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2012年2月25日 (土)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・6

  静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の1千万坪の大鳥の地上絵は、『魏志』倭人伝と同時代の3世紀後半に作成された。
  この1千万坪の大鳥の地上絵は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の二神の誓約説話末部に登場する「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」が作成した。ゆえに、細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を、わたくしは「建比良鳥の地上絵」と名づけた。

  『古事記』上巻に登場する奈良県大和の天照大御神の王権が栄えていたのは、遺跡や出土資料からして250~300年ころのことであったとされる。したがって、遠江の建比良鳥命が細江町の大鳥の地上絵を作成したのは250~300年であったと考えられる。
 細江町の北隣は引佐(いなさ)町であり、この引佐町井伊谷(いいのや)盆地東部の丘陵上に大型古墳群がある。この古墳群の最古の前方後円墳は北岡大塚古墳であり、その築造年代は350年ころとされる。この北岡大塚古墳の被葬者は遠江国造であったにちがいないから、遠江国造の先祖の建比良鳥命は350年より50年前の300年ころに生存していたと考えられる。
  1千万坪の巨大な大鳥の形を大地に図化するには、現在の国土地理院の地図作成方法と同じく天頂緯度を精密に測定して経緯度原点を設置し、三角点を設置しなければならない。そうすると、精密に天頂緯度を測定できる道具が必要になるが、建比良鳥の地上絵内から現在まで7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸が発掘され、この銅鐸の模造鐸を作ってみると銅鐸は天頂緯度を精密に測定できる構造になっていると実際に体験して確信することができる。建比良鳥の地上絵の三角点のうち、経緯度原点は細江町の中央を流れる①都田(みやこだ)川の河口の東岸であり、この東岸と同緯度の②滝峯不動尊と呼ばれる地が三角点の一角であり、そしてもう一ヵ所の三角点は③引佐町井伊谷に所在する八幡宮であるとが察知できる。なぜならば、滝峯不動尊と引佐町の八幡宮は、『魏志』倭人伝に記述される倭の使節が大海を往来したときの夏音文字の天文地理学と直接に関連する幾つかの天文地理学の秘密や井伊氏の氏神の秘密などが秘められているからである。このような三角点の一角となる引佐町の井伊谷に遠江国造の陵墓の大型古墳群が所在する。

 細江町の建比良鳥の地上絵内から出土した9口の銅鐸は近畿式・三遠式と分類され、260~290年ころに製作・使用されたと指摘される。ゆえに、近畿式・三遠式銅鐸の製作・使用年代からして、建比良鳥の地上絵は260~290年に作成されたと考えるべきことになる。
 『魏志』倭人伝は、280~289年に著作された。
 したがって、『魏志』倭人伝と建比良鳥の地上絵は同時代に作成された。

  『魏志』倭人伝は「天頂緯度測定を最も重視する夏音文字の学芸が倭には存在し、この夏音文字は【銀河各部の形状】を【文字】とし、倭女王の名は「卑弥呼」であり、卑弥呼は夏音文字の学芸に精通していた」と説明する。
  建比良鳥の地上絵の経緯度原点の都田川の河口の東岸は湿気がある低い「卑湿」の地であるので[卑]の字源を示し、中国の華北平原・と長江下流平原を洩れなく包みこむすなわち弥綸(びりん)する建比良鳥の地上絵の頭と両翼は[弥]の字源をあらわし、建比良鳥の地上絵の境界線と接する引佐町金指(かなさし)地区と三角点の一角となる八幡宮が所在する井伊谷の地図の形は[呼]の字源を表示する。
 このように、建比良鳥の地上絵は[卑][弥][呼]の3字の字源を示すようになっている。

  中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)上伝は漢字の起源とすべての漢字の字源を知ることができる基礎知識を下記のように記述する。
  「易は天地と準(なぞら)う。ゆえによく天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯して地理を察す」
  上記の文中にある「弥綸」は「洩れなく包みこみ、つくろいおさめる」と意味する。
  上記の文は――[易]の字源である「遠くの地や大海を旅する時に必ず家族が待つ家に帰ることができる術」においては天頂緯度=観測地点の緯度とする。ゆえに、この易の術にもとづいて、中国全土の緯度が洩れなく測量できる「十字の銀河」を羅針盤にすれば中国全土の道を旅することもできる。また、天頂に位置する「十字の銀河」を[倭]の字源に則(のっと)って90度転回して横にすると各地点の緯度の差が精密に測定できるので、中国全土(華北平原・長江下流平原)を洩れなく包みこみつくろいおさめる海岸線の形を正確に図化できる地宜(ちぎ・地の平面図)すなわち地図が作成できる。よって、仰いで天文を観れば、天上から俯して見下ろす地理が明らかになる――と説明するものとなる。

 上記の『易経』繋辞上伝の文中にある「弥綸」の[弥]の字源は「カンムリカイツブリ」である。というのも、「山東半島とその南北の海岸線」は「カンムリカイツブリの頭と両翼の形」に相似するからである。
 その中国の海岸線は南の長江口・杭州(こうしゅう)湾は、[弥]の字源・カンムリカイツブリの翼が綻(ほころ)びような形になっているが、その綻びをつくろいおさめるように繋がって杭州湾よりさらに南へ伸びる。
  カンムリカイツブリの翼の形が綻ぶ「杭州湾」は「鳰(にお)・カイツブリ」の姿に相似し、[呼]の字源となった。
 [弥]の字源「カンムリカイツブリ」と[呼]の字源「鳰」を表示する中国の海岸線は「人の横顔、虎の横顔」にも相似する。というのも「山東半島」を「人がかぶる笠や前に伸びる頭髪」に見立てると、「山東半島の付け根より南の海岸線」は「人の横顔または虎の横顔」に相似していると観えるからである。
 この「人の横顔、虎の横顔」から、「鳰」に見立てられた「杭州湾」は「人の口、虎の口」に相当することになった。
 鳰は水草の茎を支柱にして、水面に草の葉・茎などを集める浮巣を作る。この「鳰の浮巣の支柱」は「杭」と見立てると定められた。したがって、杭州湾に流れ込む「銭塘江(せんとうこう)の河口近くの川幅」は「鳰の浮巣を作る杭」に見立てられて、銭塘江河口近くの地は「杭の州」すなわち「杭州」と名づけられた。
 この結果、[呼]の字義は「息を外(は)くなり」であると定められ、銭塘江が上流から運んできた土砂を吐く湾は「杭州湾」と号されることになった。

 中国の華北平原・長江下流平原を弥綸する海岸線は湿気がある低い「卑湿」な地であるから[卑]の字源を示し、「山東半島と南北の海岸線」は[弥]の字源をあらわし、南の「杭州湾」は[呼]の字源を表示した。
  だから、この[卑][弥][呼]の3字の字源をあらわす中国の海岸線を大地に図化した細江町の建比良鳥の地上絵は、当然、[卑][弥][呼]の表示することになった。
 
前回〔5〕で解説したように、建比良鳥の地上絵の中国の海岸線地図は五帝時代初頭から夏代の帝益までの歴代王朝の天文地理士たちが天頂緯度測定して作成した正確な中国地図をあらわすものである。
  この五帝時代から夏代初頭まで、中国全土の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
 この天頂に位置するときの「十字の銀河」は少し西に傾いているが、子午線(経度軸)に沿って南北となる。この子午線に沿って南北に伸びる天頂の「十字の銀河」を90度直角になるように見上げると、各地点の緯度の差が明瞭になって地図作成するときに好都合となった。
  この「十字の銀河を横にして緯度の差を計測する方法」が[委]の字源となり字義の「ゆだねる」となり、また「十字の銀河」は「人の正面形や側身形」に相似するので[人]と[委]を組み合わさる[倭]の字が作られ、「十字の銀河が運行する方向(時計の針が進む方向)に方位を90度転回して〔東〕を〔南〕にする方位規定」は[倭]の字源を示すことになった。
  だから、建比良鳥の地上絵は[倭]の字源を表示する配置となる。
  つまり、華北平原・長江下流平原の〔東〕にある山東半島から杭州湾までの弥綸する海岸線を〔南〕に配置して、細江町の行政区域を示す地図を俯して見れば[倭]の字源が目で見えるようになっている。

  2世紀末に倭女王となった女性は、日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と東端の伊豆諸島の神津(こうづ)島が同緯度(北緯34度15分)であることに注目した。日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降る冷たい地であるのに対して、東端の神津島は亜熱帯地区で冬に雪が降らない暖かい地である。
  この沖ノ島・神津島の距離は沖ノ島とほぼ同緯度の中国の山東半島の付け根あたりから福建省の海岸沿いの東治までの距離(道里)とほぼ同じくらいである。北の山東半島は冷たい地であるのに対して、南の東治は暖かい地である。
  それゆえ、中国海岸線の北冷・南暖と道里がほぼ等しい日本列島の沖ノ島・神津島の西冷・東暖は符合するので、倭女王は〔日本列島の東端の神津島は中国の南の東治のほうへ伸びる、すなわち日本列島の東は南に伸びているにちがいない〕という、転回日本列島地理を立論した。
  このように、倭女王は[卑][弥][呼]の字源となる中国の海岸線地理から転回日本列島地理を立論したので、倭女王の名は「卑弥呼」となった。そして、卑弥呼が立論した「〔東〕を〔南〕に転化する方位規定」は[倭]の字源を示すものであるので、卑弥呼が統治する国は「倭」と号することになった。
 このような秘密は史実であったから、『魏志』倭人伝には「その道里を計るに、当(まさ)に、会稽(かいけい)の東治の東に在るべし」という記述がある。
 実際の東に伸びる日本列島は会稽と東治の東北に存在するので、『魏志』倭人伝の記述にたいして矛盾する。

 遠江国造の先祖の建比良鳥命が登場する『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話には、卑弥呼が立論した転回日本列島地理の西端の基点となる沖ノ島が登場する。沖ノ島には宗像(むなかた)大社の三柱の神のうちの奥津宮(おきつみや)が所在する。
  この宗像の三神の中津宮(なかつみや)は宗像市玄海町の神湊(こうのみなと)西北の海に浮かぶ大島に所在する。
 地図で調べてみれば納得するように、中津宮がある宗像の大島と、転回日本列島地理の東の基点となる伊豆諸島の神津島の形はそっくりである。しかし、互いに形が酷似する両島において、宗像の大島は狭くなる地の部分は東北を向き、伊豆諸島の神津島は狭くなる地は西南を向くので、両島の向きは180度正反対となる。
  『古事記』の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を否定して詛(のろ)い祟(たた)る政策をおこなう天照大御神に反対して、須佐之男命一派は暴動をおこした。この須佐之男命一派の暴動に呼応して、宗像王の天菩比命(あめのほひのみこと)の子すなわち天菩比命を頭領とする分子となる7人の建比良鳥命は、日本建国の〔愛〕の理念を夏音文字の学芸で後世に伝える運動をおこした――と説明する。
  だから、二神の誓約説話の末部に登場する遠江国造の先祖の建比良鳥命が作った大鳥の地上絵は、同緯度の沖ノ島と伊豆諸島の神津島の西冷・東暖と中国の北冷・南暖を合致させて卑弥呼が転回日本地理を立論したと伝えるものとなった。というのも、中国の海岸線は中国全土の〔東〕にあるが、細江町の大鳥の地上絵における中国の海岸線の部分は〔東〕ではなく〔南〕に配置して、[倭]の字源「〔東〕を90度転回させて〔南〕とする方位規定」を示しているからである。
 二神の誓約説話は――卑弥呼の後に生存した天照大御神は卑弥呼が立論した転回日本列島地理を利用して、当時、天頂を通過した「天(あめ)の真名井(まない)」すなわち北が正方形の井桁に観え南の二連菱形形が釣瓶(つるべ)に観える「長方形の暗黒天体部」周辺の形状はじめ夏の銀河の西南部の形状にもとづき、須佐之男神の暴動は偉大な五柱の先祖神の歴史に則って考えると誤っていると説き伏せた――と説明するものと考えられる。

 前回〔5〕で詳細に解説したように、引佐町井伊谷に居住して大鳥の地上絵が滅びないように守っていた建比良鳥命の子孫は、1010年に武家の井伊氏を起源させた。
 16世紀末、井伊家24代頭首の直政(なおまさ)と家臣たちは、徳川軍最強の軍団と敵から恐れられた“井伊の赤備(あかぞな)え”となって戦場を疾駆(しっく)し、井伊氏一団の欲求と徳川家康が胸に秘める一生の願望である夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を達成するために勇猛果敢に戦った。
  譜代大名筆頭の地位についた井伊氏は家康の命令で引佐町井伊谷を引き払い、1601年に近江の現在の彦根市に移住して彦根藩主となった。
 というのも、近江国中央にある琵琶湖の別称は「鳰の海」であり、琵琶湖は[呼]の字源地宜となる「杭州湾」に類似すると見立てられたからである。その証拠に、『魏志』倭人伝は〔琵琶湖を周囲する地の近江(滋賀県)〕の小国名は[呼]の字を配する「呼邑(こお)国」であったと記す。
 彦根市の南限となる愛知川(えちがわ)河口より北側の鳰の海(琵琶湖)の東岸は〔夏至の日の出の方向〕を指さす。この〔夏至の日の出の方角で〕は「夏音文字の学芸」を表現するものとなる。ゆえに、家康は[呼]の字源の〔鳰〕の形となる引佐町の金指・井伊谷に居住する建比良鳥の地上絵の守り番である直政と井伊氏家臣に、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興する事業を着手させるために彦根への移住を命じたのである。

 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には「702年に派遣された日本の遣唐使が『後稍(のちやや)夏音を習う』と中国王朝に告げた」という記述がある。この記事を注目して、彦根の都市作りは「夏音は習わず(未だ夏音文字の学芸は復興せず)」と表現される、3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵となった。
  彦根市の〔東の境界線〕は〔鳥の羽の付け根〕となる。彦根市の西端となる夏至の日の出の方向を指す〔鳰の海の東岸〕は〔鳰の白い腹面〕に相当する。したがって、[羽]の下に[白]が加わる字は[習]となり、羽の部分が無いからして3千万坪の面積に作られた彦根は「夏音は習わず」と表現された大鳥の地上絵ということになる。
 このような3千万坪の巨大な「夏音は習わず」と表現する鳥の地上絵は天の北極の高度で緯度換算する方法では制作することはできない。というのも、天の北極の高度で緯度換算すると不精確であるゆえ、経緯度原点を設置できないので3千万坪の大鳥の地上絵は絶対に制作することはできない。
 いっぽう天頂緯度を測定して経緯度原点を決めて、三角点を設置すれば「夏音は習わず」という3千万坪の羽の無い地上絵を図化することができる。
 
 1千万坪の細江町と3千万坪の彦根の大鳥の地上絵は卑弥呼が精通していた夏音文字の学芸が最も重視した〔精密な天頂緯度の測定〕によって経緯度原点を設定しなければ絶対に作成することが不可能となる。
 だから、邪馬台国説学者たちの「『魏志』倭人伝に記述される転回日本列島地理は著者・陳寿(ちんじゅ)の誤記によるもの」という主張は〔誤読の空論〕であったことになる。
 邪馬台国説学者たちは「日本列島に居住する卑弥呼はじめ小国の王たちが天の北極を重視して日本列島は東に伸びると認識しいたにちがいない」と思い込むが、もしも倭において天の北極が最も重視するようになったしたならば、天の北極で緯度を測量すると大海を往来できなくなるために魏と帯方郡と倭の使節は国交を結ぶことができなくなるので、約2000字の『魏志』倭人伝のすべての文字は1字もこの世に存在してはいけないことになる。このように矛盾きわまりない現実には絶対にありえない奇怪な事体となるので、邪馬台国学説が荒唐無稽(こうとうむけい)の妄想であることは決定的となる。

 1608年、家康は駿府作事奉行の30歳の小堀正一に従五位下遠江守に任命し、細江町の建比良鳥の地上絵の研究を命じた。正一は以後「遠州」と号する。
  1616年、家康が死去する。
  翌1617年、江戸幕府は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興の願望を家康の遺志と定め、歴代将軍が実現しなければならない宿題になった。ゆえに、幕府は建比良鳥の地上絵を研究する小堀遠州を河内国奉行に任命し、天頂緯度を測定した大海を往来した遣唐使船の航海方法を研究させた。
  1622年、3千万坪の彦根の羽の無い大鳥の地上絵が完成すると、幕府は小堀遠州を近江国奉行に任命し、遠州に彦根の大鳥の地上絵を見学させて夏音文字の学芸知識を深めさせた。
 翌1623年、幕府は遠州に京都の伏見奉行に命じた。以後没するまで、遠州の主たる任務は、歴代将軍の宿題となった夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興させるために必要な施設を作ることになった。この施設が桂離宮の庭園であったのである。
  1645年、67歳となった遠州は細江町の建比良鳥の地上絵を中核にして設計した桂離宮の庭園作りに情熱を傾けたが、病に倒れ床に伏した。
  1647年2月6日、遠州は伏見奉行屋敷にて死去した。享年69歳であった。30歳のときに、細江町の建比良鳥の地上絵に出会ってから病床に伏すまでの38年間、遠州は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興に人生をささげ、23年間桂離宮の庭園作りの任務を全うした。

  遠州が作った桂離宮の庭園池の中央の池は、大きな面積を占めて〔夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を皇室に願い奉る家康と歴代将軍が土下座する姿〕を彷彿(ほうふつ)させる設計となっている。
  桂離宮の庭園池の東岸は夏の銀河全像の形に設計される。
 庭園池の西岸は卑弥呼が転回日本列島地理を立論した基になった中国の海岸線の形に設計された。この西岸は、中国の海岸線の形に相似する「人の横顔に酷似する銀河」の形にも設計されていることになる。
 池の西岸には庭園の中心的な建物の「御殿」が一段と高い地所に造営され「皇室」に見立てられるようになっている。この「御殿」に向かって〔家康と歴代将軍の姓「松平」をあらわす松の木が倒れる形になって土下座〕が連想される形の池が配置される。
  1738年、霊元(れいげん)上皇は本格的に大嘗会(だいじょうえ)を復興して、桂離宮の庭園に表示された〔家康と歴代将軍が土下座して願い奉る願望〕を受け入れた。
 この1738年は、家康の死から122年後、小堀遠州の死から91年後であった。

  1738年当時の桂離宮の所有者の第7代の家仁(いえひと)親王は、霊元上皇の孫であった。
  歴代将軍や幕府は強大な権勢をもって威圧せず、皇室に額(ひたい)を地面にこすりつけて平伏してひたすら願う、桂離宮のど真ん中の大きな面積を占める「家康はじめ歴代将軍と幕府が土下座する池の設計」を霊元上皇は観て、天子である以前に一人の人間に立ちかえって重大な決意した。
 家康はじめ歴代将軍と幕府の願望を受け入れて夏音文字の学芸を復興すると、『古事記』上巻の〔音〕という1字1音の夏音文字の秘密が明らかになり、さらに夏音文字だけでなくその他の万葉仮名や『日本書紀』の楷書を含める【すべての文字】が【銀河各部の形状】であることが解明される。これによって、『古事記』と『日本書紀』の日本神話に記述される皇祖・天照大御神が残忍な徇葬を決行し、天照大御神が伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を詛(のろ)い祟(たた)った歴史が明るみになって皇室は国民に憎悪されて滅亡する事態になりかねない。しかし、皇室の滅亡をも覚悟して、上皇は桂離宮の庭園に表示された家康はじめ歴代将軍と幕府の願望を受け入れた。
  上皇は本格的に大嘗会を復興して、即位する天皇の頭上に差し上げる王冠の上の飾りは「夏音文字の学芸」をあらわす〔細江町の建比良鳥〕、王冠の下の飾りは「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわす〔菅笠(すげかさ)〕の意匠とした。

 桂離宮の庭園における夏の銀河全像の形に作られる東岸の一角は、遠州が38年間もつきあった細江町の建比良鳥の地上絵の羽の無い庭園部となる。
  この建比良鳥の庭園部は天頂にめぐってくる銀河が昇る御殿の東北、家康と歴代将軍と幕府が土下座する池の北側にある。この庭園部から、天皇の王冠・菅蓋(かんがい)の上の意匠が定められた。
 この建比良鳥の羽の無い形の庭園部の頭部は、二つの橋で結ばれて三つの築島(つきしま)に分かれる。この築島のうち、一つ目から二つ目の築島は東へ伸び、二つ目から三つ目の築島は南にのびて、卑弥呼が立論した南へ伸びる転回日本列島地理、あるいは[倭]の字源「〔東〕を90度転回して〔南〕に転位する方位規定」をあらわすものとなる。

 夏の銀河全像の形に作られる東側は約230mも生垣がつづき、旧丹波街道から枝分かれする桂川の土手づたいの道と桂離宮との境界線となる。この生垣は“桂の笹垣”と呼ばれて有名であり、庭園の竹藪の小竹を折り曲げて編み、その竹の葉が壁となって美しい生垣となる。
  『魏志』倭人伝の末部に小国・日本の女王・壱与の夫である軍王(いくさのおおきみ)であった載斯烏越(そしあお)が登場する。白川静著『字統』が指摘するように[載]の本義は「軍行が開始される」であると考えられるので、載斯烏越は[開]の字が付く第9代開化天皇であったと推断できる。
  『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。この天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)と結婚した。また継母(開化天皇の父である孝元天皇の妻)の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚されて生まれた子が崇神(すじん)天皇である」と記述する。
  『魏志』倭人伝において載斯烏越が登場する記事の年号の魏の正始(せいし)8年は西暦247年である。天照大御神と崇神天皇は250年ころに生存していたとされる。ゆえに、崇神天皇の生母にして開化天皇の継母にして第二后の伊迦賀色許売命が天照大御神であったことになる。
 当時は、夏音文字の学芸が最も強力な政権基盤であった。ゆえに、大和の地の王権は倭国を統治するために“夏音文字の学芸に最も精通している”と表明して「夏」が即座に連想できる「天照大御神」という名を用いたと考えられる。
  開化天皇が居住した宮殿名の「伊耶河宮」と「伊耶那美命」と「伊耶那美命」の三者の先頭2字は「伊耶」で一致する。
  開化天皇の正妃の竹野比売が育った「丹波」は『魏志』倭人伝に記述される「伊耶(いや)国」である。「伊耶国出身の美しい女王」を略称は「伊耶那美命」となる。
   正始8年(247)に生存していた倭女王・壱与は13歳の時に小国・日本の女王となった伊耶那美命だったのである。夏音文字においては【銀河各部の形状】を【文字】であったので銀河を観て[伊]と[耶(邪)]の字源をつきとめると、「伊耶」は「霧深い山里の地」となる。「丹波」(現在の京都府中部と兵庫県の一部)は“霧の丹波”と呼ばれ、霧が深い標高600m前後の山々が連綿とつづく地である。だから、開化天皇の正妃、丹波・伊耶国出身の竹野比売は伊耶那美命・壱与であったことになる。

  遠州は伊耶那美命の出身地である丹波へと続く丹波街道から枝分かれる桂川の土手づたいの道と遮断する生垣を〔竹の葉を壁とする美しい生垣〕で「竹野比売・伊耶那美命・壱与」をあらわした。
 伊耶那美命は那智の大滝の精霊となり、高さ130mもある日本最高の落差がある那智の飛瀑(ひばく)は丹波の霧のごとき水飛沫を放ちて滝壺に落下する。那智の大滝の正面に据えられる神具の一つに水器(すいき)がある。この水器は家々の神棚に置かれる。水器の蓋(ふた)は乳房の形となり、蓋の突起部分は乳首の形となり、水を入れる容器は妊娠した女性の腹部の形に相似する。また水器の容器と蓋と相一体となって乳房の形に作られている。水器に入れられる水は羊水いをあらわすものであるから、水器は女性の子宮をあらわす。
  ゆえに、水器は日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命・竹野比売・壱与を象徴する神具であった。
  桂離宮の〔家康と歴代将軍と幕府が土下座する池〕の西北は、中門がある〔菅笠〕の形に観える三角形の庭園となる。
 この〔菅笠〕の庭園部は〔水器の蓋の側面形〕にも相似する。
  ゆえに、天皇の王冠の下の〔菅笠〕は〔伊耶那美命〕を象徴する〔水器の蓋〕をあらわし、「日本建国の〔愛〕の理念」を示すことになり、天皇の王冠の名称は〔水器の蓋〕を示すために「菅蓋」と名づけられたにちがいない。

 1738年に本格的に復興された「大嘗会」は「大嘗祭」ともいう。
  新村出編『広辞苑』(岩波書店)は「大嘗祭」を下記のごとく説明する。
  「天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇を祀る大礼で、神事の最大のもの。祭場を二ヵ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神饌の初穂をあらかじめ卜定した国郡から奉らせ、当日、天皇は先ず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。」
  上記が示すように、「悠紀」を「ゆうき」と読める2字を1字1音で「ゆき」、「主基」を「しゅき」と読める2字を1字1音で「すき」と読むのは、『古事記』上巻の〔音〕という注が付く1字1音読みの夏音文字を示すものである。その証拠に、〔東〕を〔左〕・〔西〕を〔右〕とする形式は星座盤や天文図の定式であり、【銀河の各部の形状】を【文字】とする夏音文字はじめ甲骨文字・金文・篆文・隷書そして今日の日本の当用漢字・中国の簡略字の字形の定式である。天の北極を北とする地理の一般形式だと、〔東〕が〔右〕・〔西〕が〔左〕となる。
  桂離宮の庭園において表門に立つと、笹垣・夏の銀河全像・羽の無い建比良鳥の庭園部がある〔東〕が〔左〕、中国の海岸線に設計する庭園・御殿・菅笠の形の庭園部がある〔西〕が〔右〕となる。
  表門を南に進み御幸門(みゆきもん)から御幸道に入り、御幸道の途中から建比良鳥の庭園部に入ると「悠紀殿」に相当する「夏の銀河全像」の庭園部において〔海辺の景〕と〔山路の景〕と呼ばれるコースを進むことになり、池に浮かぶ最大の島である大山島へ渡り、さらに梅の馬場に至る大山島の西端の橋を渡ると、「主基殿」に相当する「中国の海岸線に設計する庭園」に至って、中門から菅笠の庭園に出て御幸道に至り御幸門に戻ることができる。

  このような桂離宮の廻遊路(かいゆうろ)の状況は、天皇が大嘗会において悠紀殿・廻立殿(かいりゅうでん)・主基殿で行う神事をあらわすものとなる。
 池の南に浮かぶ〔大山島(大中島)〕に建てられる賞花亭のあたりは庭園で〔最も高い場所〕であるので〔天頂〕をあらわす役目がある。
  これゆえ、〔大山島〕は三皇時代から秦の始皇帝の時代まで中国と日本列島の天頂を通過した「十字の銀河」に見立てられ、また〔大山島〕は卑弥呼・壱与が生存した3世紀に天頂にめぐってきた「長方形の暗黒天体部」に見立てるようになっている。さらに、〔大山島〕は遣唐使船やその後の河内国はじめ全国の船乗りの天頂緯度測定の物差し(羅針盤)となった小さな星たちが漬かる「コールサック」の形にも相似するように設計されている。
  「家康と歴代将軍が土下座する池」の「松の木」のうちの葉冠部に設計される池の中央に〔中島(神仙島)〕〕が浮かぶ。この〔中島〕は〔桂離宮の庭園が作られた17世紀前半の天頂にめぐってきたコールサックの部位〕を示す。現在と17世紀前半期の天頂はほぼ同じであるので〔中島の東側の築島〕は〔現在の桂離宮の天頂となるコールサックの部位〕をあらわすものとなる。というのも、現在の桂離宮の天頂に白鳥座の中央部が漬かる「人の横顔の酷似する銀河の目の部分」が廻ってくるので、この〔目の部分〕は〔中島の東側に築島〕が相当するからである。

  悠紀殿と主基殿は東と西に離れる分かれて建てられる。この悠紀殿と主基殿の中央の北側に北面神門、さらに北側に廻立殿がある。
  前述したように、大嘗会における廻立殿・悠紀殿・主基殿で天皇が行う儀式は桂離宮の廻遊路の状況をあらわしているものである。この秘密は、大嘗会の建物の配置と桂離宮の配置と比較して、天皇の王冠の下を天皇が悠紀殿に参進するときの様子を注目すると明らかとなる。
 桂離宮の北端の〔表門〕が〔廻立殿〕に相当する。桂離宮の〔御幸門〕は〔北面神門〕に相当する。桂離宮の〔御幸道から建比良鳥の庭園への苑路〕は〔北面神門から悠紀殿とをつなぐ廊下・御筵道(ごえんどう)〕に相当する。
 このように、天皇の王冠の意匠となった〔御幸道から建比良鳥の庭園への苑路〕は天皇の頭上に王冠が差し上げられて参進する〔北面神門から悠紀殿をつなぐ廊下・御筵道〕に相当する。

 この御筵道を、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念をあらわす王冠を棒持の一人の侍従が高くさし上げて天皇の後ろに従い、二条の細い綱を執(と)る二人の侍従が天皇の左右に従って進む。
  この〔王冠・天皇・王冠・棒持・綱執りの参進儀式〕は「長方形の暗黒天体部」が字源となる[命]の字を演出する。
 [命]の楷書形の上部の[亼(しゅう)]、下部の[口]と[卩(せつ)]で構成される。
  側面形が三角形となる「王冠(菅笠)」と「王冠を差し上げる棒」が[亼]、「王冠の真下の空間や天皇左右の綱」が「長方形の暗黒天体部の辺」をあらわして[口]の字部となり「産道」を表示する。「天皇(天子)」が[命]のうちの[卩]となり「胎児(子)」をあらわすことになる。
  このように、天皇の頭上に菅蓋を差し上げて進む天皇の姿は[命]の字源を示して、多くの青年と乙女たちの命を犠牲にした国家儀式の徇葬を否定して憎悪した日本建国の〔愛〕の理念をあらわすものとなる。

  悠紀殿・主基殿および廻立殿、これらに付属する建物、それらをつなぐ廊下は、木の皮をつけたままのいわゆる黒木(くろき)造りで、柱は皮付の櫟(いちひ)を用い、天井と壁および扉は近江表(おうみおもて)を張り、床は竹をもって組み、その上に筵(むしろ)および近江表を重ねて敷く。
 このように天井・壁・扉・床などに使用される「近江表」は「近江八幡市で作られた畳(たたみ)表」のことである。近江表は備後表に次ぐ品質であるとされた。
  彦根の3千万坪の羽の付け根となる東のグニョグニョと曲がて蛇行する境界線上において、彦根市と多賀町の境界となる名神高速道路と国道307号線が立体交差するあたりから彦根市・多賀町・甲良(こうら)町の境が交わる地点までの境界線の形は、近江八幡市の宮ヶ浜から日野川の河口までの琵琶湖の湖岸の形に合致する。
  彦根市・多賀町・甲良町の境が交わる地点から彦根市・能登川(のとがわ)町・愛知川町の境が交わる愛知川までの境界線の形は遠江の浜名湖北岸の三ヶ日町の大崎半島先端付近から細江町の都田川の河口までの湖岸の形に合致する。
  このように、彦根市の羽の付け根となる東の蛇行する境界線は複雑に琵琶湖と浜名湖の湖岸の複雑な形を1本の線にして連結するものであるが、近江八幡市の宮ヶ浜から日野川河口までの湖岸の南は近江表の産地となる。
  ゆえに、大嘗会の建物や廊下の天井や壁や扉などに使われる近江表は、「夏音は習わず」と設計した彦根の大鳥の地上絵の秘密と密接に関係すると示すために用いることにしたものであるにちがいない。

  大嘗会においてその年の新穀を天皇が献じて天照大神や天神地祇を祀り、5月下旬には天皇陛下は皇居の田で田植えをおこない、10月には稲刈りして神事に使う米を作ることから、大嘗会は農耕儀礼であると指摘する学者もいる。
  しかし、天皇の王冠の意匠と御筵道を参進する天皇の様子が明確に表示するように、大嘗会は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興する祭儀だったのである。
  大嘗会において天皇が新穀を奉ずるのは夏音文字の学芸によって二分二至(春分・夏至・秋分・冬至)を正しく示す暦を作ることができ、この暦によって豊かな収穫にめぐまれたことを天神地祇に報告し感謝して奉ずるものであったのである。
  以上からして大嘗会は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興するための祭儀であるからして、夏音文字の学芸が最も重視した天頂緯度の測定を注目すると、❶邪馬台国学説は正真正銘の誤読の空論となる。また、『古事記』上巻は日本建国の〔愛〕の理念が提唱され重視された歴史を伝えるものであるゆえ、❷日本神話虚構説は荒唐無稽の妄想となる。さらに、今から約4050年前に夏音文字の学芸が日本列島に伝来したことが科学的に証明できるので、❸漢字習得の定説もまた西洋近代科学を絶対視する学者たちが傲慢な単純化を用いてねつ造した妄想であったことになる。
  大嘗会においては、日本人の最も深い心と魂へと帰属できる歴史・学芸・真理をあらわす王冠を天皇の頭上よりも高く差し上げる。
  学者たちは誤読をひけらかして天皇の王冠の意匠となった日本民族にとって最も重大な歴史・学芸・真理を排除して廃棄する。
 このために、日本人は魂や命の根元となる立ち位置に足を踏ん張って生きてゆきたくても生きてゆけないことになった。
 だから、西欧近代科学を絶対視して文献批判をひけらかす学者たちの意見は日本民族を虐殺するものとなる。

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