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2012年7月 9日 (月)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する・しかも人類共通の敵である・32

 昨今の新聞・テレビは、東京電力福島第一原発事故を検証する国会事故調査委員会の最終報告書の「原発事故は人災」という結論と大津市でおきた中学2年生がいじめで自殺した事件を大きく取りあつかう。
 原発事故は東電や原子村のエリートたちの慢心・錯覚とその者たちの口車に騙された国政の怠慢によっておきた人災である。いじめによる自殺も、また教育者たちの怠慢に原因がある。
 エリートも教育者たちももっぱら権利を主張して、自分たちが人としてはたすべき義務をまったく怠っている。
 彼らは精神的支柱を有さない、おのれの命と富と名声を尊重にして、他人の命と幸福を踏みにじっていることに罪悪感を感じない、人として絶対に有していなければならない倫理観を失っている。

 原子村のエリートたちといじめ問題を解決できない教育者たちと同様に、日本の歴史学者たちもまた無責任きわまりない人種である。
 メディアそしてジャーナリストたちは東電や原子村のエリートたちに騙されて“虜(とりこ)”になった国や政治家を批判する。
 しかし、メディアもマスコミも“学者”と呼ばれる考古学はじめとする日本古代史の研究家たちの詐欺(ペテン)にすっかり騙されて、彼らの虜になっていることに気づいてない。

 5月7日の朝日新聞の朝刊に、国会事故調査委員会の黒川清委員長は6日、日本外国特派員協会で会見し、報告書について説明した。
 この模様を朝日新聞は――だが、序文は英語版と日本語版では内容が異なる。英語版は、事故の根本原因が日本人に染みついた慣習や文化にあると批判。権威を疑問視しない、反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性などを挙げ、「事故はメイド・イン・ジャパンだったことを痛切に認めなければいけない」とした。――と報告する。

 朝日新聞は今年の3月28日の2面の〔ひと〕という欄にて、同志社大学名誉教授(日本考古学)の森浩一を「日本の考古学研究をリードしてきた学者のひとりだ」と指摘して、森の考古学における権威に平伏(ひれふ)す奴隷となって服従する。
 森の研究はウソ偽りの考古学でほんとうの考古学ではない。
 森の考古学はペテン以外の何物でもない。
 森はほんとうの考古学を侮辱する、考古学の敵である。
 わが国の考古学と歴史学は森にリードされてはならない。
 森には考古学・歴史学をリードする資格がまったく存在しない。
 というのも、森は歴史学において真っ先に必要となる「歴史」の語源について何も知っていない、また[学]の字源も[者]の字源も知っていない。
 だから、森は「歴史学」の基礎知識がまったくそなわっていないので「歴史学者」と呼ぶことができない。
 森はカツオとマグロの区別がつかない寿司屋の職人と同じで、彼は「歴史学」にとって不可欠の基礎知識を有していない無学・無知の似非(えせ)学者である。
 考古学には限界がある。このことを、森は知っていない。
 複数の確かな古代の文献史料に記述された事柄や事件に合致していっさい矛盾せずに科学的に証明できる史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、その複数の古代文献に反する矛盾だらけの反科学的な意見は完全に空想・妄想であると断定しなければならない、この考古学の基礎的心得を森はまったく知っていない。
 こんな人物は、“考古学者”と、どうして呼べようか。
 森の最大の欠点は文献を正しく読解する能力がゼロであることである。
 
 
 彼の文献の科学的な記述を無視する意見は日本民族の命と心の根元を抹殺し、アイデンティティを消滅させ、日本民族を虐殺して日本国を滅亡させる。
 森の無学・無知から生まれた意見は、先人たちが“これだけはなんびとにも奪われてはならない、最も大事なものである”と命を賭けて守った、日本建国の〔愛〕の理念を消滅させる。
 だから、森は完全なる偽学者である。

 朝日新聞のごとく森を“学者”と奉る、この姿勢が黒川委員長が「権威を疑問視しない、反射的な従順性」と指摘する、日本人の欠点である。
 森の下記の意見が全面的にウソであると簡単明瞭にに科学的に証明できる史跡が存在する。
 このシリーズで何回となく指摘したように、
⑴国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)には、今から約4050年前に原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸が伝来した痕跡が明確に残る
⑵『魏志倭人伝』が著作された同じ3世紀後半に作られた静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵。
 この大鳥の地上絵は「わが国に夏音文字があった」と記述する『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の全記事は正しい歴史を伝えると科学的に証明できる史跡であり、この史跡は細江町の行政区域をあらわす地図の形として現存する
⑶徳川家康が彦根藩を中心に彦根藩近隣7ヶ国12大名に助勢を命じて、1603年から着工して1622年に完成した彦根の「夏音は習わず(夏音文字の学芸は未だ復興せず)」と設計する3千万坪の大鳥の地上絵。
 この大鳥の地上絵もまた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の全記事は正しい歴史を伝えると科学的に証明できる史跡であり、この史跡は滋賀県彦根市の行政区域の行政区域をあらわす地図の形として現存する
⑷彦根の3千万坪の大鳥の地上絵の設計が「夏音を習わず」と表示するように、1616年に没した家康が一生をささげた夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興する遺志を受け継ぐ将軍秀忠と江戸幕府が、当時の天才芸術家にして科学者であった小堀遠州に命じて作らせた桂離宮の庭園。
 遠州は⑶の彦根の大鳥の地上絵が完成した翌年の1623年から病床に伏す1645年までの23年間、桂離宮の庭園作りに情熱をそそいだ。この桂離宮の庭園もまた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の全記事は正しい歴史を伝えると容易に理解できる科学と学芸の施設である。
⑸そして、1738年に本格的な大嘗会(だいじょうえ)が復興にされて定められた、即位する天皇の頭上に高々と差し上げられる天皇の王冠。
 3世紀後半に生存した皇祖・天照大御神以来、皇室は正しい歴史を知る最も確かな方法である夏音文字の学芸と源頼朝・足利尊氏・織田信長・徳川家康はじめ日本人民が復興を願ってやまない日本建国の〔愛〕の理念の抹殺に躍起となった。この皇室の政策は誤っていたと霊元上皇は認め、1738年に大嘗会を本格的に復興して、即位する天皇の王冠の意匠を⑷の桂離宮の庭園における北部の庭園部と有名な美しい桂の笹垣を注目して造形することにした。桂離宮の庭園中央の池より東北の庭園部は⑵の細江町の大鳥の地上絵の形に設計され、竹やぶの小竹を折り曲げて編む竹の葉がそのまま壁となる生垣は日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命(愛称)の本名・竹野比売(たけのひめ)をあらわすデザインであった。ゆえに、天皇の王冠・菅蓋(かんがい)の上の飾りは⑵の細江町の大鳥の地上絵をあらわすものとなり、下の飾りは伊耶那美命・竹野比売を象徴する〔水器(すいき)〕の蓋(ふた)を表現する菅笠(すげかさ)となった。したがって、即位する天皇の頭上高く差しし上げられる天皇の王冠は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の全記事は正しいと示す史料となる。
 夏音文字の学芸が復興すると、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪して呪った天照大御神の事績が明らかになる。この天照大御神の事績が知られると皇室の滅亡につながりかねないおぞましい歴史が白日のもとにさらされる。
 霊元上皇は夏音文字の学芸の研究によって解明される『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された天照大御神の聖性がいちじるしく汚される歴史の抹殺をあきらめて、皇室の滅亡を覚悟して、日本建国の〔愛〕の理念は絶対に失ってはいけない歴史であり、なんびとも害してはならない真実の歴史であると認めた。
 このように、即位する天皇の頭上には、森浩一はじめとする『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を正しく読解できない人々の意見は完璧なる誤読の空論であると差し上げられて示される。また、天皇はこの日本建国の〔愛〕の理念を大和王朝の基礎を築いた皇祖・天照大御神が求めた強大な権力よりも優るものとする日本民族の理想の守り番であると示されることとなった。
 今上陛下もまた、この王冠を差し上げる儀式をおこなって天皇に即位したものゆえ、今上陛下はじめ皇室は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の全記事は正しいと認めていることになる。ただし、森はじめとする誤読の空論である邪馬台国説や日本神話虚構説をとなえる偽学者たちによって、天皇の王冠で掲げられた真の歴史を日本の国民は知ることができなくなった。
⑹京都市右京区に所在する臨済宗妙心寺派の竜安寺(りょうあんじ)の石庭もまた、夏音文字の学芸が記載される『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の全記事は正しい歴史を伝えると証明できる史跡である。

 この他にもいくつかの史跡が所在するが、説明が煩雑になるので省略する。
 これらの5つの史跡と天皇の王冠によって、森の下記の意見は全面的にウソであると証明される。

  朝日新聞の今年(平成24年)1月31日の〔時の回廊〕における記事は、森の意見を――それでもなお、「仁徳」の人名が付くという問題が残る。それは奈良時代に創られた漢風(かんぷう)の諡号(しごう)で、古墳時代になかった。そこで、古墳の所在地で呼ばれている地名を適用し、「大山(だいせん)古墳」とする私案を出したんです。――と記述する。
 朝日新聞の今年の3月28日の「ひと」の欄には――「仁徳天皇陵」の教科書記述が「大山古墳」へ変わるきっかけもつくった――と記される。
 教科書は、森の意見は全面的にウソであるので再度「仁徳天皇陵」にもどさなければならない。

 上記の6つの史跡を注目すると、今から約4050年前に夏音文字がわが国に伝来し、3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の夏音文字は甲骨文字と同じ象形文字ではなく楷書で表記されるので、古墳時代にはすでに漢風諡号を定めることができる学術がわが国には存在していたことが科学的に具体的に証明できる。
 森の意見が根本的に間違っていることを証明する詳細な説明は、このシリーズの〔邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・16〕でおこなった。
 この〔16〕で指摘したように、「仁徳」という漢風諡号は仁徳天皇の本名の「大雀命(おおきざきのみこと)」から作られた。つまり、この漢風諡号は約4050年前に日本列島に伝来した夏音文字の学芸の基軸となった〔天頂点のキャッチ〕が主体となり、[大]・[雀]と[仁]・[徳]の字となる銀河部は一致するものであるから「仁徳」と定められた。
 また、「仁徳」という漢風諡号は今から約5000年前に生存した黄帝の廟と墓が今から約2500年前に生存した孔子の廟と緯度が合致することにも由来するものでもある。
 この由来知識は仮に奈良時代に習得したとしても、奈良時代においては中国では〔天頂点のキャッチ〕を最も重視する夏音文字の学芸はまったく廃絶されていた。
 したがって、奈良時代当時、中国では[大]・[雀]と[仁]・[徳]の字となる銀河部が一致するという学識はまったく失われていた。
 ゆえに、奈良時代当時、中国から習得した学識では「仁徳」という漢風諡号を絶対に思いつくことができなかったことになる。「仁徳」という漢風諡号は、森にはそれを読解する力がまったくなかったたために排除・無視した『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された夏音文字の学芸によって作られたものだったのである。
 だから、森の意見は根拠が根本的に成立しない独断による妄想ということになる。
 

 日本には上記した“歴史学者”と呼べる真の「歴史学者」は一人もいない。
 というのも、彼らは「歴史」の語源を知らないうえに、[学]の字源をまったく知っていないからである。
 「歴史」の語源を知らず、[学]の字源の無知なる人々が、どうして“歴史学者”と呼べるであろうか。
 「歴史」の語源と[学]の無知なる人々は、3つのストライクでアウトになることえを知らないプロ野球選手と同じであり、オフサイドでは点にならないことを知らないサッカー選手と同じとなるから、歴史学の基礎知識がまったくそなわっていない人々ということになる。
 だから、「歴史」の語源と[学]の字源をまったく知らない人々がどうして“歴史学者”と呼べるであろうか。
 
 このような偽学者たちの妄想によって、先人たちが〔なんびとにも奪われてはいけない歴史〕という情念にかりたてられて命を賭けてまもった歴史を削除したために、日本国民は最も大事な歴史を知らない。
 この歴史は即位する天皇の頭上に高々と差し上げられる王冠の意匠となった表示される。
 歴史無免許で酒気帯び運転するような人種よりももっと悪質な偽学者たちによって、上記の天皇の王冠が実在したと表明する夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は存在しなかかったと否定されている。
 しかし、天皇の王冠は、いかなる強大な権力よりも夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念のほうが優る、日本民族にとって最も大事な財産であると示す。
 そして、偽学者たちの妄想を簡単に証明できる上記の史跡以外にも幾つもある。

 「歴史」の語源は「銀河各部の形状を文字とする記録」である。
 [学]の字源は『老子』第20章の冒頭の「学を絶てば憂い無し」の[学]である。
 この[学]の字源は「王朝体制が最も厳重な機密とした、その秘密を明らかにした者は王朝を転覆する大罪人として直ちに死刑になった、銀河各部の形状を文字とする知識」であった。
 このように、「歴史」の語源と[学]の字源においては「銀河各部の形状を文字とした知識」が共通する。

 わが国の古代中国文字研究の第一人者と呼ばれる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)発行は「甲骨文字」を「卜文」、「占いに用いられたことばをあらわす甲骨文字」を「卜辞」と記して、[学]の字源について下記のごとく解説する。
 「卜文にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社形式と似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう。卜辞に小子・小臣を集めて教学することを卜するものがあり、小子・小臣は王族の子弟をいう。」
 文字は強大な権力と莫大な富と最高の名誉を手に入れる方法であった。
 ゆえに、「銀河各部の形状から作られた図書を文字とする知識」を反体制側が手に入れて革命に利用されて王朝が崩壊することが絶対に無いようにするために、王族の子弟たちは厳しい戒律下のもとに秘密の講義を受けていたのである。

 2世紀末~3世紀半ばのわが国の様子を記述する『魏志倭人伝』には「倭の卜辞は令亀(れいき)の法のごとくであった」という文がある。
 この「令亀の法のごとく」という語句が明確に示すように、わが国には「殷代(いんだい)の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字の卜辞のような卜辞があった」ゆえ、「歴史」の語源と[学]の字源の秘密にもとづく王朝が独占管理して反体制側が習得する行為を厳重に禁止した原初漢字・夏音文字が存在した。
 このため、白川静著『字統』の[学]の字源解説には、「卜文にみえるメンズハウス(学び舎)の建物は千木形式で、わが国の神社形式に似ており」という説明が加わることとなった。

 中国の正史『新唐書』日本伝には――702年に中国に渡った日本の遣唐使は「後稍夏音(のち・やや・かおん)を習う」と中国王朝に伝えた――という記事があり、わが国には殷代の甲骨文字が出現する頃より約750年前の紀元前2050年ころに夏音文字が伝来していた。
 この10年後の712年に完成した『古事記』の序の冒頭は夏音文字の学芸の伝来について説明し、夏音文字は銀河各部の形状であったと解説するものであったのである。
 しかし、世にいう“学者”と呼ばれる人々は「歴史」の語源も知らず、[学]の字源も知らず、『魏志倭人伝』には「倭には甲骨文字のような文字があった」と記述しているにもかかわらず〔文字〕とはいったい何かと深く考えることもしなかったので、「歴史」の語源も[学]の字源も〔真の文字〕を簡単明瞭に知ることができる確かな史跡が上記に示すように幾つも存在したにもかかわらず発見することができなかった。
 『古事記』の序は――夏音文字が銀河各部の形状であると同様に楷書もまた銀河各部の形状であって、書く行為で表示される記号は本来「文字」と呼ぶべきものではなく、強いて「文字」と呼ぶならば〔第二義的文字〕あって、真の楷書における〔第一義的な文字〕は夏音文字と同じく「銀河各部の形状」である――と指摘する。
 そして、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注を付けて1字1音の夏音文字を多数記載する。「夏音文字以外のすべての漢字」の〔第一義的文字〕は「銀河各部の形状」であるので、すべての文字を第一義的な文字(真の文字)である「銀河各部の形状」に直せば『古事記』上巻に記述された歴史は解明できる仕組みになっている。

 上記したように、夏音文字の学芸が伝来した痕跡は、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石の万座・野中堂の両遺跡に現在も明確に残っている。
 ゆえに、甲骨文字の[学]の字形となる学び舎(メンズハウス)の形は、わが国の神社建築に相似するものとなった。
 夏音文字は『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名や小国名を表記する文字として現存する。この夏音文字は象形文字ではなく楷書で表記される。
 これゆえ、甲骨文字に相似する象形文字の夏音文字が出土しなければ夏音文字は存在したことにならないと考えるかもしれない。
 しかし、「歴史」の語源と[学]の字源にもとづくと――わが国には上記した5つの史跡と天皇の即位式に用いられる王冠によって、夏音文字はじめとするすべての漢字は銀河各部の形状であったことが科学的にしかも否定できない事実として解明できるので、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に象形文字で表記されずに楷書で表記されるものであっても、夏音文字は存在したことになる。

 つまり、現在われわれが「漢字」とか「文字」であると思い込んでいるものは、「漢字」とか「文字」とか呼ぶべきものではなかったのである。
 「漢字」とか「文字」とか呼ぶべきものは、「銀河各部の形状」であった。
 “漢字の始祖”と呼ばれる今から約5000年前の倉頡(そうきつ)の漢字作成原理「鳥獣の文」で[文]と[字]となる銀河が定められ、「文字」は「銀河各部の形状」であると定まった。
 この「銀河の形状」から図案される記号を、現在のわれわれは「象形文字」とか楷書を「表語文字」とかいう呼び方をして「文字」であると思い込む。
 しかし、この文字は人目につくものであるから「文字」ではなかった。
 なぜならば、[文]と定めた銀河部が[文]の文字であり、[字]と定めた銀河部が[字]の文字であったからである。
 倉頡は文字は強大な権力と莫大な富と最高の名誉を手に入れる最も強力な方法であることに気づき、反体制側が手に入れて革命に利用すると容易に王朝が崩壊することをおそれた。そこで、「文字」すなわち「銀河各部の形状」を図案する図書は書いたのち、用済みになった図書を直ちに消さない者は死刑にすると定めた。「銀河各部の形状」すなわち「文字」の学芸の秘密を守るために、反体制側の人々が容易に習得できなくするために銀河各部の名称を付けることも厳重に禁止した。
 このような倉頡が定めた厳しい掟によって「文字」は「銀河各部の形状」と定められた。
 ゆえに、われわれが「象形文字」とか「表語文字」とか「楷書」と呼ぶ「表記された記号(図書)」は「文字」ではなかった第一義的な真の文字ではなかった。
 だから、現在のわれわれが「文字」と思い込む記号は「偽りの文字」となるが、強いて「文字」という名称にこだわるならば、上記したように「第二義的文字」ということになる。

 
 
 現在のわれわれの〔文字〕という概念にもとづくと、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて現存する夏音文字は甲骨文字よりも未熟な象形文字でなければならないと考える。
 ゆえに、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には楷書に記載されるものは“夏音文字ではない“と否定されることになる。
 しかし、倉頡から始まる漢字の起源にもとづくと、「文字」は「銀河各部の形状」であり、この「銀河各部の形状」を表現する形式の〈象形文字〉と〈楷書〉は元来「文字」とは呼べるものではなく、単に〈象形文字〉と〈楷書〉と表現形式と異なるものであるので、《象形文字で記される夏音文字》も《楷書で記される夏音文字》も同じ「夏音文字」ということになる。
 つまり、「バラ」を〈具象画〉で表現しようが〈抽象画〉で表現しようが、両者とも「バラを書いた絵」ということで同一となる。
 現在のわれわれの〔文字観〕は表現形式の〈象形文字〉や〈表語文字〉をも「文字」と思い込んでいるが、原初漢字の五帝時代の書契(しょけい・わが国では「刻木(こくぼく)」と呼ぶ)とそして夏代の夏音文字においては「文字」は「銀河各部の形状」であった。
 だから、現在の「文字」の定義に不完全で誤りがあることになる。

 この「文字」の定義の誤りは、現代人は現在の文字観に麻痺して実体を見失っているので理解に苦しむが、漢字の起源の秘密を保存する上記の5つの史跡を注目すれば「文字」は「銀河各部の形状」であったことが簡単に理解できる。
 だから、「文字」の定義は漢字の起源にもとづかずに現在の文字観で定めていたために、この勘違いがわが国に夏音文字が伝来していることが証明できない原因となったのである。

 現在の“文字”の定義にもとづく考えで『古事記』上巻の文章を読解すると明らかにできなかった歴史が、『古事記』上巻の文字をすべて銀河各部の形状に直すと解明できなかった歴史が浮かびあがる。
 この相違を注目すると、現在の「文字」の定義が誤っていることが察知できる。
 2世紀初頭に後漢の許慎(きょしん)が著作した字書の聖典『説文解字』の序は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(しにしえ)を識(し)るなり」と指摘する。
 この文の後半の「前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり」と指摘する箇所は、要するに「歴史を識るなり」と意味することになる。
 したがって、『説文解字』の序は「文字は歴史を識る方法である」と述べていることになる。

 『古事記』上巻の文を現代の「文字」の定義で読解すると歴史を識ることができない。
 しかし、『古事記』序のそのすべての文で説明する秘密に則って「文字」を「銀河各部の形状」であると定めて『古事記』上巻の文を読解すると隠れていた歴史を識ることができる。
 
 したがって、『説文解字』の序の「文字は歴史を識る方法である」という説明にもとづくと「文字」は『古事記』上巻に記述された歴史を識ることができる「銀河各部の形状」であったことになる。
 ゆえに、『古事記』上巻の歴史を解明できない現在の“文字”の解釈は誤っていたことになる。
 上記した5つの史跡には「文字」は「銀河各部の形状」である秘密が保存されている。

 白川静著『字統』の11頁は「甲骨文の字形を集録したものに、中国科学院の〔甲骨文編〕1965があり、正編1723字、附録2949字、計4672字を録する。」と記述する。
 文字を刻む大量な亀の甲羅や獣の骨が発掘されて、4672字にもなる甲骨文字そのものこそ漢字の最も古い祖型と断定されているが、この「文字」の定義は根本的に間違っていることになる。
 「文字」は「銀河各部の形状」であった。
 だから、“文字は亀の甲羅や獣の骨または木簡や石板などに刻まれた、ことばをあらわす記号”ではなかったのである。
 上記した赤い大きな字で記したように、『老子』第20章の「学を絶てば憂い無し」の[学]の字源は「王朝体制が最も厳重な機密とした、その秘密を漏らした者は王朝を滅亡させる大罪人となって直ちに死刑とされた、銀河各部の形状を文字とした知識」である。
 これゆえ、「銀河各部の形状こそが文字である」と暴露する老子は役人に追われる逃亡者となって住所不定の生活をし、時には「学を絶てば憂い無し」すなわち「学の研究をやめれば死刑になる心配はなくなる」と嘆くものの、正しい字源・本義が失われて[学]が歪曲されて衰微するのを見て見ないふりができず、人間としておこうなうべき倫理・使命にもとづいて死刑となる大罪を犯す日々を送っていた。
 4672字も発見された亀の甲羅や動物の骨に刻まれた図書は、王朝が厳重な秘密にした文字ではない。だから、大量の亀甲獣骨(きっこうじゅうこつ)に図書を刻むことを殷王朝は許可したのである。
 殷王朝が厳重な機密にした「文字」は「銀河各部の形状」であった。
 だから、〔亀甲獣骨に刻まれた図書〕は「文字」ではなかったことになる。

 『魏志倭人伝』に記述される〔倭の令亀の法のごとくの夏音文字の卜辞〕は発掘されていない。だから、『老子』第20章の[学]の字源に合致する「王朝が独占管理して最も厳重な機密としない、銀河各部の形状を文字とする知識」であったことになる。
 倭の卜辞に用いられた銀河各部の形状を表示する文字は用済みになると必ず消さないと死刑に処せられた。だから、ほんとうに存在したが、出土しない文字となった。
 だいいち、「文字」は「銀河各部の形状」であるから、この「銀河各部の形状」は絶対に地中深く掘っても出現するものでなく、あくまで地上はるか遠くの上空に存在するものであるから、間違っても地中から銀河が出土するなんてことは絶対におこらない。
 学者たちが「文字」と定義する〔亀甲獣骨に刻まれる図書〕は本来「文字」とは呼ぶべきものではなかった。だから、厳重な機密とならず王朝が亀甲獣骨に刻むことを許可するものであったゆえ、地中から出土することになったのである。

 『魏志倭人伝』は「魏の都・帯方郡・諸韓国と倭女王が交わす文書は、倭の小国の伊都(いと)国の港ですべて点検・確認して、女王のもとに届いた時に差錯(ささく・間違い)が生じないないようにしていた」と記述する。
 この倭女王が文書に書いた夏音の記号は「銀河各部の形状」を「文字」と定める「銀河各部の形状」をあらわす記号であった。
 いっぽう、魏都・帯方郡・諸韓国においては老子が嘆いたように幾つかの正しい字源・本義を失う「文字」ではない〔木簡や紙に書かれる記号〕をも「文字」と認識していた。
 だから、倭女王と魏都・帯方郡・諸韓国が交わす文書の記号は同じ「漢字」であったが、差錯していた。
 「銀河」は「銀漢」とも言われるので、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と呼ばれた。
 「天に多数の文字がありき」となったので「天体」は「天文」と呼ばれるようになったのである。
 このように、「漢字」と「天文」という語は「銀河各部の形状」こそが真の「文字」であったと今日に伝える。

 このような秘密があったので、『魏志倭人伝』に記述された「歴史」は「銀河各部の形状を文字とする記録」であったことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された歴史は「文字」の実体も知らない人々が“文献批判”という方法を用いてことごとく削除(さくじょ)した。
 『魏志倭人伝』は、その大半の記事で――❶倭には夏音文字があった、❷卑弥呼王朝は日本列島が伸びる〈東〉の方位を中国大陸の〈南〉に相当すると定める転回日本列島地理を制定した。この「〈東〉を〈南〉に転位する転回日本列島地理の方位規定」は[倭]の字をあらわすものであったので、倭女王・卑弥呼が統治するする国名の略称は「倭国」となり、倭国の天頂に[人]の字となる銀河部がめぐってきたので正式国名は「倭人国」となった――と、「歴史」の語源のとおりの歴史を語る。
 
 この「歴史」の語源に則る重大な真実の証言を、「歴史」の語源と[学]の字源についてまったく無知・無学のいわゆる“学者”と呼ばれる人々は“文献批判”という名で呼ばれる、科学にまったく反する無茶苦茶な方法を用いて無視し真実を抹殺する“邪馬台国説”というウソ八百を確立させた。

 『魏志倭人伝』の❶「倭に夏音文字があった」と❷「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」を説明する各部の記事はあちこちに分化しあるいは一か所に集結するものであるが、このすべての記事は互いに関連しあって❶と❷の二つの記事群に集合されて一点の矛盾がなく「科学」が成立するものとなり、この二つの記事群はさらに「天頂緯度測定」という一つの事実に統合されて「科学」が成立して「真実」を証言する仕組みになっている。
 この仕組みによって、邪馬台国説は完璧なる誤読の空論であることが否定できない事実となる。

 『魏志倭人伝』が全記事が一つに統合されて「科学」が成立する「天頂緯度測定」の場合、精密に緯度と天頂点と直角に交わる子午軸が測量できたので、大海を往来できた。
 いっぽう、邪馬台国説は天の北極を基準にすれば日本列島は〈東〉に伸びると制定できると文献批判して、❷の「転回日本列島地理」の記事群は信用できないと否定して排除する。しかし、天の北極の緯度の測定と子午軸の測量は不正確となったので、この天の北極を基準にする方法で大海を往来しようとすると、大海に入った途端に緯度(位置)と方位が皆目不明となって落命して家族が待つ家に帰ることができなくなった。
 紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文が完成すると、以前の「天頂緯度測定」の眼力と技術を鍛錬する習慣を廃絶した中国の人々は大海を渡ることができなくなった。この影響は、3世紀において、魏の出張機関政庁がある朝鮮半島の帯方郡の役人たちにも波及して、彼らは大海を渡ることができなくなった。

 この事実は、『魏志倭人伝』の「倭の載斯烏越(そしあお)等を遣わして郡(帯方郡)に詣(いた)り、(中略)、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を遣わす」という記事、また「倭の大夫の率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人を遣わし、政等の還(かえ)るを送らしむ」いう記事で示される。
 天頂緯度測定の眼力と技術を鍛錬する習慣が栄えていた倭の使節の載斯烏越一行と掖邪狗一行は大海を往来できたが、天の北極を最も重視するシナ天文によって天頂緯度測定の眼力と技術を鍛錬する習慣を廃絶した帯方郡の使節の張政一行は大海を渡って日本列島に到着することができなかった。そこで、帯方郡使の張政一行は倭の使節の船に便乗して大海を往来したのである。
 だから、『魏志倭人伝』の❷「転回日本列島地理」は天頂緯度測定を最も重視する夏音文字の学芸が栄えていた倭の卑弥呼王朝が制定した地理であったと考えるべきことになる。

 この❷の「転回日本列島地理」の秘密は、上記の⑵の静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を作成した遠江国造(とうとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が登場する『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部にも記述されている。
 中国大陸の海岸線地域において北の山東半島の気候は寒く、南の会稽(かいけい・現在の浙江省の紹興市)や東治(とうじ・現在の福建省の福州市)の気候は暖かい。だから、中国の海岸線地域は〔北冷南暖〕となる。
 中国の海岸線地帯のごとくに海に近い陸地からなる日本列島における北緯34度15分で同緯度の西端の沖ノ島と東端の神津島までの道里(距離)は、中国の山東半島から東治までのの距離にほぼ等しい。日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降るが東端の亜熱帯地区の神津島においては冬でも雪が降らない。したがって、日本列島は〔西冷東暖〕ということになる。
 この結果、冷たい地である中国の〔北〕の山東半島と日本列島の〔西〕の沖ノ島が合致し、暖かい中国の〔南〕の会稽・東治と日本列島の〔東〕の神津島が合致することになる。
 だから、中国の海岸線地域の〔北〕は日本列島の〔西〕に合致し、中国の〔南〕と日本列島の〔東〕が合致するので、卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕は中国の〔南〕に伸びると立論する転回日本列島地理を制定した。

 『魏志倭人伝』には「その道里を計るに会稽・東治の東にあるべし」という記事がある。
  邪馬台国説の〔東〕の伸びる現在の日本列島地図は会稽・東治の東北に在って矛盾する。
 しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部の記事と、細江町の1千万坪の大鳥の地上絵が実在したと現在に伝える転回日本列島地理は会稽・東治の東に所在して矛盾せず「科学」が成立する。
 地図に示される日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島までの、このような長い距離で離れる緯度をどうして知ったかと、この秘密に注目して考えると――沖ノ島で天頂緯度を測量し、神津島で天頂緯度を測量した、この方法のみしか存在しないことが明らかとなる。
 だから、倭では精密な天頂緯度を測定する眼力と技術を鍛錬する習慣が存在し、転回日本列島地理が制定することになったので卑弥呼王朝は「天頂緯度測定」を最も重視していたことがおのずと明確となる。
 『魏志倭人伝』の全記事は、この「天頂緯度測定」の一点に統合されて「科学」が成立する最も優れた史書のうちの一書だったのである。
 したがって、辞書を開いて「科学」という語を正確に知ってこそはじめて『魏志倭人伝』の全記事を正確に読解できるようになる。
 

 このように「天頂緯度測定」によって成立した❷の「転回日本列島地理」は事実でないと否定する邪馬台国説のもとづくと、魏と帯方郡の使節と同じく倭の使節も大海を渡ることができなくなって、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになる。
 魏と倭が国交を結べなかったことになる邪馬台国説によると、約2000字で構築される『魏志倭人伝』のすべての文字は瞬時に消滅してゼロということにならなければならない。
 ゆえに“歴史学者”と呼ばれる人々が文献批判を用いて構築する邪馬台国説は「科学」がまったく成立しない奇妙なきわまりない空想であり妄想であったことになる。
 『魏志倭人伝』の真実は夏音文字が最も尊重した「天頂緯度測定」の一点に統合されて成立する「科学」によって解明・証明できるように仕組みになっている。
 いっぽう、邪馬台国説は多数の矛盾点や不合理によって「科学」がまったく成立せず、“学者”という権威にあぐらをかいて歴史学の基礎知識や基礎的心得を考える原点に帰ることを怠って“『魏志倭人伝』の❶「倭に文字があった」、❷「転回日本列島地理」という証言は絶対に信用してはならない”と無意味なお題目をとなえているだけのこととなる。
 だから、邪馬台国説が加える“文献批判”の正体は「誤読」であり、“学者”と呼ばれる人々の意見の〈邪馬台国説〉は「科学」がまったく成立しない誤読の空論以外の何物でもないことになる。
 『魏志倭人伝』の全記事はそのまま「科学」が成立する文献であり、一点も“文献批判”を加える必要がなかったのである。

 248年ころに生存した『魏志倭人伝』の末部に登場する倭女王の壱与(いよ)は13歳のとき、その年は233年ころであったと考えられるが、彼女は大国倭に属することになった小国・日本の女王となって国作りの柱を〔愛〕と定め、人民に〔愛〕を尊重するように熱心に説いた。
 だから、日本建国の理念は〔愛〕と定まった。
 倭から派遣された13歳の壱与は、倭の小国の「伊邪(いや)国」すなわち旧国の「丹波」(現在の京都府中部と兵庫県の一部)の出身者であった。
 ゆえに、小国・日本の人民は「伊耶国の美しい女王」を略して「伊耶那美命」と愛称した。

 中国の正史『三国志』呉書孫権(そんけん)伝が記載するように――230年に、呉の皇帝の孫権の命令で1万の武装する水軍が倭の隣国の東鯷人(とうていじん)国に遠征した。その22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この赤壁の戦いでわずか5万の呉・蜀の連合軍は80万の魏の大軍を撃破した。この大勝利を導いた中心的役割を、2万の呉の水軍がになった。
 中国の正史『後漢書』倭伝に「東鯷人は定期的に呉の会稽にやってきて交易をしていた」と記される東鯷人が呉の1万の水軍の遠征の情報をキャッチしたのか、それとも倭と軍事同盟を結んでいた魏が呉軍の東鯷人国遠征の情報をキャッチして倭女王に伝えて東鯷人国王に届いたのかは不明であるが、東鯷人国王は80万の魏軍を2万で撃破したと言っても過言でない呉の1万の無敵艦隊と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、倭軍の協力を得て呉軍に占領されないために倭に服属することを決意した。
 だから、13歳の壱与・伊耶那美命は呉軍の戦力を奪う魔女である“媚蠱(びこ)”と呼ばれる巫女(みこ)であった。『魏志倭人伝』の「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与」という文は「卑弥呼が率いる巫女界を代表するところに壱与」と意味することになる。
 この壱与・伊耶那美命と結婚した、呉軍と戦う日本の軍王(いくさのおおきみ)である青年武将が『魏志倭人伝』の正始八年(247年)の記事に登場する「載斯烏越(そしあお)」である。
 呉の水軍は赤壁の戦いで火攻めで魏軍に勝利したゆえその戦力は「赤い火」と表象(ひょうしょう)し、火炎は水で消すことができるので日本軍の戦力は「烏越(あお)い、すなわち青い水」となった。「烏越」には「死体をついばむ烏(からす)と呉から日本までの大海を渡る呉軍の船が荒波に越えることができずに転覆する」という呪いがこめられていた。『説文解字』は[斯]を「柝(さ)くなり」と解説するように、「呉軍の木の船を裂く」または「人体を裂く、すなわち武装する呉軍の兵士を殺す」という呪力がこめられていた。
 白川静著『字統』は「載斯烏越」の[載]の字源について「載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行を開始するであろう」と指摘する。東鯷人国改めて新生・日本国で最初に軍行を開始する軍王であるゆえ「載」という字は名前の先頭に冠されたのである。
 ゆえに、「載」の「開始する」という字義の基に、載斯烏越の漢風諡号は「開化」となった。

 『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)の娘の竹野比売と結婚されて生まれた子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)である。また、継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚されて生まれた子が崇神(すじん)天皇である」と記述する。
 「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字「伊耶」と合致する。
 ゆえに、載斯烏越・開化天皇は日本の軍王の伊耶那岐命であった。
 開化天皇の正妃の竹野比売は壱与・伊耶那美命であった。
 『魏志倭人伝』に記載される倭国の一小国の「伊耶国」を銀河各部の形状で調べると「霧深い国」となる。旧国の丹波は“霧の丹波”と言われて「伊耶国」という小国名に合致する。ゆえに、伊耶国・丹波出身の竹野比売は卑弥呼の宗女の壱与にして、人民に敬愛された伊耶那美命であったことになる。
 竹野比売は日本建国の〔愛〕の理念を提唱し、『古事記』上巻は「火之迦具土神(ひのかぐちのかみ・農具の鉄製の刃先を作る製鉄事業開発)の火災事故で火傷を負って天の香久山(かぐやま)の麓で没した」と記述する。この竹野比売は〔愛〕の女王であったことを後世に伝えるために、日本最初の小説『竹取物語』のヒロインは竹野比売をモデルとする「なよ竹のかぐや姫」であった。「かぐや姫」の「かぐ」は火之迦具土神の「迦具」と天の香久山の「香久」をあらわすものであったのである。『竹取物語』のテーマは〔愛〕であるから、ヒロインのかぐや姫のモデルは日本建国の〔愛〕の理念を提唱した竹野比売・壱与・伊耶那美命であったのである。
 小国・日本(旧東鯷人国)を目指した呉の遠征軍は天頂緯度測定の眼力と技術を鍛錬する習慣を失っていたので天の北極で緯度(位置)と方角を測量したたため、載斯烏越の[斯]や[越]の字の呪力に祟(たた)られたかのように、呉軍の船は大海原に入るや迷い漂流して8割から9割の兵士を失って壊滅した。
 だから、『後漢書』倭伝末部は「所在絶遠にして往来すべからず」と記す。このように、『後漢書』倭伝は「東鯷人が東鯷人国の港から呉の会稽までを往来する海の道は、中国の人々には呉軍が証明したように途中で消えて絶えてしまい、余りにも遠くて往来することができない」と記述する。
 東鯷人は天頂緯度測定の眼力と技術を鍛錬するものであったが、呉軍の兵士たちはこの眼力と技術がそなわっていなかったので大海で迷って藻屑(もくず)となって壊滅した。
 真の「文字」の「銀河各部の形状」で竹野比売の夏音名の「壱与」の[壱]と[与]の2字となる銀河部は隣接して連続する。この連結する[壱〕・[与]の銀河部は[滝(瀧)]の1字を示すものとなる。この[滝]の字となる銀河部は、「伊耶国」の霧のような水飛沫(みずしぶき)をあたり一面に飛散する滝に相似する形状となる。だから、「壱与」という夏音名は「赤い火の呉軍」の戦力・呪力を奪った魔女の媚蠱をあらわして小国・日本の女王をあらわすものとなる。
 古来より、竹野比売・壱与つまり伊耶那美命は日本一の落差(130m)を有する那智の滝の精霊となり、熊野那智大社の主神として祀られる。
 このような次第であるから、伊耶那美命・竹野比売が生んだ子の比古由牟須美命の愛称が『古事記』が上巻に登場する須佐之男命である。
 そして、開化天皇の第二后の伊迦賀色許売命が天照大御神であり、その子の崇神天皇もまた天照大御神であった。

 『魏志倭人伝』末部には「卑弥呼はすでに死んだ。大きな墓を作る。その円墳部の直径は百余歩(約150m)。18歳ぐらいの青年「奴(ぬ)」と13歳ぐらいの「婢(ひ)」が百余人殺されて、卑弥呼の墓に葬られた。卑弥呼の後に男王を倭王に立てたが、奴婢を殺した徇葬(じゅんそう)を憎悪する人民が倭王に服従せず武器を持って政府軍と戦った。この戦いで政府軍は千余人の反乱者を殺した。また、倭政府は13歳のときに卑弥呼の宗女となった壱与を倭女王に立てると、倭の国中に広がった反乱が遂に鎮まった。」とあらわす文章がある。
 倭国の一小国の伊耶国出身の竹野比売・壱与は13歳のときに赴任した小国・日本で人民に〔愛〕を尊重するように熱心に説く女王であった。ゆえに、残忍な徇葬を憎悪して国中に広まった反乱を鎮める最適任者は壱与であった。本来、壱与は大国の倭の出身者であって小国・日本人ではなかったので、倭政府は彼女を倭女王に選んだ。
 倭の反乱者たちにとって倭国の伊耶国出身の壱与は誇らしい憧れの女性であり、彼女が倭女王に就任するならば残忍きわまりない徇葬は必ず禁止するにちがいないと信ずることができたので、反乱者たちは武器を捨てて戦うことをやめた。

 この壱与・伊耶那美命は没すると、伊迦賀色許売命・天照大御神が倭女王に選ばれた。
 天照大御神は強大な国家権力は伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念よりも勝ると考えて、伊耶那美命を憎悪した。
 天照大御神は伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら))を作る時に、伊耶那美命の遺言・遺志を無視して、徇葬を決意して陣頭指揮した。
 『古事記』編纂スタッフは時の皇室と律令政府が皇祖・天照大御神の聖性を絶対に汚してならぬと命令するのを無視して、天照大御神が残虐な徇葬を決行した歴史を後世に伝えることにした。ゆえに、徇葬を決行した女王の名を「天照大御神」と定めたならば絶対に『古事記』は抹殺されてしまう。
 そこで、編纂スタッフは天照大御神は伊耶那美命の後を受け継ぐ倭女王にして伊耶那美命の墓を作る陣頭指揮したので、天照大御神を「黄泉(よみの)国の伊耶那美命」と表現することにした。
 編纂スタッフは『魏志倭人伝』が「奴婢」と表記した「徇葬者」は「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」、伊耶那美命の墓を守る兵(守衛)は「予母都志許女(よもつしこめ)」、黄泉国に集合する「倭の政府軍の大軍」は「八の雷神に副(そ)える千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)」という名に変えて、天照大御神が残虐きわまりない徇葬を決行した歴史を『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述して、元明天皇から正史の承認を得ようとした。
 というのも、編纂スタッフは太安万侶(おおのやすまろ)が書く『古事記』の序に期待したのである。上記したように、『古事記』の序は全文を通して――わが国に夏音文字が伝来し、この夏音文字においては「文字」は「銀河各部の形状」であったゆえ、この夏音文字の秘密を基に『古事記』上巻の楷書で表記する「すべての文字」を「銀河各部の形状」に直せば歴史が明らかとなる――と解説するものであったからである。
 編纂スタッフは「黄泉国の伊耶那美命」を元明天皇は「伊耶那美命」と解釈できるということで天照大御神が徇葬を決行した歴史を歪曲するものと納得するならば、『古事記』は皇室と律令政府が欲求する偽書となるので正史になれるかもしれないと期待した。
 しかし、元明天皇は編纂スタッフの策略を見抜いて、即座に『古事記』献呈を拒否した。   

 このように、『古事記』は元明天皇の激怒されて焚書(ふんしょ)されるこの世には存在してはならない反逆の史書であった。ゆえに、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には『古事記』序にある「和銅五年(711年)九月十八日に天皇が安万侶に詔(みことの)りして『古事記』を献上せよといった命令」と『古事記』が天皇に献上された「和銅五年(712年)正月廿八日」の記述は削除されることとなった。
 『古事記』は日本古代文献の金字塔となって、現在まで不滅の書物となった。
 ゆえに、『古事記』は元明天皇の最高の事績となるべきものであるが、元明天皇は皇祖・天照大御神の聖性をいちじるしく汚す最悪の書物としてあつかって抹殺せんとした。

 伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は233年ころ始まり、卑弥呼の墓と伊耶那美命の墓を作ったときの徇葬を憎悪する人民にとって、日本建国の〔愛〕の理念は絶対に失うことのできない理想であり、後世に伝えなければならない真実の歴史となった。
 この日本建国の〔愛〕の理念の歴史は、『古事記』序が示すように夏音文字の学芸によって正確に伝えられることとなった。
 というのも、皇室と律令政府は『古事記』序と上巻に記述された夏音文字の学芸の抹殺に躍起になったが、しかし限界があったからである。
 強大な権力を有する皇室にあっても、天に輝く銀河は消滅することができなかった。
 だから、上記の4つの史跡すなわち⑵細江町の大鳥の地上絵、⑶彦根の大鳥の地上絵、⑷桂離宮の庭園、⑹竜安寺の石庭は「文字」が「銀河各部の形状」である、夏音文字はわが国に存在した、伊耶那美命は日本建国の〔愛〕の理念を提唱したと伝えるものとなったのである。これらの史跡とそして⑴大湯環状列石と、「歴史」の語源と[学〕の字源と「文字」について考えれば至極簡単に『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された歴史を知ることができる。
 森はじめとする歴史を研究する学者ならば当然そなえるべき基礎知識をそなえないうえに漢字の起源についてもまったく研究せず、ただただ“学者でござる”と慢心するあまり、先人たちがこのような史跡を幾つも作ったなんてことは夢にも思ったことは一度もなかったにちがいないので、彼らの意見は日本建国の〔愛〕の理念を抹殺するいかがわしいウソ八百となったのである。

 233年頃から始まる日本建国の〔愛〕の理念の歴史は、約1500年後の1738年、霊元上皇の決意によって天皇の王冠の意匠で表示された。
 先人たちは1500年もの長い年月をまもって日本建国の〔愛〕の理念をわれわれに残した。
 日本建国の〔愛〕の理念は日本古代史における最も重大な歴史であり、先人たちが1500年もの長いあいだ熱い魂から熱い心へ受け継いでまもった。ということは、先人たちは日本建国の〔愛〕の理念を失ったならば日本人と日本国が滅亡すると思いつめて努力したことにちがいない。ゆえに、われわれが学者たちが捏造した偽りの歴史に毒されて日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐことを止めてしまったならば、きっと日本人と日本国の滅亡につながることにちがいない……。
 先人たちの1500年の努力は天皇の王冠の意匠となった。
 現在、天皇の王冠に示された真実の歴史は学者たちが抱く妄想にかき消されている。
 ゆえに、われわれはこの真実の歴史はなんとしても取り戻せなければならない。

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