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2011年11月24日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・6

 中国の正史『新唐書』日本伝に――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が中国王朝に「後稍夏音(のちやや・かおん)を習う」と告げた――と伝える記事がある。 

 この「後稍夏音を習う」という遣唐使の言葉は――壬申の乱の後、天武天皇と持統天皇は大和朝廷の基礎を築いた天照大神を皇室が崇拝する至上神に定めた。この天照大神は夏音文字の学芸に精通して聡明であったと後世に伝える歴史書を作れと、天武・持統の両天皇は命令した。ただし、両天皇は、夏音文字は「稍々(少しだけ)復興せよ」と命令した。
 つまり、両天皇は「天照大神が前の倭女王・伊耶那美命の墓を作った時に多数の奴婢(ぬひ)すなわち多数の青年と乙女たちを殺して伊耶那美命の墓に埋葬した残酷きわまりない徇葬(じゅんそう)儀式を決行した事績はじめ、伊耶那美命が提唱した日本建国の”愛”の理念を天照大神が憎悪して小国・日本の人民を弾圧し、日本建国の”愛”の理念を尊重した大国主神が治めた出雲王朝や天菩比命(あめのほひのみこと)が治めた宗像(むなかた)王朝を武力で征服した歴史など、天照大神の聖性を汚す史実はすべて削除(さくじょ)する偽書を作成せよ」と命令した――と意味するものであった。

 『古事記』は上巻・中巻・下巻の3巻で構成される。この3巻のうち、序が示しているように上巻が最も大切である。

 『古事記』編纂(へんさん)スタッフは、天武・持統の両天皇の「稍夏音を習う」が求める要望を逆手(さかて)にとって、上巻に皇祖・天照大神の悪政を伝える史実を夏音文字に秘めて後世に伝えた。
 ゆえに、『古事記』上巻の随所には、〔音〕という注がつく1字1音読みの夏音文字が多数記載されることになった。
 『古事記』の序は「上巻 序并(上巻并せて序)」と表記する。
 この異様・特殊な表記は「この序は上巻だけの序である。つまり、この序は上巻に記載した夏音文字についてのみ説明するものであるので、この序は中巻・下巻のための序ではない。上巻に多数記載した夏音文字においては【銀河各部の形状】が【文字】であった。この夏音文字の【銀河各部の形状】が【文字】であった秘密を解明すれば、他の文字の字源・本義も明らかとなる。だから、上巻に記述した真実の歴史を知ることはできる」と伝えるものであったのである。

 夏音文字は【銀河各部の形状】は【文字】であったことが解明できる原初漢字であった。
 ゆえに、この夏音文字の秘密を知ると、「殷代の甲骨文字も『古事記』に記載される夏音文字以外の万葉仮名もふくめて、すべての漢字は【銀河各部の形状】を【文字】とする文字である」ということが明らかとなる。 

 強大な権力を有する時の大和朝廷でも、銀河の形状を抹殺(まっさつ)することができない。 
 だから 『古事記』編纂スタッフは【銀河各部の形状】が【文字】であった夏音文字を上巻に多数記載した。というのも、前述したように、夏音文字から「夏音文字にかぎらずすべての漢字は【銀河各部の形状】を【文字】とする文字である」ということが明らかとなるからである。
 ゆえに、『古事記』の随所に夏音文字を記載する方法は、”愛”の理念をかかげて日本国が誕生した真実を知ることができる最も確かな方法となった。この方法で皇祖・天照大神が日本建国の”愛”の理念を憎悪して詛(のろ)って悪政をおこなった史実を伝える『古事記』が、712年の1月28日に時の元明天皇に献上された。天皇は即座に献呈を拒絶した

 元明天皇は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話に登場する「黄泉国」は「伊耶那美命の陵墓を築造した熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)」であり、「黄泉国の伊耶那美命」は「多数の青年と乙女を殺す徇葬儀式を指揮した天照大神」であり、この説話の末部に「今出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂(い)ふ」と記述される場所は熊野の神倉神社(現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する)の参道であり、神倉神社の主神は天照大神であることを知っていた。
 現在の学者たちは「黄泉国の伊耶那美命」を「死んだ冥界(めいかい)の伊耶那美命」と解釈するが、編纂スタッフは後世の人々は夏音文字の秘密を解明して「黄泉国の伊耶那美命」を「天照大神」と解釈するであろうと予測し、元明天皇もこの表記に妥協して献呈を許可するかもしれないと活路を求めたのである。
 ところが、真相を知る天皇はいっさい妥協せず、即座に献呈を拒絶した。 

 このように天照大神が残虐な徇葬を決行した歴史を語る『古事記』が完成した712年当時、『古事記』は伊耶那美命の死を伝える箇所で「大斎原は出雲国と伯伎国(ははきのくに)の境であり、比婆(ひば)の山と呼ばれていた」と記述し、黄泉国訪問末部では「熊野の神倉神社の地所は出雲国と称されていた」と記した。
 ゆえに 翌713年5月2日には『古事記』上巻に記述された日本国誕生史を後世に伝えることになる地名を消滅させるために、元明天皇は「畿内・七道諸国の郡と郷の名に好字(よきじ)をえらび2字で表記せよ」と指図する風土記(ふどき)作成を命令した。
 この風土記の作成命令は、『古事記』に記載された地名で天照大神がおこなった数々の悪政を後世の人々に解明されるのをふせぐためのものであったのである。この風土記作成の命令記事は、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記載されている。
 この『続日本紀』は『古事記』作成や完成に関する記述を削除(さくじょ)した。朝廷は天照大神の聖性を守るために、『古事記』をこの世には存在しなかった偽書であると後世の人々に信じさせるため。『続日本紀』には『古事記』に関する記事をすべて削除させたのである。

 このような事情で 皇祖・天照大神の聖性を汚す ”愛”の理念がかかげられた日本国誕生史は夏音文字の学芸と1セットになって伝えられることになった。
 ゆえに、皇室は銀河の形状を消滅できないが、夏音文字の学芸ならば抹殺できると考えて、夏音文字の学芸の廃絶(はいぜつ)に躍起となった。この夏音文字の学芸の廃絶は、 天照大神の聖性を守るために限ったことではなく、中国と同様に夏音文字はじめ古代文字を廃絶して 新しい楷書で仏教を興隆(こうりゅう)して文化の底上げをして中国のように栄えようとする政策でもあったのである。
 しかし、この皇室の政策に抵抗する武士や禅宗(ぜんしゅう)という勢力が出現し、時代とともに、この抵抗勢力が栄えたので、夏音文字の学芸は18世紀まで保存されることになった。 

 天台宗の本山・比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本本町)は、仏がもと・本地(ほんち)で、神は仏が姿をかえて現れた垂迹(すいじゃく)とする「本地垂迹説」をとなえ、皇祖・天照大神のもとの姿(本地)は密教の本尊の大日如来(だいにちにょらい)であり、日本建国の”愛”の理念を提唱した伊耶那美命の本地は千手観音であると定め、『古事記』上巻に記述された日本国誕生史の消滅をはかった。
 このように比叡山延暦寺は皇室の重点政策の日本国誕生史と夏音文字の学芸の抹殺に積極的に協力したために、皇室の庇護を受けて宗教界に君臨(くんりん)することになった。 

 禅宗の臨済宗(りんざいしゅう)は本地垂迹説は否定して、夏音文字の学芸の保存して真実の歴史を後世に伝える抵抗勢力となった。臨済宗を伝えた栄西(えいさい)は、はじめ比叡山で天台宗を学んだが、中国宋(そう)に渡って当時同地でさかんであった臨済宗を学び、1191年に帰国した。栄西は京都で布教しようとしたが、臨済宗はじめとする禅宗は漢字が銀河から作られた秘密を伝える『老子』にもとづく宗派であったので、比叡山の僧侶たちに反対されて布教できなかった。しかし、夏音文字の学芸を保存しようとする武士・貴族の保護を受けて、臨済宗は鎌倉時代および室町時代には鎌倉・京都という二つの政治都市に栄え、やがて五山制度のもとで文化の中核となった。
 特に夢窓疎石(むそうそせき)が足利尊氏・直義(ただよし)の帰依(きえ)を受けた関係で、夢窓派の禅僧は京都の五山・十刹(じつさつ)を拠点にして、幕府の外交・文化の顧問として活躍した。しかし、次第に俗化して宗教としての生命を失い、衰退してゆく幕府と運命をともにした。 

 この夢窓派に反して、大徳寺の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)を開基(かいき)とする大徳寺派と関山慧玄(かんざんえげん)を開基とする妙心寺派は、権勢に近づかず俗化しなかったために、夏音文字の学芸の保存から始まった臨済宗の本流となった。 
 江戸時代中期には、白隠(はくいん)が出て中興をはかり、妙心派は今日に至っている。 妙心寺の第一座となった白隠(1685-1768)は禅画を確立した近世臨済宗の復興者として有名であるが、彼は日本国誕生史と夏音文字の学芸を知っていた。したがって、白隠が没する1768年まで、漢字は銀河から作られたと伝える夏音文字の学芸は保存されていたことになる。 

 だから、臨済宗妙心寺派の竜安寺の石庭は夏音文字の学芸を通して真理を探究する道場(施設)であったのである。 

 竜安寺発行の龍安寺案内パンフレットは、「禅とは……」と題して下記のごとく記述する。

――神(仏)のない宗教である 特定の拝む対象のない宗教である 「自己」を拝む宗教である 「自己」の自覚を深く掘り下げる宗教である 「悟り」即ち「吾が心」を見る宗教である 「無」「無我」「無心」の宗教である 「動く」「働く」作務の宗教である 「吾れ唯だ足ることを知る」宗教である 「当所即ち蓮華国この身即ち仏なり」の宗教である 「成り切る」「死に切る」即ち「断命根」の宗教である

 天台宗は本尊・大日如来を拝み、仏教は釈迦を崇拝したが、臨済宗は本尊を有さず釈迦への尊崇も奨励せず、夏音文字の学芸を研究して真理を追究する宗教であった。
 だから神(仏)のない宗教であり、特定の拝む対象のない宗教であったのである。

 臨済宗が学び追求した夏音文字の学芸は、今から約6000年前の『古事記』序の冒頭に登場する縄文前期の「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と呼ばれる土器芸術革命と中国の今から約6000年前の三皇時代初頭の包犧(ほうぎ)氏の漢字が起源した歴史までさかのぼり、また「自分の命はどこまでさかのぼるのか」「生きるとはどういうことなのか」「自分とは何か」「ほんとうの日本人とは何か」「自分は何のために生きべきか」などと考え、「いま生きている自分の命は一瞬のごとく短い存在であるが、いま目にしているものは永遠なる営(いとな)みの銀河・自然・宇宙であり、このような永遠なものと一体となって思索するは無上の喜びである」など、日本古代史や文化の根元知や自分の命の根元や瞑想(めいそう)にふける時を蓮の華(はな)の上に乗る仏のような境地であると考える宗教であった。
 だから、臨済宗の禅は「自己を拝む」宗教となり、「自己」の自覚を深く掘り下げる宗教となり、「当所即ち蓮華国この身即ち仏なり」とする宗教となったのである。

 竜安寺の石庭は、左脳の言語的な思考を沈黙させて、イメージ(心像)で考える右脳の能力(これを「心眼(しんがん)と称した」)を引き出して漢字の字源・本義や歴史の真実を探求し、無為自然(銀河)を観て真理を悟る施設である。
 だから臨済宗の禅は右脳と心の働きを直接に結びつけて思考するものであったので、 「悟り」即ち「吾が心」を見る宗教であったのである。

 夏音文字の学芸は、精密な天頂緯度測定(天頂点のキャッチ)を基軸にして構築された。 この精密に天頂緯度を測定する時の心得は”狭い産道を通過する胎児のように、無・無我・無心であれ”であった。石庭の第5群の石組の西隣には最も天頂緯度測定に理想的であった「長方形の暗黒天体部」をモデルとする東西2丈(4m)・南北5丈(10m)の余白の庭園がある。
 この余白の庭園には、石組も石も一つも存在しない。この空白の平庭は「無」「無我」「無心」をあらわしていることになる

 禅宗は紀元前5、4世紀頃に生存した老子の思想から始まる宗教だったのである。「吾れ唯だ足ることを知る」という「知足(ちそく)」の思想は、『老子』第33章に「足るを知る者は富み」 また第46章に「知足の足は常に足(た)る」と記述されている。
 老子は孔子と同時代に生存し、孔子の100年後の老子も存在した。つまり「老子」とは――漢字は銀河から作られた学芸は帝王や国家が独占管理するものでなく万人のための学問であるべきだと考え、漢字は銀河から作られたことを後世に伝える運動であったにとがいない。ゆえに、孔子と同時代に生存した1代一人ではなく2代3代と続いたために孔子より100年後の老子も存在したことになったと考えられる。

 石庭のモデルとなった「長方形の暗黒天体部」は精密な天頂緯度測定ができる[命]の字源となり胎児が生まれる「産道」に見立てられる銀河部である。この「長方形の暗黒天体部」は「墓室の形」を図案化する[亜]の字源でもあり、[死]の字源でもある。『古事記』上巻に〔神生み〕の条がある。この「神」とは「優れた発明や文化・産業を発展させた学業や叡智(えいち)」を意味した。
 この〔神生み〕の条には「伊耶那美命は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生みしに因(よ)りて、美蕃登(みほと・この3字は夏音文字)灸(や)かえて病み臥(こや)せり」と記述する文がある。この文は「農具の鉄製の刃先を作る製鉄事業(火之迦具土神)を開発する時に生じた火災事故で、伊耶那美命は命が絶えて天へと去る火傷を負って床に伏せた」と意味するが、この「文中」に登場する「みほと(美蕃登)」は「女陰」と訳されている。この「美蕃登」の語源は「女陰」ではなく、「女陰」に見立てられた伊耶那美命が生存した3世紀後半に天頂にめぐってきた「長方形の暗黒天体部」であり、また「十字の銀河の子宮に相当する銀河部」である。だから、「美蕃登」は「命が絶えて天へと去る」つまり「致命的な」と意味することになる。
 医学が発達していなかった古代においては、母体の産道をくぐって出産する胎児の命は生と死が隣あわせの状況であった。ゆえに、この状況を示して「長方形の暗黒天体部」は[命]と[死]の字源となり、この字源や夏音文字の学芸から生まれた思想から「死に切る」「断命根」という禅宗の哲学が生まれたのである。禅宗は無為の自然を重んじ、生きるも死ぬも運命によって定められていると考え、禅の極致は「成り切る」「死に切る」すなわち「断命根」となり、「死に切る覚悟」で大事や大志を実現するように努めれば肉体が滅びても死後に生の証(あか)しを残す者となると説いた。
 このような考え方は朝廷の夏音文字の学芸の抹殺政策に反抗する武士や貴族たちの理想を示すものとなったので、臨済宗は朝廷の武士たちや朝廷の日本国誕生史の抹殺政策に反発する貴族たちに尊崇されることになったのである。

 11月20日の2回で指摘したように、[倭]の字源「方位が90度転回して、東が南となる」にしたがって石庭の東を南にすると。5群の石組はすべての字源が解明できる基礎知識を記す『易経』繋辞(けいじ)上伝の「易は天地と準(なぞら)う。ゆえによく天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文を示すものとなる。
 この文は「中国全土を弥綸する(洩れなく包みこむ)海岸線の形状」をあらわす。というのも、石庭の5群の石組を線でつなげると、中国の海岸線の概略形となるからである。ただし、中国の海岸線は中国全土の東側(右側)にあるが、石庭の海岸線は南側(すなわち左側)にあって、石庭の南にある「鏡容池(きょうようち)」の「鏡」の映像のごとく、石庭の中国海岸線の形は左右逆向きとなる。ゆえに、石庭の第2群と第1群の石組は中国南部の呉の海岸線をあらわすことになる。つまり、第2群は長江口と杭州湾(こうしゅうわん)の海岸線に相当し、第2群と第1群の石組を結ぶ線は杭州湾より南の海岸線の形に合致する。 

 呉の海岸線をあらわす第1群と第2群の石組が設置される庭は、東端の南北3丈(6m)の油土塀(あぶらどべい)が内側に約3mくらい食い込むために、正方形ではない。
 つまり、この正方形では無い平庭は言編に中国南部の「呉地」の[呉]が加わる[誤]をあらわしていることになる。
 第3群・第4群・第5群の石組がある平庭は正方形であるゆえ、[正]をあらわすものとなる。
 ということは、[誤]の偽正方形の庭に設置される東の「第1群・第2群の石組」は「天台宗の本山・比叡山延暦寺」に見立てられ、[西]をあらわす正方形の庭に所在する「第3群・第4群・第5群の石組」は「臨済宗妙心寺派の本山・正法山妙心寺や大雲山竜安寺」に見立てることができる。というのも、日本地図を開けば明確に示されているように、比叡山延暦寺は第1群・第2群の石組に合致して東に所在し、京都市右京区に所在する正法山妙心寺と大雲山竜安寺は第3群・第4群・第5群の石組に合致して西に所在するからである。
 したがって、石庭は”皇室に協力して本地垂迹説をとなえて”愛”の理念が提唱された日本国誕生史と夏音文字の学芸の抹殺をはかった天台宗・比叡山延暦寺は誤っている。夏音文字の学芸の保存するために栄西が布教した臨済宗の方針を継続する妙心寺派の運動は正しい”という自負も表示するものと考えられる。 

 5群の石組が設置され庭園部も第5群の石組の西側にある空白・余白の庭園部も長方形である。京都で栄西が布教しようとした時に、比叡山の僧侶の反対にあったため、鎌倉に移り。源実朝の帰依を得て寿福寺(じゅふくじ)を建てた。この寿福寺には禅僧として威儀を正した木造の栄西座像があり、その頭超部は平らで額(ひたい)は長く栄西の頭・顔は長方形である。平らな形の頭は”栄西頭(あたま)”といわれ、栄西の頭・顔は5群の石組がある庭や余白の庭の形に相似して長方形である。ゆえに、長方形の石庭は栄西の頭・顔をあらわすものであると考えるのは考えすぎであろうか。  

   

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