枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・40
『魏志倭人伝』の末部は「卑弥呼の墓を作る時、卑弥呼陵に奴婢(ぬひ)百余人を殺して埋める徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。この徇葬を倭の人民が憎悪して反乱となり、倭政府は千余人の反乱者を殺した」と説明する。
このような卑弥呼の墓を作った時におこなわれた徇葬の数年後、壱与(いよ)・伊耶那美命(いざなみのみこと)が没した時にも、倭女王を継いだ天照大神によって残虐・野蛮な徇葬が決行された。
このような倭王朝がおこなった徇葬への憎しみについて、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』と『新唐書(しんとうじょ)』は――702年に中国に渡った「倭」から「日本」への国号改変の承認を得る任務についた遣唐使が①「日本国は倭国の別種なり」、②「倭の名を悪(にく)み、改めて日本という名にした」、③「日本はもと小国、倭国の地を併(あわ)せた」と説明した――と記載する。
紀元前3世紀に中国から大海を越えて日本列島に到着した徐福一行が定住した地は3世紀には「東鯷人(とうていじん)国」と呼ばれていたが、233~236年頃に卑弥呼が統治する大国の倭に服属した。
この服属によって、東鯷人国は「日本」という国名になった。
この小国・日本に倭の一員であった小国・伊耶(いや)国・丹波(たんば)すなわち現在の京都府中部と兵庫県の一部に住む壱与・竹野比売(たかのひめ)が女王として赴任した。
壱与は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。日本の人民は壱与を「伊耶国からきた美しい女王」と讃(たた)えて敬愛して「伊耶那美命」と愛称した。
また、伊耶那美命と結婚した日本国の軍王の載斯烏越(そしあお)・のちの第9代開化天皇を「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と愛称した。
このように、日本は大国・倭に服属する小国であるから倭国から独立する別の国ではなかったのであるが――702年に中国に渡った遣唐使は倭は残虐な徇葬をおこなった雅(みやび)やかではない国、日本は〔愛〕の国と認識するものであったので、上記したように①「日本国は倭国の別種なり」、②「倭の名を憎み、日本という名に改めた」、そして小国の日本の軍王であった載斯烏越・伊耶那岐命・開化天皇が天照大神の徇葬に反逆する謀反(むほん)をおこして倭国を併合したので③「日本国はもと小国、倭国の地を併せた」と中国王朝に伝えたのである。
この小国の軍王伊耶那岐命の謀反は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問説話に記述されている。この説話について、後半部にて解説する。
このように日本国は伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念から始まる国であった。ゆえに、皇室が崇拝する皇祖・天照大神がおこなった徇葬を憎悪して、先人たちは日本建国の〔愛〕の理念は絶対に失うことはできないとまもりつづけた。このため、卑弥呼の陵墓を築造した時の徇葬への憎しみから始まった歴史は1490年後の1738年の大嘗会(だいじょうえ)の本格的な復興によって、天皇の王冠の意匠で日本建国の〔愛〕の理念は天皇の頭上高く差し上げられることになった。
卑弥呼の墓に殺されて埋められた「奴」は「18歳ぐらいの青年」であり、「婢」は「13歳ぐらいの乙女」であった。この奴婢は卑弥呼の霊魂が天に昇り、再度この地上に命が蘇(よみが)えるためのお伴(とも)であった。この卑弥呼の霊魂の再生という儀式は、古代エジプトの死んだ王や王女の命を再生するために地下に莫大な費用をかけて作られた墓の風習に類似する。
[還]と[環]の字の初義は「命が再生すること願って、死者の襟元(えりもと)に置く環形の玉」であった。[術]は十字路すなわち「東西の緯度測定と南北の子午線計測の呪霊(じゅれい) 」をあらわす字である。[道]は「天頂緯度測定と子午線計測を邪魔する呪霊を祓(はら)いながら目的地に向かって進む」をあらわす字である。
ゆえに、昇天する卑弥呼の霊魂が途中で呪霊に邪魔(じゃま)されて消滅することなく昇天して命がこの世に再生できるように、[奴]の呪霊を排除する18歳ぐらいの屈強な若者たちの霊魂と、[婢の]呪霊の力を奪い位置と方角を精密にキャッチすることができる最も瞳が澄む年頃の13歳ぐらいの乙女たちの霊魂が、卑弥呼の霊魂に従うことになったのである。
『後漢書』倭伝の末部の記事の中に、秦の始皇帝に蓬莱(ほうらい)の神仙の霊薬を探すように命令された徐福が「童男女数千人将(ひき)いて海に入る」という文がある。
この文中にある「童男女」も「18歳ぐらいの青年と13歳ぐらいの乙女」を意味したと考えられる。というのも、[童]と[奴]と[婢]の3字の字源はともに「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」だからである。
[童]の金文形には〔大きな目〕をあらわす部分は〔目〕や〔瞳〕に観える「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を図案するものであり、他の部分は「鬼の姿に似る銀河」に類似するように図案したものである。
[奴]の[女]は「鬼の姿に似る銀河」を〔子宮に宿る胎児〕に見立てて「女性の子宮」をあらわし、[又]の字源は「青年」や「堅い地面を掘り起こすことができる強い腕や手の力」である。この[又]の字源は「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔堅い土でも掘り起こすことができる太い若者たちの手と腕〕に見立てて成立した。
[婢]の[女]は[奴]と同じく「鬼の姿に似る銀河」で[女]をあらわし、[卑]の字源の中枢(ちゅうすう)部は[命]の上部[亼(しゅう)]の字源となる「鬼の姿に似る銀河の首につく細長い切れ長の目」であり、この「切れ長の目の銀河」は〔精密に天頂緯度と子午線(経度)がキャッチできる、13歳ぐらに最も澄んだ瞳を有する乙女の目〕をあらわすものとなる。
『魏志倭人伝』の末部は――卑弥呼の墓を作った時に百余人の奴婢を殺す残虐な徇葬に憎悪する人民たちが武器を持って反乱を起こしたが、13歳で小国・日本の女王となった壱与・伊耶那美命は小国・日本で人民に〔愛〕を尊重するように熱心に説く“愛の女王”であったので、彼女が倭女王に即位すると反乱は鎮(しず)まって倭国は平定された――と記述する。
この伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問説話の末部の千引(ちびき)の石(いわ)の前で「吾(われ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と伊耶那岐命が宣誓した言葉で表示される。
この伊耶那岐命の宣言は「亡き妻(伊耶那美命)の遺志を継ぎ、男女が愛し合って一日に千五百人の子が生まれる国作りを吾はおこなう」と誓うものであった。
702年に「日本」への国号の改変の承認を得るために中国に渡った最下位の幹部は、万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)であった。この憶良は伊耶那美命に熱烈に憧れ、彼が作った大半の和歌は日本建国の〔愛〕の理念を詠むものである。憶良の代表作の『万葉集』803番の「銀(しろがね)も 黄金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」は、伊耶那岐命の千引の石の前の誓った宣言、いいかえると日本建国の〔愛〕の理念を詠むものである。
『魏志倭人伝』末部に記載される徇葬を憎悪した反乱者たちは壱与・伊耶那美命を敬愛した。この壱与・伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、1690年後の1738年において天皇の王冠の下の菅笠(すげかさ)で表現され、絶対に失ってはいけない、強大な権力がなんとしても消滅しようとしたが消滅できなかった日本人の〔命のみなもと〕となる、強大な権力よりも黄金や宝石よりも大事な最高に勝れる理想となって日本古代史における〔花咲く魂〕となった。
前回で解説したように、702年に持統(じとう)上皇が決意した「倭」から「日本」への国号の改変は「天照大神によって日本国が誕生した」という偽の歴史を人民に植えつけ、さらにこの偽の歴史を後世の学者たちに信じさせる、これを目的とするものであった。この上皇の偽の歴史を確立せんとする指令は、中国の正史『新唐書』日本伝に記載される遣唐使が述べた「後稍(のちやや)夏音を習う」という言葉で知ることができる。
この遣唐使の「後稍夏音を習う」という言葉には、下記のような複雑な事情があった。
672年の壬申の乱の9年後の681年、『古事記』の序に記載されるように、天武天皇は「諸家で所蔵する帝紀(歴代天皇の皇位継承の次第を記録した文書史料)と旧辞(上古の夏音文字で書いた歴史を記録した文書史料)は、すでに真実と違い、偽りが多く加えられているとのことである。そこで帝紀を書物として著(あら)わし、旧辞をよく調べて正し、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」と述べて史書の編纂(へんさん)を命じた。
『日本書紀』には「天武天皇が史書の作成を川島皇子以下12人の皇族・貴族に命じた」という記述があるが、この史書編纂事業は結実しなかった。
というのも、天武天皇の政策は伊耶那美命の提唱した〔愛〕の理念を否定した天照大神を崇拝して権力の強大化をはかる律令体制を推進するものであったからである。つまり、諸家も編纂スタッフも天武天皇の史書編纂の命令は伊耶那美命の〔愛〕の理念を削除(さくじょ)して、天照大神を模範(もはん)とする天皇と国家の権力の強大化を謀(はか)るウソ・マヤカシにちがいないと考えて天武天皇の命令に従わなかったのである。
686年に天武天皇は没し、690年に皇后が即位して持統(じとう)天皇となり、天照大神を皇統(こうとう)の聖性をあらわす皇祖と定めた。
697年、持統上皇は孫の軽皇子(かるのおうじ)に譲位した。これが、文武(もんむ)天皇である。この頃から、上皇は天武天皇の史書編纂事業の遺志を継ぎ、天照大神の幾つかの事績のうちの聖性を汚す旧辞にあるすべての記録を削除し、天照大神が夏音文字の学芸に精通する聡明な女性であったと伝える旧辞にある夏音文字で書かれた記録だけを稍々(やや)復興して、国威(こくい)の宣揚(せんよう)をはかる偽書作成の意思を示すようになった。
このような持統上皇の謀略(ぼうりゃく)を、遣唐使は「後稍夏音を習う」と端的(たんてき)に表現したのである。
707年に文武天皇が没し、文武天皇の生母の阿閉(あえの)皇女が天皇に即位した。
これが元明(げんめい)天皇である。元明天皇は持統上皇の同母妹である。711年9月18日、姉の持統上皇の遺志を継いで、元明天皇は太安万侶(おおのやすまろ)に史書を完成させて献上せよと命じた。
712年1月28日、『古事記』上巻・中巻・下巻の3巻が献上された。
『古事記』は持統上皇の遺志を受け継ぐ元明天皇に献上するものであったので、「後稍夏音を習う」の方針にもとづいて、上巻を著作しなければならなかった。しかし、編纂スタッフは持統上皇が示した「後稍夏音を習う」という命令に背(そむ)き、『古事記』上巻のテーマを伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念と定めて、真実の歴史を記述した。
『古事記』上巻のテーマと真実の歴史は伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述された。
この説話は「伊耶那美の陵墓を築造した時、皇祖の天照大神が陣頭指揮して多数の奴婢を殺す残虐な徇葬をおこなった」と伝える。
伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に実名で「天照大御神が徇葬をおこなった」と記述すれば、即座に元明天皇に献呈拒否され『古事記』は焚書(ふんしょ)されて正史になれなかった。
そこで編纂スタッフは、苦肉の策として反実仮装(はんじつかそう)という方法を思いついた。つまり、「天照大神」を「黄泉国の伊耶那岐命」という名で偽装(ぎそう)して真実の歴史を後世に伝えるようにすれば、天皇と律令体制が望むとおりに伊耶那美命を汚すことになるから、元明天皇は献呈を承認して『古事記』が正史になる可能性があると活路をもとめて一計を案じた。
当時の【学問】は現在の日本古代史学界が絶対視する西欧近代科学の合理の考え方をせず、各部分が全体へとひろがって合理から超合理を成立させる考え方を絶対視した。
ゆえに、編纂スタッフは後世の学者たちに賭けたのである。彼らの【学問】は超合理の考え方をするものであったから、後世の学者たちは伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の各部分の〔音〕という注をつける夏音文字と語句や記事が互いに関連しあうように思考しまた全体論的に考察して、「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「天照大神」であると見抜くにちがいないと信じた。だから、編纂スタッフ〔反実仮装〕に活路をもとめて「天照大神」を「黄泉国の伊耶那美命」とあらわすことにしたのである。
この〔反実仮装〕と言う方法は紀元前4、5世紀に生存した老子が著作した『老子』第二十五章の文中に示される。
この反実仮装の文は「もって天下の母と為(な)すべきも、吾れその名を知らず。これに字(あざな)して道と曰(い)い、強いてこれが名を為して大と曰う。大なれば曰(ここ)に逝(ゆ)き、逝けば曰(ここ)に遠く、遠ければ曰(ここ)に反(かえ)る。ゆえに道は大なり、天は大なり。」である。
老子が生存した時代、[天]と[大]と[道]の字源銀河となる「十字の銀河」が天頂にめぐってきた。[道]の字源は「オス鹿の横顔に似る銀河」であるが、この〔オス鹿の角〕は「十字の銀河」であった。老子の時代、〔漢字を生む母の子宮〕に見立てられた「十字の銀河の子宮」が天頂にめぐってきた。この〔漢字を生む天下の母〕は“漢字の始祖”と崇拝される倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」であった。だから、老子は「天下の母」の名は「鳥獣の文」であり、倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と称されることを知っていた。知っていた証拠に、〔鳥獣の文〕に見立てられた「十字の銀河の子宮」は[道]の字源であり、[大]の字源であり、[天]の字源であり、「十字の銀河の子宮」は曰(ここ)すなわち天頂を逝き、天頂から最も遠くなって地中の北を通過し、また曰(ここ)・天頂に反ってくる。だから、「吾れその名を知らず」の事実は「吾れその名を知る」であり、「吾れその名を知らず」は事実を偽装するものとなる。
『老子』で使用される「学」は上記の「全体論的な超合理の考え方をする学問」のことであって、現在の古代史学界が絶対視する考え方は「学」すなわち「学問」・「学術」の考え方ではなかった。
このような老子の考え方は1980年代において先端科学者たちに注目されるようになり、「西欧近代科学の考え方には幾つかの誤りや欠陥がある」と幾つかの国際会議を開いて世界に警告した。(米国の先端科学者たちのバイブルとされたF・カプラが著作した『タオ自然学』の英語の「Tao」(タオ)の意味は「老子の教える道」である。)
だから、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話における「黄泉国の伊耶那美命」は『老子』にある反実仮装を用いたものであって、その正体は「天照大神」であり、「黄泉国」は「伊耶那美命の陵墓が築造された熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)」ということになる。
伊耶那美陵が作られた熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)は、和歌山県東牟婁(むろ)郡本宮町に所在する。
幾つかの誤りや欠陥を有する西欧近代科学の考え方から生まれた日本神話虚構説は、「黄泉国」を「冥土(めいど)。死の世界」と解釈し、「黄泉国の伊耶那美命」を「死者となった伊耶那美命」と断定する。
日本神話虚構説の学者たちは、ただ文字を見て読むだけで思索(しさく)らしい思索を一切(いっさい)しようともせずに、老子の考え方と同じ日本人本来の考え方でなんにも考えようとしない。
竜安寺の石庭は計15個ある石をどこから見ても14個しか見えないように設置して――全体論的に思考すれば石は15個あると認識できる。これが夏音文字の学芸における、日本人本来の考え方である。見たままで視点をずらす工夫もせずに視覚的な幻影に惑わされて石が14個しかないと認識する者は無学の徒と言わざるをえない――と示す。
ゆえに、日本神話虚構説は学問の域に達するものではなく、無学の徒の考え無しの幻想であったのである。
伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は日本人本来の全体論的な思考にもとづいて構築されている。これゆえ、説話の初頭部に登場する「黄泉国の伊耶那美命」が「天照大神」であることは、テ-マの日本建国の〔愛〕の理念が記載される説話の末部を注目すると容易に察知できる。
この説話の末部で、伊耶那岐命は黄泉国の伊耶那美命に離縁を言い渡した後に「吾一日に千五百の産屋立てむ」と〔愛〕の宣誓をする。
この伊耶那岐命の〔愛〕の宣言の前に、黄泉国の伊耶那美命は「あなた(汝)の国の人民を、一日に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺す」と呪詛(のろい)の言を吐く。
この呪詛(じゅそ)の言に登場する「あなた(汝)の国」は「葦原中国(あしはらのなかつくに)」である。
『古事記』上巻においては、出雲の大国主命が統治した国の名も「葦原中国」であると明記する。この葦原中国の山陰・出雲王権を、天照大神は武力で征服した。したがって、「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「天照大神」であり、千引の石の前で「汝の国の人民を、一日に千頭絞り殺す」と誓った呪詛を実行したことになる。
島根県松江市に所在する神魂(かもす)神社の本殿は、出雲大社の“男造”に対して、“女造”といわれる出雲を象徴する代表的な神社である。この神魂神社の主神は伊耶那美命である。大国主命は葦原中国・日本の女王・伊耶那美命を崇拝した。これゆえ、「山陰・出雲」は小国・日本ではなかったが、天照大神に呪詛されて「葦原中国」と呼ばれることになったのである。
夫婦が離縁した舞台となる「千引の石」について、『古事記』は「黄泉比良坂(よもつひらさか)を塞(ふさ)ぐ」と記述する。「千引の石」は「千人が綱をかけて引っぱってやっと動くくらいの巨大な岩」ということになる。和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町の神倉(かんのくら)神社の御神体の「ごとびき岩」は、地上60mの絶壁にそそり立つ「千引の石」にふさわしい巨岩である。この神倉神社の主神は天照大神である。
『熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)』は「神倉山に祀っていた熊野権現(伊耶那岐命の神霊)を現在地に祀ったので、熊野速玉大社の地名は“新宮”と号されることになった」と伝える。『日本書紀』神代紀には「伊耶那岐命の“絶妻(ぜっさい)の誓い”の際に吐かれた唾(つば)から生まれた神が速玉大社である」と記述されている。この“絶妻の誓い”は〔神倉神社の御神体のごとびき岩の前で、伊耶那岐命が言い渡した離縁の誓い〕ということになる。
つまり、『熊野権現垂迹縁起』は「最初は伊耶那岐命(熊野権現)と天照大神の夫婦が離縁した歴史的な重大な場所として神倉山(二人が離縁を誓った千引の石・きごとびき岩の前の空洞)に二人を祀っていたが、離縁した夫婦を合祀(ごうし)するのは理屈にあわないので、天照大神を神倉山(神倉神社)に単独で祀ることにし、熊野権現の伊耶那岐命の神霊を現在の速玉大社に移して祀った。ゆえに、速玉大社の地名は“新宮”と号するようになった」と説明していることになる。
伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は〔天照大神が多数の奴婢を殺して徇葬を決行した歴史〕を記述するものであった。
ところが、持統上皇の「後稍夏音を習う」という指示は「天照大神が徇葬を決行した歴史を削除せよ」と命令するものであったので、元明天皇は『古事記』献呈を即座に拒絶した。これゆえ、反逆の史書『古事記』は正史になれず外史となった。だからこそ、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には元明天皇の『古事記』編纂命令や完成に関する記事は削除された。
天武天皇から聖武(しょうむ)天皇までの歴代天皇は人民が敬愛する伊耶那美命の歴史を葬って、人民に天照大神への崇拝を強要する律令体制の完成を目指した。
もしも日本神話虚構説が断定するがごとく「黄泉国の伊耶那美命」が「伊耶那岐命に離縁された冥界(めいかい)の伊耶那美命」であったとしたならば、『古事記』は天皇と律令体制の「後稍夏音を習う」という要望とおりに作成された偽書となるので、元明天皇は即座に『古事記』の献呈を承認して正史と定めたはずであり、『続日本紀』にも元明天皇の『古事記』編纂命令と『古事記』完成は記載されたはずである。
しかし、『古事記』の実体は反逆の史書であったので正史にはならなかった。
だから、日本神話虚構説は空理空論ということになる。
「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「伊耶那美の陵墓を作る時に、多数の奴婢を殺す徇葬を決行した天照大神」であった。元明天皇は反実仮装の記述を認めず、編纂スタッフの『古事記』を正史にしようとした努力はむくわれず、元明天皇は献呈を拒絶した。だから、『古事記』は正史となれなかった。
伊耶那岐命の黄泉国訪問神話に登場する「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」が『魏志倭人伝』の「奴婢」である。ゆえに、この説話には「八の雷神(奴婢)の多数の死体から蛆(うじ)がわき群がって、ころころと音をたてていた」と描写される記事がある。
雷が鳴ると大雨となり、堅い地面が泥状にやわらかくなって開墾(かいこん)・耕作が容易になる。ゆえに、「雷」は「神鳴り」または「稲妻(いなづま)」と呼ばれた。
伊耶那美命が生存した3世紀半ば、鍬(くわ)や鋤(すき)の刃先に鉄が用いられ始めた。当時の刃先は薄い鉄板の両側を折り曲げただけの簡単なものであった。
『古事記』上巻に〔神生み〕という条(くだり)がある。この〔神生み〕にて列挙される「神」は「すぐれた発明。すぐれた学術的研究成果」を意味する。ゆえに、「神」には「発明」の意味があった。〔神生み〕の条に登場する「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」は上記の「農具の刃先を作る製鉄事業」の名称であった。
伊耶那美命は火之迦具土神の製鉄事業における火災事故で火傷を負って死去した。つまり、銅鐸や銅矛・銅剣の青銅を熔かす溶鉱炉から開発した火之迦具土神の製錬炉は完成半ばのものであったことになる。農具の刃先に使う鉄の融点は青銅よりも融点が高い。だから、火之迦具土神の製錬炉は高熱に耐えることができず爆発して大火災となったにちがいない。
伊耶那美命は農具の鉄の刃先を作る製鉄事業の火災事故で没し、雷は雨を降らして地面をやわらかくして開墾や耕作をしやすくしたために「神鳴り」または「稲妻」と呼ばれたように、「雷」と直結する農業の道具を開発のために伊耶那美命は没したので、『古事記』は「奴婢」を「八の雷神」と表記したのである。
この説話に登場する、天照大神の命令で逃走する伊耶那岐命と日本兵を追跡する「予母都志許売(よもつしこめ)」は「伊耶那美陵の守衛」であろう。
「八の雷神に千五百の黄泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき」という記述は「天照大神の指示にしたがって多数の奴婢たちを殺した倭政府の大軍にも、天照大神は命令して逃走する伊耶那岐命と日本兵たちを追跡させた」と意味するものとなる。
この黄泉軍・倭の大軍を撃破した「桃の子三箇(みみつ)」は「三隊に分かれた日本兵と熊野に住む徐福族の若者(戦士)たち」である。
桃の子三箇に攻撃されて黄泉軍が大敗した「黄泉比良坂の坂本」は「熊野速玉大社の境内」ということになる。
千引の石・ごとびき岩が前を塞(ふさ)いで行き止どまりとなる「黄泉比良坂」は「神倉神社の参道」である。速玉大社の鳥居から約850m真南に神倉神社の参道の入り口がある。だから、ごとびき岩がある神倉山に登る急坂(のちの参道)の入り口へ至る通路の脇に所在した「桃の子三箇が身を潜める恰好(かっこう)の陣地」となった「後の速玉大社の境内」は「黄泉比良坂の坂本」と表記されることになった。
伊耶那美命が主神となる那智大社の例大祭は毎年7月14日におこなわれ、“那智の火祭り”と呼ばれる。この火祭りにおいて那智大社の参道で12本の大きな松明(たいまつ)による炎の乱舞が勇壮にくりひろげられる。この大きな松明こそ、伊耶那美命の陵墓の玄室(げんしつ)に通ずる羨道(えんどう)の入り口に設置されていた「湯津津間櫛(ゆつつまくし)の男柱(おばしら)」を現在に伝えるものであろう。
伊耶那美陵から棺(ひつぎ)を奪った伊耶那岐命と日本兵たちは、燃えさかる松明をかざして、本宮大社の旧社地から速玉大社の境内まで、鬱蒼(うっそう)と樹木が茂るあいだを割(さ)く真っ暗闇の夜道を逃走した。日本兵たちは伊耶那美命の棺を那智の火祭りに登場する神輿(みこし)のごとく担(かつ)いで逃走するものであったから、棺を担ぐ日本兵たちが転ばないように、他の兵たちは松明で明々と暗闇の道を照らすことになった。また、この松明の灯は、桃の子三箇が潜(ひそ)んで待機する速玉大社の境内へと倭の大軍を誘導する役目があったのである。
「神倉神社の参道」は「黄泉比良坂」であった。この黄泉比良坂・神倉神社の参道を舞台にして、毎年2月6日の夜、伊耶那岐命と日本兵の一行が松明の火をかざして熊野路(熊野九里八丁)を逃走した歴史を演出する祭典がおこなわれる。この逃走劇を演出する祭典は“お燈(とう)祭り”と呼ばれる。お燈祭りは近在の男たちが1000人以上集まっておこなわれる。この祭りは伊耶那岐命と日本兵と徐福族の子孫の若者たちがおこした、残虐な徇葬を決行した天照大神への謀反(むほん)の様子を演じるものだったのである。
以上のように、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話が語る歴史は、神倉神社の“お燈祭り”と那智大社の“火祭り”にて演出されて、現在でも目撃できる。
伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は「そのいわゆる黄泉比良坂は、今出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂(い)う」という文で終わる。
この「出雲国の伊賦夜坂」は熊野の「神倉神社の参道」であるから、『古事記』が完成した712年1月28日当時、神倉神社の所在地は“出雲国”と呼ばれていたことになる。
『古事記』の〔伊耶那美命の死と火之迦具土神〕の箇所では、熊野本宮大社の旧社地の大斎原は出雲国と伯伎国(ははきのくに)の境界であり、大斎原は「比婆(ひば)の山」と称されていたと記す。
翌713年、元明天皇は反逆の史書『古事記』がたとえ後世に残ったとしても、今日の日本神話虚構説のごとく後世の学者たちが歴史を伝えるものでないと断定することになる史籍(しせき)、すなわち風土記(ふどき)の撰上(せんじょう)を命じた。
『続日本紀』の和銅6年(713)5月2日の条には、下記のような風土記の撰上の命令を示す記事がある。
「畿内・七道諸国の郡郷の名に好字(よきじ)二字の表記を著(つ)け、(中略)、山川原野の名号の所由(しょゆう)また古老の相伝える旧聞異事(きゅうぶんいじ)、史籍(しせき)に載せて言上(ごんじょう)せよ。」
『古事記』上巻が記載するように大斎原が出雲国と伯伎国の境であり、神倉神社が出雲国であったので、元明天皇は伊耶那岐命伊耶那美命と伊耶那岐命に関する歴史を伝える郡郷の名、山川原野の名の由来、古老たちの知識や伝説を消滅させて、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話が伝える史実を台無しにするために、風土記の編纂を命令した。
『古事記』が完成した712年、1千万坪の大鳥の地上絵を守り番であった建比良鳥命(たけひらとりのみこと)の子孫は現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷(いいのや)に居住し、井伊谷の郷の名を「渭郷(いごう)」または「蟾郷」と号していた。(この「蟾郷」は「せんごう」あるいは「渭郷」と同じく「いごう」と読むのかもしれない。)
「蟾郷」の[蟾]の字義は「ヒキガエル」である。伊耶那岐命が天照大神の離縁を言い渡して「吾一日に千五百の産屋を立てむ」と宣誓した神倉神社の御神体の「ごとびき岩」の「ごとびき」もまた「ヒキガエル」を意味した。
したがって、「蟾郷」は「ごとびきの郷」という意味になる。元明天皇の風土記の編纂命令は「蟾郷」というような日本建国の〔愛〕の理念を伝える郷名の消滅を目的とするものであった。ゆえに、「蟾郷」という名を改めないで抵抗すれば家断絶の重罪に処せられることにもなりかねない。もしもそうなったならば、皇室が厳重に私家(しか)を禁止する1千万坪の大鳥の地上絵を守ることができなくなる。
それゆえ、元明天皇の命令に服従して「蟾郷」という地名を廃することにした。ゆえに、『遠江国風土記』において「蟾郷」は好字2字の「渭伊郷」という名に改められた。
1010年、建比良鳥命の子孫は武家の井伊氏を創設した。
1602年、井伊氏は近江の地に移住して彦根藩主となり、家康の命令のもとに702年の遣唐使が述べた「後稍夏音を習う」に因(ちな)む「夏音を習わず」(いまだ夏音文字の学芸は復興せず)と図化する3千万坪の羽の無い地上絵を完成させた。
この大鳥の地上絵の羽に相当する地には、日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命と蟾の岩(ごとびき岩)で〔愛〕の宣誓をした伊耶那岐命を合祀して主神とする多賀大社が所在する。
井伊氏が守っていた1千万坪の細江町の大鳥の地上絵は小堀遠州が作った桂離宮の庭園となり、さらに天皇の王冠の意匠となって『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記事はすべて真実の歴史を語るものであると今日に科学的に証明できる重大な史料となる。
『魏志倭人伝』末部の倭女王・壱与は『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であり、この壱与・伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を、先人たちは絶対に失うことはできないとして夏音文字の学芸をもまもって後世に真実の歴史が伝わるように願った。
だからこそ、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は決してなくしてはならないものであり、なんびとも排除してはいけない、なんびとにも奪われていけない、なんびとにも害されてはいけない日本人の〔魂と命のみなもと〕である。
以上のごとく、定説・日本神話虚構説の実体は天皇の頭上高く差し上げられる王冠の真実と日本国民の〔魂と命のみなもと〕を抹殺(まっさつ)する、西欧近代科学の知識を鼻にかける、日本人本来の考え方を失った“無学の徒”に等しい学者たちの虚構・ウソ八百であったのである。
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