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2012年6月 3日 (日)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・26

 歴史学ではあるいは古代の出来事を語る場合、「絶対に正しい」という発言は滅多(めった)に使用してはならないと常識的に定まってる。

 しかし、“絶対に失うことはできない歴史がある”という熱き情念を抱いた人々によって、後世の人々が“絶対に正しいにちがいない”と確信できるように、日本で最も重大な歴史(古代の出来事)を目で見て知ることができるように作成された学術史跡が日本には存在する。

 いいかえると、現在の日本の考古学はじめ歴史学は【主観】と【非科学】に支配される偽り・まやかしの学問であることが、この目で見て直ちに確信・確認できる史跡が存在する。
 この史跡は➀3世紀後半に作成された静岡県浜松市細江(ほそえ)町の1千万坪の大鳥の地上絵、➁17世紀初頭に作成された彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵、➂17世紀前半に作成された桂離宮の庭園である。
 この3つの史跡は、現代の西欧近代科学の考え方(理論的枠組み)を絶対視する日本の歴史学が偽り・まやかしの学問であることが直ちにザックリと確信・確認できるように、この目で目撃できるように作られている。

 歴史をどう考えたならば正しい考え方になるかを考える学術分野の歴史哲学・歴史理論を専攻する故・慶応義塾大学文学部教授の神山四郎氏が著作した『歴史入門』(講談社)は「主観とは先入観を抱くことである」と説く。
 このように、〔先入観〕は【主観】である。
 1980年代に入ると、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士が先駆者となって欧米の先端科学者や科学論家たちは、数度の国際会議を開いて“西欧近代科学の考え方にはいくつかの誤りと欠点がある”と世界に警告した。
 この西欧近代科学の合理思想における代表的な根本的な誤りについて、科学論家のエドガール・モランは〔傲慢
(ごうまん)な単純化〕であると指摘する。
 したがって、西欧近代科学の合理思考の〔傲慢な単純化〕は【非科学】ということになる。
 日本の考古学はじめ歴史学者たちは西欧近代科学の考え方を絶対視して、【主観】すなわち〔先入観〕と【非科学】つまり〔傲慢な単純化〕を駆使
(くし)して日本古代史における最も重大な歴史を削除(さくじょ)する。
 日本の歴史学界は【主観】(先入観)と【非科学】(傲慢な単純化)に支配される、まやかしの学術、根太
(ねだ)が腐った楼閣(ろうかく)である。
 現代の日本の古代史学は偽り・まやかしの学術であることは、上記の3つの史跡によって客観的に科学的に明確に証明される。

 この学術史跡は三つ存在し、前回(25)で、この三つの学術史跡の秘密について解説した。
 この三つの学術史跡をあらためて簡単に説明すると、下記の史跡である。

 この一つ目の学術史跡は、『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が作成した1千万坪の大鳥の地上絵、つまり現在の静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を示す地図の形として現存する。
 この1千万坪の大鳥の地上絵を、私は“建比良鳥の地上絵”と呼ぶ。
 この建比良鳥の地上絵を調査すれば、【主観】と【非科学】を排除して後世の人々が“この地上絵に保存された学芸知識は絶対に正しい”と確信できる学術史跡であることが明らかとなる。
 今から約1750年前の上古に、後世に精確に歴史を伝える【客観】と【科学】からなる理想的なほどに完璧な学術史跡・1千万坪の大鳥の地上絵が作成された!
 このように完璧な学術史跡が存在することは、現在の日本の考古学者はじめ歴史学者の誰一人も夢にも想像をしていない。
 しかし、現在の日本古代史学がまやかしの学術であることが、この目で見ることができる1700年前に作られた史跡が存在する。
 それは、当然のことである。なぜならば、先端科学者たちは西欧近代科学の合理思考よりも、日本の上古や古代の学術の考え方のほうが【科学】に優ることを証明しているからである。
 だから、日本人本来の全体論の考え方で作られた建比良鳥の地上絵は、当然、【客観】と【科学】の両輪で作られた史跡となった。
 建比良鳥の地上絵は日本の歴史哲学・歴史理論を選考する学者や日本はじめ世界の先端科学者たちならば即座に現代の日本古代史学はまやかし・誤魔化(ごまか)しの学術であると断定し確信する史跡である!
 もはや、日本古代史学がまやかしの学術であることは明白となり、これ以上日本古代史学界がウソを続けていくことはできないほど日本は衰退し劣化し滅亡の坂へ向かって転げ落ちようとしている。

  二つ目の学術史跡は、徳川家康が近江(滋賀県)の彦根藩を中心に近隣7ヵ国12大名に助勢を命令して作成させた、1603年に着工して1622年に完成した3千万坪の「夏音は習わず」と設計した大鳥の地上絵である。
 この地上絵を作成した彦根藩は、3世紀後半から彦根に移住する1601年1月までおよそ1300年間余、上記の一つ目の史跡・細江町の建比良鳥の地上絵の守り番であった。
 彦根藩・井伊氏は、1601年に彦根に移住する前、建比良鳥の地上絵(細江町)の北隣の引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)に居住していた。
 彦根の3千万坪の「夏音は習わず」と設計した大鳥の地上絵は、現在の彦根市の行政区域を示す地図の形として現存する。
 彦根の3千万坪の地上絵は、家康の存命中(家康は1616年に没した)には間に合わず、完成まで20年も費やした。
 この3千万坪の大鳥の地上絵の西南にある織田信長の居城は3年近い歳月を費やして完成した。それゆえ、おそらく、彦根城も3年の歳月で完成したにちがいない。
 そうすると、20年のうちの残りの17年近くの歳月は大鳥の地上絵の作成に費やされたと考えるべきことになる。
 現在の国土地理院による精密日本列島地図の作成原理は、最初に精密に天頂緯度を測定して経緯度原点(東京都港区麻布飯倉3-18にある旧東京天文台の子午儀の中心)を設置する。この後に、三角測量を用いて図化する。この三角測量においては、現在は光波測距儀による三辺測量をおこない、三角点の位置を決定している。
 現在の国土地理院の地図と上記の建比良鳥の地上絵と彦根の3千万坪の大鳥の地上絵の作製原理は同じ方法である。
 当時は天頂緯度を精密測定できる現在のように進化した測量機器や光波測距儀が発明されていなかった。だから、彦根の3千万坪の大鳥の形をした境界線を定めるのに、17年という長い年月を要することになった。現在ならば、彦根市の境界線は1、2年で測量して定めることにちがいない。
 
 
 このような現在の国土地理院の精密地図作製原理と同じ方法でなぜ彦根の3千万坪の地上絵が作成されたかと言えば、後世の人々が“この地上絵に保存された歴史は絶対の正しいにちがいない”と確信できる学術史跡を残すためだったのである。
 なぜならば、この方法で大鳥の地上絵の境界線を測量すれば、おのずと【客観】と【科学】が成立するとともに【主観】や【非科学】をはねつけて真実の歴を保存できるゆえ、後世の人々が“彦根の大鳥の地上絵に秘められた歴史は絶対に真実である”と断定できるからである。
 真実の歴史は【客観】と【科学】によって保存できるのであって、現在の考古学はじめとする古代歴史学のごとく【主観】と【非科学】に支配されると真実の歴史を絶対にとらえることはできない。

 三つ目の史跡は、小堀遠州が作った桂離宮の庭園である。
 1601年に建比良鳥の地上絵の守り番の井伊氏が引佐町を去ってから7年後の1608年、家康は当時の天才芸術家にして科学の才能にめぐまれた30歳の小堀正一に遠州の建比良鳥の地上絵の研究を命じた。以後、正一は「遠州」と号した。
 小堀遠州は69歳で没するまで40年間、建比良鳥の地上絵と日々関わる人生を送った。
 彦根の3千万坪の「夏音は習わず」とデザインする大鳥の地上絵が完成した1622年、小堀遠州は近江奉行に任命されて彦根の大鳥の地上絵に注がれた夏音文字の学術を点検しあるいは学習した。
 翌1623年、家康の一生の願いであった夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興する事業を受け継ぐ将軍秀忠と幕府は、小堀遠州を京都の伏見奉行に任命して、桂離宮の庭園作りを命じた。
 小堀遠州の任務は、彦根の地上絵で表示されなかった学術知識を建比良鳥の地上絵で補い、桂離宮の庭園に建比良鳥の地上絵に保存された全学術知識を天皇と皇室の人々が容易に理解できるように整合し、また後世の学者たちが“桂離宮の庭園に保存された歴史は絶対に正しい”と確信できる学芸施設を作成することであった。
 言いかえると、将軍と幕府は遠州に『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された約4050年前にわが国に伝来した夏音(かおん)文字の学芸知識と『古事記』上巻を貫くテーマの日本建国の〔愛〕の理念と、そして2世紀末から4世紀末までの歴史が真実であると表示する【客観】と【科学】にもとづく庭園を作成せよと命令したことになる。
 没する2年前の1645年に遠州(67歳)は病床に臥(ふ)したが、23年間も桂離宮の庭園作りに全情熱を傾けた。

 【客観】と【科学】を基(もと)に作られた上記の3つの史跡によって、現在の考古学はじめ古代史学は【主観】と【非科学】によって支配されていることが明確に証明される。
 殊に、この3つの史跡によって邪馬台国説と日本神話虚構説は正真正銘の〔誤読の空論〕であることが否定できない事実となる。

 現在の日本の古代史学者たちは【主観】(先入観)と【非科学】(傲慢な単純化)を駆使して、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻が➀「今から約4050年前に、中国からわが国に夏音文字が伝来していた」、➁「卑弥呼王朝は日本列島は東ではなく南に伸びるという、転回日本列島地理を制定した」と記述して証言する、重大な二つの真実の歴史を削除する。

 ➀ わが国には今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)、夏音文字が伝来した。ゆえに、『魏志倭人伝』は幾つかの記事で「倭には文字があった」と証言し、卑弥呼はじめ人名と小国名に用いられる文字が夏音文字であった。『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音読みの文字もまた夏音文字ということになる。
 ➁ 『魏志倭人伝』は幾つかの記事で「日本列島は東に伸びずに南に伸びる」と証言する。この幾つかの記事群は卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理であり、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部にも卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理についての記述がある。
 上記の3つの史跡は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載される➀倭の夏音文字の学芸と➁卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理が実在したことを目で見ることができるように作られている。
 この3つの史跡は『魏志倭人伝』と『古事記』に記述される➀夏音文字の学芸と➁卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理を主体デザインにして設計される。だから、3つの史跡は現在の日本古代史学者が駆使する【主観】(先入観)と【非科学】(傲慢の単純化)をいっさい取り入れずに排除するものであるゆえ、おのずと【客観】と【科学】が成立する極めてすぐれた史跡である。

 ➀ わが国には今から約4050年の夏代初頭(後期縄文時代初頭)、名門益氏の王子と若者たち一行が中国から日本列島に移住して、夏音文字の学芸を根づかせた。この夏音文字においては【銀河各部の形状】が【文字】であった。
 上記の3つの史跡は、【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった学理を後世の人々が目で見て確認できるように作られている。
 『古事記』序の文を読みなおすと察知できるように、その冒頭で日本列島の夏音文字の学芸の習得を説明し、その大半の記事をさいて【すべての文字】は【銀河各部の形状】であることを証言し解説するものである。
 『魏志倭人伝』は幾つかの記事で「倭には文字があった」と証言する。そして、卑弥呼はじめとする人名と小国名に用いられる文字は夏音文字であり、この夏音文字によって【すべての文字】は【銀河各部の形状】であるという学理が証明されることになる。

 中国の正史『新唐書』日本伝は――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習い云々(うんぬん)」と中国王朝に伝えた――という記述があり、わが国に夏音文字が存在したことを証言する。
 その10年後の712年に『古事記』が完成し、上巻の随所に〔音〕という注がつく1字1音読みの夏音文字が多数記載された。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の夏音文字は本来の【銀河各部の形状】を図案する象形文字(絵文字)で表記されず、楷書で表記される。
 後期弥生の夏音文字の習得者たちは象形文字でなくても能率的に短い時間で書くことができる楷書でも、あるいは篆文でも隷書でも字形に関係なく、夏音文字は楷書でも表記できる発見つまり〔【すべての文字】は【銀河各部の形状】となる学理〕が成立することに気づいた。
 1700年前の後期弥生において、夏音文字の学芸を習得した学識者たちが【すべての文字】は【銀河各部の形状】になることに気づいたことが証明できる文献が『魏志倭人伝』であり、その学理の発見を目で見て確信・確認できる史跡が建比良鳥の地上絵である。
 ゆえに、『古事記』上巻の夏音文字も〔【すべての文字】は【銀河各部の形状】である学理〕にもとづき楷書で表記された。
 『古事記』序の末部には「辞理(じり)」という語が記載され、この「辞理」は「〔音〕という注が付く夏音文字以外の【すべての文字(万葉仮名)】も【銀河各部の形状】となる学理〕を解説するものである。

 したがって、上記の3つの史跡の作成に関わった建比良鳥命・徳川家康と彦根藩の人々・小堀遠州は知らなかったが、彼らが図化した【【すべての文字】は【銀河各部の形状】である学理〕は〔世界共通の古代文字の学理〕でもあったのである。
 800字前後と言われるギリシャ語で“ヒエログリフ”と呼ばれる【古代エジプト文字】は漢字とまったく同じ範囲の【銀河各部の形状】から作られた。この証明を、私はインターネットのブログ〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は“世界の文字は銀河から作られた”とい証言する〕というシリーズの14回~32回にて公開した。
 また、私はインターネットのブログでABCアルファベットのルーツとされる紀元前20世紀ごろに出現したワディ・エル・ホル文字の【すべての文字】も【銀河各部の形状】から作られたことを解説する証明を公開した。
 紀元前16世紀ごろに起源した原シナイ文字の字形も、紀元前11世紀ごろに出現したフェニキア文字の字形も銀河各部の形状から作られたことは証明できる。
 ということは、すべての漢字の字源・本義が解明できる1400字前後の基本字からなる漢字が作られた【銀河各部の形状】は古代エジプト文字、ワディ・エル・ホル文字、原シナイ文字、フェニキア文字の字形にもなる。
 ということは、【銀河各部の形状】を字形とした夏音文字は本来の象形文字(絵文字)に限定しないで、楷書でも表記できることになったのである。

 3世紀の卑弥呼時代において、魏が用いる【楷書】も【銀河各部の形状】となる学理の発見は建比良鳥の地上絵、そして後世の・彦根の3千万坪の大鳥の地上絵・桂離宮の庭園に保存された。この学理は漢字の中国や日本に止まらず、〔世界共通の学理〕】であったのである。
 もはや、【すべての文字】は【銀河各部の形状】であることは、学者たちが理屈を並べて反論できることではなくなっていて、まさしく事実となる。
 世界の古代文字は、漢字と同じ銀河範囲にある各部の形状をデザインして作られた発明品である。
 世界の古代文字は銀河各部の形状から作られたことは学論としては市民権を得て確立されていないが、実際に実験すればおのずとそれは事実であると証明できるものであるゆえ、ウソだと言って反論しても反論できない事実となってしまっているのである。
 夏音文字は象形文字でなくても楷書で表記されても実在したものと証明できることは、理屈ではなく厳然たる事実である。
 だから、『魏志倭人伝』と同時代に作られた建比良鳥の地上絵は世界史にあってもきわめて重大な古代文字が銀河から作られた学理を【客観】と【科学】を主体にして解明し証明できる史跡ということになる。

 ➁ 『魏志倭人伝』は対馬から卑弥呼が居住した邪馬壱(やまい)国までの旅程記事はじめ幾つかの記事で「日本列島は東に伸びずに南に伸びる」と証言する。
 この転回日本列島地理を立論した一女子は倭女王に選ばれ、この倭女王は「卑弥呼」と名づけられた。
 というのも、夏音文字の学芸は紀元前1世紀に完成したシナ天文が最も重視する天の北極だと緯度が精密に測定できないので軽視するものであった。このため、日本列島が東に伸びると確信できる根拠・理由は成立しなかった。
 夏音文字の学芸は1千万坪の建比良鳥の地上絵や3千万坪の彦根の大鳥の地上絵を正確に図化できたので、精密に緯度が測定できる天頂緯度測定を最も重視した。
 この天頂緯度測定にもとづくと、日本列島は東に伸びず南に伸びると確信でき断定できた。
 だから、卑弥呼王朝は南に伸びる転回日本列島地理を制定した。
 したがって、『魏志倭人伝』は精密に天頂緯度を測定できる夏音文字の天文地理学にもとづいて卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理を説明するものであった。
 この転回日本列島地理の西端の基点は北九州の玄海灘に浮かぶ沖ノ島であり、東端の基点は伊豆諸島の神津島であった。地図に表示されているとおり、沖ノ島と神津島は北緯34度15分で同緯度である。
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部は――この卑弥呼が立論した転回日本列島地理は「神」となり、宗像(むなかた)の王の天菩比命(あめのほひのみこと)が沖ノ島に奥津宮を大島に辺津宮を玄海町田島に中津宮を設営して奉仕して祭っていた――と記述する。(ただし、『古事記』の中津宮と辺津宮の記述は、現在の大島に中津宮が玄海町田島に辺津宮が鎮座する宗像三女神の配置と異なる)。
 この転回日本列島地理は倭を統治する大王の最も強力な権力基盤である夏音文字の学芸に最も精通していることを表象(ひょうしょう)するものとなった。
 だから、大和の天照大御神・崇神(すじん)王権は三輪山の山頂近くに奥津磐座(いわくら)・中津磐座・辺津磐座を設けて勝手に転回日本列島の神を遷座(せんざ)させた。
 この天照大御神・崇神王権の横暴に怒った宗像三女神につかえる天菩比命はクーデターを企み、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を夏音文字の学芸で正確に後世に伝える学術運動を提唱した。この天照大御神・崇神天皇王権を倒すクーデターと夏音文字の学芸で日本建国の〔愛〕の理念を後世に正確に伝える学術運動に7人の建比良鳥命が参加した。その7人目の建比良鳥命が細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を作成した遠江国造の先祖である。
 このような卑弥呼が立論した転回日本列島地理の西の基点・沖ノ島を「神」とつかえる天菩比命が提唱したクーデターと学術運動に賛成した7人の建比良鳥命の記事は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に記載されている。

 このように、5、6世紀に中国や朝鮮半島に楷書を習得する以前に、3世紀の魏と帯方郡と諸韓国が用いる楷書(隷書に近い楷書)で表記する夏音文字が存在していた。
 このわが国の夏音文字の学芸の厳格な掟(漢字の始祖の倉頡が定めた掟)をまもって【銀河各部の形状】を【文字】とした。また、倉頡(そうきつ)は書いた文字は用が済んだならば、直ちに消さない者は即刻死刑にすると定めた。これゆえ、倉頡の掟をまもって、用が済んだならば直ちに文字を消さなかった怠慢は、一門にも罰が及ぶ重罪であった。だから、『魏志倭人伝』に記述された倭の文字は後世において出土されない文字となったが、確かに実在した文字だったのである。
 『魏志倭人伝』は幾つかの記事で「倭には文字があった」、また幾つかの記事で「日本列島は東に伸びずに南に伸びる」と証言する。
 この2種類の記事群は“絶対に歴史の真実を伝えている”と後世の人々が確信し断定できるように、【客観】と【科学】に基に作成された史跡が❶建比良鳥の地上絵と、❷「夏音は習わず」と設計した彦根の大鳥の地上絵と、❸桂離宮の庭園である。

 現在の日本の歴史学界は「文献批判」と呼ばれる思考方法が西洋近代科学の致命的欠陥である傲慢(ごうまん)な単純化の産物であることにまったく気づいていない。
  『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に加える「文献批判」は正真正銘の〔誤読〕であり、【主観】(先入観)と【非科学】(傲慢な単純化)の産物である。
 上記で説明した欧米の先端科学者たちは西欧近代科学の合理思考よりも日本の禅や中国の老子の全体理論の考え方のほうが【科学】に優ることを証明した。
 したがって、先端科学者たちは約280年前の新井白石の取り入れた西欧近代科学の考え方には誤りと欠陥があることを証明し、新井白石以前のわが国本来の学問の全体論的な考え方のほうが優っていることを証明したことになる。
 その証拠に、日本民族本来の全体論的考え方によって作られた上記の3つの史跡は【客観】と【科学】によって作られるものであるが、西洋近代科学の合理思考にもとづく邪馬台国説と日本神話虚構説は【主観】(先入観)と【非科学】(傲慢な単純化)が合体する誤読の空理空論であることは否定できない事実となる。

 『魏志倭人伝』には➀卑弥呼は統治した国名は[倭]の字源・本義「方位を90度転回して東を南にする」に合致して「日本列島の方位は90度転回している」ので「倭」と定めたと説明しさらに、➁対馬から邪馬壱国までの旅程記事、➂「女王国より以北は、その戸数・道里は略載(りゃくさい)を得べきも、その余の旁国(ぼうこく)は遠絶(えんぜつ)して詳(しょう)を得べからず」という記事、➃「その道里を計るに当(まさ)に会稽・東治の東に在るべし」という記事、➄「女王国より以北に特に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す」という記事、➅「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国有り。皆倭種なり」という記事、➆「また、その東南に在りて船行一年にして参問至るべき。倭の地は参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、あるいは絶えあるいは連なる。周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」という記事がある。
 この7種類の記事はすべて相集まって一つの合理的認に統一されて先端科学者たちが指摘する【科学】が成立し、卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であったと証言する。
 いいかえると、[倭]の字源・本義を表示する転回日本列島地理にもとづく邪馬壱国出雲地方説は、上記の7種類のすべての記事と合理となるので、先端科学者たちが証明した【科学】が成立する。
 しかし、日本古代史学界が絶対視する西欧近代科学の考え方の場合は、上記の7種類の記事のうちいくつかと不合理となる。これゆえ、7種類すべての記事が相集まって合理に統一することができない。ゆえに、先端科学者たちが「西欧近代科学の考え方には傲慢な単純化、無秩序から秩序を創造することができないなど、いくつかの誤りと欠点がある」と西欧近代科学の考え方を否定したとおりの事態となる。
 だから、西欧近代科学の考え方を絶対視する日本古代史学は、まやかしの学術だったのである。
 
 邪馬台国説と日本神話虚構説を唱える学者たちは、【主観】と【非科学】をあやつる偽学者たちということになる。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の【文字】をすべて【銀河各部の形状】が表示する字源・本義を解明すれば、西欧近代科学の考え方を絶対視する日本古代史学がまやかしの学問であることが解明・証明される。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された卑弥呼が立論した転回日本列島地理は、日本列島の西端の沖ノ島と東端の伊豆諸島の神津島が同緯度(北緯34度15分)であることから成立した。
 天の北極を重視すれば日本列島は東に伸びていると確信できたが、天の北極を重視して大海を渡ると緯度の測定が不正確となるので必ず命を落とした。だから、倭では遠い地や大海を渡る旅において天の北極は必ず命を失う天体であったので、天の北極を重視しなかった。
 中国では紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文が完成した。このため、中国の人々は大海を越えて日本列島に渡ることができなくなった。ゆえに、魏と朝鮮半島の帯方郡の使節は大海を渡ることができなくなったので、大海を往来できる倭の使節の船に便乗して外交をおこなった。
 倭において精密に天頂緯度測定を基軸とする夏音文字の学芸が存在したから、倭との外交によって魏が倭から送られた文書で知ることができた倭の様子を記述する約2000字で構成される『魏志倭人伝』が現存することになった。
 西欧近代科学の考え方を絶対視する学者たちは、『魏志倭人伝』が「夏音文字の学芸を権力基盤とする卑弥呼王朝は精密な天頂緯度測定を最も重視するものであったから、日本列島は東に伸びずに南に伸びるという地理を制定した」という説明をただ機械的に排除するが、この思考方法だと魏・帯方郡と倭の使節は大海を渡れず外交が成立しなかったことになるので、『魏志倭人伝』は1字も書かれていない、この世にまったく存在しない空虚なものであったことになる。
 このように1字も存在してはならない空虚から“邪馬台国は存在した”と主張する日本古代史学者たちの意見は、日本古代史学がまやかしの学術であることを見事に証明する根拠・理由となる。
 以上のごとく、学者たちは日本古代史学が【主観】と【非科学】に支配されてすることにまったく気づいていない。

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