邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・5
前回〔4〕でも詳細に解説したように、❶邪馬台国学説はじめ、❷日本神話虚構説と❸漢字は5、6世紀に始めてわが国が習得したという定説は〔誤読〕の産物で科学的根拠・理由はまったく有さない妄想であり出鱈目(でたらめ)である。
この日本古代史学の3大妄想は、〔文献批判〕をもって確立された。
❶の邪馬台国学説の場合、『魏志』倭人伝の全記事で最も重要な記述は「①倭には文字があった。この文字は殷(いん)代の甲骨文字の卜辞に相似する夏音文字である。人名・小国名・官職名に用いられる、この夏音文字は後期縄文時代初頭・夏代初頭にわが国に伝来した。夏音文字は【銀河各部の形状】を【文字】とし、夏音文字の学芸では〔精密な天頂緯度の測定〕を最も重視した。②この精密な天頂緯度測定を最も重視する夏音文字の学芸の天文地理学にもとづき、倭女王・卑弥呼は日本列島は東に伸びずに南に伸びる転回日本列島地理を立論した。③天の北極の高度で緯度換算すると不正確になるので、大海に入るやいなや緯度(位置)と子午線(方位)が不明となって漂流し飢え餓(かつ)えて落命するので帰らぬ人となった。中国では紀元前1世紀に天の北極を基軸として構築するシナ天文学が完成したため、従来の[易]の字源・本義となった〔遠くの地や大海を旅しても家族が待つ家に帰ってくることができる、精密に天頂緯度を測定する術〕が廃(すた)れた。これゆえ、3世紀においては魏と朝鮮半島にある魏の出張政庁の帯方郡(たいほうぐん)の使節は大海を渡ることができなくなった。しかし、倭では[易]の字源・本義の〔精密に天頂緯度の測定する術〕は卑弥呼王朝の最も強力な権力基盤であり、人々が権力と富と知性と名誉と地位を得る最も強力な手段であったので栄えていた。ゆえに、倭の使節は大海を渡って帯方郡や魏の都まで訪問していた。」という、3種類に分けることができる。
新井白石以来今日まで学者たちは〔文献批判〕をひけらかして、上記の「①倭には殷代の甲骨文字のような卜辞に用いる文字があった。②日本列島は東に伸びずに南に伸びる」と証言する記事は誤っていると絶対に信用してはならないと定めている。
しかし、③のなぜ倭の使節は大海を渡ることができたのか、この問題に着目すれば〔文献批判〕は〔誤読〕と同義であり、邪馬台国学説は〔誤読の空理空論・妄想〕であると気がつくことができた。
というのも、魏と帯方郡の使節は大海を渡れないので、倭の使節も天の北極を重視して大海を渡ることができなかったならば、約2000字で構成される『魏志』倭人伝の全文字は煙や蒸気のごとく1字も残らず消えてしまうからである。
だから、〔天の北極の高度を緯度換算する方法では大海は絶対に往来できない。ではどのような方法ならば、大海にで緯度と子午線を精密に測定できて往来することができるのか〕と、この問題を集中して論議すれば、「天の北極によって〔東〕と〔南〕は識別できたはずだから、『魏志』倭人伝の転回日本列島地理は著者・陳寿(ちんじゅ)の誤記であった」と主張する邪馬台国学説は絶対に〔誤読の空理空論〕であると確信できる。
だから、②の転回日本列島地理は①の倭では夏音文字の学芸が栄えていた秘密と直接的にむすびつくので、②の記述を否定した〔文献批判〕の正体もまた〔誤読〕であったことが明確となる。
邪馬台国学説に用いられた〔文献批判〕の正体が紛(まぎ)れもなく〔誤読〕であることは、『魏志』倭人伝と同時代の3世紀後半に作られた静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵によって白日のもとにさらされる。
おどろくべきことに、この1千万坪の大鳥の地上絵の東半分は、今から約5000年前の五帝時代初頭から約4050年前の夏代初頭までの歴代王朝が天頂緯度測定して調査して作成した中国の海岸線とこの海岸線が洩れなく包みこむ平原部(華北平原・長江下流平原)の地図の形になっている。
1千万坪の細江町の大鳥の全長は8.5km、翼長は9kmもある。地上絵で有名な世界遺産のナスカの地上絵で最大の鳥の地上絵の全長は約300m、翼長は約90mである。細江町の大鳥の地上絵を8.5cm・翼を9cmに縮小する倍率でナスカの最大の鳥の地上絵を縮小すると全長は3mm・翼は0.9mmしかならない。
ナスカの地上絵と比較すると一目瞭然(いちもくりょうぜん)、あまりにも巨大である1千万坪の細江町の地上絵を作成するには天の北極の高度で経緯度原点を設定できないので、残る方法はたった一つ現在の国土地理院が地図を作成すると同じく天頂緯度を測定して経緯度原点を設置するしか手立てがないこととなる。
現在の国土地理院がおこなう地図作製方法と同じ原理で作成すれば、中国の海岸線と平原部の形を図化し、しかもちょうど1千万坪の面積に作る細江町の大鳥の地上絵を作成することができる。
国土地理院の日本地図作製方法は、最初に天頂緯度を測定して緯度と子午線を求めて日本経緯度原点地(旧東京天文台の子午儀の中心)を設定する。この日本経緯度原点地を基準に三角形の網や鎖を作って、三角点を設置して、地球上の位置を決定する。日本地図と各地域の地図はこの三角点そのほかの基準点を基にして図化作成される。
頭部と両翼をあらわす境界線を中国の海岸線の地図の形に作り、ちょうど面積を1千万坪にするには、現在の国土地理院の日本地図作成方法と同じく、緯度と子午線を精密に表示する経緯度原点を設定するために精密に天頂緯度を測定できなければならない。
これゆえ、細江町の大鳥の地上絵は精密に天頂緯度測定して緯度と子午線を求めた経緯度原点地が存在する。この経緯度原点地は、細江町の中央を東から西へ流れる都田(みやこだ)川河口の東岸である。この①経緯度原点地と同緯度の東の②滝峯不動尊という地点と③引佐(いなさ)町八幡宮が三角点となる。
このように、1千万坪の細江町の大鳥の地上絵には、現在の国土地理院の地図作成方法と共通する精密な天頂緯度測定によって求められた経緯度原点地と三角土地測量の痕跡が現在も明確に残っている。
この1千万坪の細江町の大鳥の地上絵は、その東半分が〔中国海岸線と平原部をあらわすの地図の形〕になっており、さらに『魏志』倭人伝がの幾つかの記述で「日本列島は東に伸びず、南に伸びていた」と説明する[倭]の字源・本義を表示するものとなる。
この[倭]の字源と本義は「天頂にめぐってきた[禾(いね)]に見立てられた[十字の銀河〕を90度横に倒すようにして、時計の針が進む方向に90度転回して〔東〕が〔南〕となる」であった。このように、『魏志』倭人伝が説明する東に伸びずに南に伸びる日本列島地理は[倭]の字源・本義を示すものである。だから、卑弥呼が統治した国名は「倭」となった。
したがって、『説文解字』も白川静著『字統』も知らない[倭]の字源・本義が『魏志』倭人伝に記述されているのは、わが国に夏音文字が伝来していたからにほかならない。
氷河時代、日々食料となる獲物を求めて氷と雪の平原を移動していた旧石器人の一団は、自分たちの移動している土地の位置と方角を常に知っていなければなななかった。というのも位置と方角が不明になると、北極や南極の冒険家たちが迷ったことを感じた瞬間に“死ぬ!”と予感するように、旧石器人も“死ぬ!”と感じてパニック状態になり一団はヒステリック状態になって発狂して全滅するような事態となるからである。この破滅をふせぐために、一団の長や魔術師や目利きが常に天頂緯度を測定して位置と方角を示して“自分たちは絶対に迷っていない”と意識して、旧石器人たちは移動していたことになる。
ゆえに、もしも旧石器人たちが天空から見下ろした大地の平面的な形を知りたくなって、彼らの研ぎ澄まされた眼力で精密に天頂緯度を測定して経緯度原点地と三角点を定め、ほかの基準点も定めれば正確な地図はできたことになる。しかし、氷河時代は食料となる獲物を求めて移住していなければ一団は死滅したので、旧石器人には何年間も定住することができなかったので正確な地図を作成することができなかった。
しかし、新石器時代において何年間も調査できる組織つまり多数の氏族が共同体制を組織する王朝が組織され、この王朝が正確な地図を何百年かけても作成しようという決意が受け継がれるならば、この事業は達成することができた。
司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝軍は長江(揚子江)まで遠征した」と記載する。正確な地図は軍が最も必用とする。だから、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代から約4050年前の夏代初頭までの約950年間、歴代王朝は中国の海岸線と平原部(華北平原・長江下流平原)の地図作成事業を推し進めた。
五帝時代の四番目の帝堯(ぎょう)の時代に挙用された益氏は最後の帝舜(しゅん)の時代に「虞(ぐ)」という重職についた。この「虞」という官職は「山林と川や沢をつかさどる官」と言われるが、中国の海岸線の形は〔虎〕の横顔に類似するので[虎]の下に[呉]が加わる「虞」という官は「中国の海岸線地図を作成する官」であったと考えられる。
中国の海岸線は土地が低く湿気がある地域すなわち卑湿(ひしつ)な地域である。[卑]と[俾]の金文形は同一形で、『説文解字』は[俾]の字源を「益なり」と解説する。ゆえに、[俾]=[卑]の字源は「益なり」となるので、周代の金文、殷代の甲骨文字、夏音文字において[卑]の字源は「益なり」であったことになる。ということは、「虞」の官をつかさどった益氏は〔卑湿な中国海岸線を調査して地図作成する官〕についていたから、[卑]の字源は「益なり」となったにちがいない。
『史記』夏本紀は「夏の始祖・帝禹(う)は準(みずもり・水平を計る道具)と縄(すみなわ・直線をはかる道具)を左手に、規(ぶんまわし・コンパス)と矩(さしがね・角度を測る道具)を右手にもって、春分・夏至・秋分・冬至の四時がかなうように作業をすすめた」と記述する。
ゆえに、帝禹は天文測量、そして地図作成の事業も熱心であったにちがいない。
この帝禹を補佐した益氏は帝舜の時代以来、およそ250年間ぐらい地図作成の官職に従事していた。
ゆえに、帝禹と補佐役の益はともに地図作成に熱心であったので理解しあい熱い友情で結ばれていたと考えられる。帝禹は五帝時代以来の国家を作らず氏族共同体制の継続を強く願った。しかし、禹の息子の啓(けい)は国家を作って禹の家長が代々帝王となる世襲王朝国家体制を欲求した。ゆえに、帝禹は益に帝位をあたえ、益に氏族共同体制の継続をたくした。しかし、禹の三年の喪が終わると諸侯が啓のもとに入朝したので、帝益は箕山(きざん)の南の地に隠棲(いんせい)した。そして、帝益は益氏の滅亡を覚悟して孫の王子と若者たちに新天地・日本列島に移住させて、禹の遺志である氏族共同体制をなんとしても受け継ぐ決意をした。
だから、わが国には後期縄文時代初頭から氏族共同体制が始まった痕跡が残り、2世紀末に卑弥呼が出現するまで国家が創設されなかったのである。
そして、中国王朝が950年費やして作成された中国海岸線と平原部の形を図化した地図を設計する細江町の大鳥の地上絵が作成されることになったのである。
このような歴史があったので、『史記』陳杞世家(ちんきせいか)には「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」という記述がある。
益氏を受け継ぐ王子と若者たちは帝禹の遺志を受け継ぐために、日本列島に移住した。将来をささえる若者たちが居なくなった老人や女子たちが残った益氏は以後栄えることができず、おそらく滅亡したのではあるまいか。
『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の二神の誓約(うけい)説話の末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」という人物が登場する。この建比良鳥命が、夏音文字の学芸と天照大御神が憎悪・敵視して呪(のろ)い抹殺せんとして日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために、1千万坪の大鳥の地上絵を作成した。
ゆえに、わたくしは1千万坪の大鳥の地上絵を「建比良鳥の地宜(ちぎ)」または「建比良鳥の地上絵」と呼称する。
「建比良鳥の地宜」の「地宜」は「平面的に図化された地図の形」、すなわち「大地に描いた境界線を表示する地上絵(地図の形)」である。
『古事記』の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を崇拝する須佐之男命は、天照大御神の日本建国の〔愛〕の理念を否定する政策を批判して暴動運動をおこした。この須佐之男命の暴動運動に呼応して、九州筑紫の宗像(むなかた)王・天菩比命(あめのほひのみこと)を頭領にして、①出雲国造、②无耶志(むざしの)国造、③上菟上(かみつうなかみの)国造、④下菟上(しもつうなかみの)国造、⑤伊自牟(いじむの)国造、⑥津島県直(つしまのあがたのあたい)、⑦遠江国造たちの先祖となる7人の建比良鳥命が夏音文字の学芸をもって日本建国の〔愛〕の理念を後世に残す学術運動をおこなった――と記述する。
この7人の建比良鳥命のうち、最後の遠江国造の先祖の建比良鳥命が天照大御神の政策を批判しておこなった学術運動を伝える形跡が、今日まで残った1千万坪の大鳥の地上絵である。
遺跡・出土史料からして奈良県大和地方に天照大御神王朝が出現したのは、早くて西暦250年ころと考えられている。
細江町の北隣の引佐町井伊谷(いいのや)盆地東部の丘陵上に大型古墳が築造される。このうち、最古の前方後方墳・北岡大塚古墳は350年ころのものとされる。この大型古墳の被葬者は遠江国造であったにちがいない。
そうすると、遠江国造の先祖の建比良鳥命は、天照大御神が出現した250~300年ころに生存していたことになる。
現在まで、建比良鳥の地上絵内(宜細江町内)から7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸が出土している。この銅鐸は、実際に模造鐸を作って調査すると、精密に天頂緯度が測定できる構造になっている。細江町内から出土した銅鐸は近畿・三遠式銅鐸と分類される。この近畿・三遠式の製作と使用年代は260~290年ころと指摘される。ゆえに、建比良鳥命は大鳥の地上絵を260~290年ころに作成したことになる。
『魏志』倭人伝は晋(しん)の太康年間(280~289年)に著作された。
だから、『魏志』倭人伝と建比良鳥の地上絵は同年代に作成されたことになる。
『古事記』の上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問説話は、伊耶那美命の墓を築造するときに多数の青年と乙女を殺す残虐な徇葬(じゅんそう)儀式を決行した「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那岐命」と記した。
このような表記ならば、現在の学者たちが「黄泉国の伊耶那美命」を「伊耶那美命」と解釈して「天照大御神」と理解しないように、元明天皇は後世の人々が「黄泉国の伊耶那美命」を「伊耶那美命」と理解するにちがいと賛成して、『古事記』献呈を承認して正史にするであろうと編纂スタッフは企んだ。しかし、元明天皇は「黄泉国の伊耶那美命」と記しても後世の歴史家たちは、その正体を「天照大御神」と見破るにちがいないと怒り、皇祖・天照大御神の聖性を汚す『古事記』の献呈を許可しなかった。というのも、伊耶那岐命の黄泉国説話の末部に登場する、伊耶那岐命が第二后であった天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)の離縁を言い渡す舞台となる「千引(ちびき)の石(いわ)」は現在の和歌山県新宮市の神倉(かんのくら)神社の御神体の「ごとびき岩」である。この神倉神社の主神は天照大御神である。というのも、神倉神社の社殿が建つ千引の石(ごとびき岩)の前で、天照大御神は伊耶那岐命に離縁され、「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民は、一日に必ず千頭(ちがしら)ずつ絞(くび)り殺す」と呪(のろ)い祟(たた)る誓いを立てたからである。
『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問記事の部分を携えて熊野を旅行すると、「本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)」が「伊耶那美命の墓が築造された黄泉国」、「熊野速玉大社」は「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本」、速玉大社の南にある神倉神社に祀られる「天照大御神」が「黄泉国の伊耶那美命」であることが理解できる。
これゆえ、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
元明天皇は後世の学者たちが神倉神社の主神の「天照大御神」が「黄泉国の伊耶那美命人」であると気づくことをふせぐため、『古事記』が献呈された翌713年、伊耶那美命・伊耶那岐命の歴史に因む地名の廃止を『風土記』の編集という方法で画策(かくさく)した。
正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の和銅6年(713)5月2日の条は「畿内・七道諸国の郡郷の名に好字(よきじ)を著(つ)け、(中略)、山川原野の名号の所由又古老相伝える旧聞異事(きゅうぶんいじ)、史籍に載せて言上せよ」と記述する。
上記にて(中略)とした部分は「其の郡内に生ずる所の銀銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は具(つぶさ)に色目を録(しる)し、及び土地の沃塉(よくせき)」と記されている。
この(中略)とした部分によって、元明天皇の命令は『風土記』編纂が目的であったと指摘されているが、ほんとうの目的は天照大御神が残忍な徇葬を決行し、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を詛(のろ)い憎悪して抹殺しようとした歴史を証明・解明できる資料の消滅を謀(はか)るものであった。
元明天皇の『風土記』の編纂命令は、『古事記』上巻に記載される地名を消滅させ、さらに伊耶那美命と伊耶那岐命を讃(たた)えたり二人の歴史を伝える地名・古老たちが話す伝説あるいは民間で作られた史書・史籍を消滅して、天照大御神が徇葬を決行し日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し敵視した史実を後世に伝えないためのものであった。
天照大御神が日本建国の〔愛〕の理念を詛い祟る宣誓をした〔千引の石〕は「ごとびき岩」と名づけられた。この岩の名の「ごとびき」は「蟾(ヒキガエル)」を意味すると、熊野の古老たちは伝える。
建比良鳥の地上絵を守る建比良鳥命の子孫は、引佐町井伊谷に居住した。『古事記』が元明天皇に献呈された712年、井伊谷は「蟾郷」(「せんきょう」と読むのか、それとも「いきょう」と読むのか不明)または「渭郷」と号していた。
前者の「蟾郷」は「ごとびき・ヒキガエルの郷」と意味する。
元明天皇の『風土記』編纂の命令は、当時の人々にとっては『古事記』献呈拒否からして日本建国の〔愛〕の理念を消滅するための陰謀であると明確に察知できた。
『古事記』天照大御神と須佐之男命の誓約説話に記述されるとおり、建比良鳥の地上絵は日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために作成したものであるので、伊耶那岐命が千引の石(ごとびき岩)の前で“日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐ”と宣誓した歴史を伝えるためには「蟾郷」という郷名を失うわけにはいかなったが、元明帝の命令に逆らえば建比良鳥家は討伐されて滅亡するにちがいなかった。ゆえに、建比良鳥の地上絵を守ってゆくためには建比良鳥家の滅亡は避けなければならいため、『遠江風土記』には「蟾郷」を「渭伊郷」と改めて記載した。
この『遠江風土記』の「蟾郷」から「渭伊郷」の改定が明確に示すように、『古事記』献呈の翌713年の元明天皇の『風土記』編纂の命令は『古事記』上巻に記載された地名が後世に伝わらないようにして、皇室が崇拝する皇祖・天照大御神が残虐非道な徇葬を決行し伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を詛い祟った歴史を闇に葬るための政策であったのである。
1010年、引佐町の井伊谷に居住して細江町の大鳥の地上絵を守っていた建比良鳥命家は武士になって大鳥の地上絵を守ることにした。ここに、武家の井伊氏が起源した。
井伊家24代頭首の直政(なおまさ)と家臣団は、徳川軍最強の軍団と敵から恐れられた“井伊の赤備(あかぞな)え”と呼ばれる赤色の武具をまとって戦場を疾駆(しっく)した。この井伊の赤備えは建比良鳥の地上絵を守る自らの熱い情念と、主君・徳川家康が一生涯胸に秘めて願望した夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を実現するために戦場を疾駆していたのである。ゆえに、家康と直政は心を一つにして同じ目的を達成しようとしていたのである。
関ヶ原合戦を勝利した4ヵ月後の1601年正月、井伊直政は西軍の大将であった石田三成の居城である近江佐和山城に入って初代彦根藩主となった。直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌1602年2月、42歳で死去した。家康は心から信頼していた直政の死をいたく悲しんだ。
家康は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を誓い、彦根藩近隣の7ヵ国12大名に動員を命じて彦根城と3千万坪の大鳥の地上絵作成を助勢させた。この工事は1603年に着工し20年後の1622年に完成した。家康は1616年に没しているので、完成した彦根の大鳥の地上絵を見ていない。
この彦根の3千万坪の地宜は「夏音は習わず(いまだ夏音文字の学芸は復興せず)」と表現するために、〔羽の無い鳥の形〕に設計された。この「夏音は習わず」という設計は、中国の正史『新唐書』日本伝に「702年に中国に渡った日本の遣唐使が『後稍(のちやや)夏音を習う』と告げた」と書く記事にもとづくものであった。
この彦根の羽の無い大鳥の地上絵の頭部は〔夏至の日の出の方角〕を指して「夏音文字の学芸」をあらわす。
羽に相当する、彦根城を貫通する経度軸に対して29度となる南南東には多賀大社があり、この多賀大社の主神・伊耶那美命は伊耶那岐命の正妃であり、彼女は日本建国の〔愛〕の理念を提唱した。夫の伊耶那岐命は千引の岩の前で第二后の天照大御神に離縁を言い渡して、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念の継承を宣誓した。
『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は下記のごとく記述する。
黄泉国の伊耶那美命すなわち天照大御神は、伊耶那美命の墓となった熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)の築造を陣頭指揮した。天照大御神は伊耶那美命の後を継いで倭女王となり、伊耶那美命の墓を作るときに卑弥呼の陵墓と同じく多数の奴婢(ぬひ)すなわち青年と乙女たちを殺す残虐な徇葬(じゅんそう)儀式を決行した。この残忍きわまりない「徇葬」を、『古事記』は「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」と記載する。だから、おぞましい徇葬を決行した「天照大御神」は「黄泉国の伊耶那美命」と表記された。
『熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)』は「千引の石の前の歴史を伝えるために神倉神社の主神・天照大御神と熊野速玉大社の主神・伊耶那岐命を合祀していたが、離縁した夫婦を合祀するのは理屈があわないので、熊野権現・伊耶那岐命を速玉大社で祀ることにしたので、速玉大社の地名は“新宮”と号するようになった」と説明する。
千引の石の前で、伊耶那岐命に離縁された天照大御神は「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民を、必ず一日に千頭ずつ絞殺する」と呪詛(じゅそ)し祟(たた)ると誓った。この天照大御神の呪詛の誓いに対して、伊耶那岐命は「わが正妃の伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぎ、男女が愛し合って一日に千五百の産屋が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓した。
だから、3千万坪の羽の無い彦根の大鳥の地上絵は家康と井伊藩が願望した夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興せんとする情念をあらわすものであった。
この熱い情念を示す3千万坪の大鳥の地上絵は、現在の彦根市の行政区域を表示する地宜(地図の形)となっているので、確かに実在する史実であると目で直(じか)に確認することができる。
ナスカの地上絵の最も大きな鳥の地上絵よりも遥かに巨大な、現在の行政区域として表示される古代史跡の静岡県浜松市北区の細江町の1千万坪の建比良鳥の地上絵と、日本地図に表示される彦根市の3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵は精密な天頂緯度測定によって経緯度原点地が設置され、三角点を設置して作成されたことが科学的に証明されるだけでなく、直に過去の歴史を目で見て確認できる。
この〔精密な天頂緯度の測定〕の秘密に加えて、この巨大な二つの大鳥の地上絵の作成目的が夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興であることによって、この回の先頭に列記したように日本古代史学界が〔文献批判〕に用いて主張する❶邪馬台国学説はもちろん、❷日本神話虚構説と❸漢字習得の定説は〔誤読〕から生まれた妄想であり出鱈目であることが科学的に具体的に白日のもとにさらされる。
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