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2012年2月20日 (月)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵でもある・4

  〔文献批判〕という考え方は、最初から〔誤読〕の可能性が大の立論方法であった。
   このような〔誤読〕の可能性がある不完全きわまりない不正確な立論方法の〔文献批判〕を、現在の日本古代史学界は“絶対に正しい考え方”と定めている。
  〔文献批判〕は、ある歴史の記述の真偽を考える際、最初から文献史料のこの箇所の記述は誤っていると推断してもよい、文献史料の記述に反する別なる先入観を抱いてもよいと定める。だから、〔文献批判〕は〔誤読〕の可能性は大となる。
  このような〔誤読〕と同義となる可能性がある「文献批判」を立論基盤にして❶邪馬台国学説と❷日本神話虚構説と❸漢字は5、6世紀に始めてわが国で習得されたとする定説が確立された。
  この3大妄想は、日本人の最も深き精神、日本民族の精神の根っこへの帰属意識を断ち切るものとなるので、日本民族を虐殺するものとなる。

 この3大妄想は三つに分化するものではなく、相集まって〔夏音文字の学芸〕の一つの秘密に統合される。
  この〔夏音文字の学芸〕の秘密を解明すると、未だ不明の漢字はもちろん古代エジプト文字(ヒエログリフ)の起源の秘密が科学的に解明できる。漢字と古代エジプト文字の起源の秘密は、わが国に現存する夏音文字の数々の史跡で科学的に解明できる。この科学的な確かな解明によって、現在世界中で使用されている8割から9割の文字の起源の秘密が解明できることになる。だから、日本古代史学界の3大妄想は人類共通の敵となる。

 上記したように、〔文献批判〕はみずからの推断した先入観に反したり不都合な記述は誤読して排除・削除(さくじょ)してもよいとする。これゆえ、❶邪馬台国学説と❷日本神話虚構説と❸漢字の習得の定説は誤読による妄想・空理空論となった。
  上記の3説が誤読による妄想であることは、現存する彦根の羽の無い3千万坪の大鳥の地上絵と桂離宮の庭園の平面図で調査すれば白日のもとにさらされる。
   この他に、夏音文字の学芸の秘密が科学的に解明できる史跡は、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)、長野県茅野市に所在する尖遺(とがりいし)縄文遺跡、『魏志』倭人伝と同時代の3世紀後半に作られた静岡県浜松市北区細江町の1千万の大鳥の地上絵、京都の竜安寺の石庭、また京都の金閣寺の庭園などがある。
 これらの史跡と上記の彦根の3千万坪の大鳥の地上絵と桂離宮の庭園なども加わって夏音文字の学芸の秘密が明らかになると、大嘗会(だいじょうえ)において即位する天皇の頭上に差し上げられる王冠・菅蓋(かんがい)は❶邪馬台国学説と❷日本神話虚構説と❸漢字の習得の定説が〔誤読〕によって立論された妄想であると表示するものとなる。天皇の王冠だけでなく、大嘗会そのものもまた❶邪馬台国学説と❷日本神話虚構説と❸漢字の習得の定説は日本古代史学の3大妄想であったと立証できる祭儀であることになる。

 上記の日本古代史学の3大妄想はなにゆえ確立されることになったかといえば、下記の二つの原因がある。
① 日本の古代史学者たちは西洋近代科学のパラダイム(考え方)は絶対的に正しいと信ずる。しかし、西洋近代科学の理論的枠組みには〔傲慢(ごうまん)な単純化〕という根源的な誤りが存在する。この〔傲慢な単純化〕によって、上記の3大妄想が確立された。
 1980年代において、先端科学者や科学論家たちは17世紀のデカルト以来の西洋近代科学の立論基盤には〔傲慢の単純化〕はじめ〔無秩序から秩序が創造できないなど〕など幾つかの誤りや欠点があると指摘した。
 先端科学者たちが幾つの国際会議を開いて警告したように、日本古代史学者たちのように西欧近代科学の立論基盤を絶対に信用してはならないことは、西洋近代科学の考え方を取り入れた新井白石以来今日まで、学者たちがおこなった邪馬台国研究を注目するとよく理解できる。
  上記した邪馬台国学説の立論基盤の〔文献批判〕は西洋近代科学の〔傲慢な単純化〕の産物である。
  なぜならば、〔文献批判〕は最初から〔『魏志』倭人伝のこの箇所の記述は誤っていると考えてよい、『魏志』倭人伝の記述に反する別なる先入観を抱きその先入観は科学的に正しいと判断してよい〕とするので、〔文献史料は必ず一語一句忠実に読解しなければならない〕という普遍的な原理原則に違反して、“絶対に文献批判は誤読ではない”と傲慢に単純化するからである。
  しかし、『魏志』倭人伝の各記事は互いに関連しあって〔実際に経験できると論証できる系統的な合理〕すなわ【科学】の定義が成立する仕組みになっている。
  西洋近代科学を絶対視する邪馬台国説学者たちには〔無秩序の一つ一つの記事から、すべての記事が合理となる秩序〕を創造することができないゆえ、『魏志』倭人伝のすべての記事が相関連しあって一つの秩序で形成される仕組みになっていることに気づかない。
  しかし、〔文献史料は必ず一語一句忠実に読解しなければならない〕という古代史学の原理原則を厳守すれば、すべての記述が矛盾点もなく不合理な点もなく全体が合理の統合体となるので、白石が取り入れた西洋近代科学の〔文献批判〕は誤読ではないかと不信を抱くことはできたはずである。

② 『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられる文字は夏音文字であり、この夏音文字は今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に伝来し、学者たちは【文字】は「言葉をあらわす記号」であると思い込むが、夏音文字においては【銀河各部の形状】が【文字】であった。この夏音文字と同じく古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた【銀河各部の形状】が【文字】であったと科学的に具体的に立証できる。
 学者たちは【文字】は「言葉をあらわす記号」として起源したと思い込む。しかし、『魏志』倭人伝と日本に現存する数々の史跡と発掘史料によって、【文字は銀河各部の形状】として起源したことが科学的に明らかとなる。だから、『魏志』倭人伝の一つの秩序によっ統一されている各記事を、〔傲慢な単純化〕を用いて無秩序にしてしまう西欧近代科学の〔文献批判〕はまさに【誤読】であったのである。

 『魏志』倭人伝は漢字と古代エジプト文字は、【銀河各部の形状】が【文字】であったことを伝える人類史上においてきわめて重大な秘密を証言する貴重な史料である。
 だから、『魏志』倭人伝は世界の文字の起源の秘密が手に取るように明らかとなり、しかも極めて科学的に証明できる、特別に貴重な正確に歴史を伝える第一級の史料である。

  夏音文字の学芸は〔精密な天頂緯度の測定〕を基軸にして構築された。
  中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して天の北極を最も重視するようになり、精密に天頂緯度を測定する習慣が廃(すた)れた。このため、卑弥呼が生存した3世紀においては、中国や朝鮮半島の帯方郡の使節は大海を越えて日本列島の倭国に到着できなくなった。しかし、倭では夏音文字の学芸が栄えていて精密に天頂緯度を測定する習慣が存続していた。
 『魏志』倭人伝は「日本列島は東に伸びずに南に伸びる」と記述する。この転回日本列島地理は国名の[倭]の字源・本義であり、精密な天頂緯度測定を最も重視する夏音文字の学芸にもとづいて立論された地理であった。
  邪馬台国学者たちは、日本列島に居住する卑弥呼や倭政府たちが天の北極を基準にして〔東〕と〔南〕を間違えるはずがないと主張する。
   もしも卑弥呼王朝が天頂点のキャッチを最も重視する夏音文字の学芸を廃(はい)して天の北極を最も重視していたならば、魏・帯方郡の使節同様に倭の使節も大海を渡ることができなくなるので、『魏志』倭人伝はこの世に存在するものでなかったことになる。
 このように、邪馬台国学説が主張する通りだと、『魏志』倭人伝を構成する約2000字の文字は跡形もなく1字も残らず煙と化して消滅する。
 このように、当時、倭の使節はどのような方法を精密に緯度を測定して大海を往来をしたか、この一点に限って科学するならば、白石以来約280年の歴史を有する邪馬台国研究は誤読の産物・妄想であったことが小一時間で科学的に証明される。
  『魏志』倭人伝の各記事は〔精密な天頂緯度測定〕にすべてが相集まって一個の統一を形成する仕組みになっている。だから、この〔精密な天頂緯度測定〕を注目して論争すれば、小一時間で邪馬台国研究は〔誤読〕による妄想の280年間であったことが明らかとなる。

  紀元前2070年、夏王朝が樹立した。司馬遷著『史記』夏本紀は、世襲王朝国家体制の夏王朝が創設された事情を下記のごとく説明する。
 ――夏の始祖・帝禹(う)は五帝時代以来の多数の氏族が共に立って、この多数の氏族の中で最も優れた人物が帝となり、国家を作らない氏族共同政治体制の継続を強く望んだ。しかし、帝禹の子の啓(けい)は国家を創設して特定の家(禹・啓の家)の長が帝位を代々受け継ぐ世襲王朝国家体制を欲求した。ゆえに、帝禹は没するときに禹の政治を補佐した益氏の王に帝位をゆずり、氏族共同体制の継続を益にたくした。禹の三年の喪が終わると、益は帝位を啓にゆずって、箕山(きざん)の南に地に隠棲(いんせい)した。というのも、諸侯はみな益に服従せず、啓のもとに入朝したからである。

  箕山の南に隠棲した益は禹の遺志である氏族共同体制を、新天地・日本列島にて継続すると決意した。しかし、益は年老いていた。日本列島に移住するには、大海原にて小舟を幾日幾日もも漕がなければならなかった。この荒波逆巻く大海を越えることができるのは、太い腕とたくましい肉体を有する屈強な若者たちであった。これゆえ、帝益の孫の王子と若者たちによって、禹の遺志を継ぐ大海の横断が決行された。
 かくして、今から約4050年前ころに、益氏の移住によって【銀河各部の形状】が【文字】となる夏音文字が日本列島に伝来し、夏音文字は縄文人たちに習得された。
 
このような益氏の日本列島の移住は、『日本書紀』神武天皇紀に初頭部に記載される天祖・彦火瓊瓊杵尊の降臨説話にて語られ、『古事記』序と上巻との冒頭に登場する〔造化の参神〕をもって――益氏が話す夏音の言葉はチンプンカンプンで理解できなかったが、彼らが銀河部を指さし手振りで教える夏音文字の学芸を天頂にめぐってくる銀河部の形状を造形した縄文の芸術家たちによって習得された――と説明する。また、『古事記』上巻の天孫・日子番能邇邇芸命の筑紫降臨説話において天孫(天照大神の孫の王子、すなわち若き日の景行天皇)が率いる大和遠征軍は帝益の箕山の南に隠棲する史話の演出をおこなって筑紫の宗像王を服従させたと説明する。この大和の天孫軍がおこなった〔帝益の箕山の南に隠棲史話の演出〕を現在に伝える山が「箕山」と同じく「きざん」と読む「基山」であり、また「鳥栖」という地名が生まれ、宗像神社が起源した由来となる。(「基山」と「箕山」の初文はともに[其]であるので、「基山」イコール「箕山」となる)。
  『日本書紀』の天祖の名「彦火瓊瓊杵尊」と『古事記』の天孫の名「日子番能邇邇芸命」は、ともに「ひこほのににぎのみこと」と読む。つまり、古墳時代の天孫は後期縄文時代初頭に移住した天祖・日子番能邇邇芸命の生まれ変わりとなる。ゆえに、天祖の名を夏音文字の場合は「日子番能邇邇芸命」と表記され、この名を7世紀初頭に巫女
(みこ)や覡(かんなぎ・神官)たちが朝鮮半島の百済(くだら)から輸入した仏教の経典から解読した楷書だと「彦火瓊瓊杵尊」と表記されることになった。
  夏音文字は【銀河各部の形状】が【文字】であり、仏教の経典に用いられる楷書の字源と初文(最初の字形と最初の字義=本義)は【銀河各部の形状】であった。ゆえに、“舎人
(とねり)”と呼ばれて王朝体制に組みこまれていた夏音文字の学芸に精通していた巫女と神官たちは、銀河を仰ぎ観て楷書を解読した。このように、楷書の字源と初文は【銀河各部の形状】であったうえに、楷書の字形もまた字源・最初の字形・本義となった【銀河各部の形状】に相似・類似したので、巫女と神官たちには仏教の経典に用いられた楷書が解読できたのである。

  今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)ごろ、名門益氏の王子と若者たちは日本列島に移住した。この快挙は「益荒男(ますらお)」という日本語の語源となった。つまり、「益荒男」とは「勇猛果敢に、荒波逆巻く大海を渡った益氏の若者のように立派な男性」であるから、今日、「益荒男」は「弱音などをはかない、立派な男性」と意味することになった。
 「益荒男」は「大丈夫(ますらお)」とも表記する。というのも、益氏の若者たちは大海を越えるときに天頂にめぐってくる「十字の銀河」を羅針盤にして日本列島に移住したからである。「十字の銀河」は[大]と[丈]と[夫]の字源であったゆえ「大丈夫」となった。
  『魏志』倭人伝には「古来より、大海を渡って中国に到着した倭の使者たちは皆“大夫”と名乗った」と書く記事がある。この倭の使者たちは、“[大]と[夫]の字源となる「十字の銀河」を羅針盤(物差し)にして大海を渡った益氏の王子と若者と同じように、大海を渡ってきた”と誇示して、皆が皆口々に「大夫」と称したのである。

 世界中探しても銀河の名称は存在しないので、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bにすべての字源が解明できる1400字前後の基本字が作られた銀河各部の範囲を示す銀河の写真を掲載した。
  資料Cに、わたくしが定めた銀河各部の名称を記入した。
  [大][丈][夫]の字源・字形・本義となる「十字の銀河」は資料Bと資料Cの左上にある。

  「十字の銀河」は〔大字形〕であり、楷書の[大]はじめ[丈]も[夫]の字形も[大]の形となる。ゆえに、楷書の[大][丈][夫]の字源・初文は「十字の銀河」であったと容易に察知できる。
  夏音文字の字形は殷代の甲骨文字と周代の金文と同じく【銀河各部の形状】を図案化する絵文字であった。
  しかし、漢字の始祖・倉頡(そうきつ)によって〔文字を書いた後、用がすんだら直(ただ)ちに文字を消さなければ死刑にする〕という厳しい掟(おきて)が定めらた。このために、地面や灰の上に書かれた夏音文字は出土史料として残らないことになったが、【銀河各部の形状】が【文字】と定められて残された。ゆえに、今日、夏音文字は出土される史料点数が無いに等しいほどに少数しか存在しない文字となった。
  『魏志』倭人伝に「倭の風俗においては、祭事を行う時や遠くに旅する時や雨乞いなどを言葉に出して祈願する時などに、骨を焼いて卜(うらな)い、その吉凶を占う。最初に卜する事柄を告げるが、その占いに用いられる辞(夏音文字と言葉)は令亀(れいき)の法すなわち中国の殷代の亀の甲羅に刻む甲骨文字と言葉の辞のごとくである」という記述がある。
  この倭の占卜において用いられる骨は鹿の肩甲骨(けんこうこつ)である。この占卜に用いられた鹿の骨は出土しているが、占いに用いられた甲骨文字に相似する夏音文字は出土していない。夏音文字は倉頡が定めた掟を厳守して、書いた後に必ず消していた。だから、夏音文字は出土されないことになった。

  強大な権力を有する王朝にあっても【銀河各部の形状】を消滅することができなかった。だから、【夏音文字】は【銀河各部の形状】として現存することになり、現在のわれわれも拙著『邪馬台国説が日本を滅ぶす』に掲載した資料Bの銀河の写真を見れば、夏音文字の字源・字形・字義を実際に目で見ることができる。
   だから、資料Bの銀河の写真を見て楷書で表記される夏音文字の字源・初文を解明する方法は、7世紀の巫女と神官たちが仏教の経典に用いられる楷書を解読した方法を実体験するものとなる。

  『説文解字』は[大]の字源を「天は大なり。地は大なり。人もまた大なり。ゆえに大は人の形に象(かたど)る」と解説する。資料Bが示すように、「十字の銀河」は人の正面形に相似する。また、人体に相似する「十字の銀河」の身体部の西側には、乳房と子宮に観える部位があるので、西に向かって歩く女性の姿(側身形)にも相似する。また、「十字の銀河」の左手には弓の形に相似する銀河部があるので、東に向かって歩く男性の側身形にも観える。これゆえ、大字形の「十字の銀河」は[大]の文字となり、「ゆえに大は人の形に象る」と解説される[大]の字源・字形・本義となった。
  この「十字の銀河」は紀元前4000年から紀元前200年までの中国の天頂にめぐってきたので、「十字の銀河」は精密に天頂緯度を測定する羅針盤(物差し)となった。そして、その天頂緯度はその天頂点をキャッチする地点の緯度、また天頂点をキャッチする人の緯度と定義された。だから、『説文解字』は[大]の字源を「天は大なり。地は大なり。人もまた大なり。」と解説した。
  現在においても、プラス赤緯(せきい)35度の天頂点は北緯35度の土地の緯度であり、北緯35度の地点や海上に居る人の緯度と定められる。このように天頂の緯度と土地の緯度の数値を同一とする定義を「天は大なり。地は大なり。人もまた大なり」と、『説文解字』は解説したのである。

  山田卓(たかし)著『夏の星座博物館』(地人書房)の35頁は絵と「おなかをつきだしてうんとあおいだとき、はじめて天頂がキャッチできる」という説明文で表示する。
 「十字の銀河」の〔子宮〕に観える部位は〔妊婦の円く突き出たおなかのような形状〕であるゆえ〔天頂点をキャッチせんとして、うんと天をあおいでときの人のおなかの形〕となる。だから、[大]の字源となった「十字の銀河」の形状は〔人が天頂点をキャッチするときの正しいポーズ〕に合致するので、『説文解字』は「天頂点をキャッチすれば観測地点の緯度が精密に測量できる」とあらわすために、[大]の字源を「天は大なり。地は大なり。人もまた大なり。ゆえに大は人の形に象る」と解説した。

  『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)における「緯度の測定」と題する記事は下記のごとく、「天の北極では緯度が精密に測定できないが、精密に緯度を測定するには天頂点をキャッチしなければならない」と指摘する。
 「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の天の北極からのかたよりが計算できるので、天の北極の高度に換算ができる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天長距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」

  したがって、天の北極の高度で緯度換算する方法は天頂で緯度測定する方法よりも不精確であり、また天の北極の高度で緯度換算する場合は、上記の説明が「時刻が決めれば」という条件を付けているように、今日のような精確な時刻を表示する時計が必要となった。しかし、古代においては今日のように精確な時刻を表示する時計が発明されていなかったので、天の北極の高度で緯度を換算して自分がいる位置を定めるとかなり不精確となった。それゆえ、遠くの地に行って食料や生活必需品を物々交換する場合、あるいは石器の材料となる黒曜石の原産地に旅する時、位置と方位が不明となって道に迷い、命を落として家に帰ることができなかった。そして、精密さを求められる大海においては位置と方位がまったく不明となり、漂流して大海の藻屑(もくず)となって命が消滅することになった。

 『説文解字』は[夫]の字源を「周制、八寸を以て尺と為(な)し、十尺を丈と為す。人は長(たけ)八尺なり。ゆえに丈夫といふ」と解説する。
 「十字の銀河の頭部」と連結する冠のような銀河部は、縄が大・小の輪を作る形となる。この大・小の輪の銀河部の見かけの大きさは二尺(2度)、「十字の銀河の頭部から長い左足までの背丈」は八尺(8度)である。したがって、大・小の輪の銀河部を含む「十字の銀河」の大きさは十尺=一丈(10度)となる。周代の尺寸の制度においては、大尺の一丈を十尺、小尺の一丈を八尺(十咫)と定めた。そして、1尺は22.5cmであったので、8尺は180cm(1m80cm)となるので、1m80cmの背丈がある男性も女性も“健康に育った強い肉体の持ち主”ということになり、この「健康に育った強い肉体の持ち主」を意味する語は「十字の銀河」を字源とする[丈]と[夫]の2字を組み合わせる「丈夫」となった。ゆえに、『説文解字』は「十字の銀河」を観て[夫]の字源を「周制、八寸を以て尺と為し、十尺を丈と為す。人(の姿に似る「十字の銀河」の)長八尺なり。ゆえに丈夫といふ」と解説した。

 〔益氏の天祖一行が荒々しいう波が逆巻く大海を越えた歴史〕は「益荒男」の語源となり、彼らは[大]・[丈]・[夫]の字源となる「十字の銀河」を精密な緯度を測定する物差しとしたので「益荒男」は「大丈夫」とも表記されることになった。
 「十字の銀河」を精密に緯度を測定する物差しにすると大海原で迷って落命するという心配はなかったので、「大丈夫(
だいじょうぶ)」という日本語は「心配御無用」と意味することになった。
  だから、
縄文時代の益氏の王子と若者たちは[大][丈][夫]の字源となる「十字の銀河」を精密に天頂緯度を測定する物差しにして大海を越えて日本列島に到着した。
  もしも、益氏の若者たちがが天の北極を緯度を測定する物差しにしていたならば、日本列島には渡ることができなかったことになる。

   『魏志』倭人伝に登場する倭女王に就任した女性は益氏が伝えた夏音文字の学芸に精通していた。この夏音文字の天文地理学は精密な天頂緯度測定を最も重視した。倭女王になった女性は精密な天頂緯度測定の天文地理学にもとづくと、益氏が伝えた夏音文字の学芸においては中国の海岸線地域の気候は〔北の地方は冷たく、南の地方は暖かい〕であるのに対して日本列島の〔同緯度の日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島は冷たく、東端にある伊豆諸島の神津(こうづ)島は冬でも雪が降らずに暖かい〕ので、〔中国の北冷と日本列島の西冷が合致し、中国の南暖と日本列島の東暖が合致する〕と指摘して、中国の北に日本列島の西・中国の南に日本列島の東を配置する転回日本列島地理を立論した。この“転回日本列島地理は真実であるにちがいない”と夏音文字の学芸を有する倭の小国の王はじめ氏族の首長や巫女や神官たちは絶賛した。ゆえに、この転回日本列島地理を立論した女性こそ夏音文字の学芸に最も精通するということで、彼女は倭女王に選ばれた。
 夏王朝の帝禹と帝益は五帝時代初頭から夏代初頭まで約950年間継続された事業を受け継いで歴代王朝がおこなった中国の海岸線と、この海岸線が洩れなく包みこむ中国の平原の平原(華北平原・長江下流平原)の正確な地図作成に情熱を傾けた。この正確な中国海岸線・平野部の地図を帝禹の遺志を新天地にて存続させるために、益氏の王子はたずさえて日本列島に移住した。
この正確な中国海岸線・平野部の地図は、上記の『魏志』倭人伝と同時代(3世紀後半)に作られた1千万坪の静岡県浜松市北区細江町の大鳥の地上絵の東半分の境界線の形になって現存する。

 この現存する細江町の大鳥の地上絵の東半分の境界線で表示されて中国海岸線・平野部地図の知識を有していた倭女王は、その中国の海岸線の北冷・南暖の気候にもとづいて転回日本列島地理を立論した。
  『魏志』倭人伝に記載された転回日本列島地理の基準となった中国の海岸線は低く湿気がある〔卑湿な土地〕であるので[卑]、鳥の頭と両翼に相似する「山東半島と南北の海岸線」は[弥]の字源をあらわす地宜
(ちぎ)すなわち地図の形であり、南の「杭州湾」の形は[呼]の字源の「鳰(にお)・カイツブリ」に相似する。このように、中国の海岸線は[卑][弥][呼]の3字の字源をあらわすものであったので、倭女王の名は「卑弥呼」と定められた。
 「十字の銀河」は[禾
(いね)]のように観えるとされて[禾]の字源[稲]の初文となり、「十字の銀河」は女体にも相似するので[禾]の下に[女]を加える[委]の字源となった。「十字の銀河」が天頂にめぐってきた時代、旅人は自分の居る地点の位置(緯度)と方角(子午線)を測定するとき、緯度軸と直角になるように「十字の銀河」を横にすれば精密に測定できた。この「十字の銀河」の南北を横にして緯度と子午線を測量するとき、彼らは天にいのちが保持できるように願った。この[委]の字源「十字の銀河」に〔いのちが保持できるように身をまかせる願い〕によって「委(ゆだ)ねる」と言葉が生まれ、[委]の字義は「ゆだねる」となった。「十字の銀河」は〔人の姿〕に相似するので、[委]に人編が加わる[倭]という字が出現し、[倭]の本義は「十字の銀河を横にして天に命を委ねる時のように、〔東〕が〔南〕になるように時計の針の方向を90度転回させる」と定められた。だから、〔東〕が〔南〕になると日本列島地理を転回して立論した卑弥呼が統治する国の名は「倭」となった。そして、当時の天頂にめぐってくる「長方形の暗黒天体部」は[人](産道を潜って誕生する胎児が出産して人となる)の字源をも示したので、倭国の正式名は「倭人国」と定められた。
 卑弥呼が立論した転回倭地理の誤りは、738年、聖武
(しょうむ)天皇の時代において、天の北極を最も重視するシナ天文によって改定された。このように朝廷が天の北極を最も重視するシナ天文のほうが夏音文字の学芸の天文地理学よりも正しく優っていると定めたため、天頂緯度測定という精密な羅針盤を失わなければならなくなった遣唐使船の船乗りたちは天の北極では精密に緯度と経度を測量できないので大海を往来することを拒否するようになった。これゆえ、738年からまもなくして遣唐使の派遣は廃止されることになった。

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