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2012年1月21日 (土)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・39

 前回と同じく、小国・日本の軍王の「載斯烏越(そしあお)」の秘密に注目する。
 白川静著『字統』は「載斯烏越」の先頭字の[載]の字源について「載(の初文)にことをはじめる意がある。載は戈(ほこ)をつけて祓(はら)うことを意味する字で、それは軍事をはじめるときの儀礼を意味したものと思われる。載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行を開始するのであろう」と解説する。
 この字源解説にて目立つ語は「はじめる」「開始する」である。
 第9代天皇の名は「開化」である。この「開化」には「はじめる」という意味がふくまれ、「開始」というう語と類似する。ゆえに、[載]から「開化」という天皇名がつけられることになったにちがいない。
 第10代は、開化天皇の子の崇神(すじん)天皇である。この崇神天皇は3世紀後半から4世紀初頭に生存されたと考えられている。
 ゆえに、開化天皇は3世紀半ばに生存した載斯烏越であったと考えるべきことになる。

 『古事記』中巻の歴代天皇の没年年齢は、『魏志倭人伝』にある5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の注の2倍暦(現在の1年を2年と数える暦法)を基準としたものと考えられる。
 『古事記』中巻に記載される開化天皇の父の第8代孝元(こうげん)天皇の没年年齢は57歳であるので、現在だと28.5歳ぐらいで死去したことになる。開化天皇の祖父となる第7代孝霊(こうれい)天皇の没年年齢は106歳であるので、現在の場合には53歳で亡くなったと推測できる。
 そうすると、『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼の後を継いだ「倭王」は「孝霊天皇」であると考えられる。『古事記』の孝霊天皇紀には〔吉備(きび)国の平定〕の記事があるが、この記事は吉備国討伐を示唆(しさ)する記事となる。
 吉備国は現在の岡山県であり、岡山県は載斯烏越が征討した狗奴(くな)国となる。狗奴国が香川県の小豆島と岡山県であったことは前回で解説して証明した。
  ゆえに、孝霊天皇紀の〔吉備国の平定〕記事は「孝霊天皇の代に、皇太子に相当する孫の若き開化天皇が狗奴=吉備国を征討した」と説明するものとなる。
 孝霊天皇紀では、大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)が狗奴国を征討して平定したかのごとく記述しているが、この二人の武将が率いる大隊を讃岐富士から指揮したのが載斯烏越であったにちがいない。
 というのも、『魏志倭人伝』は登場する「載斯烏越」は、その名から倭女王・壱与の夫の小国・日本の軍王であったと解明できるからである。
 大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命が、壱与の夫とは考えられない。
 だから、狗奴国の児島半島の真正面の讃岐富士の本陣を構えて、吉備国討伐の指揮をした軍王(いくさのおおきみ)は載斯烏越=開化天皇であったことになる。

 『古事記』中巻の開化天皇紀は、下記のごとく記述する。
 「若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)は、春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この開化天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)と結婚された。(中略)。また継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚されて生まれた御子は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと・崇神天皇)である。」
 開化天皇が居住した宮殿名「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」は、「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と「伊耶那美命(いざなみのみこと)」の先頭2字の「伊耶」と合致する。
 ゆえに、載斯烏越=開化天皇は伊耶那岐命であったことになる。
 そうすると、「壱与」は「伊耶那美命」であり、本名は「竹野比売」であったことになる。
 竹野比売の出身地の「丹波」を、『魏志倭人伝』は「伊耶(いや)国」であると表記する。小国・日本の人民は竹野比売・壱与を「伊耶国から赴任してきた美しい女王」を略して「伊耶那美命」と讃(たた)えて敬愛した。
 だから、愛称が「伊耶那美命」、「壱与」は夏音文字または媚蠱名(びこめい)、本名は「竹野比売」であったことになる。
 また、伊耶那美命の夫ということで「伊耶那岐命」と愛称され、「載斯烏越」は夏音名、本名は「若倭根子日子大毘毘命」、天皇名は「開化」であったことになる。

 そして、『魏志倭人伝』に登場する、開化天皇の正妃・竹野比売に代わって狗奴国討伐の媚蠱となった壱与は、開化天皇の第二后で継母の伊迦賀色許売命であったことになる。伊迦賀色許売命は大和王朝の基礎を築いた崇神天皇の生母である。つまり、大和王朝の基礎を築いた天照大神は伊迦賀色許売命・崇神天皇・母子政権であったことになる。
 

  開化天皇が住んだ伊耶河宮は、開化天皇陵のすぐ南の奈良市本子守町率川(いざかわ)のあたりであると指摘される。率川は春日山に発し、一般に“子守さん”と呼ばれる率川神社(奈良市本子守町)の南を流れる。率川神社の東に春日大社がある。開化天皇陵と率川神社を結ぶと、その直線距離は300mぐらいで直ぐ近い。
 このような点からして春日の伊耶河宮は、奈良市本子守町の率川神社付近に所在したと考えられる。
 率川神社は北緯34度41分である。狗奴国であった県都岡山市も北緯34度41分である。そうすると、狗奴国の男王の宮殿は北緯34度41分の岡山市街地に所在したと考えられる。
 伊耶那美命は狗奴国征討を反対した。
 『万葉集』13番の「讃岐国の安益郡(あやのこおり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」を詠んだ舒明(じょめい)天皇は、この和歌で――妻の伊耶那美命が雄男(おお)しすぎると反対して嘆いた狗奴国征討を伊耶那岐命は決行したが、彼は伊耶那美命を悲しませたことを悔やんだ――と伝えている。
 『古事記』上巻に伊耶那岐命の黄泉国訪問神話は末部にて「伊耶那岐命は黄泉比良坂(よもつひらさか)の千引(ちびき)の石(いわ)の前で、天照大神・伊迦賀色許売命に離縁を言い渡し、亡き伊耶那美命が提唱した〔愛〕の日本建国理念を尊重する国作りをおこうなうと宣誓した」と記述する。
 この千引の石における宣誓の後に、大国倭と小国・日本を併合(へいごう)した伊耶那岐命・開化天皇は伊耶那美命が征討を反対した狗奴国の男王が住む宮殿と同緯度の地に宮殿を建造して、伊耶那美命の遺志を継いで〔愛〕の国作りの政事(まつりごと)を治めた。ゆえに、開化天皇は愛妻・伊耶那美命にちなんで宮殿の名を「伊耶河宮」と定めたことになる。
 伊耶河宮(率川神社付近)〕は東経135度50分である。
 伊耶那美命は那智の大滝の精霊(せいれい)となり、熊野那智大社(和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町)の主神して祀られる。
 熊野那智大社は東経135度53分である。したがって、那智大社は率川神社・伊耶河宮推定値よりもわずか3分だけ東となる。ゆえに、伊耶河宮は亡き妻・伊耶那美命・壱与・竹野比売への募(つの)る思いをあらわして建造した宮殿であったにちがいない。

 前回で指摘したことを再度記述すると、伊耶那美命の夏音名にして媚蠱名の「壱与」の[与]の字源は「黄河の氾濫(はんらん)の形状に似る銀河」と「長方形の暗黒天体部」である。この「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は水中に潜(もぐ)る龍のような顔が見え、また氾濫する河川の激流のごとくに観える。ゆえに、「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は『古事記』序に登場する「潜龍(せんりょう)」の語源となり、日本の家紋の幾種類かの「雨龍(あまりゅう)」のモデルとなった。そして、「北アメリカ星雲」を赤壁(せきへき)の戦いで火攻めで大勝利した〔火の呉軍〕に見立て、「黄河の氾濫の形状に似る銀河」を迎え撃つ〔水の日本軍〕に見立てて、〔日本軍の媚蠱・伊耶那美命〕は呉軍の戦力の神がかり的な能力すなわち呪能(じゅのう)を奪う強力な〔能(よ)く幽、能く巨、能く長の龍〕に見立てられた。
  この呉軍に勝る強力な日本軍の呪能に見立てられた「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は[瀧(滝)]の字源銀河であった。『説文解字』は[瀧]の字源を「雨瀧々(ろうろう)たるなり」と解説する。白川静著『字統』は「〔広義校訂(こうぎこうてい)〕に、字は水に従うものであるから、急流の水を本義とすべしという」という指摘を挿入する。「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は「雨が瀧々(瀧のように)と降って氾濫する河川」のように観え、また「急流の水」のようにも観える。
  このように、伊耶那美命は[瀧]の字源となる日本軍の媚蠱であった。

  那智の大滝は“那智黒”と呼ばれる黒色の頁岩(けつがん)にかかり、まわりは原始林におおわれ、標高400mの位置にあるので海上からも眺められる。 
  「黄河の氾濫の形状ににる銀河」は「コールサック」の北部にある。「コールサック」は黒いので、「黄河の氾濫の形状に似る銀河」に隣接する「コールサック北部の暗黒天体部」は那智の滝がかかる〔那智黒〕に見立てられた。
 そして、北天の最輝部(さいきぶ)が子午線経過するとき、東が上・西が下となるようになるので「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は〔上から滝壺(たきつぼ)へ大量の水が落下する那智の滝〕のように観える。
 だから、伊耶那美命は日本一高い(130m)の那智黒にかかる那智の大滝の精霊となったのである。

  『魏志倭人伝』末部の「帯方郡の使者・張政が狗奴国を征討するための最初の檄(げき)を作って告喩(こくゆ)した」という記事の後に続く記述は、下記のごとくである。
 「卑弥呼はすでに死んでいた。大きな墓を作った。円墳部の直径は百余歩(約150m)である。この卑弥呼陵を築造する時、奴(・すなわち18歳ぐらいの青年)と婢(・すなわち13歳ぐらい乙女)の百余人を殺す徇葬(じゅんそう)儀式をおこなった。卑弥呼の死後に男王を倭国最高位の大王に即位させたが、卑弥呼陵における残酷非道な徇葬儀式を憎悪する国民が服従せず、反乱となって政府軍と人民が殺しあった。この反乱で政府軍は千余人を殺した。また倭政府はこの反乱に対処して、卑弥呼の宗女(卑弥呼が率いる鬼道界を代表する巫女)として13歳で小国・日本の女王となった壱与を倭女王に即位させると、倭の反乱は遂におさまって平定された。」  

 13歳で小国・日本の女王となった壱与は倭国に属する小国・伊耶(いや)国出身者である。そして、壱与は日本の国民に〔愛〕を尊重するように熱心に説いたので”伊耶那美命”と人民に敬愛された。倭の人民も、倭の伊耶国から赴任した日本国の〔愛〕の女王・伊耶那美命の噂を聞いて誇りにし敬愛した。ゆえに、伊耶那美命が倭女王になるならばきっと徇葬は禁止されるるにちがいないと信じて、反乱者たちは武器を捨てた。ゆえに、徇葬を憎悪しておこった倭の反乱は遂に鎮(しず)まって倭国は平定されることになった。

 702年、持統(じとう)上皇は「後稍(のちやや)夏音を習う」という方針を立てて、国号を「倭」から「日本」へ改める承認を中国の王朝から得るために遣唐使を派遣した。
 
  698年、持統上皇は皇室の至上神・皇祖とするために、天照大神を祭る壮大な伊勢神宮(皇大神宮)を完成させ、大神を恒常的に鎮祭(ちんさい)するようにした。
  『日本書紀』は天照大神の別名を「日神」、「天照日女尊(あまてらすひるめのみこと)」、「大日孁貴(おおひるめむち)」と記す。このように天照大神は、日女(ひめ)であり、日神であった。
 上皇は「日神」と「日本」という名が相似しあうことに注目し、天照大神を讃える日本国誕生史をねつ造する偽(いつわり)の歴史書の作成を思い立って「倭」から「日本」への国号の改変を決意したのである。
  天照大神は伊耶那美命の遺言を無視し、伊耶那美命の墓を築造する陣頭(じんとう)指揮して多数の青年と乙女(奴婢)を殺す残虐な徇葬儀式を決行した。さらに、伊耶那美命を崇拝する大国主命が治める出雲王権と天菩比命(あめのほひのみこと)が治める宗像(むなかた)王権を武力で征服する、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を否定する強大な権力重視の政策を推進した。
 大和王朝の基礎を築いた天照大神は夏音文字の学芸に精通していた。夏音文字をすべて抹殺(まっさつ)すれば、上皇が望むとおりに後世に天照大神の数々の悪政は伝わらない。しかし、夏音文字を抹殺すると、天照大神が夏音文字の学芸に精通した聡明な女性であることが伝わらなくなる。
  天照大神は夏音文字の学芸に精通する聡明な女性であり、夏音文字の学芸こそ最も強力な政治基盤であるゆえ、天照大神は皇統(こうとう)の聖性をあらわす至上神として後世の人々に崇拝されるべきであると――上皇は考えた。
  そこで、伊耶那美命が小国・日本に赴任して日本国が誕生した事実を葬って、日神である天照大神が日本国を誕生したと歴史をデッチあげる史書の作成を上皇は企(たくらん)んだ。
 このような企みを実現するため、上皇はまず中国の王朝に遣唐使を派遣して偽の歴史書で「日本国」への改称の承認をえることにしたのである。「日神」と「日本」という国号が相似するうえに、正式の外交をおこなって中国王朝から「日本」という国号の承認を得たならば、後世の学者たちはこのウソを見破ることができないにちがいないと、上皇は考えたのである。
 この上皇の偽の日本国誕生史を作る命令は「後稍夏音を習う」と表現されることになった。すなわち「後稍夏音を習う」は「壬申の乱の後、少しだけ夏音文字の学芸を復興せよ」と意味した。
 こんな無法はゆるされるはずがないと憤(いきどお)る歴史書編纂スタッフは、当時天皇になれる皇位継承順位が上皇の孫の文武(もんむ)天皇と同位となる天武(てんむ)天皇の第三皇子の舎人(とねり)皇子を頭領にして、“偽の歴史書は絶対に作成しない”と命がけの抵抗をおこなった。(『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「舎人皇子は天武天皇の第三皇子」と記載する)。
 このような経緯があったので、702年6月29日、遣唐使は偽の歴史書を持たずに手ブラで九州の港を出帆(しゅっぱん)して中国に渡った。
 その4ヵ月後の10月10日、上皇と天皇は舎人皇子を討伐する戦争準備をする東国の行幸(ぎょうこう)を開始し、三河・尾張・美濃・伊勢・伊賀そして11月25日に三河にもどってきた。ところが、この行幸の強行スケジュールの無理がたたって病に倒れ12月22日に上皇は死去した。

  一戦を交えることをも辞せずと持統上皇の欲求をはねつけて偽の史書作成を拒否した編纂スタッフの抵抗によって、手ブラで渡った遣唐使が「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝の承認を得る外交の様子が、『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と『新唐書』日本伝に記載されている。

  遣唐使が〔日本国〕について説明した言葉と、なぜ中国王朝に「日本」への国号改変の承認を求める必要があるのか自国にて改称して事後に承諾を求めればよいことではないか、またなぜ日本国について説明する史書を作成すれば簡単に済む問題なのになぜ史書を作成して外交にあたらないのかなどの幾つかの疑問を中国の王朝や外交官たちは抱いた。この中国側の疑問を説得できなかった遣唐使の様子が、『旧唐書』倭国日本伝に記述される。この文を現代語訳すると下記のごとくになる。
  「日本国は倭国と別種である。その国日辺(にちへん)に所在するので、日本という名にしたとのことである。あるいは遣唐使は――倭国という名は倭国の人々が雅(みやびや)ではないときらって悪(にく)むので、日本と改称することにした。日本は旧(もと)小国であったが、小国の日本が倭国を併合した――と説明した。このように中国に入朝した人々の多くは、矜大(きょうだい)つまり態度が横柄(おうへい)で自尊心は強く、事実を答えようとしない。それゆえ、中国王朝は彼らを倭国あるいは日本国の正式の外交官ではないと疑ぐることにした。また――日本国の東西南北の境界は各々数千里あり、西界南界(西の境界と南の境界)はみな大海に至り、東界北界(東の境界と北の境界)は大山があり、大山が限りなく続く。この山界の外は毛人(アイヌの人々や倭国と日本国に属さない東北地方の人々)たちが住む国であると――説明した。」

 小国・日本は倭国に服属する一員であった。しかし、万葉の人々は伊耶那美命が〔愛〕を国家理念に定めた小国・日本と大国・倭と別なる国と認識していた。このため、遣唐使は「日本国と倭国は別種である」と説明したのである。
 小国・日本は日本地図が明確に示すように、太陽が昇る東の端っこにある駿河・伊豆・甲斐・信濃・相模・武蔵・上野・下野・下総・上総・安房・常陸の東海・関東地方であった。だから、「旧東鯷人国」は「日本」という国名になったのである。
  3世紀、『魏志倭人伝』末部と『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述されているとおり、倭国は卑弥呼陵と伊耶那美命陵を作る時に残虐な徇葬儀式をおこなった。ゆえに、倭国の国民は「倭」という国は野蛮であると憎悪し、伊耶那美命を敬愛して「日本」という国名になることを願った。
  伊耶那岐命・開化天皇は小国・日本の軍王であった。伊耶那美命の死後、開化天皇は小国・日本と大国・倭を併合した。しかし伊耶那岐命の死後、長寿の天照大神と息子の崇神(すじん)天皇が天下を手に入れて、伊耶那美命を崇拝する出雲王朝や宗像王朝を強引に征服した。
  このような天照大神を崇拝する持統上皇は“日本国は大和王朝の天照大神によって誕生したと歴史を書き変えろ”と要望した。しかし、歴史書編纂スタッフは一戦を交える覚悟で抵抗して偽書作成を拒(こばん)んだ。
  歴史書編纂スタッフは抵抗して、偽書を作成しなかった。それゆえ、遣唐使の任務は上皇の要望に従うものとなったので、天照大神によって日本国が誕生したと後世の学者たちを騙(だま)すため、また中国王朝を騙して「日本」という国号の改変の承認を得ることになったので、上皇の陰謀の片棒(かたぼう)をかつぐものとなった。
 人は騙す人々は、疑問を抱き真実をさぐろうとして質問する人に対して、内心の罪悪感や動揺する心の動きを読み取られまいとして無表情をよそおい矜大・威張(いば)った自尊心の強い態度をとって、事実を語ることを避けるためにぶっきらぼうとなる。だから、『旧唐書』倭国日本伝は遣唐使の態度について「多く自ら矜大、実をもって対(こた)えず」と記述した。
  このような遣唐使の様子や、そもそも国号の改変をなぜ中国王朝が承認する必要があるのか、この疑問を晴らすことができる返答を遣唐使はできなかったので、中国王朝はなにか陰謀のために利用されているのではあるまいかと感づいたのである。

 『魏志倭人伝』は「日本列島は東に伸びず南に伸びる」と記述する。この卑弥呼王朝が定めた転回日本列島地理は738年の聖武(しょうむ)天皇の時代に、現在と同じ日本地理の方位規定に定められて、東に伸びる日本列島地理に改められた。
 それゆえ、702年当時は〔東が時計の針が進む方向に90度転回して南になる〕の[倭]の字源にもとづく転回日本列島地理にしたがって、遣唐使は小国・日本の地理を語った。
  上記の現代訳に記したように、『旧唐書』倭国日本伝は「西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山ありて限りなし」と記述する。
  転回方位の小国・日本(東海・関東地方)の地理だと、「西界」は大海となる太平洋、「南界」も鹿島灘がある大海となる太平洋となるので、「西界南界は咸な大海に至る」という記述に矛盾しない。転回方位の小国・日本の「東界」(現在方位の北)には三国山脈や日光の山々や関東山地があり、さらに東北地方に向かって大きな山々がかぎりなく続き、北界(現在の西)には富士山と赤石山脈があり、さらに大山が限りなく続く。ゆえに、「東界北界は大山ありて限りをなす」という記述にも合致する。
 現在の地理方位にもとづく小国・日本だと、「西界」は大海ではなく静岡県西部の遠江やさらに西隣の愛知県三河の陸地となる。ゆえに、「西界は大海である」という記述に矛盾する。でも、他の記述とは合理となる。
  しかし、現在方位だと「西界は大海とはならず」に矛盾するが、転回方位だとすべての記述が合理となる。
  これゆえ、『魏志倭人伝』の転回日本列島地理は卑弥呼王朝が定めた事実以外の何物でもないことになる。いいかえると、転回日本列島地理記事は絶対に信用してはいけないと断定する邪馬台国学説は事実に反した【誤読の空理空論】以外の何物でもないことになる。だいいち、「方位を時計の針が進む方向に90度転回する方位規定」は[倭]の字源である。
  学者たちの意見が正しいとなると、卑弥呼が統治した国は「倭」ではなかったことになる。この「倭」でない国を「倭」と呼ぶ学者たちの見解は、まさしく「迷妄(めいもう)」「虚妄(きょうもう)」以外の何物でもないことになる。 

 『新唐書』日本伝にも「日本」の国号の改変についての記事がある。この記事は下記のごとくである。
 「後稍夏音を習い、倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に近し。ゆえに名をなすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の并(あわ)す所となる、ゆえにその号を冒(ぼう)せりと。」

  現在、学者たちは『古事記』の序が詳細に丁寧に具体的に『新唐書』日本伝に記された「後稍夏音を習う」の秘密について解説するものであることにまったく気づいていない。
  『古事記』の序は冒頭から末尾まで、一貫して下記のごとく「漢字は銀河から作られた」と解説していることになる。
 「縄文時代の銀河から土器・土偶を作った参神造化(さんしんぞうか)の芸術家によって、中国から伝来した文字が習得された。文字は銀河から作られた。上巻の随所に記載した〔音〕という注が付く文字は【銀河各部の形状】は【文字】であったことを知ることができる原初漢字である。この原初漢字(夏音文字)と同じく、すべての漢字もまた銀河各部の形状から作られた。ゆえに、銀河を辞典にすれば『古事記』上巻に記載されるすべての漢字の字源・字義を知ることができて、すべての歴史の真相が手に取るように明らかになる。」
  この『古事記』序の文は新井白石が西欧近代科学の考え方を取り入れる以前に作られた。ゆえに、白石以後の西欧近代科学が排除(はいじょ)した日本人本来の考え方で作られているので、各部の記述が相互に関連しあって全体的に合理が成立する仕組みになっている。

  しかし、現代の学者たちはデカルト以来の西欧近代科学の考え方を絶対視するため、『魏志倭人伝』と『古事記』序の冒頭の文は先端科学者たちが西欧近代科学の合理思考よりも優ると指摘した超合理の考え方で作られていることにまったく気づかない。
 今から20数年まえの1980年代、先端科学者たちが「西欧近代科学の考え方には幾つかの誤りがある」と指摘した。この警告に日本の歴史学者たちは、歴史学が科学に属する学術であるにもかかわらず、まったく耳を貸さない。
  このため、西欧近代科学の欠陥である〔傲慢(ごうまん)な単純化〕から生まれた“文献批判”の正体は【誤読】であることを見破ることができず、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』の〔上巻 并(あわ)せて序〕の「文字は銀河から作られた」という解説をまったく理解できず、また編纂スタッフが命がけで残した『古事記』上巻の日本国誕生史の真実を、文献批判で一切合財(いっさいがっさい)を抹殺(まっさつ)して、『古事記』上巻の日本神話は虚構であると日本国民をウソ八百で洗脳している。
  事実はあべこべで、この日本神話虚構説こそが正真正銘の【虚構】であり、西欧近代科学のぬるま湯にふにゃにゃけて日本人本来の考え方を無くした妄想から生まれた【空理空論】である。

  夏音文字の学芸と伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、天皇の頭上に高々と差し上げられる王冠の意匠で強大な権力よりも莫大な富よりも優ると表明された。この日本人の〔魂〕あるいは〔命のみなもと〕である夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を、先人たちが必死にまもってわれわれに残した。この日本民族が絶対に失ってはならない最も大事な〔魂〕と〔命のみなもと〕を、学者たちは“文献批判”という名の【誤読の空理空論】で闇に葬り去る。

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