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2011年11月29日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字が銀河から作られた”と証言する・10

 今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は”漢字の始祖”と崇拝された。倉頡が考案した漢字は「書契(しょけい)」と称される。この「書契」は「文字を木に刻む」と意味するので、わが国では「刻木(こくぼく)」と呼称された。
 この刻木以後の夏音(かおん)文字、甲骨文字、金文、篆文(てんぶん)、隷書、隋代に完成した楷書、そして現代の中国の簡略字と日本の当用漢字は、銀河各部の形状を見たままでなく[眞]の字源の形式に図案化された形になっている。このことを前回(9)で解説した。

 この漢字の図案形式は、要するに写真の映像と同じことになる。 

 漢字の図案形式の[眞]の字源銀河は、「産道」に見立てられた「長方形の暗黒天体部」である。この「長方形の暗黒天体部」は「胎児」を図案する[人]、そして[命]と[尊]の字源となった。

 この「長方形の暗黒天体部」やこれから登場する銀河各部の名称については、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bの写真と資料Cの銀河各部の名称を参照していただきたい。

 [尊]の頂部は[八]である。[眞]の足部もまた[八]である。前々回(8)で解説したように、 [八]は「子が生まれる母体の股(また)と両足」をあらわす。[尊]の頂部の[八]の下の[酉(ゆう)]は「酒」をあらわす。[八]に[酉]を加えると[酋(しゅう)]の字となる。[酋]は「酒器。酒気」をあらわした。現在の楷書の[尊]の下は[寸]であるが、甲骨文字と金文の[尊]の下は[廾(きょう)]であった。この[廾]は「神に奉ずる」をあらわす。したがって、甲骨文字と金文の[尊]の字形は「胎児がこのよに生まれると、神に酒を奉じた」とあらわすものとなった。ゆえに 『説文解字』は[尊]の字源を「酒器なり。酋に従ふ。廾を以てこれを奉ずる」と解説する。
 現在の[尊]の下は[寸]である。産道をくぐる胎児の肩がまず上(母体の腹側)があるほうから先に、ついで下(母体の背側)の肩が出ると、あとは一気に生まれる  この「一気に生まれる寸秒(数秒)」が、今日の楷書の[尊]の下の[寸]ということになる。

 前回(9)で指摘したように、「生まれる子ども」をあらわす[子]の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河」である。この[子]の字源となる「鬼の姿に似る銀河の頭と首」の下(南)に、[尊]の字源「長方形の暗黒天体部」が接続する。これゆえ、[尊]の上部の[酋]は「酒器と酒気」をあらわすことになった。そうすると、[酋]は「酒を入れる樽(たる)」をもあらわすことになる。「酒樽(さけだる)のフタとなる板」は「鏡板(かがみいた)」と称される。 

 倉頡が生存した時代、「十字の銀河」が天頂にめぐってきた。この「十字の銀河の頭部の冎(あな)の暗黒天体部」は、前回(9)で指摘したように、子どもが生まれる「女性の骨盤口」と大きい餅(もち)の上に小さい餅を重ねる「鏡餅(かがみもち)」の形に相似する。
 「十字の銀河の骨盤口」は実際には見えない。しかし「女性の骨盤口」と同じ形の「十字の銀河の骨盤口」が想定されて、「文字が生まれる骨盤口」と定められた。
 ゆえに、「鏡餅」は「十字の銀河の頭部の冎」と「女性の骨盤口」をあらわす漢字の秘密を伝える史料だったのである。この「十字の銀河の頭部の冎と十字の銀河の骨盤口」は〔180度相対するもの〕となり、[鏡]の字源・語源となった。

 上記したように、[酋]のうちの「〔酒樽のフタとなる板〕に相当する銀河部」は「鬼の姿に似る銀河の頭と首」に接続する。この「鬼の姿に似る銀河の頭と首」は「子宮で母体の頭と同じほうを向いていた胎児が、母体の足のほうに頭を向けて180度相対する姿勢で誕生した胎児の頭と首」に相似する。ゆえに、「酒樽のフタに相当する銀河部」は[鏡]をあらわすことになり、「酒樽のフタとなる板」は「鏡板」と称されることになった。

 竜安寺の石庭の南の境内には”鏡容池(きょうようち)”という名の池がある。
 この鏡容池は東西125m・南北60m~65mの長方形である。
 石庭の真南となる鏡容池の部分の南北は62.5mである。 
 これゆえ、この南北62.5mは東西125mの半分となるので、鏡容池はおよそ二つの正方形からなる池であることを示して、卑弥呼の時代に天頂を通過した「産道」に見立てられた「長方形の暗黒天体部」をあらわす池となる。この「長方形の暗黒天体部の北端の辺」が「鏡板」の「鏡」となる。 

 竜安寺の石庭の5群の石組が配置される庭園部は東西20m・南北10mである。ゆえに、5群の石組が配置される平庭は二つの正方形を接続した長方形である。ゆえに、石庭は二つの正方形からなる「長方形の暗黒天体部」をモデルにして設計されていることになる。

 「長方形の暗黒天体部」が天頂に位置するとき あるいは石庭が作られた当時や現代のように子午線通過するとき、「長方形の暗黒天体部」を構成する〔二つの正方形〕は南と北に並ぶ。しかし、石庭における二つの正方形は東と西に並ぶ。これは、前回で解説した[倭]の字源における「90度の転回」をあらわしている。

 今回より5回前の〔5〕で指摘したように――[倭]の字源にしたがい、石庭の方位を90度転回して西を北(上)・東を南(下)にし、5群の石組を線で結ぶと、中国の海岸線を想像できる仕組みになっている。
 この中国全土を包みこむ海岸線は、すべての字源を解明する基礎知識であった。
 この基礎知識を、中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)上伝は「易は天地と準(なぞら)う。ゆえによく天地の道と弥綸(びりん)す」と記述する。
 この記述をあらわして石庭の5群の石組を線で結ぶと、中国全土を弥綸する(洩れなく包みこむ)海岸線地図の形が浮かびあがる。この中国海岸線地図の形は[鏡]の字源をあらわして「左右が180度相対(あいたい)する像」となる。この「180度相対する形」の後に裏がえしてさらに90度の転回を加えると[眞]の字源が成立する。この「裏返してさらに90度の転回を加える様子」は、石庭の第3群の石組で表現される。

 第3群の石組は〔娩出期(べんしゅつき)の、頭が誕生する胎児の姿〕に見立てるように設計されている。第3群の「大石」は「母体の腹部」をあらわし、大石の西側に配置される「二つの小石」は「母体の両足」をあらわす。この〔娩出期の頭が誕生する胎児の姿〕をあらわすヒントとして、西端の第5群の「大石」は「女性の股(また)から生まれる子」に観えるようになっている。
 第3群の石組は「横三尊(よこさんぞん)」という名で呼ばれる。
 この「横三尊」という名称は[倭]の字源のとおりに「第3群の東の大石が南・西の二つの小石が北になるように90度転回する」と指示する仕掛けである。この[倭]の字源とおりに90度転回する横三尊の「女性の股と両足」の設計は、縁側や方丈の間で字源を解明しようとする人に対して正面を向くことになる。だから、石庭は〔5群の石組があらわす180度で相対する中国海岸線地図の像と、横三尊の90度の転回〕で[眞]の字源をあらわしている。 

 石庭は北側の縁側や方丈の間に居る人が庭園を見下ろして、漢字が銀河から作られて学芸の秘密や漢字の字源を研究し探求する施設である。だから、「横三尊」という名から想像して、夏音文字の学芸を学び研究する人と正面を向くような仕掛けを設けたのである。

 以上のような奥深い漢字の秘密は、漢字の原郷(げんきょう)である中国ではまったく解明されていない。しかし、竜安寺の石庭では解明できる。
 ということは、今から約4050年前の夏代初頭(縄文後期初頭)において中国から夏音文字が伝来したからにほかならない。
 後期縄文時代初頭の史跡である秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆ・かんじょう・れっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡には、夏音文字の学芸が伝来した痕跡(こんせき)が明確に残っている。

 また、静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の1千万坪の大鳥の形となる地上絵は『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作成された。
 この大鳥の地上絵によって『魏志倭人伝』の「卑弥呼」をはじめとする人名や34小国の名に用いられる文字は夏音文字であると科学的に証明でき、また『魏志倭人伝』のすべての記事は真実を伝えるものであると科学的に明快に証明される。だから、確かにわが国には夏音文字は伝来していた。

 さらに、徳川家康の命令のもとに1602年から1622年までの20年間の年月を費やして完成した現在の彦根市の行政区域をあらわす地図の形は”夏音文字の学芸はいまだ復興せず、カイツブリの水鳥たちは翼がもぎとられて飛ぶことができない”と表現する3千万坪の大鳥の地上絵である。
 家康が”わが主君”と敬愛した織田信長と家康が最も信頼した彦根初代藩主の井伊直政(なおまさ)と家康の3人は、夏音文字の復興に全情熱を傾ける一生を送った。 

 織田信長の生地・尾張を『魏志倭人伝』は「弥奴(みな)国」と表記する。
 尾張の地図の形は[弥]の字源「カンムリカイツブリ」の[奴]の字源「翼」に似ていると見立てられて「弥奴国」と名づけられた。つまり、「尾張」という地名は「その生地の上南・下北とする地図の形が、カンムリカイツブリの長い首の形(知多半島の形)と内陸部はの方がる(広くふくらむ)、カンムリカイツブリの胴体の姿に相似する」ので、この略称が「尾張」となったのである。 

 井伊直政は上記の遠江(静岡県浜松市細江町)の1千万坪の大鳥の地上絵を保存した守り番であった。
 直政の生地は細江町の北隣の引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)である。この直政の生地・井伊谷がある引佐町と細江町の境界線の上南・下北の地図の形は「鳰(にお)・カイツブリと浮き巣」の形に作られている 『魏志倭人伝』は直政の生地の「遠江」を「不呼(ふこ)国」と記載する。[不]の字源は「花の萼柎(がくふ)」であり「上南・下北の遠江の浜名湖」は「花の形」に相似し、浜名湖の北にある「引佐細江」という名の支湖は「花の萼柎」の形となって[不]の字源を表示する。井伊谷がある引佐町と細江町の境界線の形が表示する「鳰(カイツブリ)」は[呼]の字源である。

 徳川家康の生地・三河の渥美(あつみ)半島の地図の形は「美しい金栗色の飾羽があるハジロカイツブリの顔と首」に相似すると見立てられて「渥美」と名づけられた。また「ハジロカイツブリの金栗色の扇(おうぎ)形の飾羽と首」の形状は「女性の生殖器の卵管采(らんかんさい)がカンムリカイツブリの飾羽に、卵巣(ろんそう)がカンムリカイツブリの首」に相似すると見立てられて、三河の半島の名は「渥美」となった。 

 信長の生地の尾張の地図の形の「カンムリカイツブリ」と直政の生地の地図の形の「鳰」と家康の生地の渥美半島の地図の形の「ハジロカイツブリ」は、前回(9)で指摘したように 倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の文〕の「鳥」をあらわした。

 現在の彦根市の地図の頭部(北部)の形は「カンムリカイツブリ・鳰・ハジロカイツブリの3種のカイツブリの頭部をあらわす合体形」である。
 この彦根市の頭部は「夏音文字の学芸」をあらわすように〔夏至の日の出の方向〕を指差すように設計されている。
 グニョグニョ蛇行する〔東の境界線〕は翼の根元の形だけを表現して「未だカイツブリの翼は背中にもぎとられて飛ぶことができず、夏音文字の学芸は復興していない」と表現する。
 地図を開くと目撃できる彦根市の形は「信長・直政・家康が夏音文字の学芸の復興に一生をささげたが、未だ夏音文字の学芸は復興させず」という家康の情念を表現する3千万坪の翼がもぎとられた大鳥の地上絵なのである。

 以上からして明白にわかるように、わが国には今から約4050年前の縄文後期初頭に夏音文字が伝来していた。だから、すべての邪馬台国説は疑う余地も無く正真正銘の【誤読の空論】ということになる。
 学者たちは”文献批判”という名の【誤読】を論理基盤にして、 ①『魏志倭人伝』の「日本列島は東ではなく南に伸びる」という記述は著者・陳寿(ちんじゅ)の誤った地理観であると断定する。
 また②『魏志倭人伝』は「倭には文字があった」と明記するが、わが国が漢字を習得したのは5、6世紀であると定めて、「文字があった」と示す記事は陳寿の事実を誤った記述であると断定する。
 しかし 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702年に中国に渡った日本の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と証言した――と記述する。
 この「夏音を習う」の「習う」は「復興する」という意味であった。
 彦根市の大鳥の地上絵は「ハジロカイツブリ」の「ハジロ」で「羽白」とし、この「羽白」の[羽]と[白]とで[習]という字にして「習う」は「復興する。蘇(よみが)える」という意味であると示す。ハジロカイツブリは飛び立つときに羽の内側に白い部分が見える。ゆえに、彦根市の境界線の形には飛び立つときに羽の内側に白い部分が見えるハジロカイツブリの翼はもぎとられて無いゆえ”未だ夏音文字の学芸は習わず(復興しない)”とあらわしていることになる。

 学者たちは新井白石以来約280年間も【誤読】を加えている。
 だから、邪馬台国論争は決着しなかったのである。
 『魏志倭人伝』に1点も【誤読】を加えなければ、卑弥呼が居住した国の名は「邪馬壱国(やまいこく)」であって、学者たちが主張する”邪馬台国”なんて国は最初から存在しなかったことになる。
 すべての”文献批判”すなわち【誤読】を禁止すれば、1万人が1万人、1億2千万人が1億2千万人、[倭]の字源にもとづき日本列島の方位規定を時計の針が進む方向に90度転回して南に転回して、1点の矛盾点もなく1点の不合理な点もなく見事に科学が成立する卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であると断定する。
 だから、1点の【誤読】もゆるさなければ【真実】を知ることができ、1ヵ月もすればこの問題は決着がつく。
 邪馬台国説のウソにつきあって【誤読】を続けているかぎり、今後500年たっても1000年も費やしても、邪馬台国論争は決着できない。
 ”邪馬台国”なんて国は最初から存在しなかったので、学者たちがデッチあげたデタラメであったのである。学者たちは【誤読】から【真実】を手に入れる方法に夢中になるが、【誤読】から【真実】が生まれるなんてことは絶対に起こるはずがないのである。  

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