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2019年12月 4日 (水)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・8

★#8・中大兄皇子が作った「大和三山の歌」が伝える日本国誕生史の秘密

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆令和の即位式と大嘗祭では、(1)弥生時代(3世紀後半)から続く儀式は――『古事記』上巻に記述された天照大御神の歴史をあらわす「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回まで解説し証明してきたように、【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された
 弥生時代(3世紀)に生存した天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母の伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視し、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。
 天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を最も偉大な皇室の先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝する大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。だから、天武・持統両天皇は――天皇の権力を絶大にするための最大の障害となった【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)しなければならない――と考えた。
 ところが、天武・持統両天皇が「絶対に後世に伝えてはならない」と禁じた【日本建国の〔愛〕の理と日本国誕生史】は、江戸時代に復興されることになった。
 つまり、(3)天武天皇が大嘗祭を始めた673年から約1070年後の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭にて、【日本建国の〔愛〕の理念】は表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、上記した(3)1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 このように、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と【本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆このブログの前々回(6)で指摘したように――大嘗祭を起源させた第40代・天武天皇の両親・第34代・舒明(じょめい)天皇と皇后の宝(たから)皇女(35代・皇極天皇にして第37代・斉明天皇)は小国・日本の女王であった伊耶那美命(いざなみのみこと)と小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)への憧れを表現する和歌を作り、息子・天武天皇が「後世に絶対に伝えてはならない」と禁じた【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を題材にした和歌を作っている。
 舒明天皇と宝皇女が作った【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を詠()む和歌は、7791月に完成したと考えられる『万葉集』に収められている。

 『万葉集』2番は舒明天皇が作った「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌である。この長歌で舒明天皇は「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命を讃えている。
 『万葉集』5番は舒明天皇が作った「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌である。この長歌で、舒明天皇は伊耶那岐命の憧れを示して「小国・日本の軍王のちの開化天皇が、倭女王卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)(吉備地方)討伐を指揮した所縁(ゆかり)の安益郡(現在の香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、伊耶那岐命が本陣を設営した讃岐富士の飯野山(いいのやま)から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまを見ていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、蘇我入鹿と情を通じているにちがいないと噂(うわさ)される妻の宝皇女と離縁しようかと決意したものの妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。小国・日本へ赴任する時に伊耶那美命と伊耶那岐命が〔塩許々袁々呂々邇(しおこをろこをろに)と画()き鳴らす国土生み儀式〕をおこなった舞台となった瀬戸内海の一角にある網の浦の娘たちが焼いて塩を作る時の沸騰する熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間で苦悶するわが心よ」と表現している。

 そしてわがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、下記の『万葉集』485番の岡本天皇(天武天皇の生母の宝皇女)が作った長歌は【日本国誕生史の秘密】を解明できる重大な糸口(いとぐち)となる、多数の『万葉集』の和歌にあって【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表現する最も代表的な作品である。
 神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――神代の伊耶那美命が小国・日本の女王に就任して伊耶那岐命とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を覆って飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の無数の大群のように、わたくしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたくしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否して抱いてくれません。わたくしは、昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

◆舒明天皇と宝皇女の息子は66813日に即した第38代・天智(てんじ)天皇と、673227日に即位した第40代・天武天皇である。天智天皇は兄で皇太子の時の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であり、弟の天武天皇は皇太弟の時の名は「大海人(おおあまの)皇子」であった。
 中大兄皇子は【日本国誕生史の秘密】を詠()む、『万葉集』13番の「大和三山の歌」の長歌と14番の反歌(はんか)を作った。
 3世紀(280年~289)に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』において「景初二年六月倭の女王」という文から最終部までの記事は、中大兄皇子が作った『万葉集』13番・14番の和歌と同じく【日本誕生史の秘密】を伝える。〔注 『魏志倭人伝』の文字数は合計約2000字で構成され、【日本国誕生史の秘密】を伝える「景初二年六月倭の女王」という文から最終部までの記事は約600字・約30%である〕。

◆『魏志倭人伝』の後半にある「景初二年六月倭の女王」の記事から倭女王の壱与(いよ)が登場する末部までの約600字・約30%の記事は、下記のごとく説明するものであった。
 ――『魏志倭人伝』末部に登場する「倭女王・壱与」は、『古事記』上巻に登場する13歳で小国・日本の女王に就任した伊耶那美命の夏音名(夏音文字の名)であった。
 伊耶那美命・壱与は小国・日本の女王の就任式において18歳の伊耶那岐命と結婚する時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という10字の夏音文字の詞(ことば)で「日本国(小国・日本)の国土生みの柱を〔愛〕にいたしましょう。やさしい男(おのこ)よ」と宣誓した。この【日本建国の〔愛〕の理念】は一気に評判となり、小国・日本はもちろん卑弥呼が治める倭国の国中すみずみまでに知れ渡った。
 倭女王・卑弥呼は没して大きな墓が造られ、百余人の奴婢(ぬひ/18歳ころの青年と13歳ころの乙女)が殺されて卑弥呼の墓に埋められる徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。
 伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する倭国の国中の人民は、徇葬を憎悪して武器を持って倭王朝軍と戦った。倭王朝軍は反乱する人民を千余人殺した。
 この大乱(たいらん)に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が倭国を倒さんと戦争を大々的に仕掛けてきた。
 このため、倭国と倭王朝はにわかに滅亡の危機におちいった。
 卑弥呼の後を継()ぐ男王を大王と倭王朝の面々は「そもそも人民の反乱と狗奴国の襲撃は、壱与(伊耶那美命)がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を人民たちが憧れておきたゆえ、この禍災(わざわい)の原因は伊耶那美命にある」と非難して、倭国における小国・伊耶(いや)国出身の伊耶那美命を倭国に帰国させて、大乱を鎮圧(ちんあつ)して狗奴国を討伐(とうばつ)する倭女王に任命すると伊耶那美命に命令した。
 伊耶那美命が倭女王に就任することを知った反乱する人民たちは、〔愛〕の女王・伊耶那美命ならば必ず徇葬は否定して禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てたゆえ、倭国は平定された。
 伊耶那美命は狗奴国討伐に反対し、狗奴国の男王との話し合いで平和的に解決するようにと命じた。
 倭女王・伊耶那美命の命令に反対する倭王朝は、狗奴国討伐を命令し鼓舞(こぶ)する壱与の代役に天照大御神を就任させた。天照大御神は、伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。
 天照大御神・伊迦賀色許売命が伊耶那岐命の父の第8代・孝元(こうげん)天皇と結婚して、第10代・崇神(すじん)天皇を生んだ。伊耶那岐命は父の孝元帝の後を継ぐ第9代・開化(かいか)天皇であった。第10代・崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟であった。したがって、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇と結婚して第二后となったゆえ、伊耶那岐命の異母弟の崇神天皇は伊耶那岐命の養子であったことになる。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁されたため、伊耶那岐命の妻という戸籍を失った彼女は伊耶那岐命の祖父の孝霊(こうれい)天皇の娘「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびのももそひめのみこと)」という名を受け継いだ。だから、『日本書紀』崇神天皇紀は、「倭迹迹日百襲姫命(伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命)は崇神天皇の姑(おば)である」と記す。

◆『日本書紀』崇神天皇紀6年の条(くだり)には、下記のごとく「崇神天皇の異名(いみょう/別の名)は天照大御神であった」と伝える記事がある。
 「崇神天皇に諸々の氏族(百姓)が服従せずに流離(りゅうり)し、あるいは背(そむ)く者も出て、その勢いは徳をもって治めることができなかった。これゆえ、天皇は朝早く起きられ、夜遅くまで、謹んで天神地祇(ちぎ)をお祭りになって謝罪された。これより先に、天照大御神と倭大国魂(わのおおくにたま)のニ神を、天皇の大殿(居所)の中にお祭りした。ところが、ニ神は、それぞれの勢いを畏(おそ)れて、共に大殿の中に一緒(いっしょ)に住むことを安心なされなかった。そこで、天照大御神には、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をお付けになって、倭の笠縫邑(かさぬいむら/奈良県桜井市三輪の檜原社)に移して祭ることにした。そして、檜原神社の境内に磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)を立てた。〔つまり、天皇がお住みになられる皇居〈磯城瑞垣宮(しきのみずかきみや)〉という名にちなんで磯の石を並べて垣根にする祭場(聖域)を設置した。〕また、大殿の中に住む日本大国魂神(にほんおおくにたまのかみ)には渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)をお付けになって、祭るように命令した。しかし、渟名城入姫命は、髪がぬけ落ち、身体が痩()せ細って日本大国魂神をお祭りすることができなかった。」
 この記事が伝えるように、崇神天皇は天照大御神を崇拝した。だから、崇神天皇の異名は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀において「天照大御神」と表記されたのである。
 「倭大国魂」と「日本大国魂神」を名前が異なるが同一神である。ゆえに、小国・日本の女王・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪する崇神天皇・天照大御神は、「伊耶那美命」と「日本建国の〔愛〕の理念」に「倭大国魂」または「日本大国魂神」という名称を付けた。そして、天皇の呪詛(じゅそ/のろい)の害が天照大御神に及ばないようにするため、皇居から遠く離れる磯堅城の神籬に移して、豊鍬入姫命に祭らせることにした。
 日本大国魂神を祭ることになった渟名城入姫命は天皇の呪詛の害(多分、毒でも盛ったのであろう)によって、頭髪が抜け落ち、痩せ細って【日本建国の〔愛〕の理念=日本大国魂神】を祭ることができなかった。だから、髪が抜け落ちて痩せ細った渟名城入姫命は【天照大御神・崇神天皇が憎悪し呪詛して願った日本建国の〔愛〕の理念の消滅・抹殺】を意味した。
 『古事記』上巻は「伊耶那美命は淤能碁呂島(おのごろしま)で伊耶那岐命と結婚した時、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた」と記述する。「淤能碁呂島」の[]の字義は「どろ()、つまり稲が育つ水田の肥えた泥」である。「渟名城入姫命」の先頭字[]の字義は「水が停()まって流れないこと、つまり水田に溜まる流れない水」である。ゆえに、「渟名城入姫命」は「伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた淤能碁呂島」を表現する名であったことになる。
 『古事記』上巻に登場する天照大御神は最初に女性、後で男性となる――ゆえに、【前者の女性の天照大御神は、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命】。【後者の男性の天照大御神は伊迦賀色許売命の息子の崇神天皇】であったのである。
 そして、『魏志倭人伝』末部に登場する武将の載斯烏越(そしあお)は、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)の夏音名であった。倭王朝は伊耶那岐命・載斯烏越を討伐軍の大将に就任させて、狗奴国を滅亡させた。
 伊耶那美命の出生地は『魏志倭人伝』に登場する倭の小国「伊耶国」であった。伊耶国は「旧国丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)」であった。
 「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい女王」と人民に愛称されたゆえ「伊耶那美命」と呼ばれた小国・日本の女王は、上記したように後年に倭女王・壱与に就任し、伊耶那美命・壱与の本名は竹野比売(たかのひめ)であり、伊耶那岐命の正妃であった。
 『古事記』中巻の第9代開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売と結婚した」と記述する。開化天皇の居殿「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」に合致する。したがって、伊耶那岐命は後の開化天皇であったことになる。

◆中大兄(なかのおおえの)皇子・後の38代天智(てんち)天皇は狗奴国討伐をテーマにして長歌と反歌(はんか)を作った。この長歌と反歌は『万葉集』13番の「大和三山の歌」と14番の短歌となる。
 『万葉集』13番の「中大兄皇子の大和三山の歌」は下記のごとくである。
 「香具山(かぐやま)は 畝傍雄男(うねびをを)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も しかにあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
 この長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 「大和の香具山で象徴される伊耶那美命は、畝傍山で象徴される伊耶那岐命(狗奴国を討伐する夫)は雄男しすぎると嘆(なげ)き、耳成山に象徴される天照大御神と狗奴国討伐について意見が対立して争った。伊耶那美命は平和的に解決すべきであると主張したのに対して、天照大御神は狗奴国を討伐すべきであると主張した。このように、神代の伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命と第二后の天照大御神は争った。古代がそうであったように、今も吾と弟の大海人皇子(天武天皇)は額田王(ぬかだのおおきみ)を妻にしようとして争っている。このように、男女の仲は、昔も今も変わらず争いが絶えない。」

 『万葉集』14番の反歌は下記のごとくである。
 「香具山と 耳成山と あひし時 立ちて見に来()し 印南国原(いなみくにはら)
 この反歌を現代語訳すると、下記のごとくなる。
 「香具山・伊耶那美命(壱与・竹野比売)は狗奴国討伐に反対し、耳成山・天照大御神(壱与の代役をつとめた伊迦賀色許売命)が狗奴国討伐を賛成して、相(あい)対立したとき、この対立を心配して阿菩(あぼ)の大神が見に来たという、壱与の代役となって天照大御神が狗奴国討伐成就の願いがかなえられる地霊を呼び興(おこ)す聖地とした“印南国原”は、ここなんだ!」〔注 印南国原は伊耶那岐命と伊耶那美命を主祭神とする伊弉諾神宮の真北の、兵庫県明石市から加古川市にかけての平野部〕 
 この反歌に登場する「阿菩の大神」は「死んだ卑弥呼の霊魂」であったにちがいない。
 というのも[]の字義は、「大陵(大きな陵墓)」であるゆえ「大きな卑弥呼の陵墓」を指すからである。[]の字は「倍草。つまり、苗の時より収穫期には茎が数倍に増える禾()」を意味する。そして、[]の原字(最初の文字)は「稲」を意味する[()]であり、[]の字源は[]の字源を直接的に受け継いだ。だから、「阿菩の大神」は「大きな陵墓に葬られた倭女王・卑弥呼の霊魂」を意味したことになる。

 以上のように、661年春正月、斉明天皇(舒明天皇の皇后であった宝皇女)は船団を組んで、新羅(しらぎ)遠征のために印南野が見える播磨灘を通過する時、中大兄皇子が作った『万葉集』13番の長歌と14番の短歌は、令和元年の即位礼正殿の儀と大嘗祭において表現された【日本建国の〔愛〕の理念の秘密】を伝えていたのである。

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