« #19 邪馬台国説はフェイクであった! | トップページ | 大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・1 »

2019年11月 8日 (金)

#20 邪馬台国説はフェイクであった!

★即位礼と大嘗祭は宗教的儀式ではなく、学問儀式である

◆学者たちはじめメディアは「天皇がおこなう神々の祈りは神道(しんとう)にもとづく祈りである。ゆえに、天皇の最も重要な任務は神道の神々への祈りであるから宗教的儀式という儀式となる。だから即位式正殿の儀と大嘗祭は宗教的儀式である」と思い込む。
 しかし、実体は【天皇の神々の祈りは上古の学問にもとづく祈りであるゆえ、宗教的儀式ではなく学問儀式であった。だから、即位式と大嘗祭は学問儀式であった】ことになる。
 このように、学者たちの「宗教的儀式」と錯覚(さっかく)する憶測(おくそく)・憶説(おくせつ)を信用して、メディアと国民はこぞって天皇を誤解している。
 このブログは、前回(19)で解説・証明しなかった『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌を注目して――令和元年1022日の即位式正殿の儀と翌1114日の夕方から翌日の未明の大嘗祭(だいじょうさい)は学問儀式であることを証明する。
 ゆえに、このブログで不明な点や説明不足な点は前回のブログを参照していただきたい。

◆前回のブログでも不明な点や説名不足な点は、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。
 ですから、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌の題詞は「岡本天皇の御歌(みうた)一首 幷()わせて短歌」である。ゆえに、この3首の和歌は飛鳥時代の女帝の第35代皇極(こうぎょく)天皇、また第37代斉明(さいめい)天皇が第34代舒明(じょめい)天皇の皇后・宝(たから)皇女と呼ばれていた時に作った和歌であると考えるべきことになる。宝皇女は第38代天智天皇と第40代天武天皇の生母である。

 「岡本天皇」は舒明天皇と宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)の二人であるが、歌の内容からして『万葉集』485番・486番・487番の3首の作者は「宝皇女」であったにちがいない。
 この3首は「舒明天皇が、宝皇女と蘇我入鹿(そがいるか)の仲を疑っている」と皇后が詠()んでいることになる。
 「岡本天皇」は「舒明天皇と皇后・宝皇女」であるゆえ、この3首は舒明天皇が皇后の身になって作った和歌であった可能性はゼロではないが、万が一舒明天皇が作った和歌であったとしても、舒明天皇が皇后と蘇我入鹿の仲を疑って詠んだことになる。
 朝日新聞の令和元年118日の27面「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事の一節は――文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」は天武天皇の即位に際してはじめて実施されている――と指摘する。
 即位において初めて大規模の大嘗祭をおこなった天武天皇の両親・岡本天皇のどちらかがが作った『万葉集』485番・486番・487番の3首によって、神秘のベールに包まれる大嘗祭の本質を知ることができる。

◆神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 神代のイザナミノミコト(伊耶那美命)が小国・日本の女王に就任してイザナキノミコト(伊耶那岐命)とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の大群のように、わたしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまえ、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

 伊耶那岐命は第9代開化天皇であった。『古事記』中巻の開化(かいか)天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた」と記述する。開化天皇が住んだ宮殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」の先頭2字「伊耶」と同字であるゆえ、「伊耶那岐命」は「開化天皇」であったことになる。
 伊耶那岐命・開化天皇の正妃(せいひ)は旧国・丹波(たんば)生まれの竹野比売(たかのひめ)である。ゆえに、「伊耶那美命」の本名は「竹野比売」であった。伊耶那美命の出身地「丹波」は3世紀後半に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記述された倭国の小国「伊耶(いや)国」であった。「【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた竹野比売」は「伊耶国生まれの[]つまり〔桃の花〕のように美しい女王」であるゆえ、国民は「伊耶那美命」と愛称したのである。
 伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は伊耶那岐命の父・第8代孝元(こうげん)天皇とも結婚している。ゆえに、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の継母であった。第10代崇神天皇は孝元天皇と伊迦賀色許売命の子であった。ゆえに、崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟(いぼてい)にして、伊耶那岐命と伊迦賀色許売命が結婚したために伊耶那岐命の養子となった。
 伊迦賀色許売命と崇神天皇の母子が大和朝廷の基礎を築いたアマテラスオオミカミ(天照大御神)であった。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁されて「伊耶那岐命の妻」という戸籍を失った。このため、彼女は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」と名乗った。天照大御神であった伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命は奈良県桜井市に所在する全長約280mの巨大な前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳に葬られた。

◆『万葉集』485番の初句「神代より」から5句「国には満ちて」までには、次のような事情が存在した。
 天照大御神(伊迦賀色許売命と崇神天皇の母子)は――倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法と夏音(かおん)文字の学芸を最も重んじて政権基盤とせよ。この学問を独占管理して厳重な機密とすれば皇室と国家は永らく繁栄して存続する。しかし、国民は伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を最も尊重するゆえ、革命や反乱に利用されると皇室と国家を滅びる可能性は十分ある。ゆえに、皇室と国家が滅亡しないためには、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は絶対に後世に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)し消滅せよ――という遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)をのこした。
 このブログが毎回説明するように、紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡は、天文学で【夏の銀河】とよばれる「夏の全星座が漬()かる銀河各部の形状」を字源・字形・字義とする漢字作成方法を発明した。
 このため、学問上においては、現在、【字源・字形・字義となった夏の銀河各部の形状】は【文字】ではないが、実際は【文字】であった。【夏の銀河】は「銀河」であり、「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「【銀漢、つまり夏の銀河各部の形状】から作られた字」を略して【漢字】と呼んだ。だから、【夏の銀河各部の形状】は【文字(漢字)】であった。
 『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)の冒頭記事は「紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】とする夏音(かおん)文字の学芸がわが国に伝来して【倉頡が発明した漢字作成方法】が習得された」と説明する。
 3世紀、中国の魏()、魏の出張政庁が所在した帯方郡(たいほうぐん)、諸韓国(朝鮮半島)で用いられていた楷書も【倉頡が発明した漢字作成方法】にのっとって作られた。だから、楷書の字源・字形・字義も【夏の銀河各部の形状】であった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭の伊都(いと)国の港では、魏の都・帯方郡・諸韓国の楷書で書かれる文書と、倭女王卑弥呼が書く文書の文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していたので、捜露(そうろ/点検して確認して)間違いがないようにしていた」と記述する。

したがって【夏音文字と楷書の字源・字形・字義となった夏の銀河各部の形状】は【文字】であったゆえ、倭国の伊都国の港では【夏の銀河各部の形状】にもとづき、魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を正しく訳することができたのである。

 『古事記』編纂(へんさん)スタッフは天照大御神の遺勅が抹殺・消滅せよと命じる【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えようと企(たくら)んだ。ゆえに、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば歴史(【日本国誕生史】とその後の上古史)が解明できるように仕組んだ。
 このため、『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)の末部は編纂スタッフの企んだ歴史解明方法を「夏音文字と楷書の字源・字形・字形は共(とも)に【夏の銀河各部の形状】である」と説明する代わりに「楷書【日下(にちげ)】と夏音文字【玖沙訶】は同義、楷書【帯(たい)】と夏音文字【多羅斯(たらし)】は同義である」と説明しているのである。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に【日本(小国・日本)国誕生史】が記述される。伊耶那美命は結婚する新郎の伊耶那岐命に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と10字の楷書で表記する夏音文字の言葉でとなえた。この語は「日本国の国土生みの柱を〔愛〕にしましょう」と意味したゆえ、この【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本はもちろん倭国の人民たちの心に響(ひび)いた。というのも、当時、中国は三国時代で人民が日々虫ケラのごとく殺され、日本列島では中国の戦乱の影響を受けて【卑弥呼王朝と国家】が重視され【人民の命や愛】は軽視されていたからである。ゆえに、伊耶那美命がとなえた【阿那邇夜志愛袁登古袁】つまり【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本から卑弥呼が統治する倭国の人民の心に響き、小国・日本と倭国の国中すみずみまで一気に広まって知れわたった。
 淤能碁呂島聖婚説話には5ヵ所の〔音〕という注がつく夏音文字の語が楷書で記載され、この【夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義】を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば【日本国誕生史】が鮮烈(せんれつ)に甦(よみがえ)る仕組みになっている。

 同様に、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話も夏音文字の語を表記する楷書各部の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば、下記のごとくの歴史が明白となる。
 この説話に登場する「天照大御神」は「伊耶那美命」に「神」の字を加えた「伊耶那美(いざなみのかみのみこと)」と表記された。皇室にとって最も偉大な先祖である「皇祖・天照大御神」を「天照大御神」と表記すれば、『古事記』は天照大御神の遺勅を否定し朝廷に歯向かう反逆の歴史書であることが明白となる。ゆえに、編纂スタッフは皇室が敵視する「伊耶那美命」に「神」を加える「伊耶那美神命」という名にすれば「天照大御神の遺勅とおりに【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺・消滅する偽書(ぎしょ)を作成した」と朝廷は喜び、天皇は『古事記』献呈を承認して正史にするであろうと策略(さくりゃく)したのである。
 だから、『古事記』上巻には「夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば歴史が解明できる方法が必要となった」のである。
 伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部に「千引石(ちびきのいわ)」が登場する。「千引石」は「現在の和歌山県新宮市の磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の巨岩・ゴトビキ岩」である。神倉神社の祭神は「天照大御神」である。ゆえに「伊耶那美神命」は、神倉神社の祭神「天照大御神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)」であった。

伊耶那岐命の黄泉国訪問説話を要略すると下記のごとくでなる。
 
 伊耶那美命の墓を作ったとき、第10代崇神(すじん)天皇の生母の伊迦賀色許売命(天照大御神)が倭女王に就任して、多数の青年と乙女を殺して伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原/おおゆのはら)に埋葬する徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。正妃の伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む青年(戦士)たちと協力して、倭王朝の大軍が衛(まも)る伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)にある棺(ひつぎ)を奪うクーデターに成功して、第二后の天照大御神を倭女王から失脚(しっきょく)させた。捕虜となった倭女王・天照大御神は伊耶那岐命が居る千引石の前に連行された。この千引石の前で天照大御神に向かって伊耶那岐命は離縁を言い渡し、「吾は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ。
 伊耶那岐命と日本兵が伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)から奪った伊耶那美命の死体について、『日本書紀』は「花の窟(いわや)に葬られた」と記述する。花の窟は、三重県熊野市有馬町に所在する。

 以上、『万葉集』485番の初句「神代より」から5句「国には満ちて」までには、上記のような歴史が秘められていた。
 次の6句「味群(あぢむろ)の」にある「味群」は「味鴨の大群」を意味する。
 現在の「トモエガモ」の古称が「味鴨」である。古代における飛翔(ひしょう)する味鴨の群れの長さは3kmに及んだといわれている。この習性ヒトが大量に狩猟しやすいゆえ、1970年代に絶滅が危惧(きぐ)されるほどに生息数が激減した。

◆山のはに 味群(あぢむろ)さわき 行()くなれど 我(われ)はさぶしえ 君にしあらねば(486)
 『万葉集』486番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 山の端()に、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して国に満ち満ちあふれる人民のごとく愛睦(あいむつ)まじく味鴨の大群が鳴きさわいで飛んで行きますが、わたしは寂(さび)しくてなりません。あなたはわたしが示す愛を疑い拒絶し、夜となってもわたしを抱いてくれませんもの……。

 近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日()のころごろは  恋ひつつもあらむ(487)
 『万葉集』487番を、現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 近江の琵琶湖に浮かぶ最大の島の沖島(おきのしま)の地図の形(北を下・南を上にした形)は「湖水に浮かぶ味鴨の姿」に相似しますから「鳥籠の山」と呼ばれています。「【日本建国の〔愛〕の理念】に譬(たと)えられる味鴨が籠()もる島(沖島)が「鳥籠の山」と呼ばれるのは、この島の最高所(標高220m)は伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた結婚式場の北側に所在しました古称「蓬莱山」と同名だからです。さらに、鳥籠の山(沖島)の真南には伊耶那美命が葬られた花の窟にあり、花の窟の経度線(東経13605)は鳥籠の山の東端を撫()でるがごとく貫通します。同様に花の窟の経度線は、鳥籠の山の東にある不知哉川の河口をも撫でるように貫通します。この川の名が「知らない(不知)」と示すように、わたしのあなたを恋する心を知ろうとせずにわたしを疑って信じないつれないあなたですけど、今日このごろは、わたしのことを恋しく思っていてくださるでしょうか。

 『万葉集』487番の3句「不知哉川」は、現在の愛知川(えちがわ)であった。
 「不知哉川」は宝皇女が考えた名称であるのか、それとも舒明天皇の在位期間当時(629641)に人々に呼ばれていた名称であるかは、不明である。いずれにせよ「不知哉川」を「イサヤかわ」と読むのは「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」を「イサ」と暗号・符合化して「日本国誕生史については知らない(不知である)」と意味して「不知哉川」と名づけられたにちがいない。というのも、当時、天照大御神の遺勅によって「【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は後世の人々が知らない(不知)となるように必ず抹殺・消滅せよ」と定められていたからである。
 「天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記して皇室が望む偽書を作ったと見せかけて、〔音〕と注がつく夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換して【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える――という策略のもとに『古事記』は、712年正月28日に元明(げんめい)天皇(707715年在位)に献上された。元明天皇は編纂スタッフの企みを見破って献呈拒否した。だから『古事記』は正史になれず、朝廷(皇室)と国家に歯向かう危険思想を養う読むことが禁じられた反逆の書物となった。 
 不知哉川・現在の愛知川は近江・滋賀県中東部の郡・町名となった「愛知(えち)」の河口近くを流れ、彦根市の南の境界線となる。
 「愛知」という地名は『古事記』が完成した直後の『日本書紀』の元正天皇紀(元正天皇の在位期間は715724)においては「依智(えち)」と表記された。「依智」という表記はおそらく「依()る智慧(ちえ)」を省略したと考えられる。つまり――【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の随所にある〔音〕という注がつく夏音文字を表記する楷書を【夏の銀河各部の形状】に変換する学問に〔依る智慧〕で知ることができる。ゆえに、「依る智慧」を略すると「依智」となる。
 「依智」だと意味曖昧(あいまい)となるゆえ、『延喜式(えんぎしき)』や『和妙抄(わみょうしょう)』では「愛智」と表記された。「愛智」ならば「〔愛〕を国家理念とした日本国誕生史は上古学問の智慧で知ることができる」とぐあいに、一段と明瞭(めいりょう)となる。

江戸時代の天保年間(18301844)以後は「愛知」と表記された。ゆえに、「【日本建国の〔愛〕の理念】を知る川」を略して「愛知川」と表記されることになったことになる。

◆鳥籠の山(沖島)・愛知川河口の東方には、多賀町(たがちょう)がある。
 多賀町多賀には伊耶那岐命と伊耶那美命を祭神とする多賀大社が所在する。
 『古事記』上巻の須佐之男命(すさのおのみこと)の啼()きいさち説話の末部は「伊耶那岐大神は淡海(あふみ)の多賀に坐()すなり」と記述して、「伊耶那岐命の霊魂は現在の多賀大社が建つ地所に鎮座(ちんざ)している」と指摘する。
 『古事記』上巻の三貴士(さんきし)の分治説話は「伊耶那岐命は養子の天照大御神・崇神天皇に高天原(たかまのはら)を治めるようにと委任(いにん)し、伊耶那美命が生んだ実子の須佐之男命には海原(うなばら/山陰出雲地方)を委任した」と記述する。
 『古事記』上巻の須佐之男命の昇天説話と天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――天照大御神母子(後の崇神天皇と生母)は伊耶那岐命のクーデターで天下を奪われたことを怨(うら)み天下を奪いかえそうと軍備を整えている様子から、伊耶那岐命は自分が死んだ後に養子の天照大御神(第二后・倭迹迹日百襲姫命の息子)と実子の須佐之男命が天下取りの戦争をして人民が困窮する大乱を心配した。ゆえに、伊耶那岐命は養子・天照大御神(後の崇神天皇)に天下を譲って高天原(たかまのはら/大和地方)を治めるようにし、実子・須佐之男命は山陰出雲地方を治めるようにして大乱を回避しようとした。ところが、五人の王と天照大御神(崇神天皇)に協力しなければならない北九州の宗像(むなかた)王、この【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する六人の王たちは、大和の天照大御神王朝は【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を憎悪して弾圧(だんあつ)する政事(まつりごと)をおこなうにちがいないと考えて、ひそかに須佐之男命を大王とする熊野王朝を創設するクーデターを企んだ。この情報を入手した死が迫っていた伊耶那岐命は須佐之男命を枕元に呼び「おまえは母の【日本建国の〔愛〕の理念】に背くのか!」と怒り没した。ゆえに、須佐之男命はクーデターを断念して天照大御神と不戦の誓いを結ぶことにした。この不戦の誓いにおいて、須佐之男命は天照大御神の策略にはまって、クーデターを計画した五人の王の名を異名(いみょう/あだな)で告げてしまった。これゆえ、天照大御神は宗像王と五人の王たちを討伐あるいは懐柔(かいじゅう)し、または威嚇(いかく)服従させて、大和朝廷の基礎を築いた――と記述する。

 崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇に天下を譲られたゆえ感謝して開化天皇陵を築造すべきであった。にもかかわらず、母親が倭女王から失脚された熊野におけるクーデターを怨んで開化天皇陵を築造しなかった。
 ゆえに、伊耶那岐命・開化天皇の一生を集約する沖島・鳥籠の山や不知哉川・愛知川の東方の現在の多賀大社が建つ地所が伊耶那岐命・開化天皇の霊を祀る聖地となったのである。
 開化天皇の陵墓は奈良市油坂町に所在する。しかし、その墳丘規模などから5世紀末~6世紀初頭ころに築造されたと推定されている。ゆえに、開化天皇陵は3世紀後半(多分、260年ころ)に没した開化天皇(伊耶那岐命)を慕(した)って5世紀末~6世紀初頭に築造された墳丘(ふんきゅう)であったことになる。
 開化天皇陵は『古事記』中巻の開化天皇紀が「天皇は春日の伊耶河宮に居住した」と記述する伊耶河宮の近くに築造された。ゆえに、開化天皇陵は須佐之男命が父・開化天皇を葬った墓があった地と推測して築造されたのかもしれないことになる。
 以上、伊耶那岐命・開化天皇の墳丘は開化天皇が死去した3世紀には築造されなかった。
 このため、愛妻伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那岐命・開化天皇の一生を集約すると、伊耶那美命が葬られた花の窟の真北の鳥籠の山(沖島)・不知哉川(愛知川)の河口の東方にある現在の多賀大社が建つ地所が伊耶那岐命・開化天皇の霊魂を呼び興(おこ)すことができる聖地と、人々は信仰していたことになる。
 岡本天皇が作った『万葉集』485番・486番・487番の3首は「鳥籠の山」と「不知哉川」の秘密と『古事記』が「伊耶那岐命の霊魂は現在の多賀大社が建つ地所(淡海の多賀)に鎮座する」という、これらの秘密を解明すれば「大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす大祭」であることが明白となる。

  なお、この「邪馬台国説はフェイクであった!」というブログは、今回、一旦(いったん」終わることにした。次回から「即位礼と大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない」というブログ名に改めて、続行することにした。したがって、後日、「邪馬台国説はフェイクであった!」という元のブログにもどることもありえます。

【PR】日本国誕生史の証明|大川誠一

|

« #19 邪馬台国説はフェイクであった! | トップページ | 大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・1 »

日本国誕生史の証明」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« #19 邪馬台国説はフェイクであった! | トップページ | 大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・1 »