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2012年6月22日 (金)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・30

 卑弥呼が登場する『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、共通する3つの重大な古代史の秘密が記述される。
 しかし、学者たちは〔文献批判〕という方法を用いて、この3つの重大な古代史の記述をことごく否定して削除(さくじょ)する。

●学者たちが文献批判で削除した日本古代史の秘密

➀ 『魏志倭人伝』とそして『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部は「卑弥呼王朝は精密な天頂緯度測定を基(もと)に〔日本列島は〔東〕に伸びずに〔南〕に伸びる〕と立論した転回日本列島地理を制定した」と記述する。この転回日本列島地理に関する記述は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の後半部にもある。

➁ 『古事記』序は「神産巣日神(かむむすひのかみ)の時代(今から約4050年前・中国の夏代初頭・わが国の後期縄文時代初頭)に夏音(かおん)文字が伝来して習得された」と証言する。
 この夏音文字は『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名となって現存し、また『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音文字として多数現存する。
 『古事記』が完成する10年前の702年に中国に渡った日本の遣唐使が中国王朝に告げた言葉が中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に記述される。この記事の中に「遣唐使が『後稍(のちやや)夏音を習う』と述べた」という文がある。この「後稍夏音を習う」という文は「壬申の乱の後、夏音文字を稍々(少しだけ)習う(復興することになった)」と意味する。
 遣唐使が証言したとおりに、『古事記』上巻に「後稍夏音を習う」ことになって随所に〔音〕という注がついて夏音文字が多数記載されて現存する。
 秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(かんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡には、夏音文字の学芸が伝来して習得された痕跡(こんせき)が明確に残る。
 夏音文字は殷代(いんだい)の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字よりも約750年前の原初漢字である。この夏音文字は〔書いた後に用が済んだならば必ず文字は消せない者は直(ただ)ちに死刑にされてその大罪は一門におよぶ〕と、“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)によって厳しく定められた掟を厳守するものであった。
 文字は強大な権力と莫大な富と最高の名誉を手に入れることができる方法となった。これゆえ、文字の知識を反体制側が習得して革命に利用すると容易に王朝が滅亡すると倉頡は心配した。だから、倉頡は文字の学芸を王朝が独占管理して厳重な機密にするために厳しい刑罰を定めた。
 
 この倉頡の掟のために、中国でもわが国でも夏音文字の出土点数は極めて少ない。中国でもわが国においても、夏音文字に相当する文字はともに5種(5字)しか出土していない。長野県茅野市の尖石(とがりいし)考古館が所蔵する石板画に線で刻まれるの5つの図書が、わが国の夏音文字であると考えられる。
 倉頡は反体制側に文字知識が簡単に洩れなくするために、【文字】となる【銀河各部】に名前を付けることを厳重に禁止した。また、前述したように、書いた文字が用が済んだならば消さない者は直ちに死刑にすると定めた。さらに、彼は【銀河各部の形状】を【文字】とすると定めた。これによって、たとえ消し忘れた文字(図書)が反体制側の人々の目にとまっても、それは単に事物の形を描くもの(絵画)の類(たぐい)と解釈されて、王朝の権力基盤となる【銀河各部の形状】から作られた【文字】であると認識されないようにするための用心であった。
 この結果、【倉頡以後に作られたすべての文字】の字源と本義は【銀河各部の形状】という学理が確立することになった。ということは、【すべての文字】は【銀河各部の形状】という原理・原則が成立したことになる。

 2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代における夏音文字は銅鐸絵画に相似する象形文字で書かれていたものもあったかもしれない。しかし、当時は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて現存する状況と同じく短時間で能率的に多数の文字を書くことができる楷書(上代特殊仮名)でも表記されていたにちがいない。
 夏音文字は楷書でも表記されることになったのは、銀河各部の形状に相似する象形文字よりも楷書のほうが銀河各部の形状に似ていないので、楷書は倉頡が警戒した反体制側に文字の学芸の機密を洩らしてはならないという掟を守る利点がそなわる文字となった。だから、卑弥呼王朝は民衆の反乱によって王朝が滅亡するのを食い止めるために、民衆が独学で銀河を見て文字知識を習得することを警戒して、当時の魏や諸韓国で使用されていた楷書で夏音文字を表記したと考えられる。

 現在の【文字】は「ことばをあらわす記号」と化しているが、現在の日本の当用漢字の本来の姿は【銀河各部の形状】なのである。なぜならば、当用漢字の一字一字の字源・本義は【銀河各部の形状】だからである。
 このように、【すべての文字】の正体は【銀河各部の形状】である。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を略すると「漢字」となるので、「漢字」という語は【すべての文字】は【銀河各部の形状】であると伝えるものとなる。
 【すべての文字】は【銀河各部の形状】であったので「天に多数の文字がありき」となって、これを略して「天文」という語が成立した。だから、「天文」という語も【すべての文字】は【銀河各部の形状】であったと伝えるものとなる。
 世界的に有名な京都市に所在する竜安寺(りょうあんじ)の石庭と桂離宮の庭園の二つの名園は、現在のわれわれでも【すべての文字】は【銀河各部の形状】であるという学理を目で見て学ぶことができる施設である。したがって、竜安寺の石庭は5群の石組による15個の石・緑の苔・白砂の平庭・柿葺油(こけらぶきあぶら)土塀・知足(ちそく)の蹲(つくば)い・方丈の間などで構成される字源字書ということになる。
 字書の聖典とされる『説文解字』も【すべての文字】は【銀河各部の形状】であると後世に伝えるものであり、『説文解字』で解説されるすべての字源や本義は【銀河各部の形状】を説明するものである。
 中国の二大思想家の一人の老子の教えを伝える『老子』上篇(道経)の第1章から第37章までの文章も【すべての文字】は【銀河各部の形状】であることを後世に伝えるものである。
 『古事記』の序はその全体を通して、後世の人々に「【三皇時代の結縄(けつじょう)・五帝時代の書契(しょけい)・夏音文字・甲骨文字・金文・篆文(てんぶん)・隷書(れいしょ)・楷書】という、このような区別を超越して、【文字】はすべて一括して【銀河各部の形状】であるという結論になる」と解説するものである。だから、『古事記』の序はきわめて特殊な形式となって「上巻 序并」(上巻并せて序)と表記される。つまり、『古事記』の序の作成目的は「『古事記』上巻に用いられる【夏音文字はじめとする、すべての文字】は【銀河各部の形状】に直して解読すれば、真実の歴史が解明できる仕組みになっている」という秘密を伝えるものであった。この作成目的を示して「上巻 序并」という世にも珍しい形式になったのである。

 このような秘密があったゆえに、竜安寺の石庭と桂離宮の庭園の設計は【すべての文字】は【銀河各部の形状】であるという学理を伝えて、すべの漢字の字源を知ることができる1400字前後の基本字の字源・本義は【銀河】を見上げて思考すれば解明できる字源字書の仕組みになっている。
 桂離宮の庭園内の外腰掛(そとこしかけ)の飾雪隠(かざりせっちん)は倉頡が「用が済んだならば直ちに必ず文字を消せなければならない」という掟を定めた[幡]の字源の秘密を伝える装置である。
 わが国で神社における最多の「八幡宮」の[幡]の字源には「用が済んだならば直ちに必ず文字をけせなけれなならない」という、わが国に伝来した原初漢字・夏音文字における厳しい掟が秘められる。
 暗い場所にいると人の瞳孔の直径は本人の意思と無関係に自動的に拡大するので、銀河の暗い箇所も見えるようになり、また銀河各部が鮮烈に見えるようになる。
 文字を教える者と教わる者は、木陰や人里離れた場所にある廃屋の戸を開ける、そのような暗い場所にある[幡]の装置を伝える飾雪隠のような文字を書いたり消したりすることが容易にできる砂地や柔らかい地面をさがして物陰に隠れて、夏音文字を教え学んだ。この[幡]の字源の秘密を、桂離宮の外腰掛の戸の外に半分姿をはみ出すように作られる飾雪隠は伝えている。
 このような秘密があったために、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に楷書で表記されて現存する夏音文字は未だ一点も発掘されない。
 しかし、「漢字」や「天文」という語の秘密、『老子』や『説文解字』や『古事記』の序、竜安寺の石庭と桂離宮の庭園などが伝えるように、【すべての文字】は【銀河各部の形状】であることは真実であり、われわれが認識する「ことばをあらわす記号」という〔文字〕の定義は誤解・錯覚であるので、【銀河各部の形状】が【ほんとうの夏音文字】であったのである。
 これゆえ、地中から出土する卑弥呼時代の夏音文字の史料が一点も発見されなくても、卑弥呼時代には夏音文字が存在していたことは真実ということになる。

➂ 日本国は〔愛〕の理念を掲げて誕生した。233年ころ、『魏志倭人伝』の末部に登場する13歳の壱与(いよ)が赴任して小国・日本が誕生した。小国・日本の女王の壱与は、国作りの柱を〔愛〕と定め、人民に〔愛〕を尊重するように説いた。
 夏音名「壱与」の愛称は「伊耶那美命(いざなみのみこと)」、本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。彼女の出身地は、倭国に属する小国「伊耶(いや)国」(旧国・丹波)であったので、小国・日本の人民は“伊耶国の美しい女王”と敬愛して“伊耶那美命”と愛称した。
 『魏志倭人伝』は――卑弥呼の没後に、男王が倭の大王となったが、卑弥呼の墓を作る時に百余人の奴婢(ぬひ・18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女)を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪する反乱がおきたため、倭の政府軍は千余人の反乱者を殺した。この反乱を鎮(しず)めるために、小国・日本に赴任させた壱与・伊耶那美命を倭女王に就任させた。〔愛〕の女王・伊耶那美命を信頼して反乱者たちは武器を捨てたのでついに反乱は静まった――と伝える。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)の黄泉国(よみのくに)訪問説話は、天照大御神は伊耶那美命の墓を作る時に徇葬を陣頭指揮したので、天照大御神を「黄泉国の伊耶那美命」と表記した。
 この伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――伊耶那美命が没すると天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)が倭女王に就任し、伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら))に多数の青年と乙女たち(八の雷神(やくさのいかづちがみ))を殺して埋める残虐な徇葬を陣頭指揮した。伊耶那岐命は伊耶那美命(正妃)と天照大御神(第2后)の夫であり、彼は小国・日本の軍王(いくさのおおきみ・卑弥呼と不和であった狗奴国を討伐した軍王)であり、『魏志倭人伝』末部に記載される「載斯烏越(そしあお・夏音名)」であり、後の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた第9代開化天皇であった。伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野の住人の協力のもとに、伊耶那美命の陵墓から棺(ひつぎ)を奪うクーデターを起こし、現在の熊野速玉大社の境内にて倭の政府軍を撃破した。捕虜となった天照大御神は、現在の和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町の神倉(かんのくら)神社の御神体となる千引(ちびき)の石(いわ)(ごとびき岩)の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡された。この離縁に怒った天照大御神は「われは日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人草(ひとくさ・人民)の母親たちの参道を狭くなるように呪い祟(たた)って、一日に千人の胎児の頭を絞めて殺すようにする」と誓った。この呪詛(じゅそ)の誓いに対して、伊耶那岐命は「吾は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つように人草に説く(人民に日本建国の〔愛〕の理念を尊重するように説く政事(まつりごと)をおこなう)と宣誓して、伊耶那岐命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を継承した――と記述する。
 このような出来事は事実であったゆえ、神倉神社の主神は伊耶那岐命に離縁を告げられた天照大御神である。

 今日、上記の3つの最も重大な日本古代史は学者たちが〔文献批判〕を用いて廃棄処分した。
 学者たちが“こんな記述は信用できない。だから、問答無用だ! すべて文献批判で始末できる”と言って廃棄処分した『魏志倭人伝』の意見は「邪馬台国説」と呼ばれ、『古事記』上巻の重大な記述を廃棄処分した意見は「日本神話虚構説」と呼ばれている。

 
 ところが、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という文字は見当たらず、卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と表記する。だから、学者たちが“文献批判に従え”と主張する「邪馬台国」という名称は誤読の産物となる。
 この誤読については、古代史研究家の古田武彦氏が『三国志』全体にある[壹](壱)86個、[臺](台)56個の文字を一字一字調べて、[壹]には[臺]の誤記が1例も無いことを証明した。
 『魏志倭人伝』という史料は、今から約1700年前の3世紀(280~289年)において、晋朝(しんちょう)の歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)によって著作された。『魏志倭人伝』は陳寿が著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝」の末尾にある倭人条である。

 この『魏志倭人伝』に〔文献批判〕を加える邪馬台国説は人類共通の敵である。

 『魏志倭人伝』は多数の記事で、上記の➁の「倭に夏音文字があった」という証言をする。しかし、学者たちはの“文献批判だぜー”と言って、この証言をことごとくもみ消してしまう。
 この行為は人類共通の真実の歴史を消滅させる脅威(きょうい)となる。
 『魏志倭人伝』には“絶対真理”と言えるほど絶対的な真理を表示する記述がある。
 この“絶対真理”の一点に視点を絞って考えると、直ちに邪馬台国説が支離滅裂(しりめつれつ)な科学がまったく成立しない空理空論であると断定できる。
 上記の➁「倭に夏音文字があった」という証言は、世界史的にもきわめて重大な問題である。
 というのも、上記の➁の秘密は漢字に限られることでなく、古代エジプト文字(ヒエログリフ)はじめABCアルファベットのルーツとされるワディ・エル・ホル文字・原シナイ文字・フェニキア文字など代表的な世界の古代文字は銀河各部の形状から作られたことが証明することができるようになるからである。
 世界中探しても銀河各部に名称が存在しないのは、倉頡が【文字】が【銀河各部の形状】である学芸を独占管理して王朝の滅亡を心配したと同じく、世界中においても厳重に機密とされたからである。
 この世界中に共通する【すべての文字】は【銀河各部の形状】から作られたという秘密を科学的に明確に解明・証明できる史跡・遺跡は、現在にあっては中国やエジプトには存在せず、わが国だけに存在すると考えられる。

●『魏志倭人伝』に記述される《絶対真理》

 学者たちは“文献批判だぜー”という慣用句を用いて、荒唐無稽(こうとうむけい)の妄想(もうそう)の正体がバレないようにするため、マスコミを言葉たくみに誑(たぶら)かし手懐(てなず)けている。
 邪馬台国の正体が出鱈目であることが直ちに明らかとなる――“絶対真理”とは《天の北極で緯度と子午軸を計測すると大海を渡ることができないが、天頂緯度測定でならば大海を往来できる》という、この絶対的な事実である。
 上記した●学者たちが文献批判で削除した日本古代史の秘密のうちの➀「転回日本列島地理」を学者たちは“このような記事は絶対に信用できない”と断定する。

 学者たちは〈緯度の測定〉に二つの方法があることにまったく気づいていない。
 その一つが❶〈天の北極で測量する方法〉、もうひとつが❷〈天頂緯度を測定する方法〉である。
 このように〈緯度の測定〉には二つの方法が存在するが、《日本列島のような広大な地域の地理と大海を迷わずに往来することができる緯度の方法》は、後者の❷〈天頂緯度を測定する方法〉一つのみと限定される。
 『魏志倭人伝』に登場する魏と帯方郡(たいほうぐん・朝鮮半島に所在した魏の出張機関)の使節は大海を往来できなかった。
 しかし、魏と国交を結んだ倭の使節は大海を往来できた。
 この魏・帯方郡の使節が渡れなかった大海を倭の使節が往来できたゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は実際にこの世に存在した史料であることが確実となる。

 〔文献批判〕を正しい思考方法であると思い込む学者たちは“日本列島地理が〈南〉に伸びることは絶対にありえない”と断定する。
 大海を往来できなくなる天の北極を基準にすると日本列島は〈東〉に伸びていると定めることができる。いっぽう、夏音文字の学芸の基軸となる天頂緯度測定の方法だと、大海を往来できるが、日本列島は〈東〉に伸びると限定できなくなる。
 だから、日本列島が〈東〉に伸びていると定めるためには天の北極を基準にすることが不可欠となる。
 前述したように〈緯度の測定〉は❶〈天の北極〉と❷〈天頂緯度の測定〉という二つの方法のみしか存在しないので、“倭の使節は天の北極で緯度を測量して大海を渡った”と明言するものでないが自動的に「倭の使節は天の北極で緯度を測量して大海を渡った」と明言していると同じことになる。
 しかし、はからずも学者が主張することになる〈天の北極で緯度を測量して大海を渡る方法〉の場合、海に入った途端(とたん)に緯度と子午軸が不明となって倭の使節は迷い漂流して落命することになる。
 そうなると、魏・帯方郡と倭は国交を結ぶことができなかったので『魏志倭人伝』のすべての文字は一瞬にして全部消滅してまったく存在しなかったものとなる。

 したがって、❷の〈天頂で緯度を測定する方法〉のみが真理を明確に示すものとなる。
 つまり「倭の使節は精密に天頂緯度を測定しまた子午軸を測量して大海を往来した」という、このことのみが『魏志倭人伝』がこの世に存在したと証明できることになる。
 だから、『魏志倭人伝』にある「倭の使節が大海を渡り帯方郡に到着した。また、魏の都をも訪問した。その倭の使節は大海を渡って帰還した」という記述は絶対真理を示すものとなる。
 “〈南〉に伸びる転回日本列島地理はインチキだ”と断定する❶の邪馬台国説だと、『魏志倭人伝』には1字も文字が書かれていてはならない、この世にまったく存在してはならない影も形がまったく存在しないものとならなければならないことになる。
 だから、1字も文字が存在しない空なるものからは邪馬台国説なるものを絶対に立論するこができなくなるので、学者たちの意見は荒唐無稽の妄想となる。

 当時、魏と帯方郡の使節は大海を渡ることができなかった。
 というのも、中国では紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文が完成したからである。
 このため、卑弥呼が生存した3世紀になると以前に栄えていた精密に天頂緯度を測定するための眼力を鍛錬する習慣が廃(すた)れてしまった。
 天の北極で緯度と子午軸を測量すると不正確となるので、大海に入るや緯度と方角が不明になって迷い漂流して必ず命を落とした。

 中国・朝鮮半島と日本列島の中間には、大海が存在した。
 この大海は、シナ天文が栄える魏と帯方郡の使節には渡ることができなかった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「帯方郡の使節一行は倭からの使節の船に便乗(びんじょう)して倭地に到着し、帯方郡の使節一行は魏の都へ訪問することになった倭の使節の船に便乗して帰還した」と記述する。
 「卑弥呼が統治した倭の隣国は東鯷人(とうていじん)国であった」と記述する中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「東鯷国の人民は時(定期的)に大海を渡って会稽(かいけい)にやってきて交易をするが、中国の人々には東鯷人たちが往来する大海の道ははるかに遠くて途中で道が絶えてしまって往来することはできない」と明記する。 
 このように、日本列島の倭国・東鯷人国の人々たちは天の北極で緯度(位置)と子午軸(方角)を測量せず、天頂点をキャッチして精密に緯度を測定して子午軸で方角を計測していた。

 『魏志倭人伝』の九州末盧(まつろ)国から倭の王国・邪馬壱国までの旅程記事にある方位について学者たちは“日本列島は〈東〉ではなく〈南〉に伸びていると記述しているが、この記述は著者の誤解によるものである”と断定する。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「日本列島は〈南〉に伸びる」と記述していることは事実となる。
 このほかに『魏志倭人伝』には「日本列島は〈南〉に伸びる」と説明する文章が4箇所存在する。
 その内で、最も明確であるのは「その(日本列島の)道里を計るに、当(まさ)に、会稽・東治の東に在るべし」という文である。
 というのも会稽は現在の浙江省(せっこうしょう)の紹興(しょうこう)市であり、東治は福建省の福州市であるが、天の北極を基準にして〈東〉に伸びると図化される日本地図の場合は会稽(紹興市)と東治(福州市)の東北になって矛盾するが、〈南〉に伸びる転回日本列島地理は『魏志倭人伝』の「まさに会稽・東治の東に在るべし」という文に合致して矛盾しない。
 だから、「その道里を計るに、当に、会稽・東治の東に在るべし」という文は、卑弥呼王朝が転回日本列島地理を制定していたことを証言するものとなる。

 倭において天の北極の子午軸で方角を定めず、精密に緯度を測定するときに天頂点で直角に交わる子午軸で方角を定めた。
 この❷〈天頂で緯度を測定する方法〉では――4~6秒の寸秒で天頂緯度を測定する線を定規とした。
 この定規となる「線」は[玄(げん)]と名づけられ、[玄]の字源となった。つまり、「4~6秒の間に天頂点の真東から真西へ移動する銀河部位の軌道」が[玄]である。この[玄]の〔天頂緯度軸の〈東端〉から天頂点〈南〉までは一直線となる〕ので、緯度と子午軸が精密に測定できることになって、大海に入る人々や遠くの地に旅する人々は天の神から命を授かると認識した。
 これゆえ、「天頂点と重なる銀河部位が[玄]の線(寸秒の軌道)の〈東端〉から〈南の天頂点〉に到達すると精密に緯度と子午軸が測定できること」になるので、この状況は「[玄〕に命を委ねる」と表現されることになり、さらに[委]・[倭]の字源は「方位が90度転回して〈東〉が〈南〉になる」と定められた。
 卑弥呼王朝は[倭]の字源に合致して、日本列島は〈東〉に伸びずに〈南〉に伸びるにちがいないと定める転回日本列島地理を制定した。だから、国名を「倭」と定めたのである。
 なお、天頂点と重なる銀河部位は東北(東から45度の東北)の地平線から昇って、〈天頂点で最南端〉となり、西北(西から45度の西北)の地平線に没する。この天頂点と重なる銀河部位は24時間ではなく、約4分短い23時間56分くらいで一周する。23時間56分すなわち86,160秒で一周する軌道のうちの天頂点付近の4~6秒で精密に緯度を測定する定規となる[玄]の緯度線は円孤のカーブが無くなって真東(東端)・天頂点・真西(西端)を結ぶ一直線となる。この[玄]の中心点の天頂点を貫通して子午軸は[玄]と直角に交わる。天頂点の真北の目印となる印象深い銀河部位と天頂点を結ぶと子午線となり、あるいは天頂点の真南の目印となる銀河部位と天頂点を結ぶと子午線となる。
 だから、❷〈天頂で緯度を測定する方法〉は精密に緯度と子午軸が精密に測定できるので、大海を渡る人々や遠くの地を旅する人々は[玄]に命を委ねることができた。

 なにゆえ卑弥呼王朝は転回日本列島地理を定めたか、この秘密は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話に記述されており、これから説明する⑴静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の1千万坪の大鳥の地上絵、⑵彦根市の3千万の大鳥の地上絵、⑶京都市に所在する桂離宮の庭園の3つの史跡にも残されているので事実であると科学的に証明される。

●邪馬台国説と日本神話虚構説が誤読の空論であると即座に断定できる3つの史跡

⑴ 静岡県浜松市北区の〔細江(ほそえ)町の1千万坪の大鳥の地上絵〕は邪馬台国説と日本神話虚構説が即座に妄想であると断定できる史跡である。
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の建比良鳥命(たけひらとりのみここと)」という人物が登場する。遠江は現在の浜松市がある静岡県の西部である。
 建比良鳥命は、『魏志倭人伝』が著作された同時代(3世紀後半)、〔1千万坪の大鳥の地上絵〕を作成した。この〔1千万坪の大鳥の地上絵〕を、私は「建比良鳥の地上絵」と呼ぶ。つまり、〔静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域をあらわす地図の形〕として現存する史跡が「建比良鳥の地上絵」である。
 「建比良鳥の地上絵」は上記の●学者たちが文献批判で削除した日本古代史の秘密の➀「転回日本列島地理」と➁「夏音文字の学芸」によって建比良鳥の地上絵は真実の歴史を伝える史跡であると後世の人々が確信することになる手段・方法に用いて、➂「日本建国の〔愛〕の理念」を後世に伝えるを目的にして作成された。

 712年に『古事記』が成立すると、➂「日本建国の〔愛〕の理念」を後世に伝える建比良鳥の地上絵を作成した目的と、『古事記』上巻の日本神話に記述された真実の歴史を後世に伝えるために建比良鳥の地上絵を守って保存する目的と共通することになった。
 それゆえ、建比良鳥の地上絵に新たな機能が追加されて『古事記』上巻に記述された歴史の全貌を後世に伝える史跡となった。
 建比良鳥の子孫は1010年に姓を「井伊」と変えて武士となり、建比良鳥の地上絵が作成された3世紀後半以来、1300年余も建比良鳥の地上絵を守った。
 井伊氏は建比良鳥の地上絵の北隣の引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)に居住していたが、徳川家康は井伊氏の24代頭首の直政(なおまさ)を高く評価し、譜代大名筆頭に地位につけて1601年に⑵の3千万坪の地上絵を作成するため、井伊氏を近江・彦根に移住させた。しかし、翌1602年、直政は関ヶ原合戦で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、42歳で死去した。
 家康は直政の死をいたく悲しみ惜しみ、⑵の彦根の大鳥の地上絵の作成は家康と直政の二人が一生をささげた願いに向かって大きく前進するための事業でもあったので、直政の霊魂を弔うためにも⑵の大鳥の地上絵の完成を急がせた。

⑵ 現在の彦根市の行政区域の範囲をあらわす地図の形として現存する3千万坪の大鳥の地上絵は、邪馬台国説と日本神話虚構説が即座に誤読の空論であると断定できる史跡である。
 徳川家康は彦根藩・井伊氏を中心にして、彦根藩の近隣7ヵ国12大名に助勢を命じて作成された彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は、1603年に着工して20年後の1622年に完成した。この彦根の3千万坪の地上絵は「夏音は習わず(夏音文字の学芸は未だ復興せず)」と設計する羽の無い大鳥の地上絵である。
 彦根の3千万坪の大鳥の地上絵もまた建比良鳥の地上絵と同様に、『古事記』上巻に記述された史実と➂「日本建国の〔愛〕の理念」を後世に伝えるを目的として作られた。また、建比良鳥の地上絵と同様に、彦根の大鳥の地上絵が歴史の真実を伝える史跡であると後世の人々が確信できるための手段・方法として、➀「転回日本列島地理」と➁「夏音文字の学芸」(【すべての文字】は【銀河各部の形状】である秘密)をあらわす機能をも具備するように作られた。
 家康は1616年に没しているので、一生を賭けた願いを表現する完成した彦根の3千万坪の大鳥の地上絵を見ずに途中で命が尽きたことになる。

⑶ 小堀遠州が⑵彦根の地上絵が完成した翌1623年から病床に伏せた1645年までの23年間、情熱を傾けて桂離宮の庭園を作った。この桂離宮の庭園もまた、邪馬台国説と日本神話虚構説は即座に【科学】がまったく成立しない虚偽説で断定できる史跡となる。
 彦根の地上絵が完成しても、➁「夏音文字の学芸」を復興すると『古事記』序に解説されるとおりに上巻の【すべての文字】を【銀河各部の形状】に代えて読解すれば皇祖・天照大御神の聖性をいちじるしく汚す歴史が白日のもとにさらされることになるので、皇室は家康と直政の一生の願いである夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を承諾しなかった。
 これゆえ、家康の遺志を受け継ぐ将軍秀忠と江戸幕府は、⑵の彦根の地上絵が完成した1622年の翌年に、当時の天才芸術家にして科学の才能に秀でた小堀遠州に、夏音文字の学芸(➀「転回日本列島地理」と➁「夏音文字の学芸」)と➂「日本建国の〔愛〕の理念」を復興する承諾を皇室から得るために桂離宮の庭園の作成を命じた。
 1608年、家康は30歳の遠州に⑴建比良鳥の地上絵の研究を命じた。それ以来、京都の伏見奉行屋敷にて69歳で死去するまでの40年間、遠州は建比良鳥の地上絵と片時も離れなかった一生をおくった。この研究成果は桂離宮の庭園に設計されて現存する。
 もちろん桂離宮の庭園には➀「転回日本列島地理」と➂「日本建国の〔愛〕の理念」を伝える機能が具備するように作られているが、竜安寺の石庭と同様に、上記したように桂離宮の庭園は➁「夏音文字の学芸」を伝えるために【すべての文字】は【銀河各部の形状】であると証明できる字源字書の機能がそなわっている。この機能は圧巻で、【すべての文字】は【銀河各部の形状】であることが明確に設計され、また完全証明することができる。
 だから、わが国には約4050年前に夏音文字は伝来し習得されたと確信でき、『魏志倭人伝』の「倭には文字があった」と語る幾つかの文は真実を伝える確かな証言となり、人名・小国名は夏音文字が存在した確かな証拠となる。

 ⑵の彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は、1562年の家康と織田信長が結んだ清洲同盟の約束を家康がはたすために作成するものでもあった。
 江戸時代の幕臣の木村高敦(たかあつ)が著した『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』は、清洲同盟で信長は「和議早速御許諾欣然(きんぜん)タリ 此上ハ両旗ヲ以テ天下一統スベシ 今ヨリ水魚ノ思(おもい)ヲナシ互ニ是(これ)ヲ救ン事聊(いささか)モ偽リ有ベカラズ」と書く起請文(きしょうもん)を作ったと伝える。
 そして、信長は小さな紙に[牛]という字を書いて、それを三つにちぎり、信長と家康と同盟を斡旋(あっせん)した信元(のぶもと・家康の生母の於大の兄)の三人で茶碗の水に浮かべて飲んだとのことである。この[牛]という字を書いた小さな紙をちぎってそれを飲んだ儀式は、伊耶那美命を祭る熊野那智大社の牛王神璽(ごおうしんじ)に誓うものであったのである。
 熊野三山(那智大社・本宮大社・速玉大社)では年の始めに牛王を刷る神事が今も残っているが、那智大社の牛王神璽祭が最も古式を伝えるもので、牛王に誓った約束の違反者に牛王神璽の紙の一片を飲ませると血を吐くといわれている。
 この清洲同盟で信長と家康は熱烈に伊耶那美命に憧れていることを示しあい、天下統一はあくまでも手段であって、二人がこの世に生きて天下統一するのは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興することであると熊野那智大社の牛王神璽で誓ったことになる。

 彦根の大鳥の地上絵が建比良鳥の地上絵の3倍の3千万坪に作られたのは、信長と家康と直政の3人の一生の願いが夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興であったからである。
 その証拠に彦根の大鳥の地上地には夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念が設計されている。
 つまり、羽の無い鳥の地上絵で「未だ夏音文字は習わず」とあらわし、彦根城の南南東には伊耶那美命と伊耶那岐命を主神として祭る多賀大社がある。
 また、“愛を知る川”の愛知川(えちがわ)河口(東経136度6分)は伊耶那岐命がクーデターをおこして伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地)から奪った伊耶那岐命の亡骸(なきがら)を、『日本書紀』が「伊耶那美命を葬った」と伝える花の窟(いわや)神社(東経136度5分)とほぼ同経度である。
 また、愛知川河口の西隣の琵琶湖に浮かぶ最大の島の沖島(おきのしま)は彦根の大鳥の地上絵に含まれる一角となる基点であり、この沖島は花の窟と同経度の東経136度5分である。
 このように、彦根の大鳥の地上絵は信長と家康が天下統一の後に夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を必ず復興せんと誓った願いが明確に示される史跡である。

 1576年、近江の琵琶湖の東岸の入江に半島状に北へ突き出た安土山に「天下布武」を象徴する安土城を築いた。この安土城は、家康に“天下一統は間近に迫った。清洲同盟で誓った約束をはたす準備をせよ”と合図するものであったのである。
 というのも、安土城の西方は琵琶湖であり、琵琶湖の別称は「鳰(にお)の海」であり、「鳰」とは「カイツブリ」であるからであった。
 この「カイツブリ」に属する〔カンムリカイツブリが繁殖行動する時の直立姿勢する姿〕が信長が居住した〔尾張〕の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)に相似する。
 つまり、〔カンムリカイツブリが繁殖行動する時の直立姿勢する姿〕の地宜は「水鳥の尾のほうが張り広がる」ものであるので、この「水鳥の尾のほうが張り広がる」を略すると「尾張」となる。
 琵琶湖の東岸の入江の北へ半島状に突き出る〔安土山〕の北と南を反転させると〔尾張〕の地宜に相似する。ゆえに、信長は尾張の地宜が〔カンムリカイツブリが繁殖行動する時の直立姿勢する姿〕に相似し、安土山の地宜の南北を反転すると尾張の地宜に相似することに注目して、「天下布武」を象徴する城を安土山に築いたことになる。
 そして、家康が居住した三河の転回日本列島地理にもとづく地宜は〔渥美(あつみ)半島がハジロカイツブリの顔と首〕に相似し、〔渥美半島より北側の地宜は羽をひろげて飛び立つときのハジロカイツブリの姿〕に相似する。
 「渥美」とは「渥(久しく水に漬かって浮かぶハジロカイツブリ)の顔にある美しい扇状にひろがる金栗色の飾羽(かざりばね)」と意味するものであった。
 
 この〔三河の地宜はハジロカイツブリの姿〕に相似することを家康は知っていたので、家康の本陣には〔ハジロカイツブリの顔の美しい扇状にひろがる飾羽〕を造形表現する“金扇(きんせん)の馬印(うまじるし)”が立てられた。
 井伊直政は建比良鳥の地上絵の北の境界線が包囲する引佐町の金指(かなさし)・井伊谷に居住した。
 この金指・井伊谷は建比良鳥の地上絵の北の境界線が包囲する地域であり、この境界線(金指・井伊谷の地宜)は〔鳰と浮巣の形〕を図化するものとなる。
 このように、信長は〔繁殖行動する時の直立姿勢のカンムリカイツブロの姿〕に相似する尾張に居住し、家康は〔飛び立つハジロカイツブリの姿〕に相似する三河に居住し、直政は〔鳰と浮巣の形〕に相似する引佐町の金指・井伊谷に居住したので――3人の一生の願いを表現して建比良鳥の地上絵の3倍の3千万坪の大鳥の地上絵が、鳰の海・琵琶湖の東岸に作成されたのである。
 もちろん、この彦根の3千万坪の地上絵の鳥の形はカンムリカイツブリとハジロカイツブリと鳰の合体形ということになる。

 ハジロカイツブリは水に浮いている時は黒っぽいが、飛び立つと羽根の内側に白い部分が見えるので、この「羽白(ハジロ)」が名の由来となる。ゆえに、家康の生地にして居住地であった三河の〔ハジロカイツブリの飛び立つ姿〕の地宜は[習]と字を表示するものとなった。つまり、〔ハジロカイツブリ〕の「羽白」は[羽]の下に[白]が加わる[習]の字となるからである。
 そうすると、〔彦根の東端の境界線の形〕は〔羽の付け根をあらわすグニョグニョとした曲線〕で〔羽の部分〕が設計されていないので「習わず」と表現するものとなる。
 彦根の大鳥の地上絵の西端は鳰の海の東岸で、彦根市南端の愛知川河口と彦根城の本丸を結ぶ線は「夏至の日の出の方角」を指さして「夏音文字の学芸」をあらわす。
 だから、〔羽の無い彦根の3千万坪の大鳥の地上絵〕は“夏音文字の学芸は未だ習わず(復興していない”とあらわすものとなる。
 
 
 上記にても指摘したように、伊耶那美命が葬られた花の窟は東経136度5分、沖島も東経136度5分で同経度であり、“愛を知る川”の愛知川河口は東経136度6分であるのでほぼ同経度ということになる。
 
 
 以上のように、愛知川河口と彦根城の本丸を結ぶ線は〔夏至の日の出の方角〕を指差して「夏音文字の学芸」を示し、伊耶那美命が葬られた花の窟と同経度の〔沖島・愛知川河口〕と〔多賀大社〕は「日本建国の〔愛〕の理念」を明確にあらわす。
 このように、彦根の大鳥の地上絵は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を願った信長と家康と直政の熱い情念が明確に表示される史跡である。

 彦根の大鳥の地上絵は信長が「天下布武」と掲げた願いは〔天下取り〕を目標としたものでなく、〔天下取り〕は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興するための手段であったと表現する。
 家康は信長の天下一統の遺志を受け継ぎ、彦根の大鳥の地上絵の作成事業にとりかかったが、完成する6年前に命が尽きた。
 信長と家康は、天下統一よりも夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を重視した。
 彼らが命を賭けた願い・最終目標は、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を皇室から承諾を得ることだったのである。
 したがって、完成した彦根の大鳥の地上絵は信長と家康の一生の願いを表現するものであるが、彼らが目指した夏音文字の学芸と日本建国の愛の理念の復興は皇室から承諾を得ていなかったので二人の志(こころざし)はいまだ成就するものではなかった。
 彦根の大鳥の地上絵は家康の一生の願いを鮮烈に示すものであったので、家康の遺志を継ぐ将軍秀忠と幕府は彦根の大鳥の地上絵を完成さえた翌年(1623年)から、小堀遠州に家康の願いを皇室から承諾を得るための桂離宮の庭園作りを命じた。
 遠州が作った桂離宮の庭園の平面図(地宜)は【すべての文字】は【銀河各部の形状】であると明確に示し、【銀河各部の形状】ですべての文字の字源・本義が理解できる字源字書となっている。
 

 桂離宮の庭園は後水尾(ごみずのお)天皇に夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興の承諾を得るために作った施設である。
 将軍秀忠と幕府の要望を受け入れて夏音文字の学芸を復興すると、【すべての文字】は【銀河各部の形状】である学理が明らかになる。
 これによって【銀河各部の形状】を観て『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話が読解されるようになると、皇祖・天照大御神が多数の青年と乙女を殺して伊耶那美命の墓に埋めた徇葬を陣頭指揮し、伊耶那岐命に離縁を告げられた時に「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と述べた天照大御神の言は「亡き伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊重する汝の小国・日本の人民たちの母親の産道が狭くなる呪(まじな)いをおこなって一日に千人の胎児の頭を狭い産道で絞め殺すようにする」と意味するものであることが暴露される。
 これゆえ、夏音文字の学芸を復興すると皇祖の聖性はいちじるしく汚されるだけでなく、皇室が国民に憎悪されて滅亡すると考えた後水尾天皇は将軍や幕府の要求を頑として受け入れなかった。

 遠州が桂離宮の庭園を作った時、後水尾天皇の叔父にあたる八条宮家の智仁(としひと)親王(幕府と皇室の融和に努力した、当時の皇族の実力者)が桂離宮を所有していた。
 ところが、1696年に霊元(れいげん)天皇の第八子、作宮(さくみや)が八条宮家を相続して「常盤井宮(ときわいのみや)」と改称したが夭折(ようせつ)した。この後を霊元帝が上皇となった時に兄の文仁(あやひと)親王が相続して第6代となり「京極宮(きょうごくのみや)」と改称して桂離宮を所有した。桂離宮の所有者の第7代は家仁(いえひと)親王である。
 この霊元上皇の孫の第7代家仁親王の時、霊元上皇は桂離宮の庭園に表現された〔夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興の願い〕を承認する決意をした。
 
 上皇は一人の人間に立ちかえって、皇室の滅亡を覚悟して、家康・歴代将軍・幕府の願望を受け入れたのである。

 信長の死から156年あと、直政の死から136年後、家康の死か122年後の1738年である。
 この1738年、霊元上皇は将軍吉宗の協力のもとに本格的に大嘗会(だいじょうえ)を復興した。
 大嘗会は皇室最大の神事である。
 この大嘗会において即位する天皇の頭上に差し上げられる王冠の意匠(いしょう)で、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を承認したことが表示された。
 天皇の王冠の上の飾りは建比良鳥を造形する。だから、〔天皇の王冠の上の飾り〕は「夏音文字の学芸」を表現する。
 〔天皇の王冠の下の飾り〕は日本建国の〔愛〕の理念を提唱した「伊耶那美命」を象徴する、家々の神だなに配置される「水器(すいき)」と呼ばれる神具の蓋(ふた)を造形する。水器の形は「子宮。妊婦のおなか・乳房」に相似し、水器の蓋もまた「乳房」の形の相似して中央の抓(つま)みの部分は乳首(乳頭)に相当する。ゆえに、〔水器の蓋〕は〔愛〕をあらわす造形物となる。
 だから、〔水器の蓋〕をデザインする〔天皇の王冠の下の飾りの菅笠(すげがさ)〕は「日本建国の〔愛〕の理念」を表現するものとなる。“菅(スゲ)”という草で作られる天皇の王冠の下の飾りは水器の蓋をデザインする。だから、天皇の王冠の名は「菅蓋(かんがい)」となった。
 今上陛下の即位式においても、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を承認したとあらわす王冠を天皇の頭上に差し上げて御筵道(ごえんどう)を進まれる儀式がおこなわれた。

 古代史学者たちは〔文献批判〕という〔誤読〕の方法を用いて、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された、信長・家康・直政が命を賭けて後世に残さんとした真実の歴史を廃棄処分する。
 この➀「転回日本列島地理」と➁「夏音文字の学芸」と➂「日本建国の〔愛〕の理念」の3つの重大な歴史は、⑴建比良鳥の地上絵と⑵彦根の大鳥の地上絵と⑶桂離宮の庭園によって史実であったと明確に科学的に証明することができる。
 この3つの史跡に明確に表示される〔精密な天頂緯度の測定〕の一点に視点を絞って考えれば、学者たちが立論した邪馬台国説と日本神話虚構説は直ちに荒唐無稽の妄想であることが明らかとなる。

 ➀の「転回日本列島地理」を学者たちは“日本列島が〈南〉に伸びるなんてことは信じられない! これらの記事は絶対に誤っている”と頭ごなしに否定するが、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命説話の後半部にも記述される。
 この説話末部に登場する建比良鳥命によって1千万坪の建比良鳥の地宜が作成された。また、この建比良鳥の地上絵を基にして17世紀に3千万坪の彦根の大鳥の地上絵と桂離宮の庭園が作成された。
 1千万坪の建比良鳥の地上絵と3千万坪の彦根の大鳥の地上絵は、天の北極で緯度と子午軸を計測して作成することは絶対にできない。
 建比良鳥の地上絵と彦根の大鳥の地上絵は精密に緯度と子午軸が測量できる天頂緯度の測定方法ならば作成できる。
 建比良鳥の地上絵と彦根の大鳥の地上絵には、『魏志倭人伝』に記述された[倭]の字源である「〈東〉を90度転回して〈南〉にする方位規定」が明確に表示される。
 桂離宮の庭園においても、天皇の王冠の意匠の上の飾りのモデルとなった建比良鳥の形を設計した庭園の南端にも[倭]の字源の転回方位規定が存在し、転回日本列島地理は事実であったと表示される。

 夏音文字の学芸体系は【精密な天頂緯度測定】を基軸にして構築された。
 【精密な天頂緯度測定】によって転回日本列島地理が成立し、【精密な天頂緯度測定】によって倭の使節は大海を往来でき、【精密な天頂緯度測定】によって巨大な1千万坪の建比良鳥の地上絵と3千万坪の彦根の「夏音を習わず」とあらわす大鳥の地上絵を図化することができた。
 日本列島は〈東〉の伸びると定めることができる[天の北極の緯度の計測]では、絶対に転回日本列島地理が成立せず、絶対に大海を渡ることもできず、絶対に1千万坪の建比良鳥の地上絵も3千万坪の彦根の大鳥の地上絵も図化することができない。

 『魏志倭人伝』の時代(2世紀末から3世紀半ばまで)、中国においては大海に入ると迷って落命する天の北極を最も重視するシナ天文が栄えていたので、魏と帯方郡の使節は大海を渡ることができなかった。
 倭においては【天頂緯度測定】の習慣が栄えて天頂点をキャッチする鍛錬がおこなわれていたので、倭の使節は大海を往来することができた。だから、魏・帯方郡と倭は国交を結ぶことができたので、『魏志倭人伝』という文献史料が実在することになったのである。
 学者たちのように『魏志倭人伝』に記述される転回日本列島地理を批判して排除する考えだと日本列島地理は[天の北極]で方位を定めたことになるが、この考えだと魏・帯方郡と倭の使節は大海を渡ることができなくなかったことになるので『魏志倭人伝』のすべての文字はキレイサッパリと消えてまったく存在しなかったという奇怪きわまりない事態となる。
 
 以上のごとく、〔魏・帯方郡の使節が往来できなかった大海を、なにゆえ倭の使節は往来することができたのか〕と論点を一点に絞ると、学者たちが〔文献批判〕を用いて立論する邪馬台国説と日本神話虚構説は完璧なる誤読の空論であることが即座に証明され、この証明は建比良鳥の地上絵と彦根の大鳥の地上絵と桂離宮の庭園の3つの史跡で裏付けられることになる。

 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年頃に生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詞『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツのシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 シュリーマンのトロイ遺跡が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対方法)が存在する。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが批判して否定した意見は誤読の空想であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。

 『魏志倭人伝』は280~289年に作成された。
 建比良鳥の地上絵内から出土した9口の銅鐸が出土し、この銅鐸は天頂緯度を精密に測定できる構造になっている。この三遠(さんえん)式銅鐸の製造・使用年代は260~290年であるので、建比良鳥の地上絵は作成されたことになる。
 したがって『魏志倭人伝』と建比良鳥の地上絵の作成年代はわずか1~29年しか相違しないので、両者は同時代に作成されたことになる。
 トロイ戦争とホメロスの生存年代は350年の隔たりがある。
 ゆえに、『魏志倭人伝』と建比良鳥の地上絵の作成年代の隔たりはトロイ戦争とホメロスの生存年代の350年の隔たりよりもはるかに短いので、建比良鳥の地上絵が示す『魏志倭人伝』との記述との合致はきわめて正確な歴史を証明するものとなる。

 『三国志』魏書東夷伝の序は「238年・245年の魏軍の再度の遠征による出兵で、東夷の国々の大小や、国名・風俗・習俗などを正確に書くことにできるようになった。」と記述する。
 ゆえに、魏の背後の脅威となる燕(えん)を治める公孫淵(こうそんえん)を討伐し、また帯方郡を敵視する韓国の反乱を鎮めるために魏軍が東方に遠征した時に、倭と軍事同盟を結ぶ倭女王・卑弥呼と交わした文書を基に『魏志倭人伝』は作成されたことになる。
 したがって『魏志倭人伝』は卑弥呼はじめとする倭国から送られてきた国書に書かれていた情報を基に著作されたものであるゆえ、最初から学者たちが加える〔文献批判〕は必要ではなかったのである。
 これゆえ、同時代に作成された建比良鳥の地上絵は『魏志倭人伝』のすべての正しいと明確に示すことになったのである。
 この建比良鳥の地上絵にもとづいて約1300年後の17世紀に、彦根の3千万坪の大鳥の地上絵と桂離宮の庭園が作成された。だから、建比良鳥の地上絵は疑う余地がまったく無い確かな信用すべき史跡となるゆえ、建比良鳥の地上絵と『魏志倭人伝』の記述の合致はまさに事実であると確信できる絶対的な証明となる。
 よって、邪馬台国説と日本神話虚構説は完璧な空理空論であることは否定できない事実である。

 邪馬台国説と日本神話虚構説は、一見、科学的な主張に見えるものの、実は科学がまったく成立しない。このような主張を、ニセ科学とかエセ科学などと呼ぶべきものであり、つまり実体は妄想、荒唐無稽の出鱈目である。
 彦根の大鳥の地上絵には、信長と家康の天下取りは学者たちが廃棄処分した夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興するための手段であったと明確に示されている。
 したがって、信長と家康にとっては、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は強大な権力よりも国家よりも重大な事柄であったことになる。
 霊元上皇は大嘗会を本格的に復興して即位する天皇の頭上に高く差し上げる王冠の意匠で、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は日本民族にとって最も大事なものであると表明することにした。
 だから、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は日本人の体に吹き貫く神を示すものであり、決して輝きがうすれてならない魂を示すものであり、日本人の尊厳とアイデンィティと生きる原点を示すものとなる。
 信長と家康と霊元上皇の願いは未だ成就しない。
 彼らの願いは空理空論の邪馬台国説と日本神話虚構説によって排除されて愚弄(ぐろう)されて消滅するほどに影のうすいものと化す。
 学者たちによって歴史学の原理や原則で考えることは否定・禁止定され、“文献批判”という「空気」で偽りの歴史を決めている。
 この歴史界のありようは、日本人が日本人として生きる権利を奪って、この〔愛〕の国を滅亡させるものであるとしか思えない。
 ということは、邪馬台国説学者と日本神話虚構説学者たちは、昨今騒がれる地下鉄サリン事件で特別支配されて逮捕されたオウム真理教の高橋克也容疑者よりも何倍も罪深く、巨額な詐欺をはたらいたと逮捕されたAIJ社長・浅川和彦容疑者より数十倍も性質(たち)が悪い詐欺をはたらいていることになる――このことは、彦根の大鳥の地上絵に示される信長と家康の願いと天皇の王冠の意匠に示される霊元上皇の願いに思いを馳せれば納得していただけると思う。
 
 
 

 

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