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2019年11月 1日 (金)

#17 邪馬台国説はフェイクであった!

★朝日新聞とあさひテレビの即位礼の報道は明らかに誤報である!

◆令和元年1022日の朝日新聞の11面の〔「即位の礼」と天皇制〕の記事に登場した学者とあさひテレビの羽鳥モーニングショウに出演した評論家は「即位礼正殿の儀を【宗教的儀式である】と断定し、政教分離において問題がある」と主張したが――この朝日新聞・あさひテレビの「即位礼正殿の儀は宗教的儀式」とする意見は空想・空論・デタラメであった。
 このブログが前回(16)まで証明してきたように、即位礼正殿の儀と翌1114日夕方から翌日未明におこなわれる大嘗祭(だいじょうさい)は宗教的儀式ではなく、明らかに学問儀式である。

◆即位礼正殿の儀と大嘗祭は、卑弥呼や邪馬台国論争で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記述された【上古の学問】をあらわす儀式である。
 『魏志倭人伝』は3世紀後半(280289)に中国で著作され、約2000字で構成される。
 (1)その全2000字のうち、約25%・約500字の記事は「紀元前3000年ころに生存した中国・五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」について説明する。
 (2)『魏志倭人伝』の約20%・約400字は「紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国は原初漢字の夏音(かおん)文字の学芸が伝来し習得した。ゆえに、わが国には倉頡が発明した漢字作成方法が正確に保存された」と説明している。
 (3)『魏志倭人伝』の後半の「景初(けいしょ)二年六月」という記事から末部までの約30%・約600字の記事は【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】について説明する。
 したがって、今日、国民的常識となる九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所も関係しない【完全なる誤読の空理空論】ということになる。
 即位礼と大嘗祭は上記の(1)(2)(3)の【倉頡が発明した漢字作成方法・夏音文字の学芸・日本国誕生史・日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす【学問儀式】であったのである。

◆上記した『魏志倭人伝』の(3)の記事【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話初頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に、詳細に記述されている。
 ただし、淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を知るには、この説話における5ヵ所に〔音〕という注が付く夏音文字で構成される語に用いられる各字の字源・字形・字義の秘密を解明しなければならない。
 『古事記』序(古事記上巻 幷わせて序)の冒頭と末部は「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の語の秘密を解明すれば、『古事記』上巻に記述された歴史を明確に知ることができる」と説明する。しかし、学者たちは『古事記』序に記述された歴史解明方法の記事を読解(どっかい)することができない。だから、学者たちは【多数の誤読】を加えて『古事記』の序に記述された歴史解明方法を排除して無視する。
 というのも学者たちは、本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著作した注釈書『古事記伝』をテキストとするが、宣長は『古事記』の序に記述された歴史解明方法の記事を読解できなかったことに気づいていないからである。このため、学者たち『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を読解することができない。
 このため、現在の学者たちは「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語るものではない。物語・虚構(きょこう)である」という空想を日本中に蔓延(まんえん)し拡散(かくさん)する。
 ゆえに、現在、【誤読の空論の日本神話虚構説】は定説となり国民的常識となる。

◆国民的常識の【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説と日本神話虚構説は誤読の空論】である実体は、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に明確に解説し証明した。
 この点に疑問を抱く方は、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆代々の天皇は皇祖・天照大御神(『魏志倭人伝』が著作された同時代・3世紀後半に生存した第10代崇神天皇と崇神帝の生母)の遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)を厳重にまもったため、皇室は滅びず存続した。
 皇祖・天照大御神の遺勅は「皇室が永らく栄えるために、【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】を権力基盤とせよ。この権力基盤の学問に対して、人民にとっては【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが勝(まさ)るゆえ、国中の人民が【日本建国の〔愛〕の理念】をかかげて反乱を起こすと皇室は滅亡する可能性が大となる。だから、絶対に【日本誕生史】は後世に伝わらないように排除(はいじょ)し抹殺(まっさつ)せよ」であった。
 上巻の淤能碁呂島聖婚説話で【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えた『古事記』は712128日に元明(げんめい)天皇に献上されたが、『古事記』は【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために著作した歴史書であることを察知した元明天皇は天照大御神の遺勅をまもって即座に献呈を拒絶した。
 このため、『古事記』は正史になれず皇室を滅亡させる危険思想を養う禁書となった。

2011730日に発行された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』(幻冬舎ルネサンス発行)で詳細に解説し証明したように――徳川家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生を賭けた。
 家康は死去する一年前の1615年に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し、その第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。
 この第一条は「天子(天皇・上皇)はわが国の文化(諸芸術・諸芸能、つまり文化)の生みの親と、皇祖・天照大御神の遺勅の学問(【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】)を第一番に大切にしてください」と意味した。
 『古事記』序(古事記上巻 幷わせて序)の初頭部には「陰陽斯(いんようここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文がある。
 この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国の諸芸能(日本文化)の生みの親です」と意味した。
 だから、「禁中並公家諸法度」の第一条の「天子諸芸能ノ事」という文は「天子、わが国の諸芸能の生みの親である伊耶那美命と伊耶那岐命による【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の復興をお願いします」と意味するものであった。

◆家康が全情熱をかたむけた【日本国誕生史】を復興する心願は天照大御神の遺勅をまもり続ける皇室の方針によって成就(じょうじゅ)しなかった。
 しかし、家康の遺志は将軍と江戸幕府が受け継いで達成する宿題となった。
 将軍秀忠と幕府は京都市に所在する桂離宮(かつらりきゅう)の庭園の平面図に【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を設計して、第108代天皇であった後水尾(ごみずのお)上皇に家康の遺志・心願成就を願った。
 後水尾上皇はいっこうに【日本国誕生史の復興】を承認しなかった。
 幕府は1655年ころから1659年にかけて修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)を造営した。この離宮の大庭園・上御茶屋(かみのおちゃや)は「浴竜池(よくりゅういけ)」という名の池を中心として造られた。
 「浴竜池の平面図」は桂離宮庭園の東北部の大鳥の形をした庭園南部にある「天橋立(あまのはしだて)」の三つの築島(つきしま)周辺を設計するものであった。
 桂離宮の三つの築島周辺、また三つの築島周辺から表門にかけての平面図は「日本国(小国・日本)であった東日本(東海東部・関東地方)を象徴する富士山を模(かたど)る設計」となり、そして中央の築島の南面には「蓬莱山」の形に観える「蓬莱岩」を配置して【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

 後水尾上皇の【日本国誕生史】の復興の承認を得るために幕府が造営した修学院離宮の浴竜池には桂離宮の築島と同じく三つ築島が配置され、北から順に「三保島」、「窮邃島(きゅうすいとう)」、「万松塢(まんしょうう)」という名がつけられた。
 「三保島」は「徳川家康が晩年を過ごした、富士山が見える名所・駿河の三保の松原」に由来した。「窮邃島」の[]の字を用いる「邃古(すいこ)」という語は「上古」を意味したゆえ「上古史を窮(きわ)めれば解明できる日本国誕生史」と意味した。「万松塢」の[]の字は「土手道(どてみち)」を意味したゆえ「幕府の万(多数)の松の木を植える東海道整備事業と示すところの松並木と、【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた伊耶那美命をあらわす土手道」を意味することになった。

◆後水尾上皇は16583月に始めて桂離宮を御幸(みゆき)して見学した。上皇は16633月にも桂離宮を見学した。
 上皇は桂離宮の「蓬莱岩」がある中央築島に相当する修学院離宮の浴竜池に浮かぶ「窮邃島」の建物「窮邃亭」に、陶器で作った扁額(へんがく)を創(つく)って、天照大御神の遺勅を廃して、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念の復興】を承認すると表示した。
 上皇が創った扁額は二つの八角形の両端が中央で重なり連結し、八角形の枠(わく)は「四つの富士山を模(かたど)って八角形の枠組」にしたものであった。
 八角形の枠は緑、右側の八角形中央に上皇直筆の[]の字を・左側の八角形中央に上皇直筆の[]の字を配置する。
 二つの八角形が重なり合う箇所は「縦長の六角形の亀甲文(きっこうもん)」となる。この「亀甲文」は桂離宮の「蓬莱岩」と古代絵図「亀の甲羅に乗る蓬莱山」をあらわす。
 扁額の亀甲文の中央には出産祝いに用いられる赤色の水引(みずひ)き文がデザインされ、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 また、八角形の【緑色の枠】は「万松塢」の「松の緑色の葉」をあらわし、また「桂離宮で有名な笹垣(ささがき)」をもあらわした。
 桂離宮の庭園を見学するときは、桂川の右岸の塢(土手道)を進む。道の右手に竹藪(たけやぶ)の【緑色の小竹(こたけ)】を折り曲げて編んだ竹の葉が、そのまま壁となる素朴でたいへん美しい生垣(いけがき)が約230メートルつづく。この生垣は「桂垣」または「桂の笹垣」と称されて有名である。笹垣の内側が桂離宮である。
 古図を見ると、桂の笹垣の左側の塢(土手道)はかつて松並木となっていた。だから、修学院離宮の浴竜池に浮かぶ「万松塢」は「幕府がおこなう万(たすう)の松の木を植える東海道の景色」から連想される「桂川の右岸の松並木と笹垣の土手道」を指していたことになる。
 後水尾上皇は、【桂離宮の緑色の笹垣】をあらわすために【窮邃亭にかかげた富士山をデザインした八角形を横並びにして重ねる扁額の枠】を【緑色】にしたのである。

◆【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた「13歳で小国・日本の女王となった伊耶那美命」は『魏志倭人伝』に記載された倭国(西日本)の伊耶(伊邪)国で生まれた。
 したがって、小国・日本と倭国の人民は「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい女王」ということで、彼女を「伊耶那美命」と愛称して尊敬したのである。
 「伊耶国」は「旧国の丹波」(現在の京都府中部と兵庫県の一部)であった。
 桂離宮の南側は伊耶那美命の生地丹波とつながる旧丹波街道である。
 『古事記』中巻の第9代開化天皇紀は「春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで天下を治めた天皇の正妃は、丹波出身の竹野比売(たかのひめ)であった」と記す。
 (注 開化天皇の居殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」が「若き日の開化帝は伊耶那岐命であった」、「開化帝の正妃の竹野比売は伊耶那美命」であったと伝える)
 だから、伊耶那美命の本名は「竹野比売」であるゆえ、桂離宮の「笹垣」と庭園南側の「丹波街道」は「丹波出身の竹野比売」をあらわし、竹野比売は日本最古の小説『竹取物語』のヒロイン「竹の筒が生まれたかぐや姫」のモデルであったことになる。したがって『竹取物語』は「強大な権力・天照大御神の遺勅によって排除された【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマとする、反権力風刺小説」であった。その証拠に、『竹取物語』は最後には「伊耶那美命・竹野比売が女王に就任して赴任した小国・日本(日本国)」を象徴する「富士山」が、また後水尾上皇の扁額の八角形の枠のデザインとなった「富士山」が登場する。

◆伊耶那美命の夏音名(夏音文字の名)は『魏志倭人伝』末部に記載される「壱与(いよ)」であった。
 『魏志倭人伝』の後半から壱与が登場する末部までの約600字・約30%の記事は――倭国の国中の人民は13歳のときに小国・日本の女王となった伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して、卑弥呼の墓を作ったときに百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪して武器を持って倭王朝軍と戦った。この倭国の大乱に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が戦争を挑んできたため、倭王朝は滅亡の危機におちいった。この災厄の原因は「【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえた伊耶那美命に全責任がある」と倭王朝は非難し、伊耶那美命は倭女王壱与に就任して大乱を鎮(しず)めまた狗奴国を討伐しなければならないと、倭王朝は命令した――と説明するものであった。

◆以上のごとく、即位式正殿の儀において天皇と皇后が昇る高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)の【八角形の屋根】は修学院離宮の窮邃亭にかかげられた【扁額の二つの八角形を連結させる意匠(いしょう)】にもとづき、後水尾上皇が承認した【日本建国の〔愛〕の理念の復興】をあらわす儀式であった。
 だから、屋根が八角形となる高御座と御帳台に天皇と皇后が昇る即位式正殿の儀は、扁額中央の「赤色の水引き文」が「たくさんの子どもが生まれて国土に人民が満ち満ちあふれる」と表現する【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であったことになる。

◆江戸中期の学者・新井白石(あらいはくせき)が【誤読の空論の九州邪馬台国説と畿内(大和)邪馬台国説】をとなえた以来約300年も経過したにもかかわらず、学者たちは「九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所も関係しない、完全なる誤読の空論」と指摘する学者は一人もいない。
 新井白石は6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の側用人(そばようにん)・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幕政を実質的に主導し、「正徳(しょうとく)の治()」と呼ばれる積極的な文治(ぶんじ)政治を展開する一時代の一翼(いちよく)をになった。この「正徳の治」は、理想的な封建政治をめざすものであったが、伝統的な譜代(ふだい)勢力などの反対が根強く、1716516日に幕府は間部詮房・新井白石を罷免(ひめん)した。
 1716813日に吉宗(よしむね)8代将軍になると追放され、以来1725519日に死去する10年間、著述活動をした。
 白石は1716年に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作し、大和邪馬台国説を立論した。その後、白石は1722年ころに著作した『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』と他の著書などで九州邪馬台国説を主張した。

◆白石が邪馬台国を立論した当時は、第114代中御門(なかみかど)天皇が在位していた(1709727日~1735413日までが在位期間)。だから、当然、即位が前年・過去となっていた中御門天皇の在位中には、即位式とセットとなる大嘗祭を本格的に復興して【日本誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を表示することはできなかった。
 白石の死去から13年後の17381119日に本格的に復興された大嘗祭は、中御門天皇の祖父の112代天皇であった霊元(れいげん)上皇の熱意と将軍吉宗の協力により実現したと伝えられる。というのも、朝廷と幕府は先例調査と実施報告の詳細の記録を残しているからである。
 霊元上皇は『魏志倭人伝』に多数の誤読を加えて新井白石が捏造(ねつぞう)した空理空論の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説に激しいショックをうけた。白石がデッチあげた【誤読の邪馬台国説】は皇室を滅ぼし、日本国を滅ぼし、さらに日本民族は愚弄(ぐろう)されて滅びると激しいショックをうけた上皇は、天照大御神の「日本国誕生史を抹殺せよ」という遺勅を破棄(はき)して、中御門天皇の次の代で戦国時代から約220年間中断していた大嘗祭を本格的に復興することを決意した。
 1696年に霊元上皇の第8子・作宮(さくみや)親王が桂離宮を所有することになり「常盤井宮(ときわいのみや)と称して夭折(ようせつ)した。作宮の兄の文仁(あやひと)親王が「京極宮(きょうごくのみや)」と改称して桂離宮を所有した。ゆえに、霊元上皇は後水尾上皇が作った八角形の扁額は【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす桂離宮庭園デザインの中枢部から作られたことを知っていた。
 新井白石の死後7年後の173286日に、霊元上皇が没した。
 ゆえに、大嘗祭の本格的復興計画は、霊元上皇の指導のもとに孫の中御門天皇、息子の桂離宮離宮の所有者の作宮親王と文仁親王の意見も加えられて進展するものであったにちがいない。
 1735331に中御門天皇の子・第115代桜町(さくらまち)天皇が即位し、5月後の822日に幕府は5万石以上の諸大名に命じて朝廷に銀を贈らせて即位を祝賀した。この祝賀銀は、大嘗祭を本格的に復興するために資金が必要な皇室を援助するためのものであったにちがいない。
 1737411日、中御門上皇が没した。
 戦国時代に中断して以来約220年後に大嘗祭を本格的な復興するための万全(ばんぜん)の準備期間が必要となったうえに、1735年に桜町天皇が即位した直後には大嘗祭は再興できず、また中御門上皇の崩御もあったため、桜町天皇が即位した38カ月後の17381119日に大嘗祭がおこなわれることになったのであろう。

◆令和元年の1114日夕方から翌日未明に、天皇が一代で一度だけ臨(のぞ)む大嘗祭においての中心儀式では――天皇の頭上に御菅蓋(ごかんがい)という王冠をかかげて、白い生絹(すずし)の御祭服(ごさいふく)をお召しになって、葉薦(はごも)の御筵道(ごえんどう)を進む。
 この儀式は【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】と【皇室が天照大御神の遺勅を廃して日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念の復興を承認した事実】を表示するものであった。
 だから、天皇の頭上に高々とかかげられる王冠・御菅蓋の上の大鳥の飾りは、霊元上皇の子の親王たちが所有した桂離宮庭園の東北部の大鳥の形の庭園に設計された【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】をあらわすデザインであった。
 また、御菅蓋の下の菅笠(すげかさ)は後水尾上皇が修学院離宮の窮邃亭にかかげた扁額のデザインモチーフとなった(1)桂離宮の三つの築島周辺から表門にかけての富士山を模(かたど)る設計、(2)三つのうちの中央の築島の南面に設置された「蓬莱山」、(3)月波樓(げっぱろう)北隣に平面図が三角形の庭園、(4)平面図が「乳房を嘗()める乳児の横顔における口部の形」をした庭園池の西岸の南西と大山島西端連結部で表現された【日本建国の〔愛〕の理念】と「大嘗祭」という語の語源をあらわす意匠(いしょう)であった。
 (注 大山島の[]と乳児が母親の乳房を嘗めるの[]を加えると「大嘗」となる)

◆以上のごとく、白石の死から約300年間も学者たちが受け継ぎ、朝日新聞やNHKなどのメディアがもて囃(はや)して国民的常識となった畿内邪馬台国説・九州邪馬台国説と日本神話虚構説は皇室を滅ぼし、日本国を衰退させ、「日本国民の頭脳や知性では邪馬台国説と日本神話虚構説は誤読の空論である実体がわかりっこない」と日本国民を愚弄する詐欺(さぎ)・ウソ八百であったのである。
 『魏志倭人伝』の後半部の記事と『古事記』上巻に記述された「多数の子どもが生まれて国土に満ち満ちあふれる」とあらわす【日本建国の〔愛〕の理念】は廃(すた)れて、現在、わが国は人口減少・少子化によって国力衰退の坂道を転げ落ちている。
 邪馬台国説と日本神話虚構説は皇室を滅ぼし、日本国を壊滅させ、日本国民を愚弄(ぐろう)して騙(だま)して国力を衰退させる祟(たた)りである。
 だから、学者たちが学問を鼻にかけ、朝日新聞やNHKなどのメディアががやがやと言いたてて報道する邪馬台国説と日本神話虚構説は日本国民にとって最悪の祟りである。

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