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2019年11月 6日 (水)

#19 邪馬台国説はフェイクであった!

★即位礼と大嘗祭は宗教的儀式ではなく、学問儀式である

◆このブログは、前回(18)の続きである。
 今回だけのブログでは、説明が不十分で理解できない点は前回を参照していただきたい。

◆令和元年の1022日におこなわれた即位礼正殿の儀と翌1114日の夕刻から翌日未明におこなわれる大嘗祭(だいじょうさい)について、朝日新聞は「宗教的儀式であるから、政教分離など憲法上の疑義は将来の課題として残る」と報道する。
 この朝日新聞の報道は、明確に誤報・虚報(きょほう/デマ・フェイク)であった。
 朝日新聞の誤報の原因は、【学者たちの誤読の空論の邪馬台国説と日本神話虚構説】を鵜呑(うの)みにする無知・無学である。
 朝日新聞やNHKはじめメディアはこぞって、学者たちが【誤読】を加えて捏造(ねつぞう)した【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説】をもてはやし、【『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された日本神話は物語であって、歴史を伝える記録ではないと断定する日本神話虚構説】は正しいと報道し、【空想】・【空論】を日本国中に蔓延(まんえん)させている。
 ところが、【誤読】を加えないと3世紀後半に著述された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は【九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説】と一ヵ所も関係しない書物であったと証明される。
 また、『古事記』上巻の日本神話に【誤読】を加えずに『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)が説明する歴史解明方法にのっとると、【『古事記』上巻は歴史を伝える記録である実体】が科学的に具体的に証明でき、おのずと【『日本書紀』神代紀の日本神話も歴史を伝える記録】であったことになる。
 学者が捏造する【誤読の空論】のため、国民は【日本神話は歴史を伝える記録である実体】を知ることができないため、国民は【神々への祈りが天皇の最も重要な任務】と思い込む。これゆえ、国民は学者たちの【誤読の空論】を鵜呑(うの)みするメディアの「即位式正殿の儀と大嘗祭を宗教的儀式である」と指摘する虚報・誤報を信用する。

◆江戸中期・17世紀~18世紀に生存した新井白石(あらいはくせき)以来300年、最も正しいと信じられている九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は【誤読の空論】であった。
 また江戸時代の18世紀に生存した本居宣長(もとおりのりなが)の注釈書『古事記伝』にもとづいて学者たちが立論する日本神話虚構(きょこう)説も【誤読の空論】であった。
 即位礼正殿の儀と大嘗祭は【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説と日本神話虚構説は明確に誤読の空論である】とあらわす儀式と大祭(たいさい)である。
 前回(18)のブログで具体的に説明して証明したように、即位礼と大嘗祭は――『魏志倭人伝』に記述された【1】紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法と、【2】紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に伝来してわが国が習得した夏音(かおん)文字の学芸と、そして『魏志倭人伝』の後半と『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された【3】日本国(小国・日本)誕生史と日本建国の〔愛〕の理念――を表示する儀式と大祭(たいさい)である。
 上記したように、学者たちは新井白石以来約300年間『魏志倭人伝』に【誤読】を加える考え方こそ正しいと主張し、『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)を【誤読】して記述されている『古事記』上巻における歴史解明方法を従わずに本居宣長が著作した注釈書『古事記伝』のとおりに「物語である」という憶説(おくせつ)や先入観の基(もと)に読解(どっかい)する考え方こそが正しいと断定する。
 だから、即位式と大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす学問儀式である実体が、現在、不明になった。

◆令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)では、【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説と日本神話虚構説は完全なる誤読の空論】である実体を、詳細に具体的に【科学】が成立するように解説して証明した。
 この点に疑問を抱く方は、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆前々回(17)のブログで指摘したように、令和元年1022日におこなわれた即位式正殿の儀と、翌1114日の夕方から翌日未明におこなわれる大嘗祭は、3世紀後半から戦国時代までの儀式と大祭と相違する。
 というのも、戦国時代から約220年間中断していた大嘗祭は、【日本建国の〔愛〕の理念の復興】に全情熱をかたむけた徳川家康の遺志の達成を宿題にした将軍秀忠と江戸幕府が京都市に所在する桂離宮(かつらりきゅう)の庭園を作って、新井白石の死から13年後の17381119日に改まって、新大嘗祭が本格的に復興されたからである。
 戦国時代以前の大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】にのっとる大祭であったが、1738年の新大嘗祭では家康の遺志となった『魏志倭人伝』の後半と『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】が新たに加えられた。

◆学者たちは【神道(しんとう)における神々への祈りが天皇の最も重要な任務】と思い込むゆえ、国民もこれを信じるゆえ、即位式と大嘗祭は宗教的儀式であると思い込む。
 しかし、【天皇は上古学問(倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸)にのっとって神々に祈願するものであり、また天皇の最も重要な任務は日本建国の〔愛〕の理念を保存し、洪水や地震や飢饉など災害がおこらないように国家の繁栄と国民の幸福を神々に祈願すること】であった。
 だから、【上古の学問儀式】にのっとって神々に祈る天皇を【宗教的儀式に勤(いそ)しんでいる】と単純化して錯覚(さっかく)する学者たちの憶測(おくそく)・憶説(おくせつ)に騙(だま)されて、メディアと国民は天皇をこぞって誤解している。
 
◆紀元前3000年ころに生存した倉頡が考案した原初漢字の書契(しょけい)は、天文学で【夏の銀河】と呼ばれる・夏の全星座が漬()かる銀河から作られた。
 「春の銀河」「秋の銀河」「冬の銀河」と呼ばれる銀河からは倉頡は文字を作らなかった。
 紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭にわが国に伝来して習得された夏音(かおん)文字は、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられて現存し、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存し、『万葉集』にも多数記載されて現存する。この夏音文字は倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】から作られた。
 紀元前1300年ころからはじまる殷代(いんだい)後半の甲骨(こうこつ)文字はじめ周代に用いられた金文、また大篆(だいてん)、その後の小篆(しょうてん)、隷書(れいしょ)、そして7世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書、これら全漢字は倉頡が発明した【夏の銀河各部の形状】から作られた。

◆前回(18)のブログで解説したように、五帝時代の書契・夏音文字・殷代前半の原初漢字
は倉頡が「文字が【夏の銀河】から作られた秘密を暴露した者、またその一族全員を神罰が下って死刑に処する」と定めた三つ掟によって、【夏の銀河各部の形状】が文字となった。
 倉頡が作った書契はじめ7世紀の隋代に完成した楷書までの全漢字は「【夏の銀河】から漢字が作られた秘密」を厳重にまもって、【夏の銀河各部の形状】を字源・字形・字義と定めた。
 だから、字源・字形・字義をあらわす【夏の銀河各部の形状】も【文字】であった。
 現在、学説上においては【夏の銀河各部の形状】は【文字】と認められていないが、実際は【夏の銀河各部の形状】は【文字】であった。
 「【夏の銀河各部の形状】は、【文字】であった」という事実をあらわす儀式と大祭が即位式と大嘗祭である。
 【夏の銀河各部の形状】は【文字】であった――この事実を明確に示す文献が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻である。また中国にあって、紀元前54世紀ごろに生存した老子の教えを説く『老子』であり、紀元前1世紀に生存した司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀・夏本紀であり、さらに“字書の聖典”と尊重される2世紀前半に生存した許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』である。

◆【夏の銀河各部の形状】は【文字】であった事実を、前回のブログでは即位式正殿の儀に登場した天皇が昇った玉座・高御座(たかみくら)と皇后が昇った玉座・御帳台(みちょうだい)が常設されている「紫宸殿(ししんでん、ししいでん/京都市の京都御所に所在する)」の「紫宸」という宮殿名をもって証明した。
 「紫宸」という宮殿名は【夏の銀河北部】となる【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】とその南西近くの[][]の字源となる【禾(イネ)が枯れずに育つ水田へ引く農業用水となる豊かな水のイメージとなる銀河、あるいは胎児の出産を容易にする産道を湿潤(しつじゅん)する愛の水・羊水に見立てられた銀河】とで作られた。
 この二つの銀河のうち、[][]の上部の[]の字源・字形・字義となった【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】であった。というのも、前回のブログで指摘したように――【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「朝顔の蕾の形」に相似する。ゆえに、「朝顔の花の色は紫色である」から、「紫宸殿」の[]をあらわしたからである。
 テレビに映ったように、即位式正殿の儀に登場した屋根が八角形となる高御座と御帳台の八面の(八角形となる)(とばり/カーテン)は「朝顔の花の色の紫色」であった。
 そして、高御座に登った天皇と御帳台に登った皇后は八面の帳の中に隠れていたが、高御座と御帳台の八面のうちの前面の三面の扉が開かれて、天皇と皇后の姿が現れた。
 この時の「開けられた三面の帳」は「朝顔の蕾」をあらわした。〔注、つまり「八面の帳が開けられる」は「夏の早朝、大きく開く朝顔の花」をあらわしたゆえ、「開けられた三面の帳」は「正午の朝顔のように萎(しぼ)む蕾の形」をあらわした〕。

◆「牽牛子」という3字は「あさがお」と読み、つまり「朝顔の花」を意味する。
 奈良県の明日香(あすか)村大字越に所在する飛鳥駅の西方、丘陵の端にある八角形の古墳は「牽牛子塚古墳」であり、その「牽牛子」は「あさがお」と読む。
 【夏の銀河の北部】にある【子ども(胎児や乳児)の姿に似る銀河の北部の銀河】は「西から東へ飛ぶ鳥の羽(両翼)の形」に相似するゆえ、【子どもの姿に似る銀河】は「鳥の体に相似する」と見立てられて、「飛鳥(あすか)」という語となった。
 太陽は東の地平線(水平線)から昇って、西の地平線(水平線)に没してまた東の地平線(水平線から現れると「明日」となる。だから、上記した【西から東へ飛ぶ鳥の姿に似る銀河】は「太陽が西の地平線(水平線)に没して東の地平線(水平線)から出現する明日が来る気配(けはい/香)がする」ということになって「明日香」という地名となり、また「飛鳥」という地名や時代名となったのである。
 「牽牛星」という漢名(中国の名称)はわが国では「彦星」と呼ぶ。彦星の周囲の銀河の形は「牛の正面の顔」の形に相似するゆえ、漢名は「牽牛星」となった。
 []の字源・字形・字義は「ウシ」ではなく、麝香(じゃこう)の匂いがする「ジャコウウシ」であった。
 「朝顔の蕾の形」に相似すると見立てられた【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「牽牛子」の語源であった。ゆえに、「牽牛子」は「あさがお」と読むことになったのである。

◆このブログで毎回のごとく指摘しているように、紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)であった倉頡(そうきつ)は漢字作成方法を発明した。
 倉頡が生存した五帝時代初頭、中国各地(日本列島も各地でも)の天頂(てんちょう)に【妊婦の姿に似る銀河】がめぐってきた。
 倉頡は【妊婦の姿に似る銀河】を【夏の銀河各部の形状から作った全漢字が生まれる母体】と定め、【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】を【全漢字が生まれる子宮】と定めた。
 そして、倉頡は【子宮はじめとする産道や卵管・卵巣などで組織される女性生殖器を衛(まもる)骨盤】を注目し、【骨盤】をあらわす(象徴する)神聖な獣(けだもの)、つまり【骨盤を象徴する聖獣(せいじゅう)】を「牛」と定めた。
 倉頡が[]と定めた聖獣は「ジャコウウシ」であった。したがって、[]の字源・字形・字義(原義)は「ジャコウウシ」であった。
 中国のツンドラ地帯に生息したジャコウウシは五帝時代には百頭以上の群れとなって行動したと推定されている。このジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、円陣を組み円陣の中心に子どもを隠して防衛する習性があった。
 子ども(胎児)を育てて出産する女性の生殖器(せいしょくき)の多くは骨盤内(こつばんない)にある。
 ゆえに、倉頡は「子宮をふくむ女性生殖器を衛る骨盤」を「牛(ジャコウウシ)の群れが組む円陣」と見立て、「子宮に宿る胎児」を「ジャコウウシの群れが円陣の中心に隠す子(胎児)」と見立てて、「ジャコウウシ」を「倉頡が発明した漢字作成方法を象徴する聖獣」と定めた。
 上記したように、倉頡は【妊婦の姿に似る銀河】を「【夏の銀河各部の形状】から作られた全漢字が生まれる母体」と定め、また【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】を「全漢字が生まれる子宮」と定めた。
 これゆえ【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「牽牛、つまりジャコウウシの群れが円陣の中心に隠す子(胎児)」に見立てられ、また【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】は「朝顔の蕾に相似する」と見立てられたゆえ、「牽牛子」は「あさがお(朝顔)」と読まれることになったのである。
 だから、上記したように「牽牛星」は「彦星」を意味し、「牽牛子」は【妊婦の姿に似る銀河の子宮の銀河部】を意味することになったのである。
 そして、「牽牛」すなわち「ジャコウウシ」は「麝香の匂い」がするゆえ、上記した「明日香」という語には「香」の字が加えられたのである。

◆牽牛子塚古墳は国の史跡に指定され、飛鳥時代の女帝である天智天皇・天武天皇の生母とされる第37代斉明(さいめい)天皇にして第35代皇極(こうぎょく)天皇の陵墓であると推定されている。
 斉明天皇は第34代舒明(じょめい)天皇と結婚し、皇后時代は「宝皇女」と呼ばれ、また「岡本天皇」とも呼ばれた。
 『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌の題詞は「岡本天皇の御歌(みうた)一首 幷()わせて短歌」である。
 この3首の和歌は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわし、しかも『古事記』上巻に記述された伊耶那岐命の墓の秘密を現在に伝えている――この3首の和歌の解説と証明は次回(20)にておこなうことにする。

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