« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・11 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・13 »

2012年3月16日 (金)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類の共通の敵である・12

 著作された当時の『魏志』倭人伝は発見されておらず、現存する『魏志』倭人伝は12世紀末の紹煕刊本(しょうきかんぽん)である。
紹煕刊本の『魏志』倭人伝は合計1983字で構成され、裴松之(はいしょうし)の56字の注が加わる。そのうち、倭の使節の名は「掖邪拘」の[拘]と記すように見える字は[狗]が正しいと思われ、地名の「東治」の[治]は[冶]が正しいすなわち「東冶」であると思われる。
 ゆえに、誤字は1字あるいは2字である。
 しかし、 倭女王卑弥呼が居住した王国名を学者たちは「邪馬薹国」が正しいとするが、紹煕巻本は「邪馬壹国」と表記するので、また、下記に示す3つの史跡と大嘗会(だいじょうえ)と天皇の王冠によって「邪馬臺(台)国」は【誤読】であると断定できる。
 古代史研究家の古田武彦氏は朝日新聞社が出版した『「邪馬台国」はなかった』を著作して、『三国志』全体に出てくる[壹]86個、[臺]56個の文字を逐一調べ、[壹]を[臺]と誤記する誤字が一例も存在しないことを証明した。ゆえに、「邪馬台国」の[臺(台)]は邪馬台国学者たちの【誤読】ということになる。

 『魏志』倭人伝は重大な歴史の証言をする。この重大な歴史を証言する各部分の記事は3種類に分類できる。
 そのうちの2種類が、下記の記事群(幾つかの記事)である。
 この2種類の記事群を、新井白石以来約280年間、学者たちは“信用できない”と主張して【文献批判】という考え方を確立した。
 この学者たちが“絶対に誤っている”と断定する記事群は、下記の2種類である。

 ① 倭に文字があった
 ② 日本列島は東へ伸びずに南へ伸びる

 この2つの記事群は真実を証言するものである。
 そして、当時(2世紀末~3世紀半ば)にとっても、またその以後にあっても、日本人民・日本国家にとって最も重大な歴史となった。
 このため、2つの記事群は史実であったと証明できる証拠となる史跡・史料・遺跡・遺物は多数存在する。
 しかし、学者たちは「歴史」の語源・本義が「整然たる間隔で天体の運行によるところの記録」であることも知らないために、[文]と[字]の字源と本義は「歴史」の字源・本義となり、それゆえ歴史を知る最も重要な方法であることを知らない。
 驚いたことに、また他の職業や世界ではありえないことであるが、その職業や世界で真っ先に知っておかなければならない心得を、考古学者はじめ歴史学者たちは知っていないのである。
 考古学者や歴史学者は「歴史」の語源・本義の「レ」の字も知らない。彼らは「歴史」の「レ」の字も知らないで図々しく“歴史を知っている”と威張る。

 もしも彼らが上記に示した「歴史」の語源・本義を知っていたならば、おのずと[文]と[字]の字源・本義を知ることもできて「文字」あるいは「漢字」の原形は【銀河各部の形状】であることに気づくことができた。
 そして、歴史学は【科学】が最も優先される学術であるので、『魏志』倭人伝の分化する各部の記事は相互に関連しあって【科学】の定義に合致することに気づく。
 だから、上記の①「倭に文字があった」、②「日本列島は南に伸びる」の2種類の記事群は真実を証言するものであったと確信して、新井白石以来の約280年間の邪馬台国研究は【誤読】に夢中になっていた結果である世に発表していたはずである。

 学者たちは日本古代史を解明するのに必要な「歴史」の語源、[文][字]の字源、【科学】の定義など、当然そなえていなければならない基礎知識をまったく有していない。
 このために、上記の『魏志』倭人伝の2つの記事群を“絶対に信用できない”と【文献批判】を用いて、日本人にとっても最も重大な真実の歴史を闇に葬りつづけている。

 上記の①と②の歴史は最も重大な歴史であった。ゆえに、もちろん、①と②の歴史を闇に葬った方法の邪馬台国学者たちが用いる“文献批判”は【誤読】であると簡単に科学的に証明できる史跡と史料が存在することになった。
 この直接証拠となるのは、下記の3つの史跡と1つの史料である。

 ❶『魏志』倭人伝の成立年代(3世紀後半)と同時代に作られた静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵
 ❷徳川家康が井伊氏彦根藩と近隣7ヵ国12大名に動員を命じて助勢させ、1603年から着工し20年後の1622年に完成した「夏音文字は習わず」(いまだ夏音文字は本格的に復興されていない)と設計された滋賀県彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵
 ❸小堀遠州が1623年から1645年までの23年間、将軍と幕府が願望する夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を皇室の承認を得るために作った、世界的に有名な桂離宮の庭園
 ❹『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を承認したと皇室が表示した、1738年に本格的に復興した大嘗会と天皇の即位式に用いる王冠・菅蓋(かんがい)

Dsc00020

天皇の王冠と細江町の1千万の大鳥の地上絵(建比良鳥の地宜)

 ❶の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を3世紀後半から1601年まで、細江町の北隣の引佐町井伊谷に居住した井伊氏の先祖と井伊氏がまもった。この井伊氏が譜代大名筆頭の地位につき、家康の命令で近江滋賀県に移住して井伊氏とその家臣団が中心になり、近隣7ヵ国12大名が助勢して作ったのが❷の「夏音文字は習わず」と設計された3千万坪の大鳥の地上絵である。また、1608年に30歳の小堀遠州が家康の命令で❶の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵の研究を命じられ、❷の「夏音文字は習わず」と図化した彦根の3千万坪の大鳥の地上絵が完成した1622年の、翌1623年から作り始めたのが❸の桂離宮の庭園である。この❸の桂離宮の庭園の平面図は、❶と❷を合体して作られる。また、❶と❷の合体像の上に、すべての漢字が作られた銀河の全象が重なる作品となる。
 この❸桂離宮の庭園池より北側の設計に基づいて❹の大嘗会の式次第が決められ、即位する天皇の王冠の意匠が決定された。
 

 このような一連となる4つの確かな証拠によって、『魏志』倭人伝の①「倭に文字があった」という記事群は「倭には【銀河各部の形状】が【文字】となる夏音文字があった」②「日本列島は東へ伸びずに南へ伸びる」という記事群は「卑弥呼王朝は南へ伸びる転回日本地理を制定した」と証言するものであったことが決定的となる。

 2世紀~3世紀半ばで起こった後期弥生時代の歴史を、なぜ約1450年後の1738年になって、大嘗会と天皇の王冠の意匠にして後世に伝えようとしたかと言えば――これが、『魏志』倭人伝における重大な歴史を証言する3種類目の記事である。
 この重大な歴史証言は、『魏志』倭人伝の末部にある。
 『魏志』倭人伝末部の記述される重大な歴史証言は、下記のような事情を伝える。
 ――『魏志』倭人伝末部に登場する27歳くらいであったと思われる夏音名の倭女王・壱与(いよ)は13歳のときに小国・日本の女王となった。彼女は倭の小国・伊耶(いや)国出身の本名は竹野比売(たかのひめ)であった。小国・日本の女王・壱与は日本国の国作りの柱を〔愛〕と定め、人民に〔愛〕を尊ぶように熱心に説いた。ゆえに、日本と倭の人民は“伊耶国の美しい女王”を略して“伊耶那美命”と敬愛して愛称した。彼女は百余人の奴婢(ぬひ)の[奴]の字源銀河にもとづいて「18歳くらいの青年」と、[婢]の字源銀河に則(のっと)って「13歳くらいの乙女たち」を殺して卑弥呼の墓に埋葬する残虐な徇葬(じゅんそう)を憎悪した。

 『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名の用いられる文字は夏音文字である。
 この夏音文字は、『古事記』上巻の随所にも残っている。
 『古事記』上巻の夏音文字は、〔音〕という注を付く1字1音で多数残る。
 『古事記』編纂スタッフは後世の人々や現代のわれわれが夏音文字を実在したことを直に目でキャッチできるようにして、時の朝廷と律令体制に反逆して真実の歴史を伝えた。
 つまり、『古事記』は強大な権力に立ち向った反逆の史書であった。

 夏音文字が伝来した痕跡は、秋田県鹿角市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石の万座遺跡・野中堂遺跡に現在も明確に残っている。
 夏音文字は、“夏の始祖”の帝禹(う)の後を継ぐ帝益が帝位を退いた約4050年前、わが国の後期縄文時代初頭、益の孫の王子と若者たちが日本列島に移住したために伝来することになった。
 〔益氏の王子と若者たちが、荒波逆巻く大海を渡って夏音文字の学芸を伝えた〕、この歴史が語源となって「益荒男(ますらお)」や「大丈夫」という日本語が生まれた。「大丈夫」は「ますらお」または「だいじょうぶ」と読む。
 夏音文字の学芸をもたらした「益氏の荒波逆巻く大海を渡った男たち」の歴史を後世に伝えて、「益荒男」は「難事業に取り組んで弱音を吐かない、りっぱな男性」と意味することになった。「益氏の王子と若者たちは[大][丈][丈]の字源となる・天頂にめぐってくる銀河を緯度と子午線を計測する物差し(羅針盤)にして、大海を渡った」ので「大丈夫」は「益荒男」と同じく「ますらお」と読むことなった。また、「天頂にめぐってくる銀河を物差しにして精密に天頂緯度を測定すれば、東西の位置と南北の方角を知ることができる子午線が精確に測定できて大海を渡ることができた」ので「大丈夫」を「だいじょうぶ」と読めば「心配無用」と意味することになった。

 漢字の字源となった銀河各部には名称が無い。
 銀河各部にはどの星座よりも一段と優って明確な形が存在するが、世界中探しても銀河各部の名称は存在しない。
 そこで、わたくしは左に示す幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』にて、すべての漢字の字源が解明できる銀河の全範囲の写真を〔資料B〕とし、次頁の〔資料C〕にわたくしが定めた〔資料B〕の銀河各部の名称を掲載した。
 帝益の孫の王子一行が大海を渡ったときに、中国と日本列島の天頂にめぐってきた[大][丈][夫]の字源となった銀河を、わたくしは「十字の銀河」と名づけた。
 この「十字の銀河」は〔両手を左右に伸ばし・両足が左右に開く、大字形となる人の正面形〕に相似する。だから、「十字の銀河」は[大]の文字(字源・字形・本義)となった。「十字の銀河」の見かけの大きさは〔1丈〕である。だから、「十字の銀河」は[丈]の文字となり、[丈]の字形は[大]の字形に酷似する変形となった。「十字の銀河」は[夫]の文字となったので、[夫]の字形は[大]に[一]の字を加えるものとなった。

 夏音文字においては、地面や灰の上に書いた文字は用が済んだら直ちに消さなければ死刑と定まっていた。
 この厳しい掟は、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官であった、“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が定めた。
 「倉頡」の[倉(そう)]に[刅(そう)](立刀)を加えた字は[創(そう)]である。この[刅]と[創]の字源は〔倉頡が定めた、書いた文字の用が済んだならば直ちに消さなければ死刑にする〕という厳しい〔罰〕と[刑]を示すものであった。だから、[罰]と[刑]の字形にも[創]と同じく[刅]の字が加わる。
 倉頡が生存する以前の今から約6000年前の三皇時代初頭に生存した氏族の大王が、天頂にめぐってくる「十字の銀河の頭部」から漢字の元祖となる図書を作った。しかし、この起源漢字は単に天頂にめぐってくる銀河部から作られたものであったので、自らの氏族名をあらわすことができなかった。
 それから約1000年後に生存した倉頡は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕(〔鳥獣の文〕とも言う)を発明し、【銀河各部の形状】を観て万物の情(イメージ)に類似するように多数の【文字】が作れるようにした。この倉頡の漢字作成原理の発明によって、起源漢字を作った大王の名は「包犧(ほうぎ)」、「伏羲(ふくぎ)」などと記すことができるようになった。
 このように包犧は自らの氏族名をあらわす文字(図書)を作れなかったので、“漢字の始祖”にはなれなかった。多数の文字を作れる原理を発明した倉頡が“漢字の始祖”となった。
 文字の歴史は倉頡から始まると定められたので、「創始」「草創」「創世」などの語が示すように[創]の字義は「はじめ」となった。【銀河各部の形状】から【文字】を作る(図案する)作業は、今日、「創造」と表現される。倉頡が文字を創造する原理を発明したので、[創]は「つくる」という字義をも有することになった。

 「十字の銀河の西半分」は〔胸の部分が乳房のような形となり、腰の部分に子宮に相当する銀河部があり、この子宮に相似する銀河部は妊婦のおなかのようにも観え、右足のようにも観えるので、西に向かって歩く女性の側身形〕に酷似した。
 ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を「子ども生む女性(母)」に見立て、「十字の銀河の子宮」を〔漢字を生む子宮〕に見立てれば、万物の情に類似する多数の漢字を生むことができることを発見した。
 女性の生殖器官(子宮)の側身形と「十字の銀河の子宮」は〔鳥〕の形に相似し、子宮に宿る胎児の側身形と〔獣〕のジャコウウシの側身形に相似し、「十字の銀河の子宮」の背景には〔獣〕のジャコウウシや虎の顔の正面に類似する銀河部がうっすらと浮かんで見える。「十字の銀河」は[文]の文字に定めた。ゆえに、倉頡が発明した漢字作成原理の名は「鳥獣の文」となった。前述したように、「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河が歩く右の〔足〕」の形に相似するので、漢字作成原理は「鳥獣の足跡」とも称されることになった。
 「十字の銀河」は[宀(べん)]の文字ともなったので、[宀]に[子]が加わる文字は[字]となった。[字]は「十字の銀河の子宮」から生まれて〔ふえる文字〕であったから、「ふえる」という意味を有することになった。
 上記の❶❷❸の史跡と❹の大嘗会と天皇の王冠を調査すれば、倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は漢字作成原理の名称であることが科学的に証明される。
 学者たちは「鳥獣の足跡」は「雪の上や地面に残った鳥や獣の足跡をヒントにして倉頡は文字を作った」と、証拠が在りもしない空想を述べる。

 包犧は作った漢字の元祖は「結縄(けつじょう)」と名づけられ、倉頡が考案した文字は「書契(しょけい)」と称されることになった。
 「書契」は「木に文字を刻む」と意味することになったために、わが国では「刻木(こくぼく)」と称した。というのも、「十字の銀河」は「木の切り株」や「木の枝」の形に相似し、各地の天頂緯度の目盛は〔木〕に相似する「十字の銀河」に刻まれたからである。各地の天頂緯度の状況から地名を定める〔文字〕が作られた。ゆえに、「書契」は「木に文字を刻む」と意味することになった。
 倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕によって、三皇時代の大王の名を定められて歴史を後世に伝えることができるようになった。
 だから、[文]と[字]の字源・本義は[歴]の字源・本義となり、「歴史」の語源となった。
 この秘密を字書の聖典『説文解字』は序の文で「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」と記述した。
 つまり、この文は「文字は天頂緯度測定を基軸にする経(天文地理学)と造形芸術によって作られ、倉頡が文字を発明して王政の第一歩が始まった。そして、歴史を後世の人々に伝えることができ、後世の人々は正しい歴史を知ることができるようになった(前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり)」と伝えるものである。
 倉頡が「書いた文字は、用が済んだならば直ちに消せない者は死刑にする」と定めたために、【銀河各部の形状】が【文字】となった。この【銀河各部の形状】でも、そこに銀河が永遠に存在するために、三皇時代の歴史はじめ五帝時代とその以後の歴史も伝えることができた。
 三皇時代の結縄では、後人に三皇時代の歴史は伝えることができなかった。
 だから、「歴史」の字源・本義は「整然たる間隔で運行する【銀河各部の形状】を【文字】とする記録」ということになった。
 字源研究で有名な加藤常賢博士が著作した『漢字の起源』(角川書店)は「[歴]は整然たる間隔の歩行である。日月星辰の運行を『歴象』と言うは、本義的な使い方である」と解説する。
 この文中にある語句の[日][月][星][辰]の字は【銀河各部の形状】で作られ、[辰]は「銀河」を意味するものであるので、「日月星辰」は「銀河各部の形状」と解釈することができる。ゆえに、加藤博士の[歴]の本義解説は「整然たる間隔で歩行(運行)する【銀河各部の形状】」となり、「歴史」の[史]の字義は「記録する」であるので、「歴史」の語源・本義は「【銀河各部の形状】を【文字】として、さまざまな出来事を記録し後世に伝える」となる。
 この「歴史」の語源・本義は、上記の❶❷❸の史跡と❹の大嘗会と天皇の王冠によって科学的に明らかとなる。

 倉頡は文字が強大な権力と莫大な富を手に入れることができる強力な王政基盤になることに気づき、反体制側の人々が文字知識を習得して革命に利用されたならば、王朝は崩壊するにちがいないとおそれた。これゆえ、倉頡は〔用が済んだならば、書いた文字は直ちに消さなければ死刑にする〕と刑罰を定めた。
 このように絶大な権力を掌握できる文字が王政の基盤となったのは倉頡が生存した時代から始まるので、『説文解字』の序は「王政の始め」と表現した。
 五帝時代初頭から殷代前半期の約1700年間、倉頡が定めた刑罰によって、【文字】は【銀河各部の形状】となった。
 前述したように、[大][丈][夫][文][字][木][刻][創][刑][罰]の楷書の字形でも、仰ぎ観れば【文字】が【銀河各部の形状】になる法則は失われず、目で目撃して【銀河各部の形状】が【楷書の文字】をあらわすことが確認できた。
 また、現代のわが国の当用漢字にあっても、【銀河各部の形状】は【当用漢字】をあらわすことができる。
 だから、【文字】の原形は【銀河各部の形状】であり、最古の文字は殷代後半の甲骨文字ではなく【銀河各部の形状】であった。
 「銀河」は「銀漢」とも言うので「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と名づけられた。
 また「天の多数の文字がありき」となったので「天文」と言われるようになった。
 【銀河各部の形状】が【文字】であったので、甲骨文字も金文の字形は【銀河各部の形状】に酷似・相似・類似するように図案された。
 夏音文字の字形が存在しなくても楷書でも夏音文字が実在したことが科学的に証明できる証拠が、上記の❶❷❸の史跡と❹の大嘗会と天皇の王冠である。

 夏音文字は甲骨文字よりも古い文字であったゆえ、表記された字は絵に似る象形文字であったことになる。
 しかし、夏音文字は書いたならば直ちに消された文字であったので、【銀河各部の形状】が【夏音文字】となった。
 前述したように、【銀河各部の形状】は【楷書の文字】となった。
 だから、『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名を記す夏音文字は絵文字(象形文字)でなく楷書で表示されるが、【楷書で記された夏音文字】は【銀河各部の形状】で表示されるものとなって、【銀河各部の形状】で実在する文字となるので、①「倭に文字があった」と伝える記事群は真実を証言するものとなる。
 『古事記』上巻の〔音〕という注が付く文字は夏音文字であり、この夏音文字も楷書で表記されているが、同様に【銀河各部の形状】となって実在する文字となる。
 朝廷や律令体制に背いて、朝廷が崇拝する皇祖・天照大御神の聖性をいちじるしく汚す歴史を後世に伝える『古事記』の編纂スタッフは、夏音文字を利用して、夏音文字はじめ楷書も【銀河各部の形状】であることを、誰もが容易に理解するように書くと直ちに『古事記』は焚書(ふんしょ)されるので、太安万侶は『古事記』序で難しい語や文や表現を用いて説明することになった。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻の3巻で構成されるが、夏音文字は『古事記』上巻だけに記載された。だから、この秘密を伝えて『古事記』の冒頭は「上巻 序并」(上巻 并せて序)と表記された。つまり、この表記で「序は上巻だけの序であって、上巻の夏音文字についてこれから説明する」とあらわすために、『古事記』の冒頭は「上巻 序并」となったのである。
 この『古事記』序の冒頭に「造化の参神」が登場する。
 この「造化の参神」に関する記述は「前期・中期・後期の縄文時代の土器や土偶は頭上にめぐってくる銀河の形状を造化(造形)するものであった。益氏の王子や若者たちの話す言葉はチンプンカンプンで理解できなかったが、彼らの身ぶりや指さす銀河各部の形状のイメージは縄文の芸術家たちに理解できたので、夏音文字は縄文の芸術家たちによって習得された」と伝えるものであった。
 この序には、天武天皇の歴史書作成の企てが記載されるが、この記事の文は表面的には「天武帝が正しい史書を作れ」と命令したと読みとれるが、安万侶の真意は「後稍(のちやや)夏音を習う」すなわち「偽書を作成せよ」と指示したと暴露しているものであったと考えられる。
 この記事にあって、『古事記』の原典となる夏音文字で記載される史料の名を①「本辞」・②「旧辞」・③「先代の旧辞」と三度改める。この名称の変更には理由があって、序の末部に登場する「辞理」という語は「本辞・旧辞・先代の旧辞の【文字と言葉】の原理は【銀河各部の形状】である」という秘密に読者が気づくことを期待して、三度も名称を変えたと考えられる。
 この箇所の稗田阿礼(ひえだのあれ)についての「目にわたれば口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す」という説明をもって、学者たちは「『古事記』上巻の日本神話は口伝(くでん)であった」と、いい加減な解釈をする。しかし、この文は「銀河の形状を観て、小声で歌うようにして夏音文字の一字一字の字源・字形・字義を思い出し、この口ずさむ声を耳に聞いて浮かぶ情景や銀河のイメージを心に刻む」と意味するものである。この文を正しく解釈するには、銀河の形状を観なければできない。特に「耳に払るれば」という語句はさまざまな字源字書や『説文解字』でも白川静著『字統』でも解明できない[聞]の字源を示すもので、銀河を観れば[聞]の字源を正しく解明できる。ゆえに、この文は【夏音文字はじめ楷書】=【銀河各部の形状】の辞理を伝えるために設けられた文であったことになる。
 だから、『古事記』序の末部に記す「辞理」という語は「同一史料の名を『本辞』から『旧辞』へ変えさらに『先代の旧辞』と変えた、この『古事記』上巻の原典となった夏音の辞(文字と言葉)の原理は【銀河各部の形状】である。また、楷書の辞の原理も【銀河各部の形状】である」と伝えるものであったことになる。ゆえに、「辞理」という語の後に記載する、楷書の「日下」=夏音文字「玖沙訶(くさか)」、楷書「帯」=夏音文字の「多羅斯(たらし)」の事例で、【楷書】も【夏音文字】も【銀河各部の形状】となることを指摘する解説が設けられたのである。

 天武・持統両天皇と律令体制は『古事記』編纂スタッフに「後稍夏音を習う」と強要する、すなわち「壬申の乱の、天皇と律令体制は絶対に皇祖・天照大御神の聖性を汚してはならない、天照大御神は夏音文字に精通する聡明な女性であったことを習う(少しだけ復興する)偽書を作成せよ」と欲求した。
 この天皇と律令体制が偽書作成を欲求する言葉の「後稍夏音を習う」は、中国の正史『新唐書』日本伝に「702年に派遣された日本国の遣唐使が『後稍夏音を習う』と中国王朝に伝えた」と記されて残った。
 しかし、「後稍夏音を習う」と命令する天皇と律令体制の欲求をはねつけて、『古事記』編纂スタッフは天照大御神の聖性を汚す真実の歴史を、伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問神話にして記述した。
 

 【銀河各部の形状】を【文字】として歴史を伝える『古事記』上巻は、伊耶那岐命の黄泉国訪問神話で歴史の真相を下記のように伝える。
 ――倭女王・伊耶那美命は死去する時、徇葬を禁止する遺言を残した。しかし、伊耶那美命の後を継いで倭女王に就任した、大和の崇神(すじん)天皇の生母の天照大御神は残虐な徇葬を決行して多数の若者と乙女を殺して、熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)に築造した伊耶那美命の墓に埋葬した。
 伊耶那美命の夫にして天照大御神の夫でもあった『魏志』倭人伝末部に登場する載斯烏越(そしあお)は伊耶那岐命であり、崇神天皇の実父の第9代開化天皇であった。
 伊耶那岐命は愛妻伊耶那美命の遺言を守るために、日本兵を引き連れて墓から伊耶那美命の棺を奪い逃走し、日本兵の本隊と熊野に住む戦士たちが待機する速玉大社の境内で倭政府の大軍を撃破した。
 天照大御神は捕虜となり、伊耶那岐命が居る現在の和歌山県新宮市に所在する神倉(かんのくら)神社の参道を塞ぐ巨岩の前に連行された。
 伊耶那岐命に離婚を言い渡された天照大御神は「〔愛〕を尊ぶ葦原中国(あしはらのなかつくに)の日本の人民を、われは必ず一日に千頭(ちがしら)(くび)り殺す」と呪詛(のろい)の言葉で誓った。
 伊耶那岐命は「お前がそうするならば、伊耶那美命が提唱した〔愛〕を尊ぶように人民に説いて、吾は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と宣誓した。

 その後、伊耶那岐命が没すると、天照大御神は離縁された時に呪い誓ったとおりに、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念尊ぶ人民を憎悪し、伊耶那美命に憧れる出雲の大国主神や筑紫の宗像(むなかた)王権を征服し、強大な権力と武力をもって倭国を支配した。この天照大御神政権が、後の大和朝廷の基礎を築いた。

 この横暴で日本建国の〔愛〕の理念を呪って祟る理不尽な天照大御神の政策に反対し、須佐之男命たちが暴動をおこした。
 この須佐之男命たちの暴動に呼応して、❶の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵が作られた。だから、❶の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵は伊耶那美命(壱与・竹野比売)が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために作成された史跡であった。
 当時(3世紀後半)にわが国に存在した文字は【銀河各部の形状】を【文字】とする夏音文字であった。
 だから、上記の❶の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵と同様に、❷の彦根の「夏音文字は習わず」の3千万坪の大鳥の地上絵も、夏音文字はじめ楷書などすべての【文字】は【銀河各部の形状】であったと、後世の学者たちが知ることがきるように作られている。
 また、【すべての漢字の原形】は【銀河各部の形状】であるゆえ、❸の桂離宮の庭園の平面図は【すべての漢字】は【銀河各部の形状】であると明確に証明できるように、漢字が作られた銀河全像を庭園の諸部分に分化し、この各部分が相集まって一連の銀河の帯になるように作られている。
 要するに、❸の桂離宮の庭園の平面図の設計は銀河全像をあらわすものとなる。この設計で【すべての漢字】は【銀河全域の形状】であると表現する。
 前述したように、[文]と[字]の字源と本義は「歴史」の語源と本義となるゆえ、桂離宮の庭園の設計は【銀河各部の形状】は「歴史」の語源と本義を表示するものとなり、日本古代史の真実を知ることができる基礎知識を表示するものとなる。

 『魏志』倭人伝末部に登場する倭女王・壱与(伊耶那美命)が13歳の時に女王となって赴任した小国・日本国の範囲を、『万葉集』は防人歌(さきもりうた)の作者たちの東海・関東地方であると後世に伝える。
 『万葉集』の最終巻・巻二十に収められる防人歌は4321番から4436番までの116首である。このうちの110首(95パーセント)は、日本建国の〔愛〕の理念を表示する、妻子や両親・肉親や恋人を思い気づかう愛の歌である。この116首の防人歌のうち、4370番と4373番の2首は「天皇の兵士」であると詠む歌、他の4首は日本建国の〔愛〕の理念と天皇への尊敬を示す歌ではない。
 『万葉集』は日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために作成された和歌集であった。
 『万葉集』の巻十六までは橘諸兄(たちばなのもろえ)が編纂し、老いた諸兄を継いで若い大伴家持が後を継いで最終巻までを完成させた。
 諸兄が編纂した巻十六までには、小国・日本の範囲が明示されていなかった。それゆえ家持は小国・日本の範囲を示す防人歌が最終巻の巻二十に多数収めて、『万葉集』の編纂目的は日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるためであると表示した。『万葉集』を完成させた大伴家持は天皇と律令体制に逆らう人物として3度も厳しく罰せら、最後は東北の多賀城に左遷されて没した。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問神話では、徇葬を陣頭指揮した〔天照大御神〕は「黄泉国の伊耶那美命」とあらわされた。「黄泉国」は「残虐な徇葬を行われた大斎原」であり、天照大御神は伊耶那美命の後を継ぐ倭女王であり、伊耶那美命の墓作りの陣頭指揮した。ゆえに、〔天照大御神〕は「黄泉国の伊耶那美命」とあらわされた。
 この「黄泉国の伊耶那美命」を、現在、学者たちは「冥界の伊耶那美命」と断定する。
 ゆえに、すべての現代訳の書物は「黄泉国の伊耶那美命」を「冥界の伊耶那美命」と定める。
 「黄泉国の伊耶那美命」が「天照大御神」であると明示したならば、元明天皇が直ちに怒って献呈拒否するので『古事記』は正史になることはできない。
 編纂スタッフは『古事記』を正史にするために、「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」とあらわした。この表現だと、現在の学者たちが断定したように、「黄泉国の伊耶那岐命」は「天照大御神」にならないので、元明天皇は『古事記』の献呈を許可するのであるまいかと編纂スタッフは期待した。しかし、元明天皇は後世の学者たちが「黄泉国の伊耶那美命」を「天照大御神」と解読するにちがいないと考え、即座に『古事記』の献呈を拒否した。
 正史『続日本紀』には元明天皇の『古事記』編纂の命令と完成に関する記事が記載されていない。というのも、元明天皇が『古事記』を反逆の書と怒って献呈を拒絶して抹殺化をはかったからである。
 だからこそ、「黄泉国の伊耶那美命」は天皇が絶対に聖性を汚してはならぬと厳しく定める「皇祖の天照大御神」だったのである。

 「黄泉国の伊耶那美命」という表現は紛(まぎ)らわしいので、日本最古の小説『竹取物語』が作られるようになり、伊耶那美命の本名の「竹野比売」に基づいてヒロインは〔竹の筒から生まれる「なよ竹のかぐや姫」〕となった。
 『古事記』上巻は「伊耶那美命は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)すなわちクワやスキなどの農具の鉄製の刃先を作る製鉄事業における炉の爆発による火災で火傷を負い、天の香具山の麓の泣沢女(なきさわめの)神社で臨終した」と書くので、この「火之迦具土神」の「迦具」と「香具山」の「香具」の「かぐ」の音から主人公の名は「かぐや姫」となった。
 かぐや姫に求婚する五人の貴公子のモデルは強大な権力を手に入れた人物や日本建国の〔愛〕の理念の抹殺を謀った人物たちである。かぐや姫に求婚する御門(みかど)のモデルは、日本建国の〔愛〕の理念の消滅に躍起になった律令体制の最盛期であったと同時に解体への第一歩を踏みだした聖武(しょうむ)天皇である。
 『竹取物語』の最後は「勅使(ちょくし)の“つきのいはかさ”という武将が駿河の国の山の頂上へ多くの〔つはもの(士)〕を連れて登った。その山は“ふじ(富士)の山”と名づけられ、その煙は、いまだ雲のなかへ立ち上ると、言い伝えるようになった」と記述する。
 この文は、「富士の山の周辺地域が13歳の時に女王となった伊耶那美命が赴任した小国の日本である。伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は永遠不滅のごとく立ち上り、武士たちは【銀河各部の形状】が【文字】となる夏音文字の学芸を皇室や律令体制に逆らって保存するようになったと、いつしか言い伝えられるようになった」と表現していることになる。

 『竹取物語』は9世紀後半から10世紀中ごろまでに成立するものであった。
 1010年、❶の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を北隣の引佐(いなさ)町井伊谷(いいのや)に居住して守っていた建比良鳥命(たけひらとりのみこと)の子孫は、『竹取物語』が指摘したように、時代の趨勢(すうせい)にしたがい、武士となって“井伊家”を創設した。
 12世紀末になると、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を保存するために、源頼朝が小国・日本国の鎌倉に武家政権を樹立した。
 中国で臨済宗(りんざいしゅう)を学んだ栄西(えいさい)が1191年に帰国し、朝廷の許しを得て夏音文字の学芸を厳重な機密にして日本建国の〔愛〕の理念の消滅をはかる比叡山・天台宗に対抗して、夏音文字の学芸を保存する運動をおこなった。ゆえに、武家や公家の尊崇を集めて禅宗が流行した。
 鎌倉幕府の樹立目的を受け継いで足利尊氏が室町幕府の土台を固めた。
 3代将軍の義満は夏音文字の学芸を設計する鹿苑寺(ろくおんじ)・金閣寺の建物と庭園を造営した。
 また、夏音文字の学芸を造形表現する枯山水の竜安寺(りょうあんじ)の石庭が作られ、以後長い年月をかけてに幾度も石の数や配置について模索され、遂に今日のような夏音文字の学芸を見事に表現する庭園芸術の極致を示すものとなった。
 時代が下ると、『竹取物語』が指し示す夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興する志を抱く織田信長が登場した。
 1571年、徇葬を決行した天照大御神を天台宗の本尊・大日如来であるとする本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)をとなえて〔愛〕の理念が掲げられた日本建国史を闇に葬って宗教界に君臨する天台宗を憎悪する信長の怨念はすさまじく、比叡山を焼き討ちして山上山下の僧侶はじめ老若男女まで数千人を殺した。
 この信長の命令で比叡山を焼き討ちした明智光秀はなぜ拒まなかった後悔するようになり、信長をしだいに憎悪するようになり、1582年6月2日の未明、本能寺の変をおこして信長を討った。
 その後、信長を“わが夢をかなえてくれるわが君主”と頼っていた徳川家康が豊臣家を倒した。
 この家康に夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興は受け継がれ、家康は❶の細江町の1千万の大鳥の地上絵を守る井伊氏を譜代大名筆頭の地位につかせ、1603年から❷の彦根の「夏音文字は習わず」とあらわす3千万坪の大鳥の地上絵の作成が開始された。1608年には、小堀遠州に❶の細江町の大鳥の地上絵の研究を命じて、後の❸の桂離宮の庭園作りの緒(ちょ)につくことになった。

 
 ❶の『魏志』倭人伝と同時代に作成された細江町の1千万坪の地上絵の経緯度原点は、大鳥の地上絵の中央を西流する北緯34度48分の都田(みやこだ)川河口の東岸に設置され、三角測量の基点・滝峯不動尊は同緯度となる。そして、もう一つの三角測量の基点は、経緯度原点と滝峯不動尊を結ぶ緯度軸に対して60度に傾く線が結ばれる引佐町井伊谷の八幡宮である。
 この八幡宮は武家の井伊氏が起源する儀式が行われた氏神であり、滝峯不動尊と八幡宮を結ぶ線を延長した線上に八幡宮から遷座した井伊氏の産土神(うぶすなかみ)の渭伊(いい)神社が所在する。
 現在まで、❶の細江町の大鳥の地上絵内から7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸が出土している。
 銅鐸は細江町の大鳥の形をした地図作成する道具であった。だから、銅鐸は倭の小国の地図を作成するための道具でもあったことになる。
 ゆえに、銅鐸の鈕(ちゅう)は精密に天頂緯度が測定できる仕組みとなり、銅鐸の身(筒)は天頂点がキャッチできるように作られ、銅鐸の底縁には井桁(いげた)が組める切込(きりこ)みがある。
 だから、「銅鐸は地図作成器具であった」ことを伝えて、井伊氏の家紋は「平井筒紋(ひらいつつもん)」という名が付く井桁紋である。
 また、井伊家は前述した『万葉集』を橘諸兄が巻十六までを編纂したことを知っていた。朝廷の欲求に背き日本建国の〔愛〕の理念を後世を伝える〔『万葉集』の編纂〕は、暗号で呼ばれた。この「『万葉集』の編纂」を意味する暗号に、諸兄の姓「橘」が用いられた。井伊家は「橘」が「『万葉集』の編纂」をあらわす暗号であったことを示して、井伊家のもう一つの家紋は「彦根橘」と呼ばれる〔橘〕をデザインする紋章にした。

 学者ならば立論する根本史料の文献を、真っ先に忠実に読解して、その謎や秘密を解明するのが、学者の仕事である。それにもかかわらず、何にも考えようとせず、最初から【誤読】して、その【誤読】に“文献批判”と言う偽りの名称を付けるのは卑劣・無能と言わざるをえない。
 なぜならば、“文献批判”が【誤読】であった世界的に有名な考古学の出来事が存在するからである。この出来事は、歴史学を研究する学者ならば知っているはずであるから、『魏志』倭人伝に加える“文献批判”の正体は【誤読】にちがいないと考えるのが当然であり、“文献批判”は【誤読】の可能性があるので真っ先に『魏志』倭人伝を忠実に読解しなければ、“歴史学者失格”となる。

 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争を、約350年後の紀元前850年頃に生存そたギリシャの詩人ホメロスは英雄叙事詩『イリアス』を作成して後世に伝えた。学者たちは『イリアス』に書かれたトロイ戦争は「空想の産物である」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』の叙事詩の記述にしたがって発掘をおこない、歴史上の事実であったことを証明した。

 このように、“文献批判”は【誤読】であった。
 この“文献批判”を屋台骨とする新井白石以来約280年におよぶ邪馬台国研究は、完全なる【誤読】の産物であったのである。
 邪馬台国研究が【誤読】の産物であることは、上記の❶❷❸の史跡と❹の史料・大嘗会と天皇の王冠で完璧に明確に科学的に証明される。
 邪馬台国研究は、【科学】は何たるかをまったく知らない人物が、忠実に読まないのは【誤読】になるという歴史学のルールに無知な人物が、歴史を調べるのだからせめて歴史学者がそなえるべき基礎知識として「歴史」の語源・本義を調べておこうと考えもしなかった似非歴史学者たちがひたすら空想して、その結果生まれた妄想だったのである。
 邪馬台国説学者たち『魏志』倭人伝について一言も口出しすることができない、無知な人物たちであったのである。
 『魏志』倭人伝は、トロイの遺跡を発見したシュリーマンのごとく忠実に読解する作業から始めて真実を知ることができる史料である。
 「邪馬壱国」と記してあるにもかかわらず、「邪馬台国」であったと主張する学者たちは『魏志』倭人伝について一言も口出しをすることができない。
 『魏志』倭人伝は、すべての記述が真実を伝える史料だったのである。

|

« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・11 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・13 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類の共通の敵である・12:

« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・11 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・13 »