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2011年12月 1日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・11

 2003年(平成15)11月29日付の朝日新聞の朝刊13面「海外メディア・深読み」の〔日本の総選挙〕という記事に、下記のような記事があった。

――二大政党制の方向が見えてきたといえ、自民党と民主党との議席差はまだまだ大きい。英タイムズの社説(11月10日付)は、なんと京都の竜安寺の石庭を持ち出して、そんな状況を説明する。

「石庭の15個の石は、どこから見ても14個しか見えないように置かれているが、悟りを得た人にはすべての石が認識できるという。総選挙の結果、二大政党制がはっきり見えるようになったという観察者もいる。しかし、これも視覚的には幻影である。」

 上記の英タイムズの社説が指摘するように、石庭の石はどこから見ても14個しか見えないように配置されている。

 しかし、石庭の第1群~第5群の石組の数は、5・2・3・2・3であるから計15個である。

 この15個の石を14個にしか見えない仕掛けは、【合理】と【超合理】の違いを示すものである。
 つまり、悟りを得た人は【超合理】の考え方をして石が15個あると数えるが、いまだ悟りを得ぬ人は全体論的に考えないで【合理】の考え方をして石は14個しかないと数える。
 このような【超合理】と【合理】の相違を示している。

 禅宗では、【超合理】、【合理】と表現するものではなかったが、【超合理の思考】は「悟り」、【合理の思考】を「未だ悟らず」と定義していたことになる。

 夏音文字の学芸では、【超合理】を「眞」、【合理】を「眞で非ず」と定義していたことになる。

 すべての字源が解明できる1400字前後の基本字の字源は、【超合理】の産物であって【合理】の産物ではない。
 ゆえに 一つ一つの字源は全体論的に考えられて図案化されている。 

 中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の十翼(じゅうよく)は孔子が作った。
 司馬遷著『史記』孔子世家(せいか)は「孔子晩にして易を喜び、韋編三絶」と記述する。
 これゆえ漢や唐の時代、孔子が『易経』の十翼を作ったと疑う者はいなかった。 

 孔子の研究における最も重要な資料は『論語』である。
 この『論語』述而篇に「子曰く、我に数年を加(か)し、五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」という記述がある。
 このように 孔子は「五十歳になったから、易の〔銀河から文字が作られた秘密〕を漏らして死刑になっても大きな過ちとは言えない」と覚悟して『易経』を著作した。 

 この「五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」という記述が明確に示すように、文字が銀河から作られた秘密を明らかにした者は、即刻、死刑に処せられた。 

 上記の文において、孔子は「文字が銀河からつくられた学芸」を「易」と表現する。正確には(全体論的な【超合理】の考え方だと「易」と「文字が銀河から作られた学芸」は同義ではない。しかし、おおよそ同義と言ってもよいので、【合理】の考え方をすれば「易」と「文字が作られた秘密」は同義となる。

 孔子と同時代に生存し 孔子より年上であった老子は易(銀河から文字が作られた学芸)を王が独占するものでなく万人が知る学芸にするべきであると考えて、文字が銀河から作られた秘密を広める運動をおこなった。
 このため、役人につかまったならば死刑となるので、老子は「喪家(そうけ)の狗(いぬ)」(宿無し犬)のごとく住所不定の逃亡者となった。
 孔子よりも百年ほど後に生存した老子もいた、つまり、”老子”とは文字が銀河から作られた秘密を広める運動の首謀者やその運動の名であったと考えられる。そして、孔子と同時代に生存した初代老子のほかに、この運動を継承する2代 3代…何代かの老子がいて、この運動はおよそ百年も続いたと考えられる。  

 17世紀初め、デカルトによって【合理】の考え方が提唱された。
 近代科学はデカルトの【合理】の理論的枠組にもとづいて大きく発展し、輝かしい成果をあげ、20世紀前半までデカルトの方法論が勝利を謳歌(おうか)した。
 しかし、日本人最初のノーベル賞を受賞した理論物理学者の湯川秀樹博士が先駆者となって、デカルト以来の西欧近代科学の【合理】の理論的枠組みに不信を抱くようになり、 1980年代に入ると、欧米の先端科学者や科学論家たちは、西欧近代科学の【合理】の考え方には――傲慢(ごうまん)な単純化をおこなう、無秩序から秩序が創造できない、複雑なものを複雑にあつかうことができない、科学における偶然の役割が否定される――など、幾つかの誤りや欠点があると数回の国際会議を開いて世界に警告した。 

 西欧近代科学の【合理】の考え方に不信を抱く米国のニューサイエンス運動のバイブルとされるF・カプラ著『タオ自然学』は、現代物理学の方法と東洋の老子の思想(考え方)には多くの共通点があると指摘した。 『タオ自然学』の英語「Tao」(タオ)は「老子の教える道」と「道教」を意味する。

 漢や唐の時代には、孔子が『易経』の十翼を作成したと信じられていた。しかし、現代では西欧近代科学の【合理】の考え方によって、十翼は孔子の作ではないと否定されることになった。
 というのも、『論語』には孔子が「十有五にして学を志し」という記述があり、また『論語』には「憤りを発して食を忘れ、楽しみを以て憂いを忘れ、老の将(まさ)に至らんとするを知らず」という記述もあるので、「五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」という記述は意味をなさないと考えられるようになったからである。
 しかし、この【合理】の考え方から生まれた見解は誤りで、「易の秘密」すなわち「銀河から文字が作られた秘密」あるいは「【銀河各部の形状】が【文字】である秘密)」を学ぶことは、死刑を覚悟でおこなわなければならなかったゆえ、「五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」という『論語』の記述は事実を伝えるものであったのである。

 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は[学]の卜文(甲骨文字)の字形について「卜文にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、戒律下の生活がなされたのであろう」と指摘する。
 この指摘のごとく、[学]の本義は「王や国家が厳重な機密にして、私的に研究する者は死刑にすると定められていた〔銀河から作られた文字の体系的な知識〕」であった。
 ゆえに、『論語』の「十有五にして学を志し」という文は本義にもとづくと、「孔子は15歳でいずれ晩年に死刑を覚悟して研究する〔銀河から文字が作られた知識〕の基礎の習得を志した」と意味することになる。しかし、孔子の「十有五にして学を志し」という言における[学]は本義「厳重な国家機密の〔銀河から作られた知識〕」ではなく、「一般的な知識」を「学」と表現したことになる。
 孔子は[学]の字源・本義を知らなかったと思われる。孔子が[学]の字源と本義を知っていたとしても、孔子が15歳から志した勉強は死刑に処せられないものであったから、「十有五にして学を志し」の[学]は本義の[学]ではなかったことになる。
 現代の学者たちは、晩年の50歳になって易を学ぶことがなぜ大きな過失にならないのかその理由を究明せず、また[学]の本義も調べず、西欧近代科学の【合理】の考え方の傲慢な単純化をもちいて、十翼を孔子の作ではないと主張する。

 孔子が作った十翼に、繋辞伝(けいじでん)上・下がある。

 孔子が著作した『易経』繋辞下伝は、漢字の起源の秘密を下記のごとく記述する。

「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観、近くはこれを身を取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、結縄(けつじょう)を作った。」

 上記の孔子が作った文は、明確に誤っている。
 文中に登場する「鳥獣の文」は、包犧氏より1000年後の約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理の名称である。包犧氏は漢字作成原理〔鳥獣の文〕を発明しなかったので、「包犧」という自らの氏族名をあらわす文字を作れなかった。
 「包犧」という名をあらわす文字は、倉頡が発明した〔鳥獣の文〕で作ることができたので 倉頡は”漢字の始祖”と崇拝された。しかし、包犧氏は”漢字の始祖”と崇拝されなかった。
 だから、上記の文のように「もって万物の情に類して」文字が作られるようになったのは 結縄に代えて書契(しょけい)を考案した倉頡であった。
 孔子は【合理】の傲慢な単純化をもって「包犧氏が漢字作成原理〔鳥獣の文〕を発明して万物の情(イメージ)に類似する結縄を作った」と、誤った記述を残した。
 正しくは「古者(いにしえ)倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、書契を作った」であったのである。 

 上記の孔子の漢字起源記事はじめ、『易経』には漢字が銀河から作られた学芸知識や幾つかの誤りや不十分な知識があり、また本義を知らないために生じた誤りなどが幾つか存在する。これが幸いして、中国王朝は孔子の意見は漢字が銀河から作られた学=易の秘密を錯乱させて手助けするものと解したのではあるまいか。もしも幾つかの誤りが無く『易経』の記述がすべて正確なものであったならば、孔子は王と国家に反逆する大罪を犯す者として死刑にならなければならなかった。
 『易経』の記述には幾つの誤りがあり、また孔子は字源や本義を【合理】の考え方で解釈して、【超合理】の考え方までしなかったので、幾つかの見解の誤りを『易経』に記述した。 この点を王や王朝は見抜くものであったゆえ、孔子を死刑にしなかったにちがいない。 銀河から文字が作られた秘密に気づいていない孔子を死刑にしたなれば、むしろ銀河から文字が作られた真実が明らかになると慎重に警戒して、王や王朝は孔子を死刑にしなかったと考えられる。

 孔子は老子に易の教えを受けた。にもかかわらず、孔子は漢字の起源記事はじめ幾つかの誤った見解を『易経』に記述した。孔子は50歳から漢字が銀河から作られた易を研究したため、知識がとぼしく老子よりも劣っていた。
 上記したように、ニューサイエンス運動のバイブルとされるF・カプラが著作した『タオ自然学』においては、老子が説くタオ(道教)の考え方は西欧近代科学の【合理】の考え方を欠点や誤りが明らかとなる【超合理】の考え方であると指摘される。
 老子は【超合理】の考え方をしたのに対して、孔子は【合理】の考え方をした。
 これゆえ、老子の学説(易)は主として儒教・孔子の学説の反論や批判となった。
 老子の教えを説く『老子』は上篇(道経)37章と下篇(徳経)44章、計81章からなるが、 幾つかの章で、老子は孔子に反論しあるいは批判する。『老子』は上篇(道経)37の章は「文字が銀河から作られた」という学術(易)と孔子の考え方への反論や批判を示している。

 『老子』の第33章には「足るを知る者は富み」という文があり、第46章には「知足(ちそく)の足は常に足(た)る」という文がある。  

 竜安寺の方丈の東北に、蔵六庵(ぞうろくあん)の茶室がある。
 その前に”知足の蹲(つくば)い”という名の手水鉢(ちょうずばち)がある。この手水鉢は文字パズルになっており、このパズルは「吾唯知足」と読むことになっている。
 この知足の蹲いの「吾唯知足」は老子の「知足」の思想(欲望論)を示すものであり、「吾唯知足」は「われ唯(た)だ足(た)るを知る」と読んで、「知足の者は貧しいといえども富めり、不知足の者は富めりといえども貧しい」という禅の精神をあらわしているという。

 以上のごとく、竜安寺の石庭においは禅の思想・精神あるいは字源や本義を考えるときに必要な老子の【超合理】の考え方を15個であらわし、孔子の【合理】の考え方を14個の石であらわす仕掛けが必要となった。だから、合計15個の石がどこから見ても14個しか見えないように設置されたのである。  

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