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2019年12月 1日 (日)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・6

★#6・伊耶那岐命と伊耶那美命に憧れた舒明天皇と宝皇女

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく指摘した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)「弥生時代から続く祭儀」と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統」を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆令和の即位式と大嘗祭では、(1)弥生時代(3世紀後半)から続く儀式は――天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母・伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)の歴史をあらわす「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回まで解説し証明してきた【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された。というのも、大嘗祭が始める午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀における所作に相似する銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。だから、【天皇陛下の供饌の儀】と【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、共に【夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわしていたことになる。
 弥生時代(3世紀後半)に生存した天照大御神母子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視すれば皇室は永らく栄えるという信念にもとづいて大和朝廷の基礎を築いた。この天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を皇室が最も偉大な先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝するための大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。このため、天武・持統両天皇は「【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、抹殺(まっさつ)しなければならない」と考えた。というのも、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は【夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅威(きょうい)となり、しかも【天照大御神の聖性を著(いちじる)しく汚す】、天皇の権力を絶大にするための最大の障害となったからである。

 ところが、(3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において一大改革がなされ、天武・持統両天皇が「抹殺せよ」と命じた【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】が表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であったことになる。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と【本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
 なお、1022日に行われた【即位式正殿の儀】が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式である証明は、わがブログ「邪馬台国説はフェイクであった!」の1回~20回で解説し証明した。「邪馬台国説はフェイクであった!」の12回~20回までは【即位式正殿の儀】は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であることを具体的に解説し証明した。

◆このブログの初回(1)で詳細に解説したように、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷わせて序)初頭の記事は、下記のごとく記述する。
 【古事記上巻 幷わせて序】の冒頭は「臣安万侶言(しんやすまろまを)す」と記す。
 次の「それ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く、為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文である。
 この文で、太安万侶はわが国に中国から夏音文字が伝来して習得された歴史を、下記のごとく説明している。
 「漢字が発明されていなかった紀元前4000年ころの中国とわが国の各地において前期縄文時代初頭以前における天頂にめぐってくる銀河の形状は混沌(こんとん)として凝り固まっていましたが、文字となる気象(イメージ)は未だ現れていませんでした。ですから、文字で名をあらわすことも無く、文字で名をあらわす方法も存在しませんでした。ゆえに、現在において(『古事記』が完成した712年当時)、前期縄文時代初頭以前の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができません。しかし、紀元前4000年ころからから始まる前期縄文時代、倉頡が漢字作成方法を発明した紀元前3000年ころから始まる中期縄文時代、紀元前2070年~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭までの参時代においては、[]の字源・字形・字義となった【夏の銀河の最北端部にある、乾いた沙漠のようなイメージの銀河部】と、その隣に[]の字源・字形・字義となった【十字の銀河】が天頂にめぐってきましたから、わが国では造化(芸術作品)の〔【夏の銀河】の印象をあらわす、表面に渦巻き文が全面にほどこされる土器〕や〔【十字の銀河】や【人の横顔に酷似する銀河か夏の銀河の西南部】までの印象をあらわす、人体を模(かたど)る土偶(どぐう)〕が作られて、【夏の銀河を見たときの人々の印象】が伝えられ、後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)において、中国から名門益氏(えきし)の王子と青年たちが日本列島に移住してもたらした夏音文字の学芸は【夏の銀河の印象】をあらわす土器・土偶を造った芸術家たちによって習得されました。」
 したがって、【古事記上巻 幷わせて序】は――倉頡が漢字作成方法を発明した約950年後の紀元前2070年~紀元前2050年ころの後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が定めた掟によって、夏の銀河の各部の形状が文字(字源・字形・字義)となった夏音文字の学問】が中国から伝来して習得された――と伝えていたことになる。
 皇室は権力と財力基盤であった【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学問】を厳重な機密にして独占管理して栄えたゆえ、現在まで存続して滅びなかったのである。
 だから、現在の大嘗祭が本格的に復興された1738年当時の皇室は、上記した【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文が伝える事実をもちろん知っていた。だから、令和の大嘗祭において悠紀殿と主基殿で天皇陛下による供饌の儀は【倉頡が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわすことになったのである。
 しかし、現在の学者たちは一人も【古事記上巻 幷わせて序】の文を正確に読解(どっかい)できないゆえ、彼等は「学問儀式の【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」と錯覚する幻想に憑()りつかれている。

◆【古事記上巻 幷わせて序】の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字を習得した」という記述は事実であった。
 だから、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した字源を解説する字書の『字統(じとう)(平凡社発行)の〔わが国の漢字音〕と題する初頭の文は「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという定説は誤っている。中国の上古音よりも古い・現存する最古の漢字音がわが国には保存されている事実」を、次のように説明する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文が明確に伝えるように、【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字の学問を習得した」という説明を学者たちは正しく読解できずに【誤読】するゆえ、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという空理空論・空想・幻想に憑()りつかれる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて夏音文字は多数残されており、3世紀(280年~289)に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の人名・小国名・官職名に用いられて夏音文字は消滅せずに残っている。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」と断定する定説は空理空論・空想ということになる。

◆このブログの前回(5)は、「なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか」、この原因について下記のごとく解説した。
 第33代・推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥(おい)の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 この崇仏(すうぶつ)政策において、聖徳太子は大失敗した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつを保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に擁護(ようご)されることになった。だから、皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を蘇我氏は支配することができたため、にわかに強大な権力を手中におさめることになった。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、聖徳太子が排除した巫女と覡たちは百済から輸入した仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難(むずか)しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者(皇族や貴族)たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡を時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼する事態となった。
 当時の皇族・貴族たちは、【夏の銀河から漢字が作られた学問】のほうが【鬼道(きどう/神道の先祖)】よりも【仏教】よりも勝っていると考えていたのである。なぜならば、【鬼道】は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を母として生まれた子であり、仏教の経典は【夏の銀河から作られた楷書(漢字)】で記載されていたからである。つまり、【夏の銀河から作られた楷書】によって仏教を知ることができるゆえ、「当然、【仏教】よりも【夏の銀河から作られた夏音文字や楷書の学問】のほうが勝っている」と、彼らは考えたのである。
 聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡は過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための邪魔になると考えて排除したため、大失敗した。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる皇族・貴族たちは、仏教の経典の楷書の解読を成し遂げた巫覡を排除した結果、皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判に対して、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆聖徳太子が死去した4年後の626520日、大臣(おおおみ)の蘇我馬子が没した。
 息子の蝦夷(えみし)が大臣を継いだ。上記した聖徳太子の【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡を排除した崇仏政策による失政によって、当時の最も強大な政権基盤である【夏の銀河から漢字が作られた学問】の威厳が蘇我大臣家と二分して脆弱(ぜいじゃく)となった天皇の権勢が弱体したため、蘇我蝦夷の権勢は馬子の時よりも盛んとなった。
 当時における有力な皇族は田村(たむら)皇子と山背大兄(やましろのおおえの)王の二人であった。田村は皇室の嫡流(ちゃくりゅう)であり、山背は推古天皇の甥の聖徳太子の子であった。
 62837日、推古天皇は次の天皇に即位するのは田村と山背のどちらとも決めかねて死去した。
 蝦夷は自邸に有力豪族を招集して田村と山背のどちらを次の天皇に即位するのかについて意向(いこう)をたずね、全員の一致を得られないと知ると、山背を天皇にと考えるおじの境部摩理勢(さかいべのまりせ)父子を武力で討ち取り、強引に田村皇子を即位させた。これが、62914日に即位した第34代・舒明(じょめい)天皇であった。舒明天皇の皇后は宝(たから)皇女であり、宝皇女は642115日に即位した第35代・皇極(こうぎょく)天皇であり、また彼女は65513日に即位した第37代・斉明(さいめい)天皇であった。
 舒明天皇と宝皇女の息子が66813日に即位した第38代・天智(てんじ)天皇であり、673227日に即位した天智天皇の弟の第40代・天武天皇であった。この天武天皇の即位から大嘗祭が始まったとされる。
 したがって、天智・天武両天皇の父・舒明天皇と母・皇極天皇の時代は、蘇我蝦夷と息子の入鹿(いるか)の権勢が隆盛(りゅうせい)を極(きわ)めていた。
 これゆえ、舒明・皇極の両天皇の時代は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室が独占管理できなかったために、その権勢は衰弱していたことになる。

◆皇族や貴族において【強大の権力】を尊重する人々は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最高に勝るものと考えた。
 しかし、皇族や貴族において人民と同様に「【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが【夏の銀河から漢字が作られた学問】よりも勝っている」と考える人々もいた。
 3世紀前半期(230年ころ)13歳の小国の日本の女王・伊耶那美命(いざなみのみこと/旧国丹波国生まれの本名は竹野比売)18歳の小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命(いざなきのみこと/のちの第9代開化天皇)と結婚するとき(つまり、小国・日本国が誕生するとき)、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた。【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える『古事記』は、712年正月28日に第43代・元明(げんめい)天皇に献上して拒絶(きょぜつ)されて正史になれなかった。【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に10字の夏音文字「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」で記述されている。この10字の夏音文字は「小国・日本の国土(くに)生みの柱を〔愛〕にいたしましょう、やさしき男(おのこ)よ」と意味した。
 この伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本はもちろん、卑弥呼が治める倭国の国中のすみずみまでたちまち知れ渡り、諸々の地方の首領(豪族)はじめ人民たちに最も尊重された。
 倭国に一員であった小国・伊耶(いや)(旧国丹波)生まれの竹野比売(たかのひめ)を、人民たちは「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい小国・日本の女王」を省略して「伊耶那美命」と呼んで敬愛した。

7791月に完成したと考えられる『万葉集』には、蘇我大臣家と【夏の銀河から漢字が作られた学問】を二分して苦悩した舒明天皇と皇后・宝皇女(のちの皇極天皇、斉明天皇)が伊耶那美命と伊耶那岐命に憧れて【日本国誕生史】や【日本建国の〔愛〕の理念】を題材にして作った和歌が幾つか収められている。
 『万葉集』2番は舒明天皇が作った「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌である。この長歌で舒明天皇は「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命を讃えている。
 『万葉集』5番は舒明天皇が作った「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌である。この長歌で、舒明天皇は伊耶那岐命の憧れを示して「小国・日本の軍王のちの開化天皇が、倭女王卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)(吉備地方)討伐を指揮した所縁(ゆかり)の安益郡(現在の香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、伊耶那岐命が本陣を設営した讃岐富士の飯野山(いいのやま)から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまを見ていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、蘇我入鹿と情を通じているにちがいないという噂がある妻の宝皇女と離縁しようかと決意したものの妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。小国・日本へ赴任する時に伊耶那美命と伊耶那岐命が〔塩許々袁々呂々邇(しおこをろこをろに)と画()き鳴らす国土生み儀式〕をおこなった舞台・瀬戸内海の一角にある網の浦の娘たちが焼いて塩を作る時の沸騰する熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間で苦悶するわが心よ」と表現している。

◆わがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、下記の『万葉集』485番の岡本天皇(宝皇女)が作った長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――神代の伊耶那美命が小国・日本の女王に就任して伊耶那岐命とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を覆って飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の無数の大群のように、わたしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

 このように父・舒明天皇と母・宝皇女は【伊耶那美命と伊耶那美命】に憧れ、【日本建国の〔愛〕の理念】のテーマとする和歌を作ったが――息子の天武天皇は673227日に即位に際し、天皇の権力を絶大にするため「天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母)の聖性を著しく汚す【〔愛〕を国家理念に掲げた日本国誕生史】を抹殺せよ」と命じて、大嘗祭を起源させた。
 この【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】が大嘗祭で表現されることになったのは、天武天皇が即位した年から約1070年後の17381119日の桜町天皇の大嘗祭からであったのである。

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