枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・37
1608年、徳川家康は30歳の駿府作事奉行の小堀正一を遠江守に任命し、細江郷(現在の静岡県浜松市北区細江町)の大鳥の地上絵の研究を命じた。
1601年に細江郷の大鳥の地上絵の守り番であった井伊氏を近江の彦根に移住させたため、守り番を失った大鳥の地上絵が消えてしまうことを家康は心配したのであろう。また、夏音文字の学芸を復興するために、用心深く家康は彦根の3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵の作成に続く次の一手を用意して、当時の天才芸術家の若き小堀正一に細江郷の大鳥の地上絵の研究を命じたのであろう。
この年、「遠江」は「遠州」とも称されたので、小堀正一は「遠州」と号した。
家康に細江郷の大鳥の地上絵の研究を命じられた1608年から69歳で1647年に京都の伏見(ふしみ)奉行屋敷で死去するまでの39年間、夏音文字の学芸の復興する、これが彼の最も重大な任務となり、この一路を歩んで任務を全(まっと)した。
【夏音文字】が【銀河】から作られたことを直観ししかも深く理解できるのは芸術家である。
小堀遠州は当時を代表する芸術家であり、彼は現在で言う文字をさまざまにデザインする“グラフィック・デザイン”の才能に長(た)け、この研究は長い年月を必要とするので、遠州は【銀河各部の形状】が【文字】となる夏音文字の学芸の研究にうってつけの若くてぬきんでた才能の持ち主であった。
1616年に家康が没した以後、徳川幕府は家康が一生をささげた夏音文字の学芸の復興の遺志を受け継いだ。
1622年、幕府は3千万坪の彦根の羽の無い大鳥の地上絵が完成させた。この1622年に幕府は遠州の研究を深めるために近江国奉行に任命して彦根の大鳥の地上絵にそそいだ夏音文字の学芸知識を提供し、翌1623年に桂離宮の庭園作りを遠州に命じた。
これゆえ、桂離宮の庭園池の東北には、彦根の羽の無い大鳥の地上絵と同じく羽の無いを江郷の大鳥の地上絵を設計する庭園がある。
遠州の桂離宮の作庭は、時の後水尾(ごみずのお)天皇に従来の皇室の方針を転換を要請して、夏音文字の学芸復興の承諾を得るための、幕府が家康の遺志を継ぐ重点政策であった。
遠州は病床に倒れて立つことができなくなった1645年までの22年間、桂離宮の庭園作りに全情熱を傾けた。
しかし、夏音文字の学芸を復興すれば皇祖・天照大神が残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した事績はじめ伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する小国・日本の人民を敵視し憎悪して苦しめ、伊耶那美命を崇拝する出雲の大国主命王朝や九州の宗像(むなかた)王朝を武力で征服した歴史が明らかになって皇室は人民に憎悪されて滅亡すると、後水尾帝は恐れた。これゆえ、後水尾帝は家康の遺志を継ぐ幕府の政策を頑(かたく)なに拒絶しつづけた。
1627年に紫衣(しえ)事件が起こると、後水尾天皇はこれを怒って1629年に幕府に無断で譲位(じょうい)し、将軍秀忠(ひでただ)の娘和子(かずこ)と結婚して生まれた興子(おきこ)内親王が跡をつがせた。これが明正(めいしょう)天皇である。
紫衣(紫色の法衣)を着用することは、禅宗・浄土宗の僧侶にとって最高の栄誉であるが、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっど)の制定以後、天皇が法衣の許可をあたえるには、事前に幕府の同意を必要とすることになっていた。しかし、天皇は以前の慣例にしたがって無断で許可をあたえたため、幕府はその無効を宣言した。しかし、幕府の無効の宣言に抗議した大徳寺の沢庵らが配流(はいる)に処せられたため、幕府の強圧策に怒った天皇は「葦原(あしはら)や しげればしげれ 荻薄(おぎすすき) とても道ある 世にすまばこそ」と和歌を詠み、退位した。
紫衣事件がおきた1627年は、後水尾天皇に夏音文字の学芸復興の受諾を得るために桂離宮の作庭を着手してから4年後であった。したがって、紫衣事件における天皇の心の底には、皇祖・天照大御神の聖性を汚すことになる桂離宮の作庭事業をもって夏音文字の学芸の復興を達成しようと、桂離宮を所有する天皇の叔父の智仁親王(としひとしんのう)を斡旋役(あっせんやく)にして説得せんとする幕府の干渉(かんしょう)への怒りがあったのではあるまいか。
天皇が退位する時に呼んだ和歌は、下記のような意味するものと解釈できる。
「『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)の黄泉(よみの)国訪問説話で“葦原中国(あしはらのなかつくに)”という名で呼ばれた国・日本の伊耶那美命を崇拝する幕府よ、栄えるならば栄えよ、どうせ朕(われ)は天照大御神を崇拝する落ちぶれた荻薄だ、葦原の国と人々が求めたとても正しい道がひらけた、この世に住んでいることになったんだから。もはや、朕(われ)の権力はまったく無いにひとしい。だから、無力の朕に夏音文字の学芸の復興を承諾せよと、なにゆえ求める必要があるんだ。幕府が勝手に夏音文字の学芸を復興すればいいんではないか。皇室を利用するなんてことは考えないで、さっさと幕府が夏音文字の学芸を復興すればよいではないか。幕府のやっていることはまったく茶番劇だ。」
夏音文字の学芸の復興は、伊耶那美命の死後、日本人民の魂となりアイデンティティとなり、日本国の理念を後世に伝える方法であり、日本文化と学術と芸術の原動力であった。
だから、夏音文字の学芸は強大な権力と莫大な富に優る、絶対に失うことができない日本民族と日本国の基盤であった。
これを失うは、この世に葦原の人草(ひとくさ)である日本人がこの世にいなくなることであり、葦原中国(あしはら)の日本国が地球上に存在しないことに等しかったのである。
これゆえ、天下を取った幕府が力づくで夏音文字の学芸を復興しても、それは強大な権力によって復興することになるので、夏音文字の学芸の復興運動の理想と目的を達成するものではないと家康も幕府も考えていたのである。
家康も幕府はもともと夏音文字の学芸は天皇家の始祖とする天祖がわが国にもたらしたものと考え、権力が衰退した天皇家が承諾してこそ夏音文字の学芸は強大な権力と莫大な富に優る日本民族と日本国家の理想であると明確に示すことができるとこだわっていたにちがいないのである。
この家康と幕府の考えは、伊耶那美命が歴史上に登場して以来のわが国の歴史が明確に示すことであり、『古事記』上巻全体を通して語られていることである。
また『万葉集』の多くの和歌が、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を高々と歌い上げている。
この日本建国の〔愛〕の理念が強大な権力と莫大な富に勝る日本民族と日本国の理想であった。この日本建国の〔愛〕の理念を伝える歴史は【銀河各部の形状】を【文字】とする夏音文字で記録された。
この夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は、西欧近代科学の傲慢(ごうまん)な単純化から生まれた“文献批判”という方法を用いて、新井白石から始まる西欧近代科学の合理思考を絶対視する学者たちによって『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を【誤読】して夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を記す歴史がことごとく排除(はいじょ)された。さらに、この“文献批判”をもって学者たちは日本古代史学を支配した。このため、源頼朝と足利尊氏などそして臨済宗の僧侶たちがおこなった夏音文字の学芸の保存運動、また『古事記』編纂スタッフ、織田信長、徳川家康などの夏音文字の学芸復興運動に命を賭(か)けた歴史はまったく削除(さくじょ)されることになった。ゆえに、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を、今日、われわれは歴史上に存在したものであることをまったく知らず失うことになったのである。
しかし、1738年までは夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を守って残すと志す先人たちの運動を江戸幕府は引き継ぎ、執拗(しつよう)にあきらめずに後水尾上皇はじめその後の歴代天皇に夏音文字の学芸を復興して日本建国の〔愛〕の理念を民族と国家の理想とする承諾を求めつづけていた。
家康の死から122年後の1738年、霊元(れいげん)上皇が大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興して幕府の要望を受け入れ、即位する天皇の頭上に高々と差し上げる王冠・菅蓋(かんがい)で夏音文字の学芸の復興の承諾が示された。
この天皇の王冠の上の鳥の飾りで夏音文字の学芸の復興があらわされ、下の飾りの菅笠(すげかさ)で天照大御神が敵視し憎悪した伊耶那美命(いざなみのみこと)が提唱した日本建国の〔愛〕の理念が示された。
「大嘗会」は天皇が即位後におこなう皇室の最大の神事であり、【夏音文字】は【銀河各部の形状】であったことを表示する祭儀である。
「大嘗会」の[大]の字源は「十字の銀河」である。[嘗]の字義は「なめる」である。ゆえに、[嘗]の字源は「十字の銀河」と連結する「十字の銀河の南の乳房」(十字の銀河の妊婦のおなかに観える銀河)を嘗(な)める「鬼の横顔に似る銀河の舌」である。[会]の字源は「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が会う「十字の銀河の子宮」である。
だから、「大嘗会」という神事は「文字は銀河から作られた」と証言するものであり、【夏音文字】は【銀河各部の形状】で確かに存在したと証言していることになる。
即位する天皇の頭上に高々と差し上げられる天皇の王冠の意匠(いしょう)は強大な権力よりも莫大な富よりも優る日本人の魂とアイデンィティを表示する。
左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』で詳細に解説して証明したように、天皇の王冠の意匠は――桂離宮の庭園池の東北に作られた細江郷の大鳥の地上絵の設計と、有名な美しい“桂の笹垣(ささがき)”と、そして庭園池中央の大きな“夏音文字の学芸の復興を皇室に願う家康が土下座する姿”の設計――を注目して決定された。
天皇の王冠の上の飾りは、遠州が桂離宮の作庭に着手する1年前に近江国奉行に任命されて見学した彦根の大鳥の地上と同じく“夏音文字の学芸は習わず(いまだ夏音文字の学芸は復興せず)”とあらわす、羽の無い細江郷の大鳥の地上絵を設計した庭園からデザインされた。
この〔羽の無い細江郷の大鳥の地上絵〕によって、『桂御別業之記(かつらごべつぎょうのき)』という名の古文書の「庭園は小堀遠州政一が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」という記述は、伏見奉行・遠州が家康の命令された任務を全うしたと示すものとなる。ゆえに、学者・ジャーナリストあるいは出版社などは『桂御別業之記』の記述を根拠無しと否定するが、この意見は明らかに臆説独断(おくせつどくだん)であって、桂離宮の庭園は小堀遠州が作ったと断定すべきことになる。
羽の無い細江郷の大鳥の地上絵を設計する庭園の頭部は、「天の橋立(はしだて)」という名の直角状に三段に折れる築島(つきしま)である。この「天の橋立」のほぼ真北の外腰掛(そとこしかけ)前の延段(えんだん)の北端に、有名な二重枡形の手水鉢(ちょうずばち)がある。
菱形「◇」を半分に割ると[く]の字となる。この[く]の字形の大きな前石を配し、角違いの手法で、手を洗い清めるための手水鉢ではなく、二重枡形の手水鉢は貴人が別の用途に使う装置であると示す造形になっている。
二重枡形の手水鉢の海(水を溜める穴)の縁は正方形である。この正方形の手水鉢の側面の胴は女性の乳房のように円(まろ)やかに、妊婦のおなかのようにどっしりとし、女体のようにやわらかいカーブを描く。
このような女体が連想される手水鉢の海は3cmほどの深さに正方形に彫られ、さらにその正方形と45度に交わる正方形が彫られている。つまり、この手水鉢の海は〔正方形の中に菱形の枡がある形〕となる。
ゆえに、二重枡形手水鉢の海は「長方形の暗黒天体部」を造形するものと考えるべきことになる。これゆえ、外側の「正方形の彫り」は「長方形の暗黒天体部の北側の正方形の銀河部」をあらわすものとなる。内側の「菱形の彫り」は「長方形の暗黒天体部の南側にある2連菱形枡の銀河部」の一つをあらわして[幡]の字源を表現していることになる。
この二重枡形手水鉢の3m後ろは、茅葺(かやぶ)きの外腰掛の建物の内となる。この位置に、“砂雪隠(すなせっちん)”がある。「雪隠」は「トイレ」である。
砂雪隠はトイレとして使われない。茶の湯では飾りとするものであるので、砂雪隠は“飾(かざり)雪隠”とも称する。飾りものであるから不要なものであるはずなのに、茶人たちの間では砂雪隠は欠くことができないものであると重要視される。
この砂雪隠の決まった形式があり、この形式は遠州が15才ころに茶を習った茶道の一派・織部流(おりべりゅう)の祖の古田織部が定めたとされる。桂離宮の外腰掛の砂雪隠の形は、織部流を忠実にまもって作られている。
しかし、織部流でも千利休(せんのりきゅう)を祖とする千家流においても、内腰掛に砂雪隠を設ける。外腰掛には実用的なトイレ(下腹雪隠)を設置した。
したがって、桂離宮の外腰掛に砂雪隠を設けるのは、茶道の決まりに反する。
遠州が桂離宮の外腰掛に作った砂雪隠は自然石を組んで便器の部分を作り、その便器の部分の中に砂を入れ、組石の一つを壁の外にはみ出させた。この形式は織部流に忠実である。
「長方形の暗黒天体部」の東と西の辺に対して、南側の「2連菱形枡の銀河部」は外にはみ出す。ゆえに〔外腰掛の壁〕を「長方形の暗黒天体部の北側の正方形の辺」に見立てると、〔壁の外にはみ出す組石〕は「2連菱形枡の銀河部」をあらわすものとなる。
この砂雪隠は二重枡形手水鉢の3m後ろにある。ということは、砂雪隠も「長方形の暗黒天体部の南側にある2連菱形枡の銀河部」が字源となる[幡]の秘密、すなわち倉頡が定めた「神に誓って、書いた後に必ず文字を消せなければならない」という掟をを示す装置であるにちがいない。
小堀遠州は当時の天下一の茶の宗匠(そうしょう)であった。さらに遠州は織部に茶を習った。ゆえに、織部流の砂雪隠は内腰掛に、外腰掛には下腹雪隠を設置する約束事を反して、なぜ外腰掛に砂雪隠を設置したのであろうか。
古田織部はトイレ以外に使う“砂雪隠”という珍しい古くからの遺産を茶の湯に取り入れた。しかし、織部は砂雪隠が[幡]の〔倉頡が定めた掟の秘密を伝える、夏音文字を書き、書いた夏音文字を消すための装置〕であることを知らなかったのであろう。
砂雪隠は、夏音文字を砂の上に先のとがった棒で書き、書いた文字を棒で消すのに便利な装置となる。ゆえに、砂雪隠は倉頡が決めた掟を守る、[幡]の字源となった役目を優した装置であったことになる。
このような砂雪隠の真の用途を、遠州は細江郷の大鳥の地上絵によって知った。ゆえに、織部の教えや茶道の約束事に従わなかったのである。
というのも、桂離宮の羽の無い細江郷の大鳥の地上絵の形をした庭園の首の部分(天の橋立)と細江郷の大鳥の地上絵の首の部分を合致させると、二重枡形手水鉢・砂雪隠と引佐町井伊谷(いいのや)に所在する八幡宮の方角がピッタリと一致するからである。
1千万坪の大鳥の地上絵を作った建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を先祖とする氏族は、1010年に「井伊」と氏族名を改めて武家となり、引佐町井伊谷に居住し、細江郷の大鳥の地上絵を守った。
井伊家元祖の共保公(ともやすこう)の生誕儀式すなわち井伊家創設の儀式は、引佐郡6社の第一である井伊保(のちの井伊谷)の八幡宮にある御手洗(みたらし)の井戸にておこなわれた。この井戸は、引佐町の史跡として現在も残っている。
“二重枡形の手水鉢”は〔手を洗う装置〕であるので、“御手洗の井戸”の「御手洗」という語と同義となる。現在、「御手洗」を「おてあらい」と読むと、「雪隠」と同じく「トイレ」を意味する。これゆえ、引佐町井伊谷の八幡宮の井戸の「御手洗(みたらし)」という名には砂雪隠の真の用途を伝える役目があったにちがいない。
“御手洗の井戸”の「井戸の桁(けた) (木で井の字形に組んだ井戸の縁)の形も、二重枡形手水鉢の「海の彫り」も両者ともに正方形である。また、井伊氏の家紋は“井桁紋”である。そして、すぐ前の行で指摘したように、細江郷の大鳥の地上絵と桂離宮の大鳥の地上絵を模(も)す庭園部の首の部分を合致させると、御手洗の井戸がある八幡宮と桂離宮の二重枡形手水鉢がある方角はピッタリと一致する。
このように、桂離宮の二重枡形手水鉢と砂雪隠は井伊家創設の儀式が行われた井伊谷の八幡宮の御手洗の井戸に見立てた装置であったことになる。
それゆえ、遠州は引佐町井伊谷の八幡宮の御手洗の井戸によって、茶道で飾りものとされる砂雪隠の真の用途は文字を書き、書いた文字を消す夏音文字の装置であることを知った。
だから、茶道の方式に従わずに外腰掛に砂雪隠を設置したと考えるべきことになる。
いままで解説してきたように、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bの銀河から、すべての漢字とヒエログリフが作られた。また、資料Cには、資料Bの銀河各部の名称を記入した。
この資料Cでは、「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部」と「夏の銀河の西南部」に大別した。「夏の銀河の東北部」と「夏の銀河の西南部」を一括すると「夏の銀河」となる。
「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部の北側」が連結する銀河を、資料Cでは「オス鹿の横顔に似る銀河」と名づけた。この「オス鹿の横顔に似る銀河」は「十字の銀河」、「十字の銀河の背景となる三つ輪の銀河」、「鬼の横顔に似る銀河」、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」、「長方形の暗黒天体部」、「長方形の暗黒天体部の南に隣接するオス鹿の横顔の口部となる銀河」とで構成される。
「秋の銀河」は「十字の銀河」と鳥の左の羽(翼)のように観える「三つ輪の銀河」でこうせいされる。(時には、「三つ輪の銀河」の南に隣接する、無数の星が輪の形に群がる銀河部を加えて「四つ輪の銀河」とも称した)。
「夏の銀河の東北部」においては、これまでの解説に登場した銀河部の名称を列挙すると、「鬼の姿に似る銀河」(「鬼の横顔に似る銀河」と「鬼の身に相当する銀河」)、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」、「人の横顔に酷似する銀河」、そして「コールッサック」ということになる。この「コールサックの北部」に「長方形の暗黒天体部」がある。
「夏の銀河の西南部」はヒエログリフにおいて“巨大なホルスの眼”、または“球形の糞を転がすスカラベ(ふんころがし)”に見立てられた。わたくしは資料Cで、「夏の銀河の西南部」を二分して東半分は「巨龍の銀河」、西半分は「胎児の姿に似る銀河」という名称にして、中央に「銀河の中心」があると記した。
このすようなすべての漢字とヒエログリフが作られた資料Bの銀河全像の各部が明確にわかるように、桂離宮の庭園の平面図は設計されている。
桂離宮の庭園に中央は池である。
池の東側の庭園は「夏の銀河」の形に設計されている。
池の西側の庭園は「人の横顔に酷似する銀河」に設計される。
池の南に浮かぶ大中島は「十字の銀河」あるいは「鬼の姿に似る銀河」に見立てるようになっている。
大中島の背後となる池の南側(竹林となる庭園)は〔オス鹿の横顔〕に設計されて「オス鹿の横顔に似る銀河」が連想できるようになっている。この〔オス鹿の横顔〕に対して、〔角〕の部分は池の西側の庭園(桂離宮の中心となる建物「御殿」が建造される庭園)と東側の「夏の銀河」の形に設計された庭園となる。このため、西側の庭園は「鳥」の字源において〔西の鳥の羽〕となる「鬼の姿に似る銀河」と「鬼の姿に似る銀河より北側の銀河」にも見立てことができるようになっている。[鳥]の字源の〔東の羽〕となる東側の「夏の銀河」の形に設計される庭園は、「十字の銀河」と十字の銀河の背景となる「三つ輪の銀河」に見立てられるようになっている。
庭園中央の池は「コールサック」にも「長方形の暗黒天体部」にも見立てるようになっている。その証拠に、御幸道(みゆきみち)と中門をつなぐ土橋がかかる、「亀の尾」という名の岬から御舟屋に向かって西北へ伸びる池の形は「コールサック」の形に作られる。御舟屋がある池は「長方形の暗黒天体部」の形に設計されている。
そして、御幸道と中門をつなぐ土橋より東の池の中央は、「御殿」を〔皇室〕に見立てて夏音文字の学芸の復興を願う“土下座する家康(または江戸幕府)の姿”をあらわす造形となり、庭園の作成目的が明確に表示される。
この“土下座する家康の姿”の池の形は、幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』で示して、詳細に立証した。
この“土下座する家康の姿”の形に設計される池の中央に、「中島」という名の二つの築島が浮かぶ。この「中島」は西側の「人の横顔に酷似する銀河」の目の辺りの岸と石橋でつながり、二つの築島はまた石橋でつながる。この二つの石橋は、庭園が作られた17世紀前半当時の天頂緯度線を示している。当時、「人の横顔に酷似する銀河」の右目(西の目)のあたりが桂離宮の天頂にめぐってきた。
当時と現在とあまり年数が隔(へだ)たっていない。したがって、〔歳差〕の影響はほんの少しであるので、現在の星座盤などで当時の天頂の様子を知ることができる。「人の横顔に酷似する銀河」の右目の横にホクロのような白鳥座η(エータ)星が輝く。現在の星座盤は白鳥座η星のほんの少し南側の銀河部が、北緯35度の京都の桂離宮の天頂緯度になると表示する。ゆえに、当時は白鳥座η星がある、「人の横顔に酷似する銀河」の右目が桂離宮の天頂にめぐってきていたことになる。
“土下座する家康の姿”の池は「天の橋立」という名の築島が浮かぶ「夏の銀河」の庭園に食い込む。この「天の橋立」から北に向かって、羽の無い細江郷の大鳥の地上絵に作られた庭園がある。
以上のように、桂離宮の庭園の平面図はすべての銀河各部の形状を造形して、すべての漢字とヒエログリフの字源が解明でき証明できる構造になっている。
もちろん、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻のすべての夏音文字の字源が解明できる。また、『古事記』上巻の夏音文字以外のすべての万葉仮名の漢字の字源も解明できる。
これによって、邪馬台国説と日本神話虚構説を立論した【文献批判】という考え方の正体は紛(まぎ)れも無く【誤読】であり、【文献批判】にもとづく【根拠・理由】は【空理空論】ということが明確に科学的に証明される。
また、桂離宮の庭園池の中央の大きな面積の“土下座する家康の姿”を設計する池は、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は失うわけにいかないと願った先人たちの歴史が実在したことを如実(にょじつ)に示す。しかし、現在、われわれはそれを“真実の歴史”と呼ぶことも認識することもできない。
だから、学者たちが西欧近代科学の合理思考を絶対視するがために、われわれは“魂”あるいは“命のみなもと”とも称すべきいちばん大切なものにしてを失っていることになる。
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