G-T0XYQT12LL 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・3: 卑弥呼の逆襲

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2012年2月17日 (金)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・3

 1738年、大嘗会(だいじょうえ)が本格的に復興された。
 大嘗会は天皇が即位後におこなう最大の神事である。
 この大嘗会の復興は、霊元(れいげん)上皇の熱意と将軍吉宗の協力により実現した。この大嘗会の復興について、朝廷側も幕府側も、先例調査と実施報告の詳細な記録を残している。

 大嘗会に用いられる天皇の王冠は「菅蓋(かんがい)」と呼ばれ、即位する天皇の頭上に高々と差し上げられる。この天皇の王冠は上下二つの形に分かれている。上は鳥をデザインするものであり、下は菅笠(すげかさ)となる。
  この上の【鳥の飾り】は「夏音文字の学芸」、下の【菅笠】は「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわす。
 大嘗会は戦国時代に中断したが、それ以前にもおこなわれていた。
  戦国時代以前の大嘗会においては天皇の王冠「菅蓋」は作成されていなかった。天皇の王冠は1738年の大嘗会の本格的な復興によって新たに加わった。
 大嘗会がなにゆえ本格的に復興されたかといえば、この天皇の王冠があらわす「夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念」が原因となる。また、天皇の王冠の秘密は大嘗会の復興になぜ将軍吉宗が協力することになったのか、この秘密もまた密接にかかわっている。つまり、天皇の王冠があらわす「夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念」は、徳川家康が一生涯追い求めて復興しようとした願望であり、この願望を江戸幕府は家康の遺志として受け継ぎ必ず達成しなければならない重点政策と定めた。だから、霊元上皇が大嘗会の本格的な復興の熱意を示した時、歴代将軍たちが背負っていた宿題が解決することになったので吉宗は喜んで協力したのである。
 このような家康が一生涯追い求めた夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興の願望とこの願望を幕府が重点政策としたことについては、桂離宮の庭園の平面図と滋賀県彦根市の行政区域をあらわす地図の形を科学的な調査をすればすべての人々が事実である納得できるようになる。また、科学的調査を待つまでもなく、先人たちが過去の歴史を後世の人々にも直(じか)に見えるようにして残した両史跡をじっくり時間をかけて見て考えれば、それは事実であったにちがいないと確信できるようになる。

  左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』で、その経緯・事情を詳細に証明したように、京都市西京区に所在する桂離宮の庭園池のど真ん中にひときわ目立つように大きな面積を占めて「家康と江戸幕府が土下座する姿」をあらわす設計部(池の形)がある。
 この桂離宮の庭園は、徳川幕府の命令で1623年から病床に伏す1645年までの23年間かけて小堀遠州が作った。
 池の中央の「家康と幕府が土下座する池の設計」は、生前の家康のアイデァなのか幕府の考えによるものか、あるいは遠州のアイデァを幕府が容認たことなのか、その点は不明である。

   この「家康と幕府が土下座する池の形の設計」が示すように、家康は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興せんと一生涯努力した。
 家康は関ヶ原合戦に勝利すると、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興を実現させるために、近江(滋賀県)彦根の都市作りに取りかかった。家康は彦根藩の近隣の7ヵ国12大名に動員を命じて助勢させ、彦根の都市作りの完成を急がせた。この工事は1603年に着工して、1622年に完成した。家康は1616年に死去したので、その完成を見ていない。
  この家康の命令で着手されて完成した彦根の都市作りは現在の彦根市の行政区域を示す地図の形となり、3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵となる。
  この羽の無い大鳥の地上絵の設計は、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に「702年に中国に渡った日本の遣唐使が『後稍(のちやや)夏音を習う』と中国王朝に告げた」という記事にある、「夏音を習う」という言葉にもとづくものであった。つまり、彦根市の地図の羽が無い大鳥の形は“未だ夏音文字の学芸は復興されず、朝廷にありましては夏音文字の学芸の復興を願い奉る”という、駿府城に居住した晩年の家康が日々抱いていた情念の秘密を伝えるものとなる。
   彦根市の羽の無い大鳥の地上絵の頭部は、夏至の日の出の方角を指差す。この〔夏至の日の出〕の方角で「夏音文字の学芸」をあらわす。彦根市西方は琵琶湖の東岸であり、琵琶湖は鳰(にお)・カイツブリの姿に相似するゆえ別称は“鳰の海”である。〔鳰の海の東岸(彦根市西方)〕は〔鳰の腹面〕に相当し、〔鳰の腹面〕は白い。ゆえに、彦根市の境界線東側の羽の無い、その〔羽〕の下に、彦根市西方の鳰の腹面の〔白〕を加えると[習]という字になる。そして〔羽が無いから〕、〔習わず〕となる。
   白川静著『字統』は[習]の字源について「羽と曰(えつ)とに従う。曰は祝祷(しゅくとう)を収める器。この器の上を羽で摺(す)って、その祝祷の呪能(じゅのう)を刺激し、そのような行為をくりかえすことを意味する字」と解説する。子どもの誕生を祝い、そして死産した子の命を蘇(よみが)えらせるために祈祷するための器具の上を羽でくりかえして摺るお呪(まじな)いは、祝祷の器の中に生気を蘇えらせるために行うものであったと考えられる。
  鳰の親鳥は露出した卵あるいは巣材をかぶせた卵の上に立って、羽をひろげてふるさせて空気を送る動作をする。この空気を送る〔羽〕と卵の上に立つ親鳥の腹面の〔白〕、あるいは鳰の浮巣の卵をおさめる〔産座の凹み〕を〔祝祷の器〕の〔曰〕に見立てて、[習]の字源が成立したものと考えられる。つまり、〔鳰の親鳥が卵の上に立って羽をひろげてふるわさせて空気を送る動作〕は〔死んだ卵の命を蘇らせる動作〕ではないかと思われたたために、[習]の夏音文字の字義は「蘇える。復興する。」となったと考えられる。
  702年の10年後の712年に完成した『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつく1字1音の夏音文字が多数記載される。『古事記』の序の冒頭から末部までの文は、この夏音文字についての説明である。この『古事記』序を読むと、702年において日本の遣唐使が中国王朝に告げた「夏音を習う」という言は「夏音文字を復興する」と意味するものであったと解釈すべきことになる。
  だから、[習]の夏音文字の字義は「復興する。蘇える」であったことになる。したがって、〔羽の無い鳰〕で表示する〔習わず〕は「復興しない」と意味することになる。ゆえに、彦根市の「夏音を習わず」という大鳥の地上絵は「いまだ夏音文字の学芸は復興せず」とあらわしていることになる。

   彦根城の経度軸に対して29度の南南東に、伊耶那美命と伊耶那岐命を主神に祀る多賀大社がある。
  この伊耶那美命が日本建国の〔愛〕の理念を提唱し、伊耶那岐命が日本建国の〔愛〕の理念を受け継いで大国・倭と小国・日本を併合した。
  だから、現存する3千万坪の羽の無い彦根の大鳥の地上絵は、家康が生涯かけて願望した夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興をあらわすものとなる。

  家康は没する1年前の1615年、〔禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)〕を制定した。この禁中並公家諸法度の第1条は「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」である。この文中にある「芸能」は今日の「芸能」と同義ではない。この「諸芸能」とは「芸術や工芸や庭園作りや建築など、そして音曲や演芸や舞踊や祭典などの総称」であったゆえ要するに「日本を創ったさまざまな芸術と技能」ということになる。「第一御学問也」は彦根の3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵や桂離宮の庭園池の土下座の設計が明確に示すように「第一番目に大切なのは、【銀河各部の形状】が【文字】となる夏音文字の学問である」と意味する。
  ゆえに、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文は「天子は日本文化を創ったさまざまな芸術と技能の根元となる夏音文字の学芸を最も大事にして、どうかこの復興に努力してくださいませ」という家康の願望をあらわしていた。

  小堀遠州は彦根の都市作りが完成した1622年に近江国奉行となり、その近江・彦根の羽の無い地上絵にてさらなる夏音文字の学芸知識を深め、翌1623年に京都の伏見奉行となり、以後没するまで同職をつとめて家康の遺志を継ぐ桂離宮の庭園作りに情熱を傾けた。
 夏音文字の学芸の復興は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問神話に記述された皇統の聖性をあらわす皇祖・天照大神が伊耶那美命の墓を築造した時に多数の青年と乙女たちを殺す残虐な徇葬(じゅんそう)儀式を決行した、いいかえると八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)の秘密が白日のもとにさらされることになる。
   ゆえに、天照大神が残虐な徇葬を決行した歴史が明らかになると国民に憎悪されて滅亡するのではないかとおそれた皇室は、天照大神の聖性は絶対に汚してはならないと拒みつづけて夏音文字の学芸の復興を認めなかった。
  遠州が桂離宮の庭園を作った時、後水尾(ごみずのお)天皇の叔父に当たる八条宮家の智仁(としひと)親王が桂離宮を所有していた。智仁親王は幕府と皇室の融和に奔走した、当時の皇族の実力者であった。ところが、1696年に霊元上皇の第八子の作宮(さくみや)が八条宮家を相続して「常盤井宮(ときわいのみや)」と改称したが夭折(ようせつ)した。この後を霊元帝が上皇になった時に、夭折した作宮の兄の文仁(あやひと)親王が相続して第6代となり「京極宮(きょうごくのみや)」と改称して桂離宮を所有した。第7代は家仁(いえひと)親王、第8代は公仁(きみひと)親王である。1810年に光格(こうかく)天皇の第5子・磐宮(いわのみや)が京極家を相続して第9代となり「桂宮」と改称した。
  したがって、霊元上皇の孫の第7代家仁親王が桂離宮を所有した時に、本格的に大嘗会が復興されて夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念をデザインする天皇の王冠の意匠が決定された。

  幕府は強大な権勢をもって威圧せずに、皇室に額(ひたい)を地面にこすりつけて平伏して願う、桂離宮のど真ん中の大きな面積を占める「家康はじめ歴代将軍と幕府が土下座する庭園設計」を霊元上皇は観て深く考えるようになり、天照大神が残忍な徇葬を決行した事績が明るみになって国民に憎悪され皇室が滅亡する事態を覚悟して、「夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興」を承認した。上皇は天子である以前の一人の人間に立ちかえって、人間として実行すべき使命にもとづいて家康と幕府の願望を受け入れた。
  上皇は禁中並公家諸法度の第1条の「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という家康の願望を理解し、夏音文字の学芸は絶対に失ってはならない日本の学芸の根本となるものであり、日本建国の〔愛〕の理念はなんびとも奪ってはならない最も神聖な精神的な基柱であると考えた。それゆえ、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は即位する天皇の頭上に高々と差し上げる王冠の意匠で表示することにしたのである。
  天皇の王冠は、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念はなんびとにも排除されてはいけない、なんびとも排除してはならない〔日本民族の魂と命のみなもと〕であると表示する。
  天皇の王冠によって、学界が正論であると定める❶邪馬台国学説と❷日本神話虚構説と❸漢字習得の定説は、単なる〔誤読による妄想〕であったことが白日のもとにさらされる。
   学者たちの立論基盤とするいわゆる“文献批判”と呼ばれる思考方法は、自らの意見にとって不都合な記述は削除・排除してよいとする御都合主義の出鱈目(でたらめ)の考え方だったのである。
  この“文献批判”は確かに西欧近代科学の産物であるが、この“文献批判”は西欧近代科学の傲慢(ごうまん)な単純化の産物であったために、もとより根本的に誤っていた。
  簡単に言うと、“文献批判”の正体は【誤読】である。
 学界は❶邪馬台国学説と❷日本神話虚構説と❸漢字習得の定説を“文献批判による正当な意見”と評して誤魔化(ごまか)しているが、天皇の王冠によってこの3つの学説は完全なる妄想であることが決定的となる。
  天皇の王冠の意匠となった夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を、偽りの妄想からなんとしても取りもどさないと〔日本人の魂と命のみなもと〕は消滅し日本民族は虐殺されることになる。

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