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2012年1月20日 (金)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・38

 『魏志倭人伝』末部に近くの魏の正始8年・247年の記事に、魏の出張機関である朝鮮半島に所在した帯方郡政庁を訪問して、倭国と狗奴国(くなこく)の戦況を説明した倭の使節の長官「載斯烏越(そしあお)」という人物が登場する。
 この倭の使節の長官名の先頭字[載]の初文の字について、インターネットは「入力できない文字で、保存できない。該当の文字を削除するか別の文字に変更してください」と表示る。それゆえ、この[載]の初文を[載]と表記することにする。

 白川静著『字統』は[載]の字源について「載にことをはじめる意がある。載は戈(ほこ)をつけて祓(はら)うことを意味する字で、それは軍事をはじめるときの儀礼を意味したものとお思われる。載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行が開始されるのであろう」と解説する。
 この『字統』の[載]の字源解説が示すように、載斯烏越は武将であった。
 武将であるから、倭国と狗奴国の戦況を報告する役目をになって海を渡った。
 当時、倭と魏は軍事同盟を結び、1年前の246年ころに帯方郡の太守の弓遵(きゅうじゅん)が、馬韓の首長を中心とする勢力の帯方郡の軍事基地を攻撃によって戦死した。このような韓の反乱がおきたときには、魏と軍事同盟を結ぶ倭軍が韓に出兵して支援しなければならなかった。しかし、倭にあっても狗奴国との戦いで、魏との軍事同盟の約束をはたすために倭軍を割(さ)く余力がなかった。このため、倭国が魏軍・帯方軍を支援できなかった事情を説明するために、載斯烏越は帯方郡政庁を訪問したのである。

 「載斯烏越」の[斯]は[其(き)]と[斤(きん)]は組み合わさる字である。白川静著『字統』は[斤]の甲骨文字の字形を「斧(おの)の形」と解説する。[其]の甲骨文字と金文の字形によって、[其]の字源銀河は「長方形の暗黒天体部」であると証明できる。[其]の甲骨文字と金文の字形の基本部にある[×]の図書は「長方形の暗黒天体部の南側の2連菱形枡の銀河部」をあらわしていることになる。というのも、二つの菱形が連結する部分は[×]の形になるからである。
 そうすると、[基]の「長方形の暗黒天体部」は「コールサックの北部」である。「コールサックの北部」は東西に分かれて、「長方形の暗黒天体部」もその西隣の「暗黒天体部」も[斤]の字源の〔「斧の刃の形〕に相似し、「コールサックの南部」は〔斧の柄の形〕に相似する。
 この〔斧の刃の形〕の北隣は「鬼の姿に似る銀河」である。
 当時は日本列島の基準緯度・北緯35度の土地の天頂に白鳥座γ(ガンマ)星が通過した。この白鳥座γ星が天頂にめぐってきたときに「十字の銀河」のほうを見ると、「十字の銀河」周辺の「オス鹿の横顔に似る銀河」は〔葉が茂る樹木の葉冠部(ようかんぶ)〕に観え、「鬼の姿に似る銀河」は〔樹木の太い幹〕に観える。そして、〔斧の刃の形〕に相似する「コールサック北部の西側の暗黒天体部」は〔樹木の根の部分〕となる「鬼の身に相当する銀河の南の足」の部分にくいこむように観える。ゆえに、その「斧の刃の形に似る暗黒天体部」は〔樹木の幹〕に観える「鬼の姿に似る銀河」の根元から切り倒す〔斧の刃〕のイメージとなる。
 『説文解字』は[斯]の字源を「柝(さ)くなり」と解説する。この字源解説に登場する[柝]の編は[木]である。この[柝]の[木]は〔樹木の幹〕に観える「鬼の姿に似る銀河」ということになる。また、[斯]の字源解説の「柝くなり」は「樹木の幹を裂(さ)くなり」となるから「樹木を根元から斧を使って切り倒す」と意味するものとなる。
 上記した「軍事をはじめる」をあらわす[載]に[斯]の字義を合わせると、「鬼の姿に似る銀河」は〔人の姿〕にも観えるから、[斯]の字源となる「斧で大木を切り倒す」を意味する「柝くなり」は「戦争で多数の敵の兵を殺す」と意味するものとなる。
 
 
 以上からして、[斯]の字源銀河は〔太い樹木の幹〕に相似する「鬼の姿に似る銀河」の根元を切り倒す〔大きな斧の刃〕に観える「コールサック北部の西側の暗黒天体部」となる。
 当時(3世紀中ごろ)、日本列島の基準緯度の北緯35度の天頂緯度線は、白鳥座γ星から[斯]の字源となる「コールサックの北部の西側の暗黒天体部の中央部」から「長方形の暗黒天体部の中央部」へと貫通していた。

 「コールサック」は「載斯烏越」の[烏]の字義「カラス」の姿に相似して黒い。また、カラスは死者に群がって肉を啄(つい)ばむ。ゆえに、[載][斯][烏]の3字は武将の名であると示す。
 当時(三国時代)は中国においても、若者が軍を指揮した。魏の曹操(そうそう)の子の曹丕(そうひ)は18才で戦場に出て軍を指揮し、蜀の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい)も青年軍師であり、呉の孫権(そんけん)も戦いを指揮する青年であった。つまり、中国でもわが国でも戦いは青年武将が指揮するものと定まっていたのである。というのも屈強な体力を有する生命力あふれる若者には、戦いに勝つことができる呪能(じゅのう)が最もそなわっていると信じられていたからである。
 だから、載斯烏越の「烏越」は「青」をあらわし「青年武将」を意味していたと考えられる。

 『三国志』の呉書孫権伝に、下記のような記述がある。
 「将軍衛温(えんおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ。」
 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀に、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)から蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の薬を求めるように命令された方士の徐福(じょふく)が童(青年男女)数千人連れて大海を渡って日本列島に到着したが、不老長寿の薬を発見することができず、死刑をおそれて中国に帰還しなかった。この徐福一行が移住した地が東鯷人国(とうていじんこく)であり、夷州と亶州は東鯷人国にある2州である。3世紀、東鯷人国に定住した徐福一行の子孫たちは数万家となっていた。この東鯷人たちは大海を越えて定期的に呉の会稽(かいけい)港に到着して交易をしていた。しかし、この東鯷人が往来する海の道は、中国の人々には遥(はる)か遠くまで続いて道が途中で絶えて消えてしまうので、絶対に往来することはできない」と説明する。

 呉の孫権は、魏の背後の燕地(えんち)の公孫淵(こうそんえん)が燕王になれず魏の臣下であることに不満を抱いていると見抜いて、魏を倒すために魏の背後の脅威(きょうい)となる燕地の淵を呉と蜀の天下二分軍事同盟国に組み入れようと計画して、燕地に密使を派遣した。
 しかし、淵は呉と蜀の連合軍と軍事同盟を結べば、魏と軍事同盟を結ぶ卑弥呼が統治する倭軍が背後から魏が前面から燕軍を攻撃するから燕は滅亡すると考えて孫権の説得に同意しなかった。
 そこで、倭の背後の東鯷人国の海に呉の一万の水軍を遠征させせれば、東鯷人国は呉軍に占領されまいと隣国の倭に支援を求めるにちがいないと考えた。つまり倭の東鯷人国が呉軍に占領されると、東鯷人国は倭の背後の脅威となるので、倭は東鯷人国に多数の軍兵を派遣して防衛しざるをえないことになる。
 孫権は淵を味方に引き入れて呉と蜀と燕の3連合国軍で魏を倒すために――倭軍が魏軍を支援できなくすれば、淵も安心して呉・蜀連合国と軍事同盟を結ぶにちがいないと戦略を立てた。この戦略を成功させるために、東鯷人国に遠征した水軍は戦ってはならず、東鯷人国の人民が恐怖を感じるようにして帰還せよと命令していたのである。

 208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。
 わずか5万の呉・蜀連合軍は80万の曹操が率いる魏の大軍を撃破して劇的な大勝利をおさめた。この呉・蜀の連合軍を勝利に導いた中心的役割をはたしたのは2万の呉の水軍であった。
 魏の80万の大軍は赤壁の川岸に軍艦をならべ岸に密集して陣をかまえた。
 その決戦の日、折しも強風が吹いていた。
 呉の兵たちは舟に枯れ柴(しば)の束を積んで火を放ち、その舟を魏の艦列へ突っ込ませた。枯れ柴の赤い火は軍艦に燃えうつり、その火は強風で一気に勢いづいて黄色い火炎の竜となって次から次へ軍艦を呑みこみ数匹の竜と化し、さらにその火炎の竜は岸辺の陣まで延びて暴れまわり魏の大軍を壊滅させた。

 この赤壁の戦いから12年後すなわち呉の黄竜2年(230)、1万の呉の水軍は日本列島の東鯷人国への遠征の旅についた。この情報は呉の会稽港で交易する東鯷人が国王に報告したのか、あるいは232年に燕の淵への密使に任命された呉の一員が山東半島にて拿捕(だほ)されたので魏の役人たちが彼らを責めて日本列島遠征を白状させ魏から倭政府に伝えられて東鯷人国の王のもとにとどいたかは不明である。
 赤壁の戦いにもとづいて大雑把(おおざっぱ)にいうと、呉の1万の水軍は40万の魏の大軍に匹敵(ひってき)することになる。このような呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えた東鯷人国の王は卑弥呼が治める倭国に服属した。ゆえに、東鯷人国は国名が改められて「日本国」となった。

 この小国・日本の女王に13歳の壱与(いよ)が選ばれて赴任した。
 13歳の乙女は最も澄む瞳を有するものであるから、敵の戦力を奪う呪能が最も優る年齢と信じられていた。ゆえに、壱与は媚蠱(びこ)の女王であった。
 白川静著『字統』は「媚蠱」の[媚]の字源について「初義は媚蠱とよばれる呪術を行う巫女(みこ)をいう。(中略)。敵の呪的な能力を奪うことができるので、(中略)、媚とは美しき魔女、媚態(びたい)・媚辞(びじ)はすべて魔女的な行為である」と解説する。
 「壱与」の[壱]の字源銀河は「十字の銀河の子宮」である。[与]の字源銀河は「黄河の氾濫の形状に似る銀河と長方形の暗黒天体部」である。
 つまり赤壁の戦いで勝った戦績を有し〔黄竜〕という年号に遠征して火の竜と化す呉軍に対抗して、小国・日本の女王の「壱与」という名は「天(すなわち十字の銀河の子宮)から降る大雨で氾濫した激流の水中に潜(ひそ)む龍と化すように日本軍の戦力を強大にし、燃え上がる火の勢いの呉軍の戦力を大雨でことごとく消し奪って勝利を導く日本軍の魔女(媚蠱)」と意味した。

 『説文解字』は[竜(龍)]の字源を「鱗蠱(りんこ)の長なり。能(よ)く幽にして能く明、能く細にして能く巨、能く短にして能く長」と解説する。
 [火]の字源銀河は「北アメリカ星雲」である。ゆえに火攻めで魏の大軍に勝った呉軍の「黄竜」という年号の[竜]は「北アメリカ星雲」があらわすことになった。「北アメリカ星雲」は〔竜の顔面〕の形に、北アメリカ星雲の東隣の「白鳥座のξ(クサイ)星」と「白鳥座の56・57があるペリカン星雲のキツネの顔となる銀河部」は〔竜の両目〕の形に相似する。これゆえ、この〔竜の顔面〕に観える〔呉軍〕に見立てた「北アメリカ星雲」は『説文解字』が「能く明、能く細、能く短い」と解説した[竜]の字源をあらわすことになった。
 「壱与」の[与]の字源の一部となる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は[水]の字源となり、水中に龍の顔が見えて潜(ひそ)むように激流・氾濫に観えるので「潜龍(せんりょう)」の語源となり、また大雨が降って龍が潜む激流・氾濫に観えるので「雨龍(あまりゅう)」の語源となった。これゆえ、〔日本軍〕に見立てる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は『説文解字』が「能く幽、能く巨、能く長」と解説する[龍]の字源をあらわした。
 したがって、竜の顔に似る「北アメリカ星雲」に見立てた火の呉軍よりも潜龍・雨龍となる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」に見立てた水の日本軍の呪力は数段勝る。
 このように小国・日本の女王は瞳が最も澄む年代の13歳の乙女を選び、この乙女の名を「壱与」と定めて、赤壁の戦いで魏の大軍に勝利して黄竜2年に呉の港を出発した呉軍の能力を奪う日本軍の媚蠱とした。
 
 このような秘密が小国・日本誕生史にあったので、日本の紋章には「雨龍」という名の家紋がある。「平角雨龍」という名の家紋は「長方形の暗黒天体部の北部の形」と共通して〔正方形〕に図案され、「隅(すみ)立て雨龍」と「雨龍菱(あまりゅうびし)」という名の家紋は「長方形の暗黒天体部の南部の2連菱形の銀河部」の〔菱形〕に図案される。この「雨龍」の顔と両目は呉軍に見立てた「北アメリカ星雲」(顔面)と「白鳥座ξ星と56・57があるキツネの顔となる銀河部」(両目)に相似するように図案される。

 したがって、上記で解説した青年武将の「載斯烏越」は13歳の壱与と結婚した夫であり、呉軍を迎え撃つ小国・日本を防衛する軍王(いくさのおおきみ)であったことになる。
 ゆえに、「載斯烏越」という名の「烏越」は「青」であり、この「青」は「青年」と「水の青」を意味した。この「水の青」は、呉軍を象徴する「赤壁」の赤色の炎と「黄竜」の黄色い火に対抗する日本軍を象徴する「水の青」をあらわしたのである。
 真っ黒な「コールサック」の北部は東の「長方形の暗黒天体部」と載斯烏越の[斯]の「斤」の字源となる西の「斧の刃の形に似る暗黒部」に分かれる。この東と西に分かれる「コールサック」の北部の暗黒天体部の中央に、「北アメリカ星雲」がある。
 このように北部が東と西に分かれる「コールサック」は〔背中合わせに、東と西に分かれる烏(カラス)の姿〕に相似する。「壱与」の[与]の字源となる東の「黄河の氾濫の形状に似る銀河」の水が溢(あふ)れ越えて[斯]の字源となる「斧の刃の形に似る暗黒部」まで達すると、中央の「北アメリカ星雲」に見立てた呉軍の〔火と竜〕は〔大量の水に呑みこまれて消滅する〕ことになる。だから、日本の軍王の名に「烏越」という語が加えられたのである。

 中国では紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文学が完成して、天頂緯度測定を習慣が廃絶(はいぜつ)された。
 このため、上記したように、『後漢書』倭伝が東鯷人国を説明する記事の末部に「所在絶遠にして往来すべからず」と記述するように、中国の人々は大海中の日本列島に渡ることができなくなった。
 しかし、当時、中国と日本列島の天頂に精密に緯度が測定できる最も理想的な「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。ゆえに、天頂緯度測定の習慣が存続する日本列島に居住する倭人と東鯷人(小国・日本人)は大海を往来できた。
 天頂緯度測定の習慣を失った1万の呉の遠征軍の8割から9割の兵士たちは位置も方角もまったく見当がつかなくなって大海原を漂流して藻屑(もくず)となって消え壊滅(かいめつ)した。
 帰還した遠征軍の将軍衛温と諸葛直を、孫権は、“功無かりき”と罰して誅殺(ちゅうさつ)した。
 この東鯷人国への1万の遠征軍は呉・蜀・燕連合軍が魏を倒すときの中心となる重大な戦力であった。ゆえに、孫権は――将軍の衛温と諸葛直に東鯷人国の沿海で、倭が東鯷人国を占領されてなるものかと大軍を派遣して防衛しざるをえないほどに呉軍の脅威を示したならば、上陸して戦わずに兵力を保持したまま帰還せよ――と命令していたにちがいないのである。本来、魏を倒すときに活躍すべき兵たちを衛温と諸葛直は8割から9割も失った。ゆえに、孫権は二人を“功無かりき”と言って処刑した。

 この回の冒頭に記述したように、247年、小国・日本の軍王の載斯烏越は帯方軍の太守の弓遵が戦死する韓の反乱に倭軍が支援できなかった倭と狗奴国の戦いを説明するために帯方郡政庁を訪問した。
 本来ならば倭の将軍がなぜ魏との軍事同盟の約束をまもれなかったのかを説明するために、帯方郡へ訪問すべきであった。ところが、倭の将軍が訪問して説明すると軍事同盟をなにゆえ守らなかったのであるかと帯方郡の太守に厳しく責められる。ゆえに、厳しく問い詰(つ)められることを避けるため、魏・帯方郡と軍事同盟を結んでいない倭の属国となった小国・日本の軍王の載斯烏越が郡を訪問したと考えられる。

 倭と敵対する狗奴国は、現在の岡山県と香川県の小豆島(しょうどしま)である。
 小豆島の地図の形は〔狗(いぬ)の姿〕に相似する。岡山県の中心部の児島(こじま)半島は〔狗の背中から尾〕の形に相似する。[狗]の字源は〔犬の姿〕に相似する「コールサック」である。
 この「コールサック」の形状から〔海〕が連想され、「鬼の姿に似る銀河」の形状から〔陸地〕が連想される。〔児島半島〕の〔狗の姿〕は西に頭があり東に後ろ足がある。この〔狗の姿〕は「鬼の姿に似る銀河」の西に頭があり東に足がある様子に共通する。ゆえに、〔児島半島〕と児島半島より北側の〔岡山県〕は「鬼の姿に似る銀河」見立てられた。
 〔狗〕の姿に似る〔小豆島〕と「コールサック北部」に見立てられる〔瀬戸内海〕に浮かぶ〔小豆島〕が[狗]の字源をあらわす地宜(ちぎ)すなわち平面的に図化した地図の形となり、〔岡山県〕に見立てられる「鬼の姿に似る銀河」は[奴]の字源となるものであったので、「小豆島と岡山県」は「狗奴国」と呼ばれることになったのである。
  この狗奴国を、日本国の軍王・載斯烏越が倭軍と日本軍を指揮することになった。だから、載斯烏越が狗奴国を征討して軍事同盟の約束を必ず守れる状況にすると約束して、倭政府は帯方郡太守の厳しい問い詰めをかわさんとしたのである。

 『魏志倭人伝』の魏の景初2年(238)年に魏の明帝が約束した詔書(しょうしょ)と印授(いんじゅ)は正始(せいし)元年(240)に帯方郡の太守・弓遵が使節を派遣して倭王(この年に、卑弥呼はすでに没していたにちがいない)に魏との軍事同盟をまもるようにと拝仮(はいか)つまり仮(かり)にあたえた。そこで、倭王は帯方郡の使節に託して前年に死去した明帝に代わる斉王に上表(じょうひょう)し、魏の恩恵に謝意をあらわした。
 正始6年(245)、魏の斉王は詔を下し、倭の外交正使(現在の外相)の難升米(なしめ)に魏軍の黄色い軍旗の黄幢(こうどう)をあたえることにし、帯方郡太守・弓遵に託して仮に授けた。この翌年(246年)に弓遵は反乱によって戦死した。
 247年、帯方郡の太守の王頎(おうき)が着任した。この年に、小国・日本の軍王の載斯烏越が帯方郡政庁を訪れて、魏との軍事同盟の約束をはたせなかった原因となった倭国と狗奴国との戦いの状況を説明した。
 小国・日本と魏・帯方郡は国交を結ぶものではなかった。
 そこで、帯方郡太守・王頎は外交の鉄則(てっそく)にまもらずに国交を結ばない日本国の軍王の載斯烏越に詔書と黄幢を手渡すと厳しく罰せられるので、帰国する載斯烏越一行の船に便乗(びんじょう)させて塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)一行を倭に派遣した。
 帯方郡使の張政は倭の外交正使の難升米に詔書と黄幢を仮に授けた。そして、魏の対東方政策の方針のとおりに反乱がおこらないように韓を制圧するためには、倭軍の支援が不可欠であるゆえ狗奴国を滅亡しなければならない立場を告げ諭(さと)す檄(げき)・軍書を作った。

 しかし、この狗奴国攻撃を小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた倭女王・壱与が反対した。
 この倭女王・壱与が狗奴国征討を反対したことは、舒明(じょめい)天皇が詠んだ『万葉集』の5番の「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこおり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」の長歌と6番の反歌(はんか)で知ることができる。この和歌の題詞の「軍王」は載斯烏越であり、載斯烏越は狗奴国・児島半島が真正面に見える、安益郡つまり現在の綾歌(あやうた)郡の讃岐富士(飯ノ山)に本陣を構えて、魏との軍事同盟をまもるために指揮して狗奴国王権を滅亡させた。
 また舒明天皇の子の中大兄(なかのおおえの)皇子(のちの天智天皇)が作った『万葉集』13番の「大和三山の歌」と14番・15番の反歌も、壱与が狗奴国討伐を反対したと伝える。13番の「大和三山の和歌」における「天の香具山(かぐやま)」は「壱与」をあらわし、「雄男しい畝傍山(うねびやま)」は「載斯烏越」、「耳梨山(みみなしやま)」は「天照大神」をあらわす。13番の和歌は――正妃の壱与は夫の載斯烏越は猛々(たけだけ)しく狗奴国を征討することばかり主張すると嘆き、第2后の天照大神は狗奴国は魏との軍事同盟はまもるべきであるから狗奴国征伐は決行すべきあると主張して、壱与と天照大神は妻の座をめぐって争った――と詠む。
 また、『播磨国風土記』の〔阿菩大神(あぼのおおかみ)〕の説話は大和三山の争いを語るものであるから、壱与が狗奴国征伐を反対したことを伝えるものとなる。

 弥生中期から後期にかけて瀬戸内海地方や大阪湾にのぞむ地域に山丘上に設けた集落が点在する。これらの集落は一般に海上や平野を眼下にのぞむ、眺望(ちょうぼう)のひらけた高い地所に設営されている。
 これらの遺跡は、弥生集落の最も一般的なあり方である農耕を中心とする集落と考えにくい特色を有している。ゆえに、これの遺跡は軍事的な狼煙台(のろしだい)の役目があった集落であると考えられている。
 注目すべきは、これら狼煙台の遺構(いこう)集落は、小豆島と岡山県をとりかこむ陣形になっている点である。ゆえに、小豆島と岡山県は卑弥呼と素(もと)より仲が悪い狗奴国であり、載斯烏越に征伐された狗奴国王権であったにちがいない。

 倭女王・壱与は狗奴国征討伐を反対したが、天照大神が代わって「壱与」の媚蠱となり、載斯烏越が讃岐富士から倭軍と日本軍を指揮して狗奴国を征討した。
 このような経緯があったので、『魏志倭人伝』は「帯方郡使の張政は二度も檄を作って、魏の立場を告げ諭した」と記述する。
 狗奴国王権は載斯烏越に討伐されて滅亡したので、難升米に拝仮された詔書と黄幢は正式に倭に授けられることになった。
 『魏志倭人伝』の最後は「代理の壱与となった天照大神は、倭の大夫率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人は派遣し、船に乗せて張政たちを帰還させた。倭の使節・掖邪狗一行は魏都に到着して、男女生口(せいこう)三十人を献上し、白珠(はくしゅ)五千孔・青の大句珠(だいくしゅ)二枚、異文(いぶん)の雑錦(ざっきん)二十匹を貢献(こうけん)した」という記事で終わる。

 以上のごとく、『魏志倭人伝』の載斯烏越が登場する正始8年から末尾までの記述は、日本国誕生史に関して説明する。
 ゆえに、夏音名の「載斯烏越」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であり、狗奴国討伐に反対した夏音名「壱与」は「伊耶那美命(いざなみのみこと)」である。
 また、正始8年から末部の記事によって、倭の使節は精密に天頂緯度を測定して大海を往来していたことが明確に証明される。というのも、〔歳差〕という天文現象に着目して、当時の銀河各部の緯度状況を再現すると、中国とわが国の天頂を「長方形の暗黒天体部」がめぐってきたことが証明されるからである。

 「長方形の暗黒天体部」「壱与」の[与]と「載斯烏越」の[斯]と[烏]の字源となった。
 「長方形の暗黒天体部」は精密に天頂緯度を測定できる最も理想的な羅針盤であった。当時、中国では紀元前1世紀に完成したシナ天文のために天頂緯度を測定する習慣が廃絶したために大海を往来できなかったが、日本列島の倭と小国・日本(東鯷人国)では天頂緯度を測定する習慣が栄えていたので大海を往来できた。このため「長方形の暗黒天体部」は「鳥居」の語源となり、今日、〔鳥居〕を見て欧米人たちは〔日本〕を連想する。しかし、欧米の人々は「長方形の暗黒天体部」の産物の〔鳥居〕を見て〔中国〕を連想しない。
 倭の使節が「鳥居の銀河・長方形の暗黒天体部」を羅針盤にして大海を往来して魏と帯方郡と国交を結んだために、『魏志倭人伝』という文献史料が現存することになった。

  『魏志倭人伝』は幾つかの記事で、実際と異なって日本列島は東に伸びずに南に伸びると証言する。
 この転回日本列島地理は夏音文字の学芸で「東を90度転回して南にする」と定義する[倭]の字源を示すものである。だから、この転回日本列島地理にもとづいて、国名を「倭」と定めたのである。
 つまり、卑弥呼王朝は――国内の地理では日本列島は東に伸びることになる。しかし、南北に伸びる中国の海岸線と東西に伸びる日本列島の寒暖の気候を比較にすると、日本列島の同緯度における西方の地は寒く東方の地の気候は暖かく・中国の経度軸に沿って続く海岸線における北方の地は寒く南方の地は暖かい。ゆえに、寒い日本列島の西方と中国の北方の気候が合致し、暖かい日本列島の東方と中国の南方の気候は一致する。だから、南北に伸びる中国の海岸線の気候にもとづくと、日本列島は東に伸びずに南に伸びると確信できる――と日本列島地理を定めたことになる。
 この卑弥呼王朝が定めた転回日本列島地理は、738年に聖武(しょうむ)天皇の時代に誤っていると改定された。
 この日本列島地理を学者たちは「著者・陳寿(ちんじゅ)の誤った地理観である」と断定する。学者たちの断定意見の通りだとすると、卑弥呼王朝は天頂緯度測定を最も重視する夏音文字の天文地理学を廃絶したため、倭では天頂緯度測定の習慣が廃(すた)れ、シナ天文を習得して天の北極を最も重視していたことになる。
 そうすると、呉の遠征軍のごとく倭の使節は精密に緯度や方角をキャッチ」できなくなって大海を往来することができなくなるので、『魏志倭人伝』は1字もこの世に存在しなかったことになる。
 このように、学者たちの意見は『魏志倭人伝』のすべての記事を誤読すると言っても決して過言ではない、完全なる【誤読の産物】であり【空理空論】である。
 学者たちの意見だと“『魏志倭人伝』のほとんどの記事は絶対に信用してはいけない。ただし、『魏志倭人伝』が卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と表記するが、これを「邪馬台国」と改めることはできる。この「邪馬台国」という名称の一点のみが正しい”ということになる。
 このような愚劣きわまる学説は世界中さがしてもどこにも存在しない。
 邪馬台国学説は「学説」と呼べるものではなく、完全なる荒唐無稽(こうとうむけい)のウソ八百である。
 『魏志倭人伝』は、世界の文字が銀河から作られた真実が科学的に解明できる第1級の重大な史料である。この重大な証言を、邪馬台国学者たちはことごとく抹殺(まっさつ)した。ゆえに、【誤読】でデッチあげた邪馬台国学説は人類共通の敵である。

 次回は、『魏志倭人伝』の正始8年の記事から末尾までの記事が伝えている、天皇の王冠の下の飾り・菅笠で表現された日本国の誕生史について解説する。この日本国誕生史を先人たちは絶対に失うことはできないとまもった。しかし、邪馬台国説学者たちは「文献批判」という名の【誤読】を用いて日本国の誕生史を抹殺した。

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