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2012年1月10日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・34

 紀元前2070年、帝啓(けい)によって国家を創設して特定の家が帝を代々受け継ぐ世襲王朝国家政治体制の夏后(かこう)王朝が樹立された。
 (これより以後、「夏后」を「夏」と表記する)。
 啓の父、夏王朝の始祖・帝禹(う)は五帝時代以来の国家を作らず多数の氏族の中から最も優れた人物を選ぶ氏族共同政治体制を強く望んだ。それゆえ、禹は臨終の際に帝位を子の啓にあたえず、補佐役の益(えき)にさずけた。しかし、諸侯はみな益に服従せず、啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。
 益は禹の3年の喪(も)が終わると帝位を啓にゆずって、箕山(きざん)の南の地に隠棲(いんせい)した。
 上記の歴史は、司馬遷著『史記』夏本紀に記述されている。

 益は新天地・日本列島で、禹の氏族共同体制の遺志を継がんと決意した。しかし、老いた益には大海を越えて日本列島に移住する体力がそなわっていなかった。
 この禹の遺志を継ぐ事業は、益氏の屈強な若者たちによっておこなわれた。
 夏代初頭(後期縄文時代初頭)、帝益の孫の王子と若者たちは大海を越えて日本列島に移住した。
 この名門益氏の日本列島移住の様子は、『日本書記』神武天皇紀の初頭に、帝益の孫の王子は「天祖」と表記されて記載されている。
 また、『古事記』の天孫(天照大神の孫、つまり若き日の景行天皇)の筑紫降臨(こうりん)説話には、帝益の箕山の南の地に隠棲した歴史が登場する。天孫は天祖(帝益の孫の王子)と同名を名乗り、つまり天祖の生まれ変わりを演じて大和の遠征軍を率いて九州東部の日向(ひゅうが)国で大和王朝に盾突く熊襲・隼人(はやと)族を討伐したあと、遠征軍は阿蘇国に向かって北進し筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに)を通過して、筑紫・不弥(ふみ)国の的邑(いくはのむら)に到着した。この的邑(福岡県浮羽郡の東部)から筑紫の「久士布流多気(くしふるたけ)」という6字の夏音文字で表記された山の南の地に到着して、遠征における最も重要な目的である宗像(むなかた)氏征服を遂行した。この大和の天孫軍の宗像氏征服の歴史によって、「久志布流多気」という夏音名の山は、「箕山」(きざん)にちなんで「基山」(きざん)と名づけられた。この基山は、福岡県と佐賀県の県境となる基山町と筑紫野市にまたがっている。基山の真南は鳥栖(とす)市である。天孫軍が征服した宗像氏が居住する「不弥国」の[弥]の字源は「カンムリカイツブ」という水鳥である。天孫軍は帝益が箕山の南の地に隠棲した歴史にちなんで、鳥の国・不弥国の真南の地・鳥栖市真木に駐屯(ちゅうとん)して征服の準備をした。ゆえに、天孫軍の駐屯は隠れ棲むではなく栖(す)むものであったので、“鳥棲”ではなく地名は「鳥栖」となったのである。
 『古事記』序においては「名は文命(ぶんめい)よりも高い」という文をもって「その名前の高さは夏の禹王よりも高い」と、箕山の南に隠棲して禹の遺志を継いだ帝益を讃える。
 司馬遷著『史記』五帝本紀は「益は帝堯(ぎょう)の時代から挙用(きょよう)されていた」と記載する。この名門益氏は日本列島に移住した。
 これゆえ、『史記』陳杞世家(ちんきせいか)には「益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである。帝堯と帝舜(しゅん)の時代に、功徳(くどく)をもって令名のあった臣下である。益の先祖は帝王になった。」と記述される。
 このように、名門益氏が中国古代史から忽然(こつぜん)と消えたのは――大湯環状列石に移住した痕跡が残り、『日本書記』神武天皇紀に記述され、『古事記』上巻の天孫説話に帝益の箕山の南の地に隠棲した歴史が登場して今日「基山」や「鳥栖」という地名が残っているように、また「益荒男(ますらお)」という日本語の字が「益氏の若者たちのように、荒海を越える勇猛果敢な立派な男性」と示すがごとく――帝禹の遺志を継ぐために、益氏の若者たちは大海を渡って日本列島に移住したからである。

 帝益の孫の王子・天祖と益氏の若者たちが日本列島を移住した確かな痕跡は、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)に残っている。このストーン・サークル(環状列石)は、天祖の孫の代の時に作られたと考えられる。この史跡の万座遺跡と野中堂遺跡を調査すると、益氏がもたらした夏音文字の学芸のどのようなものであったか手に取るように知ることができる。

 名門益氏が日本列島に移住して、わが国に夏音文字を根づかせた歴史を最も確実に証明できる文献史料は、『魏志倭人伝』と『古事記』である。というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に夏音文字が記されて残っているからである。
 また、『魏志倭人伝』と同時代に作成された静岡県浜松市北区細江町(ほそえちょう)の1千万坪の大鳥の地上絵は、『魏志倭人伝』のすべての記事は事実を伝えるものであると科学的に証明できる史跡である。
 この大鳥の地上絵によって、新井白石から始まる西欧近代科学の合理の考え方を用いる邪馬台国研究は100パーセントのウソであり、1980年代から先端科学者たちが“西欧近代科学には誤りがある”という警告は紛(まぎ)れもなく事実であることが誰にでも容易に理解できる好個(こうこ)の事例となる。
 白石から始まった約280年におよぶ邪馬台国研究は『魏志倭人伝』の重大な記事をすべて誤読してデッチあげた空想であって1パーセントの史実も存在せず、すべてが真っ赤なウソで滑稽なほど馬鹿げたおぞましい茶番劇である。

 静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵の北隣は、井伊氏が居住した引佐町(いなさちょう)である。
 井伊氏の先祖は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の二神の誓約(うけい)説話の末部に登場する、遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)である。この建比良鳥命と配下の人々によって1千万坪の大鳥の地上絵は作成された。
 1010年、建比良鳥命家は「井伊」と氏族名を改めた。
 井伊氏は引佐町に居住して、関ヶ原合戦時まで“建比良鳥(たけひらとり)の地上絵(1千万坪の大鳥の地上絵)”を約1300年間もまもった。
 徳川家最強の軍団は、赤色の武具をまとって戦場を疾駆(しっく)した。この軍団の大将は井伊氏の頭首の井伊直政(なおまさ)であったので、赤色の武具の軍団は“井伊の赤備(あかぞな)え”と呼ばれた。
 1601年正月、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康(60歳)は井伊直政に近江(滋賀県)への移住を命じた。
 真っ赤なウソ八百の邪馬台国説のために不明になってしまったが、家康の一生は夏音文字の復興に全情熱を傾けるものであった。
 家康が直政に彦根の移住を命令したのは、家康が生涯追い求めた夏音文字の学芸の復興を実現させるためであった。
 家康は近江の大地に3千万坪の〔羽が無い大鳥の地上絵〕を作成させるために、建比良鳥命の子孫である井伊氏に近江への移住を命じた。
 家康は近江に移住した井伊氏の彦根藩領周辺の近隣7ヵ国12大名に命じて3千万坪の〔羽が無い大鳥の地上絵〕の完成を急がせた。
 1602年2月に、42歳で井伊直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して亡くなった。後を嫡子の直継(なおつぐ)が受け継いで工事が続けられたが、1614年の大阪冬の陣の時に藩主の直継は生来病弱で病床にあって出陣できず、代わって異母弟の同じ年の直孝(なおたか)が赤備えを率いて、3代藩主となった。
 1616年、75歳で家康は没した。家康が一生をとおして実現しようと願った夢を形にした〔羽の無い大鳥の地上絵〕は、着工してから20年後の1622年に完成した。したがって、家康は〔羽の無い地上絵〕の完成を目にしていない。
 この家康の一生の願望を描く〔3千万坪の羽が無い大鳥の地上絵〕は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を示す地図の形として残る。

 家康が一生を賭けて全情熱を傾けた願望は、現在の彦根市の地図の形と遺訓(いくん)に残された。この家康の遺訓は下記のごとくである。
 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基(もと)。怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
 この遺訓の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という言葉の中の「重荷」で示した家康の一生の願望が、現在の〔3千万坪の羽が無い彦根の大鳥の地上絵〕となって残ったのである。

 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と中国王朝に伝えた――という記事がある。
 この10年後の712年に『古事記』が完成し、その上巻には〔音〕という注が付いて多数の夏音文字が記載された。だから、わが国に最初に漢字が伝来したのは、後期縄文時代初頭のことだったのである。
 家康の一生は夏音文字の学芸の復興に全情熱を傾けるものであった。
 ゆえに、彦根市の3千万坪の〔羽が無い大鳥の地上絵〕は、702年に遣唐使が中国王朝に伝えた「後稍夏音を習う」という言葉にもとづき“いまだ夏音は習わず”と表現するものである。
 
彦根市の大鳥の地上絵は“夏音文字の学芸はいまだ復興されず。なにとぞ、天皇陛下にあられましては夏音文字の学芸の復興を願い奉る”という要望を、大地に描くものであったのである。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王の伊耶那美命(いざなみのみこと)の墓を築造する時、伊耶那美命が禁止するようにと遺言した残虐きわまりない徇葬(じゅんそう)を、伊耶那美命の後を継いで倭女王となった天照大御神が多数の青年(奴)と乙女(婢)を殺して決行した。小国・日本の軍王である伊耶那美命の夫の伊耶那岐命は愛妻伊耶那美命の遺志をまもるために、伊耶那美陵から日本軍の兵士と熊野に住む徐福(じょふく)の子孫の戦士たちの協力のもとに、伊耶那美陵・熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)から伊耶那美命の棺を奪う反乱をおこして、天照大御神が率いる倭の大軍を撃破した。そして、日本軍の捕虜となった天照大御神と伊耶那岐命は、現在の和歌山県新宮市の神倉(かんのくら)神社の御神体となる千引(ちびき)の石(いわ)の前で、天照大御神は生前に伊耶那美命が熱心に説いた〔愛〕の理念を尊重する「小国・日本の国民を一日に千人ずつ呪(のろ)い殺す」と誓い、伊耶那岐命は「男性と女性が愛し合い一日に千五百の産屋が立つように、伊耶那美命が説いた〔愛〕の理念を国家理念にする」と誓った――と歴史を伝える。

 皇室は天照大御神は“皇祖”と仰いで崇拝した。
 ゆえに『古事記』上巻に記載された〔音〕という注がつく夏音文字によって【すべての漢字は銀河から作られた秘密】が明らかになると、伊耶那美命の黄泉国訪問説話はじめ上巻全体をとおして語られる天照大御神の悪政の数々が明らかになって、皇室が滅亡するにちがいないとおそれた。だから、夏音文字の抹殺(まっさつ)に躍起(やっき)となった。
 しかし、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念をまもらんとする人々は、夏音文字の保存と復興に情熱を傾けた。
 だから、後期弥生時代以来、井伊氏は建比良鳥の地上絵(1千万坪の細江町の大鳥の地上絵)を保存した。
 家康が主君と仰いだ織田信長も、伊耶那美命に熱烈に憧れて夏音文字の学芸の復興に全情熱を傾けた。
 彦根市の“いまだ夏音は習わず”、つまり“いまだ夏音文字の学芸は復興されず”と描く、3千万坪の〔羽の無い大鳥の地上絵〕は信長と直政と家康の夏音文字の学芸の復興に一生を賭けた熱き魂と情念を伝えるものである。

 すべての漢字が作られた銀河を字典にすれば、『魏志倭人伝』に記載される「弥奴(みな)国」は信長が居住した尾張、「好古都(こかた)国」は家康の出身地の三河、「不呼(ふこ)国」は直政が居住した遠江であったと解明できる。この3小国の解明によって、彦根の羽の無い大鳥の地上絵は“いまだ夏音は習わず”とあらわすものであると立証される。
 また銀河を字典にすれば、『魏志倭人伝』に記載される「呼邑(こお)国」は彦根市が所在する近江、「華奴蘇奴(かなさな)国」は近江の西隣の山城・京都府、「蘇奴(さな)国」は近江の北隣の若狭、「対蘇(つさ)国」は近江の東隣の美濃であることが明らかになる。この近江・呼邑国とその周辺の4小国の解明によっても、彦根市の大鳥の地上絵は“いまだ夏音は習わず”と描くものであることが科学的に証明できる。

 家康は――「漢字」という語は「銀漢からつくられた文字」の省略であるからして、必ずや後世の学者たちは【銀河各部の形状】が【文字】に成ることに気づき、『魏志倭人伝』のすべての小国名の夏音文字の字源・字義を解明するにちがい――と予測して、井伊氏の居住地を〔羽が無い大鳥の地上絵〕に設計させたのである。
 しかし、家康の予測は見事にはずれて、文献史料の記事をキチッと忠実に読む歴史学の原則をまったく身につけない・なにもかも誤読して立論するど素人以下の似非(えせ)学者たちの真っ赤なウソ八百の邪馬台国説のために、『魏志倭人伝』に記載される小国名に使用される【文字】が【銀河各部の形状】から作られた事実はいまだまったく解明されない事態となった。

 白川静著『字統』は[習]の字源を「羽と曰(えつ)とに従う。曰は祝祷(しゅくとう)を収(おさ)める器。この器の上を羽で摺(す)って、その祝祷の呪能(じゅのう)を刺激し、そのような行為をくりかえすことを意味する字」と解説する。
 つまり、「祝祷を収める器」とは「祝い祈祷(きとう)するための器具」ということになるから、[習]の字源は「祝祷に用いる器の上を鳥の羽で何回も擦(こす)って刺激して、かつて盛んであった勢いが蘇(よみが)えるよう、復興するように呪(まじな)う」ということになる。
 だから、「習う」の意味は「復興する」と意味するものであった。
 彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵の北部は、〔鳥の頭〕の形に設計されている。
 この彦根の大鳥の地上絵の頭は、夏至の日の出の方向を指し示す。したがって、〔夏至の日の出の方角〕で「夏音文字の学芸」と表示する。
 彦根市の東の境界線は〔羽の生え際〕を示すが、〔羽〕の部分が存在しない。
 だから、〔彦根市〕を「祝祷の器」に見立てると、〔羽が無い彦根市〕は「いまだ夏音文字の学芸は復興されず」と示すものとなる。
 〔羽が無い鳥の地上絵〕は異様でひときわ目立つ。だから、後世の人々に『魏志倭人伝』はすべて事実であることを伝え、【銀河各部の形状】が【文字】であることを伝えるために、彦根市は羽の無い大鳥の地上絵となったのである。
 大鳥の地上絵であるから本来あるべき羽の部分には、伊耶那美命と伊耶那岐命を主神として祀る多賀(たが)大社が所在する。【銀河各部の形状】は【文字】であった事実に気づいて夏音文字の学芸が習う(復興する)ことになれば、多賀大社が所在する多賀町には羽がつくことになる。ということは、伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念が蘇えることになる。
 このように彦根の羽の無い大鳥の地上絵は――信長と直政と家康は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興に全情熱を傾ける一生を送った――と証言する。信長も直政も家康も伊耶那美命に熱烈に憧れていたのである。

 新井白石から始まる約280年におよぶ邪馬台国研究は『魏志倭人伝』のすべての記事を誤読して似非学者たちがねつ造したウソ八百である。
 誤読の空論の邪馬台国説は、先人たちがなんとしてでも後世に残さなければならないと命がけでまもった、なんびとにも排除されたり害されてはならない最も重大な歴史である①夏音文字の学芸と②日本建国の〔愛〕の理念を抹殺して、日本民族の魂とアイデンティティを虐殺するおぞましい虚妄(きょもう)なのである。
 この事実を、彦根市の3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵が明確に示す。
 邪馬台国説は日本民族の魂とアイディティティを虐殺するものであるから、排除しなければ日本は確実に滅亡する。
 なんのために、先人たちは①夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念をまもったのであろうか……。われわれは天照大御神が千引の石の前で誓った呪詛(のろい)を受け継ぐ邪馬台国説学者たちのために、なぜ魂とアイデンディティティを虐殺され、なぜ腑抜(ふぬ)けになければならないのか、こんな不条理な暴挙に絶対に負けてはならなのだ。
 われわれは日本人だ。邪馬台国説学者たちのウソ八百をたたき潰(つぶ)して、日本人である権利をまもろうではないか。

 また邪馬台国説は、人類共通の敵である。
 いままで解説してきたように、『魏志倭人伝』の記事に誤読をいっさい加えずに読めば、世界の古代文字は銀河から作られたことが科学的に解明できる。
 アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)の1頁の〔はじめに〕の冒頭は「文字は人類の歴史上、最も偉大な発明品の一つである」と書き出す。
 この人類史上において最も偉大な発明品の文字が銀河から作られたことが最も科学的に明確に立証できるのは、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と文献史料がそろい、大湯環状列石、1千万坪の建比良鳥の地上絵(細江町の大鳥の地上絵)、竜安寺の石庭、3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵、桂離宮の庭園という夏音文字の学芸史跡を有する日本でのみである。
 だから、『魏志倭人伝』の重大な記事をことごとく誤読して空論をデッチあげる邪馬台国説は人類共通の敵である。

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