歴史

2008年10月28日 (火)

18章 邪馬台国説は日本を滅ぼす-2

すべての邪馬台国説は「文献批判」という思考方法にもとづいて、『魏志倭人伝』の記事を曲げて読む。

要するに、この〈文献批判〉は邪馬台国説を正当化しようとする学識ある人々の愛称であるが、その実体から言うと〈文献批判〉の本名は〈誤読〉である。

〈文献批判〉は西欧近代科学の致命的欠陥《傲慢(ごうまん)な単純化》を親として生まれた子である。だから、〈文献批判〉の本名は〈誤読〉ということになる。

〈文献批判〉の実体は〈誤読〉であることは、文献批判で考える学者みずから表示している。

1979年11月1日に、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上〔邪馬薹国を中心に〕』(光文社)が初版第一刷発行された。この本の執筆者たちは、邪馬台国説の権威者たちである。彼らは学界を代表して〈文献批判〉は正しいと思考方法であると確固たる信念を抱く人たちということになる。

この本の執筆者たちは、石井謙治、石尾芳久、石野博信、井出至、上田正昭、江上波夫、大谷光男、大庭脩、大林太良、小田富士雄、笠井倭人、金関丈夫、国分直一、桜井徳太郎、潮見浩、直木孝次郎、西嶋定生、西谷正、原島礼二、樋口清之、松本清張、水野祐、森浩一、山尾幸久、山本武夫の各氏である。

この本の序は、当時の考古学者の第一人者と評される江上波夫氏が書いた。

江上氏は序文で、下記のごとく〈文献批判〉について説明する。

「伝承にしてもいろいろなものが各地域に存在しており、それらをある時期に適当に組み合わせてまとめたものが『古事記』や『日本書紀』であろうから、現代史学や文献批判の立場からすれば、それらに矛盾や不統一があって当然なのである。それをたんに矛盾や不統一がるからということで無視することは出来ない。そのことは広い意味の民族学、すなわち神話、伝承、民俗などを取り扱う学問では当然なことであるが、歴史学界では必ずしも一般的になっていないのが現状である。また軽々しく文献史料を信用してはいけないというが、なぜ信用してならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいはどのようなとらえ方をしたならば信用できるものとなるのか、などを見きわめて、史料を利用することが必要である。」

上記の江上教授の文章を2、3回繰り返して読めば、〈文献批判〉の実体は〈誤読〉であることが察知できる。

江上教授は「軽々しく文献史料を信用してはいけないというが、なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいはどのようなとらえ方をしたならば信用きるものとなるのか、などを見きわめて、史料を利用することが必要である」と述べているとおり、『魏志倭人伝』のどの記事も軽々しく信用してはいけないと主張する。このように、〈文献批判〉はすなわち〈誤読しなければいけない〉と言っていることになるので、〈文献批判〉はまさに〈誤読〉以外のなにものでもないことになる。

だから、すべての邪馬台国説は〈誤読〉して成立したものであるから、誤読説ということになる。

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2008年10月27日 (月)

17章 邪馬台国説は日本を滅ぼす-1

すべての邪馬台国説は誤読の空論である。

この誤読の空論の邪馬台国説と、いま起きている100年に一度と言われる世界同時不況は、同じ西欧近代科学の致命的欠陥《傲慢(ごうまん)の単純化》から生まれている。

世界同時不況が回復するのに3年、あるいは数年かかるだろうなんて、経済学者や彼らの言いなりになってマスメディアはおしゃっているが──これは経済学者やそれに関係する人々の希望的観測であるにちがいない。そこで、彼らの推理がたとえ正しいとしても、その直後から彼らやマスメディアがまったく予測しない日本滅亡が襲来する可能性大となる。いま起こっている世界同時不況は、ついに《傲慢な単純化》の合理思考による自由経済の繁栄がここに終焉〈しゅうえん)をむかえたと示すものであって、今世紀初頭に必ず起きると決まっていた織り込みずみの出来事であると考えざるをえない。

というのも、1980年代から今世紀において、経済に変わる新しい価値観が生まれると指摘していた学者や思想家たちが幾人かいたからである。この指摘にもとづくと、この21世紀初頭から経済はこの新しい価値観に支配され服従することになる。この21世紀の新しい価値観への変革のために、いま世界同時不況が起こっていることになる。いいかえると、世界同時不況は自由経済が新しい価値観に取って変われて支配され服従することになる出来事であって、20世紀末のような《傲慢な単純化》にもとづいて自由経済が回復して異常に重視され繁栄するような事態にはならない。もし、そうなったならば、日本どころか地球が滅び人類が滅びることとなろう。

1980年代から、先端科学者たちは「西欧近代科学には《傲慢な単純化》という欠陥がある」と国際会議まで開いて警告していた。

『魏志倭人伝』のすべての記事は一字も曲げずに読めば科学が成立する、すべての記事は歴史の事実を伝える史書である。

すべての邪馬台国説は、『魏志倭人伝』の記事を信用せず、数か所も曲げて読みながら科学を成立させることができず多数の矛盾点を有する。ゆえに、すべての邪馬台国説は、『魏志倭人伝』の記事を一字も曲げずに読めば史実を知ることができる正当な方法を《傲慢な単純化》で排除した亡国の空論ということになる。

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2008年10月 5日 (日)

16章 井伊家創設の秘密-7

引佐町井伊谷に所在する龍潭寺(りょうたんじ)の古文書の中に『井伊家伝記』がある。この『井伊家伝記』は18 世紀に著作された戦国期の井伊家の盛衰を記述する資料である。この『井伊家伝記』は、井伊家創設が『魏志倭人伝』に記述される鬼道の学芸にもとづいて元祖・共保(ともやす)の誕生儀式がおこなわれた様子を下記のごとく記述する。

──井伊家元祖の備中守共資公は、66代一条天皇の時代の寛弘7年(1010)正月元旦の朝寅の刻(午前4時ごろ)に井戸の中から現れる儀式をおこなって誕生した。遠州引佐郡井伊保(のちの井伊谷)に往古より八幡宮があり、この八幡宮は遠江国62社社の内引佐郡6社の第一位の社(やしろ)である。この八幡宮の神前の瑞籬(みずがき)の傍(かたわ)らに神田があり、この神田の中に御手洗(みたらし)の井戸がある。神主(つまり、建比良鳥家の家督者)が儀式の段取りにしたがって元旦詣でをした。この時、井戸の中から嬰児(えいじ)の共資公が出生するように演出した。そして、すぐに龍潭寺の中の自浄院で産湯(うぶゆ)をかけ、この鬼道の子捨て儀式にもとづいて共保公は実母がいないことになったので粥(かゆ)をあたえてご養育することになった。これは吉例として龍潭寺では代々の住持は今に至るまで、元旦の寅の刻には井戸の水を汲み、共保公に掛けたと古来より申し伝えて来た産湯を掛ける古式をおこない、粥を元祖・共保公の御影に献上して読経などをして古代より行事として決めて勤めてきた。この由緒については、共保公から13代の家督者となった信濃守直平(なおひら)公が龍潭寺へ寄進した書状の一通に記載してある。

この井戸の中から赤ん坊が誕生する儀式は、古来日本にあった風習で、現在も乳児を捨てて近所の人に拾ってもらうと丈夫に育つということでその風習がのこっている地域がある。ゆえに井戸の中から出生するという儀式は、丈夫に育って神官家から新しい武家の家系が生まれて幾久しく栄えよと祈願する子捨て儀式だったのである。このような子捨て儀式は、古代において、武家でよくおこなわれていた。神官だった建比良鳥家は嬰児・共保の子捨て儀式をおこなって武家となった。共保は7歳になると遠江守の公家・藤原共資の養子となり、井伊保の城山に見立城を築き居住した。この出生の秘密によって、家名が「井伊」となった。「井伊」の[井]はもちろん共保の子捨て儀式をおこなった「井戸」であり、[伊]は「伊耶那美命」「伊耶那岐命」の両神の略称の[伊]である。いいかえると、[伊]は3章で説明した千引の石で伊耶那岐命が宣誓した「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわす。

共保の井戸の中から出生する儀式がおこなわれた陰暦1010年の1月1日は、グレゴリオ暦で現代暦に換算すると、1月24日である。「歳差(さいさ)」と天文現象を用いて1010年の1月24日(陰暦1月1日)の寅の刻(午前4時)の星空を再現すると、伊耶那美命(壱与)が生存した3世紀中ごろに天頂を通過した銀河部が北から30度東に寄った北北東の地平線から生まれる(昇りはじめる)状況であることが証明される。この伊耶那美命の存命中の天頂を通過した銀河部は、井桁(木で[井]の字形に組んだ、井戸のふち)の形となり、[井]の字源となる銀河部である。だから、伊耶那美命と伊耶那岐命が生存した3世紀半ばに天頂を通過した[井]の字源となる井桁の形をした銀河部が地平線から生まれようと出現する1010年1月1日の寅の刻に、天上の鬼神(かみ)に祈願して元祖・共保が井戸の中から出生すると演出する、武家となるための子捨て儀式がおこなわれたのである。

神社に参拝する時、手を洗い清める手水舎がある。この手水舎の前身は、水が流れる川岸であった。この神前で手を洗い清める川は「御手洗川(みたらしがわ)」といった。[井]の字源となる銀河部の東隣は御手洗川のような形をした銀河部である。だから、共保出生の井戸は「御手洗の井」と呼ばれたのである。

なお、この共保の子捨て儀式がおこなわれた「御手洗の井」は、7章で説明した──銅鐸で天頂緯度を測定した経緯度原点(都田川の河口の東岸)とこの経緯度原点と同緯度の滝峯不動尊(経緯度基点)とから発した二本の線、すなわち経度軸から夏至の日の出の方向の角度(29度)を引いた61度の傾きとなる二本の線が交わる交点となる。この測量は、ちょうど1千万坪の建比良鳥の地上絵を制作した鬼道の天文地理学の秘密を表示するものである。

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2008年10月 2日 (木)

15章 井伊家創設の秘密-6

建比良鳥の地上絵(細江町)の北隣の地は、引佐町井伊谷(いなさちょういいのや)である。

この引佐町井伊谷を本拠地とする井伊家は、1010年(寛弘7)に創設された。この井伊家の創設は、公家の藤原共資(ともすけ)が遠江国村櫛半島の郷に下って志津城を築き、他所(よそ)から浸入してきた武士団が荘園を開墾して建比良鳥の地上絵を破壊するのを阻止する努力がなされてから約18年後のことである。

この約18年もの間、建比良鳥命の子孫たちは共資の努力を冷たく疑って見て見ぬふりをしていた。というのも、11章で説明したように、共資の先祖の不比等・房前父子は建比良鳥の地上絵が保存する〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史と『魏志倭人伝』の記事となる歴史を抹殺せんとして奔走したからである。簡単に信用して心をゆるして共資に裏切られたならば、およそ750年もの間まもってきた建比良鳥の地上絵は消滅し、それではこの遺跡をまもってきた建比良鳥家の先祖たちの努力が浮かばれなくなってしまう。また、建比良鳥の地上絵を制作した建比良鳥命の歴史の真相を後世に伝えんとした志(こころざし)も空(むな)しくなってしまう。

建比良鳥の地上絵を守るは「倫命(りんめい)」すなわち「人として実行しなければならない使命」と決意して公家から武士となってよそ者の地上絵の侵入をゆるさじと志津城を築いて努力する共資を約18年もの間疑惑の目で見ていた建比良鳥命の子孫たちが、ようやく信用することになったので井伊家は創設された。

井伊家の元祖は共保(ともやす)で、この共保は7歳の時に共資の養子となった。これによって井伊家は藤原北家の血統を引き継ぐ家系となったので、井伊家元祖の共保は長じて備中守に就任した。共保が共資の養子となると、井伊保城山に見立城が築かれ共保が居城した。この居城の縁(えにし)によって「井伊」が家名になった──と、『井伊家伝記』は記す。

井伊家創設の当時、建比良鳥家の家督者は神官であったと考えられる。というのも、当時、都から遠く離れた遠江において『魏志倭人伝』の記事となる鬼道の学芸と〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史を保存する遺跡・建比良鳥の地上絵をまもる財力と地位を得るには、神官という職につくしかないからであった。13章で紹介したように、『日本三大実録』の貞観8年(866年)12月26日の条は「遠江国正六位上蟾渭神及び鳥飼神を従五位下とする」と記述する。この正六位上の蟾渭神と従五位下の鳥飼神の神官は、建比良鳥命の子孫だったにちがいない。

『井伊家伝記』の井伊家元祖・共保の誕生儀式について書く記事の中に、神主が登場する。この神主こそ、共保の実父の建比良鳥家の家督者であったと考えられる。次章で、井伊家元祖・共保の誕生儀式の秘密を解説する。

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2008年9月26日 (金)

14章 井伊家創設の秘密-5

13章で説明したように、谷となり森林となる1000m南と北に離れる滝峯不動尊・蜂前神社の経度を測量するときに、蜜蜂の巣よりとれる密蝋(みつろう)に点す灯を利用した。この方法だと、木々の間から灯が見えるので南北の経度と東西の緯度もは測定できる。ゆえに、滝峯不動・と蜂前神社を結ぶ経度が測定でき、さらにその経度軸を延長して遠い地まで測量できた。この器具を、『隋書』倭国伝は「如意宝珠(にょいほうしゅ)といい、その色は青く、大きさは鶏の卵ぐらいで、夜に光る。また、魚の眼精(めだま)だという」と説明する。

魚の目玉は、夜間の水中で光る。ゆえに、「如意宝珠」の又の名は「魚の目精」と呼ばれたと考えられる。そして、この器具は南北の経度と東西の緯度を意の如く(意のまま)に計測でき、その蝋に灯が点ると三熊野(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の牛王神璽(ごおうしんじ)のお札中央の「日本第一」という文字の下の宝珠の形のごとくなった。だから、この器具の名は「如意宝珠」となったにちがいない。伊耶那岐命は『魏志倭人伝』では「載斯烏越(そしあお)」という名であり、その「烏越(あお)」は「青」または「青年武将」を意味するものであったにちがいない。小国・日本の女王となった伊耶那美命は熊野那智大社の主神となり、那智の大滝の精霊となる。ゆえに、滝の水の色の〈青〉から「青」は「伊耶那美命」を象徴する色となったにちがいない。このため、如意宝珠の色は青かったのであるまいか。

蜂前神社の[蜂]は「蜜蜂」をあらわすので、また蜜蜂の密を好む「熊」をあらわすことになる。ゆえに、社号の「蜂前」は「蜜蜂の巣の前に立って密をなめる熊」をあらわし、「伊耶那美命を祭る熊野那智大社・伊耶那岐命を祭る熊野速玉大社」をあらわすものだったにちがいない。だから、「八ケ前(はちがまえ)」という地名に因(ちな)んで「蜂前(はちまえ)」と社号が改め古名に復したというのはカムフラージュで、ほんとうは日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命と伊耶那岐命をあらわすために「蜂前神社」と改めたにちがいない。

というのも、建比良鳥の地上絵は〔愛〕の理念が誓われた日本国誕生史を後世の人々に伝承するために制作されたからにほかならない。

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13章 井伊家創設の秘密-4

『日本三大実録』貞観8年(866)12月26日の条に「遠江国正六位上蟾渭神及び鳥飼神を従五位下とする。」という記事がある。この蟾渭神は、引佐町井伊谷の北西端に鎮座する渭伊神社である。鳥飼神は、細江町中川(祝田区)に鎮座する蜂前(はちさき)神社である。

社号は八ケ前(はちがさき)の地名によって「蜂ケ前(はちがさき)」と称したが、允恭天皇の代(5世紀)以降は鳥飼(とりかい)神社または羽鳥(はとり)大明神ととなえ、927年(延長5)にさらに「蜂前神社」と改め古名に復したと伝えられる。

地名「八ケ前」の[八]は「八代(やしろ)」すなわち「社(神社)」または「東西南北の四方位と東北・東南・西北・西南の四方角合わせて八方位」をあらわすものであったと考えられる。つまり、「八ケ前」という地名は「八方位の基点」をあらわすものであったと考えられる。

「鳥飼神社」・「羽鳥大明神」という社号は、「大鳥の形をした郷すなわち建比良鳥の地上絵」をあらわすものとなる。

この鳥飼神社すなわち蜂前神社のほぼ1000mの真南に、滝峯不動尊(祝田区)がある。この滝峯不動尊は、7章で説明したように、都田川の河口東岸に設定した経緯度原点と同緯度の経緯度基点となる地である。この滝峯不動尊の経度軸は蜂前神社のすぐ前(わずか2mぐらい東)を通過する。すべての天体部は一日24時間ちょうど一周するのではなく、24時間より4分短い23時間56分で一周する。蜂前神社の鳥居の中心が滝峯不動尊の経度軸より2m西にはずれるのは、この秘密をあらわすものである。ゆえに、「蜂前」の[蜂]と「滝峯」の[峯]は、両字とも同じ[夆]という字部を有する。

滝峯不動尊から蜂前神社までは谷となり森林となる。このような地域で経度を測量するには、蝋(ろう)に点(とも)す灯が用いられた。この蝋は、蜜蜂の巣よりとれる「密蝋(みつろう)であった。この深い林の中で経度や緯度を測量するときに用いられた灯をともす器具の名は「如意宝珠(にょいほうしゅ)」と呼ばれた

『隋書』倭国伝は「如意宝珠あり。その色青く、大きさ鶏卵のごとく、夜はすなわち光あり。いう魚の眼精(めだま)と」と記載する。

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12章 井伊家創設の秘密-3

『古事記』は天皇と国家の権力の絶対化をはかる反律令国家の史書である。

『古事記』の日本建国の〔愛〕の理念を後世へ伝えんとして著作された。この日本建国の〔愛〕の理念は『古事記』上巻のテーマとなり、それは伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部の千引の石(ちびきのいわ)の前における伊耶那岐命の「吾一日に千五百の産屋立てむ」という宣誓で表示される。『古事記』は律令体制が抹殺せんとする日本建国の〔愛〕の理念を残さんとする史書であるので、元明天皇は『古事記』献上を拒否して焚書(ふんしょ)とした。だから、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には『古事記』編纂や完成などに関する記事は一切載せられていない。しかし、『古事記』は日本民族の理想や国民が残して欲しいと強く求めた歴史を記載した書物であったために、律令体制が抹殺をはかって焚書したにもかかわらず消滅せずに後世まで残った。

日本建国理念「吾一日に千五百の産屋立てむ」と宣誓された千引の石は、和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社のご神体「ごとびき岩」である。このごとびき岩は、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の千引の石の説明記事に合致する。岩の名「ごとびき」は「蟾(ひきがえる)」を意味する。

『古事記』は712年(和銅5)1月28日に元明天皇に献上されたが、天皇はそれを拒絶した。翌713年、風土記編纂が発令され、諸国郡郷名に好字2字を用いるように命令された。これは、日本建国史やその〔愛〕の理念を伝える地名の抹殺をはかるための政略であった。当時は建比良鳥命の子孫が居住した引佐町井伊保(のちの井伊谷)周辺の地名は「蟾郷」または「渭郷」であった。前者の「蟾郷」は「ごとびき(蟾)の郷」と意味するので、日本建国の〔愛〕の理念を表示する地名であるので、朝廷に刃向う者として氏族が抹殺されるのを畏怖して、建比良鳥命の子孫は「蟾郷」を「渭伊郷」と改めた。この「渭伊郷」の[伊]は「伊耶那美命・伊耶那岐命」の先頭字[伊]であり、なおも密やかに日本建国の〔愛〕の理念を残さんとして律令体制に抵抗するものであったのである。

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11章 井伊家創設の秘密-2

遠江国守に赴任した藤原共資が村櫛半島南端に志津城を築いた10世紀末──8世紀半ばに制定された墾田永年私財法によって未墾の地を耕せば私有の荘園にすることができたので、寺社や貴族は競って武士団をやとって荘園の増加をはかっていた。この荘園の発達によってちょうど1千万坪になるように土地測量されて制作された遺跡・建比良鳥の地上絵は危機的状況にあった。

建比良鳥の右翼(南部)となる地域は、浜名湖に向って南西へ突き出る村櫛半島の付け根となる。したがって、村櫛半島は建比良鳥の地上絵の範囲外となる。しかし、村櫛半島全域はもちろん各部の地形・地点は、『魏志倭人伝』の記事となる鬼道の学芸の秘密と『古事記』伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載する日本建国史の真相を保存する史料として欠くことができない要所となった。だから、共資は村櫛半島南端に志津城を築いて侵入者の開墾を阻止したのである。

現在にあっても、建比良鳥の地上絵(細江町)全域が田畑に開墾されていない。したがって、10世紀末当時は全域が開墾されていないため、未墾の一角をよそ者が侵入して私有地(荘園)にしたならば、建比良鳥の地上絵の歴史を保存する機能が損なわれて大打撃を受けた。というのも、その歴史の記憶(保存)方法は一部分と全体とが密接に関連しあう組織となっているため、一角が侵入者の荘園になって地名が変えられ史料と定められた地点が失われると、遺跡全体(引佐町・建比良鳥の地上絵=細江町・村櫛半島)に影響し、歴史の真相を残す遺跡として機能不全をおこして役に立たなくなって滅びてしまうようになっていたからである。

共資の先祖・藤原北家の頭首房前(ふささき)の父親は不比等(ふひと)である。この不比等・房前父子は天皇と国家の権力の強大化をはかる律令体制の推進に尽力し、その邪魔となる〔愛〕の理念が掲げられて建国された日本誕生史の抹殺に奔走した。

『井伊家伝記』は「正暦年中(991年~994年)公家藤原共資、倫命により遠江国村櫛の郷に下って居住する」と説明する。この文中にある「倫命」は「人として実行すべき使命(つとめ)」と意味する。

共資は先祖の不比等・房前が歴史の抹殺をはかった行為は倫命に反する大犯罪であると断じて、藤原北家という血を越えて建比良鳥の地上絵は後世まで保存しなければならないと志津城を築いてまもった。この共資の熱き思いがあればこそ、建比良鳥の地上絵は荘園の増加発達の損傷を受けず消滅しなかったのである。

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2008年9月25日 (木)

10章 井伊家創設の秘密-1

ちょうど1千万坪の建比良鳥の地上絵(細江町)の北隣の地は、引佐町井伊谷(いなちょういいのや)である。この地を本拠地とする井伊家は、1010年(寛弘7)に創設された。

この井伊家系図は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)から始まる。これゆえ、藤原鎌足は井伊家の遠祖となる。井伊家・始祖の冬嗣は、藤原北家頭首・房前(ふささき)の曾孫(ひまご)である。

藤原冬嗣から8代目にあたる子孫に、藤原共資(ともすけ)がいる。『井伊家伝記』によると「共資は正暦年間(991年~994年)に遠江国の村櫛之郷(むらくしのごう)に下って居住した」という。『三ケ日町史』は「共資は正暦4年、村櫛に志津城(しづじょう)を築いたと伝えられる」と記す。

当時の遠江の国府は、村櫛之郷(現在の浜松市の村櫛半島)から東へ約23㎞離れた磐田市見付(みつけ)に所在した。共資は国府所在地の見付に住まず村櫛半島南端に志津城を築いて居住したのは、村櫛半島北側にひろがる大地に所在する遺跡・建比良鳥の地上絵を守らんとしたからにほかならない。

当時は藤原北家の道長が摂関の地位をめぐって争い、995年(長徳1)に内覧の宣旨(せんじ)を受けて覇権を手に入れた時代であった。また当時は、律令体制の土地制度が8世紀半ばに制定された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)によってくずれはじめ、寺社や貴族などの荘園(荘園)が増加するにつれて、政府も皇室も荘園領主への道をたどっていた。このため、荘園は公領・国衙(こくが)とならんで、社会の土台を形成していた。

このような荘園の発達によって生ずる争いに対処するために、地方に赴任した国守は国府に居住せず別の地に住んで治安維持にあたることは許可されていた。それゆえ、共資は神代(3世紀後半)の遺跡・建比良鳥の地上絵を守らんとして、浜名湖の南から侵入して建比良鳥の地上絵内の土地を開墾して私有の荘園にするために寺社や貴族にやとわれる武士団を駆逐するため、貴族の共資は城を築いて武士となったのである。

前章で幾度となく説明したように、建比良鳥の地上絵は『魏志倭人伝』の記事の真相を保存する遺跡である。この『魏志倭人伝』の正式名は『三国志』魏書東夷伝倭人条である。『三国志』の[志]は「歴史」を意味した。共資が城を築いた村櫛半島南端は津(港)のような地であり、「建比良鳥」の先頭字[建]も[津]と同様に[聿]の字部を有する。だから、遠江国守共資は、建比良鳥の地上絵に秘められる『魏志倭人伝』の志(歴史)を守る津(港)に築いた城であるから、その名を「志津城」としたにちがいない。

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2008年9月24日 (水)

9章 建比良鳥の地上絵-5

遠江(静岡県西部)に属する細江町の地図上の形すなわち建比良鳥の地上絵によって、『魏志倭人伝』末部に記載される倭女王壱与は『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であり、『魏志倭人伝』後半に記載される武将・載斯烏越(そしあお)は伊耶那岐命であることが明らかになる。この解明は今日おこなわないが、その時が到来したら後日詳細におこなう。

『魏志倭人伝』は「魏の正始八年=247年、倭の使者・載斯烏越(伊耶那岐命)は朝鮮半島に所在する魏の出張機関の帯方郡庁に訪問して、倭と狗奴国(くなこく)が争う戦況を説明した」と記載する。ゆえに、載斯烏越・伊耶那岐命は247年の時点では生存していたことになる。

この載斯烏越の記事の後に「13才で小国・日本国(旧東鯷人国)の女王となった壱与(伊耶那美命)が倭女王に就任した」と、『魏志倭人伝』は記載する。したがって、壱与(伊耶那美命)も、247年には生存していたことになる。

この『魏志倭人伝』の記事から、『古事記』が火災事故に遭遇して火傷を負い伊耶那美命が没したと書く、その没年は260年ころであったと推定される。当時は医学が発達していなかったから、平均寿命は30歳~35歳ぐらいであったにちがいない。そして、『古事記』は「伊耶那美命(倭女王壱与)は若くして死去した」と示唆するので、彼女は260年ころに没したと考えられる。

『古事記』において、伊耶那美命の次に天照大御神が登場する。この『古事記』の記事からして、天照大御神は長寿で260年~280年ころまで生存したと考えられる。

そうすると、『古事記』天照大御神と須佐之男命説話末部に登場する遠江国造の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は260年~280年ころに生存したことになり、建比良鳥の地上絵内から出土した三遠式銅鐸が使用された260年~290年に合致する。また、建比良鳥命が建比良鳥の地上絵を制作したのは260年~280年であったことになるので、『魏志倭人伝』が著作された太康年間(280年~289年)と同時代ということになる。

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