新刊「邪馬台国」は存在しなかった

4110hwvwoil

邪馬台国説は完全なる空理空論だった。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記している。
本書は「邪馬壱国」という女王国名の由来を詳細に明確に科学的に証明して、邪馬台国説が完全なる空理空論であることを証明した。

愛おしき日本人よ。邪馬台国説にダマされるな! 邪馬台国説は相手にするな!

日本国民は、もうイイカゲンに邪馬台国説にダマされるな!
もう十分、日本国民はダマされた! 愛おしき日本国民よ! 目覚めよ!

 

 

 

 

書籍紹介

現代史学が力説する邪馬台国説は日本四千年の学問史を消滅させる誤読の空論であった

令和元年の大嘗祭は4000年の学問史を示す大祭であった。だから大嘗祭は宗教儀式ではない。

【日本四千年の学問史】大川誠一

ダウンロード - nihon_4000nen_no_gakumonshi.pdf (約2.03MB:無料版)

 

kindle版の『日本国誕生史の証明」と『大嘗祭の証明」を販売を開始しました。
各書はともに1000円。
いままで類をみない画期的で魅力のある著作物にしましたので、どうぞよろしくお願い申しげあげます。

 

| | コメント (0)

2022年11月13日 (日)

家康くんと『魏志倭人伝』#6

◆邪馬台国説は真っ赤なウソだ 絶対に信じてはならない アホみるから 信じるな
 邪馬台国説は正しい、誤っていないとウソをまき散らし・デマを流す学者たちはじめ NHKテレビと朝日新聞社は日本国家の土台と日本をぶっ壊す 最悪の日本のガンだ
 このままでは、日本は壊れてしまう 日本文化の学問の土台と 日本の伝統と歴史 日本の発展と前進力が 無責任な邪馬台国説学者たちや NHKテレビ・朝日新聞社のために衰弱して滅びる 
 邪馬台国説を正しいと思いこむ学者たち・NHKテレビ・朝日新聞社は単なるアホだ トンマで 大ウソつきだ
 邪馬台国説は完全なる空理空論 真っ赤なウソ 100パーセントのデタラメである事実がいとも簡単に容易に科学的に証明できる方法がある
 小学5年生でも 邪馬台国説が空理空論 真っ赤なうそ・デタラメである事実が簡単に わかる方法がある
 だから 邪馬台国説学者たち 邪馬台国が正しいとデマを流す無責任なNHKテレビと朝日新聞社は 小学5年生もわかるウソを見抜けないアホで トンマで ウソつきなんだ
 これから このブログは 小学5年生レベルで 邪馬台国説が空理空論 間違いなしのウソ・デタラメであると断定できる 【科学】が成立する方法を説明する

◆3世紀後半(280289)、中国の晋(しん)王朝につかえた著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)は魏書・蜀書・呉書からなる『三国志』を著作した。この『三国志』魏書・東夷伝(とういでん)末部にある倭人伝を、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよぶ。
 3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の原書は残っていない。12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)として残っている。
 南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』は、倭女王・卑弥呼が倭人国の首都と定めた地所(女王国)の名を「邪馬壹()(やまいこく)」として記す。ゆえに、学者たちやNHKテレビや朝日新聞が主張するごよく、「邪馬臺()国」と記していない。
 学者たちは3世紀後半に著作された原初が残っていないから、多分、学者たちは――12世紀の刊本は「邪馬臺()国」と記すべきところを「邪馬壹()国」と誤記した――と思っているのであろう。でも、本音(ほんね)は「邪馬臺()・やまたい」が「大和・やまと」や「山門・やまと」の音に近いから、卑弥呼が住んだ女王国名は「邪馬台国だった」と思い込んでいるにちがいない。
 古代史研究家の古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)を著作した。『「邪馬台国」はなかった』にて、古田氏は『三国志』全体に記される[]()86個、[]()
56
字個一つ一つテイネイに調べ、[]()[]()のあいだには誤記の事例がないと指摘した。
 そして古田氏の指摘に合致して、約2000字構成される『魏志倭人伝』の全記事によって――卑弥呼が居住した女王国の名称は「邪馬壹()国であった」と証明できる。この「邪馬壹()国が正しい。邪馬臺()国は空理空論である」という事実を知るためには、このブログのテーマ「小学5年生レベルの科学」が第一歩となる。
 上記したように、小学5年生レベルの科学知識によって邪馬台国説は空理空論、真っ赤なウソ、デタラメであるという事実が明白になると、この延長線上に卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬壹()国」が正しいことが証明される。
 NHKテレビ・朝日新聞社が「事実であるにちがいない」と無責任なデマを流す邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、天の北極・北極星がある方角を〔北〕と定める現在の日本列島地図を立論基盤にする――この論法は、小学5年生のレベルで即刻(そっこく)空理空論・即デッチアゲだと断定できる。こんな簡単明白な小学5年生でもわかるウソをNHKテレビ・朝日新聞社が見抜けないというテイタラクはとてもじゃないがジャーナリズムと呼べない、明確にジャーナリスト失格であると言わざるをえない。

◆邪馬台国説をとなえる学者たちは――【天の北極・北極星がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図】を用いて、日本列島における九州以下の本州地図における方位を論ずる。しかし、この考え方は即刻に空理空論ということになる。というのも、邪馬台国説学者たちが主張するように現在の日本列島地図と同じ方位規定では、中国()や帯方郡が所在す朝鮮半島と日本列島と遠く隔たる大海を、倭国の使者たちが往来できなくなるからである。
 倭国の使者たちが中国・朝鮮半島と日本列島の中間の大海を往来できなかったことになると、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになる。したがって、中国は倭国の様子をまったく知らないことになるゆえ――『魏志倭人伝』には卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)の倭国の様子がまったく記述されていない、つまり『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかったことになる。この結果、邪馬台国説はただちに空理空論となる。
 要するに、中国・朝鮮半島と日本列島をはるか遠く隔たる大海を倭の使節が往来して卑弥呼が書いた文書や使者たちの言によって倭国の様子を魏に伝えることができたゆえに『魏志倭人伝』が著作されたという事実が成立するためには――現在の日本列島地図における方位規定は通用しない。
 卑弥呼王朝は現在の日本列島地図の方位規定と異なり、【倭の死使者たちが中国・朝鮮半島と日本列島の中間の大海を往来できる方位規定】で九州以下の本州における方位規定を定めていた。言いかえると、卑弥呼王朝は「倭国」の[]の字源にもとづいて九州以下の本州における方位規定を制定していた。
 つまり、国名「倭国」の[]の字源は「時計回りに90度に転回する方位規定」であった。このため、卑弥呼王朝は九州以下の本州における方位を現在の日本列島の地図における〔北〕を[]の字源にもとづいて時計回りに90度転回して〔東〕となる、また現在の日本列島地図の〔東〕は〔南〕となる、現在の日本列島地図の〔南〕は〔西〕となる、現在の日本列島地図の〔西〕は〔北〕となる――というぐあいに、九州以下の本州における方位を現在の本州地図の方位に対して時計回りに90度転回する方位を規定していたと、『魏志倭人伝』は記述していた。
 この「時計回りに90度転回する本州地理における方位論」は、上記したように、倭の使節が中国・朝鮮半島と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できる科学によって成立するものであった。

 上記したように【天の北極や北極星がある方角を〔北〕の基準とする、現在の日本列島地図の考え方】の場合――倭国の使節も、魏と魏の出張政庁機関の朝鮮半島の帯方郡の使節も、魏と倭国の中間の大海を往来することができなくなる。このため、魏と倭は国交を結ぶことができなかったゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には瞬時(しゅんじ)に文字が1字も書かれていない白紙であったことになる――だから、「『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない真っ白な白紙だった」という事態となる邪馬台国説はただちに空理空論、デッチアゲ、デタラメであったと証明されることになる。
 下図は、【25,800年で一周する天の北極(円周線上)と各時代の北極星の位置図】である。
 大地における各地あるいは大海における天の北極による緯度は、北極星が描く中心となる天の北極の高度(地平線・水平線から天の北極までの高さ)によって定まる。
 たとえば、天の北極の高度が北緯3515分である大海上の地点の緯度は、北緯3515分となる。
 下図の上部における「α」は「現在の北極星のこぐま座α星と、BC(紀元前)3000年ころの北極星のりゅう座α星」である。この二つの北極星は、天の北極と重ならずに、約0.75

(45)離れている。ゆえに、この二つの北極星は、天の北極に最も近づく北極星である。
 北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、西暦2100年ころのこぐま座α星は天の北極から約0.75(45)離れていた。ゆえに、この二つの北極星は天の北極を中心にして半径約0.75(45)・直径約1.5(90)の円を描いていることになる。
 だから、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径の中心(天の北極)をキャッチすることになるが、この方法では【人類の目は命を失わずにすむ1度の60分の11分の誤差内の精度】で測定できる能力を有していなかった。
 だから、古代においては、天の北極の高度を緯度換算する方法で大海を渡りあるいは遠くの地所まで旅すると、人々は必ず[]を失い絶たれて家族が待つ家へ帰還することができなかった。
K51_20221113151401
 上図の右上に示したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星・こぐま座β星は天の北極から約10(1度=60分の10倍の、600)も離れていた。ということは、卑弥呼時代の北極星は天の北極を中心にして直径約1200分の円を描いていたことになる。約1200分の円を描く、その円の中心となる天の北極の位置を人間の目は[]を失わずにすむ1分以内の精度で測定できる能力を有していない。だから、遠くの地に旅するときや大海を往来するとき、人々は北極星を目印にして天の北極の高度で緯度換算すると必ず[]を失うことになった。
 この科学的事実を無視・排除して、邪馬台国説は天の北極の方角を一括(いっかつ)して〔北〕を定める現在の日本列島地図を立論基盤とする。
 上記したように、もしも卑弥呼時代において現在と同じく天の北極を緯度や経度の基準に用いてたならば、倭国の使節も魏の使節も帯方郡の使節も[]を失って大海を往来できなかったことになる。したがって、邪馬台国説の論法だと『魏志倭人伝』の約2000字の全文字はパット白煙が立ち上って1字も残らず消えてしまうことになる。
 このように、現在の日本列島地図を立論基盤とする邪馬台国説の論法だと「『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていない白紙であった」という現実離れの空理空論となる。
 小学5年生のレベルの科学によって、【天の北極の高度を緯度に換算する方法では、わの使節は中国と日本列島を遠く隔てる大海を往来できなかったこと】になる。
 にもかかわらず、邪馬台国説学者たちやはじめNHKテレビや朝日新聞社は【現在の日本地図を用いて立論する邪馬台国説の空理空論、デタラメ、真っ赤なウソとなる実体】にまったく気づかず、われわれ国民をマインドコントロールしようと躍起になっている。 
 このように、邪馬台国説を絶対に正しいと思い込む学者たちとNHKテレビと朝日新聞社は小学5年生レベルの科学知識を有していない。
 このような小学5年生レベルで即刻に空理空論と断定できる邪馬台国説の悪影響は、『魏志倭人伝』の研究はもちろん、『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』の研究はじめ、あるいは日本古代史や日本古代漢字学・言語学にも甚大な損害・被害が及んで、日本の学問の土台を蝕(むしば)み日本の発展と前進力と創造力を衰弱させている。
 だから、邪馬台国説を正しいとデマを流して日本国民を洗脳することに夢中になるNHKテレビや朝日新聞社は一流ジャーナリズム気取りでいるが、小学5年生レベルで邪馬台国説の空理空論、デッチアゲ、デタラメに実体に気づかない実にお粗末な組織ということになる。なぜならば、小学5年生レベルの科学によって証明できる邪馬台国説のウソを暴露する任務がジャーナリズムの使命であって、邪馬台国説のお先棒をかついでデマを流す行為は自らが背負っている使命を放棄した愚かな自殺行為だからである。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭国の使者中国に詣(いた)るに皆、自(みずか)らを大夫(だいふ)と称す。夏后(かこう)少康(しょうこう)の子が会稽(かいけい)に封ぜられる」と伝える記事がある。
 この記事は「中国の夏后時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、“夏の始祖”と呼ばれる帝禹()の遺言によって益(えき)が帝位についた。この帝益の孫の王子と若者たちが帝禹の遺志である氏族共同体制を日本列島に根付かせるため、今から約4000年前、大海を横断して日本列島の東北地方に定住した」と説明するものであった。ゆえに「倭国の使者は大海を渡って中国に到着すると、皆、自らを“大夫”と称した」という記事の「大夫」が「夏代(かだい/夏后時代)初頭に日本列島の東北地方に定住した帝益の孫の王子と若者たち」であることを表示するために「夏后(夏王朝)の帝王少康の子(王子)が浙江省(せっこうしょう)の会稽に封ぜられた」という記事が補足説明されることになったのである。
 司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀には「帝禹は益に政治をまかせてこと十年、東に巡行して会稽に至って崩じ、天下を益にさずけた。三年の喪()が終わると、益は帝位を禹の子の啓(けい)に譲(ゆず)って、箕山(きざん)の南に隠れ棲()んだ。禹は崩ずるときに帝位を益にさずけたが、益が禹の政治を補佐して政務にあたった日が浅かったので、天下はまだ益の徳をあまねく知らなかった。それゆえに、諸侯はみな益のもとを去って啓のもとに入朝した」と説明する記事がある。
 『史記』夏本紀に登場する「会稽」は、『魏志倭人伝』における「夏后の帝王・少康の子(王子)が封ぜられた会稽」と同じ浙江省の会稽ではなかった。『史記』夏本紀が「帝禹が崩じた」と記した「会稽」は「現在の中国の首都・北京市の東の天津市であった」と考えられる。つまり、夏代初頭・帝禹時代の首都は会計・北京市、帝禹の政治を補佐した王の益が住んでいた地が北京市の東の天津市・会稽であったと考えられる。というのも、帝益の孫の王子と若者たちは日本列島・東北地方の男鹿半島から米代川(よねしろがわ)流域に定住したからである。北京市・天津市と益氏が定住した男鹿半島から米代川流域は同緯度である。だから、益氏の王子と若者たちは帝禹が住んだ北京市・会計と補佐役の王・益が住んだ天津市・会稽と同緯度の男鹿・米代川流域圏に定住して日本列島移住の目的を達成したことになる。
 上記したように、益氏の王子と若者たちが日本列島に移住した夏代初頭は、後期縄文時代初頭に相当する。北京市・天津市と同緯度の東北地方における秋田県北秋田市に所在する伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡と秋田県鹿角市に所在する大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)には、益氏がもたらした夏代初頭の学術の痕跡が残っている。

◆司馬遷著『史記』夏本紀には説明されていないが――帝禹は五帝時代以来の多数の氏族が共同して政治体制を組織し、多数の氏族の中でもっともすぐれた人物を帝王に選び、国家を樹立しない、いわゆる氏族共同政治体制の継続を願った。一方、帝禹の息子の啓は氏族共同体制を廃止して国家を創設して特定の家が世襲して天下を治める王朝体制を願った。このように、帝禹と息子の啓が望む政治体制は相いれず対立していた。ゆえに、帝禹は崩じるとき、益に氏族共同体制の継続を遺言して帝位をあたえることにした。しかし、諸侯たちは帝禹の遺志に反対し、啓の世襲王朝国家体制に賛同して啓のもとに入朝した。このため、帝益はもはや中国では氏族共同体制は継続できないと考えて禹の喪が終わると啓に帝位をゆずって、箕山の南に地に隠居した(隠れ棲んだ)。そして、帝益は禹の遺志・氏族共同体制の継続を新天地・日本列島で成就すると決意した。ところが、老いた帝益には中国と日本列島を隔てる大海を小舟で漕いで横断できる体力を失っていた。このため、たくましい若い孫の王子と若者たちによって大海横断がなされることになり、帝禹の遺志・氏族共同体制継続事業が決行されたのである。
 これゆえ、中国では今から約4000年前に国家が最初に創設された。しかし、益氏の王子一行が定住したわが国では中国よりも約2200年も遅れて・今から約1800年前の2世紀末、卑弥呼によって国家が最初に創設されることになったのである。

 益氏の王子の日本列島定住は、『魏志倭人伝』の記事の他に、『日本書紀』の巻第三・神武天皇紀初頭の〔天祖降臨記事〕にて指摘されている。したがって、「帝益の孫の王子」を『日本書紀』は「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)であった」と伝えている。
 帝益の孫の王子・彦火瓊瓊芸命は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論を教えひろめた。また、益氏は五帝時代末の帝舜(ていしゅん)に命じられ、代々約200250年間、中国の精密な海岸線地図を作製する「虞()」という要職に従事した。ゆえに、天祖と益氏の若者たちは、当時中国における最先端の中国の精密海岸線地図と正確な地図作製方法をわが国にもたらした。
 これゆえ、上記した北秋田市の伊勢堂岱遺跡と鹿角市の大湯環状列石には、〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕正確な地図作製方法が渡来した痕跡が現在も残っている。
 また、『魏志倭人伝』の大半の記事は益氏の王子一行が教え広めた〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕【精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】の両学術の説明で占められている。
 『魏志倭人伝』は「邪馬台国説」とはまったく無関係な古文献だったのである。
 『魏志倭人伝』は〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕益氏が教えひろめた【精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を説明する文献史料であったのである。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は新井白石(あらいはくせき/16571725)以来の邪馬台国説とまったく無関係の、【倉頡の漢字作成理論と、益氏が伝えた精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を説明する文献(学術書)であった。これについては、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」にて詳細に解説して証明した。
 前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」末部にて指摘したように――『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、以下の四つの要素を前もって知っていなければならない。
【一】「漢字」は「銀漢・夏の銀河」から作られた。「天の川・夏の銀河」の別称は「銀河」あるいは「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよぶことになったのである。『魏志倭人伝』は「銀漢から作られた文字」であるから「漢字」と名づけられた事実を【科学】が成立して証明できる書物であったのである。
【二】前述したように――邪馬台国説のごとく、現在の日本地図にもとづいて『魏志倭人伝』のおける九州以下の本州地図の方位を論ずるのは根本的に誤っており、ふつうではない異常な誤った考えということになる。卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、中国の王朝とわが国の卑弥呼王朝における学問では、地理の方位を倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」と[]の字源「反時計回りに90度転回する方位規定」で定めていた。
 その証拠に、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)における直木孝次郎教授が執筆した「邪馬臺国の位置論」は――明治時代の歴史学者・内藤湖南(ないとうこなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』勿吉(ぶつきち)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「南」は「東」と解するべきであるとした―と指摘している。
 上記の『後魏書』は6世紀半ばに著作された。したがって、中国では方向をいうとき、6世紀半ばまで――【倉頡が作った[][]の字源】にもとづいて、内藤湖南が指摘したように現在の地図における〔東〕を中国北部では倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定で〔南〕といい、あるいは〔南〕を中国南部では倉頡が作った[]の字源「反時計回りに90度転回する方位規定」で〔東〕と定めていたのである。(注 この詳細は、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」を参照)
 わが国においては、新井白石以前の学問において、『魏志倭人伝』における「九州以下の本州列島地理の方位においては、倉頡が作った[]の字源を受け継ぐ[]の字源にもとづいて時計回りに90度転回して現在の日本地図における〔東〕は〔南〕であった」と考えなければならないと定まっていた。
 その証拠に、1568(永禄11)の織田信長書状における印判に用いた「天下布武」という語は現在の日本地図における九州以下の本州地理の〔東〕を〔南〕と定める倉頡が作った[][]の字源にもとづいて成立するものであった。また、徳川家康は関ケ原合戦の4カ月後の1601年正月に譜代大名の筆頭の井伊藩に[][]の字源にもとづく〔3000万坪の大鳥の形をした地図の作製〕を命じ、井伊藩は1603年から着工して20年後の1622年に現在の彦根市の行政区域を表示する地図、つまり〔3000万坪の大鳥の地上絵〕を完成させている。ゆえに、現在の彦根市の行政区域を表示する地図の形は[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を表示する遺跡であったことになる。
 また、このブログの「家康くんと『魏志倭人伝』」のテーマとなる遺跡「江戸城(現在の皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路()」は、家康は[][]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」をあらわす遺跡であった。
 下に現在の日本地図にもとづく「家康が設計した江戸城から発する渦巻の水路」を示した。
0000165_20221113151701
 家康は『魏志倭人伝』における九州以下の本州地理の方位は[][]の字源にもとづいて「時計回りに90度転回する学術知識」を有していた。ゆえに、家康は「江戸城から発する隅田川までの水路」を「[]の古代字形」に合致するように、現在の日本地図の〔東〕(水路の出ずる隅田川)が時計回りに90度転回して〔南〕となるように設計して、家康は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と表示した。(注 この詳細は、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」を参照)
 下図が示すように、家康は『魏志倭人伝』の九州以下本州地図の方位は[]の字源にもとづいて「時計回りに90度転回する学問知識」を有していた。だから、現在の日本列島地図の通りに考える邪馬台国説は空理空論であったのである。
0000166_20221113151801
【三】現在、学者たちによって「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定されている。しかし、学説に反して「倉頡伝説」はすべてほんとうであったのである。というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』に説論する学者たちの意見=主観をいっさい加えず、つまり1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えずに客観性に徹底して読解すると「倉頡伝説はすべてほんとうであった、学者たちの意見こそが荒唐無稽のデタラメであった」と【科学】が成立して証明されるからである。
【四】上記したように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国・山陰の出雲に居住した。卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論と、益氏が伝えた夏代初頭の学芸】にもとづいて天下を治めた」と理路整然と説明する教科書であったのである。ゆえに、邪馬台国説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論、デタラメの産物であったことになる。

◆上記したように、『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭国の使者は中国に詣(いた)るに皆、自らを大夫(だいふ)と称す。夏后少康の子が会稽に封ぜられる」と説明する記事がある。
 上記の記事が伝えていたように、中国と倭国をはるか遠く隔たる大海を横断して中国に到着した倭国の使者たちは自らを「大夫」と称した。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、万葉仮名の「ますらを」は現在「益荒男」と記す。ゆえに、「益荒男」つまり「大夫」という語は「益氏の王子と若者たちが横断した、荒波が逆巻く中国と日本列島をはるか遠く隔たる大海を横断して中国に到着した男(おのこ)」と意味したことになる。「益氏の王子一行以後、大海を横断して中国に到着した日本列島の使者たち(住人たち)」は自らを「大夫、益氏の王子一行のごとくの立派な男児」と称(たた)えて、自画自賛していたことになる。ゆえに、司馬遷著『史記』が「夏王朝の4代帝王は少康であった」と伝える、その「少康の王子が浙江省の会稽に封ぜられた」という歴史が『魏志倭人伝』に記述されたのである。
 司馬遷著『史記』夏本紀には「少康の子が会稽に封ぜられた」という記事は存在しない。『史記』は「夏后啓帝が崩じて、その子の帝太康(たいこう)が立った。帝太康が崩じて、弟の中康(ちゅうこう)が帝位についた。帝中康が崩じて、帝相(しょう)が帝位についた。帝相が報じて、その子の少康が帝位についた」と伝える。夏王朝における初代啓帝から5代目の帝王が少康であった」のである。この「帝少康の子が会稽に封ぜられた歴史」が『魏志倭人伝』に記述されているということは、後期縄文時代に日本列島の住人は大海を渡ってはるか遠く隔たる中国(夏国)に到着して、用事をすませるとまた大海を渡って帰郷していたことになる。
 前述したように、『魏志倭人伝』は邪馬台国説とまったく無関係の、【倉頡が発明した漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密な中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を理路整然と説明していた文献であった。このような学術知識が『魏志倭人伝』に記述されたのは――益氏が中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を横断でき、この大海を益氏以後においても日本列島の住人が往来できたからである。
 ゆえに、これからどのような方法で益氏は大海を横断し、日本列島の住人たちは益氏が横断した太海を往来したのか――この方法について【科学】にもとづいて解明し証明する。

◆益氏はじめ古代の倭国の使者たちが中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できた方法は、下図に示す【天頂緯度線のキャッチ】であった。
 天頂緯度線をキャッチすれば、中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できた。
 前述した【天の北極を羅針盤とする方法(天の北極の高度を緯度換算する方法)で、遠い地や大海を旅すると位置(緯度)が不明となり必ず命を落とした】が、【天頂緯度線をキャッチすれば遠い地や大海を旅しても、家族が待つ家へ帰還できるという、この真実】は、本来、小学5年生レベルでもわかる「科学知識」である。
 しかし新井白石以後の邪馬台国説のために、現在、『魏志倭人伝』の方位記事は天の北極がある方角を一律に〔北〕と定める現在の日本列島を立論基盤と定まっている。この邪馬台国説の基軸論法は、上記したように「小学5年生レベルの科学知識」によってただちに空理空論となる。
 このような「小学5年生レベルの科学知識」は中期江戸時代の新井白石以後の邪馬台国説によって排除されることになった。
 しかし、【天頂緯度線のキャッチ】によって倭の使節・帯方郡の使節が大海を往来できたのである。だから、倭と魏は国交を結ぶことができたため、倭国における様子を伝える卑弥呼が書いた文書はじめ倭国の使者たちの言が魏王朝に保管され晋王朝に受け継がれた。ゆえに、晋の歴史編纂官の陳寿によって『魏志倭人伝』に記述されることになったのである。
 下図は【原始から古代にあって、大海や遠くの地に旅する人々が出発地点となった家族が待つ家に帰還できる方法】であった【天頂緯度線のキャッチの説明図】である。
 ゆえに、下図に示すように【天頂緯度線】は【観測地点における最も高い天体部】ということになる。
0000157_20221113151901
 【天頂緯度線】は【地上で天頂緯度測量する人が4~6秒でキャッチする線】である。【天頂点と重なる銀河部位(または天体部)】は天の北極を中心にして一日24時間(正確には23時間56分で、360度の大円を描いて一周する。天頂緯度線の一周は23時間56分・1時間は60分・1分は60秒であるゆえ、結局、天頂緯度線の1日の円周運動は86,160秒となる。86,160秒の微小の曲線のうちの4~6秒はほとんど「平らな線」となる。だから、【人が4~6秒でキャッチする天頂緯度線】は、上図の右上に示したように「平らな線」ということになる。
 要するに、地球が円い事実を目撃して察知することができないように、日本列島各地のせまい入江や港湾の水平線は「平らの線」となる。この事実と同様に【4~6秒間くらいでキャッチする天頂緯度線】は、日本列島各地のせまい入江や港湾における水平線のごとく「平らの線」となる。
 下図に示すように、【天頂点と重なる銀河部位の軌道】は天頂点に接近すると「天頂緯度線・天頂点・子午線」を形成する。この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字[(とう)]の字源・字形・字義となった。
 下図は、[]の字源・字形・字義の解説図である。
000031_20221113152001
 【4~6秒間でキャッチする天頂緯度線】は「1度の60分の11分の精度」で緯度が測定できた。
 原始のときから、人類は【日々眼力を鍛錬すると、4~6秒間で天頂緯度線をキャッチして1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と、そして頭脳に本能】がそなわっていた。この「1分の緯度差を測定できる眼力」を、人類は食料となる獲物を求めて移住生活していた先史時代から日々鍛錬して受け継いだ。人類は〔本能的に、[](天頂緯度線・天頂点・子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)な眼力〕を有し、そして[]をキャッチする技(わざ)を工夫して磨いた。この[]をキャッチする眼力をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれる原始時代やまた氷と雪でただ一面が真っ白な氷河期において絶滅していたことになる。人類は滅びなかったのは、目を鍛錬すれば[]をキャッチする能力が眼にそなわり本能として頭脳にそなわっていたからである。
 先史時代や卑弥呼時代、遠くの地を旅する人々や大海を渡る人々が旅先で自分の居る場所の位置を測定する方法は[]のキャッチのみ、ただ一つであった。前述したように、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】だと旅先で命を失って、家族が待つ家に帰ることができなかった。
 先史時代から現在まで、伊豆諸島の神津島(こうずしま)からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に磨いて刃をつけると石槍や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、その後の縄文時代・弥生時代・古墳時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30キロメートル以上も海で隔てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも遠く離れている。約3万年の旧石器人たちは[]をキャッチできる能力を有していたために30キロメートルも隔たる神津島と伊豆半島の中間の海を往来でき、約400キロメートルも離れる北陸の能登などの遠い地から旅した古代の人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 この約3万年前からおこなわれていた神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実体は謎のベールにつつまれて不明となる。というのも、学界は現在の日本列島地図の方位規定を立論基盤とする邪馬台国説が100パーセント空理空論である事実にまったく気づいていないからである。
 学界は現在の日本列島地図で思考する邪馬台国説の考えに賛同する。このため、中国と日本列島を隔てる大海を往来できる【[]のキャッチ】を、学界は排除していることになる。
 今まで解説・証明したように、『魏志倭人伝』の記事を学界・マスメディアは、真っ先に、【[]のキャッチ】を立論基盤にして考えなければならない。にもかかわらず、現在、学界とマスメディアは真っ先に【現在の日本列島地図を立論基盤】とする邪馬台国説を正しい意見と思い込んでいる。したがって、学界とマスメディアには小学5年生レベルの科学知識がそなわっていないため――空理空論の邪馬台国説のデマが日本国中に波及し、約3万年前の旧石器時代からおこなわれていた神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実が謎のベールにつつまれて不明となる。
 原始のときから、人類は頭脳に[]をキャッチして精密に緯度を測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1分・60秒の緯度差で測定できる神秘的な眼力を有することができたのである。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は銀漢(銀河)輝く天文を地理代わりにして[]をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存したのである。

[]の下に[(よう)]が加わると[(げん)]の字となる。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場に登場する約80年前の100年ころに完成されていたとされる後漢の文字学者・許慎(きょしん)が著作した字書『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。ゆえに、『説文解字』は[]の字源を「小さな、膣口(ちつこう)から頭が誕生したばかりの出産児」と解説していた。
 下図に示すように、[]の字源は「骨盤入口をくぐりぬけてせまい産道を通りぬけて、母体の膣口から頭が誕生して、母体の背・臀部(おしり)を正面に顔を向ける出産児」ということになる。
K102_20221113152201
 大海を渡る人、また遠くの地へ旅する人は「必ず[]をキャッチする」という欲を有すると、[]をキャッチできずに旅先で[]を失った。だから、[]の下に[]が加わる[]の字源は「産道を通りぬけて誕生する幺(出産児)のごとく無欲になれば、[]をキャッチできる」という、「天頂緯度線をキャッチする([]をキャッチする)ときの心得」をあらわしていた。
 いっぽう、わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静著『字統』(平凡社発行)は、上図の「[]の字源解説図」の右側の[]と同字形の[]の金文形を注目して「小さな糸たばの形。糸たばを拗()じて結んだもの。幼はこれに拗()じる棒を通した形で、拗の初文」と解説する。
 しかし、上記した『字統』の[]の解説だと「幼児」の[]([][]が加わる[])の字義「おさない」が不明となる。
 『魏志倭人伝』には「女王国の以北には特に一大率(いちだいそつ)を配置して諸国を検察させた。倭国における国々は一大率の諸国を検察する強力な権限を畏(おそ)れはばかった。一大率は常に伊都国の居て治めていた」と説明する記事がある。
 「一大率」の[]の上部は[]、中間の中央は[]の字である(注 この[]上部中央の[][]を加えると[]の字となる)
 白川静著『字統』は[]の古代字形(甲骨文字の字形と金文形)にもとづいて「糸をしばる形で、糸たばの上下に小さな横木を通して、これを拗()じて水をしぼる形」と解説する。このように、白川静著『字統』の[][]の古代字形の解説は共通点を有する。
 「[]のキャッチ=天頂緯度線のキャッチ」は「雨天の夜空」で不可能となる。「[]のキャッチ」は「水気をしぼったように、乾いた晴れた夜空」ならば、[]がキャッチできる。だから、上図の「[]の字源解説図」における右側に配した[]の金文形は「糸たばを拗()じって水気をしぼる形」をもって「水気がある雨天や曇天ではない、[]がキャッチできる水気の無い晴天の夜空」を表現したのである。
 出産児は、羊水で濡()れる産道を4回も身を拗()じって通りぬける。ゆえに、「産道を無欲で通りぬける出産児」を金文は「水に濡れた糸たばを拗じる形」に見立てたのである。そして「水気の無い乾いた晴天の夜空にておこなう[]をキャッチするときの産道を通過する出産児のごとく無欲になる心得」をあらわすために、[]の金文形は「水気の無い乾いた晴天」を表現して「水で濡れる糸たばを拗じて絞る形で水気の無い様子」をあらわしたのである。ゆえに、上記したように上部中央が[]となる[]の字も、白川静著『字統』が指摘するように「水で濡れる糸たばを拗じて水を絞る形」をあらわすことになったのである。

◆「一大率が常に居住した伊都国」は「現在の福岡県糸島市の前原(まえばる)町周辺地域」であったと考えられる。というのも、『日本書紀』に登場する「伊都県(いとのあがた)」は「現在の福岡県糸島市の前原町周辺」であったからである。「糸島市前原町」は「糸島半島の付け根」に所在する。糸島半島は「玄界灘」に面する。「糸島半島」の[]と「玄界灘」の[]の字は、上記した[][][][]の字源の秘密を伝えていたのである。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼時代、倭の使者たちは糸島半島が面する玄界灘を渡って朝鮮半島の帯方郡や中国の魏都・洛陽に到着し、また玄界灘を渡って倭地に帰還した」と説明している。
 だから、前述したように「北極星を目星にして天の北極の高度を緯度に換算する方法」では【命】を失って玄界灘は往来できなかったが、「玄界灘」の[]の字が示すように「[]をキャッチする方法ならば【命】を失わずに、倭の使者たちは玄界灘を往来できた」ことになる。
 「玄界灘」という名称は「[]の字の上部の[]をキャッチする方法ならば1分・60秒の誤差内で精密に緯度(位置)が測定できたゆえ【命】を失わずに往来することができる、陸地から遠く離れる波の荒い海」と意味した。だから、現在の日本地図を立論基盤にする邪馬台国説は即刻に空理空論・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる
 3万年前の旧石器人たちは[]をキャッチして伊豆半島から隔たる海を往来して神津島の黒曜石を手に入れていた。
 今から約4000年前の夏代初頭、益氏の王子と若者たち一行は[]をキャッチして玄界灘を渡って九州に上陸して北進して日本列島の男鹿半島・米代川流域に定住して【倉頡の漢字作成理論と、精密な中国海岸線地図と正確な地図作製方法などの学問】を教え広めて、帝禹が願った国家を作らない・氏族共同体制を日本列島に根づかせた。
 もしも、益氏の王子と若者たちが[]をキャッチできなかったとするならば、天の北極の高度を緯度に換算する方法では大海を横断できなかったゆえ、『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかったことになる。
 しかし、益氏の王子一行は[]がキャッチできたゆえ大海を横断して帝禹の遺志・氏族共同政治体制を日本列島に根づかせ、また【倉頡の漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】を日本列島に教えひろめた。
 だから、『魏志倭人伝』には【倉頡の漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】が理路整然と詳細に説明されることになった。
 したがって、『魏志倭人伝』と「邪馬台国」はまったく無関係ということになる。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国名は邪馬壱国であった」と記す。そして、『魏志倭人伝』は、その大半の記事で【倉頡の漢字作成理論と、精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】を理路整然と詳細に説明している。
 上記したように、倭人国の首都所在地の女王国名は「邪馬壱国」であった。また、「邪馬壱国」は「山陰・出雲」であった。前述したように、家康は「江戸城から発して隅田川に出る、古文[]の字形となる水路()」を設計して「卑弥呼が住んだ女王国・邪馬壱国の中心地は山陰・出雲であった」と表示している。家康は九州以下の本州地理における方位規定を現在の日本列島地図のように考えなかった。家康は「倭人国」という国名に用いられる[]の字源「時計回り90度転回する方位規定」にもとづいて「九州は本州の〔西〕に所在せず〔北〕に所在する、現在の日本列島地図の〔北〕となる日本海は〔東〕に所在する」と考えて、「邪馬壱国の中心地は山陰・出雲である」と断定した。この家康の[]の字源にもとづく考え方は、新井白石以前における『魏志倭人伝』のふつうの読解方法・学問における定式であったのである。

◆『魏志倭人伝』には「倭国では、様々な行事をおこなうときや遠くの地・大海を旅して帰郷するときや云為(うんい/雨乞い)するとき、骨を灼()いて吉凶を占うが、真っ先に行事を占うのか旅について占うのか雨乞いについて占うのかなど、占うテーマは何であるかを告げる。この卜占に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとし」と説明する記事がある。
 つまり、『魏志倭人伝』は「倭には令亀の法、つまり殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のような原初漢字が存在した」と伝えている。しかし、このような甲骨文字のような原初漢字が書かれた史料が出土していない。ということは、中国でも倉頡が生存した五帝時代初頭から殷代前半の原書漢字を書いた文字史料が出土しないゆえ、『魏志倭人伝』の「令亀の法のごとし」と説明する原初漢字は「益氏が教え広めた夏代初頭の夏音(かおん)文字」であったことになる。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存する。
 したがって、学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定するが、この定説は空理空論であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「魏都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に倭国の使節が派遣されるとき、また魏の出張政庁機関がある帯方郡の使節が倭国に到着するとき、魏と倭が国交を結ぶための文書に用いる魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。このため、伊都国の港では捜露(そうろ)、つまり楷書と夏音文字の字源は共に銀漢(夏の銀河)各部の形状であったので、楷書と夏音文字の字源銀河を捜して露わにして、楷書と夏音文字が同義になるように伊都国の港で変換していた」と説明する記事がある。
 このブログで前述したように、『魏志倭人伝』の記事は正しく理解するためには、「漢字」は銀漢(夏の銀河)から作られた文字」であったゆえ、略して「漢字」と名づけられた学問知識が必要となった。
 わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」においても指摘・解説したように――倉頡はもしも反体制側が漢字作成理論密を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は滅亡すると心配して、倉頡は【死刑と定める3つの掟】を定めた。この【1】の掟は「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と容易に理解できるように直接的に暴露してはならない、【2】の掟は「多数の文字を容易に覚えることができるようにする」ため、銀漢各部に名称をつけてはならない、【3】の掟は「書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする」であった。
 これゆえ、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために中国における五帝時代・夏代・殷代前半に用いられた原初漢字が書いた史料は出土しないことになった。わが国においても、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。また、『魏志倭人伝』に記述された伊都国の港で変換された魏都・帯方郡・諸韓国で用いられた楷書と倭国で用いられていた夏音文字を書いた史料も出土しないことになったのである。

◆しかし、『魏志倭人伝』における対馬国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の記事と、小国名が不明の1か国と裸()国・侏儒(しゅじゅ)国・黒歯(こくし)国などの4ヵ国、計34ヵ国の説明記事やその他の様々な記事は【倉頡の漢字作成理論と、益氏がもたらした精密中国の海岸線地図や正確な地図作製方法や夏音文字などの夏代初頭の学術】を伝えている。
 夏代初頭から卑弥呼時代まで【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の学術】は銀漢(夏の銀河)各部の形状や地図の形をあらわす地名によって保存され、また前記したように『魏志倭人伝』に「倭国では、様々な行事をおこなうときや遠くの地・大海を旅して帰郷するときや云為(うんい/雨乞い)するとき、骨を灼()いて吉凶を占う」と記述されているように卜占や様々な習慣・習俗などによって保存されていたのである。

だから、わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#4」にて指摘したように、白川静著『字統』は9ページの終わり3行目から10ページの初めから3行目までで【わが国の漢字音】と題して下記のごとく指摘することになったのである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 現存する中国における最古の漢字音は「上古音」とよばれ、この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年ころ)の周代初頭の漢字音である。
 他方、上記した白川静著『字統』が【わが国の漢字音】と題して「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった」と指摘する――この漢字音は益氏の王子一行が日本列島に定住した紀元前21世紀ころの夏代初頭(後期縄文時代初頭)の漢字音である。したがって、『魏志倭人伝』における卑弥呼(ひみこ)はじめ壱与(いよ)や難升米(なしめ)や載斯烏越(そしあお)などの人名はじめ小国名や官職名に用いられて残った夏音文字は、中国の最古の上古音よりも約1000年前も古い漢字音となる。まあ、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて多数の夏音文字が現存する。
 下図に示すように、学界が「正しい」と太鼓判を押す「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、下図における最下部に配置される。だから、わが国の漢字習得の定説は中国の上古音よりもずいぶん新しことになって、明確に「科学に反する空理空論、真っ赤なウソ」であったことになる。
Photo_20221113152301
◆つまり、新井白石以前の代々の天皇はじめ高僧や源頼朝・北条氏・足利氏・織田信長・徳川家康などにとって、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】を説明する、天下を治めるための王政・帝王学の教科書」であったのである。
 以上のごとく、これまで解説・指摘・証明したように『魏志倭人伝』は「現在の日本列島地図における方位規定を立論基盤とするとただちに空理空論となる、と断定することができる科学の書物」であり、「卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱国は山陰・出雲地方であったと伝えていた、真っ先に[]のキャッチにもとづいて思考する書物」であったのである。
 『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】はわが国における学問の始まり・原点であった。だから、【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】は今日のグローバル化の時代にあって、日本の固有の文化と未来への前進と発展の原動力であり、そして人類の文字の発明を明確に伝える貴重な遺産ということになる。だから、小学5年生レベルの科学によって空理空論と断定できる邪馬台国説は日本をぶっ壊す、最悪の日本のガンということになる。

 邪馬台国説はすべてウソである
 邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は真っ赤なウソだったのである
 悲しいじゃないか 真っ赤なウソ・空理空論にまんまとダマされるなんて
 バカにされるな コケにされるな 愛しき日本国民よ
 ――邪馬台国説は 日本国と日本人を木っ端みじんにぶっ壊す
 デタラメ、インチキ、日本を滅ぼす最悪のガンだ
 小学5年生レベルの科学によって 邪馬台国説は空理空論だと断定できる
 日本人よ 邪馬台国説にまんまとダマされるな
 日本人よ 真実に 目覚めよ 

| | コメント (0)

2022年10月27日 (木)

家康くんと『魏志倭人伝』#5

◆邪馬台国説はすべてデタラメ、インチキ、ウソであった。
 江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき/16571725)が邪馬台国大和説、さらに邪馬台国九州説(筑後山門郡説)をとなえて以来、現在まで300年――学者たちは真っ赤なウソの邪馬台国説・悪質なたわごとをとなえて、われわれをマインドコントロールしてダマそうと躍起になっている。
 われわれ日本人は邪馬台国説に洗脳され、マインドコントロールされていた。
 われわれは空論の邪馬台国説にダマされ、日本人として尊厳を失っていた。
 日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人ヨ! 邪馬台国説にはもうダマされるな!
 日本国民は、もういいカゲンに 邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた! もうこれ以上 邪馬台国説に バカにされるな!
 愛おしき日本人ヨ! 目覚めヨ!

◆『魏志倭人伝』には「邪馬臺()(やまたいこく)」なんて名称は存在しない。
 『魏志倭人伝』は、下に示すように「邪馬壹()(やまいこく)」と記す。
0000169_20221027132501
 『魏志倭人伝』とは――中国の晋(しん)につかえる歴史編纂官(著作郎)の陳寿(ちんじゅ)280年~289年に著作した『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部にある倭人伝である。つまり、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」の通称が『魏志倭人伝』である。
 古代史研究家の古田武彦氏は前年に著書した『「邪馬台国」ななかった』(朝日新聞社発行)にて、『三国志』全体に記されている[]()86個、[]()56個の文字を一つ一つテイネイに調べ、「[]()には[]()と記した誤記が一例も存在しない」と指摘した。
 3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』は、12世紀の南宋紹煕(なんそうしょうき)の刊本(かんぽん)として現存する。
 この刊本『魏志倭人伝』には、上記したように「邪馬壹国」と記して「邪馬臺国」と記していない。
 学者たちは「3世紀後半に著作された原本が失われたゆえ、9世紀後(9000年後)の南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』は「邪馬臺国」と記すべきを「邪馬壹国」と誤記した」と断定するが――現存する南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』の記事を丹念(たんねん)に調べると「邪馬壹国」が正しく「邪馬臺国」と読むのは【誤読】であると証明される。

◆中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は、卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬臺()国」と記し、その後ろに小さい字で「案今名邪摩惟音之訛也」、つまり「案ずるに今の名は邪摩惟という音之訛(なま)り也」という注を加える。この注における「邪摩惟」の3字のうち[]の音は「い」である。ゆえに、「邪摩惟」は「やまい」であり、「やまたい」とは読めない。だから、南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬臺()国」と記していないと考えて、私は「邪馬壹()」を「やまい」と読むことにした。

◆『魏志倭人伝』には「倭地には牛・馬は生息していない」と説明する記事がある。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。約、5000年前の中国の五帝時代の初頭の黄帝時代、「ジャコウウシ」は黄帝が居住した本拠地の黄帝陵(こうていりょう/黄帝を祀る廟と墓)付近の凍土(とうど・ツンドラ)地帯に生息していた。黄帝陵は、陝西省(せんせいしょう)黄陵県(こうりょうけん)の橋山(きょうざん)に所在する。
 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)を為()す」という文がある。この文は「黄帝の遠征軍の兵士たちは敵の襲来にそなえて、牛・ジャコウウシのごとく円陣を組んで駐屯(ちゅうとん)した」と説明していた。
 ジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、子を中心にして円陣を組んで防衛する。ゆえに、「営衛」の[]の字義は「牛・ジャコウウシはオオカミに襲撃されると、円陣の中心の子どもたちの命をまもって戦った、つまり防衛した」と意味することになった。
 牛・ジャコウウシは有史以前には広く北半球の寒帯に分布生息して、百頭以上の群れがふつう見られた。ジャコウウシは約5000年前ころから、多くの地方で絶滅したとされる。ところが、黄帝時代においてジャコウウシは絶滅せず、秋から冬にかけてツンドラ地帯となる黄帝陵付近の餌場(えさば)に、百頭以上が一団となるジャコウウシの多数のグループの群れが集まった。黄帝時代が終わり2番目の帝顓頊(ていせんぎょく)の時代になると、ジャコウウシの群れは黄帝陵付近の餌場に集まらず絶命したにちがいない。このため、[(じゅつ)]の字義は「たたりをなす獣」となり、「たたり」を意味する[(すい)]の古代字形(甲骨文字と金文の字形)は「毛の長い呪霊(じゅれい)を有する獣の姿」を図案する。
 ジャコウウシは暗褐色(あんかっしょく)の足首までとどく長い毛(ウール)で分厚く全身をおおっている。ゆえに、ジャコウウシは凍()てつく凍土を荒れくるう猛吹雪(もうふぶき)にもたえることができる。
 黄帝陵付近の餌場に犇(ひし)めいて集まるジャコウウシを狩猟して解体した肉は、冬場において、黄帝陵付近に居住する諸々(もろもろ)の氏族にとって胃袋を満たしてくれる美味しい食物であった。
 現在、ジャコウウシは北極圏の特別保留地で保護されている。
 下に、ジャコウウシの写真を配した。このジャコウウシの写真は、星野道夫記念ライブラリーの絵葉書から転載した。
 『魏志倭人伝』には34の国々が登場するが、そのうち[]の字源「ジャコウウシ」をあらわす国々は次の11ヵ国――一大国、伊都国、そして[]の字を配する奴国(対馬国を倭国の1番目国と数えると5番目国となる奴国)、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、そして2度目の奴国(対馬国から29番目となる奴国)、狗奴国――最多である。
Photo_20221027132701
 そして、『魏志倭人伝』が「倭地には牛・馬が生息しなかった」と記述する、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 『魏志倭人伝』における女王国名「邪馬壱国」における[]の字義は、[]の字源「ゴビ沙漠に生息する、フタコブラクダ」であった。
 『魏志倭人伝』には[]の字源「フタコブラクダ」をあらわす国々は次の5ヵ国――対馬国、投馬国、邪馬壱国、斯馬国、邪馬国――と、二番目に多い。
 34の国々で構成された倭人国において、そのうち[]の字源「ジャコウウシ」と[]の字源「フタコブラクダ」をあらわす国名がなぜ計16ヵ国・47%も占めるのかと言えば――『魏志倭人伝』は「邪馬台国を説明した書物」ではなく、「今から約5000年前の黄帝時代初頭に発明された【漢字作成理論】を理路整然と説明する書物」であったからである。というのも、[]の「ジャコウウシ」と[]の「フタコブラクダ」は【漢字作成理論】を象徴する聖獣であったからである。
 だから、新井白石以来、学者たちが主張する邪馬台国説の実体は空理空論、デタラメ、真っ赤なウソであったことになる。
 『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は黄帝時代初頭に発明された【漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国を統治していた」と理路整然と説明する、世界的に第一級の重大な「漢字の起源が【科学】が成立して解明できる書物」であったのである。

◆黄帝は「女性の生殖器官と子どもの出産」を研究した。
 この【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は、漢字が発明された動機と目的となった。つまり、今から約5000年前の黄帝時代、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作る――これが発明の動機となり目的となって、漢字が起源した。
 漢字は中国において起源し、〔倉頡(そうきつ)伝説〕が漢字の起源を説明していた。
 倉頡伝説は、下記のごとく〔漢字の起源〕について説明した。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を作り、古来(今から約6000年前からはじまる三皇時代)の結縄(けつじょう/占いに用いる記号)に代えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、三皇時代の死霊が感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたという。」

 倉頡伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡が文字(漢字)を発明した。ゆえに、文字が無かった三皇時代の氏族たちの死霊は自分たちの歴史が倉頡によって発明された文字によって後世に伝えられることになったと感激して、天から恵みの雨を降らせて地上に豊かな実り(豊作)をもたらした。倉頡が夜な夜な現れる銀河(天の川)各部の形状を字源・字形・字義と定めた」と説明していた。
 倉頡は通称天文学で「夏の銀河」と呼ぶ、「夏の星座が漬()かる銀河」から【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわす文字を発明した。
 下に、私が「文字作成銀河」と名づけた、倉頡が「漢字」を作った「夏の銀河」の写真を配した。
 下の写真「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。だから、漢字は下の写真の銀漢・夏の銀河から作られた。
Ginga_20221027132801
 倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は滅亡すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、直接的に容易に理解できるように説明して王道政治の学問(帝王学)の秘密を暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部の形状を直接的に具体的に明確にあらわす名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れていつまでも残ることになった者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上記した【3】の掟のために、今から約5000年前から始まる五帝時代、今から約4000年前から始まる夏后(かこう)時代(夏代)、今から約3600年前~約3300年前の殷代(いんだい)前半の漢字を書いた資料は出土しないことになった。
 今から約3300年前~約3050年前の殷代後半の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字は文字数が多数(解釈された字は1700余字、未解釈の異体字は2900余字もある)となったため、文字をいちいち消すのが面倒となったため、【3】の掟は守らないでもよいことになった。このため、殷代後半の甲骨文字が多数出土することになった。しかし、殷代後半においても王朝と国家は「漢字が銀漢から作られた学問・知識」を独占管理して【1】と【2】の掟を厳重にまもったゆえ、新井白石以後の学者たちは「漢字が銀漢から作られた事実」にまったく気づかない。しかし、新井白石以前の各代の天皇はじめ高僧たちや源頼朝・足利尊氏・足利義満・織田信長・徳川家康などは「漢字は銀漢・夏の銀河から作られた」から「漢字」と呼ばれることになったという学術知識を有していた。
 上記した【2】の掟のために、「銀漢・夏の銀河各部の名称」は存在しない。ゆえに、私は下記のごとく「銀漢各部の名称」を定めた。
00003_20221027133001
◆新井白石以前の「銀漢から作られた文字を、略して漢字という」、この事実を知っていた各代天皇はじめ学識者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は【倉頡の漢字作成理論における中枢部】を伝えているゆえ、倉頡伝説は事実を説明すると認識していた。
 ところが、「銀漢から作られた文字であるから、漢字と名づけられた」と想像力をはたらかさない現代の学者たちは「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説の荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定した。
 このように「銀漢から作られた文字であるから、漢字と名づけられた事実」を知らないために【「四つ目の怪人・倉頡」を荒唐無稽のデタラメと断定して、倉頡伝説は事実ではないと否定した錯誤(さくご)】が致命的な欠陥・原因となって、現代の学者たちは「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を理路整然と説明する教科書である事実」にまったく気づかない。
 もしも学者たちが「銀漢から作られた文字であるから、漢字と呼ばれた」と想像力をはたらかせて、丹念に銀漢・夏の銀河を見たならば「アッツ! 倉頡伝説は真実を伝えている。はくちょう座の尾の部分に四つ目の怪人・倉頡が居る!」と気づいたにちがいない。
 銀河を撮影する写真と言えば大半が「夏の銀河(銀漢)の写真」であり、また美しい印象ぶかい星座と言えば「はくちょう座」であるゆえ――銀河の写真と言えば「はくちょう座と、その背後の夏の銀河の写真」ということになる。
 私が銀河についての知識がほとんど無いに等しい40年前頃(1980年頃)、本屋の店頭の天文学コーナーに並ぶ銀河や星座に関する多くの本の表紙や口絵には「はくちょう座と背景に夏の銀河を撮影する写真」が用いられていた。この写真から、「はくちょう鳥の尾の部分に四つ目の怪人・倉頡が居る」ことに気づいた。

 「歳差(さいさ)」と名づけられた天文現象を利用すると、今から5000年前の中国の各地の天頂にめぐってきた銀漢の形状を表示することができる。
 司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝の遠征軍は江(こう)に至った」と記述する。この「江戸」は「長江口(ちょうこうこう/長江の河口と中央に崇明島がある湾)」であったことになる。「長江口の中央」は北緯3130分である。
 下に、黄帝時代(今から5000年前)における中国各地の天頂にめぐってきた銀河の形状を図示した。
 この図の下部の「鬼の横顔に似る銀河」には〔目〕の形が四つある。この「四つ目の銀河」が「はくちょう座の尾の部分に居る、四つ目の怪人・倉頡」である。つまり、「漢字は銀漢から作られた事実」を直にあらわさずに隠すため、「頭に1本角がはえる、鬼の横顔に似る銀河」を倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と名づけたのである。
 下図の下部に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔に両目、その後頭部とアゴにも目の形をした銀河」があるゆえ「四つ目の銀河」ということになり、倉頡伝説では「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と呼んだ。
 だから、私は「四つ目の怪人・倉頡」を「四つ目の銀河」または「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
 下図が示すように、「四つ目の怪人・倉頡における後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河部」は黄帝陵(北緯3535)の天頂を通過し、「四つ目の怪人・倉頡におけるアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部位」は長江口(3130)の天頂にめぐってきたゆえ、黄帝時代、「四つ目の怪人・倉頡は中国各地の天頂緯度を精確に(160分の11分の誤差内)で測量できる、命を保持して生存していくことができる聖なる羅針盤となった。
0000162_20221027133101
◆上図に示すように、「四つ目の怪人・倉頡」の東隣にある「十字の銀河の腰の部分」には「子宮」に相当する銀河がある。この「十字の銀河の腰の部分に在る銀河」を、私は「十字の銀河の子宮」と名づけた。
 倉頡は「長江口の天頂を通過する、十字の銀河の腰部にある子宮に相当する銀河」を「女性の生殖器における子宮と産道」に見立てると定めた。
 だから、上図は、倉頡を発明した動機と目的は【黄帝の「女性の生殖器(子宮・産道など)と子どもの出産や子宮で育つ胎児」の研究】をあらわすことができる文字を作ることであった」とあらわしていることになる。
 というのも、下図に示すように、「黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)の形」は「女性の骨盤腔(こつばんこう/出産する赤ん坊の頭が通りぬける骨盤の穴)の形」にソックリだからである。ゆえに、「十字の銀河の腰にある、子宮に相当する銀河」を「女性の子宮と産道」と見立てると、「黄帝陵の天頂を通過した、十字の銀河の頭部」によって、漢字は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわす文字として起源したことを表示することができた。言いかえると、【倉頡の漢字作成理論】は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】が原理となって組織されることになった。
000048_20221027133201
 前にて示した「黄帝時代、中国の各地の天頂にめぐってきた銀河の形状図」を、少し形を変えて表示すると、下図のごとくになる。
 下図が示すように、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)のうち、横顔にある両目」は「女体に相似する、十字の銀河」を見上げている。また、「四つ目の銀河の後頭部につく目」は上図に示したように「女性の骨盤腔にソックリの、十字の銀河の頭部」と同緯度である。また、「四つ目の銀河のアゴにつく細い切れ長の目」は「十字の銀河の子宮」と同緯度である。
 ゆえに、下図は【1】倉頡の文字発明の動機と目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産と子宮で育つ胎児」の研究】であったと示している。また、【2】【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産など」の研究成果】をあらわす中枢部は「鬼の姿に似る銀河」、つまり「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)と、その西側に連結する鬼の身に相当する銀河」であるとあらわしている。さらに、【3】【倉頡の漢字作成理論】において、もっとも難しい箇所は「鬼の姿に似る銀河(四つ目の銀河と、その西側に連結する鬼の身に相当する銀河」における字源・字形・字義解釈であると示している。
 このように、《「四つ目の銀河」が【漢字作成理論の中枢部】となる》ため、倉頡伝説では特別視して「四つ目の怪人・倉頡」と名づけたのである。
0000159_20221027133401
◆前述したように、[]の字源「ジャコウウシ」は「天敵オオカミに襲われると子どもを中心に隠して円陣を組む」という習性を注目して、倉頡は「子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤、ま出産児が通リぬける産道を包囲する骨盤」に見立てると定めた。つまり、[]の字源「ジャコウウシ」は【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣(せいじゅう)となった。
 []の字源「フタコブラクダ」を、倉頡は「子宮で育つ胎児、産道を通りぬける出産児、誕生したばかりの新生児」に見立てると定めた。うえに、[]の字源「フタコブラクダ」もまた【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。

 そして、倉頡は「十字の銀河」を「銀漢各部の形状から作られた全文字を生む母体」と定めた。また、「十字の銀河の子宮」を「銀漢各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮と産道」と定めた。
 【倉頡の漢字作成理論】をあらわして、下の上図に示すように、「文字」の[]の字形は「十字の銀河の母体と、十字の銀河の腹部の子宮に宿る胎児」の図案となった。また、下の下図に示すように、「文字」の[]の字形は「十字の銀河」の[(べん)]の下に「鬼の姿に似る銀河」の「胎児・出産児・新生児」をあらわす[]が加わる形となった。
 卑弥呼が始めて歴史上に登場する約80年前の100年頃に成立していたとされる、古代の学識者たちが尊重した“字書の聖典”と呼ばれた『説文解字(せつもんかいじ)』は、[]の字源を「乳(にゆう)するなり」と解説する。つまり、『説文解字』は[]の字源「十字の銀河」を「子に乳をあたえる母親」に見立て、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」を「母親の乳房を吸う赤ん坊」に見立てて、[]の字源を「乳するなり」と解説したことになる。
000010_20221027133501
 『説文解字』は「邪馬壱国」の[]()の字源を「壺に従ひ、吉の聲なり」と解説する。
 ところが、[]の字は[]の中に[]が加わって形成される。壺中の[][]の原字(最初の文字)である。だから、[]の字における[]()は「産道する出産児の頭蓋骨」をあらわした。「壺中(こちゅう)、つまり子宮内で過ごした子が成長して産道を通過する出産児となって誕生する状況」が「吉」(吉なる状況)であるゆえ、『説文解字』は[]の字を「壺に従ひ、吉の聲なり」と解説したのである。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壹()国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と記す。
 下に、「邪馬」の解説図を示した。
 女王国名の「邪馬壱」は、今日における産婦人科の医学知識「[]のせまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ね合わせることができる仕組み」をあらわす名称であった。
 下図に示したように「出産児の頭蓋骨」は「後頭骨・2枚の頭頂骨、2枚の前頭骨の5枚」で構成され、この「5枚の頭蓋骨」は「小泉門・矢状縫合・大泉門の骨どうしの結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)で重ね合わせることができる仕組み」になっているために、せまい産道を通りぬけることができる。この「出産児の5枚の頭蓋骨を重ねあわせる仕組み」を、産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 下図の左側に示した「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」が「邪馬」であった。
000040_20221027133601
◆「出産児が骨盤入口を潜(くぐ)りぬけるときの頭蓋骨の形状」を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。
 つまり、「母親の骨盤入口は横長の楕円形であるため、縦長の出産児の頭の直径は小さくしなければならない。ゆえに、その小さくした直径の頭を斜(なな)めにして骨盤入口を潜りぬける」ゆえ、「小斜径」と名づけられている。
 白川静著『字統』は[]の字義は[]の字義と同じく「ななめ」であると定める。
 したがって、「邪馬」の[]は「ななめ(小斜径の出産児の頭蓋骨)」である。そして、前述したように[]の字源は「フタコブラクダ」であり、「邪馬」の[]は「フタコブラクダの草を食べる時の鼻・上アゴ・口・下アゴの形状に瓜二つ・ソックリの、小泉門・矢状縫合・大泉門の産道を通りぬける形状」であったのである。
 下に、「邪馬」の語源となった「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状に瓜二つ・ソックリとなる、草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」を示した。
 草をモグモグと食べるフタコブラクダの「鼻の形」は「小泉門」に相当し、「フタコブラクダの鼻と口の中間のミゾの形」は「矢状縫合」に相当し、「フタコブラクダの口の形」は「大泉門」に相当し、「フタコブラクダの鼻・アゴ・口が動きゆがむ形」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の小斜径・骨重積の形」にソックリとなる。
 だから、下図に示した「草を食べるフタコブラクダの鼻・アゴ・口が動きゆがむ形」は、「邪馬」の語源となった。
000043_20221027133701
 下図に示すように、「産道を通りぬける出産児の頭蓋骨をあらわす、邪馬の銀河」は「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」の後ろにある。
000093_20221027133801
 以上のごとく、女王国名の「邪馬壱」は「出産児が重ね合わせることができる頭蓋骨の直径を小さく斜めにして骨盤入口を潜りぬけ、狭い産道を通りぬけて、命が誕生するまでの神秘的な光景」をあらわす語であった。
 だから、邪馬台国説が主張するように卑弥呼が居住した女王国名「邪馬」は「大和」の「やま」と「山門」の「やま」ではなかった。
 その証拠に、下図に示すように、現在の地図方位を90度転回する「大和・奈良県の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「フタコブラクダが草をモグモグと食べる時の、鼻から下アゴまでの膨らんでゆがむ形」に相似する。だから、「大和・奈良県」は、対馬国を1番目国と数えると、24番目国の「邪馬国」であったことになる。
000042_20221027133901

◆上図における「転回方位」について解説する。
 倉頡は「出産児が産道を通り抜ける時に頭が周(まわ)りながら降り進んでいく様子」をあらわすために、[()]の字を作って「方位が時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。ゆえに、[]の字源は「時計回りに90度転回して南・北の経度軸が東・西の緯度軸となる、つまり北→東・東→南・南→西・西→北と化()るという、方位規定」を定義することになった。
 「出産児が産道を通りぬける時に頭が周りながら進む様子」は、産婦人科では「回旋(かいせん)」と呼ぶ。
 下図に示す「出産第一期 開口期(かいこうき)」は「分娩のはじまりから子宮口がすっかり開く・全開大(ぜんかいだい)までの時期」をいう。開口期の終わりに、出産児の頭の「第1回旋」がおこなわれる。つまり、骨産道(こつさんどう/骨盤内)にあって骨盤入口は横に長い楕円形であり、骨盤出口は縦長であるため、縦長の出産児の頭が骨産道を潜りぬけるためにはアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となって時計回りに90度周る。これを「第1回旋」と呼ぶ。出産第二期の娩出期(べんしゅつき)の始まりでは、出産児の頭は反時計回りに90度向きを変えながら下降する。この過程が「第2回旋」である。「第3回旋」では出産児の頭は反時計回りに90度周って産道()から娩出する。最後の「第4回旋」は時計回りに90度周って母体の背側(臀部)を正面にして(顔を向けて)誕生する。
000056_20221027134001
 倉頡は「四つ目の銀河」の後ろの「邪馬の銀河(出産児の頭蓋骨の銀河)」と、「四つ目の銀河」の前の「妊婦に相似する、十字の銀河」と「十字の銀河の子宮」を観察して、「4回の回旋をあらわす文字」を作った。
 「時計回りの第1回旋と第4回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。
 「反時計回りの第2回旋と第3回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。

 []の字源は「稲、麦、穀物、五穀豊穣(ごこくほうじょう)」をあらわすとともに「時計回りの90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 下に配する上図は[][][]の字源解説図である。[]の下に[]が加わる[()]の字源は、[]の字源「時計回りに90度回旋(転回)する方位規定」を受け継いだ。人偏に[]を加える[]の字源もまた、[]の字源「時計回りに90度回旋(転回)する方位規定」を受け継いだ。
 下に配する上図における「禾()の穂が十字の銀河の両足の〔南〕から、四つ目の銀河の口がある〔西〕へ垂れる、南→西となる様子は「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕に代わる方位規定」をあらわす。また、[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は「北→東、つまり時計回りに90度転回して〔北〕が〔東〕となる方位規定」をあらわしている。
 「倭国」の正式名は「倭人国」である。ゆえに、[]の字は「時計回りに90度回旋する方位規定、つまり北→東・東→南・南→西・西→北に化ける方位規定」をあらわした。
 「倭人国」の[]の字源銀河は「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」である。倉頡は「鬼の横顔に似る銀河の両目」を「第2回旋と第3回旋」に見立て、「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い目」を「第1回旋」に、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく見開いた目」を「第4回旋」に見立てた。だから「鬼の横顔に似る銀河=四つ目の銀河=四つ目の怪人・倉頡」は[]の字源となった。その証拠に、[]の契文形(甲骨文字の字形)と金文形は「出産児が骨産道をくぐりぬけるときの、アゴを胸につけて膝(ひざ)を曲げる側身形」となる。だから、[]の字形は「骨盤入口から骨盤出口を潜りぬけるときのアゴを胸につけて膝を曲げる出産児の姿」であり、[]の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河=四つ目の銀河=四つ目の怪人・倉頡」であったことになる。
000011_20221027134101
 倉頡伝説において「四つ目の銀河」が特別視されて「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられたのは、倉頡が「産道を通過出産児の4回の回旋」をあらわすために、[][]の字を作ったからである。
 五帝時代から周代まで、中国では巫女(みこ)が出産を祝い、天に子授け祈祷して祈願した。
ゆえに、上図における[]の上部の[]は「人が言う、食べるときの口(くち)」ではない。この[]は「さい」と音し、[(さい)]の字源は「巫女が祝祷(しゅくとう)する土器」であった。前述したように、[()]の字形は[][]つまり「頭」が加わって成立するが、[]は「子宮を造形する土器」であるゆえ、「土器の口縁部(こうえんぶ)」は「骨盤入口から膣口(ちくこう)までの産道」に見立てられた。だから、「壺の口縁部」をあらわす[(さい)]は「4回の回旋がある産道をあらわす、巫女が出産を祝い・子授け祈祷して祈願するの時に用いる土器」をあらわすことになった。
 したがって、上図における[]の金文形は「祝祷に用いる[(さい)]・壺(つぼ)を右肩の上にあげて、巫女が産道を通過する子どもの姿を真似(まね)して身をくねらせて舞う姿」を表現していることになる。[]の字の上部は「北→西」をあらわしているゆえ、[]の金文形は「反時計回りに90度回旋(転回)する方位規定の定義」をあらわす。だから、[]の字源は「反時計回りに90度転回して、北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定」をあらわした。
 このように倉頡は[]を作って「時計回りに90度転回する方位規定」を定義し、[]の字を作って「反時計回りに90度転回する方位規定」を定義した。

◆卑弥呼は後漢時代末から三国時代半ばまでの180年頃~240年ころまで生存した。
 「後漢」という[]の字源は「銀漢・夏の銀河」である。
 下に、三国時代における「魏」・「呉」・「蜀(しょく)」の範囲を示した。
 「蜀」の正式名は「漢」であり、「漢」の字源は「夏の銀河」であった。「魏」の字の偏は[]であるから、「魏の範囲、中国の北部」は「方位が時計回りに90度転回する地域」であったことになる。そして「呉の範囲、中国の南部」は「反時計回りに90度転回する地域」であったことになる。
S574
 上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)において、直木孝次郎教授が執筆した「邪馬臺国の位置論」には――明治時代の学者の内藤湖南(こなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「南」は「東」と解すべきであるとした――と指摘する箇所がある。
 『後魏書』は6世紀半ばに成立した。ゆえに、内藤湖南は「6世紀半ばまで、中国では方向をいうとき、東は東ではなく、[]の字源に則(のっと)って東は時計回りに90度転回して南となる、また[]の字源にもとづいて北は反時計回りに90度転回して西となると定義していた」と指摘していたことになる。
 司馬遷著『史記』書における天官書・第五は――紀元前1世紀、「当時の北極星(こぐま座β星)」を「太一(たいいつ)」という――と記す。
 内藤湖南が指摘したように、中国では6世紀半ばにあっても、倉頡が作った[][]の字源にもとづいて、方位名がふつうに言われていた。ゆえに、北極星・太一は地図における「北」の方位をあらわす基準になると定まっていなかった。北極星・太一は周極星(しゅうきょくせい)であるゆえ、太一は一日に一度も地平線の下に潜らない。だから、太一は大地・地理・地図の方位とは無関係であると学問において定められていた。漢字が作られた銀漢・夏の銀河の全域は一日に一度地平線の下に隠れる。だから、大地・地理・地図における方位は、夏の銀河から作った倉頡の[][]に則ると学問において定まっていたのである。

 『魏志倭人伝』の冒頭は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国(長崎県北部対馬)南一海を渡る千余里に、一大国(長崎県北部の壱岐)に至る」と記す。ゆえに、「対馬国と一大国の方位」は「現在の日本列島の地図における方位名」と同じとなる。
 しかし、一大国の次の「末盧(まつろ)国」から以下の本州地図の方位は、下図に示すように、現在の日本地図と異なって、[]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」で統一されていた。
 卑弥呼王朝は、下図に示す「対馬()・壱岐()と転回本州地理」を制定していた。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、下図の「転回本州地理における[]の字源にもとづく方位規定」は中国とわが国にあって学問におけるふつうの考え方であった。
K274
◆家康は、現在の日本地図のもとに『魏志倭人伝』を読解しなかった。家康は、上図の[]の字源を示す転回本州地図にもとづいて、卑弥呼が居住した女王国「邪馬壱国の中心部」は「山陰・出雲」であると考えた。
 上図が示すように、対馬国・一大国を除く32の小国がある本州地図は[]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」に則って、現在の日本地図における〔西・九州〕は〔北〕に位置し、〔東・東海地区と北陸地方〕は〔南〕に位置すると定められていた。
 []の字源「時計回りの90度転回する方位規定」だと、「本州の北にある日本海は本州の東にある」、つまり「北→東となる」ゆえ、上図の本州地図は卑弥呼時代の中国とわが国における学問のふつうの考え方であったことになる。
 「女王国・邪馬壱国」について『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」と記す。
 日本海には、萩市の見島、隠岐群島、佐渡島、新潟県の粟島、山形県酒田市の飛島など、一つの群島と4つの単独の島が在る。『魏志倭人伝』は「女王国の東の、海を渡る国」は「皆、倭種なり」と記す。ゆえに、〔100人や200人の人〕を呼ぶときには「皆の衆」というので、単独の見島・佐渡島・粟島・飛島の4島は「皆、倭種なりの国」ではなかったことになる。隠岐群島は4つの大きな島と約180の小島からなる。これゆえ、「隠岐群島」が「皆、倭種なりの国」であったことになる。
 だから、このブログのごとく[]の字源を解明すれば――上図のごとく「転回方位の隠岐群島の西(現在方位の南)にある山陰・出雲」が「邪馬壱国の中心部」であったと、いとも簡単に解明することができる。

 このブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」にて指摘したように、家康は[]の字源「転回方位」にもとづいて、下図の「江戸城(現在の皇居)から発する渦巻を描く水路()」を設計して「邪馬壱国は出雲地方」であったとあらわした。
 つまり、家康は「江戸城(現在の皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路()は、現在の隅田川に出()ずる」ようにして、[]の字を設計した。「江戸城から隅田川までの渦巻く水路」をもって、家康は「[]の字源にもとづき、時計まわりに渦巻く[]の字源・字形・字義」を設計した。白川静著『字統』は[]の古文形を「雲の初文」つまり「雲の最初の文字」と解説する。だから、下図に示す「江戸城から発する時計回りの渦巻を描く濠(水路)」をもって、[]の字源を知っていた家康は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」と説明する国は「隠岐群島」と理解して、「邪馬壱国は出雲地方である」と断定したことになる。
0000166_20221027134501
◆下に、[]の字源にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を示した。
 下図は、新人物往来社『歴史読本』第52巻4号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレースして転回方位にもとづくようにした図である。
 下図の上部の「[]の地宜」と記した箇所の「島根半島の北端(現在方位の西端)の地宜」は「母親のフタコブラクダの横顔・首」と相似すると見立てると「足の形に相似する宍道湖」は「母親のフタコブラクダの足」と解釈できる。また、下図上部の「母親の馬・フタコブラクダ・横顔・首に見立てた、[]の地宜」に隣接する「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」は「足を踏ん張って立たんとする馬・フタコブラクダの誕生した直後の姿」に相似する。
 「馬・フタコブラクダの子の姿」に相似する「神門水海」は「経度軸・緯度軸に対して邪(なな)め」である。だから、「神門水海」は「邪馬」という語をあらわす。
 前述したように、女王国名「邪馬壹()」の[]の字における[][]は「産道を通過する、吉なる出産児の頭」であったことになる。
 下図に「壱」と記した「松江市北部(現在方位)の地宜」を、卑弥呼は「壺の形」に相似すると見立て、また「出産児の頭が無事に通過して誕生する産道」に見立てた。ゆえに、「松江市北部の地宜」は[]()の字源をあらわす聖域となった。
 ゆえに、下図の「山陰・出雲の地宜」は「邪馬壹()」をあらわした。
 結局、下図の地域は『魏志倭人伝』が「邪馬壹国に至る。女王の都とする所なり」と記述した「邪馬壱国の中心部」であったことになる。
000037_20221027134601
 下図に、前述した「文字」の[]の字源銀河と金文形を配した。
 下図の「十字の銀河における妊婦のおなかの部分」は「右足」または「乳房(四つ目の銀河・赤ん坊が乳を吸う乳房)」に相似する。そして、[]()の字源銀河「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」と隣接する。
K135

 上記した〔古代出雲の「邪馬壱」のあらわす松江市北部の地宜〕における「宍道湖の南端(現在方位の東端)の湖岸の形」は、下図に示すように「足首の形」となる。
 下図における「宍道湖の湖岸」を「十字の銀河の右足」に見立てると、「松江市北部(現在方位)」は[]の字源銀河「十字の銀河の子宮」に合致する。前述したように、[]の字源銀河「十字の銀河の子宮」は「母親の子宮()と産道(壺の口縁部)」をあらわした。ゆえに、下図における「[](松江市北部)の地宜」を、卑弥呼は「母親の子宮と産道」に見立てた。
 下図に示すように「宍道湖南端(転回方位)の地宜」は「人の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕の方に向く。その「宍道湖の足の爪先が指差す西」には「意宇(おう)平野」がひろがる。
 下図に示すように、「意宇平野」は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に合致して「[]の地宜」の〔南〕から〔西〕の方向に所在する。
000036_20221027134801
◆『魏志倭人伝』は「倭国では、もと男子の王が天下を治めていた。七、八十年前(180年頃)に倭国は乱れて、何年ものあいだ国々は互いに攻めあって戦った」と記述する。また、「卑弥呼は、婢()千人を侍(はべ)らせる。唯々(ただ)男子一人が卑弥呼の飲食を給仕し、卑弥呼の辞(言葉)を伝えるために、卑弥呼が過ごす居間に出入りしている。女王が居処(きょしょ)する宮殿には、楼観(ろうかん/見張り櫓)があり、城の柵(さく)で厳重に設けられ、常に兵器を持った人が守衛している」と記述する。
 卑弥呼が婢千人を侍らせて居住した宮殿は、意宇平野の一画に設営されていたと考えられる。
 『魏志倭人伝』に「千人侍らせた」と記された「婢」は「十三歳くらいの乙女たち」であったと考えられる。前に示した「漢字が作られた、銀漢・夏の銀河の写真」は天体写真家で有名な藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。この「夏の銀河の写真」を私に提供してくださったとき、藤井氏は「十三歳くらいの女の子はもっとも瞳が澄んでいて、暗い天体部までよく見える。だから、銀河を撮影するときには、十三歳くらいの女の子を助士として連れていくことが度々ある」と語った。
 卑弥呼時代における「婢・十三歳くらいの乙女たちにあって暗い銀河部の形状がよく見える、特別に眼力に優れる魔力の持主」を「七、八十年前の倭国の乱における国々は、敵の呪的(じゅてき)戦力を奪う能力に優れる魔女」に選んだにちがいない。というのも、白川静著『字統』は「媚()はその媚飾(びしょく)を施(ほどこ)したもので、巫女(ふじょ)をいう。漢代に巫蠱媚道(ふこびどう)とよばれる呪詛(じゅそ)の法があって、宮中の暗闘にしばしば用いられた。(中略)。媚は敵の呪術者を殺すことによって、敵の呪的な能力を奪うことができた。(中略)。媚とは美しき魔女である」と解説するからである。ゆえに、中国の漢代・後漢時代末の180年代における倭国の乱にあっても、暗い銀河部までよく見える眼力に優れる十三歳くらいの乙女たちの婢は戦いの先頭に立つ敵の呪的戦力を奪う魔女であったにちがいない。これゆえ、卑弥呼は国々における優れる眼力を有する十三歳くらいの巫女・婢(乙女たち)を宮殿に集めて再び倭国が大乱しないように治めていたことになる。
 その証拠に、『魏志倭人伝』の末部には「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()す」という文がある。この文初頭の「卑弥呼の宗女」は「卑弥呼を頂点とする巫女界を代表する女性」と意味したにちがいない。[]の上部[(べん)]の字源銀河は「十字の銀河」であり、「宗女」の[][]に「神」が原義の[]を加えた字である。だから、卑弥呼は「神につかえる巫女王」であったことになる。ゆえに、「卑弥呼の宗女の壱与、年十三なるを立てて王と為す」という文は「卑弥呼を頂点とする巫女界を代表する十三歳の婢であった美しき魔女の壱与は女王となった」と意味したことになる。
 以上からして、「卑弥呼が侍らした千人の婢」は「倭国の大乱をふせぐために卑弥呼が住む宮殿に集めた、戦いの先頭に立って敵の呪的戦力を奪う美しき魔女となる、優れた魔力(眼力)を有する十三歳くらいの乙女たち」であったと考えられる。

 前述したように、倉頡伝説に登場する「禾」は「穀物」を意味し、「恵みの雨による豊かな実り」を意味するものであったゆえ、[]の字源は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」を意味した。ゆえに、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を受け継いだ[]の字源は「五穀豊穣」をも受け継いだことになる。
 []の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて「邪馬壱」という語が成立する。ゆえに、「邪馬壱」という女王国名は、[]の字源「五穀豊穣」を受け継いで「秋に豊かな実りに恵まれる国。五穀豊穣の国」と意味したことになる。
 また、「邪馬壱」という語は「[]の産道を、草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の区切りが歪(ゆが)む表情に瓜二つの出産児の頭蓋骨が通りぬける様子」となるゆえ、「邪馬壱国」は「安産の国、子孫繁栄の国、多数の人民が住む国」と意味したことになる。そうすると、「邪馬壱国」は、下図に示す[]の字源「出産を祝い、子授け祈祷を祈願する時に用いるの壺・口(さい)をかかげて、身をくねらせて産道を通りぬける出産児の姿を真似(まね)して舞う巫女」をあらわす国でもあったことになる。
 だから、邪馬壱国に巫女界の頂点に立つ卑弥呼が居住していたことになる。
K433
◆『魏志倭人伝』は「対馬国から、南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と記す。
 下に〔対馬国・瀚海・一大国の図〕を示した。
 「瀚海」は「[]の字源・フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
 言いかえると、「瀚海」は「邪馬壱国」の[]の字源は「ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダであること」を明確に示す証拠となる。というのも、「対馬国」の[]の字源も「瀚海・ゴビ沙漠に生息する、フタコブラクダである」と証明することができるからである。
 前述したように、[]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣であった。ゆえに、『魏志倭人伝』初頭部にある「対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海・ゴビ沙漠であった」という記事は「『魏志倭人伝』は邪馬台国説を説明するための書物」ではなく、「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明するための教科書であった」と証明される、一撃で邪馬台国説は空理空論であると証明できる強烈なKO・パンチとなる。
 「邪馬」は「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口の形に相似する産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」をあらわして、邪馬台国説論者たちが主張する「大和」の「やま」や「山門」の「山(やま)」ではなかったのである。
 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」であったと記して、「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明する書物であった」と鮮烈にあらわしている。
000012_20221027135101
 「対馬国」は「現在の長崎県北部の対馬」であった。
 下に、〔「対馬」の地宜と[]の字源銀河の解説図〕を配した。
 「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。また「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、瀚海・ゴビ沙漠の砂に残るフタコブラクダの足跡」に見立てた。したがって、「上県郡と下県郡の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」をあらわす。ゆえに、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]が加わる「対馬国」と定めた。
 前述したように、「邪馬壱国・山陰出雲」において、卑弥呼は「島根半島北端(転回方位)の地宜」は「母親のフタコブラクダの横顔と首の形と、誕生した直後の両足を踏ん張って立たんとするフタコブラクダの子の姿(神門水海の地宜)」に相似すると見立てた。また、卑弥呼は「宍道湖の地宜」を「母親のフタコブラクダの足の形」に見立てた。
 よって、「対馬国の地宜」と「邪馬壱国中心部の地宜」は「フタコブラクダの姿と足の形」で共通するゆえ、[]の字源は「フタコブラクダ」であったと証明される。
000015_20221027135201
 「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐」であった。
 下に〔現在方位にもとづく一大国・壱岐の地宜〕を示した。
 下図に示したように、「一大国・壱岐の西端の海岸線の地図の形」は[]の字源「フタコブラクダの横顔とコブの形」に相似する。しかし「一大国・壱岐の中央部・東部の海岸線の形」は「[]の字源・ジャコウウシの横顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。
000019_20221027135301
 下に転回方位にもとづく一大国・壱岐の地宜を示した。
 前述したように、[]の字源「ジャコウウシ」は天敵のオオカミに襲われると子どもを真ん中に隠して、円陣を組んで防衛する。これゆえ、「ジャコウウシ」は「子どもを育てる子宮と出産児が通過する産道を包囲する女性の骨盤」に見立てられた。
 下図における「一大国のフタコブラクダの横顔とコブに相似する地宜」は「子宮で育つ胎児と産道を通過する出産児」に見立てられ、「ジャコウウシの姿に相似する地宜」は「女性の骨盤」に見立てられた。
 下図における「ジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似する地図の形」は「骨盤から子宮の底(子宮底)がはみだす形」にソックリである。
 ゆえに、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「骨盤から子宮底がはみだす形」と見立てて、さらに「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に見立てた。これゆえ、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めた。 
000018_20221027135401
 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「銀漢各部の形状から作られた、すべての文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河」は「大きな銀河部から作られた文字を生む子宮」となり、また「大きな銀漢全域各部の形状から生まれた全文字を生む子宮」ということにもなった。この「十字の銀河の子宮の原理」を立論するため、倉頡は「十字の銀河の子宮」を[]の字源・字形・字義と定めて、「一即大、大即一」という理論を考案した。このため、「十字の銀河の子宮」は「一大」と呼ばれることになった。卑弥呼は「十字の銀河の子宮」が「一大」と呼ばれた学識を有していたゆえ、「十字の銀河の子宮」に見立てた「壱岐」の小国名を「一大国」と定めたのである。
 前述したように、「十字の銀河の子宮」は[]の字源でもあった。「一大国の地宜」は[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた。「一大国」は「子宮に宿る胎児に見立てた馬・フタコブラクダの地宜と、骨盤に見立てた牛・ジャコウウシの地宜に岐(わか)れる」ゆえ、[]の字をあらわすことになった。ゆえに、「一大国」は、後世、[][]が加わる「壱岐」と名づけられ、現在も「壱岐」とよばれている。

 地図で調べると、[]の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形に相似する地宜」の「対馬」は「経度線と緯度線と邪(なな)め」となる。このため、「対馬国」は「邪馬」という語をあらわす。「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわすゆえ、「対馬国・一大国」は女王国名の「邪馬壱」という語をもあらわす。
 前述したとおり、「山陰・出雲の地宜」における「邪馬」は「経度線と緯度線と邪めとなる誕生した直後の馬・フタコブラクダの子どもの姿に相似する、神門水海」、[]は「十字の銀河の子宮」に見立てた「現在の松江市北部の地宜」であった。
 このように「対馬国・一大国」と「邪馬壱国・出雲」の両地における「邪馬壱」は共に「[]の字源となる地宜が邪めとなる」と合致する。
 だから、女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかったと証明される。
 他方、新井白石以後の邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない。ゆえに、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は完全なる捏造(ねつぞう)100パーセントの空理空論、真っ赤なウソ、デタラメであったことになる。
 『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書であった」のである。
 以上のごとく、われわれ日本人は邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説にマインドコントロールされて真実が見えないように目隠しされている。
 われわれの日本人は空論の邪馬台国説にすっかりダマされ、日本人としての尊厳と誇りを奪われ、当然、アイデンティティも奪われていることになる。われわれは空論の邪馬台国のために日本人として生きる生活と遺伝子と心と魂を奪われ、にせものの日本人として生きてゆかねばならない。だから、これ以上、日本人は邪馬台国説にダマされ、絶対にバカにされてはならない。われわれは『魏志倭人伝』に記述された真実を知って、前進しなければならないのだ。

 以上のごとく『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、以下の四つの要素が必要となる。
【一】「漢字」は「銀漢・夏の銀河」から作られた
【二】現在の日本地図にもとづいて方位を論ずるのは異常で、ふつうではない考えとなり根本的な過誤となる。卑弥呼時代、中国とわが国の学問では地理の方位を、倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」と[]の字源「反時計回りの90度転回する方位規定」で定めていたからである
【三】「倉頡が漢字を発明した」と伝える倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメではなかった。つまり、「倉頡伝説」はすべてほんとうで【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明していた
【四】『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壱国」と記す。だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国を説明する書物」ではなく、【倉頡の漢字作成理論】を理路整然と説明する教科書であったのである 

| | コメント (0)

2022年10月 4日 (火)

家康くんと『魏志倭人伝』#4

◆「銀河」の別名は「銀漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」とよんだ。
 「漢字が作られた銀漢」は、天文学で通称「春の銀河、夏の銀河、秋の銀河、冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河」から作られた。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」のことである。
 下に「銀漢=夏の銀河」の写真を示した。
Ginga_20221004143601

 中国の伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と伝える。つまり、倉頡伝説は上記の写真で示した「【銀漢(夏の銀河)各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した」と伝えていた。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論】は3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』に具体的に記述されている。
 倉頡が生存した五帝時代初頭は今から約5000年前、わが国の中期縄文時代初頭であった。この約1000年後の今から4000年前の中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏王朝の帝王であった益(えき)の孫の王子と若者たち一行が大海を越えて九州に上陸し、北に向かって進んで東北地方の秋田県に定住して【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字(かおんもじ)の学芸】を教えひろめた。この噂を知った東国(東日本)の銀漢(夏の銀河)各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちが益氏の若者たちが居住する秋田県に旅して、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年間及ぶ造化(銀漢各部形状から土器・土偶を作った造形芸術)の知識にもとづいて【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得した。だから、『魏志倭人伝』に【倉頡の漢字作成理論と、夏音文字の学芸】が記述されることになったのである。
 この詳細は、前回の「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で詳細に解説して証明した。

◆倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は崩壊すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、明確に容易に理解できるように説明して暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上記した【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字の書契と夏代の夏音文字は文字を書いた資料が出土しないことになった。
 上記した【2】の掟のために、「銀漢(夏の銀河)各部の名称」は存在しない。ゆえに、わたくしは下記のごとく「銀漢各部の名称」を定めた。
00003_20221004143701
 だから、学界が主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は完全なる空理空論であった。
 というのも、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】によって、わが国が今から約4000年前(紀元前21世紀)に習得した【五帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏音文字】は(1)夜に輝く銀漢と(2)銀漢の写真と(3)プラネタリウムにおける銀漢各部の形状が字源・字形・字義となり、字音は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存するからである。ゆえに、楷書と同じく【五帝時代の書契と夏音文字】は字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字ということになる。
 考古学は「地中から出土した漢字を書いた資料のみを、漢字の史料である」と断定した。この考古学による偏見によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界までもが断定した定説は、五帝時代の書契と夏音文字の字源・字形・字義は天上の銀漢に現在も存在するという現実と事実に反する空想・幻想であったことになる。
 その証拠に、『古事記』上巻の随所に〔音〕という目印()がつく文字を【あなたが目でしばらく見ている】という、この時間は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説が「真っ赤なウソ」である現実と事実を直(じか)に目撃している現場となるからである。
 だから、その随所に〔音〕という注がつく多数の夏音文字を記す『古事記』上巻もまた『魏志倭人伝』と同様に【倉頡の漢字作成理論】を伝えていた重大な史料であったことになる。

◆わが国の古代中国研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(じとう/平凡社発行)は9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までで【わが国の漢字音】と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 下図に示すように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」とよばれ、この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の漢字音である。
 上記した白川静著『字統』が「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった」と指摘する――この『古事記』上巻の随所の〔音〕という注がつく、紀元前21世紀頃の夏代初頭に習得した夏音文字は中国における最古の「上古音」よりも約1000年前も古い。
 そして、学界が正しいと太鼓判を押す「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、下の図の最下部に配置される。だから、学界が正しいと思い込む「わが国が最初に習得した楷書の漢字音」は「中国の上古音」よりもずいぶん新しいことになって、明確に「空理空論、真っ赤なウソ」であったことになる。
Photo_20221004144001
◆上記した〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力の考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。この考古学を中心勢力とする邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を立論する学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と声高に主張して、自分の意見にあわない記事は片っ端から自分の言いなりになるようにして歪曲(わいきょく)する。
 このような横暴なご都合主義の論法は、新井白石から始まった。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)は、1716年・晩年の60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国大和説と日本神話説を提示した。さらに、その後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を提唱した。
 白石は「漢字は銀漢から作られた。わが国は紀元前21世紀に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という学問知識を有していなかった。
 これが致命的欠陥となって、白石が提唱した()邪馬台国大和説と、()邪馬台国九州説と、()日本神話説は〔誤読の産物〕にして〔空想の産物〕であったのである。
 その証拠に、下図に示すように、現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)の『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住していた女王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と記して、「邪馬台国(やまたいこく)」と記していない。今から約300年前に新井白石が「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読して以来、女王国名は「邪馬台国」であったにちがいないと思い込まれている。
 〔注 女王国名は「邪馬壱国」が正しく、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記されていないという指摘は、先年、古代史研究家の古田武彦氏が、その著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞発行)で詳細な調査の基におこなっている。〕
0000169
◆『魏志倭人伝』に記された女王国名「邪馬壱国」における「邪馬壱」という語は、【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。言いかえると、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える教科書(書物)であった。
 だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国を説明する書物」ではなかった。
 要するに、『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、上記したように「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という知識を最初から有していなければならなかった。
 その証拠に、最初から「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という素養を有していれば、『魏志倭人伝』には「倭には夏代初頭に【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸を習得した」と説明する二つの記事が存在することに気づいていた。
 『魏志倭人伝』が「わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字を習得した】と伝えていた一つ目の記事は――『魏志倭人伝』の中半にある「倭の占いに用いる辞は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事である。「令亀の法の如く」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ・今から約3300年前に出現した甲骨文字の如き夏音文字」と意味するものであった。ゆえに、「わが国は甲骨文字が出現した殷代後半期より約1700年前の夏代初頭に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」ことになる。
 二つ目の記事は――『魏志倭人伝』の中半にて「中国の魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都国(いとこく)の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を捜露(そうろ/楷書と夏音文字の字源・字形・字義が銀漢各部のどの形状と合致するのかを一字一字ずつ捜して露わにして確認・点検)して、楷書と夏音文字が同義になるように正しく変換していた」と説明している。この記事もまた「わが国は夏代初頭に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」と指摘していた。

◆駿府の今川義元は駿府城と同緯度の三河の岡崎城主・松平広忠の長男・竹千代(後の徳川家康)を人質として求めた。というのも、義元は「漢字は銀河から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】を習得していた」という学問知識を有していたからである。
 義元は、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀における黄帝と黄帝の政治を補佐した倉頡、夏本紀における帝禹()の政治を補佐した益(えき)を注目し、竹千代に【倉頡の漢字理論と夏音文字】を教育して、成長した竹千代を倉頡や益のごとく補佐役にして、いずれ上洛して天下を統一すると計画した。
 6歳の竹千代は人質として駿府へ出発したが、途中、略奪されて織田信秀(信長の父)のもとへ送られた。
 竹千代が8歳の時、今川義元の軍師・大原雪斎(たいげんせっさい)を総大将とする七〇〇〇騎の今川軍は安城(あんじょう)城を攻め、織田信広(信長の兄、2年後に没する)を捕らえて、竹千代と信広の人質交換を行った。義元が【倉頡の漢字理論と夏音文字】を政権基盤にして天下を統一する野望を実現するために、補佐役とする竹千代がどうしても必要とであった。ゆえに、義元の軍師・大原雪斎が総大将となって大がかりな七〇〇〇騎による竹千代の奪還作戦が決行されたのである。
 軍師の大原雪斎は臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうじんじは)の高僧であり、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】に精通していた。というのも、枯山水(かれさんすい)の庭園として世界的に有名な石庭がある龍安寺(りょうあんじ)は臨済宗妙心寺派の寺であり、臨済宗の妙心寺の基礎教養は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】であったからである。
 その証拠に、京都市右京区に所在する龍安寺の石庭の5群、大小の15個の石と白砂の平庭は漢字が作られた銀漢(夏の銀河)をデザインする作品である。
 また、「龍安寺の石庭案内パンフレット」には「禅とは……」と題して「神()のない宗教である」、「老子の教え『吾れ唯だ足ることを知る』宗教である」、「『死に切る』即ち『断命根』の宗教である」と説明している。紀元前5、4世紀ごろに生存した中国の老子は中国で廃(すた)れて衰退していた【倉頡が発明した漢字作成理論の復興】を願って、自らの思想を「知足(つまり、漢字が銀漢から作られた学問)」、あるいは「吾れ唯だ足ることを知る(銀漢を観察して真理を追究する学問にもとづいて自己を深く掘り下げる修養こそがもっとも尊い)」と表現した。ゆえに、老子は中国王朝が独占管理して厳重に機密にした【倉頡の漢字作成理論】を暴露する、即刻に死刑と定められた大罪人と見なされたゆえ日々住所を変える逃亡者であった。わが国においても【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】は朝廷の政権基盤にして存続基盤であったため、老子のごとく【倉頡の作成理論と夏音文字の研究】を公表する者は朝廷を崩壊させて天下を奪おうとする死刑に処すべき大罪を犯すものと見なされた。ゆえに、臨済宗妙心寺派の僧侶たちは死刑になるのを畏れて用心して慎重に「漢字は銀漢から作られた学芸」を常に秘めやかに難解に表現するように心がけていたものの、もしも「漢字が銀漢から作られた」という機密を容易にわかるように暴露したと朝廷に見なされた時には「死刑」に処せられる覚悟が必要であったため、「死に切る(つまり、常に死んでいると思い込む)」、即ち「断命根の(つまり、命を断たれるを覚悟する根性が必要となる)宗教」ということになったのである。
 竹千代は雪斎から【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を学び、天下統一の野望を抱く今川義元の補佐役になるための心得を徹底的に教育された。
 竹千代は14歳の時に元服し、松平次郎三郎元信と名乗った。この年に、教育係の雪斎が没した。この後、1558年、17歳の時に元康(もとやす)と改名した。
 その2年後、19歳になった元康に先鋒を命じた義元は、二万五〇〇〇の大軍を率いて上洛の途についた。しかし、わずか二〇〇〇の織田信長の軍が桶狭間(おけはざま)で休憩をとる今川軍を急襲して義元の首を取った。松平軍は故郷岡崎城にめざして逃げた。元康は岡崎城に近い大樹寺で自害しようとしたが、その現場を住職の登誉上人(とうよしょうにん)に発見され、上人に説得されて思いとどまった。
 上記のごとく、徳川家康(15421616)は大原雪斎に「漢字は銀漢から作られた。中国の夏代初頭、わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得した」と教育された。だから、徳川家康にとって『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を説明する教科書】であった。このため、新井白石(16571725)以後の学者たちの邪馬台国大和説と邪馬台国九州説とまったく異なり、家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も〔批判(誤読)〕を加えない方法をもって「卑弥呼は邪馬壱国に居住した。邪馬壱国は山陰出雲であった」と解釈した。

◆わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」で指摘したように、徳川家康は下に示す「江江戸城(皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路()」を設計して、「邪馬壱国は山陰出雲であった」と表現した。
 下図は、笹山晴生(6)編著作者『日本史総合図録』(山川出版社発行)77ページにある〔江戸城(現在の皇居)から発する水路()の図〕から転載した。
0000165_20221004144401
 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作して『字統』(平凡社発行)[(うん)]の字について「雲の形で、その古文。雲気のたなびく下に、竜が尾を巻いて姿がみえる形、のち雨を加えて雲となった」と解説し、[]の字について「云は雲の初文。のち雨を加えて雲となった」と解説する。
 ゆえに、家康は「[][]の古文形」に合致するように、「時計回りに90度転回して、つまり北→東となるように、江戸城から発する渦巻文の水路」を設計したことになる。
 下図の「江戸の渦巻文の水路」は「隅田川に出(いず)る」。だから、「隅田川に出る江戸の水路」で、家康は「出る」の[]に「[]の古文形となる水路」で「出雲」と表現した。したがって、家康は「江戸の水路」で【卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住していた】と表示していたことになる。
0000166_20221004144501
◆前述したように、『魏志倭人伝』は白石以来の定説「邪馬台国について説明した文献史料」ではなく、【倉頡の漢字作成理論】について説明していた書物であったのである。

言いかえると、『魏志倭人伝』に記された倭国の34の小国に用いられる漢字をもって【倉頡の漢字作成理論体系】を説明していた。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡の漢字理論】を政権基盤にして倭人国を統治していた」と説明していたことになる。
 だから、下図に示すように――卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論】をあらわすプロローグとして、「対馬国と一大国(現在の長崎県壱岐)における南北」は現在の日本列島地理と同じであると定めた。しかし、「倭人国」という国名に用いる[]の字源にもとづいて「九州の末盧国(まつろこく)以下の本州地理の方位規定は、対馬国・一大国の南北軸に対して時計回りに90度転回して「北(日本海)が東となるように、つまり出雲の北の日本海に浮かぶ隠岐群島は出雲の東となる」と、卑弥呼は制定した――と、『魏志倭人伝』と説明していた。
0000167_20221004144601
 『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種なり」という記事がある。
 上図の「転回日本列島像論・邪馬壱国出雲地方説の図」に示したように、女王国(邪馬壱国)の中心地・松江市の北方40kmの日本海上に隠岐群島が所在する。隠岐群島は「出雲・島根半島に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前三島(どうぜんさんとう)と、その東北(現在方位)にある大きな島・島後(どうご)の四つの大島と約180の小島からなる群島」である。ゆえに、「隠岐群島の多数の島々を一括する」と「皆、倭種なり」と表現されることになる。また、家康が「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と表現した「江戸城から発する渦巻の水路を、時計回りに90度転回して〔北〕を〔東〕と定めるに転回方位」にもとづくと、上図に示したように「隠岐群島」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り、皆、倭種なり」と説明された小国となって合理となる。
 邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り、皆、倭種なり」という文に合致する小国は存在しない。

◆倉頡は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に正存した黄帝(こうてい)につかえる史官(記録官)であった。黄帝は【子どもの出産と女性の生殖器官】を研究した。この【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の研究】をあらわすことができる文字を発明する――これが、倉頡が漢字を発明する動機であり、作成目的であった。
 出産児は5枚に分れた頭蓋骨を重ねあわせてせまい堅い骨産道(こつさんどう/骨盤産道)をくぐりぬけて軟産道(なんさんどう)つまり膣(ちつ)を通りぬけて、膣口(ちつこう)から頭が誕生した赤ん坊の顔は母体の臀部(でんぶ)のほうに向く姿勢となる。骨盤入口をくぐりぬける時の出産児の頭は膣口から見えるゆえ、黄金色の羊水に濡れる出産児の5枚の頭蓋骨が重なりあって産道を4回も転回してくぐり抜けて誕生する、その様子はまさに“生命の神秘”をあらわして、言葉で表現できないほどに驚異的な感動的なドラマである。
 倉頡は【出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけて膣口から頭が誕生するまでの神秘的な光景】にすっかり心うばわれて漢字を発明した。
 下図に示すように、骨産道と軟産道を通りぬける出産児の頭蓋骨は5枚(後頭骨、2枚の頭頂骨、2枚の前頭骨)に分れる。この5枚の頭蓋骨はV字形の「小泉門(しょうせんもん)」、「矢状縫合(やじょうほうごう)」、菱形の「大泉門(だいせんもん)」と産婦人科で名づけられた結合組織性の膜(まく)によって重ねあわせることができる仕組みになっている。この「仕組み」を、産婦人科であは「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 赤ん坊は「小泉門・矢状縫合・大泉門」による頭蓋骨が重ね合わさる「骨重積」の仕組みによって、せまくて堅い骨産道をくぐりぬけ、さらに軟産道を通り抜けて膣口から頭が誕生することができる。下図の左側に示すように「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」を、卑弥呼は「邪馬」と名づけた。
000040_20221004144701
◆『魏志倭人伝』には「倭には牛と馬が無い(牛と馬は生息していない)」という記事がある。
 []の字源は「黄帝が居住した本拠地付近にて生息したジャコウウシ」であった。
 []の字源は「フタコブラクダ」であった。

 牛・ジャコウウシの群れは、天敵のオオカミに襲われると、子どもを円陣の真ん中に隠し、背中を円陣の中心に向けて防衛する習性がある。この「円陣」を、倉頡は「女性の生殖器を包囲して胎児の命をまもる骨盤」に、また「円陣の真ん中に隠す子ジャコウウシの子ども」は「子宮で育つ胎児」に見立てた。ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の骨盤」に見立てられる、【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 司馬遷著『史記』の五帝本紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という文があり、学者たちは「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と訳す。黄帝軍の兵士たちはジャコウウシの習性に学んで円陣を組んで駐屯していたことになる。
 上記したように、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 下図は「草をモグモグと食べるときの、フタコブラクダの鼻・上アゴのミゾ()・口・下アゴの図」である。
000043_20221004144801
 上図における「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口は、各部の仕切りの形状が邪(なな)めになって重なり合わさる」ゆえ、「骨盤入口をくぐりぬけて膣口にて達するまでの出産児の頭蓋骨の〔骨重積〕の形状」に瓜二つ、そっくりである。つまり、「〔フタコブラクダの鼻〕は〔小泉門〕、〔フタコブラクダの鼻と口の中間のミゾ〕は〔矢状縫合〕、〔フタコブラクダの口〕は〔大泉門〕に相当し、各パーツの仕切りが邪(なな)めになって重ね合わさる様子」は「出産児の〔骨重積〕の形状」に瓜二つ、ソックリである。
 だから、倉頡は「産道を通りぬける出産児の頭蓋骨の〔骨重積〕の形状」に酷似(こくじ)する「フタコブラクダの顔(鼻・アゴ・口)の表情」を注目して[]の字源を「フタコブラクダ」と定めた。よって、「フタコブラクダ」は「子宮に宿る胎児、産道を通過する出産児」などに見立てられて、【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 「産道を通過する出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門と5枚の頭蓋骨の形状」と瓜二つ、そっくりの「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口は、各部の仕切りの形状が邪(なな)めになって重なり合わさる様子」にもとづいて――卑弥呼は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」を「邪め」の[][]を加えて「邪馬」と名づけた。
 『魏志倭人伝』において倭国における1番目に登場する小国名を「対馬国」と記す。24番目の小国は「邪馬国(やまこく)」である。この「邪馬国」は「現在の奈良県、旧国の大和」であった。
 下図に示すように、「家康が設計した江戸の渦巻の水路の、時計回りに90度転回して北→東とする方位規定」にもとづくと、「奈良県の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)における鼻・ミゾ・口の部分」は「馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べるときの鼻・ミゾ・口の形状」と瓜二つゆえ、「邪馬」をあらわす。ゆえに、卑弥呼は「大和」の小国名を「邪馬国」と名づけた。したがって、「大和」は「邪馬台国」ではなかった。
 だいいち、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した地所の名」を「邪馬壱国」と記す。だから、「邪馬台国」は学者たちがデッチあげたウソ・戯言(たわごと)であったことになる。
000042_20221004144901
◆「歳差(さいさ)」とよばれる天文現象を利用すると、〔過去と未来の天の北極と春分点の位置〕が算出でき、5000年前の黄帝時代や卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの天頂にめぐってきた銀河部・星・星雲・暗黒天体部などが自由自在に再現できる。
 下に、今から5000年前の黄帝と倉頡が生存した時代における中国の各地の天頂にめぐってきた図を示した。
 下図の下部にある「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に二つの目の形があり、後頭部にも見開く目の形の銀河部位があり、アゴにも細い切れ長の目の形の銀河部位があり、計四つの目」がある。ゆえに、私は「鬼の横顔に似る銀河」の別名を「四つ目の銀河」とすることにした。
 倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」の正体は「四つ目の銀河」であった。学者たちは「四つ目の怪人・倉頡」について「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定したが、【倉頡の漢字作成理論の中枢部】となる「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現して、「漢字が銀漢から作られた」と後世に伝えていたのである。
 下図における上部「十字の銀河の西半分」は「女性の乳房や子宮に相当する箇所」がある。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」は「銀漢各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮(に相当する銀河)」を「全漢字が生まれる子宮」と定めた。
 「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は「子宮に宿る胎児(の顔)、産道を通過する出産児(の顔)」に見立てられて[]の字源、あるいは「四つ目の怪人」から[]の字源、また「誕生するときのフタコブラクダ(の顔)」に見立てられて、あるいは「人(出産児)の顔」にも見立てられて[][]の字源となり、さらに【倉頡の漢字作成理論】を組織する様々な漢字の字源・字形・字義となった。
0000162_20221004145101
 下の図に示すように、前述した〔出産児の「邪馬」、つまり「小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」〕(注 上図参照)は、「四つ目の銀河における後頭部とアゴにつく目の形」と隣接する西側に存在する(注 下図参照)
000093_20221004145301
 下図に示したように、「十字の銀河の子宮」は[()]の字源である。
 下図における「邪馬の銀河(小泉門・矢状縫合・大泉門の銀河)」が示す「邪馬」に[]の字源銀河(十字の銀河)が加わって「邪馬壹()」という語が成立する。
 ゆえに、「邪馬壹()」という語は「出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬける出産第一期・開口期(かいこうき)から、出産児の頭が膣口(ちつこう)を通りぬけて誕生するまでの出産第二期・娩出期(べんしゅつき)までの様子」をあらわしている。
0000163
◆下に「邪馬壹()」という語源となる「出産第一期・開口期と出産第二期・娩出期における出産児の図」を配した。
 「邪馬壹」の[][(つぼ)]の中に[]が加わる字である。[]は「骨盤入口から膣口までの産道」をあらわし、[]は「骨盤入口から膣口までを4回、転回(回旋)して通りぬける出産児の『邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)』の頭蓋骨」をあらわす。
000056_20221004145501
 []における[]すなわち「出産児の転回」は4回となり、産婦人科では「産道における出産児の頭の転回」を「回旋(かいせん)」とよぶ。
 「出産第一期・開口期」は「分娩の始まりから子宮口(しきゅうこう)がすっかり開いて(全開大となって)、横長の骨盤入口に合わせて縦長の出産児の頭が横向きになって骨盤入口をくぐりぬけるまでの時期」をいう。この「出産第一期・開口期の終わりの横長の骨盤入口にあわせて縦長の出産児の頭がくぐりぬける時の時計回りの90度の転回」は「第1回旋」とよばれている。この「第1回旋」から「第2回旋」へ回る角度は90度であり、第2回旋は第1回旋の反対方向、つまり反時計回りとなる。第3回旋は第2回旋と同じく反時計回りの90度の転回となる。「第4回旋」、つまり「出産第二期・娩出期終わりの膣口から出産児の頭が誕生する時の第4回旋は、時計回りの90度の転回」となる。
 上記したように、開口期の終わりから娩出期終わりまでの出産児の頭の回旋は4回おこなわれ、「第1回旋と第4回旋」は「時計回りの90度の転回」、「第2回旋と第3回旋」は「反時計回りの90度の転回」となる。

 【出産児が生と死にわかれる命の山場(やまば)の重大局面】における「時計回りの第1回旋と第4回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 また、「反時計回りに90度転回する第2回旋と第3回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「反時計回りの90度転回する方位規定」をあらわした。
 下の図における上図に示すように、「十字の銀河」の中央に〔禾(稲や麦などの穀物)をあらわす図書(ずしょ)〕を重ね、「鬼の横顔に似る銀河における口」を「人の口」に見立てて、〔稲や麦などの穀物の実〕が「人が口に入れる食料」となるために、倉頡は【時計回りに禾の穂が南→西へ90度転回すると定める[]】の字を作った。
 よって、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」をあらわした。[]の下に[]が加わる[()]と、人偏に[]の字が加わる[]は、倉頡が作った[]の「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」をそのまま受け継いだ。
 下の図における下図の[]の上部の[]は「人が言う食う器官の口(くち)」ではない。その[]の字音は「さい」であり、[(さい)]は「出産祝いや子授け祈願するときに、巫女(みこ)が用いる土器」である。つまり、[(さい)]は「骨盤入口と膣口における【口】」であるゆえ、[(さい)]は「骨盤入口から膣口までの産道をデザインする土器」であった。
 白川静著『字統』は[]の字形を「人が一手をあげる祝祷(しゅくとう)の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。下に配する下図における「口(さい)をかかげる、十字の銀河の右手(西側の手)」を、『字統』は「一手」と表現する。「一手(右側の手)の上の口(さい)」は「出産児の第2回旋と第3回旋の反時計回りの90度の転回、つまり北→西となる反時計回りの方位規定」をあらわす。[]の金文形における[(さい)]の下部の「人体」をあらわす図書は「産道を通過する出産児の様子を演じて身をくねらせて舞う巫女の姿」をデザインしている。
000011_20221004145601
◆倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」に対して学者たちはこぞって「人間には目が四つ無い! 荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ!」と断定した。このように、全学者たちが否定・抹殺した倉頡伝説は、下記のごとくである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を作り、古来(三皇時代)の易に用いた記号の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(穀物)を降らせ、三皇時代に生存した氏族の死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたという。」
 三皇時代に生存した氏族たちの天に昇った霊魂は、倉頡の文字の発明によって自分たちの歴史が後世に伝えられることになったと感激して泣く、つまり天から恵(めぐみ)の雨の慈雨(じう)を降らせて禾(穀物)の豊作を地上にもたらした――と倉頡伝説は説明していた。そして、前述したように、「四つ目の怪人・倉頡」は「中国全土各地の天頂にめぐってきた、四つ目の銀河」のことであった。
 だから倉頡伝説は事実を伝えるものであり、断じて荒唐無稽のデタラメではなかった。

 注目すべきは倉頡伝説が「倉頡が[]の字を作った」と伝えていることであり、上記したように[]の字源「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」は、[]にも受け継がれた。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 だから、女王・卑弥呼は統治する国名を「倭人国」と定めたことになる。しかし、『魏志倭人伝』は倭人国における1番目に登場する「対馬国(つしまこく/現在の長崎県北部の対馬)と一大国(いちだいこく/現在の長崎県北部の壱岐)は南北であった」と記している。ゆえに、倭国の「対馬国と一大国の南北」は「現在の日本地図における、対馬と壱岐の南北」に合致して、[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていない。
 けれども、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国(まつろこく)までの方位」を記さない。ゆえに、「方位が記されない、一大国から末盧国の中間地」が分岐点になって――九州の「末盧国以下の本州におけるすべての方位」は、「倭人国」の[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る仕組みになっている。
 『魏志倭人伝』は「末盧国から東南へ陸行五百里、伊都国に到る」と記す。
 そうすると、[]の字源にもとづく「現在方位の東北」が「東南(時計回りの90度の転回方位が定める〔東南〕)」となる。つまり、伊都国の旅程基点は末盧国の旅程基点より東北へ陸行五百里離れて地所であったことになる。
 上記したように、『魏志倭人伝』における末盧国以下の方位は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則らなければならない。ゆえに、倭女王・卑弥呼が首都と定めた邪馬壱国は現在の日本地図にもとづいて九州の南の海上に所在せず、また九州にも所在せず、あるいは大和にも存在せず、上記したように「大和は邪馬国」であった。
 『魏志倭人伝』の末盧国以下本州における方位を、【倉頡が作った[]の字源】を受け継いだ[]の字源「時計回りの90度転回する方位」に変換すれば、女王国・邪馬壱国は山陰出雲であったことになる。というのも、前述したように「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆、倭種なり」という記事の「東」は現在方位だと「北」となるからである。邪馬壱国・出雲の松江市より真北となる日本海上には「皆、倭種なり」と表現された通りの多数の島々からなる隠岐群島が所在して合理となる。
 このように『魏志倭人伝』の末盧国以下の本州における方位は[]の字源にもとづけば1ヵ所も矛盾点がなく、すべて合理的に【倉頡の漢字作成理論】を説明している。
 『魏志倭人伝』は学者たちが主張する「邪馬台国を説明した文献」ではなかったのである。『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書」であったのである。

◆『魏志倭人伝』は「一大国から海を渡ると末盧国に至る」と説明する。
 古代の人々が“字書の聖典”と尊重した100年頃に完成していたとされる『説文解字(せつもんかいじ)』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。
 ゆえに、下図に示すように、末盧国の東端(ただし、現在方位)の境は唐津湾に注ぐ松浦川と有明海に注ぐ塩田川(しおたがわ)であったと考えられる。というのも、松浦川と塩田川を境にすると、末盧国北部(現在方位)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「飯器(飯を炊く土器)の形」に相似するからである。つまり、末盧国北部の地宜は前期縄文・中期縄文・後期縄文で作られた大型の深鉢(ふかばち)の形に相似するゆえ、深鉢の用途の一つは「飯器」であったにちがいない。
 末盧国南部の「西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜」は「盧(飯器)を炊く火炎のイメージ」となる。ということは「禾(穀物)の収穫が終了した時、また出産が終了した時」を[]とあらわし、「収穫と出産の終了を祝うために炊く飯器」を[]として――現在の「佐賀県西部と隣接する長崎県の地宜」を卑弥呼は「末盧国」と名づけたことになる。
 下図が示すように、「北」に在る地域は「東松浦」、「西」に在る地域は「北松浦」、「南」に在る地域は「西松浦」であるゆえ、「松浦」に関する方位名は矛盾して不合理となる。
000071_20221004145701
 前述したように、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書であった。
 ゆえに、[]の字源「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定にもとづく末盧国の地宜」を下に配した。
 下図が示すように、[]の字源の「転回方位」にもとづくと「北松浦」は「北」、「西松浦」は「西」に、「東松浦」は「東」に在って、すべて合理となる。また、「西彼杵」は「西」に在り、「東彼杵」は「東」に在るゆえ、「彼杵(そのぎ)」に冠する方位名も合理となる。
 このように、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論】をあらわす[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」は末盧国(佐賀県西部とその南隣の長崎県)において、約1750年後の現在においても消滅しないで残っている。
000072_20221004145801
 現在の佐賀県西部とその南隣の長崎県に現在も残っているように、【倉頡の漢字理論をあらわす基本字[]の字源をそのまま受け継ぐ[]の字源「時計まわりに90度転回する方位規定」】に則って、『魏志倭人伝』の末盧国より以下の全方位記事は説明していたのである。
 『魏志倭人伝』は末盧国以下の全方位記事を[]の字源「転回方位」に統一して説明している。その証拠に、『魏志倭人伝』が「黒歯国の東南にある周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの倭の地」と説明する地域は、卑弥呼が統治した倭人国よりはるか遠くの地域、つまり【倉頡の漢字理論と夏音文字】を教え広めた益氏が定住した秋田県である。このように「倭人国の範囲」ではない「秋田県」を、『魏志倭人伝』は「倭地」と記す。また「中国の会稽・東治の東に在るべし」という記事にあっても、[]の字源の「転回方位」にもとづいて説明している。
 上記したように――『魏志倭人伝』は「末盧国より東南(つまり、現在の東北)に陸を五百里行くと伊都国に到る」と説明する。次に、「伊都国から東南(つまり、現在の東北)の奴国(なこく)に至るには百里」と説明する。次に、「奴国より東(つまり、現在の北)に行くと、不弥国(ふみこく)に至るには百里」と説明する。
 下に、[]の字源「転回方位」にもとづく「末盧国から不弥国までの旅程基点をあらわす図」を配した。この図が示す「[]の字源「転回方位」にもとづく各国の旅程基点の方位」は、『魏志倭人伝』の末盧国以下のすべての記事における方位と合致する。
K241_20221004150001
◆『魏志倭人伝』は「不弥国の南(つまり、現在の東)、投馬国(つまこく)に至る」と説明する。ゆえに、「不弥国、九州の旧国の筑前北部と豊前の宗像「むなかた)地方より東の、山口県(旧国の長門・周防)」が「投馬国」であったことになる。
 『魏志倭人伝』は「投馬国から南(つまり、現在の東)は邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記述する。ゆえに、「山口県の東隣の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆」が「邪馬壱国の範囲」であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が居住した宮殿は邪馬壱国の中央の「出雲」に所在したことになる。
 下に、[]の字源「転回方位」にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜を示した。
 〔注 下図は新人物往来社『歴史読本』第524号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレースして転回方位にもとづくようにした図である。〕
 下図に示したように、「島根半島の北端(転回方位)の地宜」は「[]の字源・フタコブラクダの親の顔の形」に相似する。そして、「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」は「紙のようにペラペラした二つのコブがある、誕生したばかりの足を踏ん張って立ち上がろうとする馬・フタコブラクダの赤ん坊の姿」に相似する。
 「神門水海」は「経度軸と緯度軸に対して、邪(ななめ)にして、[]の字源・フタコブラクダの赤ん坊の姿」に相似する。したがって、「神門水海」は「邪馬」をあらわす。
 「当時の宍道湖の地宜の南部(転回方位)」は「人の右足の形」に相似した。[]の字源は「十字の銀河の子宮」であり、「十字の銀河の子宮の右隣(西側)」は「十字の銀河の右足(西側の足)、あるいは妊婦の腹部・乳房」に相似すると見立てられた。
 ゆえに、「十字の銀河の右足に見立てられた宍道湖より東隣(転回方位)の、現在の松江市北部(現在方位)」は、[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
 だから、「卑弥呼が都とした邪馬壱国の中心部」は、下図の「山陰・出雲、現在の出雲市・松江市」であったことになる。
000037_20221004150101
 再度くりかえす、下図における「十字の銀河の子宮」は[]の字源銀河であった。「十字の銀河の子宮の西側の銀河部」は「妊婦の腹部、乳房」、そして「右足」に見立てられた。だから、「右足に相似すると見立てられた宍道湖の東(転回方位)」に隣接する「現在の松江市北部(現在方位)」は[]の字源をあらわした。
000057_20221004150201
 下図に示すように、宍道湖の南部(転回方位)の湖岸「足の指の先端(爪先)」が指差す方向に、意宇(おう)平野がある。
 []の字源地宜となる「松江市北部(現在方位)」の〔南〕(転回方位)から[]の字源「時計回りに90度転回する〔西〕(転回方位)の地所」は「意宇平野」となる。
 したがって、『魏志倭人伝』が「卑弥呼は女王になってからは彼女に会った人々は少なく、婢()千人を侍(はべ)らせ、唯々(ただ)一人の男子が卑弥呼の飲食を給仕し、女王の辞を伝えるために卑弥呼の居間に出入りしていた。卑弥呼が居住した宮殿は楼観(ろうかん/見張り櫓)や城の柵(さく)を厳重に設け、常に兵器を持った人が守衛していた」と説明する宮殿は、意宇平野の一画に所在したと推定される。
000036_20221004150301
◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と記す。
 下に図示したように、『魏志倭人伝』が「対馬国と一大国の中間の海の名」は「瀚海」であったと記す。この「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
000012_20221004150401

 フタコブラクダは、瀚海・ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。
 下図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を[]の字源「フタコブラクダ」と定めた。
 「長崎県の対馬の地宜」を、卑弥呼は瀚海・ゴビ沙漠に生息する【漢字作成理論を象徴する聖獣】の[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、卑弥呼は「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に見立て、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を「沙漠を歩くに都合がよい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底」あるいは「沙漠の砂に残る足跡」に見立てた。だから、「上県郡と下県郡の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足底の一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]が加わる「対馬」とした。
000015_20221004150501
 卑弥呼は「対馬の地宜」を「馬・フタコブラクダの姿」に相似すると見立てたゆえ、出雲の「神門水海の地宜」を「馬・フタコブラクダの赤ちゃんの姿」に見立てた。そして、「対馬の下県の地宜」は「フタコブラクダの足」に相似し、「宍道湖の地宜」は「人の右足」に相似するゆえ、卑弥呼は「フタコブラクダ」は「人」に見立てた。これゆえ、卑弥呼は「フタコブラクダの赤ちゃん」を「人の赤ちゃん」に見立てて、「出雲市から松江市の地宜」を「邪馬」の「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」と、[]の字源「十字の銀河の子宮」に相当する聖地と考えて、首都所在地の名を「邪馬壱国」と定めたことになる。

◆「現在の長崎県北部の壱岐」の小国名を、卑弥呼は「一大国」とした。
 『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。ゆえに、下図に示すように、『説文解字』は[]の字源は「天頂(天頂緯度線)、つまりそれ以上の上が無い・最も高い天体部となる緯度線」と解説していることになる。
0000126_20221004150601
 下に示すように、[][]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)と金文形は「十字の銀河」から作られた。
000017_20221004150701
 下に示すように、「長崎県の壱岐の地宜」は[][]の字源「十字の銀河の子宮の形」に類似すると見立てた。その証拠に、「壱岐」の[]の字源は「十字の銀河の子宮」である。そして、「壱岐の地宜」は[]字形である。
 ゆえに、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めた。
000016_20221004150801
 下に示すように、現在方位にもとづく「一大国・壱岐の西端の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「フタコブラクダの地宜より東方の壱岐大半の地宜」は「南に顔を向ける[]の字源・ジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。
000019_20221004150901
 下に、[]の字源の「転回方位」にもとづく「一大国・壱岐の地宜」を示した。
 「一大国・壱岐の地宜」は「大きなジャコウウシの全身と、ジャコウウシの背中越しに遠くにいて胴体や足の部分が見えないフタコブラクダの顔とコブに岐(わか)れる形」となる。
ゆえに、「一大国の地宜」は「ジャコウウシとフタコブラクダの形をした地宜(海岸線の形)に岐れる」ゆえ、[]の字を表示することになった。
 上記したように「一大国の地宜」は[]の字源の「十字の銀河の子宮の形」に類似すると見立てられたゆえ、「一大国」は後に[][]を加えて「壱岐」とよばれることになった。
000018_20221004151001
◆前述したように、[]の字源の「ジャコウウシ」を倉頡は「胎児が宿る子宮を包囲して、胎児の命をまもる骨盤」に見立て、【漢字の作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
 また、[]の字源の「フタコブラクダ」を「産道を通りぬける出産児」だけでなく、倉頡は「子宮に宿る胎児」にも見立てて、【漢字の作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
 これゆえ、「一大国の地宜」に相似する「骨盤・ジャコウウシと子宮に宿る胎児・フタコブラクダ」もまた[][]の字をあらわす。ゆえに、「一大国」は後に「壱岐」とよばれることになったのである。
 地図で調べれば「なるほど」と納得できるように、「馬・フタコブラクダの姿」に相似す「対馬」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)め」であるからして、[邪馬]ということになる。また、「一大国の地宜」は[]の字源を示す。ゆえに、「対馬国と一大国」もまた卑弥呼が首都とした女王国中心地の出雲の地宜と同じく「邪馬壱」をあらわす。
 だから、現存する12世紀の刊本『魏志倭人伝』が記しているように、女王国名は「邪馬壱国」であった。ということは、白石以来の女王国名は「邪馬台国であった」という定説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の1ヵ所の記事にも合致しない完全なる空理空論・空想・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる。
 その証拠に、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」は「瀚海・ゴビ沙漠」であったと記述する。だから、[]の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であり、前述したように、「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門と母体の産道」を、卑弥呼は「邪馬壱」と名づけたことになる。というのも、「産道を通りぬける小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」は「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの鼻・上アゴのミゾ・口・下アゴの形」に瓜二つ・そっくりだからである。
 以上のごとく、【倉頡の漢字作成理論】は卑弥呼が「邪馬壱」と名づけた「草をモグモグと食べるときの鼻・アゴ・口の形状に瓜二つの、産道を通過する出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の神秘的な光景」に感激して倉頡が発明した【倉頡の漢字作成理論】は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【基本字の[][]の字源】と【夏の銀河各部の形状】を合体して合理が成立するように考えて文字を作る方法であった。
 だから、卑弥呼は女王国名を「邪馬壱国」と定めて【倉頡が感動した、骨盤入口から膣口までの産道を通過して誕生する出産児の頭蓋骨の“生命の神秘の光景”】をあらわすようにしたため、「対馬国と一大国の中間の海の名」を「馬・フタコブラクダが生息する、瀚海」と名づける必要があったのである。
 以上のごとく、「邪馬台国」は『魏志倭人伝』とまったく無関係であった。その証拠に、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。さらに、「邪馬台」の「邪馬」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」であって「大和」や「山門」とはまったく無関係であった。
 『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する教科書であったのである。
 だから、邪馬台国説は「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という素養を有さないが致命的欠陥となる、100パーセントの誤読の産物、完全なる空理空論であったことになる。

| | コメント (0)

2022年9月20日 (火)

家康くんと『魏志倭人伝』#3

◆「銀河」の別名は「銀漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、字書で調べてわかるように、わが国でも中国でも「漢字」とよんだ。
 「漢字が作られた銀漢」は、天文学で通称「春の銀河、夏の銀河、秋の銀河、冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河」から作られた。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」のことである。
 
下に「銀漢=夏の銀河」の写真を示した。
Ginga_20220920154901
 中国の伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と伝えていた。つまり、倉頡伝説は上の写真で示した「【銀漢(夏の銀河)各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した」と伝えていた。
 倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は崩壊すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、明確に容易に理解できるように説明して暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上記した【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字の書契と夏代の夏音文字においては文字を書いた資料が出土しないことになった。

◆上記した【3】の掟によって、五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音文字(かおんもじ)の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となった。
 ゆえに、現在においても、五帝時代の書契と夏代の夏音文字は、夜な夜な輝く銀漢各部の形状となって存在することになった。
 そして、殷代(いんだい)後半の甲骨文字(こうこつもじ)、周代の金文(きんぶん)、金文以後の大篆(だいてん)・小篆(しょうてん)・隷書(れいしょ)・そして後漢時代の1世紀頃に確立されたとされる楷書(かいしょ)は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて作られた。このため、これらの字源・字形の原形・字義は銀漢各部の形状となった。
 したがって、五帝時代の書契・夏代の夏音文字と甲骨文字以後の金文・大篆・小篆・隷書・楷書の字源・字形・字義は、銀漢各部の形状となって永遠に存在することになった。

 このような【倉頡が発明した漢字作成理論】は、なんと! 3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』に記述されていた。
 学者たちが主張するように――『魏志倭人伝』は「邪馬台国がどこにあったか」と決定するための書物ではなかった。
 『魏志倭人伝』が記述される【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)ると「卑弥呼が首都とした地所の名」は「邪馬壱国(やまいこく)」であったことになる。また、現存する12世紀の刊本には「邪馬壹()国」と記し、「邪馬臺()国」と記していない。学者たちは「邪馬壱国」と書いてある事実を無視して「邪馬台国と書いてある」とウソをつき、一般市民を洗脳(マインドコントロール)してまんまとダマしつづけている。今から300年前の江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき/16571725)以来、学者たちは300年もの長き間、【倉頡の漢字作成理論】を無視し排除して『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と書いてあると、一般市民をダマし続けている。
 「邪馬壱国」の「邪馬壱」は【倉頡の漢字作成理論における基本理論】をあらわす語であり、また「邪馬壱」は[][]の字源・字義をあらわした。
 したがって、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論】は〔卑弥呼が天下を統治するための真っ先に必要となった学問にして知識〕であった。ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めていた」と伝えていたことになる。
 このブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#3」から以後数回のブログにて説明・指摘するように、ついにわれわれ国民(一般市民)は「邪馬台国説は空理空論であった」と【科学】の基(もと)に明確に完全証明できるようになったのである。
 もはや学者たちにまんまとダマされずに、マインドコントロールされずにすむようになったのである。とうとう、一般市民は邪馬台国説の空理空論・真っ赤な大ウソから解放されて〔自由な[][]の翼〕を手に入れることができる時が訪れたのである! 
 ようやく、白石以来300年も思考停止して一歩も進歩しなかった学者たちを尻目(しりめ)に見て、一般市民は「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明していた書物」として扱うことができる時が到来したのである。

◆倉頡が生存した五帝時代初頭は今から約5000年前、わが国の中期縄文時代初頭であった。この約1000年後の今から4000年前の中国の夏代黎明期(れいめいき)、わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏王朝の帝王であった益(えき)の孫の王子と若者たち一行が大海を越えて九州に上陸し、北に向かって進んで東北地方の秋田県に定住して【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた。この噂(うわさ)を知った東国(東日本)の銀漢(夏の銀河)各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちが益氏の若者たちが居住する秋田県に旅して、前期縄文時代初頭から中期縄文時代そして後期縄文時代初頭までの約2000年間及ぶ造化(銀漢各部形状から土器・土偶を作った造形芸術)の神々(つまり、参神造化の伝統による知識)にもとづいて【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。ゆえに、わが国は今から約4000年前に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた。だから、『魏志倭人伝』に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が記述されることになったのである。
 そして、『魏志倭人伝』の他に、なんと『古事記』上巻にも【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】に記述されていたのである。
 この詳細は、前回の「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で詳細に解説して証明した。

 上記したように【倉頡が死刑と定めた3つの掟】によって、五帝時代の書契と夏代の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となった。このため、現在でも夜な夜な現れる銀漢(夏の銀河)各部の形状で、また上記した「夏の銀河(銀漢)の写真における各部の形状」で、あるいはプラネタリウムにおける銀漢各部の形状で存在することになった。
 だから、現在の「わが国が最年初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は空理空論であった。この絶対的な定説は,そもそも「後漢時代の1世紀頃から出現されたとされる楷書を書いた資料が出土した事例において、最古のものは5世紀あるいは6世紀であった」と、学界は認識しなければならなかったのである。
 他方、【五帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏音文字】は(1)夜に輝く銀漢と(2)銀漢の写真と(3)プラネタリウムの銀漢各部の形状が字源・字形・字義となり、字音は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存する。
 だから、楷書と同じく【五帝時代の書契と夏音文字】は字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字であった。
 『古事記』上巻の随所には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という目印()がついて多数残っている。したがって、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく文字を【あなたが目で見る】という――この現場は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説は「真っ赤なウソ」である現実と事実を目撃していることになる。
 言い換えると、『古事記』上巻を開いて、随所の〔音〕という注がつく文字が何か所あるかと数えていく――この時間は「4000年前にわが国に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」、この現場を目撃していることになる。

◆上記した〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力である考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。この考古学を中心勢力となる邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を立論する学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と声高に主張して、自分の意見にあわない記事は片っ端から自分の言いなりになるようにしようとする――この立論方法は当時の事実であった出来事や真実の情報を入手した『魏志倭人伝』の著者・陳寿(ちんじゅ)が慎重に深く思索して記述した文章に【横暴な主観】と【無責任な誤読】をヤタラに積み重ねる状況、つまり【意地悪なナンクセ(難癖)】と【勝手な言いがかり】をつけていたことになる。
 要するに、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない正確無比な『魏志倭人伝』に、邪馬台国説学者たちは【300年前の新井白石の邪馬台国説から一歩も進歩しないナンセンスなイチャモン】をつけて弄(もてあそ)んで楽しんでいることになる。

 前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で指摘したように――江戸時代中期に生存した新井白石は、1716年・晩年60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国説大和説と日本神話説を記述した。さらに、その後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を記述した。
 このような白石の(1)邪馬台国大和説と、(2)邪馬台国九州説と、(3)日本神話説は空理空論であった。というのも、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住していた女王国の名を「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国の中心地域は山陰出雲であり、邪馬壱国の範囲は旧国の石見・出雲・伯耆(現在の島根県と鳥取県西部)であった」と記述しているからである。そして、上記したように、「邪馬壱」という語は【倉頡の漢字作成理論の基本理論】をあらわしていた。
 前述したように、『古事記』上巻には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という目印()がついて多数残っている。ゆえに、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字を【目で見る行為】によって、白石の日本神話説・邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)の三説は「無知無学の産物」であった事実を見ぬくことができる。
 というのも、上記したように[][]の字源は【倉頡の漢字作成理論の基礎理論】であったゆえ、『古事記』上巻に多数記される夏音文字を【目で見る行為】によって、「白石の日本神話説・邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)の三説は、[][]の字源を知らない無知無学の産物であった」という事実を知ることができるからである。

 【『古事記』上巻に、多数の夏音文字が記されている事実】に気づくと、『魏志倭人伝』は冒頭記事から狗奴(くな)国が登場するまでの約500字までの記事をもって「倉頡は文字作成目的であった【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】をあらわす【漢字作成理論】を発明した」と説明していた重大な歴史書であったと証明されることになる。また、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住した」と説明していたとおり、この首都名に用いられた「邪馬壱」という語は「【倉頡の漢字作成理論の基本論】をあらわしている」と証明することができる。だから、白石以来学者たちは300年もまもりつづけた邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったことになる。
 白石は「漢字は銀漢から作られた知識」を有していなかった。これゆえ、白石は『魏志倭人伝』が記述された事実と真実を見抜く眼力を失っていた。だから、白石の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説と、そして日本神話説の実体は[][]の字源を知らない無知無学の産物であったのである。

◆上記したように、当然、『魏志倭人伝』を正しく理解するためには「漢字は銀漢から作られた」という学術知識を最初から有していなければならない。
 白石はじめ現在の学者たちが、最初から「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していれば「わが国は最初に漢字を習得したの5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論である事実を、下記の『魏志倭人伝』の二つの記事を読んで直(ただ)ちに察知できた。
 『魏志倭人伝』には「倭には夏代黎明期に習得した夏音文字が存在した」と説明していた二つの記事が存在する。
 この一つ目は、『魏志倭人伝』の中半にある「倭の占いに用いる辞(言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」と説明する記事である。「令亀の法の如く」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文(けいぶん)・今から約3300年前に出現した甲骨文字の如き夏音文字」と意味したことになる。
 二つ目の記事は、『魏志倭人伝』の中半にある「中国の魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都国(いとこく)の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を捜露(そうろ)して、楷書と夏音文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する――このような「倭には【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡の漢字作成理論】と、【夏代初頭の夏音文字】が存在した」と伝えている記事が存在する。
 上記の記事にある、「捜露(そうろ)」という語は――前述したように、夏音文字と楷書の字源・字形・字義は銀漢(夏の銀河)各部の形状であった。ゆえに、「夏音文字と楷書を同義するには、夏音文字と楷書の一字一字の字源・字形・字義は銀漢のどの箇所と合致するのか捜(さが)し露(あらわ)にしなければならなかった。だから、『魏志倭人伝』は「夏音文字と楷書を同義にする伊都国の港で行われていた作業」を「捜露」と記したのである。

◆上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるにもかかわらず――『古事記』の序は「上巻だけの序」と限定するきわめて風変りな・特殊な序である。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』の序は900余字で構成される。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻のうち、上巻のみに〔音〕という注がつく夏音文字が多数記されている。この【夏音文字の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に捜露・変換する作業を中心にして上巻に記述された歴史を解明する方法】を説明するために、「古事記上巻 并せて序」という名称にしたのである。
 それというのも――681年3月、40代・天武天皇は「大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代・崇神天皇母子)を絶賛する最も偉大な至上神にするための偽書を作れ」と命令した。しかし、681年から31年後の712128日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』上巻は、天武天皇の偽書作成命令を無視する反逆の歴史書であった。その証拠に、『古事記』上巻には伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記述されている。この伊耶那岐命と伊耶那美命説話には【朝廷が後世に伝えることを厳重に禁止した、皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史】が記述されている。
 要するに、「古事記上巻 并せて序」という名称になったのは、『古事記』上巻が【天武天皇の天照大神を絶賛する偽書作成命令に背(そむ)く、反逆の歴史書】であったからである。
 白石と現在の学者たちは、個性的な「古事記上巻 并せて序」という名称にまったく奇異を感じず、無関心・無頓着(むとんちゃく)である。
 これゆえ、学界は、新井白石の日本神話説と同様に「『古事記』上巻は歴史を語っていない」と考える日本神話説が正しいと断定する。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻から構成されているのに、なにゆえ〔『古事記』の序〕は〔『古事記』上巻だけの序〕なのか――現在の学者たちは誰一人、疑問を抱かない。
 太安万侶は「古事記上巻 并せて序」という名称をもって「漢字は銀漢から作られた。『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に捜露・変換すれば上巻に記述された歴史が明らかとなる。『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と説明していた。
 だから、【序】を「古事記上巻 并せて序」という奇異な個性的な名称にした『古事記』上巻は反逆の歴史書であったのである。
 『古事記』上巻は反逆の歴史書であったからこそ、元明天皇は『古事記』献呈を拒絶し、『古事記』を政府が編纂した書物・正史として認めなかった。また、『古事記』が編纂された持統天皇・文武天皇・元明天皇の治世のおける出来事を記述する正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「『古事記』に関するすべての記事を削除・消滅して、『古事記』という書物は実際に編纂されなかった」のごとく偽装している。
 だから、「古事記上巻 并せて序」という個性的な「『古事記』の序」を見て「エっ! なんで上巻だけの序なんだ」と注目していたなられば「『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と解明できる仕組みになっていた。なんのことはない、『古事記』上巻は反逆の歴史書であったために、「『古事記』の序」は「古事記上巻 并せて序」という名称になったのである。

◆『古事記』を開くと、最初に「古事記上巻 并序」と記す7字がある。この「古事記上巻 并序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と読まれている。
 「古事記上巻 并せて序」の本文冒頭から45字目までの書き下し文は、振り仮名をつけると煩雑(はんざつ)となる。ゆえに、振り仮名無しだと下記のごとくなる。
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る。」
 上記の文を、現代語に訳すると下記のごとくになる。
 「臣下の安万侶が元明天皇陛下に申し上げます。その混元の草創期縄文時代・早期縄文時代において、わが国の天頂にめぐってきた銀漢の形状はすでに一塊(ひとかたまり)に凝り固まっていましたが、その形状にはなにかの事象や事物をあらわす気(雰囲気)や象(かたち)をとらえることができませんでした。ゆえに、この混元の草創期縄文時代・早期縄文時代に天頂にめぐってきた銀漢には名称も無く、この銀漢の形を表現する技巧(わざ)も存在しませんでした。ゆえに、混元期(草創期縄文・早期縄文)に天頂にめぐってきた銀漢の形について、『古事記』を編纂することになった現在、誰も知っていません。しかしながら、前期縄文時代の首(はじめ/初頭)に天頂をめぐってきた銀漢の形状は「乾坤(けんこん)」すなわち「天と地に分れるイメージ」をあらわしました。ですから、前期縄文時代初頭、土器・土偶を作る造化・芸術革命が小国・日本の東国(関東地方)にて花開き、さまざまな芸術性豊かな優れた作品が多数作られました。そして、後期縄文時代の首(はじめ/初頭)、中国から名門益氏の王子と若者たちがわが国の東方地方(秋田県)に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめました。これを知った東国の芸術家たちは、益氏が居住する遠く離れる地所まで旅して、前期縄文時代の初頭から中期縄文時代、そして後期縄文時代の初頭までの銀漢各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った参神造化の2000年間の知識にもとづいて【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得することができました。これゆえ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換しますと――陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命と結婚した時に伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】と、伊耶那美命の没後に伊耶那岐命が【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ歴史が解明できます。この【日本建国の〔愛〕の理念】を群品(ぐんぴん)つまり倭国と小国・日本の国中の人民たちは感激して日々の生活(くらし)の中心におき心の糧(かて)として尊重しました。いっぽう、国中の人民たちは強大な権力でおさえつけて治める天照大神(10代・崇神天皇母子)に反発して抵抗しため、天照大神は人民たちを敵視しますます弾圧しました。これゆえ、群れる民衆と群れる庶民、つまり国中の人民たちはこぞって伊耶那美命と伊耶那岐命は天照大神よりも優る最も偉大な先祖と敬愛し尊重しました。」
 上記のごとく、『古事記』上巻はまさしく反逆の歴史書であったのである。
 〔注 「字書の聖典」と尊重された100年ころに完成していたとされる後漢時代の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は、上記の文末に登場する「二霊群品」の[]の字ついて「衆庶(しゅうしょ)なり」と解説する。ゆえに、「衆庶なり」は「民衆と庶民なり」と意味するゆえ、「群品」は「群れる民衆と群れる庶民」ということになる〕。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話は、伊耶那美命が伊耶那岐命と結婚した時に宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を10字の夏音文字で「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と記す。
 この宣言のうちの[]を、『説文解字』は「大陵を阿と曰()う」と解説し、次の[]の字を「陝西(せんせい)の地名」と解説する。ゆえに「阿那」は「陝西省黄陵県に所在する大きな陵墓の黄帝陵」と意味する。桃の原産地は、[]の「陝西省辺り」とされる。[]の字源銀河は「子」の字源銀河でもあるゆえ、「那邇」は「桃のように可愛いたくさんの子供たち」と意味することになった。
 ゆえに、「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言をもって伊耶那美命は「日本の袁登古袁(おとこ・男たち)よ、中国の黄帝が慈愛つまり【愛】をそなえて万民を教化したように、妻を愛して桃のように可愛い子たちをたくさん生んでください。日本は【愛】を最も大事にする国家にしましょう」と表明したことになる。
 この夏音文字10字の「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言は、伊耶那美命が伊耶那岐命と結婚する以前にすでに、「阿那邇」つまり【愛】(慈愛)をそなえて人民たちを教化した中国の黄帝の歴史を伝えて小国・日本と倭国のあちこちで流行していたことになる。当時は、「夏音文字の字源・字形・字義」は王朝と国家が厳重な機密にして独占管理していた。ゆえに、小国・日本及び倭国の人民たちは「阿那邇夜志愛袁登古袁」の各々1字ずつの字源・字形・字義を知る由(よし)もなかった。しかし、学識者たちから「阿那邇夜志愛袁登古袁」という語意を入手した人民たちは「親が子を思う心」、「父母を敬って孝養を尽くす心」、「妻と子を愛する心」、「乙女が男子を恋する心」などとザックリと簡略化して解釈していたことになる。
 だから、小国・日本が建国された時、伊耶那美命がとなえた「阿那邇夜愛袁登古袁」という宣言は人民たちにとって夢みるような幸福感がまばゆく光の中を花吹雪のようなきらめいて輝く聖なる語となった。ゆえに、一気に爆発的・情熱的に小国・日本と倭国の国中の隅々に行き渡って、今日でいう「愛はすべてに勝る」、つまり「阿那邇夜志愛袁登古袁はすべてに勝る」と人民たちは口々にとなえるようになり、群品すなわち人民たちの生きる希望・日々の生活を支える原動力となった。そして、小国・日本と倭国の人民たちは伊耶那岐命を心から尊敬し熱烈に愛したのである。

◆前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#2」でも指摘したように――伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話における【夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する歴史解明方法】にもとづくと、下記のごとく説明したことになる。
 現在の字書は「黄泉国」を「死んだ人の魂が行くところ。あの世」を意味すると解説するが、『古事記』における「黄泉国」は「熊野」を意味した。というのも、「黄色(黄金色)に輝く[]の字源銀河周辺(つまり、銀河系中心方向周辺の銀漢)」の、その一部分が熊の姿に観える。ゆえに、「一部分が熊の姿に観える、黄色の[](地下から湧出する湧水泉に相似する)字源銀河」は「熊が住む野原」すなわち略して「熊野」という地名となり、「和歌山県南東部と三重県南部の地域」は「熊野」とよばれることになったのである。
 倭女王の伊耶那美命は、『魏志倭人伝』末部に登場する倭女王・壱与であり、伊耶那岐命・9代開化天皇の正妃・竹野比売(たかのひめ)であった。9代開化天皇・伊耶那岐命の第二后の天照大神は10代崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。
 倭女王・伊耶那美命が死去すると、10代崇神天皇の生母の天照大神が倭女王に就任した。
 これゆえ、「伊耶那岐命があとを追っていた、黄泉国の伊耶那美命」は「熊野本宮大社の旧社地の大斎原に建てた仮住まいの宮殿に住む天照大神」と解釈しなければならない。というのも、『古事記』編纂スタッフは「黄泉国の伊耶那美命」という表現をもって、天武天皇の「天照大御神を絶賛する偽書を作れ」という命令に従ったと見せかけていたからである。
 黄泉国の伊耶那美命、言いかえると天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那岐命(9代開化天皇)の父の孝元(こうげん)天皇と結婚して天照大神・10代崇神天皇を生み、伊耶那岐命と結婚した継母(ままはは)であった。
 ゆえに、伊耶那岐命(9代開化天皇)10代崇神天皇の実父ではなく、伊耶那岐命は10代崇神天皇の養父・異母兄・伯父であった。

 伊耶那岐命の第二后の天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)を築造する時、伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視して、伊耶那美命がもっとも嫌悪した多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐冷酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した〔注 『古事記』は「徇葬」を「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と記す〕。天照大神は伊耶那岐命が愛妻・伊耶那美命の亡骸(なきがら)を奪うクーデターを予想して「倭の千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)」つまり、「倭の大軍」に伊耶那美命の陵墓を衛(まも)らせた。
 真夜中、伊耶那岐命は少数の日本兵を引き連れて、伊耶那美命陵の墓室に忍び込んで伊耶那美命の亡骸を収める棺を奪い、棺は日本兵が神輿(みこし)にして担いで、伊耶那岐命一行は桃子三箇(もものみみつ/日本軍と熊野の戦士たちが集合する伊耶那岐命軍の本隊)が隠れて待機する「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本」、すなわち「現在の熊野速玉大社の境内(和歌山県新宮市)」に目指して逃走し、追跡する倭の大軍を速玉大社の境内に誘き寄せ、「桃子三箇所をとりて持ち撃てば(身を潜めて隠れていた伊耶那岐命軍の本隊が急襲して)」、倭の大軍を一挙に壊滅させた。
 おどろくべきことに、夜の真っ暗な長い熊野路を倭女王・天照大神は怒りで身を焦がして憎い伊耶那岐命を追跡してきて、日本兵の捕虜となった。日本兵に捕まった天照大神は、速玉大社から約1km真南の「黄泉比良坂(神倉神社の急坂の参道)」を塞(ふさ)ぐ「巨大な岩・千引石(ちびきのいわ)」の前にいる伊耶那岐命のもとに連行された。
 天照大神は巨大な千引石の前で、伊耶那岐命に事戸(ことど/絶妻の誓)を言い渡されて離縁された。すると、倭女王からの失脚と離縁との屈辱を怒った天照大神は伊耶那岐命に向かって「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と呪(のろ)った。この呪詛(じゅそ/のろい)は「亡き前の倭女王(伊耶那美命)がとなえた『阿那邇夜志愛袁登古袁』と宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(人草)たちの母親の子どもたちが骨産道(こつさんどう/骨盤の参道)をくぐりぬけるとき、そのせまくて堅い骨産道で子どもたちの頭を一日に必ず千人ずつ絞(くび)り殺すと、天の神に誓うことにした」と意味した。
 この呪いに対して、伊耶那岐命(後に伊耶河宮に居住して天下を治めた9代開化天皇)は「如此為(かくなせ)ば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」と誓った。この誓いは「おまえがそうするならば、亡き愛する妻の『阿那邇夜志愛袁登古袁』の宣言を受け継いで、吾は万民に一日に必ず千五百の産屋が立つように、〔愛〕を尊ぶように日々説いて天下を治める」と意味した。

 『古事記』編纂スタッフは「天照大神・伊迦賀色許売命の名」を、黄泉国訪問説話の冒頭では「黄泉国に追いかけた伊耶那美命」と記し、末部では「伊耶那美命」に「神」の一字を加えて「伊耶那美〔神〕命」と記すようにした。「伊耶那美〔神〕命」という名から「残忍冷酷な徇葬は伊耶那美命が陣頭指揮して決行された」と解釈できるゆえ、編纂スタッフは天武天皇が欲求したとおりの偽書を作ったと、『古事記』を献上した元明天皇にせまって献呈の許可を願った。しかし、元明天皇は、後世の人々は「伊耶那美〔神〕命」を「天照大〔神〕」と解釈するにちがいないと考え、『古事記』編纂スタッフの企みに同意して承認しなかった。というのも、天照大神が伊耶那岐命に事戸(離縁)された場所「巨大な岩・千引石」は熊野の神倉(かみくら)神社のご神体であり、熊野の人々は神倉神社に天照大神を祀って「黄泉国の伊耶那美〔神〕命の正体は天照大神である」と伝えていたからである。伊耶那美命に熱烈に憧れる熊野の住人たちが神倉神社に天照大神を主神として祀るのをあきらめて「天照大神が残虐な徇葬を決行した歴史」の伝承を廃止するはずがないと、元明天皇は考えた。
 現在も、神倉神社は天照大神を主祭神にして祀っている。また、神倉神社の二月六日夜の火祭り「お燈(とう)祭り」は「天照大神は残酷な徇葬を陣頭指揮し、伊耶那岐命はクーデターを決行し、追跡してきた倭の大軍を速玉大社の境内で壊滅して、天照大神を倭女王から失脚させた」と伝える祭典であったのである。
 このように「古事記上巻 并せて序」という「『古事記』の序」という名称をもって「『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と説明するものであったゆえ、元明天皇は反逆の歴史書『古事記』の献呈を拒絶した。だから、『古事記』は正史になれなかったのである。

◆『古事記』が元明天皇に献上された702年より11年前の701123日――「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝から承認を得る任務につく第7回遣唐使が8人選ばれた。遣唐使の中で最高位の遣唐執節使(けんとうしっせつし)には粟田真人(あわたのまひと)が選任され、最下位の幹部は万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)であった。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702629日、九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という、倭国には「夏音文字があった」と説明していた記事が存在する。
 つまり、上記した第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」と述べた言は「わが国は672年の壬申の乱の〔後〕、〔稍々〕〔夏音(夏音文字)〕を〔習う〕ことにした」と説明していたことになる。だから、第7回遣唐使が中国王朝に報告したように、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っているゆえ、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字が存在したことになる。

 上記したように、第7回遣唐使が「倭の名を悪(にく)み」と中国王朝に報告した言は――「『魏志倭人伝』末部に記された卑弥呼の墓を作る時と、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述された伊耶那美命(壱与)の墓を作る時と、二度も倭王朝は残忍冷酷の徇葬を決行した――だから、倭国と小国・日本の人民たちは二度の徇葬を憎悪して「倭」という国号を憎んだとあらわしていたことになる。
 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』と倭国日本伝は――第7回遣唐使の言動について「その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実をもって対(こた)えず。故に中国焉()れを疑う」――などと記述している。というのも、下記に示した事情にもとづき、中国では日本国の使節(第7回遣唐使)の言動について疑ったからである。
 日本国の使節は漢字(楷書)を用いて「倭」から「日本」への国号の改変の承認を求めた。したがって、日本国の使節は漢字(楷書)の知識を有してているにもかかわらず、「倭」から「日本」への国号改変の事情を説明する文書を作成せず、のん気に手ブラでやって来て国号の改変を中国王朝に承認を求めるのかと――真っ先に中国の外交官と王朝は疑った。「国号の改変」は「中国王朝の承認無し」で「日本国」にて独自で決定できる。だから、わざわざ大海を渡って中国側に承認を求める必要は無い。〔国号の改変の事情を説明する文書〕を作成して、中国王朝に報告すれば、それで済む。にもかかわらず、なぜ〔国号の改変の事情を説明する文書〕を作らずに手ブラで入朝したのか――と、中国側は真っ先に疑った。ゆえに、中国側は日本国の使者たちの様子は事実を答えずにウソを言っていると考えた。さらに中国側には、日本国の使者たちは国号改変の詳しい事情の説明を嫌がっているように見える言動は矜大(尊大)に映った。
 持統(じとう)上皇(天武天皇の皇后)は「天照大神を絶賛する偽書作成」を催促しても一向に実行されない状況にシビレを切らした。そこで、上皇は「天照大神」は「日神」であるゆえ、「日神」と「日本」は一字違いであることに注目した。「日本」という国号を中国が承認したならば、後世の学者たちは「日神・天照大神が日本国を誕生させた」と考えるにちがいないと――上皇は「偽の歴史の捏造(ねつぞう)」を企んで、第7回遣唐使に「倭」から「日本」への国号改変の承認を中国王朝から入手してくるように命令したのである。
 ところが、中国王朝は真っ先に日本国の使節は国号改変を説明する文書を作らずに手ブラで中国に渡って来たのかと疑問を抱いた。第7回遣唐使は「天照大神が日本国を誕生させた」という偽の歴史を捏造するために中国に派遣された。このため、中国の要望に応えて正直に事実を語って帰還したならば、持統上皇に即刻死刑にされるゆえ事実を語ることはできなかったのである。

◆第7回遣唐使が九州の港を出帆した7026月より21年前の6813月に、天武天皇は川島皇子以下十二人に「稍、夏音文字を習う」、また「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と指示する『天照大神を絶賛する偽書の作成』を命令した。この681年から702年までの21年間、天武天皇・持統天皇・文武天皇の3代において、偽書を作成することができなかった。ゆえに、持統上皇はシビレを切らして「日神・天照大神が日本国を誕生させた」と偽の歴史の捏造を企んで第7回遣唐使を中国に派遣した。しかし、朝廷が偽書作成を願望するものであったから、【偽書作成の環境】はすこぶるめぐまれていたことになる。にもかかわらず、21年間も偽書を作成できかったということは、朝廷側(体制側・天照大神崇拝派)には【偽書を編纂する能力を有する歴史家】がいなかったことになる。

 708年、体制側・天照大神崇拝派の藤原不比等の長男にして藤原南家の武智麻呂(むちまろ)は図書頭(ずしょのかみ)であった。武智麻呂は壬申の乱以後に散逸(さんいつ)した図書寮(ずしょりょう)で保管すべき書籍について、民間の協力を求めて採集し充実をはかった。ゆえに、武智麻呂には歴史書を編纂できる能力があった。しかし、武智麻呂は父不比等を裏切って、反体制側・伊耶那美命崇拝派の頭領の舎人(とねり)皇子を尊敬し、堅い熱い友情で結ばれていた。武智麻呂は伊耶那美命を崇拝していたのである。
 武智麻呂だけでなく、不比等の後妻の県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなみちよ)も伊耶那美命を崇拝し、舎人皇子を尊敬して反体制側・伊耶那美命崇拝派を支援した。
 733年1月に県犬養橘三千代は死去したが、最後まで彼女は舎人皇子を支援しつづけた。
 737年に武智麻呂は当時流行した天然痘により没したが、彼もまた733年に舎人皇子が死去した後も4年間、舎人皇子が遺した伊耶那美命崇拝運動が終焉しないように尽力した。
 『古事記』と『日本書紀』は舎人皇子(676735)が指揮して編纂された。舎人皇子は天武天皇の第三皇子であった(多数の天武天皇の子どもにあって、皇位継承順位が第三番目。『続日本紀』による)
 特に注目すべきは、元明天皇の長女の44代・元正(げんしょう)天皇は舎人皇子を一途に愛し、朝廷が反逆児・舎人皇子に死刑を下すのを懸命に防いで一生独身を通した。
 舎人皇子が頭領、舎人皇子の異母弟の天武天皇の第七皇子の新田部(にいたべ)皇子が副頭領となって、時の律令体制への伊耶那美命を崇拝する抵抗運動が組織された。舎人皇子の異母兄の天武天皇の第九皇子の忍壁(おさかべ)皇子、舎人皇子の異母兄の天武天皇の第五皇子の穂積(ほづみ)親王も、舎人皇子の伊耶那美命崇拝運動に加担した。左大臣まで出世した辣腕(らつわん)政治家の長屋王(ながやおう)も伊耶那美命崇拝運動に参加した。
 701年1月、持統上皇・文武天皇政権の重臣の大伴御行(おおともみゆき)が没し、大伴氏の後継者は御行の弟の安麻呂(やすまろ)となった。安麻呂は御行と違って朝廷に忠誠を誓わず、舎人皇子を主君と仰いだ。翌702年、安麻呂は兵部省の長官に任命された。安麻呂の長男の旅人(たびと)も父安麻呂とともに舎人皇子に忠誠を誓った。
 もちろん、「古事記上巻 并せて序」を書いた太安万侶も舎人皇子を尊敬して主君と仰ぐ、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
 そして、第7回遣唐使の最下位の幹部・山上憶良も舎人皇子を主君と仰ぐ『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであり、伊耶那美命崇拝派の急先鋒であったにちがいない。
 7351114日、天武・持統・文武・元明・元正・聖武(しょうむ)の6代の天皇の時代を生きた反逆児・舎人親王は死去した。享年60歳であった。聖武天皇は皇族の男女すべて舎人親王の葬儀の場に参列させた。というのも、律令体制に歯向かえば最後はどのように惨(みじ)めになるか、その結果を示すために全皇族を葬儀に参列させたのである。聖武天皇は律令国家体制に歯向かった反逆児の舎人親王の墓を作ることを厳重に禁じた。
 だから、身分高き天武天皇の第三皇子の舎人親王には墓は無い。舎人親王には、冬の荒野で大雪に埋もれて死んだオオカミのごとく、墓は存在しない。

◆山上憶良は『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
 
『万葉集』に収められる憶良が作った和歌には憶良が『古事記』編纂スタッフであったと証明できる歌が数多くある。その証拠に、憶良は伊耶那美命が宣誓した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という語、つまり【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマに詠む歌を多く残している。
 第7回遣唐使は、702629日に九州の港を出帆した。
 『万葉集』63番の題詞は「山上臣憶良、太唐(もろこし)に在る時に、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作る歌」である。だから、『万葉集』63番は、山上憶良が唐に滞在中に作った和歌である。

 いざ子ども 早く日本へ 大伴(おほとも)の 三津の浜松 待ち恋ひねらむ(83)
 〔さあ 日本建国の〔愛〕の理念のもとに生まれた子どもである遣唐使と船乗り諸君 一刻も早く日本へ帰ろうよ 本郷(もとつくに)・日本の最初の出発港であった三津(大伴氏の所領となる大阪の港の先端)に生える松も さぞ待ちわびているであろう(つまり、伊耶那美命崇拝運動を推進する舎人皇子と舎人皇子に忠誠を誓った大伴安麻呂と旅人父子の三人が、持統上皇・文武天皇に討伐されずに、吾の帰国を今か今かと待っているにちがいない〕

前述したように、伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と記される。
 庶民的な山上憶良は、人民たちが「阿那邇夜志愛袁登古袁」を「親が子を思う心」と簡略化して解釈しているのを知っていた。だから、憶良は、「大きく育った大人(おとな)の遣唐使と船乗りたち」は【「阿那邇夜志愛袁登古袁」にもとづいて生まれた子どもたち】であると考えて、上に配した『万葉集』63番の初句を「いざ子ども」と表現したのである。

◆前述したように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文をもって、太安万侶は「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史が解明できる」と【『古事記』上巻の歴史解明方法】を伝えた。この「古事記上巻 并せて序」の秘密は、憶良は知っていた。
 また安万侶は、次の11字で「皇室が崇拝する皇祖・天照大神よりも伊耶那美命と伊耶那岐命のほうが偉大な先祖である」と表現した。この秘密をも、憶良は知っていた。
 「古事記上巻 并せて序」は、合計約900字で構成される。
 現在の学者たちは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を正しく読解できる「漢字は銀漢から作られた」という基本的学術知識を有していない。このため、「古事記上巻 并せて序」は「漢字は銀漢から作られた。後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】を習得した」と説明していると解釈することができない。これが致命的な要因となって、現在の定説・日本神話説は空理空論となり、真実の歴史を抹殺する空想となった。
 ところが、山上憶良と安万侶は共に「漢字は銀漢から作られた」という素養(学術知識)を有していた。また憶良と安万侶と共に『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。だから、憶良は安万侶が「古事記上巻 并せて序」を書いた時の詳しい事情・状況を知っていた。また、憶良は安万侶と共に〔『古事記』を編纂するという現場〕に立ち会っていたゆえ、憶良は安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の正しい解釈を詳しく知っていた。

 憶良は900余字の「古事記上巻 并せて序」の全文は要するに「『古事記』は反逆の歴史書である」と説明するものであったと伝えて、人民たちが尊重した「阿那邇夜志愛袁登古袁」(【日本建国の〔愛〕の理念】)を詠む4首の和歌を作っている。

 4首のうちの最初の『万葉集』800番に「神亀(じんき)五年(728)七月二十一日、筑前国守山上憶良、上(たてまつ)る」と記し、「惑(まと)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首 并せて序」という題詞をつけている。
 つまり、憶良は800番の題詞を「惑へる情を反さしむる歌一首 〔并せて序〕」とした。
 いっぽう、安万侶は「古事記上巻 〔并せて序〕」と名づけた。
 このように、安万侶の「古事記上巻 〔并せて序〕」における「并序(并せて序)」をそっくり真似(まね)して、憶良の800番の題詞「惑へる情を反さしむる歌一首」の後ろに「并せて序」という語を加えた――だから、「800番の題詞」は、「安万侶が書いた「古事記上巻 【并せて序】」の900余字の説明文を要約する和歌として、憶良は『万葉集』800番を作った」とあらわしていることになる。
 『万葉集』の800番の説明文は「当世、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】はすっかり廃(すた)れて軽んじられ、皇祖・天照大神を尊重する強大な権力が世を支配することになったため、誰よりも親不幸であり下品で下劣で俗物であることを自慢する人々がはびこる情けない世となった」と、下記のごとく嘆いている。
 ――ある人がいて、父母を尊敬することは知っているが、親孝行することを忘れ、妻子のことを考えない。この、ある人は「イザナミのアバズレがほざいた結構な宣言はぬぎ捨てた履物(はきもの)よりも役立たず」とさも得意げに自慢して、自らを「倍俗先生(俗がさらに二倍となる、ひどい俗物となる、この生き方こそがこの世を生きる最良の方法であると世の人々に教育する先生)と称している。云々――と説明する。
 
 この和歌が作られた728(神亀五年)45代・聖武(しょうむ)天皇の時代であった。当時は天照大神を皇祖に祀って天皇の権力の絶大化を目指した律令体制の最盛期であったと同時に、律令制の基礎が根底から崩れる時期の直前でもあった。これゆえ、憶良が「ぬぎ捨てた使い物にならない履物(草履)よりも【日本建国の〔愛〕の理念】は役立たずと軽んじられていた」と表現したとおりの倫理・真理・正義が無視された退廃とした世となり、人々は「倍俗(ばいぞく)先生」と誰よりも俗物であることを誇示するようになり、【日本建国の〔愛〕の理念】を嘲(あざけ)る人々が思うままにふるまう世相となっていたのである。
 800番の和歌で、憶良は「天照大神を皇祖と祀る皇室の権力の強大化・天皇の神格化に加担する人々の声が大となり、貧窮(ひんきゅう)する人民がさらに不幸になる冷酷・非情な世となった」と嘆いている。
 801番の反歌(はんか)では「ひさかたの天路(あまじ)は遠い、つまり天照大神を尊ぶ世の中は〔愛〕からはるかに遠い冷酷非情の世の中であるから、皇室・政府におとなしく従ってどんなに貧窮していても家業につとめて皇室や政府の富が豊かにしなければならない世になった」と表現して、憶良は悲憤している。
 このように、安万侶の「古事記上巻 〔并せて序〕」と定めた、その後ろにある〔并せて序〕という部分を利用して、憶良は「800番の一首」の題詞を「惑へる情を反さしむる歌一首 〔并せて序〕」と定め、安万侶の〔「古事記上巻 并せて序」の900余字の説明文〕を要約する『万葉集』800番を作っている。
 次の「801番の反歌」では、憶良は「【日本建国の〔愛〕の理念】を軽視し排除して、天照大神を祀って天皇の権力が絶大になった律令体制によって、一段と人民が貧窮して苦しむ世の中になった」と悲嘆・悲憤している。

801番の次となる憶良が作った802番には、「子等(こら)を思ふ歌一首 并せて序」という題詞がつく。
 上記したように、安万侶『古事記』の序を「古事記上巻 〔并せて序〕」という名にした。
 憶良は、『万葉集』800番と同様に802番の題詞に〔併せて序〕という語をつけ加えて「子等を思ふ歌一首 〔并せて序〕」とした。
 つまり、安万侶の〔「古事記上巻 并せて序」の900余字の文による説明」に見立てて、憶良は『万葉集』802番の題詞を「子等を思ふ歌一首 并せて序」と定めたことになる。
 この憶良が作った「802番の説明文と和歌」は明確に安万侶が「古事記上巻 并せて序」にて「『古事記』上巻は反逆の歴史書ある」と説明した、その「反逆の歴史書」である事実を証明する「天照大神が敵視し憎悪した【日本建国の〔愛〕の理念】」をあらわしている。
 安万侶の「古事記上巻 并せて序の900余字の説明文」に見立てた憶良の『万葉集』802番「子等を思ふ歌一首 并せて序」の説明文には、下記のごとく「釈迦如来(しゃこにょらい)の息子の「ラゴラ(羅睺羅)」が登場する。
 【憶良の「子等に思ふ歌一首 并せて序」の説明文】
 ――お釈迦さまはその尊い口で「衆生(人民たち)を平等に思う気持ちはわが子ラゴラを思う愛情と同じである」とお説きになられた。また「愛は子に勝るものはないと」お説きになった。こんな至高の大聖人でさえも「わが子を思う愛情に勝るものはない」ということであるゆえ、ましてこの世の一般の人々にあっては誰が子を愛さずにおられようか。
 太安万侶が書いた【900余字の「古事記上巻 并せて序」の説明文】を要約して憶良が作った802番の和歌は下記のごとくである。

  瓜(うり)()めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより
  来(きた)りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ(802)
 〔子どもたちと遠く離れた地に旅して 瓜を食べていると 子どもらが思い出される 栗を食べていると さらにまして偲ばれる どこから 来たものなのか 目の前に しきりにちらついて 腹がへってひもじい思いをしていないか心配で心配で我を眠らせてくれない〕

 憶良は、東国から徴発(ちょうはつ)されて筑紫・壱岐・対馬などの北九州の守備にあたった兵士・防人(さきもり)の気持ちになって、802番を作った。だから、802番は「故郷から遠く離れた東国の防人が子を思う歌」となった。憶良は安万侶が「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文で「東国における前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの2000年間に及ぶ参神造化の神の伝統によって【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が習得された」と指摘していたのを知っていた。この「縄文の土器・土偶を作る芸術革命が花開いた東国」と「防人の任務が命じられた東国」は、共に「小国・日本」であった。
 憶良は安万侶と同じ『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。安麻呂が書いた「古事記上巻 并せて序」冒頭から34字の文章は【前期縄文時代初頭に芸術革命の花が開いて後期縄文時代初頭までの約2000年間、優れた土器・土偶を作った東国(小国・日本)の芸術家たちの参神造化の知識によって、倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸が習得された】と説明するものであったことを知っていた。
 「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝から承認を得る任務についた第7回遣唐使の最下位の幹部であった憶良は、小国・日本の範囲をも知っていた。つまり、小国・日本は「現在の静岡県の中部(駿河)と東部(伊豆)、山梨県(甲斐)、長野県(信濃)、神奈川県(相模)、東京都・埼玉県(武蔵)、群馬県(上野)、栃木県(下野)、千葉県(下総・上総・安房)、茨城県(常陸)」であった。
 憶良は「『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に「阿那邇夜志愛袁登古袁」と記された【日本建国の〔愛〕の理念】を容易に理解できるように、現在の多くの日本人が知っている、憶良の代表作で有名な和歌、下記の803番の和歌を作った。

  銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも(803)
 
 憶良は上記した803番の和歌で「日本人にとって【親が子等を思う、日本建国の〔愛〕の理念】は何ものにも勝って最も尊い。【愛】は永久不滅でなければならない」と表現した。

 803番の原文・万葉仮名は「銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母」という25字である。25字中4字は[]を用いて【日本建国の〔愛〕の理念】を明確にあらわす。憶良は25字の万葉仮名で、381字で構成される『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史を象徴する、伊耶那美命が「阿那邇夜志愛袁登古袁」と宣言した、小国・日本と倭国の万民が尊重した「親が子を思う心」をあらあわす愛の歌を作った。
 上記したように、憶良は『万葉集』800番の題詞に「神亀五年七月二十一日」と記して、この和歌を作った年は「728年」であると示した。憶良は733年頃に74歳前後で没したと考えられている。ゆえに、『万葉集』800番と801番の二首は没する5年前頃に作った。したがって、801番の後ろにある「子等を思ふ歌」の802番と803番は没年より5年前よりさらに間近い頃に作ったと考えられる。だから、多分、802番と803番は憶良が70歳を過ぎた時に作ったと思われる。当時の70歳は、今日の90歳、100歳に相当する。
 死が間近かに迫っていた憶良は「愛の歴史書『古事記』は焚書されて消滅する。世はますます非情冷酷となって人民たちは貧窮して苦しむ」と涙(なみだ)して嘆き、あるいは「なにくそ! 『古事記』を焚書されてたまるか」と魂をふりしぼって怒り、あるいは「愛の歴史書『古事記』が後世に残るように何か方法を模索(もさく)しなければならない」と必死にもがき苦しみ、そして余命いくばくもない心身に残る【日本建国の〔愛〕の理念】への情熱をふりしぼって、「子等に思ふ歌一首 并せて序」と題する『万葉集』802番と803番の二首を作ったことになる。

◆今日、多くの日本人が知っている『万葉集』803番の25字の和歌は、単に「親が子を思う愛の和歌」ではなかったのだ。803番は「日本国誕生史は滅びるな!」と必死に願った憶良が残る余命を奮い立てた魂の叫びであったのである。だから、日本神話説と邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説の三説は〔憶良の魂の叫び〕を抹殺する空理空論であったのである。
 その証拠に憶良は、「後稍、夏音を習う」と中国に「わが国は、壬申の乱の後に稍々、夏音文字を復興することにした」と報告した現場に立ち会った第7回遣唐使の最下位の幹部であった。
 ゆえに、死に近づいた憶良が作った803番の25字にこめた余命いくばくもない老体を奮い立てて魂をふりしぼった叫び(和歌)によって、現在の学界が定める下記の三つの絶対的定説は空理空論であったことになる。
 憶良の803番の25字の和歌によって、()「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説と、()「『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国がどこであったかを伝えている文献であった」という絶対的定説と、()「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語っていない」という絶対的定説、この三つの定説は「漢字は銀河から作られた学術知識」を有さないが原因による空理空論・空想であったことになる。
 
 憶良が参加していた第7回遣唐使が九州の港を出帆した702629日から10年後の712128日に元明天皇に『古事記』は献上された。「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の文で安万侶が「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明している事実を、憶良は知っていた。というのも、憶良は安万侶と同じく『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであったからである。
 『魏志倭人伝』は憶良が学術知識として有していた【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】について説明する書物であった。したがって、新井白石以後300年も続けて学者たちが主張する「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する書物」ではなかったのである。
 白石以後から現在までの学者たちは「漢字は銀漢から作られた」という学術知識を有していないために「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する書物」と思い込む。だから、白石以後現在までの邪馬台国説は300年も日本国民をダマしつづける似非(えせ)学説、憶測(おくそく)、真っ赤なウソであったのである。
 山上憶良は()今から約4000年前に【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史を無視・排除して「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と錯覚した定説と、()新井白石以来300年も「『魏志倭人伝』は邪馬台国を説明する書物である」と主張つづける定説と、()新井白石以来300年も「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語っていない」と断定する定説――この三大定説が空理空論、デタラメ、憶説であった事実を直(じか)に目撃できる現場へ案内するキーパーソン(決定権を持っている人物)であったのである。

◆要するに、次のごとき〔誘拐事件の事例〕に譬(たと)えて考えると、上記した三大定説は空理空論、空想、憶説であった仕組み(実体)が容易にわかる。
 「ある誘拐事件が起き、容疑者が逮捕された。担当刑事は“お前が犯人だ。ウソつくな”
と問いつめて容疑者のアリバイ証言をいっさい聞き入れなかった。しかし、この事件は誘拐された児童が数日後に犯人から逃れて無事に保護された。この結果、容疑者が語っていたアリバイ証言はすべて事実であったことが証明された。よって、刑事の容疑はすべて空理空論、捏造(ねつぞう)であったことになる」という、このような冤罪事件にもとづいて考えれば、上記した三大定説は空理空論、捏造であったことが容易に理解できる。
 最初から容疑者のアリバイ証言をいっさい無視・排除した刑事のごとく、白石はじめ邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の記事は信用できないと言って無視・排除して、自分の意見が正しく『魏志倭人伝』の記事が誤っていると断定する。だから、白石以後の邪馬台国説は最初の段階から空理空論、憶説、デタラメ、捏造であったことになる。

 「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使であった山上憶良の『万葉集』800番・801番・802番・803番の4首の「并序(并せて序)」という語がつく題詞・説明文・和歌を注目すると、上記した三大定説は空理空論、空想、憶説であったことが証明される。
 わが国は今から約4000年前の後期縄文時代初頭に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた。このため、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述されて残った。
 だから、【A】約4000年前にわが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた、【B】『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述した学術書であった、【C】『古事記』上巻は歴史書であったことになる。

◆以上のごとく、学者たちが主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説と「邪馬台国説」と「日本神話説」の三説は正真正銘の空理空論・空想であった。
 というのも、一般市民が『古事記』上巻を開いて、その随所に〔音〕という目印()がつく文字を何か所あるのかと数えてしばらく見ていると――この時間はまさしく4000年前にわが国が習得した夏音文字を目撃している現場となるからである。
 このように、われわれは『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく4000年前に習得した夏音文字を目撃すれば、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された事実と真実を知ることができる。
 われわれ一般市民は、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という学説はじめ「邪馬台国説」と「日本神話説」に洗脳(マインドコントロール)されて見ることができなかった真実の歴史が、ついに目撃でき知ることができることになったのである。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は「わが国は4000年前に【夏音文字と倉頡の漢字作成理論】を習得していた」と伝えていた書物であった。
 したがって、白石以来300年も続く「邪馬台国説」と「日本神話説」は【『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を記述する文献であった事実】を抹殺する空理空論、空想、憶説であったのである。
 一般市民はもう学者たちにダマされずにすむことになったのである。
 憶良が作った「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」という〔愛〕の短歌が新しい視座になって、「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述した文献であった」と【科学】が成立して完璧に証明できる世紀が革(あらたま)る時がとうとう到来したのである。
 われわれ一般市民は、〔憶良が真実の歴史を伝えるキーパーソン〕となって、空理空論の邪馬台国説と日本神話説にこれからはダマされないですみ、ついに真実の歴史を知ることができるようになったのである。

| | コメント (0)

2022年9月 6日 (火)

家康くんと『魏志倭人伝』#2

◆現在、学界は「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は絶対的に正しいと思い込んでいる。
 しかし、この絶対的定説はいとも簡単に真っ赤なウソであると証明できる。
 わが国は今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、【夏音文字(かおんもじ)】を習得していた。
 この【夏音文字】は、『古事記』上巻に随所に〔音〕という目印()がついて多数残っている。だから、当然、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭であったことになる。
 「わが国において、文字を書いた資料が出土した最古のものは5世紀あるいは6世紀のものである。だから、当然、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀であったと断定できる」という意見は考古学の強引な単純化による思い違い・錯覚であった。
 なぜかといえば、『古事記』上巻の随所には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という注(目印)がついて多数残っているからである。つまり、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく文字を【あなたが目で見る】という――この現場は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説は「真っ赤なウソ」である現実と事実を目撃していることになる。

 この〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力の考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。
 マスメディアは考古学の研究成果を重視して「邪馬台国は九州にあった」、「いや邪馬台国は畿内にあった」などと論争に花を咲かせて夢中になる。
 このような考古学の思い違いにマインドコントロール(洗脳)されて、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀であった」、あるいは「邪馬台国説は正しい」という幻想・空想を信じているかぎり――われわれ日本人はいちばん大事な真実を永久に知ることができない。

◆学界はじめマスメディアとわれわれ日本人は冷静に客観的になって――しばらく考古学の声高な「文字習得説」と「邪馬台国説」の意見に耳をふさいで――『古事記』上巻の随所に〔音〕という目印()がつく【夏音文字】を注目し、考古学の「漢字習得説と邪馬台国説はおそらく錯覚であろう」と否定する、思い切った発想の転換が必要となる。
 というのも、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を主張する学者たちの視座を注目すると、学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と主張して、自分の意見にあわない記事を片っ端から自分の言いなりになるようにしようとするが――この様子は当時の事実であった出来事や真実の情報を入手した『魏志倭人伝』の著者・陳寿(ちんじゅ)が慎重に深く思索して記述した文章に【横暴な主観】と【無責任な誤読】をヤタラに加えている状況、つまり「意地悪なナンクセ(難癖)・勝手な言いがかり」をつけていると思えてならないないからである。要するに、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない正確無比な『魏志倭人伝』に、学者たちは300年前の新井白石の邪馬台国説をマネして【横暴な主観、無責任な誤読】を加えて『魏志倭人伝』を弄(もてあそ)んで楽しんでいるとしか思えてならない。
 試(ため)しに、『魏志倭人伝』の全記事を信用して1ヵ所も【誤読】を加えないで読解すると――『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究のための書物」ではなく、「邪馬台国とは別の日本史のために必要不可欠な重大な史料であった」のではないかという事実がすぐに浮かびあがる。
 だから、このブログ名を「家康くんと『魏志倭人伝』」とすることにした。
 なにゆえ、徳川家康が『魏志倭人伝』と関係するのか? と思うかもしれないが――家康の一生をたどると――家康は幼少期から【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字を一生研究していた事実】が次から次へと明らかとなるからである。
 わが前回のブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」にて詳細に解説したように、家康は卑弥呼が居住した女王国の名称は『魏志倭人伝』に記されているとおりに「邪馬壱国(やまいこく)」であった」と考え、「邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と考えていた。だから、『魏志倭人伝』に記される「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読し、「邪馬台国は畿内に存在した」あるいは「邪馬台国は九州に存在した」という新井白石の邪馬台国説の伝統を受けつぐ今日の邪馬台国説と、家康の「邪馬壱国出雲地方説」は別物にして無関係となる。

◆家康は天下取り・帝王学のために幼少期から没する直前まで【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字】を研究していた。だから、家康にとって『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を考えるための書物」ではなかった。
 上記したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく多数の【夏音文字】を、わが国が習得したのは今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であった。
 わが国が中国の夏代初頭に夏音文字を習得した事実は、わが前回のブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」にて詳細に解説したように、()家康が有していた「漢字は銀漢から作られた」という教養と、(2)様々な確かな文献史料と、()科学的な音韻学の研究成果によって、いとも簡単に証明できる。
 このような事情で、【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の両書は共に夏音文字研究の教科書】であったと考えるべきことになる。ゆえに、家康にとって【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は、天下取りの夢を実現するための最良の教科書】、言いかえると【王道政治・天皇政治の権力基盤となった学問を学ぶための教科書】であったことになる。
 邪馬台国説の出発点となった新井白石(16571725)より約100年前に生存した家康(15421616)は【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字】を【徳川幕府を創設する天下取り】のために幼少期から没する直前まで研究していた。
 家康の天下取りの夢の実現の一生にもとづくと――【新井白石以来300年、学者たちが主張する邪馬台国説と日本神話説】は、【巧妙に学説のごとく見せかけた空理空論】であったことになる。

◆『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」から、最初に「対馬国」が登場して「狗奴(くな)国」が説明される30の小国記事までは約500字で構成される。
 この冒頭から約500字の記事のうち――【一】1番目の対馬国から10番目の巳百支(じはき)国までの記事は【倉頡(そうきつ)がつかえた黄帝の〔子どもの出産と女性の生殖器〕の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に合理的に説明している。【二】11番目の伊邪(いや)国から20番目の華奴蘇奴(かなさな)国までの記事は[]の字源を解説する女性国グループの10ヵ国である。【三】21番目の鬼()国から30番目の狗奴国までの記事は[]の字源を解説する男性グループの10ヵ国である。そして――【二】女性グループと【三】男性グループに分かれる20の小国名は男女が穀霊(こくれい)をあらわす[]()の形の冠をかぶり、稲魂(いなだま)に扮して舞う農耕儀礼(収穫を祝う祭儀)をあらわしている。
 中国の神話・古代伝説は「倉頡が漢字を発明した」と伝える。この「倉頡の漢字の発明」は〔1〕『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記事と、〔2〕銀漢各部の形状と、〔3〕わが国の様々な遺跡・遺物と、そして〔4〕【科学】によって、今から約5000年前の中国の五帝時代初頭の黄帝時代初頭であったと証明される。
 だから、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えていた」と記述していた、漢字が起源した学術を合理的に・体系的に・科学的に説明した古典であったことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』は【一】1番目の対馬国から10番目の巳百支国までの10ヵ国の記事で(1)【黄帝の〔子どもの出産と女性の生殖器〕の研究】について説明し、また(2)【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明し、さらに(3)黄帝の政治スローガンをあらわすために倉頡は[](字義は「穀物。稲。五穀豊穣」)の字を作ったと説明しているからである。
 要するに、『魏志倭人伝』は――倭女王・卑弥呼は上記した【一】の【倉頡の漢字作成理論】を倭王朝の政権基盤と定めた。ゆえに、【二】と【三】で【倉頡が作った[]の字源をうけついだ[]の字源『五穀豊穣』の政治スローガン】を表示して、倭国を治めていた――と説明していたことになる。
 このように邪馬台国説を否定すると、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と、[]の字源】を体系的に合理的に解説していることになる。
 だから、『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究のための史料】ではなかった。
 『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論を知ることができる、朝廷が天下を治めるための教科書】であったことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている事情は――わが国は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、夏の始祖の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と益氏の若者たちが中国から大海を渡って、日本列島の東北地方・秋田県に定住して【夏音文字の学芸】を教えひろめた。この【夏音文字】を習得した後期縄文時代初頭、当時より約1000年前の黄帝時代初頭の【倉頡の漢字作成理論】をわが国は習得した――という歴史上の出来事が、『魏志倭人伝』・『古事記』・『日本書記』はじめ後期縄文時代の秋田県の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡や大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)、そして縄文土器や土偶をもって証明される。
 このため、『魏志倭人伝』の冒頭から約500字までの記事によって【倉頡の漢字作成理論と、[]の字源】を体系的に合理的に説明されることになったのである。
 『魏志倭人伝』には「卑弥呼」を「ヒミコ」と読み、「難升米」を「ナシメ」と読むことができ、「壱与」を「イヨ」と読むことができ、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読むことができる夏音文字の字音の人名はじめ、夏音文字の字音で読むことができる小国名、夏音文字の字音で読むことができる官職名が残っている。
 また、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字が多数残っている。
 だから、縄文時代初頭、わが国は【夏音文字の学芸】を習得する時に、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも一緒に習得していたことになる。
 現在、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡は歴史上の人物ではない。また、わが国に【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字の学芸】を教え広めた名門益氏の王子・天祖・彦火能瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)も歴史上の人物ではない。しかし、『魏志倭人伝』によって、倉頡と天祖・彦火能瓊瓊杵尊は歴史上の人物であったと証明される。

◆『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を知ることができる教科書」であったのである。
 ゆえに、天下取りの野望を抱いた家康にとって【『魏志倭人伝』は、倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学ぶための教科書・学術書】であった。
 「漢字の字源を解説する字書」と言えば、100年ころに完成していたとされる後漢の文字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』が有名である。
 『説文解字』の序に「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。
 上記したように、許慎は「倉頡によって発明された文字(漢字)は経(学問)と芸術の根本であり、王道政治にとっては“い”のいちばん真っ先に絶対に必要な政権基盤であり、前人たちが活躍した古(いにしえ)の歴史の真実・真相を後人が知ることができる方法である」と指摘している。
 『説文解字』は「王政の始め」という語で「倉頡の漢字作成理論は王政の始め、つまり王道政治にとっては“い”のいちばん真っ先に必要な政権基盤である」と指摘している。
 ということは、『魏志倭人伝』の冒頭から500字までの記事で「わが国は後期縄文時代初頭に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明する――この【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が、『説文解字』の序は【王政の始め(天皇政治が真っ先に絶対に必要とする政権基盤)】であったと指摘していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』は江戸中期の新井白石から始まった邪馬台国の所在地を研究するための文献史料でなかった。白石より約100年前に生存した家康が天下取り・帝王学のために熱心に研究したように――『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学習する教科書】であったのである。
 家康は「漢字は銀漢から作られた」と認識していたが、白石は「漢字は銀漢から作られた」という知識を有していなかった。この差が原因で――家康は『魏志倭人伝』を【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学ぶための教科書】として扱い、白石は『魏志倭人伝』を【邪馬台国はどこにあったのかを研究する書物】であると考えたのである。

◆晩年の新井白石は1716年・60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国大和説を立論し、さらにその後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を立論した。白石は『古史通或問』で『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された日本神話説についても論じた。
 『古史通或問』で立論した白石の邪馬台国説と日本神話説の両説は空理空論であった。
 というのも、白石は「漢字が銀漢から作られた」という素養を有していなかったからである。このため、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を理解することができなかった。また、白石は太安万侶(おおのやすまろ)が「古事記上巻 并せて序」に書いた【歴史解明方法】を理解できず、その【『古事記』上巻の歴史解明方法】を無視して空理空論の日本神話説を立論した。
 白石が無視した安万侶が【『古事記』上巻の歴史解明方法】について説明した『古事記』の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭から34字の大意は――「漢字」は「銀河」つまり「銀漢から作られた字」であるから「漢字」とよぶことになった。このため、【漢字の字源・字形の原形・原義】は【銀漢各部の形状】であった。ゆえに、上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された真実の歴史を知ることができる――と指摘するものであった。このような安万侶の【歴史を解明する方法の警告(注意書き)】を無視・排除して立論したゆえ、白石の邪馬台国説と日本神話説は空理空論となったのである。
 太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字で構成された文章は、結局、「五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)と夏代初頭の夏音文字と、また西暦100年ころに確立されたされる楷書の字源・字形・字義は銀漢(夏の銀河)各部の形状であった。ゆえに、夏音文字と幾つかの重要な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の歴史は解明できる」と、【歴史解明方法】と説明していた。
 もしも白石が「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していたならば、安万侶の警告をまもって『魏志倭人伝』を読解したゆえ、家康と同じく白石は「邪馬壱国出雲地方説」をとなえ、また「『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の日本神話は歴史を語っている」と立論していたことになる。
 上記した字書『説文解字』の「けだし文字は経芸の本」から始まって「前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」と終わる文もまた――「銀漢から作られた字」であるから「漢字」と名づけられた。五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代初頭の夏音文字、また楷書の字源・字形・字義は銀漢各部の形状であった。これゆえ、漢字の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば古代の歴史の事実・真実を識ることができる――と解説していたのである。
 下に「倉頡が漢字を作った銀漢」の写真、天文学で通称「夏の銀河」と呼ぶ写真を示した。「春の銀河・秋の銀河・冬の銀河」からは漢字は作られなかった。
 中国でもわが国でも、「銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」とよんだのである。
 ここより以降、原則的に「夏の銀河」を「銀漢」とよぶことにする。
Photo_20220906095801

◆新井白石は114代・中御門(なかみかど)天皇の在位中の1725年に69歳で没した。
 皇室は【『古史通或問』にて、白石が空理空論の邪馬台国説と日本神話説】を立論していることを知った。
 この白石の空理空論に朝廷は驚愕(きょうがく)して、まるで「日本国は滅びる! わが皇室は滅びる! わが国の学問は滅びる! わが国の文化は土台から滅びる! わが国の上古史はことごとく滅びる!」と言わんばかりに激しいショックを受け、恐怖をも示した。
 そこで、朝廷は「空理空論の白石の邪馬台国説と日本神話説」に対抗して、真実を伝える大嘗祭(だいじょうさい)を本格的に復興することにした。
 ところが、1466年に即位した103代・後土御門(ごつちみかど)天皇の即位式にて大嘗祭がおこなわれて以後、9代・約200年ものあいだ大嘗祭は中断していた。大嘗祭の中断によって【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が次第に失われ廃(すた)れていく状況を家康以来江戸幕府に度々指摘され、朝廷は幕府に指摘されるごとに次第に心配になったため、1687年の113代・東山(ひがしやま)天皇の即位式で、大嘗祭を略儀でいったん再興した。この113代・東山天皇の在位中、そして次の114代・中御門天皇が即位した1709年当時、白石はいまだ空論の邪馬台国説と日本神話説説を発表していなかった(前述したように、白石が邪馬台国説と日本神話説を発表したのは『古史通或問』を著作した1716年であった)

 40代・天武(てんむ)天皇は「大嘗祭は皇室最大の神事と定める。このため、天皇の即位式で新天皇が【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】をもって天下を治めると誓う大礼(たいれい)とする」と定めた。
 この天武天皇の命令のため、【白石の空理空論の邪馬台国説と日本神話説】に気づいた朝廷は、中御門天皇の在位中には大嘗祭を復興しなかった。大嘗祭は、中御門天皇の次の115代・桜町(さくらまち)天皇の即位式で本格的に復興された。この桜町天皇の即位式は、白石が没してから13年後の173811月におこなわれた。
 家康は『古事記』上巻に記述された「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】」を復興するために【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を、天下を取る野望を成就するための教科書】として一生研究した。
 家康の【日本建国の〔愛〕の理念の復興】の願い(遺志)は将軍と江戸幕府に受けつがれた。
 皇室が最も偉大な先祖と崇拝する皇祖・天照大神(10代・崇神天皇母子)は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視した。また、天武天皇は天照大神の聖性をいちじるしく汚す伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】は絶対に後世に伝えてはならないと命令した。このため、朝廷は江戸幕府の【伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】の復興の欲求を拒否しつづけた。
 ところが、『魏志倭人伝』と『古事記』に記述されていた天皇政治の権力基盤【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を台無しにする【白石の空論の邪馬台国説と日本神話説】に激しいショックを受け、【白石の空論の邪馬台国説と日本神話説】を「皇室滅亡の原因になる」と脅(おび)えた朝廷は目覚めた。このため、朝廷は一大決心して江戸幕府の欲求【日本建国の〔愛〕の理念】を受け入れる新大嘗祭が復興することにした。
 173811月、桜町天皇の即位式の大嘗祭は将軍吉宗と幕府の協力の基(もと)におこなわれた。したがって、桜町天皇の大嘗祭は【従来の倉頡の漢字作成理論・夏音文字の学芸】にあらたに家康・江戸幕府の欲求【『古事記』上巻に記述された伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】を加えて、【空理空論の白石の邪馬台国説と日本神話説】に対抗する皇室最大の神事となった。
 以上のごとく、白石の死から13年後の1738年に復興した新大嘗祭から今日の2019(令和元年)11月までにおこなわれた大嘗祭は【倉頡の漢字作成理論・夏音文字の学芸と、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす、また【白石の邪馬台国説と日本神話説は空理空論である】と日本国民に表示する学問儀式であったのである。

◆『魏志倭人伝』の中半には「倭の占いに用いる辞(言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事がある。「令亀の法」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文・今から約3300年前に出現した甲骨文字」を意味した。わが国には甲骨文字のような夏音文字が存在した。
 『魏志倭人伝』の中半には「魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が用いる文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都(いと)国の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭女王の文字を捜露(そうろ/一字一字づつ丁寧に確認・点検)して楷書と卑弥呼が用いる文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する、もう一つの「倭には夏音文字があった」と伝える記事がある。
 だから、「倭には【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】が存在した」ことは事実となる。
 現在の学者たちは「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していない。このため、「令亀の法のごとく」と記述された殷代の後半に出現した【甲骨文字の多くの字形は銀漢各部の形状をリアルに図案する作品】であることに気づかない。ゆえに、学者たちは「倭には夏音文字はあった」と伝える『魏志倭人伝』の記事を徹底的に無視・排除して「倭には夏音文字は無い」と断定する。
 しかし、上記の「令亀の法のごとく」や「伊都国の港で魏都と朝鮮半島の楷書と倭の夏音文字を正しく変換していた」という二つの記事はじめ、「倭人国」という国名や「卑弥呼」という女王名や、また上記したように【対馬国から狗奴国までの30の小国】をもって――『魏志倭人伝』は「漢字は銀漢各部から作られた。ゆえに、倭には【銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と伝えていた。
 『魏志倭人伝』の伊都国の記事が説明しているように、伊都国の港では卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書を正しく同義となるように変換することができた。というのも、【倉頡の漢字作成理論】にもとづいて夏音文字と楷書の字源・字形・字義は共に銀漢各部の形状であったからである。ゆえに、伊都国の役人たちは銀漢各部の形状を見て夏音文字から楷書へ・楷書から夏音文字へと正しく変換することができたのである。
 太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の末部には――姓に用いた「日下(にちげ)」と「玖沙訶(くさか)」は同義、名に用いた「帯(たい)」と「多羅斯(たらし)」は同義である――という記事がある。
 上記の安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の末部の記事は、『魏志倭人伝』の「魏の都と朝鮮半島の帯方郡と諸韓国が文書に用いる楷書と倭女王の卑弥呼が文書に用いる夏音文字を、伊都国の港では、銀漢各部の形状に変換して同義になるように正しく訳することができた」という記事と同じ事実を証言していたことになる。
 ゆえに、安万侶は――夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すると、楷書の「日下」は夏音文字の「玖沙訶」と同義となる、楷書の「帯」は夏音文字の「多羅斯」と同義になる――と具体的に【『古事記』上巻の歴史解明方法】を説明していたのである。
 考古学は「地中から出土した漢字を書いた資料のみを、漢字の史料である」と断定する。しかし、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は、現在でも夜となれば銀漢各部の形状で、あるいはプラネタリウムの銀漢各部の形状で存在する。夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っているため、夏音文字は楷書と同じく字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字であった。このため、考古学の「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は、天上の銀漢に夏音文字と楷書の字源・字形・字義が存在するという事実に気づかない空理空論であったのである。

◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本国伝には――702年に九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずるに所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という、倭国には「夏音文字があった」と説明していた記事がある。
 その証拠に、上記の第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」が述べた言は「わが国は672年の壬申の乱の後、稍々(やや)、夏音文字を復興することにした」と説明するものであった。
 だから、第7回遣唐使が中国王朝に告げたように、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字は存在したことになる。
 第7回遣唐使が九州の港を出帆した702年より21年前の681311日、第40代・天武天皇は川島皇子(かわしまおうじ)以下十二人に『帝紀及び上古の諸事を記定』を命じた。
 このとき、天武天皇は〔夏音、つまり夏音文字〕を稍々習う(復興する)ことにして『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』を作成せよ」と命令した。この天武天皇の「夏音文字の復興」を、第7回遣唐使は「後稍、夏音を習う」と中国王朝に説明したのである。
 しかし、この天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の作成目的は、人民たちを苦しめて弾圧した大和王朝の基礎を築いた天照大神(10代・崇神天皇母子)を、皇室が最も偉大な先祖と定めて天皇の権力を絶対化するための偽書の作成を企むものであった。当時、壬申の乱から9年後であったゆえ、天武王朝はいまだ安定していなかった。また、当時は多数の人民たちは天照大神を憎悪・敵視していた。これゆえ、天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の作成目的は人民たちが熱烈に敬愛する伊耶那美命・伊耶那岐命の歴史を抹殺する企みであることを察知して国中の反乱が起きると、朝廷は一気に崩壊する状況であった。このため、川島皇子以下十二人は〔伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を消滅して、天照大神が最も偉大な先祖であったと絶賛する偽書の作成〕に躊躇(ちゅうちょ)した。このため、天武天皇が命令した〔夏音文字を稍々復興して、『帝紀及び上古の諸事を記定する偽書』の編纂事業〕は実現しなかった。
 そして、天武天皇が「帝紀及び上古の諸事を記定する偽書の編纂」を命令してから31年後、あるいは第7回遣唐使が九州の港から出帆した10年後の――712128日、天武天皇の「夏音文字を稍々復興する歴史書を作れ」という命令に従った書物が元明(げんめい)天皇に献上された。この書物は――天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定せよ』という命令における『帝紀及び』を省いた『上古の諸事の記定』における「上古」の[]と「諸事」の[]と「記定」の[]の3字を抜粋して――書名を『古事記』と定めていた。
 ということは、天武天皇の「帝紀及び上古の諸事を記定する偽書を編纂せよ」と命令にもとづいて『古事記』は歴史を偽る書物であったと単純に考えると誤っていることになる。
 『古事記』は天武天皇の「天照大神を絶賛する偽書を作成せよ」という命令を無視する、とんでもない反逆の歴史書であった。
 というのも、天武天皇の「稍々(やや)、夏音文字を復興して天照大神を至上神とする偽書を作れ」という命令を逆手(さかて)にとって、天照大神の聖性をいちじるしく汚す伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を記述していたからである。つまり、『古事記』上巻は天武天皇が欲求した伊耶那美命・伊耶那岐命の歴史を消滅しない、「国民は皇祖・天照大神を崇拝していなかった」と記述した、天武天皇の偽書作成命令をつっぱねる反逆の歴史書であった。

◆反逆の歴史書『古事記』の序は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
 安万侶は「『古事記』の序」を他に事例がない「古事記上巻 并(あわ)せて序」という、きわめて特殊な名称にした。というのも、『古事記』編纂スタッフ一同が謀った【反逆の企み】を説明する名誉ある役目に、安万侶が抜擢(ばってき)されたからである。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻からなる。しかし、〔音〕という注がつく夏音文字が多数記されているのは、上巻だけである。ゆえに、安万侶は「『古事記』の序の名」を【古事記上巻 并せて序】と名づけた。というのも、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字義・字形を銀漢各部の形状に変換すれば、真実の歴史を知る仕組みになっていたからである。ゆえに、この【編纂の企み】をあらわして『古事記』の序は「古事記上巻 并せて序」というきわめて特殊な名称になったのである。
 このように編纂スタッフの企みを説明することになった太安万侶が執筆した「古事記上巻 并せて序」冒頭から34字目までの文をフリガナ無しで記すと、下記のごとくなる。
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
 上記のごとく「『古事記』編纂スタッフの反逆の企み」を要約しないで、34字の書き下し文に用いられた各文字に沿ってテイネイに現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――安万侶が元明天皇陛下に申し上げます。前期縄文時代より前の元(はじめ)の時代(草創期縄文時代・早期縄文時代)、わが国の天頂にめぐってきた銀漢の形状はすでに凝り固まっていたものの、その形状には気(なにかの事象や事物をあらわす雰囲気)も事象や事物の象(かたち)をあらわしていませんでした。ゆえに、その混元の太古における天頂にめぐってきた銀漢各部に名をつけることができず、その銀漢各部の形をどのように表現してよいかその技巧(わざ)も存在しませんでした。ゆえに、草創期縄文・早期縄文における天頂にめぐってきた銀漢の形を表現した図象・土器・土偶について知識を有する人物は、『古事記』が編纂することになった現在一人もいません。しかし、前期縄文・中期縄文・後期縄文の三つの時代の天頂にめぐってきた銀漢各部の形状は「乾坤(けんこん)」に分かれて、つまり「天と地」に相似する象(イメージ)となりました。ですから、前期縄文時代初頭、土器・土偶を作る芸術革命が小国・日本の前身の東日本・関東地方にて花開き、さまざまな芸術性豊かな優れた土器・土偶が多数作られました。そして、後期縄文時代初頭、中国から名門益氏の王子(天祖・彦火瓊瓊杵尊)と若者たちがわが国の東北地方の秋田県に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教え広めました。これを知った東日本の芸術家たちは、益氏が居住する秋田県の地所まで旅して、前期縄文初頭から中期縄文時代そして後期縄文時代初頭までの銀漢の形状をモデルにして土器・土偶を作った造化参神の伝統によって、【銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得することができました。

◆安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」において、上記した冒頭から34字目の直後に続く11字で構成される文は「陰陽斯(いんよう・ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」と表現された。
 この11字「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文をもって、安万侶は【『古事記』編纂スタッフの企み】、言いかえると【『古事記』編纂目的】を表示した。
 前述した「字書の聖典」と尊重された、銀漢各部の形状を観察して許慎が著作した『説文解字』は上記の「群品」の[]の字を「衆庶(しゅうしょ)なり」と解説する。したがって、「衆庶なり」は「民衆と庶民なり」と意味するゆえ、「群品」は「群れる民衆と群れる庶民」と意味し、要するに「民衆、人民」と意味した。だから、上記の「群品の祖と為る」という文は「民衆に最も敬愛され崇拝された先祖である」と意味した。
 よって、11字で構成される編纂スタッフの企みをあらわす「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は「【日本建国の〔愛〕の理念】を宣言した陰の伊耶那美命と伊耶那美命の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ陽の伊耶那岐命は人民たちに最も敬愛されて崇拝される、天照大神よりも偉大な最も偉大な先祖である」と意味した。
 【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命と、伊耶那美命の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を継承した伊耶那岐命(9代開化天皇)を――安万侶が「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」と書いたように、『古事記』編纂スタッフは「人民にとって、伊耶那美命と伊耶那岐命は皇祖・天照大神よりも最も偉大な先祖である」と絶賛していたのである。

◆だから、『古事記』上巻は皇祖・天照大神の聖性を汚す反逆の歴史書であった。
 681311日、天武天皇は川島皇子以下十二人に『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』を作って「皇祖・天照大神の聖性を汚す伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史は絶対に後世に伝えてならぬ」と命令した。
 しかし、712年正月28日に献上された『帝紀及び』を削除する『上古の諸事を記定』から3字を抜粋して『古事記』という書名にした書物の上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に書かれた「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という夏音文字10字の文は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしていた。この伊耶那美命の宣言した言における[]の字は「五帝時代初頭に生存した黄帝を祭る廟にして墓」を意味し、[]の字は「陝西省(せんせいしょう)辺りが原産地とされる桃の実のように可愛い子」と意味し、[]の字は「たくさんの愛する子どもたちを生む」と意味した。だから、10字のうちの[][][]などの字が示すように、「阿那邇夜志愛袁登古袁」は「親が子を思う心」を示して【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

 上記したように「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字で構成される文章を各文字に沿って解読すると、【編纂スタッフの反逆の企み】の表示は不明瞭となる。しかし、次の11字で「伊耶那美命と伊耶那岐命は天照大神よりも偉大な先祖である」とあらわして【天照大神に対する明確な敵意】を示している。ゆえに、【『古事記』は反逆の歴史書】であった。
 このため、【編集スタッフの反逆の企み】にもとづいて900余字で構成される「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を読み取ると【『古事記』上巻に記述された歴史解明方法】を「後期縄文時代初頭にわが国が習得した五帝時代の原初漢字の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状であった。後漢時代の1世紀頃から出現した楷書の字源・字形・字義も銀漢各部の形状であった。だから、上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義は銀漢各部の形状に変換すると、上巻に記述された歴史が解明できる」と説明していたことになる。
 この「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字でコンパクトに表現していたことになる。

◆また、900余字構成される安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の大意は「皇室が至上神と崇拝する皇祖・天照大神よりも、伊耶那美命と伊耶那岐命のほうが偉大な先祖である」と【『古事記』編纂スタッフの反逆の意思】を表現するものであった。
 だから、「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を、太安万侶は「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という11字でコンパクトに表現していたことになる。
 このように冒頭で【歴史解明方法】と【天武天皇の命令に背く反逆の意思】をあらわし、さらに約900字の「古事記上巻 并せて序」の全文でもあらわす重層的に巧妙に仕組んだ説明は元明天皇にはまったく理解できなかったことになる。
 それというのも、献上する元明天皇から献呈を許可されて『古事記』は政府が編纂した書物・正史となるからである。ゆえに、「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の【『古事記』上巻の歴史解明方法】とこの文に続く11字の【伊耶那美命と伊耶那岐命を讃える編纂スタッフの反逆の意思】を、900余字の「古事記上巻 并せて序」の全文でも重層的にあらわした説明は、元明天皇にはまったく読解できないように作文されていたことになる。
 しかし、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話にある伊耶那美命が宣誓した「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という夏音文字10字を注目すると、元明天皇にも「『古事記』編纂スタッフの激しい反逆の情念」を察知できた。というのも、この「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言は「男(おのこ)たちよ、中国の黄帝が慈愛をそなえて万民を教化したように、妻を愛して桃のような可愛い子たちをたくさん生みましょうよ。小国・日本は【愛】を最も大事にする国家にしましょうよ」と表明するものであった。すなわち、小国・日本が誕生した当時(3世紀前半)、中国の黄帝が万民を教化した〔慈愛〕の政策は「阿那邇夜志愛袁登古袁」と表現されて、小国・日本と倭国の国中の人民に語り継がれていた。当時、「漢字は銀河から作られた学術」は王朝と国家が厳重な機密にして独占管理するものであったゆえ、小国・日本及び倭国の人民たちには「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字における1字ずつの字源を知らせず、10字の大意を「親が子を思う心、夫が妻を思う心、乙女が好きな男子を恋する心」などとザックリと概略的にあらわした解釈が民間に伝わっていたことになる。このような伊耶那美命が宣誓した【日本建国の〔愛〕の理念】を人民たちは尊重して伊耶那美命を熱烈に敬愛した。この人民を皇祖・天照大神は憎悪・敵視して弾圧して苦しめた。ゆえに、「阿那邇夜志愛袁登古袁」という夏音文字の10字は、皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚す語でもあった。このため、「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字を見逃さなかった元明天皇は、『古事記』献呈を拒絶したことになる。
 本来、『古事記』は消滅しなければならない反逆の史書であった。しかし、『魏志倭人伝』よりもはるかに多くの夏音文字が記されている『古事記』上巻は「皇室の権力基盤である【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を学習する教科書として優れた機能」がそなわっていた。このため、『魏志倭人伝』同様に皇室が滅亡・衰退しないために保存しなければならない帝王学を学ぶための優れた書物、つまり『魏志倭人伝』と並ぶ名著でもあった。
 このため、『古事記』は朝廷にまもられ、学問や真実を愛する皇族・貴族・豪族・巫女・神官・僧侶・武将、そして朝廷に対抗して天下を治めた鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府などにまもられて、結局、消滅されずに現在まで残ることになった。
 しかし、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述する『魏志倭人伝』を教科書にして『古事記』上巻を読むと、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちを天照大神が憎悪・敵視して苦しめた歴史が知られてしまう――朝廷にとって実に不都合で厄介(やっかい)な書物でもあった。このため、朝廷は『魏志倭人伝』と『古事記』を絶対に読んではならない・絶対に研究してはならない反乱・謀反を企む皇室と国家の転覆を謀る最も悪質な書物と定めた。

◆新井白石は【漢字は銀漢から作られたという、素養】を有していなかった。このため、白石は「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字が「夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換して歴史を解明せよ」と【歴史解明方法】を説明していると読解することができなかった。ゆえに、この【歴史解明方法の説明】を無視した白石の『古事記』上巻と『日本書記』神代紀から立論した日本神話説は空理空論となった。
 白石同様に「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していない現在の学者たちによる【夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換しないで立論する日本神話説】もまた空理空論であった。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話における【夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する歴史解明方法】にもとづくと――この説話のヒロインの「黄泉国の伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)は「天照大神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)」であったと解明できる。というのも、この説話に登場する「八雷神(やくさのいかづちのかみ)」は「多数の奴婢を殺して倭女王・伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部に登場する壱与)の墓に埋める、残虐な徇葬(じゅんそう)」を意味したからである。また、「黄泉国」について現在の字書は「死んだ人の魂が行くところ。あの世」と意味すると解説しているが、『古事記』における「黄泉国」は現在の字書の説明と異なって「熊野」を意味した。というのも、「黄帝が居住した本拠地」は「黄色(黄金色)に輝く[]の字源銀河周辺(つまり、銀河系宇宙の中心方向周辺の銀河)の、その一部分が熊の姿に観える。ゆえに、「一部分が熊の姿に観える、黄色の[]の字源銀河」は「熊が住む野原」すなわち「熊野」と見立てられた。ゆえに、「黄泉国」は「熊野」を意味したことになる。
 天照大神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は伊耶那岐命(9代開化天皇)の父の孝元天皇(8代天皇)と結婚して天照大神・10代崇神天皇を生んで、伊耶那岐命と結婚した継母(ままはは)であった。ゆえに、伊耶那岐命(9代開化天皇)10代崇神天皇の養父・異母兄・伯父であった。伊耶那岐命の第二后であった天照大御神・伊迦賀色許売命は熊野の神倉(かんのくら)神社の参道を塞(ふさ)ぐ巨大の岩の前で、伊耶那岐命に離縁された。離縁された天照大神は7代・孝霊(こうれい)天皇の娘の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」という名を継いだ。ゆえに、天照大神・伊迦賀色許売命は「孝霊天皇の娘は崇神天皇の姑(おば)」となったので、『日本書記』は「倭迹迹日百襲姫命は、崇神天皇の姑」と記している。
 『古事記』編纂スタッフは「天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命」の名を「伊耶那美命」の「神」を加えて「伊耶那美神命」とした。だから、「残虐冷酷な徇葬は伊耶那美命が陣頭指揮して決行された」と解釈できるゆえ、天武天皇が欲求したとおりの偽書を作ったと元明天皇にせまって献呈の許可を願った。しかし元明天皇は、後世の人々は「伊耶那美神命」を「天照大神」と解釈するにちがいないと考え、『古事記』編纂スタッフの企みを承認しなかった。というのも、天照大神が伊耶那岐命に離縁された「巨大な岩・千引石(ちびきのいわ)」は熊野(和歌山県新宮市)の神倉神社のご神体であり、熊野の人々は神倉神社にて天照大神を祀っていたからである。伊耶那美命を熱烈に憧れる熊野の住人たちが神倉神社に天照大神を主神として祀るのをあきらめて「天照大神は残虐な徇葬を決行した」という伝承を廃止するはずがないと、元明天皇は考えた(現在も、神倉神社は天照大神を主祭神にして祀っている)。このような事情からして、上記した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言と同じく伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「千引石」を注目して、元明天皇は『古事記』の献呈を拒絶したにちがいない。

 天照大神(伊耶那美神命、つまり10代崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命)は、神倉神社のご神体の巨大な千引石の前で伊耶那岐命に離縁された。その時、天照大神は伊耶那岐命に向かって「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と呪(のろ)った。この呪詛(じゅそ/のろい)の言は「亡き伊耶那美命がとなえた『阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)』と宣誓した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(人草)たちの母親の子どもたちが骨産道(こつさんどう/骨盤の産道)をくぐりぬけるときに、そのせまくて堅い骨産道にて子どもたちの頭を一日に必ず千人ずつ絞(くび)りつぶして殺すと、天の神に誓うことにした」と意味した。
 この呪いに対して、伊耶那岐命(後の伊耶河宮に居住して天下を治めた9代開化天皇)は「如此為(かくなせ)ば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」と誓った。この誓いは「おまえがそうするならば、亡き愛する妻の『阿那邇夜志愛袁登古袁』の宣言を受けついで、吾は人民たちに一日に必ず千五百の産屋が立つように〔愛〕を尊ぶように説いて天下を治める」と意味した。
 だから、「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していれば【夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する、歴史解明方法】をもって、『古事記』上巻は反逆の歴史書であったと読解できる。

◆以上のごとく、「漢字は銀漢から作られた」という素養は【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された真実の歴史を解明するために最初から知っていなければならない基本知識】であった。
 この【上古史における真実を解明することができる基本知識】を有していなかったが原因で、新井白石の邪馬台国説は空理空論となった。
 したがって、白石の邪馬台国説と同類の、現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説もまた空理空論であったことになる。
 【上古史の真実を解明することができる基本知識】を有していない現在の学者たちは「『魏志倭人伝』は邪馬台国がどこにあったかを説明した書物」であると思い込んでいる。
 しかし、「漢字は銀漢から作られた事実」を知っていた徳川家康にとっては【『魏志倭人伝』には1ヵ所も〔誤読〕を加える必要がない】、【天下を治めるために、“い”のいちばん真っ先に必要な〔倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸〕を研究する教科書】であった。
 現在の学者たちは「『古事記』上巻には歴史が記述されていない」と主張する。しかし、『古事記』上巻は〔なんとしても編纂スタッフのメンバーたちが【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えなければならないという使命と情念〕のもとに編纂した反逆の歴史書であった。
 現在の学者の皆が皆【「漢字は銀漢から作られた」という基本知識】を有していない。このため、太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の900余字の文章を、正確に読解することができなかい。ゆえに、現在の学者たちは『魏志倭人伝』を「邪馬台国説を説明する史料」と錯覚し、『古事記』上巻は「日本神話は歴史を語るものでない」と断定する。
 このような肝心な点を忘れて、上記したわたくしの「古事記上巻 并せて序」の解釈について、幾人かの学者たちはじめ、あるいは「邪馬台国説や日本神話の定説は正しい」と報道したNHKテレビや朝日新聞などが面目丸つぶれを挽回するために「その解釈がどうして正しいと証明できるのか。その証拠を示せ」と激怒・激高するかもしれない。

 しかし、日本古代史の特徴は予想・思い込みが絶対に禁物の奇跡の歴史であったのだ!
 【1】「古事記上巻 并せて序」の900余字による説明の大意と、【2】『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話は【愛】を国家理念にした日本国(小国・日本)が誕生した歴史を語るものであったと現代人に正確に知ることができるように要約した、少数の字数でコンパクトに説明していた、奇跡の人物が存在した。この人物は――「古事記上巻 并せて序」の文について精通する、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
 そして、現在、この人物の名を多くの日本人が知っている。この『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物は、『古事記』編纂目的は【3】381字で構成される『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話に記述された日本国誕生史を後世に伝えることであったと証言し、さらに淤能碁呂島の聖婚史における伊耶那美命が宣言した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という【日本(小国・日本)建国の〔愛〕の理念】は要するに「愛、つまり親が子を思う心」をあらわしていると――わずか25字の言(ことば)で現在の大半の日本国民が容易に理解できるようにして後世に残した。
 この25字の言は有名で現在の多くの日本人が知っている。こんな馴染み深い1300年前の人物が、まさか現在の学者たちの誰一人も正確に解釈できない難解な「古事記上巻 并せて序」の説明文は、わたくしがこのブログに記述した解釈が正しいと指摘して、現在の学者たちはじめNHKテレビ・朝日新聞が正しいと胸をはって自信たっぷりに主張する「漢字習得の定説」と「邪馬台国説」と「日本神話の定説」は真っ赤なウソ・デタラメ・空理空論であった――と証言する、そんな重要な人物であったのかと――誰しもがまったく想像しなかったのである。
 この『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話は「実際に起きた日本国誕生史を記述した」と、赤裸々に語っている。
 次回の「家康くんと『魏志倭人伝』#3」では、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物が没年より5年前頃に残した、死が近づいてきた焦燥に駆られて釈迦(しゃか)にすがるかのように必死に「日本国誕生史の真実が後世に伝わるように」と心願成就を願って、悲憤・悲嘆して遺した熱き歴史証言について話題にする。
 この人物の証言によって「わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した】という事実が【科学】が成立して証明される。これゆえ、日本国民はわが国の学界やマスメディアが擁護した「漢字習得の定説」はじめ、新井白石の空理空論を受けつぐ「邪馬台国説」と「日本神話の定説」は100パーセント・完全なる空理空論であったと断定することができて、300年ぶりに虚妄(きょもう)の学説から解放されて――われら日本人は真実に祝福されてほんものの日本人にようやくなれる。
 万歳、万歳、万歳! われわれはとうとう『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を【歴史】として白石没後300年ぶりに語ることができるようになったのである。

| | コメント (0)

2022年8月26日 (金)

家康くんと『魏志倭人伝』#1

◆このブログから始めて回を増すごとに「徳川家康は『魏志倭人伝』に記述された真実を知っていた事実」がますます具体的に詳細に科学的に証明できるようにすることにした。

 「銀河」の別名は「銀漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と表記した。
 今から約3300年前の殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ漢字は「甲骨文字」とよばれる。今から約3050年前の周代(西周時代)初頭から出現した漢字は「金文」と名づけられた。甲骨文字と金文の多数の字形は銀漢各部の形状を写実的にデザインする。また、多数の甲骨文字と金文の字源・字義は銀漢各部の形状によって成立する。だから、甲骨文字と金文は――「漢字は銀漢から作られた事実」が証明できる確かな史料となる。

◆「漢字は銀漢から作られた事実」にもとづくと――徳川家康は3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えないで、卑弥呼が居住した首都所在地の名は「邪馬壱国(やまいこく)であった」と考えていたことになる。また、家康は「邪馬壱国の中心地は旧国の出雲」と考えていたことになる。というのも、【家康が命を賭けて追い求めた一生の夢】をたどっていくと、家康は『魏志倭人伝』を密かに研究して「邪馬壱国は出雲地方であった」と考えていたことが具体的に科学的に解明できるからである。それというのも、家康の一生を追いかけると「家康が『魏志倭人伝』を読んでいた」と明確に証明できる3つの科学的な遺跡が現存するからである。
 家康が「邪馬壱国出雲地方説論者」であった一つの理由・根拠となる遺跡として、下図に笹山晴生(他6名)編著作者『日本史総合図録』(山川出版社発行)77ページににある〔江戸城(現在の皇居)から発する水路の図〕を配した。
 なお、下図の「江戸の水路」は〔家康が『魏志倭人伝』を読んでいたと明確に・科学的に証明できる遺跡〕ではない。それら3つの遺跡は別にある。すなわち(1)『魏志倭人伝』と同じ3世紀後半に約30年間費やして作製された「1千万坪の大鳥の地上絵」、(2)1600年の関ケ原合戦の3年後から20年間かけて作製された「3千万坪の大鳥の地上絵」である。もう一つは()家康の死後に江戸幕府によって作られた京都の桂離宮の庭園である。
 下図の「江戸の水路」は〔家康が邪馬壱国出雲説であった理由・根拠となる遺跡〕である。
 この「江戸城(現在の皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路〕は、家康が設計した。
0000165
◆上図は〔上を北・下を南とする、江戸の水路図〕である。
 下に、〔左の西を上の北・右の東を下の南とする、方位を時計回りに90度の転回する江戸の水路図〕である。
 下図の「転回方位にもとづく、江戸の水路の渦巻文」は、下図右側の[]の古代字形(古文形)に合致する。ゆえに、家康は「時計回り渦巻く[]の字源・字形・字義」を表現して「江戸の時計回りの渦巻文の水路」を設計したと考えられる。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)[]の古文形を「雲の初文」つまり「雲の最初の文字」と解説する。
 下図の〔転回方位の江戸の渦巻文の水路〕は「現在の隅田川へ出(いず)る」。だから、〔江戸の水路〕で、家康は「出る」の[]に「水路の渦巻文」の[]を加えて「出雲」とあらわしていたにちがいない。したがって、家康は「方位規定を時計回りに90度転回して、卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と考えていたことになる。
0000166
 今から約5000年前に漢字が発明された。この時――[](か/字義は「穀物。稲。五穀豊穣」)の字が作られた。この起源漢字の[]の字源は「時計回りに90度転回する方位規定」であった。ゆえに、[]は【漢字の作成理論をあらわす基軸字】であった。
 「漢字は銀漢から作られた」という素養を有した家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに読解して「卑弥呼王朝は日本列島における本州(本土)の地理方位を、【漢字作成理論の基軸字[]の字源】にもとづいて時計回りに90度転回していた」と考えていた。
 というのも、『魏志倭人伝』の全記事に1ヵ所も【誤読】が加えない論法だと「邪馬壱国は出雲地方であった」ことになるからである。だから、家康は「[]の古文形をデザインする江戸の水路」で「邪馬壱国出雲地方説」を表現していたことになる。

◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】は加えないと、九州の末盧(まつろ)国以下の本州地理を説明する12か所の全方位記事は【本州の東は、本州の南になる】と説明していることになる。
 『魏志倭人伝』の冒頭の「朝鮮半島の帯方郡から末盧国までの説明」には全7か所の方位記事がある。この7か所の方位記事は、現在の日本地図と同一となる。たとえば『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県対馬)の南に一海千余里を渡ると、一大国(現在の長崎県壱岐)に至る」と記すゆえ、この対馬国と一大国の方位は現在の日本地図と同じである。
 しかし、末盧国以下の本州地理を説明する方位記事は12か所ある。この全12か所の方位記事に1ヵ所も【誤読】は加えないと、下図のごとく【本州の東は南となる】。
 下図に示すように、対馬国を1番目と数えると「信長の生地の尾張」は13番目の「弥奴(みな)国」、「家康の生地の三河」は14番目の「好古都(こかた)国」、「三河の隣国の遠江」は15番目の「不呼(ふこ)国」であった。
 現在の日本地図だと弥奴国(尾張)・好古都国(三河)・不呼国(遠江)は九州の東にある。しかし、『魏志倭人伝』の末盧国以下の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと、下図に示すように弥奴国(尾張)・好古都国(三河)・不呼国(遠江)は本州の南に所在する。
0000167
 上図に示すように――『魏志倭人伝』が「投馬(とうま)国の南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」と記す「邪馬壱国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県の西部」となる。
 『魏志倭人伝』には上図に示した34の小国が登場するが、一国だけ小国名を記さない。
 この名を記さない小国について、『魏志倭人伝』には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種なり」と説明する。
 上図に示したように、「女王国(山陰出雲)の中心地・松江市の北方40kmの日本海上に隠岐群島が所在する。「島根半島に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前三島(どうぜんさんとう)と、その東北にある大きな島・島後(どうご)の四つの大島と約180の小島からなる群島」である。ゆえに、「隠岐群島の多数の島々を一括する」と「皆、倭種なり」という表現となる。また、「[]の字源・時計回りの90度の転回方位」の場合「北が東になる」。だから、「隠岐群島の島前」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国あり」と説明された地所であったことになる。
 また、「隠岐群島の島前と島後の中間の海」も転回方位だと「出雲の東」となる。
 だから、「[]の転回方位にもとづくと、古代出雲の中心地より【東】の海上となる位置に隠岐群島が所在する」ゆえ、家康は「邪馬壱国は出雲地方であった」と考えたことになる。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した宮殿について「宮室・楼観(ろうかん/見張り櫓)・城の柵を厳重に設計し、常に兵器をもった人が守衛している」と説明する。
 このような倭女王の宮殿は、かつて「意宇(おう)郡」とよばれた地域に所在したと考えられる。出雲国の意宇郡は、古代の神群のひとつに数えられた。神郡とは有力な神の社(やしろ)が鎮座した地域であった。意宇郡は現在の松江市の南部と安来(やすぎ)市である。宍道湖東方の中海(なかうみ)の南(現在方位)には、意宇郡であった松江市東出雲町に揖夜(いや)神社が鎮座する。この揖夜神社の近辺に卑弥呼が居住した宮殿が所在したとすると、転回方位で揖夜神社の〔真東〕となる千余里の地域は島前と島後の中間の海上となる。ゆえに、「女王国より千余里の東」は「海」であったゆえ、卑弥呼は「海と陸地の島前・島後の両者の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)の様子をもあらわす、また「漢字が銀河から作られた」とあらわす女王の学識として威厳をあらわすことができる優れた小国名を考えつかなかったのであろう。だから、隠岐群島の小国名は記されないことになったのかもしれない。
 また、意宇郡であった松江市佐草町には八重垣(やえがき)神社が鎮座する。卑弥呼の宮殿の跡地に八重垣神社が建造されたとしたならば、八重垣神社の真東は隠岐群島の島前ということになる。
 ゆえに、わたくしは卑弥呼の宮殿地の第一候補は揖夜神社近辺であったと考える。そして、須佐之男命(すさのおのみこと)が新婚生活を過ごした八重垣神社の地にはかつて卑弥呼の宮殿が建てられていたと思われるゆえ、八重垣神社が卑弥呼の宮殿の第二候補地となる。

◆『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国から東南五百里陸を行くと伊都(いと)国に到る。伊都国から奴()国に至るには東南百里である。奴国から東へ百里行くと不弥(ふみ)国に至る。不弥国から南に二十日水行(航行)すると投馬(とうま)国に至る。投馬国から南へ十日水行し一月陸行すると邪馬壱国に至る」と説明する。
 []の字源・転回方位にもとづく末盧国から不弥国までの旅程基点を下図に示した。
K241_20220826103301
 「末盧」は「まつろ」と読める。ゆえに、現在の長崎県の「松浦市」の「まつうら」は「まつろ(末盧)」という音に近い。ゆえに、上の〔[]の字源・転回方位による九州各小国の範囲と旅程基点の図〕に表示したように――末盧国の旅程基点を長崎県松浦市に比定した。
 伊都国は『日本書紀』に登場する「伊都県(いとのあがた)」であったと考えられる。伊都県は現在の福岡県糸島市の前原町(まえばるまち)に比定されるという説がある。ゆえに、転回方位にもとづくと末盧国・松浦市から東南五百里の地点は糸島市前原町に相当する。
 奴国については『後漢書(ごかんじょ)』倭伝が「建武中元二年(57)、倭の奴国は貢物を奉って朝賀した。後漢の光武帝が印綬を賜う」と記述する。江戸時代に博多湾中の志賀島(しかのしま)から「漢委奴国王」の金印が発見された。この志賀島の東方(現在方位)の福岡市東区には香椎宮がある。奴国の旅程基点を香椎宮に比定すると、転回方位だと糸島市前原町から東南百里行くと香椎宮となる。
 不呼国の旅程基点を宗像(むなかた)市の宗像大社の辺津宮(へつみや)に比定すると、香椎宮から転回方位の東へ百里行くと宗像大社の辺津宮となる。
 だから、卑弥呼王朝は【漢字作成理論の基軸字[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」】にもとづいて末盧国から不弥国までの地理方位を定めていたことになる。
 前述したように、漢字が起源した中国の五帝時代初頭において「時計回りに90度転回する方位規定」を字源とする[]の字が作られ、後に[][]が加わる[]の字が出現し、さらに後に[人偏][]の字が加えられて[]の字が作られた。『魏志倭人伝』は――対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって[][]の字は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を受け継いだ――と伝えている。だから、『魏志倭人伝』は「本州地理の全12か所の方位記事は、時計回りに90度転回する」と説明していたことになる。その証拠に、「倭人国」という国名の[][]の字源もまた「時計回りに90度転回する方位規定」を有するものであった。
 だから、上記したように、家康は『魏志倭人伝』の記事のとおりに本州の地理方位を「時計回りに90度転回する」ようにして「邪馬壱国出雲地方説」を考えたゆえ、「江戸の渦巻文の水路」にて「邪馬壱国出雲地方説」を表現することにしたことになる。

◆不弥国の次の投馬国は山口県であった。山口県・投馬国の長門(ながと)市の港が投馬国の旅程基点となる。
 投馬国の旅程基点を山口県長門市の港に比定すると、長門港は不弥国の宗像大社辺津宮の南となる。辺津宮から宗像大社の沖津宮(おきつみや)がある沖ノ島に立ち寄り、沖ノ島から山口県萩市の見島(みしま)を経由して長門市の港に至るまでの迂回(うかい)海路を、『魏志倭人伝』は「水行二十日」と説明している。
 『魏志倭人伝』には五世紀の裴松之(はいしょうし)が「倭は中国の正歳四節、つまり中国の正歳つまり元日から大晦日までを一年と定め、また一年を春、夏、秋、冬に分ける四節(四季)を定めていない。ただし、春耕(田を耕す春)と秋収(穀物を収穫する秋)を一年とする、中国の一年を二年と計る二倍暦(にばいれき)があった」と加えた注がある。したがって、「水行二十日」という航行日数は「現在だと、十日」であったことになる。そして「辺津宮から沖ノ島を経て、沖ノ島から見島を経由して投馬国の旅程基点の長門港へ到着するまでの十日の海路」は、〈通常航路〉ではなく《学術海路》を説明するものであったと考えられる。
 この《二倍暦による不弥国から投馬国までの学術海路》は『魏志倭人伝』の「対馬国から南へ千余里渡って一大国に至る中間の海は、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う」という記事と密接にかかわる。「瀚海」ははじめ「ゴビ砂漠」を意味し、のち「北海」を意味したとされる。「ゴビ砂漠」は「中国(中華人民共和国)より北方のモンゴルの砂漠の名称」である。ゆえに、「ゴビ砂漠は中国の北方にある大海のごとき砂漠」であるゆえ「瀚海」は「北海」、つまり「中国の北の海」を意味することになった。
 「対馬国と一大国の中間の海」が「ゴビ砂漠」であるはずがない。[][][]の字源とともに、(1)「瀚海」もまた「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす役割を有していた。さらに、(2)「不弥国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」と「投馬国東部(現在方位)の地宜」もまた「瀚海」という語源と[][][]の字源とともに「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす役割があった。
 だから、卑弥呼は上に示した「転回本州地理」を立論し、国名を「倭人国」と定め、「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」と名づけて、【漢字作成理論】にもとづいて倭人国を治めたていたことになる。その証拠に、「瀚海」の語源が「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしたことは、前述したように「不弥国の地宜と投馬東部の地宜」によって具体的に証明できるからである。ゆえに、卑弥呼は「不弥国から投馬国までの旅程」で「水行二十日」とする《学術海路》を表示して女王の徳と威厳を示して倭国を治めていたことになる。

◆『魏志倭人伝』は「投馬国から南へ水行十日陸行一月で、女王が首都とする邪馬壱国に至る」と説明する。したがって、現在においては「投馬国から邪馬壱国までの旅程日数は半分の水行五日陸行半月」であったことになる。
 転回方位にもとづくと、投馬国の長門港から〔南〕には、島根県松江市がある。前述したように、卑弥呼が居住した宮殿は松江市東出雲町の揖夜神社近辺か、松江市佐草町の八重垣神社の跡地であったと考えられる。この両地所とも、投馬国・長門港から水行五日陸行半月に適合する。
 揖夜神社の社号に用いられる[]の字義は「集まる」である。ゆえに「揖夜」は「漢字の字源・字形の原形・原義となった銀漢の各部が出現する夜に神々が出雲に集合する」と意味することになる。ゆえに、「揖夜」は「陰暦十月に諸国の神々が出雲に集合する、神有月」また「出雲以外の国々は神々がいなくなる、神無月(かみなづき)」の由来に適合する。つまり、「神々」は「銀漢各部の形状が字源・字形・原義となる学術知識を有する倭国中の王・王女や巫女・覡(げき/神官)たち」のことであり、「諸国の王・王女や巫覡が陰暦十月に卑弥呼が居住する出雲に揖(あつ)まって会合した習慣」が出雲における「神有月」の語源、出雲以外の諸国における「神無月」の語源であったと推定される。
 だから、揖夜神社近辺に卑弥呼が居住した宮殿が所在したのではあるまいか。

◆『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部は「熊野の黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今(『古事記』が完成した712)出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂()ふ」と記す。この「出雲国の伊賦夜坂」は「熊野の和歌山県新宮市磐盾町の神倉(かみくら)神社の参道」であった。『古事記』が完成した712年当時、「熊野の神倉神社の参道」は「出雲国の伊賦夜坂」とよばれていたのである。
 幾人かの学者たちは『古事記』の黄泉国訪問説話末部の「出雲国の伊賦夜坂」を「島根県・出雲国の伊布夜坂」と解釈するが、この意見は誤っている。
 万葉歌人の第一人者とされる柿野本人麻呂は701629日に出立して710日に還幸(かんこう)した持統上皇の吉野宮行幸に参加していた。
 この701年の持統上皇の行幸において、伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部に登場する壱与=9代開化天皇の正妃の竹野比売)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と日本国誕生史の抹殺を企てて吉野宮に行幸する持統上皇に抗議して川に身を投げて溺死した出雲国・熊野に住む乙女たちと、人麻呂は遭遇した。
 吉野から山陰出雲は遥かに遠い。ゆえに、人麻呂が作った二首の和歌と山陰出雲は無関係であった。持統上皇が行幸した吉野は、伊耶那美命・伊耶那岐命・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭る熊野に近い。当時、吉野に近い熊野は「出雲」とよばれていたのである。ゆえに、人麻呂は「熊野」を「出雲」と表現したことになる。だから、『万葉集』429番と430番の「溺れ死しし出雲の娘子(をとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る和歌二首」という題詞に登場する「出雲国」は「和歌山県の熊野」であったことになる。
 人麻呂は、この名も無い出雲・熊野の乙女たちのいのちを捨てての激しい抗議に遭遇し、彼女たちの亡骸を火葬しながら、霧がかかったように視線をさえぎられて涙で潤む眼で吉野の山の嶺をながめ――激しい怒りにふるえた。体制側の横暴や不正や卑怯な陰謀などを見て見ぬふりして身をまもって宮廷歌人の席にしがみつく自分がどうしてもゆるせなくなり、深く恥じた。この二首は、人民たちが敬愛する伊耶那美命(竹野比売)と伊耶那岐命(若き日の開化天皇)が【愛】を国家理念とした小国・日本の誕生史を抹殺せんと企む持統上皇と律令国家体制を批判して抵抗を示す和歌であった。人麻呂は溺死した熊野・出雲の乙女たちを吉野で火葬する時に作った二首で、天照大神(10代崇神天皇母子)を至上神と崇拝して・国家権力の強大化を強引に推進する政策をおこなう持統上皇は誤っていると批判した。これゆえ、人麻呂は石見国(現島根県西部)へ流された。人麻呂は石見国の地で死去している。
 だから、この事件の11年後に『古事記』が元明(げんめい)天皇に献上された。ゆえに、8世紀前半において「熊野・和歌山県新宮市の神倉神社の参道」は「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」とよばれていたことになる。

◆現在の学界にとって、『魏志倭人伝』は【倭女王・卑弥呼が治めた邪馬台国はどこに住んでいたのかを研究する書物】である。
 しかし、皇室と家康はじめ江戸幕府にとって、『魏志倭人伝』は【国家を治めるための学術基盤、倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と夏音(かおん)文字の学芸を学習する最高峰の教科書】であった。だから、皇室と家康はじめ幕府にとって、『魏志倭人伝』は【王道政治の基盤である学術書、要するに帝王学を学ぶ書物】であった。
 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、漢字を発明した。五帝時代の漢字は「書契(しょけい)」とよばれる。
 今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏后(かこう)時代初頭(夏代初頭)、中国から名門益氏の王子と若者たちが玄界灘を横断して北進して日本列島の東北地方・秋田県に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】を教えひろめた。ゆえに、『魏志倭人伝』には【今から約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と、今から約4000年前の夏代初頭の夏音文字の学芸】が記述されることになった。
 ゆえに、皇室と家康はじめ江戸幕府にとって、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を最も明確に伝える最高峰の学術書】であった。
 その証拠に、江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき)1725年に死去すると、白石が邪馬台国大和説と邪馬台国九州説を立論していることを知った朝廷は驚愕(きょうがく)して、まるで「日本国が滅びる! わが皇室が滅びる! わが国の学問が滅びる! わが国の文化は根底から滅びる! わが国の上古史がことごとく滅びる!」と言わんばかりに激しいショックを受け、白石の邪馬台国説に対して「わが国を作ったすべてのものが台無しになって滅びる」とまで恐怖を抱いている。

 新井白石は114代中御門(なかみかど)天皇在位中の1725年に69歳で没した。673年に即位した40代天武天皇以後おこなってきた大嘗祭(だいじょうさい)は【倉頡から始まった五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の学芸をわが国は習得したと表示する学問儀式】であった。ところが、1466年に即位した103代後土御門(ごつちみかど)天皇の即位式にて大嘗祭がおこなわれて以後、9代・約200年ものあいだ大嘗祭は中断していた。大嘗祭の中断によって【倉頡が発明した漢字作成理論や夏音文字の学術】が次第に失われ廃(すた)れていく状況を心配した皇室は、1687年の113代東山(ひがしやま)天皇の即位式で、大嘗祭を略儀でいったん再興した。この113代第東山天皇の在位中、そして次の114代中御門天皇が即位した1709年当時、白石はいまだ邪馬台国説を発表していなかった。上記したように、白石が邪馬台国説を発表したのは、中御門天皇の在位中であった。
 673年から686年に在位した天武天皇は「大嘗祭は――即位する天皇が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を政権基盤にして国家を治めると誓う儀式】とする」と定めた。ゆえに、「白石の邪馬台国説は誤読の空理空論である」と表示する大嘗祭は、中御門天皇の次の115代桜町(さくらまち)天皇の即位式にておこなわれることになった。この桜町天皇の即位式は、白石が没してから13年後の173811月におこなわれた。
 前述したように、皇室と家康の遺志を継ぐ江戸幕府にとって『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を知る最高峰の学術書】であった。だから、桜町天皇の即位式は将軍吉宗と幕府の協力の基(もと)におこなわれた。
 以上からして、桜町天皇の大嘗祭は、本格的に【倉頡が発明した作成理論と夏音文字の学芸】を復興する学問儀式であった。したがって、1738年の桜町天皇の大嘗祭から今日の2019(令和元年)11月までにおこなわれた大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】をあらわす学問儀式であったのである。

◆天武天皇以後、朝廷は伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史は皇祖・天照大御神の聖性を汚すゆえ、後世に伝えることを厳重に禁止した。しかし、天武天皇の命令に逆らって、『古事記』上巻に皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史が記述された。このため、『魏志倭人伝』も『古事記』同様に読むことも研究することも厳重に禁止された。というのも、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論】によって「倉頡は銀漢各部の形状を文字(字源・字形・字義)と定めたこと」が解明されると、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する方法によって、朝廷にとって不都合な伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史が明らかとなるからであった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には――伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部の登場する倭女王の壱与)は伊耶那岐命と結婚したとき「小国・日本の建国理念は【愛】にしましょう」と提唱した。伊耶那美命の死後、伊耶那岐命は大王(9代開化天皇)となって愛妻・伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いで天下をおさめた。皇祖・天照大神(10代崇神天皇母子)は【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を弾圧して苦しめた。また、伊耶那美命の後を継いで倭女王に就任した皇祖・天照大神(10代崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)は多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残忍きわまりない徇葬(じゅんそう/八雷神・やくさのいかづちがみの儀式)を陣頭指揮した――と記述されていた。
 これゆえ、1738年の桜町天皇の本格的な大嘗祭の復興から今日の2019年までにおこなわれて大嘗祭は「夏音文字と楷書の字源・字義は銀漢各部の形状である」とあらわす学問儀式であった。ゆえに――桜町天皇から今上陛下までの大嘗祭は、家康の遺志を継ぐ将軍吉宗と江戸幕府が欲求した【皇祖・天照大神が憎悪・敵視した日本建国の〔愛〕の理念】が「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば解明できる学問儀式」でもあったことになる。
 しかし、現在、学者たちは【『古事記』上巻の夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する必要は無い】と考えているので――日本国民は日本国が【愛】を宣誓して建国されたことを知ることができない。

◆天武天皇以後、皇室が最も偉大な先祖と定めた皇祖・天照大神は三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮・皇大神宮(こうたいじんぐう)に祀られる。
 大嘗祭は天照大神を祀る大礼(たいれい)でもある。
 天照大神を祀る皇大神宮(内宮)は、X字形に交差させた木材・千木(ちぎ)を屋根の棟(むね)の両端に取り付けている。
 わが国の神社の建物は、天照大神を祀る伊勢神宮にかぎらず、屋根にX字形の千木を取りつける――「神社の屋上に千木がある」、これが神社建築の一般的形式である。
 千木を取り付けるわが国の神社建築様式は、わが国が夏代初頭に夏音文字を習得した証拠となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[(こう)]の字について「千木のある建物の形」、また「氏族の伝統と秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。千木形式の建物は、神聖のものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」と解説しているからである。
 白川静著『字統』は、[]の契文(けいぶん/甲骨文字)と金文の字形について「もと屋上に千木のある建物」、あるいは「卜文(つまり甲骨文字)は千木形式の建物で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう。卜辞(甲骨文字の辞)に小子・小臣を集めて教学することを卜するものがあり、小子・小臣は王族の子弟をいう」と解説する。
 下に、〔契文(甲骨文字)前期の[]の字形と、契文前期の[]の字形と、わが国の神社の千木図〕を示した。
 わが国は夏代初頭、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。だから、天照大神を祀る伊勢神宮はじめわが国の神社建築は「学。学術。学問」をあらわす[][]の契文形に図案された「千木」が屋根のむねの両端に取り付けられることになった。
0000168
 上記したように、白川静著『字統』が「卜辞(契文の辞)に小子・小臣を集めて教学することを卜するものがあり、小子・小臣は王族の子弟をいう」と指摘するように――中国では契文が出現した殷代後半・金文が出現した周代において、権力を有する王や高位につくにふさわしい人物が多数の王臣の子弟の中から卜されて選ばれ、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】を厳重にまもるように教育され、【銀漢各部の形状が字源・字形・字義となる学術】を厳しい戒律のもとで学習していたようである。
 上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】は下記のごとくであった。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的な表現で説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。ゆえに、【3つの掟】を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
 上記した【3】の掟のために、五帝時代の「書契」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は文字が書いた史料が出土しないことになった。

 今から約3300年前から始まる殷代後半の契文(甲骨文字)4000(4000)を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことになった。このため、契文(甲骨文字)を書いた史料が多数出土することになった。
 だから、【わが国は甲骨文字以前の夏代初頭に夏音文字を習得していた】ため――「用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物、また、この掟を破った人物の一族全員も、死刑にする」という【3】の掟は夏代初頭以後も、厳重にまもられていたことになる。

◆白石以後の学者たちは「銀漢から作られた文字であるから、漢字と名づけられた事実」に気づかない。このため、白石以後の学者たちは全員『魏志倭人伝』に記述された【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成理論の説明】が事実であると理解できい。
 いっぽう、白石以前の優れた中世や近世の学識者や高僧たちの中には【銀漢各部の形状が字源・字形・字義】となって五帝時代の書契と夏音文字は夜空に現存する事実を察知する人々がいた。しかし、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の伝統にもとづき、【銀漢から作られた漢字の研究は厳重な秘密のもとに研究しなければならない心得がルール】となった。中世や近世の高僧たちは仏教の経典に用いられる漢字の字源を研究するために、また天下を治めたいと夢見る武士たちの中には天下を治めるための帝王学を知得するために――誰にも研究していることが察知されないように家康のごとく直隠(ひたかく)しにして、また後世の歴史学者たちにも気づかれないように家康のごとく直隠しにして――『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を研究する人々もいたのである。

◆白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく「わが国の国語として残っている漢字音が、中国に現存する最古の漢字音よりも古い、現存する最古の漢字音である」と指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として残っている漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。
Photo_20220826103601
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」と指摘する漢字は、今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来して習得した【夏音文字】であった。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は上の〔漢字生長史〕にあって紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ゆえに、わが国が中国の夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国の上古音よりも約1000年前の・現存する最古の漢字音となる。
 ところが、〔漢字生長史〕が示すように、現在の学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説の漢字音は中国の上古音よりも新しい。ゆえに、上記したように〔漢字生長史〕の最下部に配置される。
 だから、学界が「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した漢字習得の絶対的な定説は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の「夏音文字を習得していた」と伝える記事を強引に無視・排除した傲慢(ごうまん)な空理空論、すなわち「5世紀以前に、漢字を書いた史料が出土しない。ゆえに、わが国は漢字を5世紀以前に習得していない」と断定する考古学の見解を正しいと思い込んだ幻想、錯覚であったことになる。
 わが国が約4000年前に習得した五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は現存する。
 というのも、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は銀漢各部の形状が字源・字形・字義となって、現在も夜空に存在しているからである。だから、音韻学による「わが国の国語として残る漢字の字音は中国の現存する上古音よりも古い、いま残されているもののなかで最古の漢字音である」という指摘は事実となる。
 「漢字は銀漢から作られた文字」であった。だからもしも学界が家康のごとく「漢字は銀漢から作られた事実」に気づいていれば、即座に学界は「考古学が主張する漢字習得説は空理空論である」と断定していたことになる。
 上記したように、前期の契文(甲骨文字)[][]の字形に合致してX字形の千木を屋根に取り付けるわが国の神社建築は「夏代初頭に夏音文字を習得していた」と考えるべき史料であった。だから「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は[]の字源を知らない・「学説」とは言えない空理空論であったことになる。

◆中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には――600年、わが国の推古天皇八年に倭国から派遣された遣隋使が「文字無し。ただ刻木(こくぼく)結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求得し、初めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、もっとも巫覡を信ず」と言った――という記事がある。
 この記事に登場する「刻木」は「倉頡が作った五帝時代の書契」の別称であった。「書契」は太古より「木に文字を刻む」と意味すると伝えられていた。ゆえに、「書契」をわが国では「刻木」とよんでいたことになる。中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』には「上古は結縄によって治め、後世の聖人倉頡がこれを書契に代()える」という記事がある。「結縄」は「今から約6000年前の、三皇時代に易に用いられた記号」の名称であった。倉頡は三皇時代の易に用いた記号の結縄に代えて、書契つまり刻木を発明した。
 ということは、『隋書』倭国伝に記された「文字無し」という文は「仏教の経典に用いる画数の多く、銀漢各部の形状を見ても字源・字義の解釈が困難となる楷書は習得していない」と意味したことになる。
 ゆえに、上記した『隋書』倭国伝の文は「文字無し」から始まる文は「わが国には三皇時代の結縄と五帝時代の刻木がある。しかし、仏教の経典に用いる難しい楷書は無かった。仏教を敬い、朝鮮半島の百済から仏教の経典を輸入して、はじめて仏教の経典に用いる楷書が読解できるようになった。というのも、五帝時代の刻木と夏代の夏音文字に精通する巫女と覡(男の神官)たちが中国の卜筮の書物に用いられる漢字を読解するために、仏教の経典に用いる難解な楷書の解読に挑戦して成功した。ゆえに、この偉大な業績をなしとげた巫覡を世の人々は最も信頼して尊敬した」と、遣隋使は説明していたことになる。
 上記した『隋書』倭国伝に記された600年に中国に渡った遣隋使の「文字無し」という言は江戸時代の学者たちはじめその後の学者たちに「わが国には文字が無かった」と誤訳された。このため、考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は正しいと思い込まれるようになった。ところが、この解釈は【誤読の産物】であった。遣隋使は「わが国には三皇時代の結縄と五帝時代の刻木と夏代の夏音文字を有していた。刻木と夏音文字に精通する巫女と神官たちが、みごとに仏教の経典に用いる難解な楷書を解読した」と中国に事実を報告していたことになる。
 だから、現在の学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は誤読の産物・空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

◆『魏志倭人伝』の中半には「倭の卜辞(ぼくじ/占いに用いる言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事がある。「令亀の法」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文・甲骨文字」を意味した。だから、わが国は【甲骨文字のごとく銀漢各部の形状に似せて写実的に図案する夏代初頭の夏音文字】を習得していた――したがって、『魏志倭人伝』の「令亀の法の如く」という記事は「わが国には、銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた甲骨文字のごとき夏音文字が存在した」と伝えていたことになる。
 〔注 上記したように、〈1〉契文・令亀の法(甲骨文字)前期の[][]の字形に合致する「神社建築の千木」はわが国が夏音文字を習得していた証拠となる。また、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀前半)、巫女や神官たちは夜な夜な銀河各部の形状を観察して字源・字形・字義を正しく知得する夏音の言と夏音文字をもって卜していた。ゆえに、〈2〉卑弥呼時代末から約250年後の推古天皇時代の600年頃の巫女と神官たちも夜な夜な銀漢を観察して字源・字形・字義の学術に励むものであったので、百済から輸入した仏教の経典に用いられる非常に難解な楷書を解読することができたのである。〕

 『魏志倭人伝』の中半には「魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が用いる文書に用いる楷書と、倭の卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都(いと)国の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭女王の文字を捜露(そうろ/一字一字づつ丁寧に確認・点検)して楷書と卑弥呼の文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する、もう一つの「倭には夏音文字があった」と伝える記事がある。
 だから、「倭には【五帝時代の刻木と夏代の夏音文字】が存在した」ことが事実となる。
 学者たちは「倭には上古の漢字があった」と明記する『魏志倭人伝』の記事を徹底的に無視・排除して「倭には、上古の漢字は無かった」と断定した。しかし、上記の「令亀の法」や「伊都国の港で魏都と朝鮮半島の楷書と倭の夏音文字を正しく変換していた」という二つの記事はじめ、「倭人国」という国名や「卑弥呼」という女王名や「邪馬壱国」という首都名や、そして対馬国から狗奴国までの30の小国をもって――『魏志倭人伝』は「倭には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と証言していた。

◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本国伝には――702年に九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずるに所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という記事がある。
 上記の第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」が述べたという言は「わが国は672年の壬申の乱の後、稍々(やや)、夏音文字を復興することにした」と意味した。
 第7回遣唐使が「わが国には、夏音文字が存在する」と述べた、この「夏音文字」は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名となって記されている。
 倭女王の名「卑弥呼」の3字を〔中国に現存する最古の上古音〕で読むと「ピミカ」となる。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は、「ピミカ」より古い夏音文字の字音であったのである。『魏志倭人伝』には「卑弥呼(ヒミコ)」はじめ「難升米」を「ナシメ」、「壱与」を「イヨ」、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読める夏音文字の字音が残っている。「邪馬壱」を「ヤマイ」と読める女王国はじめ33の小国名にも夏音文字の字音が残っている。「卑狗」を「ヒコ」、「卑奴母離」を「ヒナモリ」と読める官職名にも幾つかの夏音文字の字音が残っている。
 だから、いままで証明してきたように、第7回遣唐使が中国王朝に告げたように、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字が存在した。
 だいいち、【五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字】は「銀漢各部の形状】となって、銀漢輝く夜空に現在も存在する。だから、「五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は現存しない」と断定する考古学の【『魏志倭人伝』の記事】を無視し排除する意見は空理空論、重大な真実を抹殺する傲慢(ごうまん)な意見ということになる。

 そして、中国王朝に「わが国には、壬申の乱の後に稍々(やや)夏音文字を復興することにした」と告げた第7回遣唐使が九州の港を出帆した702年から10年後の702年1月28日、『古事記』が43代元明(げんめい)天皇に献上された。
 この『古事記』上巻に現存する夏音文字によって、考古学が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説は空理空論・真っ赤なウソであったという事実が一気に証明される。
 というのも、【『古事記』の上巻の随所には、〔音〕という注がつく多数の夏音文字が残っている】からである。
 たとえば『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話は合計381字で構成されるが――〔音〕という注がつくのは「許々袁々呂々邇」の7字、「淤能碁呂」の4字、「美斗能麻具波比」の7字、「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字、「久美度邇」の4字の――5か所にして夏音文字は計32字である。
 ゆえに、上記したように、中国の正史『新唐書』日本伝に――第7回遣唐使が「壬申の乱の後、稍々、夏音文字を復興することにした」と中国王朝に言ったとおり――壬申の乱の後に編纂された『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話には夏音文字が稍々(合計381字のうち、夏音文字は32)復興されている。
 だから、いままで詳細に解説し証明してきたように、わが国は中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に【夏音文字の学芸】を習得したときに、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得していたことになる。
 したがって、夏音文字は『古事記』上巻の随所に多数の多数の【夏音文字の字音】が記され、現在も銀漢輝く夜空で【夏音文字の字源・字形・字義】は存在している。このように、現在も、夏音文字は楷書と同じく【字源・字形・字義・字音】がそろって実在する。だから、考古学が断定したわが国の習得説は空理空論、空想・錯覚であったことになる。
 以上、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、学界が考古学に支配されて「わが国は夏代初頭に夏音文字を習得した」と記述していた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻はじめ様々な文献の記事を誤読して無視・排除した空理空論であったことになる。

◆後漢時代の100年ころ、字源を解説する字書『説文解字』を著作したとされる文字学者の許慎(きょしん)は、『説文解字』の序で「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」と指摘している。
 許慎は「銀河各部の形状を字源・字形の原形・原義とする文字は経(学問)と芸(芸術)の根本であり、王道政治にとって真っ先に必要とする絶対に必要な政権基盤となる知識であり、前人たちの歴史を記述する書物の文字を後世の人々が銀漢各部の形状を観察して、過去の歴史の真相・真実が解明できる方法である」と指摘していた。
 新井白石から現在までの邪馬台国説者たちと異なって――徳川家康の『魏志倭人伝』の研究目的は『説文解字』の序の「けだし文字は経芸の本、王政の始め、古(いにしえ)の歴史の事実・真実を識る」という説明と合致した。つまり、家康は『魏志倭人伝』を【王政の始め、天下を治める帝王学を知る最良の学術書】とし、「楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換して夏音文字の字源・字形・字義を知る学問」を一生研究したことになる。
 ゆえに、新井白石から現在までの邪馬台国説学者たちの「女王・卑弥呼が治めた邪馬台国の所在地を決める」という『魏志倭人伝』の研究目的とまったく異なっていた。

◆このブログをまとめると、下記のごとくなる。
【1】家康は「漢字は銀漢から作られた文字である事実」を知っていた。ゆえに、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となって存在する事実を、家康は知っていた。
 新井白石から始まる邪馬台国説の学者たちは、「漢字は銀漢から作られた事実」をまったく知らない。ゆえに、『魏志倭人伝』研究にとって必要とする素養を有していない。
【2】『魏志倭人伝』には()「倭には令亀の法のごとき夏音文字があった」という記事と、()「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いた楷書と卑弥呼が文書に用いた夏音文字は相違していたが、倭の伊都国の港では楷書と夏音文字を正しく変換していた」と説明する二つの記事がある。この二つの記事のとおりに、家康は「倭には夏音文字があった」と考えた。その証拠に、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に夏音文字の字音が残っている。だから、家康の考えは事実を知っていたことになり、その研究はおのずと【科学】が成立することになった。
 「漢字は銀漢から作られた事実」を知らない新井白石から現在までの邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の()「令亀の法のごとき夏音文字があった」と()「伊都国の港で魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書と卑弥呼が用いた夏音文字が同義になるように正しく変換できた」という二つの記事を徹底的に無視・排除する。これが原因で、邪馬台国説は【誤読の産物】となり、いっこうに【科学】が成立しない矛盾・不合理だらけの意見となる。
【3】家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない。この論法だと、【末盧国から邪馬壱国までの旅程記事の方位は時計回り90度転回していたこと】になり、『魏志倭人伝』が「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。皆、倭種なり」と説明する小国は「隠岐群島」であったことになる。この「隠岐群島」による記事の合理によって、女王国は山陰・出雲であったと解明できる。したがって、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も加える必要がなかった正確な書物であった。その証拠に、『魏志倭人伝』に【誤読】を1ヵ所も【誤読】を加えないと【科学】が成立する。
 いっぽう、新井白石から現在までの邪馬台国学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事を軽々しく信用してはいけない」と定める。ゆえに、邪馬台国学者たちは『魏志倭人伝』の記事は「信用できない。誤っている」と指摘して、『魏志倭人伝』の記事よりも自分たちの考えのほうが正しいと決めつける主観的な意見・批判を多数加える。この論法が原因で――邪馬台国説には「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。皆、倭種なり」という記事と合致する小国が存在しない。だから、邪馬台国説は【誤読の空論】であったことになる。というのも、『魏志倭人伝』の全記事を信用すれば【科学】が成立する仕組みとなっているにもかかわらず、「なぜ信用してはいけないのか、信用できないのはどの点なのか、どのような考え方をしたならば信用できるか」などと批判を加えた主観的意見はすべて【誤読】ということになるからである。
【4】『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壹国」と記す。
 ところが新井白石から現在までの邪馬台国畿内説と九州説は、「女王国名は邪馬臺()国が正しい」と主張する。
 『後漢書』倭伝には「邪馬臺国」の後に「今、名を案ずるに邪馬惟の音之訛(なま)り也」という注がつく。この注における「邪馬臺」の音をあらわす「邪馬惟」のうちの[]の漢音は「イ()」、呉音は「ユイ(ユヰ)」で、「タイ」という字音は存在しない。ゆえに、夏音文字で「邪馬」を「ヤマ」、漢音で[]を「イ」と読むと、「邪馬惟」は「ヤマイ」と読める。ところが邪馬台国学者たちは「邪馬臺()」を「ヤマタイ」と読むゆえ、「邪馬惟(ヤマイ)」は「邪馬臺()」ではなかったことになる。他方、「邪馬壹()」は「ヤマイ」と読める。というのも、夏音文字の一字一音読みにもとづくと[()]の「イチ」の字音は先頭の「イ」となるからである。だから、『魏志倭人伝』に記された女王名国の「邪馬壹()」は「ヤマイ(邪馬惟)」と読むべきことになる。
 しかし、字形にもとづくと『後漢書』倭伝は「邪馬臺」と記しているゆえ、『魏志倭人伝』の「邪馬壹」という表記は誤りとなる。
 このように、『後漢書』倭伝にある「邪馬臺国」という女王国名と注の「邪馬惟」という音だと、「邪馬臺」と「邪馬壹」のどちらが正しいか証明することができない。
 しかし、『魏志倭人伝』も末部には「因()りて臺()に詣(いた)る」という、魏都「洛陽」を[()]と略する記事がある。
 前述したように、『魏志倭人伝』の初頭部には「対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海・ゴビ砂漠であった」と説明する記事がある。また、「不弥国から南へ水行二十日で投馬国に至る」という記事がある。この【「瀚海」と「不弥国から投馬国までの旅程記事」】は【「魏都の洛陽」を[()]と略すると、夏代初頭に「洛陽より東方の山東半島」を[()]と略することになった経緯】を伝える。だから、『魏志倭人伝』の「因りて臺()に詣る」という記事によって、女王国名は「邪馬壹()国が正しい事実」が具体的に科学的に証明される。
 以上のごとく、現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)の『魏志倭人伝』に記される「邪馬壹国」という表記は正しかったことになる。言いかえると『後漢書』倭伝の「邪馬臺国」は誤記であったことになる。
 この結果、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」という記事は1ヵ所も存在しなかったことになる。ゆえに、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の約2000字の全記事と1ヵ所も合致しない、真っ赤なウソを学説であると巧妙に見せかけた【誤読の産物】であったことになる。
【6】以上のごとく、現存する12世紀の南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』の全記事は正しい事実は矛盾点も不合理な点もなく【科学】が成立して証明される。
 邪馬台国説学者たちは【『魏志倭人伝』を研究する時に必ず守らなければならないルール】を「3世紀後半に著作された原書が12世紀の刊本で残った『魏志倭人伝』には、当然、多数の誤記が混じりまた信用できない多数の記事が存在すると考えるべきことになる。ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事を絶対に軽々間しく信用してはならない」と定める。この【『魏志倭人伝』を研究する時に必ず守らなければならないルール】は【「科学」を優先して考えなければならない歴史学の鉄則】を無視した空理空論、言いかえると「西欧近代科学の学術を習得した自分たちの意見がほうが正しく、学問が未発達な3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の説明に聞く耳を持つ必要はないと決めつけた傲慢から産まれた空理空論」であったことになる。

| | コメント (0)

2022年8月13日 (土)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・14

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった
★わが国には5000年前に漢字が起源した学問が伝来していた・3


◆あなたもそしてわたくしも 絶対に「日本人」とよべない
 あなたもわたくしも「ほんとうの日本人」じゃない
 というのも 日本国民は
 『古事記』上巻に書かれた日本国誕生史の真実を
 まったく知っていないからである
 現在 わが国のすべての学者たちは
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭34字に
 書かれた【歴史を解明する方法】の警告を 無視して
 【多数の誤読】を駆使して 空理空論の日本神話説をデッチあげる
 現在 わが国の学者たちは全員
 虚偽・空想の日本神話説(古事記上巻に関する意見)を主張して
 真実の日本国誕生史を排除・抹殺する
 だから 全日本国民は真実の日本国誕生史を知っていない
 だから あたたもわたくしも「日本人」とよべない

◆現在、学者たちが主張する通説によって一般的に――702年に九州の港を出帆した第7回遣唐使が中国に渡り「倭国」から「日本国」という国号の改変の承認を中国の王朝に求めた――この702年頃に、日本国が誕生し起源したと思いこまれている。
 この「倭国」から「日本国」の国号改変の承認を中国王朝に求めた様子は、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に記述されている。
 『旧唐書』倭国日本伝は「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」などと記述する。
 また、『新唐書』日本伝は「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習い、倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本は乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」などと説明する。

 上記した『新唐書』日本伝は――第7回遣唐使は「後稍夏音を習う」と言った、つまり「壬申の乱の後に稍々夏音文字を復興することにした」――と記述するゆえ、わが国には夏音(かおん)文字が存在したことは確かな事実であったことになる。
 「銀河」つまり「銀漢から作られた文字」であったゆえ、中国でもわが国でも「漢字」と呼ぶことになったという真実に則(のっと)ると――今から約4000年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から夏王朝の始祖・禹()帝の後を継いだ益(えき)帝の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して九州に上陸し、九州から日本海側の陸地を北上して、東北地方の男鹿半島・米代川流域文化圏に定住した。名門益氏の王子は、【今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた。東国・関東地方の氏族たちは益氏の居住地に旅して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。このような【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した歴史】は現存する文献史料と様々な遺跡と遺物と、そして日本文化の特性などによって【科学】が成立して事実であったと証明することができる。

 前記した『旧唐書』倭国日本伝と『新唐書』日本伝は「大国倭を併合した、小国・日本は静岡県中部(旧国駿河)以東の関東地方の東日本であった」と伝えていた。
 この小国・日本(東日本)の氏族たちは、上記したように「益氏の居住地(秋田県の男鹿・米代川文化圏)に旅して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。
 ゆえに、「『万葉集』巻二十(最終巻)における4321番から4436番の116首の和歌を作った防人(さきもり)たちの出身国の東日本が、倭を併合した小国・日本であった」と伝えていた。つまり、防人歌作った人々の出身国の「遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、相模、上野、下野、武蔵、上総、下総、安房、常陸」が「小国・日本」であった。ただし、「遠江(現在の静岡県西部)」は『魏志倭人伝』に登場する倭国の一員「不呼国(ふここく)」であったゆえ、「遠江」は「小国・日本」ではなかった。というのも、不呼国・遠江の人民たちは皇室が最も偉大な先祖と定めた皇祖・天照大神が憎悪・敵視した小国・日本の女王であった伊耶那美命(いざなみのみこと)を敬愛した。これゆえ「遠江の人民は皇祖・天照大神を敵視している」と怒る朝廷(天智天皇王朝)は、遠江の人々に防人の任務を命じた。
 『万葉集』最終巻(巻二十)116首のすべての防人歌は「小国・日本が誕生した時、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】」をテーマにして作られている。
 つまり、小国・日本は〔愛〕を高らかに宣言して建国された。
 この〔愛〕を建国理念とした小国・日本は、『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼が生存した3世紀前半(233年、234年ころ)に誕生した。ゆえに、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()し、国中遂に定まる」と記述されることになった。この「倭女王・壱与」が、人民たちが「伊耶那美命」と愛称した小国・日本の女王にして後年に倭女王となった「伊耶那美命」の夏音名(夏音文字の名称)であった。上記した『魏志倭人伝』の記事は「卑弥呼の宗女、つまり卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女の伊耶那美命は十三歳の時(233年、234年頃)に小国・日本に赴任して女王となり、249年、250年頃の三十一、三十二歳頃に倭女王に就任して倭国を遂に安定させた」と伝えていたのである。
 伊耶那美命の夫の伊耶那岐命は、後の第9代開化(かいか)天皇であった。ゆえに、『古事記』中巻の開化天皇紀冒頭は「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。開化天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひみ)を正妃とした。また、開化天皇の父孝元(こうげん)天皇と結婚して第10代崇神天皇(すじん)を生んだ継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)とも結婚して、第二后とした」と説明する。
 開化天皇の正妃の「竹野比売」、この「竹野比売」が「伊耶那美命の本名」であった。というのも、『魏志倭人伝』は「竹野比売の出身地の丹波の小国名」は「伊耶国(いざこく)」であったと記しているからである。小国・日本の人民たちは「竹野比売」を「伊耶国出身の美しい女王」と讃えて「伊耶那美命」と愛称した。したがって、若き日の開化天皇は「伊耶国出身の竹野比売の夫」であったゆえ、人民たちに「伊耶那岐命」と愛称されることになった。上記したように、『古事記』中巻の開化天皇紀の冒頭は「天皇は春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた」と記述する。「伊耶河宮」と「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字は三者とも「伊耶」である。だから、伊耶河宮にて天下を治めた開化天皇は伊耶那岐命であった。開化天皇は倭女王壱与(伊耶那美命・竹野比売)の没後【日本建国の〔愛〕の理念】を継承して、大国・倭国と小国・日本を併合して天下を治めた。ゆえに、『旧唐書』倭国日本伝は「第7回遣唐使は、日本はもと()小国、倭国の地を併せたと云った」と伝え、また『新唐書』も「第7回遣唐使は、日本はすなわち小国、倭を并(あわ)す所であると云った」と伝えていたのである。
 
◆以上、702年頃に日本国が誕生(起源)したという学者たちが主張する一般論・通説は誤読の空論であったことになる。
 702年に九州の港を出帆した第7回遣唐使における最下位の幹部は万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)である。山上憶良の代表作は『万葉集』巻五・803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」と詠()む短歌である。この803番「わが子への〔愛〕こそが、この世において最も勝っている」と表現した和歌は、〔伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を讃える和歌〕であった。
 この803番は802番の長歌の反歌(はんか)である。
 この802番と803番の二首の前には、「子等(こら)を思ふ歌一首 并せて序」という題詞がつく。ゆえに、802番と803番の二首の題詞は「子等を思ふ歌二首 并せて序」とすべきであるが、「一首」で正しいことになる。というのも、この題詞は太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』の序を「古事記上巻 并せて序」とした、この安万侶の「古事記上巻 并せて序」という題をあらわすものであったゆえ「子等を思ふ歌一首 并せて序」で正しいことになる。『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、『古事記』は《上巻にある淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理論】を後世に伝えるを作成目的とする歴史書》であった。ゆえに、《「古事記上巻 并せて序」という表題とこの「古事記上巻 并せて序」における約900字の記事内容》を、山上憶良は《「子等を思ふ歌一首 并せて序」と802番の長歌》に見立てた。
 太安万侶の900余字の「古事記上巻 并せて序」を要約した内容を詠む802番と、『古事記』作成目的であった淤能碁呂島の聖婚説話における【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む803番の秘密は、このブログの末部でも詳細に解説する。

◆「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の「安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す」(振り仮名無し)という文は、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13」にて詳細に解説したように、下記のごとく説明していた。
 「今から約4000年前の中国の夏代(かだい/夏后時代)初頭、つまりわが国の後期縄文時代初頭、中国から【五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】が伝来したとき、小国・日本の前身であった東日本において『乾坤(天地)』のイメージを【渦巻文】で表現した前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2千年間におよんで土器・土偶を作った芸術家たちによって【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が習得された。というのも、倉頡は夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義と定め、わが国における前期縄文から後期縄文までの土器・土偶も夏の銀河各部の形状をモデルにして造化(造形)されたからである。さらに、前漢時代から出現されたとされる楷書の字源・字形の原形・原義も夏の銀河各部の形状であった。だから、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の字源・字形・字義や、いくつかの重大な楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された真実の歴史を解明することができる。」
 このように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の記事は【『古事記』上巻の歴史解明方法】を具体的に説明していた、つまり「漢字は銀漢から作られた文字であるから、夏音文字の字源・字形・字義と重大な幾つかの楷書の字源・字義を銀漢各部の形状に変換すれば歴史が解明できる」と警告していたことになる。
 にもかかわらず、現在、わが国の学者たちは全員「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の【『古事記』上巻の歴史解明方法】を説明する文を徹底的に無視し、排除する。そして、【多数の誤読】を巧みにあやつって「『古事記』上巻は歴史を伝えていない」と断定する空想・空理空論を「学説である」と力説して日本国民をまんまとダマしている。
 上記したように、中国の正史『新唐書』日本伝には「第7回遣唐使が、後稍(のちやや)夏音を習うと伝えた」という文がある。この文は「わが国は壬申の乱の後、後期縄文時代初頭に習得した夏音文字を稍々(やや/少しだけ)復興することにした」と説明していた。
 したがって、「672年の壬申の乱から9年後の681317日、第40代・天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて『帝紀及び上古の諸事を記定』させた。このとき、天武天皇は〔夏音、つまり夏音文字〕を稍々習うことに(復興)して、『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書を作成せよ』と命令した」。この天武天皇の「夏音文字の復興の命令」を、第7回遣唐使は中国王朝に「後稍夏音を習う」と説明したのである。
 しかし、この天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の作成目的は、天照大神王朝(いわゆる大和朝廷)を強大化するために人民を苦しめて弾圧した歴史を削除し、皇室が最も偉大な先祖と定める皇祖・天照大神を絶賛して天皇の権力を絶大化するための偽書の作成を企むものであった。当時、壬申の乱から9年後であったゆえ天武王朝はいまだ安定していなかった。ゆえに、当時の状況は天照大神を憎悪・敵視する人民たちの反乱が起きると朝廷は一気に崩壊する可能性が大であった。だから、川島皇子以下十二人の編纂スタッフは〔人民たちを苦しめた天照大神の歴史を削除して、天照大神のほうが伊耶那美命と伊耶那岐命よりも偉大であったと絶賛する偽書の作成〕に躊躇(ちゅうちょ)した。このため、天武天皇の『夏音文字を稍々復興する、帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の編纂命令は実現しなかった。
 ゆえに、天武天皇が『帝紀及び上古の諸事を記定』を命令してから31年後、あるいは第7回遣唐使が九州の港から出帆した10年後の、712年正月28日、夏音文字を稍々復興して伊耶那美命と伊耶那美命の歴史を説明する歴史書が第43代・元明(げんめい)天皇に献上された。この歴史書は天武天皇の「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」という命令末尾の「上古の諸事を記定せよ」における「上古」の[]と「諸事」の[]と「記定」の[]の3字を抜粋して『古事記』という書名となった。
 ところが『古事記』は天武天皇の「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」の本意、つまり「天照大神を絶賛する偽書を作成せよ」という命令に反した反逆の歴史書であった。というのも、『古事記』は【夏音文字の字源・字形・字義と幾つかの楷書の字源・原義を夏の銀河の各部の形状に変換する方法】をもって真実の歴史を伝える――天照大神の聖性を汚す歴史書であったからである。

◆天照大神は伊耶那美命の没後に倭女王を継承した。天照大神は伊耶那岐命・開化天皇の第二后であり、伊耶那岐命の父の孝元(こうげん)天皇と結婚して第10代・崇神天皇(伊耶那岐命の異母弟にして伊耶那岐命の養子)を生んだ伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。伊迦賀色許売命・天照大神は伊耶那岐命に離縁されて後に崇神天皇の姑(おば)の名を受け継いで「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」と名乗った。
 『古事記』上巻は随所に【〔音〕という注を加える夏音文字の字源・字形・字義と幾つかの楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換する方法】をもって読解すれば――『古事記』上巻は「伊耶那美命の没後、倭女王に就任した天照大神(伊迦賀色許売命)は多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した。また、天照大神は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】よりも【国家権力】のほうが勝ると定める国家権力重視政策を強行して人民たちを苦しめた」と記述していると解明できる。
 だから、『古事記』上巻は天照大神を皇祖と崇拝して天皇の権力の絶大化をはかる律令国家体制に真っ向から反逆する歴史書であった。これゆえ、『古事記』上巻は反逆の歴史書であることに気づいた元明天皇は献呈を拒否した。だから、『古事記』は政府が編修した歴史書・正史として承認されなかった。しかし、『古事記』は「日本人のアイデンティティ」を伝え、「日本人の命と魂の根源を伝える歴史書」であったため、朝廷は焚書に努めるものの焚書できずに世に密かに保存されることになった。ゆえに、朝廷は『古事記』を読むことも研究することも厳重に禁止したが、心ある人々や学問好きな人々によって朝廷に気づかれないように密かに読まれ研究されて消滅しなかったゆえ現在まで残ったのである。
 ところが、現在における我が国のすべての学者たちは「古事記上巻 并せて序」の冒頭より34字の「〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字義を銀漢各部の形状に変換せよ」という【『古事記』上巻の歴史を解明する方法を具体的に説明する、太安万侶の警告】を徹底的に無視する。
 太安万侶の警告を徹底的に無視する現在の学者たちは「漢字は銀河から作られたから、漢字とよばれることになった真実」に気づかないゆえ、【多数の誤読】や【多数の憶測】を巧みにあやつる空理空論を「学説である」と称して日本国民をまんまとダマしている。

◆「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになった。
 こんないとも簡単な真理に、江戸中期の新井白石(16571725)以後から現在までの学者たちはまったく未だに気づいていない。
 「漢字が作られた銀河」は、天文学で通称「春の銀河・夏の銀河・秋の銀河・冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河の各部の形状から作られた文字」であった。
 「夏の銀河」とは「夏に最も長時間見ることができる銀河の範囲」である。そして、「夏の銀河の全像が見えなくても、一部ならば見える」という条件ならば、ほぼ一年中「夏の銀河」は見えることになる。
 夏の銀河の各部の形状は人間に造形芸術(いわゆる、美術)を創造する刺激を与える豊かなイメージに満ちている。ゆえに、【銀漢(夏の銀河)の各部を造化(造形)して文字が作られること】になり、この「銀漢から作られた文字」は「漢字」とよばれることになった。
 下に「漢字が作られた、夏の銀河の写真」を示した。
Ginga_20220813132301
 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡は「夏の銀河の各部を字源・字形・字義と定める漢字作成方法(理論)」を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝が滅びるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物に一族全員に厳しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つ掟】
【1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的な表現で説明して暴露した者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称を付けた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上の【3】の掟のために、紀元前3000年頃から始まる五帝時代の「書契(しょけい)」とよばれた原初漢字、紀元前2070年頃から始まる夏代の夏音文字、紀元前1600年頃から始まる殷代(いんだい)前半の漢字においては文字を書いた史料が出土しないことになった。
 『魏志倭人伝』では夏音文字は楷書を音符にして表記されたが、当時(2世紀末~3世紀半ば)に倭人国で用いられていた「銀漢各部の形状を図案した、殷代後半の甲骨文字のごとき字形をした夏音文字」は【倉頡が死刑と定めた掟】を厳重にまもった。だから、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 〔注 『魏志倭人伝』には「倭人国における易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり、わが国には殷代後半の亀の甲羅に刻む甲骨文字のごとき夏音の辞(ことばと文字)であった」と伝える記事が存在する〕。
 ゆえに、その後、5世紀、6世紀にわが国において用いられていた夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 『魏志倭人伝』に「令亀法」と記された紀元前1300年頃から出現した殷代後半に用いられた甲骨文字(契文・けいぶん)と紀元前1046年から始まる周(西周)時代に用いられた金文(きんぶん)の大多数の字形は銀漢(夏の銀河)各部の形状を写実的にデザインする。ゆえに、契文と金文の字形によって、【漢字は銀河(銀漢・夏の銀河)から作られた事実】を証明することができる。だから、『魏志倭人伝』の「倭人国の易卜に用いられた文字は令亀法の如く」という記事の基(もと)()【五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は銀河から作られた事実】と()「わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を、今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に習得した事実」は【科学】が成立して証明することができる。
 上記した、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、現在においても、天文学においても夏の星座名は定められているものの――「銀漢(夏の銀河)各部の名称」は存在しない。
 ゆえに、〈『魏志倭人伝』に記載された33の小国名に表示された【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】の秘密〉と〈『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく【夏音文字の学芸と倉頡が発明した漢字作成理論】の秘密〉を解明するためには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要となる。ゆえに、わたくしは下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
00003_20220813132401
 なお、今から約3300年前から始まる殷代後半の甲骨文字(契文)4000(4000)を越えて多数となった。このため、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における【3】の掟をまもるには非常に面倒となったゆえ、この掟はまもらなくてもよいことになった。だから、殷代後半から甲骨文字を書いた史料が多数出土することになった。
 しかし、甲骨文字にあっても【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、【1】「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになったという――こんな簡単な真理を、1725年に没した新井白石以後から現在までの学者たちは一人も気づかない。また、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された歴史を解明するために不可欠な「銀漢から作られた文字であったゆえ、漢字と名づけられたという真実」に気づく学者は一人も存在しないことになった。この結果、「銀漢各部の名称」は不要とされたため、「銀漢各部の名称」は存在しないことになった。

◆前述したように、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡によって漢字は発明された。
 このブログの前々回「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12」の後半部で具体的に解説したように――「歳差(さいさ)」とよばれる天文現象を利用すると――今から約5000年前の中国全土各地の天頂にめぐってきた銀河部の様子を再現できる。
 つまり、〈現在の北極の位置〉から70度過去の方にもどった〔黄道の北極〕を中心とする円周上の点が《黄帝時代の天の北極の位置》となる。また、〈現在の春分点の位置〉から70度過去の方にもどった〔黄道の北極〕を中心とする円周上の点が《黄帝時代の春分点の位置》となる。
 このような《黄帝時代の天の北極と春分点の位置》にもとづくと――下図に示したように、黄帝時代初頭には「四つ目の銀河」と「十字の銀河」が中国全土各地の天頂にめぐってきた事実を解明することができる。
 「四つ目の銀河」は、すぐ前にて表示した「夏の銀河各部の名称図」における左上の「鬼の姿に似る銀河のうちの、鬼の横顔に似る銀河」の別称である。この「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河」の東隣が「十字の銀河」である。「十字の銀河」は「夏の銀河各部の名称図」における左上にある。
 下図〔黄帝時代の黄帝陵と長江口の緯度線と四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の図〕における北緯3535分は、黄帝を祭る廟にして墓とされる黄帝陵(こうていりょう/陝西省黄陵県橋山)の天頂緯度となる。黄帝陵は黄帝を祭る廟(びょう)にして墓とされる。
 下図における北緯3130分は、中国南部の長江口(ちょうこうこう/長江の河口となる湾)の天頂緯度線となる。というのも、紀元前1世紀に成立した司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝の箇所は「黄帝は、天下に順(したが)わない者があるとその度に征伐し、平定するとたち去った。山を開いて道を通じ、一度も安んじて生活したことはなかった。東のかた海に至って、丸山(がんざん)に登り、岱宗(たいそう)にもおよんだ。西のかた空桐(くうどう)に至り、鶏頭(けいとう)に登った。南のかた、江(こう)に至った」と記しているからである。この文末の「南のかた、江に至る」の「江」を、わたくしは「長江口」と解釈した。これゆえ、下図には長江口・北緯3130分の緯度線を表示することにした。
0000162
◆上図の下部にある「鬼の横顔に似る銀河図」に示したように、この銀河には【目の形が四つある】ゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」ということになる。
 倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という「四つ目の怪人」がいて、始めて文字(書契)を創(つく)り、古来(三皇時代)の結縄(けつじょう)に易()えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、三皇時代に生存した包犠(ほうぎ)氏・女媧(じょか)氏・神農(しんのう)氏の死霊が感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたというのである――と説明する。
 これゆえ、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」という表現に衝動的に反応して思考停止した学者たちは「人間には目が四つ無い! だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定した。この早合点のため、現在の学界は「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよばれた学問におけるきわめて大事な真実を失った。
 倉頡伝説は「三皇時代に生存した氏族(包犠氏・女媧氏・神農氏)は倉頡が【夜な夜な空に輝く銀河各部の形状を文字(字源・字形・字義)】と定めた倉頡の発明によって、自分たちの歴史が後世に伝えられることになったことに感激して泣いて慈雨(じう)を降らせて地上に豊かな穀物()をもたらせた」と説明している。だから、「四つ目の怪人・倉頡」という表現は、上図における【三皇時代と五帝時代、中国全土各地の天頂にめぐってきた、四つ目の銀河】を指していたことになる。したがって、早合点しないで倉頡伝説を慎重に読解していれば、倉頡伝説は「漢字は夜な夜な現れる銀漢から作られた文字であるから、略して漢字とよばれることになった」と伝えていたと解釈できた。ゆえに、現在の学界の「倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメである」という定説は空理空論、根本的に誤っている。
 「四つ目の銀河」は【倉頡が発明した漢字作成理論における最も重大な中核部】となる。だから、「倉頡が発明した漢字作成理論における重大な中核となる四つ目の銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と表現したのである。

◆太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」は約900余字で構成される。
 「古事記上巻 并せて序」の中半記事は『古事記』という書名となった「天武天皇の『帝紀及び上古諸事の記定の歴史書編纂』の企て」について説明している。
 この記事の後半には――天武天皇が「朕(われ)が聞くことによると、諸家で承け伝え以ている帝紀及び本辞(ほんじ)は、云々(うんぬん)」と詔()りたまわった――という文がある。したがって、『日本書記』天武紀における天武天皇10(681)317日の記事は――天武天皇は川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した――と記述するものであったゆえ、「帝紀及び本辞」の「本辞」は「上古の諸事の記定」、つまり「本辞」とは「『古事記』上巻の原典」であったことになる。
 この時(681317)の天武天皇の命令の記事の後には、「時に舎人(とねり)がいて、その姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年は二十八歳であった。生まれつき聡明であり、目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」と記す文がある。
 この〔稗田阿礼の誦習記事〕における「目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す」という文は、下図に示したように「漢字は銀漢から作られた文字であるから、漢字とよばれることになった」という真実を伝えている。
 倉頡は「その西半分に乳房や子宮がある、十字の銀河」を「夏の銀河各部から作った全文字が生まれる母体」――言いかえると、下図に表示したように「十字の銀河」を「夏の銀河の全像に見立てる」いう法則を定めた。また、倉頡は「十字の銀河の子宮」は「夏の銀河から作られた全漢字が生まれる子宮」と定めた。
 〔稗田阿礼の誦習記事〕を4つに分けると――()「目に度れば」、(2「)口に誦み」、()「耳に払るれば」、()「心に勒す」となる。
 〔稗田阿礼の誦習記事〕における()「目に度れば」という文は――「東の鬼の横顔に似る銀河にある両目から、西の鬼の横顔の後頭部とアゴにつく両目までの形状」を表現するものとなる。つまり「四つ目の怪人・倉頡の銀河の東の両目から西の両目までの状況」を「目に度れば」と表現している。
 次の()「口に誦み」は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口」のイメージを「阿礼が口から小声を出して吟じて夏音文字の詞の文章を暗誦した」と表現していたことになる。
 ()「耳に払るれば」という文は――「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」を〔耳〕に相似すると見立てたくも、「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」は「鬼の横顔に似る銀河」に対して「耳」の位置から離れて外(はず)れているゆえ――「耳に払るれば」は「耳に雑音や雑念が入るのを払って、口に誦む小声が夏音文字の字源・字形・字義となる銀河の形状イメージをあらわすように吟ずる」と意味したと考えられる。
 ゆえに()「心に勒す」という文は、まず下図における「鬼の姿に似る銀河における心臓部」を「心」に見立てて、「吟ずる音声を噛みしめて心に記すようにした」と意味したことになる。というのも、[]の字義「獣の皮をなめした、かたいゴワゴワしたなめし皮」の段階は未だ完成するものなかったゆえ、人が口に咥(くわ)えてアゴを動かして上下の【歯の力】をふるしぼって何度も何度も噛んで、やわらかにして完成させたからである。だから、[]の字は「なめし皮の完成」をあらわして、[]に「歯の力」の[]を加えることになった。ゆえに、「心に記す」の「記(しる)す」という字は[]が用いられた。だから、「心に勒す」とは「口からもれる吟ずる小声を噛みしめて心に記した」と意味したことになる。
 現在の流行歌手が何百曲もの歌詞を暗誦していると同じく――稗田阿礼は小声で歌う(吟ずる)ようにして記憶力を増大させて、夏音文字が連なる詞の文章を暗誦していた。前述したように、【倉頡が死刑と定めた掟】にて「書いた文字が用済みになったならば必ず消さなければならない」と定められていた夏代の文字が連なる詞の文章は文字にして長年残すことができなかったゆえ、記憶力を増大するために小声(小さい音声)で歌うようにして短時間(数か月、または一年足らず)で覚えたならば書いた文字は消滅させなければならない「音文字」であった。だから、「夏代の文字の字音(吟ずる小声の歌)」には「記憶力を増大させる役目」があったゆえ、文字の名称には[]がつけられて「夏音文字」とよばれることになったにちがいない。
 以上のごとく、下図に示したように〔稗田阿礼の誦習記事〕は「銀漢から作られた文字」であったから略して「漢字」とよばれたという真実を説明していたことになる。
0000164
◆伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の〔淤能碁呂島の聖婚説話〕に記述された。
 これゆえ、太安万侶は「古事記上巻 并せて序」の末部にて――楷書「日下(にちげ)と夏音文字「玖沙訶(くさか)」の同義をもって「淤能碁呂」という語を示唆し、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」と同義をもって【日本建国の〔愛〕の理念】があらわされることになった。
 下図に示したように――伊豆諸島の神津島(こうづしま)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「愛」が連想される「女性の子宮」に見立てられた「十字の銀河の子宮の形」に相似する。
000032_20220813132801
 約3万年前の後期旧石器時代から、神津島からは皮はぎや肉切り用・稲の穂を刈り取る石器(石包丁)はじめ石槍・鏃(やじり)・斧(おの)や鉞(まさかり)の刃となった良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代の3世紀まで、神津島の黒曜石は本土(関東地方、東海西部、近江・滋賀県、北陸・石川県能登半島)まで運ばれて利用されていた。ゆえに、「神津島」は「日下=玖沙訶」の語義、つまり「黒曜石」をあらわし、また「淤能碁呂」という語もあらわすことになった。
 日本列島地図に明確に示されているように――日本列島の西端には、九州の玄界灘に浮かぶ沖ノ島が所在する。そして、神津島は日本列島の東端に所在する。沖ノ島と神津島は北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13」にて指摘したように
――下図の左側にある〔中国海岸線地域の北部〕は〔中国の海岸線地域の南部〕よりも〔冷たい気候区〕であり、〔中国海岸線地域の南部〕は〔中国海岸線地域の北部〕よりも〔暖かい気候区〕である。ゆえに、〔中国の海岸線地域〕は〔北冷南暖〕となる。
 他方、〔日本列島の西端にある沖ノ島〕では〔冬に雪が降る冷たい気候区〕であるゆえ〔西冷〕となり、〔日本列島の東端にある神津島〕は〔冬でも雪が降らない亜熱帯の暖かい気候区〕であるゆえ〔東暖〕となる。
 〔中国の北部海岸線地域〕の〔北冷〕と〔日本列島の沖ノ島〕の〔西冷〕は共に〔冷たい気候区〕、〔中国の南部海岸地域〕の〔南暖〕と〔日本列島の神津島〕の〔東暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 したがって、下図に示すように――〔冷たい気候区の、日本列島の西端の沖ノ島〕は〔冷たい気候区の、中国海岸線地域の北部〕に合致し、〔暖かい気候区の、日本列島の東端の神津島〕と〔暖かい気候区の、中国海岸線地域の南部〕は合致する。
 だから、卑弥呼王朝は「沖ノ島がある日本列島・本州の西端は中国海岸線地域の北部側にある、つまり西→北」、言いかえると「本州地理の方位は時計回りに90度転回する」と考え、また同様に「神津島がある日本列島・本州の東端は中国海岸線地域の南部側にある、つまり東→南」と「本州地理における方位は時計回りに90度転回する」と定理したのである。
S15_20220813132901
◆邪馬台国説学者たちが「『魏志倭人伝』は多数の誤記を有する」と主張する意見を全面否定して1ヵ所も【誤読】を加えなければ――『魏志倭人伝』は下図のごとく「日本列島・本州の方位は時計回りに方位が90度転回していた」と説明していたことになる。
 下図に示す【時計回りに方位が90度転回する、日本列島における本州】を、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚説話では「淤能碁呂島」と名づけた。
 その証拠に――[]の字義は「泥(どろ)」、[]は「能(くま)が冬ごもりする横穴(緯度)は竪穴(経度)となる」と意味し、[]は「碁石のような小さな沖ノ島と将棋の駒のような形をした神津島」をあらわし、[]は「[]の上の[]は沖ノ島、下の[]は神津島、上下の[]を連結する縦線は沖ノ島と神津島を結ぶ同一天頂緯度線」を示した。ゆえに、「淤能碁呂」という語は「日本列島・本州の地底は緯度軸が経度軸になるようにやわらかい淤(どろ)のようになっているゆえ、『魏志倭人伝』が説明するとおりに本州の方位は時計回りに90度転回する」と意味した。
S14_20220813133001
 前述した倉頡伝説が「天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、三皇の氏族の死霊は夜な夜な感激して泣く声(つまり、天から降る慈雨)が空(銀河から)聞こえるようになったという」と伝えるように――倉頡は[]の字を作った。
 下図に示すように、倉頡は「十字の銀河」の中央に[]の図書を重ね、〔禾の穂は、「十字の銀河」の南から時計回りに90度転回して西へと垂れる」と定めた。というのも、[]の「稲」の生育適性地域は「長江口がある、中国の南部」だからである。だから、倉頡は〔「十字の銀河」の南から西へと時計回りに90度転回して垂れる〕と定めた。というのも、〔禾の穂を時計回りに90度転回する〕と〔禾の穂は「人の口に相似する、四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口・舌」に向かって垂れる〕ようになるからである。
 ゆえに、[]の字は()「時計回りに90度転回する方位規定」と()「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、つまり人民たちの胃袋を食物で満たす状況」をあらわすことになった。
K115_20220813133101
 上図に示したように、倉頡が作った[]の字源・字義は「時計回りに90度方位が転回して、北→東・東→南・南→西・西→北となると定めた方位規定」、すなわち「緯度線が経度線へ代わる定義」をあらわした。
 上図に示したように、[]の字源の「転回方位規定」は、[]の下に[]が加わる[]の字に受け継がれ、また人偏に[]が加わる[]の字にも受け継がれた。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』は「対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)は南北となる」と記述する。現在の地図において対馬は壱岐の北、壱岐は対馬の南に在るゆえ、対馬国と一大国では[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」が成立しない。
 しかし、上の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕に示したように、その「本州地理における方位規定」は[]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」に合致する。
 だから、卑弥呼は国家名を「倭国」と定めた。「倭国」の正式名は「倭人国」である。「倭人国」の[]の字源銀河は「四つ目の銀河(四つ目の怪人・倉頡の銀河)」であった。だから、倭国は()「倉頡が作った[]の字源の方位が時計回りに90度転回する本州地理」と、()[]の字源となった人民たちの胃袋を食物で満たす国家」であったゆえ、卑弥呼は国家の正式名を「倭人国」と定めたことになる。
 新井白石以後の邪馬台国説学者たちとわが国の学界は、『魏志倭人伝』は――卑弥呼王朝は「時計回りに90度転回する、本州の方位規定」を制定していた――と記述するものではないと断定する。ゆえに、邪馬台国説学者たちと学界は『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えないと解明されて全体的に合理となる【科学】が成立する「転回本州地理」を無視して排除する空理空論の邪馬台国説を「学説」と称して正しいと思い込む。
 上図の〔[][][]の字源銀河解説図〕が示しているように、邪馬台国説は卑弥呼が統治した国家名「倭人」の字源・字形・字義に反する。だから、邪馬台国説は【誤読の空論】、真っ赤なウソ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しないすべてがインチキの、「学説」の体(てい)がまったくなしていないデタラメということになる。

◆前述したように、「古事記上巻 并せて序」の末部は――楷書「日下」は夏音文字「玖沙訶」と同義であると指摘する。
 「日下」の語源は下図における「三つ輪の銀河」であった。ゆえに、「日下」は「太陽()が没して真っ暗になる夜空の東の地平線(水平線)から昇る三つ輪の銀河」、あるいは「黒曜石の輝きのごとく、キタキラと煌(きら)めく無数の小さな星屑が集まる三つ輪」であった。
 下図に示したように、「十字の銀河の子宮」は「日の銀河・三つ輪の銀河の下」にある。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13」にて詳細に解説したように――[]の右側の[]の字源は「お灸」のイメージとなる「十字の銀河の子宮」である。「三つ円が重なる、三つ輪の銀河」の「円」は[]をあらわすゆえ、「十字の銀河の子宮」の[]と組み合わさって[]の字を形成した。貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢和中辞典』(角川書店発行)[]の字義は「玉に次ぐ黒色の美石」であると指摘する。ゆえに、「玉に次ぐ黒色の美しい石」は〕「黒曜石」であったことになる。
 黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」であった。ゆえに、「黒曜石が放つガラス光沢の美しい輝き」は「夜の砂漠や砂浜においてキラキラと美しく煌めく沙(すな)の輝き」を意味した。ゆえに「三つ輪の銀河の小さな星屑の輝き」と「十字の銀河のキラキラと美しい輝く煌めき」は[]をあらわした。
 「十字の銀河の子宮」は「斧や鉞(まさかり)の刀身の形」に相似する。太古や上古において「黒曜石を刃とする斧や鉞の作成には、樹木を切る鋸(のこぎり)の刃となる黒曜石の剥片(はくへん)や木製の刀身や柄()を削るための鉋(かんな)の刃となる何種類かの黒曜石の剥片、また様々な最高の技術が必要となり、さらに一つ一つの作業を「可()、良し」と慎重に確かめて進めることになり、そして刀身の先端の黒曜石の刃の具合や柄と刀身の結合が不具合であった場合には作業を何度も何度も前にもどして成功するまでやりなおさなければならなかった。ゆえに、斧や鉞が完成した時には、思わず「歓声、歓喜・感激の訶(うた/歌)」がわき出た。
 だから、楷書「日下」と夏音文字「玖沙訶」は共に「禾の穂(稲穂)を刈り取る石包丁や、斧や鉞の刃となる黒曜石」を意味して同義となった。
0000158_20220813133201
◆倉頡は「十字の銀河」を「夏の銀河各部から作られたすべての文字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮」を「すべての文字が生まれる子宮(女性の生殖器官)」と定めた。これゆえ、「十字の銀河」と「十字の銀河の子宮」とで字源・字形・字義が成立した楷書の[]と夏音文字「多羅斯」は共に「子を思う親心、愛」をあらわした。
 下図に示したように、「十字の銀河」は「多数の文字を生む母体」であったゆえ、「十字の銀河」は「多数」の[]の字源・字形・字義となった。
 「多羅斯」という語の中央の[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)[(もう)]の下に[(すい)]が加わる。[]の字義は「網(あみ)」、[]の字義は「小鳥」である。ゆえに、[]の契文形は「糸で編んで作った、小鳥()を捕まえる目のこまかい道具の網」をあらわした。
 だから、[]の字源「十字の銀河」は「太古・上古において、天頂緯度線と子午線の網の目が細かい・精確に緯度と経度(子午線)が測量できる羅針盤」であったことになる。
 下図に示したように、「多羅斯」の[]の字源は「十字の銀河の胸部から四つ目の銀河の前頭部までに垂れる、長い帯状の銀河部」である。また、「十字の銀河の子宮と重なる腹部(乳房にも観える)から四つ目の銀河の口までに垂れる、短い帯状の銀河部」も[]の字源となる。ゆえに、[]の字源「長い帯状の銀河部と短い帯状の銀河部の状況」は「垂()らし」ということになる。
 だから、「多羅斯」は「垂らし」であったゆえ、「多羅斯」は「母」と「父」の両親の枕詞(まくらことば)の「垂乳根(たらちね)」の語源であった。ゆえに、「多羅斯」は「母」を指す「垂乳女(たらちめ)」、「父」を指す「垂乳男(たらちを)」の語源であった。その証拠に、[]の字源「長い北側の帯状の銀河部」は「М39」とよばれる散開星団(さんかいせいだん)と重なる乳房から垂れ、[]の字源「短い帯状の銀河部もまた」もまた「十字の銀河の子宮」と重なる「乳房」と解釈できる部分から垂れる。したがって、「二本の帯状の銀河部」は「垂乳根」、「垂乳女」、「垂乳男」の語源であったことになる。
 だから、「垂らし」の[]の字源「二本の帯状の銀河部」が[]の字源であった。
 なお、「十字の銀河の子宮」と重なる「十字の銀河の腰部」は「着物の上から腰の上に巻いて結ぶ長い布の、帯」のイメージとなる。したがって、「十字の銀河の腰部」も[]の字源となったと考えられる。
0000161_20220813133301
◆太安万侶は「古事記上巻 并せて序」の末部で――楷書「日下」と夏音文字「玖沙訶」は共に「黒曜石」で同義である――と説く。ゆえに、この説明で、前述したように安万侶は「約3万年前から、良質な黒曜石が産出した神津島」が連想できるように仕組み、さらに『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話が連想できるように企てたことになる。
 また上記したように、太安万侶は――楷書「帯」と夏音文字「多羅斯」の語義は共に「垂らし・垂乳根・垂乳女・垂乳男」であり、ゆえに「子を思う母と父の愛」をあらわす――と説いている。だから、楷書「帯」と夏音文字「多羅斯」は同義であるという指摘は『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に記された〔伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】〕をあらわした。
 前述したように、『古事記』上巻は皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚した反逆の歴史書であった。だから、元明天皇は『古事記』献呈を拒絶して焚書(ふんしょ)しようとした。
 『古事記』編纂スタッフの一員であった山上憶良は「『古事記』は元明天皇に焚書されて後世に残らずに消滅する」と悲嘆し、あるいは「焚書されてたまるか、『古事記』が後世に残るように何か方法を模索(もさく)しなければ」ならないと悲憤して――『万葉集』802番の長歌と803番の短歌を作った。
 憶良は802番の題詞を、太安万侶が作った「古事記上巻 并せて序」という題末尾の「并せて序」という語をそのまま拝借して「子等を思ふ歌一首 并せて序」と定めた。
 『万葉集』「子等を思ふ歌一首 并せて序」という題詞の後には、()説明文と()802番の長歌と()803番の反歌(はんか)がある。
 前述したように――「子等を思ふ歌一首」と題詞を定めながら、802番の長歌と反歌の803番の短歌の二首があるから「一首」という指摘は不合理・矛盾しなかった。というのも、太安万侶が作った「古事記上巻 并せて序」という題に見立てて、憶良は「子等を思ふ歌一首 并せて序」と題詞に定めたからである。また、憶良は「古事記上巻 并せて序」の末部に配した楷書「日下」は夏音文字「玖沙訶」と同義・楷書「帯」は夏音文字「多羅斯」と同義という説明を要約して、()802番の長歌を作ったからである。だから、「子等を思ふ歌一首 并せて序」という題詞と802番の長歌は共に「古事記上巻 并せて序」にもとづいて一セットとなるゆえ、「子等を思う歌一首」という題詞は合理となる。
 したがって、憶良は「古事記上巻 并せて序」と分かれて独立した「『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話」に記された伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を具体的に明確にあらわすために、()『万葉集』803番の短歌を作ったことになる。
 釈迦如来(しゃかにょらい)には、「ラゴラ(羅睺羅」という名の子がいた。
 「子等に思ふ歌一首 并せて序」と題する文章は――お釈迦さまはその尊い口で「衆生(人民たち)を平等に思う気持ちはわが子ラゴラを思う愛情と同じである」とお説きになられた。また「愛は子に勝るものはないと」お説きになった。こんな至高の大聖人でさえも「わが子を思う愛情に勝るものはない」ということであるゆえ、ましてこの世の一般の人々にあっては誰が子を愛さずにおられようか――と説明している。
 この説明文をもって、憶良は「古事記上巻 并せて序」を要約すると――衆生・人民たちに敬愛された伊耶那美命は淤能碁呂島の聖婚儀式において「子等を思う愛」を小国・日本の建国理念に定めた――と表現するものであったことになる。
 ゆえに、憶良が作った『万葉集』802番は900余字からなる「古事記上巻 并せて序」の記事を要約する和歌であった。この802番の和歌で、憶良は「『古事記』上巻は伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために編纂された」と指摘した。
 この802番の長歌は、下記のごとくである。

  瓜(うり)()めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより
  来(きた)りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ(802)
 〔子どもたちと遠く離れた地に旅して 瓜を食べていると 子どもらが思い出される 栗を食べていると さらにまして偲ばれる どこから 来たものなのか 目の前に しきりにちらついて 腹がへってひもじい思いをしていないか心配で心配で我を眠らせてくれない〕

 憶良は――小国・日本が誕生した伊耶那岐命(18)との淤能碁呂島の結婚式にあって、13歳の乙女・伊耶那美命は新郎の伊耶那岐命より先に夏音文字10字の「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という言をもって宣言して「さあ、小国の日本の男(おのこ)たちよ妹(も/妻)を愛して子どもをたくさん生む、この【愛】を日本建国の理念といたしましょう」と提唱した――と指摘して、下記のごとくの803番の短歌を作った。

  銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも(803)

 だから、803番で憶良は「日本人にとって【日本建国の〔愛〕の理念】は何ものにも勝って最も尊いものであり、【愛】は永久不滅でなければならない」と述べている。

◆山上憶良は、神亀(じんき)五年(728)七月三日にも「并せて序」という語を題詞に用いる「惑(まと)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首 并せて序」という題の、『万葉集』800番と801番の二首を作っている。ゆえに、800番と801番の二首は「古事記上巻 并せて序」にて解説する【小国・日本の誕生史】と淤能碁呂島聖婚説話に記された【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む。また、800番と801番は『古事記』が元明天皇に献呈拒否された712(和銅5)から16年後に作られたことになる。
 憶良の「子等を思ふ歌一首 并せて序」と題する802番と803番は、801番に続く二首ゆえ、憶良は728(神亀5)以後に作ったにちがいない。憶良は733(天平5)頃に74歳前後で没したと考えられている。ゆえに、801番と802番は死去する5年前後頃に作ったことになる。したがって、802番と803番は没年間近い年に作ったことになる。死去が近づいたことを察知した憶良は【日本国誕生史と、日本建国の〔愛〕の理念】を詠む802番と803番の二首を作ったのである。

 『万葉集』は大伴旅人(おおとものたびと)の長男の大伴家持(おおとものやかもち)が一人で編纂したという説が有力であるが――『万葉集』という書名となった事情を説明する『続日本記(しょくにほんぎ)』の736(天平8)1111日の記事はじめその後の経緯を追究すると、『万葉集』は橘諸兄(たちばなのもろえ)と大伴家持が共撰(きょうせん)するものであっことが手にとるように明らかとなる。これゆえ、『万葉集』は巻一から巻十六までを746(天平18)から753(天平勝宝5)までに橘諸兄が編纂し、大伴家持は巻十七以後を764(天平宝字8)正月までを編纂し、橘諸兄が編纂した巻十六に手を加えて778(宝亀9)1月に『万葉集』を完成させたことになる。
 『万葉集』815番から846番までの32首の題詞にも「并せて序」という語が加えられて、「梅花(ばいか)の歌三十二首 并せて序」と題されている。この題の冒頭は「天平二年(730)正月十三日に、大宰帥(だざいのそち)大伴旅人の邸宅に集まって、宴会をくりひろげた」と説明している。この説明の後に「時に、初春の令月(れいげつ/正月)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやはら)く」という文が続き、この文にある[][]によって、現在の「令和」という元号が定められた。
 なお、大宰帥の大伴旅人も山上憶良と同様に『古事記』編纂スタッフの一員であった。
 だから、「令和」という元号となった「梅花の歌三十二首」もまた【日本国誕生史と、日本建国の〔愛〕の理念】をテーマにして詠む和歌であったことになる。
 『万葉集』では「梅花」は「伊耶那美命」を象徴し、「伊耶那美命」を意味した。815番から846番までの「梅花の歌三十二首」には、「正月」、「春・春日」、「梅の花」、「雪」など「伊耶那美命」を象徴・意味する語が用いられて、【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命を讃えている。
 以上のごとく、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字は――「銀漢から作られた文字」を省略して「漢字」と名づけられた。だから、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の字源・字形・字義と幾つかの楷書の字源・字義を銀漢各部の形状に変換すれば真実の歴史が解明できる――と警告していたことになる。
 したがって、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけれたという真理を無視した本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著した注釈書『古事記伝』にもとづいて立論する――現在の「『古事記』上巻は歴史を語るものではない」と主張する定説は学問の基本・基礎を知らない・学説の体(てい)をまったくなしていない、【多数の誤読】を駆使して立論した【科学】が成立しない空理空論、真っ赤なウソであったことになる。

| | コメント (0)

2022年7月23日 (土)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった
★わが国には5000年前に漢字が起源した学問が伝来していた・2


◆学者たちやマスメディアが
 日本国民を洗脳しようとする
 邪馬台国説はすべて真っ赤なウソだ!
 びっくり仰天・玉手箱!
 日本神話学説も 邪馬台国説と同じで
 すべて真っ赤なウソだ!
 邪馬台国説と日本神話学説は
 誤読・誤訳でデッチあげた
 日本国民をテッテイ的に侮辱する
 日本国と日本人の尊厳を木っ端みじんにぶっ壊す
 デタラメ、インチキ、真っ赤なウソだ!

◆2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志倭人伝』は、晋王朝につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)によって、280年~289年に著作された。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えなければ「倭女王・卑弥呼は居住していた地所(倭国の首都所在地)の名は〔邪馬台国〕ではなく、【邪馬壱国(やまいこく)】であった。邪馬壱国の中心は旧国・山陰の出雲(現在の島根県東部)であった」と、容易に【科学】が成立して証明することができた。
 しかし、学者たちは【『魏志倭人伝』に多数の誤読を加える考え方こそが正しい】と思い込む。この論法が原因で、学者たちのすべての意見は【科学】が成立せず、すべての学者たちの意見は空想・空理空論・デタラメであった――という、この事実にわが国の学界はじめマスメディアはまったく気づいていない。
 ためしに、【現在の日本地図と同じ倭人国地理における方位観】に則(のっと)る考え方をいっさい止めて、『魏志倭人伝』の方位記事のままに倭地理の方位観(つまり、【誤読】を1ヵ所も加えない卑弥呼王朝が制定した日本列島・倭地理方位観)のとおりに読解すれば――全員が全員、『魏志倭人伝』が記述したとおり「邪馬壱国は山陰・出雲地方であった」と伝えていたという意見となる。
 『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない、正確無比の歴史書であったである。

◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』は「倭人国」と国家名と「卑弥呼」という女王名はじめとする倭人国の実力者たちの人名と、対馬国から狗奴国(くなこく)までの30の小国名と旅程記事をもって、()今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存していた黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した【漢字作成理論】と()【今から約4000年前の夏音(かおん)文字の学芸】を習得していたと説明していた貴重な文献であった。
 つまり、『魏志倭人伝』は「今から約4000年の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国に夏音文字の学芸が伝来し習得した時、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した。ゆえに、2世紀末~3世紀紀前半に生存した卑弥呼は対馬国から狗奴国までの30の小国名を10ヵ国ずつ3グループに分けて【倉頡が発明した漢字作成理論】を解説するシステム(体系)にした」と説明していた特筆すべき歴史書であった。
 倉頡は[()](字義は「イネや麦。穀物」)の字を考案し、[]の字源・字義を「東西の緯度軸は、時計回りに90度転回して南北の経度軸となる」と定めた。この「緯度軸が時計回りに90度転回して経度軸となる」という倉頡の定義は、[]の下に[]が加わる[()]の字に受け継がれ、人偏に[]が加わる[]の字に受け継がれ、[]の字にも受け継がれた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文をもって、「卑弥呼王朝は【倉頡が作った[]の字源・字義】の基(もと)に、日本列島において〔西〕に所在する九州は〔北〕、日本列島の東端の伊豆諸島は〔東〕ではなく〔南〕に所在すると定理する転回日本列島・本州地理を制定した」と説明していたことになる。
 しかし、学界はじめすべての学者やマスメディアは「日本列島の東が南に延びるなんてことは、絶対にありえない」と主張して、『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える論法こそが正しいと頑固に思いこんでいるがため――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える、【誤読】を1ヵ所も必要としない正確無比の歴史書である事実にまったく気がつかない。
 学界と学者たちとマスメディアは、新井白石(16571725)がとなえた【誤読の空理空論の邪馬台国大和説と邪馬台国九州説】に心と魂をうばわれた従順な奴隷となるため、『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える論法に固執(こしつ)する。この白石以後の学者たちによる【多数の誤読】を加える邪馬台国説のために、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】は排除され無視されて、世界的にとってもわが国にとっても重大な歴史の真実が排除されて無視されて失われた。

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12」でも詳細に科学的に解説したように――『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭34(注 34字の書き下し文はすぐ後ろに記述する)による文章もまた、『魏志倭人伝』と同様に「後期縄文時代初頭、中国から【夏音文字の学芸と、倉頡が発明した漢字作成理論】が伝来したとき、東日本における「乾」と「坤」つまり「天」と「地」のイメージを【渦巻文】で表現した前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2千年間におよんで土器・土偶を作った芸術家たちによって【夏音文字の学芸と、倉頡が発明した漢字作成理論】が習得された」と説明していたことになる。
 というのも、倉頡は【漢字作成理論】にて「夏の銀河各部のイメージ(心象)を字源・字形・字義とする」と定め、わが国の東日本の縄文の芸術家たちは「夏の銀河各部の形状のイメージ(心象)」を土器・土偶を作って表現した。このため、【倉頡の漢字作成理論】に則(のっと)って作られた漢字の[][][][]の字源・字形・字義の定義を東日本の縄文の芸術家たちは理解することができた。さらに[][][][]の字源・字形・字義に限らず、【倉頡が発明した漢字作成理論】によって作られたそのほかの銀河文字(夏の各部の形状を字源・字形・字義とする五帝時代と夏代初頭の漢字)を――「夏の銀河各部の形状のイメージ」を土器・土偶を作って表現した東日本の縄文の芸術家たちは理解できたのである。
 したがって、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)が伝えているように――今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】を習得していたことは歴史上の確かな事実であったのである。

 したがって、学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という見解に騙(だま)される絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)を【誤読】して捏造(ねつぞう)した空想・空理空論であった。
 その証拠に、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して――下記のごとく「わが国の国語として残っている漢字音が、中国に現存する最古の漢字音よりも古い、現存する最古の漢字音である」と指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として残っている『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている夏音文字の漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。
Photo_20220723160801
 上の〔漢字生長史〕に表示したように、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて残っている「夏音文字の漢字音」を、わが国は今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来した時に習得した。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は上の〔漢字生長史〕にあって紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ゆえに、わが国が中国の夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国の上古音よりも約1000年前の・現存する最古の漢字音となる。
 ところが、〔漢字生長史〕が示すように「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は中国の上古音よりも新しい。ゆえに、上記したように〔漢字生長史〕の最下部に配置される。だから、学界が定める漢字習得の絶対的な定説は根本的に誤っている、ウソ・錯覚・空想であることが否定できない事実となる。

◆『古事記』は反逆の歴史書であった。
 『古事記』が成立した8世紀初頭、朝廷は「皇室が最も偉大な先祖であると崇拝する皇祖・天照大神(10代・崇神天皇母子)の聖性を絶対に汚してならない」と厳重に禁止した。この時の律令体制に歯向かって、『古事記』上巻は「伊耶那美命と伊耶那岐命は国民にとって最も崇拝し敬愛する、天照大神よりも偉大な先祖である」と伝える、反逆の歴史書であった。
 ゆえに、律令国家体制に背いてなんとしても真実の歴史を後世に残したいと願った編纂スタッフは【『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの楷書の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、歴史が解明できる方法】を企てた。
 この【『古事記』上巻における歴史解明方法】を、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭34字をもって、『古事記』を献呈する元明天皇には読解できない難解きわまりない文章をもって説明することにしたのである。
 したがって、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12」で詳細に解説して証明したように――「古事記上巻 并せて序」の冒頭の34字の「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す」(振り仮名無し)という文は【古事記上巻に記述された歴史を解明する方法】を説明していた。
 この【「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文】は、後世の学識者たちならば必ずや文字面だけの表層レベルのみで読解せずに深く思索して読解するにちがいないと信頼して、太安万侶が作成した文章であったことになる。
 1725年に死去した新井白石より以前に生存した前人たちは「漢字」は【夏の銀河から作られた文字であるという素養】を有していた。ゆえに、彼らは「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文は【歴史解明方法の説明文】と解し、次の11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は【『古事記』作成目的】を説明していると正しく読解することができた。というのも、代々の天皇や上皇はじめ、様々な宗派の高僧たち、そして源頼朝や足利将軍たちや織田信長や徳川家康は【漢字は夏の銀河から作られた文字】という素養にもとづいて「古事記上巻 并せて序の全文」を正確に読解したからである。
 要するに、太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の全記事は【漢字は夏の銀河から作られた文字であるという事実】に気づいて深く思考し思索すれば正確に読解できる。
 現在の学者たちは【中国とわが国は、「銀漢(夏の銀河)から作られた字」を略して「漢字」と称することになった事実】にまったく気づいていない。ゆえに、織田信長や徳川家康が正確に読解できた「古事記上巻 并せて序」の全記事に対して、その文字面・その表層のみを読んで満足するため、【誤読】し【誤訳】し【誤解】する。だから、新井白石以後から現在までの学者たちは、『古事記』上巻は【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字形の原形・原義を夏の銀河各部の形状に変換して読解する歴史書にして確かな文献】であることにまったく気づかない。

◆卑弥呼の歴史上に登場した180年ころより60年前の120年ころに成立した後漢時代の文字学者の許慎(きょしん)が著作した字書『説文解字(せつもんかいじ)』における大半の字源解説は【慎重に言葉を選んで用心深く、夏の銀河の各部の形状を説明するもの】であった。
 中国でも、時の王朝に歯向かって【漢字の字源・字形の原形・原義の秘密】や【真実の歴史】を後世に伝えようとした人物は【文字(漢字)の字源・字形・字義を、夏の銀河各部の形状に変換する方法】を利用した。
 ゆえに、【「漢字は銀漢から作られた文字」という素養を有する人々】に向かって、『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」と説く文がある。
 つまり、上記した『説文解字』の序の文は「文字は学問と芸術の根本であり、王道政治においていちばん真っ先に絶対に必要な権力基盤であり、夏の銀河各部の形状を観察して字源・字形の原形・原義を知れば前人がおこなった古代の歴史の真相を後人が知ることが出来る方法である」と説明するものであった。
 ゆえに、『説文解字』の大半の字源解説は【慎重に言葉を選んで用心深く、夏の銀河の各部の形状を説明するもの】であったことを知っていた代々の天皇や上皇はじめ、様々な宗派の高僧たち、そして源頼朝や足利将軍たちや織田信長や徳川家康は夏の銀河の各部の形状を観察して【古事記上巻 并せて序の全文】を正確に読解できた。

 中国の各代王朝は「漢字が夏の銀河から作られた秘密を暴露する者は、即刻に死刑にする」と定めていた。この政策に歯向かった紀元前5、4世紀に生存した老子(ろうし)は『老子』上篇(道経)37の章をもって「漢字は夏の銀河から作られた学問の秘密」を説明した。
 有名な『老子』第二十章冒頭の「学を絶てば憂(うれ)い無し」は「漢字が夏の銀河から作られた学問を復興して世に広める運動を断念すれば役人に捕らわれて死刑になると心配する必要は無くなる」と意味した。第二十章末部の「我れ独(ひと)り頑(がん)にして鄙()に似る。我れ独り人に異なりて食母(しょくぼ)を貴(たっと)ぶ」という文は「我れ一人頑固に、正しい字源を研究するために夏の銀河の各部が鮮明に見える灯火の無い真っ暗闇の辺鄙な田舎に住む住人のごとく日々を過ごしている。我れ一人世間の人々と異なって文字が銀河から作られた学問が絶えないように捨て子を育てる養母・乳母(うば)のように、銀河から生まれた子の文字の学問を貴(たっと)んでいる」と表現するものであった。
 老子を代表する思想と言えば「足()る知る」、「禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫()く」、「知足(ちそく)の足は常に足る」などと表現された「知足」である。この「知足」は【夏の銀河を観察して宇宙を支配する真理を知ることができる倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を指していた。ゆえに、「知足」は「権力・名声・富を得た者は死するときにはすべてを失って敗北者となるが、夏の銀河を観察して得られる宇宙を支配する偉大な理法・無為(むい)の自然の真理を知ることができる学問(哲理)の探究者こそが人生のほんとうの勝利者である」と意味した。
 このように、「知足」は「夏の銀河から作られた文字の学問」を指していた。だから、わが国の様々な宗派の高僧たちや源頼朝や足利将軍や織田信長や徳川家康などは『老子』からも学んで「漢字は夏の銀河から作られた知足(知識)」を有していたのである。

◆「銀河」の別名は「銀漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになった――こんな簡単な真理に、新井白石以後の学者たちはまったく未だに気づいていない。
 「漢字が作られた銀河」は、天文学で通称「春の銀河・夏の銀河・秋の銀河・冬の銀河」とよばれる、そのうちの「夏の銀河の各部の形状から作られた文字」であった。
 下に「漢字」が作られた「夏の銀河の写真」を示した。
Ginga_20220723163001
 「漢字」は「銀漢」すなわち「夏の銀河各部の形状から作られた字」であった事実を証明するためには――どうしても上の写真の「夏の銀河各部の名称」が必要となるゆえ、下に「夏の銀河各部の名称図」を示すことにした。
00003_20220723161101
◆前述したように――『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭から34字までの文は元明天皇には読解できないようにきわめて難解に「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す」と表現した。この文は要するに「古事記上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば歴史(真実)が解明できる」と【『古事記』上巻の歴史解明方法】を説明するものであった。
 上記した「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字に続く11字で構成される「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文は【『古事記』の作成目的】をあらわして「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命は民衆に敬愛される、わが国における最も偉大な先祖である」と意味した。
 というのも、上記した『説文解字』は「群品」の[]の字源を「衆庶(しゅうしょう)なり」と解説するからである。「衆庶なり」は「民衆または庶民なり」ということになる。
 ゆえに、「古事記上巻 并せて序」に記される「群品」は「群れる民衆、群れる庶民」となるゆえ、「群品の祖と為る」は「民衆に最も敬愛された先祖」と意味した。
 だから、『古事記』は時の律令体制の政策に歯向かう「民衆・国民にとって伊耶那美命と伊耶那岐命は、皇室がもっとも偉大な先祖と崇拝する皇祖・天照大神よりも偉大な先祖であった」と讃(たた)える、反逆の歴史書であったのである。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話初頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話〕における〔音〕という注がつく夏音文字と重要ないくつかの楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すると――「伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚する時、小国・日本の建国理念を〔愛〕にしましょうと提唱した。小国・日本の人民たち(群品)はじめ卑弥呼が統治した倭国の国中の人民たち(群品)も【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重した」と、歴史を伝えていたことになる。

 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に説明して指摘したように、夏音文字と重要ないくつかの楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すると――『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話〕は、下記のごとく皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史を伝えていた。
 特に注目すべきは、この説話では『古事記』編纂スタッフは元明天皇が『古事記』の献呈を承認して正史(政府が編纂した歴史書)にするために「残忍な徇葬を陣頭指揮した天照大神」の名を「天照大神」と表記できないゆえ、「伊耶那美神命」と記して天皇の権力の絶大化を図る律令国家体制を推進する元明天皇に「伊耶那美命が残忍な徇葬を陣頭指揮した」と読解できる偽書を作成したと見せかけている点である。
 ――伊耶那岐命が愛した正妃・伊耶那美命は倭女王となり、その伊耶那美命が若くして死去すると、倭女王を天照大神(伊耶那岐命の第二后・継母の伊迦賀色許売命)が受け継いだ。天照大神(伊耶那美神命)が最初に手掛けたのは熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の陵墓を築造する事業であった。天照大神は伊耶那美命の陵墓に多数の奴婢(ぬひ)を殺して埋める、残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。伊耶那美命がもっとも憎んだ徇葬に怒った伊耶那岐命は乱(クーデター)を決意し、少数の日本兵をひきいて伊耶那美命陵の玄室(げんしつ)から伊耶那美命の亡骸を収める棺を奪うと、伊耶那岐命一行は本隊・桃子三箇(もものみみつ/日本兵と熊野の戦士たち)が待機する黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(現在の熊野速玉大社の境内)に向かって逃走した。黄泉比良坂の坂本に到着すると、伊耶那岐命は桃子三箇を指揮して、伊耶那岐命一行を追跡してくる伊耶那美命陵を守護していた倭国の大軍を黄泉比良坂の坂本で撃破して壊滅させた。
 おどろくべきことに、伊耶那美命を愛する夫への嫉妬と憤怒と憎悪で身を焦がした天照大神は大斎原に築造された宮殿から黄泉比良坂の坂本(熊野速玉大社の境内)付近まで夜の熊野路を執念深く追ってきて、日本兵の捕虜となった。天照大神は伊耶那岐命がいる黄泉比良坂(熊野速玉大社から約1km南の、新宮市磐盾町に所在する神倉神社の急坂の参道)を塞ぐ千引石(ちびきのいわ/神倉神社のご神体となる巨大なゴトビキ岩)の前に連行された。
 千引石の前にいた伊耶那岐命は日本兵に連行された妻(第二后)の天照大神と対面すると真っ先に、天照大神に離縁・事戸(ことと)を言い渡した。
 怒った天照大神は「あなたがこのような暴力をもって神聖な国家事業の徇葬を冒涜(ぼうとく)するならば、あなたの国の【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人草(ひとくさ/人民たち)の母親から生まれる子どもたちがもっとも狭い骨盤出口に至ったならば、わたくしは神に骨盤出口がさらに狭く縮(ちぢ)まるように祈願して、一日に必ず千人ずつの子どもたちの頭を絞()め殺すようにする」と誓った。
 この天照大神の呪詛(のろい)に対して、伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は国民に亡き妻が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するように熱心に説いて、一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と誓った。
 このように、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は、皇室がもっとも偉大な先祖であると崇拝した皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚している。
 この〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕では『古事記』編纂スタッフは「天照大神」の名を「伊耶那美神命」と表記して――元明天皇に「天照大神の聖性を汚さず、伊耶那美命の聖性を汚した偽書を作成した」と見せかけた。しかし、元明天皇は伊耶那美命陵の築造の際に徇葬を陣頭指揮したのは天照大神であった史実にもとづいて「伊耶那美神命は天照大神である」と解釈した。ゆえに、元明天皇は『古事記』の献呈を拒絶した。
 だから、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には『古事記』編纂に関する記事はすべて削除された。しかし、『古事記』は真実の歴史を伝えるものであったために後世まで残った。これゆえ、『古事記』は読むことも研究することも厳重に禁じられた日の目を見ない第一級の極秘の書物であったため、「古事記上巻 并せて序」の記事を正しく読解できない学者たちによって「『古事記』は後世に作られた偽書であろう」と疑われることになった。
 前述したように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文章は元明天皇には理解できないが、後世の学識者たちならば「古事記上巻の随所にある〔音〕という夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば歴史を知ることができる」と読解するにちがいないと期待し、この34字に続く11字による「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文も、後世の学識たちは「『古事記』上巻は律令国家体制が厳重に禁ずる、皇祖・天照大神の聖性を汚す反逆の歴史書である」と読解するにちがいないと期待するものであったのである。

◆「古事記上巻 并せて序」の末部には、下記のごとく原文がある(振り仮名無し)
 「然れども上古の時、言・意並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於いて即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞心に逮ばず、全く音を以ちて連ねたるは、事の趣き更に長し。是を以ちて今、或は一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち辞理の見えがたきは、注を以ちて明にし、意況の解り易きは、更に注せず。亦姓に於きて日下を玖沙訶と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯と謂ふ。」
 上記の原文(書き下し文)を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
――しかし、上古の五帝時代の書契(しょけい)と夏音文字の言(ことば)・意(こころ)は朴(すなお)であり、文章や短い一句にする場合、どういう字(楷書)に変換して記述してよいか困難なことがあります。すべて訓を用いて記述しますと夏音文字の詞の雰囲気と心(心情)に一致しない場合もあり、すべて夏音文字の音を用いて記述しますと文章がたいへん長くなります。それゆえ、是(ここ/古事記上巻)ではある場合には一句の中に音と訓を混ぜて用い、ある場合の一つの事柄を記すのに、すべて訓を用いて記録しました。そして、辞理(辞の原理/【夏の銀河各部の形状を字源・字形の原形・原義となる道理】)が見えがたき(つまり、不明確な)状況となる場合には注を加えて明らかにし、意味が容易に理解できる場合には別に注はつけませんでした。また、姓(うじ/氏)においては楷書の「日下(にちげ)」は夏音文字の「玖沙訶(くさか)」と同義、名においては楷書の「帯(たい)」は夏音文字の「多羅斯(たらし)」と同義ですので、このような類例は従来の記述にとおりに改めませんでした。

◆上記のごとく、「古事記上巻 并せて序」の末部の文中にある「すなわち辞理の見えがたきは」という一句が示しているように――倉頡は「目で見る夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする」と定めたゆえ、「辞理、つまり【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする辞(言葉と文字)の道理】が不明確となる状況」を「見えがたき」と表現したのである。
 だから、上記の「上古の言(ことば)と意(こころ)は朴(すなお)」という文は「夏の銀河各部の形状のままに」あるいは「倉頡が発明した【漢字作成理論】のままに」と意味したことになる。というのも、「五帝時代の倉頡が発明した原初漢字の書契と夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状」であったからである。
 「歳差(さいさ)」という「黄道の北極を中心にして2万5千8百年で大円を描いて一周する天の北極と春分点の位置の状況」を利用すると――倉頡が生存した今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国の各地の天頂にめぐってきた状況を再現することができる。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は上記した「夏の銀河各部の名称図」における左上にある〕。
 下に、〔今から約5000年前、五帝時代初頭の黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図〕を配した。
K42_20220723161201
 上図の右下の「鬼の横顔に似る銀河」とその西隣の「鬼の身に相当する銀河」を加えた部分を、上図の〔夏の銀河各部の名称図〕では「鬼の姿に似る銀河」と名づけた。
 「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)」を「地面」に見立て、「十字の銀河」を「地面に植わる木」と見立てて、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。『説文解字』は[]の字源を「冒(おほ)うものなり。地を冒ひて生ず。東方の行なり」と解説する。「十字の銀河」は「夏の銀河の東端」にあるゆえ「中国の東方へ行く(旅行する)ときの天頂緯度線と子午線をキャッチする羅針盤」となった。ゆえに、『説文解字』は[]の字源を「東方の行なり」と解説し、また「十字の銀河」を「樹木」、つまり「地面」に見立てた「鬼の姿に似る銀河」を冒()って植わる樹木――に見立てた。だから、「十字の銀河」は[]の字源・字形モデルとなり・字義をあらわすことになった。
 〔夏の銀河各部の名称図〕の左上にある「激流の銀河」は「大波がうねる大海」または「大河や湖沼」に見立てられて、「激流の銀河」の北隣の「鬼の姿に似る銀河」は「大海に浮かぶ亀。大河や湖沼に生息する大きな亀」に見立てられて[]の字源・字形・字義となった。
 『説文解字』は[(ぼく)]の字源を「亀を灼()いて剥()くなり。亀を灼く形に象(かたど)る。一に曰(いわ)く、亀兆の縦横なるに象(かたど)るなり」と解説する。ゆえに、[]の字源は「亀の腹部の平らな甲羅を灼いて吉凶を占うときの、縦と横に直角状に交わるひび割れの線」ということになる。
 上に配した〔黄帝時代の黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と太湖南岸の天頂緯度線図〕における[]の字源「十字の銀河」には「縦の子午線(経度線)と横の緯度線」を図示した。ゆえに、「十字の銀河」が[]の字源、[]の字源は「十字の銀河における子午線(縦線)と緯度線(横線)」となる。というのも、『説文解字』の[]の字源解説に登場する「亀甲を灼いてできる卜いの兆しとなる縦線と横線のひびわれ」は「十字の銀河の子午線(縦線)と緯度線(横線)」に合致するからである。
 したがって、[][]が加わる[]の字源は「子午線と緯度線が交わる、十字の銀河」であったことになる。

 上に配した〔黄帝時代の黄帝陵と太湖南岸の天頂緯度線図〕における「鬼の横顔に似る銀河」には、下図に示したように「目が四つ」ある。ゆえに、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」であった。「倉頡は漢字を発明した」と説明した倉頡伝説では「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現した。この「四つ目の怪人・倉頡」について、学者たちは「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は明らかに荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と全面否定した。
 倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は――黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は倉頡が発明した【漢字作成理論の最も重大な中核部】」であり、「十字の銀河」と「四つ目の銀河」から最も多数の漢字が作られた――と説明するものであった。だから、「四つ目の怪人・倉頡」という語句は「漢字は銀漢(夏の銀河)から作られた」という真実を伝えていたことになる。
000091_20220723161301
◆上記したように――「古事記上巻 并せて序」の末部の「上古の言と意は朴(すなお)である」という文は「夏の銀河各部の形状のままに」あるいは「倉頡が発明した【漢字作成理論】のままに」と意味した。
 「古事記上巻 并せて序」の末部は――楷書の「日下(にちげ)は夏音文字の「玖沙訶(くさか)」と同義であると指摘する。
 ゆえに「日下」「日中に輝く日・太陽の下」と意味するものではない。
 「日下」の語源は「三つ輪の銀河」であった。
 ゆえに、「日下」という語は――日が地平線下に没して、真っ暗となる夜空に輝く夏の銀河の全部の姿が地平線上に登場した時、東の端にある「三つ輪の銀河」は「乾坤」の[]の字源となった大・中・小の【渦巻文】が互いに重なりあいもつれあって壮麗である。この大・中・小の【渦巻文】となる無数の小さな星屑は、砂漠の沙(すな)のごとくキラキラと美しい輝きを放(はな)つ――と、下図の〔「日下=玖沙訶」の語源解説図〕における「三つ輪の形状」を説明していたことになる。
 黒曜石(こくようせき)は火山活動によってできた「黒いガラス」であった。ゆえに、黒曜石はガラス光沢の美しい輝きを放つ。黒曜石が石器の原料とされた旧石器時代から卑弥呼や伊耶那美命・天照大神が生存した弥生時代には「ガラス」という語が存在しなかった。だから、「黒曜石が放つガラス光沢」は「沙(すな)」はつまり「砂漠におけるキラキラと美しい輝きを放つ沙」と表現された。
 下図に示したように、「日下」の語源「三つ輪の銀河」は「砂漠の沙のごとくキラキラとガラス光沢を放つ黒曜石の岩脈地帯」に見立てられた。
 また、「十字の銀河」も「砂漠の沙のごとくキラキラとガラス光沢を放つ銀河」である。
 ゆえに、「玖沙訶」の「沙」という語()は「黒曜石のガラス光沢」をあらわした。
0000158
 黒曜石が石器の材料となった旧石器時代から弥生時代まで、当時の人々にとって黒曜石は美しい輝きを放つ玉(宝石)であった。
 上図における「三つの輪(円形)が重なる、三つ輪の銀河」は「玖沙訶」のうちの[]の偏[]をあらわした。
 上図における「十字の銀河」は「人の背中の姿」に見立てられ、「十字の銀河の子宮」は「艾(もぐさ)に火をつけ、背中の〔つぼ〕とよばれる場所を焼いて病気をなおす方法の、お灸(きゅう)」に見立てられた。ゆえに、『説文解字』は[]の字源を「後よりこれを灸(きゅう)す。人の両脛(りょうけい)の後に距(ささへ)あるに象る」と解説する。『説文解字』は「十字の銀河の子宮」を()「お灸」と、()「人の左右の両足の脛(はぎ)の箇所にあって、後へ倒れるのを防ぐつっかい棒となる柱」に見立てたゆえ、「十字の銀河の子宮の形状」を「人の両脛の後に距(ささへ)あるを象る」と説明したのである。
 ゆえに、「三つ輪の銀河」の円い輪の形の[]の字に、「十字の銀河の子宮」の「お灸の

[久]の字が加わって[]の字となった。貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢和中辞典』(角川書店発行)[]の字義は「玉に次ぐ黒色の美石」と指摘する。だから、「玉に次ぐ黒色の美しい石」を字義とする[]は「黒曜石」であったことになる。
 「玖沙訶」の「沙」は、上記したように「黒曜石のキラキラと輝くガラス光沢」であった。
 上に配した〔「日下=玖沙訶」の語源解説図〕における[]の字源「十字の銀河の子宮」は、「鉞(まさかり)や斧(おの)の刀身(刃先がある台)の形」に相似する。
 下に〔五帝時代の「石斧」の図書の解説図〕を配した。
 下図の最上図は〔中国の大紋口(だいもんこう)文化が栄えた五帝時代の「石斧」をあらわす図書〕である。この「斧」をあらわす図書は「鉞の形」にも相似する。下図の中央図と最下図における「刀身の下部」に「刃となる黒曜石」が装着されて鉞や斧が作られた。
000029
 鉞や斧が完成するまでの作業は非常に難(むずか)しかった。
 というのも、斧の柯(か/斧の柄)と刀身()が不具合(ふぐあい)も無く一体化し、さらに斧の刀身の先端に黒曜石の岩石を打ち割った剥片(はくへん)の刃を埋め込む作業は最高の技術が必要となったからである。
 斧の柯()と刀身を作るためには、黒曜石を打ち割って柯を作るための鉋(かんな)と刀身()を作る鉋の二種の鉋が必要となる。また刀身に柯を取りつけるためには、刀身に凹の穴をあけてぴったりと嵌(はま)る凸の切り込みを柯の先端に作るための独特の刀(ナイフ)となる黒曜石の剥片と、巧(たく)みな技術が必要とする。さらに黒曜石の刃がガラスのごとく簡単に壊れないように鉄のごとく丈夫(じょうぶ)にするために刀身の先端に黒曜石を埋め込むための溝(みぞ)を作る特殊な刀(黒曜石)と、溝と刃(黒曜石)を膠(にかわ)やコールタールで固める巧みな技術も必要となる。だから、最低でも五種(二種の鉋と二種の刀と刃先)の石器(黒曜石の剥片)を巧みに作る技術が必要となり、また何種類かの工程に惜しみなく最高の技術をそそぐ必要がある。そして、「刀身と柯の具合」が悪ければ、再度やりなおさなければならない。
 このように、鉞や斧を作る工程には、道具となる複数の黒曜石の剥片と・様々な最高の技術が必要となり、一つ一つの作業を「可()、良し」と慎重に確かめて作ることになり、それでも刀身と柯が不具合ならば成功するまで何度もやりなおしてようやく完成する。
 ゆえに、鉞や斧が完成した時には、思わず「歓声、歓喜・感激の訶(うた/声)」がもれた。
 したがって、「十字の銀河の子宮の形」に相似する「黒曜石が刃(刃先)となる、鉞や斧」は「玖沙訶」とよばれることになったのである。
 だから、楷書の「日下」と夏音文字の「玖沙訶」は共に「黒曜石」を意味して同義となったのである。

◆「古事記上巻 并せて序」の末部では――楷書の「帯」は夏音文字の「多羅斯」と同義である――と指摘する。
 下図に示すように、「十字の銀河の西半分」には「二か所の乳房」と「子宮に相当する箇所」がある。これゆえ、「十字の銀河」は「女体(女性の姿)」、また「母体」に見立てられた。
 「十字の銀河の左手」は「狩猟に用いる弓を持つ形」に観えるゆえ、「十字の銀河の東半分」は「男性の姿」に見立てられた。
 ゆえに、「十字の銀河」は「女体。母体」、あるいは「陰陽(女性と男性)の姿が交わる合体形」と解釈された。
S674_20220723161801
 倉頡は「十字の銀河」を「夏の銀河各部から作られたすべての漢字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮」を「すべての漢字が生まれる子宮(生殖器官)」と定めた。これゆえ、「十字の銀河」は「多数の漢字を生む母体」となったゆえ、「十字の銀河」は「多羅斯」の先頭字[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
 「多羅斯」の3字の中央にある[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)を、下図の〔「帯=多羅斯」の語源解説図〕の右側に配した。[]の甲骨文字の字形上部(冠の部首)[(もう)]であり、[]の下に[]が加わる。
 つまり、[]の楷書の字形は上部の[][]の下の[]の左側の[]が一体化し、[]のうちの[][]の右下に加わって成立する。
 []の上部の[]の字義は「網(あみ)」である。したがって、[]の下に[(すい)]が加わる[]の契文形(甲骨文字の字形)は「糸を編んで作った、鳥()を捕まえる道具の網(あみ)」を図案している。「十字の銀河の子宮」は「小鳥の姿に相似する」と見立てられて、「小鳥」を字義とする[(すい)]の字源・字形モデルとなった。下図における「М39」という肉眼でよく見える散開星団もまた「小鳥(鳰/カイツブリ)と浮巣」に見立てられて[]の字源をあらわすことになった。ゆえに、[]の契文形の上部「[]の図書は「小鳥(隹/十字の銀河の子宮とМ39)を捕(つか)まえる目の細かい網」を表現している。
 したがって、[]の字源となった「十字の銀河」は「天頂緯度線と子午線の網の目が細かい、精確に緯度と経度(子午線)がキャッチできる羅針盤」に見立てられたことになる。
0000161
 上図に示したように、「多羅斯」の[()]の字源は「十字の銀河の胸部から四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の前頭部)までに垂れる、長い帯状の銀河部」である。また、「十字の銀河の子宮と重なる右足から四つ目の銀河の口までに垂れる、短い帯状の銀河部」も、[]の字源となる。
 この「四つ目の銀河の口までに垂れる、短い帯状の銀河部」の正面には[]の字源となった「十字の銀河の子宮」がある。「十字の銀河の子宮周辺」は「十字の銀河の腰」に相当する。したがって、「十字の銀河の子宮周辺の腰」は、後世において「着物の上から腰の上に巻いて結ぶ長い布の、帯(おび)」に見立てられた。
 前述したように――「古事記上巻 并せて序」の冒頭から35字目から始まる11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文中にある「陰陽斯」という一句には[]の字が用いられる。「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊は民衆・庶民(群品)が斯(最も敬愛する)祖先である」と意味する。
 だから、「陰陽斯」の[]の字義は「敬愛する」と意味した。ゆえに、「多羅斯」の[]の字源「二本の帯状の銀河部」には――「陰陽斯」の[]、つまり「生みの親の母()と父()の愛」の意味があったにちがいない。
 というのも、上図の〔「帯=多羅斯」の語源解説図〕における「十字の銀河」は「立木(たちき)」に観え、「鬼の横顔に似る銀河」は「立木を見る横顔」となるゆえ、[]の下に[]を配する[立木]の偏に[]を加えると[]の字となるからである。
 前に示した〔女体と男性の姿に相似する「十字の銀河」の図〕にて指摘したように――「十字の銀河」は「その右半分が陰の女性の姿」に相似し、「その東半分は手に弓を持つ陽の男性の姿」に観える。ゆえに、「十字の銀河から垂れる、[]の長短の二本の帯状の銀河部」は「陰の母と陽の父・生みの親の愛」をあらわしたにちがいない。
 だから、「多羅斯」は「垂らし」であったことになる。つまり、「多羅斯」は「母」と「父」と「両親」の枕詞(まくらことば)「垂乳根(たらちね)の」の語源であったと考えられる。ゆえに、「多羅斯」は「母」を指す「垂乳女(たらちめ)」、「父」を指す「垂乳男(たらちを)」の語源であったことになる。その証拠に、[]の字源「長い北側の帯状の銀河部」は「М39」と重なる「乳房」から垂れ、[]の字源「短い南側の帯状の銀河部」もまた「十字の銀河の子宮」と重なる「乳房」から垂れている。ゆえに、[]の字源「二本の帯状の銀河部」は「垂乳」の語源となった。したがって、「垂乳」から「垂乳女」、「垂乳男」、「垂乳根」という語が生まれたことになる。上記したように、「十字の銀河の子宮」は「斧の刀身の形」に相似する。[]の上部は[]、下部は[][]の右側の[]であるゆえ、「十字の銀河の子宮」と重なる「乳房」から「四つ目の銀河の口」までに垂れる、この「短い帯状の銀河部」は「垂乳男」の語源となる。
 以上からして、「古事記上巻 并せて序」の末部の――楷書の「帯」と夏音文字の「多羅斯」は同義である――という文は、「古事記上巻 并せて序」の冒頭35字から始まる11字「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文中の「陰陽斯」の[]の字が「(民衆が)敬愛する」と意味するゆえ、「多羅斯」の[]の字義は「母と父の愛」をあらわす――と説明するものであったことになる。

◆そうすると、「古事記上巻 并せて序」の初頭部にある11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」字という文は、「古事記上巻 并せて序」の末部の「楷書の帯は、夏音文字の多羅斯と同義である」という文と密接に関連して――この両文は、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の「淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話」〕に記述された「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を連想するための手段であったことになる。
 というのも、下図に示すように「十字の銀河の子宮の形」と「神津島(こうづしま)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は相似するからである。
 神津島からは良質な黒曜石が産出した。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代の3世紀まで、本土つまり関東地方、東海西部(愛知県、静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで運ばれて利用されていた。
 ゆえに、「神津島」は「古事記上巻 并せて序」の末部に登場する〔「日下=玖沙訶」の語源「黒曜石」をあらわす地〕であった。だから、「神津島」は〔「帯=多羅斯」の語源「母・父の愛」〕と関連することになった。
 したがって、「良質な黒曜石の原産地であった神津島」と、「黒曜石」を意味した「日下=玖沙訶」は――「古事記上巻 并せて序」の初頭部にある11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文の「国民(群品・民衆と庶民)は【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命と伊耶那美命の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を重視した伊耶那岐命を最も敬愛した。ゆえに、国民にとって陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命は、皇祖・天照大神よりも偉大な先祖であった」という文意――と密接に関連するものとなる。
000032_20220723163701
 日本列島地図に表示されているように――日本列島の西の端にある九州の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と、日本列島の東の端にある伊豆諸島の神津島の両島は北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・8」でも解説し指摘したように――下図の左側に示す〔中国の海岸線線地域の北部〕は〔中国の海岸線地域の南部〕より〔冷たい気候区〕、〔中国の海岸線地域の南部〕は〔中国の海岸線地域の北部〕より〔暖かい気候区〕である。ゆえに、〔中国の海岸線地域〕は〔北冷南暖〕となる。
 いっぽう、〔日本列島の西端にある沖ノ島〕は〔冬に雪が降る冷たい気候区〕であるから〔西冷〕となり、〔日本列島の東端にある神津島〕は〔冬でも雪が降らない亜熱帯の暖かい気候区〕であるゆえ〔東暖〕となる。
 〔日本列島の沖ノ島〕の〔西冷〕と〔中国の北部海岸線地域〕の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、〔日本列島の神津島〕の〔東暖〕と〔中国の南部海岸線地域〕の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 ゆえに、下図に示したように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域の〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
 だから、卑弥呼王朝は「沖ノ島がある日本列島・本州の西は中国の海岸線地域の北にある、つまり西→北」と「時計回りに90度転回する」と考え、また同様に「神津島がある日本列島・本州の東は中国の海岸線地域の南にある、つまり東→南」と考えて、「日本列島の本州地理における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。
S15_20220723163901
◆上図における右側の〔沖ノ島がある九州を北〕とし〔神津島がある伊豆諸島を南〕と定理した「転回日本列島・本州地理」は、『古事記』の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の説話〕に登場する「淤能碁呂島」の語源であった。この〔淤能碁呂島の聖婚説話〕では「淤能碁呂」の4字は〔音〕、つまり〔夏音文字である〕という注がつく。
 つまり、上図の〔「中国の北冷南暖と倭の西冷東暖」の解説図〕に示したように――夏音文字の[()]の字義は「泥(どろ)」を意味するゆえ「日本列島の九州以下の本州の地底の土は海水が侵入して淤(どろ)のごとく柔らかい」ということになる。次の夏音文字の[()]の字義は「日本列島・本州の地底の土は淤(どろ)のように柔らかいゆえ、能(クマ)が冬ごもりする横穴が竪穴になるように90度転回して九州は北となり、伊豆諸島は南となる」とあらわすことになった。次の夏音文字[]の字は「碁石のごとき小さな沖ノ島と、将棋の駒(こま)の形に相似する小さな神津島」をあらわした。最後の夏音文字[]は「上の[]は沖ノ島、下の[]は神津島、上下の[]を連結する縦線は沖ノ島と神津島が同じ天頂線で結ばれる(つまり、同緯度である)」とあらわしていることになる。
 だから、「淤能碁呂」という語は下図の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕のごとく「日本列島・本州地理における方位は時計回りに90度転回して〔西〕が〔北〕・〔東〕が〔南〕になるという規定」をあらわした。

 『魏志倭人伝』は正確無比の歴史書であったと想定し、新井白石以後の邪馬台国説学者たちの考え方を全面否定して1ヵ所も【誤読】を加えなければ――卑弥呼王朝は下図のごとく〔転回日本列島・本州地理〕を制定していたと説明していた事実が簡単に容易に証明できる。
 この「転回日本列島・本州地理(の方角規定)」を、『古事記』上巻は「淤能碁呂島」と記したのである。
S14_20220723164001
 上図の左側に示した「淤能碁呂」の語源「同緯度の沖ノ島と神津島を結ぶ線上には、鳴門の渦潮」が所在する。「鳴門の渦潮」は「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文中に登場する「然れども乾坤初めて分かれて」という文の〔大・中・小の【渦巻文】が重なりもつれあう「三つ輪の銀河」の[]〕と、〔巨大な【渦巻文】となる「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」の[]〕をあらわした。
 というのも、「鳴門の渦潮」は――世界でも最高級の時速20km以上の潮流が、ゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快に大きな渦を巻き、瀬戸内海と外海との潮位の差で一日に4回の渦潮を見ることができる。月が出ない新月と満月の一日あとの大潮のときに一番大きな渦が見られる。ゆえに、「最大の鳴門の渦潮」は「大潮となる新月の月が出ない快晴の満天に無数の星がキラキラと輝く様子をあらわす、三つ輪の銀河」に見立てられ、また「最大の鳴門の渦潮」は「大潮となる一日前の満月のごとく黄色く輝く、巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」に見立てられたことになる。

◆上図の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕に示したごとく、「倭女王・卑弥呼が居住していた地所の名」は【科学】が成立して論争が早々と決着できる『魏志倭人伝』に記された通りの【邪馬壱国(やまいこく)・山陰出雲地方】であったことになる。だから、「卑弥呼が居住した地所の名」は白石以後いっこうに【科学】が成立しないために九州説と畿内説が対立して論争が延々とつづく〔邪馬台国〕ではなかったのである。
 邪馬台国説学者たちは強引に〔邪馬台国〕と書いてあるとウソを言って主張するが――【邪馬壹()国】の[]の字源は「十字の銀河の子宮」であるゆえ、もしも〔邪馬台国〕という名称が事実であったならば、倉頡が「十字の銀河の子宮は夏の銀河から作られた全文字が生まれる子宮である」と定めた【漢字作成作成理論】が成立せず全崩壊する。
 しかし、『魏志倭人伝』に記されたとおりに「倭女王・卑弥呼は【邪馬壱国】に居住した」と定めると、【倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河から作られた全漢字を生む子宮」と定めて[]の字源・字形・字義】とし、後世に倉頡が作った書契の[]は楷書の[()]となった。だから、【邪馬壱国】と記してある『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に伝える貴重な重大な歴史書であったことになる。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は倉頡伝説では具体的に詳細にわからない。「漢字は夏の銀河から作られた」と説く『老子』を読んでも【倉頡が発明した漢字作成理論】が具体的に詳細に理解することができない。中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)上伝と繋辞下伝にある「漢字起源記事」を読んでも【倉頡が発明した漢字作成理論】は具体的に詳細に読解できない。紀元前1世紀に成立した司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝時代の記事においても【倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に詳細に説明していない。「漢字の字源は夏の銀河の各部の形状であった」と伝える後漢時代の121年ころに成立した『説文解字』にも【倉頡が発明した漢字作成理論】を1ヵ所にまとめて具体的に詳細に説明していない。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』のみが冒頭から約500字の記事をもって、つまり上に示した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕をもって――()「倭人国」という国名と転回日本列島・本州地理と、そして()「対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名とその30ヵ国の地宜(平面的に図化した地図の形)」をもって――1ヵ所にまとめて具体的に詳細に説明する。
 だから、新井白石以後約300年間も継続する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は「多数の【誤読】を用いて日本国民(群品)をまんまと騙(だま)す真っ赤なウソであり、空想・妄想」であったことになる。
 したがって、このブログの初頭で指摘したように――『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」の冒頭2字「倭人」の[][]の字源・字形の原形・原義は倉頡が作った[]の「時計回りに90度転回する」と定めた字源・字形・字義を受け継いでいたことになる。この点からしても、『魏志倭人伝』は〔転回日本列島地理〕をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に詳細に説明していた書物であったことになる。

 次回の「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・14」では、「古事記上巻 并せて序」における中半の〔天武天皇の歴史書編纂計画の断念記事〕を注目して、『古事記』は時の律令国家体制が「後世には絶対に伝えてはならない」と厳重に禁止した命令に背いて、「伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を後世に伝える」を作成目的とした反逆の歴史書であったことを証明する。ゆえに、『魏志倭人伝』は世界的に第一級に貴重な重大な真実【倉頡が発明した漢字作成理論】を1ヵ所にまとめて具体的に詳細に説明した書物であったことになる。

| | コメント (0)

2022年7月11日 (月)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった
わが国には5000年前に漢字が起源した学問が伝来していた・1


◆邪馬台国説はすべてウソだ!
 日本神話虚構説も 邪馬台国説と同じで
 すべて真っ赤なウソだ!
 悲しいじゃないか ダマされんなんて!
 愛しい日本国民よ 悲しいじゃないか ダマされんなんて!
 バカにされるな コケにされるな 愛しき日本国民ョ!
 ――邪馬台国説も日本神話虚構説も
 日本国と日本人を木っ端みじんにぶっ壊す
 デタラメ、インチキ、真っ赤なウソなんだ!

◆学者たちが「約1700年前、倭女王・卑弥呼が倭国を治めていた」と記述する文献史料は、通称『魏志倭人伝』とよばれている。 
 「わが国が中国から漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、現在、「絶対的に正しい」とされる定説である。
 この絶対的な定説は、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」で詳細に解明したように、まぎれもなく空理空論・空想であった。
 というのも、学界がなんら疑わない「わが国が中国から漢字を最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説に反して、『魏志倭人伝』は「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、わが国にはすでに上古から受け継がれた漢字があった」と伝える記事が2ヵ所あり、下記のごとく説明しているからである。
 「倭国には上古漢字があった」と指摘する最初の記事は「倭国の占いで用いられる卜辞(占いに用いる言と文字)は令亀法(れいきのほう/中国の殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくの象形文字)であった」と説明する。
 もう一つの記事は「倭国と中国の魏との国交において、倭国が国書に用いる上古漢字と魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書は差錯(ささく/相違)していたので、倭国の伊都国(いとこく)の港では一字ずつテイネイに点検・確認して上古漢字と楷書が同義になるように変換して、女王卑弥呼に届いたときに差錯(誤訳)が無いように努めていた」と説明する。

◆「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになった。
 『魏志倭人伝』が「令亀法(れいきのほう)」と記す「殷代(いんだい)の甲骨文字のごとき象形文字」は「銀河各部の形状が字源・字形・字義となる漢字」、つまり「銀漢文字」であった。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」では詳細に解説して証明したように――今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)にわが国が【夏音(かおん)文字の学芸を習得していたときに、今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)が発明した【漢字作成理論】をも習得していた。

 今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡は【漢字作成理論】を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的な表現で説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする

 上の【3】の掟のために、五帝時代の「書契(しょけい)」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は文字が書いた史料が出土しないことになった。
 だから、上記した『魏志倭人伝』にある「倭国には上古漢字があった」と伝える二つの記事は「わが国は夏代初頭に【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成理論】を共に習得した」と説明していた。ゆえに、卑弥呼はじめ王や王女や巫女(みこ)や覡(げき/神官)などが用いた夏音文字を書いた史料は、【3】の掟のために出土しないことになった。
 今から約3300年前から始まる殷代(いんだ)後半の甲骨文字は4000(4000)を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことになった。このため、甲骨文字を書いた史料が多数出土することになったのである。

 上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、わが国が今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した以後、夏音文字(上古漢字・銀河文字)は占いが終わって用済みになるとただちに消されたゆえ、文字が書かれた史料が出土しないことになったのである。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は中国において王政(王道政治)の権力基盤であった。ゆえに、【倉頡の漢字作成理論】は反体制側の人々が習得して反乱・革命に利用すると王朝を崩壊させることができる威力を有していた。だから、【倉頡の漢字作成理論】は現在における世界や国家を破壊すると恐れられている、ロシアのプーチンが脅迫する「核」のごとき絶大な威力があった。
 だから、約4000年前、王朝も国家が樹立されていなかったわが国に伝来して習得された夏音文字は、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の法理にもとづいて中国と同様に、用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物もさらに消さない人物の一族や消し忘れた人物の一族も全員、即刻、死刑になると厳重に定められていたのである。
 後漢後半期の1世紀ころに出現した楷書も「漢字」とよばれる「銀漢から作られた文字」であったため、楷書の字源・字形の原形・原義もまた【倉頡の漢字作成理論】に則(のっと)って「銀河各部の形状」であったのである。だから、『魏志倭人伝』が記述しているように、伊都国の役人たちは港にて海上に昇る銀河の帯を観察するのを日課にして、倭の銀河文字(夏音文字)と魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書の字源を研究して、夏音文字と楷書を変換するときに差錯(誤訳)が生じないように努めていたのである。

◆以上のごとき事情によって、『魏志倭人伝』は〔わが国が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を今から約4000年前に習得した事実〕を証言していたことになる。
 現在、「倉頡は漢字を発明した」と伝える伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであると定まっている。
 しかし、もしも過去に学者たちが『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方を確立していたならば、そのときにすでに「倉頡伝説は真実を伝えていた」と断定されて逆転していたことになる。

 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく「わが国の国語として残っている漢字音が、中国に現存する最古の漢字音よりも古い、現存する最古の漢字音である」と指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として残っている漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。
Photo_20220711140401
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」と指摘する漢字は『魏志倭人伝』にある二つの記事が伝えていた上古漢字であり、上の〔漢字生長史〕に表示したように、今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来して習得した【夏音文字】であった。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は上の〔漢字生長史〕にあって紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ゆえに、わが国が中国の夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国の上古音よりも約1000年前の・現存する最古の漢字音となる。
 ところが、〔漢字生長史〕が示すように「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は中国の上古音よりも新しい。ゆえに、上記したように〔漢字生長史〕の最下部に配置される。だから、学界が定める漢字習得の絶対的な定説は根本的に誤っている、ウソ・錯覚・空想であったことになる。

◆上記したように――中国には現存する最古の漢字音は残っていないが、わが国には『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に現存する最古の漢字音「夏音文字の字音」が記載されて残った。この結果、漢字が起源した中国では【倉頡が発明した漢字作成理論】はまったく不明となったが、【1】わが国では夏音文字が記載された『魏志倭人伝』に1点も【誤読】を加えない考え方を確立し、また【2】太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の説明はじめ上巻の随所の〔音〕という注がつく夏音文字を注目して研究すると、【倉頡が発明した漢字作成理論】を証明できる遺物や遺跡はじめ数々の史料が存在することになる。この結果、「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字も学芸】は伝来し、しかも現在も明確に残っている事実」が科学的に具体的に証明できるという――学者たちがまったく想像しなかった逆転状況が現実となって存在することになる。
 要するに、邪馬台国説をとなえた新井白石の死去以後(1725年以後)のわが国の漢字学に関するすべての学説は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)に【多数の誤読を加えた産物の空想・虚偽】であったがために――わが国に歴史上事実として実在した【倉頡が発明した漢字作成理論】は学者たちによって排除され不明となったのである。
 いっぽう、源頼朝はじめ室町幕府の将軍たちや織田信長・徳川家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)に【誤読】を1ヵ所も加えずに正確に読解していたので【夏音文字と倉頡の漢字作成理論の知識】を有していた。現在、「源頼朝はじめ室町幕府の将軍たちや織田信長・徳川家康は【夏音文字と、倉頡の漢字作成理論の知識】を有していた」と証明されないのは、新井白石以後の漢字学に関する学説すべてが「学問」の体(てい)をなしていない空想の産物・空理空論・憶説(おくせつ)であったからである。

◆以上のごとく――〔A〕『魏志倭人伝』が「倭国には上古漢字があった」と記す2ヵ所と、〔B〕『古事記』上巻の〔音〕という注がつく漢字は、上に配した〔漢字生長史〕に示した〔今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来して習得された夏音文字〕であった。
 わが国が習得した夏音文字は〔今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【倉頡は発明した漢字作成理論】を保存していた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は【倭国の対馬国から狗奴国(くなこく)までの30の小国名】をもって【倉頡は発明した漢字作成理論】と【わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の学芸】について説明していたのである。
 『魏志倭人伝』と同様に、太安万侶が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)もまた、【倉頡は発明した漢字作成理論】と【わが国には夏代初頭に夏音文字が伝来し習得した事実】を指摘していたことになる。

 再度くりかえす、「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と称した。「漢字が作られた銀河」は、天文学で通称「春の銀河・夏の銀河・秋の銀河・冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河の各部の形状から作られた文字」であった。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
Ginga_20220711140601
 上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における【2】の「多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする」と定めた掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。
 ゆえに、【『魏志倭人伝』に記載された34の小国名に表示された夏音文字の秘密】と、【『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の秘密】を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
00003_20220711140701
◆これから、『古事記』上巻の随所に〔音〕と注がついて記される【現存する最古の漢字音となる、後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の秘密】を解明する。
 『古事記』上巻の序は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
 安万侶は「『古事記』上巻の序」を、「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題している。
 つまり、安万侶は「古事記上巻 并せて序」にて「『古事記』の中巻と下巻には〔音〕という注がつく夏音文字を1字も記載していない。〔音〕という注がつく夏音文字は古事記上巻だけに記載した。この古事記上巻だけに記載した夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状である。また、夏音文字と同じく、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた夏の銀河各部の形状である。つまり、夏音文字・楷書はじめ殷代後半に用いられた甲骨文字(契文)・周代に用いられた金文などすべての漢字は銀河から作られた。というのも、楷書以前のすべての漢字は【倉頡が発明した作成理論】にもとづいて【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義】と定めたからである。だから、古事記上巻だけにある夏音文字と重要ないくつかの楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、古事記上巻に記述された歴史の真相が解明できる――と、安万侶は【古事記上巻(日本神話)における歴史の解明方法】を説明するために、「古事記上巻 并せて序」と題することにしたのである。
 ゆえに「現在の学者たちのごとく、文字面(もじづら)だけの表層レベルだけをとらえた安易な読解方法では、歴史はまったく解明できない」と、太安万侶は警告している。

 「古事記上巻 并せて序」の冒頭45字の書き下し文にフリガナをつけると、下記のごとくなる。
 「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元(こんげん)(すで)に凝()りて、気象(きしょう)(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る。」
 上記の書き下し文において「参神造化の首を作す」までは34字で構成され、後に続く「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は11字で構成される。
 「古事記上巻 并せて序」の冒頭の34字は、『古事記』を献上する元明天皇には読解できない、きわめて難解きわまりない文章でなぜ表現することになったのかについて、その秘密を下記のごとく説明している。
――天武天皇・持統天皇以後の朝廷と律令体制は、大和朝廷の基礎を築いた天照大神を皇室がもっとも偉大な先祖・皇祖と定めて、天皇の権力の絶大化を図った。これゆえ、朝廷は「天照大神の聖性は絶対に汚してはならない」と厳重に禁止した。さらに、天武・持統天皇王朝は「天照大神を絶賛する偽書を作れ」と命令した。この命令に歯向かって、『古事記』の上巻では天照大神の聖性を汚す、後世に真実の歴史を伝えることにした。このため、『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字はじめ重要な楷書の字源・字義を銀河(夏の銀河)各部の形状に変換すれば、後世の人々が『古事記』上巻を読んで真実の歴史を知ることができる仕組みにした――と、【『古事記』上巻の歴史解明方法】を、『古事記』の最初となる「上巻の序」の冒頭34字で説明することにしたのである。
 後半の11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文章は【『古事記』の作成目的】を下記のごとく説明していたことになる。
 ――『古事記』は断じて皇祖・天照大神を絶賛して神格化するための書物ではない。伊耶那美命と伊耶那岐命は天照大神よりも偉大な、国民が最も偉大と敬愛する祖先である。ゆえに、伊耶那美命と伊耶那岐命による日本国(小国・日本)誕生史を後世に伝えることを作成目的にして、『古事記』を編纂した。このため、『古事記』上巻において皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史を記述した。天照大神の聖性を汚す歴史を直接的に容易に理解できるように記述すると『古事記』は焚書(ふんしょ)・抹殺される。ゆえに、『古事記』上巻ではわが国が夏音文字を習得した歴史の経緯を説明するつまり「造化の参神」と、そして伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】における密接な関連性に注目して――夏音文字と楷書の字源・字義を銀河(夏の銀河)各部の形状に変換する方法で真実の歴史を伝えることにした。

 上記したように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭からの45字は「時の律令体制の政策に真っ向から反逆する編纂スタッフの【後世に真実の歴史を伝える】という固い意志とゆるがない信念と熱い情念」をあらわしていた。ゆえに、この45字の文章は『古事記』を献上する第43代元明天皇には理解できないが、後世の学識者たちならば必ず理解できるにちがいないと――編纂スタッフは後世の学識者たちに期待して『古事記』を作成したことになる。

 上記したように編纂スタッフは天武・持統両天皇の政策に真っ向から歯向かったゆえ、「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の文章は『古事記』を献上する元明天皇が有する学術知識では理解できない前期縄文時代初頭から後期縄文時代までに作られた土器・土偶にほどこされた代表的な意匠【渦巻文】について説明することにした。つまり、「古事記上巻 并せて序」冒頭から34字の文中にある「然れども乾坤初めて分かれて」という文は、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの土器・土偶にほどこされた【渦巻文】は「乾坤」を表現する意匠であったと説明している。この「然れども乾坤初めて分かれて」という文は前期縄文時代から後期縄文時代の土器・土偶にほどこされた【渦巻文】について説明していると理解できれば――「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字は「『古事記』は反逆の歴史書である」と説明していることが理解することができる。
 『古事記』は反逆の歴史書であった。ゆえに、元明天皇が編纂スタッフの企みを見抜けずに献呈を承認して正史となるか、それとも元明天皇が編集スタッフの企みに気づいて献呈を拒否して焚書するか――『古事記』は編纂スタッフが賭けに出た歴史書であったのである。このような切迫した状況を「古事記上巻 并せて序」の冒頭34で【『古事記』上巻の歴史解明方法】を、続く11字をもって【『古事記』の作成目的】を説明していたのである。

◆フリガナを除去すると、【『古事記』上巻・日本神話に記述された歴史解明方法】を説明する「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字までの書き下し文は、下記のごとくなる。
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
 上記の「参神造化の首を作す」という文は「夏の銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った、前期縄文時代の首(初頭)・中期縄文時代の首(初頭)・後期縄文時代の首(初頭)における造化の参神、すなわち造形芸術の参神」と意味した。
 ゆえに、「参神造化の首を作す」という文より前の、冒頭の「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ」までの文は、下記のごとく意味したことになる。
 「天武・持統両天皇陛下の遺志を受け継いで律令体制を推進する元明天皇陛下の臣下である太安万侶が申し上げます。前期縄文時代より前の混沌とした元(はじめ)の時代(草創期縄文時代・早期縄文時代)の天頂にめぐってきた夏の銀河の形状はすでに凝()り固まっていましたが、その形状には気(なにかの事象や事物をあらわす雰囲気)も象(かたち)もあらわれていませんでした。ゆえに、その混元の時代における天頂にめぐってきた銀河部の形状には何とも名づけようがなく、その形をどのように造形表現してよいかその技巧(わざ)も存在しませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂することになった現在、混元の時代(草創期縄文時代・早期縄文時代)の天頂にめぐってきた銀河の形を表現した図案(意匠)に関して知っている人物は一人もいません。」

 そして、上記した「古事記上巻 并せて序」冒頭の「参神造化の首を作す」という文より前の「然れども乾坤初めて分かれて」という文は、下記のごとく意味した。
――前期縄文・中期縄文・後期縄文の三つの時代の天頂にめぐってきた夏の銀河の形状は〔壮麗な無数な銀河の粒が小さな星のごとく点々ときらめいてむらがって三つの輪の形となり、その三つの輪は北・中央・南の三つの輪に分かれ、三つ輪の銀河の満面を占める点々とした無数の銀河の粒は隣の点とつながって線となり、線はたちまち円弧となって〔大・中・小の様々の大きさの渦巻き〕が重なりもつれあっています。この「三つ輪の銀河」が現在(『古事記』が成立した現在)においても頭上高く天頂近くの北に位置しますと、南西の地平線近くには「巨大な渦を巻く銀河」が輝いています。これゆえ、縄文時代の芸術家たちは〔天頂の「三つ輪の銀河」〕における【大・中・小の様々な渦巻文】は「乾」つまり「天」をあらわすイメージ(気と象・かたち)、〔地平線近くの「巨大な渦を巻く銀河」〕は「坤」つまり「地」のイメージ(気と象・かたち)をあらわすと感じて土器・土偶を作って――【渦巻文】を「乾()」と「坤()」のイメージ(心象)をあらわす意匠(文様)としました。ですから、「前期縄文時代から後期縄文時代に天頂にめぐってきた「大・中・小の様々な渦巻きが重なりもつれあう三つ輪の銀河」と「地平線近くを通過する巨大な渦を巻く銀河」の両方の銀河部で共通する【渦巻文】は参神造化の首(前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭まで)の三時代における[()][()]をあらわす図象となりました。」
 
◆「古事記上巻 并せて序」の次は、「創世の神々」について説明する。
 この「創世の神々」の冒頭は「古事記上巻 并せて序」冒頭の34字の文に登場「参神造化の首」という語について「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかむすひのかみ)、次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。」と説明する。
 ゆえに、「古事記上巻 并せて序」冒頭34字の文に登場する「参神造化の首」という語はは――()前期縄文時代初頭の神は「天之御中主神」と名づけられた、()中期縄文時代初頭の神は「高御産巣日神」と名づけられた、()後期縄文時代初頭は「神産巣日神」と名づけられた――と意味したことになる。
 わが国では関東地方において、前期縄文時代初頭から土器・土偶を作る芸術において革命がおき、そして中期縄文時代になると豊かな装飾性を生み出していった。中期縄文時代を代表する土器・土偶は新潟県信濃川流域や長野県や山梨県など、みな東日本で造られた。
 この東日本における中央となる地域は北緯36度となる。
 前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭まで、前述した「夏の銀河各部の名称図」の左上にある「三つ輪の銀河」が北緯36度の地所(東日本中央の地)の天頂にめぐってきた。
 下に〔北緯36度の地所における、造化の参神を示す天頂緯度線の解説図〕を示した。つまり、下図の()は約6000年前の前期縄文時代初頭の天頂緯度線、()は約5000年前の中期縄文時代初頭の天頂緯度線、()は約4000年前の後期縄文時代初頭における天頂緯度線である。
S283
 上の〔造化の参神を示す天頂緯度線の解説図〕に示すように、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭まで、東日本の天頂緯度線は西の「十字の銀河」から東の「三つ輪の銀河」を貫通していた。
 ()の天頂緯度線は「三つの輪の形が連結する三つ輪の銀河のうちの、ほぼ中央」を貫通するゆえ、「天之御中主神」と名づけられた。
 ()()の天頂緯度線を通過する輪の銀河は隣の輪の銀河に食い込んで、円形となるように観える。ゆえに、()()の天頂緯度線が通過する輪の銀河は「上から見ると円形となる、鳥が卵を産み、ヒナを育てる巣の形」や「円い日輪の形」に相似するということで、「産巣日」と名づけられた。
 ()の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部中央」を貫通し、()の天頂緯度線は「十字の銀河の胸部の乳房」を貫通している。したがって、()の天頂緯度線のほうが「緯度が高い」ゆえ、()の神の名には[]の字がついて「高御産巣日神」と名づけられた。
 ()の天頂緯度線は「神」となった「輪の銀河」の2ヵ所、つまり「南の輪の銀河」と「中央の輪の銀河」の2ヵ所を貫通する。ゆえに、「神産巣日神」というぐあいに[]の字が二つ配される名となった。

 下に、〔天の北極の位置を示す歳差状況図〕を配した。
 下図に示すように、〔天の北極の位置〕は〔黄道の北極〕を中心にして一周する。
S612
 天の北極は25,800年で〔黄道の北極〕を中心にして一周する。
 春分点もまた天の北極と同様に、25,800年で〔黄道の北極〕を中心にして一周する。
 円周は360度である。ゆえに、25,800年割る360度は71.666となる。したがって、天の北極と春分点は71.666年ごとに〔黄道の北極〕を中心とする円周上を1度ずつ移動する。
 前述した〔造化の参神を示す天頂緯度線の図〕における()6000年前の天頂緯度線である。ゆえに、6000年割る71.66683.72度四捨五入して84度となる。ゆえに、現在の天の北極の位置から84度過去にもどった〔黄道の北極〕を中心とする円周上の点が前期縄文時代初頭の天の北極の位置となる。また、現在の春分点の位置から84度過去にもどった〔黄道の北極〕を中心とする円周上の点が前期縄文時代初頭の春分点の位置となる。
 したがって、()5000年前の天頂緯度線であるゆえ、5000年割る71.66669.76度となる。ゆえに、()の中期縄文時代初頭の天の北極は現在の天の北極より70度過去にもどった位置にあり、()の中期縄文時代初頭の春分点の位置は現在の春分点から過去のほうに70度もどった位置となる。
 ()()の説明と同じく計算すれば、()4000年前の後期縄文時代初頭の天の北極と春分点は55.81度、つまり56度過去にもどった〔黄道の北極〕を中心とした円周上の位置となる。
 よって、銀河の形を正確に図示した()()()の〔天の北極と春分点の星座図や星座盤〕を作成すれば、前述した〔東日本における造化の参神を示す天頂緯度線〕は西の「十字の銀河」から東の「三つ輪の銀河」を貫通していた状況を再現することができて――「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文章の秘密が解明することができる。

◆前述した〔造化の参神を示す天頂緯度線の解説図〕における「三つ輪の銀河」は北・中央・南の3つの輪の形に区分けされるが三つの輪は連結して一つの統合体となる。
 「三つ輪の銀河」の輪郭内には無数の砂粒のような銀河の粒がひしめき、ある箇所の点と点の連なりそしてその線は渦を巻く奔放(ほんぽう)な曲線となって大・中・小の様々な渦巻文となる。
 ゆえに、【三つ輪の銀河の満面における大・中・小様々なの渦巻文】は【「古事記上巻 并せて序」の冒頭に「参神造化の首」と記された、つまり()天之御中主神、()高御産巣日神、()神産巣日神の参神をあらわす形(気象、つまり気と象・かたち)】となった。
 だから、前期縄文時代の土器を代表する、山梨県笛吹市(旧東八代郡御坂町)に所在する花鳥山遺跡から出土した深鉢の胴部全体は「大きな渦巻文」で占められて構成されている。
 下に、中期縄文時代を代表する、山梨県笛吹市に所在する桂野遺跡から出土した深鉢の写真を配した。下の写真が示すように、この深鉢の胴部全面は目がまわりそうなほど「大・中・小の様々な渦巻文」でびっしりと飾られている。
Photo_20220711141201
 長野県茅野市に所在する尖石遺跡群の棚畑遺跡から出土した中期縄文時代初頭の「日本国最古の国宝」とされる縄文のビーナス(土偶)の頭部がかぶる帽子あるいは髪型と指摘される頂部には「渦巻文」が刻まれる。つまり、縄文のビーナスが出土した棚畑遺跡は北緯36度であるからして、縄文のビーナスは「高御産巣日神」をあらわしていることになる。前述した〔北緯36度における、造化の参神を示す天頂緯度線の解説図〕の()の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部の中央よりやや北側」を貫通していた。ゆえに、縄文のビーナスがかぶる帽子あるいは髪型とされる、そのデザインは「十字の銀河の頭部を通過する天頂緯度線は三つ輪の銀河における北側の輪の銀河の南部を貫通している」と表現していたことになる。
 また、長野県茅野市の尖石遺跡群の中ッ原遺跡から出土した後期縄文時代初頭の国宝・仮面の女神の両肩には「渦巻文」がほどこされ、背中の中央にも「渦巻文」が縦に二つならんでほどこされる。
 群馬県吾妻郡東吾妻町に所在する郷原遺跡から出土した後期縄文時代のハート形土偶の正面の両肩・アゴの下に「三つの渦巻文」がほどこされ、背中の両肩・後頭部より下部・さらに下の部分・両足の付け根の部分と、背面には「計八つの渦巻文」が刻まれる。
 このような前期縄文時代から後期縄文時代の土器・土偶の意匠となった【渦巻文】は、縄文人が「三つ輪の銀河」を観て感じた「乾いた天(夜空)」のイメージ、つまり「天頂にある三つ輪の銀河は、まるで空気が乾いた快晴日和の満天の星と鮮烈に夏の銀河が輝く美しい夜空」のごとくであると感じた心象(イメージ)をあらわしていたことになる。

◆上記したように、「三つ輪の銀河」の輪郭内には無数の砂粒のような銀河の粒たちがひしめき、ある箇所の点と点の連なりそしてその線は渦を巻く奔放な曲線となって大・中・小様々な「渦巻文」となる。ゆえに、「無数の砂粒のような銀河の粒が満面にきらめいている、その三つ輪の銀河の形状」は縄文人にとって「空気が乾いた快晴日和の満点の星と鮮烈に夏の銀河が輝く夜空のイメージ」となった。
 ゆえに、太安万侶は「古事記上巻 并せて序」にて[]の字を[]と表記したのである。
 原始のとき以来縄文時代はじめ卑弥呼が生存した弥生時代にあっても、わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」で詳細に解説して科学的に証明したように――人々は「天の北極」で緯度と方位を測定したのではなく、【天頂点と重なる夏の銀河の部位が天頂を西から東に移動するとき、4~6秒間でキャッチできる緯度線と子午線】をキャッチして緯度と方位を精確に測定していた。だから、「天頂にめぐってきた三つ輪の銀河」は、縄文人たちには「壮麗な満天の星と夏の銀河が鮮烈に美しく輝く、乾いた天空(夜空)、つまり天神の恵み」をあらわすことになったのである。
 前期縄文時代から後期縄文時代までにおいて、村が滅びず存続し氏族の子孫が絶えずに受け継がれるためには、【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして遠くの地に旅して生活必需品にあって不足する物を確保し、新しい文化・知恵・発明などを手に入れないと、その村は滅亡し子孫も村とともに滅びて絶えるという、厳しい摂理(せつり)が人間社会を支配していた。
 だから、原始のときの以来縄文時代も伊耶那美命や天照大神が生存した3世紀においても【天頂にある緯度線と子午線のキャッチ】は日々の生活の基軸であった。ゆえに「壮麗な満天の星と夏の銀河が鮮烈に美しく輝く、乾いた天空(夜空)」の心象(イメージ)となった「三つ輪の銀河」は「乾」と「天」をあらわすことになったのである。

◆前期縄文時代から後期縄文時代、縄文人たちが「乾」のイメージを抱いた「三つ輪の銀河」が天頂に位置したとき、地平線近くの南西に「夏の銀河の西端にして南端となる、巨大な渦を巻く銀河」が位置した。
 この「夏の銀河の西端にして南端となる、巨大な渦を巻く銀河」は、下図に配した。この「巨大な渦を巻く銀河」は前述した〔夏の銀河各部の名称図のおける右下の銀河〕である。
S301
 上に配した巨大な楕円形の銀河各部の名称について、前述した〔夏の銀河各部の名称図〕では「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」ということになる。
 前述した「夏の銀河」の写真を撮影した藤井旭氏が著作した『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)115ページは、「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」の様子を、下記のごとく説明する。
 「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる。」
 上記のごとく、藤井旭氏は「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河の形状」を「銀河の中心を中心にして無数の星と星間物資が入り乱れて迫力ある形状で渦を巻いて、あたかも入道雲のように観える」と表現する。
 ゆえに、藤井氏の説明に登場する「入道雲」は「地上に雨を降らす、つまり地の神の威力で天から雨を降らす・地の神の恵み」をあらわすことになった。
 ゆえに、「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」を観て縄文人たちは、「日照りがつづいたときに雨乞い祈願すれば地の神の威力で恵みの雨が降ってきて地上の草木や食料となる穀物の命がよみがえり、食料となる動物たちの命も助かり、そして人も飢餓(きが)に瀕(ひん)して死なずにすむ。ゆえに、地の神は存在する」と信仰することになった。
 だから、「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は「坤」と「地」のイメージとなった。また、「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河から生まれたイメージの地の神・地霊」は「坤」と「地」をあらわすことになった。

 現在、「造化の参神の名」となった「十字の銀河と三つ輪の銀河」が天頂近くの北に位置するとき、縄文人たちの「坤」と「地」のイメージとなった「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は「地平線近くの、真南から30度西に寄る西南西」に位置する。
 『古事記』が編纂された8世紀初頭、「造化の参神の名」となった「十字の銀河と三つ輪の銀河」が天頂近くの北に位置するとき、「坤」と「地」のイメージとなった「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は「地平線近くの、真南から40度西に寄る西南西」に位置した。
 卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀半ば)、「造化参神の名」となった「十字の銀河と三つ輪の銀河」が天頂近くの北に位置したとき、「坤」と「地」のイメージとなった「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は地平線近くの、真南から45度西に寄った南西に位置した。
 前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭においては、「造化の参神の名」となった「十字の銀河と三つ輪の銀河」が天頂に位置したとき、「坤」と「地」のイメージとなった「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は地平線近くの、真南から70度~80度西に寄った西南西に位置した。
 ゆえに、縄文人たちには「大・中・小の様々な渦巻きが重なりもつれあう三つ輪の銀河」は[][]のイメージとなり、「地平線の東南から昇って地平線の西南に没する、南の地平線の近くを運行する強大な渦を巻く、巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は縄文人たちには「坤」と「地」のイメージとなったのである。
 縄文人たちにとって――上記した〔夏の銀河各部の名称図〕における左上の「大・中・小の渦巻きが重なりもつれあう、三つ輪の銀河」は[()]、右下の「巨大な渦巻の、巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は[()]のイメージとなった。だから、前期縄文時代から後期縄文時代に作られた土器・土偶に造形された【渦巻文】は[()][()]のイメージを表現するものであった――と、太安万侶は伝えていたのである。

◆以上のごとく、672年の壬申の乱から9年後の681年3月17日、第40代・天武天皇は天皇の権力を絶大化し、天皇を神格化する律令体制を確立させるために、川島皇子以下十二人に「帝紀および上古の諸事の記定」を命じて「天照大神を絶賛する偽書(虚偽の歴史書)の編纂」を命令した。しかし、この天武天皇の「偽書の編纂」は反対する人々が多く実現しなかった。
 天武天皇の「天照大神を絶賛する、偽書の編纂」の命令から31年後の712年正月28日に『古事記』が完成して、元明天皇に献上された。『古事記』という書名は天武天皇の「上古の諸事の記帝」という命令のうちの3字[][][]から成立した。しかし、『古事記』は天武天皇の「偽書編纂」の命令に真っ向から歯向かむ反逆の歴史書であった。
 というのも、『古事記』上巻は――倭女王・伊耶那美命の没後に倭女王に就任した天照大神(崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命)が倭女王・伊耶那美命の陵墓を築造したときに多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)儀式を陣頭指揮した。正妃・伊耶那美命を愛した伊耶那岐命(のちの第9代・開化天皇)は桃子三箇(もものみみつ/日本兵たちと熊野の戦士たち)の協力を得てクーデターを決行して、伊耶那岐命の第二后にして継母の天照大神に離縁を言い渡して倭女王から失脚させた――と、天照大神の聖性を汚す、朝廷が後世に伝えたくない不都合の歴史を記述している。
 『古事記』上巻は「朝廷が最も偉大であると崇拝する天照大神よりも、国民にとっては【愛】を国家理念に掲げて小国・日本を誕生させた伊耶那美命と、この【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那美命のほうがより偉大である」と、編纂スタッフが主張する反逆の歴史書であったのである。
 だから、太安万侶が書いた「反逆の歴史書『古事記』上巻の序」は「古事記上巻 并せて序」と表記されることになった。いままで詳細に解説してきたように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の文章は「『古事記』上巻は随所に〔音〕という注がつく上古漢字・夏音文字といくつかの楷書の字源・字義を【夏の銀河の各部の形状】に変換すれば、歴史が明確となる」と【上巻における、歴史解明方法】を説明している。
 太安万侶は34字で【上巻の、歴史解明方法】を説明して、文字面だけの表層レベルで読解する方法では「上巻に記述された歴史はまったく不明となる」と警告している。
 しかし、学者たちは全員、『古事記』上巻の夏音文字といつかの楷書の字源・字義を【夏の銀河各部の形状に変換する作業】を怠って、文字面だけで読解する傲慢(ごうまん)に単純化する不完全きわまりない「学説」の体(てい)をまったくなしていないデタラメの方法を駆使して「『古事記』上巻は歴史書ではない」と大ボラ(大法螺)を吹いて国民をダマす。
 次回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13」では、引き続いて「古事記上巻 并せて序」における「『古事記』は皇祖・天照大神の聖性を汚す反逆の歴史書である」と説明する記事の秘密を解明する。
 このブログの冒頭にて指摘したように、愛しき日本人よ――学者たちは全員グルとなって【誤読】をいうズルイ・デタラメの方法を駆使して真っ赤なウソの日本神話虚構説や日本神話学説などをデッチあげて、日本国と日本人を木っ端みじんにぶっ壊しているのである! この劣悪きわまりない、国民をまんまとダマす卑怯な所業は絶対にゆるしてならない! 日本国民よ 立ち上がれ! 学者たちの真っ赤なウソを暴け 暴露せよ 戦うのだ ダマされるな 学者たちのウソを木っ端微塵にぶっ壊すのだ!

| | コメント (0)

2022年6月28日 (火)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説はすべてウソなんだ!
 女王国名は「邪馬壱国」が真実なんだ!
 「邪馬壱国」は出雲地方であったのだ!

 だから 邪馬台国説は すべて真っ赤なウソだ!
 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
 愛しい日本国民よ 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
 バカにされるな コケにされるな 日本国民ョ!
 もう十分に ダマされた
 ――邪馬台国説が真っ赤なウソと断定できる遺跡を
 前人たちが作って 現在まで残っている!
 だから 学者たちの真っ赤なウソにあやつられるな!
 バカにされるな コケにされるな 
 デクのボウになるな 愛しき日本国民ョ!
 邪馬台国説は日本人をぶっ壊す最も卑劣なデタラメだ
 邪馬台国説は日本国をぶっ壊す最悪の疫病神なんだ

◆学者たちが「約1700年前、倭女王の卑弥呼が住んでいた地所は〔邪馬台国〕であった」と伝える書物は、通称『魏志倭人伝』とよばれている。というのも、3世紀後半に生存した中国の晋(しん)につかえていた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』の「魏書東夷伝末尾にある倭人伝」は通称『魏志倭人伝』とよばれることになったからである。
 3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』は残っていないが――現存する12世紀の刊本(かんぽん)の『魏志倭人伝』には「倭女王(卑弥呼)が居住した都であった地所は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。だから、学者たちはじめ学界も認めてマスメディアがヤタラに力説する「邪馬台国」は【誤読の、空想の産物】、真っ赤なウソだったのである。
 学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事は正しいと信用してはならない」という固い信念のもとに邪馬台国説を主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』の全記事は正しく、真実であったのである。
 だから、当然、卑弥呼は「邪馬壱国」に住んでいたことになる。
 というのも、邪馬台国説の論法に疑問を抱き、「『魏志倭人伝』の全記事は正しいのではないか。だから、卑弥呼が住んだ都の名は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しく真実であったと【科学】が証明されることになるからである。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来300年間も学界の伝統となった邪馬台国説は「九州に邪馬台国があった」、「邪馬台国は畿内にあった」と論争をつづけるが、両説は矛盾点・不合理・不正・非理などが発生していっこうに【科学】が成立しないために決着することができない。それというのも「邪馬壱国」と記してあるものを「邪馬台国であった」と誤読して、さらに「『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて立論する方法が正しい」と言い張る邪馬台国説は最初から空想の産物、真っ赤なウソだったからである。

◆「わが国が中国から漢字を最初に習得(しゅうとく)したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、わが国の学界が「絶対的に正しい」とされる定説である。
 しかし、3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』には「倭国には、中国で用いられる楷書(かいしょ)で構成される語と同義になるように変換することができる上古漢字があった」と証言する記事が2か所ある。
 「倭国には上古漢字があった」と指摘する最初に登場する記事は「倭国では、挙事(きょじ/祭りはじめ何か事をおこすとき)、行来(こうらい/遠くの地へ旅して帰還するとき)、云為(うんい/神に雨ごいや子どもの誕生などの願いごとを云って祈るとき)、骨を灼()いて卜するが、まず吉凶を占う目的は〔挙事、行来、云為〕のいずれなのかを告げる。その卜辞(ぼくじ/占いに用いる言葉と文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり中国の殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくの象形文字であった」と説明している。
 もう一つの記事は「倭国の王が使節を派遣して魏都や帯方郡(朝鮮半島のソウル市周辺にあった魏の出張政庁があった郡の名)や諸韓国に到着したときの倭国の国書、あるいは帯方郡に倭国に使節を派遣したときの文書において、倭国が国書に用いる上古漢字と魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書は差錯(ささく/相違)していたので、倭国の伊都国(いとこく)の港では捜露(そうろ/一字一字ずつ点検・確認して上古漢字と楷書が同義になるように変換)して、女王の卑弥呼に届いたときに差錯(誤訳)が無いように務めていた」と説明している。だから、わが国の学界が「絶対的に正しい」と信じる「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、日本人の常識となる定説の実体は【『魏志倭人伝』を誤読した空理空論】であったことになる。

 「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになったのである。
 『魏志倭人伝』が「令亀法」と記す「殷代(いんだい)の甲骨文字のごとき象形文字」であった「上古漢字」は「銀河文字」であったのである。
 『魏志倭人伝』に「令亀法」と記された「倭国の上古漢字の字源・字形・字義は銀河各部の形状」であった。この上古漢字は占いが終わって用済みになるとただちに消されたゆえ、文字が書かれた史料が出土しないことになった。というのも、上古漢字・銀河文字は王政(王道政治)の権力基盤であったからである。ゆえに、上古の銀河文字は反体制側の人々が習得して反乱・革命に利用すると王朝を崩壊させることができる威力を有していた。倭国で用いられていた銀河文字は、現在における世界や国家を破壊する「核」のごとき絶大な威力があった。ゆえに、倭の卜辞に用いられた上古の銀河文字は、用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物もさらに消さない人物の一族や消し忘れた人物の一族も全員、即刻、死刑となると厳重に定められていたのである。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、上古漢字・銀河文字は後漢時代後半の1世紀ごろに出現した「楷書(かいしょ)を音符(字音記号)」に用いていた。
 楷書も「漢字」とよばれるゆえ、楷書の字源・字形の原形・原義は卑弥呼が用いていた上古漢字と同じく「銀河各部の形状」であった。だから、伊都国の役人たちは港から見える・水平線から昇る銀河の帯を観察するのを日課にして、倭の銀河文字と魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書における相違点を研究して、上古の銀河文字と楷書の変換における差錯(誤訳)による失敗で国交に支障が生じないように努めていたのである。
 〔注 たとえば倭の銀河文字の[]の字義は「地図の形となる海岸線」を意味した。中国の楷書の[]の字義は「身分が賤(いや)しい」であった。「賤しい」の[][]に「淺()い」の右側の[]が加わる字であるゆえ「貝が採れる海の淺い地域、つまり海岸線」となる。だから、楷書の[]の字義は銀河文字の字源・字義を失った転義であったことになる〕。

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は銀河文字を発明した。だから、漢字は倉頡によって発明された。いまだ書いた文字史料が出土しない倉頡文字は銀河各部が字源・字形・字義となる銀河文字だったのである。
 倉頡は銀河文字が反体制側の人々が習得したならば容易に黄帝王朝は崩壊するということに気づいて、「文字は銀河から作られたと暴露する人物はじめその一族全員を死刑にする」、「書いた文字が用済みになったならば、ただちに消さない人物とその一族、また消し忘れた人物とその一族全員を死刑にする」という厳重な掟を定めた。だから、中国において倉頡文字を書いた史料は出土しないことになった。
 このような倉頡が発明した銀河文字がわが国に伝来して習得されていたのである。
 したがって、『魏志倭人伝』の大半の記事は「現在まったく不明となった、倉頡が発明した銀河文字の秘密」を科学的に解明できる重大な歴史史料であったことになる。
 ところが、現在、「倉頡は漢字を発明した」と伝える伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであると定まっている。
 でも、もしも新井白石以後の学者たちが『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方をしていたならば、「倉頡伝説は真実を伝えていた」と逆転していたことになる。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として現存する漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は「紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ところが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は、中国の現存する最古の上古音の漢字音よりも断然(だんぜん)新しい。このように、〔現在の学界の、漢字習得の定説〕は白川静著『字統』における〔わが国の漢字音〕における指摘に反して不合理となって【科学】が成立しない。
 いっぽう、『魏志倭人伝』の「倭国には楷書と差錯する令亀法(れいきのほう/甲骨文字)のごときの上古漢字・銀河文字があった」と説明する2ヵ所の記事は、白川静著『字統』の〔わが国の漢字音〕の指摘に合致して真実を伝えていたことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく上古漢字の漢字音が随所に記載されている。だから、【『古事記』上巻に記載される〔音〕という注がつく文字】は、白川静著『字統』が「現存する中国の最古の上古音よりも古い」と指摘する、【わが国の国語に残っている現存する最古の漢字音】であったことになる。
 漢字を発明した倉頡は「書いた文字は用済みになったならば、ただちに消さない者、消し忘れた者、またその者の一族全員は神罰が下されて死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めたが、「〔音(字音)〕だけは消滅しなくてもよい」と禁止しなかった。ゆえに、『古事記』上巻に多数記載された文字は楷書を〔音〕をあらわす記号に用いているが、この『古事記』上巻に記載された上古漢字・銀河文字の【字源・字形・字義】は【銀河各部の形状】であったことになる。
 だから、『魏志倭人伝』が「倭国の卑弥呼が用いていた」と伝えている銀河文字は、中国では五帝時代・夏后(かこう)時代・殷代前半に用いられていたことになる。

 現在、学界では今から約3300年前から出現する甲骨文字を「漢字の最も古い祖型」と定める。しかし、倉頡伝説が伝えているように、今から約5000年前に倉頡が漢字を発明していたゆえ、「甲骨文字は漢字の最も古い祖型」と断定する定説は根本的に間違っていたことになる。
 「漢字の最も古い祖型」は「銀河各部の形状を字源・字形・字義」とする上古漢字・銀河文字であり、『魏志倭人伝』は2か所の記事で「漢字の最も古い祖型の銀河文字」について説明している。
 殷代後半の甲骨文字は総字数が4000字を越えた。このため、「書いた文字は用済みになっても消さなくてよい。しかし、文字は銀河から作られたと容易にわかるように暴露した人物とその一族はただちに死刑にする」と厳重に定めた。だから、この「文字は銀河から作られたと絶対に暴露してはならない」という掟のために、現在の学者たちは「漢字は銀河(銀漢)から作られた事実」に気づかない。

◆上記したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく銀河文字は、中国において「上古音」と名づけられた最古の漢字音となる周代初頭より以前の殷代、夏代(かだい/夏后時代)、五帝時代のいずれかの時代にわが国に伝来して習得されたことになる。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――『古事記』成立(712)より10年前の702年、中国に渡った第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えたという記事がある。この「後稍夏音を習う」という遣唐使の言は「後(のち)に稍々(やや)、夏音(かおん)を習う」と解釈すべきことになる。
 つまり、「後稍夏音を習う」という言は「672年の壬申の乱から9年後の681317日、天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて『帝紀および上古の諸事を記定』させました。このとき、天武天皇は『夏音』を稍々習う(復興する)ことにせよと命じました」と意味するものであったことになる。
 だから、第7回遣唐使が告げた「夏音」という語は「紀元前2070年~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭に伝来して、わが国が習得した夏音文字」を意味したことになる。というのも、『魏志倭人伝』に記される「大夫(だいふ)」という語の語源は「夏代初頭に、中国から名門・益(えき)氏の王子と若者たち一行が荒波逆巻く玄界灘を横断して日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学問を広めた」とあらわすものであったからである。
 ゆえに、わが国に現存する夏音文字の字音は、現存する今から約3050前の周代初頭の中国の上古音よりも約1000年も古いことになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。この〔漢字生長史〕が明確に示すように、わが国の学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるは6世紀である」という主張に唯々諾々(いいだくだく)と従う定説は、()『魏志倭人伝』の「倭国には令亀(れいき)の法のごとき上古漢字があった」と伝える二つの記事と、()太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)でテーマにして詳細に記述した夏音文字の説明と、()音韻学の研究成果の三つの確かな史料を無視して排除する、【科学】に反する空理空論であったのである。
Photo_20220628140501
◆上記した681317日において「後稍夏音を習う」つまり「夏音文字を稍々復興する」ことにした天武天皇の「帝紀および上古の諸事の記定の命令」は、後年(720年正月28)に元明天皇に献上したが拒絶されて正史になれなかった書物『古事記』という書名になった。つまり、天武天皇の命令「上古の諸事の記定」における[][][]の3字を抜粋すると『古事記』という書名になる。その証拠に、『古事記』上巻には〔音〕という注がついて夏音文字が記載されている。たとえば、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚〕の箇所は、総字数381字で構成されそのうち〔音〕という注がつく夏音文字は計32字である。ゆえに、総字数381字中の夏音文字の32字は「稍(やや)」ということになる。『古事記』上巻における各説話は、〔音〕という注がつく夏音文字を稍々(やや)記載して作られている。ゆえに、遣唐使が「後稍夏音を習う」と表現した「天武天皇の世で実現しなかった歴史書編纂事業における夏音文字の復興命令」は『古事記』上巻で実現されたことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字は――白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という、中国に現存する最古の上古音よりも古い、現存する最古の漢字音である。

 「『古事記』上巻の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と表記されている。
 「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の書き下し文にフリガナをつけると、下記のごとくなる。
 「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元(こんげん)(すで)に凝()りて、気象(きしょう)(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
 上記のフリガナつきの文章だと見た目の印象が煩雑(はんざつ)になって、むしろ文意が混沌として判然としないと思われるので、下記のごとくフリガナ無しの文章をも示すことにした
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
 上記の「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は「臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇陛下に申し上げます。漢字は銀河から作られました。中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から夏音文字が伝来して、わが国は五帝時代に用いられた銀河漢字・書契(しょけい)と夏代初頭の夏音文字の学術を習得しました」と説明するものであった。
 だから、【「古事記上巻 并せて序」の冒頭文を構成する34の全漢字の字源・字形・字義】は「【漢字が作られた銀河各部の形状】を観察して芸術的に思考する(つまり、右脳思考する)と正しく訳することができる」と『古事記』上巻における歴史解明方法を説明するものであったことになる。
 要するに、上記した「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字をもって「参神造化の首」つまり「縄文時代の首(初頭)、中国からわが日本列島に移住した名門益氏の王子と若者たちによって()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字の学芸】と、()【五帝時代の最後の舜帝(しゅんてい)時代初頭から末までの約200250年間、代々、益氏がその官職を受け継いで完成させた正確な中国の海岸線地図(つまり、[]の字源の「海岸線地図」)と正確な地図作製方法】が伝来した。前期縄文の首(初頭)・中期縄文の首(初頭)・後期縄文の首(初頭)における造化(銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った造形芸術)の前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年に及ぶ芸術の参神(つまり、前期縄文・中期縄文・後期縄文時代初頭までの参時代の芸術の神)の伝統によって、中国の学問とわが国の芸術はともに同じ銀河範囲の各部の形状を観察して作成し成立するものであったため、益氏がもたらした学問と芸術の教えはわが日本列島の土器・土偶を作った芸術家たちによって習得された」と、太安万侶が説明していたことになる。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)()り以来、その使()中国に詣(いた)るに、皆大夫(だいふ)と称す。夏后少康(しょうこう)の子云々(うんうん)。」という記事がある。
 この記事の末部の「夏后少康の子」というのは「夏王朝の4代目の皇帝・少康の王子」と意味する。ゆえに、倭の使節が皆(みな)、中国に到着すると「大夫」と名乗ったのは「夏王朝の始祖の帝禹()の後をついで帝となった益の孫の王子や若者たちのごとく、荒海逆巻(あらなみさかま)く玄界灘を渡って中国に到着した」と誇示する、「吾は神に祝福された男だ 英雄だ」とあらわす語であったのである。
 万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、今日、「ますらを」は「益荒男」と表記する。ゆえに、「益荒男」は「益氏の王子や若者たちのごとく、荒波逆巻く玄界灘を渡ってきた男(おのこ)だ」という意味を略して成立した語であったのである。
 益氏は五帝時代の四番目の帝尭(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝舜(しゅん)の時代に「虞()」という「正確な中国海岸線地図を作製する重職」に任命されて、代々約200年~約250年のあいだ務めた。そして、益の首長は夏王朝の始祖の帝禹の遺言で帝位についた。
 司馬遷(しばせん)著『史記』の〔陳杞世家(ちんきせいか)〕は「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記す。
 「名門益氏を受け継ぐ益の孫の王子と若者たちは玄界灘を渡って日本列島に定住した」ため、益帝の子孫は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えたのである。
 『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭には「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」が登場する。この「天祖・彦火瓊瓊杵尊」は「益帝の孫の王子」であった。ゆえに、天祖の名に用いられる[]の右下には[]の字が配せられる。

◆前述したように、「銀河」の別名は「銀漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよばれることになった。
 漢字の発明を伝える伝説は「倉頡(そうきつ)伝説」とよばれる。漢字作成理論は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡によって発明された。
 倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と伝える。これゆえ、学者たちは「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と倉頡伝説を全面的に否定する。学者たちは――漢字は中国の民族の結晶であり、長い歴史のなかで発展してしだいに体系を整えてきたものであると考えるべきであると主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』は――漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた。また、中国の夏代初頭に名門益氏の王子・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)が日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を教えひろめた――と伝えている。
 280年~289年に著作された『魏志倭人伝』に記載される【倭国の対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30の小国名】によって、上記した【漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた歴史】が【科学】が成立して証明される。
 だから、『魏志倭人伝』に記載される【対馬国から狗奴国までの30の小国名は倉頡伝説が真実を伝えていると証明することができる【科学】が成立する確かな証拠であるゆえ――学者たちの「倉頡伝説は荒唐無稽のウソである」という主張は荒唐無稽の空想であったことが決定的となる。
 〔注 なお、邪馬壱国の東の海上にある名称不明の小国と、侏儒国(しゅじゅこく)・裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)という4か国は、わが国に益氏の王子と若者たちが夏代初頭に移住して漢字(銀河文字)が伝来した状況を説明している歴史史料となる。〕

 要するに、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人倉頡」は「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」の名称であった。「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」は「出産児の顔の形」に相似する。その「出産児の顔となる銀河部には両目、出産児の頭となる銀河部の後頭部に「目の形」にソックリの銀河部位があり、出産児の顔のアゴ()には「細い切れ長の目」の銀河部位がある。ゆえに、「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」には「目の形に相似する箇所が四つある」ゆえ、「漢字作成理論」は「四つ目」と表現され、「漢字作成理論を発明した倉頡」は「四つ目の怪人」とよばれることになったのである。
 倭女王の卑弥呼は「四つ目の銀河における横顔において、目の形がある後頭部とアゴに隣接する西側の銀河部位」を「邪馬(やま)」と名づけた。この「邪馬」は「出産児が産道を通過する頭蓋骨」をあらわし、[()]の字源銀河は「母体の子宮に相当する銀河」であったゆえ、卑弥呼は倭国の首都が所在する地所を「邪馬壱国」と名づけたのである。
 したがって、女王国名となった「邪馬壱」は「四つ目の怪人倉頡」と名づけられた秘密の銀河部と【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究を文字作成目的とした倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。

◆「四つ目の怪人倉頡の銀河部」は「漢字」の[]の字源部の中枢部である。
 「全漢字が作られた銀河の範囲」は、天文学では通称「夏の銀河」とよばれる。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。「夏の銀河」は「夏の星座がすべて漬()かる銀河」の通称である。
 「夏の銀河」は「はくちょう座の尾の部分(東の端)からさそり座の頭部(西の端)までの、壮麗で明瞭で巨大な銀河」である。
 「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」とよばれる銀河もあるが、「夏の銀河」は「春の銀河・秋の銀河・冬の銀河よりも壮麗で、もっとも形がはっきりしていて、もっとも巨大である」。
 ゆえに、「テレビの画面に映し出される銀河」の大半は「夏の銀河」であり、「夏の銀河」は「銀河」・「銀漢」の代名詞である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
Ginga_20220628140801
 漢字作成理論を発明した倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。また、現在のロシアのプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・乱暴・冷酷・強欲・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して反乱をおこして帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと深刻に心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする

 上記の【3】の掟のために、五帝時代の「書契」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は〔音(字音)〕が存在したが、文字を書いた史料は出土しないことになった。殷代後半の甲骨文字は4000字を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことにしたので、文字を書いた史料が多数出土することになったのである。
 そして、上記の【2】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「字源が解明できる・夏の銀河各部の名称」を定めていない。それゆえ、『魏志倭人伝』に記載された34の小国名に秘められた【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文の学芸の秘密】を解明するためには、「夏の銀河の各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、下記のごとく「夏の銀河の名称」を定めた。
00003_20220628140901
◆以上のごとく、【A】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」にて、『魏志倭人伝』は「女王卑弥呼が倭国の都と定めた地所の名は邪馬台国と書いてある」と主張して、「邪馬台国は九州であった」または「邪馬台国は畿内であった」と主張する学者たちの意見は【100パーセント誤読の産物】であったのである。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す。だから、女王国名は「邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
 というのも、「女王国名は邪馬壱国であった」と考えて、さらに「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と定めて1ヵ所も【誤読】を加えない論法にすると、『魏志倭人伝』の全記事は矛盾点や不合理な点が一点もなく【科学】が成立して「邪馬壱国は山陰の出雲地方であった」ことになる。だから、「女王国名は邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
 このように卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住してことになり、卑弥呼は九州にも大和・畿内にも邪馬台国にも住んでいなかったことになるゆえ、邪馬台国説は「雲をつかむような真っ赤なウソ」であったことになる。また、国名の「邪馬壱」は前述したように【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞】であると証明される。このように、「卑弥呼が住んだ地所は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明されて【科学】が成立して論理が完結(かんけつ)する。だから、邪馬台国九州説と邪馬台国説の実体はまぎれもなく100パーセントの空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

 【B】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」では「邪馬台国説は完全に空理空論である」と【科学】を用いて立証した。
 学者たちは女王国の所在地について【「天の北極」がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図】を用いて考える。ゆえに、この論法だと「天の北極の高度を緯度に換算する方法」で、倭の使節と船乗りたちは魏と国交を結ぶために玄界灘を往来したことになる。しかし、この「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」で科学的視点にもとづいて証明したように――倭の使節と船乗りは海上の位置と方角を精確に測定できなかったゆえ、倭の使節と船乗りたちは玄界灘はじめその先の大海を渡れず朝鮮半島に到着することが出来ずに全員死んでいたことになる。
 したがって、倭の使節は玄界灘を渡ることもまた往来することができなかったことが事実となると――『魏志倭人伝』には「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も、ましてや『魏志倭人伝』を構成する約2000字もすべて忽然(こつぜん)と消滅して、『魏志倭人伝』には1字も書かれていなかった真っ白な白紙であったことになる。
 だから、邪馬台国説の実体は「【科学】に反する、完全なる空理空論、空想、デタラメであった」ことが簡単明瞭に証明される。
 科学的視点に立って考えると――倭の使節は「原始のときから人類が精確に1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた【天頂にある緯度線と子午線をキャッチする方法】」をもって玄界灘を渡って魏と国交を結んで、無事に帰還していたことが明白となる。
 下に、倭の使節が往来した海の名「玄界灘」のうちの先頭字[]の字源解説図を配した。
 下図の左側の上部は、[(とう)]の字形解説図である。[]の字形は【天頂にある緯度線と子午線の図案】である。[]の下の[(よう)]の字源は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわしている。言いかえると、[]の字形は「骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道を通過する胎児の図案」である。
 結局、[][]を加える[]の字は「大海を往来するとき、胎児()のごとく無欲になって[]の字源【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチすれば、命(いのち)を手に入れることができるという、大海を往来するときの心得」をあらわした。
 だから、魏と国交を結ぶために倭の使節が往来した陸地から遠く離れた波の荒い大海が「玄界灘」と名づけられた秘密は――[]の字源「産道を通過する胎児のごとく無欲」になって、[]の字源「天頂にある緯度線と子午線をキャッチ」すれば死なずに往来できたゆえ――倭の使節が往来した九州の沖の大海は「玄界灘」と名づけられたのである。
K102_20220628141101

 【C】このブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」で解説したように、『魏志倭人伝』にある「倭国には上古漢字があったと伝える二つの記事」は真実であった。
 『魏志倭人伝』の2ヵ所の記事が「倭には上古漢字が存在した」と伝える、この上古漢字は「夏音文字」であった。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。わが国が習得した夏音文字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を保存していた。
 上記したように、今から約4000年前、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国には中国から夏音文字が伝来して習得されたのである。
 だから、わが国の考古学の見解に従って「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は【科学】に反する空想であったのである。
 漢字は【字源・字形・字義・字音】の4つの要素で構成される。前述したとおり、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、【夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状】であった。そして、倉頡は「口から発する言(ことば)となる字音はあらわすことができる」と定めたゆえ、『魏志倭人伝』には卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて残った。しかし、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名は()夏音文字の字音(をあらわす楷書)()後漢時代後半から出現した楷書の字音が混じりあう状況となっているゆえ、人名・小国名・官職名をすべて楷書の字音で読めば「『魏志倭人伝』には夏音文字が記載されて残っていない」と主張することができる。しかし、『古事記』の上巻には〔音〕という注がつき、楷書を字音の音符に用いて多数夏音文字が記載されている。だから、『古事記』上巻にもとづいて『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名にも夏音文字の字音は用いられて幾つか残っていると主張することができる。

 以上のごとく、【邪馬台国説が100パーセント空理空論・虚妄(きょもう/デタラメ)であること】は、上記した【A】【B】【C】の3点によっていとも簡単に証明される。
 【A】のごとく「女王国名は『魏志倭人伝』のとおり邪馬壱国であった」と考えると、「邪馬壱」という3字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器、の研究を作成目的として倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞」であったことが解明できる。また、【B】科学的視点に立って【魏と国交を結んだ倭の使節はどのように緯度を精確に測定して玄界灘を往来したのか】と考えると、【学者たち全員が主張する・現在の日本列島地図にもとづくの考え方では、倭の使節は玄界灘を往来できなかったこと】になる。また、【C】『魏志倭人伝』にある「2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代に、わが国にはすでに漢字が伝来していた」と説明する二つの記事によって、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は空理空論であったことになる。
 以上、邪馬台国説論者たちの「『魏志倭人伝』の全記事は正しくない」という主張に反して、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない全記事が正しい歴史史料であったことになる。
 この結果、『魏志倭人伝』に記述された真実は日本国の根本的な成り立ちや現在生きているわれわれ日本人の思想や行動と密接な関係をもつということが明らかになる。
 だから、学界やマスメディアの「邪馬台国説はもっとも正しい意見である」とする無責任な意見の言うとおりになってデタラメ・真っ赤なウソの邪馬台国説を破棄せずに放置していることは日本国が壊され、日本人の生活における最も大事なものを失って日本人が壊される――ということに、日本人は気づかねばならないことになる。

| | コメント (0)

«邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10