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2011年10月 5日 (水)

彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵は織田信長をあらわす❻ 日本古代の巨大な鳥の地上絵・13

『魏志』倭人伝と同時代の3世紀後半に作成された①1千万坪の静岡県浜松市北区細江町・建比良鳥(たけひらとり)の地上絵と17世紀初頭に家康が命令して作成された②3千万坪の彦根の巨大な鳥の地上絵は、漢字の起源と夏音文字の学芸の秘密が解明できる、日本が世界に誇れる非常に重大な史跡である。

漢字の起源の秘密を伝えるとともにすべての漢字の字源が解明できる基礎知識を伝える記事は、『易経』繋辞(けいじ)上伝と下伝にある。そのうち、繋辞下伝は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と説明する。

この文に登場する「天象(銀河各部の形状)」と「地法」と「鳥獣の文」と「地宜(平面的に図化した地形、すなわち地図の形)」は、この4つ要素の他に歴史が加わってすべての字源が成立した。

繋辞下伝の漢字起源記事に登場する字源要素となった「鳥獣の文」は「万物の情に類して漢字を作成できる発明」すなわち漢字作成原理の名称である。漢字は約6000年前の三皇(さんこう)時代初頭の包犧(ほうぎ)氏によって起源したが、包犧氏は”漢字の始祖”にはなれなかった。というのも、万物の情に類する多数の漢字作成原理「鳥獣の文」を発明しなかったからである。今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が漢字作成原理「鳥獣の文」を発明した。ゆえに、倉頡が”漢字の始祖”と崇拝されることになった。「鳥獣の文」のモデルは〔受精、胎芽、胎児、出生〕までのドラマがおこなわれる「女性の生殖器官」である。倉頡がつかえる黄帝は”東洋医学の始祖”であり東洋医学最古の医学書『内経』を作成した。黄帝はどのようにして子どもが生まれるのか、この生命の神秘を研究した。この事業は三皇時代には着手していない最初のことであったので、女性の生殖器官には名もなく、ましてや名をあらわす文字もなかった。この名をあらわす文字を作る仕事は記録官である倉頡の役目であった。倉頡は女性の生殖器官は銀河各部の形状が相似することに気づき、「鳥獣の文」を発明した。倉頡はすべての漢字を考案するものではなかったが、漢字作成原理「鳥獣の文」によってすべての漢字が生まれたものであるから”漢字の始祖”と崇拝されることになった。7世紀初頭、三皇時代の結縄と五帝時代の刻木と夏音文字の知識を有する、わが国の巫女と覡(かんなぎ・神官)が仏教の経典から楷書を解読できたのも、倉頡が発明した「鳥獣の文」は中国の古代文字の知識が貧弱でも銀河の各部の形状を観ればすべての楷書を解読することができる偉大な発明だったからである。倉頡が発明した「鳥獣の文」は黄帝の女性の生殖器官の研究との合体によって成るものであったから、倉頡の肖像を画く古い絵図における倉頡の目は四つ有することとなった。その「四つ目」は「黄帝と倉頡の両目」をあらわすもので「鳥獣の文は黄帝と倉頡の二人による知恵の産物」と表現するものであった。

昨日の「日本古代の巨大な鳥の地上絵・12」で解説した「内裏(だいり)」の語源となる[委]と[倭]の字源・字義は、「鳥獣の文」のモデルとなった「女性の生殖器官」にもとづいても成立するものであった。というのも、大海を往来する時、遠くの地へ旅する上古の人々は「天頂点をキャッチ(精密な天頂緯度の測定を)」して、迷って寄る辺なくさすらい飢え渇(かつ)えて死なないように命を守ったからである。この「天頂点のキャッチ」をおこなう時、”必ず天頂点をキャッチする。なにがなんでも家族が待つ家に帰るのだ”と念じあるいは願うと失敗して迷って命を失った。天頂点をキャッチするコツは狭い産道を通過して誕生する胎児のごとく、無心無欲にならなければならなかった。だから、「産道をくぐる胎児」と「天頂点のキャッチする人」の両者は〔無心無欲で命を得る〕という点で共通すると定められ、「天頂点をキャッチする時の心得」は「産道をくぐる胎児のごとく無心無欲になること」となった。

子宮に宿る12週~20週の胎児の頭は母体の頭の方に向くが、その後は胎児は180度転回して頭が母体の足の方に向く。胎児の頭は産道を螺子(ねじ)のごとく骨盤口を脱出して顔を母体の背側に向いて誕生し、出産を待つ人の両手によって取り上げられる。この胎児のドラマにおける回転は「子宮において胎児の頭は180度回転し、胎児の頭が誕生する時も胎児の顔は母体の顔に対して180度回転し、母体の両足の間から90度上へ向けるようにしてさらに顔が母体の顔の方に向くように裏返しにして胎児は取り上げられる」と定義された。この「180度+90度と裏返し」は[真理]の[真]の字源となった。

そして、「90度の転回」が[委]と[倭]の字源と「内裏」の語源となった。この[委]と[倭]の字源は上記でも指摘したように、昨日の「日本古代の巨大な鳥の地上絵・12」で解説した。

中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「建武中元二年(57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」と記す。この後漢の光武帝から授かった金印は福岡県福岡市東区西部の志賀島(しかのしま)から発見された。この金印には「漢委奴国王」という5字が刻まれていた。つまり、『後漢書』倭伝は「倭奴国」と記すが、金印は[倭]の初文(最初の文字)の[委]に変え「委奴国」とした。

志賀島は玄海灘から博多湾を限る海ノ中道(なかみち)先端と繋(つな)がる島である。金印が発見されたと推定された志賀島の南岸を天頂緯度測定の観測地点とすると、海の中道から北へ伸びる海岸線が指し示す東北45度の水平線から天頂点をキャッチ部位となる銀河部位が昇り、この銀河部位は観測地点の天頂点と重なり、志賀島の南岸が指し示す西北45度の水平線へ没する。この天頂点をキャッチする銀河部位の円形の軌道において、天頂点が「最も南」すなわち「極南界」となる。志賀島の南の円形の「博多湾南岸(福岡市の北岸)」は、昨日の「日本古代の巨大な鳥の地上絵・12」の【外側にして主側と内側にして裏側】で説明した「270度の円弧となる外側・表側の水平線・地平線」の形に類似し相当する。金印出土地=観測地点より北側の陸地の志賀島は「90度の内側にして裏側」に相当する。この「90度の内側にして裏側」は「円の中心(観測地点)が角となる函(はこ)=四角形」を形成し、天頂点をキャッチする銀河部位の「最南端」となるので「極南界」となる。「極南界」の[極]の初文は「亟」であり、[函]の初文も[亟]である。

[極]と[函]の初文の[亟]の字源は「胎児の首が通過する狭い産道」である。だから、志賀島は「極南界」にして、[委]の字源「90度の内側にして裏側」を示すことになった。

織田信長の生地・尾張の知多半島は三河湾と伊勢湾に分ける。徳川家康の生地・渥美(あつみ)半島から伊勢湾の南岸の松阪市さらに四日市にかけての海岸線は、博多湾の湾岸のごとく円形となる。尾張の知多半島の美浜町の野間(のま)燈台の地点は志賀島の金印推定地に相当して極南界地点となる。東に伸びる知多半島の先端は天頂点をキャッチする銀河部位が昇る東北の地平線を指し示すポイントと見立てられ、北に伸びる知多半島は天頂点をキャッチする銀河部位が没する西北の地平線を指し示すポイントと見立てられた。湾形が円形となる三河湾・伊勢湾の地域において、知多半島の極南界・野間燈台と対岸の松阪市を結ぶと、天頂緯度測定の原理を示す中心軸となる。この中心軸は天頂点がある子午線に合致せずにズレている。ゆえに、この地域の中心軸(野間燈台・松阪市)が真南になるようにグット転回するように移動すれば、中心軸が子午線と合致するので、[倭]の字源を生んだ天頂緯度測定の原理が正確に示される。

だから、中心軸がズレる織田信長の生地の尾張と三河湾・伊勢湾の天頂緯度測定の原理と同様に、彦根の大鳥の地上絵は愛知川河口に沖島・梃子(てこ)を設置して南から東へ転回するイメージを表現する設計となったのである。この設計で、『魏志』倭人伝に記述する卑弥呼が「日本列島の東が南になる」と立論した転回倭地理をあらわした(彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵は織田信長をあらわす❹ 日本古代の巨大な地上絵11を参照)。

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