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2012年3月 1日 (木)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・8

 徳川家康の一生(1542-1616)について、多くの学者や研究家やそして作家たちが研究する。
 しかし、家康の人生における最も重大な秘密について学者や研究家や作家は誰一人気づいていない。
 その家康の人生における最も重大な秘密は、1738年に本格的に復興した大嘗会(だいじょうえ)と天皇の王冠・菅蓋(かんがい)の意匠で表示された。
 このシリーズ前々回〔〕の後半部で指摘したように、家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された❶夏音文字の学芸と❷日本建国の〔愛〕の理念を復興することに生涯をささげた。彼の魂といのちは『古事記』上巻・日本神話に記述された夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念に意識的に帰属するものであったゆえ、常に日本神話が伝えるアイデンティティーと対話する人生を送った。

 『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名と『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて記載された夏音文字は、今から約4050年前の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に名門益氏の王子(天祖)と若者たちが荒波逆巻く大海を越えて日本列島に移住して、縄文の芸術家たちによって習得された。
 この夏音文字の学芸と伝来と習得の歴史は、後期縄文時代初頭の史跡とされる秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)に痕跡となって現在も明確に残っている。
 しかし、新井白石以来から始まった【文献批判】という方法を用いる邪馬台国研究と、同じく【文献批判】を用いる現代の津田左右吉教授から始まった日本神話虚構説によって、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された、家康が生涯追い求めた夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は排除された。
 でも、〔大嘗会と天皇の王冠〕の秘密を注目すれば、〔大嘗会と天皇の王冠〕は家康が生涯願った夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を示す祭儀にして表象(ひょうしょう)するものであることが解明され、邪馬台国学説と日本神話虚構説に用いられた【文献批判】の正体は【単なる誤読】であったことが白日の下に晒(さら)される。
 学者たちは【誤読】とい単純ミスをおかして邪馬台国説と日本神話虚構説を立論し、この【誤読】という単純ミスを改めようとしない。
 古代史学の原理原則に則って『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を忠実に読解すれば、わが国に夏音文字の学芸が伝来し、日本神話はすべて正しい歴史を記述していることが科学的に解明される。

 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字の学芸によって、すべての漢字(中国文字)の本来の字形は【銀河各部の形状】であったと解明される。
 というのも、すべての漢字は左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bの銀河の範囲から作られたこからである。
 また、この資料Bの銀河範囲から、すべての古代エジプト文字・ヒエログリフが作られた。
 すべての漢字とヒエログリフ(神の言葉=メドゥウ・ネチェル)は同一の銀河範囲から図案され、【銀河各部の形状】を【文字】としたのである。
 学者たちは【文字は人が話す言葉をあらわす記号】として起源したと思い込む。
 しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字と、夏音文字の秘密を現在に伝える次の3つの史跡と1つの史料によって、現在の当用漢字さえも、本来、古代エジプト文字と同じく【神の言葉(メドゥウ・ネチェル)】であったことが手にとるように明白となる。
 この漢字も古代エジプト文字も【銀河各部の形状】が【文字】であったことを科学的に証明できる史跡と史料は①『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作られた静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥地上絵と、②17世紀初頭に家康の命令によって作成された、現在の彦根市の行政区域を示す羽の無い「夏音は習わず」とあらわす大鳥の地上絵と、③京都市の桂離宮の庭園の平面図と、そして④大嘗会と天皇の王冠である。
 そして、わが国の夏音文字によって太平洋の東端のイースター島のコハウ・ロンゴ・ロンゴという文字板に刻まれた【象形文字】も【銀河各部】を【文字】とする【神の言葉(メドゥウ・ネチェル)】であったことが解明される。なぜならば、イースター島の巨大な石像モアイの姿は、夏音文字とヒエログリフが作られた銀河範囲の一角となる「夏の銀河の全像」(夏の星座が漬かる銀河の全像)にそっくりだからである。
 ヒエログリフから始まって枝分かれして現代にいたる文字は、ヨーロッパ文字、ペルシア文字、アラビア文字、ヘブライ文字、アムハラ文字である。こられの現代文字は世界の7割から8割の人々が使用しているにちがいない。
 また、現代の漢字を加えると世界の8割から9割の人々が使用される文字の起源と字源の秘密が、日本の学者たちの【誤読】という単純ミスによって解明できない状況となる。この【誤読】という単純ミスは邪馬台国研究から起源するものであるから、邪馬台国学説は人類共通の敵となる。
 わが国の学者たちが最も簡単きわまりない【誤読】という、そんなミスを絶対に犯すはずがないという思い込む、その霊能者的な存在は〔実体を知らない、学者への盲目的な信頼〕であろうが、この〔学者への信頼〕にマインド・コントロールされて日本国民は思考停止し、邪馬台国学説が【誤読】によって成立するものであることに気づかない。
 しかし、1738年において本格的に復興された〔大嘗会と天皇の王冠〕を注目すれば、そのマインド・コントロールは解けて、❶邪馬台国学説も❷日本神話虚構説も❸わが国では5、6世紀に始めて漢字を習得したという定説は、学者たちの【誤読】という単純ミスから成立した妄想であったことが明かになる。
 そもそも、学者たちの【文字は人が話す言葉をあらわす記号】と思い込んでいるが、この定義は夏音文字とヒエログリフによって妄想ということが証明される。
 【文字】は【銀河各部の形状】であった。だから、【文字は人が命と魂を委(ゆだ)ねた神の言葉(メドゥウ・ネチェル)をあらわす記号】であった。
 現在においては、【文字は神の言葉をあらわす記号】であった真実は、唯一、わが国の夏音文字でのみしか科学的に解明することができない。
 だから、【誤読】によって成立する邪馬台国学説は日本民族の尊厳を徹底的に侮辱するだけでなく、人類共通の災厄となる。

 学者や歴史研究家の中に、〔家康の遺訓〕について家康自身が述べた遺訓ではないと疑う人々がいる。この指摘がたとえ事実であると証明されても、家康の人生は〔家康の遺訓〕の通りだったことは否定できない。
 有名な〔家康の遺訓〕は、下記のごとくである。
 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は長久の基(もと)。怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」

 家康に背負った「重荷」は「夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興」であった。この〔「重荷」を復興する願い〕は遠き道の終点=死によってもかなえられなかった。この願いは、家康の死(1616年)から122年後の1738年に霊元(れいげん)上皇が本格的に大嘗会を復興してかなえられた。
 だから、家康の一生は、まさに、重荷を負うて遠き道を行くがごとしであった。
 1579年、家康は妻の築山御前と長男信康を織田信長の命令による処罰で失っている。この悲劇も、家康がただひたすら夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を願い、この願望は信長も抱くものであり信長を主君と仰いで服従していけば必ずやかなえられると思っていたからにほかならない。
 新井白石は『藩翰譜』の中で「大国にはさまれ、頼みは信長の援助だけという中で、家康は妻子を見殺にして徳川とその家臣団を守った」と書いているが、この指摘は誤っている。
 家康は背負っていた重荷のために、妻子を見殺しにしたのである。

 家康は関ヶ原合戦に勝利した4ヵ月後の1601年1月、『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半にあって後世に夏音文字の学芸をもって日本建国の〔愛〕の理念を伝える静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の地上絵を守っていた井伊氏を、現在の彦根市への移住を命じた。そして、彦根藩近隣の7ヵ国12大名に動員を命じて、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の秘密を後世に伝える3千万坪の「夏音は習わず(夏音文字は未だ復興されていない)」とあらわす羽の無い大鳥の地上絵作成事業を助勢させた。
 この大鳥の地上絵の工事は1603年に着工され、20年後の1622年に完成した。家康は1616年に没しているので、「夏音は習わず」とあらわす完成した彦根の大鳥の地上絵を見ることができなかった。
 しかし、われわれは妻子を犠牲にしたまでも家康が背負っていた「重荷」の「夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興」の願いは、現在の彦根市の行政区域を示す地図で目でとらえることができる。

 1608年、当時の天才芸術家の30才の駿府城作事奉行の小堀正一は従五位下遠江守に任命され、遠江細江町の1千万坪の大鳥の地上絵の研究を命じられた。以後、小堀正一は「遠州」と号した。
 家康が没した1616年以後、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興は家康の遺志となり、歴代将軍と幕府が達成すべき宿題となった。
 1617年、小堀遠州は河内国奉行を任命され、かつて遣唐使船が大海を往来した夏音文字の学芸の基軸であった〔精密な緯度測定〕の研究を命じられた。
 1622年、44才の遠州は近江国奉行に任命され、完成した「夏音は習わず」と設計する彦根の3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵にそそがれた夏音文字の学芸知識を深めることになった。
 翌1623年、遠州は京都の伏見奉行に任命され、後水尾(ごみずのお)天皇から家康の願望が承認されるための桂離宮の庭園作りに着手した。伏見奉行・遠州の最も重大な任務は桂離宮の庭園作りとなった。これゆえ、以後1647年の没するまで同職をつとめて桂離宮の庭園作りに情熱を傾けた。

 1627年に紫衣(しえ)事件がおこり、天皇はこれを怒って1629年に幕府に無断で将軍秀忠の娘の和子との間に生まれた興子(おきこ)内親王に譲位した。これが明正(めいしょう)天皇である。
 紫衣(紫色の法衣)を着用することは、禅宗・浄土宗の僧侶にとって最高の栄誉であるが、1615年に〔禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)〕が制定された後、天皇が紫衣をあたえるには事前に幕府の同意を必要とすることになっていた。しかし、天皇は以前の慣例にしたがって諸法度の決まりを無視して紫衣をあたえたため、幕府はその無効を宣言した。この宣言に大徳寺の沢庵らが抗議すると配流(はいる)に処せられることになった。この紫衣事件の経緯は、遠州の任務・桂離宮の庭園作りが密接に関連するものであったのである。
 桂離宮の庭園作りは皇室が至上神と崇拝する天照大御神の聖性を汚すものであった。天照大御神は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を敵視し、伊耶那美命の墓を熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造するとき、多数の青年と乙女を殺す残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した。
 この天照大御神の徇葬決行の歴史は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問説話に記述され、その随所に記載される〔音〕という注が付く夏音文字から【すべての文字】は【銀河各部の形状】である秘密が解明されると白日の下に晒(さら)されることになる。というのも、その神話における「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「伊耶那美命の後を継いで倭女王となった天照大御神」であり、その神話の末部で天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)が「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ人民を一日に千頭(ちがしら)(くび)り殺す」と詛(のろ)い祟(たた)る宣誓をした「千引(ちびき)の石(いわ)の前」は現在の和歌山県新宮市に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の「ごとびき岩の前の神倉神社の社殿が建つ敷地」であることが判明するからである。というのも、その神話の「千引の石」に関する記述は「ごとびき岩」に合致し、神倉神社の主神は天照大御神だからである。あるいは、夏音文字によって【すべての文字】が【銀河各部の形状】であることが知れて後世の人々が銀河を仰ぎ観れば、日本建国の〔愛〕の理念を尊重した大国主命の出雲王権と筑紫の宗像(むなかた)王権は天照大御神が治める大和の遠征軍に征服されたことが明らかとなり、天照大御神の横暴な強権政事が白日の下に晒される。
 だから、遠州が作る桂離宮の庭園は〔夏音文字はじめ、すべての文字は銀河各部の形状である〕と造形表現するものであったので、この秘密が明らかになれば後水尾上皇は天照大御神を皇祖とする皇室は国民に憎悪されて滅亡するにちがいないと考えた。

 ゆえに、後水尾天皇の譲位は紫衣事件に発端(ほったん)があったのでなく、1622年に完成した彦根の「夏音は習わず」とあらわす羽の無い大鳥の地上絵と翌1623年から着手された桂離宮の庭園作りがほんとうの原因であった。したがって、紫衣事件は夏音文字の秘密が明らかになる彦根の大鳥の地上絵と桂離宮の庭園作りに怒って故意に天皇が諸法度に違反した事件であったのである。
 後水尾天皇は退位するときに、下記の和歌を詠んだ。
 「葦原や しげればしげれ 荻薄(おぎすすき) とても道ある 世にすまばこそ」

 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話において、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民が住む国は「葦原中国(あしはらのなかつくに)」と表記される。ゆえに、小国・日本はもちろん葦原中国であり、伊耶那美命を崇拝した大国主命が治めた「出雲」も『古事記』は「葦原中国」であったと明記する。
 そして〔荻〕は「水辺に自生し、ススキに相似し、大群落となり、夏・秋のころに大きな穂になって、初め薄紫色で、のち絹のような白い花が咲くイネ科の多年草」である。
 ゆえに、後水尾天皇の和歌の「葦原」は「伊耶那美命が提唱した葦原中国=日本建国の〔愛〕の理念」を指し、[習]の下には[白]の字があるから「琵琶湖の東岸に『夏音は習わず』と図化された3千万坪の彦根の大鳥の地上絵」を「白い花が咲く荻薄」と表現したものとなる。また「荻薄の薄紫色の花穂」は「紫衣」を指しているが、2句目の「しげればしげれ」からして「大群落となって白い花が咲く葦原中国の荻ススキ」となるので、退位のほんとうの原因は紫衣をあたえたことを幕府が無効にしたことではなく、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を欲求する幕府の彦根の大鳥の地上絵と桂離宮の作庭の政策に抗議して退位するという意思を示していることになる。
 つまり、和歌は「葦原中国の幕府が栄えるならば栄えるがよい、葦原中国が栄えるとても道理のある世になったが、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興すれば皇室は滅亡することになるので朕(われ)は道理に従わずに諸法度の決まりを無視して紫衣事件をおこして退位する」と意味するものとなる。
 この和歌で意思表明したように、小堀遠州が作庭中には一度も桂離宮に行幸しなかった。そこで、頑(かたくな)な上皇を翻意(ほんい)させようとして、1655年に幕府が上皇を慰めるために京都市左京区に修学院離宮と大庭園造営に着工すると、1658年に上皇は桂離宮に初めて行幸し、1663年にも上皇は桂離宮に行幸した。しかし、1659年に完成した修学院離宮の大庭園に作られた浴竜池(よくりゅういけ)の設計も夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を欲求するものであったので、和歌に詠んだ決意を翻(ひるがえ)さなかった。

 幕府が後水尾帝に提供した桂離宮と修学院離宮の両庭園は家康の遺志を達成するために作った施設であった。後者の修学院離宮の庭園は、日本建国の〔愛〕の理念の復興を強調して夏音文字の学芸を単純化した設計であるが、前者の桂離宮の庭園は【すべての文字は銀河から作られた】と表示する、夏音文字の学芸の全貌を詳細に知ることができる字書・科学事典の機能を有する施設となった。
 桂離宮の庭園の所有者は初代が八条宮であり、第7代は霊元上皇の孫の家仁(いえひと)親王であった。
 この家仁親王が桂離宮の所有者であった1738年、霊元上皇は桂離宮の庭園を観て家康の願望をかなえる決意をした。というのも、桂離宮庭園池のど真ん中は大きな面積を占めて「松平の姓を有する、家康はじめ歴代将軍と幕府が皇室に土下座して願う姿」に設計されていたからである。
 家康はじめ歴代将軍と幕府は強大な権勢をもって威圧せず、皇室に額(ひたい)を地面にこすりつけて夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興をひたすら平伏して願う設計を観て、上皇は皇室の滅亡を覚悟して、その願いをかなえる決意をした。
 上皇は天子である以前の一人の人間に立ち返って、夏音文字の学芸を尊重して葦原中国の〔愛〕の理念を復興する家康の願望を受け入れた。

 1738年、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興させるために、霊元上皇は大嘗会を本格的に復興した。この大嘗会で使用される天皇の王冠の上の飾りを夏音文字の学芸を表象する細江町の大鳥の形にし、下の菅笠(すげかさ)で伊耶那美命を象徴する家々の神棚に設置される水器の蓋(ふた)を表象して日本建国の〔愛〕の理念をあらわすことにした。だから、天皇の王冠の下の意匠の「菅笠であらわす水器の蓋」から「菅蓋」と名づけられた。水器を手の平に載せて見ると、水器は妊婦のおなかの形となり、毎朝代える水は子宮に宿る胎児の命を守る羊水をあらわし、水器の蓋は乳房を造形するものであり、水器の蓋の摘(つま)みとなる突起は乳首をあらわしていることがわかる。「水器」は日本建国の〔愛〕の理念を提唱した「伊耶那美命」を象徴する神具であった。
 桂離宮の庭園の中央の「家康はじめ歴代将軍と幕府が土下座する姿」をあらわす池の北側の東岸は遠江・細江町の羽の無い鳥の形に設計する庭園部となり、西岸は菅笠や水器の蓋の側面形と同じく三角形の庭園部となる。
 ゆえに、天皇の王冠の上の飾りは1千万坪の細江町の大鳥の地上絵の形で夏音文字の学芸をあらわすものとなり、下の飾りは菅笠で水器の蓋をあらわし日本建国の〔愛〕の理念を表示された。

 1738年に本格的に復興された大嘗会は、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の存続を、即位する天皇が祈願する最大の神事であったのである。
 ゆえに、大嘗会の2ヵ所の祭場にあっては、東(左)の建物は「悠紀(ゆき)殿」、西(右)の建物は「主基(すき)殿」と呼ばれる。「悠紀」を「ゆうき」と読まないで1字1音で「ゆき」と読み、「主基」を「しゅき」と読まないで「すき」と読むのは、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音読みの夏音文字を読み方を示すものであった。
 〔東〕を〔左〕・〔西〕を〔右〕とする形式は天の北極を基に〔東〕を〔右〕・〔西〕を〔左〕となる事実や地図の一般形式を示すものでない。その形式は夏音文字の学芸が〔精密な天頂緯度測定〕を基軸にして構築されたことを示すものであり、「南中」という語で示される〔子午線上の南〕を基準にする位置天文学や天文図や星座盤の定式をあらわしている。
 だから、大嘗会は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述される、両史書の歴史を解明するのに必須知識となる夏音文字の天文地理学を示す祭儀となる。
 大嘗会の北の建物は「廻立(かいりゅう)殿」である。この廻立殿から悠紀殿をつなぐ廊下に設けられる御筵道(ごえんどう)を参進する天皇の頭上に高々と、〔夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念〕をデザインする王冠が差し上げられる。
 廻立殿・悠紀殿・主基殿とこれらに付属する建物とそれらをつなぐ廊下は、木の皮をつけたままのいわゆる黒木(くろき)造りで、柱は皮付の櫟(いちい)を用いる。この皮つきの黒木は、【銀河各部の形状】が【文字】となった壱与=伊耶那美命が生存した3世紀の建物は黒木造りであったと伝えるものえあろう。皮付きの櫟の柱は熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)が「家津美御子(けつみみこ)すなわち須佐之男命が熊野本宮大社の櫟の木に天降(あも)った」と伝える、伊耶那美命に熱烈に憧れる須佐之男命が熊野本宮大社の主神になった櫟の木の秘密をあらわすものと考えられる。これゆえ、大嘗会は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の歴史を伝える祭儀であったのである。
 大嘗会に用いられる建物と廊下の天井と壁および扉には「近江表(おうみおもて)」の畳表が張られ、床は竹をもって組み、その上に筵(むしろ)および近江表を重ねて敷く。床に用いられる「竹」は「伊耶那美命」の本名が「竹野比売(たかのひめ)」(第9代開化天皇の正妃)だからである。「筵」は「日本」の異称の「葦原中国」を象徴し、近江・琵琶湖の岸に群生する「葦」をあらわすものと考えられる。畳表は備後表が最上とされ、近江表は備後表に次ぐとされる。にもかかわらず、近江表にこだわって使用するのは、「近江表」で「近江彦根の3千万坪の『夏音は習わず』とあらわする羽の無い地上絵」をあらわしているからである。というのも、彦根の東端の境界線は羽の付け根をあらわすグニョグニョと蛇行(だこう)する複雑な曲線となるが、彦根市と多賀町の境界となる名神高速道路と国道307号線が立体交差する所から彦根市・多賀町・甲良(こうら)町の境が交わる地点までの境界線の形は、近江八幡市の宮ヶ浜から日野川の河口までの琵琶湖の岸の形に合致するからである。この近江八幡市の宮ヶ浜から日野川河口までの湖岸より南の地所は、大嘗会の近江表の産地である。
 なお、彦根市・多賀町・甲良町の境が交わる地点から彦根市・能登川(のとかわ)町・愛知川(えちがわ)町の境が交わる愛知川上の地点までの境界線の曲がりくねる形は、遠江の浜名湖北岸の三ヶ日町の大崎半島先端付近から細江町の都田(みやこだ)川の河口までの湖岸の形に合致する。

 今上陛下の即位式がおこなわれた大嘗会が本格的に復興された1738年は、家康の死から122年後のことであった。
 この大嘗会と天皇の王冠の意匠は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載される夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念が真実の歴史であったと表示する確かな史料となる。
 ①『魏志倭人伝』の成立年代と同時代に作られた細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、②「夏音は習わず」とあらわす彦根の3千万坪の羽の無い大鳥の地上絵、③小堀遠州が作った桂離宮の庭園、そして④天皇の王冠によって夏音文字の学芸の全貌が明らかになると、皇祖・天照大御神の徇葬決行や日本建国の〔愛〕の理念を詛い祟った歴史が明らかになって、国民に憎悪されて皇室は滅亡しかねない。しかし、霊元上皇はそれを覚悟して、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を日本民族の心と命の根元としなければ「日本は滅びる」という結論に至った。

 だから、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の学者たちの【文献批判】というパラダイム(立論方法)の正体は紛(まぎ)れもなく【誤読】だったのである。
 新井白石以来約280年間も否定してはいけない権威と定められた【文献批判】をいっさい排除して『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の文を忠実に読解すると、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念が鮮烈に蘇(よみが)える。
 夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は絶対に失ってはいけない、決して無くしてはならない歴史であったのである。なんびとにも排除されてはならない、なんびとにも消滅されてはならない、なんびとにも害されてはならない歴史だったのである。天照大御神を皇統の聖性を表象する至上神と定めた強大な律令体制の権力がなんとしても消滅しようとしたが、消滅できなかった歴史だったのである。この歴史はなんびとにも抹殺できなかった真実の歴史であり、日本人にとっていちばん大切な歴史だったのである。
 だから、大嘗会と天皇の王冠の意匠となった真実の歴史を偽りの妄想から、われわれはなんとしても夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を取りもどさなければならない。 

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