四千年前に日本には漢字が伝来した

現代史学が力説する邪馬台国説は日本四千年の学問史を消滅させる誤読の空論であった

令和元年の大嘗祭は4000年の学問史を示す大祭であった。だから大嘗祭は宗教儀式ではない。

【日本四千年の学問史】大川誠一

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2021年10月 9日 (土)

四千年前に日本には漢字が伝来していた・2

▼前回のブログ「四千年前に日本には漢字が伝来していた・1」で説明して証明したように――学者たちが自慢(じまん)する邪馬台国説は【多数の誤読を加える、騙(だま)しの方法】で捏造(ねつぞう)しねじまげてデッチあげた空理空論・デタラメ・大ウソであった。
 つまり、邪馬台国説を代表する(1)吉野ケ里(よしのがり)遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と纏向(まきむく)遺跡を根拠・理由とする邪馬台国説畿内(きない)説は、約2000字で構成される歴史書『魏志倭人伝(ぎわじんでん)』に【多数の誤読】を加えて騙(だま)す詭弁(きべん)をもって、事実・真実とはまったく無関係の空理空論・戯言(たわごと)・大ウソであった。
 だから、考古学を鼻にかけて吉野ケ里遺跡・邪馬台国九州説をとなえる「レジェント」と呼ばれる考古学者と、纏向遺跡・邪馬台国畿内説を誇示する「レジェント」と呼ばれる考古学者は「古代に作られた書物はもちろん、現代に著作された書物においても、【誤読を1ヵ所も加えずに】真っ先に読んで解釈しなければならない」という学問の基本について無知(むち)なる・初歩的心得(しょほてきこころえ)がそなわっていない“学者”と呼べない大ウソつきということになる。

◆吉野ケ里遺跡・邪馬台国九州説と纏向遺跡・邪馬台国畿内説は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて成立する。この二つの邪馬台国説は「『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼(ひみこ)が居住した女王国の所在地について記述する書物である」と主張する。

 しかし、『魏志倭人伝』に【1ヵ所も誤読】を加えないで全記事を忠実(ちゅうじつ)に読むと――『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で、今から約4000年前の後期縄文時代初頭にわが国が中国から伝来した原初漢字の夏音(かおん)文字を習得(しゅうとく)したとき、今から約5000年前の中国の五帝(ごてい)時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた【倉頡(そうきつ)と呼ばれる聖人(せいじん)が発明した漢字作成理論の学問】をも習得した。ゆえに、倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の基本】をあらわすために国名を「倭人国」と定め、また女王国(倭人国の首都所在)の名を「邪馬壱(やまい)国」と定めて【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわすようにし――さらに、倭人国を構成する34の小国名(ただし、1国の小国名は記されていない)をもって【倉頡が発明した漢字作成理論体系】を理路整然(りろせいぜん)と説明するようにした。つまり、倭女王の卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤(せいけんきばん)にして天下を治めた。卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱国は山陰地方の石見(いわみ)・出雲(いずも)・伯耆(ほうき)、つまり現在の島根県と鳥取県西部であった――と解釈(かいしゃく)できる。
 このように、【1ヵ所も誤読】を加えない方法だと【多数の誤読】を駆使(くし)する邪馬台国説とまったく異(こと)なる結果となる。なお、『魏志倭人伝』に【1ヵ所も誤読を加えない解釈】だと、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】の基(もと)に統一されて1点の矛盾点も不合理な点も存在しない学術書であったことになる。

 学者たちは、倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は【誤読】して「邪馬臺()国」であったと主張する。しかし、実際、『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬壹()国」と記す。また、【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづくと中国の東にある倭人国の首都所在地名は「邪馬壹()国」と表記すべきことになる。いっぽう、「邪馬臺()国」という表記だと倭人国の西にある中国の「魏の都・洛陽(らくよう)」をあらわすことになる。だから、『魏志倭人伝』は終末部にある「因()りて臺()に詣(いた)り」という文における「臺()」は「魏都の洛陽」を意味する。つまり、【倉頡が発明した漢字作成理論】に因()ると「洛陽」の[][]の字源(「洛陽」の語源)は「邪馬臺()」となるゆえ、その「邪馬」は省略されて「魏都」は「臺()」と記されたのである。
 〔注 なお『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壱国」と表記して「邪馬台国」と表記していない事実を、前年に死去した古代史研究家の古田武彦(ふるた・たけひこ)氏が克明(こくめい)に調査・研究して、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で証明した。〕

◆上記したように、このブログにおける説明を容易(ようい)に理解していただくため、わが国が中国の夏代(かだい)初頭に習得した漢字名を「夏音(かおん)文字」と名づけた。
 前回のブログ「四千年前に日本には漢字が伝来していた・1」においても解説したように――千賀四郎(せんが・しろう)編集『日本古代史の旅・3 邪馬台国』(小学館発行/1975年初版第一刷)30ページは〔卑弥呼の発音について〕と題する【注】で、下記のごとく指摘する。
 ――中国漢字の上古音(じょうこおん)で読めば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となり、(中略)、現在の中国音では「ピーミーフー」である。

 したがって、「卑弥呼」の[]の字を中国の上古音・中古音・近古音・現代音では「ピ」または「ピー」と読み、わが国のごとく「ヒ」とは読まない。
 だから、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、中国の上古音よりも古い・日本国に残されている現存する最古の夏音文字の漢字音であった。したがって、わが国は、今から四千年前の夏代初頭に夏音文字を習得(しゅうとく)した。この夏音文字は卑弥呼が生存した3世紀半ばまで受け継がれて残っていたことになる。さらに、夏音文字は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に使用され、また『古事記』上巻の随所(ずいしょ)の〔音〕という注がついて多くの夏音文字が現在まで残っている。
 わが国のすべての学者たちは「卑弥呼」の3字を、当時の中国の中古音「ピミエクゥオ」と読まずに、夏音文字の漢字音で「ヒミコ」と読む。ゆえに、すべての学者たちは「卑弥呼」を「ヒミコ」と夏代初頭の漢字音で読むゆえ、わが日本が最初には漢字を習得したのは今から四千年前(紀元前21世紀末)であったことは確かな事実となる。

◆わが国の古代中国漢字研究の第一人者は、前年に死去した白川静(しらかわ・しずか)博士である。白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの初めから3行目までで、〔わが国の漢字音〕と題して、下記のごとく指摘(してき)する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学(おんいんがく)がとり入れられ、殊(こと)に音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用(てきよう)しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展(しんてん)をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものでることが明らかとなった。」

 白川静著『字統』は上記した〔わが国の漢字音〕と題する記事で「現存する中国の最古の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」と指摘する。
 この「現存する中国の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」という漢字音は、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音、つまり今から四千年前の中国の夏代初頭にわが国が習得した夏音文字の漢字音であった。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられる。中国の上古音で読むと、「卑弥呼」を「ピミカ」となる。中国の上古音は今から約3070(紀元前1046)ごろの周代(しゅうだい)初頭から始まるとされる。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む夏音文字は、今から四千年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の後期縄文時代初頭に、中国からわが国に伝来した。
 このため、夏音文字は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に使用され、また『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕と注がついて多数残っている。この夏音文字の漢字音は中国の最古の漢字音・上古音よりも約1000年も古い。
 したがって、わが国には四千年前に習得した夏音文字が残っていたから、白川静著『字統』は「言語学と音韻学の研究成果によって、現存する中国の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古いことが明らかとなった」と指摘したのである。

◆現在、学界は――日本に漢字が最初に習得されて使用されたのは、5世紀あるいは6世紀である――と断定する。というのも、漢字が刻(きざ)まれていた鉄製の剣や鏡の遺物(いぶつ)における、最古の遺物は5世紀だからである。
 上記したように、5世紀の年代を記す鉄製の剣に漢字の楷書(かいしょ)が刻まれる。だから、学界は考古学の観点(かんてん)にもとづいて「日本が最初に漢字を習得して使用したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
 しかし、わが国が漢字を最初に習得した学説は――【一】白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して箇所で指摘する、言語学と音韻学の研究によって解明された夏音文字が習得された後期縄文時代初頭の四千年前説と、【二】上記した考古学の観点による「わが国が、最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が定める定説の、二つ学説が存在する。
 ところが、学者たちは、わが国の漢字習得の意見は【一】言語学・音韻学の観点と【二】考古学的の観点のまったく異なる二説が存在することを認識(にんしき)していない。

◆上記した【二】の「日本が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する《考古学の成果による定説による漢字音》は、中国の上古音よりも新しい。ゆえに、考古学の成果による定説は、下に示す〔漢字生長史〕の年表における最下部に配置することになる。この結果、考古学の意見を信用して学界が正しいと断定した漢字習得の定説は【科学】が成立しない空理空論・幻想であったことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、上記した【一】の今から四千年前の夏代初頭に習得された夏音文字が多数記載されて、この目で実際に目撃できて四千年前に夏音文字を習得したことは真実であったと確認できるからである。
 学界が考古学の観点による漢字習得説が正しいと断定した錯覚(さっかく)が原因で、わが国の学界はじめ知識人層・マスメディア・ジャーナリズム・評論家など、また多くの日本国民や、あるいは韓国人や日本国の歴史に精通(せいつう)する欧米の学者たちは「日本が漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と思いこんでいる。
 いっぽう、いっこうに日の目を見ない白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題した箇所で指摘する言語学・音韻学の研究成果に合致する原初漢字・夏音文字の習得説は【科学】が成立して事実となる。
 というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載される《夏音文字の漢字音》について、白川静著『字統』は「現存する中国の最古の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」と説明しているからである。その証拠に――下に配した〔漢字生長史〕に示したように、わが国に残されている最古の夏音文字の漢字音は、現存する中国の最古の周代の上古音よりも約1000年も古い。
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◆わが国が最初に中国から漢字を習得したのは約四千年前、つまり紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であったのである。
 前回のブログ「四千年前に日本には漢字が伝来していた・1」で具体的に解説して証明したように――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は「中国から伝来した夏音文字の学問を習得した夏代初頭、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と説明している。
 だから、「卑弥呼」は夏音文字の漢字音で「ヒミコ」と読むことになり、「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めた」と『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で説明している。
 現在、学者たちは「太古、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と説明する中国の倉頡伝説を「荒唐無稽(こうとうむけい)の真っ赤なウソである」と断定する。
 この「倉頡伝説は荒唐無稽のウソ説」によって倉頡伝説を研究する学者が一人もいなくなった。このため、『魏志倭人伝』に【倉頡が発明した漢字作成理論】が記載されている事実に気づく学者がこの世から消えた。また、学者の誰一人も音韻学の成果に適合(てきごう)する夏音文字が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数残っている事実に気づかないことになった。

 しかし、江戸時代中期の新井白石(あらい・はくせき)が邪馬台国畿内説・邪馬台国九州説を最初に立論した18世紀前半より以前において、学問に精通する学識者たち(たとえば、代々の天皇はじめ学問研究に努力した皇族たちや源頼朝はじめ北条氏・足利将軍たちや織田信長や徳川家康や大老職についた井伊家の家督者たち)は「倉頡伝説は事実を伝えている。倉頡は銀河から漢字を作る方法を発明した。【倉頡が発明した漢字作成理論】は鬼道(きどう)・神道(しんとう)の生みの親であり、漢字を使用して教えを説く仏教りも優(まさ)る最高峰の学問であり、真実・真理である」と絶対視して一点の疑いも抱かずに信じていた。
 このような次第(しだい)であったから、中国の晋(しん)王朝につかえた著作郎(ちょさくろう/歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年ころに著作した『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えている。倉頡は銀河から漢字を作る方法を発明した。【倉頡が発明した漢字作成理論】は最高峰の学問あり、真実・真理である」という考えの基(もと)に解釈(かいしゃく)しなければならない学術書であった。
 前述したように、『魏志倭人伝』に【1ヵ所も誤読】を加えないと、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤としたことが解明できる。その証拠に、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を「倭人国」という国名で示し、【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】を女王国の「邪馬壱(やまい)国」という女王国名であらわし、また33の小国名で【倉頡が発明した漢字作成理論体系】を理路整然と説明している。

◆邪馬台国説をとなえる学者たちは、きわめて自我中心的な主観的な考え(つまり、卑弥呼と同時代の3世紀に生存した『魏志倭人伝』の著者の陳寿の考えよりも、1700年後の現在に生きている自分たちの意見のほうが絶対に正しい)と考えて、『魏志倭人伝』に何(なん)ら躊躇(ちゅうちょ)せずに【たくさんの誤読】を加える。
 ところが、卑弥呼と同時代の3世紀に生存した、『魏志倭人伝』を著作した中国人の陳寿の記述が事実を伝えるものであったということになると、1700年後の現在の学者たちの『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて解釈する意見はあくまでも学者たち各自の主観的偏見(へんけん)であって、【科学】に反する大ウソ・空理空論ということになる。
 邪馬台国説をとなえる学者たちの主観的な考え方のルールは「『魏志倭人伝』は中国で著作された歴史史料である。ゆえに、中国の立場から倭人国の様子を記述した書物であると考えるべきことになり、単純に倭人国(日本)の文献史料として読んではならない。したがって、中国人の陳寿が著作した『魏志倭人伝』の全記事は正しい、事実を伝えていると軽々しく信用して読んではならない。なぜ、信用してはいけないのか、信用できない点はどのような事柄なのか、あるいはどのように考えたならば信用できることになるのか批判(ひはん)を加えて解釈しなければならない」である。
 しかし、上記の【多数の誤読】を加える主観的な邪馬台国説の方法で解釈(かいしゃく)された九州説と畿内説には幾つかの矛盾点と不合理な点が生じ、両説はともに【科学】がいっこうに成立しないために論争に終止符(しゅうしふ)を打つことができず、結局(けっきょく)、現在、事実であったと決着(けっちゃく)することができないままの状態となる。

◆いっぽう、陳寿の記述は3世紀の倭国における事実を伝えていると信じて【一ヵ所も誤読を加えない方法】で解釈する客観的な考えの場合、「〔倭人国から魏へ送られた国書(こくしょ)〕にあった記述を、陳述は『魏志倭人伝』に書きうつした」と考えるべきことになる。
 なぜならば、『魏志倭人伝』は――倭国は夏音文字の学問を習得し、また【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】をも習得した――と説明しているからである。だから、陳寿は〔倭国が作った国書〕を資料にして『魏志倭人伝』を著作したことになる。したがって、主観的な邪馬台国説学者たちの立論方法のごとく、中国の立場から倭国の様子を考える作業はいっさい不要となる。
 このように、【一ヵ所の誤読を加えない方法】だと主観的な邪馬台国説とは真逆(まぎゃく)の、邪馬台国説をとなえる現在の学者たちよりも3世紀に生きた陳寿を信じるべきということになる。
 上記のごとく【客観的な考え】に徹底(てってい)して、『魏志倭人伝』に【1ヵ所も誤読を加えない方法】で解釈すると――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の基(もと)1ヵ所も矛盾点も不合理な点も存在しない【科学】が成立する、正確無比(せいかくむひ)の学術書であったことになる。

◆中国の正史(せいし)『三国志』において〔魏書東夷伝(ぎしょとういでん)〕の末部にある「倭人伝」の通称が『魏志倭人伝』である。『三国志』は中国の正史のなかでも史料価値が高い良史(りょうし)と評価され、著者の陳寿は優れた歴史家であったとされる。
 現在、倉頡伝説は学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメ」と断定されているが――陳寿が生存した3世紀における「優れた歴史家の条件」は「倉頡伝説は事実を伝えるものであり、真実・真理である。倉頡は文字(漢字)を銀河各部の形状から作った」という知識を有していることであった。
 中国において「優れた歴史家」と尊(とうと)ばれる第一人者は、陳寿より約370年前に生存した『史記(しき)』を著作した司馬遷(しばせん)である。司馬遷の官職は「太子令(たいしれい)」であった。「太子令」の3字は「【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】に精通(せいつう)する歴史局の総裁」と意味した。
 漢字の字源を解説する“字書の聖典(せいてん)”と尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は、陳寿が『三国志』を完成させた年より約170年前の後漢時代の建光(けんこう)元年・121年に安帝(あんてい)に上呈(じょうてい)された。
 『説文解字』の序には「けだし文字は経芸(けいげい)の本(もと)、王政の始め、前人(ぜんじん)のもって後人(こうじん)に垂()れるところ、後人のもって古(しにしえ)を識()るなり」という文がある。
 上記の文は「考えるに、倉頡が発明した文字は学問の根本であり、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】は王道政治を始める(創設する)際に真っ先に必要な権力基盤であり、過去の出来事である歴史を正確に知る方法である」と意味した。
 倉頡は「銀河各部の形状から、文字を作る方法を発明した。したがって、銀河各部のイメージを感覚(かんかく)で造形(ぞうけい/図案)する行為(こうい)」は「芸術」ということになる。だから、「経芸」は「学問」を意味した。[]の甲骨(こうこつ)文字の字形は「わが国の千木(ちぎ)形式の神社の形」に表現され、[]の字源は「[]の千木形式の建物は、南北(経度軸)を測量して造営(ぞうえい)するが決()まり」であった。これゆえ、「経芸」は「学問」を意味した。
 下に、[]の字源となった「千木形式の神社建築の図」を配した。
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◆上記した司馬遷の官職名「太子令」が示しているように、3世紀において「優れた歴史家」となるためには、《【倉頡が発明した漢字作成理論】を学(まな)び、漢字の字源・真の字形・真の字義は銀河各部の形状であるという知識》を有していなければならなかった。

 『魏志倭人伝』には「対馬国(現在の長崎県の対馬)と一大国(現在の長崎県壱岐)の中間の海の名は瀚海(かんかい)であった」という記事がある。
 この「瀚海」という記事は、特に注目すべきことになる。
 対馬国と一大国の中間の「瀚海」は「倉頡がつかえた黄帝を祭る廟(びょう)と墓である黄帝陵(こうていりょう)より北方の広大な沙漠(さばく)の、ゴビ沙漠」を意味した。ゆえに、対馬国と一大国の中間に「ゴビ沙漠・瀚海」が存在するはずがない。「この瀚海、ゴ沙漠という記事は何じゃーい? これはビックリ・シャックリ玉手箱(たまてばこ)!」と注目すると、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学術書であったことが解明できるようになる。というのも、対馬国と一大国の中間の海の名「瀚海」は、倭国の33の小国名が【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】をあらわす仕組みにするための卑弥呼が考えた工夫(くふう/アイディア)であったからである。
 多分(たぶん)、陳寿は〔倭から魏へ送られた国書〕に「瀚海」という記述があることに注目したのであろう。けれども、中国の学識における常識にもとづくと、「瀚海」という記述は不合理であるゆえ削除(さくじょ)すべきことにある。しかし、「倉頡」の中国の読みは「ツンギ」であり、「ツンギ」つまり「蒙古(もうこ)のツングースー族」はゴビ沙漠の住人である。これゆえ、陳寿は「倭国はもしや【倉頡・ツンギが発明した漢字作成理論】を知っているのではないか」と想像したのであろう、だから「瀚海」という語を削除しなかった。
 というのも、『魏志倭人伝』には「倭の伊都(いと)国の津()では、魏の都・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いていた楷書(かいしょ)と倭女王・卑弥呼が魏都・帯方郡政庁に送った文書に用いていた文字(夏音文字)を一字ずつ丁寧(ていねい)に点検(てんけん)し確認(かくにん)して、両者の文字(楷書と夏音文字)の解釈に差錯(ささく/間違い・誤訳)が生じないように正確に変換していた」という記事があるからである。この〔伊都国の記事〕では「倭国の伊都国では、卑弥呼が文書に用いた夏音文字と魏都と帯方郡政庁で用いる楷書に正しく変換できた」と説明しているゆえ、陳寿が『魏志倭人伝』を著作するために使用した資料は〔倭人国が作った国書〕であったと考えるべきことになる。
 というのも、倭国では――倉頡は銀河から漢字を作る方法を発明した。倭国では漢字が銀河から作られた秘密を知っていた。ゆえに、伊都国の役人たちは港からよく見える銀河各部の形状観察を日課(にっか)にして、魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる夏音文字の字源・真の字形・真の字義を銀河各部の形状をもって一字ずつ点検し確認して誤訳が生じないように正しく変換していたこと――になるからである。
 上記した〔伊都国の記事〕と〔晋王朝が秘蔵(ひぞう)する「倭国から送られた国書」とされる資料には多数・多種の漢字が用いられている状況〕から、陳寿は「倭国には、銀河から作られた漢字が存在する」と察知(さっち)した。そして、倭女王名はなにゆえ「卑弥呼」なのかと注目(ちゅうもく)した。『説文解字』は[]の字源を「賤(いや)しきものなり」つまり「身分が低くいやしい」と解説するが、陳寿は女王名の[]の字を「賤しい」と解釈するのは誤りと考え、倭国の[]の字には女王にふさわしい別の意味があるのではないかと考えた。紀元前3世紀から6世紀にかけて中国の北部のゴビ沙漠・瀚海に住んだ遊牧民族は「鮮卑族」と名づけられた。ゆえに、陳寿は「倭国には【ゴビ沙漠の住人・鮮卑族であったかもしれないツンギ・倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が存在するであろう」と想像した。あるいは、「卑弥呼」の〔卑〕は「黄帝の政治を裨益(ひえき/補佐)した倉頡」をあらわしているであろうと推定した。あるいは、「裨益」の[]の原字は[]であり、「益は夏の始祖の禹()帝の政治を裨益(卑益)した」ことで有名であるゆえ、「卑弥呼の先祖は、夏王朝の帝位についた名門・益氏と接触(せっしょく)して【倉頡・ツンギが発明した漢字作成理論の学問】を習得した可能性がある」と考えたかもしれない。というのも、『魏志倭人伝』には「倭女王・卑弥呼は鬼道(きどう)を事(まつ)って能()く衆(国民)を惑(まど)わす、つまり民衆の心を一つにして国家を治めた」という記事が存在するからである。〔注、[]の正字は[]である。[][()]の中央に[]の字を配し、[][]の下に[]を加える字である。だから、「惑わす」は「民衆の心を一つにして国家を治める」と意味するものであったことになる。〕
 司馬遷著『史記』五帝本紀(ごていほんぎ)には「天地山川の鬼神(きじん)をまつっていた」という記事があり、また司馬遷著『史記』夏本紀(かほんぎ)にも「禹()帝は衣食をうすくして鬼神への供物を豊富にした」という記事がある。そして、卑弥呼がまつった「鬼道」は「鬼神の道」である。だから、陳寿は「倭国では、夏王朝の帝位についた益氏から【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を学んだ可能性がある」と考えたのではなかろうか。
 他にも『魏志倭人伝』には、陳寿は〔倭国が作った文書〕を資料にしたと示す記事は種々(しゅしゅ)存在するが、説明が煩雑(はんざつ)になるので省略(しょうりゃく)する。
 特に注目すべき点は、前述したように、対馬国と一大国の中間の海の名称を「瀚海」(ゴビ沙漠)とした不可解(ふかかい)な記事が『魏志倭人伝』に残ったということである。この「瀚海」という記述は、中国人の陳寿ならば、当然(とうぜん)、「何じゃ? これは! 黄帝陵の北方にある広大な瀚海・ゴビ砂漠が倭国の海に存在するはずがない」と考えて削除(さくじょ)すべきことになる。しかし、陳寿は「瀚海」という2字を残した。この「瀚海」という記事は〔倭国が作った国書〕を資料にして陳寿が『魏志倭人伝』を著作した明確なる理由・証拠となる。
 「瀚海」という語は〔倭国から送られた国書〕に記された女王国名の「邪馬壱」という語と密接(みっせつ)に関係した。「対馬国と一大国の中間に、瀚海・ゴビ沙漠」を挿入(そうにゅう)すると、倭の33小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明することができるようになる。つまり、「瀚海」という2字は「卑弥呼が倭国33小国名で【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわすために考えた天才的なグッドアイデア(すばらしい工夫)であった。
 だから、「瀚海」という語に注目すると、陳寿は〔倭国から送られた国書〕を資料にして『魏志倭人伝』を著作したと確信(かくしん)できる。

◆陳寿は〔倭国から魏に送られた国書〕に、批判や自分の主観をいっさい加えることをしなかった。陳寿は〔倭国の伊都国の港で夏音文字を楷書に変換した国書〕を資料にして『魏志倭人伝』を著作した。
 だから、「瀚海」と「邪馬壱国」という表記が残った『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然と説明する正確無比の聖典(せいてん)となった。
 したがって、陳寿は優れた歴史家であった。
 晋王朝に秘蔵されていた〔倭国から魏へ送られた国書〕を読んだ陳寿は「倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が存在するのではないか」と直観した。ゆえに、「まさか、倭国に【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が存在するはずがない」という否定・批判・常識に閉()じこもるのを止()めて、「倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が存在するにちがいない」という推論・感受性(かんじゅせい)を信じて、〔倭国から送られた国書〕とされる資料の文字を1字も直(なお)さないで『魏志倭人伝』を著作した。
 3世紀に生存した陳寿と対照的(たいしょうてき)に、現代の邪馬台国説を主張する学者たちは『魏志倭人伝』の記事を読んで多数の主観的偏見(否定・批判)を加えて「倭国には漢字がなかった」と断定するゆえ、その思考(しこう)は空転(くうてん)する。というのも、音韻学が解明しているように「わが国は紀元前21世紀の後期縄文時代初頭に、原初漢字・夏音文字を習得していた」からである。だから、邪馬台国説は『魏志倭人伝』と無関係の空理空論・大ウソへと一気に転落(てんらく)するデタラメであった。

◆以上のごとく、【1ヵ所も誤読】を加えなければ、『魏志倭人伝』は【倉頡が銀河から文字を作る方法を発明した学問】を理路整然と解説する学術書であった。
 古代エジプト文字(ヒエログリフ)は倉頡が漢字を発明した約100年前の紀元前3100年頃からほとんど完成された形で出現されたと指摘されている。
 前年に発表したわがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回で毎回のごとく証明したように――古代エジプト文字と倉頡が漢字を作った銀河の範囲は同一で、その同一銀河は天文学の通称「夏の銀河」とよばれる「夏に最も長時間見ることができる銀河の範囲」であった。
 「古代エジプト文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と理路整然と正確に伝える古代文献は一冊も発見されていない。古代エジプト王朝は「銀河から作った文字の学問」を独占管理(どくせんかんり)して厳重(げんじゅう)に機密(きみつ)を保持(ほじ)して、民衆が容易に理解できる資料あるいは理路整然と解説して後世の学者たちに伝える資料を作成した者は即座に死刑にした。だから、これからも「古代エジプト文字は夏の銀河から作られた」と解説する学術資料にふさわしい古文献は一書も発見されないにちがいない。
 そうすると、『魏志倭人伝』は《古代エジプト文字と漢字の起源を理路整然と説明する聖典》、人類にとって最高に重大な学術書であったことになる。
 古代エジプト文字をルーツとする文字を現代に使用する人々は約55億人以上も存在する。漢字の使用者数は約15億人とされる。世界の人口は約80億人であるから、世界の約90パーセント以上の70億人以上の人々が使用する文字は、夏の銀河の各部の形状から作られて起源したことになる。
 『魏志倭人伝』は世界の約9割の人類が使用する文字の祖先(ルーツ)が夏の銀河から作られた事実を理路整然と説明する学術書であった。
 にもかかわらず、邪馬台国説をとなえる学者たちは【多数の誤読】を加える騙(だま)しと詭弁(きべん)をもって人類にとって重大な学術書『魏志倭人伝』を台無(だいな)しにする。
 だから、邪馬台国説学者たちは大ウソつき、人類共通の敵(てき)であったのである。
 次回のわがブログ「四千年前に日本には漢字が伝来していた・3」では、『魏志倭人伝』は【古代エジプト文字と漢字は夏の銀河(文字作成銀河)から作られた事実を理路整然と説明する学術書】、また【現在90パーセントの70億人以上の人々が使用する文字の起源の秘密を正確無比に説明する貴重な学術書】であった、大発見が容易(ようい)に理解できるように説明する。

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2021年9月30日 (木)

四千年前に日本には漢字が伝来していた・1


▼四年年前にわが日本には漢字は伝来した事実は、疑い余地(よち)もなく真実であった。

 この確かな真実は、現在、【学者たちが〔多数の誤読〕を用いて『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された原初漢字・夏音文字の習得記事を無視(むし)する空理空論・デタラメ】によってもみ消されている。
 これゆえ、現在、学者たちは――日本に漢字が最初に習得(しゅうとく)されて使用されたのは、5世紀あるいは6世紀である――と断定する。というのも、漢字が刻(きざ)まれていた鉄製の剣や鏡の遺物(いぶつ)における、最古の遺物は5世紀だからである。
 上記したように、5世紀の年代を記(しる)す鉄製の剣に漢字の楷書(かいしょ)が刻まれる。だから、学界は考古学の観点(かんてん)にもとづいて「日本が最初に漢字を習得して使用したのは5世紀あるいは6世紀である」と空想する。
 このような日本国の学者たちの空想・錯覚(さっかく)が原因で、わが国の学界はじめ知識人層・マスメディア・ジャーナリズム・評論家など、また多くの日本国民や、あるいは韓国人や日本国の歴史に精通(せいつう)する欧米の学者たちは「日本が漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と思いこんでいる。
 しかし、言語学・音韻学(おんいんがく)や文献史学(ぶんけんしがく)に則(のっと)ると日本国が最初に中国から漢字を習得したのは約四千年前、つまり紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい/夏后時代)初頭であったことになる。

◆中国からわが国に移住して漢字を最初にもたらした人々は、名門益氏(えきし)の王子と若者たちであった。この「漢字をわが国最初にもたらした名門益氏の王子と若者たちの歴史」は「益荒男(ますらお)」という語となって現在へと伝承されている。
 紀元前1世紀に生存した世界的に有名な中国の歴史家・司馬遷(しばせん)が著作した『史記(しき)』夏本紀(かほんぎ)・第二は、日本列島に漢字をもたらし名門・益氏について下記のごとく説明する。
 ――“夏()の始祖(しそ)”と呼ばれる禹()帝の後を継()いだ夏后(かこう)王朝の帝は、益(えき)であった。禹帝の息子は啓(けい)であった。帝禹と子の啓は、どのような政治体制するか意見が異(こと)なって対立(たいりつ)していた。帝禹は、今から約五千年前(紀元前3000年頃)から始まる五帝時代以来の氏族共同体制(しどくきょうどうたいせい)の継続(けいぞく)を願った。帝禹が願う「氏族共同体制」とは「多くの氏族でもっとも優秀な人物を帝に選び、多くの氏族が共同・共立しあって国家を樹立(じゅりつ)しない政治体制」である。しかし、禹の息子の啓は、「国家を樹立し、禹・啓の氏族が代々世襲(せしゅう)して帝となる」、いわゆる「世襲王朝国家体制」を願った。これゆえ、帝禹は東に巡幸(じゅんこう)して会稽(かいけい)の地に至って崩(ほう)ずるとき)、帝禹の政治を裨益(ひえき/補佐)した益に天下をさずけた。三年の禹の喪()が終わると、益は帝位を帝禹の子の啓にゆずった。というのも、帝禹につかえた諸侯(しょこう)はみな益のもとを去って啓のもとに入朝(にゅうちょう)したからである。帝益は天下を啓に禅譲(ぜんじょう/戦わずに帝位をゆずること)して、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい/隠居)した。
 
 帝禹は益に「氏族共同体制の継続・維持(いじ)」を遺言(ゆいごん)して、帝位を益にさずけたのである。ゆえに、帝禹につかえた諸侯たちが帝益のもとを去って啓のもとに入朝した様子は――諸侯は帝禹の遺志(いし)の氏族共同体制を望(のぞ)まず、啓が主張する世襲王朝国家体制の樹立(じゅりつ)を願っていることを表明(ひょうめい)したことになる。だから、帝益は戦(たた)わず禅譲(ぜんじょう)して帝位を啓にゆずったのである。
 司馬遷著『史記』世家(せいか)の陳杞(ちんき)世家(第六)は、益氏について下記のごとく説明する。
 ――帝王になった益の子孫は、どこに封(ほう)じられたか不明である。益氏について史伝に記載されていないからである。
 つまり箕山の南に住んだ益氏の王(首長)は、帝禹の遺志「氏族共同体制」を継続するために、日本列島の移住を決心した。しかし、老いた益には、小舟を漕()いで荒波逆巻(あらなみさかま)く大海・玄界灘(げんかいなだ)を渡りきる体力を失っていた。この「日本列島に移住して、帝禹の遺志・氏族共同体制の継続事業」は筋骨たくましい・玄界灘を小舟で漕いで渡りきることができる益の孫の王子と若者たちによって決行された。
 だから、名門益氏の子孫は忽然(こつぜん)と中国の歴史から消え、中国のどの地にも封じられた痕跡(こんせき)も無く不明となったのである。

◆夏代初頭に帝となった益氏は、(1)当時の原初漢字・夏音(かおん)文字に精通(せいつう)していた。また、益氏は五帝時代最後の舜帝(しゅんてい)につかえて約200年~約250年間、精密な中国海岸線地図を作製する「虞()」という重職に代々務(つと)めた。だから、(2)益氏によって〔中国精密海岸線地図〕が伝来した、また、漢字は今から約五千年前の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代に発明されて起源した。だから、日本列島に移住した益氏の王子は(3)【漢字が起源した歴史と、その学問】に精通していた。
 ゆえに、漢字作成理論が発明された約千年後に日本列島に移住した益氏の王子と若者たちは、【(1)漢字作成理論の学問と、(2)夏音文字の学問と、(3)精密中国海岸線地図】を日本列島各地の後期縄文氏族たちに教えひろめて、帝禹の遺志〔国家を樹立しない・氏族共同体制〕を継続させた。このため、日本列島において国家は中国の夏国樹立から約2250年後もおくれた2世紀末の卑弥呼(ひみこ)王朝によって最初に創設された。
 上記した【名門・益氏の日本列島の移住の歴史】は、『日本書紀』巻第三の神武(じんむ)天皇紀における【天祖(てんそ)・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)説話】に説明されている。この説話に登場「天祖」とは「益氏の王子」である。益氏の王子の名「彦火瓊瓊杵尊」にある[]の字の右下にある[]の字は「夏代初頭・夏音文字の学問」をあらわした。ゆえに、「瓊瓊」は〔日本列島における(1)漢字の発明における際作成理論、(2)夏音文字の学問、(3)中国精密海岸線地図の伝来・習得〕をあらわす。
 3世紀後半(280年~289)に著作された、倭人国(わじんこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)が登場する『魏志倭人伝』にも【名門・益氏の日本列島移住史】に関する記事がある。
 『魏志倭人伝』は「古(いにしえ)より以来、その使()中国に詣(いた)るに皆(みな)、大夫(だいふ)と称(しょう)す」という記事で、【名門・益氏の日本列島の移住史】を伝える。
 つまり、『魏志倭人伝』が記載される「大夫」という語は、万葉仮名(まんようがな/『万葉集』に用いられる漢字)では「ますらを」と読まれる。「ますらを」は、今日「益荒男」と表記される。この「益荒男」の3字は「益氏は荒々(あらあら)しい大海の玄界灘を小舟で漕いで日本列島移住に成功した勇猛果敢(ゆうもうかかん)な男(おのこ)たち」の略称(りゃくしょう)であったのである。
 『魏志倭人伝』の後半には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり。又(また)、侏儒(しゅじゅ)国有り。その南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問(さんもん)するに、海中、洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という、76字の記事がある。この記事もまた――【名門・益氏の日本列島移住史】について説明している。この証明は、わがブログ「邪馬台国はサギ・騙されるな」の1回~16回までで詳細に具体的に科学的に解説した。

◆だから、『魏志倭人伝』に記載される小国名・人名・官職名における夏音文字は、楷書(かいしょ)を音符(おんぷ/漢字音)に使用して表記(ひょうき)される。
 また、712年に編纂(へんさん)された『古事記』上巻には、現在から約四千年前となる中国の夏代初頭、いいかえるとわが国の後期縄文時代初頭に習得された原初漢字・夏音文字の字音が楷書を音符にして多数残っている。
 奈良県の佛隆寺にある樹齢900年の桜の大木や山梨県南巨摩郡本郷の旧妙本寺の樹齢600年といわれる桜の大木は「千年桜」と呼ばれて、歌にもなって有名である。
 この「千年桜」よりもはるか大昔に著作されて現在まで残った『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、【(1)漢字作成理論の学問と、(2)夏音文字の学問と、(3)精密中国海岸線地図の日本列島における習得】を明確に伝える記事が存在する。この見事に花咲き誇る重大な記事は学者たちによって「二千年桜の大木が理不尽(りふじん)にも伐採(ばっさい)されると同様に、横暴きわまりない〔誤読の空理空論〕」によって削除(さくじょ)・無視されている。
 「見事に花咲き誇る“二千桜”」ともいうべき“聖なる歴史書”である『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、今から四千年前に習得した夏音文字が多数記載されている。だから、四千年前にわが国は漢字を習得した歴史は、疑い余地もなく真実であったのである。

◆このブログでは――今から約四千年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の中国の夏代初頭に、わが国が習得した漢字を前記したように「夏音(かおん)文字」と表記した。
 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静(しらかわ・しずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの初めから3行目までで、〔わが国の漢字音〕と題して、下記のごとく指摘(してき)する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学(おんいんがく)がとり入れられ、殊(こと)に音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用(てきよう)しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展(しんてん)をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものでることが明らかとなった。」

 白川静著『字統』は上記した〔わが国の漢字音〕と題する記事で「現存する中国の最古の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」と指摘して、わが国の考古学の成果による漢字習得の定説は空理空論・妄想であったと明確に示す。
 現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と呼ばれる。中国の「上古音」は今から約3070年前(紀元前1046)ごろの周代初頭からはじまるとされる。
 ところが、「日本が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する《わが国の考古学の成果による定説による漢字音》は、(1)白川静著『字統』の言語学・音韻学成果に反して中国の上古音よりも新しいことになり、どの証拠に(2)下に示す〔漢字生長史〕の年表において最下部に配置することになる。だから、学界の漢字習得の定説は【科学】が成立しない空理空論・幻想であった。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、今から四千年前の夏代初頭に習得された夏音文字が多数記載されて、この目で実際に目撃できて四千年前に夏音文字を習得したことは真実であったと確認できる。このため、学界が考古学観点にもとづいて断定した漢字習得の定説は空理空論・幻想であったことになる。
 以上からして、白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕にて指摘する言語学・音韻学の研究成果は【科学】が成立する真実・真理ということになる。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載される《夏音文字の漢字音》について、白川静著『字統』は「現存する中国の最古の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」と説明する。その証拠に――下に配した〔漢字生長史〕に示したように、わが国に残されている最古の夏音文字の漢字音は、現存する中国の最古の周代の上古音よりも約1000年も古い。
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◆千賀四郎(せんが・しろう)編集『日本古代史の旅・3 邪馬台国』(小学館発行/1975年初版第一刷)30ページは〔卑弥呼の発音について〕と題する【注】で、下記のごとく指摘する。
 ――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となり、(中略)、現在の中国音では「ピーミーフー」である。
 したがって、「卑弥呼」の[]の字を中国の上古音・中古音・近古音・現代音では「ピ」または「ピー」と読み、わが国のごとく「ヒ」とは読まない。
 だから、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、中国の上古音よりも古い・日本国に残されている最古の夏音文字の漢字音であった。したがって、わが国には、今から四千年前に習得された夏音文字は卑弥呼が生存した3世紀半においても受け継がれて残っていたことになる。
 わが国のすべての学者たちは「卑弥呼」の3字を夏音文字の漢字音で「ヒミコ」と読む。ゆえに、わが日本が最初には漢字を習得したのは今から四千年前(紀元前21世紀末)であったことは確かな事実であったのである。

712(和銅5)正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』上巻にも、〔音〕という注がついて多数の夏音文字が記載されている。
 中国で編纂された正史(せいし)『新唐書(しんとうじょ)』の日本伝には、『古事記』成立した10年前の702年に中国に到着した第7回の遣唐使(けんとうし)が「後(のち)(やや)夏音を習(なら)う」と中国王朝に語ったという記事がある。
 この「後稍夏音を習う」と述べた遣唐使の言葉は「『古事記』献呈より40年前の672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、稍々(やや/少し)夏音文字を習う(復興する)ことにした」と、10年後に成立した『古事記』上巻の編纂の方針について説明していたことになる。
 その証拠に、合計381字で構成される『古事記』上巻の伊耶那美命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話冒頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)〕の箇所には6ヵ所〔音〕という注がつけられる夏音文字が全部で42字記載されている(注 1ヵ所〔音〕という注がつかない10字の夏音文字がある)
 つまり、(1)「許々袁々呂々邇(こをろこをろに)」の7字、(2)「淤能碁呂(おのごろ)」の4字、(3)「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」の7字、(4)「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」の10字、(5)「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」の10(この10字には、前の(4)10字に〔音〕という注がつく。ゆえに、〔音〕という説明は省略される)(6)「久美度邇(くみどに)」の4字、計42字ということになる。
 381字で構成される〔淤能碁呂島の聖婚〕の箇所にある計42字の夏音文字は「稍(やや/少しだけ)」ということになる。ゆえに、702年に遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と語った言葉は「壬申の乱の後、稍々、夏音文字を復興する(習う)ことにした」と意味するものであった。
 このように、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)には〔音〕という注がつく夏音文字が多数記載され、『魏志倭人伝』にも小国名・人物名・官職名に多数の夏音文字が使用されている。
 ということは、学界の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という考古学の観点にもとづく定説は空理空論・妄想(もうそう)であったことになる。
 前記したように、(1)西洋の言語学・音韻学の研究成果と、(2)『魏志倭人伝』と『古事記』に記載される多数の夏音文字はじめ司馬遷著『史記』と『日本書紀』や『新唐書』などの文献資料に記載される夏音文字に関する記事からして、わが国が最初に漢字を習得したのは今から約四千年前の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であったことになる。

◆『古事記』は上巻、中巻、下巻の三巻からなる。〔音〕という注がつく夏音文字は『古事記』上巻だけに記載される。中巻と下巻には夏音文字は記載されていない。
 『古事記』の序(じょ)は夏音文字が記載される上巻だけのきわめて特殊な序である。だから、『古事記』の序は、上巻・中巻・下巻の全三巻の序ではない。これゆえ、「『古事記』の序」は「古事記上巻 幷(あわ)せて序)と表記(ひょうき)されることになった。つまり、「『古事記』の序」は、随所に夏音文字を記載した『古事記』上巻だけの序であって、夏音文字を記載しない中巻と下巻の序ではない」と明記(めいき)するものであったことになる。
 このきわめて特殊な「古事記上巻 幷せて序」は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
 「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事は、【名門・益氏の王子と若者たちが日本列島に定住して教えひろめた、(1)夏音文字と、(2)今から約五千年前の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代における漢字を発明】について非常に難解(なんかい)にして、また簡潔(かんけつ)な文をもって説明している。
 漢字は、黄帝につかえた史官(しかん/記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した。というのも、中国に伝わる倉頡伝説は「太古、黄帝の時代に、倉頡がはじめて文字を作った」と説明するからである。この倉頡伝説は、現在、学者たちによって「事実ではない、荒唐無稽(こうとうむけい)の虚偽(ウソ)」であると全面的に否定されている。しかし、太安万侶が生存した7世紀後半から8世紀初頭では倉頡伝説は「倉頡は銀河(銀漢)から漢字作成する方法を発明した」と真実を伝えるものであった。これゆえ安万侶は、倉頡伝説は真実を伝えるという前提(ぜんてい)の基(もと)に「古事記上巻 幷せて序」を作成した。
 安万侶は「古事記上巻 幷せて序」の冒頭で、【今から約五千年前の黄帝時代、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】と、その千年後つまり【今から約四千年前の後期縄文時代初頭、わが国が習得した夏音文字の学問】について下記の文を作って説明する。
 ――臣(しん)安万侶言(まお)す。それ混元(こんげん)すでに凝()りて、気象(きしょう)(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分(わか)れて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。

 上記した太安万侶が書いた「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事が容易に理解できるように注釈をまじえて現代語に訳すると下記のごとくなる。
 ――元明(げんめい)天皇陛下につかえる臣下の安万侶は申し上げます。前期縄文時代以前の大昔(おおむかし)、日本列島各地の天頂(てんちょう/観察者の頭上)にめぐってきた銀河部の形状はすでに混沌(こんとん)としていましたがそれでもすでに固(かた)まっていました。しかし、このような前期縄文時代以前の日本列島の各地の天頂にめぐってきた銀河部の形状には「気象」すなわち「この世における事物にあって何物(なにもの)かに相似しているのかという気(イメージ)をあらわす象(かたち)」が判然(はんぜん)とせず不明瞭(ふめいりょう)でありました。このため、この銀河部をあらわす名称は無く、この銀河部の気象(イメージ)を表現する技術(わざ)も存在しませんでした。これゆえ、前期縄文時代以前の日本列島の住人(縄文人)たちが日本列島各地の天頂にめぐってきた銀河部についてどのように考えていたか、『古事記』を編纂(へんさん)することになった現在、誰も知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭(『古事記』成立から約4700年前)以後になると、日本列島の各地の天頂に「乾」と「坤」、つまり「天」と「地」のイメージをあらわす銀河部がめぐってきました。この「天」のイメージをあらわす銀河部は「妊婦(にんぷ)の姿」にも相似し、また「地」のイメージをあらわす銀河部は「天頂を仰ぎ見つめる地上のヒトの首(くび/人の横顔)」にも相似していました。このため、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭(『古事記』成立から約2700年前)までの約2000年間――日本列島各地の天頂にめぐってきた「天」と「地」のイメージとなった銀河部と、その西方にあって天頂にめぐってきた「人の首(横顔)に酷似(こくじ)する銀河」と、その南にある「人の上半身・腰の形に相似する銀河」の各部をモデルにして多数の土器や土偶(どぐう)が作られました。そして、「地」のイメージとなった「ヒトの首」にも見立てられた銀河部が日本列島全土の天頂にめぐってきた後期縄文時代の首(はじめ/初頭)、中国から名門・益氏が日本列島に移住して【倉頡が発明した漢字作成理論の学問と、夏音文字の学問】を教えひろめました。それというのも、縄文人たちが土器・土偶のモデルとなった銀河と倉頡が漢字を作った銀河は同じであったからです。ですから、後期縄文時代初頭の芸術家たちは倉頡が漢字を作った同一に銀河から土器・土偶を作るものであったゆえ、彼らは【名門・益氏の王子が教えひろめた倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】を理解することができたのです。だから、わが国は四千年前の後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した聖なる漢字作成理論と、夏音文字の学問】を習得することができたのです。

 要するに、前記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事には「誰かその形を知らむ」と「天地」を意味する「乾坤」という語があるゆえ、「参神造化」は「夜になると天に輝く銀河を造形、すなわち造化する芸術」を意味した。したがって、「参神造化」とは「前期縄文時代・中期縄文時代・後期縄文時代初頭までの参時代における、土器・土偶を作った芸術(造化)の神」を意味した。というのも、わが日本において土器・土偶を作った芸術が花開いた時期は、今から六千年前の前期縄文時代初頭であったからである。

◆前述したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて夏音文字の字音をあらわす、この楷書は「漢字」である。中国でもわが日本は「漢字」という。「銀河」の別称は「銀漢(ぎんかん)」であるからして、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称(しょう)することになった。
 天文学においては「夏に最も長時間見える銀河の範囲、言いかえると「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」とよぶ。
 前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの芸術家たちは【夏の銀河の各部を造形表現する土器・土偶】を作り、倉頡は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した。ゆえに、「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までに作られた土器・土偶のモデルとなった「夏の銀河」、すなわち倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
Ginga_20210930150001
 天文学はじめ種々の学問分野において、《漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)を解明することができる、〔文字作成銀河の各部の名称〕》を定めていない。ゆえに、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に秘められた《字源となった銀河部・字形の原形となった銀河部・字義の原義となった銀河部の解説と証明、あるいは【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の解説と証明をおこなう際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めた。
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 上に示す「文字作成銀河各部の形状」は「万物のイメージ」をあらわした。
 これゆえ、万物のイメージをあらわす文字作成銀河の各部の形状は倉頡が創(つく)った漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)はじめ、【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて夏音文字・殷殷代(いんだい)前半期の原初漢字・殷代後半期から出現した甲骨文字・周代の金文・篆文(てんぶん)・秦代(しんだい)の隷書(れいしょ)・後漢時代から出現して隋代(ずいだい)で完成した楷書などの多数の漢字の字源・字形・字義となった。

◆《銀漢、すなわち文字作成銀河の各部の形状は漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった史実》は真実・真理であった。この真実・真理にわが国の学者たちはじめ知識人層、マスメディア、ジャーナリズムなどの学識者たちの誰一人も気づかない。
 しかし、《銀漢、すなわち文字作成銀河の各部の形状は字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった史実》は真実・真理であったゆえ、「漢字」と名づけられた。
 今から約五千年前に生存した倉頡は、みずからが考案した文字が最(もっと)も強力な権力、莫大(ばくだい)な富(とみ)、最高の名声(めいせい)を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば黄帝王朝は容易(ようい)に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて即刻(そっこく)に死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は銀漢(文字作成銀河)各部の形状から作られた」という秘密が容易に理解できるように明確(めいかく)に暴露(ばくろ)する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする

【二】多くの文字を容易に覚えやすくするため、文字作成銀河の各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者または消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする

 倉頡は「文字作成銀河各部の形状イメージ」でも「字源・字形・字義」となる事実に気づいた。ゆえに、倉頡は上記した【三】の掟を定めても、【倉頡が発明した漢字作成理論】は王朝をささえる最強の権力基盤となって永久に消滅しないことになる事実に気づいた。このため、五帝時代・夏代・殷代前半期は上記した倉頡が死刑と定めた【三】の掟は厳重(げんじゅう)にまもられた。だから、五帝時代・夏代・殷代前半期の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発掘・発見されないことになった。しかし、上記したように、《文字作成銀河の各部の形状は漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった秘密》は事実であったゆえ、『魏志倭人伝』や『古事記』上巻には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】が説明されることになった。
 今から約3300年前(紀元前1300年頃)に出現した殷代後半期の甲骨(こうこつ)文字は多数の文字数となったため、いちいち倉頡が定めた【三】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となった。このため、【三】の掟をまもらない者は死刑が免除(めんじょ)された。だから、甲骨文字を書いた資料の総数は10万点におよび、甲骨文字の字形の数(つまり、字数)は合計4672個となると発表されることになった。
 甲骨文字はじめ2世紀の後漢時代から出現してその後に用いられた楷書までの全漢字に取り扱(あつか)いにおいては、倉頡が定めた【一】と【二】の掟は厳重にまもられた。
 さらに、1738年以前のわが国においては、各代の天皇はじめ学問研究に努力した皇族たちや権力者たち(源頼朝はじめ北条氏・足利将軍たちや織田信長や徳川家康や大老職についた井伊家の家督者たち)や仏教の高僧たちは「漢字は倉頡によって銀漢から作られることになった事実(真実・真理)」を知っていた。しかし、彼らは倉頡が定めた【一】と【二】の掟を厳重にまもって暴露しなかった。
 ゆえに、近代・現代の学者たちは「銀漢から作られた文字であった」ゆえ、「漢字」とよばれることになった真実に気づかない。

◆前記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事のほかに、下記の二つの記事も【漢字は銀河から作られた、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】を説明している。
 【一】「古事記上巻 幷せて序」の中半部にある――「目に度(わた)れば口(くち)に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」という文は――【銀河(文字作成銀河)から漢字は作られた】と直接的に説明するとともに、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】について説明する記事であった。
 【二】「古事記上巻 幷せて序」の末部にある――「楷書の日下(にちげ)」は「玖沙訶(くさか/夏音文字)」と同義、楷書の「帯(たい)」は「多羅斯(たらし/夏音文字)」と同義である」という文もまた――【銀河(文字作成銀河)から漢字は作られた】と直接的に説明するとともに、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】について説明している。

◆前記したように、『魏志倭人伝』にある「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」から「周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」までの76字の記事は【名門・益氏の王子と若者たちが日本列島に定住して、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問を教えひろめた歴史】を説明するものであった。
 この他に下に示した三つのグループ記事もまた、【漢字は銀河から作られた、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】を伝える記事である。

1】倭人国に「おける占いに用いる辞(じ/文字とことば)について――『魏志倭人伝』は「その辞は、令亀(れいき)の法の如(ごと)く」、つまり「倭人国の占いに用いる辞は、亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ殷代後半期の甲骨文字のごとき文字であった」と説明する。
 甲骨文字の多数の字形は文字作成銀河のある部分の形に似せて図案されている。だから、甲骨文字は文字作成銀河から作られた(図案された)漢字であった。したがって、「令亀の法のごとき辞」という記事は「甲骨文字の字形に相似する夏音文字と夏音文字のことば」と意味した。ゆえに、占いする時に用いた(書いた)夏音文字は用済みになるとことごとく消された。ゆえに、夏音文字を書いた資料は出土しないことになった。だから、結局(けっきょく)、夏音文字は文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定める原初漢字であった。
2】中国()や朝鮮半島で用いていた楷書と倭にて使用されていた夏音文字について――『魏志倭人伝』は「倭の伊都(いと)国の津(つ/港)では魏の都の洛陽(らくよう)・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁が所在した朝鮮半島の一画に所在した郡)・諸韓国(朝鮮半島各地の国々)が用いていた楷書と卑弥呼が文書に用いていた文字(夏音文字)を一字ずつ丁寧(ていねい)に点検(てんけん)し確認(かくにん)して、両者の文字の解釈に差錯(ささく/間違い・誤訳)が生じないように正確に変換していた」と伝えている。
 魏の都と朝鮮半島で使用されていた楷書も倭の夏音文字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は文字作成銀河の各部の形状であった。ゆえに、倭の伊都国の役人たちは港からよく見える文字作成銀河の各部の形状を日々観察して、魏都・朝鮮半島における文書に用いられる楷書と卑弥呼が文書に用いた夏音文字の漢字を一字ずつ丁寧(ていねい)に慎重(しんちょう)に点検・確認して正確に変換することができたのである。いいかえると、もしも【楷書と夏音文字の字源・真の字形・真の字義が文字作成銀河各部の形状】ではなかったならば、楷書と夏音文字を正しく変換できなかったために魏と倭は国交を結ぶことができず、約2000字で構成された『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかったことになる。
3】【楷書も夏音文字も、銀河(文字作成銀河)から作られた、わが日本は四千年前に倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問を習得した事実】は、わがブログ「邪馬台国説はサギ、騙されるな」の17回~25回までで詳細に具体的に科学的に解説して証明した。
 『魏志倭人伝』は【楷書と夏音文字は文字作成銀河から作られた事実】と【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】について、下記に示す30の小国名とまた小国名と密接に関係する記事などで理路整然(りろせいぜん)と克明(こくめい)に説明している。
 上記した【1】と【2】と下記に示す【3】の30の小国名記事と、前記した「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」から「周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」までの4小国名が列記される76字の記事を合計すると、約1100字となる。つまり、2000字で構成される『魏志倭人伝』の約55パーセントの記事は【楷書と夏音文字は文字作成銀河から作られた、わが国は四千年前に倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問を習得した事実】を伝えていた――この「見事に花咲き誇る“二千桜”」と称するべき重大な真実・真理を、学者たちは『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えてデッチあげた空理空論をもってことごとく削除(さくじょ)し無視(むし)する。

 【楷書と夏音文字は文字作成銀河から作られた、わが日本は倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問を習得した真実】は、『魏志倭人伝』の前半部に列記される対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名で説明される。
 対馬国から狗奴国までの30の小国名を〔ふり仮名無し〕で列記すると下記のごとくなる。
 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壱国、斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国、狗奴国
 わがブログ「邪馬台国説はサギ、騙されるな」の17回~25回で解説したとおり、「対馬国から巳百支国までの10の小国名」で【倉頡が発明した漢字作成理論における基本字となる[()]】の字源・字形の原形・原義を「倭人国」という国名の[]の字で表示し、「対馬国・一大国」という二小国で【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴(しょうちょう)する聖獣(せいじゅう)について説明し、卑弥呼が居住した「邪馬壱(やまい)国」という女王国名で【倉頡が発明した漢字作成理論の核心部】をあらした。
 倉頡が創(つく)った[]の字源は「禾(穀物)が豊かに実(みの)る、五穀豊穣(ごこくほうじょう)」をあらわした。[]の字源は「妊婦(女性)の姿に相似する銀河にひそむ霊にゆだねられて、国土に健康な子どもたちが多数生まれる」をあらわした。ゆえに[]の下に[]が加わる[]の字源は「女性が穀霊(こくれい)を象(かたど)る禾形の作りものを被(かぶ)って舞う姿」であった。「女性(妊婦)の姿に相似する銀河の半身と、弓を左手にもつ男性の姿に相似する銀河の半身は交わりあって一体化するゆえ、「男女の姿」をあらわした。「男女の姿が交わって一体化する銀河」は[]をあらわした。ゆえに、人偏(にんべん/[]の偏)[]を加える[]の字源は「男女が稲魂(いなだま)に扮しておこなう農耕儀礼」をあらわした。
 だから、白川静著『字統』は[]に字源について「穀霊に象る禾形の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿をいう。同じく禾形の作りものを被って舞う男を年というのと、同じ構造法の字であり、男女が稲魂(いなだま)に扮(ふん)して農耕儀礼を示す」と解説する。
 このような[]の字源をあらわして、『魏志倭人伝』の「伊邪国から華奴蘇奴国までの10小国名」は「女性が穀霊を象る作りものを被って舞う姿」の、つまり〔女性グループの10ヵ国〕を組織する。残る「鬼国から狗奴国までの10小国名」は「男性が穀霊を象る作りものを被って舞う姿の、つまり〔男性グループの10ヵ国〕を組織している。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は【漢字は銀河から作られた、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】を克明(こくめい)に・正確無比(せいかくむひ)に・理路整然(りろせいぜんと伝える書物であった。

 ◆いっぽう、学者たちは、「『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地を説明する書物である」と断定する。
 しかし、前年に死去した古代史研究家の古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『魏志倭人伝』に記載された卑弥呼は居住した女王国名は「邪馬壱国」であったことを克明(こくめい)に調査して証明した。ゆえに、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱国」と記している。
 要するに、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は一ヵ所も存在しない。だから、邪馬台国説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない・【科学】がまったく成立しない空理空論・妄想(もうそう)であった。
 以上のごとく、邪馬台国説を誇示(こじ)する学者たちは――「卑弥呼」の3字を四千年前に習得した夏音文字の漢字音で「ヒミコ」と読みながら、『魏志倭人伝』が約55パーセント・約1100字で説明する【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】を説明する記事を無視して、「漢字を日本国が最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。だから、『魏志倭人伝』は【漢字は銀河から作られた真実・真理と、倉頡が発明した作成理論と夏音文字の学問】を伝える歴史書ではあらず――と断定する、日本全国民を誑(たぶら)かす“大ウソつき”であったのである。

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2021年9月17日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・27

▼いつも亡(ほろ)びるのは、いちばん大事な歴史を忘れてしまった民族である
 いつも滅(ほろ)びるのは、もっとも大事な歴史を忘れてしまった国家である
 わが国の学者たちは、四千年前に日本に漢字が伝来した歴史を削除(さくじょ)する
 だから、わが国では真実の日本国誕生史が明らかとなっていない
 
◆わが国の学界と学者たちは、3世紀後半(280-289年)に中国にて著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は「倭女王・卑弥呼(ひみこ)が居住した女王国は邪馬台(やまたい)国であったと説明する書物であった」と定めている。
 この邪馬台国説(邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説)は、学者たちが『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えてデッチあげたクレージーな空理空論・真っ赤なウソある。
 つまり、邪馬台国説は日本人にとって最も大事な真実・真理を奪(うば)うクレージーな、日本人にとっていちばん大事な歴史を奪って忘れさせてしまった空理空論である。
 わが国の学者たちは、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に【多数の誤読】を加えて読む方法こそが正しい考え方であると思い込んでいる。このため、712年に編纂(へんさん)された『古事記(こじき)』上巻のイザナキノミコトとイザナミノミコト説話冒頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚〕の箇所に、真実の日本国誕生史が記述されていることを知っていない。
 わが国の学界と学者たちは、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序、つまり「古事記上巻 幷(あわ)せて序」の冒頭や中半や末部で一貫(いっかん)して、《『古事記』上巻の記事を正しく読解(どっかい)する方法》を丁寧(ていねい)に説明していることにまったく気づいていない。
 上記した【一】邪馬台国説がクレージーなウソ八百のデタラメである事実と、【二】『古事記』上巻のイザナキノミコトとイザナミノミコト説話冒頭〔淤能碁呂島の聖婚〕に真実の日本国誕生史が記述された事実は、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前で紹介したわが著書、すなわちkindle版・電子書籍『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭(だいじょうさい)の証明』(両書とも1000円)にて詳細に具体的に容易に理解できるように解説した。
 また、わが著書、無料・電子書籍『日本四千年の学問史』においても、詳細に具体的に容易に理解できるように解説した。

◆これゆえ――わが国のすべての人民は、真実の日本国誕生史について知っていない。
 というのも、江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき/1657-1725年)以後現在まで約300年、学者たちは『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える方法を確立(かくりつ)して日本列島における学問の土台となった【今から約四千年前、漢字が伝来した歴史】を強引(ごういん)に削除(さくじょ)してしまったからである。
 その証拠に、わが国の学界は「わが国に、最初に漢字が伝来したのは5世紀または6世紀である」と断定し、「四千年前に漢字が伝来した歴史」を排除(はいじょ)している。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回(26回)までで詳細に具体的に証明したように、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の約50パーセント(約1000字)の記事は――漢字は天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる銀河から作られた。「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と呼ぶようになった。漢字は、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)より約3200年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(しかん)の倉頡(そうきつ)が発明した。倉頡は銀河(夏の銀河)から文字を作成する理論を発明した――と詳細(しょうさい)に伝えていた。  
 つまり、『魏志倭人伝』の約50パーセントの記事は――今から約4100年前の中国の夏代(かだい、夏王朝時代)初頭、言いかえると縄文時代初頭、わが国に【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が伝来して習得(しゅうとく)された――と説明するものであった。
 わが日本列島の海岸線は中国全土をもれなく包みこむ海岸線より約3倍も長い。この日本列島の海岸線の所々は倉頡が漢字を作った銀河(銀漢)各部の形状に細密(さいみつ)に相似する。このため、字源・字形の原形・原義となった銀河各部の形状イメージは地名や万物の名称になって、夏音文字が習得された夏代初頭から卑弥呼が生存した後期弥生(やよい)時代までの約2250年間、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】はうけつがれて保存された。
 この約2250年の長いあいだ、日本列島にて保存された【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を、倭女王・卑弥呼は政権基盤と定めて国家名を「倭人国」と定めた。
 だから、『魏志倭人伝』に記された(1)「倭人国」という国家名と、さらに列記された(2)【対馬国以下、一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国・狗奴国】の30の小国名は――漢字は銀漢(夏の銀河)から作られた。卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして天下を治めた――と説明するものであった。

◆ところが、新井白石は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて――倭女王・卑弥呼が居住した女王国名は「山門(やまと)」や「大和(やまと)」に近い「邪馬台(やまたい)国」であり、ゆえに九州・筑後山門郡あるいは畿内(きない)の「大和」が邪馬台国であったと考えられる――という空理空論・デタラメを主張した。
 これゆえ、新井白石以後約300年間、学者たちによって『魏志倭人伝』は【邪馬台国の所在地を伝える資料】であったと捏造(ねつぞう)され、歪曲(わいきょく)されて、この空理空論・迷妄(めいもう/デタラメ)は現在まで受けつがれることになった。
 元来(がんらい)、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然(りろせいぜん)と伝える、世界史的にも第一級の重大な歴史書であった。新井白石以後、学界は【多数の誤読】を加えてデッチあげた邪馬台国説に支配されることになったために、日本人は真実の日本国誕生史を知らない、いちばん大事な歴史を忘れる民族となった。
 古代史研究家の古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、その著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で――『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記し、「邪馬台国」と記していない事実――を詳細に具体的に解説して証明した。
 倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学者『内経(ないけい)』を作った。黄帝の主なる医学研究は〔女性の生殖器官(せいしょくきかん/子宮や骨盤)と子どもの出産〕であった。
 このため、倉頡が漢字を発明する目的は〔黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究〕をあらわすことができる文字を作成することになった。
 上記したように、倉頡は、下に示す「銀河」、つまり「すべての夏の星座が漬(つ)かる銀河、つまり天文学で通称“夏の銀河”と呼ばれる銀漢」から文字を作る学術を確立させた。
 また、上記したように――中国全土をもれなく包み込む海岸線よりも約3倍も長い日本列島の所々の海岸線は、夏の銀河の各部の形状に細密(さいみつ)に相似する。だから、わが国においては、夏音文字を習得した後期縄文時代初頭から卑弥呼時代までの約2250年間、【倉頡が発明した漢字作成理論と、銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学問】は地名や万物の名称であらわされて失われずにうけつがれて保存されることになった。
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◆倉頡は上に示した夏の銀河におけるもっとも印象的な銀河部から、〔黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究〕をあらわす基本字[禾(か)](字義はイネや麦の穀物)の字を創(つく)った。この[禾]の字は【黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問の核心(かくしん)】をあらわすことになった。この[禾]の字源・字形・字義の秘密は『魏志倭人伝』に「倭人」という国名をもって残され、また女王国名に用いた「邪馬壱(やまい)」という語であらわされた(注 この事実はわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の20回にて詳細に解説して証明した)。
 [禾]の字の下に「女性の生殖器官」をあらわす[女]が加えられて、[委(い)](字義は「ゆだねる」。つまり、「穀物(こくもつ)の豊かな穣(みのり)は天候にゆだねられる」の字が創られた。そして、「国土に多数の人民が満ち満ちあふれて居住する」をあらわす[人](人偏)に、「禾(穀物)が順調(じゅんちょう)に育つ天候にゆだねられて豊かに穣(みの)る」をあらわす[委]が合体して[倭(わ)]の字が創られた。
 ゆえに、「倭人」という国家名は「(1)五穀豊穣(ごこくほうじょう)によって、(2)国土に万民(多数の人民)が満ち満ちあふれて栄える、(3)【黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究と、[禾]の字を創った倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を権力基盤とする国家」と意味するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 だから、『魏志倭人伝』は冒頭から「「(1)五穀豊穣(ごこくほうじょう)によって、(2)国土に万民(多数の人民)が満ち満ちあふれて栄える、(3)【黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を権力基盤とする倭人(倭人国)は、朝鮮半島の一画(いっかく)に所在した帯方郡(たいほうぐん)の東南の大海の中に所在する」と説明していたことになる。
 したがって、『魏志倭人伝』は【今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然(りろせいぜん)と伝える、1ヵ所も【誤読】を加える必要が無い、正確無比(せいかくむひ)の資料であった。
 しかし、学者たちは白石以後300年もの長いあいだ、『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する資料であると断定する空理空論を頑迷(がんめい)に主張しつづけている。

◆『古事記』上巻の序の題名は「古事記上巻 幷(あわ)せて序」と記される。
 「古事記上巻 幷せて序」は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
 「古事記上巻 幷せて序)」の冒頭記事は、下記のごとくである。
 ――臣安万侶(しんやすまろ)言(まを)す。それ混元(こんげん)すでに凝(こ)りて、気象(きしょう)未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分(わか)れて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す。陰陽(いんよう)ここに開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(な)る。

 上記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事は――今から約4100年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭)に、わが国が習得した【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)って『古事記』上巻の記事を読解すれば、正確に上古史を知ることができる――と(1)歴史解明方法を説明し、さらに(2)日本国誕生史についての要略(ようりゃく)を短い文章であらわしている。
 『古事記』上巻の序の中半にある――目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す――という文も、【倉頡が発明した漢字作成理論】にのっとれば『古事記』上巻に記述された上古史は正確に(学問的に科学的に)解明できると警告している。
 『古事記』上巻の序の末部にある――楷書(かいしょ)の日下(にちげ)と原初漢字・夏音(かおん)文字の玖沙訶(くさか)は同義、楷書の「帯(たい)」は夏音文字の「多羅斯(たらし)」と同義である――という説明もまた――夏音文字と楷書は【倉頡が発明した漢字作成理論】にのっとって銀河各部の形状から作られた。ゆえに、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換して文章があらわす意趣(いしゅ)をくみ取るならば、『古事記』上巻に記述された上古史は明確になる――と歴史解明を説明し、漢字が銀河から作られた事実を知らないと【空理空論】となると警告している。

◆上記した、太安万侶が書いた「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事が容易に理解できるように注釈をまじえて現代語に訳すると下記のごとくなる。
 ――元明(げんめい)天皇陛下の臣下(しんか)の安万侶は申し上げます。前期縄文時代以前、日本列島各地の天頂(てんちょう/頭上)にめぐってきた銀河部の形状はすでに混沌(こんとん)とし固(かた)まっていました。しかし、どのような気を有する象(かたち・イメージ)をあらわしているのか判然(はんぜん)としませんでした。このため、その銀河部をあらわす名称も無く、その銀河部のイメージを表現する技術(わざ)も存在しませんでした。これゆえ、前期縄文時代以前の日本列島の住人たちが銀河についてどのように考えていたのか、『古事記』を編纂(へんさん)することになった現在、誰も知ることができません。しかしながら、前期縄文時代初頭(注『古事記』成立から約4700年前)以後、日本列島各地の天頂に「乾坤」、つまり「天」と「地」のイメージとなる銀河部、この「天」のイメージをあらわす銀河部は「妊婦(にんぷ)の姿」にも相似し、また「地」のイメージをあらわす銀河部は「人の首(くび/人の横顔)」にも相似する銀河部がめぐってきました。このため、これら特に印象(いんしょう)深い銀河部が日本列島全土にめぐってきた前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭(注『古事記』成立から約2700年前)までの約2000年間、日本列島各地の天頂にめぐってきた銀河部とその南にある銀河各部の形状イメージを表現する土器や土偶(どぐう)が多数作られました。そして、「人の首」のイメージをあらわす銀河部が天頂にめぐってきた後期縄文時代の首(はじめ/初頭)、中国から【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が伝来しましたが、この学問をわが国は習得(しゅうとく)することができました。というのも、倉頡が漢字の字源・字形・字義と定めた銀河と縄文人たちが作った土器と土偶のモデルは同一の銀河(つまり、上掲の写真で示した天文学における通称「夏の銀河」)であったため、わが国において土器・土偶を作った芸術家たちによって【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】は理解されて習得されることになったのです
 〔注 つまり「参神造化」とは「前期縄文時代・中期縄文時代・後期縄文時代初頭までの三つの縄文時代における、土器・土偶を作った芸術(造化)の神」を意味した。この参神造化の作品(土器・土偶)は、倉頡が漢字を作った夏の銀河各部の印象を合体して造形された。だから、前期縄文初頭から約二千年間にもおよぶ参神造化の伝統をうけついだ後期縄文初頭の芸術家たちによって【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】が理解されて習得されることになったのである。〕
 安万侶は「参神造化の首(はじめ)をなす」の直後に、さらに次のような説明を加えた。
 わが国の上古史においては――日本建国理念を〔愛〕と定めた陰のイザナミノミコトと、イザナミノミコトの遺志・日本建国の〔愛〕の理念をうけついだ陽のイザナキノミコトの二霊こそがわが国におけるすべての生みの祖(親)ということになります。

◆上記したように、「古事記上巻 幷わせて序」の冒頭記事は「臣安万侶言す」から始まって「参神造化の首(はじめ)をなす」という文で終わる。この「参神造化の首をなす」の後に「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)と為(なる)」という文が続く。つまり、安万侶は――「参神造化の首をなす」までの記事で説明した【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて、『古事記』上巻におけるイザナキノミコトとイザナミノミコト説話における〔音〕という注がつく夏音文字と楷書(かいしょ)の字源・字形の原形・原義を夏の銀河の各部の形状に変換して、その記事をあらわす文章の意趣(いしゅ)をくみ取れば、日本国が誕生した歴史を正確に知ることができる――と説明していたのである。
 なぜ、このような近代(江戸時代)から現代までの学者たちが誰一人もその意趣を正確に解釈できない極(きわ)めて難解な文章を『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)に記述しなければならなかったのか――その事情を説明すると下記のごとくになる。
 第40代天武(てんむ)天皇(673-686年在位)は大和朝廷の基礎を築いた天照大御神(アマテラスオオミカミ)を皇室における最高神と定めて崇拝(すうはい)して、皇祖(こうそ)・アマテラスオオミカミの聖性を絶対に汚(けが)してはならないと厳重(げんじゅう)に禁止した。
 これゆえ、『古事記』編纂スタッフは真実の歴史を後世に伝えるため、『古事記』上巻のイザナキノミコトの黄泉国(よみのくに)の訪問説話にて、「アマテラスオオミカミ」の名を「イザナミノカミ(神)」と偽称(ぎしょう)して――「アマテラスオオカミはイザナミノミコトの墓を作る時に多数の奴婢(ぬひ/18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たち)を殺す残虐(ざんぎゃく)な徇葬(じゅんそう)を決行した」と伝えることにした。この「アマテラスオオミカミが決行した残虐な徇葬」について、編纂スタッフは「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と表現している。
 このような天武天皇はじめ時の皇室が「アマテラスオオミカミがおこなった徇葬について、絶対に後世に伝えてはならぬ」と厳重に禁止する歴史を後世に伝えるためには――「古事記上巻 幷せて序」で元明天皇や天照大御神を崇拝する律令体制(りつりょうたいせい)の皇族たちが理解することができない難解きわまりない文章で「後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】を習得した」と説明し、【倉頡が発明した漢字作成理論】を利用して「銀河各部の形状は夏音文字と楷書の字源・字形の原形・原義であった」と指摘(してき)すれば伝えることができた。というのも、【天空に輝く、夏音文字と楷書の字源・字形の原形・原義となった夏の銀河各部の形状】は、強大な権力を有する皇室にあっても抹殺(まっさつ)・排除(はいじょ)・消滅することができなかったからである。

◆だから、『古事記』上巻の作成目的は、下記に説明する【〔愛〕の国家理念が唱えられた日本国誕生史】を伝えることであった。
 倭人国の東方の小国・日本国の女王に就任(しゅうにん)したイザナミノミコトは、日本建国理念を〔愛〕と定めた。イザナミノミコトが没すると、夫にして日本国の軍王(いくさのおおきみ)であったイザナキノミコトは愛妻イザナミノミコトが唱えた日本建国の〔愛〕の理念をうけついで、小国・日本国と大国・倭人国を併合(へいごう)して天下を治めた。ゆえに、イザナミノミコトとイザナキノミコトは人民(国民)にとって最高神となった。
 ところが、現在の学者たちは「古事記上巻 幷せて序」に太安万侶が書いた歴史解明方法について説明する記事を正確に理解することができないため、上記した『古事記』の作成目的に気づかず、イザナミノミコトとイザナキノミコトが皇祖アマテラスオオミカミよりも優(まさ)る人民の最高神になった事情を理解することができない。
 また、学者たちは、本居宣長(もとおりのりなが/1730-1801年)が著作した注釈書『古事記伝』にもとづいて、「『古事記』上巻(日本神話)は皇祖・アマテラスオオミカミを最高神と説明している。『古事記』上巻においては、書かれていることをそのまま解釈して、神が不思議な行動をすれば不思議な行動のままに理解する。ゆえに、高天原(たかまのはら)は地名をあらわすものではなく、天上にある国をあらわしている。また、天照大御神(アマテラスオオミカミ)は太陽の女神であって、歴史上に実在した人名ではない。このような解釈に則(のっと)って、古代人がどのような考え方をしていたかを理解しなければならない古典であって、歴史を伝える書物ではない」と解釈するため、『古事記』作成目的に反する誤読説を主張することになった。
 しかし、和銅五年(712年)正月28日に『古事記』を献上(けんじょう)された元明天皇は、イザナキノミコトの黄泉国訪問説話に記述された「八雷神」を「アマテラスオオミカミが決行した残虐な徇葬の決行」を表現していると直感(ちょっかん)し、「イザナミノカミ(神)ノミコト」を「皇祖のアマテラスオオミカミをあらわす」と解釈して、即座に『古事記』献呈(けんてい)を拒絶(きょぜつ)した。『古事記』上巻は皇祖・天照大御神の聖性を汚す、皇室に不都合な歴史を伝える反逆(はんぎゃく)の歴史書であったのである。だから、『古事記』は献呈拒絶されて正史になれなかった。このため、「正史になれなかった『古事記』は712年(和銅五)以後に作られた偽書ではないか」と疑う学者たちがいる。

◆『古事記』中巻の開化(かいか)天皇紀の初頭記事は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この第9代天皇が丹波(たんば)の大県主(おおあがたぬし)の竹野比売(たかのひめ)と結婚された。また、継母(ままはは)の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚した」と説明する。
 正妃(せいひ)の丹波出身の竹野比売は、日本建国の〔愛〕の理念をとなえた伊耶那美命(イザナミノミコト)であった。ゆえに、開化天皇が居住した宮殿名は「伊耶河宮」である。「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」と「伊耶那美命」と「伊耶那岐命(イザナキノミコト)」の先頭2字「伊耶」は合致する。だから、「若き日(青年時代)の開化天皇」は「伊耶那岐命」と愛称(あいしょう)されていたことになる。開化天皇は「伊耶那美命の夫にして、小国・日本国の軍王であった」ゆえ、人民は「伊耶那岐命」と異名(いみょう)で呼んで敬愛したのである。
 『魏志倭人伝』は「旧国の丹波」は「伊邪(いや)国」であったと記す。[邪]と[耶]の字義はともに「ななめ(斜め)」、字源銀河も同じであったゆえ、「伊邪」と「伊耶」は同義となる。したがって、人民は「〔愛〕の女王・竹野比売」を「伊邪(耶)国出身の那(桃の花)のように美しい女王」と敬愛(けいあい)して、「伊耶那美命」と愛称したことになる。
 『古事記』は開化天皇が居住した宮殿を「春日の伊耶河宮」と記しているように、『万葉集(まんにょうしゅう)』では、「伊耶那美命」は「春日」つまり「春」で象徴(しょうちょう)される。また、『万葉集』では「伊耶那美命」は「花。桃の花。梅の花」に見立てて詠(よ)まれる(をもって象徴される)。また、「伊耶那美命」は「天の香具山」に見立てられた。
 日本最古の小説『竹取物語』におけるヒロイン「竹の筒から生まれたかぐや姫」は「伊耶那美命・竹野比売」をあらわしていた。だから、『竹取物語』は「伊耶那美命・竹野比売が唱(とな)えた日本建国の〔愛〕の理念は、帝(みかど・天皇)の強大な権力や富よりも優(まさ)り、さらに人間にとって永遠の願望である〔不死(不老長寿)〕さえも、日本建国の〔愛〕の理念にくらべれば劣(おと)り、〔愛〕はすべてに優る」と表現する、日本国誕生史の秘密を伝える反権力風刺小説の傑作(けっさく)であったのである。

◆上記したように、『古事記』中巻の開化天皇紀には「天皇の第二后は、継母の伊迦賀色許売命であった」と記述される。この伊迦賀色許売命が「伊耶那岐命の黄泉国訪問説話で、徇葬(じゅんそう/八雷神)を決行した倭女王・天照大御神」であった。『万葉集』では「天照大御神」は「太陽」・「夏」・「耳成山(みみなしやま)」に見立てられて詠まれた。異名が「天照大御神」、本名が「伊迦賀色許売命」は残虐な徇葬を決行したゆえ、伊耶那岐命・開化天皇に離婚されると「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」と名乗った。彼女は没すると、奈良県桜井市に所在する箸墓(はしはか)古墳(全長272mの壮大な前方後円墳)に埋葬された。
 伊迦賀色許売命(後の倭迹迹日百襲姫命)は第10代崇神(すじん)天皇の生母である。
 『古事記』の開化天皇紀は「天皇は継母の伊迦賀色許売命と結婚して、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/崇神天皇)を生んだ」と説明する。しかし、『古事記』の崇神天皇紀における〔建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆〕の箇所(かしょ)では「崇神天皇が、建波邇安王を“わが庶兄(まませ/異母兄)”と呼んだ」と記す。
 開化天皇の父は孝元(こうげん)天皇、建波邇安王もまた孝元天皇が父であるゆえ開化天皇の異母弟であった。そして、崇神天皇は孝元天皇と伊迦賀色許売命が結婚して生まれた、開化天皇の異母弟の比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)であった。
 だから、崇神天皇は開化天皇と伊迦賀色許売命の間に生まれた子ではなく、開化天皇の父の孝元天皇と伊迦賀色許売命の間に生まれた開化天皇の異母弟であった。つまり、孝元天皇と結婚した継母の伊迦賀色許売命と開化天皇と結婚することになったため、天照大御神・伊迦賀色許売命の連れ子(開化天皇の養子)が崇神天皇であったことになる。 
 第8代孝元天皇と天照大御神・伊迦賀色許売命が結婚して生まれた第10代・崇神天皇は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)説話に登場する「須佐之男軍に向かって戦いの男建(おたけび/雄叫び)をあげて威嚇(いかく)する・大軍にまもられる、男王の天照大御神」であったことになる。
 須佐之男命は、『古事記』開化天皇紀に「天皇(伊耶那岐命)と竹野比売(伊耶那美命)が結婚して生まれた比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」であった。したがって、「伊耶那美命から生まれた王子」は人民たちに「須佐之男命」と愛称された。ゆえに、「須佐之男命」の本名は「比古由牟須美命」であったことになる。
 開化天皇は臨終(りんじゅう)の間際(まぎわ)に須佐之男命に「汝(なんじ)は天照大御神・崇神天皇と天下を二分する戦争を断じておこしてはならぬ。汝は母・伊耶那美命の日本建国の〔愛〕の理念を国中にひろめるため、卑弥呼が居住した邪馬壱国・山陰の出雲に移住せよ」と指示した命令にしたがった。ゆえに、山陰・出雲に移住した須佐之男命は櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚するときに「八雲(やくも)立つ 出雲八重垣(やえがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」という日本建国の〔愛〕の理念を詠む和歌を作った。

◆『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀の〔疾疫(しつえき)の流行(りゅうこう)〕の箇所には、下記のごとくの記事がある。
 ――崇神天皇の六年、多数の国民たちが逃亡(とうぼう)した。あるいは反逆する者も出て、その反逆の勢いは、徳をもって治めることを困難にした。そこで、天皇は朝早く起きられ、夜遅くまで、つつしんで天神地祇(てんじんちぎ)を祭って謝罪(しゃざい)された。この崇神天皇の六年より以前、天照大御神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二柱(にはしら)を、天皇の居所の中にて祭った。ところが、二柱の神は、どちらかの威勢(いせい)がより勝(まさ)って栄えるのを心配して、合祀(ごうし)するのを嫌(きら)った。そこで、天照大御神には、「新開発の鉄製の鍬(すき)で五穀豊穣(ごこくほうじょう)が恵まれる」と意味する名の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をおつけになって、大和(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら/箸墓古墳の東にある奈良県桜井市三輪町)にて祭られた。そして、笠縫邑には「磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)」を立てた(造った)ゆえ、この跡地は後世「檜原(ひばら)神社」と呼ばれることになった。また、天皇の居所の中に残した日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)には、「水が停(と)まって流れない、やせた農地」を意味する名の「渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)」をおつけになって祭ることにした。しかし、渟名城入姫命は、髪(かみ)がぬけ落ち、体が痩(や)せ細って倭大国魂を祭ることができなかった。

 上記した崇神天皇の六年の記事に登場する「倭大国魂=日本大国魂神」は「出雲に移住して日本建国の〔愛〕の理念を尊重する須佐之男命」に見立てた神像であった。崇神天皇の生母・天照大御神が決行した徇葬を憎悪(ぞうお)する伊耶那岐命(開化天皇)の反乱(クーデター)によって、崇神天皇の母親は倭女王から失脚(しっきゃく)し伊耶那岐命に離縁された。この母親の倭女王失脚を詛(のろ)い怨(うら)んだ崇神天皇は、天照大御神を祭って出雲・須佐之男王朝(日本大国魂神王朝)の衰滅(すいめつ)を願った。だから、渟名城入姫命に毒でも盛ったのであろう、彼女は髪がぬけ落ち、痩せ細って日本大国魂神を祭ることができなくなった。
 高天原・大和王朝の基礎を築いた崇神天皇とその生母は「天照大御神」を信仰した。ゆえに、『古事記』上巻ではその母と子は「天照大御神」という異名で記された。崇神天皇の生母「天照大御神」は残虐な徇葬を決行した。これゆえ、『日本書紀』の崇神天皇の六年の記事は「多数の国民たちが逃亡(とうぼう)した。あるいは(天皇に)反逆する者も出て、その反逆の勢いは、徳をもって治めることを困難にした」と、国中の人民たちは天照大御神母子に反発して嫌(きら)ったと伝えていたのである。

◆開化天皇の陵墓(りょうぼ)は「開化帝は歴史上に実在しなかった」と主張する学者たちの意見の理由・根拠となっている。
 崇神天皇の陵墓は、3世紀後半に築造(ちくぞう)された。ゆえに、崇神天皇陵の築造年代にもとづき、第10代崇神天皇は3世紀後半に生存したことになる。したがって、崇神天皇の養父にして異母兄であった第9代開化天皇は3世紀半ばころに生存したことになる。
 ところが、奈良市油阪町に所在する開化天皇の陵墓(全長約105mの前方後円墳)は3世紀半ばから数年後に築造されていない。その墳丘規模(ふんきゅうきぼ)などから、開化天皇陵は5世紀末から6世紀初頭に築造されたと考えられている。このように、崇神天皇陵の築造年代とかみあわない開化天皇陵の築造年代からして「開化天皇は歴史上に生存した大王ではなかった」と、学者たちは断定する。
 しかし、上記したように崇神天皇は養父・開化天皇(伊耶那岐命)がクーデターをおこして母親・伊迦賀色許売命を倭女王から失脚した一件を詛(のろ)い恨(うら)み憎(にく)んでいた。開化天皇は自分の死後、養子・崇神天皇(天照大御神)と実子・須佐之男命(生母は伊邪那美命)が天下を二分して争う戦(いくさ)で人民が困窮(こんきゅう)し犠牲(ぎせい)になる状況を心配した。ゆえに、開化天皇は二人の皇子による天下二分の争乱を回避(かいひ)するため、養子の天照大御神(崇神天皇)に天下をゆずった。そして、実子の須佐之男命に高天原(たかまのはら/大和)から去って山陰・出雲に移住して母親・伊耶那美命がとなえた日本建国の〔愛〕の理念の普及(ふきゅう)に努(つと)めよと命令した。
 本来ならば、開化天皇から譲位(じょうい)された天照大御神(崇神天皇)は、その恩義(おんぎ)に感謝して、壮大な開化天皇陵を築造しなければならなかった。しかし、天照大御神(崇神天皇)は開化天皇を心底(しんそこ)から憎悪し復讐(ふくしゅう)しようと天神地祇(てんじんちぎ)に祈って願っていたゆえ、開化天皇陵を築造しなかった。
 ゆえに、天照大御神・崇神天皇母子が基礎を築いた大和朝廷が衰退し、そして伊耶那岐命(開化天皇)を崇拝した難波王朝が隆盛(りゅうせい)した時代から、さらに半世紀後となる5世紀末から6世紀初頭において、上古の英雄・伊耶那岐命の陵墓(開化天皇陵)は開化帝が居住した伊邪河宮が所在した地域よりやや北側の地所(奈良市油阪町)に築造された。
 だから、開化天皇陵の築造年代を理由・根拠にして「開化天皇は実在しなかった」と断定することはできない。前述したように『古事記』上巻や『日本書紀』の崇神天皇紀などの様々な記事からして、開化天皇陵は3世紀に小国・日本と倭人国を併合した英雄・伊耶那岐命(後の開化天皇)の没後から約250年後の5世紀末から6世紀初頭に彼の事績(じせき)を讃(たた)えて築造されたことになる。
 その証拠に、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝には「日本国は倭国の別種なり。その国は日辺(にちへん)にあるをもって、ゆえに日本をもって名となすと。あるいはいう、倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」という記事がある。
 『魏志倭人伝』は末部で「没した卑弥呼の陵墓を築造した時、卑弥呼の後を継いだ男王は奴婢(ぬひ/18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女)百余人を殺す徇葬(じゅんそう)をおこなった」と記述する。また、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕も「伊耶那美命が没した時、崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命は残忍な徇葬をおこなった」と伝える。このように倭王朝は二度も優雅ではない残虐な徇葬を国家事業としておこなった。だから、『旧唐書』倭国日本伝には「倭国(の人民たち)は自らその名(倭国という国名)が雅(みやびや)かではないと悪(にく)んだ」という記事がある。同書が「日本国は倭国の別種なり。(中略)。日本はもと小国、倭国の地を併(あわ)せた」と伝えているように、小国・日本の軍王の伊耶那岐命(後の開化天皇)によって小国・日本と倭国は併合(へいごう)されたのである。

▼いつも亡(ほろ)びるのは、いちばん大事な歴史を忘れてしまった民族である
 わが国の学者たちは誰一人も、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻が「今から約4000年前の後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】を習得した事実」を学問的に科学的に伝えていることに気づいていない。「銀河」の別称は「銀漢」であり「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称し、「銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義」であったのである。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む漢字音は夏音文字の字音である。『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、今から約4000年前に習得した多数の夏音文字が楷書を音符に用いて残っている

 いつも滅(ほろ)びるのは、もっとも大事な歴史を失った国家である
 『魏志倭人伝』は1ヵ所も〔誤読〕を加える必要がない正確無比(せいかくむひ)の資料であった。『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせいぜん)と伝える、世界史的にも特別に重大な資料であった。新井白石以来約300年も長い間、わが国の学者たちは〔多数の誤読〕を加えて「『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を説明する資料である」と断定する。しかし、『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬壱国」であったと記して、【倉頡は発明した漢字作成理論】を伝えている

 そして、わが国では、現在、真実の日本国誕生史は廃棄(はいき)されている
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は「【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて、夏音文字と楷書の字源・字形の原形・原義を天文学でいう通称“夏の銀河”各部の形状に変換にして読解すれば、『古事記』上巻は歴史を伝える資料となる」と説明している。この歴史解明方法のとおりに読めば、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話〕は「伊耶那美命は日本建国理念を〔愛〕と定めた」と歴史を伝えていることが学問的に科学的に証明される

 いつも滅亡するのは、いちばん大事な歴史を奪(うば)われて忘れてしまう民族である

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2021年9月 2日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・26

▼わが国の学界が絶対に正しいと言いきる絶対的な定説にも――学者たちの思考停止(しこうていし)・無知(むち)が原因で根本的に誤る、クレージーなデタラメが存在する。
 この代表的な事例が、学界が「わが国が最初に漢字を習得(しゅうとく)したのは5世紀あるいは6世紀である」とする、絶対的定説である。この絶対的定説はほぼ全国民が絶対的に正しい学説と信じている常識であり、またすべてのメディアとジャーナリストたちもまた絶対に正しい学説であるちがいないと信じている。
 しかし、この絶対的定説はクレージーにして不毛(ふもう)な空理空論・デタラメであった。

◆というのも、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙(だま)されるな」が前回(25)まで詳細に科学的に証明したように――倭女王・卑弥呼(ひみこ)が登場する歴史書で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の約85パーセントの記事は「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭、言いかえるとわが国の後期縄文時代初頭である」と記述するからである。この『魏志倭人伝』に記述された「漢字習得の真実(事実)」はわが国に現存する多数の資料(遺跡、遺物などのさまざまな種々雑多な史料)によって詳細に具体的に科学的に証明される。
 上記した『魏志倭人伝』は大半の記事で「後期縄文時代初頭に、わが国は漢字を習得した」と説明する事実はわが国の学界にとってきわめて不都合な真実である。このため、このような記事は『魏志倭人伝』には「いっさい、存在しない」と、もちろん、学界は定めている。したがって、『魏志倭人伝』が大半の記事で「中国の夏代初頭に漢字を習得した」と説明する事実は学者たちによって排除(はいじょ)され無視され、闇に葬り去られている。

◆『魏志倭人伝』だけでなく、『古事記』上巻の序もまた「わが国が漢字を最初に習得したのは、後期縄文時代初頭(今から約4000年前)であった」という事実を語っている。
 だから、学界はじめメディアやジャーナリストが太鼓判(たいこばん)を押す「わが国が漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」とする絶対的な定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述された真実を学者たちが排除し無視してデッチあげたクレージーな不毛の空理空論であった。
 江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき)は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて強引(ごういん)に邪馬台国説をデッチあげた。この白石のクレージーな邪馬台国説に、学者たちはすっかり魂(たましい)をうばわれ意のままにあやつられ隷従(れいじゅう)し、約300年ものあいだ思考停止して、いっこうに【多数の誤読】を加えて成立する立論方法は根本的にあやまっているのではないかという疑問を抱かうとしない。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えなければ、その約85パーセントの記事は「わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)であった」と伝えていることが科学的に証明される事実を――学者たちはまったく知らない。

◆「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論である事実は――現在は、誰にも容易(ようい)に理解できる明白なる事実となる。
 言いかえると、「わが国が最初に漢字を習得したのは今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であった」という事実は、現在、誰にも容易に理解できる明白なる事実なっている。
 現在は、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する絶対的定説は学者たちの思考停止・無知がなせる完全なるデマであり、完璧(かんぺき)なる空理空論であり、非科学きわまりないデタラメである。この事実を学者たちや学界やメディアやジャーナリストたちは信じないであろうが――現在、ゴマカしたり、弁解したりすることができない学問的事実となり、明白なる科学的事実となっている。

◆隣国の韓国では「漢字は韓国が最初に作った。最古の漢字の甲骨文字(こうこつもじ)は韓国の先祖の東夷(とうい)族が作ったからである」というクレージーな下品なデマ・ウソが横行(おうこ)しているようであるが――漢字は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。だから、韓国の学者たちが主張するように漢字は甲骨文字から始まったのではない。
 中国では、古来、「漢字は、黄帝につかえた倉頡が発明した」と伝えられていた。この倉頡伝説には「四つ目の怪人・倉頡」が登場する。この「四つ目の怪人・倉頡」について、学者たちは「人間には四つの目がない。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである。漢字は長い歴史の中で発展してしだいに体系を整えてきたものであり、倉頡ひとりの発明品であるはずがない」と、倉頡伝説を全面否定する。
 しかし、今から約5000年前に黄帝・倉頡が生存した五帝時代初頭の中国全土の天頂(てんちょう)には「人間の横顔にソックリの銀河部」がめぐってきた。この「人間の横顔にソックリな銀河部には四つの目」がある。だから、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」をもって――漢字は銀河から作られた。「銀河」の別称は「銀漢」、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた――と伝えていたことになる。
 倉頡伝説のとおり、「漢字は倉頡が発明した」ことは事実であった。
 というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は「倉頡伝説は事実であった」と学問的に科学的に証明できる確かな資料であったからである。ところが、わが国の学者たちは新井白石以来約300年も、【多数の誤読】を加えて「『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地について記述した書物であった」とする真っ赤なウソ・デマを日本国中にまき散らした。これゆえ、いままで「倉頡伝説は事実を伝えていたこと」が詳細に学問的に科学的に証明することができなかったのである。
 世に名高い邪馬台国説九州説と邪馬台国説畿内説は学者たちがデッチあげた100パーセントの真っ赤なウソであった! アマテラスオオミカミを最高神と称賛する日本神話虚構説もまたは学者たちがデッチあげた100パーセントの真っ赤なウソであった! 『古事記』上巻は愛の女王・イザナミノミコトをわが国のすべてを生んだ祖(おや)と絶賛(ざっさん)して歴史の事実を伝える書物であった! その証拠に、織田信長と徳川家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述されている【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を幼少のころから学び、『古事記』上巻に記述されたイザナミノミコトの歴史を正確に読解してイザナミノミコトに熱烈にあこがれる生涯をつらぬいた。
 わが国には「【夏音文字の学芸】を習得した時に同時に【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と伝える確かな資料であった『魏志倭人伝』と『古事記』上巻はじめ、遺跡・遺物、地上絵(平面的に図化した地図)、文化・伝統、また【夏音文字と倉頡が発明した作成理論】を学習した多数の前人たちが存在する。というのも、【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の知識】は【学問】であったゆえ、遺跡・遺物が残り、文化・伝統としてうけ継がられことになった。だから、わが国の学問は【倉頡が発明した漢字作成理論】を習得した約4000年前の後期縄文時代初頭から始まったことになる。
 そして、現在、とうとう、「倉頡伝説は事実を伝えていたこと」が明確に学問的に科学的に証明できる状況となった。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわ・しずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの初めから3行目までで、〔わが国の漢字音〕と題して、下記のごとく指摘(してき)する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻(おんにん)学がとり入れられ、殊(こと)に音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ摘要しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 上記したように、白川静著『字統』は「西洋の言語学・音韻学の成果によって、現存する中国の最古の漢字音よりも、わが日本国の国語として残っている最古の漢字音のほうが古いことが明らかとなった」と指摘する。
 下に配した〔漢字生長史〕に示したように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、この上古音における最古は今から約3070年前(紀元前1046)ごろの漢字音である。
 学界が自信たっぷりに「わが国が、漢字を最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説を下の〔漢字生長史〕に加えると――最下部、つまり『魏志倭人伝』に登場する倭女王・卑弥呼が生存した三国時代/3世紀(220年~280)より下部に記入することになる。したがって、学界が主張する絶対的定説の「5世紀あるいは6世紀に習得した漢字音」は「中国の上古音」よりも新しいことになる。だから、学界の漢字習得の絶対的定説は西洋の音韻学の成果に反する空理空論となる。
 下の〔漢字生長史〕が明確に示すように、わが国が最初に漢字を習得したのは中国から夏音文字の学芸が伝来した後期縄文時代初頭であった。だから、学界が「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は真っ赤なウソ・ナンセンス・非科学きわまりないデタラメであったという事実は、現在、明白なる事実となる。
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 【1】わが国の学者たちは、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に1ヵ所も【誤読】を加えず忠実に読解すると、「わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字を習得したとき、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】をも習得した」と説明していることになる事実を知っていない。
 【2】わが国の学者たちは、わが国には【現存する最古の漢字音(夏音文字の字音)】が『魏志倭人伝』と『古事記』に多数残っている事実を無視する。
 【3】わが国の学者たちは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に1ヵ所も【誤読】を加えずに読解する方法が学問における初歩的心得・基本原理・基本原則・鉄則であることを知らない。
 【4】わが国の学者たちは、『魏志倭人伝』には1ヵ所も【誤読】を加える必要がない、正確無比(せいかくむひ)の資料であることを知らない。
 【5】これゆえ、わが国の学者たちは邪馬台国説と日本神話虚構説は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に【多数の誤読】を加えたデッチあげた空理空論、非科学きわまりないデタラメであることに気づいていない。

◆上に配した〔漢字生長史〕が示すように、また、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述されているように――わが国は今から約4080年前ころの後期縄文時代初頭、紀元前21世紀末ころ(紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころ)の中国の夏代初頭に原初漢字・夏音文字を習得した。
 この【わが国が夏代初頭に習得した漢字音】について、白川静著『字統』は「西洋の言語学・音韻学によって、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。
 わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国に現存する最古の漢字よりも約1000年前の漢字音である。だから、夏音文字の字音は現存する最古の漢字音である。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』には――702年に中国に渡来した第7回遣唐使は中国王朝に「後稍夏音(のち・やや・かおん)を習(なら)う」と告げた――という記事がある。わが国の遣唐使が中国王朝に伝えた「後稍夏音を習う」という説明は「672年の壬申(じんしん)の乱の後、稍々(少し)夏音文字を習う(復興する)にした」と意味した。
 その証拠に、第7回遣唐使が中国に渡った702年の10年後の712(和銅5)正月28日に成立した『古事記』上巻には、〔音〕という注が付く夏音文字が多数記載されて残っている。
 『古事記』上巻に〔音〕という注が付く多数の夏音文字について、白川静著『字統』は「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘したのである。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話は、合計381字で構成される。そのうち、〔音〕という注が付く夏音文字は【1】「許々袁々呂々邇(こをろこをろに)」の7字、【2】「淤能碁呂(おのごろ)」の4字、【3】「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」の7字、【4】「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」の10字、【5】「久美度邇(くみどに)」の4字、計32字である。淤能碁呂島説話における合計381字の文字のうちの32字・8パーセントの夏音文字は「稍(やや)」つまり「わずか8パーセント」ということになる。
 だから、『古事記』上巻の各説話には、702年に中国に渡った遣唐使が中国王朝に「稍夏音(やや・かおん)を習う(復興する)ことにした」と語ったとおり、夏音文字の漢字音を「稍(やや)の文字数」で記載されて残った。ゆえに、各説話に稍(やや)の文字数で記される夏音文字を合計すると、『古事記』上巻全体には多数の夏音文字が記載されていることになる。
 ゆえに、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は、『古事記』上巻の序にて太安万侶(おおのやすまろ)が「わが国が最初に漢字の習得したのは後期縄文時代である」と記述した警告(けいこく)と、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数残る夏音文字の存在を無視して強引にこじつけた空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

◆現在、「中国の最古の漢字音は紀元前11世紀ころから始まる上古音である」という知識は学者ならば当然(とうぜん)そなわっていなければならない、容易に知得できる常識である。
 また、学者ならば「西洋の言語学・音韻学によって、現存する最古の漢字音は中国の上古音ではなく、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて残る、後期縄文時代初頭に習得された夏音文字の字音である」という事実も、当然、知っておかねばならない常識である。
 ところが、上記した当然していなければならない事実・常識をわが国の学者たちは知っていない。このような非常識な学者たちの口車(くちぐるま)に乗せられて「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」とデマを流しつづけるメディアやジャーナリストの現況は、あまりにもお粗末(おそまつ)といわざるをえない。
 というのも、メディアやジャーナリストたちは空理空論・ウソ・デマを暴(あば)き、真実・事実を伝える義務と使命を背負っているからである。上記したように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、学者たちが「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えて強引(ごういん)にこじつけたデタラメ・真っ赤なウソ・空理空論であったことは明白なる事実である。
 だから、メディアやジャーナリストたちは、いまがいま、(1)漢字習得の定説と(2)邪馬台国説と(3)日本神話は【誤読】の空理空論であったという事実を世に発表して、自らの義務と使命をはたさなければならないことになる。

◆夏音文字は3世紀後半(280年~289)に著作された『魏志倭人伝』に人名・小国名・官職名に用いられて多数残っている。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」、倭国(わこく)の外相「難升米」を夏音文字で読むと「ナシメ」、帯方郡大守(たいほうぐんたいしゅ)に倭国と狗奴(くな)国の戦況を説明した武将「載斯烏越」お「ソシアオ」と読むと、夏音文字の字音となる。
 また、令和元年1114日・15日におこなわれた大嘗祭(だいじょうさい)における重要な建物の「悠紀殿」の「悠紀」を「ゆうき」と読まずに「ユキ」という読み方、主基殿の「主基」を「しゅき」と読まずに「スキ」という読み方は夏音文字の漢字音であったのである。
 千賀四郎(せんが・しろう)編集『日本古代史の旅・3 邪馬台国』(小学館発行/1975年初版第一刷)30ページは〔卑弥呼の発音について〕と題して、下記のごとく指摘する。
 ――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となり、(中略)。現在の中国音では「ピーミーフー」である。
 上記したように、「卑弥呼」の[]の字を中国の上古音・中古音・近古音・現代音では「ピ」または「ピー」と読み、「ヒ」とは読まない。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むのは、夏音文字の漢字音である。
 邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説を主張する学者たちは「卑弥呼」の3字を夏音文字の字音で「ヒミコ」と読む。だから、邪馬台国説学者たちは、自らの意思に反して不本意(ふほんい)にも、「今から約4000年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)、わが国は夏音文字を習得した」という事実を承認していることになる。

◆前述したように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は――「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して中国で日本でも「漢字」と称した――と伝えていたキーワードであった。
 この「漢字」という名称の由来に学者たちが気づいていれば――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する資料(書物)であることが証明されていた。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」とよぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよぶ銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。ゆえに、「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」とよぶことにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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◆天文学はじめ種々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河部・字形の原形となった銀河部・原義となった銀河部》の解説と証明をおこなう際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めた。
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◆今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)は「文字作成銀河各部の形状から文字を作る方法(作成理論)」を発明した。
 倉頡はみずから考案した文字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば黄帝王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、この大罪(たいざい)を犯(おか)した人物の一族全員まで厳(きび)しく神罰(しんばつ)が下されて即刻(そっこく)死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は銀漢(文字作成銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露(ばくろ)した者はもちろん、その者の一族全員にも神罰が下されて死刑にする
【二】多くの文字を容易に覚えやすくするため、文字作成銀河の各部に名称をつけた者、またその者の一族全員にも神罰が下されて死刑にする
【三】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者または消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰が下されて死刑にする

◆五帝時代の原初漢字は「書契(しょけい)」とよばれる。この五帝時代の書契、次のわが国の夏音文字と中国の夏代に用いられた夏代文字、次の殷代(いんだい)前半の原初漢字は上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重にまもった。したがって、五帝時代から殷代前半までの原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年以後から出現した殷代後半の甲骨文字は多数の文字数となったため、いちいち倉頡が定めた【三】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となった。このため、【三】の掟はまもらなくても死刑は免除(めんじょ)されることになった。これゆえ、甲骨文字によって【三】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料は多数出土した。甲骨文字においては、倉頡が定めた【一】と【二】の掟を厳重にまもった。ゆえに、学者たちは「銀漢から作られた文字」あるいは「銀漢各部の形状が文字であった」ゆえ、「漢字」と呼ばれることになった秘密に気づかず、また、わが国には原初漢字・夏音文字が残っていることも気づかず、さらに『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の両書は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を伝える確かな資料であることにも気づかない。

◆漢字は字源・字形・字義と、そして字音の4つの要素によって成立する。
 上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】によって、上掲(じょうけい)した写真の「文字作成銀河の各部の形状」が「字源」となり、「文字作成銀河の各部の形状」が「字形の原形」となり、「文字作成銀河の各部の形状」が「漢字の原義」となった。
 つまり、学者たちは書いた文字の資料が多数出土した殷代後半の甲骨文字と西周時代の金文を「真の漢字」・「真の字形」「真の字義」を示すものであると断定する。しかし、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】によって、書いた文字が用済みになると必ず消されることになったため、五帝時代・夏代・殷代前半では、人の手で消すことができない「文字作成銀河の各部の形状」が「字源・字形・字義」となった。
 実際に、「文字作成銀河の各部の形状」は「字源・字形・字義」となった。だから、倉頡は「字源・字形・字義をあらわす文字作成銀河の各部の形状」でも「ことばをあらわす記号、すなわち文字」になることに気づき、上記した【死刑と定める三つの掟】をもって【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を王朝が独占管理してもっとも厳重(げんじゅう)な機密とするようにした。だから、五帝時代の書契(しょけい)・夏音文字における「字源」・「字形」・「字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であったことが歴史的事実となった。
 ところが、学者たちは「文字作成銀河の各部の形状」が「字源・字形・字義」をあらわすゆえ、「文字作成銀河の各部の形状」が「言葉をあらわす文字」となる事実にまったく気づかない。
 夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に、2世紀の後漢時代後半から出現して7世紀初頭の隋代(ずいだい)にて完成した楷書を音符(おんぷ)にして記載される。夏音文字の字音をあらわす音符に用いられたほとんどの楷書もまた夏音文字と同じく【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)って作られた。ゆえに、「楷書における真の字源・真の字形・真の字義」もまた「文字作成銀河の各部の形状」であった。
 学界が「漢字の最も古い祖型(そけい)」と定める殷代後半に用いられた甲骨文字の字音を伝える資料は発見されていない。だから、甲骨文字も【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)って作られたゆえ、「甲骨文字における真の字源・真の字形・真の字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であった。
 上記したように、現在、甲骨文字の字音は無いと定められる。だから、甲骨文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とする、字源・字形・字義の3つの要素から成る、字音が無い不完全な漢字である。
 いっぽう、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とし、『魏志倭人伝』と『古事記』に楷書で「字音」が記載されるゆえ、4つの要素が成立する完全なる漢字である。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に【多数の誤読】を加えて捏造(ねつぞう)した空理空論・真っ赤なウソであったのである。

3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』は、下記のごとく三つの記事で「倭には文字があった」と明確に伝えている。
 (1)倭における占いに用いる辞(じ/文字とことば)について、『魏志倭人伝』には「其の辞()は、令亀(れいき)の法の如(ごと)く」、つまり「其の辞は、亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字のごとき文字があった」と伝える記事がある。
 この「甲骨文字のごとき文字」は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭に、中国から伝来した夏音文字であった。したがって、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とする漢字であった。だから、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」と存在するものであったゆえ、確かに実在した文字であったことになる。
 (2)『魏志倭人伝』には「倭の伊都(いと)国の津()では京都(けいと/中国の魏の首都洛陽)・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁が所在した朝鮮半島の一画の郡)・諸韓国が用いる文字(楷書)と倭女王の卑弥呼が文書に用いる文字を、逐一(ちくいち)点検し、確認して、楷書と倭の文字の両者の間に差錯(ささく/間違い・誤訳)が生じないように正確に変換していた」と伝える記事がある。
 魏の都と朝鮮半島(帯方郡・諸韓国)で用いられた楷書は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした。倭女王の卑弥呼が文書に用いる文字もまた「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした。だから、倭の伊都国の港では「文字作成銀河」を字源字書と定めて、魏都と朝鮮半島で用いる楷書と字形が差錯(相違)する卑弥呼が文書に書いた文字を逐一点検し、確認して、間違い・誤訳が生じないように正しく変換することができた。2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代に用いられていた漢字を書いた資料は出土していない。ゆえに、『魏志倭人伝』の記述された倭の文字は【倉頡が死刑と定めた掟】によって、書いた文字が使用済みになったならば必ず消滅しなければならなかった、「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした夏音文字であったことになる。
 (3)2000字で構成される『魏志倭人伝』の後半には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中、洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という、76(4パーセント)の記事がある。
 上記の76(4パーセント)の記事は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から16回までで、「今から約4000年前の後期縄文時代初頭、夏王朝の帝王に就任した益(えき)の孫の王子と若者たち一行が中国からわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を伝え教えひろめた。益氏が伝授した【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】は、今から約6000年前の前期縄文時初頭~後期縄文時代初頭までの約2000年間、文字作成銀河の形状をモデルにして土器・土偶を作った東北地方から関東地方までの芸術家たちによって習得された」と伝えていたことを、詳細に具体的に科学的に解説して証明した。
 だから、上記した『魏志倭人伝』の(1)(2)(3)3つの記事は「後期縄文時代初頭、わが国は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を習得した。これゆえ、2世紀末~3世紀半ばに生存した倭女王・卑弥呼は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして、天下を治めていた」という事実を証言するものであったことになる。

◆その証拠に、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」における17回~25(前回)までにおいても――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約85パーセント・約1700字の記事で「わが国は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を習得した」と説明している――と詳細に明確に科学的に解説して証明した。
 (注 上記した(1)(2)(3)の記事は、この約85パーセント・約1700字の記事に含まれる)
 『魏志倭人伝』における【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を説明する約85パーセント・約1700字の記事のうち――【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を約55パーセント・約1100字で直接的に、後半の「景初二年六月」という約30パーセント・約600字で【倉頡が発明した漢字作成理論】を間接的に説明している。
 残る『魏志倭人伝』の約15パーセント・約300字は倭人国の風習・生息する動植物・作物などを伝えている。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名(倭人国の首都が所在した国名)を「邪馬壱(やまい)国」と記す。だから、学者たちが主張するように「邪馬台国」とは記していない。
 中国の正史『三国志』のうち〔魏書東夷伝(ぎしょとういでん)〕末部の倭人伝を、通称『魏志倭人伝』とする。
 古代史研究家の先年に亡くなった故・古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される【壹()86字、【臺()56字を逐一(ちくいち)調査し、【壹()】の字を【臺()】と誤記した例が1字も存在しないことを証明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の17回「対馬国・一大国」という小国名の秘密の解明と、わがブログ20回における「邪馬壱国」という小国名の秘密の解明と、わがブログの25回において詳細に具体的に【科学】が成立するように証明したように――「邪馬壱国」の【邪馬壱】という語は【倉頡が発明した漢字作成理論における基本原理】をあらわした。だからこそ、倭女王の卑弥呼が居住した王国名は【倉頡が発明した漢字作成理論における基本原理】をあらわす「邪馬壱国」であったと記述した『魏志倭人伝』は、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を明確に詳細に説明していた資料であったのである。
 『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。だから、学者たちが主張する邪馬台国説(邪馬台国九州説・邪馬台国畿内説)は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える詐術(イカサマ)の方法で【倉頡が発明した漢字作成理論】を抹殺(まっさつ)したクレージーなデタラメ・国民を小馬鹿にする不毛の空理空論だったのである。
 学者たちは多数の【誤読】を加えて空理空論の邪馬台国説と日本神話虚構説をもって日本国民を徹底的(てっていてき)に愚弄(ぐろう)し、日本国家を衰滅させる暴力・暴言・デマを蔓延(はびこ)らさせ、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の存続に尽力(じんりょく)した皇室の滅亡をはかる大罪(たいざい)を犯し、日本人・日本国にとって最も重大な真実を抹殺・排除して虚偽(きょぎ)を事実とせんと躍起(やっき)になっている!

 『魏志倭人伝』には34の小国が登場する。
 そのうち、前記した『魏志倭人伝』の後半部にある76(4パーセント記事)の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種なり」の小国名不明の1国とその後に列記された侏儒国・裸国・黒歯国の4国を除くと――『魏志倭人伝』の前半部には、対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までは30の小国が登場する。
 対馬国から狗奴国までの30の小国をふり仮名無しで列記すると、下記のごとくなる。
 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壱国、斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国、狗奴国。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ、騙されるな」の17回~25(前回)までで詳細に具体的に科学的に解説して証明したように――卑弥呼は上記の30の小国名と「倭人国」という国家名をもって、【文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然(りろせいぜん)と表示した。このため、『魏志倭人伝』は【文字作成銀河の各部の形状】を目で見ながら【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を思考する書物となった。そして、中国の晋(しん)王朝につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が著作した『魏志倭人伝』は学者たちの想像を超()える、1ヵ所も【誤読】を必要としない正確無比の歴史書であった。
 一方、わが国の学者たちは真っ先に「『魏志倭人伝』には信用してはいけない多数の記述がある」という幻想にとり憑()かれる。さらに、学者たちは「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という幻想にとり憑かれる。だから、学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を説明する書物であったという幻想にとり憑かれて、すべてを台無しにした。

◆『古事記』上巻の序は――紀元前3000年ころの五帝時代初頭から『古事記』が成立した8世紀までの漢字は、【倉頡が発明した漢字作成理論】に則って作られた」と説明する資料であった。この重大な資料をも、学者たちは多数の【誤読】を加えて台無しにした。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序が【倉頡が発明した漢字作成理論】を記述した確かな資料であったことは、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前にて紹介したわが著書、すなわちkindle版『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』(両書とも1000)の電子書籍でも詳細に具体的に解説して証明した。
 また、無料・電子書籍「四千年前に日本には漢字が伝来した『日本四千年の学問史』」においても、詳細に具体的に解説して証明した。

◆わが国の文化・国民的思想・民度・宗教観・日本人の魂の根元などさまざまな重大な諸問題は、「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は【倉頡が発明した漢字作成理論】を詳細に具体的に科学的に説明する資料であった」という――この事実に則(のっと)っている。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は【倉頡伝説は事実であった】と学問的に科学的に証明できる資料であったという――この事実は、今後、世界的に強大な力(ちから)となって社会を大きく変革させるにちがいない。
 というのも、わがブログ「古代エジプト文字の字源」(27)にて詳細に具体的に証明したように、古代エジプト文字(ヒエログリフ・聖刻文字)もまた漢字と同じく「文字作成銀河の各部の形状」から作られたからである。
 古代エジプト文字は現在におけるアメリカ・ヨーロッパ・アフリカなど世界70ヵ国以上の公用語の文字と使用されるABC・アルファベットのルーツである。また、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字(アメリカ・ヨーロッパ・アフリカのABCアルファベット)だけでなく、現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字のルーツでもある。
 ゆえに、現代における世界中の大半の人々が使用する文字は「文字作成銀河の各部の形状」から起源したことになる。したがって、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は「世界の大半の人々が使用する文字は、文字作成銀河の各部から作られた」という事実が証明できるきわめて重大な資料となる。
 太古の昔から、人類は万物の形状に相似する銀河をみつめてきた。この銀河から古代エジプト文字と漢字が起源した。この事実を具体的に学問的に科学的に検証(けんしょう)できる資料の存在に誰も気づいていなかったが、この資料が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻であったのである。この発見は、学者にとってだけでなく、人類にとってもワクワクする話題なのである。
 というのも、文字は現代の国々の繁栄や富や名誉や尊厳やまた現代文化・文明の出発点・基礎・土台・原動力となったからである。ゆえに、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序によって解明される文字の起源の学問的・科学的なワクワクする発見は、必ずや強大な力となって世界中に大きな変革をもたらすにちがいない。『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序が文字の起源を解明できる資料であった事実はわが国の学者たちやメディアやジャーナリストたちには不都合な真実のためしばらくは隠蔽(いんぺい)されるであろうが、人類にとってワクワクするエキサイティングな話題であるゆえ、この発見はいずれ世界中に知れ渡るにちがいない。それゆえ、この事実は日本社会に衝撃的(しょうげきてき)に大きな変革をもたらすことになり、結局、個々の日本人にとっても大きな変革がもたらされるにちがいない。
 だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論であってもまったく興味無い、自分には関係ないと思うようにしても――上記したように、あなたの実生活に直接的にさまざまな影響をおよぼす、あなたが生きるうえできわめて重大なエキサイティングな問題であるゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は空理空論・デタラメ・ウソ八百であることを前もって知っておいて、自分がどのように日々を生きるべきか、大きな変革に犠牲(ぎせい)にならないように巧(たく)みにじょうずに対処しなければならないことになる。

 (1)「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という「絶対的定説」はじめ、(2)『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を伝える文献である」という「定説」や、(3)「『古事記』上巻の日本神話は歴史を伝えるものではなく、虚構(きょうこう)・作り物である」という「定説」と称される学者たちの意見の知識は正しいにちがいないと鵜呑(うの)みにしてすっかり信用し、定説や有力説に心酔(しんすい)して思い込み・贔屓(ひいき)の度が激しくなると、定説や有力説の大きな誤りが見えなくなり、明白なる決定的な間違いに気づくことができなくなる。
 上記した三つの定説は日本国民を徹底的に貶(おとし)めて愚弄(ぐろう)する空理空論、日本国家を衰滅させる元凶(げんきょう)にして、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を存続させた皇室の滅亡をはかる大罪にして、日本人のいのちの根元となる真実を抹殺・排除して虚偽(きょぎ)を事実とせんと学者たちが夢中(むちゅう)になるクレージーな暴力・暴言である。
 現在、学者たちは前人が残した『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解することを頑固(かたくな)に拒絶して、学問の初歩的心得・基本原理・基本原則・鉄則を無視して多数の【誤読】を加える方法で真実・事実を曲げ、たくみに詭弁(きべん)を駆使(くし)して、日本国民を愚弄し、日本人の生活を直(ちょく)に脅(おびや)かし、メディアやジャーナリストを手なずけて日本国家を衰滅させる、皇室の滅亡をはかるクレージーなデタラメを日本中に蔓延(まんえん)させて支配することに夢中になっている。
 絶対にゆるしてはならない!

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2021年7月17日 (土)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・25

▼日本人よ! 日本全国民よ! いわゆる“邪馬台国説”の意見を著(あら)わす書物や教科書、またテレビ番組、漫画日本史なる類(たぐい)までの全般におよぶ、学者たちの意見を、いっさいがっさい信じてはならない! というのも、邪馬台国説はすべてが真っ赤なウソ・欺瞞(ぎまん・ぺてん)だからだ! 
 その証拠に、邪馬台国説学者たちは――『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』という古文献には、倭女王・卑弥呼(ひみこ)が居住した女王国の名称を「邪馬台国」と書いてある――と日本国民を信じこませて騙(だま)している。しかし、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」について説明する記事は1ヵ所も存在せず、女王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であったと書かれている! 
 このように、邪馬台国説は大ウソつきである! 邪馬台国九州説と邪馬台国説畿内説は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事とも1ヵ所も合致しない、つまり【科学】がまったく成立しない、すべてが妄想(もうそう)、全部がぜんぶデタラメ! 真っ赤なウソである! 日本学問史上における最低・最悪の空論である!
 江戸中期の新井白石(あらいはくせき/16571725)以来今日まで約300年、邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』という書物に自分勝手の独断的なデタラメを仰山(ぎょうさん)に加えて、メディアはじめ日本国中の人々をまんまと騙(だま)し――日本人の尊厳を、日本人の根源的ないのちと魂と精神(理性を知性)を冒涜(ぼうとく)し、『魏志倭人伝』に記述された重大な真実を抹殺(まっさつ)し、踏みつぶさんとしている。
 このような学者たちの真っ赤なウソに、日本全国民よ! まんまと騙されてはならない! 怒れ! 怒れ! 憤怒(ふんぬ)せよ! 日本全国民よ、邪馬台国説学者たちはあなたのいのちと魂の根元を侮辱し凌辱(りょうじょく)し愚弄(ぐろう)しているのだ!
 九州説と畿内説をとなえる学者たちは【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽・ぺてん)・詭弁(きべん)】を駆使(くし)して、メディアはじめ国中の日本人を言いくるめ誑(たぶら)かして、世界的に第一級の重大な文献史料『魏志倭人伝』を嬲(なぶ)り弄(もてあそ)び凌辱して抹殺しようとしているのだ!
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】という名の【誤読】を加えずに、ただひたすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
 つまり、『魏志倭人伝』は【漢字の起源の秘密】を詳細に記述した書物であった!
 『魏志倭人伝』は「今から5000年前の中国の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代に、漢字は発明された。その約1000年後の、今から約4000年前、わが国は【漢字が起源した時の学術】を習得した」と伝える、全記事が正確無比の重大な歴史を伝える書物であった。
 『魏志倭人伝』に記述されている真実、つまり【漢字が起源した学術】は、今から約4000年前にわが国が習得して以来、日本人の花咲く尊厳と、日本人の花咲くいのちと魂と精神(理性を知性)となって受け継がれた。言いかえると、【漢字が起源した学術】は【日本人の血と肉】となって受け継がれた。
 にもかかわらず、新井白石以後から現在までの約300年間もつづいた学者たちの空理空論の邪馬台国説のために、【漢字が起源した学術】は皆目不明(かいもくふめい)となり、現在、消滅の寸前となった。
 だから、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(24)まで、九州説と畿内説は詐偽(さぎ)・欺瞞(ぺてん)である実体を徹底的に暴露(ばくろ)してきた。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・34

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すると、全記事において【科学】が成立して、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 現在、学界は「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」と断定している。この絶対的定説は、空理空論の邪馬台国説にまんまと騙(だま)された学界が抱くことになった幻想・空想であったのである。
 もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解されていたならば「わが国が漢字を最初に習得したのは、今から約4000年前の後期縄文時代初頭であった」という意見が定説となり、「邪馬台国説は空理空論である」とバッサリと切り捨てられていた。
 その証拠に、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)の序(字統の編集について)における9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、また『魏志倭人伝』に記述されているとおり、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、わが国は夏音(かおん)文字の学芸を習得した。この『魏志倭人伝』が伝える《わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音》は、《中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき、中国の上古音よりも新しい漢字音となる。だから、空理空論の邪馬台国説にまんまと誑(たぶら)かされた学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と断定する絶対的定説は、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する非科学論・空想であったことになる。
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 上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、つまり【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)に習得した夏音文字の漢字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残って実在する。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説は、【1】正確無比の『魏志倭人伝』に多数の【誤読(文献批判)】を加えて『魏志倭人伝』に記述された真実をこととごとく排除する邪馬台国説にダマされる空論であり、【2】夏音文字が『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝、また『古事記』上巻・『万葉集』などに多数記載されて残っている事実に反する空論であり、【3】白川静著『字統』の序(字統の編集につて)における音韻学の成果に反する空論であったことにある。
 そもそも『魏志倭人伝』に登場する「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は「現存する最古の夏音文字の漢字音」である。この夏音文字の字音よりも新しい中国の上古音だと、「卑弥呼」は「ピミカ」と発音することになる。
 邪馬台国説学者たちは「卑弥呼」を夏音文字の字音で「ヒミコ」と読む――この事実、つまり【わが国は後期縄文時代に夏音文字の学術を習得した事実】にもとづいて、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読むと、【『魏志倭人伝』は漢字が起源したときの学術を理路整然(りろせいぜん)と説明する書物】であった事実が科学的に証明される。

◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
 一つ目の記事は、【134字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
 二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津()では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。
 上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説にとって不都合な記事であるため、300年間無視され排除されてきた。
 さらに、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回・5回と14回・15回の4回で詳細に解説したように――『魏志倭人伝』の中半に登場する「女王国より以北の名称不明の海上に浮かぶ皆倭種なりの一小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国、この4小国の東南に所在して船行一年にして参問(さんもん)できる、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」と説明する76字の記事をもって、『魏志倭人伝』は「今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明していた事実を科学的に具体的に証明した。
 このように、学界は『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も合致しない空理空論・妄想(もうそう)の邪馬台国説九州説と邪馬台国大和説に魂をぬかれてすっかりダマされている。
 だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が日本国中に流布(流布)されて――定説となった。
 したがって、もしも学者たちが『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに忠実に読解していれば「邪馬台国は空理空論である」と断定されて、【倉頡によって発明された漢字作成理論】が、このブログ以前に科学的に解明されていたことになる。

◆漢字は今から約5000年前、 中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
 【倉頡が漢字を発明した起源の詳細】は、現在、漢字が起源した中国において解明されていない。
 しかし、わが国において邪馬台国説が出現する以前、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない方法をもって「わが国は、上古(後期縄文時代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得したという学識」が確立されていた。
 ところが、新井白石(あらいはくせき/16571725)が邪馬台国・大和説をとなえた後に邪馬台国九州説をも提唱した、その後の学者たちによる邪馬台国説信仰によって、【倉頡が漢字を発明した起源の詳細】は解明できなくなった。というのも、新井白石以後、学者たちが【『魏志倭人伝』に多数の誤読・作為・捏造(ねつぞう)を加える反()学術運動】に情熱をそそぐことになったからである。ゆえに、反()学術運動の空理空論の邪馬台国説によって約300年間も、【倉頡が発明した漢字作成理論】は排除されて闇に葬られることになった。
 でも、しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。
 というのも、前述したように『魏志倭人伝』には【倉頡が発明した漢字作成理論】について卑弥呼が理路整然と説明して明確に保存されているからである。
 だから、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解する方法を復興すれば――【倉頡が発明した漢字作成理論】は鮮烈に蘇(よみがえ)る。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に学者たちが気づいていれば――『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 『魏志倭人伝』に書き記された【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河・字形の原形となった銀河・原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期の漢字】は【文字作成銀河各部の形状】となった。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はもちろん、その者の一族全員にも神罰が下されて即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者、またその者の一族全員にも神罰が下されて即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰が下されて死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 『魏志倭人伝』において、【(1)今から約5000年前に倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義】は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)そして《日本列島各部の、漢字の字源を伝える細密な地図の形》によって成立する。そして、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。だから、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》が全部そろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義する。だから、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。
 ところが、黄帝時代以前の約6000年前から始まる三皇(さんこう)時代には、黄帝が研究した医学をあらわすことができる漢字は発明されていなかった。したがって、倉頡が漢字を作成する目的は【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字を考案すること】であった。倉頡は【文字作成銀河(夏の銀河)の各部の形状と中国全土を包む海岸線の地宜(ちぎ/地図の形)を字源・字形・字義とする漢字】を創()くって、【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字の発明】に成功した。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる人命の神秘を合体して誕生した学問(学術)】であった。
 『魏志倭人伝』には、前半部で30ヵ国、中半部で4ヵ国、計34の小国が登場する。
 前述したように――『魏志倭人伝』の中半に登場する「女王国より以北の名称不明の海上に浮かぶ皆倭種なりの小国と侏儒国・裸国・黒歯国、この4小国の東南に所在して船行一年にして参問(さんもん)できる、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」と説明する76字の記事をもって、「今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字の学芸を習得した際に、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と説明している。
 
『魏志倭人伝』の前半部に登場する対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名は――【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。
 というのも、卑弥呼は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤としたからである。ゆえに、卑弥呼は「倭人国」という国家と王朝を創設(そうせつ)するにあたって、30の小国名をもって【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する学術体系を構築(こうちく)して天下を治めることにしたのである。

◆卑弥呼が定めた国家名「倭人国」の[]の初文(最初の文字)は、倉頡が創(つく)った[()]の字であった。
 []の字は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす基軸字(基本となる字)であった。
 卑弥呼は上記した【倉頡が創った[]の字源の秘密】を利用して、1番目の対馬(つしま)国から30番目の狗奴(くな)国までの30の小国名を、10ヵ国ずつ3つのグループに分類して【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわすことにした。
【一】それゆえ、1番目の対馬国から10番目の巳百支(じはき)国までの10ヵ国のグループを、私は《邪馬壱(やまい)国グループ》と名づけることにした。というのも、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究の核心】を倉頡は[]の字を創ってあらわしたからである。この【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究の核心】と【倉頡が創った[]の字源・字形・字義の秘密】を、卑弥呼は倭人国の首都が所在した女王国を「邪馬壱(やまい)」と名づけることにしてあらわした。ゆえに、1番目の対馬国から10番目の巳百支国までの10ヵ国は《邪馬壱国グループ》と名づけることにした。
 〔注 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の20回で詳細に解説し証明したように――【黄帝の医学研究の核心部】を卑弥呼は「せまい産道をくぐりぬけて出産する児童の頭蓋骨が重ねあわせることができる機能」と考えて、この「出産児の神秘的な不思議な頭蓋骨の機能」を卑弥呼は「邪馬壱」と表現した。〕
 白川静著『字統』は、倉頡が創った[]の字源を「稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿」と解説する。
【二】11番目の伊邪(いや)国から20番目の華奴蘇奴(かなさな)国までの10ヵ国を、卑弥呼は[]の字源「稲魂を被って舞う男女の姿」のうちの「稲魂を被って舞う女性の姿をあらわす国々」と定めた。ゆえに、この10ヵ国は《女性グループ》に分類されたことになる。
【三】したがって、残る21番目の鬼()国から30番目の狗奴国までの10ヵ国を、卑弥呼は《稲魂を被って舞う、男性グループ》に分類した。
 【一】の《邪馬壱グループの10ヵ国》についての詳細な解説と証明は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の17回~20回まで、4回にわけておこなった。
 【二】の《女性グループの10ヵ国》についての詳細な解説と証明は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の21回~23回まで、3回にわけておこなった。
 【三】の《男性グループの10ヵ国》についての詳細な解説と証明は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の24回にて、21番目の鬼国から25番目の躬臣(こじ)国までの前半5ヵ国をおこなった。
 後半の26番目の巴利(はり)国から30番目の狗奴国までの後半5ヶ国の詳細な解説と証明は、今回にてこれからおこなうことにする。

◆下の図に中央上部に示したように、26番目の小国「巴利(はり)国」は「旧国の播磨(はりま)、現在の兵庫県南西部」であった。
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 [()]の初文(最初の文字)[()]である。『説文解字』は[]を「握(にぎ)るなり」と解説する。ゆえに、[]の字義は「握るなり」であったと解釈すると、「巴利国」は「旧国の播磨」であったと解明できる。
 下の図における右側に配した「播磨の地宜(ちぎ/地図の形)」は、左側に配した「エブリ」とよばれ農機具の形に相似する。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の遺跡から、「エブリ」が出土している。「エブリ」はその形から「いっぺんに幅(はば)広く多くの土を多数の歯で把(にぎ)って、稲を植える田や畑の地を平らにする利器(便利な農機具)」であったと考えられる。この「農機具のエブリの主体部の板の形」に「現在の兵庫県南西部、旧国播磨の地宜」は相似すると見立てて、卑弥呼は小国名を「巴利国」と定めたことになる。
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 エビリの主体部と柄()の形・構造や使用目的から、エブリは屈強(くっきょう)な男子が使う農機具であったことになる。いいかえると、エブリは男子の腰(骨盤)に多くの負担(ふたん)がかかる農機具であったことになる。
 下に示した図は、上図の右側に配した「播磨の地宜」に相似する、「前下側から見た男性の骨盤図」である。注目すべきは「播磨の地宜」は「上下が反転した男性の骨盤の形」に相似する。というのも、上図の左側に配した「エブリの柄」は下の「男性の骨盤の腰椎(ようつ)とつながる脊柱(せきちゅう)」に相当する。したがって、「エブリ」は「骨盤と骨組み(脊柱)が頑丈(がんじょう)な男子」が使用する農具であったことになる。
 「エブリ」が「播磨の地宜」と「男性の骨盤」に類似すると連想した卑弥呼は、小国名を「巴利国」と決めて「豊かな農作物が収穫できる地域」と祝福したにちがいない。
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◆上記したように、頭脳のすきまを満たす液体の脳漿(のうしょう)を一所懸命(いっしょうけんめい)にしぼって・思惟(しい)すると――「巴利」の2字は「(1)農機具のエブリや、(2)男性の骨盤、(3)旧国の播磨の地宜」をあらわしているという結論になるからである。
 というのも、前回(24)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で解明した25番目の「躬臣(こじ)国」が「旧国の摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)と淡路島、現在の大阪府と兵庫県東部・南部」であると定める思惟(しい)・思索(しさく)は頭をつかって、むずかしかった。同様に、26番目の「巴利国の思惟・思索」もまた頭をつかって、むずかしいからである。
 この25番目の躬臣国と26番目の巴利国に使用した「脳漿をしぼって考える、つまり思惟する」という行為は、次の27番目の「支惟(きい)国」でも存分(ぞんぶん)に発揮しなければならない。
 小国「支惟国」の[()]の字義は「ささえる。わかれる」である。
 ゆえに、下の図に示したように、「支惟国」の[]は「視床(ししょう)・小脳(しょうのう)・脳幹(のうかん)は大脳(だいのう)を支(ささ)える」、または「大脳は視床・小脳・脳幹から支(わか)れる形状」をあらわしていることになる。
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 「支思国」の[()]の字義は「頭脳で考える」である。
 「旧国の安芸(あき/現在の広島県西部)の地宜」だけだと、「頭蓋骨、あるいは頭蓋骨でおおわれる脳の側面形」に相似しない。
 下の図に示したように、「支惟国の範囲」を「安芸(広島県西部)に、安芸に隣接する備後(びんご/広島県東部)の西部」を加えると、「頭(頭蓋骨)や脳の側面形」に相似する。
 つまり、下の図に示したように、三次(みよし)市と福山(ふくやま)市をむすぶ福塩線(ふくしおせん)が通る、馬洗川(ばせんかわ)や芦田川(あしだかわ)が流れる地域を支惟国における東の境界線にすると、「支惟国の地宜」は「頭(頭蓋骨や、脳の側面形)」となる。
 下に示した「旧国の安芸の地宜に、隣接する備後の西部の地宜」は「頭脳の側面形」に相似すると見立てて、卑弥呼は小国名を「支惟国」と定めたのである。
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 [(すい)]の字義は「小鳥」である。ゆえに、『説文解字』は[]の字について「鳥の短尾(たんび)なるものの總名なり」と解説する。「鳰(にお)」は「全長2529センチでカモメより一回り小さい鳥にして、尾の羽は非常に短く、外観からは判別できない。ゆえに、[]の字義は「鳰のような小さい鳥」ということになった。
 下の左右の図(字形)が示すように、「思惟」の[]と「小鳥」が字義となる[(すい)]の金文形は同一字形である。『説文解字』は[]の字を「凡(おおよ)そに思ふなり」と解説する。この[]の「凡そに思ふなり」という説明の意をあらわして、下に配した[][]の金文形は同一字形となった。だから、[]の「凡そに思ふなり」の字説の秘密にもとづいて、手偏に[]の字が加わる[(すい)]の字も作られた。ゆえに、[]の字は「凡そに思ふなり」を意味する「推理」「推測」「推察」などの語をあらわす字となった。
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 下に示すように、「脳幹(のうかん)、つまり中脳(ちゅうのう)・橋(きょう)・延髄(えんずい)の側面形」は「小鳥の姿(側身形)」に相似する。ゆえに、「凡そに思ふなり」の[]の字は「脳の奥深い所にある・小鳥の姿に相似する脳幹」をもあらわすことになった。このため、[]の字は「脳幹は脳の中心の奥深い所にある」ゆえ、「深く考える」という意味をも有することになった。
 上記したごとく、「支惟国」の[]という字は『説文解字』が解説する「凡そに思ふなり(おおまかに考える。全体論的に考える)」とは別に、下に示した「脳の奥深くに隠れる小鳥の姿に相似する脳幹」によって「深く思う(考える)」という両方の意を有することになったのである。
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28番目は「烏奴(あな)国」である。29番目は「奴国」である。
 〔注 九州に所在する5番目国も「奴国」である。ゆえに、「奴国」は「ぬこく」または「なこく」と読んで、5番目の奴国と29番目の奴国を区別していたのかもしれない。しかし、両小国名を同じように読んでいたかもしれない。〕
 下の図に示したように、「現在の高知県、旧国の土佐(とさ)」が「烏奴国」、「現在の愛媛県・香川県・徳島県、旧国の伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あわ)」が「奴国」であったことになる。
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 上の図に示したように、28番目の「烏奴国」は「現在の高知県、旧国の土佐」であった。
 というのも、下の図に示すように、高知県中央南端にある「浦戸(うらど)湾の地宜」を[]つまり「カワセミの姿」に相似すると見立てて、卑弥呼は小国名を「烏奴国」と定めたからである。
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 カワセミは鳰(にお)と同じ[]を代表する小鳥であった。というのも、カワセミは蝶(ちょう)の成虫のごとく美しい小鳥で、その背面が「翡翠色(ひすいいろ)」であるゆえ、「翡翠」という2字は「カワセミ」をあらわすことになった。翡翠・カワセミは土手や崖に横穴を掘り、その奥行(おくゆき)1メートルもある横穴の奥に巣をつくってヒナを育てる。これゆえ、「高知県の地宜」は「カワセミが巣をつくる土手や崖」に見立てられ、「浦戸湾の地宜」は「聖なるカワセミの精霊が棲()む、[]の強大の力を有する国」ということで、卑弥呼は「高知県」の小国名を「烏奴国」と定めたことになる。
 上の左端の図「浦戸湾の地宜」に[(とう)]の字を加えたように、浦戸湾が相似するカワセミの姿は、下に示した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕における右上に配した[]の「天頂点とむすばれる、子午線」に合致して経度(南北)を示している。
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◆烏奴国にある蹉陀岬(さだみさき/佐田岬・足摺岬)は東経133度である。
 下に図に示したように、烏奴国の蹉陀岬・133度の経度線は倭人国の首都が所在した「邪馬壱(やまい)国の中心部」の「島根県東部の出雲地方の佐太神社」をこするように貫通する。この邪馬壱国の東経133度線は佐太神社よりわずかに〔東〕(現在方位)へ外(はず)れる状況をもって、[(けい)]の字源「日景の秘密」をあらわしていた。
 白川静著『字統』は[]の字について――〔周礼(しゅらい)、大司徒〕に「日景を正して、もって地の中を求む」と日景測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという――と指摘している。
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 上の図に示した「烏奴国の蹉陀岬の東経133度線は邪馬壱国の佐太神社に貫通せず、わずかに佐太神社の〔東〕に外(はず)れて貫通する状況(つまり、円の「360度」ではなく、「359.98度」をあらわしている)は、[]の字源「日景」をあらわした。
 「元旦から大晦日(おおみそか)まで」の《一年の365.25日》を、これから「366日」という[]の「凡(おおよ)そに考える数」で計算することにする。
 今日の午前零時に天頂点と重なる銀河部位は、23時間56分後に天頂点と重なる。ゆえに、天頂点と重なる銀河部位の1日は、24時間ではない。天頂点と重なる銀河部位1日は4(0.02)短い0.98日である。ゆえに、「元旦の零時から大晦日の零時までの、一年後の零時」において「天頂点に同一銀河部位が重なって、360度の円」が成立する。ゆえに、「同一の銀河部位がちょうど一年後に天頂点にもどってくるまでの状況」は「360度の円」であらわされる。「360度割る366日は0.98日」となるゆえ、「一日は一日ではなく、0.02日短い0.98日」となる。この「0.98日」が「地上千里して日景に一寸の差があるという、日景測量」をあらわした(つまり、直径が千里の円周上における一日の目盛りは一寸となる、これを「日景」と表現した)。ゆえに、「邪馬壱国」の地所に「烏奴国の蹉陀岬(佐太岬)の経度線の《日景の0.98日・一寸の差》」を表示すると、上に示した〔古代出雲の「邪馬壱」をあらわす地宜〕における「360度の円周の始点と終点の位置となる佐田神社よりわずかに〔東〕へと外(はず)れる地域が《日景の一寸の差》をあらわすことになる。
 したがって、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の20回で詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』が「女王の都(みやこ)する所なり」と記述する「邪馬壱国の中心地域」は、上に図示した「日景測量が表示された地所が在る、山陰出雲地方」であったことになる。
 「山陰出雲地方」には――「邪馬」をあらわした「神門水海(かんどのみずうみ)」と、「十字の銀河の右足(西側の足)の形」に相当する「宍道湖(しんじこ)」と、[]の字源「十字の銀河の子宮」に相当する「島根半島」に佐太神社が鎮座(ちんざ)する。
 このように「山陰出雲地方」は「邪馬壱国の中心地域」であったことになる。
 カワセミは巣の産座(さんざ)に餌の魚の骨を敷く。またカワセミのオスは、メスに餌の魚の頭を向けてあたえる習性がある。小枝に止まる口に魚をくわえるオスのカワセミの様子をしばらく観察すると、メスのカワセミがオスの側(そば)にやってくると――オスがメスに頭を向けて餌の魚をあたえる光景を目撃(もくげき)することができる。
 『魏志倭人伝』には「唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞()を伝えて出入りす」という記事がある。この記事に登場する男子はカワセミのオスを演じて卑弥呼の飲食を給し、卑弥呼の辞(言葉)をつたえるために卑弥呼の居間に出入りする役目に勤(いそ)しんでいたのである。ゆえに、カワセミのオスの習性を利用して、卑弥呼は自らが倭人国における最高位の女王であると威厳(いげん)を示して、各小国の男王や女王たちに服従をもとめて倭人国の安定をはかっていたことになる。
 卑弥呼は倉頡が創った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にのっとって「本州・日本列島における〔東〕は〔南〕となると定義した転回地理論を提唱するものであったゆえ、国号を「倭人国」と定めたことになる。
 []の字源にもとづくと「北→東」となるゆえ、『魏志倭人伝』の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり」という、邪馬壱国の東の大海上にあった小国名が不明の31番目の小国は「佐太神社の真北にある隠岐群島」であったことになる。
 下に示す[]の字源「転回方位」にもとづく「隠岐群島の島前(どうぜん)における「西ノ島の地宜」は「長いクチバシを有する、両翼をひろげるカワセミの姿」に相似する。これゆえ、「知夫里島(ちぶりじま)」が「カワセミの餌となる魚」に相当する。しかし、「知夫里島の地宜」は「魚の形」に相似せず、「斧(おの)の形」に相似する。この形は「〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を破る者はもちろん、その者の一族全員をも神罰が下されて斧で首を斬()って死刑にする」をあらわすものであったのではあるまいか。だから、「カワセミのオスに見立てられて卑弥呼の飲食を給し、卑弥呼の辞(言葉)をつたえるために卑弥呼の居間に出入りした男子」は〔倉頡が死刑と定めた3つの厳重な掟〕をもあらわす役目も有するものであったのではあるまいか。
 下の図の〔転回方位にのっとる、「女王国の東」の隠岐群島・島前の地宜〕における「知夫里島の〔北端〕(現在方位の西端)の「知夫赤壁(ちぶあかかべ)」に「烏奴国の蹉陀岬(佐田岬)の東経133度線」が貫通する。「烏奴国」の[]は「カワセミ」、[]は「ものすごく、強大な力」をあらわした。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回にて、[]の字義は「ものすごく、強大な力」であることを詳細に解説して証明した。だから、「烏奴国」の[]は――本州・日本列島の〔西〕の九州を時計回りに90度転回させて本州・日本列島の〔北〕に移動させ、また〔東〕の東海地方(愛知県・静岡県)を本州・日本列島の〔南〕に移動させる「ものすごく、強大な力」――をあらわしたことになる。
 それゆえ、「地中深く横穴を掘って、その横穴の奥にヒナを育てる巣を作るカワセミ」は[][]の字源「巨大な本州・日本列島を時計回りに90度転回させる地理」を象徴する「聖なる地中神の鳥」であったことになる。
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 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えなければ表示される「本州・日本列島の〔東〕は〔南〕となって、時計回りに方位が90度転回する地理」は「倭人国」の[]の字源をあらわす。ということは、卑弥呼王朝は[]の字源をあらわす「本州・日本列島地理」を制定するものであったゆえ、国号は「倭人国」と定められたたことになる。このように、「転回本州・日本列島地理」は『魏志倭人伝』の全記事と矛盾点が1ヵ所も生じず【科学】が成立して論理が完結するゆえ、真実を伝えていたことになる。
 他方、邪馬台国説学者たちは、『魏志倭人伝』に何ヵ所も【誤読】を加えて読解する方法こそが正しいと主張する。だが、このような邪馬台国説の【多数の誤読】を加える方法だと「倭人国」という国号に用いられる[]の字源・字義に反し、『魏志倭人伝』の全記事と【科学】がまったく成立しない空理空論となる。

◆前述したように、29番目の小国「奴国」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県、旧国の伊予・讃岐・阿波」であった。
 前述したように、[]の字義は「本州・日本列島を時計回りに方位を90度転回させる地理を成立させる、ものすごい・強大な力」であった。
 つまり、下の図に示すように、『魏志倭人伝』は[]の「ものすごく、強大な力」で「本州・日本列島の地理は、時計回りに90度転回して、〔西〕の九州は〔北〕に移動し、〔東〕の東海地方は〔南〕に移動した」と記述している。この「転回本州・日本列島地理」は[]をあらわすゆえ、卑弥呼は[]の字を用いて国号を「倭人国」と定めたのである。
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 上の図〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕における、左側に示した「玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうづしま)を結ぶ北緯3415分」は、「本州・日本列島の〔東〕を時計回りに90度転回させて〔南〕に移動した、ものすごく・強大な力」を秘める「転回日本列島地理の基準緯度線」であった。
 この[]の「ものすごく、強大な力」を有する基準緯度線上に、「鳴門(なると)の渦潮(うずしお)」が所在する。世界的に最高級の速度で、ゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快(ごうかい)に渦をまく鳴門の渦潮は、巨大な日本列島の方位を時計回りに90度転回して方位を移動させて変える[]の「ものすごく、強大な力」をあらわすことになった。
 下の図に、26番目の「巴利(はり)国、旧国の播磨(はりま)の地宜」と29番目の「奴国、旧国の伊予・讃岐・阿波の地宜」と[]の字義「ものすごく強大な力をあらわす、鳴門の渦潮」を表示した。
 前述したように、「巴利国の地宜は、農機具のエブリの主体部の板の形に相似すると見立てられた」と解説した。エブリの主体部と柄()の構造からして、エブリは[]の「強大な力を有する屈強(きっきょう)・頑丈(がんじょう)な体格の男子が使う農機具」であったことになる。というのも、「エブリ」は「男子の下半身の腰(骨盤)に大きな負担(ふたん)がかかる農具」であったことになるからである。
 これゆえ、下の図における「愛媛県・香川県・徳島県の地宜と鳴門の渦潮」は「本州・日本列島の地理方位を時計回りに90度転回させる[]の字源を示す動力」を表示するものと惟されることになった。したがって、「鳴門の渦潮が在る徳島県と・香川県・愛媛県」は[]の初義「ものすごく、強大な力」をあらわすことになったゆえ、鳴門の渦潮が隣接する地域の小国名を卑弥呼は「奴国」と定めたことになる。
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 前述したように「巴利国の地宜」を「農機具のエブリの主体部の板の形」に相似すると見立てた解釈を「そんなバカな! 漫画じゃあるまいし」と学識ある人々は貶(けな)すかもしれない。しかし、『魏志倭人伝』が伝えているように「本州・日本列島が[]の強大な力で時計回りに90度転回する地理が成立する」には「奴国の北側にして、鳴門の渦潮に近い、巴利国の地宜」を「男子の腰(骨盤)に大きな負担がかかる農機具・エブリの主体部の板」に相似すると見立てて、[]の「強大な力」をあらかじめ表示しておく必要があった。というのも、上記したように、「沖ノ島・鳴門の渦潮・神津島を結ぶ北緯3415分」は「本州・日本列島の方位軸を時計回り90度転回させる、強大な呪力(じゅりょく)を有する緯度線」であると、卑弥は思惟(しい)・思索(しさく)するものであったからである。
 したがって、26番目の「巴利国の地宜」は「男性の骨盤の、強大な力を要する農機具のエブリ」に相似すると見立てて、後の29番目の奴国は「転回本州・日本列島地理を成立させる、強大な呪力を有する地域」であると定める必要があった。ゆえに、「巴利国の地宜は、農機具のエブリの主体部の板に相似すると見立てられた」という私の意見に「賛同できない、稚拙(ちせつ)である」とする批判やガヤガヤとさわぐ言い立てには知らんぷりすることにした。

◆卑弥呼が統治した「倭人国の範囲」において、下の図に示した「小国名がきまっていない空所」は、下の図に示す「吉備(きび)地方」である。この「吉備地方」が、30番目の「狗奴(くな)国」であったことになる。
 したがって、「狗奴国」は下の図に示した「小豆島(しょうどしま)と、旧国の備後(びんご)西部・備中(びっちゅう)・備前(びぜん)・美作(みまさか)の吉備地方」であったことになる。言いかえると、「吉備地方・狗奴国」は「現在の香川県の小豆島と、広島県東部(三次市と福山市を結ぶ福塩線が通る地域より東部)と岡山県」であったことになる。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回で詳細に解説して証明したように――[]の字源・字義は(1)「ジャコウウシ。あるいは、ジャコウウシのものすごく強大な力」であった。ゆえに、[]は「ジャコウウシのものすごく強大な力」によって、[](2)「子どもを出産する母体のものすごく強大な力」をも意味することになり、さらに(3)「男性の太い腕や下半身(骨盤)のものすごく強大な力」をも意味することになった。
 「狗奴国」の[]の字義は、上記した(1)の「ジャコウウシ」である。これゆえ、「狗奴国」の[()]の字義「イヌ()」は「ジャコウウシの天敵の、イヌ科に分類されるオオカミ」であったことになる。
 下の図に示した「小豆島の地宜」は「オオカミの姿」に相似すると見立てられたため、「小豆島」は「オオカミ・狗」と解されることになった。そして、小豆島より北側の「岡山県の児島(こじま)半島の地宜」は「オオカミ()の群れの襲撃(しゅうげき)に気づき、奴・ジャコウウシの群れがいる場所(北側)へと逃げるジャコウウシの後ろ姿」に相似すると見立てられた。また、「児島湖」は「オオカミの攻撃にそなえて、ジャコウウシの群れが円陣をつくって、円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」に見立てられた。これゆえ、「児島湖周辺から北側の岡山県の地宜」は「ジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。したがって、「ジャコウウシの群れが作る円陣」は「吉なる備(そな)え」ということで、後世には「吉備」という略称で呼ばれることになったと考えられる。
 上記したように、「小豆島の地宜」を「狗・オオカミ」、「岡山県の地宜」を「奴・ジャコウウシ」と見立てた卑弥呼は、小国名を「狗奴国」と定めたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』に「倭女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」と記述された狗奴国は「小豆島と岡山県と広島県東部」であったのである。
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 下の図に示したように、「男性の前上側から見た骨盤腔(こつばんこう/骨盤の空洞)」は「犬(イヌ)・オオカミの顔」の形に相似する。ゆえに、[]という字は【一】「オオカミの姿に見立てられた小豆島の地宜」と、【二】「男性のイヌ()の顔の形に相似する骨盤腔の形」をあらわしていたことになる。
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 「小豆島」の[]は、[]の初文(最初の文字)であった。ゆえに、「小豆島」は「小豆」「小さい出産児の頭()」を意味したことになる。これゆえ、「小豆島」の北側の「岡山県の半島と湖」は、「小豆」に呼応(こおう)して「児島半島と児島湖」と名づけられた。だから、「児島」の[]は「出産児」を意味したことになる。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の20回で詳細に解説して証明したように――倭女王・卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」の「邪馬」は「せまい産道をくぐりぬけるときの、出産児の重ねあわせることができる頭蓋骨(小泉門・矢状縫合・大泉門)の機能」をあらわした。
 この「邪馬壱」という語は「産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨」をあらわすゆえ、「小豆島」の「小豆」は「小さな出産児の豆・頭蓋骨」を意味したと考えるべきことになる。

 弥生中期から後期にかけて、瀬戸内海や大阪湾にのぞむ地域に山丘上(さんきゅうじょう)の集落が点々と所在する。これらの遺構(いこう)は、狼煙台(のろしだい)などの軍事的集落であったと考えられている。注目すべきことは、これらの山上集落遺跡は小豆島と岡山県を包囲する陣形となっていることである。そして、これらの山上集落遺跡は、巴利国・兵庫県と奴国の香川県に分布する。前述したように、「巴利国の地宜」に見立てられた「農機具のエブリ」は男性の骨盤に大きな負担をかけ、「奴国」という小国名も「男性の骨盤の、強大な力」を意味したように、巴利国と奴国の両国は「骨盤」で共通する。
 「狼煙台」の先頭字の[]の字は「オオカミ」を意味し、「小豆島と岡山県を包囲する山上集落遺跡・狼煙台の遺構」は「狼(オオカミ)と戦う時の、ジャコウウシの群れの円陣」をあらわす。また、【黄帝の医学研究】において「子どもを中心に隠すジャコウウシの円陣」は「女性の生殖器官の大半を包みこむ骨盤」に見立てられた。
 以上のごとく、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が17回から今回まで詳細に解説して証明したように――1番目の対馬国から30番目の狗奴国までの小国名は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明するものであった。
 だから、卑弥呼の政権基盤は【黄帝の「女性の生殖器管と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】であったことになる。

◆いままで解説したように――26番目の「巴利国」は「男性の骨盤に大きな負担がかかる、農機具・エブリ」をもって「男子の骨盤」を表示し、次の27番目の「支惟国」という小国名では「頭脳」すなわち「頭」が表示された。28番目の「奴国」という小国名は「巴利国」と同じく「強大な力がわきでる、男性の骨盤」を表示し、29番目の「烏奴国」は「烏奴、つまりカワセミの姿に相似する脳幹(のうかん/中脳・橋・延髄)」をあらわすものであったゆえ「支惟国」と同じく「頭」を表示した。そして、30番目の「狗奴国」においては、[]の字「強大な力を有するジャコウウシ」と「犬の顔の形に相似する男性の骨盤腔」とで「強大な力を有する、男性の骨盤」を表示し、[]の「小豆島」の[]の字で「頭」が表示された。
 このように、26番目の巴利国から30番目の狗奴国においては「骨盤→頭→骨盤→頭→骨盤→頭」というように、《骨盤》と《頭》の表示が交互に三度くりかえされる。この〔《骨盤》と《頭》が交互に三度くりかえされる、この事情〕は、【倉頡が創った[()]の字源】をあらわすことを意図とするものであったことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』における冒頭の文は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。この冒頭文における最初の文字は[]の字である。『魏志倭人伝』冒頭の[]の字源と字義は、倉頡が創った[]の字源・字義「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いでいた。
 したがって、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の冒頭に登場する[][]の字源・字義をそのまま受けついで「時計回りに90度方位が転回する方位規定」をあらわしていたことになる。その証拠に、《九州の末盧(まつろ)国以後の、本州・日本列島における12ヵ所の方位記事》は〔倉頡が創った[]の字源・字義に合致して、時計回りに90度方位が転回する本州・日本列島地理〕を表示する。
 これゆえ、再度、下に〔卑弥呼王朝が制定した本州・日本列島地理〕を示すことにした。
 『魏志倭人伝』の九州・末盧国以後の本州における全12ヵ所の方位記事によって成立する、下の〔転回本州・日本列島地理〕は〔倉頡が創った[]の字源・字義を受け継ぐ、[]の字源・字義〕をあらわしていた。だから、下に示した〔日本列島の〔東〕が〔南〕に転回する本州・日本列島地理」は、『魏志倭人伝』が「卑弥呼王朝が制定した」と事実を伝える【科学】が成立する地理であったことになる。
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 したがって、今回のブログ〔26番目の巴利国から30番目の狗奴国までにおける、《骨盤》と《頭》の表示が交互に三度くりかえされる事情〕は、末盧国以後の本州における全12ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと、上に示した「転回本州・日本列島地理」となる。だから、上に示した「転回本州・日本列島地理」は卑弥呼王朝が制定した歴史上に実在した地理であったことになる。
 だから、現在の「本州・日本列島地図」を思考基盤とする邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事に【多数の誤読】を加えても【科学】がまったく成立しない空理空論・妄想(もうそう)であったことになる。

◆前述したように、[]の字は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす基軸字(基本となる字)であった。
 []の下に[]を加えると[]となり、人偏に[]を加えると[]の字となる。[][]の字は、[]の字源・字義「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いだ。
 倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。
 「十字の銀河の西半分」には「女性の乳房や妊娠した腹部や子宮に相当する箇所」がある。ゆえに、倉頡は「文字作成銀河各部の形状から作られた全文字は、十字の銀河から生まれ

る」と定めて、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる漢字を発明した。
 下の図に示すように、「女性の骨盤腔(こつばんこう)」は「十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)の形」に相似する。
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 上の図に示したように、「女性の骨盤腔」は「十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)の形」にソックリである。下の図に示すように、今から約5000年前の黄帝時代の黄帝陵の天頂には「十字の銀河の頭」がめぐってきた。
 つまり、上記したように〔26番目の巴利国から30番目の狗奴国までにおける、《骨盤》と《頭》の表示が交互に三度くりかえされた事情〕は、上の図で示したように「黄帝時代に黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の頭の穴」は「女性の骨盤腔の形」にソックリであることを示して、倉頡が創った[]の字源・字形・字義の秘密をあらわしていたのである。
 したがって、下の図における「十字の銀河の頭の穴と、骨盤部」は、〔26番目の巴利国から30番目の狗奴国までにおける、《骨盤》と《頭》の表示が交互に三度くりかえされた事情〕を説明していたことになる。
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 下の図に示したように、最初に倉頡は〔禾の穂の図書を「十字の銀河の南部(両足の部分)」と重ねて、禾(イネ)の穂が《南》から《西》へ垂れるようにした[]の図書〕を創った。
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 上の〔禾の穂が「十字の銀河の南部」と重なって、禾の穂が《南》から《西》に垂れる形〕だと、禾(イネ)が地面に植わる形にならない。これゆえ、倉頡は禾(イネ)の根が地面に植わる形にするために、「十字の銀河の両足がある南部」を「地面」と見立てて、〔禾の穂は「十字の銀河の頭」と重なり、禾の根は「十字の銀河の両足がある南部」と重ねるようにして、頭と重なる禾の穂は《北》から《東》へ垂れる形の図書〕にして、[]の字源・字形・字義「時計回りに90度転回する方位規定」を表現した。
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 このように、〔倉頡は最初に禾の穂を「十字の銀河の骨盤部がある南部」と重ねたが、この形状だと禾は地面に植わる形にならないために不合理であるゆえ、禾の根が地面に植わる形に改めるために、禾の穂を「十字の頭がある北部」と重ねた、という秘密〕があった。ゆえに、〔26番目の巴利国から30番目の狗奴国までにおける、《骨盤》と《頭》の表示が交互に三度くりかえされ事情〕は、いままで説明した倉頡が創った[]の字形の秘密をあらわすものであったことになる。

[]の字について、白川静著『字統』は「稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。同書は、[]の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿をいう」と解説する。さらに、同書は[]の字について「男が稲魂を被って舞うのは年、稲魂を被って舞う女の姿は委である」と解説する。
 下の図における「十字の銀河の頭が被る冠(かんむり)となる銀河部〕は、白川静著『字統』が[][][]の字について解説した〔「穀霊・稲魂」のかぶりもの〕をあらわす。
 だから、『魏志倭人伝』のおける本州・日本列島の全12ヵ所の方位記事が伝えていた「転回本州・日本列島地理」は、「倭人国」の[]の字は倉頡が創った[]の字源・字義の「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いていたと証明される。したがって、「転回本州・日本列島地理」は、【科学】が成立して「卑弥呼王朝が制定していた本州・日本列島地理」であった」と真実を伝えていたことになる。
 邪馬台国説が主張する「現在と同じ本州・日本列島地理」だと[]の字源・字義に合致しない。だから、邪馬台国説は【科学】が成立しない空想・幻想であったことになる。
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◆以上のごとく、『魏志倭人伝』における〔26番目の巴利国から30番目の狗奴国までにおける、《骨盤》と《頭》の表示が交互に三度くりかえされる秘密〕もまた、「倭人国」という国号や「転回本州・日本列島地理」とともに――1番目の対馬国から30番目の狗奴国までの30ヵ国を【一】《邪馬壱国グループの10ヵ国》、【二】《女性グループの10ヵ国》、【三】《男性グループの10ヵ国》の三つのグループに分けて、卑弥呼が【黄帝の「女性の女性生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学術体系】を理路整然と構築(こうちく)して、倭人国の繁栄を願って統治(とうち)していた状況を説明するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』は1ヵ所も【文献批判】という名の【誤読】を加える必要がない、全記事が【黄帝の「女性の女性生殖器官と子どもの出産」と、倉頡が発明した漢字作成理論の学術体系】を理路整然と説明していた書物であったのである。
 いっぽう、『魏志倭人伝』には、新井白石以来約300年間、学者たちが【多数の誤読】を加えて主張して日本中にまき散らした「邪馬台国」について説明する記事は1ヵ所も存在しない。
 だから、邪馬台国説はメディア・日本国民を誑(たぶら)かす空理空論・詐偽(さぎ)・詭弁(きべん)であったのである! 邪馬台国説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタタメ・妄想(もうそう)・真っ赤なウソであったのである! 
 

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2021年7月 6日 (火)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・24

▼前回までこのブログが【科学】を成立させて証明したように――日本中にまき散らされた“邪馬台国説”はすべてが真っ赤なウソ・詐偽(サギ)である! 『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する記事が1ヵ所も存在しない! だから、邪馬台国説はすべて真っ赤なウソ・空理空論であった!
 『魏志倭人伝』は、倭女王の卑弥呼が居住していた倭人国の都の名(女王国の名)を「邪馬壱(やまい)国〕」と明記する。
 だから、邪馬台国説は空理空論・詐偽(ぺてん)・詭弁(きべん)である! 邪馬台国説が荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであることは、神に誓って真実である!
 『魏志倭人伝』は【漢字の起源の秘密】を具体的に明確に伝える書物であった!
 つまり、『魏志倭人伝』は「倭女王の卑弥呼は【漢字の起源の学術】を政権基盤にして、わが国最初の国家・倭人国を創設した。ゆえに、【漢字の起源の学術】にもとづいて倭人国の都が所在した女王国の名を、卑弥呼は【邪馬壱国】と定めた」と記述していた。言いかえると、『魏志倭人伝』は「わが国は、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭・わが国の後期縄文時代初頭に、中国から【(1)漢字が起源した学術と、(2)夏音(かおん)文字の学芸】を習得した」と説明する、全記事が正確無比の史料であった。
 ところが、江戸中期の新井白石(あらいはくせき/16571725)以来今日まで約300年間、学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は全部が正しいなんて、絶対に考えてはならない、全面的に信用できない書物である」と決めることにした。ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事を信用して忠実に読解する学者は、白石以後300年間一人も存在しないことになった。だから、『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の学問の秘密】が未解明となった。
 この結果、現在、邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』に自分勝手の独断的なデタラメを仰山(ぎょうさん)に加えて、“ここ掘れ掘れワンワン! 邪馬台国はここだ!”と自分はいかに総明(そうめい)なのかと自慢し、“卑弥呼はかくかく、このような女性だった”とか作り話をデッチあげる書物をつくり、メディアを騙(だま)して日本中に役立たずの大法螺(おおぼら)をまき散らして――日本人の尊厳を、日本人の根源的ないのちと魂と精神(理性を知性)を冒涜(ぼうとく)して、『魏志倭人伝』に記述された【世界史的に第一級に重大な史実である、漢字の起源の学術】を排除(はいじょ)しつづけている。
 学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事は正しいを信頼して、絶対に忠実に読んではいけない」と厳重に禁止する。この方法で学者たちは、『魏志倭人伝』はあたかも「邪馬台国」について説明している書物であるかのごとく偽装(ぎそう)して日本国民を騙している。
 このような学者たちの真っ赤なウソに、日本全国民よ! まんまと騙されてはならない! 怒れ! 怒れ! 憤怒(ふんぬ)せよ! 日本全国民よ、邪馬台国説学者たちはあなたのいのちと魂の根元を侮辱し凌辱(りょうじょく)し嘲笑(あざわら)っているのだ!
 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(23)まで証明してきたように、『魏志倭人伝』は【1】『魏志倭人伝』は全記事が正確な文献であり、ゆえに【2】中国では解明できなくなった【漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に明確に伝える書物であった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】という名の【誤読】を加えずに、ただひたすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
 『魏志倭人伝』に記述されている【漢字が起源した学術】は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得されて以来、日本人の花咲く尊厳と、日本人の花咲くいのちと魂と精神(理性を知性)となって受け継がれた。言いかえると、【漢字が起源した学術】は【日本人の血と肉】となって受け継がれた。
 ところが、新井白石が邪馬台国説を提唱した以後、【漢字が起源した学術】は排除されつづけられることになったため、現在、消滅の寸前となった。
 だから、このブログでは、九州説と畿内説は【漢字の起源を伝える真実】を凌辱する空理空論・妄想(もうそう)・欺瞞(ぺてん)である実体を徹底的に暴露(ばくろ)する。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・33

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の真相】を知るためには――「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的にはもはや虚妄(きょもう)・空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)の序(字統の編集について)における9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、中国からわが国は夏音(かおん)文字の学芸を習得した。この夏音文字の漢字音が、現存する最古の漢字音である。《わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音》は、《中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空理空論ということになる。
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 上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、つまり【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)に習得した夏音文字の漢字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残って実在する。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説は「『魏志倭人伝』の全記事は正確であると、絶対に信じて読んではならない」と厳重に禁じる邪馬台国説学者たちの作為(さくい)と工作(こうさく)によって確立されることになったのである。しかし、この絶対的定説は、【1】夏音文字が『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝、また『古事記』上巻・『万葉集』などに多数記載されて残っている事実と、【2】白川静著『字統』の序(字統の編集につて)における音韻学の成果に反する事実によって、欺瞞(ぎまん)・詐偽(ぺてん)であったことになる。
 そもそも『魏志倭人伝』に登場する「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」という字音は「現存する最古の夏音文字の漢字音」である。この夏音文字の字音よりも新しい中国の上古音だと、「卑弥呼」は「ピミカ」と発音することになる。
 だから、邪馬台国説学者たちが「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む――この事実、つまり【わが国は今から約4000年前に夏音文字の学術を習得した事実】を邪馬台国説学者たちも承認していることになるゆえ、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読んで【『魏志倭人伝』は漢字が起源したときの学術を理路整然(りろせいぜん)と説明する書物】であったことを科学的に具体的に証明することにする。
 学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事は正しいと絶対に信頼して読んではならない」と厳重に禁止する。この誤魔化(ごまか)しをもって、学者たちは【わが国が後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸を習得した時に、漢字が起源した学術をも習得した事実】を排除しつづけ、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空理空論・臆説(おくせつ)を日本中にまきちらした。

◆漢字は今から約5000年前、 中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
 【倉頡が漢字を発明した詳細】は、現在、漢字が起源した中国において解明されていない。
 しかし、奇跡的に【倉頡が漢字を発明した詳細】は『魏志倭人伝』に記述されて残った。
 だから江戸時代中期に新井白石が登場する以前においては――【わが国は、上古、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得したという意見】は高貴な学識であった。しかし、わが国では、新井白石が立論した空理空論の邪馬台国説とその後の学者たちの《『魏志倭人伝』に多数の【誤読】を加える理不尽(りふじん)な反()学術運動》によって約300年間も、【倉頡が発明した漢字作成理論】は排除されて闇に葬られることになった。
 でも、しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。
 というのも、前述したように『魏志倭人伝』には「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明した」と記述されているからである。
 だから、約300年間も学者たちが「『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」と厳重に禁止する読解方法を全面否定して、『魏志倭人伝』の全記事を信頼して1ヵ所も【誤読】を加えずに読むと――【倉頡が発明した漢字作成理論】は鮮烈に蘇(よみがえ)る。

◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
 一つ目の記事は、【134字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
 二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津()では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。

 上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説によって無視され排除された。
 しかし、この二つの記事は――【一】『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に多数の夏音文字の字音が残り、【二】後述する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって通称「夏の銀河」と呼ばれる《銀河各部の形状》が《真の字源、真の字形(漢字の原形)、真の字義(つまり原義)》であったことになり、また、【三】《地宜(ちぎ/地図の形)》も《真の字源・字形の原形・原義》となったゆえ《中国の約3倍の長さを有する細密な日本列島の海岸線》により、さらに【四】このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」によって解明された《数々の古代遺跡》、また【五】天皇家が現在まで存続させた【倉頡が発明した漢字作成理論】を演出する《大嘗祭(だいじょうさい)の秘儀》によって、また【六】前述したように白川静著『字統』の序(字統の編集について)における「わが国には中国の上古音よりも古い、現存する最古の漢字音が残っている」ことを証明した《音韻学の成果》によって――「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した事実」が【科学】が成立して証明できた重大な記事であったのである。
 だから、新井白石以後の約300年間つづける邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない空理空論・欺瞞(ぺてん)・詭弁(きべん)、日本人の尊厳を凌辱(りょうじょく)する荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであったことになる。
 要するに、もしも学者たちが『魏志倭人伝』を信用してただひたすら・いちずに忠実に読解していれば【倉頡によって発明された漢字作成理論】が、このブログ以前に科学的に解明できていたことになる。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に学者たちが気づいていれば――学者たちによって『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 前述したところの――『魏志倭人伝』に書き記された【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河・字形の原形となった銀河・原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期までの漢字】は【天に輝く巨大な、文字作成銀河各部の形状】となった。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はもちろん、その者の一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者だけでなく、その者の一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者はじめ一族全員にも神罰を下して死刑にする

 (1)五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)(2)次の夏代の原初漢字の夏音文字・(3)次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、(1)五帝時代の書契、(2)夏代の夏音文字、(3)殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 『魏志倭人伝』において、【(1)今から約5000年前に倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義】は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)そして《中国の海岸線より約3倍も長い細密な日本列島海岸線と山川を境界とする各地の地宜(ちぎ/地図の形)》によって成立する。そして、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。だから、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》が全部そろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義する。だから、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。
 しかし、黄帝時代以前の約6000年前から始まる三皇(さんこう)時代には、今から約5000年前の黄帝が研究した医学をあらわすことができる漢字は発明されていなかった。
 したがって、倉頡が漢字作成する目的は【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字を考案すること】であった。倉頡は【文字作成銀河(夏の銀河)の各部の形状と中国全土を包む海岸線の地宜(ちぎ/地図の形)を字源・字形・字義とする漢字】を創()くって、【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字の発明】に成功した。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる人命の神秘を合体して誕生した学問(学術)】であった。
 前述したように、わが国には、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が伝来して習得された。
 というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回・5回と14回・15回の4回で詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』の中半に登場する「女王国より以北の名称不明の海上に浮かぶ皆倭種なりの一小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国、この4小国の東南に所在して船行一年にして参問(さんもん)できる、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」と説明する76字の記事をもって、『魏志倭人伝』は「今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と証言するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』には、34の小国が登場する。
 上記した4小国以外の対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明することにした。言いかえると、黄帝が作った医学書『内経』を残っていないが――卑弥呼は30の小国名をもって理路整然と『内径』に説明されていた医学知識を復興することにした。
 というのも、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤として倭人国を統治することにしたからである。このため、卑弥呼は30の小国名をもって【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する学術体系組織論を構築(こうちく)して「倭人国」という国家と王朝を創設(そうせつ)した。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体して生まれた学問(学術)】であった。この証明は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(23)までにおいて、詳細に具体的に科学的におこなってきた。
 前回では、16番目の姐奴(つな)国・17番目の対蘇(つさ)国・18番目の蘇奴(さな)国・19番目の呼邑(こお)国・20番目の華奴蘇奴(かなさな)国という5ヵ国の小国名には、【黄帝の「女性の生殖器官と性の生殖細胞の精子と女性の生殖細胞の卵子」についての考え】を明確に説明する役割があったことを具体的に解説して証明した。

◆今回は、21番目の「鬼()国」、22番目の為吾(いが)国、23番目の鬼奴(きな)国、24番目の邪馬(やま)国、25番目の躬臣(こじ)国の5ヶ国の位置と範囲を解明する。
 卑弥呼は、わが国において最初に創設した国家名を「倭人国」と定めた。
 「倭人国」の[]の初文(最初の文字)は、倉頡が創(つく)った[]であった。
 []の字は【倉頡が発明した漢字作成理論】における基軸字(基本となる字)であった。
 白川静著『字統』は[]の字について「稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。
 卑弥呼は1番目の対馬国から30番目の狗奴国までの30の小国を、10ヵ国ずつ3つのグループに分類した。
 ゆえに、1番目の対馬国から10番目の巳百支(じはき)国までの10ヵ国のグループは――卑弥呼が倭人国の都が所在する女王国名に用いた「邪馬壱(やまい)」という名は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の核心】である――と説明するものであったゆえ、このグループは「邪馬壱国グループ」ということになる。
 11番目の伊邪(いや)国から20番目の華奴蘇奴(かなさな)国までの10ヵ国では、【黄帝の「女性の生殖器官と子ども出産」の研究】を順序立てて理路整然と説明するものであったゆえ、このグループは倉頡が創った[]の字源「稲魂を被って舞う男女の姿」のうちの「稲魂を被って舞う女性の姿」をあらわすゆえ、「女性グループ」ということになる。
 したがって、今回と次回のブログで行う21番目の鬼国から30番目の狗奴国までの10ヵ国を、卑弥呼は「稲魂を被って舞う、男性グループ」に分類したことになる。

◆今回は「男性グループ」の10ヵ国のうち、前半の21番目の鬼国から25番目の躬臣国までの5ヵ国の位置と範囲を解明する。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の21回において――21番目の鬼国は「旧国の志摩、現在の三重県中央の東部(志摩半島)」であったことを、詳細に解説して証明した。
 下に示した「志摩とその英虞湾(あごわん)の地宜」を、卑弥呼は「強いタカ()のヒナ()が、餌(えさ)が不足したときに、餌として弱いヒナを食べる姿」に見立てて、「旧国の志摩」の小国名を「鬼国」と定めた。この「同じ巣で育つ強いタカのヒナが弱いヒナを餌にする習性」は「弱肉強食の厳(きび)しい自然の摂理(せつり)」を示すものとなり、「神」は「鬼、鬼神(きしん)」と名づけられて恐れ敬(うや)まれ尊ばれることになった。だから、「鷹」は黄帝時代の中国でも倭人国においても「自然界を支配する最高位(大王)」を象徴(しょうちょう)することになり、「鬼」の字源となり、「鬼神」をあらわすことになった。
 〔旧国志摩の「鬼国」と12番目の都支(たき)国の地宜〕は下図に示したように――都支国は「伊勢と熊野、志摩と伊賀を除く現在の三重県」である。したがって、「鬼国と都支国」は「伊賀を除く、現在の三重県」ということになる。「志摩・鬼国の地宜」を「鷹の頭部(横顔)」に相似すると見立てると、都支国は「鷹の両翼」ということになる。
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 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀における黄帝紀には「鬼神山川封禅(ほうぜん)、與(ゆる)して多しと為()す」という記事があり、この記事は「天子は天地山川の鬼神を祭って封禅をおこなうのが常例であったが、黄帝がおこなった封禅がもっとも盛大であった」と意味する。
 『魏志倭人伝』には「鬼道(きどう)を事(まつ)って能()く衆を惑(まど)わす」という記事があり、「惑わす」の[]の上にある[(わく)]の字を白川静著『字統』は「國の初文」と解説する。[][()]で包囲すると[]となるゆえ、[]の下に[]が加わる[]の初文(最初の文字)[]であったことになる。ゆえに、『魏志倭人伝』の「鬼道を事(まつ)って能く衆を惑わす」という文は「卑弥呼は黄帝が祭った鬼神の道を奉(まつ)って見事(みごと)に民衆の心をまとめて國()を治めていた」と意味するものであったことになる。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の21回で詳細に解説して証明したように――黄帝の医学研究は〔胎芽期(たいがき)における胎標(たいひょう)〕まで及んでいたと考えられる。
 男性の精子(せいし/男性の生殖細胞)が女性の卵子(らんし/女性の生殖細胞)が結合して受精(じゅせい)した卵が子宮の壁(かべ)に着床(ちゃくしょう/子宮の壁にくっついて母体から栄養を受ける状態になること)するまでを卵期(らんき)という。
 受精後10日めごろになると、将来ヒトとなる胎標ができる。卵から将来ヒトとなる〔胎標〕ができるまでを〔胎芽期〕という。
 生物学においては、現在は否定されているようであるが、かつては世間一般的に、〔胎芽期〕において1個の卵がそのまま一人のヒトになると考えられていた。
 黄帝は――〔胎芽期〕に、下に配した女性の生殖器官における一対・二つの〔卵管(らんかん)〕・〔卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)〕・〔卵管采(らんかんさい)〕と〔卵巣(らんそう)〕のどこかで精子と卵子が結合して(受精して)、二つの卵が生まれる。しかし、二つの卵は〔[]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にする――このような働き〕によって、一人のヒトとなる胎標になる――と考えた。
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 下に〔胎芽期における胎標の図〕を配した。下の上図は〔受精後8日ごろの卵と子宮粘膜(しきゅうねんまく)の図〕である。上図中央の〔卵細胞〕が分化して、下図のごとく〔受精後10日ごろ〕になると、その図の中央にある〔胎標〕となる。
 下に配した上下の二図が示すように、〔胎標〕は〔皿形の鷹の巣に相似する空所(くうしょ)の底〕にできる。それゆえ、〔鷹の巣〕に相当するのは〔子宮粘膜上皮(しきゅうねんまくじょうひ)・子宮粘膜組織〕となる。
 下に配する上図の〔鷹の巣に見立てられる、子宮粘膜上皮・子宮粘膜組織の側身形〕は、前掲した〔旧国志摩の「鬼国」の地宜〕の図においては、「都支国」が「鷹の両翼」あるいは「鷹の巣」に相当する。それゆえ、〔皿形の鷹の巣に相似する空所の底にできる胎標〕が〔強い鷹のヒナと弱いヒナ〕に相当する。
 したがって、下に配した上図における胎標についての黄帝の考えを――卑弥呼は「女性の生殖器のおける一対二つの卵管・卵管膨大部・卵管采と卵巣のどこかで受精した二つの卵細胞のうちの強い卵細胞が弱い卵細胞を餌にして食べて、一人のヒトとなる胎標になると、黄帝は考えた」と説明するために、「旧国志摩」の小国名を「鬼国」、「伊勢と熊野」の「都支国」には下の図における「子宮粘膜上皮・子宮粘膜組織=鷹に巣」に相当する役割を与えたことになる。
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 ゆえに、「鬼国」という小国名は「弱肉強食の自然摂理」だけをあらわしたのではなかった。卑弥呼は「鬼国」で「黄帝が考えた、一産一子の法」についてもあらわした。つまり、「鬼国」という小国名で卑弥呼は「女性の生殖器官には一対二つの卵管・卵管膨大部・卵管采と卵巣があるが、人間の子は一度に二人に生まれずに、ふつう一度に一子で生まれる仕組みについて、黄帝が考えた意見(説)」をもあらわしていたことになる。

 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の20回にて指摘したように――下の図に示す、11番目の「伊邪国・旧国丹波(たんば)・現在の京都府中部と兵庫県の一部の地宜」を、卑弥呼は「女性の骨盤の正面形(前面の下側から見た形)の輪郭(りんかく)」に相似すると見立てた。
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 下に図示したように、21番目の「鬼国の地宜」は〔男性の骨盤の正面反転形〕、つまり、〔尾骨(びこつ)を上・岬角(こうかく)に下にする正面形の輪郭〕に相似する。
 だから、21番目の「鬼国」から30番目の「狗奴(くな)国」までの10ヵ国は「男性グループの国々」であることを明確に示すために、「地宜が、男性の骨盤の正面反転形」に相似する「鬼国」を「男性グループの最初の21番目国」に選んだのである。
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 下に〔男性の骨盤の正面形〕と〔女性の骨盤の正面形〕を配した。
 〔男性の骨盤〕は深くがっしりしており、〔女性の骨盤〕は浅く左右に広がっているゆえ「羽をひろげた蝶の成虫の姿」に相似する。だから、11番目の「伊邪(いや)国」から20番目の「華奴蘇奴(かなさな)国」までの10ヵ国は「女性の骨盤の正面形」で表象された「女性グループの国々」であった。
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◆卑弥呼は、鬼国の次の22番目の小国の名を「為吾(いが)国」と定めた。
 下の図に示すように、22番目の「為吾国」は「旧国の伊賀(いが)、現在の三重県北西部」であった。したがって、「都支国・鬼国・為吾国の三小国」が「現在の三重県」となる。
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 下に配した図の右下の[()]の篆文形(てんぶんけい)は、私が「激流の銀河」と名づけた銀河部が[]の字源銀河であると示す。いっぽう、「象の姿」に図案する[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は、国際天文学の名称の「北アメリカ星雲」が[]の字源銀河であると示す。その証拠に「北アメリカ星雲の形」は「激流の銀河の水を長い鼻で吸って、はき出す象(ゾウ)の姿」に相似し、[]の契文形は「長い鼻を有する象の姿」の図案である。
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 下の図の下部に示した中国の南部に所在する「太湖(たいこ)の地宜」は「長い鼻を有する象の姿」に相似する。
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 太湖は北緯3057分~北緯3133分に位置する。
 下の図に(2)の緯度線は「北緯31度の天頂」をあらわしているゆえ、黄帝時代、[]の字源銀河「北アメリカ星雲」は太湖の天頂にめぐってきたことになる。
 だから、「為吾国」の[]は「太湖」をあらわした。
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 古語の「吾」は「あ」または「あれ」と読み、「男性の一人称、オレ()」を意味した。
 下の図に示すように、右図の「伊賀の地宜」は左図の「頭に一本の角(つの)を有する、鬼の横顔に似る銀河」に相似すると見立てられた。
 したがって、「伊賀の地宜」は「吾(オレ)の顔」に見立てられたことになる。
 〔なお、右図の「伊賀の地宜」が「鬼の横顔に似る銀河」に相似すると見立てられたことが容易に察知できるようにするために――下の左側の「鬼の横顔に似る銀河」の定式は《右西・左東》であるが、地図の一般形式《右東・左西》の形式にした〕。
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 黄帝時代や卑弥呼の時代は、人々は天頂緯度線を測量して精確に緯度を測定した。
 下に配した図は、漢字[(とう)]の〔天頂点と天頂緯度線と子午線の説明図〕である。
 〔天頂点〕は観測地点から90度の高度、つまり最も高い天体部である。
 天頂点と重なる銀河部位の軌道は、天頂点に接近すると下の図の右上に示すように「天頂緯度線・天頂点・子午線の形」をあらわして、漢字の[]の字源・字形・字義となった。下の図における天頂点と重なる銀河部位が円周運動をする軌道(きどう)において、その銀河部位が天頂点に接近して天頂点の西側から東へ移動する軌道は、平らな[]の字を示す天頂緯度線となる。この〔天頂緯度線〕を46秒間でキャッチすると「1度の60分の11分の精度(せいど)」で緯度が測定できた。
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 この「1分の緯度差を測定できる眼力」を、人類は食料となる獲物(えもの)を求めて移住生活をしていた先史時代から日々鍛錬(たんれん)して生活した。人類は〔本能的に、[](天頂緯度線・天頂点・子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力の眼力〕を有し、そして[]をキャッチする技(わざ)を工夫(くふう)して磨(みが)いた。だから、先史時代や黄帝時代や卑弥呼時代、人々は1分の精度で緯度が測定できた。
 この[]をキャッチできる眼力をもしも人類は有していなかったならば、人類は密林でおおわれる原始時代やまた氷でただ一面真っ白な氷河期において全滅していたことになる。人類が滅びなかったのは、目を鍛錬すれば[]をキャッチする能力が本能として頭脳にそなわっていたからである。
 先史時代(旧石器時代)、日本列島は現在と同じく、周囲は大海であった。人々は[]をキャッチする眼力を有していたゆえ、大海中に囲まれる日本列島に移住することができた。
 卑弥呼時代、大海を渡って朝鮮半島・中国に到着する人々が海上で自分の居る場所の位置(緯度)を測定する方法は[]のキャッチのみ、ただ一つであった。
 北極星を目星にして天の北極の高度を緯度に換算する方法で旅すると、卑弥呼時代の北極星(こぐま座β星)は天の北極から約10度離れていたゆえ、天の北極を中心にして直径が約20度・1200分の円を描いていた。1200分の円の中心である天の北極を1(1200分の1)の精度で測定できる能力は人間の目にはそなわっていなかった。
 人類が地球上に登場して以来、全時代において天の北極に最も接近した北極星(りゅう座α星とこぐま座α星)は、直径約90(130)の円を描いていた。この90分の円周の中心である天の北極の高度を1分の精度で測定できる能力もまた、人間の頭脳と目にはそなわっていなかった。だから、すべての時代、天の北極の高度で1分の精度で緯度を測定できる眼力を人間の目は有していなかった。
 しかし、人間の目には1度の60分の11分の精度で緯度を精確に測定できる[]をキャッチできる本能が頭脳に、そして目には眼力がそなわっていた。
 だから、大海の中に在る日本列島に人々は移住できた。これゆえ、今から約4000年前、【(1)黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、(2)倉頡が発明した漢字作成理論、(3)現存する最古の漢字音となった夏音文字の学芸、(4)精確な中国海岸線地図、(5)精密な地図作製方法】が日本列島に伝来し習得された。
 その後、『魏志倭人伝』が証言しているように――銀河(文字作成銀河・夏の銀河)各部の形状と中国の海岸線より約3倍にして細密な日本列島の海岸線の地宜によって字源・字形の原形・原義が明確に示されたため、【(1)黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、(2)倉頡が発明した漢字作成理論】は【日本列島にすむ人々の血と肉と、神が神意・真理を示す高貴な学問】となったゆえ、卑弥呼時代まで受け継がれて正確に保存された。
 原始のときから、人類・ホモサピエンスには頭脳に《たくましく》生きていく本能行動と情動(じょうどう)行動として[(とう)]をキャッチできる能力が存在し、日々眼力を鍛錬して技(わざ)を磨(みが)[]をキャッチするための道具も作りつづけた。
 []の下に[(よう)]が加わると、[(げん)]の字となる。[]について、『説文解字』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。ゆえに、『説文解字』は[]の字源を「出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりの母体の背側に顔を向いて誕生する新生児」と解説するが――要するに、[]は「せまい産道をくぐりぬけて誕生する新生児(出産児)」であった。
 これゆえ、[]の下に[]が加わる[]は――必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチするぞと欲を有すると[]をキャッチできずに死ぬことになるが、産道をくぐりぬける出産児のごとく無欲になれば必ず[]はキャッチすることができる――という、[]をキャッチするときの心得をあらわした。
 『魏志倭人伝』の冒頭は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在()り」という記事であり、中ほどには「古(いにしえ)()り以来、その使()中国に詣(いた)るに皆自(みなみずか)ら大夫(たいふ)と称(しょう)す」という記事がある。この二つの記事が伝えるように、古来より倭(日本列島)の使者は大海・玄界灘(げんかいなだ)を渡って中国に到着し、また玄界灘を渡って日本列島に帰還していた。ゆえに、「玄界灘」は「天の北極の高度を緯度に換算する方法では必ず死ぬことになる大海。しかし、[]をキャッチするときの心得の[]にのっとれば無事に死なずに往来できる波が荒い陸地から遠く離れた大海」であったことになる。
 下に示す[]の字源・言いかえると「門」の原形は[]をキャッチするために考案された装置であった。[]の字源・「門」の原形となった装置で人々は[]をキャッチした。
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 上の図が示すように、22番目の「為吾国」の[]の「吾(おれ・俺)の顔」が[]に合致すれば精確に緯度が測定できる。つまり、「[]における、天頂緯度線」と「天を仰ぐ男子の吾()の顔」は同緯度である。したがって、「観測地点の緯度」は「[]をキャッチする、男子の顔()」ということになる。
 上図の「門」のような装置だけでなく、さまざまな道具でまた優れた眼力の持ち主・つまり玄人(くろうと)だと道具無しで[]をキャッチできたゆえ、「[]をキャッチした吾()の顔」は「天頂点と観測地点の緯度」となった。
 前述したように、「為吾国」の[]の契文形(甲骨文字の字形)は「地宜が象の姿に相似する、太湖」をあらわした。ゆえに、[]は「中国の太湖周辺地域と同じく、稲作に適した地」を意味し、[]は「[]をキャッチする男子の顔(俺の顔)」をあらわした。ゆえに、「為吾」という小国名は「太湖周辺地域のごとく稲作に適し、[]をキャッチできる条件にめぐまれる、男子が[]のキャッチに失敗して死亡する事故が少ない土地」と意味したことになる。
 為吾国の中央は伊賀盆地のため、夏は太湖附近のごとく蒸し暑い。また、為吾国・伊賀の地宜」はせまく丘陵地が多い土地柄である。ゆえに、為吾国の各集落は東・西・南・北の目印となる特徴ある凸(とつ)となる山々や凹()む谷や川などに囲まれる。このため、住民たちは日頃からあそこの山とあの谷が東西であり、あの川がある凹みの箇所とあの山の頂上が南北である、などの知識を有していた。また、山国の為吾国の夜間の空気は澄んでいるために天頂にめぐってくる銀河部がはっきり見えて[]をキャッチする条件にめぐまれていた。これゆえ、為吾国ではおのずと[]のキャッチに失敗して死亡する男子の数は少なかったことになる。
 つい最近・二十世紀の終戦直後、母親たちは「男の子は弱くて育てにくい」と嘆(なげ)いていた。だから、医学・医術が現代より劣って栄養にめぐまれず衛生面も劣っていた卑弥呼時代は男子の出産死亡率は高く、前述したように、男の子は弱くひ弱で育てにくく死亡率が高かった。さらに成人しても男子は家族を養うために、あるいは生活に必要な道具や必需品などを求めて遠くの地へ旅するものであったゆえ、その旅路において[]のキャッチに失敗して死亡する男子が多数いた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は倭国における男女の事情を「身分の高い人々の大人(だいじん)は皆四人か五人の婦人と結婚し、身分の低い下戸(げこ)も二人か三人の婦人と結婚している。婦人は淫(みだ)らでなく、嫉妬(しっと)しない」と記述する。この記事が示すように、女性はおよそ男性の約三倍から四倍弱も多かったため、淫らな女性と嫉妬ぶかい女性は男性にきらわれて離婚されあるいは結婚もできなかった。だから、男性の数が圧倒的に少ない厳しい状況下では女性は淫らになることも嫉妬することもできなかったのである。
 卑弥呼時代は、上記のごとくであったゆえ、「為吾国」という小国名には――家族をまもって養わなければならなかったために、倭人国の国々の男性は遠くの地に旅しなければならなかった。ゆえに、[]のキャッチに失敗して旅先で死亡した男性が多数いた。しかし、為吾国はこの点にめぐまれていて男子の死亡率は少なかった状況――が表示されている。

 なお、21番目の鬼国の次に為吾国が22番目国になったのは、両国に用いられた字の字源銀河はともに「鬼の横顔に似る銀河」と「北アメリカ星雲」であるからである。
 下の配した〔[][][]の字源解説図〕にて証明したように、[]の金文形は――「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目から北アメリカ星雲にかけての範囲」が[]の字源銀河である――と示している。
 前掲した〔[]の字源銀河と「伊賀」の地宜の図〕では、[][]の字源銀河はともに「鬼の横顔に似る銀河」であり、[]の字源銀河において「北アメリカ星雲」は「強いタカのヒナの餌(えさ)となる弱いタカのヒナ」に見立てられ、「為吾国」の[]における「北アメリカ星雲」は「鼻の長い象の姿。地宜が象の姿に相似する太湖」に見立てられた。
 だから、[][][]の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河と北アメリカ星雲」で共通するゆえ、卑弥呼は21番目の「鬼国」の次の22番目国を「為吾国」と決めたのである。
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23番目国は「鬼奴(きな)国」である。
 下の図に示すように、「鬼奴国」は「旧国の紀伊(きい)の西部、現在の和歌山県」であった。〔注 「旧国紀伊の東部」は「伊勢・熊野」であり「都支(たき)国」であった。〕
 上記したように「鬼」は「タカの巣のヒナ」を意味するように、「鬼奴国」の[]の字源は「タカ()」であった。前回(23)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で解説したように、[]の字源は「蝶の成虫が重い体を浮かして飛ぶことができる羽の、強い力」であった。下の図に示したように、「鬼奴国」の[]の字義は「鷹の体を浮かして飛ぶ、タカの羽」である。だから、「鬼奴国」の[]の字源は「タカ()」であった。
 「和歌山県の地宜」を、卑弥呼は「鬼の鷹が大空を飛ぶ、奴の強大な力を示す大きな翼()の形」に相似すると見立てて小国名を「鬼奴国」と定めた。
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 大型種の鷹は食物連鎖(しょくもつれんさ)の最高位となる。また、「大きく強い翼を有するオスの鷹」の生活圏や狩りのなわばり(餌場)は広い。ゆえに、卑弥呼時代は「巣のヒナにあたえる餌(食物)を探して、大きな翼をひろげて大空を飛ぶオスの鷹の姿」は「雄々しい男子の理想像」をあらわした。つまり「大空を飛ぶ鷹の姿」は「家族が飢えないように食物(イノシシやシカやウサギや鳥などの獲物)を求めて遠くの山野まで立ち入って狩猟し、また生活に必要なさまざまな道具や工具を求めて遠くの地に旅し、あるいは村落が衰退しないように遠くの地の優れた知識・知恵や発明・考案・工夫などをもたらす雄々しい男子の理想像」をあらわすことになった。

24番目国は「邪馬(やま)国」である。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説して証明したように――「邪馬」は「せまい産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨(ずがいこつ)の重ね合わせることができる仕組み(機能)」であった。
 この「出産児の重ね合わさることができる頭蓋骨の仕組み」を、現在の産婦人科では「広形機能(こうけいきのう)」、または「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 下の図に示すように、出産児の「1枚の後頭骨(こうとうこつ)・一対2枚の頭頂骨(とうちょうこつ)・一対2枚の前頭骨(ぜんとうこつ)」の5枚の頭蓋骨には骨同士の隙間(すきま/スペース)がある。後頭骨にある隙間は「小泉門(しょうせんもん)」、頭頂骨における直線状のわずかな隙間は「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨の分け目には大きな隙間の「大泉門(だいせんもん)」がある。
 下の図の左側に示したように、「小泉門・矢状縫合・大泉門の隙間」を、卑弥呼は「邪馬」と名づけた。
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 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回はじめとして幾つかの回で重複(ちょうふく)して解説して証明したように、『魏志倭人伝』が「倭地には牛と馬は無い(生息していない)」と伝えている[]の字源は「ジャコウウシ」、そして[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 下に示した〔「邪馬」の解説図〕は[]の字源「フタコブラクダが草をモグモグと食べるときの鼻・上アゴ・口・下アゴ」は、まるで「フタコブラクダの顔の各部(鼻・上アゴ・口・下アゴ)が邪(なな)めとなって、あたかも破顔一笑(はがんいっしょう/にっこり笑う)するような表情」になることをあらわしている。「草をモグモグと食べるフタコブラクダの顔の各部(鼻・アゴ・口)が邪(なな)めになって、まるで破顔一笑するような形相(ぎょうそう)」は「せまい産道をくぐりぬけることができるように骨同士が重ね合わさる仕組みとなる出産児の頭蓋骨の形状」にソックリである。だから、卑弥呼は「出産児の頭蓋骨の骨重積(こつじゅうせき)の機能」は「草をモグモグと食べるときに馬・フタコブの邪(なな)めとなる鼻・アゴ・口の破顔一笑するような形相」に酷似(こくじ)するゆえ、「邪馬」と名づけた。
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 下の図における上図の「旧国の大和(やまと)の地宜」は、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづく。この「旧国の大和、現在の奈良県の地宜」は、下図の〔卑弥呼が「邪馬」と名づけた――馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べるときの邪(なな)めとなってゆがむ鼻・アゴ・口の形〕にソックリである。
 その証拠に、「大和の地宜の左側の、フタコブラクダの鼻・アゴ・口に相当する部分」は「草が食べられていかにも幸せそうに、馬・フタコブラクダが破顔一笑する(にっこり笑う)がごときの形相」となって、「邪馬」をあらわす。
 ゆえに、下の90度転回する方位規定([]の字源の方位規定)による「旧国の大和、奈良県の地宜」を、卑弥呼は「邪馬」すなわち「産道をくくりぬける出産児の頭の骨重積(こつじょうせき)の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」をあらわすと考えた。
 だから、「旧国の大和」の小国名を、卑弥呼は「邪馬国」と定めたことになる。
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 『魏志倭人伝』が「女王の都(みやこ)する所なり」と説明する、倭女王の卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であった。
 「邪馬壱国」の[]の字源銀河は「十字の銀河の子宮」であった。あるいは「女性の骨盤と生殖器官」もまた[]の字源であった。
 下に示す図は、〔黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図〕である。
 下の図が示すように、黄帝時代に中国の全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「緯度線」に対して「邪(なな)め」である。
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 前述したように――[]の字源銀河は「十字の銀河」であった。
 下の図に示したように、「十字の銀河」の隣り(東方)にある「三つ輪の銀河」は「沙漠。瀚海(かんかい/ゴビ沙漠)」に見立てられた。このため、「十字の銀河」は“沙漠の船”と呼ばれた、瀚海・ゴビ沙漠に住む人々にとっては欠くことができない大切な家畜の「フタコブラクダ」に見立てられた。
 〔注 『魏志倭人伝』は1番目の「対馬国」と2番目の「一大国」の中間の海は「瀚海・ゴビ沙漠」であると記述する。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で詳細に解説し証明したように、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。つまり、「対馬国」の[]の字源は「瀚海・ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダ」であることを示すために、卑弥呼は対馬国と一大国の中間の海を「瀚海」と名づけたと、『魏志倭人伝』は説明している。〕
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 前掲した〔黄帝時代に中国の全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図〕における「十字の銀河」は「緯度線に対して邪(なな)め」であったゆえ[]の字義となった。また、「十字の銀河」は[]の字源であり、そして「十字の銀河の子宮」は[]の字源であった。だから、卑弥呼は倭人国の首都が所在した王国(女王国)[][][]3字からなる「邪馬壱国」という名称に定めた。
 このように女王国「邪馬壱国」の「邪馬」の語源銀河は「十字の銀河」であったが――「旧国大和の、邪馬国」の「邪馬」の語源銀河は「十字の銀河」ではなかったと考えるべきことになる。それというのも、21番目の「鬼国」から23番目の「鬼奴国」の順番における銀河部にもとづくと、「十字の銀河」を「邪馬国」の語源と定めると不合理となるからである。
 前述したように、21番目の「鬼国」の[]の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河の後頭部と後頭部につく大きく開く目と北アメリカ星雲」であった。22番目の「為吾国」の[][]の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河([]の字源)と北メリカ星雲([]の字源)」であった。23番目の「鬼奴国」の[]の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河の後頭部と後頭部につく大きく開く目と北アメリカ星雲」であった。そして「鬼奴国」の[]の字源銀河は下に示す「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河・鬼の身に相当する銀河)と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
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 だから、上記した21番目の「鬼国」から23番目までの「鬼奴国」までの順序また各小国に用いられた字の字源銀河にもとづくと、24番目の「邪馬国」の「邪馬」の語源銀河は「十字の銀河」ではなかったと考えるべきことになる。
 つまり、「旧国大和」の小国名の「邪馬」となった銀河部は、下に示した範囲であった。というのも、「鬼奴国」の[]の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」と隣接する「東西の銀河部」は、下の図に示したように、「ラクダのフタコブの山形(やまなり)の形」となるからである。ゆえに、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が「ラクダの目」となり、「長方形の暗黒天体部から南側の銀河部」が「ラクダの顔」に相似すると見立てられて「邪馬の銀河」ということになった。
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 だから、下の図における「邪馬のコブと顔の銀河」を、卑弥呼は「旧国大和の地宜」に見立てて、「ラクダの目」となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を「為吾国」に見立てて、「大和」の小国名を卑弥呼は「邪馬国」と定めたことになる。
 下の図における「大和の地宜」は現在方位であるが、[]の字源にのっとって「時計まわりに方位を90度転回させて横向きにした、大和の地宜」は――前述したように、「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの横顔(鼻・アゴ・口)」が「産道をくぐりぬける出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」にソックリとなるゆえ、この「破顔一笑(はがんいっしょう)、にっこり笑いながら草を食べる幸せなフタコブラクダの横顔」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
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 上の図における「ラクダのフタコブ」をあらわす「太い円弧線(えんこせん)」の銀河部「激流の銀河」を注目していただきたい。「激流の銀河」は「大雨が降って激しく流れる河川の水」のイメージとなる。ゆえに、「ラクダのコブのごとく山形(やまなり)となる、激流の銀河」は「降水量にめぐまれる大和の気候」をあらわす。
 したがって、「邪馬国」は「稲の育成にめぐまれた、青々とした幾多の森が浪(なみ)うってつづく、多数の人民が満ち満ちあふれて住む国」、つまり「瑞穂(みずほ)の国」であったことになる。
 「ラクダのフタコブ・激流の銀河」のイメージがあらわす「降水量にめぐまれて草が青々と茂(しげ)る大和の風土」は「草をいっぱい食べることができる」ということになる。
 だから、再度くりかえすが――上の〔「邪馬」の銀河部図〕は前掲した〔時計回りに90度転回して横向きにした、大和の地宜〕は〔草が食べられていかにも幸せそうに、馬・フタコブラクダが破顔一笑する(にっこり笑う)がごときの横顔〕とソックリとなる、つまり「邪馬」となると卑弥呼は見立てたと考えるべきことになる。
 したがって、「邪馬国」は「旧国の大和、現在の奈良県」であった。
 女王・卑弥呼が居住した女王国は「邪馬壱国」である。ゆえに、「邪馬国」という小国名には「【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の育成に熱心な国」という意味があったと考えられる。
 卑弥呼の没後の3世紀後半から4世紀初頭、天照大御神は邪馬国を都の所在地と定めて大和王朝の基礎を築き、卑弥呼同様に【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして天下を治めた。
 前述したように、『魏志倭人伝』には「瀚海・ゴビ沙漠」の記事があり、また「玄界灘を渡って中国に到着した倭の使節」の記事もある。ゆえに、「邪馬国」という小国名には「ゴビ沙漠を往来するフタコブラクダのように、大海・玄界灘を越えて旅する勇気ある船乗りや使節や、また、フタコブラクダのごとくはるか遠くの地へ旅して家族の命と生活をまもる雄々しくてやさしい男性たちの国」と称賛する意味も有するものであったにちがいない。

25番目は、「躬臣(こじ)国」である。
 [][]を加えると、[(きゅう)]の字となる。
 下の図に示したように、「十字の銀河」は「左手(東の手)に〔弓〕(「弓」に見立てられる銀河部)を持つ。だから、「十字の銀河の左半身」は「家から遠く離れた山野で〔弓〕を用いて狩りをする男性」をあらわす。
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 『説文解字』は[]の字を「身なり」と解説する。
 下の図の右側に配する[]の金文形は「身なり」つまり「みごもっている女性の姿」を図案する。山野で狩猟する男性たちは道に迷って死ぬのをさけるために狩りをする各地点や帰途(きと)における各場所で、その都度(つど)天頂緯度測定をする。46秒間で精確に天頂緯度測量するために、下の図に示したように、おなかを前へつきだしてう~んと天をあおいで天頂をとらえた。したがって、男性が天頂緯度測定をする時の姿勢は「身なり」、すなわち「おなかが大きな妊婦の側身形」となる。だから、[]の字は「狩猟する男性が妊婦のようにおなかを前へつきだして天頂緯度測定するときの姿勢(側身形)」をあらわした。
 〔注、妊婦がおなかを前へつきだして天頂緯度線をキャッチする、この姿勢だと流産の危険がある。ゆえに、『説文解字』の[]の「身なり」という解説は「天頂緯度測定するときの男性のポーズ」を指摘するものであったことになる〕。
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 下に配した〔[][]の字源銀河解説図〕は、天文図の定式(ていしき)は《右西・左東》であるが、《北》を正面とする地図の一般形式に合わせて《右東・左西》の図とした。
 「躬臣国」の[]の字について、『説文解字』は「君に事(つか)ふる者なり。屈服する形に象(かたど)る」と解説する。これゆえ、下の〔[][]の字源銀河解説図〕において、「十字の銀河」が「君(君主)」に見立てられ、「鬼の横顔に似る銀河」が「君主に事(つか)える者・臣下」、つまり[]の字源ということになる。その証拠に、白川静著『字統』は[]の金文形について「目をあげて上を視()る形」と解説する。下の図における「鬼の横顔に似る銀河」は「目を上げて上(十字の銀河)を視る横顔」である。ゆえに「十字の銀河」が「君主」をあらわし、[]の金文形のモデルは「鬼の横顔に似る銀河」であったことになる。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の21回の後半部で詳細に解説して証明したように――上図における「鬼の横顔に似る銀河」における「鬼の横顔には目が二つ、鬼の横顔の後頭部に大きく開いた目、鬼の横顔のアゴに細い切れ長の目、計四つの目」がある。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」ということになる。
 「四つ目の銀河」は「倉頡」をあらわした。というのも、倉頡伝説においては「太古、黄帝時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作った」と語られるからである。わが国では『古事記』が成立した8世紀初頭まで、天頂緯度線測定を最も重視していた。ゆえに、後期縄文時代初頭から8世紀までの王たちや王女たちや巫女たちや覡(げき/神官)たちや皇族たちや学識者たちは、倉頡伝説は「漢字は銀河各部の形状から作られた事実」を伝えるものであり、また倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」には「【倉頡が発明した漢字作成理論の中核部】は「四つ目の銀河」である」と認識していた。
 だから、上の〔[][]の字源解説図〕における「君主」を示す「十字の銀河」は「黄帝」を、「臣下」の「四つ目の銀河」は「倉頡」をあらわしたことになる。
 下の図に示すように、「十字の銀河」に見立てられた「[]の地宜」となった地域は「旧国の摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)、つまり現在の大阪府と兵庫県東部」であった。そして、「四つ目の銀河」に見立てられた「[]の地宜」となった地域は「現在の兵庫県南部の淡路島」であった。
 したがって、卑弥呼は「現在の大阪府と兵庫県の東部」を「黄帝」に、「兵庫南部の淡路島」を「倉頡」に見立てて、小国名を「躬臣国」と定めたことになる。
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 「躬臣国」は「神生(かみう)みの国」であったと考えられる。
 『古事記』上巻における〔伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)の説話〕には《国生み》と《神生み》の記事がある。「上古においては、卑弥呼のように理路整然とした優れた小国名の考案」は「政権基盤となる重大な事業」であったゆえ、《国生み》と呼ばれることになった。
 ゆえに、《神生み》とは「黄帝の医学研究、倉頡の漢字の発明」を指していることになる。というのも、『古事記』の《神生み記事》の神々は「学問の発達、航海方法の進化、建築業や工業や鉱業における発明・工夫(くふう)」をあらわしているからである。
 たとえば、「鳥之石楠船神(とりのいはすくふねのかみ)、亦(また)の名は天鳥船(あめのとりふね)」という神は「鳥のごとく速く走り、石のごとく頑丈(がんじょう)な射()られた矢が貫通しない楠(くすのき)で作った画期的な軍船の発明」を意味し、「火之炫毘古神(ひのかかびこのかみ)、亦の名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」は「銅鐸の材料の青銅を溶かす熔鉱炉、鉄を作る精錬炉の開発」を意味し、「金山毘古神(かなやまびこのかみ)、金山毘女神(かなやまびめのかみ)」は「銅や鉄や砂鉄などの鉱山」をあらわした。
 だから、《神生み》は「学問の発達、すぐれた発明、建築業や土木事業の発展、工業や鉱業の進展・工夫(くふう)など」を意味した。
 ゆえに、躬臣国は《神生みの国》であり、つまり躬臣国は学問・発明や河内湖(かわうちこ)周辺の土木事業や開墾(かいこん)事業などの盛んな小国であったことになる。ゆえに、5世紀頃から出現した難波(なにわ)王朝は大和王朝を圧倒して栄え、大和の箸墓(はしはか)古墳よりも巨大な仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中(りちゅう)天皇陵などを築造した。
 〔注 先年死去した考古学者・同志社大学名誉教授の森浩一氏は、「仁徳」という人名は奈良時代に創られた漢風(かんぷう)の諡号(しごう)で、古墳時代にはわが国には漢字が習得されていなかった。ゆえに、仁徳天皇陵の所在地にもとづいて「大山(だいせん)古墳」と名づけるべきであると提唱した。このため、最近、「大山古墳」という名は定説化され、「仁徳天皇陵」という名称は廃棄(はいき)すべきであるとする、教科書も存在する。しかし、わが国は今から約4000年前の後期縄文時代初頭の【倉頡が発明した漢字作成理論】と夏音文字を習得していた。だから、森浩一教授の「大山古墳説」は論拠がまったく成立しない空理空論ということになる。したがって、「大山古墳」は誤り、「仁徳天皇陵」が正しいゆえ、「大山古墳」という名称は使用しないことにした〕。

 以上のごとく、21番目の鬼国から25番目の躬臣国までの小国名は全5ヵ国とも「男性グループ」であることをあらわし、しかも5ヵ国の由来と順番をもって【黄帝の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。このような理路整然とした説明は、26番目の巴利(はり)国から30番目の狗奴(くな)国の5ヵ国でもなされる。
 だから、新井白石以来約300年間もつづけて学者たちが主張する「邪馬台国説」は空理空論・真っ赤なウソ・デタラメ・詭弁(きべん)であった。だいいち、このブログが証明しているように、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」を説明する記事は1ヵ所も存在しない。
 新井白石以来の邪馬台国説は「『魏志倭人伝』の全記事を信頼して読んではならない」という方法で思考・立論するからには、さすがに【科学】がきちっと成立する意見かといえば、多数の矛盾点・不合理な点を有する【科学】がまったく成立しない期待外れの意見である。
 他方、このブログの『魏志倭人伝』の全記事を信頼して1ヵ所も【誤読】を加えない方法の場合は1ヵ所も矛盾点も不合理な点も生じず、【科学】を成立して――『魏志倭人伝』は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を詳細に具体的に理路整然と説明する書物であったことが証明される。

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2021年6月26日 (土)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・23

▼日本人よ! 日本全国民よ! 学者たちが主張するいわゆる“邪馬台国説”あるいは“卑弥呼”などの意見を著(あら)わす書物や教科書、またテレビ番組、漫画日本史なる類(たぐい)までにおよぶ学者たちの意見を、いっさい信じてはならない! というのも、それらすべてが真っ赤なウソ・欺瞞(ぎまん・ぺてん)だからだ! 
 江戸中期の新井白石(あらいはくせき/16571725)以来今日まで約300年、邪馬台国説学者たちは約2000字で構成される『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』という書物に自分勝手の独断的なデタラメを仰山(ぎょうさん)に加えて、“ここ掘れ掘れワンワン! 邪馬台国はここだ!”と自分はいかに利口(りこう)なのかと自慢し、“卑弥呼はかくかく、このような女性だった”とか作り話をデッチあげる書物をつくり、メディアを騙(だま)して図々(ずうずう)しくもテレビに出演し、役立たずの大法螺(おおぼら)を吹いて荒稼(あらかせ)ぎをし――日本人の尊厳を、日本人の根源的ないのちと魂と精神(理性を知性)を冒涜(ぼうとく)して、『魏志倭人伝』に記述された真実を抹殺(まっさつ)し、踏みつぶさんとしている。
 このような学者たちの真っ赤なウソに、日本全国民よ! まんまと騙されてはならない! 怒れ! 怒れ! 憤怒(ふんぬ)せよ! 日本全国民よ、邪馬台国説学者たちはあなたのいのちと魂の根元を侮辱し凌辱(りょうじょく)し嘲笑(あざわら)っているのだ!
 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(22)まで証明してきたように、神に誓って、『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料ではない。『魏志倭人伝』は新井白石以来約300年、学者たちの誰一人も想像しなかった【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に明確に伝える書物であった。
 現在、メディアと大半の日本人たちは邪馬台国説学者たちに言いくるめられ誑(たぶら)かされて「『魏志倭人伝』は、邪馬台国を詳細に説明する書物である」と思い込んでいる。しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も「邪馬台国」についての記事は存在しない!
 九州説と畿内説をとなえる学者たちは【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽・ぺてん)・詭弁(きべん)】を駆使(くし)して、世界的に第一級の重大な文献史料である『魏志倭人伝』を嬲(なぶ)り弄(もてあそ)び凌辱して抹殺しようとしている。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】という名の【誤読】を加えずに、ただひたすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
 『魏志倭人伝』に記述されている真実つまり【漢字が起源した中国で失った、この漢字が起源した学術】は、今から約4000年前に習得されて以来、日本人の花咲く尊厳と、日本人の花咲くいのちと魂と精神(理性を知性)となって受け継がれた。言いかえると、【漢字が起源した学術】は【日本人の血と肉】となって受け継がれた。その証拠に、今から約1730年前に著作された『魏志倭人伝』は「中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国が習得した【漢字が起源した学術】は【日本人の血と肉】となった」と語っている。その後も、日本民族の前人たちは【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な真実】をまもって受け継いだ。ところが、新井白石以後から現在までの300年間もつづく邪馬台国・空理空論説のために【漢字が起源した学術】はまったく不明されることになって消滅の寸前となった。
 【『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり漢字が起源した学術】は、真っ先に人間として必ずまもらなければならない日本人の義務であり責務である。
 だから、このブログでは、九州説と畿内説は【漢字の起源を伝える真実】を凌辱する空理空論・妄想(もうそう)・欺瞞(ぺてん)であった実体を徹底的に科学的に証明して暴露する。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・32

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の真相】を知るためには――「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的にはもはや虚妄(きょもう)・空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)の序(字統の編集について)における9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、わが国は夏音(かおん)文字の学芸を習得した。この夏音文字の漢字音が、現存する最古の漢字音である。《わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音》は、《中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空理空論ということになる。
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 上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、つまり【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)に習得した夏音文字の漢字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残って実在する。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説は、【1】夏音文字が『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝、また『古事記』上巻・『万葉集』などに多数記載されて残っている事実と、【2】白川静著『字統』の序(字統の編集につて)における音韻学の成果に反する空論であったことにある。
 そもそも『魏志倭人伝』に登場する「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」という字音は「現存する最古の夏音文字の漢字音」である。この夏音文字の字音よりも新しい中国の上古音だと、「卑弥呼」は「ピミカ」と発音することになる。
 邪馬台国説学者たちは「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む。だから、邪馬台国説学者たちの意見にもとづくと、【わが国は、後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸を習得していたこと】は確実な事実となる。
 だから、邪馬台国説学者たちが「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む――この事実、つまり【わが国は後期縄文時代に夏音文字の学術を習得した事実】にもとづいて、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読むと、【『魏志倭人伝』は漢字が起源したときの学術を理路整然(りろせいぜん)と説明する書物】であったことが科学的に具体的に明かとなる。

◆漢字は今から約5000年前、 中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
 【倉頡が漢字を発明した起源の詳細】は、現在、漢字が起源した中国において解明されていない。
 上記したように、江戸時代中期の新井白石以前、【わが国は、上古(後期縄文時代初頭)、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得したという学識】は高貴な良識であった。しかし、わが国では、【倉頡が漢字を発明した起源の詳細】は邪馬台国説によって解明できなくなった。というのも、新井白石以後、学者たちが【『魏志倭人伝』に多数の誤読・作為・捏造(ねつぞう)を加える反()学術運動】に情熱をそそぐことになったからである。ゆえに、反()学術運動の空理空論の邪馬台国説によって約300年間も、【倉頡が発明した漢字作成理論】は排除されて闇に葬られることになった。
 でも、しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。
 というのも、前述したように『魏志倭人伝』に卑弥呼が理路整然と【倉頡が発明した漢字作成理論】について説明し、また中国の海岸線の約3倍にして細密なわが国の海岸線に明確に保存されているからである。
 だから、約300年間も学者たちによって禁止された『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解する方法を復興すれば――【倉頡が発明した漢字作成理論】は鮮烈に蘇(よみがえ)る。

◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
 一つ目の記事は、【134字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
 二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津()では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。

 上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説によって無視され排除された。
 このため「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が学者たちに流布されて――そして定説となった。
 したがって、もしも学者たちが『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに忠実に読解していれば【倉頡によって発明された漢字作成理論】が、このブログ以前に科学的に解明できていたことになる。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に学者たちが気づいていれば――『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 『魏志倭人伝』に書き記された【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河・字形の原形となった銀河・原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期の漢字】は【文字作成銀河各部の形状】となった。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員にも神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 『魏志倭人伝』において、【(1)今から約5000年前に倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義】は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)そして《日本列島各部の地図の形》によって成立する。そして、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。だから、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》が全部そろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義する。だから、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。
 しかし、黄帝時代以前の約6000年前から始まる三皇(さんこう)時代には、黄帝が研究した医学をあらわすことができる漢字は発明されていなかった。したがって、倉頡が漢字作成する目的は【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字を考案すること】であった。倉頡は【文字作成銀河(夏の銀河)の各部の形状と中国全土を包む海岸線の地宜(ちぎ/地図の形)を字源・字形・字義とする漢字】を創()くって、【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字の発明】に成功した。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる人命の神秘を合体して誕生した学問(学術)】であった。
 前述したように、わが国には、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が伝来して習得された。
 というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回・5回と14回・15回の4回で詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』の中半に登場する「女王国より以北の名称不明の海上に浮かぶ皆倭種なりの一小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国、この4小国の東南に所在して船行一年にして参問(さんもん)できる、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」と説明する76字の記事をもって、『魏志倭人伝』は「今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と証言するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』には、34の小国が登場する。
 上記した4小国以外の対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明することにした。言いかえると、黄帝が作った医学書『内経』を残っていないが――卑弥呼は30の小国名をもって理路整然と『内径』に説明されていた医学知識を復興することにした。というのも、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤として倭人国を統治することにしたからである。このため、卑弥呼は30の小国名をもって【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する学術体系組織論を構築(こうちく)して「倭人国」という国家と王朝を創設(そうせつ)した。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体して生まれた学問(学術)】であったことは、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すると一点の矛盾点もなく系統的な合理が構築されて手に取るように明白となる。この証明は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(22)までにおいて、詳細に具体的に科学的におこなってきた。
 前回では、12番目の都支(たき)国・13番目の弥奴(みな)国・14番目の好古都国(こかた)

国・15番目の不呼(ふこ)国という4ヵ国の小国名には、【黄帝の「女性の生殖器官と性の生殖細胞の精子と女性の生殖細胞の卵子」についての考え】を説明する役割があったことを具体的に解説して証明した。

◆今回は、16番目の姐奴(つな)国・17番目の対蘇国・18番目の蘇奴(さな)国・19番目の呼邑(こお)国・20番目の華奴蘇奴(かなさな)国、この5ヶ国について解説し証明する。
 前回のブログにおいて、15番目の不呼国・旧国遠江(現在の静岡県西部)における「浜名湖の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は[]の字源「花の形」に相似すると見立てられたことを証明した。ゆえに、今回における[]の字を配する19番目の呼邑国もまた「遠江の浜名湖と同様に、花の形の湖」を有する小国であったことになる。
 この「花の形をした湖」の小国の呼邑国周辺に、姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国の4つの小国が所在する。この4カ国は「蝶の形をした国々」である。つまり、「花に蝶」というわけである。
 下の図に示したように、黄帝は「女性の骨盤の正面形」は「蝶の成虫の姿」に相似するという感想を抱いた。ゆえに、黄帝は「蝶」には「花」とむすびつけた連想にもとづき、前回にて解説したように「男性の生殖能力(今日でいう、生殖細胞)の精子(せいし)と女性の生殖能力(生殖細胞)の卵子(らんし)」について考えたことになる。
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 前回のブログで指摘したように――現在と卑弥呼時代、また黄帝が生存した五帝時代初頭の黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵(こうていりょう/北緯3535)の天頂にめぐってきた銀河部は相違する。
 下に、(1)卑弥呼時代と(2)現在の黄帝陵(黄帝が居住した本拠地周辺、すなわち[]の字源となった地域)の天頂にめぐってきた銀河部の図を配した。
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 下に、五帝時代初頭の黄帝時代に黄帝陵(北緯3535)と中国全土にめぐってきた銀河部の図を配した。下の図における「北緯30度」の地域に、中国南部の紹興市(しょうこうし/『魏志倭人伝』に登場する会稽)が所在する。
 黄帝時代、黄帝陵の天頂周辺に国際天文学会の用語「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)
と「十字の銀河の頭部とその頭部が被(かぶ)るカンムリの銀河部」がめぐってきた。
 「北天の最輝部」は「北半球で住む人々が最も輝いて見える銀河部」である。
 「北天の最輝部」は「桃色をおびた銀白色にかがやく美しい花のような銀河部」である。ゆえに、「花と蝶」から、黄帝は天頂周辺にめぐってきた西の「北天の最輝部」と東の「十字の銀河の頭部が被るカンムリの形」を注目して、「目に見えない、微小の精子と卵子の形」について考えた。 
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 下に配した上図は、黄帝時代に黄帝陵の天頂周辺にめぐってきた西の「北天の最輝部」と東の「十字の銀河の頭部が被るカンムリの銀河部」の図である。
 黄帝は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリの銀河部」の両者の形は相似しあうと見立て、また、その両方の銀河部の形は、下図における「花の生殖器官、つまり花冠(かかん/花弁)の形」に相似すると考えた。
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 上記したように、黄帝は【1】黄帝が居住した本拠地(黄帝陵周辺地域)の天頂周辺にめぐってきた「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリの形状」は「花の形」に相似すると考えた。また前述したように、黄帝は【2】「女性の骨盤正面形は、蝶の成虫の姿は相似する」と考えた。
 だから、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】において「【1】花の形(黄帝が居住した本拠地の天頂周辺にめぐってきた東・西の銀河部の形)と、【2】蝶の形(女性の骨盤の正面形)」が結びついた。
 ゆえに【黄帝の医学研究】は「花と蝶」と譬(たと)えられた。だから、「花と蝶」に譬えられた【黄帝の医学研究】を、卑弥呼は姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国の5つの小国名をもって表示することにしたのである。

◆前回のブログで指摘したように――中国の南部の呉における「杭州湾(こうしゅうわん)の地宜)」は「花の形(花冠の形)」に相似すると見立てられて[()]の字源となった。
 下に、「〔東〕を上・〔西〕を下とする杭州湾の地宜」を配した。杭州湾の湾口(わんこう)は北緯3050分~北緯30度の中間に在る。下の図における会稽(かいけい)は北緯30度である。会稽は、現在の紹興(しょうこう)市である。
 前回のブログで解説し証明したように、「杭州湾の奥・銭塘江(せんとうこう)の河口近くの湾部」は「花冠をささえる花の台(うてな/萼柎)」に相当して[]の字源を示した。また、「花冠部となる杭州湾」は[]の字源を示した。したがって、「杭州湾の地図の形(地宜)」は[][]、つまり「不呼」と表示することになった。
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 下の図に示すように、「遠江の浜名湖の地宜」は[]の字源「杭州湾」と同様に「花冠の形」に相似すると、卑弥呼は見立てた。また、卑弥呼は「浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)」は[]の字源「花の台(萼柎)」に相似すると見立てた。ゆえに、卑弥呼は「遠江の浜名湖」は「中国の杭州湾」と同様に「不呼」をあらわすと考えて、「浜名湖がある遠江、現在の静岡県西部」の小国名を「不呼国」と定めたのである。
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 前回のブログにおいて、下に配した図を用いて証明したように――[]の字源「杭州湾の地宜」は「鳰(にお)が水面に浮かぶ姿」にも相似する。ゆえに、「鳰」は[]の字源をあらわすことになった。
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 前回のブログにて、下に配した図を用いて証明したように――『魏志倭人伝』が著作された同時代の3世紀後半に生存した遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)は「鳰」は[]の字源であることを明確に示して、「不呼国、現在の静岡県浜松市北区の引佐(いなさ)町の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区の地宜」を「鳰と浮巣の形」に設計した。
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 前述したように、黄帝時代、「十字の銀河」は中国各地の天頂にめぐってきた。
 下に示すように、「十字の銀河の乳房」に「M39」と名づけられた散開星団(さんかいせいだん)が重なる。「M39」は星数の少ない、明るい星が集まった散開星団である。すこし目をこらすと、「M39」の形は「鳰と鳰の浮巣(うきす)」のような形をしているのが見える。
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 上記したように、また下に配した図に示したように、「M39」は「鳰と鳰の浮巣の形」に相似する。
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 前述したように「旧国・遠江」、つまり「浜名湖がある、浜松市を中心とする現在の静岡県西部」の小国名を、卑弥呼は15番目の「不呼国」と定めた。この不呼国であった浜松市北区の引佐町の金指・井伊谷地区の地宜は――「鳰と鳰の浮巣」の形に設計されている。したがって、引佐町の金指・井伊谷地区の地図の形は、[]の字源は「鳰」であると表示する。
 15番目の「不呼国」の次の16番目の小国名を、卑弥呼は「姐奴(つな)国」と定めた。
 というのも、上記したように、「十字の銀河の乳房と重なるM39」は「不呼国の[]の字源「鳰と鳰の浮巣の形」に見えるからである。つまり、不呼国の[]の字源「鳰」の形となる「M39」は「十字の銀河の乳房」と重なり、「姐奴国の西部」は「母となった女性の、大きな左右の乳房の形をした地宜」となる。
 だから、15番目の「不呼国」の次の16番目国を、卑弥呼は「乳房つなぎ」ということで「姐奴国」と定めたのである。

◆下の図に示すように、15番目の不呼国から16番目の姐奴国までの中間には、14番目の好古都国・13番目の弥奴国・17番目の対蘇国の三ヵ国が所在する。また、16番目の姐奴国よりも、17番目の対蘇国のほうが、15番目の不呼国には近い。ゆえに、不呼国の次は対蘇国と定めるのが順当となる。しかし、15番目の不呼国と16番目の姐奴国の両国は、上記したように「乳房」という共通点を有するる。これに対して、15番目の不呼国と17番目の対蘇国には共通点が存在しない。だから、卑弥呼は倭人国の小国の順番を不呼国の次は姐奴国と定めたのである。
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 上の図が示すように、19番目の呼邑(こお)国は、古称が「鳰の海」であった琶湖を有する旧国近江・現在の滋賀県である。「鳰の海」の[][]の字源であり、[]の字源は「花の形の、杭州湾」であった。ゆえに、卑弥呼は「琵琶湖の地図の形」を「鳰の姿」に相似すると見立て、また、卑弥呼は「琵琶湖の地宜」は「花の形をした、杭州湾」に相似すると見立てたことになる。
 前述したように、黄帝は――下の図に示す「女性の生殖器官と花の生殖器官の形」は類似すると見立てた。だから、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は「花」に譬(たと)えられることになった。
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 さらに、前述したように、黄帝は「女性の骨盤の正面形」は「翼を有する蝶の形」に相似すると見立てた。
 だから、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は「花と蝶」に譬えられることになった。
 16番目の「姐奴国の地宜」は「蝶の成虫の姿」に相似すると見立てられた。17番目の「対蘇国の地宜」は「蝶の幼虫・蛹(さなぎ)・羽を有する成虫の姿」に相似すると見立てられた。18番目の「蘇奴国の地宜」は「蛹にならんとする蝶の終令幼虫(しゅうれいようちゅう)の姿」に相似すると見立てられた。19番目の「呼邑国の地宜」は「花の形」に相似すると見立てられた。20番目の「華奴蘇奴国の地宜」は「華()と蝶の成虫の姿」に相似すると見立てられた。
 このように、「16番目の姐奴国から20番目の華奴蘇奴国までの小国名」をもって、卑弥呼は「【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は【花と蝶】に譬えられた」とあらわしている。

16番目から20番目までの小国のうち、「姐奴国・蘇奴国・華奴蘇奴国」という小国名にある[]の字は【黄帝の「女性の骨盤・生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわした。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回でも詳細に解説したように――下の図に示すように、[]の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」であった。
 「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は[(ゆう)][(ゆう)]の字源でもあった。
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 [又]の金文形にある「渦巻き」は「産道をくぐりぬけるときの、出産する子どの4回の旋回(せんかい)」をあらわす。この「出産児の4回の旋回」を、産婦人科では「回旋(かいせん)」と名づけている。
 「母体の子宮口(しきゅうこう)が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から出産児の顔が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの、子どもの頭の4回の回旋」において、第1回旋における出産児の頭の回旋は「時計回りに90度の回旋」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋」し、第4回旋は「時計回りに90度回旋」する。
 この「第1回旋、第2回旋、第3回旋、第4回旋」という語を挿入(そうにゅう)して、[]の字源となった「4回の回旋以外の、狭い産道をくぐりぬける出産児と母体の様子」を解説すると、[]の字源解説が煩雑(はんざつ)となって難解となる。
 ゆえに、これからおこなう[]の字源解説では、〔4回の回旋〕を示す語を省略することにした。
 ――開口期において、陣痛(じんつう)がはじまると、子宮口にむかった卵膜(らんまく)は羊水(ようすい)によってふくらみ、くさび状に子宮頸管(しきゅうけいかん)をひろげ子宮口が開いていき、子の頭はしだいに押し下げられてくる。子の頭は骨盤産道(こつばんさんどう)に入り込み、骨盤産道の形に応じて向きを変えていく。正常分娩の場合には、骨盤入口の上では子のアゴを胸につけた姿勢で、子の背中は母体の左または右にある。中ほどにくると子の頭は斜(なな)め後ろ(母体の背側)に顔をむけ、出口では顔をすっかり後方(母体の背側)にむける姿勢となる。開口期の終わりには、ほぼこの状態となる。
 次は出産第二期の娩出期の始まり、子の頭が骨盤出口に近づいてとき、母体の直腸(ちょくちょう)は圧迫されるので自然に怒責(どせき/いきみ。きばること)がおこり、母体の腹圧(ふくあつ)が加えられる。陣痛と腹圧との力で、子の頭はますます押し上げられ、ついに陣痛発作(じんつうほっさ)のときには膣(ちつ)の入口から子の頭が見えるようになる。さらに進んで子の頭のもっとも大きい部分が膣の入口を通過して、子の頭が誕生する。ついで、子の頭は母体の左または右に向くが、子の肩の部分が骨盤出口を通るためである。肩はまず上(母体の腹側)にあるほうが先に、ついで下(母体の背側)の肩がでると、あとは(娩出期の終わりは)、子の顔の正面は母体の背側のほうに向いて、一気に生まれる。

 []の字源は、上記した説明における「子を出産するための母体の強大な力」であった。
 「子どもの出産における、母体が大声をあげる怒責(どせき)」は「稲妻(いなづま/雷鳴)や虎が咆()える大声」に見立てられて、[]の字源をあらわすことになった。「母体の怒責」は[]の下に[]が加えられる[]の字源となった。
 以上のごとく、「姐奴国・蘇奴国・華奴蘇奴国」という3小国名にある[]の字源は、上記した「出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期終わりまでにおける、母体が子どもを生むときの凄(すご)い強大な力」であった。
 だから、[]の字は【黄帝の「女性の骨盤・生殖器官と子どもの出産」の研究】をもあらわすことになった。
 したがって、「姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国」の4ヵ国の小国名は【黄帝の「女性の骨盤・生殖器官と子どもの出産」の研究】をもあらわしている。その証拠に、【黄帝の「女性の骨盤・生殖器官と子どもの出産」の研究】は「花と蝶」と譬えられたゆえ、「花」は「呼邑国」という小国名と地宜があらわし、「蝶」は「姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国」の4ヵ国の小国名と地宜があらわす。
 下に、〔蝶と蛹(さなぎ)の姿に相似する銀河図〕を配した。
 []の字源銀河となった「鬼の姿に似る銀河」は「蛹の姿」に相似すると見立てられ、「鬼の姿に相似する銀河と十字の銀河と、その背景となる銀河」は「羽をひろげて飛ぶ蝶の姿」に相似すると見立てられた。
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 「羽をひろげて蝶の成虫をあらわす銀河」は〔東向き〕であるが、「姐奴国の地宜」の「蝶の姿」は〔西向き〕であり、「対蘇国の地宜」「蝶の姿」は「北に向く、真上から見た羽を左右に開く正面形」であり、「華奴蘇奴国の地宜」は「東に向く、真上から見た羽を左右に開く正面形」である。
 ゆえに、上記した「三小国の地宜」は「蝶の成虫や蛹の姿をあらわす銀河」の向きと異なるが、この向きの相違は、上記した「出産児の頭の4回の回旋」をあらわしている。

◆これから、16番目の「姐奴(つな)国」から20番目の「華奴蘇奴(かなさな)国までの5ヵ国の位置と範囲を解説し証明する。
 下の図に示したように、16番目の「姐奴(つな)国」は「旧国の越前、現在の福井県中部・北部」であった。[]の字には「母。姐御(あねご)」という意味がある。この[]の字義に合致して、下の図が示すように、「敦賀(つるが)半島より南部の境界線、つまり越前西部の南限の境界線」は「たくましい母親の大きな乳房・たくましい豊かな母の胸部の形」となる。
 前述したように、[]は「強大な力」(母体が子どもを生むときの、強大な力)をあらわす。ゆえに、「姐奴」の「つな」と読む夏音は「綱(つな)」をあらわすことになり、「強大な力で作られた、太い綱」を意味したと考えられる。その証拠に、「姐奴(越前)北部の地宜」は「一本の太い綱あるいは注連縄(しめなわ)を作る際、多数の細い綱を扇状(おうぎじょう)にひろげ、これらの細い綱をよりあわせて一本の太い綱にする完成間際の綱の形」に相似する。
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 なお、下の図に示すように、「姐奴国の地宜」は「蝶の成虫の姿」のごとくに観える。
K326
17番目の「対蘇(つさ)国」は「旧国の美濃(みの)、現在の岐阜県中部・南部」であった。
 下に配した〔対蘇国・美濃の解説図〕における上図に示したように――「美濃の東部の地宜」を卑弥呼は「蝶の幼虫の姿」に相似すると見立て、「美濃の東部の地宜」を「蝶の成虫の姿」に相似すると見立てた。ゆえに「蝶の幼虫と成虫の姿の一対」となるゆえ、卑弥呼は「美濃」の小国名を「対蘇国」と定めたことになる。
 下の〔対蘇国・美濃の解説図〕における下図に示したように――「美濃の全域の地宜」を、卑弥呼は「ジャコウアゲハの蛹(さなぎ)の姿」に見立てたにちがいない。
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 したがって、「対蘇国・美濃」を、卑弥呼は「ジャコウアゲハの幼虫と成虫と、そして蛹の形をした小国」と考えたことになる。
 美濃は現在の岐阜県中部・南部である。「岐阜」という名がつく「ギフチョウ」は「ジャコウアゲハ科」に分離される蝶であり、その名のとおり岐阜県に生息する。ジャコウアゲハのオスの羽とジャコウウシのオスの眼下腺(がんかせん)からの分泌物(ぶんぴつぶつ)はともに麝香(じゃこう)の匂いがする。
 前回までのわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は幾度もくりかえして、黄帝が研究した「女性の生殖器官の正面形」は「ジャコウウシの顔」に相似すると見立てられた。ゆえに、【倉頡は発明した漢字作成理論】は「鳥獣の足跡」と名づけられ、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 「ジャコウウシ」は[][]の字源となって「女性の骨盤と、骨盤が包んで衛(まも)る女性生殖器官」の両方をあらわした。というのも、[]の字源となった「ジャコウウシ」は「もの凄(すご)い力を有する獣」であるからである。したがって、[]の字源・字義は「母体が子どもを生むときの、強大な力」と「ジャコウウシの、強大な力」であった。だから、[]の字義は、要するに「強大な力」ということになった。
 アゲハチョウ科のギフチョウの蛹の体は、太く短い皮膚はかたい。黒褐色(くろかっしょく)で斑紋(はんもん)はない。斑紋がない黒褐色のギフチョウの蛹に類似して、ジャコウウシもまた黒褐色の体毛(たいもう)でおおわれる。したがって、ギフチョウの蛹によって、ジャコウウシは黒褐色の毛足の長い毛のコートで体全体がおおわれている様子が伝えられていたことになる。

18番目の「蘇奴(さな)国」は「旧国の若狭(わかさ)、現在の福井県南西部」であった。
 上記したように、17番目の「対蘇国の全域の地宜」は「ジャコウアゲハの幼虫や蛹の姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、18番目の「蘇奴国の地宜」は「ジャコウアゲハやギフチョウの幼虫や、蛹になる前の終令幼虫の姿」に見立てられたことになる。
 下の図における左上の「蘇奴国の地宜」を、卑弥呼は「アゲハチョウ科のアゲハチョウ・ギフチョウ・ジャコウアゲハの幼虫や、蛹にならんとする終令幼虫の姿」に見立てて、「若狭」の小国名を「蘇奴国」と定めたことになる。
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 蝶の幼虫は脱皮(だっぴ)が近づくと食をとらずに静止し、前の胸部が膨(ふく)らむ。子宮という密室で羊水の中で過ごす月齢の少ない胎児も静止して、前の胸部が膨らむ。蝶の蛹は、食物をとらず、ほぼ静止の状態となる。子宮の羊水に漬()かって育つ月齢の少ない胎児も、食物をとらずほぼ静止状態となって過ごす。胎児は食物をとらないゆえ、生まれるまでうんちを出さない。出産で産道をくぐる時におなかが押され、初めておしりからうんちが出てくる。汁(たんじゅう)の色素に由来して、赤ちゃんが初めて出すうんちは蝶の餌となる草木の葉の色の緑色である。だから、「出産時に初めて緑色のうんちを出す赤ちゃん」は「緑児(みどりご)、つまり「嬰児」と2字の漢字で表記されて「みどりご」と読むことになった。
 なお、「若狭」という旧国名の由来は「若い13歳くらいの乙女たちの瞳は最も澄んで暗い銀河部や星をキャッチする眼力に最も優(すぐ)れている。ゆえに、13歳くらいの乙女たちは天頂にめぐってくる銀河部や星たちが映る鏡となる谷川の水面や池岸の澄んだ水面や清らかな水汲み場の水面など、すなわち“狭井(さい)”から緯度を精確に測定できる呪能(じゅのう)を有する」ということであったと考えられる。
 これゆえ、「13歳くらいの若い乙女」の[]に「狭井」の[]を加えると「若狭」となる。

◆前掲した〔文字作成銀河(夏の銀河)の写真〕を撮影したわが国を代表する天体写真家の藤井旭(ふじいあきら)氏は「銀河や星をキャッチできる最も優秀な瞳を有する13歳の乙女を連れて、銀河はじめ天体を撮影することが度々ある」と、私に説明したことがある。このように、現在でも、銀河や星や星雲・星団をキャッチする能力に最もすぐれる眼力の持ち主は13歳くらいの乙女たちである。ゆえに、「13歳くらいの若い乙女」の[]に「狭井」の[]を加えて、「蘇奴国」の旧国名は「若狭」となったにちがいない。
 『古事記』上巻に〔天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話〕がある。この説話には「天之真名井(あめのまない)」が登場する。「天之真名井」は「天頂にめぐってくる銀河部や星などが明るく映る鏡のような水面を有する井戸、つまり天頂緯度測量地点」を意味した。奈良県桜井市の三輪町には古くから最も聖なる山とされた三輪山、大神(おおみわ)神社の摂社(せっしゃ)の狭井(さい)神社、三輪山をご神体と大神神社が所在する。狭井川(さいがわ)は三輪山の麓の東北から狭井神社と大神神社の辺(ほとり)を南西にむかって初瀬川(はつせがわ)で合流する。
 この「三輪山の麓から流れる狭い谷川・狭井川の岸辺の天頂の銀河部を明るく映す鏡のような水面・天頂緯度測量地点」が、〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕に登場する「天之真名井」であった。したがって、「天頂の銀河部を明るく映す鏡のような水面の、天之真名井」は「狭井(さい)」と名づけられたのである。
 古代、「倭人国における天頂にめぐってくる銀河部を明るく映す鏡のような谷川や池岸や水汲み場などの水面・天頂緯度測量地点」は「狭井(さい)」と呼ばれた。「狭井に映る天頂の銀河部」をとらえて精確に緯度を測定できる能力に最も優れる澄んだ瞳(ひとみ)を有するのが、13歳くらいの乙女たちである。
 だから、上記したように「旧国の若狭の地宜」を「蝶の終令幼虫の姿に相似する」と見立てた卑弥呼は、「旧国の若狭」の小国名を「13歳の乙女たち」にも見立てて「蘇奴国」と定めたのである。
 古代は天頂にめぐってくる銀河部をキャッチして緯度を測定していた。この能力に最も優秀な瞳を有する13歳の乙女は、古代において、緯度を精確に測量できる能力に最も優れる、女性の人生における最盛期と称(たた)えられていた。
 『魏志倭人伝』の末部は――卑弥呼が没する時に百余人の奴婢(ぬひ)を殺して、卑弥呼の墓に埋めた残酷な徇葬(じゅんそう)に反対して、徇葬を決行した卑弥呼の後を継いだ男の倭王に服従せず、国中の人民たちは反乱して倭王朝軍と戦った。倭王朝軍は千余人の人民を殺した――と記述する。
 この徇葬を憎悪して倭人国の国中の人民たちが倭王朝軍と戦った大乱(たいらん)を平定したのは、男王の倭王の後を継いだ倭女王の壱与(いよ)であった。『魏志倭人伝』は壱与について「また卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三で王となりしを立てて、国中遂に定まる」と記述する。つまり、『魏志倭人伝』は――卑弥呼が統治する宗女(巫女界を代表する巫女)の壱与は、十三歳の時に新生「日本国」の女王に就任し、そして数年後(32歳ころ)に倭王の後を継ぐ倭女王に就任して徇葬を憎悪して倭人国の国中の人民たちが倭王朝軍と戦った大乱を平定した――と説明していたのである。
 〔注 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「倭人国の隣国は東鯷人(とうていじん)国であった」と記述する。この「東鯷人国」が倭人国の一員の小国(倭人国の35番目の小国)となって国号が「日本国」と改められた。東鯷人国・後の小国・日本国は倭人国の不呼国(遠江)の隣りの旧国の駿河から以東の駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・飛騨・信濃・上野・下野・下総・上総・安房・常陸の東海地方東部から関東地方一円地域であった〕。
 『魏志倭人伝』の中半には、五世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた「倭では春に田を耕す時を一年と数え、秋に農作物を収穫する時も一年と数える二倍暦であった」と注がある。この二倍暦だと「新生・日本国の女王となった、十三歳の壱与」は「六・五歳の幼女」であったことになる。しかし、「六・五歳の幼女」には「女王となる特別に優れた能力・呪能(じゅのう)」を有していない。だから、壱与は《緯度を精確に測量できる能力に最も優れる最盛期の十三歳の時(二倍暦では二十六歳の時)》に、新生・日本国の女王に就任したと考えるべきことになる。
 したがって、『魏志倭人伝』は「倭人国では、一年365日を二年と数える二倍暦であった。しかし、卑弥呼の晩年には365日を一年とする中国の正歳(せいさい)を使用するようにした」と説明していることになる。
 〔なお、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼の墓に殺して埋められた徇葬者の奴婢」は「奴」が「十八歳くらいの青年」、「婢」は「十三歳くらいの乙女たち」であったと考えられる。というのも「犠牲(ぎせい/いけにえ)」の[]の字源を、『説文解字』は「宗廟の牲(せい)なり」と解説し、『説文解字』は[]の字源を「完全なるなり」と解説するからである。
 ゆえに、『説文解字』は[][]の字源を「宗廟、つまり偉大な王や女王の墓に埋める犠牲としては毛色肢体すべてがそなわったジャコウウシがささげられた」と解説している。
 だから、ジャコウウシが生息していなかった倭国の女王・卑弥呼の墓に殺されて埋められた徇葬者の「犠牲(いけにえ)」は、「男性として完全なる最盛期をあらわす大きな手と太い腕とたくましい頑丈な肉体の持ち主の十八歳くらいの若者の[]と、最も澄んだ瞳を有して天頂緯度を最も精確に測量できる完全なる能力の瞳を有する十三歳の乙女の[]」であったと考えるべきことになる〕。

19番目の「呼邑(こお)国」は、「旧国の近江、現在の滋賀県」であった。

前述したように、[]の字源は「中国の南部の呉における、水面に浮かぶ鳰の姿に相似する杭州湾(こうしゅうわん)」であり、また「花の形に相似する杭州湾」であった。
 「琵琶湖」の古称は「鳰の海」であった。したがって、下の図に示した「琵琶湖の地宜」を、卑弥呼は「杭州湾の地図の形」に相似すると見立てて、「近江、現在の滋賀県」の小国名を「呼邑国」と定めたのである。
 「呼邑国」の[(ゆう)]の字の上部は[()]、下部は[()]である。
 白川静著『字統』は[]の字について「囗()は都邑(とゆう)の外郭(がいかく)、城壁を繞(めぐら)している形。(中略)。巴()は人の跪居(ききょ)するさま。城中に多くの人のあることを示す」と解説する。
 だから、「呼邑国」の[]は、下に図に示した「琵琶湖を包囲する比良山(ひらやま)山地・野坂(のさか)山地・伊吹(いぶき)山地・鈴鹿(すずか)山脈・水口丘陵(みなくちきゅうりょう)」であったことになる。
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 下の図に示したように、琵琶湖と杭州湾の形は「花の形」に相似する。
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 「琵琶湖の地宜」は上の図に示したように「花の形」に相似すると見立てられた。
 【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は「花と蝶」と譬(たと)えられた。
 ゆえに、「地宜が花の形の、琵琶湖」を包囲するように、卑弥呼は「花と蝶」に譬えられた【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわして、「蝶の成虫はじめ幼虫や蛹」に見立てた姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国の四ヵ国が包囲するようにした。

20番目の「華奴蘇奴(かなさな)国」は「旧国の山城(やましろ)、現在の京都府南部」であった。
 卑弥呼は「山城、京都府南部の地宜」を「藤や萩(はぎ)の華()の形」に相似すると見立てて、また「藤や萩の華()のように、美しい蝶の姿」に相似すると見立てて、小国名を「華奴蘇奴国」と定めたことになる。
 あるいは「山城、京都市南部の地宜」は山地や草原に生息する「ヒメシロチョウの姿」に相似する。ヒメシロチョウはモンシロチョウと同じくシロチョウ科に分類される。ヒメシロチョウ(羽をひろげた長さは40mm)はモンシロチョウ(羽をひろげた長さは4560mm)より小さな白い羽を有するモンシロチョウに似た蝶である。ヒメシロチョウが食べる草はクサフジやツルフジバカマである。クサフジやツルフジバカマの華()は藤の花と同じく房状(ふさじょう)で、その色はあざやかな藤色である。したがって、「華奴蘇奴国」とは「クサフジやツルフジバカマの藤色の華(はな)のごとく、白い可愛いヒメシロチョウのごとく華麗な小国」とも意味するものであったと考えられる。
 下の図における下部の図に示したように、[]の金文形の上部の[×]は「藤やクサフジなどの穂の両側にある多数咲く房状の花びら」をあらわし、その下の「下部の横二本の線」は「藤やクサフジの葉」をあらわし、「左へと[]の字に曲がる中央線」は「藤やクサフジの花穂(かほ)」をあらわしていることになる。ゆえに、[]の金文形は「その穂に小さな美しい蝶の成虫の姿に相似する房状の花が多数咲く、藤・萩(はぎ)・クサフジ・ツルフジバカマなどの花穂」をあらわしている。
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 ゆえに、卑弥呼が「華奴蘇奴国」と定めた小国名は「死骸と化したごとくにみえる蛹が背中を[]の強大な力で割()いて美しく命が蘇(よみがえ)る」と意味するものであり、また「藤や萩の花の形に相似する華麗な蝶の成虫はわずか数分で[]の強大な力で体を浮かせて空を飛び、強くたくましく美しく命を示す」とも意味するものであったにちがいない。

 以上のごとく、卑弥呼は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】が「花と蝶」と譬えられた故事来歴(こじらいれき)を、姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国の五カ国の小国名であらわした。

◆卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
 「倭人国」の[()]は「人民たちの胃袋を食物で満たす、五穀豊穣(ごこくほうじょう)」という政治スローガンをあらわした。
 []の初文(初めの文字)は倉頡が創(つく)った[()]である。[]の字も「人民たちの胃袋を食物で満たす、五穀豊穣(ごこくほうじょう)」という政治スローガンをあらわした。
 つまり、[]の字は黄帝王朝の政治スローガンであり、【倉頡が発明した漢字作成方法における基本字】であった。
 したがって、卑弥呼は黄帝王朝の政治スローガンを受け継いだ。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成方法における基本字】の[]の字源・字義を受け継ぐ[]の字を国号に用いたのである。
 白川静著『字統』は[]の字について「稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。また、同書は[]の字について「声符(せいふ)は委()。委は稲魂を被(かぶ)って舞う女の形である。(中略)。男が稲魂を被って舞うのは年である」と解説する。また、同書は[]の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形(かけい)の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿をいう。同じく禾形の作りものを被って舞う男を年というので、同じ構造法の字であり、男女が稲魂に扮して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は21回~今回の23回をもって――卑弥呼は倉頡が創った[]の字源・字義の「稲魂を被って舞う男女の姿」をあらわすため、11番目の「伊邪(いや)国」から20番目の「華奴蘇奴国」までの10ヵ国の小国名をもって、白川静著『字統』が「[]は稲魂を被って舞う女の形」と解説する「女性グループ」に分類して、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と表示するようにした事実――を証明した。
 ゆえに、次回からは――21番目の「鬼()国から30番目の「狗奴(くな)国」までの小国名をもって、卑弥呼は白川静著『字統』が「[]は稲魂を被って舞う男の姿」と解説する「男性グループ」に分類して、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と表示するようにした事実――を、詳細に解説し証明する。
 したがって、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が17回~20回までで詳細に証明し解説した1番目の「対馬(つしま)国」から10番目の「巳百支(じはき)国」までの10ヵ国を、卑弥呼は「邪馬壱(やまい)グループ」に分類したことになる。というのも、対馬国から狗奴国までの10ヵ国は――倉頡が創った[]の字源・字義をうけつぐ、国号の[]の源・字源をあらわすとともに、[]の字源・字義の中核となった「邪馬壱」という語源を表示するものであったからである。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は――卑弥呼は倭人国の30ヵ国を10ヵ国ずつ3つのグループ、つまり(1)「邪馬壱グループ」・(2)「女性グループ」・(3)「男性グループ」に分類して、倭人国の政権基盤は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】であると定めた――と記述する書物であった。
 他方、新井白石以来現在まで約300年間も学者たちが受け継いで主張する「邪馬台国」について説明する記事は、『魏志倭人伝』には1ヵ所も存在しない。
 だから、邪馬台国説は根拠無しの完全なる空理空論、真っ赤なウソ・欺瞞(ぎまん)・デタラメであったのは否定できない確かな事実となる。
 【1】邪馬台国説が空理空論であった事実と、【2】『魏志倭人伝』は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する歴史書にして学術書であった事実は、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない方法によって科学的に証明できる。
 邪馬台国説をとなえる学者たちは【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽)・詭弁(きべん)】を駆使(くし)して、『魏志倭人伝』に記述された真実、言いかえると日本人の血と肉となった学術と、日本人の花咲く尊厳と、日本人の花咲くいのちと魂と精神を凌辱(りょうじょく)して――『魏志倭人伝』に記述された日本人の血と肉となった学術と、日本人の花咲く尊厳と、日本人の花咲くいのちと魂と精神を、消滅しようとして躍起になっている。
 その証拠に、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解する方法にのっとって思考すれば、『魏志倭人伝』は1ヵ所も【誤読(文献批判)】を必要としない正確無比の書物であった事実が証明される。にもかかわらず、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解する方法にのっとって思考する学者はわが国には一人も存在しない。

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2021年6月20日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・22

▼このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回まで、毎回証明してきたように、神に誓って――『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説を唱える学者たちが主張する「邪馬台国研究」のための史料ではない! 
 『魏志倭人伝』は現在の学者たちの誰一人も想像しない【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に伝える書物であった。だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国説研究」の史料ではなかった。
 九州説と畿内説を主張する学者たちは【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽)・詭弁(きべん)】をもって、世界的に第一級の重大な文献史料である『魏志倭人伝』を嬲(なぶ)り弄(もてあそ)び凌辱(りょうじょく)して抹殺(まっさつ)しようとしている。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひたすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
 新井白石(16571725)以来、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」と【誤読の空論・詐偽・詭弁】をもって、約300年間も『魏志倭人伝』を凌辱し・蔑視(べっし)しつづけている――このような『魏志倭人伝』に対する凌辱は、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)をもって抹殺(まっさつ)されると同じ酷(ひど)い仕打ちであると言わざるをえない。だから、冤罪で抹殺されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な抹殺されてはならない真実】は日本人ならば当然まもらなければならない義務であり責務となる。
 だから、このブログでは、九州説と畿内説は【漢字の起源を伝える歴史の真実】を凌辱する空理空論・妄想(もうそう)だった事実を徹底的に科学的に証明して暴露する。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・31

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の真相】を知るためには――当然、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的にはもはや虚妄(きょもう)・空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》であった。《わが国が夏代初頭に習得した夏音(かおん)文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空理空論ということになる。
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 上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「後(のち)、稍(やや)夏音を習う」と伝えた――という記事がある。この遣唐使が告げた言は「壬申の乱の後、稍々(少しだけ)習う、つまり復興する」と意味した。702年の時点では『古事記』上巻に「稍々、夏音文字を習う」予定であったが、10年後の712年に成立した『古事記』上巻には〔音〕という注がついた夏音文字が多数記載されている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説は、【1】古事記』上巻に多数の夏音文字が習い・蘇(よみがえ)って残されている事実と、【2】音韻学の成果に反する空論・妄想であったのである。
 ――わが国は今から約4000年前の後期縄文時代初頭に夏音文字を習得していた。その証拠に、712年に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を詳細に正確に伝える夏音文字が多数残っている。ゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と断定する学界の絶対的定説は、学者たちの早合点(はやがってん)の産物・空理空論であったのである。

◆漢字は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した 黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
 【倉頡が漢字を発明した学術の詳細】は、現在、漢字が起源した中国において解明されていない。
 わが国においては、江戸中期に生存した新井白石(16571725)が唱えた邪馬台国説によって【倉頡が漢字を発明した学術】は解明できない状況となった。
 新井白石の以前には、厳重な機密のもとに皇室はじめ、高僧たちや学問を尊重する一部の名家・氏族によって【倉頡(そうきつ)が漢字を発明した学術】は受け継がれて存在していた。この【倉頡が漢字を発明した学術】は【倉頡が定めた掟】にもとづいて厳重の機密とされた。さらに、【倉頡が漢字を発明した学術】は皇室・高僧・名家の権力、名誉、財力、徳性(理性・知性)を手に入れる特権階級基盤であった。(要するに、【倉頡が発明した漢字の学術】は現在の大会社が大会社たる財力・特権基盤となる【特許】よりも、もっと強大な威力を有していた)。ゆえに、【倉頡が漢字を発明した学術】について厳重な機密にして明確にしないことが、自分たちの「特権階級」をまもることができる方法であった。だから、学者たちによる虚偽説が出現しても正すことをせず、虚偽説を放置・無視してただひたすら沈黙を貫(つらぬ)いて、【倉頡が発明した学術】の存在を学者たちに知られないようにひた隠しにした。これゆえ、わが国には【倉頡が漢字を発明した学術】は実在するものであったが、時代が下ることに学者たちによって「わが国が漢字を初めて習得したのは中国の南北朝時代から隋代初期(5世紀あるいは6世紀)である」と錯覚・虚偽説が強まって流布されようになったため、【倉頡が漢字を発明した学術】は存在しないかの様相(ようそう)となった。この学者たちの錯覚・虚偽説の伝統を受け継いだ新井白石が邪馬台国大和説をとなえ、また後年に邪馬台国九州説をもとなえた。この新井白石から始まる空理空論の邪馬台国説は、学者たちによって「『魏志倭人伝』に始めて学問的検討を加えられた」と信仰されることになった。この信仰のため、学者たちには『魏志倭人伝』はじめ『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに記載されて残った最古の漢字音が残った夏音文字の学芸に【倉頡が漢字を発明した学術】が保存されている事実が感知することも察知することもできなくなった。
 だから、新井白石以後に学者たちが立論した約300年間の邪馬台国説による【『魏志倭人伝』に多数の誤読・作為・捏造(ねつぞう)を加える空論・反()学術運動】によって【倉頡が発明した漢字作成理論】は排除されて闇に葬られることになった。
 しかし、『魏志倭人伝』には【倉頡が発明した漢字作成理論】、いいかえると【漢字が起源した歴史と事情】が理路整然(りろせいぜん)と説明されている。
 だから、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。
 というのも、【漢字の起源の秘密】は『魏志倭人伝』に卑弥呼が理路整然と【倉頡が発明した漢字作成理論】について説明し、また中国の海岸線の約3倍にして細密なわが国の海岸線に明確に保存されているからである。したがって、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すれば【倉頡が発明した漢字作成理論】は鮮烈に蘇(よみがえ)る。

◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
 一つ目の記事は、【134字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
 二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津()では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。
 上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説学者たちによって無視され排除された。
 このため「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が定説となった。
 したがって、もしも学者たちが『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに忠実に読解していれば【倉頡によって発明された漢字作成理論】が科学的に解明できていたことになる。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に気づいていれば――『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然と説明されている書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期の漢字】は【文字作成銀河各部の形状】となった。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員にも神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 現在においても、《今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は【1】《文字作成銀河の各部の形状》と、【2】《中国の海岸線地図》と、【3】《日本列島各部の地図の形》によって成立する。また、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。
 しかし、黄帝時代(今から約5000年前)以前の約6000年前から始まる三皇(さんこう)時代には、黄帝が研究した医学をあらわすことができる漢字は発明されていなかった。したがって、倉頡が漢字作成する目的は【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字を考案すること】であった。倉頡は【文字作成銀河(夏の銀河)の各部の形状と中国全土を包む海岸線の地宜(ちぎ/地図の形)を字源・字形・字義とする漢字】を創()くって、【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字の発明】に成功した。〔注 倉頡が創った始原漢字は「書契(しょけい)」と名づけられた〕。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体して誕生した学問(学術)】であった。
 わが国には、倉頡が漢字を発明した黄帝時代から約1000年後の、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が伝来して習得された。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸が習得された歴史】は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回・5回と14回・15回の4回で詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』の中半に登場する「女王国より以北の名称不明の海上に浮かぶ皆倭種なりの一小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国、この4小国の東南に所在して船行一年にして参問(さんもん)できる、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」と説明する76字の記事は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した歴史】を記述するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』には、34ヵ国の小国が登場する。
 上記した4小国以外の対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。要するに、黄帝が作った医学書『内経』は残っていないが――卑弥呼は30の小国名をもって理路整然と『内径』にて説明されていた医学知識を復興して説明することにした。というのも、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤として倭人国を支配し統治するものであったからである。このため、卑弥呼は30の小国名をもって【黄帝がつくった医学書『内径』で説明された研究成果と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然とあらわす学術体系を構築(こうちく)した。
 したがって、『魏志倭人伝』に列記された対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名によって――黄帝がおこなった主なる医学研究は「子どもの出産と女性の生殖器官」であった――という事実が明確となる。
 つまり、卑弥呼は――対馬国から狗奴国までの30ヵ国の各小国の地宜と原初漢字(つまり、字源・字形・字義となる文字作成銀河各部の形状)が合理となるように――各小国名を定めて、【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明できる一つの統合体組織論を考案して「倭人国」という国家と王朝を創設した。
 だから、卑弥呼の30ヵ国の小国名の理路整然とした統合体組織論の説明によって、【黄帝が作った医学書『内経』で説明された主なる医学研究は「子どもの出産と女性の生殖器官」】であったことが明確となる。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体して生まれた学問(学術)】であったことは、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すると一点の矛盾点もなく系統的な合理が構築されて手に取るように明白となる。この証明は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(21)までにおいて、詳細に具体的に科学的におこなってきた。
 前回では21番目国の鬼()国と12番目の都支(たき)国の小国名と地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「黄帝の男性の生殖細胞の精子と女性の生殖細胞の卵子についての考え」をあらわすものであったことを詳細に解説して証明した。

◆わが前回のブログの末部にて、12番目の都支国(旧国志摩をのぞく、現在の三重県)13番目の弥奴(みな)(旧国の尾張、現在の愛知県西部)の両国は、[]の字源「カンムリカイツブリ」で共通することを指摘した。
 下に、21番目の鬼国と12番目の都支国と13番目の弥奴国、また14番目の好古都(こかた)(旧国の三河、現在の愛知県東部)15番目の不呼(ふこ)(旧国の遠江、現在の静岡県西部)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)と範囲を示した。
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 12番目の都支国と13番目の弥奴国の両国における[]の字源「カンムリカイツブリ」の共通性について前回のブログと重複(ちょうふく)するが、これから要約して説明することにする。
 黄帝陵(こうていりょう)、つまり黄帝を祭る廟と墓は北緯3535分に位置する。
 〔注 わがブログは前回(21)まで、黄帝陵の緯度を北緯3536分と記していた。しかし、あらためて調査すると、北緯3535分が正しいことに気づいた(1分だけ違っていた)。今回から、黄帝陵の緯度を「北緯3535分」とする〕。
 現在と卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)と漢字が起源した約5000年前の黄帝陵の天頂にめぐってきた銀河部は相違する。
 「歳差(さいさ)」という天文現象にのっとると、黄帝時代の黄帝陵(北緯3535)の天頂にめぐってきた銀河部を算出して再現することができる。
 下の銀河図に、(1)卑弥呼時代と(2)現在における黄帝陵の天頂にめぐってきた緯度線を表示した。
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 下に配した上図に、黄帝時代に黄帝陵(北緯3535)と、中国南部の太湖(たいこ)南岸(北緯31)の天頂にめぐってきた緯度線を表示した。
 下に配した下図は、黄帝が研究した女性の生殖器官の正面形図である。
 上図に示すように、黄帝陵の天頂緯度は()西の「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)の北端」から約1度の北の銀河部と、()東の「十字の銀河の頭部中央」に支(わか)れる。ゆえに、卑弥呼は「都(黄帝陵)の天頂緯度線が西と東に支れる」ということで「旧国の志摩を除く、現在の三重県」の小国名を「都支国」と定めた。
 黄帝は、下に配した下図における女性の生殖器官における左右一対の「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)と卵巣(らんそう))を「都(黄帝が居住する本拠地・黄帝陵付近の地域)の天頂」に見立てて、「目に見えない、微小の精子と卵子の象(かたち)」を想像した。
 つまり、黄帝は目に見えない・微小な「男性の生殖能力(今日でいう生殖細胞)と女性の生殖能力の象(かたち)」は、「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリのような象」をしていると想像した。
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◆「北天の最輝部」というのは、国際的天文学における名称である。「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」ということである。「北天の最輝部」は「美しい朱鷺色(ときいろ)あるいは桃色をおびて、銀白色に輝く」ゆえ、「銀河」または「銀漢」の語源となった。
 下に、「北天の最輝部」を示した。
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 下に図示したように、「銀白色に輝く、北天の最輝部の形」を、黄帝は「情熱的な求愛ダンスをするときのカンムリカイツブリのオスとメスが水面に対して直立姿勢となって足でバチャバチャと動かして水飛沫(みずしぶき)を浴びる姿に相似する」と見立てた。ゆえに、黄帝は「目に見えない微小な精子と卵子の象」は「求愛ダンスをするオスとメスのカンムリカイツブリの姿に相似する象をしている」と推定した。というのも――カンムリカイツブリの顔とノドは白く、頸(くび)以下の体下面は「北天の最輝部」のごとく銀白色に輝く。ゆえに、黄帝は「精子と卵子の象」は「北天の最輝部の形」のごとく、また「カンムリカイツブリのオスとメスのごとき姿」をしていると推定したのである。
 〔注 下の図における右側の「求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの図」は、今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物綿密・生態画集】』(平凡社発行)143ページから転載した〕。
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 前述したように、今から約5000年前の黄帝時代において、黄帝陵の天頂に「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
 下に示したように、「十字の銀河の頭部」と「真上から見た、女性の骨盤」の両者は180度向きが変わるものの、その形はたがいに相似しあう。したがって、「黄帝時代の天頂にめぐってきた、十字の銀河の頭部の中央の穴(暗黒天体部)」は「女性の骨盤口(骨盤腔/骨盤入口と骨盤出口)」の形に相似する。
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 下に、「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリの図」を示した。
 黄帝は「十字の銀河の頭部」は「女性の骨盤」の形に相似すると見立てた。これゆえ、黄帝は「十字の銀河の頭部」は「女性の骨盤と生殖器官」と「カンムリカイツブリの巣」に相似すると見立てて、また「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」は「北天の最輝部の形」に相似すると見立てた。さらに、黄帝は「精子と卵子の象(かたち)」は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」のごとく、また「求愛ダンスするときのオスとメスのカンムリカイツブリの姿」のような象をしているにちがいないと推定した。ゆえに、黄帝は「精子と卵子の結合」を「受精(じゅせい)」と定めた。
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 下に「女性の骨盤の上から見た図」を90度転回した図を配した。
 「女性の骨盤」は、前掲(ぜんけい)した「女性の生殖器官(卵管・卵管膨大部・卵管采・卵巣・子宮・産道)などの大半」を包囲して衛(まも)る。
 女性の骨盤における「腸骨翼(ちょうこつよく)」は「恥骨結合(ちこつけつごう)」でつながって向き合う「カンムリカイツブリの一対・二羽・オスとメスのカンムリカイツブリの横顔」に相似する。
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◆前述したように、「カンムリカイツブリ」は「卑弥呼」の[]の字源・字形・字義となった。『魏志倭人伝』に登場する12番目の小国は「都支国」、13番目の小国は「弥奴(みな)国」である。これまで解説してきたように、「黄帝が〔精子と卵子の象(かたち)〕を〔[]の字源の求愛するときのオスとメスのカンムリカイツブリの姿〕に相似すると推定したこと」にもとづいて、卑弥呼は「伊勢と熊野」の小国名を「都支国」と定めた。また、「女性の骨盤の腸骨翼(ちょうこつよく)の形」は[]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似する。だから、12番目の「都支国」と13番目の「弥奴国」の両国は[]の字源「カンムリカイツブリ」で共通しあうようにして、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官」の医学研究】を理路整然と説明できるようにした。
 論より証拠に、下に配した図が示すように、13番目の「弥奴国」の「旧国の尾張、愛知県西部の地宜(ちぎ/地図の形)」は[]の字源「求愛ダンスをするときの、カンムリカイツブリの姿」に相似する。
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 黄帝の医学研究において――子宮で育つ胎児は、長い月日も羊水(ようすい)に潜(もぐ)ったまま呼吸できないにもかかわらず、なぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?――この疑問が解明できなかった。そこで、黄帝は「子宮の羊水に潜って育つ胎児」を「人間よりも長い時間水中に潜ることができるカンムリカイツブリや鳰(にお/カイツブリ)」で譬(たと)えることにした。つまり、黄帝は「子宮の羊水に潜って育つ胎児」は「カンムリカイツブリや鳰よりも羊水に長時間潜っても窒息死しない能力」を有すると考えた。だから、「カンムリカイツブリ」は[()]の字源・字義となり、「鳰」は[()]の字源・字義となった。
 カンムリカイツブリは中国の河口や沿岸部、河川、湖沼(こしょう)、湿原(しつげん)などで生息する。カンムリカイツブリは長時間潜水するゆえ「八丁もぐり」という俗称がある。わが国には冬鳥として、北海道・本州・九州・琉球などに生息する。
 鳰は頻繁(ひんぱん)に水中に潜る。全身の羽は油をよく含んで密にはえているので、体を水に浮かせ、また水中でも体は水に濡れない。鳰は最も水と深くかかわって生活し、中国・日本において一年中生息する留鳥(りゅうちょう)である。
 カイツブリ目カイツブリ科に分類される鳥類において、カンムリカイツブリの全長(4661センチとほぼ同じ全長(4661センチ)のアカエリカイツブリは、中国と日本において冬鳥として飛来する。
 また、中国と日本の冬鳥として飛来するカイツブリ目カイツブリ科に分類される鳥類には、ハジロカイツブリがいる。鳰の全長(2529センチ)、ハジロカイツブリの全長は30センチほどで鳰よりも少し大きい。
 カンムリカイツブリの頭上には緑色をおびた黒色で両側に各1個の羽冠(うかん)があり、頸の周囲には赤い褐色の房状の飾羽(かざりばね)がある。
 ハジロカイツブリの顔には美しい栗色の飾羽があり、眉の部分は橙黄色(とうこうしょく)となる。
 妊娠6か月くらいの胎児の平均身長は約30センチであるゆえ、鳰やハジロカイツブリの全長とほぼ同じとなる。
 〔注 新生児の平均身長は4452センチぐらいである。ゆえに、カンムリカイツブリとアカエリカイツブリの全長とほぼ同じである。だから、「カンムリカイツブリとアカエリカイツブリ」を黄帝は「新生児」に見立てたと考えることは禁物となる。なぜならば、黄帝は[]の字源「カンムリカイツブリの姿」は「目に見えない微小の、精子と卵子の象(かたち)のごとく」と想像したからである。〕

 上記したように、「なぜ、胎児は子宮内で長い月日、羊水に潜っていても窒息死しないのか?」の疑問は、カイツブリ目カイツブリ科に分類される鳥類で譬えられることになった。
 しかし、この譬えは「疑問を完全に払拭(ふっしょく)できない、結局、解明できない、最もむずかしい問題」ということになった。ゆえに、「むずかしい」をあらわす[]の字が作られることになった。[]の左の偏は「漢字」の[]の旁(つくり)部である。[]の右側の旁部の[(すい)]の字を、卑弥呼が始め歴史上に登場する約60年前の西暦120年頃に成立した“字書の聖典”と呼ばれて尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は「鳥の短尾なるものの總名(そうめい)なり」と解説する。鳰の尾は非常に短く、外観からはほぼ判別できない。したがって、「鳰」は[]を代表する小鳥であり、[]の右側の[]の字源・字義は「鳰とハジロカイツブリ」、[]の左側の字の字源・字義は「銀漢・北天の最輝部の形に相似すると見立てられた、カンムリカイツブリとアカエリカイツブリ」であったことになる。
 現在の医学においてつい最近まで、子宮内の胎児は長い月日羊水に潜って過ごしてもなぜ窒息死しないのかという問題は、黄帝同様に想像をめぐらすしかなかった。しかし、超音波検査技術の発達で子宮内の胎児の様子が観察できるようになって――胎児は必要な酸素はへその緒()と胎盤(たいばん)を通じて母親からもらっていることが判明した。胎児は肺呼吸をしていない。ゆえに肺呼吸しないから、胎児は羊水を飲んで窒息死しない。

◆前掲(ぜんけい)した〔弥奴国・尾張の地宜とカンムリカイツブリの図〕が示したように、「旧国の尾張、現在の愛知県西部の地宜」は――[]の字源「オスとメスのカンムリカイツブリが求愛ダンス(繁殖行動)するときに水面に垂直に立つ姿勢――に相似する。
 下に、「弥奴国」の[]の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の図を配した。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回で詳細に解説したように、[]の字源・原義は「子を主産するための母体のスゴイ強大な力」であった。
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 []の「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときに、オスとメスが水面に垂直に立つ姿勢」になるには[]の「強大な力」が必要となる。「尾張の地宜」は[][]の両字の字源を示す「求愛ダンスするときの、強大な力でカンムリカイツブリが直立姿勢となる姿」に相似する。ゆえに、卑弥呼は「尾張」の小国名を「弥奴国」と定めたのである。

13番目の弥奴国・尾張(現在の愛知県西部)の東の隣国の三河(現在の愛知県東部)が、14番目の好古都(こかた)国であった。
 下に配した図の右上の[()]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)について――白川静著『字統』は「女は母の形に作り、あるいは子を抱く形につくるものであって、婦人がその子女を愛好することを示す字である」と解説する。
 ゆえに、下の図が示すように、[]の字源は「十字の銀河」、[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」であったことになる。また「十字の銀河の右手(西側の手)から鬼の姿に似る銀河の頭へ垂れる帯状の銀河」は「婦人が子女の頭を撫()でて愛好する(可愛がる)様子」をあらわすイメージとなる。
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 前述した「都支国」の解説において、黄帝は黄帝が居住した本拠地(黄帝陵付近の地域)の天頂にめぐってきた「十字の銀河の頭部」を「女性の子宮と産道」に相似すると見立てた。そして、「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」を「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)と卵巣(らんそう)」に相似すると見立てた。
 下に「卵管膨大部・卵管采・卵巣の図」を配した。
 「卵管膨大部・卵管采」は「子女の頭を撫でで愛好する婦人の手」の形に相似し、「卵巣」は「婦人が撫でで可愛がる子女の頭」の形に相似する。だから、上に示した字源銀河と「卵管膨大部・卵管采と卵巣」は共に[]の字源であったことになる。
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 上記したように、「十字の銀河の頭部」は「女性の生殖器官のうちの子宮と膣(ちつ/産道)に見立てられ、「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」は「女性の生殖器官のうちの卵管・卵管膨大部・卵管采と卵巣」に見立てられた。
 したがって、「(1)十字の銀河の頭部と、(2)十字の銀河の頭部が被るカンムリ」は「女性の生殖器官」に見立てられたことになる。
 この「女性の生殖器官の正面形」は、「ジャコウウシの顔の正面形にも相似する」と見立てられた。
 『説文解字』は[]の字源を「美なり」と解説する。
 前回(21)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」でも解説したように――現在、カナダとグリーランドに生息する「ジャコウウシ」は氷河時代には、はるか南までを生息地域とし、約5000年前は黄帝が居住した本拠地(黄帝陵)周辺地域に生息していた。この「ジャコウウシ」は【倉頡発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 というのも、「ジャコウウシ」は天敵のオオカミに襲われると子どもを真ん中に隠し、百頭余りの群れが中央に背をむけて円陣を組んで防衛するゆえ、「ジャコウウシ」は「女性生殖器を包囲して衛(まも)る骨盤」と「女性の生殖器官」に見立てられたからである。
 下の図が示すように、「女性の生殖器官の正面形」は「ジャコウウシの顔の正面形」に相似すると見立てられて[]の字源となった。
 黄帝は「左右一対の卵管・卵管膨大部・卵管采」を「ジャコウウシの左右一対の角(つの)」に相似すると見立てた。また黄帝は「左右一対の卵巣」を「ジャコウウシの両耳」に見立てた。また黄帝は「子宮と膣(ちつ/産道)」を「ジャコウウシの顔」に見立てた。
 だから、「ジャコウウシの顔に似る女性の生殖器官」は[]の字源・原形・原義となった。
 これゆえ、『説文解字』は[]の字源「ジャコウウシの角と耳に相当する卵管膨大部・卵管采と卵巣」について「美なり」と解説したのである。
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 つまり、「うまい」が後世「美味い」と表記されることになった訳(わけ)は「ジャコウウシの肉を食べるとうまかった」からである。そして、「うつくしい」を「美」の字で表示されることになった訳は「黄帝が居住した本拠地(黄帝陵周辺地域)、つまり都はうつくしかった」と表現されることになったからである。あるいは「うつくしい」を「美」という漢字で記すことになった訳は「黄帝が居住した本拠地・都の天頂付近にめぐってきた“北天の最輝部”はうつくしい、また天頂にめぐってきた“十字の銀河の頭部とその頭部が被るカンムリの銀河”もうつくしい」ということであったことになる。
 下の図に示すように、「三河の地宜」は鳰(にお/カイツブリ)より少し大きい「夏羽のハジロカイツブリの姿」に相似すると見立てられた。
 というのも「渥美(あつみ)半島の南部」は「扇状(おうぎじょう)にひろがる金栗色(きんくりいろ)の美しい、ハジロカイツブリの飾羽(かざりばね)がある顔」に見立てられたからである。
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 下の図に示すように、「夏羽のハジロカイツブリの飾羽」は「女性の生殖器の卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)の形」に相似する。「卵管膨大部・卵管采が、卵巣(らんそう)を撫でるように見える形状」は、前述した[]の字源「婦人が子女の頭を撫()でて愛好する(可愛がる)様子」をあらわすイメージとなる。
 これゆえ、前述したように――黄帝は黄帝が居住した本拠地(黄帝陵付近の地域)の天頂にめぐってきた「十字の銀河の頭部」を「女性の子宮と産道」に相似すると見立て、「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」を[]の字源「卵管膨大部・卵管采と卵巣」に相似すると見立てた。
 ゆえに、「好古都国」の「古都」は「黄帝が居住した本拠地(黄帝陵付近の地域)」であったことになる。というのも、上記したように――黄帝が「子宮と産道」に見立てた「十字の銀河の頭部」が天頂にめぐってきた「黄帝が居住した本拠地」が「好古都国」の「古都」であったと考えるべきことになるからである。
 以上のごとく、卑弥呼は「黄帝の医学研究」と「三河の地宜」にもとづいて、「三河」の小国名を「好古都国」と定めたのである。

◆好古都国・三河の東の隣国は、遠江(とおとうみ)・現在の静岡県西部である。
 ゆえに、14番目の好古都国の次の15番目の「不呼(ふこ)国」は「遠江」であった。
 『説文解字』は「不呼国」の小国名に用いられる[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり」、つまり「鳥・[]の字源「カンムリカイツブリ」が地上を飛び立って空を飛び下()りて来ないで去る」と解説する。
 いっぽう、白川静著『字統』は[]の字源に就いて――否定・打消しの「ず」に仮借(かしょく)して用いる。もと象形(しょうけい)で花の萼柎(がくふ)の形であるが、その義に用いられることは殆(ほとん)どなく、その本義には柎()などを用いる――解説する。
 黄帝は〔女性の生殖器官の正面形〕は〔花の生殖器官〕に類似すると見立てた。
 下に〔女性の生殖器官の正面形の図〕は〔花の生殖器官の図〕を配した。
 黄帝は「女性の卵管」は「花の花糸(かし)」に相似し、「女性の卵管膨大部・卵管采」は「花のおしべ」に相似し、「女性の卵巣」は「花のめしべ」に相似すると見立てた。ゆえに、黄帝は「おしべの花粉がめしべに付着する様子」から「卵管・卵管膨大部・卵管采を通過する精子が卵巣の卵子にむすびついて受精(じゅせい)となる」と考えたことになる。
 ゆえに、「女性の子宮」は「花の子房」に相似し、「子宮に宿る胎児」は「花の胚(はい)のう」に相当する。
 しかし、「女性の膣(ちつ」は「出産児が通過する産道」であるのに対して、「花の萼柎」は「花冠(かかん/花弁の集まり)をささえる台(うてな)」であるゆえ、両者は相似しない。
 だから、[]の字形「花の台・萼柎」を表現する図案となり、否定・打消しの「ず」をあらわすことになったのである。
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 下の図の右上に「転回方位」と示しているように――下の図は「倭国」の[]の字源「時計回りに90度方位を転回して西→北・北→東とする規定」にもとづいている。
 下の図に示す「遠江の浜名湖の地宜」は「花冠(かかん/花弁の集まり)の形」に相似すると見立てられた。
 「浜名湖の地図の形」を「花の形」に見立てると、[]の字源「花の台(萼柎)」は「浜名湖の支湖(しこ)の引佐細江(いなさほそえ)」となる。
 〔注 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)と現代の浜名湖の地図の形は少し異なる。現代の浜名湖は外海(そとうみ)と通じる汽水湖(きすいこ)であるが、卑弥呼時代の浜名湖は近江・滋賀県の琵琶湖と同じく外海と通じていなかった。というのも、1498(明応7)825日の大地震のため、遠江国の荒井崎(あらいざき/現在の静岡県浜名郡新井町の今切)が破壊されて外海と通じることになったからである〕。
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 下に配した図は、現在の北を下、南を上にする、上南・下北図である。
 下の図に示したように――[]の字源「花の台」の形をして「引佐細江」の西岸の「寸座岬(すんざみさき)」は「人の鼻の形」となる。このため、「寸座岬より南()の大崎半島の付け根までと北()の引佐細江の北端までの形」は「人の横顔」に相似する。
 『説文解字』は「不呼国」[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。
 下の図における「寸座岬より北側()の引佐細江の西岸」は「人が息を外()く口」に相当して、[]の字源をあらわす。引佐細江の北岸中央には都田川(みやこだがわ)の河口がある。「都田川の河口は上流から流れてきた水が外へ吐()き出す口」となる。ゆえに、「都田川の河口」も[]の字源をあらわす。
 都田川の河口の南にある「村櫛(むらくし)半島」は「長い人の顔」に相似するゆえ、「舘山寺(かんざんじ)の地宜」は「鼻」に相似し、舘山寺は東方の「内浦の地宜」は「人が息をはく口の形」となる。だから、「内浦」も[]の字源をあらわした。
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 上の図が示すように、[]の字源「花の台(萼柎)」に見立てられた「引佐細江」と、[]の字源「息を外くなり」の地宜となる「引佐細江周辺の湖岸の地図の形」によって、「不呼」ということになる。
 しかし、上の図に示した【1】「引佐細江周辺の湖岸」の[]の字源地宜と、【2】「花の形に相似する浜名湖」が[]の字源を示すゆえ、卑弥呼はむしろ【2】に注目して「遠州」の小国名を「不呼国」と定めたと考えられる。
 「浜名湖」が【2[]の字源を表示することになった解説・証明は、後述する。

◆前述したように――12番目の「都支(たき)国」の「都支」は、要するに「都(黄帝が居住した本拠地・黄帝陵数編地域)が“北天の最基部”と“十字の銀河の頭部”とに支(わか)れる」ということであった。
 ゆえに、13番目の「弥奴国の地宜」は「北天の最輝部」に見立てられて「都支」を表示することになり、14番目の「好古都国」の「古都」は「十字の銀河の頭部」をあらわして「都支」を示すゆえ、都支国と弥奴国・好古都国は「都」という共通点を有することになった。
 また「弥奴国の地宜」は[]の字源「カンムリカイツブリの姿」に相似し、「好古都国の渥美半島南端」は[]の字源「卵管膨大部・卵管采が卵巣を撫()でて愛好する様子」に「美しい金栗色の飾羽(かざりばね)を有するハジロカイツブリの横顔」に見立てられた。これゆえ、「弥奴国」と「好古都国」の両小国は「カイツブリ目カイツブリ科に分類された鳥」で共通する。
 15番目の不呼国は、都支国・弥奴国・好古都国の共通点「都支」つまり「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」で共通する。黄帝は――「目に見えない微小の精子と卵子の形」は「求愛ダンスをするときの、オスとメスのカンムリカイツブリの姿」のごとくであると推定した。また、黄帝は「求愛ダンスをするときの、オスとメスのカンムリカイツブリの姿」は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」の形に相似すると推定した。
 下に配した上図は、「都支の銀河部」とされた〔都の天頂にめぐってきた西の「北天の最輝部」と、都の天頂にめぐってきた東「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」の図〕である。前述したように、黄帝は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部とその頭部が被るカンムリ」を「女性の生殖器官」に相似すると見立て、さらに「女性の生殖器官」は「花の生殖器官の形」に類似すると見立てた。下に配した下図は〔花の生殖器官図〕である。
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 卑弥呼は「浜名湖と引佐細江(浜名湖の支湖)」を黄帝が「女性の生殖器官に類似すると見立てた、花の生殖器官」に見立てたゆえ、「遠江」の小国名を「不呼国」と定めた。
 ゆえに、14番目の「好古都国」の「古都」が表示する「女性の生殖器官」と15番目の「不呼国」の[]の「花の生殖器官」は「生殖器官」で共通する。
 また、12番目の都支国、13番目の弥奴国、14番目の好古都国、15番目の不呼国の4小国は黄帝が「都支の銀河部」の形に相似すると見立てた「女性の生殖器」と、また黄帝が「女性の生殖器官」に類似すると見立てた「花の生殖器官」で密接に関連する。
 15番目の「不呼国・浜名湖の地宜」は「花の形」に相似し、「花の蜜を吸って生息する昆虫」は「蝶」である。ゆえに、16番目の「姐奴(つな)国の地宜」は「蝶の成虫の姿」に相似し、17番目の「対蘇(つさ)国の地宜」は「蝶の幼虫と成虫の姿」に相似し、18番目の「蘇奴(さな)国の地宜」は「蝶の幼虫の姿」に相似して、15番目の「不呼国・浜名湖の花の形」と密接に関連するように――『魏志倭人伝』には小国名の順序が理路整然となるように列記されている。
 このように、卑弥呼は小国名をもって【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。
 『魏志倭人伝』に列記された対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名によって――黄帝がおこなった主なる研究は「女性の生殖器官と子どもの出産」であった――ことが明確となる。
 卑弥呼は――対馬国から狗奴国までの30ヵ国の各小国の地宜と小国名に用いられる漢字の字源が合理になるように――各小国名を定めて、【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然と説明できる統合体組織論を考案して「倭人国」という国家と王朝を創設したのである。
 だから、上記したように、卑弥呼の30ヵ国の小国名の理路整然とした統合体組織論の説明によって、【黄帝が作った医学書『内径』で説明されていた主なる内容は「女性の生殖器官と子どもの出産」】であったことになる。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回において、「不弥(ふみ)国」について詳細に解説して証明した。この「不弥国(九州の宗像地方)」の解説において、「不呼国・遠江」の[]の字源は「鳰(にお/カイツブリ)であると証明した。
 「鳰」は16番目から18番目までの3カ国、つまり「姐奴国・対蘇国・蘇奴国」の3カ国の小国名があらわす「蝶」とは関連しない。
 それゆえ、卑弥呼は「不呼国」という小国名で「花」をあらわし、16番目の「姐奴(つな)国」から以降の17番目の蘇奴(さな)国・18番目の対蘇(つさ)国・国20番目の華奴蘇奴(かなさな)国は「蝶の地宜の国々」とさだめて、卑弥呼は「花と蝶」という密接な関係を表示することにした。〔なお、19番目の呼邑(こお)国は「花の地宜」の小国である〕。
 しかし、15番目の「不呼国」の[]字源「鳰」は、13番目の「弥奴国」の「弥奴」の「カンムリカイツブリ」と、14番目の「好古都国」の[]の字源「ハジロカイツブリ」と共通する。つまり、三小国名は、共に「カイツブリ目カイツブリ科の鳥の種類」である。
 ゆえに、わがブログの19回にておこなった「不呼国」の詳細な解説・証明と一部分だけ重複(ちょうふく)することになるが、できるだけ簡約して「不呼国」の[]の字源「鳰」について、これから解説することにする。

 前述したように、『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。
 下に配した図における「杭州湾(こうしゅうわん)」には「銭塘江(せんとうこう)を流れてきた水が河口から杭州湾へ外き出される」ゆえ、『説文解字』の[]の「息を外くなり」に符合するため、「杭州湾」は[]の字源であった。
 そして、下の図に示したように、「杭州湾の地宜(地図)の形」は「水面に浮かぶ鳰の姿」に相似する。だから、「鳰」は[]の字源となった。
 このように、[]の字源は「杭州湾の地宜」と「鳰」であった。
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 下に配する〔杭州湾の東の外海を上にする地図〕にすると「杭州湾」は「遠江の浜名湖」と同様に「花冠(かかん/花弁の集まり)の形」に相似する。ゆえに、「銭塘江の河口に近い、杭州湾の奥(西部)」が[]の字源「花の台(萼柎)」となる。
 だから、卑弥呼は【1】「浜名湖の地図の形」を「花冠の形」に見立てて、また、前述した【2】「引佐周辺の湖岸の地宜」が[]の字源を示すゆえ、「遠江」の小国名を「不呼国」と定めたことになる。
 〔だから、「花の形の杭州湾」は[]の字源であったゆえ、上記したように、19番目の呼邑国は「杭州湾の形に似て、花の形をした地宜の国」であったことになる。〕
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 下に〔[]の字源地宜「引佐細江」と引佐町の金指・井伊谷地区の図〕に配した。
 浜名湖の支湖の「引佐細江の地宜」は[]の字源「花の台(萼柎)」の形をしている。この「引佐細江()」の北側は、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)である。
 「細江町の行政区域を表示する地図の形」を、わたくしは「卑弥呼の地上絵」、または「建比良鳥(たけひらどり)の地宜」と名づけた。というのも「卑弥呼の地上絵」は、不呼国・遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族が、卑弥呼が死去した240年頃から約20年後の260年頃~290年頃の約30年間を費やして作製した1千万坪の大鳥の地上絵だからである。『魏志倭人伝』は280年~289年に成立したとされる。したがって、卑弥呼の死・『魏志倭人伝』の成立・卑弥呼の地上絵の作製は、たがいにわずか20年しかちがわない同時代(3世紀)の出来事であったことになる。
 このような「1千万坪の細江町の大鳥の地上絵・卑弥呼の地上絵・建比良鳥の地宜」の北側は「引佐町(いなさちょう/浜松市北区引佐町)」である。
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 卑弥呼の死から約20年後から着手されて約30年間の月日をかけて作製された「1千万坪の大鳥の地上絵・細江町」の北側の「引佐町の金指(かなさし)と井伊谷(いいのや)地区」は「鳰(にお)の横顔と浮巣(うきす)の形」に設計されている。
 つまり――「引佐町の金指・井伊谷の地宜」が[]の字源「鳰」をあらわし、引佐町に隣接する「細江町は1千万坪の大鳥の地上絵である」ゆえ――「花の萼柎の形」をした浜名湖の支湖は「引佐細江」という名称にしたと示している。だから、「1千万の大鳥の地上絵」を作製した豪族・建比良鳥命は「引佐細江の地宜」の[]の字源と、「引佐町の金指・井伊谷の地宜」の[]の字源で、「遠江」の小国名は「不呼国」であったと証言している。
 下に〔引佐町の金指・井伊谷の地宜(上図)と鳰と浮巣(下図)の図〕を配した。
 下の図が示すように、「引佐町の金指・井伊谷の地宜」は「卑弥呼」の[]の字源「鳰」をあらわして「鳰の顔と浮巣の形」に、建比良鳥命は設計した。鳰は水草の茎(くき)を支柱(しちゅう)にして、草の茎や葉などで浮巣をつくる。[]の字源「杭州湾」の[(こう)]の字義「くい」は「浮巣をつくるときの支柱となる水草の茎」を「杭」と解釈するものであった。ゆえに、下の図における上図の金指地区の鳰の嘴(くちばし)は「水草の茎()をくわえる形」に、建比良鳥命は設計した。
 だから、『魏志倭人伝』と同時代に建比良鳥命が作製した「卑弥呼の地上絵・細江町の大鳥の地上絵」によって、「不呼国」の[]の字源は「花の形をした杭州湾」と「鳰」であった事実が証明される。
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◆下の図に示すように、細江町の大鳥の地上絵・建比良鳥の地宜は【1】「東部の両翼を有する大鳥の地宜」と、【2】「中央の出産児の地宜となる、都田川の沖積平野(ちゅうせきへいや)」と、【3】「象の頭と鼻の形に似る地宜」の三種類の地宜で組織されている。
 【1】「東部の両翼を有する大鳥の地宜」は()[]の字源「海抜〇(ゼロ)メートルの中国の海岸線」をあらわし、また、()[]の字源「カンムリカイツブリ」の形をした海岸線・地宜、つまり「山東半島の付け根から南北に伸びる海岸線はカンムリカイツブリの両翼をひろげた形」となる。また、前述したように、下の図における右上の引佐町の金指・井伊谷の地宜は()[]の字源「鳰の顔と浮巣に設計される地宜」となる。
 だから、「細江町の大鳥の地上絵・建比良鳥の地宜」には[][][]の字源をあらわす「中国海岸線の形」が設計されている。
 ゆえに、わたくしは「[][][]の字源をあらわす、1千万坪の細江町の地図の形」を「卑弥呼の地上絵」と名づけることにした。
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 上の図における【3】「象の頭と鼻の形に似る地宜のおける鼻息」、つまり「時計まわり西→北へ方位を90度転回させる象の鼻息」で「1千万坪の大鳥の地上絵」を動かすと――下に示した2図のうちの上図のごとく「1千万坪の地上絵の頭部()」は「反時計回りに、南(南東)→東」へ転回する。この反時計回りに〔南〕に位置した頭部()が〔東〕を向くようになる上側の「卑弥呼の地上絵」は、下側の図の「中国の全土を弥綸(びりん/洩れなく包む)する海岸線」(つまり、中国の海岸線地図)」に相似する。
 だから、「1千万坪の細江町の地上絵(卑弥呼の地上絵)」には、[][][]3字の字源をあらわす「中国の海岸線の形」が設計されていることになる。
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 上図の[][][]3字の字源を設計した「1千万坪の細江町の大鳥の地上絵」は――【1】卑弥呼時代において倭人国では正確に地図が作製できた、【2】また、卑弥呼王朝は精密な中国海岸線の地宜(地図の形)を知っていた、【3】そして、【正確な地図作製方法と精密な中国海岸線地図】は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】とともに習得された――という日本古代史における学問史が科学的に証明できる重大な地図遺跡である。
 このような【1】【2】【3】の詳細の証明は、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の先頭にて、「四千年前に日本には漢字が伝来した」というタイトルを表示して、紹介した『日本四千年の学問史』という書名の無料版電子書籍にて詳細に解説して証明した。
 また、【1】【2】【3】の詳細の証明は、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」より前にて紹介した――kindle版『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』に詳細に解説して証明した。この二冊とも読まなくても、二冊のいずかの一冊を読めば、【1】【2】【3】の秘密を詳細に解説して証明した。なお、両書はともに1000円である。

◆いままで解説し証明してきたように――卑弥呼は30の小国における隣国同士の小国名と地宜をもって【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究における共通点】で結びつけて、理路整然と【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明するようにした。
 その証拠に、このブログ20回で11番目の「伊邪国・旧国丹波の地宜」は「女性の生殖器管を包囲する骨盤の正面形」に相似することを証明した。ゆえに、12番目の「都支国・旧国伊勢と熊野の地宜」は「女性の生殖器官における卵管采・卵管膨大部と卵巣」をあらわす小国名となる。ゆえに、両国は「女性の生殖器器官」で共通する。
 13番目の「弥奴国・旧国尾張の地宜」の[]の字源「カンムリカイツブリ」であり、黄帝は――黄帝が居住した本拠地・都の天頂付近にめぐってきた「北天の最輝部」は[]の字源「カンムリカイツブリの姿」に相似する――と見立てた。そして、黄帝は――「卵管・卵管膨大部・卵管采と卵巣がむすびついて受精(じゅせい)される、精子と卵子の象(かたち)」は「求愛ダンスをするときのオスとメスのカンムリカイツブリの姿」に相似する――と推定した。
 14番目の「好古都国・旧国三河の地宜」の[]の字は「ハジロカイツブリの顔にある飾羽(かざりばね)」を示した。「好古都国」の「古都」は「黄帝が居住した本拠地・都」が「古都」であり、また、[]の「ハジロカイツブリの顔の飾羽」は「女性の生殖器官における卵管膨大部・卵管采が卵巣を愛撫する様子」に相似することを示し、黄帝は――卵管・卵管膨大部・卵管采を通過した精子が、卵巣の卵子とむすびついて「受精する」と考えた――と、「好古都国」という小国名は伝えている。
 だから、13番目国の「弥奴国」と14番目の「好古都国」は(1)「黄帝が居住した本拠地(黄帝陵周辺地域)・都」と、(2)「卵管膨大部・卵管采と卵巣」と、(3)「カイツブリ目カイツブリ科の鳥の種類」の3点で共通する。
 15番目の「不呼国」という小国名の[]の字源「花の台(うてな/萼柎)」は「浜名湖の支湖・引佐細江の地図の形」となる。「不呼国」の[]の字源地宜は「浜名湖」である。というのも、「浜名湖」は「中国南部の呉の、杭州湾」と同様に「花の形」となるからである。そして、「不呼国」と小国名は――黄帝は「花の生殖器官」と「女性の生殖器官」は類似すると考え、「おしべの花粉がめしべに付着する様子」から「精子と卵子による受精」のヒントにした――と表示するものとなる。ゆえに、15番目の「不呼国」と13番目の「弥奴国」と14番目の「好古都国」は「黄帝の〔女性の生殖器官の医学研究〕」で共通する。
 15番目の「不呼国」は「花の形をした浜名湖と支湖の引佐細江の地宜の小国」であったゆえ――16番目の「姐奴(つな)国の地宜」は「花の蜜を吸う蝶の成虫」に見立てられた。また、17番目の「対蘇(つさ)国の地宜」は「蝶の成虫と蛹(さなぎ)の姿」に相似すると見立てられた。また、18番目の「蘇奴(さな)国の地宜」は「蝶の幼虫や蛹の形」に相似すると見立てられた。19番目の「呼邑(こお)国」は[]の「花の形をした杭州湾」に見立てられた。そして「華奴蘇奴(かなさな)国」は「花()と蝶の成虫の形」に相似すると見立てられた――ことになる。
 このように、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を発明した倉頡の漢字作成理論】を順次に理路整然と説明できるようにして各小国を定めている。
 だから、「邪馬台」の「ヤマタイ」は「大和・ヤマト」に相似するから「邪馬台国は大和」であった、「ヤマタイ」という音は九州・築後の「山門・ヤマト」という音に似ているから九州が邪馬台国であったと主張する【字音遊びの新井白石の、邪馬台国説】を信仰する畿内説と九州説をとなえる学者たちのメディアを騙し、日本国民を誑(たぶら)かそうとする行為は「日本人の根源たる命と魂と精神(理性・知性)を凌辱(りゅじょく)する、空理空論の反(非)学術運動」であったのである。
 日本人よ! 邪馬台国説には騙されるなかれ!

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2021年6月13日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・21

▼いわゆる「邪馬台国説」は日本人の根源たる精神・魂を破壊するデタラメ・サギである。邪馬台国説は真っ赤なウソであった! メチャクチャな空理空論であった!
 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回まで毎回証明してきたように――『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説が主張するごとくの「邪馬台国研究」のための史料ではない。卑弥呼が居住した女王国は「邪馬台国」ではない。『魏志倭人伝』は「邪馬壱(やまい)国」と記す。
 『魏志倭人伝』は【中国では解明できなくなった、わが国で解明できることになった漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に伝える書物であった。
 九州説と畿内説は【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽)・詭弁(きべん)】をもって、漢字の起源の秘密を具体的に理路整然と伝える『魏志倭人伝』を嬲(なぶ)り弄(もてあそ)び凌辱(りょうじょく)して抹殺する、欺瞞(ぎまん)・暴論であった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひとすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
 新井白石(16571725)以来、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」と【誤読の空論・詐偽・詭弁】をもって、メディアを騙(だま)し日本人を誑(たぶら)かしつづけている――このような『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の説明の抹消(まっしょう)は、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)をもって抹殺(まっさつ)されると同じ酷(ひど)い仕打ちをうけているとまったく同じと言わざるをえない。だから、冤罪で抹殺されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【日本人の精神・魂の根源となった・漢字の起源の真実、世界史的にも絶対に抹消されてはならない真実】は日本人ならば当然まもらなければならない義務であり責務となる。
 だから、このブログでは、九州説と畿内説は【漢字の起源を伝える歴史とその真実】を凌辱して日本を破壊する空理空論・妄想(もうそう)である――この事実を徹底的に科学的に証明して暴露することにした。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・30

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の真相】を知るためには――当然、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的にはもはや虚妄(きょもう)・空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》であった。《わが国が夏代初頭に習得した夏音(かおん)文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空理空論ということになる。
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 上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「後(のち)、稍(やや)夏音を習う」と伝えた――という記事がある。この遣唐使が告げた言は「壬申の乱の後、稍々(少しだけ)習う、つまり復興する」と意味した。702年の時点では『古事記』上巻に「稍々、夏音文字を習う」予定であったが、10年後の702年に成立した『古事記』上巻には〔音〕という注がついた夏音文字が多数記載されている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張し、ほとんどの日本人が信じる絶対的定説は、(1)『古事記』上巻に多数の夏音文字が習い・蘇(よみがえ)っている事実と(2)音韻学の成果に反する空論であったのである。

◆漢字は今から約5000年前、 黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
 現在、【倉頡によって起源した歴史】は漢字が起源した中国では解明されていない。また、わが国でも「邪馬台国説」という低劣な空理空論のために解明できないことになった。
 【漢字が起源した歴史と事情】、言いかえると【倉頡を発明した漢字作成理論】を理路整然と手に取るように明確に詳細に説明していた書物が『魏志倭人伝』であった。
 ところが、あろうことか、新井白石以後の邪馬台国説研究によって『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理】は排除されて闇に葬られた。
 でも、しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。というのも、【倉頡が発明した漢字作成原理】は『魏志倭人伝』に記述された【卑弥呼による30ヵ国の小国名に標示された理路整然とした説明】によって復興することができるからである。だから、『魏志倭人伝』の記事を忠実に読解すれば【倉頡が発明した漢字作成理論】は銀色に輝いて燦然(さんぜん)と蘇(よみが)える。

◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
 一つ目の記事は、【1】34字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
 二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。
 上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説によって無視・排除された。このため「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が定説となった。
 だから、学者たちが上記した二つの記事を注目していれば――従来の「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀~6世紀である」という絶対的定説は否定され、さらに幾人かの学者たちによる『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解する方法によって『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に最古の漢字音の夏音文字が記載されていると指摘されて「中国で解明できなくなった、【倉頡によって発明された漢字作成理論】」がとっくのむかしに解明できていたにちがいない。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に気づいていれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然(りろせいぜん)と説明されている書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 『魏志倭人伝』に記述されている【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期の漢字】は【文字作成銀河各部の形状】となった。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員にも神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 現在においても、《今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)《日本列島各部の地図の形》によって成立する。また、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆前回までわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が繰り返して詳細に解説し証明してきたように――倉頡は[()]の字を創(つく)って「黄帝の居住地(陝西省黄陵県の黄帝陵近くの地所)から見える地平線より外の、遠くの地域における方位規定を時計回りに90度ずつ転回する」と定めた。
 この[]の字源・字義をそのまま[()][()]の字は受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字の――[]の字は倉頡が創った[]の字源・字義を受け継ぐものであるゆえ、本州・日本列島の方位規定は時計回りに90度転回する――と説明していたことになる。
 現在は、「【1】対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の地図と【2】本州・日本列島地図における【1】【2】の〔北〕の方位は同じで天の北極がある方角」と定まる。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝では、【1】と【2】の両者の〔北〕は同じ〔北〕ではないと考えていた。つまり、卑弥呼王朝は――【1】対馬国と一大国の〔北〕は現在方位と同じく〔北〕である。しかし、【2】本州・日本列島地理においては、現在方位で〔西〕にある九州は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔北〕に所在すると定め、現在方位で九州の〔東〕に所在する東海地方(愛知県・静岡県)は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔南〕に所在する――と定めていた。
 だから、【2】の[]の字源・字義をあらわす転回方位規定にもとづいて、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
 下に、『魏志倭人伝』に記述された――[]の字源にもとづいて卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理と倭の34小国の位置と範囲の日本列島地図を配した。
 下の図の日本列島の海岸線は中国の約3倍の長さを有し、しかも中国の海岸線よりも細密である。ゆえに――今から約4000年前の後期縄文時代初頭にて【倉頡が発明した漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字の学芸】が習得された学術は日本列島の細密で3倍も長い複雑な海岸線によって、中国の各王朝とわが国の王朝が独占管理して厳重な機密とした王政の政権基盤であった【学問、つまり倉頡が発明した漢字作成理論】が保存されることになったのである。
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◆漢字が作られた文字作成銀河(夏の銀河)のいちばん東の端に、下に示した「三つ輪の銀河」が所在する。その西隣は「十字の銀河」である。「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光に照らされて黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなった。ゆえに、「黄色く輝く、十字の銀河」は「月光にきらめく沙漠の砂」や、下図に示すように[]の字源「ゴビ砂漠における家畜の、フタコブラクダ」に見立てられた。[]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した文字作成理論】を象徴する聖獣となった。だから、[]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論における基礎的知識】となった。
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 下の図に示すように、[]の字源となった「十字の銀河」は、黄帝や倉頡が生存した今から約5000年前の五帝時代初頭、中国全土の天頂にめぐってきて羅針盤(らしんばん)となった。つまり、「十字の銀河」は緯度(天頂緯度線)と経度(子午線)1度の60分の1分以内の誤差で精確にキャッチできる羅針盤となった。
 下図が示すように、黄帝時代の「十字の銀河」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」であった。ゆえに、「十字の銀河」は[]の字義を示した。上記したように、「十字の銀河」は[]の字源でもあり、「十字の銀河の子宮」が[]の字源であった。
 だから、下の図の「黄帝時代の、十字の銀河(とその子宮)の様子」を、卑弥呼は【邪馬壱】と名づけて表示した。
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 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)、出雲大社の南に「神門水海(かんどのみずうみ)」という湖があり、「神門水海」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬・フタコブラクダの形をした湖」であった。ゆえに、「神門水海」は【邪馬壱】のうちの「邪馬」をあらわした。「出雲の佐太神社と松江市が所在する島根半島東部の地宜(ちぎ/地図の形」は[]の字源「十字の銀河の子宮」に相似した。ゆえに、現在の島根県の中心部の地宜(ちぎ/地図の形)は、「黄帝時代の中国各地の天頂にめぐってきた《十字の銀河と(その子宮)》の様子」を伝える【邪馬壱】という語をあらわした。
 卑弥呼は約2300年前の成立した【黄帝時代にて、倉頡が発明した漢字作成原理】を政権基盤と定めるものであったゆえ、【「邪馬壱」という語を示す島根県中心部】を倭人国の首都が所在する女王国と定めたのである。
 上の図に示したように、黄帝時代には黄帝陵・北緯3536分の天頂には「十字の銀河の頭部の中央部」が通過し、中国南部の太湖(たいこ)南岸・北緯31度の天頂には「十字の銀河子宮の南端」がめぐってきた。また、黄帝時代には黄帝陵の天頂には「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の怪人・倉頡の銀河)の後頭部につく、大きく見開いた目の中央の瞳(ひとみ)の部位」が通過し、あるいは太湖の南岸の天頂には「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の端」がめぐってきた。
 このような【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河の範囲の情報】は【倉頡が発明した漢字作成理論】の基礎となる学識となった。
 というのも、〔歳差(さいさ)〕と呼ばれる天文現象によって、下図のごとく「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、黄帝陵・北緯3536分の天頂にめぐってきた銀河」は、「十字の銀河」より南を通過していたからである。
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 卑弥呼時代における黄帝陵(北緯3536)の天頂にめぐってきた銀河は「鳥居の形をした中央部」であった(鳥居の貫(ぬき)と呼ばれる部分の下部)
 ゆえに、当時、上に示した【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河状況】を知らないと【倉頡が発明した漢字作成理論】に関してまったく説明することができなったゆえ、結局のところ、無知無学ということになった。だから、【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河状況】は【銀河(文字作成銀河)の各部の形状を字源・字形・字義と定めた倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】にて、真っ先に必要な学識であった。

◆上の図で示した【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河における、十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の状況】は、【邪馬壱】という語で表示することができた。
 倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。
 これゆえ、前述したように、黄帝時代に中国各地の天頂にめぐってきた「経度線と緯度線に邪(なな)めの、十字の銀河(とその子宮)」は[]の字源「フタコブラクダ」となり、「フタコブラクダ」は「せまい産道をくぐりぬける出産児」をあらわす聖獣となった。
 下に図示したように、「せまい産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の形状」は[]の字源「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部分が邪めとなる動き」に相似するゆえ、「邪馬」となり、[]の字源「産道」が加えて、卑弥呼は【邪馬壱】と表現した。
 〔注 下の図に示したように、草を食べるときの「フタコブラクダの鼻の形」は「出産児の頭骸骨の小泉門(しょうせんもん)」、「フタコブラクダの上アゴ」は「出産児の頭頂骨(とうちょうこつ)」、「フタコブラクダの口」は「出産児の大泉門(だいせんもん)」、「フタコブラクダの下アゴ」は「出産児の前頭骨(ぜんとうこつ)」が互いに邪めとなる様子に相似した。この様子を、卑弥呼は「邪馬」と表現したのである〕。
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 上記したように、【邪馬】という語は「せまい産道をくぐりぬけることができる機能を有する出産児の頭」のことであり、【壱】の字源は「骨盤や女性の生殖器官」であった。
 下に示すように、「出産児の頭」の5枚の頭蓋骨(後頭骨・2枚の頭頂骨・2枚の前頭骨)は重ねあわせることができる仕組みになっている。ゆえに、狭い産道をくぐりぬけることができる。この「出産児の頭蓋骨の重ね合わせることができる機能(きのう)」を、今日、産婦人科では「広形(こうけい)機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 つまり、「広形機能」または「骨重積」を、上記したように卑弥呼は「草をモグモグと食べるときの馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪めとなって動く様子」に相似するということで「邪馬壱」と表現した。
 下に示す「出産児の5枚の頭蓋骨中央」にある「小泉門・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門」を、卑弥呼は【邪馬】と表現した。[]の字源は「(1)骨盤、(2)女性生殖器(子宮や産道)」であった。ゆえに「出産第一期・開口期(かいこうき)初めから出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの出産児の頭蓋骨と、母体の骨盤と生殖器官」を、卑弥呼は【邪馬壱】と表現した。
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 下に示すように、《今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵(黄帝の陵墓/北緯3536)の天頂緯度線》は「邪馬壱(小泉門・矢状縫合・大泉門)の形をした銀河」を撫()でるように西から東へ貫通していた。
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 吉野ケ里遺跡が所在する九州にも、纏向(まきむく)遺跡が所在する大和・畿内にも、【邪馬壱】という地宜は存在しない。さらに、『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壱国」と記載する。ゆえに、女王国名は「邪馬台国」であったと主張する九州説と畿内説は完全なる空理空論・妄想であった。
 吉野ケ里遺と纏向遺跡の規模に優っても劣らない天高き高層建築の出雲大社が建造された出雲には、上記した【「明確なる、邪馬壱」の形をした地宜】が所在した。だから、「邪馬壱の地宜」が所在した出雲が『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が居住した女王国の邪馬壱国」であった。
 前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究】をあらわす文字を作成することであった。
 倉頡は深遠なる銀河の神秘と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体させて【漢字作成理論】を発明した。これゆえ、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】を【邪馬壱】という語であらわしたのである。

◆卑弥呼が黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」を表現した【邪馬壱】という語は、【狭い産道をくぐりぬける出産第一期・開口期の始まりから出産第二期・娩出期終わりまでの、出産児の頭の4回の回旋(90度の回転)のうちの第1回旋と第4回回旋】をヒントにして倉頡が創った[()]の「時計回りに90度転回する方位規定」をもあらわすことになった。
 〔注 【第2回旋と第3回旋】をヒントにして、倉頡は[()]の「反時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことにした。〕
 [][]が加わって[()]となり、人偏(にんべん)[]が加わると[()]の字となる。[][]は倉頡が創った[]の「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いだ。
 白川静著『字統』は、[]の字を「稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。また、同書は[]の字を「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形の作りものを被って舞う女の姿をいう。(中略)。男女が稲魂に扮(ふん)して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。また、同書は[]の字について「委はもと田舞(たまい)の状をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年、女を委という」と解説する。
 下に配した図が示すように、【邪馬壱】の語源となった「十字の銀河」は[][][]の字源・字形・字義であった。
 下の図に示すように、「十字の銀河の頭部が被る、冠(かんむり)に観える銀河」が「稲魂のかぶりもの」となる。「十字の銀河の、胴体の西側」には「乳房、妊婦のおなか、子宮」のイメージとなる箇所があるゆえ、「十字の銀河」は「女性の姿」に観える。「十字の銀河の左手(東側の手)を狩猟道具の弓の形を銀河」が隣接ゆえ、「十字の銀河の、東側半分の形」を注目すると、「十字の銀河」は「男性の姿」にも観える。
 ゆえに、白川静著『字統』の[][][]の字源解説文に登場する「男女が稲魂に扮して舞う農耕儀礼」は「十字の銀河を祭って踊るダンス」であったのである。
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 この「邪馬壱・十字の銀河を祭って稲魂をかぶって舞う男女の姿」にもとづいて、卑弥呼は「対馬(つしま)国から狗奴(くな)国」までの30の国々を、10ヵ国ずつ3グループに分けて【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせいぜん)とあらわしたのである。
 要するに、【11番目~10番目までの「対馬国~巳百支国」の10ヵ国の小国名によって――(1)倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。(2)黄帝と倉頡が生存した五帝時代初頭の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の状況」を、卑弥呼は「邪馬壱」という語であらわしたこと――が解明できる。ゆえに、「対馬国~巳百支国」までの10ヵ国グループは「邪馬壱グループの国々」ということになる。
 【211番目~20番目までの「伊邪(いや)国~華奴蘇奴(かなさな)国」の10ヵ国は、[]の字源「稲魂をかぶって舞う女の姿」にもとづく「女性グループの国々」となるように、卑弥呼は理路整然となる説明をもって分類している。
 【321番目~30番目までの「鬼()国~狗奴(くな)国」の10ヵ国は、[]の字源「稲魂をかぶって舞う男の姿」にもとづく「男性グループの国々」になるように、卑弥呼は理路整然となる説明で分類している。
 このように、『魏志倭人伝』は――卑弥呼は【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】と政権基盤と定めて天下を治めた。その証拠に、倭人国の対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名を、上記した3つのグループに分けて、【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明できるように仕組みにした――と記述している。
 学者たちは――江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)が「邪馬台国説」を立論して『魏志倭人伝』に始めて学問的研究を加えたと称賛する。しかし、白石がとなえた邪馬台国説の実体は科学的根拠の裏付けがまったく無い誤読の空論・真っ赤なウソであった。その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
 『魏志倭人伝』は――(1)黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河(とその子宮)」を卑弥呼は【邪馬壱】とあらわし、また(2)【黄帝の「子供の出産と女性の生殖器官」の医学研究】を卑弥呼は【邪馬壱】とあらわし、また(3)倉頡は「フタコブラクダ」を[]の字源と定め、そして「馬・フタコブラクダ」は「出産児」をもあらわすと定めたゆえ、卑弥呼は「産道をくぐりぬける出産児」を【邪馬壱】という語であらわした――と説明する書物であった。
 わがブログは、今回までに「邪馬壱グループの10ヵ国」については解説し証明した。
 次回から卑弥呼が「女性グループ」に分類した10ヵ国の解説と証明をおこなった後、卑弥呼が「男性グループ」と分類した10ヵ国の解説と証明に着手する。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は、新井白石以後300年間も凌辱(りょうじょく)されつづけられて仮死状態となった。だから、このブログでは、約300年間も仮死状態となった【倉頡が発明した漢字作成理論】を習う、つまり蘇生(そせい)することにした。

◆『魏志倭人伝』は、倭人国の1番目の小国は「対馬(つしま)国」、2番目の小国は「一大国」と記す。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で1番目の対馬国と2番目の一大国の名称の字源・字義と位置と範囲を詳細に解説し証明した。わがブログは17回でも、1番目の対馬国と2番目の一大国の名称の字源・字義と位置と範囲を解説し証明した。
 わがブログの18回は、3番目の末盧(まつろ)国と4番目の伊都(いと)国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説し証明した。
 このブログは19回で、5番目の奴()国と6番目の不弥(ふみ)国と15番目の不呼(ふこ)国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説して証明した。「卑弥呼」の[][]は不弥国の[]と不呼国の[]であるゆえ、「卑弥呼」という倭女王名は「中国全土をもれなく包みこむ海岸線」を意味することを詳細に解説して証明した。
 このブログは前回(20)にて、7番目の「投馬(つま)国」と8番目の女王国「邪馬壱(やまい)国」と9番目の「斯馬(しま)国」と10番目の「巳百支(じはき)国」と11番目の「伊邪(いや)国」、5ヶ国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説し証明した。
 今回のブログでは、12番目の「都支(たき)国」の名称の字源・字義と位置と範囲を詳細に解説して証明する。このため、都支国の東に隣接する21番目の「鬼()国」の名称の字源・字義と位置と範囲についての解説・証明が必要となる。
 前述したように、『魏志倭人伝』は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する書物であった。
 だから、当然、「都支国」という小国名には【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究についての説明】がそなわることになった。
 つまり、「都支国」という小国名には――()〔男性の生殖細胞の精子と女性の生殖細胞の卵子〕について、()子と孫へと受け継がれる〔遺伝子〕について、()子宮における[]の出来事によって妊娠の始まりの〔胎標(たいひょう)〕が起きるとした――黄帝の考えが秘められている。このため、「鬼国」の名称の字源・字義や地宜(ちぎ)の解明も必要となる。
 下に配した〔斯馬国から邪馬国の位置と範囲の図〕の右下の「旧国の志摩(しま)」が「鬼国」であり、「旧国の伊勢(いせ)」と記した「志摩を除く、現在の三重県」が「都支国」であったことになる。
 〔注 なお、実際は下図における伊勢の南部は旧国紀伊の東部である。また「鬼国・志摩」は「現在の三重県の東部」である〕。
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 下に配した21番目の小国となる〔旧国志摩の「鬼国」の地宜の図〕の上部に示した「志摩とその英虞湾(あごわん)の地宜」を、卑弥呼は「強いタカ()のヒナ()が、餌(えさ)が不足したときに、餌として食べる弱いヒナ」に見立てて、「旧国の志摩」の小国名を「鬼国」と定めた。この「同じ巣で育つ強いタカのヒナが弱いヒナを餌とする習性」は「弱肉強食の苛酷(かこく)で厳(きび)しい自然の摂理(せつり)」を示すものとなり、「神」は「鬼、鬼神(きしん)」と名づけられて恐れ敬(うや)まれそして尊ばれることになった。だから、「鷹」は黄帝時代の中国でもわが国おいても「自然界を支配する最高位(大王)」を象徴することになり、「鬼」の字源となり、「鬼神」という語となった。
 下の〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」地宜の図〕の下図に示したように、12番目の「都支国の範囲」は「伊勢と熊野(紀伊東部)、現在の志摩を除く三重県」である。また、「都支国の地宜」は「飛翔(ひしょう)する鷹の左翼(伊勢)・右翼(熊野)」に見立てられた。したがって、「志摩・鬼国(現在の三重県東部)の地宜」は「鷹の頭部(横顔)」に相似すると見立てられた。
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 現在、4番目の伊都(いと)国における糸島半島は、糸島市と福岡市に二分される。しかし、上の〔旧国志摩の「鬼国」の地宜の図〕の上図の左側に配したように――昭和の時代では糸島市は福岡県糸島郡の志摩町であった。この糸島郡の「志摩町」と「旧国の志摩」は同じ2字で表記される。ゆえに、「旧国志摩」は「伊都国」の「都」と解され、「伊勢と熊野」は「都(伊都国・志摩)から支(わか)れる国」ということも一つの要因で、「伊勢と熊野」は「都支国」という小国名になったと考えられる。

◆しかし、「都支国」という小国名になったのは――「鬼国と都支国の地宜」によって、黄帝がおこなった医学研究における「()精子と卵子、また()子と孫へ受け継がれる遺伝子、あるいは()子宮にておこる[]の出来事」が表示する――と卑弥呼が考えた、この卑弥呼の考えが主なる原因である。
 倉頡伝説では【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡」と呼ばれた。「鳥獣の足跡」の「獣」は[]の字源「ジャコウウシ」と[]の字源「フタコブラクダ」であった。ゆえに、「ジャコウウシとフタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 []の「フタコブラクダ」は、前述したように「(1)子宮で育つ胎児と、(2)狭い産道をくぐりぬける出産児」をも意味することになった。
 他方、「ジャコウウシ」は「(1)女性の骨盤と、(2)女性の生殖器官」をも意味することになった。その理由は、百頭以上が一団とされたジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲撃されると、子を真ん中に隠して、円陣を組んで防衛したからである。ゆえに、「円陣を作って防衛する、ジャコウウシの群れ」は「骨盤、つまり女性の生殖器官の大半を包囲する骨盤」を意味することになり、「真ん中に隠すジャコウウシの子」は「女性の生殖器官、つまり大半が骨盤内にある女性の生殖器官」を意味することになった。
 下に〔女性の生殖器の正面形と[()]の契文形の解説図〕を示した。
 「女性の生殖器官の正面形」は「ジャコウウシの顔の正面形」に相似すると見立てられた。「左右一対の卵管・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)」は「ジャコウウシの左右一対の角(つの)」に相似すると見立てられた。また、「左右一対の卵巣(らんそう)」は「ジャコウウシの両耳」に見立てられた。「子宮と膣(産道)」は「ジャコウウシの顔」に見立てられた。そして、「女性の生殖器」は[]の字源・字形・字義となった。
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 白川静著『字統』は[]の字源を「羊の全形。下部の大は、羊が子を生むことを羍(たつ)というときの大と同じ意で、羊の後脚をも含む形である」と解説する。
 現在、カナダとグリーランドに生息するジャコウウシは氷河時代には、はるか南までを生息地域として、ヨーロッパやアジアにも分布していた。動物学においては、ジャコウウシはヒツジ()に近い種とされる。ゆえに、別名は「ジャコウヒツジ」である。だから、白川静著『字統』の[]の字説は「ジャコウヒツジ」について解説するものであったことになる。
 今から約5000年前の黄帝時代、陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)に所在する黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵周辺には、ジャコウウシが生息していた。ゆえに、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝軍が駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵は円陣を組んで自衛した」と説明する記事がある。ゆえに、「黄帝軍の軍兵は天敵オオカミに襲撃された時のジャコウウシに学んで円陣を組んで駐屯していたこと」になる。
 上に示した〔女性の生殖器の正面形〕は「ジャコウウシの顔の正面形」に相似すると見立てられたゆえ、[]の字源「ジャコウウシ」は「女性の生殖器」を意味することになった。
 そして、黄帝は「女性の生殖器における卵管采・卵管膨大部と卵巣の形状」を注目して、「()精子と卵子、()子と孫へ受け継がれる遺伝子」という概念(がいねん)を確立させた。
 下に配した〔卵管采・卵管膨大部・卵巣上体・卵巣の図〕が示すように、「卵管采・卵管膨大部と卵巣は男女が愛撫(あいぶ)して交わるような形状」をしている。ゆえに、「卵管采・卵管膨大部と卵巣の形」にもとづいて、黄帝は「精子と卵子の形」を推定した。また、「卵管采・卵管膨大部と卵巣が繋(つな)がる形状」から、黄帝は「精子と卵子には祖先・親・子・孫へと容貌や性格や遺志などを繋げ伝える遺伝子なるものが存在する」と推定した。
 [弥]の字源「カンムリカイツブリ」のオスとメスは頭部をもたげながら接近し、向かい合って頚部(けいぶ)を左右にふる情熱的な求愛行動をおこなう。その後、羽づくろいをしたり、たがいに巣材を回収するという複雑な求愛行動をおこなう。黄帝は「卵巣上体」から「鳥の羽」を連想し、「卵管采・卵管膨大部と卵巣の形」を「カンムリカイツブリの求愛行動」に相似すると見立てた。つまり、黄帝は「目に見えない小さな精子と卵子の形」は「求愛行動するときのカンムリカイツブリのオスとメスのような姿」をしていると推定した。
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 また、黄帝は「子と孫の顔や性格は両親や祖父・祖母に相似する」ことに注目して、「卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで、遺伝子を有する精子と卵子は結合して人の命となる」、また「死産した子の命も、後日の精子と卵子が卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで結合して蘇(よみがえ)る」と考えたにちがいない。というのも、「卵管采・卵管膨大部」は「蝶の成虫」のごとくに観え、「卵巣」は「蝶がとまって蜜を吸う花」に相似するからである。蝶の幼虫は蛹(さなぎ)となり、蛹は死骸・ミイラのごとくになるが、蛹からは命が蘇って美しい成虫の蝶となる。だから「卵管采・卵管膨大部と卵巣」を「美しい蝶と花」の見立てた黄帝は「卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで、父母・祖父・祖母や先祖から受け継ぐ遺伝子を有する精子と卵子は結合して人の命となって蘇る」と考えたのである。
 白川静著『字統』は、[習]の字を「羽と曰(えつ)とに従う。曰は祝祷(しゅくとう)を収める器。この器の上を摺(す)って、その祝祷の呪能(じゅのう)を刺激し、そのような行為をくりかえすことを意味する字」と解説する。つまり、「卵管采・卵管膨大部・卵巣上体」は「羽」と見立てられ、「卵巣」は[曰]の「出産を祝い、子授け祈祷する祝祷に用いる器(土器)」に見立てられて、[習]の字は成立した。
 上記したように、黄帝は「カンムリカイツブリのオスとメスの姿に相似する精子と卵子は、蝶と花を連想する一対二つの卵管采・卵管膨大部・卵巣のどこかで結ばれて二つの卵となる。しかし、[鬼]の現象によって一つの標(胎標)となっていったん蝶の蛹(さなぎ)のごとくの死骸(ミイラ)のごとくなるが、蛹から美しい蝶が誕生する」がごとく、「母体が子を授かりたいという願いによって、蝶のごとく精子と卵子は人の命となって蘇る」と考えた。ゆえに、[習]の字は「祝祷の土器を羽で摺って(こすって)、呪能を刺激して蘇る(復興する)状況」をあらわすことになった。ゆえに、[習]の字義は「蘇る。復興する」となった。
 だから、前述したように、中国の正史『新唐書』日本伝にある「後(のち)、稍(やや)夏音を習う」という文は「壬申の乱の後、稍々(少々)、夏音文字を蘇らせることにした(復興することにした)」と意味したことになる。

◆下に〔「女陰」と「男性生殖器、つまり陰嚢(いんのう)と陰茎(いんけい/男根)の形に相似する夏の銀河の広大の範囲図〕を配した。
 前掲した〔文字作成銀河(夏の銀河)各部の名称図〕のおける右下の「胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の銀河の頭部・首部」は、「男性生殖器の陰嚢部」に相当し、「巨龍の銀河の首から尾まで(彦星の箇所)」までは「男性生殖器の陰茎)部」に相当して、「男根生殖器の形」にソックリとなる。
 この「男根生殖器の形をした銀河」の北側にある国際的天文学の名称「コールサック」と呼ばれる暗黒天体部は「女陰」のイメージとなる。
 これゆえ、〔「女陰」と「男性の生殖器」の形に相似する広大な夏の銀河像〕は「子どもを生むための性交」をあらわす。
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 「コールサック」の西側に国際的天文学の名称の「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がある。「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」の名称である。「北天の最輝部」は「美しい桃色をおびた、銀色に輝く」ゆえ、「銀河」または「銀漢」の語源となった。
 下に、〔今から約5000年前の黄帝時代において、中国全土(太湖の南の北緯30度の紹興市・卑弥呼時代の「会稽」から黄帝陵がある北緯35度36分まで)の天頂にめぐってきた銀河の範囲図〕を示した。この図が示すように、西の「北天の最輝部」は中国全土の天頂付近を通過し、東の「十字の銀河の頭部の中央」が黄帝陵の天頂にめぐってきた。
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 下に〔美しい桃色をおびた銀白色の「北天の最輝部」の図〕を配した。
 黄帝は「銀色に輝く、北天の最輝部」は「求愛行動するときの、カンムリカイツブリの姿」に相似すると見立てて、黄帝は「目に見えない微小の精子と卵子の形」は「北天の最輝部のような形」をしていると推定した。というのも、「カンムリカイツブリの顔とノドは白く、頸(くび)以下の体下面は銀白色に輝く」ゆえ、黄帝は「卵子と精子の形」は「白く銀白色に輝く北天の最輝部」のごとく、また「カンムリカイツブリのごとくの姿」のごとくであると推定したのである。
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 下の図に示したように、「銀色に輝く、北天の最輝部」は「情熱的な求愛ダンスをするときのカンムリカイツブリのオスとメスが水面に対して直立姿勢となって足で水をバチャバチャと動かして水飛沫(みずしぶき)を浴びる姿」に相似する。〔注 下の図における右側の「求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの図」は、今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物綿密・生態画集】』(平凡社発行)の143ページから転載した〕。
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 前掲した〔[呉]の字源解説図と金文形〕と題した〔黄帝時代の中国全土にめぐってきた銀河図〕において、下の図に示すように――黄帝陵(北緯35度36分)の天頂には「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
 黄帝は「十字の銀河の頭部」を「女性の子宮」と「カンムリカイツブリの巣」に見立て、「十字の銀河の頭が被(かぶ)るカンムリの形」は「北天の最輝部の概略形」に相似するのに注目して――黄帝は「精子と卵子」は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭が被るカンムリ」のごとくの形をしていると推定した。そして、黄帝は「精子と卵子は北天の最輝部の形に相似するカンムリカイツブリのオスとメスのごとく、情熱的な求愛ダンスをして結ばれる。だから、黄帝は「精子と卵子の結合」を「受精(じゅせい)」と定めた。
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◆黄帝時代、西の「北天の最輝部」は黄帝陵(北緯35度36分)の天頂より南約1度~約5.5度の天頂付近を通過し、東の「十字の銀河の頭部の中央部」は黄帝陵の天頂にめぐってきた。
 ゆえに、[都](黄帝陵)を示す銀河部は西の「北天の最輝部の少し北側」と東の「十字の銀河の頭部の中央部」に支(わか)れた。
 ゆえに、卑弥呼は「東の伊勢と西の熊野の地宜」の小国名を「都支国」と定めた。つまり、卑弥呼は――黄帝時代の黄帝陵(都)の天頂における「精子と卵子の形をあらわす銀河部」が「北天の最輝部の少し北側」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」に支(わか)れる――ゆえ、「東の伊勢と西の熊野に支れる小国名」の名称を「都支国」と定めたのである。
 前回のブログで解説したように、10番目の小国「巳百支(じはき)国」の[支]は「天橋立(あまのはしだて)によって西の阿蘇海(あそかい)と東の宮津湾に支れる様子」をあらわした。
 『説文解字』は[阿(あ)]の字を「大陵を阿と曰(い)ふ」と解説する。「阿」という「大陵」は「黄帝陵」のことであった。前述したように、「阿蘇海」の[蘇(そ)]は「卵巣」を「花」に見立て「卵管采・卵管膨大部」を「花にとまって蜜を吸う蝶」に見立てて――「蝶はまるで死骸(ミイラ)のような蛹(さなぎ)になっても、その蛹から命が蘇って美しい成虫となる」という考えが[蘇]の字源となった。
 これゆえ、「阿蘇」は「不老長寿」を意味した。「北天の最輝部」は「美しい桃色をおびて白く輝く」ゆえ、「白桃(はくとう)」に見立てられた。中国において上古から現在まで、「桃」は不老長寿を与える植物として親しまれている。桃の原産地は中国の西北部の黄河上流の高山地帯とされるゆえ、[牛]の字源「ジャコウウシ」の生息分布地域であった可能性が大となる。
 下の図を配したように、「黄帝時代に黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の頭部中央の穴(暗黒天体部)」は「女性の骨盤口(骨盤入口と骨盤出口)」の両者が180度転回しあう形に相似する。
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 ゆえに、その頭部が「子宮を包囲してまもる骨盤の形」に相似し、また、その腰の部分に「子宮に相当する部分」を有する「十字の銀河」は、「子宮」の[宮]の字源となった。「十字の銀河」は「書契(五帝時代の原初漢字)や夏音文字を地面に書く聿(ふで)」に見立てられ、さらに、「十字の銀河」は「船を安全に泊(と)めることができる港」に見立てられて、「港」を意味する[津(つ)]の字源となった。
 したがって、天橋立の東の「宮津湾」の[宮]の字源は「十字の銀河」であった。[津]は「港(宮津市の港)が、外海より深へ入って波が低い湾の奥にある」ということで、天橋立の東の「湾」は「宮津湾」と名づけられた。

 以上のごとく、黄帝は、「精子と卵子」を「北天の最輝部と十字の銀河の頭が被るカンムリ」のような形をしていると推定した。さらに、黄帝は「北天の最輝部と十字の銀河の頭部が被るカンムリ」は「求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの姿」に相似するゆえ、「カンムリカイツブリのオスとメスが求愛ダンスをするがごとく、精子と卵子が結ばれて受精がなされる」と推定した。
 だから、黄帝が考えた「精子と卵子」や「受精」の意見に因(ちな)んで、卑弥呼は「伊勢と熊野」の小国名を「都支国」と定めたのである。
 ここまでの解説で、「()精子と卵子、()子と孫へ受け継がれる遺伝子」を証明した。
 後は残る「()子宮における[]の出来事」の解説と証明をおこなうことにする。

◆「倉頡が漢字を発明した」と説明した倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえることになった――と伝えるものであった。
 倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であった。というのも――カンムリカイツブリと鳰(にお/カイツブリ)を「子宮で育つ胎児」を象徴する「鳥」と定められ、牛・ジャコウウシは「骨盤・女性生殖器」を象徴する獣、馬・フタコブラクダは「せまい産道をくぐりぬける出産児」を象徴する「獣」と定められ、「十字の銀河の子宮」は「人間や動物が歩いた足跡」に相似すると見立てられた――ゆえ、【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の足跡」と名づけられた。そして、倉頡伝説に登場する「古来の結縄」は「約6000年前の三皇時代から始まる〔易卜に用いた記号〕」のことであった。また、「死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえることになった」という説明は「三皇時代の包犧(ほうぎ)氏と女媧(じょか)氏と神農(しんのう)氏の死霊たちは、倉頡が夜に輝く銀河から文字を作る発明したゆえ、自分たちの歴史が後世に伝わるようになったと感激して泣く声が夜な夜な輝く銀河から作られた文字によって聞こえるようになった」と意味した。そして「四つ目の怪人の倉頡」は「漢字は夏の銀河(文字作成銀河)から作られた」と伝える説明であった。というのも、黄帝時代には中国全土の天頂に「鬼の横顔に似る銀河の顔に両目、鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴにも二つの目がある、計四つの目がある四つ目の銀河」がめぐってきていたからである。
 下に、〔黄帝時代の「四つ目の銀河」と天頂緯度線の図〕を配した。下の図に示したように、黄帝時代、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)の後頭部にある、大きく開く目の中央」が、黄帝陵(北緯3536)の天頂にめぐってきた。また、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)のアゴにつく切れ長の細い目の目じり」が、中国南部にある太湖(たいこ)南岸の天頂
を通過した。
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 下に配した〔[][][]の字源銀河解説図〕に示したように、[]の金文形は――「四つ目の銀河における大きく開く目(鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目)から北アメリカ星雲にかけての範囲」が[]の字源銀河である――と示している。
 というのも、「北アメリカ星雲」は「耳の形」に相似すると見立てられて、[]の字源銀河であったからである。
 [][]が加わると[](えさ)の字となる。つまり、下の図に示したように、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の大きく開く目と切れ長の細い目」は「強く大きく育ったタカ()のヒナの両目」に見立てられた。その「強い鷹のヒナの両目」がにらみつける「北アメリカ星雲」は「餌(えさ)がとぼしいために餓えた強い鷹のヒナが餌とする弱いヒナの顔」に見立てられた。というのも、「北アメリカ星雲」は「耳の形」に相似すると見立てられて、[]の字源となったからである。だから、[][]が加わって成立した[]の字源「北アメリカ星雲」は「強いヒナの餌となる弱いヒナ」をあらわした。
 鷹は14つの卵を産む。まれに、6卵産むことがある。産卵後に第1卵か第2卵を抱くので、ヒナの孵化(ふか)は同時でなく、ヒナに強弱ができ、強いものが生き残る。しかし、餌がじゅうぶんならば弱いヒナも育つという。メスが主として抱卵(ほうらん)にあたるが、オスも交替する種類(ノスリまど)がある。一般にオスがメスに餌をはこび、メスがちぎってヒナにあたえる例が多い。
 上記したように、[]の字源は「弱肉強食の自然摂理」の「鬼」をあらわした。
 その証拠に、前述したように、21番目の「鬼国・志摩の英虞湾(あごわん)の地宜」は「強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌とする形」にソックリである。
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 上の図で[]の金文形モデルとなった範囲「鬼の角(つの)と鬼の横顔に似る銀河の左目と後頭部につく大きく見開いた眼を包囲する銀河部」は「太った鬼の横顔がやせて小さくなった、つまり、鷹のヒナたちが餓(うえ)えた状態」を表現していると考えられる。つまり、その範囲は「子どもをののしっていう語〔餓鬼(がき)〕、あるいは相手をけなしてののしる語〔餓鬼〕」の語源であるにちがいない。

下の上図は〔「邪馬」、つまり小泉門・矢状縫合・大泉門がある出産児の頭蓋骨図〕である。「邪馬」に[]の「骨盤と産道」を加えて、卑弥呼は「邪馬壱」と表現して、倭国の首都が所在する王国の名称とした。
 下に配した下図は〔「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河図」である。
 〔「邪馬」の銀河図〕における「小泉門」の銀河部〕は、前掲した〔[][][]の字源銀河解説図〕における「強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌としてついばむ嘴(くちばし)」となる。出産は――出産児が「小泉門」を先進させて頭を90度時計まわりに横向きにして横長の母親の骨盤入口をくぐりぬける――開始される。だから、「出産」は「小泉門がせまい産道を先進して」成される。下の〔「邪馬」の銀河図〕のごとく、「小泉門」が「強い鷹のヒナの餌になる」と、「出産児は産道を進むことができず死ぬこと」になる。
 だから、「すべての出産児が死んでしまう! 不吉!」ということで、古代字形(契文・金文)では「くちばし」をあらわす字が作成されなかった。(また、「精子と卵子」に見立てた「卵管采・卵管膨大部と卵巣」にも、「くちばし」に相当する部分が無い)
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は19回の中半で、「胎児や出産児にはカンムリカイツブリや鳰のような〔くちばし〕が無い。だから、[弥]の字源となった「山東半島には〔くちばし〕に相当する地宜が無くても合理」、[呼]の字源となった「杭州湾(こうしゅうわん)にも〔くちばし〕に相当する地宜が無くても合理となった」と解説したが――ほんとうの原因は、上記した「強い鷹のヒナの〔くちばし〕が小泉門を餌にする銀河の形状」にもとづき、古代字形では〔くちばし〕をあらわす文字が作られなかったのである。

◆受精した卵(らん)が子宮の壁(かべ)に着床(ちゃくしょう)するまでを卵期(らんき)という。
 受精後10日めごろに、将来ヒトとなる胎標(たいひょう)ができる。卵から将来ヒトとなる胎標ができるまでを胎芽期(たいがき)という。
 生物学において、現在は否定されているようであるが、かつて世間一般的に、胎芽期において1個の卵がそのまま一人のヒトになると考えられていた。
 黄帝は――胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合して、二つの卵が生まれる。しかし、二つの卵は〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にする働き〕によって一人のヒトとなる胎標になる――と考えた。
 下に、〔胎芽期における胎標の図〕を配した。下の上図は〔受精後8日ごろの卵と子宮粘膜の図〕である。上図中央の「卵細胞」が分化して、下図のごとく〔受精後10日ごろ〕になると、その図の中央にある「胎標」となる。
 下の上下図が示すように、卵標は皿形の鷹の巣のような空所(くうしょ)の底にできる。その鷹の巣に相当するのは、子宮粘膜上皮・子宮粘膜組織である。下に配する上図の「子宮粘膜上皮と子宮粘膜組織の形(側身図)」は、前掲した〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」の地宜〕における「鷹の両翼のような形をした伊勢と熊野の地図の形、つまり都支国の地宜」に相似する。
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 【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定めた[牛]の字源「ジャコウウシ」は「ふつう、一産一子」である。同様に、聖獣[馬]の字源「フタコブラクダ」も「ふつう、一産一子」である。人も同様に「ふつう、一産一子」である。だから、もしもジャコウウシとフタコブラクダが人と同様に一産一子でなかったならば、ジャコウウシとフタコブラクダを倉頡は【漢字作成理論】を象徴する聖獣に選ばなかったにちがいない。
 黄帝は「胎芽から子どもが誕生するまでの期間」を「約十ヵ月」をつきとめた。だから、黄帝時代において、「一」が十倍で「十」となり、「十」が十倍で「百」となり、「百」が十倍で「千」となり、「千」が十倍で「万」となる数の十進法が確立されたと考えられる。
 下に、再度〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」の地宜〕を配した。
 前述したように、〔胎芽期において「胎標」ができる空所〕は「鷹のヒナが育つ巣の空所(穴)」に相似する。
 また、〔胎芽期において子宮粘膜上皮と子宮粘膜組織の形〕は、下に配した図の「鷹の両翼の形に似る伊勢と熊野の、都支国の地宜」に相似する。というのも、「鬼国・英虞湾の地宜は強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌にしている様子」に観えるからである。
 だから、黄帝は――胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合した二つの卵が〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にする働き〕によって、一人のヒトとなる胎標になる――と考えたのである。 
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 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀は「黄帝は山川の鬼神(きしん)をまつって封禅(ほうぜん)した」と説明する。
 だから、「鬼神」の[鬼]の本義は「弱肉強食の自然の摂理」ではなかったことになる。[鬼]の本義は「胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合して生まれた二つの卵が〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にするような働き〕によって一人のヒトとなる胎標が形成される――と、黄帝が推定した「子宮において一産一子となる[鬼]の出来事」であったことになる。
 司馬遷著『史記』夏本紀は「帝禹(う)は衣食をうすくして鬼神への供物を豊富にした」と説明し、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能(よ)く衆(しゅう)を惑(まど)わす」と記述する。ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】からまつることになった鬼神の道(つまり学問)を政権基盤にして人心を集めて国家をまとめていた」と説明していたことになる。「惑わす」を「妖(あや)しくまどわす」と訳する人々がいるが、これは誤訳である。
 白川静著『字統』が「惑は国の初文」と指摘する。だから、[惑]は[国]の最初の字であったゆえ、卑弥呼が用いた夏音文字には「妖しくまどわす」という意味は有していなかったと考えるべきことになるからである。

◆1940年生まれの人は、2020年の誕生日で満80歳であるが、数えだと81歳となる。というのも、数えの年齢数は子宮で育つ10カ月間を1歳と数えるからである。
 下に、[数]の金文形を示した。[数]の金文形は「両翼をひろげる鳥」の下に[言]が加わる字となる。
 前述したように「都支国」の「都支」の語源となった「北天の最輝部の形」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリの形」は、下に配した[数]の金文形上部の「両翼をひろげる鳥の姿」に酷似する。ゆえに、[数]の金文形上部の「両翼をひろげる鳥の姿」は「黄帝が考えた、精子と卵子の形」をあらわしていることになる。
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 前掲した〔女性の骨盤口と十字の銀河の頭の穴の図〕では――「女性の腹部側の骨盤口(骨盤出口)の形」は「十字の銀河の頭部の頭の北側の穴」に合致して、両者は180度転回しあう形となる。

だから、下に〔黄帝時代に黄帝陵の天頂にめぐってきた十字の銀河の頭部を下にする、逆さの(180度転回する)図〕を配した。この「逆さの十字の銀河」が[言]の字源となったと考えられる。
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 下に「逆さの十字の銀河」が[言]の字源となった解説図を配した。だから、前掲した[数]の金文形下部の[言]は、下の「逆さ十字の銀河」から作られた[言]「であったにちがいない。
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 胎芽期の胎標からから始まって約十ヵ月後に頭が誕生すると、出産児はすぐに呼吸をはじめた直後に声(泣き声)をあげる。この「泣き声」が、「この世に生まれた人の言(ことば)の始め」となる。
 したがって、[]の金文形の上の「両翼をひろげる鳥の図案」は黄帝が考えた「きわめて微小な人間の目に見えない精子と卵子の形」、下の[]は「出産児が誕生した直後にあげる泣き声」をあらわしているにちがいない。
 だから、前掲した[]の金文形は「数え年」の「子宮で育つ十ヵ月」をあらわしていることになる。

◆『魏志倭人伝』に列記される21番目は「鬼国」、12番目は「都支国」、13番目は「弥奴(みな)国」、14番目は「好古都(こかた)国」、15番目は「不呼(ふこ)国」である。
 下に示したように、鬼国と都支国は隣接しあって【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】をあらわし、12番目の都支国は13番目の隣接する尾張(現在の愛知県西部)・弥奴国と相互に(連鎖的)に関連しあっている。
 また、連結する13番目の弥奴国と14番目の三河(現在の愛知県東部)好古都国と15番目の遠江(現在の静岡県西部)も理路整然となるように順番が意図的に決められている。
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 下に〔女性の骨盤における[弥]の解説図〕を配した。この図の女性の骨盤における「腸骨翼(ちょうこつよく)の形」は[弥]の字源「恥骨結合(ちこつけつごう)で向かい合う一対・二羽のカンムリカイツブリの横顔」に相似する。
 上に配した地図が示しているように、「都支国」の隣りは「弥奴国」である。ゆえに、「腸骨翼の[弥]のカンムリカイツブリの横顔」は都支国と弥奴国との両国で共通しあう。つまり、「黄帝が精子と卵子は求愛行動するカンムリカイツブのオスとメスの姿に似ていると推定したこと」にもとづいて、卑弥呼は「伊勢と熊野」を「都支国」と名づけた。「弥奴国の地宜」は「黄帝が精子と卵子の形を推定した、そのカンムリカイツブリの姿」に相似している。だから、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明するために「都支国」の隣国の「旧国・尾張」の小国名を「弥奴国」と定めたことになる。
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 上の〔女性の骨盤における[弥]の解説図〕が示すように――恥骨結合で向かい合う腸骨翼の形は[弥]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似する。ゆえに、この観点からも、黄帝は「精子と卵子の形は情熱的な求愛ダンスをするオスとメスのカンムリカイツブリの姿に相似する」と推定したと考えられる。

 石原道博編訳者『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(岩波書店発行)は「都(郡)支国」と記載して、「都支国」は「郡支国」とも表記されたと注を加えている。ゆえに、「都支国」を幾人かの学者たちは「郡支国」であったと考える。
 白川静著『字統』の[郡]の解説には――〔釈名(しゃくみょう)、釈州国〕には「郡は群なり」と音義説がある――と指摘する。このように、[郡]が[群]となった事情は下記のごとくであった。
 上に配した図の「女性の骨盤」は「百頭以上が一団となる牛・ジャコウウシの群れが天敵のオオカミに襲撃された時に、子どもを真ん中に隠して組む円陣」に見立てられたゆえ、「女性の骨盤」は[群]の字源となった。また「いくつかの里が百頭余のジャコウウシが組む円陣のごとく多数群がって郡となる」ということで、「郡は群なり」となった。
 下に配した〔弥奴国・尾張の地宜とカンムリカイツブリの図〕が示すように――《「精子と卵子の形」は[弥]の「カンムリカイツブリのオスとメスの姿」に相似する》という「都支国」という小国名の由来となったと同じく、「弥奴国」もまた「カンムリカイツブリ」が小国名の由来となった。
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◆以上のごとく、「邪馬台国説」は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空論であった。その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」を説明する記事が1ヵ所も存在しない。
 『魏志倭人伝』は、卑弥呼が居住した女王国は「邪馬壱国」であったと記す。【邪馬壱】という語は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわす。
 中国では解明できなくなったが――わが国では中国の海岸線よりも約3倍に長い海岸線を有し、その海岸線は文字作成銀河各部から作られた多数の文字の字源・字形・字義を正確に保存できるように細密であった。ゆえに、この細密の長い海岸線に多数の小国の境界線、さらに湖沼などの地宜が加わったゆえ、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる文字を作成した【倉頡が発明した漢字作成理論】によって生まれた文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状を細密にして長い海岸線・小国の境界線・湖沼などの地宜で正確に保存することができたのである。
 だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明していた」と伝える――世界的にも“人類共通の宝・文字の起源が科学的に解明できる奇跡の書物”であったのである。
 にもかかわらず、江戸時代中期、新井白石は真っ先に「『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読む」という学問の鉄則を無視して、まったく根拠のないデタラメ・空想をとなえた。このような新井白石に対し、学者たちは「白石は始めて『魏志倭人伝』に学問的検討を加えた」と絶賛して、邪馬台国説こそが最も正しい意見であるとメディアを騙(だま)し日本人を誑(たぶら)かした。
 邪馬台国説は実に雑・ザツ! 論法は実にザツ! とにかく新井白石の邪馬台国説に合致する意見こそが最も正しいと主張する、この論法は実に雑・ザツ・ザツである! 
 その証拠に、白石の論法に従わずに『魏志倭人伝』を忠実に読解すれば芋づる式に続々と【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】が解明でき証明できる仕組みになっている。
 邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】の説明を抹殺(まっさつ)する人類共通の敵であった。というのも、【文字の発明】は【地球的規模の人類の理性と知性の起源】であったからである。

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2021年5月30日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・20

▼「はじめに結論ありき」であった。最初から邪馬台国九州説と畿内説は【科学的根拠の裏付けのまったく無い、誤読の空論】であったのである。
 『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説が主張するように「邪馬台国研究」のための史料ではない。卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬台国」ではない。「邪馬壱(やまい)国」と、『魏志倭人伝』は記している。
 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が毎回証明してきたように―― 『魏志倭人伝』は【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に説明している貴重にしてきわめて重大な書物であったのである。
 だから、九州説と畿内説は【多数の文献批判という名の誤読・作為・主観】を加えて「『魏志倭人伝』は、邪馬台国研究のための文献料である」と断定した空論であった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひとすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が解明できる。
 新井白石(16571725)以来、学者たちは【誤読によりウソ・偽り】を巧みにあやつって「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」と凌辱(りょうじょく)しつづけている――このような『魏志倭人伝』に対する酷(ひど)い凌辱は、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)をもって抹殺(まっさつ)されると同じ仕打ちと言わざるをえない。だから、冤罪で死刑とされて抹殺・消滅されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な抹殺されてはならない真実】は日本人ならば当然まもらなければならない義務であり責務である。
 再度くりかえす――『魏志倭人伝』を全面的に信頼して、ただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば、【漢字の起源の実情】が愉快なほどに・どんどん・続々と解明できる。
 だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【文献批判という名の誤読・作為・主観】を多数加えて、【漢字の起源の秘密】を凌辱して抹殺せんとする卑劣きわまりない暴力であったのである。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・29

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された真実を知るためには――日本古代史を研究する人々や愛する人々は全員、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の絶対的な定説は、現在、学問的には空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》であった。《わが国が夏代初頭に習得した夏音(かおん)文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も前の(古い)、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では中国の上古音よりもずっと新しい、最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空論ということになる。
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 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。ゆえに、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に習得した夏音文字の漢字音】であった。
 この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説の漢字音は、中国において現存する最古の「上古音」は紀元前1046年の周代初頭よりも約1500年も新しいことになるゆえ、空理空論だったのである。
 冒頭で述べたように――『魏志倭人伝』は「わが国が【夏音文字の学芸】を習得した後期縄文時代初頭、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明していた【漢字の起源の秘密】を詳細に理路整然と説明する文献であったのである。
 『魏志倭人伝』は――今から約5000年前、倉頡がどのように考えて【漢字作成理論】を発明したのか――この【漢字が起源した歴史と事情】を理路整然と詳細に説明していた書物であった。ゆえに、『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための書物ではなかった。卑弥呼が居住した女王国の名称は「邪馬壱国」であり――「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成原理の核心】を説明する語であった。
 だから、「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」とメディアを騙しまた大半の日本人を洗脳する九州説と畿内説は、科学的根拠の裏付けのない完全なる空理空論だったのである。

◆『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明している。
 この一つ目の記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 上記した「卑弥呼時代、わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する重大な二つの記事は、九州説と畿内説によって抹殺された。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が、現在においても絶対的定説となった。
 ゆえに、「はじめに結論ありき」であった。九州説と畿内説は空論・妄想であったのである。『魏志倭人伝』はただひたすら・いちずに忠実に読解すれば、芋づる式にどんどんと愉快なほどに「【漢字の起源の秘密】、言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】」が解明できた史料だったのである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に気づいていれば――『魏志倭人伝』は「中国では解明できなくなった、【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせいぜん)と説明されている書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。テレビの画面に時々登場する銀河は、ほとんど「夏の銀河」である。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑が免除された。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかない。
 また、学者たちは学問の「過去に作られた書物は、真っ先に忠実に読解しなければならない」という初歩的鉄則をまもろうとしない。このため、『魏志倭人伝』が【漢字の起源の秘密】が芋づる式に愉快なほどどんどんと明確となる貴重かつ重大な文献史料であることに気づかなかった。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 現在においても、《今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)《日本列島各部の地図の形》によって成立する。また、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆前回まで幾度となくわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が繰り返して詳細に解説し証明したように――倉頡は[()]の字を創(つく)って「黄帝の居住地(陝西省黄陵県の黄帝陵近くの地所)から見える地平線より外の、遠くの地域における方位規定を時計回りに90度ずつ転回する」と定めた。
 この[]の字源・字義をそのまま[()][()]の字は受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字の[]の字源・字義は「本州・日本列島における方位規定は、倉頡が創った[]の字源・字義を受け継いで、時計回りに90度転回する」と定義するものであった。
 現在は、「【1】対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の地図と【2】本州・日本列島地図における【1】【2】の〔北〕の方位は同じで天の北極がある方角」と定まっている。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝では、【1】と【2】の両者の〔北〕は共に同じ〔北〕ではないと考えていた。つまり、卑弥呼王朝は――【1】対馬国と一大国の〔北〕は現在方位と同じく〔北〕である。しかし、【2】本州・日本列島地理においては、現在方位で〔西〕にある九州は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔北〕に所在し、現在方位で九州の〔東〕に所在する東海地方(愛知県・静岡県)は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔南〕に所在する――と定めていた。
 だから、【2】の[]の字源・字義をあらわす転回方位規定にもとづいて、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。

[倭]の字源をあらわす〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕にもとづいて〔前回(19)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は、「末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国」について解説し証明した。
 〔注 なお、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」では、現在方位と同じ「対馬(つしま)(現在の長崎県対馬)・一大(いちだい)(現在の長崎県壱岐)」についても解説し証明した〕。
 『魏志倭人伝』は「末盧国より東南へ陸行五百里にして、伊都国に至る」、「伊都国より東南へ百里して奴国に至る」、「奴国より東へ百里行くと不弥国に至る」と説明する。
 下の〔転回方位による九州各小国の旅程基点図〕に示すように、「末盧国の旅程基点は長崎県松浦市、伊都国の旅程基点は松浦市の東南にある福岡県糸島(いとしま)市前原(まえばる)町、奴国の旅程基点は前原町より東南にある福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)、不弥国の旅程基点は香椎宮より東方にある福岡県宗像(むなかた)玄海町田島(たじま)の宗像大社であった」、この事実を――前回までのブログで、『魏志倭人伝』は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」で各小国の旅程について記述するものであった事実を証明した。
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◆『魏志倭人伝』は「不弥国から南の投馬(つま)国に至るには水行で二十日」、また「投馬国より南、邪馬壱国に至る。女王国の都(みやこ)する所なり。水行十日・陸行一月」と説明する。
 下に配した〔[]の字源にもとづく、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕に則(のっと)ると――不弥国の宗像(むなかた)の神湊(こうのみなと)から宗像大社の沖津宮が所在する沖ノ島に到着し、沖ノ島から山口県の萩(はぎ)市の見島(みしま)、見島から山口県の荻港までの水行(航行)による旅程」は、『魏志倭人伝』に「不弥国から南の投馬国に至るには水行二十日」と記述されたと考えられる。ゆえに、不弥国の宗像大社より[]の字源「転回方位規定」で「南」となる「萩港」が「投馬国」の旅程基点となる。
 「萩港から出雲の意宇(おう)郡に所在したであろう、卑弥呼が居住した宮殿までの旅程」を、『魏志倭人伝』は「水行十日・陸行一月」と記述したと考えられる。ゆえに、投馬国の旅程基点・萩港から[]の字源「転回方位規定」で「南」となる出雲国の意宇郡が邪馬壱国の旅程基点となる。
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 『魏志倭人伝』には、5世紀の裴松之(はいしょうし)の注がある。この注は「倭では春の耕作時を一年、秋の収穫時も一年と計っている」、つまり「今日の一年を二年と数えた」と説明している。ゆえに、『魏志倭人伝』の「不弥国から投馬国までの、水行二十日」という記事は「現在暦だと、不弥国から投馬国までは航行で十日の距離である」と説明していたことになる。同様に、『魏志倭人伝』の「投馬国から邪馬壱国までは、水行で十日・陸行一月」は「現在暦だと、投馬国から邪馬壱国にある卑弥呼の宮殿所在地に到着するまでは航行で五日・陸を歩いて半月かかる」と説明していたことになる。
 卑弥呼が居住する女王国・邪馬壱国は日本海側の山陰地方(旧国の石見・出雲・伯耆)であった。ゆえに、九州沖の玄界灘から山口県・投馬国沖の響灘(ひびきなだ)を通過して日本海へと進入すれば、投馬国の萩港に到着するまでの日数は『魏志倭人伝』が「水行二十日(現在の十日)」と記述するほど掛からないはずである。
 しかし、前述したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が政権基盤とした【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する書物であった。このため、【倉頡が発明した漢字作成理論】の基本字となる倉頡が創った[]の字源・字義をそのまま受け継ぐ[]の字源・字義に関する説明を省略するわけにはいかなかったゆえ、魏に送付された卑弥呼が書いた文書には「沖ノ島に立ち寄る旅程」が書かれていた。だから、不弥国の神湊から投馬国の萩港までの旅程には「沖ノ島に到着して、さらに幾日か過ごす日数」が加わることになって――「不弥国の宗像市の神湊から、宗像大社の沖津宮が祭られる沖ノ島、沖ノ島から投馬国の見島、見島から投馬国の萩港に到着するまでの、長い遠回りの経路」すなわち「水行で二十日(現在の十日)かかる経路」が、『魏志倭人伝』には記述されることになったにちがいない。

◆前述したように、【A】「対馬国・一大国における〔南北〕と相違し、【B】対馬国・一大国より遠く離れる東海地方(愛知県・静岡県)や北陸地方(富山県・石川県)までを含む本州・日本列島地理では[]の字源となった「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 つまり、上に配した〔卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理〕が「倭人国」の[]の字源をあらわした。だから、「末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国の旅程記事における方位」は、上に配した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における方位規定〕にすべて合理となって、合致する。
 『魏志倭人伝』の小国記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する史料であった。このため――「不弥国から投馬国に至るまでの水行二十日」という記事は「対馬国・一大国から遠く離れる東海地方や北陸地方までを含む本州・日本列島地理における方位規定の[]の字源【時計回りに90度転回する方位規定】をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】があらわされることになった。これゆえ、宗像大社の沖津宮が所在する沖ノ島に立ち寄る経路は単に旅程を説明するものではなく、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした〔卑弥呼が立論した転回日本列島における緯度基準地となった沖ノ島〕について説明が加えられたのである。
 つまり、上の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕の左側に配したように、玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうづしま)は同緯度(北緯3415)である。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回でも詳細に解説したように――人類は原始のときから、頭脳に[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、日々鍛錬して1度の60分の1の、1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで食料を求めて眼力を鍛錬しながら移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理の代わりにして[]をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存した。
 今から約5000年前の五帝時代に生存した倉頡は【[]のキャッチ】の基(もと)に【漢字作成理論体系】を構築(こうちく)した。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、沖ノ島が所在する大海・玄界灘を命を失わずに往来する方法は【[](天頂緯度線と子午線)のキャッチ】のみ一つであった。また、太平洋に浮かぶ伊豆諸島の神津島を命を失わずに往来する方法も【[]のキャッチ】のみ一つであった。
 だから、卑弥呼時代、【[]のキャッチ】によって、日本列島に西端にある沖ノ島と東端にある神津島は同緯度(北緯3415)であると測定できた。そして、上記したように、倉頡は【[]のキャッチ】を基(もと)に【漢字作成理論体系】を構築し、卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】は絶対に無視してはならない絶対的に神聖かつ崇高な権威であった。だから、【[]のキャッチ】と【倉頡が発明した漢字作成理論】によって本州・日本列島の〔東〕は90度転回して〔南〕と定める転回地理基点となった、【神津島と同緯度と測定された沖ノ島に立ち寄る、長く遠回りの経路】の説明を省略することはできなかったのである。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回で詳細に解説し証明したように、『魏志倭人伝』(280289年に成立した)と同時代の260年頃~290年頃に作製された「不呼国・遠江(現在の静岡県西部)」に現存する「1千万坪の大鳥の地上絵(現在の静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形)には「正確な中国の海岸線地図」が明確に示されている。
 これから始める解説には、現在の日本列島地理の方位に則(のっと)る。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ、〔北冷南暖〕となる。日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるが、日本列島の東端にある亜熱帯の神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、〔西冷東暖〕となる。
 下に配した「中国の〔北冷南暖〕と倭の〔西冷東暖〕の図」に示したように――中国の北部海岸線地域と日本列島西端の沖ノ島の気候は共に冷たいゆえ、〔中国の北冷=日本列島の西冷〕となる。中国の南部海岸地域と日本列島東端の神津島の気候は共に暖かいゆえ、〔中国の南暖=日本列島の東暖〕となる。この考えにもとづくと、日本列島西端の沖ノ島は中国海岸線地域の北部に在り、日本列島東端の神津島は中国海岸線地域の南部に所在する。だから、下に図示したように、日本列島は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を示して、本州・日本列島の〔東〕にある東海地方は〔南〕に所在することになった。
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 倉頡は「イネ()や麦。五穀」を字義とする[()]の字を創って「方位は時計回りに90度転回する」と定理した。[][]が加わって[()]となり、人偏(にんべん)[]が加わって[]となった。夏音文字の[][]の字は、倉頡が創った[]の字源・原義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 ゆえに、『魏志倭人伝』の「不弥国から投馬国までは水行二十日で到着する」という「沖ノ島に立ち寄って、さらに幾日か沖ノ島で過ごす日数を加えたにちがいない」――この「水行二十日(今日の十日の航行)」という記事は、卑弥呼王朝が最も神聖視する【[]の字を創った倉頡が発明した漢字作成理論における重大な要素】を説明するものであったのである。したがって、「沖ノ島」の説明を省略することができなかったのである。
 だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための史料ではなかった。『魏志倭人伝』は、卑弥呼王朝の政権基盤【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する史料であったのである。

◆「投馬国」と「邪馬壱国」の両国名において、共に[]の字を有する。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回の中半部から、また前回(18)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の後半部から解説したように――【倉頡が発明した漢字作成理論】は倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と名づけられた。倉頡は「牛」と「馬」を「鳥獣の足跡(漢字作成理論)」の「獣」、つまり「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」、[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」である。わが国には「牛・ジャコウウシと、馬・フタコブラクダ」は生息していない。ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬は無い(生息していない)」と記述する。
 だから、わが国に生息せず、生態も詳しくない「牛・ジャコウウシ」と「馬・フタコブラクダ]を意味する字を小国名に用いた事情は、卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であったからにほかならない。【倉頡が発明した漢字作成理論】においては、「牛・ジャコウウシ」と「馬・フタコブラクダ」を欠くことができない聖獣であった。
 倉頡がつかえた黄帝は「女性の生殖器官と子どもの出産」を研究した。倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝が研究した「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。倉頡は「女性の骨盤と骨盤がその大半を包囲してまもる生殖器官」を「牛・ジャコウウシ」に見立て、「骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道を通過する出産児」を「馬・フタコブラクダ」に見立てた。これゆえ、[]は「女性の骨盤と生殖器官」を意味し、[]は「出産児」を意味することになった。

 ゆえに、「投馬国」の[]は「出産児」を意味した。「投馬国」は、「現在の山口県」、旧国の「長門(ながと)と周防(すほう)」であった。
 下に配した「山口県・投馬国の地宜」は「馬・フタコブラクダの横顔」に相似する。この観点からも、「山口県」の小国名には[]の字が付くことになった。
 下に配した上図は、転回方位にもとづく投馬国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)である。下図は現在方位にもとづく投馬国の地宜である。

出産が始まる時は「出産第一期・開口期(かいこうき)」と名づけられ、次は「出産第二期・娩出期(べんしゅつき)」と呼ばれる。
 ――出産第一期・開口期において、陣痛(じんつう)が始まると、子宮口(しきゅうこう)にむかった卵膜(らんまく)は羊水(ようすい)によってふくらみ、くさび状に子宮頚管(しきゅうけいかん)をひろげ子宮口が開いていき、出産児()の頭はしだいに押し下げられてくる。子の頭は骨盤産道にはいりこみ、骨盤産道の形に応じて向きを変えていく。正常分娩の場合には、骨盤入口の上では子のアゴを胸につけた姿勢で、子の背中は母体の左または右にある。中ほどにくると子の頭は斜(なな)め後ろの(母体の背側)に顔を向け、出口では顔をすっかり後方(母体の背側)に向ける姿勢となる。開口期の終わりには、ほぼこの状態となる。
 上記した「出産児、つまり馬(フタコブラクダ)が骨盤入口の上では出産児()がアゴを胸につけた姿勢」は、下の二図の「投馬国の地宜」に相似すると見立てられた。
 だから、「山口県」の小国名には[]の字がつくことになったのである。
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 激しい痛みの陣痛に耐え、汗と涙でグショグショとなって命がけの戦いに勝利して子ども()を出産させる母体は「ひたすら、早く愛しいわが子に会いたい」と願うゆえ、「アゴに胸につけた姿勢の子()が強い力で投げられる弾丸にように一気に生まれよ」と必死に願う。ゆえに、「山口県の地宜」は母体の「わが子()よ、おなかから分離して投げる弾丸のようになって勢いよく生まれよ」という必死の願いをあらわしているということで、卑弥呼は小国名を「投馬国」と定めたと考えられる。
 上に配した〔投馬国の地宜解説図〕の上図における旧国名の「長門」つまり「長い門」は、『魏志倭人伝』が「不弥国から投馬国に至るに水行二十日かかる」と記述する「沖ノ島回りの遠く長い航行の港の門」が「萩港」ということで「長門」と名づけられたのであるまいか。
 下図における旧国名の「周防」は「天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して[]のジャコウウシの群れが円陣を組む、その円陣が周(たて/盾)となって防備する」と意味するものであったにちがいない。アゴを胸につけた姿勢の出産児のごとくに、周()となるジャコウウシは前肢(ぜんし)で地面をたたき、頭をアゴにつけて低い姿勢となり、襲ってくるオオカミをオスが角(つの)でひっかけ肩越しに投げとばし、他のジャコウウシがオオカミをふみつぶして殺す。「投馬国」の[]には「ジャコウウシが出産児のごとくアゴを胸につける低い姿勢となって角でオオカミを投げとばして命がけの戦いに勝つように、母親がわが子をおなかから弾丸のごとく投げ飛ばして命がけの戦いに勝利する」と意味するものであったと考えられる。
 投馬国・山口県南部の周防灘と響灘(ひびきなだ)を結ぶ関門(かんもん)海峡は、出産児()が通過する狭い産道に相似する海峡である。関門海峡の古称は「馬関海峡」であった。ゆえに「馬関海峡」の[]は「投馬国」の[]であり、また「出産児」を意味したにちがいない。馬関海峡の東部(現在方位にもとづく)の早鞆(はやとも)付近は最強の8ノットの潮流が流れ、せまい馬関海峡は交通の難所である。「鞆(とも)」は「弓を射るとき、左手につけ、弓の弦(いと)が手首をうつのを防ぎ、また弦音(げんおん)を高く鳴らすのに用いる皮製の具」である。ゆえに、「早鞆」という交通の難所はその「最強の8ノットの潮流」で「弦音高く射る矢のごとく早く走る馬(フタコブラクダ)」を譬(たと)えるものであったにちがいない。だから、「早鞆」は「母体のおなかから分離して、投げられた弾丸のように狭い産道を一気に通過する出産児・馬の様子」をあらわしていることになる。

◆『魏志倭人伝』に最初に登場する「対馬国」を「一番目」と数えると、七番目が「投馬国
となり、八番目が「邪馬壱(やまい)国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と記述される女王国となる。したがって、九州説と畿内説が断定するように、『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬台国」と記していない。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回はじめ幾回においても解説して証明したように、「邪馬壱国」は「現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」という大きな範囲であった。
 倭女王・卑弥呼が住む宮殿が所在した「邪馬壱国の中心」は「山陰出雲(現在の島根県東部)」であった。
 上記した〔卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理〕で定理された[]の字源をあらわす「転回方位規定」にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の古代出雲の地宜は――下記のごとくであった。 
 下の〔古代出雲の地宜〕の左上には「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。[]の字源「転回方位規定」にもとづくと、神門水海の東隣となる出雲大社が所在する周辺地域の地宜「親の馬・フタコブラクダの横顔」に相似すると見立てられた。これゆえ、「神門水海」は「親の馬・フタコブラクダが鼻でなでる子の馬・フタコブラクダ」に見立てられた。
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 下に配するように、「神門水海」は「緯度線と経度線に邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
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 下の図に示したように、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭、前掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上にある「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国全土の天頂にめぐってきた。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて幾回ともなく解説し証明したように、「十字の銀河」は[]「フタコブラクダ」の字源であった。「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」ゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「倉頡」に見立てられた。ゆえに、倉頡伝説は「漢字は銀河から作られた」と伝えるために「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」にもとづいて「倉頡」は「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。そして「四つ目の怪人、倉頡」に見立てられた「鬼の横顔に似る銀河」は[]の字源となった。ゆえに、「倭国」の正式名「倭人国」の[]の字源は「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」であると考えられる。
 「十字の銀河の子宮(に相当する銀河)」は[]の字源・字形・字義となった。さらに詳細にいうと、「十字の銀河の子宮周辺」は「牛・ジャコウウシ」に見立てられた「女性の骨盤と、骨盤がその大半をつつんでまもる女性生殖器」に見立てられて、[]の字源・字形・字義となった。
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 下の図に示したように、古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「足の形に似る、宍道湖」は上に示した「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。上記したように、[]の字源となった「十字の銀河の子宮」は「女体の姿に相似する、十字の銀河の右足」の東側に隣接する。
 ゆえに、「十字の銀河の右足」に見立てられた「宍道湖の東岸(転回方位)」と接する佐太(さだ)神社が所在する「島根半島の中央部」が「十字の銀河の子宮」が在る箇所に見立てられて[]をあらわす地宜となった。
 したがって、「山陰・出雲」の「神門水海」が「邪馬」をあらわし、「島根半島の中央部」が[]をあらわすゆえ、女王国名の「邪馬壱」をあらわすことになった。
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 上の図の下部に示すように、[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた「島根半島の中央部の〔南〕から転回方位規定「時計回りに90度転回する」と〔西〕となる地域は、「意宇(おう)平野」言いかえると「出雲国内で最大の郡の、意宇郡」であった。
 733(天平5)に、国造(くにのみやつこ)出雲臣広嶋らに『出雲国風土記』は編纂され、ほぼ完全な形で残った唯一の風土記である。『出雲国風土記』の国引き神話では、「意宇郡」の地名の起源は――出雲国は狭いため、八束水臣津野命(やつかもずおみつぬのみこと)が新羅(しらぎ)や北陸などの国の余りに「綱打ち掛けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来(くにこくにこ)と引いてきた」。それが島根半島といい、国引きの綱は薗(その)の長浜と弓ガ浜であり、土地を繋ぎとめた杭が三瓶山(さんべさん)と大山(たいさん)といわれる――と伝えている。
 このような国引き神話の説明は、意宇郡に所在した倭女王・卑弥呼が居住した王宮が所在した歴史を懐かしむ心情をあらわしたものにちがいない。だから、「南→西」となる「意宇郡の一画」に『魏志倭人伝』に「婢千人を侍(はべ)らせ、ただ一人の男子が飲食を給仕し、女王の辞(言葉)を伝えるために出入りしている。女王の宮殿には、樓観(ろうかん/見張りやぐら)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、そこには常に兵器を持った人が守衛している」と記述された――卑弥呼が住んだ王宮が所在したと推定される。

◆前述したように、「出産第一期・開口期の初めから出産第二期・娩出期終わりまでにおける、出産児の頭の回転」を、産婦人科では「回旋(かいせん)」と名づけている。回旋は4回おこなわれる。第1回旋は「時計回りに90度回旋」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋」する。第4回旋は「時計回りに90度回旋」する。
 倉頡は「出産児の第1回旋と第4回旋」の「時計回りの90度の回旋」をヒントにして「時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわす[()]を創った。また「第2回旋と第3回旋」の「反時計回りに90度の回旋」をヒントにして「反時計回りに90度転回する方位規定」をあわす[()]の字を創った。
 倉頡が創った[]の字は「稲や麦。穀物。五穀豊穣」を意味することになり、また「人民の胃袋を食料で満たすという政治スローガン」」をあらわした。
 []の下に[]が加わって[()]となり、人偏(にんべん)[]が加わって[]の字となった。[][]の字は、[]の字源・字義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 西暦180年頃、若き卑弥呼は本州・日本列島の地理は[]の字源・字義を受け継ぐ[]の字源・字義「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづけば――【四つ目の怪人の、倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然(りろせいぜん)と説明できる転回本州・日本列島地理を立論して、倭国の大乱を平定した。〔注 前掲した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕が、卑弥呼が倭国の大乱を平定した地理である〕。
 倉頡は「4回の回旋がおこなわれる、出産児の頭の回旋」をヒントにして、[]の字を創った。
 下に示すように、「出産児の頭」の5枚の頭蓋骨(後頭骨・2枚の頭頂骨・2枚の前頭骨)は重ね合わせることができる仕組みになっているゆえ、狭い産道をくぐりぬけることができる。この「出産児の頭蓋骨の重ね合わせることができる機能(きのう)」を、産婦人科では「広形(こうけい)機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ぶ。
 後で解説するが、下図に示す「出産児の頭蓋骨」における「小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)」は「邪馬」という語をあらわし、[]の字源は「骨盤と産道」であった。ゆえに、「出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期おわりまでの出産児の頭蓋骨と、骨盤・産道」は女王国名の「邪馬壱」をあらわした。
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◆下に配する「倉頡」に見立てられた「四つ目の銀河における、鬼の後頭部とアゴにつく両目から人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の前頭部まで」の、太線で表示した箇所は「邪馬壱の銀河」となる。つまり、太線で表示した箇所は上図に示した「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」ということになる。
 下の図における太線で示した「小泉門・矢状縫合・大泉門の形となる銀河」は「邪馬」をあらわすゆえ「邪馬の銀河」となり、「邪馬の銀河」は[]の字源の「骨盤と産道」をあらわすことになるゆえ、「邪馬壱の銀河」ということになる。
 注目すべきは、《黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線(北緯3536)》が「邪馬壱の銀河の大泉門と小泉門に相当する箇所の北部」を撫()でるがごとく貫通していることである。
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 前掲した〔産道を通過する時の出産児の頭蓋骨図〕に示したように、「出産児の頭蓋骨」は「縦長(たてなが)」である。
 下に示したように、[]の字源となる「縦長の出産児の頭がくぐりぬける、女性の骨盤入口は横長(よこなが)の楕円形」である。
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 出産第1期・開口期において、骨盤入口は横長の楕円形に対して、からだのなかでいちばん大きな出産児の頭(児頭)の形は横長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐりぬけるためには、骨盤入口では児頭は横向きになって骨盤入口に入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)、赤ちゃんはアゴを胸につける姿勢(注 つまり、前述した「投馬国の地宜に見立てられた姿勢」)となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これが「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、出産児は横向きからしだいに正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を「第2回旋」という。第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は反時計回りの90度である。第2回旋が終了した時点で子宮口(しきゅうこう)はすっかり開く全開大(ぜんかいだい)となる。第3回旋は反時計回りになって出産児を娩出(べんしゅつ)することになり、出産児は反屈して恥骨(ちこつ)をくぐりぬけるように児頭から娩出する
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめ声をあげる。この頭の誕生が、出産第二期・娩出期の終わりとなる。

 下に〔馬・のフタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの図〕を配した。
 下図に示した「馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べる鼻の動き」は「産道を通過する出産児の小泉門の動き」にソックリであり、「草を食べるフタコブラクダの上アゴの動き」は「産道を通過する出産児の頭頂骨の動き」に酷似し、「草を食べるフタコブラクダの口の動き」は「産道を通過する出産児の大泉門の動き」に実によく相似し、「草を食べるフタコブラクダの下アゴの動き」は「産道を通過する出産児の前頭骨の動き」に相似する。
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 つまり、「産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の5枚の骨の結合はゆるく少し重なる仕組みとなる。このため、「5枚の骨と小泉門・矢状縫合・大泉門の動き」は「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの上アゴと下アゴが合わずに食い違って邪(なな)めとなって動く様子」に酷似する。ゆえに、「草を食べる時に邪めとなる馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の動きの形状」が「邪馬」となり、[]の字源「出産児がくぐりぬける産道」も加わって、「邪馬壱」という語になった。
1】だから、女王国名の「邪馬壱」は、産婦人科の用語「広形機能(こうけいきのう)・骨重積(こつじゅうせき)」を表現するものであった。
2】だから、「投馬国」と「邪馬壱国」の解説で証明したように、[]の字は「フタコブラクダ」と「出産児」を意味することになった。
3】「馬・フタコブラクダ」はわが国では生息しない・生態をよく知らない馴染みのない獣であった。しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する学術において必要不可欠の聖獣であったゆえ、倭国の小国名には[]の字が使用されることになった。
 九州説と畿内説が断定するように、『魏志倭人伝』は女王国の名を断じて「邪馬台国」と記していない。『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬壱国」と記している。この「邪馬壱国」の国名に用いられた【邪馬壱】という語は、倉頡が創った[][]の作字ヒントになった「4回の回旋がおこなわれる、出産児の頭蓋骨の機能」をあらわしている。
 したがって、九州説と畿内説は科学的根拠の裏付けがまったく無い、傲慢(ごうまん)な単純化から生まれた戯言(たわごと)・妄想であったのである。『魏志倭人伝』は九州説と畿内説が断定するような「邪馬台国研究」の史料ではなく、『魏志倭人伝』は深えんなる銀河の神秘と深えんなる生命の神秘を合体して誕生した【学問、倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する学術書にして歴史書であったのである。

 『魏志倭人伝』の末部で「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩(円墳の直径が約150メートル)」と記述する卑弥呼の陵墓も山陰出雲の地所に築造されたと推定できる。この「卑弥呼の陵墓」の解説が、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の12回で詳細に解説し証明したゆえ、このブログでは解説と証明を省略する。

◆『魏志倭人伝』に最初に登場するは「対馬国」を「1番目」と数えると、8番目国は「邪馬壱国」、9番目国は「斯馬(しま)国」、10番目国は「巳百支(じはき)国」、11番目国は「伊邪(いや)国」である。この斯馬国・巳百支国・伊邪国の詳細な解説と証明も、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の12回にておこなった。
 このブログでは12回との重複をさけて、斯馬国・巳百支国・伊邪国の位置と範囲について結論的に簡潔に説明することにする。
 9番目の「斯馬国」は「旧国の因幡(いなば)と但馬(たじま)、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」であったことになる。
 下の図に示したように、邪馬壱国の旧国・伯耆(ほうき/現在の鳥取県西部)に隣接する因幡における、現在の鳥取市にはわが国最大の砂丘地帯「鳥取砂丘」が所在する。「鳥取砂丘」から「ゴビ沙漠に生息する馬・フタコブラクダ」が連想できる。「但馬」の[]の字源は「フタコブラクダ」である。「斯馬国」の[]の字を、『説文解字』は「柝()くなり」と解説する。この「柝くなり」という解説は「母体がおなかから柝く(出産児を分離する)」と意味する。前述したように、[]は「出産児」を意味した。ゆえに、前述した「投馬国」の「投馬」と同様に、「斯馬」は「母体がおなかから弾丸のように一気に赤ちゃんを投げ出して出産(誕生)する」と意味することになる。下の「斯馬国(旧国の因幡・但馬)の地宜」が示すように、転回方位にもとづく「但馬南部の地宜」は「母体から分離して投げ出された出産児の頭」のような形をしている。
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 下の図に示すように、斯馬国の但馬に隣接する「丹後(たんご/現在の京都府北部)」が10番目の「巳百支国」であった。
 下の図が示すように、「丹後の地宜」は[]の古代字形に相似する。[]の字義は「ヘビ()」であるゆえ、[]の字は「出産児の大きな頭が狭い産道につっかかって前へ進められなくならないように、ヘビ()のようにくねらせてくぐりぬける」と意味したにちがいない。
その証拠に、「大きな出産児の頭に見立てられる丹後半島」に対して「出産児の胴体に見立てられる丹後半島の付け根から大浦半島の付け根までの地宜」は「狭い産道をヘビのごとく身をくねらせる形」となる。「巳百支国」の[]は「阡陌(せんはく)」の[]の原字と考えられる。[阡陌][]は「南北」、[]は「東西」を意味する。しかし、転回方位規定によって[]は「東西」、[]が「南北」に入れ代わることが多発することになった。この[][]の「経度(南北)[]の「緯度(東西)」の入れ代わりの原因は、「出産児が縦長()の頭を横長(])の骨盤入口に合わせて横長()となる」であったからである。ゆえに、「巳百支」の[]は「出産児の縦長の頭を横長の骨盤入口に合わせて横向きになる状況」をあらわした。「巳百支」の[]は「丹後半島の付け根となる東岸にある天橋立(あまのはしだて)は宮津湾(みやづわん)と阿蘇海(あそかい)の東西に支(わか)れる状況」をあらわした。
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11番目の「伊邪国」は「霧の丹波(たんば)」と呼ばれて有名な「旧国の丹波、現在の京都府中部と兵庫県一部」であった。下の図に示すように、9番目の斯馬国と10番目の巳百支国の両小国の南(現在方位)に隣接して、11番目の伊邪国がある。
 「伊邪国の地宜」は「女性の骨盤の正面形の輪郭(りんかく)の概略の形」となる。これゆえ、「伊邪国の地宜における女性の骨盤入口の大きさ」は「斯馬国の地宜における出産児の頭の大きさ」よりも「巳百支国の地宜における出産児の頭の大きさ」よりも大きい。
 だから、上記したように「斯馬国と巳百支国の地宜」は「せまい産道をくぐりぬける出産児の姿に相似する」と見立てられたことになる。
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 下に配した二図が示すように、「伊邪国の地宜」は「女性の骨盤の正面形の輪郭の概略形」に類似する。
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 白川静著『字統』は[]の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意(しんい)を媒介(ばいかい)する聖職の人をいう」と解説する。
 「十字の銀河」は「聖職の人がもつ神杖」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河」が「神杖をもつ聖職の人」に相当する。
 下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河の東部」は「鬼の横顔に似る銀河」である。「鬼の横顔の銀河」には「顔の両目と、後頭部と下アゴの両目の四つの目」がある。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人・倉頡の銀河」ということになる。
 それゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通した聖職の人、つまり学者」に見立てられたことになる。だから、4番目の「伊都国」と11番目の「伊邪国」という小国名に共通する[]は「【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通した人(学者)」を意味したことになる。
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 『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話〕は――須佐之男命と天照大御神は「不戦の誓い」を結ぶとき、「偽りのない純粋な心で誓いあう霧吹き儀式」をおこなった。しかし、その気(純粋な心で誓いあう気)がない天照大御神に須佐之男命は欺(あだむ)かれて「不戦の誓い」を結ぶことができなかった。このとき、天照大御神王朝を倒さんと計画していた5人の王の渾名(あだな)を須佐之男命は天照大御神に迂闊(うかつ)にも告げ、また天照大御神は須佐之男命が知らなかった宗像君もクーデターを計画していると告げた。この後、天照大御神王朝は孫の天孫の時代まで執念ぶかくクーデターを企てた5人の王たちの渾名から本名を察知して征討しあるいは懐柔(かいじゅう)しあるいは畏怖(いふ)させ、また不弥国の宗像君を征討して、大和王朝が代々栄える基礎を築いた――と伝えている。
 「須佐之男命が天照大御神とおこなおうとした、偽りのない純粋の心で誓うときにおこなう霧吹き儀式」を、『古事記』は――天之真名井(あめのまない/狭い谷川の天頂の銀河が映る井(箇所)の鏡のように清く澄んだ水面)の水を、佐賀美邇迦美て(さがみにかみ/この夏音文字の6字は「邪馬壱」つまり馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べるがごとく噛みに噛んで)、吹き棄()つる気吹之狭霧(いぶきのさぎり/霧吹き儀式して吐いた霧)――と表現する。
 上に配した〔「伊邪・霧吹きの銀河」の解説図〕において、[]の字源「十字の銀河」より邪(なな)めの箇所にある「四つ目の銀河、鬼の横顔に似る銀河」は[]の字義に合致する。上図に示したように、[]の「鬼の横顔に似る銀河」が「谷川の水を口に含んで噛みに噛んで吐き出した霧吹きとなる箇所の銀河部」が「霧」をあらわす。
 だから、「伊邪国」は「霧の丹波」であった。

◆上記した「伊邪」の語源となった「霧吹き儀式」は、次の12番目国の「都支(たき)国」の「都支」の語源が「子宮」、つまり「胎児が宿る、子宮における出来事」を解明するために必要な知識(学識)となる。また、「都支国」の〔[]の字の秘密の解明〕には、前述した「巳百支国」の[]の「宮津湾と阿蘇海が東西に支(わか)れる様子」が重要なヒントとなる。
 以上のごとく、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が証明してきたように、卑弥呼は前後の小国名の由来が密接に関連しあって、全小国名が理路整然と説明できる仕組みにし、さらに各小国名は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】に集約できる仕組みにした。この仕組みは現代医学にあって「大脳の記憶情報は大脳の全体にひろがっていて局所ではない」と説く現代のホログラフィーの科学論に似ている。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然と説明される書物であって、新井白石以後約300年もつづく九州説と畿内説が主張するような「邪馬台国説研究」のための史料ではなかった。
 よって、「はじめに結論ありき」であった。九州説と畿内説は最初から空理空論だった。白石以後300年間、九州説と畿内説を主張する学者たちは『魏志倭人伝』に記述してある事実を削除(さくじょ)して、記述していない事柄をさも記述してあるかのごとく捏造(ねつぞう)するという――学問において絶対にやってはいけない考え方を強行して日本国民を欺(あざむ)いている。
 『魏志倭人伝』は全記事が正確に事実を記述した書物であった。この『魏志倭人伝』に対して、いわゆる邪馬台国説という意見は詐偽(さぎ/虚偽)の産物、聞くに堪()えられない屁理屈(へりくつ)と戯言(たわごと)であったのである。

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