« 『魏志倭人伝』に記述された1800年前の真実が目撃でき史跡が現存する この史跡によって、すべての邪馬台国説は誤読の空論であったことが証明される  | トップページ | 日本の人民には、邪馬台国説を”詐欺”と呼び、邪馬台国説学者たちを”ペテン師”と呼べる権利がある »

2011年11月 8日 (火)

邪馬台国学者たちの横暴は絶対にゆるしてはならない 心ある日本人よ 怒りをもって立ち上がれ‼

中国の正史『新唐書』日本伝には「702年に中国に渡った日本の遣唐使が『後稍夏音(のち・やや・かおん)を習う』と伝えた」という記事があり わが国に「原初漢字・夏音文字が伝来していた」と証言します

中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「わが国の漢字音」と題して「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用されるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」と指摘します 

この「いま残されているなかで最古の漢字音」が 702年にて遣唐使が「わが国に存在する」と証言した 原初漢字の夏音文字の字音です

千賀四朗編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)は「卑弥呼の文字を中国の上古音で読めば〔ピミカ〕になる。また魏以前の中古音で読めば〔ピミエクゥオ〕となる」と記します ゆえに、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」の〔ヒミコ〕という字音は 魏以前の上古音〔ピミカ〕よりも古い夏音文字の字音ということになります 

要するに 『魏志倭人伝』の「卑弥呼」はじめとする人名や小国名などに用いる文字は夏音文字であり 夏音文字は今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(縄文後期初頭)にわが国に伝来ました

中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』繋辞(けいじ)上伝には すべての漢字の字源を解明できる基礎知識が記述されています この基礎知識は下記のごとくです

「易は天地と準(なぞら)う。ゆえによく天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」

西暦180年頃 日本列島に居住する夏音文字の学芸に精通する一女子が 上記の『易経』繋辞上伝に記載される漢字の字源を知る基礎知識にもとづき 『魏志倭人伝』が「日本列島は東に伸びずに南に伸びる」と記述する転回日本列島地理を立論して 倭女王に選ばれました 上記の字源を知る基礎知識の文は[卑][弥][呼]の3字に要約できました ですから 倭女王の名は「卑弥呼」と定められました また彼女が立論した転回日本列島地理における「東を転回して南にする」という考えは[倭]の字源をあらわしました ゆえに 卑弥呼が統治した国名は「倭」となりました

『魏志倭人伝』末部に登場する「壱与(いよ)」は夏音名であり 壱与は『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと) 」であります 彼女は『魏志倭人伝』が列挙した34小国のうちの「伊耶(いや)国」で育ち 13才の時に35番目に服属することになった小国・日本の女王となって赴任し 日本の国作りの柱を”愛”と定め 日本の人民に”愛”を尊重するように説き 人民に敬愛されて「伊耶国の美しい女王」ということから「伊耶那美命」と愛称されました 伊耶那美命は倭の伊耶国出身者でしたから 倭国の人民にも”伊耶那美命”と敬愛されて尊敬されました

この壱与・伊耶那美命について『魏志倭人伝』は「卑弥呼はすでに死んだ。大きな墓を作る。円墳部の直径は百余歩(約150m)。奴婢(ぬひ)百余人を殺して、卑弥呼の墓に埋葬する徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。この徇葬は卑弥呼の後を受け継いで倭の大王となった男王が命令したが、この残虐な徇葬を憎悪する人民が倭王に服従しないで武器をもって反乱を起こしたので、倭政府は千余人の反乱者たちを殺した。また、倭政府は13才の時に小国・日本に赴任させた壱与を倭国にひきもどして女王に選ぶと、ついに反乱が消息した」と記述します 倭の反乱者たちは ”愛”の女王の壱与ならば徇葬を必ず禁止にするにちがいないと信じて戦うことを止めたので 倭国の反乱は終息したのです

西暦260年~290年頃 壱与・伊耶那美命が没した後に大和王朝の天照大御神が倭女王となり 伊耶那美命が提唱した”愛”の理念を憎悪し 小国・日本誕生史の消滅に躍起となり 日本建国の”愛”の理念を尊重する人民を弾圧(だんあつ)し 国家権力を強大化して大和朝廷の基礎を築きました

これゆえ 『古事記』の天照大御神と須佐之男命(すさのをのみこと)の二神の誓約説話は「須佐之男命一派が暴動をおこし、九州宗像(むなかた)王の天菩比命(あめのほひのみこと)を頭領とする7人の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が夏音文字の学芸で日本建国の”愛”の理念を後世に残す学術運動を起きていた」と記述します

この二神説話の末部に記載される7番目の建比良鳥命について 『古事記』は「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖である」と記載します この遠江国造の先祖である建比良鳥命は日本建国の”愛”の理念を夏音文字の学芸で後世に残すために 銅鐸で精密に天頂緯度測定して 都田川(みやこだがわ)の河口の東岸を経緯度原点と定め 三角土地測量して1千万坪の大鳥の地上絵を作成しました この大鳥の地上絵は 現在の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図となって現存します この大鳥の地上絵を私は作者の名にちなんで 「建比良鳥の地上絵」または「建比良鳥の地宜」と名づけました

『易経』繋辞下伝は 漢字の起源について「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字(漢字)を作った」と記述します この文中の「天象」は【銀河各部の形状(象形)】であり 「地法」は「黄河と長江の水が西から東へ流れる地の法則」であり 「鳥獣の文」は約5000年前に生存した”漢字の始祖”と崇拝される倉頡(そうきつ)が発明した「漢字作成原理の名称」であり 「地宜」は「平面的に図化した地図の形」すなわち「細江町の行政区域の大鳥の地上絵の形」です

上記の漢字の起源記事にもとづき 夏音文字においては 「天象」すなわち【銀河各部の形状(象形)】が【文字】であり字源であり本義であり 【地宜】もまた【文字】であり字源であり本義であり 【地法】も漢字作成原理【鳥獣の文】も【文字】であり字源であり本義でした 

ですから 建比良鳥の地上絵は その【地宜】をもって【銀河各部の形状】はじめ【地法】も【鳥獣の文】も【文字】であったことが後世の人々に解明できるように作られた史跡です

「銀河」は「銀漢」とも言いますから「漢字」は「銀漢から作られた字」の省略ということになり「漢字」は「文字」とも言いますから「天に多数の文字ありき」という秘密にもとづき「夜空」は「天文」と称されることになったのです 殷(いん)代に用いられた甲骨文字と周代に用いられた金文の字形は 【銀河各部の形状】に相似するように図案されています このように甲骨文字・金文の字形でも 【銀河各部の形状】は【文字】であったと証明できます

学者たちは 【文字】の歴史・起源・字源の秘密をなんにも調べようとせず 『魏志倭人伝』は「倭には文字があった」と明記してあるにもかかわらず ”倭には文字が無かった”または”倭には文字があったと書いていない”と勝手に言い張って ズルを決め込んでいます

倭には『易経』繋辞下伝が証言する【銀河各部の形状】を【文字】とする原初漢字の夏音文字が存在したので 建比良鳥命は後世の人々が【銀河各部の形状】を【文字】であると察知できる1千万坪の大鳥の地上絵を作成したのです

建比良鳥の地上絵は 「経緯度原点地・都田川河口の東岸」で[卑]の字源を 「建比良鳥の地上絵の頭部」で[弥]の字源を 「引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)と北隣の金指(かなざし)地区の地宜」で[呼]の字源をあらわします さらに [卑]〔弥][呼]の3字の字源をあらわす建比良鳥の地上絵は上記した『易経』繋辞上伝のすべての漢字の字源を解明できる基礎知識を表現する仕組みにもなっているとともに [倭]の字源「東が転回して南にする」をあらわす設計になっています ですから 建比良鳥の地上絵は『魏志倭人伝』に明記された夏音文字の学芸と日本建国の”愛”の理念に関する最も重大な歴史を 学者たちが”文献批判”という名の実体は【誤読】を用いて抹殺(まっさつ)したことが明確に証明できる史跡です 

建比良鳥の地上絵は『魏志倭人伝』の同時代に作成されました ですから 邪馬台国説は歴史学の基礎をまったく有していない似非(えせ)学者たちがデッチあげた【誤読の空論のデタラメ】であったのです

この建比良鳥の地上絵を 1010年に武家を創設した井伊氏が約600年まもって保存しました 当時の井伊家の頭首の直政(なおまさ)は譜代大名筆頭の地位につきました 1601年 井伊氏は本拠地の静岡県浜松市北区引佐町の井伊谷から現在の滋賀県彦根市に移住しました 翌1602年 直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して死去しました 徳川家康は直政の死をいたく悲しみ惜しみました  

1603年 家康は彦根藩を中心に彦根近隣の7ヵ国12大名を助勢させて 3千万坪の大鳥の地上絵の作成の着工を命じました 家康は1616年に没しました 彦根の大鳥の地上絵は着工から20年後の1622年に完成しました ゆえに 家康は彦根の大鳥の地上絵の完成を見ていません

家康の一生は 学者たちが『魏志倭人伝』から抹殺した夏音文字の学芸と日本建国の”愛”の理念の復興にささげるものだったのです ゆえに 建比良鳥の地上絵の守り番の井伊氏に譜代大名筆頭の地位を与え 彦根に移住させて井伊氏に3千万坪の大鳥の地上絵の作成を命じたのです

織田信長も 家康同様に 夏音文字の学芸と日本建国の”愛”の理念の復興に全情熱をかたむける生涯を送りました 1582年6月2日の未明 本能寺の変で信長は明智光秀に討たれました 家康は 信長を”夏音文字の学芸と日本建国の”愛”を理念を復興を願望するわが夢を叶えてくれる主君”と決めていました ですから 家康は信長に幾度となく煮え湯を飲まされる仕打ちを受けても ついに一度も信長を裏切りませんでした 大名たちには「律義な人よ」と皮肉られて陰口をたたかれ 家臣たちには信長に卑屈に従うものと思われても気にとめず 愚直にひたすら20年ものあいだ信長の補佐に徹しました

彦根の3千万坪の大鳥の地上絵の設計モチーフは 信長・直政・家康の3人が全生涯を賭けて実現しようとした夏音文字の学芸と日本建国の”愛”の理念を復興する願望を表現することだったのです 

直政が居住した引佐町の井伊谷・金指地区の地宜は「鳰(にお)の姿と浮巣」の形に設計されて [呼]の字源をあらわしました 『魏志倭人伝』は直政の本拠地の遠江の小国の名を「不呼(ふこ)国」と記載します 移住した近江の小国名を『魏志倭人伝』は「呼邑(こお)国」と記載します 近江・琵琶湖の古称は「鳰の海」です 「琵琶湖」は「鳰・カイツブリ」の姿に相似するので「鳰の海」と呼ばれ 近江は「呼邑国」という小国名となったのです ゆえに 「卑弥呼」の[呼]の字源は「鳰・カイツブリ」です

『魏志倭人伝』は信長が生まれ育った尾張の小国名を「弥奴(みな)国」と記載します つまり「卑弥呼」の[弥] 「弥奴国」の[弥]の字源はカイツブリの1種の「カンムリカイツブリ」です

家康の生地の三河を『魏志倭人伝』は「好古都(こかた)国」と記載します 好古都国の「渥美半島の地宜」はカイツブリ類の一種の「ハジロカイツブリ顔と首」の形に相似すると見立てられました ハジロカイツブリは倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」を象徴する鳥です ハジロカイツブリの顔には扇の形に相似する美しい金栗色の飾羽があります ゆえに 家康は戦場における本陣には「金扇の馬印」を設置しました この「金扇の馬印」は「ハジロカイツブリの顔にある扇の形に相似する金栗色の飾羽」を表現するものだったのです 〔ハジロカイツブリは水に浮いている間は黒っぽいが、飛び立つと羽の内側に白い部分が見える〕ので これが名前の由来となりました

彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は「信長・直政・家康」を象徴する「カンムリカイツブリ・鳰・ハジロカイツブリの3種のカイツブリの顔の合体形」に設計されています そして大鳥の地上絵の顔・頭は夏至の日の出の方向を指さし 「夏至」すなわち「夏音文字」をあらわします 「ハジロカイツブリ」の「はじろ」は「羽・白」ですから、[羽]の下に[白]を加える字は[習]となります ですから 彦根の大鳥の地上絵は702年に中国王朝に遣唐使が伝えた「夏音を習う」という発言をデザインする史跡です ただし 彦根の東端のグニョグニョと蛇行する境界線は ハジロカイツブリの翼の付け根の部分だけを表現して 翼の形を表現しませんので「夏音を習わず(夏音文字は未だ復興していない)」とデザインするものです(説明が後になりましたが、「習う」の意味は「復興する」です)

彦根市を周囲する大鳥の形をした境界線は よく見ると 東南の安土城の西方に所在する西ノ湖の湖岸とほぼ同じ形に設計され(顔と背中の一部分=遠江の浜名湖の北岸をあらわす部分の形が相違する) [倭]の字源を表現して「東が90度転回して南になる」ように造形されています 

このように 建比良鳥の地上絵だけでなく 彦根の大鳥の地上絵でも 『魏志倭人伝』に記述される卑弥呼が立論した転回日本列島地理と夏音文字は実在したものであったと証明できます

いままで「夏音を習う」・[倭]の字源・「卑弥呼」をあらわすと解説した彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は 現在の滋賀県彦根市の行政区域をあらわす地図の形です

ですから 邪馬台国説は”歴史学の文献を正確に読まなければならない”基本中の基本原則をまったく無視した似非学者たちがでっち上げた誤読の空論だったのです

『魏志倭人伝』の記事はすべてが史実を伝えます 学者たちが加えた【誤読】(文献批判)はまったく必要ありません したがって 卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国」では「邪馬壱(やまい)国」です 6千万人の人が1億2千万人の人が 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えないで読むならば 全員が卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であったと 一つの答えになります ですから新井白石以来 学者たちは【誤読】に熱中して無意味な空論を続けてきただけのことだったのです

このように 邪馬台国説学者たちは愚にもつかない【誤読】で 日本のすべてを創った根元知と日本建国の”愛”の理念を抹殺しました このような日本人の命と魂と知性を侮辱する ひどい横暴は絶対にゆるされない大罪である 心ある日本人よ 怒りをもって立ち上がってください 

邪馬台国説を抹殺しなければ 日本が抹殺される したがって どっちが抹殺されるかの問題なのです

|

« 『魏志倭人伝』に記述された1800年前の真実が目撃でき史跡が現存する この史跡によって、すべての邪馬台国説は誤読の空論であったことが証明される  | トップページ | 日本の人民には、邪馬台国説を”詐欺”と呼び、邪馬台国説学者たちを”ペテン師”と呼べる権利がある »

おすすめサイト」カテゴリの記事

ニュース」カテゴリの記事

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

アルファベットの起源」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 邪馬台国学者たちの横暴は絶対にゆるしてはならない 心ある日本人よ 怒りをもって立ち上がれ‼:

« 『魏志倭人伝』に記述された1800年前の真実が目撃でき史跡が現存する この史跡によって、すべての邪馬台国説は誤読の空論であったことが証明される  | トップページ | 日本の人民には、邪馬台国説を”詐欺”と呼び、邪馬台国説学者たちを”ペテン師”と呼べる権利がある »