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2011年9月29日 (木)

日本古代の巨大な鳥の地上絵・2 「卑弥呼」と3字をあらわす地上絵の解明

わがブログの9月21日の「日本古代の巨大な地上絵・1」に、「静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町」がちょうど1千万坪に作成された巨大な鳥の地上絵であると指摘した。この巨大な鳥の地上絵の作者は、『古事記』のアマテラスオオミカミとスサノヲノミコトの二神の誓約説話末部に登場する「遠江の国造(くにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」であると考えられる。ゆえに、この大鳥の地上絵を、私は「建比良鳥(たけひらとり)の地上絵」と名づけた。

建比良鳥命は、建比良鳥の地上絵(細江町)の北隣の北区引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)に居住した。この引佐町の北隣は、愛知県新城(しんしろ)市の鳳来(ほうらい)町である。「鳳来町」の町名の由来となった鳳来寺は、文武天皇の大宝2年・702年、利修(りしゅう)上人によって開山された。

中国の正史『新唐書』日本伝は――利修上人が鳳来寺を開山した702年、中国に渡ったわが国の使節の遣唐使が「後稍夏音(のち・やや・かおん)を習う」と告げた――と記述する。

わが国には、紀元前2070頃から始まる夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、夏王朝の屋台骨を支えた名門・益氏の王子と若者一行が小舟を漕いで大海を渡って移住して、夏音文字の学芸を根づかせた。この夏音文字の学芸の伝来の痕跡は、後期縄文時代初頭の国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡・野中堂遺跡に現在も明確に残っている。大湯環状列石は秋田県鹿角市に所在する。

漢字の歴史は紀元前41世紀頃の三皇(さんこう)時代に出現した「結縄(けつじょう)」から始まり、紀元前31世紀頃の五帝時代初頭に「書契(しょけい)」(わが国では「書契」を「刻木(こくぼく)」と称する)」が考案され、紀元前21世紀の夏王朝が創設されて「夏音文字」が作られ、この”夏代初頭の夏音文字が日本に伝来している”と、702年に中国に渡った遣唐使は中国王朝に告げたのである。

ゆえに、10年後の712年に完成した『古事記』上巻の随所には〔音〕という注が付く1字1音読みの夏音文字が記載されて多数残った。また、『魏志』倭人伝に記載される「卑弥呼」はじめ人名・小国名もまた夏音文字である。

『魏志』倭人伝と建比良鳥の地上絵は、同時代の3世紀後半に作成された。ゆえに、建比良鳥の地上絵は夏音文字の学芸を後世に伝えるために作られた史跡である。いいかえると、建比良鳥の地上絵を学術調査すれば夏音文字の学芸の全貌が解明され、『魏志』倭人伝のすべての記事が史実を伝えるものであることが科学的に具体的に証明される。

鳳来寺は利修上人が作った本尊・薬師如来(やくしにょらい)を祭り、古来”峯(みね)の薬師”と呼ばれた。この”峯の薬師”の「峯」は、鳳来寺の東南にある建比良鳥の地上絵の喉(のど)に相当する「滝峯不動尊(たきみねふどうそん)」の「峯」である。この滝峯不動尊では行者が修行をおこなう。

「鳳来」という寺名は、「細江町の鳳(大鳥)が来る」である。だから、建比良鳥の地上絵は3世紀後半に生存した建比良鳥命が作成した史跡であったのである。

建比良鳥の地上絵の顔(頭)は、中国と日本に生息する「カンムリカイツブリの顔」を設計するものである。「カンムリカイツブリ」は「卑弥呼」の[弥]の字源となる。

現在の国土地理院が作製する精密な日本地図は【経緯度原点地】にて【天頂緯度の測定】をおこない、【一等三角点】が設定して三角測量がおこなわれて作製される。

建比良鳥の地上絵は現在の国土地理院の精密な日本地図の作製方法と同じく、ちょうど1千万坪に精密に大鳥の地上絵を大地に画くために【経緯度原点地】を細江町の都田(みやこだ)川の河口の東岸に設定し、この【経緯度原点地】から【天頂緯度の測定】をおこなって、【経緯度原点地】から同緯度(北緯34度48分)の東の滝峯不動尊を【一等三角点】を設定した。また、引佐町井伊谷にある八幡宮も【一等三角点】と設定された。この八幡宮において、1010年に武家の井伊氏が起源した時、井戸の中から井伊家元祖の共保(ともやす)が誕生すると演出して夏音文字の学芸を後世に伝える決意を示す儀式が行われた。

①都田川の河口の東岸(緯度軸に対して61度東北に傾く軸の角)と②滝峯不動尊(緯度軸に対して61度西北に傾く角)と③八幡宮(都田川の河口と滝峯不動尊の緯度軸に対して61度に傾く線の交点となる、58度の角度となる角)の3地点を線で結ぶと二等辺三角形(ほぼ正三角形))となる。

このように、建比良鳥の地上絵は夏代初頭に名門益氏の王子一行の日本列島移住によって伝来した夏音文字の天文地理学を伝えて、【経緯度原点地】で【天頂緯度の測定】をして、その後【三角測量】が行われたことが明確に残っている。

建比良鳥の地上絵の顔の正面の鼻面(はなづら)は、夏至の太陽が昇る東北29度の方角を向く。この「夏至の日の出の方角」で「夏。夏王朝。夏代初頭。夏音文字」をあらわす。

上記したように、滝峯不動尊は[弥]の字源の「カンムリカイツブリの喉(のど)」に相当する箇所となる。

建比良鳥の地上絵は大鳥が羽を広げた形となる。カンムリカイツブリの喉は白い。鳥の[羽]の下に[白](カンムリカイツブリの喉の色)を加えると[習]という字となる。

ゆえに、建比良鳥の地上絵は「夏音を習う」と表示するものとなる。

建比良鳥の地上絵の顔の「カンムリカイツブリ」の[弥]の字訓を、漢字の字源を解説する聖典『説文解字』(せつもんかいじ)は「久長なり」とする。ゆえに、[弥]の字義は「ひさしく」である。[弥]と[頻]の字を字を配する「弥頻く(いやしく)」という古語は「ますます盛んとなる」である。したがって、[弥]は「永遠に。後世ますます栄えよ」と意味することになる。だから、建比良鳥の地上絵の[弥]の字源を表示する夏至の日の出の方角を向く顔と「習」の字形を表示する羽・喉(滝峯不動尊)は「後世ますます栄えて夏音文字が復興せよ」と意味するものとなる。[習]の字訓は「よみがえる。復興する」だったのである

この702年の遣唐使が述べた「夏音を習う」という言は「夏音を復興する」と意味するものであったことが証明できる3千万坪の大鳥の地上絵が存在する。この大鳥の地上絵は、引佐町井伊谷に居住した井伊氏が1601年に移住した、現在の彦根市である。

彦根市の大鳥の顔は「鳰(カイツブリ)・カンムリカイツブリ・ハジロカイツブリの3種のカイツブリの合体形」である。彦根の大鳥の地上絵の胴体と顔(頭)は「夏至の日の出の方向」を指して「夏代初頭。夏音文字」をあらわす。

なお、建比良鳥の地上絵の【経緯度原点地】である「都田川の河口」は「卑湿な地(湿気がある低い地)」であるゆえ、[卑]をあらわす。建比良鳥の地上絵の顔は[弥]の字源をあらわす。引佐町と建比良鳥の地上絵(細江町)が境界線は「鳰(カイツブリ)の顔」の形となり、この境界線の北側の「金指(かなさし)地区と井伊谷の形」は「鳰と浮き巣」をあらわす形であることが容易に察知dきる。「鳰(にお)」は[呼]の字源となる。

このように、建比良鳥の地上絵の①経緯度原点、②大鳥の顔、③建比良命と井伊氏が居住した引佐町金指・井伊谷は[卑][弥][呼]の字源を表示する。

ゆえに、建比良鳥の地上絵は「卑弥呼」の3字を大地に画く史跡である。

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