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2012年7月22日 (日)

邪馬台国学説は日本国民を虐殺する。しかも人類共通の敵である・34

 歴史は国家(くに)のカタチとなり、国民の魂となり、命の根元となり、アイデンティティの始点となる。
 だから、誤った歴史は国民から魂を奪い、命の根元を奪い、アイデンティティを奪って、国家を滅ぼすことになる。

 わが国の歴史学者たちは、無免許で酔っ払い運転をしている犯罪者と変わらない。
 というのも、わが国の歴史学者たちは「歴史」の語源も知らず、[学]の字源もまったく知らないからである。
 これゆえ、彼らは三つのストライクで三振・アウトになることを知らない野球選手のごとく基礎知識をまったく有していないことになる。
 だから、彼らはオフサイドでゴールしても点にならないサッカー選手みたいな、あきれるほど歴史学の基礎知識を身につけていない人種である。
 
 だから、わが国の歴史学者たちは無免許で酔っ払い運転する人種と同じことになる。
 わが国の歴史学者たちは犯罪にはならない所業であっても、その所業は最も悪質な犯罪をおかしていることになる。
 というのも、日本国の真のカタチを奪い、国民から日本民族の魂を奪い、命の根元を奪い、アイデンティティの始点を奪い、日本国を滅ぼす大犯罪者たちであるからだ。

 現在の日本国の有り様は、およそ1500年におよぶ歴史をもって先人たちが願ってやまなかった――その願いからほど遠い状況となる。
 18世紀前半に新井白石が登場し、その後約280年間の“文献批判を正しい”と考える伝統が学界を支配した。
 これによって、白石以前の1500年の長きにおよんで先人たちが魂から魂へ受け継いで日本建国の〔愛〕の理念を絶対視して復興せんとした願いと努力は無駄骨となった。
 こんな所業は絶対にゆるされることではない。

 日本の歴史学は、白石以後誤った。
 
 白石から始まる文献の誤読を正しいと考える方法によって、邪馬台国学説と日本神話虚構説が捏造(ねつぞう)されて、似非(えせ)学問が横行し、似非学者たちが“学者”と呼ばれることになって歴史学界を牛耳(ぎゅうじ)り、ウソ偽りの妄想を“歴史”と呼ぶ慣習がこの国に蔓延(まんえん)することになった。

 “日本人の魂となり、命の根元となり、日本国民にとって最も重大な歴史である”と、約1500年におよんで先人たちが信じて絶対視して必死にまもりぬいた真実の歴史は、白石以後に確立された文献を誤読・誤訳・誤解する方法によって排除された。
 このため、学者たちは誰一人、当然知っておくべき「歴史」の語源も[学]の字源も知らず、無免許で酔っ払い運転する人種と変わらない似非学者たちを、メディアやジャーナリストたちは崇めたてまつることになった。

 白石以来の学問の伝統によって、文献を誤読する方法が確立され、この方法は“文献批判”と称される。
 この文献批判によって、1500年の長いあいだ命から魂に受け継いで先人たちが必死にまもってこの国のカタチとなった真実の歴史が闇に葬られた。
 『古事記』の「上巻 序并」と表記される。この「上巻 并(あわ)せて序」と読む一風変わった序は――「歴史」の語源は「【銀河各部の形状】を【文字】とする学理による記録」であり、[学]の字源は「反体制側の人々が手に入れて革命に利用されたならば国家・王朝が容易に崩壊すると警戒されたところの【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった、国家と王朝が厳重な機密と定めた知識」と解説する。

 学者たちは一斉に、上記のように“『古事記』序は「歴史」の語源は「【銀河各部の形状】を【文字】とする学理による記録」、[学]の字源は「【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった知識」であると、解説していない。ウソだ!”と目くじらを立て、こめかみに青筋を立てて猛反対するにちがいない。
 しかし、この反論は無駄な抵抗である。
 『古事記』の序の全文は「【すべての文字】が【銀河各部の形状】であった」と解説すると科学的に明確に証明できる史跡が幾つも現存するからである。
 これらの史跡によって、学者たちは『古事記』序を正しく読解する能力がまったくそなわっていない似非学者であったことが決定的となる。
 この代表的な史跡は、❶秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)、❷『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作られた静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、❸1603年に着工して1622年に完成した滋賀県彦根市の「夏音は習わず」と設計する3千万坪の大鳥の地上絵、❹将軍秀忠と幕府からの命令されて1623年から1645年まで小堀遠州が情熱を傾けて作った京都市に所在する桂離宮の庭園などが存在する。
 これらの史跡によって白石以来確立された“文献批判”の正体は「誤読」であったことが白日のもとにさらされることになり、“歴史学者”と呼ばれる人々は日本古代史の真実を科学的に解明できる能力がまったくそなわっていないことが否定できない事実となる。

 『古事記』序の全文の「【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった」という趣旨を他の資料で説明すると下記のごとくなる。 
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」でいう名詞が生まれた。これによって、「天に文字が多数存在する」ことになったので、「天文」という語も生まれることとなった。
 だから、「漢字」と「天文」という語は「【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった」と伝えるものとなる。

 字源を解説する2世紀前半に著作された字書の聖典『説文解字』の序は、「歴史」について「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」と記述する。
 この文は「後人が前人たちがおこなった出来事の歴史は、経(学術)と芸術の根本になり、王道政治の起源となった【銀河各部の形状】を【文字】とする学理によって識ることができる」と指摘することになる。
 つまり、後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字』の【字源】は【銀河各部の形状】を中心にして説明するものであった。
 ゆえに、『説文解字』の字源解説の大半は「【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった」と伝えていることになる。

 紀元前4、5世紀に生存した中国の思想家の老子は、37の章から成る『老子』上篇(道)で「【すべての文字】は【銀河各部の形状】が作られた」と説明する。
 そして、「学を絶てば憂い無し」という文から始まる『老子』第二十章で、[学]の字源は「国家・王朝は厳重な機密とした【すべての文字】が【銀河各部の形状】から生まれた知識」であると語っている。

 この[学]の字源を最も容易に察知できるのは、『老子』第二十五章の下記の文章である。
 「もって天下の母となすべきも、われその名を知らず、これに字(あざな)して道といい、強いてこれが名をなして大という。大なればここに逝(ゆ)き、逝(ゆ)けばここに遠く、遠ければここに反(かえ)る。ゆえに、道は大なり、天は大なり、地は大なり、王もまた大なり。」

 【すべての文字】は【銀河各部の形状】から生まれた(作られた)。
 ゆえに、老子は「すべての文字が生まれた銀河の全域にあって、豊かな乳房と子宮のような部位と妊婦のような円いおなかの形からなる母の姿に相似する銀河部」を、老子は「天下の母」と呼ぶことにした。
 今から約5000年前に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)は、老子が「天下の母」と呼んだ銀河部を[文]の字と定め、「天下の母」の「子宮」となる銀河部位を「鳥獣の文」と呼んだ。
 この「鳥獣の文」は倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と名づけられた。
 老子は「天下の母」となる銀河部は漢字作成原理〔鳥獣の文〕の子宮であり、「天下の母の子宮」はもちろんのこと、「天下の母」をも「鳥獣の文」という名で呼んでも正しいことを知っていた。
 しかし、「天下の母」を「鳥獣の文」という名で呼んだならば、国家と王朝の滅亡を謀る大罪人であると厳しく定められていた。それゆえ、老子は「われはその名を知らず」とそらとぼけた。
 倉頡から老子の時代まで、中国の天頂(人が見上げる頭の天辺)に「天下の母」の銀河部が通過し、老子が生存した当時において天頂点に「天下の母の銀河の子宮の部位」が重なった。
 ところが、老子の時代には多くの字源と本義が失われていたので、老子は死刑になる大罪を犯して【すべての文字】が【銀河各部の形状】から作られた学(学術)の保存に一生をささげたのである。
 つまり、「学(学術)」は「【すべての文字】が【銀河各部の形状】から作られた科学と芸術の合体知識」であったことになる。
 「天下の母」は[道]の字(字源)の一部分となる。
 「天下の母の子宮」は「天下の母」の一部分であるから、「天下の母の子宮」もまた[道]の字の一部分となった。
 そして、「天下の母」を「【銀河各部の形状】からすべて漢字が作られた母体となる銀河部」と表現したならば大罪人になったが、「天下の母」は[道]をあらわす文字として日常的にあつかわれていたので、単に「天下の母」を「道」と呼んでも罪にはならなかった。
 だから、老子は「これに字して道といい」と表現した。
 [道]の字となった銀河のうちの、その北部は大字形の銀河部であった。
 この大字形の銀河部は[大]の字となった。この[大]の字となった銀河部は「天下の母」であった。ゆえに、老子は「強いてこれが名をなして大という」と表現した。
 老子は「天頂」を「ここ」と表現した。
 文字の世界の原理原則は〔人の霊魂は死ぬと天頂に到達する〕と定めるものであったので、「逝去」の[逝]の字を用いて「天頂」を「ここに逝き」と表現した。
 天頂を通過する[大]の字となる銀河部は円周運動して天頂(ここ)の真北の地平線下で最も遠くなり、一日でここ(天頂)にもどってくるので、老子は[大]の字となる「天下の母」となる銀河部の円周運動を「大ならばここに逝き、逝けば遠くなり、遠ければここに反る」と表現した。
 天頂を通過した銀河部は大海を往来する道や遠くの地に旅する道の羅針盤となり、[大]の字となった銀河部は[天]の字となり、天頂点と重なる[大]と字となる銀河部位をキャッチすると精密に土地の緯度と方位が測定でき、王は天頂点をキャッチする眼力と技術を鍛錬して必ず備えなければならなかった。
 ゆえに、老子は「道は大なり、天は大なり、地は大なり、王もまた大なり」と表現して、“【すべての文字】は【銀河各部の形状】から作られた”と真実を述べることにした。
 要するに、【銀河各部の形状】は【すべての文字】であったので「道は大なり」というぐあいに〔文字〕としてあつかうことは罪に問われなかったが、「天頂にめぐってくる[オス鹿の横顔に似る銀河]は[道]の字であり、その[オス鹿の横顔の角(つの)となる銀河部]は[大]の字形に合致するから[大]の字である」と表現したならば、王朝と国家を滅亡させる直ちに死刑に処すべき大罪人となった。

 上記の4つの史跡によって、わが国の歴史学者たちは「歴史」の語源を知らず、[学]の字源も知らない、無免許で酔っ払い運転するヤカラと変わらないことが明らかとなる。
 歴史学の基礎知識をまったく有していない彼らが主張する邪馬台国説と日本神話虚構説は、完全なる誤読の空論である。
 彼らは『魏志倭人伝』の全文を誤読して邪馬台国説をデッチあげた。
 『魏志倭人伝』と同様に『古事記』上巻の随所の〔音〕という注がつく1字1音読みの多数の夏音文字が楷書で表記されて現存する。
 ゆえに、『古事記』の序の全文は「中国の夏代の初頭(今から約4050年前のわが国の後期縄文時代初頭)にわが国に【銀河各部の形状】が【文字】である学理の基礎知識となる原初漢字・夏音文字が伝来した。ゆえに、上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字によって【すべての文字】が【銀河各部の形状】である真実が明らかとなる。したがって、上巻に記述された真実の歴史は上巻のすべての文字を【銀河各部の形状の文字】に直せば解明できる」と解説するものであった。
 しかし、学界は白石以来の“文献批判”という名で呼ばれる「誤読」が実体であるデタラメの方法を正当な歴史を解明する方法であると断定する。
 このために『古事記』序の全文を正しく読解することが不可能となって、歴史学は“文献批判”よりも【科学】が最も優先される学術であるが、この【科学】の定義にまったく反する“文献批判”に支配されることになった。
 このように、学者たちは歴史学の基礎知識を持ち合わせていないだけでなく、歴史学の原理原則も知らないゆえ、その意見は当然妄想・空論・ウソ八百となる。

 『魏志倭人伝』伝は「倭の占いに用いる卜辞(文字とことば)は中国の殷(いん)代の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字による卜辞に相似する」と明記する。
 ゆえに、この文字が夏音文字であった。
 倭には夏音文字が存在したので、『魏志倭人伝』には下記のような記事がある。
 「倭女王の卑弥呼が書く文書の文字は魏と魏の出張機関がある帯方郡と諸韓国と交わす文字と相違する夏音文字であるが、正しい字源にもとづく卑弥呼の夏音文字と誤った字源を有する魏・帯方郡・諸韓国の文字(“真書”と呼ばれる初期の楷書)とのあいだに生じる誤読・誤訳・誤解によって国交断絶や障害が起きないようにするために、倭の伊都国の港ですべての文書を点検して確認していた。」
 伊都国の港で、倭の夏音文字と魏・帯方郡・諸韓国で用いられる楷書の相違を正しく解釈できたのは、【すべての文字】は【銀河各部の形状】であったからである。それというのも、【すべての文字】となった【銀河各部の形状】は倭の夏音文字と魏・帯方郡・諸韓国の相違を正しく解釈できる字書となったからにほかならない。

 学界は、わが国が漢字を最初に習得したのは5、6世紀であると断定する。
 ところが、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばにはわが国には魏・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に正しく変換できる漢字があった」と明記するので――学界は“文献批判”という名の「誤読」を用いて“『魏志倭人伝』の文字があったという記述は、絶対に信用してはならない”と定めて、5、6世紀に漢字を習得した定説が虚偽にならないようにはかっている。

 漢字は約6000年前の三皇時代初頭の包犧(ほうぎ)氏が考案した単に天頂を通過する銀河をデザインした結縄(けつじょう)から起源した。
 しかし、この結縄では「包犧」はじめ「女媧(じょか)」、「神農」という氏族名をあらわす図書が作れなかったので、今から約5000年前の五帝時代初頭の倉頡が漢字作成原理「鳥獣の文」を発明して万物のイメージを図案することができる書契(しょけい)を開発した。この「書契」を、わが国では「刻木(こくぼく)」と称した。
 夏代には倉頡が「書いて用済みになった銀河図書(書契)を消さない者は直ちに死刑にする。ゆえに、〔書いた銀河図書〕は【文字】ではない。【銀河各部の形状】を【文字】と定義する」と定めた厳しい掟と【文字】の定義にもとづく【銀河各部の形状】を【文字】となる夏音文字が多数作られるよになって字数が増えた。
 そして、殷代に甲骨文字が出現し、周代前半期に金文、周代後半期に篆文(てんぶん)が出現して、時とともに書く文字の簡略化が推進され、秦代には書く文字の簡略化が一段と進化する隷書が考案され、後漢時代末から“真書”が出現して7世紀の隋代には今日に用いられる楷書が完成した。

 倉頡は「〔書いた銀河図書〕は【文字】ではない、【銀河各部の形状】を【文字】とする」と定めた。
 
この倉頡が定めた原則は守られて、五帝時代初頭の黄帝の王朝から楷書を完成させた隋王朝まで【銀河各部の形状】が【文字】であった。
 だから、「【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」という学理が成立して実在することになった。

 要するに、書契、夏音文字、甲骨文字、金文、篆文、隷書、楷書という変化は、書く文字の簡略化を示す名称であったのである。
 この変化は「【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」、この学理を何ら損なうものでなく、単に書く文字の簡略化をはかる進化を示すものにすぎなかったのである。
 だから、銀河を観れば、倭の夏音文字と伊都国の港で、魏・帯方郡・諸韓国の楷書は相通じ、たとえ倭の夏音文字と魏の楷書における字形が違っても同字を察知でき、また同字が異義でも両者の文字の字義を正しく解釈することができて正しい文字に変更することができたのである。
 
 それというのも、楷書も【銀河各部の形状】を簡略的に図案したものであったからにほかならない。
 もしも従来の原則を廃棄して楷書が【銀河各部の形状】を図案するものではなかったならば、伊都国の港で夏音文字を楷書に、楷書を夏音文字にまったくできなかったことになる。
 この秘密は頭だけで考えると理解できないが、実際に銀河を観て実験してみれば夏音文字と楷書との変換は可能であったと確信できることになる。

 『魏志倭人伝』の末部に13歳の時に新しく誕生した小国・日本の女王となって、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた壱与(いよ)が登場する。
 この夏音名「壱与」を真の【文字】である【銀河の形状】に直すと、『魏志倭人伝』に記載される「伊耶(いや)国」の出身者であることが解明され、小国の人民は壱与を「伊耶国出身の美しい女王」を略して「伊耶那美命」と愛称していたことが明らかとなる。
 この倭の一小国の名の「伊耶」の2字の字義を銀河の形状で解明すると「霧深い国」と意味することになり、“霧の丹波”と呼ばれる旧国の「丹波」であったと証明される。
 さらに、『古事記』中巻の開化天皇紀に「春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住した天皇が、丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)と結婚した」と記述する文を、字書となる【銀河各部の形状】で調べると、開化天皇の正妃の竹野比売(本名)が壱与であり伊耶那美命であると解明できる。
 『古事記』上巻は「伊耶那美命は鉄製のクワやスキの刃先を作る製鉄事業の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を開発する火災事故による火傷で、天の香具山(かぐやま)の麓の泣沢女(なきさわめの)神社で没した」と記載するので、日本最古の小説『竹取物語』のヒロインの「なよ竹のかぐや姫」は丹波出身の小国・日本の女王にして倭女王となった竹野比売・伊耶那美命・壱与がモデルであったことが察知できる。
 『竹取物語』は末部は「権力も富も、また人間にとって誰しもが願望する〔不死〕よりも、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念のほうが優る。〔愛〕こそがすべてである。〔愛〕はすべてに優る」と表示して、この小説のテーマの〔愛〕を失うようなことは絶対にしてはならないと示す。

 『竹取物語』は、『古事記』上巻のテーマは伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える、歴史を題材とする反権力風刺小説の傑作だったのである。
 開化天皇の第二后の崇神(すじん)天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は、後に倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)と名を変える女性が、天照大御神である。
 天武天皇以後の歴代の天皇と皇室は、天照大御神を皇祖と崇め皇室の至上神と定めた。
 天照大御神は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し、伊耶那美命の墓を熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に作る時に、伊耶那美命が「徇葬墓(じゅんそうぼ)を絶対に作ってはならない」と残した遺志を無視して、多数の18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女を殺して伊耶那美陵に埋める残虐きわまりない徇葬を決行して、天照大御神は伊耶那美陵を築造する陣頭指揮した。
 上記したように、『古事記』上巻の開化天皇紀は伊耶那岐命・開化天皇の正妃は伊耶那美命・竹野比売、第二后は崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命にして後の倭迹迹日百襲姫命である。
 
 伊耶那岐命が没した後に倭女王となった天照大御神の徇葬決行に立腹した伊耶那岐命は、伊耶那美命の遺志をまもるクーデターを決意した。
 このクーデターは夜間に決行された。
 小国・日本の軍王であった伊耶那岐命は配下の日本兵とともに伊耶那美命の墓の玄室に侵入して棺を奪うと、一行は火をともす松明を手にもって現在の熊野速玉大社の境内へ目指して逃走した。
 というのも、日本軍の本隊と熊野に住む住人の戦士たちが熊野速玉大社の境内に待機したからである。
 伊耶那岐命一行は伊耶那美命の陵墓を警護する倭王朝の大軍を速玉大社の境内に誘導し、伊耶那岐命の指揮のもとに倭王朝軍を撃破した。

 速玉大社の真南に神倉神社の参道の入口があり、この参道を登りつめた神倉山の山上に神倉神社の御神体となる“ごとびき岩”と呼ばれる巨岩が所在する。
 『古事記』上巻は、この“ごとびき岩”を「千引(ちびき)の石(いわ)」と記す。
 捕虜となった天照大御神は伊耶那岐命が待つ千引の石の前の空洞(現在は神倉神社の社殿が建つ空間)に連行され、伊耶那岐命に離縁を言い渡された。
 この離縁の言葉に憤った天照大御神は「日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人々の母親の参道を狭くするように神に祈って、一日に千人の胎児の頭を絞め殺すことにする」と、おぞましく呪い祟(たた)る決意を示す誓いを立てた。
 他方、伊耶那岐命は伊耶那美命の遺志を継ぐ決意を示して「お前がそうするならば、吾は一日に千五百の産屋が立つような政事を行う」と誓った。

 
 『日本書紀』は倭迹迹日百襲姫命を「崇神天皇の姑(おば)」と記す。
 それというのも、伊耶那岐命・開化天皇の第二后の崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の父の孝元天皇とも結婚したので、『古事記』の開化天皇紀は「伊迦賀色許売命は開化天皇の継母である」と記す。この伊迦賀色許売命は千引の石の前で伊耶那岐命・開化天皇に離縁された天照大御神であるので、天照大御神・伊迦賀色許売命の戸籍は「崇神天皇の祖母(崇神天皇の祖父の孝元天皇の妻)」となる。ゆえに、「崇神天皇の姑」とは「崇神天皇の祖母」ということがわかり、楷書の「姑」は[女]と[古]で「祖母」をあらわしていると解明される。
 したがって、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命が崇神天皇の祖母(姑)の倭迹迹日百襲姫命であり、この倭迹迹日百襲姫命が天照大御神であったことになる。

 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本滅ぼす』の口絵となる資料Bの写真が示す「秋の銀河と夏の銀河」が【すべての文字】となった全域である。
 『古事記』と『日本書紀』の記述の歴史の真相は、これから解説する【すべての文字】となった【銀河各部の形状】を文字化する作業によって解明できる仕組みになっている。
 上記したように、『古事記』序の全文は【楷書】を【銀河各部の形状】に直す、この〔文字化の作業〕を解説するものであったのである。
 しかし、白石から始まる“文献批判”というデタラメの方法によって、『古事記』序の全文の解説はまったく理解されないことになった。

 『古事記』中巻の崇神天皇紀は「天皇は師木(しき)の水垣宮(みずかきのみや)に居住して、天下を治めた」と記述する。
 『日本書紀』崇神天皇紀は「都を磯城(しき)に遷(うつ)す。これを瑞籬宮(みつかきのみや)と謂(い)ふ」と記す。ゆえに、「師木」は「磯城」と同義となる。
 だから、『古事記』に記載される「師木の水垣宮」は「磯城の水垣宮」と言うことになる。
 【文字】であった【秋の銀河と夏の銀河の各部】の天照大御神が生存した3世紀後半の天頂にめぐってきた銀河部を〔歳差(さいさ)〕と呼ばれる天文現象を用いて科学的に再現すると、当時、大和の天頂に木で[井]の字形に組んだ井戸の枠(わく)となった井桁(いけた)の形をした「正方形の銀河部」がめぐってきたことが明らかとなる。
 この[井]の字となった銀河部は木の葉冠部(ようかんぶ)の小枝が正方形に与(くみ)する、精密に緯度と方角が測定できる天頂点周辺を正方形に切り取る小窓のような銀河部である。
 この正方形の小窓に観える[井]の字となった銀河部周辺の南北の枠は、わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)が[師]の字源を解説する文に登場する「軍の出行のとき携える祭肉」を置く爼(まないた)の形となる。
 この「俎板」は甲骨文字の[且(しょ)]や[宜(ぎ)]の字形となる。これゆえ、[俎]と[宜]の2字は[且]の字部を共有する。
 この結果、[井]の字となる正方形の枠と連結する南北の[且]と[宜]の俎板(まないた)の形をした銀河部が[師]の字となったと立証される。
 この[師]の字となった銀河部は、前述したとおり、葉が茂る木の葉冠部の[且]の甲骨文字の形に合致する小窓となるので、「師木」という語源と地名の秘密をあらわすことになる。
 この「師木」の中央の[井]の字となる正方形の銀河部の東側の枠に隣接する銀河部は〔磯〕のような形状となり、その正方形の枠は[城]の字源となる「城邑(じょうゆう)」のように観える。ゆえに、「師木」の地名となった銀河部の形状は「磯城」と表現しても合理となる。
 この[磯]のように観える銀河部は〔水が激しく流れる形状〕となり、井桁の枠は「垣根」・「籬」のような形をしているので、結局、大和の天頂を通過した井桁の銀河部は「師木の水垣宮」・「磯城の瑞籬宮」という、崇神天皇が居住した宮殿名をあらわすものとなる。
 そして、この[井]の字となった銀河部は「胎児が出産する産道」であると見立てられた。

 この崇神天皇が居住した磯城の水垣宮跡は、奈良県桜井市金屋の近鉄大阪線の三輪駅の東側に所在する。
 この磯城の水垣宮跡より東北へ直線距離で約1000mと離れた近所に狭井(さい)神社(桜井市三輪町)が所在する。狭井神社から西南へ約270m離れた地所に大神(おおみや)神社(桜井市三輪町)があり、狭井神社より約1000m東方に標高467mの古くから最も聖なる山といわれた三輪山が所在する。
 狭井神社は狭井川のほとりにあり、大神神社の摂社である。大神神社は三輪山を御神体とする延喜式内の大社で最も古い神社の一つとされ、狭井神社から山の辺の道は美しい参道となって大神神社につづく。

 この大神神社の摂社の「狭井」と神社名は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話末部に――千引の石の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡されたときに、天照大御神が「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」、つまり「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する汝の人々の母親の産道を狭くして、一日に千人の胎児の頭を狭い産道で絞め殺すように神に祈願することにする」と決意してた誓った――と記載された、祟りをあらわすものとなる。
 というのも、「狭井」とは「狭い産道」を意味するからである。
 だから、「狭井」は天照大御神が千引の石の前で「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った呪いをあらわしていることになる。
 三輪山の周辺に崇神・垂仁・景行天皇の三朝が集中しているので「三輪山王朝」と呼ぶこともある。
 ゆえに、三輪山近くに所在する狭井神社は天照大御神が「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人々の千人の胎児の頭を一日に狭井つまり狭い産道で絞め殺す」と呪いを神に日々祈願した神社であったのである。

 このように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った〔黄泉国の伊耶那美命〕は〔伊耶那美命〕ではなく、その正体は〔天照大御神〕である。
 『古事記』を旅行カバンに突っ込んで旅に出て、熊野速玉大社から南へ歩くと、「黄泉比良坂(よもつひらさか)」と表記する参道があり、この急坂な参道を登ると神倉山の山上に、「千引の石をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて」と描写とおりの千人の人間が引っ張ってようやく動く巨岩がある(現在の名は“ごとびき岩”)。
 この神倉神社の御神体の千引の石の前で、黄泉国の伊耶那美命は伊耶那岐命に離縁された。
 この神倉神社の主神は伊耶那美命ではなく、天照大御神である。
 だから、〔黄泉国の伊耶那美命〕の正体は「天照大御神」であるということになる。
 この証明は、銀河の形状を観なくても、熊野に旅すればあるいは観光雑誌などで調べれば簡単に解明できる。

 この千引の石の前で伊耶那岐命に離縁されたときに天照大御神が「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と述べた誓いは、「狭い井戸」つまり「狭い産道」を意味する狭井神社で天照大御神・倭迹迹日百襲姫命は日々祈願していたのである。
 この天照大御神が狭井神社で日々神に祈っていた「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」という願いは、「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ人々の母親の参道を狭くして、一日千人の胎児の頭をその狭い産道で絞め殺す」と意味するものだったのである。

 この天照大御神の呪い祟りに対抗して、上記の❷静岡県浜松市北国細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、❸彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵、❹桂離宮の庭園が作成されて現存する。
 この三つの史跡は、天照大御神の千引の石の前の誓いと狭井神社を創建したことへの憎悪と怨念(おんねん)によって作られた。
 このシリーズの前回すなわち〔邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・33〕でも指摘したように、この3つの史跡によって、⑴わが国が最初に漢字を習得したのは5、6世紀である、⑵邪馬台国学説、⑶日本神話虚構説の3説は正真正銘の誤読の空論であり、古代史学者たちが“文献批判”という科学にまったく反するデタラメな方法でデッチあげた妄想であったことが決定的となる。
 それというのも、古代史学には下記のごとくの絶対原理が存在するからである。

 古代史学には――前人が作った文献にある記述を、白石はじめとするわが国の古代史学者たちのごとく、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用できない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない事実であり、学者たちが文献批判した意見は誤読にもとづく空想であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。

 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は紀元前850年ころの生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは文献批判を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述したとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。
 したがって、学者たちの文献批判による意見こそが空想であったと証明された。
 シュリーマンのトロイ遺跡発見が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実と証明できる、絶対原理が存在する。
 上記の❷細江町の行政区域を示す1千万坪の大鳥の地図の形、❸彦根市の行政区域を示す3千万坪の大鳥の地上絵、❹桂離宮の庭園の3つの史跡によって、⑴5、6世紀の漢字習得説は「歴史」の語源[学]の字源も知らない日本古代史学の基礎知識を有していない人々によるウソ、⑵邪馬台国説と⑶日本神話虚構説は「誤読」を“文献批判”と誤魔化す方法で【科学】の定義を無視した空論・妄想であったことが、古代史学の絶対原理によって否定できない絶対的な事実となる。

 書店に行けばわかるように、『古事記』と『日本書紀』に記述された黄泉国の伊耶那美命を天照大御神と定める本は皆無であり、また千引の石の前の天照大御神の「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」という言を正しく解釈した本も皆無である。
 このように、新井白石以来の誤読によって、ウソの歴史が捏造されて、似非学問が横行し、似非学者たちが“学者”と呼ばれることになって学界を牛耳り、ウソ偽りの妄想を“歴史”と呼ぶ慣習が定着することになった。
 ということは、無免許で酔っ払い運転しているようなヤカラに、われわれは魂を奪われて腑抜(ふぬ)けとなり、命の根元も抜き取られて生きているとも生きていないとも言えるアイマイモコとした存在となり、1500年もの長い間先人たちがまもった真実の歴史を知ることの権利を奪われ、日本人として生きる尊厳を凌辱(りょうじょく)され、真実の歴史を失ったことへの天罰が下されてこの国が衰退しても滅亡しても為す術(すべ)がないという運命を甘んじて受けなければならないという、このような不条理きわまりない最大の恥辱と侮蔑をわれらは受けていることになる。

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