、この3首は舒明天皇が皇后の身になって作った和歌であった可能性はゼロではないが、万が一舒明天皇が作った和歌であったとしても、舒明天皇が皇后と蘇我入鹿の仲を疑って詠んだことになる。
 朝日新聞の令和元年118日の27面「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事の一節は――文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」は天武天皇の即位に際してはじめて実施されている――と指摘する。
 即位において初めて大規模の大嘗祭をおこなった天武天皇の両親・岡本天皇のどちらかがが作った『万葉集』485番・486番・487番の3首によって、神秘のベールに包まれる大嘗祭の本質を知ることができる。

◆神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 神代のイザナミノミコト(伊耶那美命)が小国・日本の女王に就任してイザナキノミコト(伊耶那岐命)とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の大群のように、わたしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまえ、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

 伊耶那岐命は第9代開化天皇であった。『古事記』中巻の開化(かいか)天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた」と記述する。開化天皇が住んだ宮殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」の先頭2字「伊耶」と同字であるゆえ、「伊耶那岐命」は「開化天皇」であったことになる。
 伊耶那岐命・開化天皇の正妃(せいひ)は旧国・丹波(たんば)生まれの竹野比売(たかのひめ)である。ゆえに、「伊耶那美命」の本名は「竹野比売」であった。伊耶那美命の出身地「丹波」は3世紀後半に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記述された倭国の小国「伊耶(いや)国」であった。「【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた竹野比売」は「伊耶国生まれの[]つまり〔桃の花〕のように美しい女王」であるゆえ、国民は「伊耶那美命」と愛称したのである。
 伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は伊耶那岐命の父・第8代孝元(こうげん)天皇とも結婚している。ゆえに、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の継母であった。第10代崇神天皇は孝元天皇と伊迦賀色許売命の子であった。ゆえに、崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟(いぼてい)にして、伊耶那岐命と伊迦賀色許売命が結婚したために伊耶那岐命の養子となった。
 伊迦賀色許売命と崇神天皇の母子が大和朝廷の基礎を築いたアマテラスオオミカミ(天照大御神)であった。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁されて「伊耶那岐命の妻」という戸籍を失った。このため、彼女は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」と名乗った。天照大御神であった伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命は奈良県桜井市に所在する全長約280mの巨大な前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳に葬られた。

◆『万葉集』485番の初句「神代より」から5句「国には満ちて」までには、次のような事情が存在した。
 天照大御神(伊迦賀色許売命と崇神天皇の母子)は――倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法と夏音(かおん)文字の学芸を最も重んじて政権基盤とせよ。この学問を独占管理して厳重な機密とすれば皇室と国家は永らく繁栄して存続する。しかし、国民は伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を最も尊重するゆえ、革命や反乱に利用されると皇室と国家を滅びる可能性は十分ある。ゆえに、皇室と国家が滅亡しないためには、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は絶対に後世に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)し消滅せよ――という遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)をのこした。
 このブログが毎回説明するように、紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡は、天文学で【夏の銀河】とよばれる「夏の全星座が漬()かる銀河各部の形状」を字源・字形・字義とする漢字作成方法を発明した。
 このため、学問上においては、現在、【字源・字形・字義となった夏の銀河各部の形状】は【文字】ではないが、実際は【文字】であった。【夏の銀河】は「銀河」であり、「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「【銀漢、つまり夏の銀河各部の形状】から作られた字」を略して【漢字】と呼んだ。だから、【夏の銀河各部の形状】は【文字(漢字)】であった。
 『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)の冒頭記事は「紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】とする夏音(かおん)文字の学芸がわが国に伝来して【倉頡が発明した漢字作成方法】が習得された」と説明する。
 3世紀、中国の魏()、魏の出張政庁が所在した帯方郡(たいほうぐん)、諸韓国(朝鮮半島)で用いられていた楷書も【倉頡が発明した漢字作成方法】にのっとって作られた。だから、楷書の字源・字形・字義も【夏の銀河各部の形状】であった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭の伊都(いと)国の港では、魏の都・帯方郡・諸韓国の楷書で書かれる文書と、倭女王卑弥呼が書く文書の文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していたので、捜露(そうろ/点検して確認して)間違いがないようにしていた」と記述する。

したがって【夏音文字と楷書の字源・字形・字義となった夏の銀河各部の形状】は【文字】であったゆえ、倭国の伊都国の港では【夏の銀河各部の形状】にもとづき、魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を正しく訳することができたのである。

 『古事記』編纂(へんさん)スタッフは天照大御神の遺勅が抹殺・消滅せよと命じる【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えようと企(たくら)んだ。ゆえに、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば歴史(【日本国誕生史】とその後の上古史)が解明できるように仕組んだ。
 このため、『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)の末部は編纂スタッフの企んだ歴史解明方法を「夏音文字と楷書の字源・字形・字形は共(とも)に【夏の銀河各部の形状】である」と説明する代わりに「楷書【日下(にちげ)】と夏音文字【玖沙訶】は同義、楷書【帯(たい)】と夏音文字【多羅斯(たらし)】は同義である」と説明しているのである。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に【日本(小国・日本)国誕生史】が記述される。伊耶那美命は結婚する新郎の伊耶那岐命に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と10字の楷書で表記する夏音文字の言葉でとなえた。この語は「日本国の国土生みの柱を〔愛〕にしましょう」と意味したゆえ、この【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本はもちろん倭国の人民たちの心に響(ひび)いた。というのも、当時、中国は三国時代で人民が日々虫ケラのごとく殺され、日本列島では中国の戦乱の影響を受けて【卑弥呼王朝と国家】が重視され【人民の命や愛】は軽視されていたからである。ゆえに、伊耶那美命がとなえた【阿那邇夜志愛袁登古袁】つまり【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本から卑弥呼が統治する倭国の人民の心に響き、小国・日本と倭国の国中すみずみまで一気に広まって知れわたった。
 淤能碁呂島聖婚説話には5ヵ所の〔音〕という注がつく夏音文字の語が楷書で記載され、この【夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義】を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば【日本国誕生史】が鮮烈(せんれつ)に甦(よみがえ)る仕組みになっている。

 同様に、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話も夏音文字の語を表記する楷書各部の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば、下記のごとくの歴史が明白となる。
 この説話に登場する「天照大御神」は「伊耶那美命」に「神」の字を加えた「伊耶那美(いざなみのかみのみこと)」と表記された。皇室にとって最も偉大な先祖である「皇祖・天照大御神」を「天照大御神」と表記すれば、『古事記』は天照大御神の遺勅を否定し朝廷に歯向かう反逆の歴史書であることが明白となる。ゆえに、編纂スタッフは皇室が敵視する「伊耶那美命」に「神」を加える「伊耶那美神命」という名にすれば「天照大御神の遺勅とおりに【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺・消滅する偽書(ぎしょ)を作成した」と朝廷は喜び、天皇は『古事記』献呈を承認して正史にするであろうと策略(さくりゃく)したのである。
 だから、『古事記』上巻には「夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば歴史が解明できる方法が必要となった」のである。
 伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部に「千引石(ちびきのいわ)」が登場する。「千引石」は「現在の和歌山県新宮市の磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の巨岩・ゴトビキ岩」である。神倉神社の祭神は「天照大御神」である。ゆえに「伊耶那美神命」は、神倉神社の祭神「天照大御神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)」であった。

伊耶那岐命の黄泉国訪問説話を要略すると下記のごとくでなる。
 
 伊耶那美命の墓を作ったとき、第10代崇神(すじん)天皇の生母の伊迦賀色許売命(天照大御神)が倭女王に就任して、多数の青年と乙女を殺して伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原/おおゆのはら)に埋葬する徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。正妃の伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む青年(戦士)たちと協力して、倭王朝の大軍が衛(まも)る伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)にある棺(ひつぎ)を奪うクーデターに成功して、第二后の天照大御神を倭女王から失脚(しっきょく)させた。捕虜となった倭女王・天照大御神は伊耶那岐命が居る千引石の前に連行された。この千引石の前で天照大御神に向かって伊耶那岐命は離縁を言い渡し、「吾は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ。
 伊耶那岐命と日本兵が伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)から奪った伊耶那美命の死体について、『日本書紀』は「花の窟(いわや)に葬られた」と記述する。花の窟は、三重県熊野市有馬町に所在する。

 以上、『万葉集』485番の初句「神代より」から5句「国には満ちて」までには、上記のような歴史が秘められていた。
 次の6句「味群(あぢむろ)の」にある「味群」は「味鴨の大群」を意味する。
 現在の「トモエガモ」の古称が「味鴨」である。古代における飛翔(ひしょう)する味鴨の群れの長さは3kmに及んだといわれている。この習性ヒトが大量に狩猟しやすいゆえ、1970年代に絶滅が危惧(きぐ)されるほどに生息数が激減した。

◆山のはに 味群(あぢむろ)さわき 行()くなれど 我(われ)はさぶしえ 君にしあらねば(486)
 『万葉集』486番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 山の端()に、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して国に満ち満ちあふれる人民のごとく愛睦(あいむつ)まじく味鴨の大群が鳴きさわいで飛んで行きますが、わたしは寂(さび)しくてなりません。あなたはわたしが示す愛を疑い拒絶し、夜となってもわたしを抱いてくれませんもの……。

 近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日()のころごろは  恋ひつつもあらむ(487)
 『万葉集』487番を、現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 近江の琵琶湖に浮かぶ最大の島の沖島(おきのしま)の地図の形(北を下・南を上にした形)は「湖水に浮かぶ味鴨の姿」に相似しますから「鳥籠の山」と呼ばれています。「【日本建国の〔愛〕の理念】に譬(たと)えられる味鴨が籠()もる島(沖島)が「鳥籠の山」と呼ばれるのは、この島の最高所(標高220m)は伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた結婚式場の北側に所在しました古称「蓬莱山」と同名だからです。さらに、鳥籠の山(沖島)の真南には伊耶那美命が葬られた花の窟にあり、花の窟の経度線(東経13605)は鳥籠の山の東端を撫()でるがごとく貫通します。同様に花の窟の経度線は、鳥籠の山の東にある不知哉川の河口をも撫でるように貫通します。この川の名が「知らない(不知)」と示すように、わたしのあなたを恋する心を知ろうとせずにわたしを疑って信じないつれないあなたですけど、今日このごろは、わたしのことを恋しく思っていてくださるでしょうか。

 『万葉集』487番の3句「不知哉川」は、現在の愛知川(えちがわ)であった。
 「不知哉川」は宝皇女が考えた名称であるのか、それとも舒明天皇の在位期間当時(629641)に人々に呼ばれていた名称であるかは、不明である。いずれにせよ「不知哉川」を「イサヤかわ」と読むのは「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」を「イサ」と暗号・符合化して「日本国誕生史については知らない(不知である)」と意味して「不知哉川」と名づけられたにちがいない。というのも、当時、天照大御神の遺勅によって「【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は後世の人々が知らない(不知)となるように必ず抹殺・消滅せよ」と定められていたからである。
 「天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記して皇室が望む偽書を作ったと見せかけて、〔音〕と注がつく夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換して【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える――という策略のもとに『古事記』は、712年正月28日に元明(げんめい)天皇(707715年在位)に献上された。元明天皇は編纂スタッフの企みを見破って献呈拒否した。だから『古事記』は正史になれず、朝廷(皇室)と国家に歯向かう危険思想を養う読むことが禁じられた反逆の書物となった。 
 不知哉川・現在の愛知川は近江・滋賀県中東部の郡・町名となった「愛知(えち)」の河口近くを流れ、彦根市の南の境界線となる。
 「愛知」という地名は『古事記』が完成した直後の『日本書紀』の元正天皇紀(元正天皇の在位期間は715724)においては「依智(えち)」と表記された。「依智」という表記はおそらく「依()る智慧(ちえ)」を省略したと考えられる。つまり――【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の随所にある〔音〕という注がつく夏音文字を表記する楷書を【夏の銀河各部の形状】に変換する学問に〔依る智慧〕で知ることができる。ゆえに、「依る智慧」を略すると「依智」となる。
 「依智」だと意味曖昧(あいまい)となるゆえ、『延喜式(えんぎしき)』や『和妙抄(わみょうしょう)』では「愛智」と表記された。「愛智」ならば「〔愛〕を国家理念とした日本国誕生史は上古学問の智慧で知ることができる」とぐあいに、一段と明瞭(めいりょう)となる。

江戸時代の天保年間(18301844)以後は「愛知」と表記された。ゆえに、「【日本建国の〔愛〕の理念】を知る川」を略して「愛知川」と表記されることになったことになる。

◆鳥籠の山(沖島)・愛知川河口の東方には、多賀町(たがちょう)がある。
 多賀町多賀には伊耶那岐命と伊耶那美命を祭神とする多賀大社が所在する。
 『古事記』上巻の須佐之男命(すさのおのみこと)の啼()きいさち説話の末部は「伊耶那岐大神は淡海(あふみ)の多賀に坐()すなり」と記述して、「伊耶那岐命の霊魂は現在の多賀大社が建つ地所に鎮座(ちんざ)している」と指摘する。
 『古事記』上巻の三貴士(さんきし)の分治説話は「伊耶那岐命は養子の天照大御神・崇神天皇に高天原(たかまのはら)を治めるようにと委任(いにん)し、伊耶那美命が生んだ実子の須佐之男命には海原(うなばら/山陰出雲地方)を委任した」と記述する。
 『古事記』上巻の須佐之男命の昇天説話と天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――天照大御神母子(後の崇神天皇と生母)は伊耶那岐命のクーデターで天下を奪われたことを怨(うら)み天下を奪いかえそうと軍備を整えている様子から、伊耶那岐命は自分が死んだ後に養子の天照大御神(第二后・倭迹迹日百襲姫命の息子)と実子の須佐之男命が天下取りの戦争をして人民が困窮する大乱を心配した。ゆえに、伊耶那岐命は養子・天照大御神(後の崇神天皇)に天下を譲って高天原(たかまのはら/大和地方)を治めるようにし、実子・須佐之男命は山陰出雲地方を治めるようにして大乱を回避しようとした。ところが、五人の王と天照大御神(崇神天皇)に協力しなければならない北九州の宗像(むなかた)王、この【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する六人の王たちは、大和の天照大御神王朝は【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を憎悪して弾圧(だんあつ)する政事(まつりごと)をおこなうにちがいないと考えて、ひそかに須佐之男命を大王とする熊野王朝を創設するクーデターを企んだ。この情報を入手した死が迫っていた伊耶那岐命は須佐之男命を枕元に呼び「おまえは母の【日本建国の〔愛〕の理念】に背くのか!」と怒り没した。ゆえに、須佐之男命はクーデターを断念して天照大御神と不戦の誓いを結ぶことにした。この不戦の誓いにおいて、須佐之男命は天照大御神の策略にはまって、クーデターを計画した五人の王の名を異名(いみょう/あだな)で告げてしまった。これゆえ、天照大御神は宗像王と五人の王たちを討伐あるいは懐柔(かいじゅう)し、または威嚇(いかく)服従させて、大和朝廷の基礎を築いた――と記述する。

 崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇に天下を譲られたゆえ感謝して開化天皇陵を築造すべきであった。にもかかわらず、母親が倭女王から失脚された熊野におけるクーデターを怨んで開化天皇陵を築造しなかった。
 ゆえに、伊耶那岐命・開化天皇の一生を集約する沖島・鳥籠の山や不知哉川・愛知川の東方の現在の多賀大社が建つ地所が伊耶那岐命・開化天皇の霊を祀る聖地となったのである。
 開化天皇の陵墓は奈良市油坂町に所在する。しかし、その墳丘規模などから5世紀末~6世紀初頭ころに築造されたと推定されている。ゆえに、開化天皇陵は3世紀後半(多分、260年ころ)に没した開化天皇(伊耶那岐命)を慕(した)って5世紀末~6世紀初頭に築造された墳丘(ふんきゅう)であったことになる。
 開化天皇陵は『古事記』中巻の開化天皇紀が「天皇は春日の伊耶河宮に居住した」と記述する伊耶河宮の近くに築造された。ゆえに、開化天皇陵は須佐之男命が父・開化天皇を葬った墓があった地と推測して築造されたのかもしれないことになる。
 以上、伊耶那岐命・開化天皇の墳丘は開化天皇が死去した3世紀には築造されなかった。
 このため、愛妻伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那岐命・開化天皇の一生を集約すると、伊耶那美命が葬られた花の窟の真北の鳥籠の山(沖島)・不知哉川(愛知川)の河口の東方にある現在の多賀大社が建つ地所が伊耶那岐命・開化天皇の霊魂を呼び興(おこ)すことができる聖地と、人々は信仰していたことになる。
 岡本天皇が作った『万葉集』485番・486番・487番の3首は「鳥籠の山」と「不知哉川」の秘密と『古事記』が「伊耶那岐命の霊魂は現在の多賀大社が建つ地所(淡海の多賀)に鎮座する」という、これらの秘密を解明すれば「大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす大祭」であることが明白となる。

  なお、この「邪馬台国説はフェイクであった!」というブログは、今回、一旦(いったん」終わることにした。次回から「即位礼と大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない」というブログ名に改めて、続行することにした。したがって、後日、「邪馬台国説はフェイクであった!」という元のブログにもどることもありえます。

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2019年11月 6日 (水)

#19 邪馬台国説はフェイクであった!

★即位礼と大嘗祭は宗教的儀式ではなく、学問儀式である

◆このブログは、前回(18)の続きである。
 今回だけのブログでは、説明が不十分で理解できない点は前回を参照していただきたい。

◆令和元年の1022日におこなわれた即位礼正殿の儀と翌1114日の夕刻から翌日未明におこなわれる大嘗祭(だいじょうさい)について、朝日新聞は「宗教的儀式であるから、政教分離など憲法上の疑義は将来の課題として残る」と報道する。
 この朝日新聞の報道は、明確に誤報・虚報(きょほう/デマ・フェイク)であった。
 朝日新聞の誤報の原因は、【学者たちの誤読の空論の邪馬台国説と日本神話虚構説】を鵜呑(うの)みにする無知・無学である。
 朝日新聞やNHKはじめメディアはこぞって、学者たちが【誤読】を加えて捏造(ねつぞう)した【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説】をもてはやし、【『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された日本神話は物語であって、歴史を伝える記録ではないと断定する日本神話虚構説】は正しいと報道し、【空想】・【空論】を日本国中に蔓延(まんえん)させている。
 ところが、【誤読】を加えないと3世紀後半に著述された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は【九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説】と一ヵ所も関係しない書物であったと証明される。
 また、『古事記』上巻の日本神話に【誤読】を加えずに『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)が説明する歴史解明方法にのっとると、【『古事記』上巻は歴史を伝える記録である実体】が科学的に具体的に証明でき、おのずと【『日本書紀』神代紀の日本神話も歴史を伝える記録】であったことになる。
 学者が捏造する【誤読の空論】のため、国民は【日本神話は歴史を伝える記録である実体】を知ることができないため、国民は【神々への祈りが天皇の最も重要な任務】と思い込む。これゆえ、国民は学者たちの【誤読の空論】を鵜呑(うの)みするメディアの「即位式正殿の儀と大嘗祭を宗教的儀式である」と指摘する虚報・誤報を信用する。

◆江戸中期・17世紀~18世紀に生存した新井白石(あらいはくせき)以来300年、最も正しいと信じられている九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は【誤読の空論】であった。
 また江戸時代の18世紀に生存した本居宣長(もとおりのりなが)の注釈書『古事記伝』にもとづいて学者たちが立論する日本神話虚構(きょこう)説も【誤読の空論】であった。
 即位礼正殿の儀と大嘗祭は【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説と日本神話虚構説は明確に誤読の空論である】とあらわす儀式と大祭(たいさい)である。
 前回(18)のブログで具体的に説明して証明したように、即位礼と大嘗祭は――『魏志倭人伝』に記述された【1】紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法と、【2】紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に伝来してわが国が習得した夏音(かおん)文字の学芸と、そして『魏志倭人伝』の後半と『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された【3】日本国(小国・日本)誕生史と日本建国の〔愛〕の理念――を表示する儀式と大祭(たいさい)である。
 上記したように、学者たちは新井白石以来約300年間『魏志倭人伝』に【誤読】を加える考え方こそ正しいと主張し、『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)を【誤読】して記述されている『古事記』上巻における歴史解明方法を従わずに本居宣長が著作した注釈書『古事記伝』のとおりに「物語である」という憶説(おくせつ)や先入観の基(もと)に読解(どっかい)する考え方こそが正しいと断定する。
 だから、即位式と大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす学問儀式である実体が、現在、不明になった。

◆令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)では、【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説と日本神話虚構説は完全なる誤読の空論】である実体を、詳細に具体的に【科学】が成立するように解説して証明した。
 この点に疑問を抱く方は、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆前々回(17)のブログで指摘したように、令和元年1022日におこなわれた即位式正殿の儀と、翌1114日の夕方から翌日未明におこなわれる大嘗祭は、3世紀後半から戦国時代までの儀式と大祭と相違する。
 というのも、戦国時代から約220年間中断していた大嘗祭は、【日本建国の〔愛〕の理念の復興】に全情熱をかたむけた徳川家康の遺志の達成を宿題にした将軍秀忠と江戸幕府が京都市に所在する桂離宮(かつらりきゅう)の庭園を作って、新井白石の死から13年後の17381119日に改まって、新大嘗祭が本格的に復興されたからである。
 戦国時代以前の大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】にのっとる大祭であったが、1738年の新大嘗祭では家康の遺志となった『魏志倭人伝』の後半と『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】が新たに加えられた。

◆学者たちは【神道(しんとう)における神々への祈りが天皇の最も重要な任務】と思い込むゆえ、国民もこれを信じるゆえ、即位式と大嘗祭は宗教的儀式であると思い込む。
 しかし、【天皇は上古学問(倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸)にのっとって神々に祈願するものであり、また天皇の最も重要な任務は日本建国の〔愛〕の理念を保存し、洪水や地震や飢饉など災害がおこらないように国家の繁栄と国民の幸福を神々に祈願すること】であった。
 だから、【上古の学問儀式】にのっとって神々に祈る天皇を【宗教的儀式に勤(いそ)しんでいる】と単純化して錯覚(さっかく)する学者たちの憶測(おくそく)・憶説(おくせつ)に騙(だま)されて、メディアと国民は天皇をこぞって誤解している。
 
◆紀元前3000年ころに生存した倉頡が考案した原初漢字の書契(しょけい)は、天文学で【夏の銀河】と呼ばれる・夏の全星座が漬()かる銀河から作られた。
 「春の銀河」「秋の銀河」「冬の銀河」と呼ばれる銀河からは倉頡は文字を作らなかった。
 紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭にわが国に伝来して習得された夏音(かおん)文字は、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられて現存し、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存し、『万葉集』にも多数記載されて現存する。この夏音文字は倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】から作られた。
 紀元前1300年ころからはじまる殷代(いんだい)後半の甲骨(こうこつ)文字はじめ周代に用いられた金文、また大篆(だいてん)、その後の小篆(しょうてん)、隷書(れいしょ)、そして7世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書、これら全漢字は倉頡が発明した【夏の銀河各部の形状】から作られた。

◆前回(18)のブログで解説したように、五帝時代の書契・夏音文字・殷代前半の原初漢字
は倉頡が「文字が【夏の銀河】から作られた秘密を暴露した者、またその一族全員を神罰が下って死刑に処する」と定めた三つ掟によって、【夏の銀河各部の形状】が文字となった。
 倉頡が作った書契はじめ7世紀の隋代に完成した楷書までの全漢字は「【夏の銀河】から漢字が作られた秘密」を厳重にまもって、【夏の銀河各部の形状】を字源・字形・字義と定めた。
 だから、字源・字形・字義をあらわす【夏の銀河各部の形状】も【文字】であった。
 現在、学説上においては【夏の銀河各部の形状】は【文字】と認められていないが、実際は【夏の銀河各部の形状】は【文字】であった。
 「【夏の銀河各部の形状】は、【文字】であった」という事実をあらわす儀式と大祭が即位式と大嘗祭である。
 【夏の銀河各部の形状】は【文字】であった――この事実を明確に示す文献が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻である。また中国にあって、紀元前54世紀ごろに生存した老子の教えを説く『老子』であり、紀元前1世紀に生存した司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀・夏本紀であり、さらに“字書の聖典”と尊重される2世紀前半に生存した許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』である。

◆【夏の銀河各部の形状】は【文字】であった事実を、前回のブログでは即位式正殿の儀に登場した天皇が昇った玉座・高御座(たかみくら)と皇后が昇った玉座・御帳台(みちょうだい)が常設されている「紫宸殿(ししんでん、ししいでん/京都市の京都御所に所在する)」の「紫宸」という宮殿名をもって証明した。
 「紫宸」という宮殿名は【夏の銀河北部】となる【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】とその南西近くの[][]の字源となる【禾(イネ)が枯れずに育つ水田へ引く農業用水となる豊かな水のイメージとなる銀河、あるいは胎児の出産を容易にする産道を湿潤(しつじゅん)する愛の水・羊水に見立てられた銀河】とで作られた。
 この二つの銀河のうち、[][]の上部の[]の字源・字形・字義となった【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】であった。というのも、前回のブログで指摘したように――【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「朝顔の蕾の形」に相似する。ゆえに、「朝顔の花の色は紫色である」から、「紫宸殿」の[]をあらわしたからである。
 テレビに映ったように、即位式正殿の儀に登場した屋根が八角形となる高御座と御帳台の八面の(八角形となる)(とばり/カーテン)は「朝顔の花の色の紫色」であった。
 そして、高御座に登った天皇と御帳台に登った皇后は八面の帳の中に隠れていたが、高御座と御帳台の八面のうちの前面の三面の扉が開かれて、天皇と皇后の姿が現れた。
 この時の「開けられた三面の帳」は「朝顔の蕾」をあらわした。〔注、つまり「八面の帳が開けられる」は「夏の早朝、大きく開く朝顔の花」をあらわしたゆえ、「開けられた三面の帳」は「正午の朝顔のように萎(しぼ)む蕾の形」をあらわした〕。

◆「牽牛子」という3字は「あさがお」と読み、つまり「朝顔の花」を意味する。
 奈良県の明日香(あすか)村大字越に所在する飛鳥駅の西方、丘陵の端にある八角形の古墳は「牽牛子塚古墳」であり、その「牽牛子」は「あさがお」と読む。
 【夏の銀河の北部】にある【子ども(胎児や乳児)の姿に似る銀河の北部の銀河】は「西から東へ飛ぶ鳥の羽(両翼)の形」に相似するゆえ、【子どもの姿に似る銀河】は「鳥の体に相似する」と見立てられて、「飛鳥(あすか)」という語となった。
 太陽は東の地平線(水平線)から昇って、西の地平線(水平線)に没してまた東の地平線(水平線から現れると「明日」となる。だから、上記した【西から東へ飛ぶ鳥の姿に似る銀河】は「太陽が西の地平線(水平線)に没して東の地平線(水平線)から出現する明日が来る気配(けはい/香)がする」ということになって「明日香」という地名となり、また「飛鳥」という地名や時代名となったのである。
 「牽牛星」という漢名(中国の名称)はわが国では「彦星」と呼ぶ。彦星の周囲の銀河の形は「牛の正面の顔」の形に相似するゆえ、漢名は「牽牛星」となった。
 []の字源・字形・字義は「ウシ」ではなく、麝香(じゃこう)の匂いがする「ジャコウウシ」であった。
 「朝顔の蕾の形」に相似すると見立てられた【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「牽牛子」の語源であった。ゆえに、「牽牛子」は「あさがお」と読むことになったのである。

◆このブログで毎回のごとく指摘しているように、紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)であった倉頡(そうきつ)は漢字作成方法を発明した。
 倉頡が生存した五帝時代初頭、中国各地(日本列島も各地でも)の天頂(てんちょう)に【妊婦の姿に似る銀河】がめぐってきた。
 倉頡は【妊婦の姿に似る銀河】を【夏の銀河各部の形状から作った全漢字が生まれる母体】と定め、【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】を【全漢字が生まれる子宮】と定めた。
 そして、倉頡は【子宮はじめとする産道や卵管・卵巣などで組織される女性生殖器を衛(まもる)骨盤】を注目し、【骨盤】をあらわす(象徴する)神聖な獣(けだもの)、つまり【骨盤を象徴する聖獣(せいじゅう)】を「牛」と定めた。
 倉頡が[]と定めた聖獣は「ジャコウウシ」であった。したがって、[]の字源・字形・字義(原義)は「ジャコウウシ」であった。
 中国のツンドラ地帯に生息したジャコウウシは五帝時代には百頭以上の群れとなって行動したと推定されている。このジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、円陣を組み円陣の中心に子どもを隠して防衛する習性があった。
 子ども(胎児)を育てて出産する女性の生殖器(せいしょくき)の多くは骨盤内(こつばんない)にある。
 ゆえに、倉頡は「子宮をふくむ女性生殖器を衛る骨盤」を「牛(ジャコウウシ)の群れが組む円陣」と見立て、「子宮に宿る胎児」を「ジャコウウシの群れが円陣の中心に隠す子(胎児)」と見立てて、「ジャコウウシ」を「倉頡が発明した漢字作成方法を象徴する聖獣」と定めた。
 上記したように、倉頡は【妊婦の姿に似る銀河】を「【夏の銀河各部の形状】から作られた全漢字が生まれる母体」と定め、また【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】を「全漢字が生まれる子宮」と定めた。
 これゆえ【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「牽牛、つまりジャコウウシの群れが円陣の中心に隠す子(胎児)」に見立てられ、また【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「朝顔の蕾に相似する」と見立てられたゆえ、「牽牛子」は「あさがお(朝顔)」と読まれることになったのである。
 だから、上記したように「牽牛星」は「彦星」を意味し、「牽牛子」は【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】を意味することになったのである。
 そして、「牽牛」すなわち「ジャコウウシ」は「麝香の匂い」がするゆえ、上記した「明日香」という語には「香」の字が加えられたのである。

◆牽牛子塚古墳は国の史跡に指定され、飛鳥時代の女帝である天智天皇・天武天皇の生母とされる第37代斉明(さいめい)天皇にして第35代皇極(こうぎょく)天皇の陵墓であると推定されている。
 斉明天皇は第34代舒明(じょめい)天皇と結婚し、皇后時代は「宝皇女」と呼ばれ、また「岡本天皇」とも呼ばれた。
 『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌の題詞は「岡本天皇の御歌(みうた)一首 幷()わせて短歌」である。
 この3首の和歌は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわし、しかも『古事記』上巻に記述された伊耶那岐命の墓の秘密を現在に伝えている――この3首の和歌の解説と証明は次回(20)にておこなうことにする。

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2019年11月 5日 (火)

#18 邪馬台国説はフェイクであった!

★即位礼と大嘗祭は宗教的儀式ではなく、学問儀式であった

◆令和元年の1022日におこなわれた即位礼正殿の儀と翌1114日の夕刻から翌日未明におこなわれる大嘗祭(だいじょうさい)について、朝日新聞は「宗教的儀式であるから、政教分離など憲法上の疑義は将来の課題として残る」と報道する。
 この朝日新聞の報道は、明確に誤報・虚報(きょほう/デマ・フェイク)である。
 朝日新聞の誤報の原因は、このブログが前回(17)まで解説してきたように【学者たちの誤読の空論の邪馬台国説と日本神話虚構説】を鵜呑(うの)みにする無知・無学である。
 朝日新聞やNHKはじめメディアはこぞって、学者たちが【誤読】を加えて捏造(ねつぞう)した【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説】をもてはやし、【『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された日本神話は物語であって、歴史を伝える記録ではないと断定する日本神話虚構説】は正しいと報道し、【空想】・【空論】を日本国中に蔓延(まんえん)させている。
 ところが、『古事記』の上巻に【誤読】を加えないと【『古事記』上巻の日本神話は歴史を伝える記録である実体】が科学的に具体的に容易に証明でき、おのずと【『日本書紀』神代紀も歴史を伝える記録】であったことになる。
 学者が捏造する【誤読の空論】のため、国民は【日本神話は歴史を伝える記録である実体】を知ることができないため、国民は【神々への祈りが天皇の最も重要な任務】と思い込む。だから、「即位式正殿の儀と大嘗祭を宗教的儀式である」と説明する虚報・誤報を信用する。

◆江戸中期・17世紀~18世紀に生存した新井白石(あらいはくせき)以来300年、最も正しいと信じられている九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は【誤読の空論】であった。
 また江戸時代の18世紀に生存した本居宣長(もとおりのりなが)の注釈書『古事記伝』にもとづいて学者たちが立論する日本神話虚構(きょこう)説も【誤読の空論】であった。
 即位礼正殿の儀と大嘗祭は――【1)紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法と、【2】紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に伝来してわが国が習得した夏音(かおん)文字の学芸と、【3】日本国(小国・日本)誕生史と日本建国の〔愛〕の理念――を表示する儀式と大祭(たいさい)である。

◆前回(17)のブログで要略(ようりゃく)して解説したように、3世紀に中国で著作された倭女王・卑弥呼(ひみこ)が登場することで有名な、約2000字で構成される『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の(1)500字・約25%の記事は【1】倉頡が発明した漢字作成方法と、(2)400字・約20%の記事は【2】夏音文字の学芸と伝来と習得について説明し、(3)600字・約30%の記事は【3】日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念を伝える。

 『古事記』の序は「古事記上巻 幷()わせて序」と題して、その冒頭で【2】について「後期縄文時代初頭、わが国に夏音文字の学芸が伝来して習得した」と記述する。
 そして、「古事記上巻 幷わせて序」の末部で――楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と説明する。
 『古事記』の序(「古事記上巻 幷わせて序」)は「楷書と夏音文字は共に銀河各部の形状から作られた。だから『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の語を表記する楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史(日本国誕生史はじめその後の上古史)が鮮烈に甦(よみがえ)る」と歴史解明方法を説明する。
 ところが、学者たちは「古事記上巻 幷わせて序」に、きちっと記述された歴史解明方法が読解(どっかい)できない。このため、彼らは「『古事記』上巻は歴史を伝えない。物語である」と主張して【空想・空論】に憑()りつかれる。

◆令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)では、【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説と日本神話虚構説は完全なる誤読の空論】である実体を、詳細に具体的に【科学】が成立するように解説して証明した。
 この点に疑問を抱く方は、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
7世紀の隋(ずい)代で楷書は完成した。この楷書以前の全漢字は倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる・夏の全星座が漬()かる巨大な銀河各部の形状から作られた。「銀河」の別名は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と称したのである。この「銀漢」が【夏の銀河】であり、倉頡は「春の銀河」「秋の銀河」「冬の銀河」からは「漢字」を作らなかった。
 倉頡は自らが考案した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れることができる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字知識を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配して――(1)文字は【夏の銀河各部の形状】から作られたことを暴露した者、(2)文字を容易に習得するために、【夏の銀河各部】に名称を付けた者、(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者――この三つの掟(おきて)をやぶった人物また一族全員に神罰が下って即刻に死刑に処すると定めた。
 上記した(3)の掟は、紀元前1300年ころ殷代(いんだい)後半初頭から出現した甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟は厳重に守った。
 だから、(1)の掟によって学者たちは【文字は夏の銀河から作られた秘密】に気づかない。また(1)の掟のために、学者たちは――【夏の銀河から多数の文字を作ることができる方法を倉頡は発明した。この秘密はわが国に、夏代初頭に夏音文字の学芸が伝来したからである】と表示する儀式が即位式であり、この大祭が大嘗祭である事実に気づかない。
 倉頡が定めた(2)の掟のために、【楷書以前の全漢字の字源・字形・字義となった夏の銀河各部の名称】は、現在においても、学者たちによって付けられていない。
 上記したように、「古事記上巻 幷わせて序」(『古事記』の序)は――「『古事記』上巻の随所にある〔音〕という注が付く夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば、上巻に記述された【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】が尊重された上古史が解明できる――と、歴史解明方法を具体的に説明している。
 しかし、現在の学者たちは「古事記上巻 幷わせて序」が説明する歴史解明方法について読解することができない。だから、学者たちは「『古事記』上巻の日本神話は歴史を説明する記録ではない。物語・虚構(きょこう)である」と断定する。
 これゆえ、学者たちは即位式と大嘗祭は宗教的儀式であると錯覚(さっかく)・空想する。

◆上記した倉頡が発明した【死刑と定めた三つ掟】によって――【夏の銀河各部の形状】は倉頡が考案した書契(しょけい)はじめ楷書と夏音文字、また甲骨文字や大篆(だいてん)・小

(しょうてん)・隷書(れいしょ)など、7世紀に完成した楷書以前の全漢字の字源・字形・字義となった。
 ゆえに、字源・字形・字義をあらわす【夏の銀河各部の形状】も【文字】であった。
 学説上は【夏の銀河各部の形状】は【文字】ではないが、実際において【夏の銀河各部の形状】は【文字】であった。
 「【夏の銀河各部の形状】は、【文字】であった」という事実をあらわす儀式と大祭が即位式と大嘗祭であった。
 【夏の銀河各部の形状】は【文字】であった――この事実を明確に示す文献が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻である。また中国にあって、紀元前54世紀ごろに生存した老子の教えを説く『老子』であり、紀元前1世紀に生存した司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀・夏本紀であり、さらに“字書の聖典”と尊重される2世紀前半に生存した許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』である。

◆即位式と大嘗祭は()【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と、()【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を表示する儀式と大祭である事実は、このブログの#12と前回(17)で解説したように――大嘗祭は17381119日に本格的に復興した、この秘密を注目すると、容易にしかも正しく知ることができる。
 大嘗祭は、112代天皇であった霊元(れいげん)上皇の熱意と将軍吉宗(よしむね)の協力により実現したと伝わる。
 霊元上皇の指導のもとに――()戦国時代から約22年間中断していた以前の即位式と大嘗祭と、()将軍秀忠と幕府が【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興を欲求して造営した桂離宮(かつらりきゅう)の庭園の設計と、()108代天皇であった後水尾(ごみずのお)上皇が「【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興の承認を認める」と表現した扁額(へんがく)の秘密を合体して――即位式と大嘗祭は復興した。
 つまり、()徳川家康が一生賭けて復興しようとした【日本建国の〔愛〕の理念】は皇室がまもりつづけて天照大御神の遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)によって成就しなかった。3世紀に生存した大和朝廷の基礎を築いた天照大御神(10代崇神天皇と崇神帝の生母)の遺勅は「学問すなわち【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】を政権基盤にすれば皇室は最も強大な権力を手に入れて栄えて永(なが)らく存続できる。この学問に対抗して、人民は伊耶那美命・9代開化天皇の正妃・竹野比売(たかのひめ)にして『魏志倭人伝』末部に登場する倭女王・壱与(いよ)がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して反乱・革命をおこす可能性がある。ゆえに、【〔愛〕を国作りの柱にして日本国(小国・日本)が誕生した歴史】は抹殺・消滅に努めて、絶対に後世に伝えてはならない」であった。家康の遺志は将軍秀忠と幕府が受け継いで達成する宿題となったため、京都市に所在する桂離宮の御殿・建物や庭園平面図に【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸、日本建国の〔愛〕の理念】が設計された。この桂離宮の庭園は、当時の天才芸術家であった小堀遠州(こぼりえんしゅう)が将軍秀忠と幕府に命令されて、1623年~1645年に病床に伏せるまでの22年間情熱を傾けて作成された。ゆえに、霊元上皇は桂離宮の御殿・建物の配置や庭園平面図にもとづいて即位式と大嘗祭を復興した。
 また()108代天皇であった後水尾上皇が1663年ころ以後に作った京都に所在する修学院離宮の浴竜池(よくりゅういけ)に浮かぶ三つの築島(つきしま)中央の建物「窮邃亭(きゅうすいてい)」にかかげられた陶器製の八角形を二つ連結した形の扁額(へんがく)をもって【日本建国の〔愛〕の理念の復興】を承認した。これゆえ、霊元上皇は後水尾上皇が作った扁額のデザインも考慮して即位式と大嘗祭を復興することにした。

◆要するに、()桂離宮の御殿・建物の配置と庭園平面図にもとづいて、霊元上皇の指導のもとに即位式と大嘗祭は本格的に復興されたことになる。
 というのは、桂離宮の御殿・建物の配置と庭園平面図には天照大御神の遺勅となる【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】が設計され、戦国時代以前の即位式と大嘗祭は天照大御神の遺勅にのっとり皇室を存続させるためにおこなわれていたゆえ、桂離宮の御殿・建物の配置と庭園の平面図は()戦国時代以前の即位式と大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】をあらわす儀式と大祭であったとあらわしたからである。
 また、()後水尾上皇が作った扁額は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす桂離宮庭園の平面図の中枢部から造形・デザインされた。
 だから、()「桂離宮の御殿・建物の配置と庭園平面図にもとづいて、即位式と大嘗祭は本格的に復興された」と結論・要略してよいことになる。

◆上記したように――【夏の銀河各部の形状】は全漢字の字源・字形・字義となったゆえ、【夏の銀河各部の形状】は、実際、【文字】であったという――この実体をあらわす儀式が即位式正殿の儀であり、この大祭(たいさい)が大嘗祭であった。

 令和元年1022日の即位式正殿の儀のおける天皇の玉座(ぎょくざ)の高御座(たかみくら)と、皇后の玉座の御帳台はともに、京都市の京都御所の紫宸殿(ししんでん、ししいでん)に常設されている。
 平安中期以後、大内裏(だいだいり)の正殿であった大極殿(だいごくでん)が衰亡したため、即位礼や大嘗祭などの重要行事が行われる「紫宸殿」と呼ばれることになった。
 大内裏の正殿名「大極」と「紫宸殿」の「紫宸」という名称は【夏の銀河の同一部分】から作られた。
 倉頡が生存した五帝時代、中国の天頂に【夏の銀河の北端】にある【乳房と子宮に相当する箇所と子を孕(はら)んで円く前に突き出る腹部(おなか)を有する、妊婦(にんぷ)の姿に似る銀河】と、その西隣に【母親の乳房を嘗()める子どもの横顔に似る銀河】がめぐってきた。(ただし、【母親の乳房を嘗める子どもの横顔より下の下半身に似る銀河】は中国の天頂より北側を通過した。
 倉頡は【妊婦の姿に似る銀河】を【夏の銀河各部の形状から作られた全漢字を生む母体】、【妊婦の姿に似る銀河で子宮に相当する銀河部】を【全漢字が生まれる子宮】と定めた。
 【全漢字が生まれる子宮】と定められた【妊婦の姿に似る銀河で子宮に相当する銀河部】は[][]の字源となった。ゆえに、大内裏の正殿の名は「大極殿」となった。
 【子どもの横顔に似る銀河の口と舌】は「【妊婦・母の姿に似る銀河の乳房の銀河部】を嘗()めて乳を吸()う様子」に観えるゆえ、[]の字源となった。だから、【妊婦の姿に似る銀河】が[]に、【妊婦の姿に似る銀河の乳房部と子どもの横顔に似る銀河の口と舌】の[]が加わって「大嘗」となるゆえ、「大嘗祭」は【夏の銀河各部の形状は、文字であった】という事実をあらわす大祭であったことになる。
 「文字」の[]の金文(きんぶん/周代に用いられた漢字)の字形は「おなかに胎児が宿る妊婦の姿」を図案するゆえ、【妊婦の姿に似る銀河】が[]の字源・字形・字義であった。「文字」の[]について、『説文解字』は「乳(にゅう)するなり」、つまり「子が乳を飲むなり」と解説する。ゆえに、[]の上部の[(べん)/ウ冠]の字源・字形・字義は【妊婦の姿に似る銀河(の乳房)】であり、[]の下部の[]の字源・字形・字義は【子どもの横顔に似る銀河を中心とした、子どもの姿に似る姿】ということになる。
 だから、「大極殿」の「大極」・「大嘗祭」「大嘗」とそして「文字」の三つの語の語源は同一の【妊婦の姿に似る銀河と子どもの姿に似る銀河】ということになった。

◆【妊婦の姿に似る銀河で子宮に相当する銀河部】は「朝顔の花の蕾(つぼみ)の形」に相似すると見立てられて、「紫宸殿」の[]の字源となった(朝顔の花は「紫」)
 「朝顔の花の蕾の形」に相似する【妊婦の姿に似る銀河における子宮の銀河部】は[]の字源【妊婦の姿に似る銀河の乳房】と重なって東側に寄って隣接する。
 「紫宸殿」の[]の上部[]の字源銀河は[][]の字源となった【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】であった。[]の下部[]の字源銀河は【母親の乳房を嘗める子どもの横顔に似る銀河】に隣接して東南にある[][][][][]などの字源銀河であった。この[]の字源銀河は「産道を湿潤(しつじゅん)にして、胎児の産道の通過を容易にして、産道内の不潔物を洗い出す羊水(ようすい)」にも見立てられた。
 []の字源銀河は「激流や洪水や地震」にも観()える形状をしているため[][][]の字源となった。
 しかし、[]の字源銀河は「田・畑の土をやわらかにして作物が豊かに実り、禾(イネ)が育つ水田へ引く農業用水となる豊かな水」にも見立てられて[]の字源となり、「産道を湿潤にして、胎児の産道の通過を容易にして胎児の命をまもる、神の恵みすなわち〔愛〕の水である羊水」にも見立てられた。
 前述したように、[]の上部[]の字源銀河は[][]の字源【妊婦の姿に似る銀河のおける子宮の銀河部】、[宸]の下部[]の字源銀河は[]の字源【田・畑の土をやわらかにし作物が豊かに実り、禾(イネ)が育つ水田へ引く農業用水となる豊かな水のイメージとなる銀河】にして、また【胎児の出産を容易にする産道を湿潤する愛の水・羊水に見立てられた銀河】であった。
 以上のごとく、「紫宸殿」の[]の字源は【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】、「紫宸殿」の[]の字源は【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部と、禾(イネ)が枯れずに育つ水田へ引く農業用水となる豊かな水のイメージとなる銀河、言いかえると胎児の出産を容易にする産道を湿潤する愛の水・羊水に見立てられた銀河】であった。
 ゆえに、「紫宸殿」は「紫宸」は「【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづいて多数の子どもたちの出産と禾()の豊作を祈願するための宮殿」であったことになる。
 以上、京都市の京都御所・紫宸殿に常設される即位式正殿の儀で用いられた高御座と御帳台は、天皇と皇后が【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】にのっとって天の神に洪水・地震・飢饉(ききん)の災害がおきないように【稲の豊作】と【日本建国の〔愛〕の理念】を祈願(きがん)するための装置(調度品)であったのである。

◆上記したように、【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「朝顔の花の蕾(つぼみ)の形」に相似すると見立てられて、「紫宸殿」の[](朝顔の花の「紫」)の字源となった。
 夏には夜間に全漢字が作られた【夏の銀河】が最も長時間ながめることができる。その夏の早朝、直径1020cmに開く漏斗(じょうご)形の朝顔の花が葉腋(ようえき)13個咲く。昼になると、朝顔の花は萎(しぼ)んで[(つぼみ)]の形になる。
 【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】の真南に「正午()、垂直に立つ木の真南に隠れる太陽(日輪)」に見立てられた【同心円形を半分に割る・三本線の半円形の銀河部】がある。
 〔注 三本線の同心半円形の銀河部の「三本の半円は(1)夏至と(2)春分・秋分・(2)冬至の太陽の日周運動の円弧」をあらわし、その中央部が「太陽が正午に位置する真南」を示す〕。

 ゆえに、【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「朝顔の蕾」に見立てられた(正午の朝顔の花はしおれて蕾の形となる)。だから、草冠()の下に[]が加えられて[]という字が作られた。
 【正午、垂直に立つ木の真南に隠れる太陽に見立てられた三本線の半円形の銀河部】の西側に[][]の字源【禾(イネ)が枯れずに育つ水田へ引く農業用水となる豊かな水のイメージとなる銀河(胎児の出産を容易にする産道を湿潤する愛の水・羊水に見立てられた銀河)】が隣接する。
 「朝顔の蕾の形」に相似する【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「子どもを出産するときに母親があげる大声は雷の音、つまり雷鳴(らいめい)」に見立てられた。だから、【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は、草冠(朝顔の花)[]が加わる[]の字源となった。
 【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は[]、つまり「イネの穂」にも見立てられた。ゆえに「雷鳴」に見立てられた【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「稲妻(いなづま)」の語源となり、むかしから「雷神が稲穂(いなほ)を孕(はら)ませ鈴なりに実らせるゆえ、夏に稲妻が光る年は豊作」と言い伝えられるようになったのである。

◆上記したように、全漢字が作られた【夏の銀河の北部】にある[][]の字源銀河は「激流や洪水や地震」にも観()える。このため、「朝顔の蕾」に見立てられた【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「朝顔の花が萎(しぼ)む蕾」に見立てられ、[]の下部の[]は「勢いよく流れる激流や洪水や地震」ではなく「禾(イネ)が枯れずに育つ水田へ引く農業用水となる豊かな水」と「激流のごとく勢いよく流れて出産児の命を奪わない・胎児の出産を容易にして産道を湿(しめ)らせ潤(うるお)す愛の水・羊水」に見立てられた。
 だから、中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]は「雨だれのおちる軒(のき)」と解説する。ゆえに、[]の字は「雨だれが軒から滝のごとくおちて、地上にあふれる洪水」を意味しないことになった。
 []の字は「軒からおちる雨だれは禾(イネ)を順調に育てる恵みの雨」と「産道を湿潤して胎児の出産が容易にする愛の水・羊水」をあらわすことになった。 

◆天皇は国家の繁栄と国民の幸福を願って日々神に祈るゆえ、学者や知識たちやメディアは表面的にとらえられて「神道(しんとう)の祭祀者(さいししゃ)である」と誤解する。
 しかし、天皇は「倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸の【学問】にのっとって、国家の繁栄と国民の幸福を祈願する大王」であった。
 したがって、現在の天皇は「倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸の【学問】にのっとって、国家の繁栄と国民の幸福と世界の平和を祈願する日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」ということになる。

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2019年11月 1日 (金)

#17 邪馬台国説はフェイクであった!

★朝日新聞とあさひテレビの即位礼の報道は明らかに誤報である!

◆令和元年1022日の朝日新聞の11面の〔「即位の礼」と天皇制〕の記事に登場した学者とあさひテレビの羽鳥モーニングショウに出演した評論家は「即位礼正殿の儀を【宗教的儀式である】と断定し、政教分離において問題がある」と主張したが――この朝日新聞・あさひテレビの「即位礼正殿の儀は宗教的儀式」とする意見は空想・空論・デタラメであった。
 このブログが前回(16)まで証明してきたように、即位礼正殿の儀と翌1114日夕方から翌日未明におこなわれる大嘗祭(だいじょうさい)は宗教的儀式ではなく、明らかに学問儀式である。

◆即位礼正殿の儀と大嘗祭は、卑弥呼や邪馬台国論争で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記述された【上古の学問】をあらわす儀式である。
 『魏志倭人伝』は3世紀後半(280289)に中国で著作され、約2000字で構成される。
 (1)その全2000字のうち、約25%・約500字の記事は「紀元前3000年ころに生存した中国・五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」について説明する。
 (2)『魏志倭人伝』の約20%・約400字は「紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国は原初漢字の夏音(かおん)文字の学芸が伝来し習得した。ゆえに、わが国には倉頡が発明した漢字作成方法が正確に保存された」と説明している。
 (3)『魏志倭人伝』の後半の「景初(けいしょ)二年六月」という記事から末部までの約30%・約600字の記事は【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】について説明する。
 したがって、今日、国民的常識となる九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所も関係しない【完全なる誤読の空理空論】ということになる。
 即位礼と大嘗祭は上記の(1)(2)(3)の【倉頡が発明した漢字作成方法・夏音文字の学芸・日本国誕生史・日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす【学問儀式】であったのである。

◆上記した『魏志倭人伝』の(3)の記事【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話初頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に、詳細に記述されている。
 ただし、淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を知るには、この説話における5ヵ所に〔音〕という注が付く夏音文字で構成される語に用いられる各字の字源・字形・字義の秘密を解明しなければならない。
 『古事記』序(古事記上巻 幷わせて序)の冒頭と末部は「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の語の秘密を解明すれば、『古事記』上巻に記述された歴史を明確に知ることができる」と説明する。しかし、学者たちは『古事記』序に記述された歴史解明方法の記事を読解(どっかい)することができない。だから、学者たちは【多数の誤読】を加えて『古事記』の序に記述された歴史解明方法を排除して無視する。
 というのも学者たちは、本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著作した注釈書『古事記伝』をテキストとするが、宣長は『古事記』の序に記述された歴史解明方法の記事を読解できなかったことに気づいていないからである。このため、学者たち『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を読解することができない。
 このため、現在の学者たちは「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語るものではない。物語・虚構(きょこう)である」という空想を日本中に蔓延(まんえん)し拡散(かくさん)する。
 ゆえに、現在、【誤読の空論の日本神話虚構説】は定説となり国民的常識となる。

◆国民的常識の【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説と日本神話虚構説は誤読の空論】である実体は、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に明確に解説し証明した。
 この点に疑問を抱く方は、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆代々の天皇は皇祖・天照大御神(『魏志倭人伝』が著作された同時代・3世紀後半に生存した第10代崇神天皇と崇神帝の生母)の遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)を厳重にまもったため、皇室は滅びず存続した。
 皇祖・天照大御神の遺勅は「皇室が永らく栄えるために、【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】を権力基盤とせよ。この権力基盤の学問に対して、人民にとっては【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが勝(まさ)るゆえ、国中の人民が【日本建国の〔愛〕の理念】をかかげて反乱を起こすと皇室は滅亡する可能性が大となる。だから、絶対に【日本誕生史】は後世に伝わらないように排除(はいじょ)し抹殺(まっさつ)せよ」であった。
 上巻の淤能碁呂島聖婚説話で【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えた『古事記』は712128日に元明(げんめい)天皇に献上されたが、『古事記』は【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために著作した歴史書であることを察知した元明天皇は天照大御神の遺勅をまもって即座に献呈を拒絶した。
 このため、『古事記』は正史になれず皇室を滅亡させる危険思想を養う禁書となった。

2011730日に発行された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』(幻冬舎ルネサンス発行)で詳細に解説し証明したように――徳川家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生を賭けた。
 家康は死去する一年前の1615年に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し、その第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。
 この第一条は「天子(天皇・上皇)はわが国の文化(諸芸術・諸芸能、つまり文化)の生みの親と、皇祖・天照大御神の遺勅の学問(【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】)を第一番に大切にしてください」と意味した。
 『古事記』序(古事記上巻 幷わせて序)の初頭部には「陰陽斯(いんようここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文がある。
 この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国の諸芸能(日本文化)の生みの親です」と意味した。
 だから、「禁中並公家諸法度」の第一条の「天子諸芸能ノ事」という文は「天子、わが国の諸芸能の生みの親である伊耶那美命と伊耶那岐命による【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興をお願いします」と意味するものであった。

◆家康が全情熱をかたむけた【日本国誕生史】を復興する心願は天照大御神の遺勅をまもり続ける皇室の方針によって成就(じょうじゅ)しなかった。
 しかし、家康の遺志は将軍と江戸幕府が受け継いで達成する宿題となった。
 将軍秀忠と幕府は京都市に所在する桂離宮(かつらりきゅう)の庭園の平面図に【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を設計して、第108代天皇であった後水尾(ごみずのお)上皇に家康の遺志・心願成就を願った。
 後水尾上皇はいっこうに【日本国誕生史の復興】を承認しなかった。
 幕府は1655年ころから1659年にかけて修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)を造営した。この離宮の大庭園・上御茶屋(かみのおちゃや)は「浴竜池(よくりゅういけ)」という名の池を中心として造られた。
 「浴竜池の平面図」は桂離宮庭園の東北部の大鳥の形をした庭園南部にある「天橋立(あまのはしだて)」の三つの築島(つきしま)周辺を設計するものであった。
 桂離宮の三つの築島周辺、また三つの築島周辺から表門にかけての平面図は「日本国(小国・日本)であった東日本(東海東部・関東地方)を象徴する富士山を模(かたど)る設計」となり、そして中央の築島の南面には「蓬莱山」の形に観える「蓬莱岩」を配置して【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

 後水尾上皇の【日本国誕生史】の復興の承認を得るために幕府が造営した修学院離宮の浴竜池には桂離宮の築島と同じく三つ築島が配置され、北から順に「三保島」、「窮邃島(きゅうすいとう)」、「万松塢(まんしょうう)」という名がつけられた。
 「三保島」は「徳川家康が晩年を過ごした、富士山が見える名所・駿河の三保の松原」に由来した。「窮邃島」の[]の字を用いる「邃古(すいこ)」という語は「上古」を意味したゆえ「上古史を窮(きわ)めれば解明できる日本国誕生史」と意味した。「万松塢」の[]の字は「土手道(どてみち)」を意味したゆえ「幕府の万(多数)の松の木を植える東海道整備事業と示すところの松並木と、【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた伊耶那美命をあらわす土手道」を意味することになった。

◆後水尾上皇は16583月に始めて桂離宮を御幸(みゆき)して見学した。上皇は16633月にも桂離宮を見学した。
 上皇は桂離宮の「蓬莱岩」がある中央築島に相当する修学院離宮の浴竜池に浮かぶ「窮邃島」の建物「窮邃亭」に、陶器で作った扁額(へんがく)を創(つく)って、天照大御神の遺勅を廃して、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念の復興】を承認すると表示した。
 上皇が創った扁額は二つの八角形の両端が中央で重なり連結し、八角形の枠(わく)は「四つの富士山を模(かたど)って八角形の枠組」にしたものであった。
 八角形の枠は緑、右側の八角形中央に上皇直筆の[]の字を・左側の八角形中央に上皇直筆の[]の字を配置する。
 二つの八角形が重なり合う箇所は「縦長の六角形の亀甲文(きっこうもん)」となる。この「亀甲文」は桂離宮の「蓬莱岩」と古代絵図「亀の甲羅に乗る蓬莱山」をあらわす。
 扁額の亀甲文の中央には出産祝いに用いられる赤色の水引(みずひ)き文がデザインされ、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 また、八角形の【緑色の枠】は「万松塢」の「松の緑色の葉」をあらわし、また「桂離宮で有名な笹垣(ささがき)」をもあらわした。
 桂離宮の庭園を見学するときは、桂川の右岸の塢(土手道)を進む。道の右手に竹藪(たけやぶ)の【緑色の小竹(こたけ)】を折り曲げて編んだ竹の葉が、そのまま壁となる素朴でたいへん美しい生垣(いけがき)が約230メートルつづく。この生垣は「桂垣」または「桂の笹垣」と称されて有名である。笹垣の内側が桂離宮である。
 古図を見ると、桂の笹垣の左側の塢(土手道)はかつて松並木となっていた。だから、修学院離宮の浴竜池に浮かぶ「万松塢」は「幕府がおこなう万(たすう)の松の木を植える東海道の景色」から連想される「桂川の右岸の松並木と笹垣の土手道」を指していたことになる。
 後水尾上皇は、【桂離宮の緑色の笹垣】をあらわすために【窮邃亭にかかげた富士山をデザインした八角形を横並びにして重ねる扁額の枠】を【緑色】にしたのである。

◆【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた「13歳で小国・日本の女王となった伊耶那美命」は『魏志倭人伝』に記載された倭国(西日本)の伊耶(伊邪)国で生まれた。
 したがって、小国・日本と倭国の人民は「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい女王」ということで、彼女を「伊耶那美命」と愛称して尊敬したのである。
 「伊耶国」は「旧国の丹波」(現在の京都府中部と兵庫県の一部)であった。
 桂離宮の南側は伊耶那美命の生地丹波とつながる旧丹波街道である。
 『古事記』中巻の第9代開化天皇紀は「春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで天下を治めた天皇の正妃は、丹波出身の竹野比売(たかのひめ)であった」と記す。
 (注 開化天皇の居殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」が「若き日の開化帝は伊耶那岐命であった」、「開化帝の正妃の竹野比売は伊耶那美命」であったと伝える)
 だから、伊耶那美命の本名は「竹野比売」であるゆえ、桂離宮の「笹垣」と庭園南側の「丹波街道」は「丹波出身の竹野比売」をあらわし、竹野比売は日本最古の小説『竹取物語』のヒロイン「竹の筒が生まれたかぐや姫」のモデルであったことになる。したがって『竹取物語』は「強大な権力・天照大御神の遺勅によって排除された【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマとする、反権力風刺小説」であった。その証拠に、『竹取物語』は最後には「伊耶那美命・竹野比売が女王に就任して赴任した小国・日本(日本国)」を象徴する「富士山」が、また後水尾上皇の扁額の八角形の枠のデザインとなった「富士山」が登場する。

◆伊耶那美命の夏音名(夏音文字の名)は『魏志倭人伝』末部に記載される「壱与(いよ)」であった。
 『魏志倭人伝』の後半から壱与が登場する末部までの約600字・約30%の記事は――倭国の国中の人民は13歳のときに小国・日本の女王となった伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して、卑弥呼の墓を作ったときに百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪して武器を持って倭王朝軍と戦った。この倭国の大乱に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が戦争を挑んできたため、倭王朝は滅亡の危機におちいった。この災厄の原因は「【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた伊耶那美命に全責任がある」と倭王朝は非難し、伊耶那美命は倭女王壱与に就任して大乱を鎮(しず)めまた狗奴国を討伐しなければならないと、倭王朝は命令した――と説明するものであった。

◆以上のごとく、即位式正殿の儀において天皇と皇后が昇る高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)の【八角形の屋根】は修学院離宮の窮邃亭にかかげられた【扁額の二つの八角形を連結させる意匠(いしょう)】にもとづき、後水尾上皇が承認した【日本建国の〔愛〕の理念の復興】をあらわす儀式であった。
 だから、屋根が八角形となる高御座と御帳台に天皇と皇后が昇る即位式正殿の儀は、扁額中央の「赤色の水引き文」が「たくさんの子どもが生まれて国土に人民が満ち満ちあふれる」と表現する【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であったことになる。

◆江戸中期の学者・新井白石(あらいはくせき)が【誤読の空論の九州邪馬台国説と畿内(大和)邪馬台国説】をとなえた以来約300年も経過したにもかかわらず、学者たちは「九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所も関係しない、完全なる誤読の空論」と指摘する学者は一人もいない。
 新井白石は6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の側用人(そばようにん)・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幕政を実質的に主導し、「正徳(しょうとく)の治()」と呼ばれる積極的な文治(ぶんじ)政治を展開する一時代の一翼(いちよく)をになった。この「正徳の治」は、理想的な封建政治をめざすものであったが、伝統的な譜代(ふだい)勢力などの反対が根強く、1716516日に幕府は間部詮房・新井白石を罷免(ひめん)した。
 1716813日に吉宗(よしむね)8代将軍になると追放され、以来1725519日に死去する10年間、著述活動をした。
 白石は1716年に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作し、大和邪馬台国説を立論した。その後、白石は1722年ころに著作した『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』と他の著書などで九州邪馬台国説を主張した。

◆白石が邪馬台国を立論した当時は、第114代中御門(なかみかど)天皇が在位していた(1709727日~1735413日までが在位期間)。だから、当然、即位が前年・過去となっていた中御門天皇の在位中には、即位式とセットとなる大嘗祭を本格的に復興して【日本誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を表示することはできなかった。
 白石の死去から13年後の17381119日に本格的に復興された大嘗祭は、中御門天皇の祖父の112代天皇であった霊元(れいげん)上皇の熱意と将軍吉宗の協力により実現したと伝えられる。というのも、朝廷と幕府は先例調査と実施報告の詳細の記録を残しているからである。
 霊元上皇は『魏志倭人伝』に多数の誤読を加えて新井白石が捏造(ねつぞう)した空理空論の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説に激しいショックをうけた。白石がデッチあげた【誤読の邪馬台国説】は皇室を滅ぼし、日本国を滅ぼし、さらに日本民族は愚弄(ぐろう)されて滅びると激しいショックをうけた上皇は、天照大御神の「日本国誕生史を抹殺せよ」という遺勅を破棄(はき)して、中御門天皇の次の代で戦国時代から約220年間中断していた大嘗祭を本格的に復興することを決意した。
 1696年に霊元上皇の第8子・作宮(さくみや)親王が桂離宮を所有することになり「常盤井宮(ときわいのみや)と称して夭折(ようせつ)した。作宮の兄の文仁(あやひと)親王が「京極宮(きょうごくのみや)」と改称して桂離宮を所有した。ゆえに、霊元上皇は後水尾上皇が作った八角形の扁額は【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす桂離宮庭園デザインの中枢部から作られたことを知っていた。
 新井白石の死後7年後の173286日に、霊元上皇が没した。
 ゆえに、大嘗祭の本格的復興計画は、霊元上皇の指導のもとに孫の中御門天皇、息子の桂離宮離宮の所有者の作宮親王と文仁親王の意見も加えられて進展するものであったにちがいない。
 1735331に中御門天皇の子・第115代桜町(さくらまち)天皇が即位し、5月後の822日に幕府は5万石以上の諸大名に命じて朝廷に銀を贈らせて即位を祝賀した。この祝賀銀は、大嘗祭を本格的に復興するために資金が必要な皇室を援助するためのものであったにちがいない。
 1737411日、中御門上皇が没した。
 戦国時代に中断して以来約220年後に大嘗祭を本格的な復興するための万全(ばんぜん)の準備期間が必要となったうえに、1735年に桜町天皇が即位した直後には大嘗祭は再興できず、また中御門上皇の崩御もあったため、桜町天皇が即位した38カ月後の17381119日に大嘗祭がおこなわれることになったのであろう。

◆令和元年の1114日夕方から翌日未明に、天皇が一代で一度だけ臨(のぞ)む大嘗祭においての中心儀式では――天皇の頭上に御菅蓋(ごかんがい)という王冠をかかげて、白い生絹(すずし)の御祭服(ごさいふく)をお召しになって、葉薦(はごも)の御筵道(ごえんどう)を進む。
 この儀式は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【皇室が天照大御神の遺勅を廃して日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念の復興を承認した事実】を表示するものであった。
 だから、天皇の頭上に高々とかかげられる王冠・御菅蓋の上の大鳥の飾りは、霊元上皇の子の親王たちが所有した桂離宮庭園の東北部の大鳥の形の庭園に設計された【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】をあらわすデザインであった。
 また、御菅蓋の下の菅笠(すげかさ)は後水尾上皇が修学院離宮の窮邃亭にかかげた扁額のデザインモチーフとなった(1)桂離宮の三つの築島周辺から表門にかけての富士山を模(かたど)る設計、(2)三つのうちの中央の築島の南面に設置された「蓬莱山」、(3)月波樓(げっぱろう)北隣に平面図が三角形の庭園、(4)平面図が「乳房を嘗()める乳児の横顔における口部の形」をした庭園池の西岸の南西と大山島西端連結部で表現された【日本建国の〔愛〕の理念】と「大嘗祭」という語の語源をあらわす意匠(いしょう)であった。
 (注 大山島の[]と乳児が母親の乳房を嘗めるの[]を加えると「大嘗」となる)

◆以上のごとく、白石の死から約300年間も学者たちが受け継ぎ、朝日新聞やNHKなどのメディアがもて囃(はや)して国民的常識となった畿内邪馬台国説・九州邪馬台国説と日本神話虚構説は皇室を滅ぼし、日本国を衰退させ、「日本国民の頭脳や知性では邪馬台国説と日本神話虚構説は誤読の空論である実体がわかりっこない」と日本国民を愚弄する詐欺(さぎ)・ウソ八百であったのである。
 『魏志倭人伝』の後半部の記事と『古事記』上巻に記述された「多数の子どもが生まれて国土に満ち満ちあふれる」とあらわす【日本建国の〔愛〕の理念】は廃(すた)れて、現在、わが国は人口減少・少子化によって国力衰退の坂道を転げ落ちている。
 邪馬台国説と日本神話虚構説は皇室を滅ぼし、日本国を壊滅させ、日本国民を愚弄(ぐろう)して騙(だま)して国力を衰退させる祟(たた)りである。
 だから、学者たちが学問を鼻にかけ、朝日新聞やNHKなどのメディアががやがやと言いたてて報道する邪馬台国説と日本神話虚構説は日本国民にとって最悪の祟りである。

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