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2019年11月17日 (日)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・1

★#1・大嘗祭に白く輝く【天皇陛下の供饌の儀の銀河】

◆令和元年1114日、夕方から翌15日未明にかけて大嘗祭(だいじょうさい)が行われた。
 大嘗祭が開始された午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)に灯りがともされ、【天皇陛下が供饌(きょうせん)の儀をおこなう所作(しょさ)を示す銀河の北端の銀河部】が子午線通過した。この【天皇陛下の供饌の所作を示す銀河の北端の銀河部】は大嘗祭が終わる時刻には北から25度くらいの北北西の地平線に没した。
 したがって、【白く輝く供饌の儀の所作を示す銀河の北端の銀河部】が子午線通過して地平線に没するまで、【白く輝く供饌の所作を示す銀河】に呼応(こおう)して、天皇陛下は五穀豊穣(こごくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を願って供饌の所作の儀礼を合計1000回余も丁寧(ていねい)に繰り返していたことになる。というのも、「国家安寧」の[]の字は「丁寧」の[]の字であったからである。
 【白く輝く供饌の所作を示す銀河の北端の銀河部】は【天皇陛下が供饌(きょうせん)の儀をおこなう所作(しょさ)で示される[][][]と「五穀豊穣」をあらわす[()](穀物)[]の文字(字源・字形・字義)となった銀河】であった。
 だから、【白く輝く天皇陛下の供饌の儀の銀河】が明示するように、大嘗祭の本質・実体は上古の学問を表示する儀式であって、大嘗祭は宗教的儀式ではなかったのである。

1114日の東京の日没時間は、大嘗祭が開始される2時間前の午後435分であった。
 太陽が地平線から姿を消しても、まだ空は真っ暗にならず、天文学で【夏の銀河】と呼ばれる「天の川」は見えない。このうす暗いころの時間を「薄明時(はくめいじ)」という。
 太陽が地平線下18度の所まで沈むと、薄明時が終わり、大嘗祭が開始される時刻(午後6時半)となって、空が真っ暗となり、電気が発明されていない地上灯火が乏しかった暗い江戸時代の東京(江戸)の空ならば【夏の銀河】は光り輝いた。
 【夏の銀河】は【夏の全星座が漬()かる銀河】であり、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は地平線から現れるときには【夏の銀河の東端】、高く登っている時には【夏の銀河の北端】となる。

◆大嘗祭が行われる令和元年1114日の朝日新聞の朝刊の1面記事は、13日午前に撮影した「報道関係者に公開された大嘗宮の写真」を掲載して、下記のごとく報道する。
 「宮内庁は13日、大嘗宮周辺の様子を報道陣に公開した。大嘗宮には砂利が敷き詰められ、悠紀殿(ゆきでん)や主基殿(すきでん)に続く廊下には白い布が敷かれるなど、準備は大詰めを迎えている。(中略)。大嘗祭は、天皇陛下が新米などを神々に供え、五穀豊穣(ごこくほうじょう)や国家安寧(こっかあんねい)を祈る儀式。大嘗宮の儀は、東側の悠紀殿は14日午後6時半から、西側の主基殿で15日午前0時半から行われる。」

14日の夕方午後6時半、すっかり辺り一面夜陰で暗闇と化し、大嘗宮(だいじょうきゅう)に焚き火の灯がともされた。
 午後6時半、テレビの画面に――白い布でおおわれた廊下に2名の侍従が葉薦(はこも)・別名御筵道(ごえんどう)を解き延べ先導する後ろに天皇陛下の頭上に御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高く差しかかげて、東側の悠紀殿に向かう天皇一行の行列が現れた。
 この大嘗祭が開始される2時間前の、薄明時が始まる午後435分、大嘗宮の天頂(最も高い高度90度の天体部)に、【人の横顔の酷似する銀河のほぼ中央の、右目の形となる銀河部】がめぐってきていた。この【人の横顔の酷似する銀河】は【夏の銀河の北部】に位置する。
 【人の横顔に酷似する銀河における両目の上の額(ひたい)の銀河部】には、天文学で「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる銀河部がある。
 「北天の最輝部」は「白く(銀白色に)輝く、北半球の人々が最も輝いて見える銀河部」である。
 1114日の薄明時が始まった午後435分、「北天の最輝部」は天頂点から北東45度の位置に存在した。さらに、「北天の最輝部」に隣接する「右手に観える銀河」や「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」さらにその後ろの北東45の高度70度~60度の位置に、[][][]の字源と[()](五穀豊穣をあらわすイネや麦などの穀物)の字源・字形・字義となった【人の正面形に似る銀河】が位置した。
 したがって、【人の正面形に似る銀河から人の横顔に酷似するまでの銀河までの形状】が、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】ということになる。【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、薄明時が始まる午後435分であったゆえ、その形状を見ることができなかった。
 薄明時が終わる午後6時半、星座盤で調べると、[][][][](五穀豊穣をあらわすイネや麦などの穀物)の字源となった【人の正面形に似る銀河】が大嘗宮の天頂(高度90)近くの真北(高度約70度~約80)で子午線通過していた。
 このとき、【人の正面形の銀河】の西側近くにある【天皇陛下のお顔】に相当する【人の横顔に酷似する銀河】の高度は約60度~約70度であった。
 したがって、大嘗祭が開始された午後6時半、【天皇陛下がお供えものを三つずつ白い小皿の合計1000回余も丁寧(ていねい)に繰り返して分ける所作の、供饌の儀の銀河部】が大嘗宮の真上の天空(高度60度~80)にめぐってきており、天皇陛下の供饌の儀の開始に呼応して北北西の地平線にて没するまでの運行が始まろうとしていたことになる。


 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】の東端部となる[][][][]の字源となる【人の正面形に似る銀河】は「西側半分が妊婦の姿に相似し、東側半分が左手に弓を持つ男性の姿に相似し、この男女一体の銀河は人の正面形」に相似する。(私が著作した書物では、この銀河を【十字の銀河】と名づけることにした)
 西側の「主基殿供饌(すきでんきょせん)の儀」が始まった15日の午前0時半、【十字の銀河(人の正面形に似る銀河)】は、北西の地平線近くに位置し、3時間半後の午後4時ころに北北西の地平線の下に没して姿を消した。
 この【十字の銀河(人の正面形に似る銀河)】が地平線に没するまでの間、天皇陛下は「主基殿供饌(しゅきでんきょうさん)の儀、つまり天皇陛下は正座して供饌から三つずつ小皿に丁寧に分ける500回余り繰り返す所作」をお勤(つと)めしていたことになる。

◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は白く輝き、そのうちの【天皇陛下のお顔に相当する、人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)】には【北天の最輝部】があり、銀白色に輝く。
 だから、銀白色に輝く【北天の最輝部】から白く輝く【十字の銀河】までで構成される【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「銀河」の語源であったことになる。
 また【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、英語「the Milky Way」すなわち「ミルキー・ウエイ」すなわち「銀河」の語源をあらわす「母乳(ミルキー)のように白く輝く銀河」であったことになる。

◆朝日新聞はじめすべてのテレビ局は「大嘗祭は宗教的儀式である」と報道した。
 だから、大多数の国民は「大嘗祭は宗教的儀式にちがいない」と思い込むかもしれない。
 しかし、大嘗祭の実体は――【天皇陛下の供饌の儀の銀河】の秘密をあらわす、いうなれば【全漢字は銀河から作られた】という古代学問の秘密をあらわす学問儀式――であったのである。
 天皇陛下が悠紀殿と主基殿で正座してピンセットのような竹製の箸(はし)でお供(そな)えものを摘()まんで小さな皿に移す行為を合計1000回余も辛抱強くおこなう所作(しょさ)のおける、「竹製の箸」・「供饌」に相当するのは【十字の銀河】である。
 供饌から小分けする三つの供え物(食べ物)」と「小皿」は【三つの粒(つぶ/短い三本線)の銀河部】が相当する。この【三つの粒の銀河部】は【妊婦の姿に似る十字の銀河西半分の妊婦の腹部(おなか)のように観える銀河部から垂れる、三つの粒または短い三本線の形状銀河部】である。また、【三つの粒の銀河部】は合計1000回余も繰り返して天皇陛下が供饌から三つずつ分けて【丁寧に】小皿に移す所作によって「国家安寧」の[]の字源・字形・字義をあらわした。
 【大嘗祭で天皇陛下が合計1000回余も丁寧に繰り返す供饌から三つだけお供えものをピンセットのような形をした箸で摘まんで小皿に移す所作】は【全漢字は銀河から作られた学問の秘密】をあらわしていた。
 「銀河」の別称は「銀漢」または「天漢」といい、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられたのである。
 【全漢字が作られた銀河】は、天文学では通称【夏の銀河】と呼ばれ、上記したように【夏の全星座が漬()かる銀河】を【夏の銀河】と呼ぶ。
 だから、【夏の銀河から作られた文字】は「漢字」と呼称されることになったのである。
 【夏の銀河】は「はくちょう座からさそり座までが漬かる銀河」であり、【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】よりも大きい、最も巨大にして各部の形が最も明確な・何万字という多数の漢字を生んだイメージ豊かな壮大な銀河である。
 上記した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「はくちょう座の両翼部分を含まない、はくちょう座の顔から胴体・尾の部分までが漬かる銀河」ということになる。
 
◆紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭の生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は漢字作成方法を発明した。
 7世紀の隋代(ずいだい)に楷書が完成した。この7世紀以前の倉頡が考案した書契(しょけい)までの全漢字は、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河の各部の形状】から作られた。
 【全漢字は夏の銀河から作られた事実】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆『古事記』上巻の序は太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。太安万侶は『古事記』の序を【古事記上巻 幷()わせて序】と表記し、「『古事記』上巻だけに〔音〕という注を付ける音文字は夏音(かおん)文字である。夏音文字は【夏の銀河の各部の形状】を【文字】(字源・字形・字義)とした」と説明するものであった。
 というのも、漢字作成方法を発明した倉頡は「書いた文字は用済みになったならば直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族には、天罰が下って即刻に死刑にする」と定めた。この掟のために、原初漢字の夏音文字では【夏の銀河の各部の形状】が【文字】(字源・字形・字義)となった。
 上記したように、楷書も倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河の各部の形状】を字源・字形・字義とした。だから、『古事記』上巻の随所に記載された〔音〕という注が付く夏音文字の語を記す楷書各字の字源・字形・字義によって、「楷書と夏音文字は共に【夏の銀河各部の形状】から作られた事実」が解明され証明されることになる。
 この秘密を、【古事記上巻 幷わせて序】の末部は――楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義である――と説明して、【楷書と夏音文字はじめ全漢字は倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって夏の銀河各部の形状から作られた事実】を伝えていたのである。
 【古事記上巻 幷わせて序】の冒頭は「臣安万侶言(しんやすまろまを)す」と記す。
 次の「それ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く、為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文で、太安万侶はわが国に中国から夏音文字が伝来して習得された歴史を、下記のごとく説明していたことになる。
 「漢字が発明されていなかった紀元前4000年ころの中国とわが国の各地において前期縄文時代初頭以前における天頂にめぐってくる銀河の形状は混沌(こんとん)として凝り固まっていましたが、文字となる気象(イメージ)は未だ現れていませんでした。ですから、文字で名をあらわすことも無く、文字で名をあらわす方法もありませんでした。ゆえに、現在において(『古事記』が完成した712年当時)、前期縄文時代初頭以前の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができません。しかし、紀元前4000年ころからから始まる前期縄文時代、倉頡が漢字作成方法を発明した紀元前3000年ころから始まる中期縄文時代、紀元前2070年~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭までの参時代においては、[]の字源・字形・字義となった【夏の銀河の最北端部にある、乾いた沙漠のようなイメージの銀河部】と、その隣に[]の字源・字形・字義となった【十字の銀河】が天頂にめぐってきましたから、わが国では造化(芸術作品)の〔【夏の銀河】の印象をあらわす、表面に渦巻き文が全面にほどこされる土器〕や〔【十字の銀河】や【人の横顔に酷似する銀河か夏の銀河の西南部】までの印象をあらわす、人体を模(かたど)る土偶(どぐう)〕が作られて、【夏の銀河を見たときの人々の印象】が伝えられ、後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、わが国に伝来した夏音文字は【夏の銀河の印象】をあらわす土器・土偶を造った芸術家たちによって習得されました。」
 だから、【古事記上巻 幷わせて序】は――倉頡が漢字作成方法を発明した約950年後の紀元前2070年~紀元前2050年ころの後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡の掟によって、夏の銀河の各部の形状が文字(字源・字形・字義)となった夏音文字の学問】が中国から伝来して習得された――と伝えていたことになる。
 皇室は【倉頡は発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸の学問】を権力と財力基盤にして厳重な機密にして独占管理して栄えたゆえ、現在まで存続して滅びなった。
 だから、現在の大嘗祭が本格的に復興された1738年当時の皇室は、上記した【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文が伝える事実をもちろん知っていた。ゆえに、大嘗祭において悠紀殿と主基殿で天皇陛下による供饌の儀がおこなわれる伝統が現在まで受け継がれることになった。しかし、現在の学者たちは一人も【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文を正確に読解(どっかい)できないゆえ、彼等は「学問儀式の【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」と錯覚する幻想に憑()りつかれる。

◆【古事記上巻 幷わせて序】の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字を習得した」という記述は事実であった。
 だから、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した字源を解説する字書の『字統(じとう)(平凡社発行)の〔わが国の漢字音〕と題する初頭の文は「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという定説は誤っている。中国の上古音よりも古い・現存する最古の漢字音がわが国には保存されている事実」を、次のように説明する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文が明確に伝えるように、【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字の学問を習得した」という説明を学者たちは正しく読解できずに【誤読】するゆえ、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという空理空論・空想・幻想に憑()りつかれる。
 中国における現存する最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、「紀元前1046年の周代初頭~2世紀の後漢時代までの漢字音」とされる。
 したがって、中国の上古音における最古は紀元前1046年ということになるゆえ、【古事記上巻 幷あせて序】が説明する「紀元前2070年~紀元前2050年ころの夏代初頭の夏音文字の字音」は、中国の上古音より約1000年前の現存する最古の漢字音となる。
 現存する最古の漢字音を伝える夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて楷書を音符にして多数表記される。
 だから、上記したように【天皇陛下の供饌の儀の銀河の各部の形状】が[][][][]はじめ[][][][][][]などの字源・字形・字義となるように、夏音文字は【夏の銀河の各部の形状】が字源・字形・字義となって現在も実在するものであったことになる。


◆「【天皇の神々の祈り・即位式正殿の儀・大嘗祭】は宗教的儀式である」と主張する学者たちは【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「わが国は夏音文字を習得した」と説明する記事を読解することができない。
 大嘗祭における悠紀殿の「悠紀」を「ゆき」と読んで「ゆうき」と読まない事情と、主基殿の「主基」を「すき」と呼んで「しゅき」と読まない事情は、11音読みの夏音文字の読み方をあらわしていたのである。
 3世紀(280289)に著作された倭女王卑弥呼が登場する『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
は約2000字で構成される。
 (1)『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は帯方の東南」という文から30の小国を説明する記事までの約500字・約25%の記事は【倉頡が発明した漢字作成方法】を説明するものであり、(2)また『魏志倭人伝』の約400字・約20%の記事は【夏音文字の習得】について説明する記事である。
 しかし、「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀ないし6世紀である」という空想・幻想を抱く学者たちには、『魏志倭人伝』の(1)【倉頡が発明した漢字作成方法】を説明する記事と、(2)【夏音文字の習得】を説明する記事がまったく読解できない。
 だから、大嘗宮の天頂近くの高い空にある【天皇陛下の供饌の儀の銀河】が北北西の地平線に消えるまでの運行に呼応して、天皇陛下が供饌の儀をおこなった事実を――学者はじめメディアはまったく知らないゆえ「大嘗祭は宗教的である」と思い込んだのである。

学者たちは現存する最古の漢字音を保存する夏音文字が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っていることを知らない。だから、学者たちは「【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」という空理空論・妄想を抱く。
 上記した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】によって、【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は学問儀式であることが証明される。
 また【大嘗宮】はじめ【天皇陛下が着る最も清浄で神聖とされる白絹の祭服】、【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下一行の行列】、【悠紀殿・主基殿の内部の配置の様子の推測イメージ】などによっても、「大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と証明できる。
 次回から幾回になるかはわからないが、数回をもって「大嘗祭は学問儀式である証明」を解説する。

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