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2019年12月 3日 (火)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・7

★#7・中大兄皇子が決行した乙巳の変は、大嘗祭の秘密を伝える

◆このブログが前回(6)でも指摘したように――令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継ぐ。
 令和の即位式と大嘗祭が受け継いだ、(1)【弥生時代(3世紀後半)から続く儀式】は――天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母・伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)の歴史を伝える「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)【天武天皇からの大嘗祭の伝統】は――このブログが前回まで解説し証明してきた【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された。

◆このブログで前回(6)まで解説してきたが――【夏の銀河から漢字が作られた学問】の詳細については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆弥生時代(3世紀後半)に生存した天照大御神母子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視すれば皇室は永らく栄えるという信念にもとづいて大和朝廷の基礎を築いた。
 このブログ前回(6)で解説したように、聖徳太子(しょうとくたいし)の【夏の銀河から漢字が作られた学問】を軽視する政策失敗によって、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなった皇室の権勢は衰弱して脆弱(ぜいじゃく)となった。

 第33代・推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥(おい)の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつ)を保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に擁護(ようご)されることになった。だから、皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を支配することができた蘇我大臣家は、にわかに強大な権力を手中におさめることになったのである。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、聖徳太子が排除した巫覡(ふげき)たちは百済から輸入した仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難(むずか)しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者(皇族や貴族)たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫覡たちを時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼する事態となった。
 当時の皇族・貴族たちは、【夏の銀河から漢字が作られた学問】のほうが【鬼道(きどう/神道の先祖)】よりも【仏教】よりも勝っていると考えていたのである。なぜならば、【鬼道】は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を母として生まれた子であり、仏教の経典は【夏の銀河から作られた楷書(漢字)】で記載されていたからである。つまり、【夏の銀河から作られた楷書】によって仏教を知ることができるゆえ、「当然、【仏教】よりも【夏の銀河から作られた夏音文字や楷書の学問】のほうが勝っている」と、彼らは考えたのである。
 聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちは過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための邪魔になると考えて排除したため、大失敗した。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる皇族・貴族たちは、仏教の経典の楷書の解読を成し遂げた巫覡たちを排除した結果、皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判に対して、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆推古天皇の後を、第34代・舒明(じょめい)天皇が62914日に即位した。舒明天皇の皇后は宝(たから)皇女である。宝皇女は642115日に即位した第35代・皇極(こうぎょく)天皇であり、また宝皇女は65513日に即位した斉明(さいめい)天皇であった。
 舒明天皇と宝皇女の息子が66813日に即位した第38代・天智(てんじ)天皇であり、673227日に即位した天智天皇の弟の第40代・天武天皇であった。この天武天皇の即位から大嘗祭は始まったとされる。
 上記した聖徳太子の政策失敗によって、蘇我馬子の息子の蝦夷(えみし)と孫の入鹿(いるか)の権勢が隆盛(りょうせい)を極(きわ)めていた。
 これゆえ、天智・天武両天皇の父・舒明天皇と母・皇極天皇の時代は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占できなくなった皇室の権勢は衰弱していた。
 天智天皇の皇太子時代の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であった。
 蘇我大臣家の天下は長く続かず、中大兄皇子と中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ/のちの中臣鎌足)によってほろぼされ、大化(たいか)の改新が断行された。ここに律令(りつりょう)制という新しい政治体制の基礎固めがなされた。

641年、舒明天皇が亡くなると、蘇我蝦夷は宝皇女を天皇に即位させた。これが、皇極天皇である。
 蝦夷は皇極天皇の許可も得ずにかってに大臣の位を子の入鹿にゆずった。
 643年、入鹿は兵をつかわして斑鳩宮(いかるがのみや)に住む聖徳太子の子である山背大兄(やましろおおえ)王一家を襲撃して皆殺しにした(山背大兄王の変)。この暴挙で入鹿は評判を落とし、蘇我氏打倒の気運が生じることになった。
 中大兄皇子と中臣鎌子連は、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)のところへ儒学(じゅがく)の勉強に通う往復の道で、蘇我氏打倒の計画を相談した。
 二人は仲間づくりを始め、中臣鎌子連はまず、蘇我一族のなかで蝦夷・入鹿をきらう蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだまろ)をだきこむため、彼の娘を中大兄皇子の妃(きさき)とする案を立て、倉山田麻呂を後援者にすることに成功した。またクーデターの実行にたずさわる人物として佐伯部子麻呂(さえきべのこまろ)、葛木稚犬養網田(かつらきのわかいぬかいのあみだ)の二人を引き入れた。
 645612日、宮中で三韓朝貢(さんかんちょうこう)の儀が行われ、入鹿も出席した。中大兄は倉山田麻呂に三韓の上表文を読ませ、その隙(すき)に入鹿を斬る計画を立てた。中大兄は自ら長槍(ながやり)をとって、式場内の柱の陰にかくれ、鎌子連らは弓矢をもって護衛した。しかし、子麻呂と犬養連網田は緊張(きんちょう)のあまり手足がふるえて斬りつけられなかった。上表文が終わりに近づいた倉山田麻呂は、子麻呂らが飛び出して来る気配がないため恐ろしくなり、全身に汗がふき出して、声も乱れ手も震えた。そばにいた入鹿は怪しんで「なぜ震えているのか」ととがめた。子麻呂らが恐怖で躊躇(ちゅうちょ)しているのを見た中大兄は「ヤア」と掛け声をあげるや子麻呂らも一緒になっておどり出て、中大兄は剣をもって入鹿の頭と肩に斬りつけた。おどろいた入鹿は座を立とうとすると、子麻呂らが剣をふるって入鹿の片方の足に斬りつけた。入鹿は天皇の御座の下に転落し、「日嗣(ひつぎ)の位においでいるのは天子である。私にいったいなんの罪があるのか。そのわけを言え」つまり「徳をもって私の命を救ってこそ天子である」と、天皇に必死に訴えた。
 天皇はたいへん驚き、中大兄に「これはいったい何事が起ったのか」と言われた。中大兄は平伏して「鞍作(くらつくり/入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」と奏上(そうじょう)した。
 つまり、中大兄は「棚から落ちた牡丹餅(ぼたもち)が口に入った」ごとく【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちのために権勢が隆盛になった入鹿が天子・天皇家に代わってどうして天下を治めることができるか。絶対に無理である!」と訴えたのである。
 天皇は事のあらましをさとり、奥へ退いてしまった。入鹿は子麻呂と犬養連網田にとどめをさされた。
 翌13日、蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。そのとき、船史恵尺(ふねのふびとえさか)は素早く焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。
 蝦夷は自殺し、蘇我大臣家はあっけなく滅びた。これを「乙巳(おつし)の変」という。

◆乙巳の変によって、皇室は【夏の銀河から漢字を作られた学問】を独占管理できて、従来(推古王朝以前)と同じく権勢をとりもどすことができた。
 『日本書紀』推古天皇紀は「推古天皇20(620)、皇太子・聖徳太子と大臣・蘇我馬子が相議(あいはか)って、天皇記および国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録した」と記述する。
 したがって、【乙巳の変で、蝦夷が焼いた天皇記・国記】は620(推古天皇20)に編纂(へんさん)が勅令(ちょくれい)された書物であったことになる。
 上記したように――聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)たちを、崇仏(すうぶつ)政策を推進するのに邪魔(じゃま)になると排除した。だから、巫覡(ふげき)たちは蘇我大臣家を頼った。これゆえ、蘇我大臣家は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通した巫覡によって、皇室と二分する権勢を手に入れることができて隆盛をきわめたのである。
 蘇我大臣家に擁護(ようご)された【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちは、仏教の経典に羅列(られつ)される難解きわまりない楷書を解読して皇族や貴族たちに最も信頼されていたゆえ、夏音文字や楷書で書く天皇記および国記などの編纂(へんさん)を担当することになったのである。だから、蘇我大臣家は本来皇室と国家が所蔵すべき天皇記・国記を所蔵できたゆえ、蝦夷は自らの家で保管する天皇記・国記を焼くことができたのである。
 したがって、乙巳の変の時に蘇我大臣家に天皇記と国記が所蔵されていたということは、聖徳太子に排除されて蘇我大臣家が擁護した巫覡たちが【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通していたことを証明し、また620年に推古天皇が編纂を勅令(ちょくれい)した天皇記および国記、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記などを整理する編纂は蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって成されたことになる。

◆上記したとおり、『日本書紀』は「乙巳の変で、船史恵尺によって国記は消失しなかったが、天皇記は消失した」と記述する。
 712(和銅5)正月28日に完成して元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の下巻は推古天皇紀で終わる。
 ということは、随所に〔音〕という注が付く多数の夏音文字を記載する【『古事記』上巻の原典】は、【蘇我大臣家で擁護された巫覡たちが編纂した国記、船史恵尺によって焼失しなかった国記】であったことになる。
 また、【乙巳の変で天皇記は消失した】ため、【『古事記』中巻・下巻の天皇紀】は【天皇家・各貴族家・臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らに残っていた資料など用いて、新たに編纂しなおした記録】であったことになる。
 『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)に登場する「本辞(ほんじ)」、「旧辞(きゅうじ)」、「先代の旧辞」は、推古天皇が勅令して巫覡たちが編纂された「国記」を指していることになる。
 『古事記』の序に登場する「帝紀(ていき)」、「帝皇日継(ていおうのひつぎ)」は「新たに編纂しなおした天皇紀」であったことになる。

◆以上のごとく、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は、皇室が“い”の一番・最初に必要とする最大・最強の政権基盤であった。
 聖徳太子が【夏の銀河から作られた学問】を知得する巫覡たちを排除したため、その巫覡たちが蘇我大臣家に擁護されて【夏の銀河から漢字が作られた学問】によって天下を治める権勢が二分されたように、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は独占管理して厳重(げんじゅう)に機密にしてこそ効力が発揮された。
 【夏の銀河から漢字が作られた学問の秘密】を知って、これを暴露した人物と一族は時の王朝の転覆を謀(はか)って国家安寧(こっかあんねい)を害する大罪を犯したことになるゆえ、即刻に死刑されたのである。
 【夏の銀河から作られた学問】は正(まさ)に「沈黙は金なり」で知っていても沈黙していることが賢明であったのである。沈黙していれば相当大なる権力と豊かな財力と人々に尊ばれる名誉を手に入れて安穏(あんのん)に生きていることができたからである。
 もしもある人物や家が天下を手に入れようとして「漢字は銀河から作られた」と暴露しても――この暴露によって多くの氏族・家柄・人々が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を学んで天下を手中に入れようとするため、戦乱が絶えなくなる。ゆえに、「漢字は銀河から作られた」と暴露した人物や家がたとえ一時(いっとき)天下をとっても、あっけなく滅亡することになったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は「沈黙は金なり」ということになったゆえ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理して厳重に機密を保持(ほじ)した皇室が永らく栄えて滅亡せずに現在まで存続したのである。
 したがって、令和の即位礼正殿の儀と大嘗祭は【紀元前3000年ころに生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法】と【紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭に、習得した夏音文字の学問】と【2世紀末から出現して7世紀に完成した楷書――夏音文字の音符となった楷書も夏の銀河から作られた】などと伝える【夏の銀河から漢字が作られた学問儀式】であったことになる。

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