« 枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・6 | トップページ | 枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・8 »

2011年11月27日 (日)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・7

 前回まで解説した「夏音文字の学芸」は「鬼道(きどう)の学芸」とも言い換えることができる。

 『魏志倭人伝』には「倭女王卑弥呼が鬼道を事(まつ)りてよく衆を惑(まど)わす」という記述があり、この文は「倭女王卑弥呼が鬼道を祭って民衆を立派に統治した」と訳すべきことになる。というのも「惑わす」は「妖惑(ようわく)する」という意味ではなく、「民心を一つにiまとめる」と意味するからである。
 [惑]の初文(初めの文字)は[或]である。この[或]に[囗(い)]を加えると[國]という字になる。 この[國]の字が示すように、[惑]の本義は「民心を一つにまとめる」であったのである。なお [或]は[國]の初文でもある。ゆえに、[或]に[心]を加えた[惑]の本義は「国民の心を一つにまとめる」であって、「まどう。うたがう。あやしむ」という字義は本義を失った転義ということになる。

 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「卑弥呼は鬼神の道を事(まつ)り、よく妖をもって衆を惑わす」と記述する。しかし、この[妖]という1字を入れたのは誤訳となる。
 『魏志倭人伝』の「鬼道」を、『後漢書』倭伝は「鬼神の道」と記す。
 司馬遷著『史記』夏本紀は夏王朝の始祖の帝・禹(う)は「衣食をうすくして鬼神への供物を豊富にして祀った」と記述する。この帝禹が祀った「鬼神の道」が日本列島に伝来した。
 ゆえに、約1700年前に生存した卑弥呼は「夏音文字の学芸」すなわち「鬼道の学芸」に精通していた。当時、夏音文字の学芸が倭女王になれる資格であったゆえ、卑弥呼は倭女王に選ばれたのである。

 中国でも日本でも銀河から作られた文字の学芸は、強大な権力と莫大な富を入れる方法であった。だから、支配者と国家は文字が銀河から作られた秘密を反体制側の人々が手にいれて革命に利用されるのを徹底的に警戒し、最も厳重な機密として独占管理した。 この秘密を知った者を体制側に組み込み、抵抗して秘密を暴露しようとする者は死刑にした。また、銀河各部の名称をつけなかったゆえ、文字が銀河から作られた秘密はほとんどの人々が気づかなかった。その証拠に、現在の学者は一人も、星座には名称があるのに なぜ銀河各部には名称がないのかといぶかることをしない。これゆえ、学者たちは銀河から漢字が作られたことに気づかない。また、「銀河」は「銀漢」といわれるゆえ「漢字」という名称は「銀漢から作られた字」の略称であることにも気づかない。また、殷代(いんだい)の甲骨文字と周代の金文の、そのほとんどの字形が銀河各部の形状に相似することにも気づかない。さらに、これらの当然気づくべき事柄に思いが及ばないから、【銀河各部の形状】が【文字】ではないかという発想を抱いた学者は一人もいない。
 以上のごとく、星座の形よりもはるかに明確な形を有する銀河各部に名称が存在しないのは、歴代の支配者たちと古代王朝が文字が銀河から作られた秘密をまもるための対策であったのである。

 しかし、日本には銀河から文字が作られた秘密を解明できる史跡が多数存在する。たとえば、ここで解説する竜安寺の石庭はじめ、桂離宮の庭園、金閣寺の庭園、『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に作られた静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、徳川家康の命令で1603年~1622年まで20年間費やして作られた3千万坪の彦根市の大鳥の地上絵、 そして天皇の王冠・菅蓋(かんがい)など、 漢字は銀河から作られたと科学的に証明できる史跡や遺物は 日本には多数存在する。 

 したがって、古代においては、銀河から作られた文字の学芸に精通しなければ支配者になれなかったのである。ゆえに、今から約1700年前、最初の国家「倭人国」が創設されたとき、この倭人国の最高位の王にふさわしい人物は夏音文字の学芸に精通していなければならなかったはずである。だから、夏音文字の学芸に精通する卑弥呼が倭女王に選ばれた。  

 陳舜臣(ちん・しゅんしん)著『中国の歴史』第1巻(平凡社)、司馬遷著『史記』、『古事記』、『日本書紀』によると――夏王朝の始祖・帝禹は東に巡幸(じゅんこう)して会稽(かいけい)にいたって死去し、天下を益(えき)にさずけた。禹は五帝時代以来の国家を作らず多くの氏族の中からもっとも優れた人物を帝に選ぶ氏族共同体制の継続を願って、帝位を益にさずけた。しかし、禹の子の啓(けい)は国家を作り帝位は代々特定の一族(家柄)つまり禹・啓の家から選ぶ世襲王朝国家体制を主張した。益が帝位につくと、禹の遺志を無視して諸侯は益のもとを去って啓のもとに入朝した。そこで、帝益は禹の3年の喪(も)が終わると、帝位を啓にゆずって箕山の南の地に隠棲(いんせい)した。もはや中国では禹が願った氏族共同体制は継続できないゆえ、帝益は禹の遺志をまもるために大海を越えた新天地で氏族共同体制を継続することを決意した。しかし、帝益は年老いて大海を超える体力を失っていた。そこで 帝益の孫の王子と益氏の若者たちが大海を越えて新天地・日本列島へ移住することになった――という歴史が明らかとなる 

 この益氏の日本列島移住史は、『日本書紀』神武天皇紀初頭の天祖の降臨(こうりん)説話に記述されている。
 また『古事記』上巻の天孫・邇邇芸命
(ににぎのみこと)の筑紫(つくし)降臨説話は「大和の大軍を率いる天照大神の孫の邇邇芸命(若き日の景行天皇)が筑紫に遠征し、土地測量部隊を指揮して帝益の箕山の南に隠棲した歴史を演出して天照大神が夏音文字の学芸に精通していると誇示し、天孫は”天照大神こそ夏音文字の学芸に最も精通する。ゆえに大和王朝に服従せよ。服従しなければ皆殺しにする”と、脅迫して強大な権力と武力で支配せんとする天照大神の政策に反対する筑紫の王・天菩比命(あめのほひのみこと)が治める宗像(むなかた)王朝を征服した」と伝える。 

 このように『古事記』と『日本書紀』に記述されているように、今から約4050年前の夏代初頭(縄文後期初頭)、名門益氏の王子と若者たちは小舟を漕いで大海を渡って日本列島に移住した。これゆえ、わが国に夏音文字の学芸が伝来していた。この夏音文字は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて記載されて現在まで残った。

 前回までにおいて解説したように、臨済宗妙心寺派の竜安寺の石庭は夏音文字の学芸を学んで真理を探求する施設(道場)である。 

 この夏音文字の学芸を日本列島に根づかせた益氏の王子と若者たちは、大海の荒波(あらなみ)を越えて日本列島に移住した。この歴史は[益]と「荒海」の[荒]と[男]の3字であらわす語「益荒男(ますらお)」の語源となった。 

 名門益氏の王子一行が大海を越えて日本列島に移住した当時、大海原で迷って漂流して落命しない方法は精密に天頂緯度を測定する方法であった。この方法ならば精確な緯度(位置)と方位(経度)が測量できて命を失わずに大丈夫(だいじょうぶ)であった。しかし、天の北極の高度で緯度換算すると緯度の測定が不正確となるために命を失った。
 当時、「十字の銀河」が中国と日本列島の天頂にめぐってきて、この「十字の銀河」が天頂に位置すると南北10度の大きさとなり、北緯30度から北緯40度までの緯度と経度(子午線)が精密に測定できる物差し(羅針盤)となった。
 前々回(5)にて指摘したように、「十字の銀河」は大字形の形をしているので[大][丈][夫]の字源となった。したがって、益氏の王子一行は[大]と[丈]と[夫]の字源となった「十字の銀河」を羅針盤にして大海を渡った。ゆえに、「ますらお」は「益荒男」のほかに「丈夫」または「大丈夫」と表記されることになった。だから、「大丈夫」を「だいじょうぶ」と読むと「この方法ならば、心配無用だ」と意味し、「大丈夫」を「ますらお」と読むと「益氏の王子一行は荒波を越えて大海を渡った」と意味することになった。また、『魏志倭人伝』には「古代から、倭の使者は中国に到着すると皆”大夫”と称した」と伝える記事が存在することになった。倭の使者たちは”益氏の王子一行のごとく大海の荒波を越えてきた”と自慢して 皆”大夫”と称したのである。

 上記したように、益氏の王子一行は夏王朝で祀られていた鬼道(鬼神の道)と夏音文字の学芸を日本列島に広めた。だから「夏音文字の学芸」は「鬼道の学芸」とも言い換えることができる。竜安寺の石庭に、「夏音文字の学芸=鬼道の学芸」を東端の第1群と西端の第5群の石組で表示する。 

 第5群の大石の南面の西角(にしかど)に小石が接して配置され、正面から見ると〔頭に角(つの)が1本はえる鬼の横顔〕に観えるようになっている。第1群の大石の南面にも同様に小石が接して配置されて、第5群のごとく〔頭に角が1本はえる鬼の横顔〕にも観えるようになっている。この第1群の「鬼の横顔」の頭と角には隙間(すきま)があり、第5群の「鬼の横顔」「鬼の横顔」と形が相違する個別化をはかって、夏の銀河の西南部の西半分の「胎児の姿に似る銀河」や円く突き出る「臨月(りんげつ)の妊婦のおなか」にも観えるようになっている。

|

« 枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・6 | トップページ | 枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・8 »

おすすめサイト」カテゴリの記事

ニュース」カテゴリの記事

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

アルファベットの起源」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・7:

« 枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・6 | トップページ | 枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・8 »