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2011年10月 4日 (火)

彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵は織田信長をあらわす❺ 日本古代の巨大な鳥の地上絵・12

『魏志』倭人伝は「日本列島の東は南に転回する」と記述する。この転回倭地理の記述から「『魏志』倭人伝の記事は【誤読】して良い」と、とんでもないことを言い張って傲慢(ごうまん)な単純化をする邪馬台国説の空論が歴史学界を支配することになった。

この日本列島の「東を南に転回する」という方位転回論は、[倭]の字源をあらわした。ゆえに、卑弥呼が統治する西日本の国名は「倭」と定められた。この[倭]の字源を表示する転回倭地理は2世紀末に卑弥呼によって立論され、738年まで約540年間、”真理である”と歴代王朝に制定されていた。

彦根市の大鳥の地上絵は、この[倭]の字源を幾つかの仕掛けで説明する。

彦根城の南南東29度の位置に、イザナミノミコトとイザナキノミコトを祭る多賀大社が鎮座する。この【東】にある多賀大社と【南】にある安土城を結ぶ線を延長すると、西ノ湖の東南の角となる南端の岸を嘗(な)めるように南の地点に至り、この南の地点で直角に折れる線となって北北西へと延びる。この北北西に延びる線は西ノ湖の西端の岸を嘗めて、鳰の海(琵琶湖)の中に浮かぶ沖島の東側を貫通する。

多賀大社は信長の居城・安土城より【東】にあり、多賀大社の【南】に安土城がある。信長は多賀大社の主神のイザナミノミコトに熱烈に憧れ、イザナキノミコトを崇拝した。ゆえに、「【東】の多賀大社=【南】の安土城」と言うことになり、この【東】=【南】とする仕掛けは「東に延びる日本列島は南に延びる」と卑弥呼が立論した転回倭地理をあらわすことになる。

安土城の天頂にめぐってくる銀河部は、沖島がある西北45度の地平線に没した。

この沖島は「梃子(てこ)」ソックリの形をしている。この梃子=沖島を彦根市西端の愛知川(えちがわ)の河口に設置すると想定すると、西ノ湖の北岸が彦根の大鳥の北の境界線に、西ノ湖の南岸が彦根の大鳥の東の境界線に合致することになる。

前々回の「日本古代の巨大な鳥の地上絵・10」で――1 「西ノ湖の北岸」の地宜は「彦根の北端の境界線」の形に合致する 2 「西ノ湖の南岸(首と背中に相当する岸)」は「彦根市の東の境界線(彦根市の大鳥の首から背中に相当する地点)」の形に合致する――と指摘した。

この「合致」は、愛知川の河口に【西】にある沖島=梃子でグット【北】へ上がるように少し動かせば、西ノ湖の北岸と彦根市の北の境界線は同じ形となり、西ノ湖の南岸は彦根市の東の境界線と同じ形となるようになっている。この仕掛けは、【東】の彦根市の大鳥の地上絵の境界線が【南】になるように転回すれば、【南】の西ノ湖の岸の形と同じになるとあらわしていることになる。だから、この仕掛けは[倭]の字源「東を南に転回する」を表現するものとなる。

[倭]の初文(最初の文字)は[委]である。[委]は「天に命を委(ゆだ)ねる」というぐあいに、[委]の字義は「ゆだねる」である。

大海を往来し遠くの地を旅するとき、縄文人・弥生人たちは位置(緯度)や方角を失って迷って落命しないため、天頂点と重なる銀河部位が天頂点と重なる4~6秒の短い時間に、天頂点をキャッチして命を委ねていた。この命を委ねる天頂点となる銀河部位は東北45度の水平線・地平線から昇り、西北45度の水平線・地平線に没する。この東北から西北までの軌道の外側にして表側の円弧の度数は270度であるが、東北・西北を結ぶ観測地点の内側にして裏側となる角度は90度である。

◆上記の【外側にして表側と内側にして裏側】の説明

水平線・地平線を平面的に図化すると360度の円形となる。この円の中心が観測者が居る地点にして天頂点となる。この円の中心で直角に交わる縦線と横線を画き、横線に東・西、縦線に南・北を記す。そして、東北45度と西北45のポイントを円弧上に記して、東北・円の中心(観測地点=天頂点)・西北の3点を結ぶ。この円の中心より南側の円弧は270度となるので、この【円の中心より南側の円弧】が【外側にして表側】となる。東北・円の中心・西北の3点を結ぶ円の中心の北側は四角形の角となって90度となる。この【円より北の四角形の角となる90度】が【内側にして裏側】と言うことになる。

この【内側・裏側となる90度の角度】は[委]と[倭]の字源となった。つまり、この角度は【東(東北45度)】は【南(観測地点・天頂点)】で【西(西北45)度】が加わって【90度】となるので、説明が簡素化されて【東を90度転回して南にする】と定義された。この【東を転回して南にする】という定義は”天頂点をキャッチして命を守るための重大な法則”つまり上古の人々の生活には最も重大な【天に命を委ねる時の法則】であったのである。このため、現代の我々の生活には必要としない[委]と[倭]の字源が成立したのである。この[委]と[倭]の字源における「内側・裏側」という観念は[内]と[裏]が結びついて「内裏(だいり)」の語源となった。「内裏」は「天皇の御殿。皇居」を意味する。

徳川軍最強の軍団と敵に恐れられた井伊の赤備えの大将・彦根藩初代の井伊直政は徳川家康を主君と仰ぎ命を家康に委ねて全身全霊をもって誠実につかえた。家康は織田信長を主君と仰ぎ、信長に命を委ね、これまた全身全霊をもって誠実につかえた。家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされる仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちに「律義な人よ」と皮肉られ陰口をたたかれた。家臣たちに信長に卑屈に従うものと思われても気にとめず、愚直にただひたすら20年ものあいだ信長に全身全霊をそそいで誠実につかえた。直政の胸に秘めた熱き願望は家康の胸に秘める熱き願望でありまた信長の胸に秘めた熱き願望であった。この3人は、イザナミノミコトに熱烈に憧れ、夏音文字の学芸と日本建国の”愛”の理念をなんとしても復興しようと願った。

3千万坪の彦根の大鳥の地上絵は尾っぽのほうに張るように長く伸びて「尾張」が連想できるように設計され、尾張の信長の願望は直政と家康の願望であったと表示するようになっている。直政は家康に命を委ね、家康は信長に命を委ねた。家康が命令して着工された直政・彦根藩の居住地の彦根市の大鳥の地上絵の南には、信長が築城した安土城が所在する。だから、【東】=【家康・直政をあらわす彦根の大鳥の地上絵】は、【南】=【安土城の主(あるじ)の信長】に命を委ねたと設計されているので、「東は南に転回する」という[倭]の字源を表現するものとなる。

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