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2012年1月17日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・37

 1608年、徳川家康は30歳の駿府作事奉行の小堀正一を遠江守に任命し、細江郷(現在の静岡県浜松市北区細江町)の大鳥の地上絵の研究を命じた。
 1601年に細江郷の大鳥の地上絵の守り番であった井伊氏を近江の彦根に移住させたため、守り番を失った大鳥の地上絵が消えてしまうことを家康は心配したのであろう。また、夏音文字の学芸を復興するために、用心深く家康は彦根の3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵の作成に続く次の一手を用意して、当時の天才芸術家の若き小堀正一に細江郷の大鳥の地上絵の研究を命じたのであろう。
 この年、「遠江」は「遠州」とも称されたので、小堀正一は「遠州」と号した。
 家康に細江郷の大鳥の地上絵の研究を命じられた1608年から69歳で1647年に京都の伏見(ふしみ)奉行屋敷で死去するまでの39年間、夏音文字の学芸の復興する、これが彼の最も重大な任務となり、この一路を歩んで任務を全(まっと)した。

 【夏音文字】が【銀河】から作られたことを直観ししかも深く理解できるのは芸術家である。
 小堀遠州は当時を代表する芸術家であり、彼は現在で言う文字をさまざまにデザインする“グラフィック・デザイン”の才能に長(た)け、この研究は長い年月を必要とするので、遠州は【銀河各部の形状】が【文字】となる夏音文字の学芸の研究にうってつけの若くてぬきんでた才能の持ち主であった。

 1616年に家康が没した以後、徳川幕府は家康が一生をささげた夏音文字の学芸の復興の遺志を受け継いだ。
 1622年、幕府は3千万坪の彦根の羽の無い大鳥の地上絵が完成させた。この1622年に幕府は遠州の研究を深めるために近江国奉行に任命して彦根の大鳥の地上絵にそそいだ夏音文字の学芸知識を提供し、翌1623年に桂離宮の庭園作りを遠州に命じた。
 これゆえ、桂離宮の庭園池の東北には、彦根の羽の無い大鳥の地上絵と同じく羽の無いを江郷の大鳥の地上絵を設計する庭園がある。
 遠州の桂離宮の作庭は、時の後水尾(ごみずのお)天皇に従来の皇室の方針を転換を要請して、夏音文字の学芸復興の承諾を得るための、幕府が家康の遺志を継ぐ重点政策であった。
 遠州は病床に倒れて立つことができなくなった1645年までの22年間、桂離宮の庭園作りに全情熱を傾けた。

 しかし、夏音文字の学芸を復興すれば皇祖・天照大神が残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した事績はじめ伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する小国・日本の人民を敵視し憎悪して苦しめ、伊耶那美命を崇拝する出雲の大国主命王朝や九州の宗像(むなかた)王朝を武力で征服した歴史が明らかになって皇室は人民に憎悪されて滅亡すると、後水尾帝は恐れた。これゆえ、後水尾帝は家康の遺志を継ぐ幕府の政策を頑(かたく)なに拒絶しつづけた。
 1627年に紫衣(しえ)事件が起こると、後水尾天皇はこれを怒って1629年に幕府に無断で譲位(じょうい)し、将軍秀忠(ひでただ)の娘和子(かずこ)と結婚して生まれた興子(おきこ)内親王が跡をつがせた。これが明正(めいしょう)天皇である。
 紫衣(紫色の法衣)を着用することは、禅宗・浄土宗の僧侶にとって最高の栄誉であるが、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっど)の制定以後、天皇が法衣の許可をあたえるには、事前に幕府の同意を必要とすることになっていた。しかし、天皇は以前の慣例にしたがって無断で許可をあたえたため、幕府はその無効を宣言した。しかし、幕府の無効の宣言に抗議した大徳寺の沢庵らが配流(はいる)に処せられたため、幕府の強圧策に怒った天皇は「葦原(あしはら)や しげればしげれ 荻薄(おぎすすき) とても道ある 世にすまばこそ」と和歌を詠み、退位した。
 紫衣事件がおきた1627年は、後水尾天皇に夏音文字の学芸復興の受諾を得るために桂離宮の作庭を着手してから4年後であった。したがって、紫衣事件における天皇の心の底には、皇祖・天照大御神の聖性を汚すことになる桂離宮の作庭事業をもって夏音文字の学芸の復興を達成しようと、桂離宮を所有する天皇の叔父の智仁親王(としひとしんのう)を斡旋役(あっせんやく)にして説得せんとする幕府の干渉(かんしょう)への怒りがあったのではあるまいか。
 天皇が退位する時に呼んだ和歌は、下記のような意味するものと解釈できる。
 「『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)の黄泉(よみの)国訪問説話で“葦原中国(あしはらのなかつくに)”という名で呼ばれた国・日本の伊耶那美命を崇拝する幕府よ、栄えるならば栄えよ、どうせ朕(われ)は天照大御神を崇拝する落ちぶれた荻薄だ、葦原の国と人々が求めたとても正しい道がひらけた、この世に住んでいることになったんだから。もはや、朕(われ)の権力はまったく無いにひとしい。だから、無力の朕に夏音文字の学芸の復興を承諾せよと、なにゆえ求める必要があるんだ。幕府が勝手に夏音文字の学芸を復興すればいいんではないか。皇室を利用するなんてことは考えないで、さっさと幕府が夏音文字の学芸を復興すればよいではないか。幕府のやっていることはまったく茶番劇だ。」 

 夏音文字の学芸の復興は、伊耶那美命の死後、日本人民の魂となりアイデンティティとなり、日本国の理念を後世に伝える方法であり、日本文化と学術と芸術の原動力であった。
 だから、夏音文字の学芸は強大な権力と莫大な富に優る、絶対に失うことができない日本民族と日本国の基盤であった。
 これを失うは、この世に葦原の人草(ひとくさ)である日本人がこの世にいなくなることであり、葦原中国(あしはら)の日本国が地球上に存在しないことに等しかったのである。
 これゆえ、天下を取った幕府が力づくで夏音文字の学芸を復興しても、それは強大な権力によって復興することになるので、夏音文字の学芸の復興運動の理想と目的を達成するものではないと家康も幕府も考えていたのである。
 家康も幕府はもともと夏音文字の学芸は天皇家の始祖とする天祖がわが国にもたらしたものと考え、権力が衰退した天皇家が承諾してこそ夏音文字の学芸は強大な権力と莫大な富に優る日本民族と日本国家の理想であると明確に示すことができるとこだわっていたにちがいないのである。
 この家康と幕府の考えは、伊耶那美命が歴史上に登場して以来のわが国の歴史が明確に示すことであり、『古事記』上巻全体を通して語られていることである。
 また『万葉集』の多くの和歌が、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を高々と歌い上げている。
 この日本建国の〔愛〕の理念が強大な権力と莫大な富に勝る日本民族と日本国の理想であった。この日本建国の〔愛〕の理念を伝える歴史は【銀河各部の形状】を【文字】とする夏音文字で記録された。
 この夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は、西欧近代科学の傲慢(ごうまん)な単純化から生まれた“文献批判”という方法を用いて、新井白石から始まる西欧近代科学の合理思考を絶対視する学者たちによって『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を【誤読】して夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を記す歴史がことごとく排除(はいじょ)された。さらに、この“文献批判”をもって学者たちは日本古代史学を支配した。このため、源頼朝と足利尊氏などそして臨済宗の僧侶たちがおこなった夏音文字の学芸の保存運動、また『古事記』編纂スタッフ、織田信長、徳川家康などの夏音文字の学芸復興運動に命を賭(か)けた歴史はまったく削除(さくじょ)されることになった。ゆえに、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を、今日、われわれは歴史上に存在したものであることをまったく知らず失うことになったのである。
 しかし、1738年までは夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を守って残すと志す先人たちの運動を江戸幕府は引き継ぎ、執拗(しつよう)にあきらめずに後水尾上皇はじめその後の歴代天皇に夏音文字の学芸を復興して日本建国の〔愛〕の理念を民族と国家の理想とする承諾を求めつづけていた。

 家康の死から122年後の1738年、霊元(れいげん)上皇が大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興して幕府の要望を受け入れ、即位する天皇の頭上に高々と差し上げる王冠・菅蓋(かんがい)で夏音文字の学芸の復興の承諾が示された。
 この天皇の王冠の上の鳥の飾りで夏音文字の学芸の復興があらわされ、下の飾りの菅笠(すげかさ)で天照大御神が敵視し憎悪した伊耶那美命(いざなみのみこと)が提唱した日本建国の〔愛〕の理念が示された。

 「大嘗会」は天皇が即位後におこなう皇室の最大の神事であり、【夏音文字】は【銀河各部の形状】であったことを表示する祭儀である。
 「大嘗会」の[大]の字源は「十字の銀河」である。[嘗]の字義は「なめる」である。ゆえに、[嘗]の字源は「十字の銀河」と連結する「十字の銀河の南の乳房」(十字の銀河の妊婦のおなかに観える銀河)を嘗(な)める「鬼の横顔に似る銀河の舌」である。[会]の字源は「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が会う「十字の銀河の子宮」である。
 だから、「大嘗会」という神事は「文字は銀河から作られた」と証言するものであり、【夏音文字】は【銀河各部の形状】で確かに存在したと証言していることになる。
 即位する天皇の頭上に高々と差し上げられる天皇の王冠の意匠(いしょう)は強大な権力よりも莫大な富よりも優る日本人の魂とアイデンィティを表示する。

 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』で詳細に解説して証明したように、天皇の王冠の意匠は――桂離宮の庭園池の東北に作られた細江郷の大鳥の地上絵の設計と、有名な美しい“桂の笹垣(ささがき)”と、そして庭園池中央の大きな“夏音文字の学芸の復興を皇室に願う家康が土下座する姿”の設計――を注目して決定された。

 天皇の王冠の上の飾りは、遠州が桂離宮の作庭に着手する1年前に近江国奉行に任命されて見学した彦根の大鳥の地上と同じく“夏音文字の学芸は習わず(いまだ夏音文字の学芸は復興せず)”とあらわす、羽の無い細江郷の大鳥の地上絵を設計した庭園からデザインされた。
 この〔羽の無い細江郷の大鳥の地上絵〕によって、『桂御別業之記(かつらごべつぎょうのき)』という名の古文書の「庭園は小堀遠州政一が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」という記述は、伏見奉行・遠州が家康の命令された任務を全うしたと示すものとなる。ゆえに、学者・ジャーナリストあるいは出版社などは『桂御別業之記』の記述を根拠無しと否定するが、この意見は明らかに臆説独断(おくせつどくだん)であって、桂離宮の庭園は小堀遠州が作ったと断定すべきことになる。

 羽の無い細江郷の大鳥の地上絵を設計する庭園の頭部は、「天の橋立(はしだて)」という名の直角状に三段に折れる築島(つきしま)である。この「天の橋立」のほぼ真北の外腰掛(そとこしかけ)前の延段(えんだん)の北端に、有名な二重枡形の手水鉢(ちょうずばち)がある。
 菱形「◇」を半分に割ると[く]の字となる。この[く]の字形の大きな前石を配し、角違いの手法で、手を洗い清めるための手水鉢ではなく、二重枡形の手水鉢は貴人が別の用途に使う装置であると示す造形になっている。
 二重枡形の手水鉢の海(水を溜める穴)の縁は正方形である。この正方形の手水鉢の側面の胴は女性の乳房のように円(まろ)やかに、妊婦のおなかのようにどっしりとし、女体のようにやわらかいカーブを描く。
 このような女体が連想される手水鉢の海は3cmほどの深さに正方形に彫られ、さらにその正方形と45度に交わる正方形が彫られている。つまり、この手水鉢の海は〔正方形の中に菱形の枡がある形〕となる。
 ゆえに、二重枡形手水鉢の海は「長方形の暗黒天体部」を造形するものと考えるべきことになる。これゆえ、外側の「正方形の彫り」は「長方形の暗黒天体部の北側の正方形の銀河部」をあらわすものとなる。内側の「菱形の彫り」は「長方形の暗黒天体部の南側にある2連菱形枡の銀河部」の一つをあらわして[幡]の字源を表現していることになる。

 この二重枡形手水鉢の3m後ろは、茅葺(かやぶ)きの外腰掛の建物の内となる。この位置に、“砂雪隠(すなせっちん)”がある。「雪隠」は「トイレ」である。
 砂雪隠はトイレとして使われない。茶の湯では飾りとするものであるので、砂雪隠は“飾(かざり)雪隠”とも称する。飾りものであるから不要なものであるはずなのに、茶人たちの間では砂雪隠は欠くことができないものであると重要視される。
 この砂雪隠の決まった形式があり、この形式は遠州が15才ころに茶を習った茶道の一派・織部流(おりべりゅう)の祖の古田織部が定めたとされる。桂離宮の外腰掛の砂雪隠の形は、織部流を忠実にまもって作られている。
 しかし、織部流でも千利休(せんのりきゅう)を祖とする千家流においても、内腰掛に砂雪隠を設ける。外腰掛には実用的なトイレ(下腹雪隠)を設置した。
 したがって、桂離宮の外腰掛に砂雪隠を設けるのは、茶道の決まりに反する。
 遠州が桂離宮の外腰掛に作った砂雪隠は自然石を組んで便器の部分を作り、その便器の部分の中に砂を入れ、組石の一つを壁の外にはみ出させた。この形式は織部流に忠実である。
 「長方形の暗黒天体部」の東と西の辺に対して、南側の「2連菱形枡の銀河部」は外にはみ出す。ゆえに〔外腰掛の壁〕を「長方形の暗黒天体部の北側の正方形の辺」に見立てると、〔壁の外にはみ出す組石〕は「2連菱形枡の銀河部」をあらわすものとなる。
 この砂雪隠は二重枡形手水鉢の3m後ろにある。ということは、砂雪隠も「長方形の暗黒天体部の南側にある2連菱形枡の銀河部」が字源となる[幡]の秘密、すなわち倉頡が定めた「神に誓って、書いた後に必ず文字を消せなければならない」という掟をを示す装置であるにちがいない。

 小堀遠州は当時の天下一の茶の宗匠(そうしょう)であった。さらに遠州は織部に茶を習った。ゆえに、織部流の砂雪隠は内腰掛に、外腰掛には下腹雪隠を設置する約束事を反して、なぜ外腰掛に砂雪隠を設置したのであろうか。
 古田織部はトイレ以外に使う“砂雪隠”という珍しい古くからの遺産を茶の湯に取り入れた。しかし、織部は砂雪隠が[幡]の〔倉頡が定めた掟の秘密を伝える、夏音文字を書き、書いた夏音文字を消すための装置〕であることを知らなかったのであろう。
 砂雪隠は、夏音文字を砂の上に先のとがった棒で書き、書いた文字を棒で消すのに便利な装置となる。ゆえに、砂雪隠は倉頡が決めた掟を守る、[幡]の字源となった役目を優した装置であったことになる。
 このような砂雪隠の真の用途を、遠州は細江郷の大鳥の地上絵によって知った。ゆえに、織部の教えや茶道の約束事に従わなかったのである。
 というのも、桂離宮の羽の無い細江郷の大鳥の地上絵の形をした庭園の首の部分(天の橋立)と細江郷の大鳥の地上絵の首の部分を合致させると、二重枡形手水鉢・砂雪隠と引佐町井伊谷(いいのや)に所在する八幡宮の方角がピッタリと一致するからである。

 1千万坪の大鳥の地上絵を作った建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を先祖とする氏族は、1010年に「井伊」と氏族名を改めて武家となり、引佐町井伊谷に居住し、細江郷の大鳥の地上絵を守った。
 井伊家元祖の共保公(ともやすこう)の生誕儀式すなわち井伊家創設の儀式は、引佐郡6社の第一である井伊保(のちの井伊谷)の八幡宮にある御手洗(みたらし)の井戸にておこなわれた。この井戸は、引佐町の史跡として現在も残っている。
 “二重枡形の手水鉢”は〔手を洗う装置〕であるので、“御手洗の井戸”の「御手洗」という語と同義となる。現在、「御手洗」を「おてあらい」と読むと、「雪隠」と同じく「トイレ」を意味する。これゆえ、引佐町井伊谷の八幡宮の井戸の「御手洗(みたらし)」という名には砂雪隠の真の用途を伝える役目があったにちがいない。
 “御手洗の井戸”の「井戸の桁(けた) (木で井の字形に組んだ井戸の縁)の形も、二重枡形手水鉢の「海の彫り」も両者ともに正方形である。また、井伊氏の家紋は“井桁紋”である。そして、すぐ前の行で指摘したように、細江郷の大鳥の地上絵と桂離宮の大鳥の地上絵を模(も)す庭園部の首の部分を合致させると、御手洗の井戸がある八幡宮と桂離宮の二重枡形手水鉢がある方角はピッタリと一致する。
 このように、桂離宮の二重枡形手水鉢と砂雪隠は井伊家創設の儀式が行われた井伊谷の八幡宮の御手洗の井戸に見立てた装置であったことになる。
 それゆえ、遠州は引佐町井伊谷の八幡宮の御手洗の井戸によって、茶道で飾りものとされる砂雪隠の真の用途は文字を書き、書いた文字を消す夏音文字の装置であることを知った。
 だから、茶道の方式に従わずに外腰掛に砂雪隠を設置したと考えるべきことになる。

 いままで解説してきたように、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bの銀河から、すべての漢字とヒエログリフが作られた。また、資料Cには、資料Bの銀河各部の名称を記入した。
 この資料Cでは、「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部」と「夏の銀河の西南部」に大別した。「夏の銀河の東北部」と「夏の銀河の西南部」を一括すると「夏の銀河」となる。
 「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部の北側」が連結する銀河を、資料Cでは「オス鹿の横顔に似る銀河」と名づけた。この「オス鹿の横顔に似る銀河」は「十字の銀河」、「十字の銀河の背景となる三つ輪の銀河」、「鬼の横顔に似る銀河」、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」、「長方形の暗黒天体部」、「長方形の暗黒天体部の南に隣接するオス鹿の横顔の口部となる銀河」とで構成される。
 「秋の銀河」は「十字の銀河」と鳥の左の羽(翼)のように観える「三つ輪の銀河」でこうせいされる。(時には、「三つ輪の銀河」の南に隣接する、無数の星が輪の形に群がる銀河部を加えて「四つ輪の銀河」とも称した)。
 「夏の銀河の東北部」においては、これまでの解説に登場した銀河部の名称を列挙すると、「鬼の姿に似る銀河」(「鬼の横顔に似る銀河」と「鬼の身に相当する銀河」)、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」、「人の横顔に酷似する銀河」、そして「コールッサック」ということになる。この「コールサックの北部」に「長方形の暗黒天体部」がある。
 「夏の銀河の西南部」はヒエログリフにおいて“巨大なホルスの眼”、または“球形の糞を転がすスカラベ(ふんころがし)”に見立てられた。わたくしは資料Cで、「夏の銀河の西南部」を二分して東半分は「巨龍の銀河」、西半分は「胎児の姿に似る銀河」という名称にして、中央に「銀河の中心」があると記した。

 
  このすようなすべての漢字とヒエログリフが作られた資料Bの銀河全像の各部が明確にわかるように、桂離宮の庭園の平面図は設計されている。
 桂離宮の庭園に中央は池である。
 池の東側の庭園は「夏の銀河」の形に設計されている。
 池の西側の庭園は「人の横顔に酷似する銀河」に設計される。
 池の南に浮かぶ大中島は「十字の銀河」あるいは「鬼の姿に似る銀河」に見立てるようになっている。
 大中島の背後となる池の南側(竹林となる庭園)は〔オス鹿の横顔〕に設計されて「オス鹿の横顔に似る銀河」が連想できるようになっている。この〔オス鹿の横顔〕に対して、〔角〕の部分は池の西側の庭園(桂離宮の中心となる建物「御殿」が建造される庭園)と東側の「夏の銀河」の形に設計された庭園となる。このため、西側の庭園は「鳥」の字源において〔西の鳥の羽〕となる「鬼の姿に似る銀河」と「鬼の姿に似る銀河より北側の銀河」にも見立てことができるようになっている。[鳥]の字源の〔東の羽〕となる東側の「夏の銀河」の形に設計される庭園は、「十字の銀河」と十字の銀河の背景となる「三つ輪の銀河」に見立てられるようになっている。
 庭園中央の池は「コールサック」にも「長方形の暗黒天体部」にも見立てるようになっている。その証拠に、御幸道(みゆきみち)と中門をつなぐ土橋がかかる、「亀の尾」という名の岬から御舟屋に向かって西北へ伸びる池の形は「コールサック」の形に作られる。御舟屋がある池は「長方形の暗黒天体部」の形に設計されている。
 そして、御幸道と中門をつなぐ土橋より東の池の中央は、「御殿」を〔皇室〕に見立てて夏音文字の学芸の復興を願う“土下座する家康(または江戸幕府)の姿”をあらわす造形となり、庭園の作成目的が明確に表示される。
 この“土下座する家康の姿”の池の形は、幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』で示して、詳細に立証した。
 
 この“土下座する家康の姿”の形に設計される池の中央に、「中島」という名の二つの築島が浮かぶ。この「中島」は西側の「人の横顔に酷似する銀河」の目の辺りの岸と石橋でつながり、二つの築島はまた石橋でつながる。この二つの石橋は、庭園が作られた17世紀前半当時の天頂緯度線を示している。当時、「人の横顔に酷似する銀河」の右目(西の目)のあたりが桂離宮の天頂にめぐってきた。
 当時と現在とあまり年数が隔(へだ)たっていない。したがって、〔歳差〕の影響はほんの少しであるので、現在の星座盤などで当時の天頂の様子を知ることができる。「人の横顔に酷似する銀河」の右目の横にホクロのような白鳥座η(エータ)星が輝く。現在の星座盤は白鳥座η星のほんの少し南側の銀河部が、北緯35度の京都の桂離宮の天頂緯度になると表示する。ゆえに、当時は白鳥座η星がある、「人の横顔に酷似する銀河」の右目が桂離宮の天頂にめぐってきていたことになる。
 “土下座する家康の姿”の池は「天の橋立」という名の築島が浮かぶ「夏の銀河」の庭園に食い込む。この「天の橋立」から北に向かって、羽の無い細江郷の大鳥の地上絵に作られた庭園がある。

 以上のように、桂離宮の庭園の平面図はすべての銀河各部の形状を造形して、すべての漢字とヒエログリフの字源が解明でき証明できる構造になっている。
 もちろん、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻のすべての夏音文字の字源が解明できる。また、『古事記』上巻の夏音文字以外のすべての万葉仮名の漢字の字源も解明できる。
 これによって、邪馬台国説と日本神話虚構説を立論した【文献批判】という考え方の正体は紛(まぎ)れも無く【誤読】であり、【文献批判】にもとづく【根拠・理由】は【空理空論】ということが明確に科学的に証明される。
 また、桂離宮の庭園池の中央の大きな面積の“土下座する家康の姿”を設計する池は、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は失うわけにいかないと願った先人たちの歴史が実在したことを如実(にょじつ)に示す。しかし、現在、われわれはそれを“真実の歴史”と呼ぶことも認識することもできない。

 だから、学者たちが西欧近代科学の合理思考を絶対視するがために、われわれは“魂”あるいは“命のみなもと”とも称すべきいちばん大切なものにしてを失っていることになる。

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2012年1月15日 (日)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・36

 わが国の【夏音文字】は【銀河各部の形状】で保存された。

 というのも、約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が万物の情に類する多数の漢字を作ることができる原理〔鳥獣の文〕を発明したとき、文字は強大な権力と莫大な富を手に入れる最も強力な方法であることに気づき、反体制側の人々が習得して革命に利用すれば王朝は崩壊する。このように文字は王朝の繁栄と滅亡の両刃(もろは)の剣(つるぎ)であったので、倉頡は文字が銀河から作られた秘密を明らかにする者は即刻死刑にすると定めのである。

 中国の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)下伝に、「易の興(おこ)るや、それ中古においてするか」という記事ある。この記事は「易が盛んになったのは中古、すなわち殷(いん)代の後半期のことであったであろうか」と述べていることになる。
 この記事が示すように、今から約3300年前の中古(殷代後半)から易が盛んになって、亀の甲羅や獣の骨に文字が刻まれるようになって、倉頡が「書いた後に、必ず文字は消さなければならない」と定めた掟(おきて)が廃絶(はいぜつ)された。
 しかし、この禁忌(きんき)・タブーは殷代後半より以前の五帝時代、夏代、殷代前半まで厳重に守られていた。
 ゆえに、9回前の〔27〕の末部で指摘したように――約1000年間における三皇時代の結縄(けつじょう)は現在まで約130種類が出土しているが、三皇時代以後の約1700年間におよぶ五帝時代の書契(しょけい)と夏代の夏音文字と殷代前半の文字においては極端に少なく現在まで30種類ぐらいしか発掘されていない。次の殷代後半の甲骨文字は一挙に増大して約3000種類も出土している。

 [命]と[死]の字源銀河は、精密に天頂緯度が測定できる理想的な羅針盤(物差し)となった「長方形の暗黒天体部」である。
 この「長方形の暗黒天体部」の[死]の字源は、倉頡が「書いた後に必ず文字は消さなければならない。この天の神との盟誓(めいせい)を守らない者は直(ただ)ちに死刑にする」と定めた掟を示すものとなった。
 [命]の上部は[亼(しゅう)]、その下に「産道」をあらわす[口]と「産道をくぐる胎児」をあらわす[卩(せつ)]が加わる。
 この[亼]の字源銀河の北半分は「鬼の横顔に似る銀河の首につく、死刑をおこなう人の冷酷な切れ長の細い目の銀河」である。この「冷酷な切れ長の細い目の銀河」は前回で幾度なく取り上げたヒエログリフの「ホルスの眼の目頭側の白目の北半分」となる。ゆえに、この「冷酷な切れ長の細い目の銀河」の隣は「ホルスの眼」の〔瞳〕となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。

 この「冷酷な切れ長の細い目の銀河」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は、[罪]と[罰]の字の上部につく、“横目”と呼ばれる部首の字源となった。
 『説文解字』は[罪]の字源を「法を犯すなり」と解説する。
 つまり、[横目]の字源は「冷酷な切れ長の細い目の銀河」、下の[非]の字源は「長方形の暗黒天体部」である。ゆえに、[命]と[罪]の字源は同一銀河となる。
 『説文解字』は[非]の字源を「違うなり。飛下する翅(はね)に従ふ。その相背(あいそむ)くを取るなり」と解説する。
 「十字の銀河の背景となる銀河」(三つ輪の銀河部)は〔鳥の左の翅〕、「鬼の姿に似る銀河の北側の銀河」は〔鳥の右の翅〕、「十字の銀河」が〔鳥の首〕、「鬼の姿に似る銀河」は〔鳥の胴体〕に観えるので、この4つの銀河部を合体した形状が[鳥]の字源となる。
 そして、「長方形の暗黒天体部の東と西の辺」は〔飛下して、すなわち降下して地に肢(あし)が着く鳥の姿〕に観えるので、神社の入口に建つ門の「鳥居」の語源となった。
 したがって、『説文解字』の[非]の字源解説に登場する「飛下する翅」は「鳥居」の語源となった「鳥の姿に似る銀河の左右の翅となる銀河部」となる。
 この「飛下する右の翅の銀河部」すなわち「鬼の姿に似る銀河の北側の翅の銀河部」は「鬼の姿に似る銀河」のうちの「鬼の横顔に似る銀河」の顔が東に向いているので、「飛下する右の翅の銀河部」は西から東へ向かって去るものとなる。「飛下する左の翅の銀河部」すなわち「十字の銀河の背景となる銀河」の付け根は「黄河の氾濫の形状に似る銀河」であり、この銀河は西から東へ向かって去る形状となる。このように「飛下する左右の翅」の去って行く方向は相背いて違う。
 ゆえに、『説文解字』は[非]の字源を「違うなり。飛下する翅に従ふ。その相背くなり」と解説した。
 「黄河の氾濫の形状に似る銀河」の水の流れは東から西へ向かって去る形状となる。しかし、黄河の水は東から西へ去るものでなく、西の上流から東の河口に向かって去る。この「黄河の氾濫の形状に似る銀河」の東から西へ去る水の移動は「銀河」の東から西への運行をあらわすものとなる。であるから、「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は「銀河の運行。天体の運行」をあらわすものとなった。
 そして、銀河の運行を示す「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は神威(しんい)を示すものとなって〔天の神が示す道理を犯して背く不正行為〕や〔天罰(てんばつ)がくだる人間の不正行為〕をあらわすことになった――このような「不正行為」は「つみ」すなわち「罪」となる。
 ゆえに、『説文解字』は[罪]の字源を「法を犯すなり」と解説した。

 白川静著『字統』は[罰]の金文の字形にもとづき、[罰]の字源を下記のごとく解説する。
 「詈(り)と刀に従ふ。詈は神に盟誓(めいせい)することを意味する言(げん)が、真正でないときに、その上に网(あみ)を加えて、その盟誓が不実であることを示す字。それに刀を加えてその器を取り、その盟誓を破棄すべきであるとする。すなわち盟誓の不正を罰することを原義とする字である。」
 この白川静著『字統』の「盟誓すなわち神に誓った約束を破棄する行為」は「神との約束を破ったこと」であるから「罪」を意味することになる。ゆえに、『字統』が「すなわち盟誓の不正を罰する」と指摘する意味(原義)にはならない。
 『字統』の[罰]の字源解説の「その盟誓を破棄すべきであるとする」と「すなわち盟誓の不正を罰することを原義とする字である」との中間には両者の文が直結する説明が必要となる。しかし、この説明が欠落しているから、強引な単純化をもって「ばつ」の意味に結論をこじつけたものとなる。
 そもそも、金文の[罰]の字源解説で白川静著『字統』が「网・あみ」と断定した部分は「長方形の暗黒天体部南部の東と西の辺」につく「2連菱形の枡(ます)の銀河部」を図案化したものである。だから、『字統』の[罰]の字源解説は誤っている。
 『字統』が「网」と断定した部分の中央は菱形「◇」となり、その上下は「菱形の半分形」となって「◇が二つ」になる図案になっている。
 ゆえに、[罰]の金文形は「神に銀河から文字が作られた秘密を言わないと誓った約束を守らない者は、骨盤出口をくぐれないで死産した胎児のように、刀で斬って殺す」とあらわすものとなる。つまり、『字統』が「网」と断定した部分の中央の[◇]につながる上と下は[×]の半分に割る形となる。この[×]の中央を上下に二つに割る(切断する)[V]と[Λ]の形で、狭い骨盤出口を頭が通過できないで死産した胎児や臍(へそ)の緒が首にからまって窒息死した胎児などをあらわす。
 白川静著『字統』の697頁に掲載される[罰]の金文形は、左上に配する「2連菱形の枡の銀河部」を図案する図書で「胎児が産道をくぐれないで命が断たれる死の状況」を示す。左下の[言]で「文字が銀河から生まれ秘密を言う」をあらわす。右に配する大きな[刀]で「刀で斬り殺す」と表示するものとなる。だから、[罰]の金文形は「文字が銀河から生まれた秘密を言うと死刑に処せられて罰せられる」と表現するものとなる。

 9回前の〔27〕の末部で指摘したように、「2連菱形(◇)の枡の銀河部」は日本の神社名で最も多い“八幡宮”の「八幡」の語源となり、[幡]の字源銀河部である。
 『説文解字』は[幡]の字源を「書兒(しょじ)、觚(こ)に拭(ふ)くの布なり」と解説する。
 この『説文解字』の[幡]の字源解説を、白川静著『字統』は「黒板拭きの布である」と訳する。
 「書兒」の[書]の字源上部は[聿(いつ)]と[者]の合体形である。[聿]の字源は〔筆〕に見立てられた「十字の銀河」、[者]の字源は〔筆を握る箇所〕と漢字作成原理〔鳥獣の文〕に見立てられた「十字の銀河の子宮(となる銀河部)」である。[書]の下部の[日]の字源は〔文字を書く平面(地面、砂、灰、雪、平らな石、板、などの平面)〕に見立てられた「長方形の暗黒天体部」である。
 このように、[書]の字形は「筆記する道具で平面に文字を書く」とあらわす。

 [兒]の字源銀河は「コールサック」であり、この「コールサック」は〔頭の骨の縫合部(ほうごうぶ)がまだ堅(かた)まらない幼児〕に見立てられた。
 そして、[兒]の上部[臼]の部分はコールサックの北部の「長方形の暗黒天体部」を〔縫合部がやわらかい幼児の頭の骨〕に見立てて図案したものであり、下部は長方形の暗黒天体部より南の「コールサック」を図案化したものである。
 [兒]の上部の字源となる「長方形の暗黒天体部の北と東の辺が交わる隅(すみ)」には「黄河の氾濫の形状に似る銀河」が交わり、「長方形の暗黒天体部」は〔洪水に見舞われてやわらかくなった農地(田)〕をあらわすと定められた。ゆえに、「長方形の暗黒天体部」は〔縫合部がやわらかい幼児の頭の骨〕に見立てられることになった。
 また、「幼児」の[幼]の初文は[幺(よう)]である。白川静著『字統』は[幺]の字源を「糸たばを拗(ね)じて結んだもの」と解説する。この[幺]の字源解説は「2連菱形の枡」の形状に合致する。そして、『説文解字』は[幺]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。
 「長方形の暗黒天体部」は基本的に〔胎児が生まれる産道〕に見立てられた。
 「長方形の暗黒天体部」は基本的に「産道」と定められたために、[兒]の字源では〔縫合部がやわらかい幼児の頭蓋骨(ずがいこつ)〕をあらわし、「子の初生」すなわち「誕生して間もない幼児(赤ん坊)」をあらわす[幺]の字源にもなったのである。

 [幡]の字源解説に登場する[觚]は[角]に[瓜]を組み合わせた字である。
 [瓜]の字源は〔瓜(うり)や瓜の蔓(つる)〕の形に相似する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
 [角]の字源は〔牛の左の角(つの)〕に見立てられた「十字の銀河の妊婦のおなかに観える銀河部」ということになる。この〔牛の頭につく左の角〕に見立てられた「十字の銀河の妊婦のおなかに観える銀河部」は「十字の銀河の子宮」と連結する。
 『説文解字』は[告]の字源を「牛、人に触(ふ)れる。角に横木を著(つ)く。人に告げる所以(ゆえん)なり」と解説する。
 この[告]の字源解説に登場する「人」は「人の横顔に酷似する銀河」のことである。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔牛の目〕に観え、〔牛の口〕は「鬼の姿に似る銀河の両足となる銀河部」となる。この「牛の口に相当する銀河」は「銀河」という語の由来となった銀白色に輝く「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)にある北天の最輝部(さいきぶ)」に連結する。ゆえに、「牛、人に触れる。人に告ぐる所以なり」と解説された。
 北天の最輝部が子午線経過するとき、〔木〕に観える「十字の銀河」は横になっているので、「横木」と表現された。この「横木」には漢字作成原理〔鳥獣の文〕に見立てられた「十字の銀河の子宮」がある。この「十字の銀河の子宮」と[告]の字源解説の〔牛の左の角〕に見立てられた「十字の銀河の妊婦のおなかに観える銀河部」は連結する。これゆえ、「角に横木が著く」と解説されることになった。
 そして、[告]の字源における〔牛の右の角〕に見立てられる部分は「長方形の暗黒天体部」と「黄河の氾濫の形状に似る銀河の西端」に所在することになる(この銀河部は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の東隣となる)。
 『説文解字』の[幡]の字源解説に登場する[觚]の字義は「酒をついで口につけて飲む器具」すなわち「さかずき」である。
 『説文解字』の[告]の字源解説における「横木に著く牛の左の角」となる「十字の銀河の妊婦のおなかに観える銀河部」は〔人の顔〕に相似する「鬼の横顔に似る銀河」の口の部分と連結する。ゆえに、「牛の左の角に相当する銀河部」(十字の銀河の妊婦のおなかに観える銀河部)が、[觚]の字義の「さかずき」となる。

 上記したように、〔瓜や瓜の蔓の形〕に相似する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が[瓜]の字源となる。そして、『説文解字』の[告]の「牛の右の角に似る銀河部」は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の東南部に隣接する「長方形の暗黒天体部」である。この「長方形の暗黒天体部」は[酉(ゆう)]の字源となった。この[酉]は[酒]の初文である。[酉]の字源「長方形の暗黒天体部」と[亼(しゅう)]の字源部とで[酋(しゅう)]の字源となり、[酋]の字形は「酒器の形」を図案化したものであり、字義は「酒樽。酒器」となった。「長方形の暗黒天体部の東と北の辺」に交わる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は〔三水偏〕となった[水]の字源である。ゆえに、三水偏に[酉]を加える字は[酒]となった。
 [告]の字源における「牛の右の角に相当する銀河部」は瓜の蔓のように拗(ね)じれる2連菱形の枡に触れる。
 だから、「牛の右の角に相当する銀河部」は『説文解字』の[幡]の字源解説に登場する[觚]の字源となった。

 中国の殷墟(いんきょ)から出土した觚は、酒を飲む口の部分が吹奏楽器のラッパの形のように開いた細長い酒器である。わが国における神前結婚するときに新郎・新婦が酒を飲む觚は、平たい円形の皿である。ということは、殷墟から出土した觚は[告]の字源における「左の角」をあらわした酒器であり、わが国の神前結婚するときに用いる平たい皿の酒器は[告]の字源における「牛の右の角」をあらわした觚となる。この皿が円形であるのは「長方形の暗黒天体部」の西と北の辺に交わる円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」に由来すると考えられる。
  [皿]の甲骨文字の字形上部は「長方形の暗黒天体部」の枠となる「東・西・南の辺」を線だけであらわす。この「長方形の暗黒天体の3辺」を線で枠どりする図案は縄文時代の「深鉢(ふかばち)」のような形になる。しかし、竜安寺の〔平らな石庭〕が「長方形の暗黒天体部」をあらわすように、「長方形の暗黒天体部」は〔平らな面〕をあらわすものであったので、深鉢のような形をした[皿]の甲骨文字の字形は浅くて平たい「平皿」を表現するものとなる。

 『隋書(ずいしょ)』倭国伝に「倭では、互いに好意を抱いた者たちが結婚する。新婦は、新郎の家に入るとき、必ずまず犬をまたいだ後、新婦と新郎はたがいに顔を見交わす」という記事がある。「長方形の暗黒天体部」は[犬]の字源であり、犬はたくさんの子を生むので子孫繁栄のために新婦は犬をまたいたのである。「長方形の暗黒天体部」は〔抱擁した男女がたがいに顔を見交わすような形〕であるので、結婚式は「長方形の暗黒天体部」の形に則っておこなわれていたことになる。
 「長方形の暗黒天体部」は[觚](さかずき)の字源である。ゆえに、今日の神前結婚式における三三九度の夫婦の約束の固めは、『隋書』倭国伝に記述された結婚儀式と同じく「長方形の暗黒天体部」に則るものということになる。その証拠に、“角隠(つのかく)し”と称される花嫁が頭にかぶる飾りのついた布と髪型は、「長方形の暗黒天体部」と「コールサックの中ほどまで」の形に相似する。
 この〔角隠し〕のモデルとなった「長方形の暗黒天体部とコールサック」は、[髪]の字源銀河部である。

 以上からして、『説文解字』の[幡]の「書兒、觚に拭くの布なり」という字源解説は、「長方形の暗黒天体部」の東西の辺につく「2連菱形の枡の銀河部」を説明するものとなる。
 この[幡]の字源は、倉頡が「神に誓って、書いた文字は必ず消せなければならない。この掟を守らなかった者は直ちに死刑に処する」と定めた厳しい掟をあらわした。
 だから、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の文字の出土点数は極端に少ない。
 この掟はわが国では厳重に守られた。このため、わたくしが夏音文字の発掘例と証明できる史料は、長野県茅野市の尖石考古館に所蔵される“石刻画“と“石板画”と称される石の表面に刻まれる計6種の図書のみである。
 わが国には夏代初頭(後期縄文時代初頭)に確かに夏音文字は伝来した。
 しかし、倉頡が定めた[幡]と[罰]の字源となった「神に誓って、書いた文字は必ず消せなければならない。この掟を守らなかった者は直ちに死刑に処する」という掟が忠実に守られた。この結果、夏音文字はまるで伝来しなかったかのごとく出土点数は無いにもひとしい状況になった。
 この掟が中国で廃絶されることになったのは、上記したように『易経』繋辞(けいじ)下伝の「易の興るや、それ中古においてするか」という記事が示唆(しさ)するように――殷代後半になって殷王室が公的行事を決定する易の占いを頻繁(ひんぱん)におこなうようになったために、神聖な記録として所蔵しなければならなくなったことが原因となった。
 日本列島では国家が創設されたのは卑弥呼の時代が最初であり、その後において皇室が殷代後半の殷王室のように公的行事を決定する易卜を頻繁におこなわなかったので、夏音文字の記録を所蔵する必要がなかった。ゆえに、わが国の夏音文字の出土数は無いにも等しいほど極端に少なくなったのである。
 だから、『古事記』の序が解説しているように、実際は【夏音文字】は【銀河各部の形状】で存在していたのである。

 『説文解字』の[幡]の字源解説に使われた[觚]の字が、『魏志倭人伝』の伊都(いと)国の副官の「泄謨(せまこ)」、「柄渠(へここ)」という名に用いられ、奴(な)国の長官の「兕馬(しまこ)」という名に使用される。
 『魏志倭人伝』は、倭の易卜
(えきぼく)について、下記のごとく記述する。
 「倭の習俗にあって、祭事をおこなうときや遠くに旅するとき、また何かをしようとするときに、骨を焼いて卜し、吉凶を占う。最初に卜する骨の箇所を告げる。
その辞(言葉と文字)は令亀(れいき)の法のごとくであり、吉凶の兆(しるし)を占う。」
 上記の青く太くした部分の原文は「其辞如令亀法」である。
 「其の辞」の[辞]の字義は「言葉と文字」であり、「令亀の法の如く」は「中国の殷代の亀の甲羅でおこなう易卜の法のごとく」と意味する。
 だから、わが国には殷代の甲骨文字に相似する文字があった。
 この「令亀の法のごとき文字」は、古代史料として痕跡が残ったものは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字しか存在しない。
 だから、『魏志倭人伝』に記された「令亀の法のごとき文字」は「夏音文字」であると断定できる。
 『魏志倭人伝』の「令亀の法のごとき辞」の記事は、倭に渡った魏や帯方郡
(たいほうぐん)の使者たちが文字として見て報告したか、倭の国書に記述されていたことになる。だから、わが国には夏音文字は習得されて、確かに存在したことになる。
 『魏志倭人伝』には「伊都国の港で、魏や帯方郡や諸韓国と倭の女王・卑弥呼が交わす国書はじめ小国の王たちが交わす文書を点検し確認して、差錯
(ささく)して国交に支障がおこらないようにしていた」という記述もある。
 ゆえに、夏音文字は
書く文字であったことになる。

 にもかかわらず、甲骨文字のごとく易卜において書いた夏音文字がまったく出土しないのは、倭の占いの夏音文字は地面などの平面に書かれるものであったが「幡」の字源で示される道具で必ず消されていたことになる。
 上記に示すように、『説文解字』の[幡]の字源解説に登場する[觚]の字が伊都国の副官の名に用いられることからしても、倭では確かに倉頡が定めた掟が廃絶されず厳重にまもられていたことになる。

 夏音文字は倉頡が定めた掟をまもって書いた後に必ず消される文字であったことは、『魏志倭人伝』と同時代に作成された静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を調査すれば証明される。
 細江町の大鳥の地上絵には[幡]の字源の「書いた字を必ず消せなければ直ちに罰して死刑に処する」という秘密が保存されていた。
 これゆえ、桂離宮の庭園池の東北に作られた細江町の大鳥の地上絵を設計する庭園にも、[幡]の字源を表現する手水鉢
(ちょうずばち)と砂雪隠(すなせっちん)が設置された。
 次回は、桂離宮の細江町の大鳥の地上絵を設計する庭園に設置された手水鉢と砂雪隠における[幡]の字源の秘密を解明して、わが国の【夏音文字】は【銀河各部の形状】で存在するものであったことを立証することにする。

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2012年1月14日 (土)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・35

 2回前の〔33〕でも引用したように、リチャード・H・ウィルキンソン著╱伊藤はるみ訳『図解古代エジプトシンボル事典』(原書房)は序文で、下記のごとく記述する。
 「古代エジプト人は、自分たちの言葉を書き記すためのヒエログリフを『メドゥウ・ネチェル』つまり『神の言葉』と呼んでいた。ギリシャ人がエジプトの神殿に刻まれた浮き彫りや碑文を表わすために作りだした『ヒエログリフ(聖なる刻まれた文字)』という名称にも同じ意味が込められている。実際に文字として使用されたヒエログリフと、美術作品の中で拡大して描かれたその形とは強く結びついている。」

 いままで解明してきたように、古代エジプト文字・ヒエログリフは、すべての漢字が作られた銀河とまったく同じ銀河から作られた神の言葉(メドゥ・ネチェル)であった。
 すべての漢字と古代エジプト文字・神の言葉(メドゥウ・ネチェル)が作られた銀河領域は、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bとして掲載した。

 古代エジプトでは、【文字と学問において特に重大な銀河の形状】を【神】と呼び、【銀河各部の形状】を【文字】とした。
  だから、この秘密を知っている王と神官と書記たちには文字が読め、意味が理解できたのである。
 したがって、字源・字義を知ることができる辞書は銀河であったのである。
 表音文字・表意文字のすべての古代エジプト文字は銀河から作られた。
 ゆえに、古代エジプト文字・メドゥ・ネチェルにも漢字と同様に字源が存在する。この【字源】は【銀河各部の形状】である。
 古代エジプト文字に【字源】が存在し、【字源】が【銀河各部の形状】であったと事実を科学的につきとめた証明は、この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は“世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕における発表が世界で最初の出来事となる。

 (〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は“世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕というインターネットの掲示板は、2011年12月16日から始まり今日・2012年1月13日で35回となる。)

 中国においては「銀河」を「銀漢」ともいい、文字を「漢字」と表記した。というのも「漢字」は「銀漢から作られた文字」であったからである。
 これゆえ、〔天には文字が多数存在することになった〕ので、「天」は「天文」と称されることになった。
 「文字」の[文]の字源はかつて中国と日本列島の天頂にめぐってきた「十字の銀河」であり、[字]の字源は「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」である。この「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」と周辺の銀河から大半の漢字が作られたから、「漢字」は「文字」と称される。
 要するに、「文字」も「漢字」も「天文」も、そして「メドゥウ・ネチェル(神の言葉)」という語もまた、「【文字】は【銀河各部の形状】で存在した」と伝えるものであったのである。

 アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)の209頁には、〔ヨーロッパの主要アルファベット文字の発展(ヒーリーの文献より)〕と題する系統図が掲載される。
 この系統図は――エジプト・ヒエログリフ(神の言葉)から枝分かれして現代ヨーロッパ文字、現代ペルシャ文字、現代アラビア文字、現代ヘブライ文字、現代アムハラ文字が成立した――と明示する。

 1993年末から1994年の年頭にかけて、エジプト南部で二つの碑文が発見された。この成果は、1997年に米国のイェール大学中近東言語・文明学教授のジョン・ダーネル博士によって発表され、2005年に論文としてまとめられた。この碑文は、発見されたエジプト南部のルクソールの北西にある谷の地名から「ワディ・エル・ホル碑文」と名づけられた。ゆえに、この碑文の文字は「ワディ・エル・ホル文字」と呼ばれる。
 ダーネル博士は「ワディ・エル・ホル文字は紀元前20世紀ごろに書かれた、世界最古のアルファベット、ABC・アルファベットのルーツである」と指摘する。
 というのも、古代エジプト文字・メドゥウ・ネチェル(ギリシャ名のヒエログリフ)の表語文字は文や語を構成するときに複数の文字をつなげて書くが、ワディ・エル・ホル文字は約200年後の原シナイ文字と同様に各文字が完全に独立して書かれているからである。
 ダーネル博士は、ワディ・エル・ホル文字の種類は14種類であると発表した。

 わたくしは2011年9月7日からインターネット「ABC・アルファベットのルーツとされるワディ・エル・ホル文字の全字源を解明します」という掲示板から公開を始めた。そして、23日後の9月29日に18種類ではないかと立論して、ワディ・エル・ホル文字の字源解明の公開を終了させた。
 この掲示板で、すべてのワディ・エル・ホル文字が銀河から作られたことを証明し、ダーネル博士の14種類の文字の字源銀河部を解明した。そして、わたくしはワディ・エル・ホル文字は18種類の文字があると立論し、18種類すべての文字の字源銀河部を解明した。
 そして、公開した掲示板でワディ・エル・ホル文字の大半が古代エジプト文字と同じ字源銀河部から図案化されたことを立証した。
 だから、ワディ・エル・ホル文字は古代エジプト文字を親として生まれた子であったことになる。

 ワディ・エル・ホル文字は、紀元前19世紀あるいは紀元前20世紀に書かれた文字である。
 夏音文字は紀元前21世紀にわが国に伝来した。
 というのも、夏王朝は紀元前2070年に創設されたからである。
 夏の始祖の帝禹(う)が没すると、益(えき)が帝位を受け継いだ。帝益は禹の3年の喪が終わると、帝位を禹の子・啓(けい)にゆずって箕山(きざん)の南の地に隠退した。そして、孫の王子と若者たちに日本列島移住を指示した。その後、益氏の王子と若者たちが日本列島に到着し、縄文の芸術家たちが益氏がもたらした夏音文字を習得した時までは夏王朝創設から20年後であったと考えるべきではなかろうか。さらに、10年を加えてわが国において夏音文字の習得されたのは夏王朝創設から30年後であったと考えても、紀元前2040年頃に夏音文字が習得されたことになる。
 ゆえに、わが国における夏音文字の伝来は紀元前21世紀ということになり、ワディ・エル・ホル文字が出現するより以前であったことになる。

 名門益氏の移住によって夏音文字の学芸が習得された痕跡が明確に残る史跡がある。
 この史跡は秋田県鹿角(かづの)市に所在する大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡である。
 わが国に伝来した夏音文字には、5000年前の五帝時代初頭の皇帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字作成原理〔鳥獣の文〕を発明したとき、定めた厳しい掟(おきて)があった。
 文字は強大な権力と莫大な富を手に入れる最も強力で確かな方法であることに倉頡は気づいて、反体制側の人々に習得されて革命や反乱に利用されることをふせぐために、文字が銀河から作られたことを厳重な機密とした。倉頡は――文字が銀河から作られた秘密を知った人々は体制側に組み込む。しかし、体制側に組み込まれることを拒絶して、文字が銀河から作られた秘密を明らかにした者は即刻死刑にする。また、文字は書いた後に、必ず文字は消せねばならない。これは天の神に誓う約束であるので、この神と誓った約束を守らなかった者は即刻死刑にする――と定めた。
 この掟から[罪]や[罰]や[幡]の字や語が作られた。この倉頡が定めた掟と[罪][罰][幡]の字源の解説は次回におこなう。

 わが国に伝来した夏音文字には、上記のごとき倉頡が定めた掟があった。
 この倉頡が定めた掟をわが国では厳重にまもったため、夏音文字は伝来していないかのごとく状況となり、夏音文字の発掘点数は極端に少ない。
 長野県茅野(ちの)市の尖石(とがりいし)考古館に所蔵される「左手に弓を持つ十字の銀河」を字源とする“石刻画”すなわち石刻文字と、「日・売・大・可・美」の5文字すなわち「日売大神(ひめのおおかみ)」と書いて雨乞いをあらわす石板画は文を構成する夏音文字の重大な発掘史料であると考えられる。

 中国においても、倉頡が定めた掟が厳重にまもられたために、五帝時代の倉頡が考案した書契(しょけい)、夏音文字、殷(いん)代前半期の文字の発掘点数は三皇時代の結縄(けつじょう)と殷代後半期の甲骨文字の発掘点数と比較して極端に少ない。
 夏音文字の出土点数は極端に少ないが、『魏志倭人伝』には多数の夏音文字が記載される。
 『古事記』上巻にも、随所に記載される〔音〕という注がつく1字1音読みの文字は夏音文字である。というのも、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と中国王朝に伝えた――という記事があり、この10年後の712年に『古事記』が完成されたからである。
 そして、『古事記』の序のすべての記事は――上巻の随所に記載される〔音〕という注がつく1字1音文字は夏音文字である。益氏がもたらした夏音文字の学芸は、造化(ぞうか)の参神(さんしん)すなわち前期・中期・後期縄文時代に天頂にめぐってきた【三つ輪の銀河】を【神】と仰ぐ芸術家たちによって習得された。ゆえに、【夏音文字】は【銀河各部の形状】から作られた。同様に、上巻に用いられる夏音文字以外のすべての【文字】もまた【銀河各部の形状】から作られた。だから、【銀河】を辞典にすれば『古事記』上巻に記述されたすべての歴史の真実を明らかにすることができる――と説明するものである。
 この序の仕掛けを読者が気づかせるために、『古事記』の序は「古事記上巻序并(古事記上巻并せて序)」と表記された。
 このような序は世界に例が無いから、きわめて珍しい。
 『古事記』編纂スタッフが死を覚悟して時の朝廷に逆らい、皇祖・天照大神の悪政の数々を銀河を辞典にすれば知ることができる仕掛けで後世に伝えようとした。この苦労を、太安万侶(おおのやすまろ)ならば上手に書くにちがいないと信用された。ゆえに、安万侶が序を記述することになったのである。
 この「古事記上巻」の後ろに小さな字で「序并」とする「古事記 并(あわせて)序」という体裁(ていさい)をもって、『古事記』の序を書く安万侶は「序は上巻だけの序であって、中巻と下巻の序ではない。つまり、序は上巻の随所に記載される〔音〕という注がつく文字は夏音文字であることを説明するために作った。そして、夏音文字以外のすべての文字も銀河から作られたものである事実を伝えるために、序を作った」と語っていることになる。

 さらに、『魏志倭人伝』と同時代に作られた静岡県北区細江(ほそえ)町の1千万坪の大鳥の地上絵を調査すれば、『魏志倭人伝』の人名・小国名は確かに夏音文字であり、夏音文字の学芸はわが国に伝来した確信できる。というのも、この大鳥の地上絵は夏音文字の学芸の全貌を知ることができる辞典と科学事典の役割を有する史跡だからである。
 したがって、細江町の大鳥の地上絵は夏音文字はじめ古代の中国文字(甲骨文字、金文、篆文)と古代エジプトのメドゥウ・ネチェル(神の言葉)の字源の全貌が解明できる世界的にも第1級の史跡ということになる。
 いままで解説してきたように、竜安寺の石庭でもわが国の夏音文字と中国の古代文字と古代エジプトの文字・ヒエログリフの字源の全貌が解明できる。
 同様に、3千万坪の彦根市の羽の無い大鳥の地上絵でも、わが国の夏音文字と中国の古代文字と古代エジプトのヒエログリフの字源の全貌が解明できる。
 また、桂離宮の庭園でも、わが国の夏音文字と中国の古代文字と古代エジプトのヒエログリフの字源の全貌が手に取るように明確に解明できる。

 わが国の夏音文字と中国の古代文字と古代エジプトのメドゥウ・ネチェル(ヒエログリフ)は、銀河から作られた。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静氏は著書『字通』(平凡社)の1399頁にて、【文字】は「ことばをしるす記号。中国ではいわゆる漢字」と定義する。
 現在、わが国の文字学者や歴史学者たちは、白川静氏同様に「文字は、言葉をしるす記号」と考える。
 ギリシャ人が「ヒエログリフ」と称した文字を古代エジプト人たちは「メドゥウ・ネチェル」と呼び、「神の言葉」と意味した。
 現代のわが国の学者たちの文字の定義「言葉をしるす記号」に則ると、古代エジプトの文字は「神の言葉をしるす記号」ということになる。
 この古代エジプトの「神の言葉をしるす記号」となる象形文字は、わが国の夏音文字の史跡によって、すべての古代中国文字が作られた同じ銀河から作られたと科学的に解明できる。また、古代エジプト文字は古代中国文字と同様に【字源】が存在し、【字源】は【銀河各部の形状】であったことが科学的に証明される。

 いままで解説してきたように、【古代エジプトのメドゥウ・ネチェル】は【銀河各部の形状】で存在した。
 この【古代エジプトのメドゥウ・ネチェル】と同じく、わが国の【夏音文字】もまた【銀河各部の形状】で存在した。
 わが国の夏音文字は銀河各部の形状で存在するものであったので、夏音文字の出土点数は無いにもひとしく極端に少ないが、【夏音文字】は【天文】すなわち【銀河各部の形状】で存在したことになる。
 天に結縄・書契・夏音文字・甲骨文字・金文などの多数の古代文字が存在した。これゆえ、【天文】という語が生まれた。
 「銀河」は「銀漢」とも称するので、「銀漢から作られた文字」を省略して【漢字】という語になった。
 したがって、「漢字」と「天文」の語源のとうりに、わが国の【夏音文字】は【銀河各部の形状】で存在した。
 ゆえに、「銀河各部の形状を観る」ことは「夏音文字を発掘する」ことになる。

 だから、『古事記』序が解説しているように、【銀河各部の形状】となって【夏音文字】の点数は天に多数存在することになる。

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2012年1月10日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・34

 紀元前2070年、帝啓(けい)によって国家を創設して特定の家が帝を代々受け継ぐ世襲王朝国家政治体制の夏后(かこう)王朝が樹立された。
 (これより以後、「夏后」を「夏」と表記する)。
 啓の父、夏王朝の始祖・帝禹(う)は五帝時代以来の国家を作らず多数の氏族の中から最も優れた人物を選ぶ氏族共同政治体制を強く望んだ。それゆえ、禹は臨終の際に帝位を子の啓にあたえず、補佐役の益(えき)にさずけた。しかし、諸侯はみな益に服従せず、啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。
 益は禹の3年の喪(も)が終わると帝位を啓にゆずって、箕山(きざん)の南の地に隠棲(いんせい)した。
 上記の歴史は、司馬遷著『史記』夏本紀に記述されている。

 益は新天地・日本列島で、禹の氏族共同体制の遺志を継がんと決意した。しかし、老いた益には大海を越えて日本列島に移住する体力がそなわっていなかった。
 この禹の遺志を継ぐ事業は、益氏の屈強な若者たちによっておこなわれた。
 夏代初頭(後期縄文時代初頭)、帝益の孫の王子と若者たちは大海を越えて日本列島に移住した。
 この名門益氏の日本列島移住の様子は、『日本書記』神武天皇紀の初頭に、帝益の孫の王子は「天祖」と表記されて記載されている。
 また、『古事記』の天孫(天照大神の孫、つまり若き日の景行天皇)の筑紫降臨(こうりん)説話には、帝益の箕山の南の地に隠棲した歴史が登場する。天孫は天祖(帝益の孫の王子)と同名を名乗り、つまり天祖の生まれ変わりを演じて大和の遠征軍を率いて九州東部の日向(ひゅうが)国で大和王朝に盾突く熊襲・隼人(はやと)族を討伐したあと、遠征軍は阿蘇国に向かって北進し筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに)を通過して、筑紫・不弥(ふみ)国の的邑(いくはのむら)に到着した。この的邑(福岡県浮羽郡の東部)から筑紫の「久士布流多気(くしふるたけ)」という6字の夏音文字で表記された山の南の地に到着して、遠征における最も重要な目的である宗像(むなかた)氏征服を遂行した。この大和の天孫軍の宗像氏征服の歴史によって、「久志布流多気」という夏音名の山は、「箕山」(きざん)にちなんで「基山」(きざん)と名づけられた。この基山は、福岡県と佐賀県の県境となる基山町と筑紫野市にまたがっている。基山の真南は鳥栖(とす)市である。天孫軍が征服した宗像氏が居住する「不弥国」の[弥]の字源は「カンムリカイツブ」という水鳥である。天孫軍は帝益が箕山の南の地に隠棲した歴史にちなんで、鳥の国・不弥国の真南の地・鳥栖市真木に駐屯(ちゅうとん)して征服の準備をした。ゆえに、天孫軍の駐屯は隠れ棲むではなく栖(す)むものであったので、“鳥棲”ではなく地名は「鳥栖」となったのである。
 『古事記』序においては「名は文命(ぶんめい)よりも高い」という文をもって「その名前の高さは夏の禹王よりも高い」と、箕山の南に隠棲して禹の遺志を継いだ帝益を讃える。
 司馬遷著『史記』五帝本紀は「益は帝堯(ぎょう)の時代から挙用(きょよう)されていた」と記載する。この名門益氏は日本列島に移住した。
 これゆえ、『史記』陳杞世家(ちんきせいか)には「益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである。帝堯と帝舜(しゅん)の時代に、功徳(くどく)をもって令名のあった臣下である。益の先祖は帝王になった。」と記述される。
 このように、名門益氏が中国古代史から忽然(こつぜん)と消えたのは――大湯環状列石に移住した痕跡が残り、『日本書記』神武天皇紀に記述され、『古事記』上巻の天孫説話に帝益の箕山の南の地に隠棲した歴史が登場して今日「基山」や「鳥栖」という地名が残っているように、また「益荒男(ますらお)」という日本語の字が「益氏の若者たちのように、荒海を越える勇猛果敢な立派な男性」と示すがごとく――帝禹の遺志を継ぐために、益氏の若者たちは大海を渡って日本列島に移住したからである。

 帝益の孫の王子・天祖と益氏の若者たちが日本列島を移住した確かな痕跡は、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)に残っている。このストーン・サークル(環状列石)は、天祖の孫の代の時に作られたと考えられる。この史跡の万座遺跡と野中堂遺跡を調査すると、益氏がもたらした夏音文字の学芸のどのようなものであったか手に取るように知ることができる。

 名門益氏が日本列島に移住して、わが国に夏音文字を根づかせた歴史を最も確実に証明できる文献史料は、『魏志倭人伝』と『古事記』である。というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に夏音文字が記されて残っているからである。
 また、『魏志倭人伝』と同時代に作成された静岡県浜松市北区細江町(ほそえちょう)の1千万坪の大鳥の地上絵は、『魏志倭人伝』のすべての記事は事実を伝えるものであると科学的に証明できる史跡である。
 この大鳥の地上絵によって、新井白石から始まる西欧近代科学の合理の考え方を用いる邪馬台国研究は100パーセントのウソであり、1980年代から先端科学者たちが“西欧近代科学には誤りがある”という警告は紛(まぎ)れもなく事実であることが誰にでも容易に理解できる好個(こうこ)の事例となる。
 白石から始まった約280年におよぶ邪馬台国研究は『魏志倭人伝』の重大な記事をすべて誤読してデッチあげた空想であって1パーセントの史実も存在せず、すべてが真っ赤なウソで滑稽なほど馬鹿げたおぞましい茶番劇である。

 静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵の北隣は、井伊氏が居住した引佐町(いなさちょう)である。
 井伊氏の先祖は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の二神の誓約(うけい)説話の末部に登場する、遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)である。この建比良鳥命と配下の人々によって1千万坪の大鳥の地上絵は作成された。
 1010年、建比良鳥命家は「井伊」と氏族名を改めた。
 井伊氏は引佐町に居住して、関ヶ原合戦時まで“建比良鳥(たけひらとり)の地上絵(1千万坪の大鳥の地上絵)”を約1300年間もまもった。
 徳川家最強の軍団は、赤色の武具をまとって戦場を疾駆(しっく)した。この軍団の大将は井伊氏の頭首の井伊直政(なおまさ)であったので、赤色の武具の軍団は“井伊の赤備(あかぞな)え”と呼ばれた。
 1601年正月、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康(60歳)は井伊直政に近江(滋賀県)への移住を命じた。
 真っ赤なウソ八百の邪馬台国説のために不明になってしまったが、家康の一生は夏音文字の復興に全情熱を傾けるものであった。
 家康が直政に彦根の移住を命令したのは、家康が生涯追い求めた夏音文字の学芸の復興を実現させるためであった。
 家康は近江の大地に3千万坪の〔羽が無い大鳥の地上絵〕を作成させるために、建比良鳥命の子孫である井伊氏に近江への移住を命じた。
 家康は近江に移住した井伊氏の彦根藩領周辺の近隣7ヵ国12大名に命じて3千万坪の〔羽が無い大鳥の地上絵〕の完成を急がせた。
 1602年2月に、42歳で井伊直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して亡くなった。後を嫡子の直継(なおつぐ)が受け継いで工事が続けられたが、1614年の大阪冬の陣の時に藩主の直継は生来病弱で病床にあって出陣できず、代わって異母弟の同じ年の直孝(なおたか)が赤備えを率いて、3代藩主となった。
 1616年、75歳で家康は没した。家康が一生をとおして実現しようと願った夢を形にした〔羽の無い大鳥の地上絵〕は、着工してから20年後の1622年に完成した。したがって、家康は〔羽の無い地上絵〕の完成を目にしていない。
 この家康の一生の願望を描く〔3千万坪の羽が無い大鳥の地上絵〕は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を示す地図の形として残る。

 家康が一生を賭けて全情熱を傾けた願望は、現在の彦根市の地図の形と遺訓(いくん)に残された。この家康の遺訓は下記のごとくである。
 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基(もと)。怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
 この遺訓の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という言葉の中の「重荷」で示した家康の一生の願望が、現在の〔3千万坪の羽が無い彦根の大鳥の地上絵〕となって残ったのである。

 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と中国王朝に伝えた――という記事がある。
 この10年後の712年に『古事記』が完成し、その上巻には〔音〕という注が付いて多数の夏音文字が記載された。だから、わが国に最初に漢字が伝来したのは、後期縄文時代初頭のことだったのである。
 家康の一生は夏音文字の学芸の復興に全情熱を傾けるものであった。
 ゆえに、彦根市の3千万坪の〔羽が無い大鳥の地上絵〕は、702年に遣唐使が中国王朝に伝えた「後稍夏音を習う」という言葉にもとづき“いまだ夏音は習わず”と表現するものである。
 
彦根市の大鳥の地上絵は“夏音文字の学芸はいまだ復興されず。なにとぞ、天皇陛下にあられましては夏音文字の学芸の復興を願い奉る”という要望を、大地に描くものであったのである。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王の伊耶那美命(いざなみのみこと)の墓を築造する時、伊耶那美命が禁止するようにと遺言した残虐きわまりない徇葬(じゅんそう)を、伊耶那美命の後を継いで倭女王となった天照大御神が多数の青年(奴)と乙女(婢)を殺して決行した。小国・日本の軍王である伊耶那美命の夫の伊耶那岐命は愛妻伊耶那美命の遺志をまもるために、伊耶那美陵から日本軍の兵士と熊野に住む徐福(じょふく)の子孫の戦士たちの協力のもとに、伊耶那美陵・熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)から伊耶那美命の棺を奪う反乱をおこして、天照大御神が率いる倭の大軍を撃破した。そして、日本軍の捕虜となった天照大御神と伊耶那岐命は、現在の和歌山県新宮市の神倉(かんのくら)神社の御神体となる千引(ちびき)の石(いわ)の前で、天照大御神は生前に伊耶那美命が熱心に説いた〔愛〕の理念を尊重する「小国・日本の国民を一日に千人ずつ呪(のろ)い殺す」と誓い、伊耶那岐命は「男性と女性が愛し合い一日に千五百の産屋が立つように、伊耶那美命が説いた〔愛〕の理念を国家理念にする」と誓った――と歴史を伝える。

 皇室は天照大御神は“皇祖”と仰いで崇拝した。
 ゆえに『古事記』上巻に記載された〔音〕という注がつく夏音文字によって【すべての漢字は銀河から作られた秘密】が明らかになると、伊耶那美命の黄泉国訪問説話はじめ上巻全体をとおして語られる天照大御神の悪政の数々が明らかになって、皇室が滅亡するにちがいないとおそれた。だから、夏音文字の抹殺(まっさつ)に躍起(やっき)となった。
 しかし、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念をまもらんとする人々は、夏音文字の保存と復興に情熱を傾けた。
 だから、後期弥生時代以来、井伊氏は建比良鳥の地上絵(1千万坪の細江町の大鳥の地上絵)を保存した。
 家康が主君と仰いだ織田信長も、伊耶那美命に熱烈に憧れて夏音文字の学芸の復興に全情熱を傾けた。
 彦根市の“いまだ夏音は習わず”、つまり“いまだ夏音文字の学芸は復興されず”と描く、3千万坪の〔羽の無い大鳥の地上絵〕は信長と直政と家康の夏音文字の学芸の復興に一生を賭けた熱き魂と情念を伝えるものである。

 すべての漢字が作られた銀河を字典にすれば、『魏志倭人伝』に記載される「弥奴(みな)国」は信長が居住した尾張、「好古都(こかた)国」は家康の出身地の三河、「不呼(ふこ)国」は直政が居住した遠江であったと解明できる。この3小国の解明によって、彦根の羽の無い大鳥の地上絵は“いまだ夏音は習わず”とあらわすものであると立証される。
 また銀河を字典にすれば、『魏志倭人伝』に記載される「呼邑(こお)国」は彦根市が所在する近江、「華奴蘇奴(かなさな)国」は近江の西隣の山城・京都府、「蘇奴(さな)国」は近江の北隣の若狭、「対蘇(つさ)国」は近江の東隣の美濃であることが明らかになる。この近江・呼邑国とその周辺の4小国の解明によっても、彦根市の大鳥の地上絵は“いまだ夏音は習わず”と描くものであることが科学的に証明できる。

 家康は――「漢字」という語は「銀漢からつくられた文字」の省略であるからして、必ずや後世の学者たちは【銀河各部の形状】が【文字】に成ることに気づき、『魏志倭人伝』のすべての小国名の夏音文字の字源・字義を解明するにちがい――と予測して、井伊氏の居住地を〔羽が無い大鳥の地上絵〕に設計させたのである。
 しかし、家康の予測は見事にはずれて、文献史料の記事をキチッと忠実に読む歴史学の原則をまったく身につけない・なにもかも誤読して立論するど素人以下の似非(えせ)学者たちの真っ赤なウソ八百の邪馬台国説のために、『魏志倭人伝』に記載される小国名に使用される【文字】が【銀河各部の形状】から作られた事実はいまだまったく解明されない事態となった。

 白川静著『字統』は[習]の字源を「羽と曰(えつ)とに従う。曰は祝祷(しゅくとう)を収(おさ)める器。この器の上を羽で摺(す)って、その祝祷の呪能(じゅのう)を刺激し、そのような行為をくりかえすことを意味する字」と解説する。
 つまり、「祝祷を収める器」とは「祝い祈祷(きとう)するための器具」ということになるから、[習]の字源は「祝祷に用いる器の上を鳥の羽で何回も擦(こす)って刺激して、かつて盛んであった勢いが蘇(よみが)えるよう、復興するように呪(まじな)う」ということになる。
 だから、「習う」の意味は「復興する」と意味するものであった。
 彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵の北部は、〔鳥の頭〕の形に設計されている。
 この彦根の大鳥の地上絵の頭は、夏至の日の出の方向を指し示す。したがって、〔夏至の日の出の方角〕で「夏音文字の学芸」と表示する。
 彦根市の東の境界線は〔羽の生え際〕を示すが、〔羽〕の部分が存在しない。
 だから、〔彦根市〕を「祝祷の器」に見立てると、〔羽が無い彦根市〕は「いまだ夏音文字の学芸は復興されず」と示すものとなる。
 〔羽が無い鳥の地上絵〕は異様でひときわ目立つ。だから、後世の人々に『魏志倭人伝』はすべて事実であることを伝え、【銀河各部の形状】が【文字】であることを伝えるために、彦根市は羽の無い大鳥の地上絵となったのである。
 大鳥の地上絵であるから本来あるべき羽の部分には、伊耶那美命と伊耶那岐命を主神として祀る多賀(たが)大社が所在する。【銀河各部の形状】は【文字】であった事実に気づいて夏音文字の学芸が習う(復興する)ことになれば、多賀大社が所在する多賀町には羽がつくことになる。ということは、伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念が蘇えることになる。
 このように彦根の羽の無い大鳥の地上絵は――信長と直政と家康は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興に全情熱を傾ける一生を送った――と証言する。信長も直政も家康も伊耶那美命に熱烈に憧れていたのである。

 新井白石から始まる約280年におよぶ邪馬台国研究は『魏志倭人伝』のすべての記事を誤読して似非学者たちがねつ造したウソ八百である。
 誤読の空論の邪馬台国説は、先人たちがなんとしてでも後世に残さなければならないと命がけでまもった、なんびとにも排除されたり害されてはならない最も重大な歴史である①夏音文字の学芸と②日本建国の〔愛〕の理念を抹殺して、日本民族の魂とアイデンティティを虐殺するおぞましい虚妄(きょもう)なのである。
 この事実を、彦根市の3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵が明確に示す。
 邪馬台国説は日本民族の魂とアイディティティを虐殺するものであるから、排除しなければ日本は確実に滅亡する。
 なんのために、先人たちは①夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念をまもったのであろうか……。われわれは天照大御神が千引の石の前で誓った呪詛(のろい)を受け継ぐ邪馬台国説学者たちのために、なぜ魂とアイデンディティティを虐殺され、なぜ腑抜(ふぬ)けになければならないのか、こんな不条理な暴挙に絶対に負けてはならなのだ。
 われわれは日本人だ。邪馬台国説学者たちのウソ八百をたたき潰(つぶ)して、日本人である権利をまもろうではないか。

 また邪馬台国説は、人類共通の敵である。
 いままで解説してきたように、『魏志倭人伝』の記事に誤読をいっさい加えずに読めば、世界の古代文字は銀河から作られたことが科学的に解明できる。
 アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)の1頁の〔はじめに〕の冒頭は「文字は人類の歴史上、最も偉大な発明品の一つである」と書き出す。
 この人類史上において最も偉大な発明品の文字が銀河から作られたことが最も科学的に明確に立証できるのは、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と文献史料がそろい、大湯環状列石、1千万坪の建比良鳥の地上絵(細江町の大鳥の地上絵)、竜安寺の石庭、3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵、桂離宮の庭園という夏音文字の学芸史跡を有する日本でのみである。
 だから、『魏志倭人伝』の重大な記事をことごとく誤読して空論をデッチあげる邪馬台国説は人類共通の敵である。

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2012年1月 9日 (月)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・33

 すべての漢字の字源を知ることができる基本字は1400字前後である。
 しかし、1400字前後の漢字の字源銀河を知らなければ、すべての字源銀河を知ることができないかと言えば“NO!”である。
 このことは、竜安寺の石庭によって証明される。
 竜安寺の石庭は、1400字前後の漢字が作られた銀河各部の形状を15個の5群の石組で表示する。つまり、15個の2倍の30字の字源銀河を知れば、この30字の字源銀河の解明から5倍の150字、150字の字源から10倍の字源銀河が明らかにすることができると示している。
 (このことは、28回前の〔〕の末部にて、[欠]の字源を解明すると[欠]の部首を有する幾つかの字の字源解明できるようになり、[谷]に[欠]が組み合わさる[欲]の字源から[谷]の字群の幾つかの字源を知ることができると例をあげて説明した。)
 だから、すべての字源銀河を知ることができる基本字の、その基本となる字は150字あるいは300字で十分ということになる。
 300字の字源銀河を解明すると、ゆっくり楽しみながら研究しても10年も費やせばイモヅル式に1400字前後の字源となった銀河を知ることができるであろう。熱中して才ある人ならば、5年も研究すれば1400字前後の基本字の字源となった銀河を解明できるかもしれない。
 もっとも趣味で字源あるいは歴史の世界を楽しみたい方は、すべての字源銀河を知るのが目的ではなくコツコツと1字ずつ解明し発見して喜びを知ることが目的となるであろうから、直ぐにでもこの世界に没入できる。

 プロ(学者)たちは1980年代で終焉(しゅうえん)をむかえた従来のデカルト以来の西欧近代科学の合理思考のパラダイム(理論的枠組み)にこだわって“文字が銀河から作られた”なんて説には直ぐに飛びついて聞き耳をもたないにちがいない。
 いっぽう、私の説は1980年代から“デカルト以来の西欧近代科学のパラダイムには幾つかの誤りがある”と警告した先端科学者の超合理の考え方、21世紀の学界はじめ経済、思想などそして時流となって世界を席巻(せっけん)する、現在進行形の新しい考え方にもとづく字源と歴史の研究である。
 だから、従来の合理の考え方を捨てて、もはや科学界では日常的になった超合理の科学のもとづく字源や歴史の研究は、プロ(学者)たちよりも先にあなたのほうが研究しだしていることになる。それゆえ、趣味と言ってももはや学者たちよりもあなたのほうが先んじていることになるので、研究しだしたとたんにあなたはプロであることになる。
 この研究や知識は、字源と歴史を知ることができるだけではなく、1980年代から超合理の考え方が世界を支配しだした現状の時流にどう対処すればよいか誤ったり惑わないですみ、今が今、賢明に生きる方法やヒントを与えてくれるにちがいない。

 従来は右脳を沈黙させて左脳の考え方が発揮された時代であった。
 1980年以降は、従来の左脳の考え方を抑制(よくせい)し右脳の考え方を優先する、あるいは右脳の考え方に支配される時代が到来するということであろう。
 従来は左脳によるデカルトの考え方が勝利を謳歌(おうか)した。
 かわって21世紀は、右脳の考え方が世界を支配して謳歌するのではあるまいか。
 1980年代、先端科学者たちは“デカルトの西欧近代科学の考え方には幾つかの誤りがある”と警告し立証した。
 現在の科学界は超合理にもとづく学説や理論や応用技術が勝利している。
 ということは、21世紀は右脳の超合理が優先される時代ではあるまいか。
 現在、世界でおきているデカルトの考え方をいちはや取り入れたヨーロッパの経済的危機や合理主義のアメリカにおける反格差の怒りと抗議で混乱し、合理主義の考え方で国家と国民を統治した独裁者ちは失脚し、津波を想定外と言った科学者たちの誤りと東京電力の福島原発事故対策の失敗などには、もはやデカルト以来の西欧近代科学の合理の学術の在り方によって生じた限界が明確に見える。
 これらの混乱は、先端科学者たちが先取りした右脳の考え方なければ解決できない。また、明日へ一歩踏みだすこともできない。ということからして、今が今、時代はもはや超合理の時代の真っただ中を突進しているのではあるまいか。

 従来、現在も学校教育では合理の考え方を学んでいる。
 学校では、超合理の考え方のほうが合理の考え方に優るとは教えない。
 しかし、竜安寺の石庭は――合理の考え方は完全ではなく、誤りが有する。超合理の考え方のほうが優る――明確に教える。
 22回前の〔11〕で、竜安寺の石庭は――5群の計15の石を、どこから見ても計14個にしか見えないように設計して、石庭に15個の石があると考えるを超合理、14個しかないと思うのが合理の考え方である――と示していると指摘した。
 竜安寺の蔵六庵(ぞうろくあん)の茶室の前にある“知足(ちそく)の蹲(つくば)い”も、石庭に設計される超合理と合理の相違を示す装置である。
 そして、石庭は〔欠けた正方形〕の東側の平庭の石の数を合計7個にして「合理の考えは誤っている」とあらわし、〔欠けない真正の正方形〕の西側の平庭の石の数は合計8個にして「超合理の考え方こそ正しい」と示す。
 このように、我々が学校教育で洗脳された合理の考え方には、誤りが存在する。
 現在、われわれが目撃し耳にする世界の混乱と軋(きし)みは、きっと従来の合理の考え方の限界と行き詰(づ)まりを示すものであるにちがいない。
 従来の合理の考え方しかできない専門家たちによって混乱と軋みが生ずる、この21世紀初頭を生きてゆくわれわれは、“日本文化の根元的な考え方である”と先端科学者が指摘した超合理の考え方を取り戻す必要があるのではあるまいか。

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕の解説には字源銀河図を挿入(そうにゅう)しないために難解であろうが、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』には、すべての漢字とヒエログリフが作られた資料Bの写真を所載し、資料Cは「資料Bの銀河各部の名称」図であり、本文には幾つかの字源銀河の解説図を所載した。
 これらを基礎資料にして、白川静著『字統』(平凡社)などの字源字典や小林石寿編『甲骨文字字典』と『金文字典』などで研究すれば、ゆっくり研究しても10年も費やさなくても1400字前後の字源銀河を知ることができるであろう。
 また、銀河の写真と字源字典と竜安寺の石庭の写真集によっても、字源銀河の研究をおこなうことができる。竜安寺の石庭は銀河の形の単純化がなされているので高度の右脳思考が求められ、さらに禅宗の思想や哲学が融合されているので深い思索が必要となる。
 ところが、桂離宮の庭園は夏音文字の学芸だけををあらわす施設であるので銀河の形は明確に設計されているので理解がしやすい。拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の57頁の図13の〔桂離宮の庭園における字源を知る3つの基本形〕を基礎にして、銀河の写真と字源字典と桂離宮の庭園の写真集を用いれば、すべての字源銀河が最も容易に解明できるであろう。

 基本字が1400字前後あれば、1400字の字源銀河を解明しなければならないと考えるのは、左脳が優れる人々の考え方である。左脳は論理と言葉をあつかうが、一度に一つずつ個別的に考えようとするからである。
 右脳に優れる人々は感覚(イメージ)で考える。ゆえに、複雑な視覚パターンの認識や処理にいちじるしく優れる彼らは、1400字前後の漢字が作られた銀河のパターン化をおこなう。
 右脳で考える芸術家によって、竜安寺の石庭は5つの石組ですべての字源銀河をあらわすことができると造形して証明した。
 “江戸初期の天才芸術家”と評される小堀遠州は、1400字前後のすべての基本字が作られた銀河全像を①両手の形、②人の横顔の形、③オス鹿の横顔の形の3つにパターン化して、桂離宮の庭園を作った。(これが、上記した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の57頁の図13の〔桂離宮の庭園における字源を知る3つの基本形〕である。)
 つまり、600~1000字のヒエログリフが作られた銀河全像を、小堀遠州は桂離宮の庭園を作って3つのパターンに大別できると立証したのである。
 すべての漢字の字源をあらわす銀河全像を幾つまで集約してパターン化できるかと考える発想は、論理や語学に長(た)ける左脳思考に優れる人たちは抱かない。
 しかし右脳で考える人は発想し、竜安寺の石庭を作った芸術家は5つにパターンに分け、右脳がずばぬけて優れる小堀遠州にいたってはたった3つのパターンに分け、すべての文字が作られた銀河は一つの帯となってつながるので3つのパターンに大別した基本形を一つにつなげている。
 銀河から作られた漢字とヒエログリフの秘密は左脳で考えると理解できない。
 左脳と右脳は、別なる固有の思考形態を有する。
 人間の頭脳は、言語と論理を用いてのみ思考する単一的組織ではない。
 文字は右脳によって作られた。
 右脳によって作られた文字の字源は、右脳によって解明できまた理解できる。
 小堀遠州はすべての漢字が作られた銀河全像は3つのパターンに分類できると桂離宮の庭園で証明した。だから、遠州は600~1000字のヒエログリフが作られた銀河全像は3つのパターンに分類できると証明したことになる。

 漢字には部首による分類法があるように、ヒエログリフにもエジプト古代文字学者のアラン・ガーディナー(1879-1963)が分類した「ガーディナーのリスト」と呼ばれる方法がある。
 マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『[図説]ヒエログヒフ事典』(創元社)における附録❷は、ガーディナー著『エジプト語文法』に掲載された700字余りのリストに、ガーディナーのリストに無い文字も掲載する。
 ガーディナーはヒエログリフを〔セクションA~セクションZ〕の26の項目に分類した。
 この26の項目に対して、『[図説]ヒエログリフ事典』は第1章~第8章の8項目、つまり第1章は〔人間〕、第2章は〔神々〕、第3章は〔動物〕、第4章は〔植物〕、第5章は〔天と地と水〕、第6章は〔家屋〕、第7章は〔街と宮殿と神殿〕、第8章は〔道具〕に分けている。

 第1章には〔人間〕のさまざまな図案を掲載する。
 これら〔人間〕という項目に分けられた、人間の姿や動作や各部分を図案化したヒエログリフは、これまで解説した通り、「十字の銀河」、「鬼の姿に似る銀河」、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」、「人の横顔に酷似する銀河」、「ちょっと長め目の人の横顔に似る銀河」(すなわち、「ライオンの横顔ににる銀河にして「夏の銀河の全像」」)などから作られた。
 「十字の銀河」の西半分は乳房や子宮に見立てられる部位があるので〔女性〕のイメージとなり、東半分の左手には弓・鍬(くわ)のような銀河が連結するので〔男性〕のイメージとなる。
 また、「十字の銀河」の右手(西の手)には微(かす)かに見える〔棒〕のような銀河があり、「鬼の姿に似る銀河」を〔右手〕に見立てると「十字の銀河」は〔右手が持つ棒や道具〕のように観える。
 「十字の銀河」の西の足は妊婦の円い腹部のようにも観え、乳房にも観える。
 この「十字の銀河」の西の足は短く・東の足は長いので、〔座る人〕、〔立って歩く人人〕、〔踊る人〕、〔逆さの人〕などはじめ、さまざまな動作を図案化したヒエログリフの字源は「十字の銀河」であることが容易に察知できる。
 「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は〔両手・両腕〕に観える。ゆえに、さまざまな〔手・腕の形〕を図案するヒエログリフは「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」を観たさまざまなイメージ解釈によって作られたことになる。
 〔目〕と〔口〕にように観える「北アメリカ星雲・ペリカン星雲の、東と西に隣接する銀河」は幾つか作られた「目」と「口」の字源となる。
 また「鬼の姿に似る銀河」・「人の横顔に酷似する銀河」・「夏の銀河の全像」の〔口〕あるいは〔口〕に相当する部分に隣接する天体部が、「口」の字源となる。
 「コールサック」の南を上・北を下にすると〔人の足〕の形に相似する。ゆえに、「コールサック」は「足」の字源となった。
 「十字の銀河の両足」は〔歩く両足〕に観えるので、いろいろの「歩く足」を図案するヒエログリフの字源となった。
 「十字の銀河の胸」には”M39”という名の散開(さんかい)星団がある。この“M39”がある胸部と「十字の銀河の子宮」がある箇所は〔女性の乳房〕の形に相似するので、「乳房」の字源となる。
 「十字の銀河の西洋ナシのような形の頭部の冎(あな)とこれを包囲する銀河」は女性の骨盤口の形に相似する。この「十字の銀河の西洋ナシのような形の頭部」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の形は類似するので、この二つの銀河部は「胎盤」のヒエログリフの字源となる。

 第2章の〔神々〕のヒエログリフにおいては、幾つかの「男神」と「女神」と「王」のヒエログリフの顎(あご)にはヒゲがある。「鬼の横顔に似る銀河」には明確に〔顎ヒゲ〕が生えている。ゆえに、〔顎ヒゲ〕が生える「男神」と「女神」と「王」のヒエログリフの字源は「鬼の姿に似る銀河」ということになる。
 「オシリス神」のヒエログリフも〔顎ひげ〕が生えるが、「オシリス神」のモデルは「人の横顔に酷似する銀河」であるので、「オシリス神」の字源は「人の横顔に酷似する銀河」と考えるべきことになる。というのも、よく観ると「人の横顔に酷似する銀河」にも〔顎ヒゲ〕が生えているからである。
 顎ヒゲが生える「アメン神」と「ミン神」がかぶる2枚の羽の冠の形は「人の横顔に酷似する銀河」の〔胸部に相当する銀河〕に類似する。ということは、「アメン神」と「ミン神」のヒエログリフの字源は「人の横顔に酷似する銀河と胸部に相当する銀河」であると考えられる。
 ヒエログリフ「ホルス神」の字源は「北アメリカ星雲とペリカン星雲」である。
 ホルスの眼を切り刻んだ叔父の「セト神」のヒエログリフの字源は、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と人の横顔に酷似する銀河の中間の暗黒天体部」であるにちがいない。というのも、この暗黒天体部の形は「セト神」の顔の形に相似し、この暗黒天体部は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の中央の暗黒天体部と接続して、「ホリスの眼」の〔瞳〕の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を切り刻み、「ホルスの眼の目尻側の白目」と切り刻んで食い込んでいるからである。
 「トト神」の字源は「トキの姿に似る銀河」(「夏の銀河の東北部」の「長方形の暗黒天体部」の東の辺・「鬼の姿に似る銀河」・「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」・「人の横顔に酷似する銀河」・その隣の鷲座α星へかけての星くずが合体する銀河の領域)である。
 天地創造の女神ヌトのモデルは「十字の銀河」、男神のゲブのモデルは「鬼の姿に似る銀河」である。
 この「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」を連結するのが「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」である。この「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」がワニ神の「セベク神」を図案するヒエログリフの字源であると考えられる。「セベク神」は“原初の神”“創造の神”として崇(あが)められた。天地創造神話に登場する「原始の水」のモデルは「四つ輪の銀河」であり、「四つ輪の銀河」は「十字の銀河」の東隣にある。それゆえ、女神ヌトである「十字の銀河」に連結する〔ワニ〕のイメージとなる「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は「セベク神」の字源であると考えられる。「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は「長方形の暗黒天体部の東と北の辺」にも連結する。「長方形の暗黒天体部」とその周辺の銀河の形状は〔周囲が傾斜して一段高い台〕のごとくに観える。「セベク神」のヒエログリフは〔台の上に載るワニ神〕を描いている。
 「セベク神」の異体字に〔ワニが遺骸を包んだ布すなわち屍衣(しい)あるいはミイラの包帯のようなものから顔を出した姿〕に図案するものがある。
 ヒエログリフ「プタハ神」の字形は〔プタハ神が屍衣にくるまれて台座に立つ像〕である。10回前の〔23〕で指摘したように、第1王朝から第6王朝までの首都メンフィスの天頂に「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。メンフィスの古称は「プタハのカーの家(フト・カー・プタハ)」であり、プタハ神はメンフィスの主神であった。〈カー〉と発音する「霊」を意味する「両手の肘(ひじ)を直角に曲げて上に挙げる両手」のヒエログリフは「長方形の暗黒天体部」を図案化したものであり、「天頂点をキャッチすれば精密に緯度が測定できる」と表現するものであった。ABC・アルファベットの[B]の初文となる古代エジプトの[B]は[大きな家]すなわち「王が住む家(王宮)」を図案化したものであり、「大きな家(ペル=ラア)」は後に「ファラオ」と言って「エジプト王」の称号となった。プタハは美術工芸の神であり、メンフィスは王朝美術の中心地であった。
 美術(芸術)の神はトキの頭を有するトト神である。このヒエログリフ「トト神」の〔トキの嘴(くちばし)〕の字源部は「長方形の暗黒天体部の東の辺」である。メンフィスの天頂には「長方形の暗黒天体部の東と北の辺が交わる隅(すみ)」がめぐってきた。この「長方形の暗黒天体部の東と北の辺の隅」に「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の大きく開ける口の部分」が連結する。この「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の大きく開ける口の部分」の形状のイメージは〔その昔、メンフィスでは毎年のナイル川の洪水で犠牲になった死者が多数いた〕と示すことになる。だから、プタハ神は〔洪水で多くの人々が犠牲になった〕とあらわして屍衣にくるまる姿になったにちがいない。洪水が襲った水浸しになった土地を耕す農民たちが住む村では、洪水で破壊された古い家があった場所の上に新しい家を建ったので、何年かたつうちに村の土地はだんだん高くなって丘となり、メンフィスの村は洪水であふれた水が届かないほど高い土地となった。この〔高い土地〕をあらわして、「プタハ神」は台座に立つ神となったのであろう。
 また、王宮は洪水の水が届かない高い丘の上に建造されたので、ヒエログリフの「プタハ神」は台座に立つ像に図案化されたのであろう。
 プタハ神は屍衣の下から手だけを出して、ウアス杖(じょう)と呼ばれる細長い杖(つえ)を持っている。このヒエログリフ「プタハ神」の字形は、「鬼の姿に似る銀河」を「プタハ神」に、「屍衣から出す手」を「北アメリカ星雲」に、「ウアス杖」を「長方形の暗黒天体部の北の辺から人の横顔に酷似する銀河の頭の角までの銀河部(メンカウラー王のピラミッドのモデルとなった三角形の銀河部)」に見立てて図案化したものと考えられる。

 第3章は〔動物〕である。
 文字(ヒエログリフ)の神のトトは、トキの頭を有する。
 ゆえに、さまざまな動物のヒエログリフは〔トキの頭や嘴〕に相当する「長方形の暗黒天体部」、「鬼の姿に相似する銀河」、「鬼の姿に似る銀河の背景の鳥の翼のように観える銀河」、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」から作られた。また、動物のヒエログリフは「十字の銀河」、「十字の銀河の背景となる鳥の翼のように観える銀河」(四つ輪の銀河)から作られた。
 「コールサック」は〔コブラの姿〕に相似し、「人の横顔に酷似する銀河」は〔ライオンの横顔〕に類似し、「夏の銀河の西南部から鷲座にかけての銀河」は〔象の横顔〕に相似し、「夏の銀河の全像」は〔ライオンの横顔〕に相似し、そして天頂にほど近い真上から流星雨が降ってきた「しし座」は〔横たわるライオンの姿〕に相似する。このような銀河部が字源となって、それら動物たちの姿を図案したヒエログリフが作られた。
 さまざまな 動物のヒエログリフには全身像もあるが頭部だけというのもあるが、これは「十字の銀河」・「長方形の暗黒天体部」・「長方形の暗黒天体部に接続する南の銀河」、「人の横顔に酷似する銀河」、「夏の銀河の西南部」、「夏の銀河の全像」などが動物の横顔に観えるからである。
 「十字の銀河」の背景となる「四つ輪」の銀河は〔鳥の翼(東の翼)〕、「鬼の姿に似る銀河より北側の背景の銀河」も〔鳥の翼(西の翼)〕のように観える。このため、「十字の銀河」から「鬼の姿に似る銀河」までは〔鳥の姿〕のイメージとなり、「北天の最輝部」とその周辺もに〔鳥の姿〕のイメージとなる。
 「十字の銀河」と「その東西の暗黒天体部」は〔フクロウの正面顔〕に相似し、「“M39“という散開星団より南の十字の銀河」の形は〔鳥の姿〕に観え、「十字の銀河の子宮」は〔小鳥〕に観える。
 「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は〔川を泳ぐ魚〕に観え、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」を〔川の水〕に見立てると「鬼の姿に似る銀河」が〔魚〕に観える。

 第4章は〔植物〕である。
 「十字の銀河」は〔木〕に観える。「人の横顔に酷似する銀河」の方から見ると、「四つ輪の銀河」・「長方形の暗黒天体部」・「長方形の暗黒天体部より南の銀河」は葉が茂る〔葉冠(ようかん)部〕に観え、「鬼の姿に似る銀河」・「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔幹〕に観えるので、「十字の銀河」は〔木の枝〕や〔ヤシの枝〕のヒエログリフの字源となった。
 「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」から「長方形の暗黒天体部」は〔沼地〕や〔水にひたされた田畑〕のイメージとなる。だから、「長方形の暗黒天体部の4辺」は〔沼地に生える草、パピルス、葦〕あるいは〔スイレン〕のイメージとなる。
 「長方形の暗黒天体部の西の辺」から「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〈カー〉と発音する「スイレンの葉と茎と地下茎」を図案化したヒエログリフの字形に相似する。このヒエログリフは「千」という数字の単位として用いられた。
 ヒエログリフ「ブドウ棚」の字形は「長方形の暗黒天体部」に相似する。

 第5章は〔天と地と水〕である。
 「天」は〔天の女神ヌト〕をあらわす「十字の銀河」、「地」は〔大地の男神ゲブ〕をあらわす「鬼の姿に似る銀河」であり、「水」は「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」が字源となる。
 「十字の銀河の真南の渦巻きの半円形」が「地平線下の太陽」であり、「翼の形に似る四つ輪の銀河」と「鬼の姿に似る銀河より北側の翼に似る銀河」の中間はヒエログリフ「有翼日輪」の字源となる。「鬼の姿に似る銀河」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「コブラのウラエウスがついた太陽円盤」の字源となり、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」と「3本線の閃光(せんこう)を放つ銀河部」は「光線を発している太陽円盤」の字源となり、「白鳥座γ星を中心にして包囲する円形の銀河」はシンプルな「太陽円盤◎」の字源となった。
 「光線を発している太陽円盤」の「太陽円盤」を「目」に取り変えて「泣いている目」となるヒエログリフがある。「目」の字源である「ホルスの眼」の左目は「月」を象徴した。ゆえに、「水平な三日月」のヒエログリフの字源は三日月の形に似る「ホルスの眼の縁(ふち)」であり、「満月」の字源は「ホルスの眼」の〔瞳〕となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」ということになる。

 第6章は〔家屋〕である。
 「家」の字源銀河は、コールサック北部の「長方形の暗黒天体部」である。
 漢字の[字]の字源のおいては[宀(べん)]の字源を[天]の字源である「十字の銀河」の見立てて横にし、[子]の字源を「鬼の姿に似る銀河」とする。これゆえ、『説文解字』は[告]の字源解説において「十字の銀河」を「横木」と記す。
 この漢字の[字]と[告]の字源と同じくヒエログリフの「扉」の字源も「十字の銀河」を横にして、図案したものと考えられる。というのも「扉」の文字は「水平に置かれた木の柱」をあらわす文字と併記(へいき)され、前述したように「木」の字源は「十字の銀河」だからである。
 ヒエログリフには「カンヌキの横木」という字がある。この異体字に「カンヌキの横木に歩く両足」とを組み合わせる文字があり、移動をあらわす動詞の中で使用される。「十字の銀河の両足」はまさに〔歩く両足〕である。ゆえに、歩く両足の上の「十字の銀河の子宮がある腰の部分」が「カンヌキの横木」の字源であることがわかる。
 円形に図案される「脱穀場」の字源は円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」であり、「ビール壺」の字源は、漢字の[酋](酒を入れる容器j・酒樽)と同じ、[酋]の上部[亼(しゅう)]の字源銀河・「長方形の暗黒天体部」・「長方形の暗黒天体部より南の銀河部」であるにちがいない。

 第7章は〔街と宮殿と神殿〕である。
 「宮殿(要塞)」の字形中央に〈ア〉と発音する「肘が直角に曲がる手」が組み合わさる異体字がある。この異体字の「肘が直角に曲がる手」の字源は直角に曲がる「十字の銀河の南部からナイル川の氾濫の形状に似る銀河」ということになる。そうすると、「宮殿」つまり「要塞」のヒエログリフの字源は「十字の銀河」の下に「長方形の暗黒天体部」を連結させたものと考えるべきことになる。
 発掘された紀元前3000年ころのパリーのルーブル美術館が所蔵する〔要塞〕を描くレリーフには――最上部に敵の侵入を防ぐための柵(さく)が作られていた。ゆえに、「十字の銀河」は敵が侵入する〔入口の扉〕に見立てられ、この〔扉には頑丈(がんじょう)なカンヌキの横木〕が取りつけられていたことになる。だから、第6章で解説したように、「扉」の字源は「十字の銀河」、「カンヌキの横木」の字源は「十字の銀河の子宮がある腰の部分」となったのである。
 第2章の箇所で説明したプタハ神は〔ワスの笏(しゃく)〕と〔アンク〕と〔ジェド柱〕を組み合わせた杖を持つ。この杖に組み合わされる3つの装飾は、「ホルスの眼」を6分割するうちの〔1╱64の穀物の単位〕をあらわすヒエオグリフの字源「長方形の暗黒天体部の西の辺」をあらわすものであろう。
 〔ワスの笏〕は「ペリカン星雲」の〔後ろ向きのキツネの顔〕をデザインするものであり、〔アンク〕は「ホルスの眼の涙である、香水のような芳香がするナイル川の洪水で亡くなった人々の生命の芽生え〕をあらわし、〔ジェト柱〕と呼ばれるヒエログリフの字源は「長方形の暗黒天体部の東・西の辺」であり〔洪水で破壊されて古い家のあった場所に新しい家を代々建てて柱のように幾層も積み重なった土台〕をあらわしているものと考えられる。というのも、上記の〔要塞〕の下の〔高い土台〕の部分は「長方形の暗黒天体部」をあらわすものとなるからである。
 字形が次のような各銀河部の形に相似することからして、ヒエログリフ「下エジプトの祠堂(しどう)」の字源は「長方形の暗黒天体部の西隣の暗黒部」(ホルス神の叔父の「セト神」の字源銀河部)であり、「上エジポトの祠堂」の字源は「長方形の暗黒天体部」であり、王の若返りのための儀式をおこなう「セド祭の祠堂」の字源は「長方形の暗黒天体部とその西隣の暗黒部」(コールサックの北部)であったと考えられる。

 第8章は〔道具〕である。
 「船」、「聖船」、「釣船」などのヒエログリフの字源は「鬼の姿に似る銀河」となる。というのも、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」を〔船を浮かばせる水〕に見立てれば、〔水の上に浮かぶ船〕は「鬼の姿に似る銀河」ということになるからである。
 「帆」のヒエログリフの字源は「十字の銀河」である。
 その底(南部)が円くくぼむ[U]字形の「長方形の暗黒天体部底」の中央から底の方の形は「漁網」のヒエログリフの字形に相似する。ゆえに、「魚網」の字源は「長方形の暗黒天体部の中央から底まで」であると考えられる。
 「天秤(てんびん)」の字形に「十字の銀河」が似ているゆえ、「天秤」の字源は「十字の銀河」となる。
 「鬼の横顔に似る銀河」を〔ハープを弾(ひ)く人の横顔〕に見立てると、「十字の銀河」が〔ハープの弦(げん)〕、「四つ輪の銀河がハープの枠」に観える。また、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔ハープを弾く奏者の手〕に見立てると、「長方形の暗黒天体部」が〔ハープの弦〕に観える。

 以上のごとく、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版した拙著『邪馬台国説が日本をえ滅ぼす』の資料Bのすべての漢字の字源が作られた〔銀各部の形状〕は、すべてのヒエログリフの字源でもあった。
 ということは、【ヒエログリフ(文字)】は【銀河各部の形状】と存在するものであったことになる。
 わが国に今から約4050年前に伝来した【夏音文字】もまた【銀河各部の形状】で存在するものであった――これについては、竜安寺の石庭で証明できる。
 リチャード・H・ウィルキンソン著╱伊藤はるみ訳『図解エジプトシンボル事典』(原書房)は序文で――「古代エジプト人は、自分たちの言葉を書き記すためのヒエログリフを「メドゥウ・ネチェル」つまり「神の言葉」と呼んでいた。ギリシャ人がエジプトの神殿に刻まれた浮き彫りや碑文を表わすために作りだした「ヒエログリフ(聖なる刻まれた文字)」という名称にも同じ意味が込められている。実際に文字として使用されたヒエログリフと、美術作品の中で拡大して描かれたその形とは強く結びついている――と指摘する。
 また、この序文には――ある有名なエジプト美術史家はこう言っている。「……書記は、いったんすべてのヒエログリフを上手に描けるようになると、「イプソ・ファクトipso facto」つまり芸術家と呼ばれた。というのも、彼が象形文字で描き上げた作品は、たくさんの表意文字が互いに作用しあう、ひとつの集合体だからである」――という記述もある。
 竜安寺の石庭のすべての漢字の字源をあらわす5群の15個の石は、互いに作用しあってひとつの字源をあらわし、このひとつの字源から一連の漢字の字源が解明でき、また、15個の石から成る5群の石組はすべての漢字の字源となった集合体・銀河を表現する芸術作品である。
 したがって、古代エジプト人たちがヒエログリフを「神の言葉」と呼んだのは、【銀河各部の形状】が【ヒエログリフ】であり、【特に重大な銀河の1群の形状】は【神】であったからである。

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2012年1月 7日 (土)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・32

 前回〔31〕において、「夏の銀河の東北部」はヒエログリフ「スカラベ」(糞を丸めて地面を転がす昆虫のフンコロガシ)の字源になったことを解説した。
 この「スカラベの姿に似る銀河」は、古代エジプト全土の天頂にめぐってきた。

 エジプトでは前王朝時代から、太陽と月は偉大なハヤブサの神「ホルスの眼」であると考えられていた。やがて、この「ホルスの眼」の太陽と月は区別されるようになり、左目(ホルスの眼)は月を象徴し、右目(ラーの目)は太陽を象徴することになった。
 「ホルスの眼」は表意文字となり、字源は人の目の形に相似する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と東隣と西隣の、白目の形に相似する暗黒部」である。
 糞(ふん)を球形に丸めて地面を転がす昆虫の〔スカラベ〕は、神々の中で最高位の太陽神のシンボルとなった。
 というのも、スカラベの頭には、太陽の光線のように観える鋸(のこぎり)のようなギザギザがあり、この太陽の光線のようなキザギザを「ホルスの眼」の太陽の象徴とされる右目(ラーの目)に見立てられたからである。
 今から5000年前の第1王朝時代において、スカラベの頭にある太陽の光線のように観える鋸のようなギザギザは「ホルスの眼」の右目に見立てられた。
 首都をメンフィスと定めた紀元前3000年の第1王朝から紀元前2180年の第6王朝末期まで、「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザ」に見立てられた「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」のうちの「北アメリカ星雲の南端」が、エジプト国土の北限となるナイル川河口の北端(北緯31度35分)の天頂を通過した。
 これに加えて、前回〔31〕で解説したように、「スカラベの姿に似る銀河」はエジプト全土の天頂を通過し、エジプト人の信仰にあって太陽は常に高い位置をしめるものであったゆえ、エジプト全土の天頂にめぐってくる銀河の形に相似する〔スカラベ〕は太陽神を象徴することになった。さらに、「ライオンの開いた口」に見立てられた「黄道が通過する夏の銀河の西南部」の形状が〔糞を球形に丸めて転がすスカラベの姿〕に相似した。「黄道」は「天球上を通過する太陽の道」であるので、スカラベは最も位が高い太陽神のシンボルとなったのである。

 紀元前2180年から始まる第7王朝ころには、ナイル川河口の北端の天頂を通過した「スカラベの頭の光線に観えるギザギザ」に符合する「北アメリカ星雲の南端」は、地中海のほうへ乗り出して緯度が高くなっていた。つまり、ナイル川河口の北端の天頂を「北アメリカ星雲」に隣接する「長方形の暗黒天体部」や「ペリカン星雲」が通過するようになった。
 「長方形の暗黒天体部」は「大きな家」すなわち「王宮」(ファラオ)の字源となった。
 前回の〔31〕でも指摘したように、「北アメリカ星雲の南端」から3度隔てる南を、「長方形の暗黒天体部」内において目印となる部位が通過した――「長方形の暗黒天体部」の南部にあっては、東と西の辺に二つの菱形「◇」の枡(ます)が連なる。この二つの菱形枡の連結部は明るい銀河の輪郭(りんかく)が線となる。この目印となる〔線〕で結ばれる東西2辺の菱形枡の連結部は、「北アメリカ星雲の南端」から緯度が3度低い南であった。
 第6王朝の末期になると、「北アメリカ星雲の南端」が北緯31度35分のナイル川河口の北端の天頂にめぐってこないのが顕著になった。北緯28度35分のヘラクレオポリスはナイル川河口の北端よりも3度南である。このヘラクレオポリスの天頂に、「長方形の暗黒天体部の東西の2辺を線で結ばれる菱形枡の連結部」がめぐってきた。
 ゆえに、第7王朝は南のヘラクレオポリスに都を遷(うつ)した。 
 「長方形の暗黒天体部」は天頂緯度が精密に測定できる最も理想的な物差しである。
 ナイル川河口北端より緯度が3度南のヘラクレオポリスならば、〔歳差(さいさ)〕という天文現象によっておこる10年ごとに傾きが変わって緯度が約1分ずつ徐々に増大する「スカラベの姿に似る銀河」の様子を、「長方形の暗黒天体部」を物差しにすれば測量できた。
 だから、第7王朝はヘラクレオポリスへ遷都したのである。

 白鳥座β星は「スカラベの姿に似る銀河の後ろ足の付け根がある尻(しり)の右側」となる。これゆえ、白鳥座β星は「スカラベの姿に似る銀河」の傾きの変化を測量する目星となる。
 紀元前3000年に第1王朝が樹立(じゅりつ)されたエジプト王朝は、紀元前30年のクレオパトラ7世のローマの属州になって滅亡した。したがって、エジプト王朝は2970年間存続したことになる。
 この2970年間において、紀元前3000年の北アメリカ星雲の南端は北緯31度35分の土地(ナイル川河口の北端)の天頂に位置したが、紀元前30年にはエジプト北方の緯度が2度54分高い北緯34度29分の地中海上の天頂を通過するようになっていた。
 また、紀元前3000年の白鳥座β星はエジプト北部のヘラクレオポリスより15分南の北緯28度20分の天頂にめぐってきたが、紀元前30年においては3度21分低い北緯24度59分のエジプト南部のアスワンダムより北側のイドフの天頂を通過していた。
 紀元前3000年からエジプト王朝が滅亡した紀元前30年までにおいて、北アメリカ星雲の緯度は2度54分高くなった。
 しかし、同じ紀元前3000年から紀元前30年までにおいて、白鳥座β星の緯度は、逆に3度21分も低くなった。

 前回の〔31〕にて、〈ヘペレル(hprr)〉と発音する「スカラベ」という語を構成する4字の表音文字と決定詞「スカラベ」について解説した。
 決定詞「スカラベ」の左隣には、「口」の文字が上下に並ぶ。
 上の「口」は表意文字「ホルスの眼」の字源となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が〔瞳〕となる「目の形に似る銀河」である。
 この「目の形に似る銀河」の目頭(めがしら)に、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の西端」が接する。
 この「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の西端」は〔ナイル川に生息する大魚が開ける大きな口〕の形に相似する。
 また、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を中央にとする「コールサック」の北部の形は、〔人の唇(くちびる)の形〕に相似する。
 この「唇の形に似るコールサック北部」の東側の北部(「長方形の暗黒天体部の東辺」の北の角)が「ナイル川に生息する大魚の口に似る銀河」である。
 ゆえに、表意文字「口」の字源は「ナイル川に生息する大魚の口に似る銀河」と隣接する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔瞳〕となる「目の形に似る銀河」となった。

 ではなにゆえ、「スカラベ」という語の中に使用される「口」の上の字は「目」の表意文字や「ホルスの眼」にならなかったのであろうか。
 前回にて解説したように、下の「口」の字源は黄道と天の赤道が通過する「ライオンの開ける口となる銀河」だからである。
 上の「口」を表意文字の「目」や「ホルスの眼」にすると、「目」と「ホルスの眼」は〔黄道〕と直接的にむすびつかないので、「スカラベ」が〔黄道〕と直接的に結びつけられて神々の中で最も位が高い太陽神のシンボルに成ったことが不明となる。ゆえに、「スカラベ」という言葉の中には「黄道」と結びついて太陽神のシンボルに成ったことを明示するめに、同じ「口」の字が上下に並ばれることになったのである。

 前回にて〈ヘペル〉と発音する「~に成る」と意味する語は、上が決定詞「スカラベ」、下が表意文字「口」で構成される。この語に使われる「口」の字源は「糞を転がすスカラベの姿に似る夏の銀河の西南部」である。この「夏の銀河の西南部」に〔太陽の道〕である「黄道」が通過した。ゆえに、スカラベは「黄道」と結びつけられる、神々の中で最高位の太陽神のシンボルとなった。〈ヘペル〉と発音する語においては、右目が太陽を象徴する「ホルスの眼」を用いずに、「ライオンの開ける口となる銀河」を字源とする「口」の表意文字を用いて〔スカラベがなぜ太陽神のシンボルに成ったか〕を明確化したのである。このような事情〔スカラベは太陽神のシンボルに成った〕ゆえ、〈ヘベル〉と発音する語は「~に成った」と意味することに成ったのである。
 また、下記に説明する理由からして、〔目〕よりも〔口〕との関連性のほうが勝(まさ)っている。だから、「口」の文字は「~に成る」や「スカラベ」という語を構成する中に使用されることになった。
 「長方形の暗黒天体部の東辺」の北の角(かど)に所在する「ナイル川に生息する大魚の口に似る銀河」は扇(おおぎ)状に広がる。
 ゆえに、この扇状に広がる「大魚の大口に似る銀河」は、扇状に広がる〔ナイル川のデルタ地帯〕に相似する。ナイル川河口の北端のジムヤート岬からポートサイド港までの湖岸の形は〔人や魚の口〕に相似する。
 前述したように、紀元前3000年の第1王朝時代、ナイル川河口の北端・ジムヤート岬の天頂に「北アメリカ星雲の北端」がめぐってきた。
 この「北アメリカ星雲の南端」と「大魚の大口に似る銀河の西端」が接合する。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔瞳〕とする「目の形に似る銀河の西端」は「長方形の暗黒天体部の東辺」の北の角と接合する。
 このような状況であるゆえ、「北アメリカ星雲の北端」がジムヤート岬の天頂にめぐってきた第1王朝時代、「目の形に似る銀河」(「ホルスの眼」の字源銀河)は〔口〕の形に相似する地中海に水を吐きだすナイル川河口のデルタ地帯とこれまた〔口〕の形に相似するジミヤート岬からポートサイド港までの湖岸の天頂を通過したことになる。
 だから、「ホルスの眼」の字源「目の形に似る銀河」は“口の形にも相似する”と見立てられて、表意文字「口」の字源にもなった。
 このような「目の形に似る銀河」が「口」の表意文字の字源となった秘密を、前回で解説した「スカラベ」という語の中に上下に並べて2字「口」の字の内の上の「口」の文字は伝えるものであったのである。

 「スカラベ」という語を構成する左端の2字は、前回の解説の通りである。
 しかし、右下の「黒塗りの長方形の中に6本の短い白線が2列に並ぶ」、この文字の字形は「長方形の暗黒天体部」に相似するので、字源は「長方形の暗黒天体部」ではあるまいか。
 というのも、前述したように、第7王朝は「長方形の暗黒天体部の東西の辺の菱形枡の連結部を結ぶ線」を注目して、3度南のヘラクレオポリスへ遷都しているからである。
 「スカラベの姿に似る銀河」の模型・型紙(かたがみ)を作り、この型紙に緯度の目印となる部位に印をつける。また、〔長方形の板に、緯度の目盛りとなる6本の線を2列に並べる道具〕をも作成する。
 この〔長方形の緯度の目盛りをつけた道具〕に観測した「スカラベの型紙」の傾きの通りに載せれば、10年毎に徐々に微妙に変化する「スカラベの姿に似る銀河」の傾きの変化をキャッチすることができる。
 だから、「スカラベ」という言葉の中に使用された「黒塗りの長方形の中に6本の短い線が2列に並ぶ」、この文字は「スカラベに姿に似る銀河」の傾きの変化を調査する道具を図案化するものであったのではあるまいか。

 「スカラベの姿に似る銀河」はエジプト王朝は滅亡する2970年間に、北と南に合計緯度が6度15分も増えている。この「スカラベの姿に似る銀河」の傾きの変化による緯度の増大は、コブラが鎌首(かまくび)を起こして立ちあがる様子に似ている。
 ヒエログリフの「コブラ」は「ウラエウス」を意味する〈イアルト(iart)〉や、さまざまな女神の名の決定詞として用いられた。また、彫像やレリーフにおける王や太陽神ラーの額(ひたい)には、鎌首をもたげ、のどをふくらませた怒れるコブラが必ずといってよいほど描かれている。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔毒の牙を有するコブラの頭部〕、「コールサックの北部」は〔興奮すると、扁平(へんぺい)になるコブラの鎌首〕、「コールサックの南部」は〔怒るときの体の前半部を起立させるコブラの姿〕に相似する。
 この①「コールサック」の〔コブラの姿〕とは別に、②「鬼の姿に似る銀河」も「コブラの姿」に相似する。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の東隣と北隣は復讐(ふくしゅう)や恨みを抱くきつくするどい切れ長の両目がある。この「怒りの両目」は〔コブラの両目〕をあらわす。この「コブラの怒りの両目」は「鬼の姿に似る銀河の首(のどと後頭部) 」にある。
 ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」のうちの「鬼の横顔に似る銀河」は〔コブラの頭部〕、「鬼の横顔に似る銀河の首につく両目」は〔怒って睨(にら)みつけるコブラの両目〕、「鬼の身体部に相当する銀河」は〔怒って立ちあがったときのコブラの体〕に観える。
 16回前の〔16〕にて指摘したように、①〔怒るコブラの姿〕に観える「鬼の姿に似る銀河」と②〔毒牙を有するコブラの頭部〕に見立てることができる「北アメリカ星雲」は、下エジプト王がかぶる王冠「赤冠(あかかんむり)」のデザインのモデルであり、ヒエログリフ「赤冠」の字源であった。ゆえに、最も位が高かった女神ウアジェトはコブラの姿をした女神であると同時に、下エジプトの王冠の体現者でもあった。

 漢字の字源においては、〔立ちあがるコブラの姿〕のような形の「コールサック」は〔女性の子宮の側面形〕に相似するとされ、コールサックの北部の「長方形の暗黒天体部」は〔出産する胎児がくぐる産道〕に見立てられ、[命]や[尊]などさまざまな重大な文字の字源となった。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔出産するときの胎児の頭が産道をくぐりぬけるための母体の陣痛(じんつう)・腹圧・怒責(どせき)〕に見立てられた。「腹圧によっておこる、まるで怒るかのごとく大声を挙げるいきみ、きばること」を「怒責」という。
  また、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔膣(ちつ)の入口に胎児の頭の最も大きな部分通過して胎児の誕生してから以後の胎児の頭の螺旋(らせん)状の回転〕に見立てられた。
 3回前の〔29〕にて解説したように、ヒエログリフ「キツネの皮を3枚結びつけたもの」の字源は「ペリカン星雲と3本の閃光(せんこう)を放つ銀河部」である。この「キツネの皮を3枚結びつけたもの」は〔無事に胎児が出産するための魔除け・お守り〕であった。というのも、「ペリカン星雲」は〔キツネが後ろを振り向く姿〕にそっくりであり、漢字の字源と同じく〔母体の陣痛・腹圧・怒責〕をあらわすとともに〔膣の入口に胎児の頭が誕生した以後の胎児の頭の螺旋状の回転〕をあらわすものとなったからである。
 ゆえに、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔コブラの頭部〕に見立てられ、最高位の女神ウアジェトの姿は「コブラ」となり、ヒエログリフ「コブラ」が作られることになったのである。

 「コールサック」は〔コブラの鎌首と身体〕に見立てられた。
 この〔コブラの鎌首と鎌首の付け根〕の部分となる「コールサックの北部と南部の中間部」の西隣は、上エジプト王がかぶる〔白冠(しろかんむり)〕のモデルとなった「北天の最輝部(さいきぶ)」である。
 これゆえ、上エジプトの白冠と下エジプトの赤冠をかぶった2匹のコブラを並べて描いた絵画もある。
 「北天の最輝部」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」にある。だから、王の額に鎌首をもたげる彫像やレリーフが多数作成された。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「ホルスの眼」となり、「ホルスの眼」の右目は太陽と同一視された。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」は「太陽と光線」を図案する表意文字の字源となり、「北天の最輝部」の北隣の「白鳥座γ(ガンマ)星を中心に包囲する円形の銀河部」は「◎」の形に図案化されて「太陽神ラー」の名前を構成する文字の中に使われている。
 このため、太陽神ラーの額にもコブラが鎌首をもたげた形でついている。

 王の額の頭飾り、また王冠につけた鎌首をもたげるコブラの飾り(ウラエウス)は、〔コブラの目の霊力〕をあらわすと同時に〔人の目の霊力〕をもあらわすものであった。この〔コブラの目の霊力〕は「鬼の姿に似る銀河の首につく、人の左右の目の形に酷似する怒る目の銀河」があらわすものであった。だから、「人の両目に似る銀河」であらわされる〔コブラの目の霊力〕は〔人の目の霊力〕となった。
 前述した「スカラベの姿に似る銀河」の微々たる傾きの変化は、天頂緯度測定を日課にし、日々鍛錬(たんれん)して感覚を研(と)ぎ澄ました眼力の持ち主ならば測量できた。王はこの眼力の持ち主であり、天頂緯度を1分の狂いもなく測定できる目を有することが王の資格でもあったのである。
 このように1分の狂いもなく天頂点をキャッチできる眼力が帝(大王)の資格であり、帝を象徴するものであったことは中国でも同じであった。この「天頂点を1分も狂いもなくキャッチできる眼力がそなわった才能や人格」が[徳]の字源であり、[徳]は〔最高の才能〕と尊重された。
 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』において、京都市の桂離宮の庭園池に漬(つ)かる、私が”衝立岩(ついたていわ)”と名づけた岩は「天頂点を1分の狂いもなくキャッチできる能力」が[徳]の字源であったと伝えるものとなる。この衝立岩は「天の橋立」という名がつく三つの築島(つきしま)の中央の築島の南面の池の中に漬かっている。
 日々鍛えれば人間の目には、1分の狂いもなく精密に天頂緯度を測定でき、1分の差をキャッチできる能力がそなわるものなのである。この能力を、古代エジプトでは“目の霊力”と称した。

 1万年以前におこった氷河期、緯度と方位の目印がある道はまったく存在しなかった当時、この苛酷(かこく)の状況を生きぬいた人類は、1分の狂いもなく天頂点をキャッチできるバンド(一団)の頭(かしら)や魔術師や目利きの先導のもとに、日々獲物や食べ物を求めて地上を移動していたのである。このような“目の霊力”を持っていなかったならば、凍てつく氷や雪の地球上にあった、バンドは位置も方角も不明になって迷ってしまう。登山家や南極に旅する冒険家は吹雪に遭遇して位置と方位が不明になって“迷った”と感じると“死”を予感する。このように、人間は“迷った”と感じると“死”を予感する生き物である。したがって、迷ったバンドは全員が“死”を予感してパニック状態におちいって収拾(しゅうしゅう)がつかないことになり、全員が発狂して死滅する事態になる。だから、1分の狂いもなく天頂点をキャッチできる目利きが頭となり魔術師となり先導者になって、“自分たちは位置も方位もきちっとわかっていて迷っていない”とバンドの人々に示して移動するものであったから、人類は氷河期に滅びずに生き伸びることができたのである。
 1分の狂いもなく天頂点をキャッチできる[徳]の能力は、日々鍛錬すれば10人の中で一人や二人や、あるいは三人ぐらいがそなわるものだったのではあるまいか。

 「太陽」を図案化するヒエログリフは①「白鳥座γ星を包囲する円形の銀河部」が字源とするシンプルな太陽円盤の「◎」、②「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」を図案化する「光線を発する太陽円盤」がある。このほかに、③「聖なるコブラのウラエウス(飾り)のついた円盤」がある。このほかにも「太陽」を図案化するヒエログリフが多数あるが、上記の3つの太陽円盤が代表的なものとなる。
 ヒエログリフ「聖なるコブラと太陽円盤」の字形は〔鎌首をもたげるコブラの中央に円形の太陽円盤を配して、頭部と尾の部分を二分するもの〕である。したがって、〔中央の太陽円盤〕は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を図案化したものであり、〔頭部と尾に二分されるコブラ〕は「鬼の姿に似る銀河」を図案化したものである。
 前回の〔31〕において解説した〔球形の糞を転がすスカラベの姿〕に相似する「夏の銀河の西南部とさそり座α星(アンタレス)にかけての銀河」の形状もまた「コブラと太陽円盤」となった。

 「夏の銀河の西南部」は“巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”であるから「太陽円盤」をあらわすものとなる。
 私は「夏の銀河の西南部」を凝視していた時、おもわずギョットして目をそむけて瞬間的に恐怖におそわれたことがある。まるで生きているがごとく、「夏の銀河の西南部」が「毒の牙をむきだして口を開ける獰猛(どうもう)なヘビの頭」に観えたからである。
 これゆえ、「夏の銀河の西南部とさそり座α星にかけての銀河」もまた「聖なるコブラの飾りと太陽円盤」の字源であると考えるべきことになる。
 前述したように、〈ヘベル〉と発音する「~に成る」と意味する語に使用される「口」の字源は「スカラベが糞を転がす姿に相似する夏の銀河の西南部」であった。この「口」の字源は「コブラが鎌首をもたげるコブラの口にそっくりな夏の銀河の西南部」でもあった。だから、〈ヘベル〉と発音する上に「スカラベ」・下に「口」の文字を並べる語は「スカラベの姿に成る」、「コブラの頭の形に成る」から「~に成る」と意味することになったのである。
 〈ネメス〉と発音する「王の鬘(かつら)」と称されるヒエログリフは〔鎌首をもたげるコブラと王の鬘〕を組み合わせて図案したものである。
 「青色の王冠」と称されるヒエログリフは〔鎌首をもたげるコブラと王冠〕の組み合わせである。
 この「王の鬘」と「青色の王冠」のヒエログリフの字源は、①「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と鬼の姿に似る銀河」であり、②「夏の銀河の西南部とさそり座α星にかけての銀河」ということになる。

 28回前の〔〕で解説したように、竜安寺の石庭の合計15個の石を5群に分ける石組と白砂の平庭(ひらにわ)と油土塀(あぶらどべい)とそのほかの構造体は、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bの銀河からすべての文字が作られたと証言する。
 この竜安寺の石庭が証言するとおり、拙著の資料Bの銀河からすべての漢字、そしてすべてのヒエログリフが作成された。
 竜安寺の石庭は――ヒエログリフも漢字も、資料Bの銀河を観て、イメージ(映像、心像)で考える能力に優れる創造力の源泉となる右脳によって作られた――と証言する。

 古代エジプトでは、資料Bの銀河にあって学問的に芸術的に特に重大な銀河部は【神】となった。
  ゆえに、【特に重大な銀河各部】は【神】となり、そして【文字・ヒエログリフ】となった。
 そして、資料Bの【銀河各部の形状】から【神以外のさまざまなヒエログリフ】も作られ、その字数は600字から1000字とも言われている。
 表意文字も表音文字も【銀河各部の形状】から生まれた。
 エジプト王朝は、【神】となった銀河各部の名称を定めなかった。
 天地創造神話はじめ、神々に名前をつけて神話を作り、ヒエログリフの字源となる銀河各部の形状を示す仕組みにした。
 「トキの姿に似る銀河」は学術と芸術と文字の秘密を知ることができる中枢(ちゅうすう)部となる銀河各部が連結する領域であった。これゆえ、学術と芸術と文字のトト神はトキの頭を有することになり、トキの像や「トキ」を図案化したヒエログリフは「トト神」をあらわすことになった。「トキ」が「トト神」をあらわすことになったのは、【特に重大な銀河の形】は【神】であったからである。つまり、【トキの姿に似る銀河】は【トト神の姿】をあらわすものであった。
 古代エジプト人たちは天頂にめぐってくる銀河部にいちばん大事な命を委(ゆだ)ねた。ゆえに、精密に天頂緯度が測定できる銀河部は【神】であった。「夏の銀河の東北部」は〔糞を球形に丸めて地面を転がす昆虫のフンコロガシ・スカラベの真上から見た姿〕に相似し、エジプト全域の天頂緯度を測定できる物差しとなった。また、フンコロガシの姿は〔黄道〕が通過する「夏の銀河の西南部」の形にも相似する。だから、「フンコロガシの姿に似る銀河」は天文学において重大となったため、神々の中で最も位が高い太陽神のシンボルとなった。
 天の北極は、オシリスやホルスはじめとする神々の姿になった銀河はじめ、トキの姿に似る銀河、フンコロガシの姿に似る銀河などが輪の形を描いて運行する中心となる。しかし、この神々の輪の運行の中心となる、天体の運行を支配する”天帝”ともいうべき「天の北極」は【神】にはならなかった。天の北極の高度で緯度換算する方法だと、緯度(位置)と方角が不明になって旅の途中で野垂(のた)れ死にして命を失うからであった。
 エジプト王朝は〔黄道〕を示すフンコロガシは【神】と定めた同様に、二分二至(春分・夏至・秋分・冬至)を示す目星となる北斗七星の第5星の【ε(エプシロン)星】を【神】と定めた。5回前の〔27〕で解説したように、〈ヘペシュ〉と発音する6字で構成される語は「北斗七星のε星」であった。ギザの3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された紀元前2500年において、「北斗七星のε星」は春分の日の午後6時と冬至の午前零時に上経過(天の北極と天頂との中間の子午線経過)し、秋分の日の午後6時と夏至の午前零時に下経過(天の北極と地平線の北との中間の子午線経過)した。〈ヘペシュ〉と発音された「北斗七星のε星」を意味する6字で構成される語の決定詞は表意文字の「神」である。ゆえに、「北斗七星のε星」は確実に【神】であった。
 「コールサック」の形は〔扁平な鎌首をもたげて怒るコブラの姿〕に相似し、いわゆる“真っ黒な石炭袋”である「コールサック」にあって輝く小さな星たちはエジプト全土の天頂にめぐってきて、精密に緯度が測定できる目星となった。そして、「コールサック」は〔女性の生殖器官〕に見立てられるものであった。ゆえに、医学的に特に重大な銀河部であったので【神】となった。だから、最も位が高い「女神ウアジェト」は「コブラの姿」で示された。
 このように、古代エジプトでは【銀河各部の形状】は【文字】であり、【特に重大な銀河の形や星(北斗七星のε星)】は【神】となった。
 古代エジプトでは、【文字】は【銀河各部の形状】として存在したのである。

 今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に我が国に伝来した【夏音文字】もまた【銀河各部の形状】として存在するものであった。この【銀河各部の形状】が確かに【文字】であったことは、複雑なパターンの認識や処理をおこなう“芸術”と称される方法ならば再現することができ、また後世に事実であったと伝えることができた。
 この芸術の方法で【銀河各部の形状】が【文字】であったことを伝えるのが、竜安寺の石庭である。
 また、ドイツの建築家のブルーノ・タウト(1880-1938)が絶賛して世界のその存在を伝えた桂離宮の庭園も、【銀河各部の形状】が【文字】であることを明確に証言する。
 ブルーノ・タウト著╱篠田英雄訳『画帖 桂離宮』(岩波書店)は、桂離宮の庭園について下記のごとく指摘する。
 「このように御庭の諸部分は著しく分化していながら、しかもすべて相集まって一個の統一を形成している。ここに達成された美は、決して装飾的なものでなく実に精神的意味における機能的な美である。この美は、眼をいわば思考の変圧器にする、すなわち眼は、見ながらにしかも思考するのである。」
 【文字】は【銀河各部の形状】として存在したことを証言するには、上記のタウトが桂離宮の庭園について指摘したようになる。このことは、竜安寺の石庭でも言えるることである。
 竜安寺の石庭においては、5群の石組が15個の石で分化して銀河各部の形状をあらわし、5群の石組と苔(こけ)と白砂の平庭と油土塀とそのほかの構造体(知足の蹲い、鏡容池、雨落ちミゾ、磚、濡れ縁、方丈の間)も、すべての文字が作られた秋の銀河・夏の銀河が一つの帯となって最も高くそびえる銀河に統合されるようになっている。石庭の美は、決して装飾的なものでなく、かつて【銀河各部の形状】は【文字】であったことを証言し、どうしても夏音文字を廃絶(はいぜつ)できなかった日本民族の熱い魂の歴史の秘密を伝え、この世の真理について思索(しさく)する精神的な美を追求した、個々の石・石組の字源の情報が他の石・石組あるいは全体にひろがるように機能的に組織されるようになっている。石庭を見る人の眼は銀河を観る眼であり、【文字】を〔左脳があつかう言葉から生まれたもの〕としてでなく思考の変圧器で〔右脳があつかうイメージから生まれたもの〕に変え、そして眼は、石庭を見ながら右脳で思考する仕組みになっている。 
 また、金閣寺の庭園も【銀河各部の形状】が【文字】であったことを証言する文化遺産である。
 ヒエログリフが銀河から作られた真実は、竜安寺の石庭、桂離宮の庭園、金閣寺の庭園で確かなことになる。
 

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2012年1月 4日 (水)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・31

 古代エジプトでは、小さな虫の「タマオシコガネ」つまり“フンコロガシ”が、神々の中で最も位の高い太陽神のシンボルとされた。
 このような小さな昆虫が尊重され神聖視された事情は、ヒエログリフが銀河から作られたからである。
 糞(ふん)を丸めて地面に転がすフンコロガシがなぜ神々の仲間入りができたのか、この事情は我が国の史書『古事記』序の冒頭に記述されている。この『古事記』序の冒頭の記事は、現代語訳すると下記のごとくになる。
 「およそこの世の歴史の始まりにありましては、混沌(こんとん)たる天地万物の根元をとらえることができる知性がとうとう凝り固まって芽生えましたが、万物の生(いのち)あるものを形にしてとらえることができる芸術のきざしは、いまだ起源していませんでした。それゆえ、天と地は一体化されて区別もないものとして草創期・早期の縄文時代に作られた土器には表現され、天上の銀河各部には名も無く、名をつける術(すべ)も無く、銀河各部に個性的な形があるものとして考えられていませんでした。しかしながら、天と地が初めて区別されるようになって、6000年前の前期縄文時代には天頂にめぐってくる銀河の形にもとづいて天之御中主神(あめのみなかのかみ)という名をつけ土器を作って敬うようになり、5000年前の中期縄文時代には天頂にめぐってくる銀河の形から高御産巣日神(たかみむすひのかみ)という名をつけて芸術性豊かな造形で飾られる土器や土偶(どぐう)を作って神聖視するようになり、4000年前の後期縄文時代には天頂を通過した銀河の形状にもとづき神産巣日神(かむむすひのかみ)という名をつけて崇拝して多数の土器や土偶などが作られて、神の姿形(すがたかたち)を表現する参神造化(さんしんぞうか)の芸術が起源しました。」
 この後期縄文時代初頭、大海を越えて日本列島に渡ってきた名門益氏の王子と若者たちの話す夏音は縄文人たちにとってまったく意味不明で理解できなかったが、益氏がもたらした夏音文字の学芸は参神造化の知識を有する芸術家たちによって習得されることとなった。

 フンコロガシの姿に相似する銀河は、エジプト全土の最北端から最南端までの各地の緯度が精密に測定できる物差しとなった。ゆえに、その銀河は“フンコロガシの形に相似する”と知られるようになり、フンコロガシは神聖視されて地位の高い太陽神として崇拝されることになった。
 旅するとき、我ら日本民族の祖先も古代エジプト人も、天頂に位置する銀河から精密に緯度を測定すれば、道に迷わって途中で野垂(のた)れ死せずに命をまもることができて家族が待つ家に帰ることができた。だから、天頂にめぐっくる銀河は地上に住む人々のいちばん大事な命を委(ゆだ)ねる“神”となった。この“神”を地上に存在する事物の形を用いて形が有るものとし、名をつけて【神】と敬った。
 今から6000年前から以後、最北端から最南端までの約10度の緯度となる広大なエジプトの各地の天頂にめぐってくる銀河の形は、真上からフンコロガシを見た形に相似する。だから、フンコロガシは【神】と崇拝され、フンコロガシの姿は図案化されてヒエログリフとなった。
 このように、銀河から【神】と【ヒエログリフ】が作られ、この【ヒエログリフ】によって古代エジプトの学術と芸術を高められ、そして国家が繁栄することになった。

 エジプト全土の天頂を通過する銀河の形は“フンコロガシ”すなわち「スカラベ(タマオシコガネ)」の真上から見た姿に相似する。ゆえに、真上から見た「スカラベ」の姿は図案化されて文字となった。
 真上から見た「スカラベの姿」を図案した表意文字は〈ヘベル(hpr)〉と発音する。この〈ヘベル〉と発音する「スカラベの姿」を図案する文字は、「スカラベ」を意味する〈へペレル(hprr)〉と発音する語の中の決定詞として使われる。

 「スカラベの姿」をデザインする絵文字は、中央に頭・羽を有する胴体を描く。スカラベの頭には、太陽の光線のように観えるのこぎり(鋸)状のギザギザがある。
 「スカラベの姿」を図案する文字の最上部は糞を丸めて地面を転がす前足の図案を配し、最下部に後ろ足の図案を配する。
 前回の〔30〕にて、学術と文字の神「トト」をあらわす文字の字源は「トキの全身の姿(側身形)に似る銀河」であると証明した。
 この「トキの全身の姿に似る銀河」はじめ「コールサック」、「コールサックの東隣の銀河」、「十字の銀河」が一塊(ひとかたまり)となる銀河の形は、真上から見たスカラベの前足から後ろ足までの姿に相似する。
 そのうち、「トキの全身の姿に似る」・「コールサック」・「コールサックの東隣の銀河」がスカラベの頭と羽が生える胴体の形に相似する。
 「スカラベの前の両足」は「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河の北隣の銀河」の形に相似する。
 「スカラベの後ろの両足」は「トキの肢の形に相似する銀河」と「鷲(わし)座α(アルファ)星・アルタイルより北側の銀河」の形状に相似する。

 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は、「スカラベの頭にある光線のように観えるギザギザ」の位置に相当した。
 この「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザ」の位置に合致する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は、古代において、エジプトの北限となるナイル川河口北端(北緯31度35分)の天頂にめぐってきた。
 (ただし、精密にいうと、「北アメリカ星雲の南端」がナイル川河口北端の天頂にめぐってきた)。
 また、「スカラベの後ろの両足に似る銀河」は、エジプトの南限の境界線地域(北緯21度38分~北緯22度)の天頂を通過した。
 したがって、古代において子午線経過する「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザの位置から後ろ足までの銀河」は、〔エジプト全土の最北端から最南端までの天頂〕にほぼ合致して位置した。
 ゆえに、「スカラベの姿に似る銀河」が子午線経過したとき、エジプト全土の各地の緯度を測定できる物差し(羅針盤)となった。

 なお、上記の「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザから後ろ足までの銀河」が子午線経過するときに〔エジプト全土の最北端から最南部までの天頂〕に合致したのは、紀元前3000年の第1王朝から紀元前2180年の第6王朝末期までであった。
 「スカラベの頭の光線のように観えるギザギサ」に相当する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は次第に緯度が高くなった。このため、紀元前2180年から始まる第7王朝は、第1王朝から第6王朝の首都メンフィスより南の北緯28度35分のヘラクレオポリスに遷都(せんと)した。
 「長方形の暗黒天体部」の南部の東西の辺に二つの菱形の枡(ます)が連なる。この二つの菱形枡の上下の枡の連結部は、ナイル川河口北端の天頂にめぐって「北アメリカ星雲の南端」より3度南となる。ゆえに、第7王朝はナイル川河口北端より3度南のヘラクレオポリスに首都を遷(うつ)したのである。
 〔歳差〕という天文現象によって、「スカラベの姿に似る銀河」の緯度の距離が伸びて次第に長くなった。ということは、「スカラベの姿に似る銀河」はあたかも横になって寝ていた人が徐々(じょじょ)に徐々にゆっくりと起き上がって次第に立ち姿になる状況であったことになる。徐々に徐々にわずかずつ「北アメリカ星雲」の緯度は高くなった。
 「スカラベの姿に似る銀河」の尻の部分は白鳥座β(ベータ)星がある。この白鳥座β星の緯度は、徐々に徐々にわずかずつ逆に低くなった。
 『魏志倭人伝』の末部に登場する壱与(いよ)・伊耶那美命(いざなみのみこと)が生存した西暦250年頃における「北アメリカ星雲」は、紀元前3000年の第1王朝よりも3度10分ほど高くなった。逆に、白鳥座β星は緯度が3度40分低くなった。
 第1王朝時代と250年の「スカラベの姿に似る銀河」の大きさは変わらない。にもかかわらず、その3250年の間に「スカラベの姿に似る銀河」の緯度が6度50分も増大したということは、前述したように子午線の方向に合致するように起き上ったことになる。
 この結果、250年になると、ナイル川河口の北端の天頂に「北天の最輝部」がめぐってきた。この「北天の最輝部」は「スカラベの胴体の上部」に相当する。
 (なお、250年当時、「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザ」に見立てられた「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は北緯42度のローマの天頂を通過していた)。
 以上のように、西暦3000年から250年まで、「スカラベの姿に似る銀河」は〔エジプト全土の最北端から最南端までの天頂〕を覆(おお)っていた。
 紀元前30年、クレオパトラ7世がローマの属州になって、エジプト王朝は滅亡した。
 したがって、エジプト王朝が滅亡するまで、「スカラベの姿に似る銀河」を仰いで天頂緯度測定すれば、エジプト全土の各地の緯度が精密に測量できた。

 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bは、すべてのヒエログリフと漢字が作られた銀河の全域を示す。
 この資料Bの写真において、「夏の銀河の東北部」と記した領域が「スカラベ」の字源となった「スカラベを真上から見た姿に相似する銀河」である。

 この資料Bの写真の右下の巨大な球形の銀河を、私は「夏の銀河の西南部」と名づけた。
 9回前の〔22〕で説明したように、「夏の銀河の西南部」の中央に「銀河系の中心」がある。
 この「銀河系の中心方向」に無数の星が群がり星間物質が入り乱れるので、「夏の銀河の西南部」は渦を巻いてわきあがる入道雲のように迫力に満ちた圧倒的な形をしている。「ホルスの眼」の〔瞳〕にして「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザ」に見立てられた「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」もまた〔渦巻きの形〕となる。
 ゆえに、「夏の銀河の西南部」は“巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”ということになる。

 この資料Bの上を下に・下を上になるように180度転回すると、“巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”となる「夏の銀河の西南部」は〔球状に丸めた糞と、この糞を転がすスカラベの姿(側身形)〕に相似する。
 つまり、資料Bに「巨龍の銀河」と記した部分が「自分の身長よりも少し大き目に丸めた糞を転がすスカラベ」に、「夏の銀河部の西南部」が「球形に丸めた糞」に観える。
 この「糞を転がすスカラベの姿に似る銀河」の西側に、さそり座のα星・アンタレスが輝く。この「スカラベの姿に似る銀河」における〔スカラベの姿〕は東から西のアンタレスがある方へ向かって糞を転がして行くように観える。
 太陽はじめすべての天体は、天の北極を中心にして東から西へと円周運動をする。ゆえに、「夏の銀河の西南部」の〔糞を転がすスカラベの姿〕はまるで太陽を転がすかのように観える。
 さらに、さそり座α星・アンタレスから「糞を転がすスカラベの姿に似る銀河=夏の銀河の西南部」にかけて、「黄道(こうどう)」つまり「天球上において太陽が通過する道」が通過していた。だから、「夏の銀河の西南部」の〔糞を転がすスカラベの姿〕は〔太陽を転がすスカラベの姿〕に観えたのである。

 マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『[図説]ヒエログリフ事典』(創元社)の116頁は、古代エジプト人のスカラベへの思いを、ローマ帝政期のギリシャの文人・プルタルコス(46?-120?)が下記のごとく述べていると記述する。
 「彼らによるとスカラベにメスはいない。すべてはオスで、球形に丸めたある種の物質に精子をまき、天空を横切る太陽にまねて、その球を転がして歩くという。」
 〔糞を転がすスカラベの姿〕に相似する「夏の銀河の西南部」に、「太陽が通過する道」の「黄道」が通過する。
 また、黄道の北側を「天の赤道」も通過していた。
 だから、〔糞を転がすスカラベの姿〕に観える〔さそり座α星・アンタレスと球形の夏の銀河の西南部〕は「スカラベが球形に丸めたある種の物質に精子をまき、天球(夏の銀河の西南部)を横切る太陽をまねて、その球を転がして歩く」と信仰されることになったのである。

 9回前の〔22〕で解説したように、「夏の銀河全像(夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部)」はライオンの顔よりもちょっと長いが〔ライオンの横顔〕に相似する。大スフィンクスが建造された4500年前の春分の日の午前零時の2時間後の午前2時、美しい二重星のヘレクレス座のα星・ラスアルゲチが、クフ王のピラミッドの天頂で輝いた。このラスアルゲチは、「夏の銀河全像」が相似するライオンの横顔の鼻先に隣接する。これゆえ、クフ王のピラミッドからライオンの横顔に相似する銀河の鼻先にあるラスアルゲチが位置する方角(南南東)に、ライオンの座像に似せて作られた大スフィンクスが建造された。
 このラスアルゲチと「黄道」の中間を、「天の赤道」が通過した。
 「黄道」は“巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”となる「夏の銀河の西南部の北部」を通過した。
 「天の赤道」は、“巨大な「ホルスの眼」のうちの目頭(めがしら)あるいは目尻のほうにある白目(しろめ)”となる部分を通過した。いいかえると、「天の赤道」は「夏の銀河全像が相似するライオンの開ける口」となる部分を通過した。
 また、「黄道」も「夏の銀河の西南部の北部」も「夏の銀河全像が相似するライオンの開ける口」となる箇所を通過した。

 「天の赤道」は緯度0度(地球の赤道)の天頂にめぐってくる。
 「夏の銀河全像が相似するライオンの開ける口」に、「天の赤道」と「黄道」が通過していた。この「ライオンの開ける口」を通過する「天の赤道」の南を「黄道」が通過した。
 このような「ライオンの開ける口となる銀河」が子午線経過するとき、「真上から見たスカラベの姿に似る銀河」はエジプトの東から東北東30度の天空に位置した。
 「真上から見たスカラベの姿に似る銀河」は「夏の銀河全像が相似するライオンの横顔における目・鼻よりの上のたてがみ」の箇所に位置する。
 これゆえ、「ライオンの開ける口となる銀河」が子午線するとき、「真上から見たスカラベの姿に似る銀河」が上(北)、「ライオンの開ける口となる銀河」は下(南)に位置することになる。

 ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の89頁に、〈ヘパル(hpr)〉とする「~に成る」と意味する語が記載される。
 この語は2字で構成され、上に表意文字の「スカラベ」を下に〈ル(r)〉と発音する「口」を意味する語に用いられる「口」を図案化した表意文字が配置される。
 この上の「スカラベ」の字源は「真上から見たスカラベの姿に似る銀河」であり、下の「口」の字源は天の赤道と黄道が通過する「ライオンの開ける口となる銀河」であるにちがいない。
 「太陽が通過する道」すなわち「黄道」は「糞を転がすスカラベの姿」に観える「夏の銀河の西南部」を通過する。この「夏の銀河の西南部」は「ライオンの開ける口」である。
 だから、「~に成る」の語に使われる「口」の文字の字源は「糞を転がすスカラベの姿に似る夏の銀河の西南部」であると考えるべきことになる。
 この「~に成る」と意味する語を構成する下の「口」の字源銀河の「夏の銀河の西南部」の形状は、上に配した「スカラベ」のごとく「糞を転がすスカラベの姿に成る」。
 
ゆえに、上に「スカラベ」、下に「口」の文字を配する語の意味は「~に成る」となったのである。

 『図説 古代エジプト文字入門』の2字で「~に成る」と意味する語の上に、5字で〈ヘペレル(hprr)〉と発音する「スカラベ」を意味する語が記載される。
 この語の決定詞は右端の真上から見た「スカラベ」を図案化する表意文字である。
 この「スカラベ」の左隣は2字とも同じ「口」を図案化した文字が上下に並ぶ。
 下の「口」の字源は「ライオンの開ける口となる銀河」である。この「黄道」が「ライオンの開ける口となる銀河」は”巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”となる「夏の銀河の西南部」であり、「天の赤道」が通過する「ライオンの開ける口となる銀河」は”巨大な「ホルスの眼」の目頭または目尻のほうにある白目”である。
 ゆえに、上の「口」の字源は表意文字「ホルスの眼」の字源となる「目の形に似る銀河」とであると考えられる。「ホルスの眼」の〔瞳〕となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の東隣の暗黒天体部」は「ホルスの眼の目頭のほうにある白目」に相当し、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲の西隣の暗黒天体部」は「ホルスの眼の目尻のほうにある白目」に相当する。このように、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と東西の暗黒天体部」は〔目の形〕に相似する。

 『図説 古代エジプト文字入門』の58頁に、〈イレト(irt)〉と発音する「目」という語を意味する、決定詞の「目」と表音文字2字の計3字で構成される語が記載される。この表意文字「目」の字形においては、〔白目は白く、瞳は黒く塗りつぶされる〕。この「目」の語の右横は〈イル(ir)〉と発音する「行う」を意味する、表意文字「目」の異体字(いたじ)である。この「目」の異体字の字形は、「瞳となる北アメリカ星雲・ペリカン星雲と白目となる東西の暗黒天体部」と同様に、〔白目は黒く、瞳は白く〕デザインされる。つまり、この〈イル〉と発音する「目」の異体字は〔夜、天頂緯度測定を行う〕ことから「行う」を意味することになったにちがいない。

 説明をもとにもどし、5字で「スカラベ」を意味する語に使用される上下の2字が同じ「口」の字源の秘密を解説する。
 表意文字「目」の字源となる〔北アメリカ星雲・ペリカン星雲が瞳、東西の暗黒天体部が白目〕となる「目の形に似る銀河」は、表意文字〔口〕の字源でもあったのである。
 というのも、表意文字「口」の字形は表意文字「目」の字源「目の形に似る銀河」に似せて作られているからである。
 5字で「スカラベ」を意味する語に使用される、二つの「口」の文字における上の「口」は「ホルスの眼」と「目」の表意文字の「行う」を意味する異体字「目」の字源となった「目と口の形に似る銀河」ということになる。
 だから、上の「口」の字源は「ホルスの眼」の字源となった「口の形に似る銀河」、下の「口」の字源は“巨大な「ホルスの眼」の白目”となる「天の赤道」が通過する「ライオンの開ける口となる銀河」であったことになる。
 この二つの「口」の表意文字の左隣、いいかえると「スカラベ」を構成する語の左端には、上に「黒い円●の中に横に3本の白線が入る」文字を配し、下に「黒塗りの長方形の中に6本の短い白線が2列に並ぶ」文字を配列する。
 この上の「●の中に3本の白線が入る」文字は「黄道」をあらわすと考えられる。
 つまり、上の線は「天の赤道より北側(上)となる夏至点周辺の黄道」を、中央の線は「天の赤道と黄道が交わる春分点と秋分点周辺の黄道」を、下の線は「天の赤道より南側(下)となる冬至点周辺の黄道」を示すものと考えられる。
 前回の〔30〕にて指摘したように、エジプト暦は夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に、おおいぬ座α星・シリウスが東の空に姿をあらわすを基準とする太陽暦にして恒星暦であった。ゆえに、下に配する「黒塗りの長方形の中に6本の短い白線が2列に並ぶ」文字は「正午の太陽の高度、午前零時の測量、日の出における太陽の方角、日の出直前のシリウスの位置を測量するために使用された道具」を図案化したものではあるまいか。
 あるいは、前述した「スカラベの姿に似る銀河」の傾き(起き上がる様子)の変化を測量する道具であったのかもしれない。紀元前3000年から250年までの3250年間に、「スカラベの姿に似る銀河」の緯度は6度50分も増大した。そうすると、「スカラベの姿に似る銀河」の傾きは10年間に1分18秒ずつ緯度が増えたことになる。このような1分18秒の変化ならば、特別に優れる目を有する人や「スカラベの姿に似る銀河」の傾きの変化を測量する役職に任命された天文士ならば日々眼力を鍛錬して感覚を研ぎ澄ましたにちがいないので、キャッチできたことになる。

 以上のように、〈ヘペレル〉と発音する5字で「スカラベ」を構成する語は――エジプト王朝では「スカラベは天空を横切る太陽にまねて球形に丸めた糞に精子をまいて歩き、糞の中から次々と子どもを生むようにして、永遠に命を受け継ぐ神聖な生物である」と見立てていた――と表示するものとなる。
 ゆえに、上に青い太字に示したプルタルコスが記述した古代エジプト人のスカラベへの思いは「スカラベが球形に丸めたある種の物質に精子をまき、天空を横切る太陽にまねて、その球を転がして歩く」という文になったのである。
 そうすると、スカラベを神々の中で最も位の高い太陽神のシンボルとするエジプト王朝においては太陽の日周運動は永遠に続くと考え、子どもたちは次から次へと生まれて、エジプトは永遠に滅亡しないと考えていたにちがいない。

 古代エジプトでは、【文字】となった【銀河】は【神】となった。
 ゆえに、①エジプト全土の天頂にめぐってきたスカラベの姿に似る【秋の銀河と夏の銀河の東北部】と②糞を転がして歩くスカラベの姿に似る【夏の銀河の西南部)】は神聖視され、スカラベは【黄道】と結びつけられて神々の中で最高位の太陽神のシンボルとなったのである。

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2012年1月 1日 (日)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・30

 前回に続いて、フランスの言語学者のジャンフランソワ・シャンポリオンがロゼッタストーンに刻まれたヒエログリフを解読した文字の秘密の解明を行う。

 シャンポリオンは、最初に3字で記す「ラメセス(Rameses)」という大王の名を解読し、次に3字からなる「トトメス(Thotmeses)」という大王の名を解読した。
 前回ではに、「ラメセス」の3字の秘密を解説した。
 「ラメセス」の〈メセス〉と「トトメス」の〈メス〉は同じ2字の表音文字の〈メス(mes)〉と〈ス(es)〉である。この2字の字源については、前回で解説した。
 しかし、「トトメス」の〈トト(Thot)〉の字源については、16回前の〔14〕で説明したものの、説明が不十分なままで終わった。

 「トトメス」の〈トト〉と発音する文字は、「朱鷺(とき)」の姿を図案する。
 この絵文字は、決定詞として「朱鷺」を意味する〈ヘブ(hb)〉につく。表意文字または決定詞としてトト神の名前〈ジェフゥティ(jhwti)〉を構成する文字の中に使われる。
 トト神のモデルとなるアフリカクロトキは、エジプト美術では、パピリスが生える湿地や川を描いた場面に登場する。パピリスはナイル川の両岸に密生する大型の水草である。パピリスには非常に多くの用途があり、これを編んで籠(かご)や舟を作ったほか、槌(つち)でたたいて延ばして最初の紙が作られた。紙(ペーパー)という語は、パピルスに由来する。

 〔14〕で指摘したように、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」の額(ひたい)の部分は「北天の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる〔北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部〕である。この「北天の最輝部」は銀白色に輝く。この銀白色に輝く「北天の最輝部」は〔ボウリングのピンポ〕のような形であるので、〔ボウリングのピン〕のような形をした「白冠(しろかんむり)」の王冠のモデルと「白冠」をあらわさす文字の字源となった。白冠は上エジプトの王を示す王冠であった。この上エジプトの王は、上下エジプトの2国を統一する王であった。

 「白冠」のモデルとなった銀白色の「北天の最輝部」は、部分的に朱鷺色の靄(もや)がかかったように美しく彩(いろど)られる。
 「北天の最輝部」から[く]の字に朱鷺の首のように曲がった東側に「北アメリカ星雲」がある。
 この「北アメリカ星雲」の明るい部分は〔桃の実の形に似て、熟した桃の実のごとく赤い〕。「北アメリカ星雲」の北側の「鬼の横顔に似る銀河」は〔桃色に輝く〕。
 朱鷺色と桃色は同色系統であり、〔朱鷺色〕にわずかだけ赤みを帯びた色が〔桃色〕である。
 これゆえ、日本では「朱鷺」を「桃花鳥」とも表記した。そのわけは、「北アメリカ星雲」が〔鳥の形〕に似ているからである。
 その証拠に、「桃花鳥」の語源となった「北アメリカ星雲」は〔急降下して獲物を空中攻撃するハヤブサの姿〕に相似する。ゆえに、「ホルス神」はハヤブサの顔を天空の神となった。
 「ホルスの眼」の左目は〔月〕を象徴する目、右目は〔太陽〕を象徴する目となった。
 「ホルスの眼」は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と隣接する東側と西側の銀河」が、〔人の目〕の形に相似する。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「人の目の形に似る銀河」の〔瞳〕に相当する。
 しかし、朱鷺の目は人間の目と異なって、円い。このため、「ホルスの眼」である「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔朱鷺の目〕に見立てることができる。
 ゆえに、これから「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をシンプルに「左目」あるいは「右目」と表現すると――
 「人の横顔に酷似する銀河」の方から見ると、「ホルスの眼」の字源銀河は「左目」となる。「十字の銀河」の方から見ると、「ホルスの眼」の字源銀河は「右目」となる。

 ホルス神の父は「人の横顔に酷似する銀河」がモデルとなるオシリス神である。この「人の横顔に酷似する銀河」を基準すると、「ホルスの眼」は〔月〕を象徴する「左目」となる。
 ホルス神の母はオシリスの妹であり妻であるイシス神である。
 古代エジプトにおいては、全天第一の輝星のおおいぬ座の光度-1.4等星のα(アルファ)星・シリウス「イシスの星」と称して崇拝された。つまり、イシス神はおおいぬ座シリウスの化身であった。
 今から約4900年前、エジプト暦は完成した。このエジプト暦は〔夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に、1年365.25日の周期のイシスの星(おおいぬ座のシリウス)が東の空に姿をあらわす恒星暦にして太陽暦〕であった。
 オシリスは死者の国の王であり、“夜の太陽”をあらわす太陽神とされ、再生(復活)の神であった。
 というのも、ヒエログリフの「オシリス」の字源となった「人の横顔に酷似する銀河」は夏の太陽光線のようにまばゆく銀白色に輝く「北天の最輝部」を有し、また「太陽」を意味する〈ラー(ra)〉と発音する太陽円盤の[◎]の字源部(白鳥座γ星を包囲する円形の銀河部)を有するからである。
 この〔恒星暦〕にして〔太陽暦〕にもとづいて、〔恒星〕のイシスの化身であるイシスは〔太陽〕(夜の太陽)の化身であるオシリスの妹にして妻となり、ホルスの母となったのである。

 エジプト暦の元日は夏至の日であった。
 直ぐ前の行で述べたように、オシリスのモデル「人の横顔に酷似する銀河」の頭髪の生え際には白鳥星γ(ガンマ)星が所在する。この「γ星を中心にして包囲する円形の銀河」は〈ラー〉と発音する「太陽」を意味するシンプルな太陽円盤[◎]の字源となった。
 ゆえに、オシリスは太陽円盤[◎]の化身となった。
 エジプト暦が完成した今から4900年前、[◎]の字源銀河部は夏至の午前零時の20分前(23時40分)に子午線経過し、3大ピラミッドが建造された今から約4500年前には夏至の日の午前零時に子午線経過した。
 この[◎]の字源銀河部(白鳥座γ星を中心にして包囲する円形の銀河部)が夏至の午前零時頃、あるいは午前零時に子午線経過した由来によって、オシリスは〔夜の太陽の化身〕となった。午前零時は古い昨日が死んで新しい一日が誕生するので、オシリスは再生・復活の神となったのである。
 エジプト暦の基準となったイシスの星は、夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に姿をあらわした。これゆえ、〔夏至の日の日の出直前〕の神となったイシスは「夏至の日の午前零時」を象徴するオシリスの妹にして妻となった。

 イシスの息子のホルスは、大スフィンクスの古称の「地平線のホルス」となった。
 イシスは〔夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に姿をあらわす女神〕と崇拝されたゆえ、「地平線」で共通する「地平線のホルス」という名称は〔ホルスがイシスの息子であること〕をあらわした。
 また、〔恒星暦〕にして〔太陽暦〕の基準となったイシスの星の女神イシスと、右目が〔太陽〕を象徴する「ホルスの眼」は「太陽」で共通する。
 というのも、「ホルスの眼」の瞳となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と3本の閃光(せんこう)を放つ線」は、光線を発している太陽円盤に図案化されて〈ウベン(wbn)〉と発音する決定詞となったからである。
 さらにに、「ホルスの眼」の〔瞳〕の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「朝日」をあらわす「地平線のホルス」であった。
 このように、ホルスもまた〔太陽暦〕と関連した。
 8回前の〔22〕にて解説したように、「地平線のホルス」は〔春分の日の日の出の時刻(午前6時)〕をあらわした。ゆえに、父オシリスが〔夏至の日の午前零時〕、母イシスが〔夏至の日の日の出〕を象徴する神に対して、息子の「ホルス」は〔春分の日の日の出〕を象徴する神となった。

 太陽が地平線から昇る〔東〕の「十字の銀河」を基準にすると、「ホルスの眼」は〔太陽〕を象徴する「右目」となる。
 〔夏至の日の午前零時〕の夜の神のオシリスのモデルとなる「人の横顔に酷似する銀河」を基準とすると、「ホルスの眼」は〔月〕を象徴する「左目」となる。
 前述したように、「ホルスの眼」の瞳となる「北アメリカ星雲」の明るい部分は①〔桃の実の形に相似して、熟した桃の実のように赤い〕。「北アメリカ星雲」の隣の「鬼の横顔に似る銀河の頬(ほお)」は②「桃の実の尻のような形にして桃色である〕。そして「鬼の横顔に似る銀河の頬より上部」は③〔桃の実の形に相似して桃色〕である。

 この〔桃の実に相似する3箇所〕は、『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)の黄泉国(よみのくに)訪問神話の後半部に登場する「桃の子三箇(みみつ)」という名になった。
 この「桃の子三箇」は、小国・日本の男王・伊耶那岐命が指揮する黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本の乱に参加した、日本軍の兵士と和歌山県の三熊野地方に住む徐氏の子孫の戦士たちである。
 小国・日本の女王にして倭国の女王となった“愛”の女王・伊耶那美命(いざなみのみこと)は、卑弥呼の墓を作った時に決行された百余人の奴婢(ぬひ)すなわち18才くらいの青年(奴)と13才くらいの乙女(婢)を殺して、卑弥呼の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)儀式を必ず廃止するよう、夫の伊耶那岐命に願って没した。
 ところが、後を受け継いだ倭女王・天照大御神は伊耶那美命の遺志を無視して、残虐きわまりない徇葬を決行した。
 それゆえ、伊耶那岐命と伊耶那美命に熱烈に憧れる日本兵と熊野の戦士たちは、熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造された伊耶那美命陵から棺(ひつぎ)を略奪する反乱をおこし、伊耶那岐命の指揮のもとに桃の子三箇は倭の大軍を黄泉比良坂の坂本(熊野速玉大社の境内)で撃破(げきは)した。
 『魏志倭人伝』末部に登場する「倭女王・壱与(いよ)」が「伊耶那美命」である。壱与は倭国の小国の伊耶(いや)国出身者であった。ゆえに、彼女が赴任した小国・日本の人民は“伊耶国の美しい女王”ということで「伊耶那美命」と愛称したのである。
 『魏志倭人伝』の後半部に登場する倭国と狗奴(くな)国との戦況を説明に帯方郡政庁を訪問して説明した、武将の「載斯烏越(そしあお)」が小国・日本の男王の伊耶那岐命であった。
 「鬼の横顔に似る銀河の頬より上部」は〔桃の実の形に相似して桃色〕であり、桃の実の尻の形に相似する「鬼の横顔に似る銀河の頬」は〔桃の花の花弁の一部の形〕のも観え、「北アメリカ星雲」は〔桃の実の形〕に相似し〔天から降下する鳥〕に相似し〔桃の花と台(うてな)の側面形〕に相似する。これゆえ、「朱鷺」は「桃花鳥」とも表記された。

 「桃花鳥」は「月」と同じく「つき」と読まれた。
 漢字において、「十字の銀河」の東隣の「三つ輪の銀河」は「朝日」に見立てられ、「十字の銀河」の真南にある「半円形の同心円の銀河部」は〔正午の高度を計測する柱の背後に隠れる正午の太陽〕に見立てられて[昼(〔晝)]の下部の「太陽」をあらわす字源部となった。
 (この[昼]の字源部となったのは「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の東端の銀河部」である)。
 そして、西側の円形の「北アメリカ星雲・ペリカン」は太陽が西に傾く〔夕〕をあらわすことになり〔満月〕に見立てられた。この〔満月〕の半分形に相当する、〔三日月〕の形に相似する「ペリカン星雲」が[夕]と[月]の字源となった。ゆえに、『説文解字』は[月]の字源を「闕(か)くるなり。太陰(たいいん)の精なり。象形」、[夕]を「莫(くれ)なり。月の半ば見ゆるに従ふ」と字源解説する。
 (なお、「鬼の横顔に似る銀河」の耳介(じかい)の方に所在する「北アメリカ星雲」は〔耳介〕の形に相似するということで、[耳]の字源となった。[門]に[耳]で[聞]の字となり、『説文解字』の[月]の字源解説に登場する[闕]も[聞]と同じく[門〕の部首を有する字となったのは、「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」の「中間の暗黒天体部」が[欠ける」と意味する[闕]の字源と〔外耳孔(がいじこう)〕すなわち〔耳の孔〕に見立てられたからである)。
 だから、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は海の暗い部分がある〔満月〕や〔満ち欠けする上弦や下弦の月〕に見立てられた。
 このようなイメージ解釈によって、「桃花鳥」は「つき」と読まれることになったのである。

 前述したように、 鬼の横顔に似る銀河」は〔朱鷺色にすこしだけ赤みを帯びた桃色〕である。
 「オシリス」のモデルとなった「人の横顔に酷似する銀河」は〔トキ(アフリカクロトキ)の翼がある胴体と尾〕に相似する。
 この「人の横顔に酷似する銀河から鷲座α(アルファ)星・彦星・アルタイルが所在する銀河周辺にかけての部分」は、〔トキ(朱鷺)の肢(あし)〕の形に相似する。
 「人の横顔に酷似する銀河から鬼の姿に似る銀河の中間の明るい銀河部」は〔トキの首〕の形に相似する。
 「鬼の身に相当する銀河」が〔トキの頭(顔)〕に相似する。
 しかも、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔トキの目〕に相似する。
 「鬼の横顔に似る銀河から長方形の暗黒天体部の東の辺」が〔トキの嘴(くちばし)〕の形に相似する。
 「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は〔トキの嘴〕となる「長方形の暗黒天体部の東の辺」と交錯して連結する。〔トキの肢〕の部分と交錯する「コールサック」は「ナイル川」に見立てられてた。ゆえに、この部分は〔トキが生息したナイル川や湿地〕をあらわす。
 太い青い字で上記したように、ナイル川の両岸には、広い範囲でパピリスが密生していた。
 「長方形の暗黒天体部」は〔パピリスの茎の外皮をはがして、何枚も重ねて槌でたたいて延ばし固めた最初の紙〕の形に相似する。
 「鬼の横顔に似る銀河」と「人の横顔に酷似する銀河」は、〔パピリスで作った舟〕の形に相似する。
 「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」と連結する上南・下北の台形に観える「長方形の暗黒天体部」は〔パピリスで作った籠〕の形に相似する。

 漢字では「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は〔水中に潜(もぐ)る龍〕に見立てられて「潜龍(せんりょう)」の語源となり、竹で編んで作った[籠]の字源となった。
 (なお、「潜龍」という語は「皇太子」を意味して、『古事記』序に記載される)。

 上記に記述した〔トキの全身の姿に似る銀河〕と同じ側身形に、決定詞の「トキ」を意味する表意文字は図案化される。
 また、〔トキの全身の姿に似る銀河〕と同じトキの姿をした多くの彫像が信仰の対象として作られた。
 多くの絵画、彫刻においてトキの頭を有する人の姿をしたトト神が造形されたが、トキそのものをトト神の象徴として表現された。
 ということは、〔トキの全身の姿に似る銀河〕こそが「トト神」であったことになる。

 〔トキの全身の姿に似る銀河〕は、すべてのヒエログリフが作られた字源銀河部の中心部となる。
 ヒエログリフの読み書きができる人物は“書記”と呼ばれ、パピリスで作った紙に文字を書いた。
 だから、トキの頭をしたトト神は、書記および筆記する行為の守護神となった。
 「ホルスの眼」が〔月〕を象徴する「左目」になるように、〔トキの尾〕に相当する「人の横顔に酷似する銀河の首」の部分が天頂にめぐってきた時に、「トキの全身に似る銀河」をキャッチできる。だから、トトは月の神となった。
 ヒエログリフを修得するに女性の生殖器や人体の仕組みはじめ天文学や動植物の知識などが必要となり、銀河から文字を作りまた先人が銀河から作った文字の字源を理解しなければならなかったので、トト神は学術(科学)と芸術の神となった。
 人間の目は、本人の意志にかかわりなく、周囲の明るさに応じて瞳孔の直径が1.5mm~8mmくらいまで縮小し、拡大する。視界の中に光がまったく入らないように暗闇の場所から銀河を観察すると暗い部分まで見え、視界の中に明るい光が入る場所から観察すると暗い部分が見えなくなって銀河全像の形が見えなくなる。真っ暗い場所においた物は見えないが、明るい場所に設置した物は見える。しかし、真っ暗い場所にしばらく止まっていると、瞳孔径が拡大して見えなかった物が見えるようになる。暗い場所と明るい場所で見た銀河の形は相違する。また、天頂緯度測定において、明るい場所だと精密に測定できないが、崖下や人里離れた木陰などの真っ暗い場所あるいは大きな帽子や冠で目に入る光を遮断(しゃだん)すれば、精密に測定できて遠い地に旅しても無事に家に帰ることができた。このような瞳孔径の仕組みは、古代の人々には不思議な“魔法”であった。ゆえに、銀河から作られた文字の神・トトは“魔術の神”にもなった。

 上記したように、「ホルスの眼」の字源の中心部となる円い「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔トキの全身の姿〕のうちの円い「トキの目」すなわと「トト神の目」となった。
 エジプト神話によれば――ホルスは、父オシリスを殺害した叔父のセトに片目をくりぬかれた。その目は切り刻まれ捨てられたが、トト神が辛抱づよくその切り刻まれたホルスの眼を集め、もとにもどしたという。
 この神話にもとづいて、表意文字にして決定詞の「ホルスの眼」は穀物の計量単位をあらわす6つの分数を示す文字となった。この6つの文字は、①1╱2、②1╱4(ホルスの眼=トトの目の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」)、③1╱8、④1╱16、⑤1╱32、⑥1╱64であるが、この6つの分数の和はトトによって復元された全体の1とならなければならない。しかし、合計は63╱64となって、1╱64だけ不足となる。この不足となる1╱64は“トトの魔術”が補ったとされる。
 「トキの目=トトの目」は「ホルスの眼」の〔瞳〕である。
 この「ホルスの眼」の〔瞳〕は「計量単位の1╱4」となる文字[○]の字源は、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
 この「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の中央部は欠け、「暗黒天体部」となる。
 したがって、「暗黒天体部」で欠ける「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔叔父のセトに切り刻まれた瞳〕となる。
 「計量単位の1╱4」の文字[○]は〔切り刻まれた「ホルスの眼」の瞳〕となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の形状と異なって、〔切り刻まれない瞳〕をあらわす〔トキの目〕の同じ円形(○)である。したがって、「計量単位の1╱4」の字形の[○]は〔トトによって復元されたホルスの瞳〕をあらわすものとなる。
 ゆえに、「ホルスの眼」から生まれた6つの文字には、円形(○)の〔トトの目〕によって、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の中央部の「暗黒天体部」は文字にはならなかったことになる。したがって、この文字にならなかった「暗黒天体部」が〔不足分の1╱64〕の“トトの魔術”ということになる。
 この“トトの魔術”の「暗黒天体部」は「ホルスの眼」の〔瞳孔〕となる。
 そうすると、古代エジプトの医学では瞳孔の直径が縮小、拡大する仕組みを、知っていたのであろうか? 
 「瞳孔」に相当する「暗黒天体部」のように、視界に光がまったく入らない真っ暗い場所では瞳孔径が最大に拡大されるゆえ、暗い部分の銀河部まで見えるようになる。
 この瞳孔径の仕組みを、前述したように”トトの魔術”と言ったのであるまいか?

 トト神は多くの場合、トキの頭部をもつ男の姿で表現された。
 しかし、マントヒヒの姿をしたトト神が少数例存在する。
 「トキのほぼ全身に似る銀河」の部分は〔マントヒヒの全身像(側身形)〕にも相似するからである。
 「鬼の横顔に似る銀河」が顔の前面に突き出た〔マントヒヒの鼻〕、「鬼の身に相当する銀河」が〔マントヒヒの顔〕、「トキの首となる銀河」が〔マントヒヒの髪〕、「人の横顔に酷似する銀河」が〔マントヒヒの肩・腕・手〕、「トキの前肢の銀河」が〔マントヒヒの両足〕の形に相似する。 

 ヒエログリフの文字数は、600~700(あるいは800~1000)といわれるが、「トキの全身の姿に似る銀河」の各部の形状から、大半のヒエログリフが作られた。
 5回前の〔25〕にて、エジプトの天地創造神話に登場する銀河の範囲を解明した。
 「トキの全身の姿に似る銀河」と「エジプトの天地創造神話に登場する銀河」から、多分90%以上のヒエログリフが作られたことになる。
 残る文字は、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Cで「夏の銀河の西南部」と記した銀河から作られた。
 古代エジプト王朝は銀河各部の名称を定めなかった。
 しかし、トト神を「トキの全身の姿に似る銀河」で表示し、天地創造神話、また神々の神話、またその神々の姿で、すべてのヒエログリフが作られたすべての銀河の範囲をあらわすことになった。
 だから、文字を作った銀河各部の名称を作る必要がなかったのである。
 【文字】は【銀河各部の形状】から作られた、あるいは【銀河各部の形状】は【文字】であるという秘密を守るために、銀河各部の名称を定めなかったが、トト神始めとする神々の神話や、神々の姿を表現する絵画や彫刻で、【文字】となった【銀河各部の形状】を表示していた。
 だから、この秘密を知っている王や神官や書記たちはヒエログリフが読み書きできた。
 ヒエログリフは銀河から字源・字形・字義・字音を作るものであったので、銀河は字源・字形・字義・字音を知ることができる辞典であった。

 拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bに表示したすべての漢字が作られた銀河の範囲とすべてのヒエログリフが作成された銀河の範囲は同一である。
 漢字のすべての字源を知ることができる基本字は1400字前後である。ゆえに、いままで説明してきたように、漢字とヒエログリフの字源が同一となる例、共通する例、類似する例、漢字の字源でヒエログリフの字源が解明できる例などが多数存在するので、多くても1000字といわれるヒエログリフのすべての字源は、漢字の字源を解明すれば容易に解明できる。

 なお、私は13回前の〔17〕の冒頭部で――ヒエログリフの字源となった範囲は、拙著の資料Cの上半分の「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部」となる――と記述したが、この指摘は誤っていた。
 正しくは――拙著の資料Cの写真で撮影された全範囲の「秋の銀河」と「夏の銀河」(「夏の銀河の東北部」と「夏の銀河の西南部」)であった。
 うっかり誤記したことを、ここにお詫び申し上げ
る。

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2011年12月30日 (金)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・29

 ロンドンの大英博物館には、「ロゼッタストーン」が展示されている。
 このロゼッタスト-ンには、一つの文章が3種の文字で整然と彫られている。ヒエログリフは14行だけが残り、デモティックは32行、ギリシャ文字は54行となっていた。
  このギリシャ語の文章は――紀元前196年の日付を持つメンフィス神官団の布告で、王プトレマイオス5世エピファネスに向けて、諸神殿に下された恩恵を称賛する――というような内容であった。
 このギリシャ語の文章から、ヒエログリフもまた文字であることが察知された。
 このヒエログリフの解読に、エジプト学者たちの挑戦が始まった。
 しかし、いっこうに謎のままで不明のままで解読は成功しなかった。
 ついに、フランス人の言語学者のジャンフランソワ・シャンポリオンがロゼッタストーンに刻まれたヒエログリフの解読に成功した。
 シャンポリオンは最初に、3字を用いて「ラメセス(Rameses)」とあらわす名を解読した。この解読から、3字を用いる「トトメス(Thotmeses)」という名をも解読した。
 こシャンポリオンの「ラメセス」と「トトメス」という二人の大王の名の解読から、ヒエログリフが解読できなかった迷宮の門が開かれた。

 シャンポリオンが最初に解読したのは〈ラ(ra)〉と発音する「太陽」をあらわす[◎]の文字、〈メス(mes)〉と発音する「キツネの皮の3枚を結びつけたもの」を図案した文字、〈ス(es)〉と発音する「折りたたんだ布」を図案する文字の3字であった。
 この「折りたたんで布」の文字は、〈ス(s)〉と発音するサ行をあらわすヒエログリフの基本アルファベットである。
 「ラメセス」という名に使われる〈メス〉と発音する文字について、ジョン・レイ著╱田口未知訳『ヒエオログリフ解読史』(原書房)の106頁は「この記号は、出産する女性を守るための魔除けとして使われた三枚のキツネの毛皮を結びつけたものを象徴していた」と説明する。
 藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社)の60頁と藤井旭著『新透視版 星座アルバム春夏編』(誠文堂新光社)の46頁に、3本の閃光(せんこう)を放つ銀河部と連結する「ペリカン星雲」の大きな写真がある。
 この写真の「ペリカン星雲」は「後ろを振り向くキツネの胴体(毛皮となる部分)が弧を描く形」に撮影されている。
 したがって、「ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」は「無事に出産がなされるように魔除けとして使われた三枚のキツネの毛皮」を図案する〈メス〉と発音する文字の字源であったのである。

 国際天文学の名称は「ペリカン星雲」という名に定めているが、ペリカンの姿よりも実際は〔キツネが後ろを振り向く姿〕にソックリであるので、「キツネ星雲」という名のほうが的(まと)を射ることになる。

 満月の直径は約0.6度、ペリカン星雲のキツネの顔の部分は約0.8度であるから、肉眼でペリカン星雲が〔キツネが後ろを振りむく形〕であることが確認できる。
 〈メス〉と発音する「キツネの皮の3枚を結びつけた魔除け」を図案する文字――この文字の字源である「ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」は、日本語の「キツネの嫁入り」の語源であるにちがいない。というのも、「キツネの嫁入り」は「日が照っていながら降る雨。ひでりあめ」を意味することになるからである。
 円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔太陽〕に見立てると「ペリカン星雲」が〔後ろを振り向くキツネの姿〕に見える。これゆえ、「3本の閃光を放つ銀河部」が「キツネの嫁入り」すなわち「日が照っていながら降る、日照り雨」のイメージとなる。
 [眔(とう)]と字は現在においては使用される文字ではないが、上の[目]はヒエログリフの「ホルスの眼」の字源となった銀河部であり、下の[水]に似た字形部は「涙」をあらわす「3本の閃光を放つ銀河部」が字源となる。この〔目から涙が垂れる形〕に図案される[眔]の甲骨文字と金文形は、ヒエログリフ「ホルスの眼」の字源となる[目](横目)と「3本の閃光を放つ銀河部」を「涙」に見立てて形成されたのである。したがって、[眔]の上の[目]を「ホルスの眼」の[瞳]の円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」に取りかえると、「ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河」は「晴れているのに、太陽が流す涙」すなわち「キツネの嫁入り」をあらわすものとなる。

 そうすると、日本の伝説に登場するキツネは、この「ペリカン星雲」に由来するものと考えられる。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」に隣接する「長方形の暗黒天体部」は、漢字の[門]と[玄]の字源となった。また、「長方形の暗黒天体部」から神社の入り口の門の「鳥居」が作られたように、〔家の門〕や〔家の玄関〕の形状に相似する。
 また、「コールサック」は犬や狼(オオカミ)の姿に相似するので[犬]と[狼]の字源となった。それゆえ、コールサックの一部(北部)である「長方形の暗黒天体部」は〔犬の顔〕に相当する。
 中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には「倭では結婚する場合、同姓では結婚せず、男女が互いに喜んで気に入った者たちが結婚をする。嫁入りする新婦は、夫の家に門や玄関に入るとき、必ず犬をまたぎ、そして夫が待つ所に歩み寄って互いに顔を見つめあう風習がある」と伝える記事がある。
 犬は多くの子を産むから、嫁入りする新婦は新郎の家に嫁(とつ)ぐとき、「長方形の暗黒天体部」が[犬]の字源になるのに因(ちな)んで、犬をまたぐことになったのである。また、「ペリカン星雲」は後ろを振り向くキツネの姿に酷似し、そのキツネの顔は犬の顔にも相似するので、新婦は犬をまたぐことになったのである。
 「コールサック」は〔東西に2頭の犬が顔が分かれて、この2頭の犬の胴体が一体化する形〕となる。この〔2頭の犬の顔〕は〔抱擁する男女の顔〕にも観えるので、「コールサック」は〔固く抱擁しあう男女が顔を見つめあって愛しあう姿〕に観える。
 日本語では「男女が愛し合う行為」や「男女の情事」を「濡(ぬ)れごと」という。「長方形の暗黒天体部」の東隣は「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」である。ゆえに、「コールサック」は日本語の「濡れ場」の語源になった銀河部だったのである。
 だから、『隋書』倭国伝の記事となった新婦は犬をまたいだ後に新郎と互いに顔を見つめあう儀式が行うことになったのである。
 だから、この「嫁入り」の儀式から「ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」は「キツネの嫁入り」の語源となったのである。

 「ラメセス」という名に使われる〈ス〉と発音する「折りたたんだ布」を図案する文字について、マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『[図説]ヒエログリフ事典』(創元社)178頁は、下記のごとく解説する。
 「王名につづく呼びかけの文句〈セネブ(snb)〉の略字として用いられる。
 この文字には、すべり落ちようとする布のしなやかな動きがとらえている。古王国時代の壁画で、織機から外されたばかりの真新しい布に、この文字と同じ形をしたものがある。」
 そうすると、「折りたたんだ布」を図案する文字の字源は、この回より11回前〔18〕にて解説した【ホルスの眼の6つの部分】のうちの「1╱4」(「ホルスの眼」の瞳となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」)]と「1╱64」の銀河部(長方形の暗黒天体部の西の辺)となる。

 「折りたたんだ布」の図案文字は漢字の[卩(せつ)]の字形上部を〔半円形〕にした〔コウモリ傘の柄の形を上にしたような形〕となる。
 「折りたたんだ布」を図案する文字は、〔ペリカン星雲の南から上へと線をのばし、この線をペリカン星雲の縁(へり)を撫(な)で、さらに北の北アメリカ星雲の縁を半円形に撫で、この線をさらに長方形の暗黒天体部の西の辺へと延長する形〕に合致する。
 この線は「おりたたんだ布」の字形に合致し、字源となる銀河部の形状は、上記の『[図説]ヒエログリフ事典』が指摘するように、「すべり落ちようとする布のしなやかな動きをとらえている」という表現に合致する。
 また、「十字の銀河」が〔織機〕のように観え、「鬼の姿に似る銀河」が「機織(はたお)りする人」に観えるので、上の行で説明した「折りたたんだ布」の字源銀河部は「織機から外されたばかりの真新しい布」のように観える。
 ホルスはファラオの守護神である。
 「ホルスの眼」の〔瞳〕となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」と「長方形の暗黒天体部の西の辺」は、「折りたたんだ布」の字源銀河部となる。だから、上記に示したように『[図説]ヒエログリフ事典』が「折りたたんだ布」の文字について「王名につづく呼びかけの文句〈セネブ〉の略字として用いられる」と指摘するように、〈セネブ〉の略字になったのである。

 ステファヌ・ロッシニー著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の65頁に、「キツネの皮の3枚を結びつけた魔除け」の文字と「折りたたんだ布」を表音文字と、この2字の右側に〈メス(ms)〉と発音する「生む」を意味する決定詞の3字が配置されている。
 この右端の決定詞「生む」の字形は「娩出期(べんしゅつき)すなわち分娩中(ぶんべんちゅう)の女性」を図案化したものである。
 この「生む」の字形は「両手を前後に垂らす女性の側身形」の下に「分娩される胎児の両腕と正面の顔」が加えられる。

 出産する胎児の頭が通過する産道は、軟(なん)産道と骨(こつ)産道とに分かれる。
 軟産道は子宮口から骨盤入口までで、骨産道は骨盤入口から骨盤出口までである。
 産道が狭い場合、医学が未発達の古代においては、とくに骨産道が狭い場合には胎児が死産しあるいは母子とともに亡くなる事故が多発した。

 正常分娩の場合、軟産道をくぐりぬけた胎児の頭は骨盤入口の上において、胎児はあごを胸につけた姿勢で胎児の背中を母体の左または右に向ける。骨産道の中ほどにくると、胎児の頭は斜め後ろ(母体の背側)に顔を向け、軟産道の出口では顔はすっかり後方(母体の背中正面)に向ける位置をとる。出産第1期の開口期(かいこうき)の終わりには、ほぼこの状態になる。

 次の出産第2期の娩出期(べんしゅつき)においては、子宮口が全開大となり、陣痛(じんつう)と腹圧との力で胎児の頭はますます押し上げられ、ついに陣痛発作の時には膣(ちつ)の入口から頭が見えるようになる。しかし、陣痛がやむと胎児の頭は引っ込んでしまう。さらに進んで、胎児の頭の最も大きな部分が膣入口を通過しようとする状態になると、胎児の頭は引っ込まないようになる。この直後に、胎児の頭が生まれる。ついで、胎児の頭はふたたび母体の左または右に向くが、これは肩の部分が骨盤出口をくぐりぬけるためである。肩はまず上(母体の腹側)にあるほうから先に、ついで下(母体の背側)の肩が出ると、あとは一気に生まれる。

 決定詞「生む」の「娩出期の女性の側身形と胎児の両腕と正面の顔」を図案する文字は、上の行で説明した「胎児の頭の最も大きな部分が膣入口を通過してあとに胎児の頭が生まれてから胎児の母体の背側の肩が出るまでの神秘的なドラマ」を描くものである。

 この膣入口に胎児の頭が見えてから以後のドラマは、実際に目で目撃することができる。
 表音文字の〈メス〉と発音する「キツネの皮の3枚を結びつけた魔除け」と〈ス〉と発音する「おりたたんだ布」の文字は、上記の「胎児の頭の最も大きな部分が膣入口を通過して、胎児の頭が引っ込まないようになって、母体の背の方に顔を向けて胎児の頭が生まれる。ついで、胎児の頭はふたたび母体の左または右に向き、そして母体の腹側にある肩から先に、ついで母体の背側にある肩がでると、娩出期が終わる」と説明した――胎児の頭が回転しながら出産する状況を図案するものである。

 したがって、〈ス〉の字源銀河部の一部となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔回転する渦巻き〕のごとくに観え、〈メス〉の字源「ペリカン星雲」はキツネの背中は円弧となるゆえ〔胎児の頭が膣入口から見えるようになってからの回転する動き〕をあらわすものとなる。

 「キツネ」の漢字[狐]の字源は「ペリカン星雲」であり、[弓]に[瓜]からなる[弧]の字源も「ペリカン星雲」である。というのも、「ペリカン星雲」の〔後ろを振り向くキツネの胴体〕は半円を描く「弧の形」であるからである。
 ゆえに、[狐]と[弧]はともに[瓜]の字からなる。
 そして、「ペリカン星雲」は〔瓜(うり)〕の形に相似すると見立てられて、[瓜]の字源となった。
 われわれは爪(つめ)が伸びると直ぐに切ってしまうが、爪が長くなっても切らなければ、伸びる爪の先端は「ペリカン星雲」のように丸まる。「鬼の姿に似る銀河」は「右手」に見立てられて[右]の字源・字形・字義となり、「北アメリカ星雲」は「鬼の姿に似る銀河」の右手の親指に見立てられた。「北アメリカ星雲」から円弧を描いて連結する「ペリカン星雲」は〔親指の爪を切らないまま伸びた爪の先端〕に見立てられて[爪]の字源となった。
 これゆえ、同じ字源から作られた[瓜]と[爪]の字は相似しあうことになった。
 膣の入口に胎児の頭が見えてから生まれるまで、胎児の頭は螺旋(らせん)状に回転する。「螺旋」の[螺]と[子]が組み合わさると「螺子(ねじ)」となる。「螺子」の〔捩(ね)じれの動き〕は〔出産する時の胎児の頭の回転に相似する〕ということから、〔螺旋状のミゾがついているもの〕は「螺子」と表記されることになったのである。

 〈メス〉と発音する「生む」を意味する決定詞の字形は、21回前の〔8〕にて解説した、夏音文字の最高学理の[眞]の字源をあらわすことになる。
 「生む」の字形における「分娩する母体の側身形」に対して「誕生する胎児の顔」は〔正面形〕である。だから、「生む」の決定詞の字形は「90度方位規定を転回する」と定めた[倭]の字源をあらわすものとなる。
 竜安寺の石庭の第3群の「横三尊」という名がつく石組は――主石の大石が「胎児を分娩する母体の腹部」、二つの小石は「母体の両足」、三つの石に包囲される空間は「母体の股と出産する胎児の頭」に見立てる仕組みになって――[眞]の字源をあらわす役目がある。

 [眞]の字源・字源・字義は①――子宮で育つ12週~20週の胎児の頭は母体の方に向き、20週~28週になると、180度回転して胎児の頭は母体の方に向く。この胎児が誕生するとき、胎児の顔は母体の背中正面を向く。この胎児を裏返しにして、母体の股から90度転回するように、母体の内側(腹側)へ胎児を取り上げる――このような胎児の出産の状況から成立した。
 この「母体の背中の方に顔を向いて誕生した胎児を裏返しになるようにして、母体の股から90度転回するように、母体の内側へ胎児を取り上げる」は「内裏(だいり)」の語源となった。「内裏」は「天皇の御殿。皇居」を意味する。
 そして「母体の股から90度転回するように、母体の内側に胎児を取り上げて、一つのいのちが生まれる」が、[倭]の字源となった。
 また、[眞]の字源・字形・字形は②――胎児の頭の最も大きな部分が膣入口を通過して、胎児の顔が母体の背中の方に向いて誕生し、ついで90度転回して胎児の顔は母体の左または右に向き、まず母体の腹側にある肩が先に、ついで母体の背側にある肩が出て、180度母体の内側に回転するようにして取り上げる、この膣の入口から胎児の頭が見えた直後から取り上げるまでの状況――によって成立した。
 この誕生するまでの過程において、肩の部分が狭い骨盤出口を通るために「胎児が90度転回して母体の左または右を向く」、この「90度の回転する」動きが[倭]の字源となった。
 古代では、狭い骨盤出口を通れずに死産する胎児が多かった。その時の母親は「天に胎児の生死の運命を委(ゆだ)ねる心境」であったのである。この心境こそ、[委]と[倭]の字源を示すものであった。

 卑弥呼が生存した3世紀、倭の使節は大海を越えて帯方郡政庁、魏の都の洛陽(らくよう)へ到着し、帰路にも大海を渡って家族が待つ家に帰った。この大海の往来は天頂にめぐってくるいくつかの星、そして主に「長方形の暗黒天体部」が天頂にめぐってきたとき、精密な天頂緯度測定をおこなってなされていた。
 21回前の〔8〕で指摘したように、竜安寺の石庭は――精密な天頂緯度測定するときには「無」「無我」「無心」、あるいは「成り切る」「死に切る」の心構えを有して、天に生死の運命を委ねていた――と、今日に伝える。
 「文字」の[字]の字源は――子午線経過する[天]の字源の「十字の銀河」を〔90度〕転回させて[宀(べん)]の字源にし、[子]の字源「鬼の横顔に似る銀河」を「天頂緯度測定する人」に見立て――[宀]の下に[子]を加えて[字]となり、成立するものであった。
 ゆえに、[字]の字源・字形・字義には「天(天頂緯度測定)に生死を委ねる」という秘密があり、また「天命に生死を委ねて無心に産道をくぐりぬける胎児(子)」という秘密を有するものであったのである。
 だから、このような事情から、[倭]の字源は「天体の運行が東から南に進むように、方位規定を90度転回して〔東〕を〔南〕にする方位の転位」をあらわすものとなった。
 『魏志倭人伝』は[倭]の字源に合致して「東に伸びる日本列島が南に伸びる」と記述する。だから、卑弥呼が統治した国家の名は「倭」となった。

 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』にて詳細に解説したように――中国沿岸地域の北部の北京・天津(てんちん)の気候は冷たく、南の呉の会稽(かいけい)の気候は暖かい。これに対し、日本列島の北緯34度15分の西の沖ノ島の気候は冷たく、同じ北緯34度15分の東の伊豆諸島の神津島(こうづしま)の気候は冬でも雪が降らず暖かい。
 そして、中国の北京・会稽の道里(距離)と日本列島の沖ノ島・神津島の距離はほぼ同じぐらいである。
 ゆえに、卑弥呼は中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕の気候が合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕の気候が合致する。そうすると中国の〔北〕と日本列島の〔西〕が〔冷〕で共通し、中国の〔南〕と日本列島の〔東〕が〔暖〕で共通する――この状況にもとづき、卑弥呼は中国大陸の南北の方向に日本列島の東西が伸びると立論した。
 この卑弥呼が立論した日本列島転回像論は小国の王たちや氏族の首長や夏音文字の学芸に精通する巫女や神官たちに、真実であると賛同された。この日本列島転回像論は、卑弥呼こそが夏音文字の学芸の最高権威者であると証明するものとなった。だから、当時の大王は夏音文字の最高権威者が選ばれるものであったゆえ、卑弥呼は女王に就任することになったのである。
 卑弥呼が立論した転回日本列島像論は[倭]の字源を示すものであったから、卑弥呼が統治する国の名は「倭」となった。
 卑弥呼が立論した日本列島転回地理は、朝廷は738年まで制定していた。

 竜安寺の石庭の第3群の横三尊の石組の母体の〔股〕から生まれる〔胎児の頭〕をあらわす空間は西を向く。この横三尊の西を天体の運行方向に合致させて北(濡れ縁や方丈がある北)に90度転回すると想定すると、[倭]の字源が成立する。
 つまり、横三尊の西を北に向けると、東の大石は南(油土塀がある南)に向くからである。
 だから、この〔東が南になる90度の転回〕は『魏志倭人伝』に「東に伸びる日本列島が南に伸びる」と記述される日本列島転回地理に合致する。
 横三尊の石組には、「倭」の字源を示す役割りがあった。
 また、5群の石組が配置される平庭は正方形が二つならぶ「長方形の暗黒天体部」を設計するものであるが、卑弥呼時代に「長方形の暗黒天体部」が天頂にめぐってきた時の南北に長い形にしないで、[倭]の字源にもとずいて90度転回する東西に長い形(南北10m・東西20m)に設計した。
 このように、竜安寺の石庭は[倭]の字源を基調にして設計される。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記述される転回日本列島地理は卑弥呼が立論した地理であり、国名「倭」は[倭]の字源を表示するものであったのである。

 以上のように、〈メス〉と発音する「生む」を意味する決定詞と、「キツネの皮の3枚を結びつけた魔除け」と「折りたたんだ布」の2字の表音文字の計3字のヒエログリフは[倭]の字源をあらわすものとなる。

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2011年12月29日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・28

 今回もまた前回〔27〕と同じ、ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の32頁の「大熊座」と29頁の「ピラミッド」という言葉をあらわす字源や語源について解説することにする。
 今回は、前回の順序を逆にして「ピラミッド」を前に、「大熊座」を後に取り上げて解説する。

 「語(言葉)をあらわす意味がわかる絵文字」、この表意文字を「決定詞」と称する。
 発音に用いられる文字は、①単子音字(いわゆるアルファベット)、②2子音字、③3子音字、④音声補語などがある。
 これらの「発音に用いる文字」を、これからの解説では「表音文字」と一括して呼ぶことにする。

 ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫著『図説 古代エジプト文字入門』の29頁に記載される「ピラミッド」の決定詞は、右下の②「三角形」の「ピラミッド」を意味する文字である。
 〈ベネベネト〉すなわち〈bnbnt〉と発音する表音文字は③「片足」・④「さざ波」と⑤「片足」・⑥「さざ波」である。
 つまり、③「片足」の〈b〉、④「さざ波」の〈n〉、⑤「片足」の〈b〉、⑥「さざ波」の〈n〉、「ピラミッド」を意味する決定詞の上にある①「半円形」の〈t〉で〈bnbnt(ベネベネト)〉となる。
 この〈bnbnt〉の最後の〈t〉となる①「半円形」・〈トゥ〉と発音する文字は、タ行をあらわすヒエログリフの基本アルファベットである。
 このタ行をあらわす基本アルファベットの表音文字の①「半円形」は、決定詞的な役割を有していることになる――というのも、前回に指摘したように、①「半円形」の字形は「春分・夏至・秋分・冬至の日の地平線上に昇る太陽」を図案するものであり、この文字の字源は「二分二至の朝日」であるからである。
 そして、5回前の〔22〕で指摘したように、3大ピラミッドとその複合体(葬祭殿・参道・河岸神殿)と大スフィンクスは「二分二至」を表示する建造物であった。
 だから、②「ピラミッド」を意味する決定詞の上にある「二分二至の朝日」が字源である①「半円形」の文字は、決定詞を補う役割があることになる。

 上記したように、表音文字には④「音声補語」と分類される文字がある。ということは、決定詞の②「ピラミッド」の真上にある①「半円形」の文字は”決定詞補語”の役割を有するものであったことになる。
 首都であったメンフィスはナイル川の西岸に立地する。このメンフィスの東を流れるナイル川はギザのピラミッドにつながる下流ではない。ギザのピラミッドの東を流れるナイル川は本流であり、メンフィスの東に流れるナイル川は本流から分かれた西方の大地を流れる支流である。したがって、ギザのピラミッドの東を流れるナイル川はメンフィスの朝日が昇る東方に所在する。だから、決定詞の②「ピラミッド」の上に「二分二至の朝日」が字源となる決定詞補語を配置されたのである。

 メンフィスからギザのピラミドに到着するには、ナイル川の支流の西岸から東岸へと渡らなければならない。ゆえに、表音文字の〈ベネ(bn)〉の③「片足」と④「さざ波」の2字は「川を渡る」をあらわし、表音文字の〈ベネ(bn)〉の⑤「片足」と⑥「さざ波」は「ナイル川の本流の西岸を北に向かって歩く(とピラミッドに到着する)」をあらわすものとなる。
 表音文字〈ト(t)〉にして決定詞補語の①「半円形」の太陽は「ピラミッドは二分二至に地平線から昇る朝日を祭る建造物」であると示すものとなる。
 以上のように、表音文字にも「ピラミッド」という語の意味をあらわす役目がある。

 アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)の116頁は、「決定詞」を「表語文字」という名で呼んで、ヒエログリフの文字について下記のごとく指摘する。
 「ヒエログリフは表音文字と表語文字が併用されるシステムで、文字の多くが、文脈によって表音文字にも表語文字にもなる。つまり、表音文字と表語文字の境がはっきりせず、固定的でない。ヒエログリフは明確な区別を維持できない文字なのだ。」
 この「ヒエログリフの表音文字と表語文字(決定詞)の境がはっきりせず、固定的でない」という特性は、上記の「ピラミッド」という語に使われる文字でも示される。

 ステフェヌ・ロッシニー著『図説 古代エジプト文字入門』の32頁の、〈ヘペシュ(hps)〉と発音する6字で「大熊座」という語の語源の秘密に、話題を変える。
 この「大熊座」の決定詞は①「神」の絵文字である。
 〈ヘパシュ(hps)〉と発音する表音文字は②「疾走するライオンの足」、③「7等分した縦長の長方形」、④「胎盤」、⑤「周囲が傾斜した池」、⑥「星」である。
 この6字で構成する言葉の決定詞を、『図説 古代エジプト文字入門』は「大熊座」と指摘する。
 しかし、③「7等分した縦長の長方形」からして、決定詞は「北斗七星」をあらわすものであったにちがいない。もっとも、北斗七星は大熊座の一部であるが、決定詞は「北斗七星」であったと考えられる。
 また、表音文字⑥「星」は「北斗七星」の7星中の一つの星を「神」と崇拝すると示すものであると考えられる。だから、決定詞①「神」は〔北斗七星の7星中の一つ星〕を「神」とするものであると考えられる。

 決定詞を「北斗七星の中の一つの星」と定めると、⑥「星」の文字は「大熊座の星たち」をあらわすものではなく、決定詞①「神」の意味に合致する、別の神聖な星をあらわしていることになる。
 ⑥「星」の文字の上は②「疾走するライオン(獅子)の片足」を図案化した文字である。
 6回前の〔22〕で指摘したように――ギザの3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前、「獅子座のγ(ガンマ)星」(光度2.3等の美しい重星)は首都メンフィスの(北緯29度59分)の天頂にめぐってきた。また、「ぎょしゃ座のβ(ベータ)星」(光度2.1等の準巨星)もメンフィスの天頂を通過した。
 3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前、春分の日の午前2時になる「ヘルクレス座のα(アルファ)星・ラスアルゲチ」が、3大ピラミッドと大スイフィンクスの天頂(北緯30度)の天頂で輝いた。このヘラクレス座α星・ラスアルゲチは美しい二重星で、光度が3.5等の橙色の星と5.4等の鮮緑色の星からなる。また、「ペルセウス座のγ星」も、ギザの天頂を通過した。
 これら4つの星は首都メンフィスとギザの3大ピラミッドの位置(緯度)を示す目印(めじるし)となり、メンフィスを離れ、ギザより遠い地に旅した人々が家に帰ることができる、命をまもる“守護星”となった。ゆえに、これら4つの星は神聖な星となって重視されたにちがいない。

 首都メンフィスの天頂を通過した「獅子座のγ星」は、獅子座の〔たて髪〕の箇所に位置する。
 前回〔27〕にて、〔獅子座のξ(クサイ)、ο(オミクロン)、α(アルファ)、η(エータ)の4星〕は[獅子座の前足]になるので、②「疾走するライオンの足」の字源になったと指摘した。
 獅子座の首からたて髪にかけてのα、η、γ、ζ(ゼータ)、μ(ミュー)、ε(エプシロン)の6星は西洋鎌の形となる。このため、この6星は“獅子の鎌”と呼ばれる。
 この“獅子の鎌”の星座の形は、カップと柄(え)からなる北斗七星の形に類似する。
 5000年前の第1王朝のナルメル王の時代、獅子座のγ星はギザの天頂にめぐってきた。
 3大ピラミッドが建造された4500年前当時、獅子座のγ星より40分北側、つまりγ星とζ星の中間のγ星に近い箇所が、ギザの天頂となった。
 5000年前の第1王朝時代、そして3大ピラミッドが建造された第4王朝時代、北斗七星に類似する“獅子の鎌”が子午線経過した時、北斗七星のカップがともに子午線経過(上経過)した。
 3000年前の第3中間期の第21王朝時代においても、“獅子の鎌”が子午線経過した時、北斗七星のカップが子午線通過した。
 獅子座のγ星とζ星付近の“獅子の鎌”の中に輻射点(ふくしゃてん)を有する流星群を“獅子座流星群”と称する。
 この“獅子座流星群”は、今日の暦において、11月14日から19日にかけて出現する。それゆえ、“11月流星群”とも呼ばれる。この“獅子座流星群”は約33年目ごとに、いちじるしい流星雨の現象をあらわすことが観測されている。
 3大ピラミッドが建造された4500年前、北斗七星のカップが子午線通過し、“獅子座流星群”が子午線通過するのは、今日の暦の11月14日の午前1時間ごろ、11月19日の午前0時40分ころであった――この時、“獅子座流星群”は3大ピラミッドの天頂点から約3度の北側(高度87度)から発射され、その流星雨は真下のピラミッドに向かって降ってきた。
 だから、⑥「星」の字源は「大熊座の星たち」ではない。
 ⑥「星」の文字は、その「神」と崇拝する星が――メンフィスとギザのピラミッドの天頂で輝いた4つの星「獅子座のγ星、ぎょしゃ座β星、ヘルクレス座α星、ペルセウス座γ星」の守護星のごとく神聖にして重大な星であると示す。
 また⑥「星」の文字は、その「神」と崇拝する星が――ピラミッドが作られた当時、天頂点付近にめぐってきた“獅子座流星群”の輻射点との関連がある星であったと示す。
 〔歳差(さいさ)〕という現象によって、3000年前から「獅子の鎌」が子午線通過する時に北斗七星のカップが子午線通過しなくなった。
 しかし、この〔歳差〕の影響もなく、4500年前の3大ピラミッドが建造された第4王朝時代と3000年前の第21王朝時代の「獅子の鎌」の緯度はほとんど同じであった。だから、第4王朝時代から第21王朝時代まで、“獅子座流星群”の輻射点が3大ピラミッドから3度北側を子午線通過する時、北斗七星のカップも子午線通過していた。

 ⑥「星」の真上に、前回〔27〕で解明した②「疾走する獅子・ライオンの片足」が配置される。
 この②「疾走する獅子の片足」の文字は「獅子座流星群(の輻射点)」をあらわすものであると考えられる。
 というのも、鈴木俊太郎著『星の事典』(恒星社厚生閣)の159頁は“獅子座流星群”の「流星の速度は速やかな条痕(じょうこん)を残すのが特徴である」と記述するからである。
 この流星のイメージから〔全力疾走する獅子の足〕を連想された。
 ゆえに、⑥の「星」の文字の上に、「獅子座流星群」のイメ-ジを示す②「疾走する獅子の片足」を図案する文字が配置されたのである。 

 7回前〔21〕にて指摘したように、ギザの3大ピラミッドが建造された今から約4500年前、〈ラー〉と発音する「太陽」を意味する文字[◎]の字源・字形となる「白鳥座γ星」が子午線経過する時、エジプト暦の元日となる夏至の午前零時となった。
 当時の「白鳥座γ星」の緯度は赤緯(せきい)プラス34度である。ゆえに、白鳥座γ星はギザの3大ピラミッドから4度北側を子午線経過した。ということは、獅子座流星群の輻射点は3度北側(すなわち赤緯プラス33度)を子午線経過するものであったので、白鳥座γ星と獅子座流星群の輻射点はほぼ同じ高度であったことになる。
  前回で解明したように、「北斗七星」という語に使われる④「胎盤」をあらわす文字の字源は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
 今から4500年前の第4王朝時代、「北アメリカ星雲の北部」の赤緯はプラス33度ぐらいであったので、「北アメリカ星雲の北部」が子午線経過する時の高度は獅子座流星群の輻射点とほとんど同じであったことになる。
 第4王朝時代、「長方形の暗黒天体部の北の辺」も獅子座流星群の輻射点とほぼ同じ赤緯プラス32度を子午線経過した。
 当時、北アメリカ星雲が子午線経過する時、北斗七星の第5星の7星中最も光が強いε星が子午線のすぐ横に位置し、もうすぐ子午線上に乗ろうとしていた。「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過した時、北斗七星のε星が子午線上に乗った。この間、わずか10分である。

 ①「神」という語に使われる表音文字は②「疾走する獅子の片足」の左隣に③「7等分した縦長の長方形」、この③の文字の左隣に④「胎盤」、③・④の下に⑤「周囲が傾斜した池」が配置される。
 ②「疾走する獅子の片足」の隣に③「7等分した縦長の長方形」に配置したのは――④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が子午線経過し、次に⑤「周囲が傾斜した池」の字源「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過する、北斗七星のε星が子午線の直ぐ東に迫って子午線上に乗る――この「わずか10分間」を表現するためのレイアウトであると考えられる。
 ③「7等分した縦長の長方形」の〔7等分〕は「7つの星」をあらわして「北斗七星」を示すものとなる。
 この③「7等分した縦長の長方形」の左隣に④「胎盤」の文字が配置される。
 ④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔渦を巻く円形〕である。北斗七星は天の北極を中心にして日周(にっしゅう)運動する。この〔北斗七星の日周運動する軌道〕と〔渦を巻く円形〕の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は相似する。
 だから、「北斗七星」が字源である③「7等分した縦長の長方形」は、渦を巻く円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が字源となる④「胎盤」の文字の右隣に配置されたのである。

 ⑤「周囲が傾斜した池」の字形は字源の「長方形の暗黒天体部」に相似せず、長いほうの2辺が長すぎる。
 この⑤の文字の上の右側に配置される③「7等分した縦長の長方形」は子午線通過する時の「長方形の暗黒天体部」の形にほぼ近いが、少し縦に寸足らずである。
 ⑤「周囲が傾斜した池」の字形は、「池」を意味する〈シュ(sh)〉と発音する文字を基本字とする異体字(いたいじ)である。ゆえに、⑤「周囲が傾斜した池」の字形は「池」をあらわす文字の字形をそのまま受け継いだので、正方形が二つ合体する「長方形の暗黒天体部」の形に相似しないことになった。
 そこで、③「7等分した縦長の長方形」を少し寸足らずにして、③と⑤の文字の〔長方形の中間の形〕が「長方形の暗黒天体部」の形であると示したのである。

 ③「7等分した縦長の長方形」から7つの星で構成される「北斗七星」と示され、②「疾走する獅子の片足」は〔獅子座流星群〕の形状から「わずかの時間」が連想される。
 そして、⑥「星」は複数でなっく一つであるゆえ、「北斗七星」のうちの「一つの星」をあらわすものであるにちがいない
 これゆえ、ステファヌ・ロッシニー著『図説 古代エジプト文字入門』は、〈ヘベシュ(hps)〉と発音する決定詞①「神」は「大熊座」であると指摘するが、「北斗七星の7星中の一つの星」だけが「神」であると示していると考えるべきことになる。

 上に大きく赤字で示したように――ギザの3大ピラミッドが建造された当時、④「胎盤」の字源となる「北アメリカ星雲」が子午線経過する時、北斗七星の第5星のε星が子午線のすぐ横に接近していた。〔北斗七星のカップ〕をあらわす⑤「周囲が傾斜した池」の字源となる「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過した時、北斗七星のε星が子午線上に乗った。この間、わずか10分である。
 ゆえに、この〔わずか10分〕は②「疾走する獅子の片足」であらわされた。
 だから、②「疾走する獅子の片足」の下に配置される⑥の「星」があらわす〔北斗七星の7星中の「神」と崇拝された星〕は「ε星」となる。
 よって、決定詞①「神」は「北斗七星のε星」となり、「大熊座」でもなく「北斗七星」でもないことになる。

 決定詞「北斗七星の神」には、顎鬚(あごひげ)がつく。
 「鬼の姿に似る銀河」の顔には顎鬚がある。この顎鬚は「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」に連結する。(この連結部分は、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の北端」となる)。
 「北斗七星のカップ」と「長方形の暗黒天体部」は⑤「周囲が傾斜した池」の文字で表示された。
 ゆえに、「北斗七星のカップ」を「長方形の暗黒天体部」に見立てると、「北斗七星のカップ」に連結する「ε星」は「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」に連結する「顎鬚」の形状に合致する。
 だから、①の決定詞の「神」は「北斗七星のε星」をあらわすものであったのである。
 なお、現在のギザの大スフィンクスには顎鬚がついていたが、現在は付いていない。しかし、スフィンクスの聖なる顎鬚はカイロのエジプト博物館に所蔵されている。

 ギザの3大ピラミッドが建造された当時(4500年前)、北斗七星で最も光が強い光度1.8等のε星が、夏至点と天の北極を結ぶ子午線を擦(こす)るように東に位置した。
 これゆえ、当時の春分の日の午前零時にはε星は天の北極の西に位置し、夏至の午前零時にはε星は天の北極の北に位置し、秋分の日の午前零時にはε星は天の北極の東に位置し、当時の日の午前零時にはε星は天の北極の南に位置した。
 また、ε星は昼夜の長さが同じ春分の日の夕刻・午後6時には天の北極の南に位置し、昼の長さが最も短い夏至の日の1ヵ月前の夜の午後8字には天の北極の西に位置し、昼夜の長さが同じ秋分の日の夕刻・午後6時には天の北極の北に位置し、昼の長さが最も長い冬至の日の太陽が地平線に沈んだ時(午後4時)から2時間経過した午後6時には天の北極の東に位置した。当時から1ヵ月後には、太陽が地平線に没する午後4時頃に、天の北極の東に位置した。
 だから、春分・夏至・秋分・冬至の日を明確に示す「北斗七星のε星」は「顎鬚が生える神」となったのである。
 6回前〔22〕にて解明したように、3大ピラミッドは「夏至点・冬至点」を象徴する建造物であり、ピラミッドの複合体である大スフィンクス、葬祭殿、参道、河岸神殿は「春分点・秋分点」を象徴する建造物であった。
 ゆえに、葬祭殿・参道・河岸神殿は「神」を祀る建造物であることが明確に示されるゆえ、春分・夏至・秋分・冬至の日を明確に示す「北斗七星のε星」は①の決定詞の「神」であったのである。

 ギザの3大ピラミッドが建造された今から4500年前は、前回〔27〕で指摘した中国の五帝時代の4番目の帝である堯(ぎょう)の時代であった。
 司馬遷著『史記』五帝本紀には、春分、夏至、秋分、冬至の日の夕刻の星空の様子が記述される。この記事における「北斗七星のε星」の名は「鳥」である。
 『史記』五帝本紀は「益(益氏の首長)は帝堯の時代から挙用(きょよう)されていた」と記述する。
 『史記』五帝本紀は、次の帝舜(しゅん)の時代に「益は虞(ぐ)という重職に任命された」と記す。この「虞」という官職は「山林川沢をつかさどる官」とされるが〔川や沢が集まる中国の海岸線地域の地図を作成する官〕であったと考えられる。
 『史記』夏本紀は、「益は夏の始祖・帝禹(う)を継ぐ帝となった」と書く
 『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである。帝堯と帝舜の時代に、功徳をもって令名のあった臣下である。益の先祖は帝王になった。」と説明する記事がある。
 このように、中国古代史から益氏が忽然(こつぜん)と消えたのは、益氏の子孫が小舟を漕いで大海を越えて日本列島に定住したからである。
 
 今から4050年前、益の子孫である帝益の孫の王子と若者たちは、帝禹の遺志である氏族共同体制の継続を日本列島で実現するため、大海を越えて日本列島に移住した。
 ゆえに、秋田県鹿角(かづの)市に夏代初頭の国の特別遺跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が作成されて現存することになり、この万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字の学芸の痕跡(こんせき)が現在も明確に残る。
 かくして、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載され、静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園などに明確に残る夏音文字の学芸が伝来し、現在まで失われずに残ったのである。

 前々回〔26〕で指摘したように、大湯環状列石の野中堂遺跡の特殊組石「日時計組石」は北斗七星の「鳥」の星を日周運動を利用して午前零時を計測する時計装置であり、この時計装置で天球上において太陽が1年間に通過する〔黄道(こうどう)〕を観測していた。
 大湯環状列石が作製された約4000年前頃、獅子座流星群の輻射点が子午線経過してから2時間後に、北斗七星の「鳥」の星(ε星)が子午線経過した。
 現在は、獅子座流星群の輻射点が子午線経過して2時間35分ぐらい後に、北斗七星の「鳥」の星が子午線経過する。
 野中堂遺跡の日時計組石は北斗七星の「鳥」の星を用いて黄道を観測する装置であった。ゆえに、北斗七星の「鳥」が子午線経過する約2時間前(古代では、「2時間」を「一刻」と称した)に子午線通過する獅子座流星群の輻射点を、古代の天皇は注目していたのである。
 鈴木俊太郎著『星の事典』の159頁~160頁にかけての獅子座流星群に関する記事は、下記のごとくである。
 「この流星群の記録はわが国の古書にも多く、醍醐天皇の延喜二年(902)にはじまり、村上天皇の康保四年(967)がこれに次ぐ。この流星群の日本における記録が諸外国に比べて豊富であることは注目に値する。」

 以上のごとく、わが国とエジプトの古代史には、〔精密に緯度が測定できる天頂緯度測定〕を基軸にした天文学と【銀河各部の形状】を【文字】の字源とした学芸を、王朝の政権基盤にして厳重な機密としたという共通点がある。
 ゆえに、わが国の特別史跡の大湯環状列石、静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万の大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園などを調査すれば、エジプトのヒエログリフの字源の秘密の全貌が科学的に解明できるようになっている。 

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