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2011年11月22日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・5

 天文学では、〔秋の星座が漬(つ)かる銀河〕を”秋の銀河”、〔夏の星座が漬かる銀河〕を”夏の銀河”と呼称する。”秋の銀河”のうち、上古(三皇時代から周代末期まで)、中国の天頂を”秋の銀河の西部”がめぐってきた。しかし、”秋の銀河の東部”は天頂より南を通過し、さらに”秋の銀河の東部”から1字も漢字は作られなかった。ゆえに、これより説明が煩雑になるので、”秋の銀河の西部”を単に”秋の銀河”という名称にする。

 この秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から、すべての字源を知ることができる1400字前後の基本字が作られた。

 秋の銀河と夏の銀河の写真は左に示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bにて表示した。 

 前回(4)で解説したように、竜安寺の石庭の5群の石組は秋の銀河と夏の銀河の各部の形状が表現できるようになっている。したがって、石庭を観察し、人の横顔に似る第1群・第3群・第5群の石組の大石のごとく秋の銀河と夏の銀河を仰ぎ観れば、すべての漢字の字源は解明できる。

 漢字は、今から約6000年前の三皇時代初頭の包犧(ほうぎ)氏の時代から起源した。中国の古典『易経』繋辞(けいじ)下伝は、包犧氏が作った漢字の名を「結縄(けつじょう)」と記載する。
 今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が、漢字作成原理〔鳥獣の文〕を発明し、包犧氏が開発した起源漢字「結縄」に代えて「書契(しょけい)」を作った。また倉頡は漢字作成原理〔鳥獣の文〕を発明した。この発明によって、秋の銀河と夏の銀河各部の形状から万物の情(イメージ)を類似する多数の漢字が作ることができるようになった。
 漢字の歴史は包犧氏から始まるが、包犧氏は自らの氏族をあらわす漢字を作成することができなかった。しかし、倉頡の〔鳥獣の文〕の発明によって[包]と[犧]の字を作ることができるようになった。ゆえに、倉頡は”漢字の始祖”あるいは”聖人”と崇拝された。したがって、「包犧」という氏族名は包犧氏自身が作った名ではなく、倉頡が作った書契によって作られたことになる。三皇時代の”三皇”は、包犧氏、女媧(じょか)氏、神農(しんのう)氏である。「女媧」も「神農」という氏族名も、倉頡が考案した書契によって作られた。

 倉頡が作った「書契」は「契刻(けいこく)」ともいい、「書契」も「契刻」も「文字を木に刻む」と意味する。これゆえ、わが国では「文字を木に刻む」を省略して「刻木(こくぼく)」と呼んだ。

 『魏志倭人伝』に「昔から、 倭の使者が中国に到着すると、 皆”大夫”と称した」と伝える記事がある。
 今から約4050年前、帝益の孫の王子と益氏の若者たちが、中国大陸から日本列島に移住して夏音文字の学芸を伝えた。倭の使者が皆口々に名乗った「大夫」という語は”夏音文字の学芸を伝えた帝益の孫の王子と同じように、大海を渡ってきた”と自らを誇りとする言葉であり また大海を無事に渡った安堵感を示す言葉であったのである。
 というのも 帝益の孫の王子は益氏の若者たちを率いて、[大]と[夫]の字源となる「十字の銀河」を天頂緯度を測定し経度(子午線・南北)を測量する物差し(羅針盤)にして、大海を渡り日本列島を移住したからである。

 漢字の字源を解説する聖典『説文解字』は[大]の字源を「天は大なり。地は大なり。人もまた大なり。故に大は人の形に象(かたど)る」と解説し、[天]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
 この[天]の字源解説の「至高にして上なし」は「最も高く、それ以上の上が無い」と意味するゆえ、「天頂(天頂点)」ということになる。というのも「天頂点」は「最も高く、それ以上の上が無い天体部」だからである。
 三皇時代から紀元前3世紀の周代末期まで、「十字の銀河」が中国と日本列島の天頂にめぐったきた。だから、[天]の字源銀河は「十字の銀河」(秋の銀河内の銀河部)であり 「十字の銀河」と天頂にめぐってきて天頂点となる部位をキャッチして土地と人が居る地点の緯度と方角を精密に測定した。また、「十字の銀河」は東に向かって歩く人の側身形、西に向かって歩く女性の側身形、人の正面形、人の背面形」に相似して、まさに[大]字形である。ゆえに、『説文解字』は[大]の字源銀河である「十字の銀河」を「天は大なり。地は大なり。人もまた大なり。ゆえに人の形に象る」と解説した。「十字の銀河」は[一]と[大]の字源であるから、『説文解字』は[天]の字源について「一大に従ふ」という解説をつけ加えたのである。

 上記の倭の使者が皆称した「大夫」の[夫]の字源銀河も「十字の銀河」であった。
 『説文解字』は[夫]の字源を「十尺を丈と為(な)す。人は長(たけ)八尺なり。故に丈夫という」と解説する。
 『説文解字』の字源解説とおり「十字の銀河」の見かけの大きさは十尺=10度=1丈であり、人の頭から足元までの人の姿に似る背丈(せたか)の見かけの大きさは8尺=8度である。「十字の銀河」は前回(4)で解説したとおり、「十字の銀河」は[丈]の字源でもあるので 『説文解字』は[夫]の字源を「丈夫」なりと解説した。背丈が八尺もある大男・大女は健康に育った人であるから、「丈夫」は「健康な体」を意味することになった。また「十字の銀河」は緯度と経度を精密に測定できる確かな物差し(羅針盤)となったので、「丈夫」は「丈夫な箱」と表現するように「しっかりして、くずれたりしない様子や確かな物」と意味することになった。[大]の字源「十字の銀河」は精密に緯度と経度が測定できて、心配せずに大海を往来できる確かな羅針盤となったので「大丈夫」という日本語が出現し、この「大丈夫」は「心配無用」と意味することになったのである。

 「十字の銀河の頭部から北部」の見かけの大きさが4尺=4度の部分は〔縄を四つ輪の形に結ぶ形〕に観えるので、包犧氏が作った起源漢字は「結縄」と呼ばれるようになった。
 四つの輪のうち最大の輪の形となる「十字の銀河の頭部」の見かけの大きさは2尺=2度である。この「十字の銀河の頭部」は「木の幹を横に切ると見える年輪部分」のようにも観え、「十字の銀河の人の首から左右に開いた足までの部分」は「木の切り株の幹と根の部分」にも観える。この「切り株」の部分に緯度の目盛りがあると想定して、倉頡が考案した文字は「木に文字を刻む」と意味する「書契」と称されることになり、わが国では「刻木」と呼称されることになった。 

 五帝時代から周代末期までは、「刻木」の語源となった「十字の銀河」が中国と日本の天頂にめぐってきたので、「倉頡が考案した漢字・夏音文字・殷(いん)代の甲骨文字・周代の金文」も「刻木」と呼ぶべきことになる。
 (しかし、この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕においては、「書契」もしくは「刻木」は五帝時代の文字と限定し、「夏音文字」「甲骨文字」「金文」は独立させて、「書契」あるいは「刻木」と原則的に呼ばないことにする)

 竜安寺の石庭の東端にある第1群の石組は、数字の「8」の字に描く砂の紋様に包囲される。「結縄」の語源となった「十字の銀河の頭部より北部」は、第1群の石組を包囲する数字の「8」を描く砂紋の形にそっくりである。そして、「第1群の石組」は僧侶や人の頭部(横顔)に相似するので「十字の銀河の頭部」に見立てることができる。ゆえに、「第1群の石組と砂紋」は包犧氏が作った「結縄」をあらわすことになる。
 白砂が全面に敷きつめられる平庭は、東西の方向に多くの線の紋様が刻まれる。だから、この「東西の方向に多くの線を刻む砂紋」は「刻木」をあらわしていることになる。というのも、「東西の方向に引く線の紋様」は「緯度線」や「精密に測定できた天頂緯度線」をあらわし、また「木の切口に見られる模様」すなわち「木目」にも見立てることができるので、 五帝時代から周代末期までの天頂を通過した「十字の銀河」をあらわすものとなるからである。したがって、白砂を敷きつめて砂紋で「木目」をあらわす石庭は、倉頡が考案した「刻木」をあらわすことになる。

 竜安寺の山号は「大雲山」である。「夏の銀河の西南部」の西半分は「胎児の姿に似る銀河」であり、「夏の銀河の西南部」の東半分は「巨龍の銀河の頭と首」の部分となる。この西半分と東半分が一体となる「夏の銀河の西南部」は、前回で指摘したように、「第1群の石組と砂紋」に相似する。第1群の大石は石庭における最大の石であるので[大]を示す。そして、「夏の銀河の西南部」は〔渦を巻いて湧き上がる入道雲〕のように観えるので [雲]の字源となった。だから、「第1群の石組と砂紋」は山号の「大雲山」をあらわすものとなる。

 「第1群の石組を包囲する数字の[8]の字を描く砂紋」は「龍の頭と首」に観える。だから 「第1群の石組を包む砂紋」は寺号「竜安」の[竜(龍)]をあらわす。第1群の石組の大石は「安産」をあらわす大きな妊婦の円く突き出たおなかに相似する。ゆえに、この大石は「安産」の[安]の字源を示す役目をも有して、寺号の「竜安」の[安]をあらわすものとなる。 

 なお、〔龍(竜)の形に似る銀河部〕は秋の銀河と夏の銀河の範囲に4ヵ所ある。
 この4ヵ所は、龍の頭と首となる夏の銀河の西南部から尾となるわし座α星(彦星・牽牛星)までの①「巨龍の銀河」、[為][偽]そして[瀧(滝)]の字源となった水中に辰(たつ)の顔が観えるような形をした②「潜龍(せんりょう)の銀河」、辰の頭(顔)の形に相似すると観える③「北アメリカ星雲」(日本の紋章「雨龍(あまりゅう)の龍の頭は北アメリカ星雲に相似するように図案化される)、そして④「[龍(竜)]の甲骨文字の字形と金文の字形となった銀河部」([字]の字源「鬼の姿に似る銀河」の北側の銀河部が龍の頭に相似し、「十字の銀河」が「龍の身体部」となる)である。
 この4ヵ所の〔龍の形に似る銀河部〕を、『説文解字』は「能(よ)く幽にして能く明、能く細にして能く巨、能く短にして能く長。春分にして天に昇り、秋分にして淵に潜(ひそ)む」と解説する。だから、白砂の石庭には「能く幽(④の銀河)にして能く明(①の銀河)、能く細(②の銀河)にして能く巨(①の銀河)、能く短(③の銀河)にして能く長(①の銀河)。春分にして天に昇り(①と③の銀河)、秋分にして淵に潜む(②と④の銀河)の龍」が棲んでいることになる。 

 前回で解説したように、「第3群の横三尊の石組」は「十字の銀河の下半身」、「第4群の石組」は「十字の銀河の上半身」に見立てることができる。
 第4群は2個の石からなり、西の「小石」は「刻木」が連想できるように「切り株」の形に相似し、東の「大石」はよく見れば「フクロウの頭」の形に観える。というのも、フクロウ類はきわめて大きな耳を有するが、この耳の大きなフクロウの横顔に第4群の大石の形は相似するからである。
 『説文解字』は[観]の字源を「諦視(ていし)するなり」つまり「審(つまび)らかに見るなり」と解説する。ゆえに「観る」という語は「審らかに見る」つまり「事物を詳細に見て、左脳があつかう言葉ではなく右脳があつかうイメージ(心像)で考えてどのような事物に似ているかと察知する」と意味する。
 「十字の銀河の胸部から腹部の両側の暗黒部」を諦視すると、「フクロウの両目」のように観える。そうすると、「十字の銀河の胸部から腹部」は「フクロウの鼻と嘴(くちばし)」のように観える。このフクロウの顔の形を目安にすると、十字の銀河より南側の「オス鹿の横顔に似る銀河」が「両翼を広げて飛ぶフクロウの姿」に観えてくる。ゆえに、[観(觀)]と[雚]」の甲骨文字と金文の字形は「フクロウの姿」を図案化したものである。この[観(觀)]と[雚]の字源となる「フクロウの銀河の形」は、「十字の銀河とその両側の暗黒天体部」を審らか(詳細)に見て左脳ではなく右脳でフクロウの顔に相似するとイメージ解釈しなければならない。だから、「観る」は「審らかに見て、右脳で考えて【銀河の形】の【文字】を察知する」と意味することになったのである。したがって、「深遠な真理をみる」の「みる」は「見る」ではなく「観る」と記すのが正しいと定められることになった。

 フクロウの頭部にいわゆる耳のようなものが立っているものを「ミミズク」と呼びならわしているが、これは耳ではなく 一種の羽冠(うかん)である。したがって、[観(觀)]と[雚]の甲骨文字と金文の字形は「フクロウとミミズク」をデザインしたものとなる。
 「十字の銀河の頭部」は「兎(ウサギ)」の顔に相似し、「結縄」の語源となった「8」の字の形の銀河部の両側には「兎(ウサギ)」のような形の銀河部があるので、「十字の銀河の上半身」は「兎の姿」に相似する。上記したように、「刻木」の語源となった「十字の銀河」は「木(切り株)」の形に観える。ゆえに 「十字の銀河の上半身」に見立てられる「第4群の石組」は[観(觀)]と[雚]の字源「ミミズクとフクロウ」をあらわして、大石はミミズクとフクロウの頭部に 小石は「木(切り株)」の形に相似する。これゆえ、「ミミズク」は漢字であらわすと「木兎」となり、「フクロウ」は[鳥]の下に[木]が加わる「梟」となった。
 フクロウは首を左右や円形に動かし、顔を上下さかさまにしたりすることもある。石庭は東(左)を西(右)にしたり、南(下)を北(上)にさかさまに考えたりして、字源を解明するようになっている(この字源解説は複雑になるので、今回においては省略する)。
 フクロウは後方を見るときは頭を180度も回転することができる。
 「トラフズク」という名のフクロウの頭は270度も回転できる。天頂を通過する銀河部は東北の地平線から昇って270度の西北の地平線に没する。ゆえに、トラフズクの頭の回転と天頂にめぐってくる銀河部の出没地点の両者の方角は同じ270度である。
 「第3群の大石」は「虎の子の横顔」に相似する。ゆえに、第3群の石組から第4群の石組の大石は「トラフズクの頭部」をあらわすものと見立てることができる。 

 「第3群と第4群の石組」は「十字の銀河」に見立てることができる。
 前回にて指摘したように、「十字の銀河」は[道]の字源「オス鹿の横顔」においてオス鹿の「角に見立てられた。 
 「十字の銀河の上半身」は「兎の姿」に相似するゆえ、「十字の銀河」は「兎」に「角」の字が加わる「兎角(とにかく)」(ほかの事情はさておいて)という日本語の副詞の語源となった。
 「十字の銀河」は「立木」に見立てられ、[字]の字源となる「鬼の姿に似る銀河」は「十字の銀河を見上げる天子(大王)や王の姿」に見立てられて[見]の字源となった。そして、「鬼の姿に似る銀河」は「十字の銀河から生まれた子」と見立てられたゆえ、「十字の銀河」は「立木」(偏)に[見]が加わる[親]の字源となった。
 「十字の銀河」は[宀(べん)]の字源となり、「十字の銀河から生まれた子」に見立てられた。「鬼の姿に似る銀河」は[子]の字源となり、「十字の銀河」の[宀]に「鬼の姿に似る銀河」の[子]が加わって[字]の字源が成立した。
 この[字]の「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」は「母親が子を抱きかかえて乳を与える姿」にも観える。ゆえに、『説文解字』は[字]の字源を「乳するなり」と解説し、[乳]の甲骨文字の字形は〔母親が子を両腕で抱きかかえて乳を与える形〕に図案化された。
 だから、[字]の字源「乳するなり」を示して、石庭には乳白色の白砂が敷きつめられている。

 「十字の銀河」は[文]の字源であり、「十字の銀河」と[子]の字源の「鬼の姿に似る銀河」から最も多くの漢字が作られたので、銀河から作られた図書の総称は「文字」となった。

 石庭は油土塀(あぶらどべい)に囲まれた空間となる。この築地(ついじ)塀の「油土塀」は「十字の銀河」と同じ色をしている。油土塀は南から西へと直角に折れ曲がって石庭を囲む。 したがって、油土塀は『魏志』倭人伝に記述される〔日本列島が90度転回する地理〕の秘密=「時計の針が進む方向に南を90度転回して西にする」と定められた[倭]や[委]の字源をあらわす。 

 西端の油土塀は南北幅いっぱいに5丈・10mの長さであるが、東端の油土塀は南北5丈に寸足らずで短く3丈・6mしかない。また西端の油土塀は西側の平庭に食い込まないように作られているが、東側の油土塀は東側の正方形に平庭に食い込んでいる。ゆえに、東端の「油土塀」と油土塀で正方形が欠ける「東側の平庭」は[欠]の字源をあらわす。
 第1群の石組を囲む砂紋は東端の油土塀の北端に連結する。〔第1群の大石越しに南へ伸びる油土塀〕を眺めると、[欠]に[伸]が組み合わせる「欠伸(あくび)」という語が連想できる。
 ゆえに [欠]の字源を表示する「東端の油土塀と正方形が欠ける東側の平庭」によって――次・欲・慾・歌・欧・欣・欺・歓・軟・欬・欸・欷・款・欽・嶔・俽・惞・掀・歆・蠍・厥・缼・橛・撅・歇・歔など、[欠]の部首を有する字の字源が解明できるようになっている。

 したがって、同様に石庭から[文]の字源が「十字の銀河」であることを理解すると、[文]の部首を有する紋・斎・濟・齎・汶・蚊・炆・旻・閔・憫・紊・芠・雯・蚉・斌・斑・斐・斕の字源も解明できることになる。

 上記の[欠]の字群に登場する偏の[谷]の字が付く字群、[斤]の字が付く字群、[其]の字が付く字群など、次から次へと解明できる。

 だから、拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』に所載した資料Bの「秋の銀河と夏の銀河」の写真と白川静著『字統』のような字源字書などを参考資料にして、竜安寺の石庭が秘める字源について研究すれば、すべての字源を解明することができる。

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