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2019年11月22日 (金)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・5

★#5・なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか

◆このブログが前回(4)までで――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であった――と証明してきた。
 倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、孔子とならぶ中国の二大思想家の老子の教えを説く『老子』、“字書の聖典”と尊重された『説文解字』、『魏志倭人伝』そしてわが国の『古事記』上巻である。

◆大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明(文字の発明)を現在に伝えるビックイベント」であった。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。
 大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀の儀】は【倉頡が発明した漢字作成方法】を現在に伝える儀式であったのである。

◆わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在、世界中で用いられる大半の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされるからである。古代エジプト文字をルーツとする現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは、世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているゆえ、漢字を含むと、世界中で使用されている7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと証明されることになる。
 古代エジプト文字は、紀元前3100年ころ、起源したとされる。
 漢字は紀元前3000年ころに中国に生存した黄帝(こうてい)の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を目的にして、黄帝につかえていた史官(記録官)の倉頡が発明して起源した。
 だから、大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀】は紀元前3100年ころの古代エジプト文字と紀元前3000年ころの漢字は【夏の銀河各部の形状から作られた秘密】を現在に伝える壮大なイベントであったことになる。

◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)に説明されている。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた。この二重の大罪のため、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から倉頡が発明した漢字作成方法を伝える学問が伝来して習得した。この夏音文字によって、倉頡が発明した漢字作成方法が、わが国に保存されることになった。ゆえに、大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを学者たちは読解できず、【誤読】を加えて排除するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は楷書を音符にして表記するが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆倉頡は自らが発明した漢字作成方法が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れることができる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字作成方法を手に入れて革命に利用したならば、王朝は容易に滅亡すると心配した。
 ゆえに、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はじめ一族にも神罰が下って即刻に死刑に処すと定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
(1)
【夏の銀河の各部の形状】から文字が作られたと暴露した者
(2)
文字を容易に習得するために、【夏の銀河の各部】に名称を付けた者
(3)
書いた文字が用済みになったならば、文字を直()ぐに消さない者または消し忘れた者
 上記の(3)の掟は、紀元前1300年ころに出現した殷代(いんだい)後半期の亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた秘密」について現在の学者たちは気づかない。また、点()と点()を結んで作る星座の形は素人(しろうと)にはさっぱりわからない、その星座には名称があるが、(2)の掟によって素人でもその形が容易にわかる【銀河各部の名称】は存在しない。

 中国でもわが国でも(3)の掟は厳重にまもられたため、紀元前3000年ころ~紀元前2080年ころまでの五帝時代の書契(しょけい)、紀元前2080年ころ~紀元前1600年ころまでの夏音文字、紀元前1600年ころ~紀元前1300年ころまでの殷代前半期の原初漢字は、遺跡から文字を記した資料が1点も出土していない。
 倉頡が死刑と定めた三つの掟によって、【夏の銀河各部の形状】が文字(字源・字形・字義)と定められたが――五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字では文字数が少なかったゆえ、(3)の掟は体制維持するためにむしろ好都合でありまた文字を絶対化・神聖化するためにもむしろ好都合であったゆえ、(3)の掟は不便ではなかったゆえ厳重にまもられることになったのである。
 しかし、殷代後半になると1万を超える膨大な文字が作られたゆえ、(3)の掟の保持は不便・不自由となった。ゆえに、王朝体制維持と文字の絶対化・神聖化が図られて文字は亀の甲羅や獣骨などに刻まれることになって、(3)の掟は破られた。
 甲骨文字の以前の五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半期の原初漢字は(3)の掟を厳重にまもり、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】を文字(字源・字形・字義)と定めていた。
 他方、甲骨文字以後の漢字は(3)の掟を破る文字であったが、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】を文字(字源・字形・字義)と定めていた。
 だから、甲骨文字以前の【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とした原初漢字(書契・夏音文字・殷代前半期の漢字)】は【文字】として機能したゆえ、【最古の漢字】は【夏の銀河各部の形状】であったのである。
 したがって、学者たちは【最古の漢字】を【殷代後半の甲骨文字】と定めるが、この定説は空理空論・空想・幻想であったのである。

◆第33代・推古(すいこ)天皇の在位期間は593年~628年までである。
 600(推古天皇8)、推古天皇は隋に使節を派遣した。
 中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には、600年に中国に渡った遣隋使(けんずいし)が隋王朝に下記のごとく述べたという記事がある。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求め得て、はじめて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 この記事は「わが国には仏教の経典に用いる文字(楷書)が無い。ただ五帝時代の倉頡が考案した書契(わが国では「刻木」と称した)と三皇時代の卜筮(占い)に用いる記号の結縄が存在した。仏教を敬うことになり、朝鮮半島の百済から仏教の経典を求め得て、はじめて仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難しい楷書(文字)も存在することになった。これによって、中国の発達した卜筮(易学)を知ることができて、仏教の経典から極めて難しい楷書を解読した巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)は推古天皇王朝の体制者たちに最も信頼されて尊敬されることになった。」と解釈すれば、矛盾点も不合理な点も生じずに【科学】が成立する正しい現代語訳となる。

 ところが、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という空論・幻想を抱くため、「ただ刻木・結縄のみ」という文を「わが国には木を刻む方法や縄を結ぶ方法で、文字に類似する記号や数詞をあらわす原始的な方法があった」と解釈して、「ただ木を刻み、縄を結ぶのみ」と読み下す。
 このブログの初回(1)で指摘したように――3世紀(280年~289)に著作された中国の正史『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は約2000字で構成される。そのうち【1】『魏志倭人伝』冒頭の「倭人は帯方の東南」という文から30ヵ国の小国を説明するまでの約500字・約25%の記事で【倉頡が刻木を考案して、発明した漢字作成方法】を説明し、【2】また『魏志倭人伝』の約200字・約20%の記事は【夏音文字の習得】に説明する記事である。
 そして、『魏志倭人伝』は「卑弥呼(ヒミコ)はじめ人名・小国名・官職名においては夏音文字を当時の中国と朝鮮半島で用いられていた楷書で表記することができた」と記述する。
 ゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説は空想・幻想であり、「ただ木を刻み縄を結ぶだけ」と読んで「記号や数詞をあらわす文字に類似する原始的な方法があった」という解釈は【誤読の空理空論】であったことになる。
 倉頡が作った「書契」は「木に刻むこと」と後世に伝えられた。ゆえに、わが国では「倉頡が考案した書契」を「刻木」と名づけていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述されているとおり、3世紀、わが国では【夏の銀河各部の形状】を観察して夏音文字と楷書を正しく変換できた知識が存在していたので、仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書を【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通した巫覡(巫女と覡)は解読できたのである。
 「文字無し」を「遣隋使が中国に渡った7世紀初頭、わが国にはまったく文字が無かった」と解釈すると――漢字が1字も読めない外国人を集め、難解な漢字を次から次へと羅列(られつ)する仏教の経典の漢字は正しく解読してください――と要求して実験してみれば明白となるように、彼等には仏教の経典の楷書解読はまったく不可能ということになる。
 【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通していた倭の巫女と覡たちは、自分たちを排除しようとする聖徳太子(しょうとくたいし)に対抗して、仏教の経典に羅列されている極めて難しい楷書の解読に挑(いど)んで成功した。
 ゆえに、上記した『隋書』倭国伝の「尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」という記事が伝えるように、時の推古天皇王朝をささえる体制者たちは仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書を解読した巫覡を絶賛して聖徳太子よりも尊敬して最も信頼したのである。

◆『隋書』倭国伝には、隋の煬帝(ようだい)が治めていた大業3(西暦607)、聖徳太子が――「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々(うんぬん))」と書いた文書に対して、煬帝は「蛮夷(ばんい/野蛮な倭国)の書、無礼なる者有り(無礼だ)。ふたたび以聞(いぶん/上表)するな(つまり、天子たる吾に上げてくるな)」と怒った――という記事がある。
 しかし、『隋書』倭国伝は「翌年、煬帝は文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい)を倭国の使者として派遣(はけん)した」とも記述する。
 仏教を重んじていた煬帝は若い時に熱心に学問つまり【夏の銀河から漢字が作られた学問】に励んだ。だから、聖徳太子の書を自分が誤訳したことに気づき、煬帝は倭国の使者に裴清を遣(つか)わしたのである。
 仏教では「日没する」は「死去する」という意味あるゆえ、煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者あり」と怒った。
 しかし、【夏の銀河から漢字が作られた学問】においては「日没する時は日出ずる時より上位」と定めた。というのも、「日没する時から始まる夜間」に【夏の銀河】が出現するゆえ「日没する処は日出ずる処より上位」となり、「日出ずる時から始まる昼間」は【夏の銀河】が見えなくなるゆえ「日出ずる処は日没する処より下位」となるからである。
 したがって、聖徳太子は「日出ずる処(ところ)の下位の倭の天子が、書を日没する処の上位の隋の天子に致す、ご元気ですか、云々」と書いていたことになる。煬帝はこの事実に気づいて、裴清を倭に派遣したのである。

◆推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 この崇仏(すうぶつ)政策において、聖徳太子は大失敗した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつを保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に支援・擁護(ようご)を求めた。だから、蘇我氏は皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を配下にすることができ、にわかに強大な権力を手中におさめることになった。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、蘇我氏に擁護された巫女と覡は百済から輸入した仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡を時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼した事態となった。
 したがって、遣隋使を派遣した600年の直前において、聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡は過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための妨(さまた)げになると考えて排除しようとして、大失敗していたのである。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる体制者たちは「皇室の最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である」と考えた。ゆえに彼等は、巫覡を排除して皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判を、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆以上のごとく、令和元年の大嘗祭は皇室が強大な権力を独占管理して厳重な機密にした【夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわす儀式であったことになる。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、第40代・天武天皇から始まる大嘗祭の伝統を受け継ぐものではなく、1738(元文3)の第115代・桜町(さくらまち)天皇の時に本格的に復興した時に新しく加わった【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する儀式であった。
 いわゆる【皇祖・天照大御神の遺勅(ゆいちょく/死後に残された勅命)】は――皇室が栄えて永らく存続するために【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理して厳重な機密にせよ。この【夏の銀河から漢字が作られた学問】を滅亡させる妨(さまた)げとなる禍(わざわい)は【日本国(小国・日本)誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】である。ゆえに、【日本国誕生史と日本建国の【愛】の理念】は絶対に後世に伝えないために必ず抹殺(まっさつ)せよ――であった。
 にもかかわらず、17381119日に皇室は皇祖天照大御神の遺勅を破棄して、即位式と大嘗祭で【日本建国の〔愛〕の理念】を復興させることになった経緯は、(1)推古天皇の後を継いだ舒明(じょめい)天皇からの紆余曲折(うよきょくせつ)の歴史と(2)1725年に没した新井白石の【誤読の空論の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説】が関わっている。
 次回からは、舒明天皇以後から桜町天皇の代までの大嘗祭に関する歴史の経緯と新井白石の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説によって【日本建国の〔愛〕の理念】が即位式と大嘗祭で表示されることになった経緯を順次に解説して証明することにする。

 なお、1022日に行われた【即位式正殿の儀】が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式である証明は、わがブログ「邪馬台国説はフェイクであった!」の1回~20回で解説し証明した。「邪馬台国説はフェイクであった!」の12回~20回までは【即位式正殿の儀】は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であることを具体的に解説し証明した。

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