G-T0XYQT12LL 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・31: 卑弥呼の逆襲

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2012年7月 2日 (月)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・31

 2世紀末から3世紀半ばのわが国(倭国)の様子を説明した『魏志倭人伝』には「倭の易は骨を灼(や)いて吉凶を占うが、その易に用いる辞は令亀(れいき)の法のごとしである」と記す文がある。
 この「令亀の法のごとし」という語句は「中国の殷代(いんだい)の亀の甲羅や動物の骨に刻んだ甲骨文字のような卜辞(文字とことば)」と意味する。
 だから、倭には今から約3300年前から出現されたとされる、学界が漢字の最も古い祖型とされる甲骨文字のような易占に用いた文字とことばがあったにちがいないことになる。

 わが国に甲骨文字のような文字があったとするならば、その古代漢字は「夏音(かおん)文字」であったと考えるべきことになる。
 というのも、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のち・やや)夏音を習い」と中国政府に伝えた――と記事が存在するからである。
 遣唐使の「後稍夏音を習い」ということばは「壬申の乱の後、稍々(やや)夏音文字を復興することにした」と意味する。

 この遣唐使の証言したとおり、夏音文字の学芸が伝来した痕跡が明確にのこる遺跡が、わが国には存在する。
 この遺跡は、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別遺跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡である。
 東の野中堂遺跡と西の万座遺跡には、特殊組石の「日時計組石」と呼ばれる中心に立つ柱の根元に円形に細長い石が放射状にならぶ装置がある。

 野中堂遺跡の日時計組石は黄道(こうどう)を測量するために〔午前零時〕を測定するための装置であると考えられる。 
 「黄道」とは「天球上を太陽が一年間に通過する道となる大円」である。
 天球上の太陽は正午に真南に位置するときの高度で測量できるが、この正午の南中高度は銀河が輝く夜間の天球のどの箇所に位置するかによって確定できる。ゆえに、その日の正午の南中高度が、その日の午前零時の天球上の位置のデータを記録すればおのずと黄道があきらかとなる。
 野中堂遺跡の中心に垂直に立つ柱を立てて、まず夜間において柱の先端が差し示す天頂点と重なる印象深い形をした銀河の部位が真東から真西に移動する軌道を柱の根元に表示する。この天頂緯度軸(東西軸)と直角に交わる方角が〈南〉と〈北〉となる。
 これゆえ、垂直に立つ柱の背後となる真南に位置して、真北から見ると太陽が柱に隠れる時が〔正午〕となる。この〔太陽の南中高度〕はその日の〔午前零時〕の天球上に位置する箇所を一年間記録すれば、黄道が測定できる。

 いっぽう、万座遺跡の中心の西北にある日時計組石は太陽が真西の地平線に没する春分の夕刻を基準にして、〔銀河各部の方角〕を測定するための装置であると考えられる。万座遺跡の中心に垂直に立つ柱を立てて、別の真っ直ぐに伸びる木や竹などの棒で〔銀河各部の高度と方角〕を記録する。
 この記録にあたって、〔銀河各部の方角〕は春分の夕刻に経度原点と定めた銀河部位から方角を測定しないと、〔銀河の形状〕を図化することができない。だから、日時計組石が必要となった。

 東の野中堂・日時計組石の中心と西の万座遺跡・日時計組石を結ぶ線は〔夏至の日没方向〕を指差す。
 ゆえに、野中堂遺跡の中心と万座遺跡の日時計組石を結ぶ線が指差す〔夏至の日没方向〕は「夏音文字の学芸が伝来した」と伝えるものとなる。

 上記したように万座遺跡の中心に銀河各部の高度を測量する垂直に立つ柱・[聿](いつ)の字源となる柱を立て――銀河各部位の位置を棒の先端でキャッチして垂直に立つ柱と棒が交差する角度を銀河各部位の高度と定める。そして、日時計組石で春分の夕刻に経度原点と定めた銀河部位からの銀河各部位の方角を測定すると、銀河の形を図化することができる。
 ゆえに、万座遺跡の東側の外帯部の配石群には〔夏の銀河〕の面影が残って――「漢字は、秋の銀河の西部と夏の銀河各部の形状から作られた」と現在に伝えている。
 というのも、最多の漢字が作られた〔秋の銀河の西部〕の形は〔銀河各部の高度を測量するために垂直に立てる柱〕に相似し、〔秋の銀河の西部と夏の銀河の東北部〕の境にある円い〔北アメリカ星雲・ペリカン星雲〕は〔銀河各部の方角を測定する〕ために円形分度器のごとく円形に石が組まれる〔日時計組石の平面図〕に相似するからである。

 
 万座遺跡の中心部の〔垂直に立つ柱〕の形状は〔秋の銀河の西部〕における最も重大な銀河部の形状を示す、すなわ「文字」の[文]の字源・本義をあらわすものとなる。
 万座遺跡の日時計組石は[字]の字源銀河部で最も目立つ〔北アメリカ星雲・ペリカン星雲〕に見立てられた装置であり、ひときわ際立って見える〔北アメリカ星雲とペリカン星雲〕は〔秋の銀河の西部と夏の銀河の境目〕に所在した。
 万座遺跡の東側の外帯平面図(配石群図)は〔夏の銀河〕の面影が現在も残る。
 だから、万座遺跡は“夏音文字は、秋の銀河と夏の銀河の各部の形状であった”と、現在のわれわれに証言する施設ということになる。


 

 中国の五経の第一にあげられる『易経』繋辞(けいじ)下伝が「仰いでは天象を観(み)、俯(ふ)しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して文字を作った」と説明する。
 このように、『易経』は「仰いでは天象を観て文字を作った」すなわち「秋の銀河西部と夏の銀河の各部の形状から文字を作った」と現在に伝えている。

 夏の銀河の東北部に位置天文学で「北天の最輝部(さいきぶ)」と呼ぶ銀河部がある。
 この「北天の最輝部」とは「北半球の土地で最も輝いて見える銀河部」のことであり、〔銀白色に輝く〕ゆえ、「天の川」は「銀河」または「銀漢」と呼ばれることになった。
 しかし、現在、秋の銀河の東部と春の銀河と冬の銀河も「天の川」あるいは「銀河」と呼ばれているが、「天の川」の[天]の字源について字書の聖典『説文解字』は「至高にして上なし。一大に従う」と解説して「[天]は最も高い天頂の部分」と限定する。
 そうすると、「秋の銀河の東部」と「春の銀河」は中国と日本の天頂にめぐって来ないので、『説文解字』の[天]の字源解説にもとづくと「天の川」とは言えないことになる。
 「冬の銀河の一部分」は天頂にめぐってくるので「天の川」と言えるが、銀白色に輝く「北点の最輝部」から最も遠く離れて銀白色に輝く銀河部が存在しないので「銀河」または「銀漢」と呼べない。
 したがって、中国と日本の天頂を通過したゆえに[天]の字源となり、また「北天の最輝部」に近い「秋の銀河の西部」と、銀白色に輝く 北天の最輝部と連結して一塊(ひとかたまり)となる巨大な「夏の銀河」が「天の川」・「銀河・」「銀漢」と称するにふさわしいことになる。

 「銀漢から作られた字」を略して「漢字」という語が生まれた。したがって「漢字は、秋の銀河の西部と夏の銀河の各部の形状から作られた文字」ということになる。
 ゆえに、〔天に多数の文字が存在することになった〕ので、略して「天文」と「秋の銀河の西部と夏の銀河」は称されることになった。

 現在の「漢字」は〔銀河〕とまったく無関係となり「ことばをあらわす記号」と定義されるようになって、上記の万座遺跡が現在のわれわれに伝える真の姿を失っている。
 万座遺跡が表示するように、夏音文字も甲骨文字も楷書も現代の中国の簡略字もわが国の当用漢字も、その真の姿は「銀漢から作られた文字」であった。だからこそ、「漢字」と呼ばれることになったのである。
 夏音文字、甲骨文字、楷書、中国の簡略字、日本の当用漢字などのすべての漢字は、その名が示す通りに本来は銀漢から作られた文字であり、【真の文字は秋の銀河の西部と夏の銀河各部の形状】なのである。

 
 〔北天の最輝部がある夏の銀河の東北部〕は〔海岸線が包み込む中国全土の地図の形〕に類似し、また〔夏の銀河の東北部の西半分〕と〔海岸線が包み込む中国全土の地宜の形〕は相似し、この両者の形は〔人の横顔の形〕に相似する。
 上記の青い大きな字で示した漢字の起源の秘密について伝える『易経』繋辞下伝の文中にある「地宜」という語は「銀河各部の形状と同様に、平面的に図化した地図の形」と意味する。

 人間の目は本人の遺志にかかわりなく、周囲の明るさに応じて瞳孔の直径が約1.5~2mmから約7~8mmくらいまで縮小し拡大することができる。
 真っ暗な場所で天を仰ぐと瞳孔径が最大(7~8mm)に拡大して、暗い銀河部が見えるようになる。
 周囲から光が入る場所で見ると夏の銀河は〔北天の最輝部がある・夏の銀河の東北部〕と〔夏の銀河の西南部〕に分化するように見える。
 しかし、光が入らない暗い場所で見ると〔夏の銀河の東北部〕と〔夏の銀河の西南部〕は一つに統合されて〔口に手をあてて笑う、人の長い横顔〕のような形となる。
 上記した大湯環状列石の万座遺跡における東側の外帯部の配石群は、暗い場所で見るときの〔夏の銀河の東北部〕と〔夏の銀河の西南部〕は一つになる〔夏の銀河〕の形に設計されている。
 光が少し入る〔夏の銀河の西南部〕(銀河系宇宙の中心部から彦星が輝く周辺の牛の正面の顔の形に見える銀河部まで)の形は〔長い鼻を有する象の横顔〕に相似する。
 つまり、この「長い鼻を有する象の横顔に似る、夏の銀河の西南部」は[象]の字源であったのである。
 秋の銀河の西部と夏の銀河の東北部のにある「北アメリカ星雲」も「長い鼻を有する象の横顔」に相似似すと見立てられて[象][像]の字源となった。

 前述したように、[天]の字源は中国の天頂にめぐってきた「秋の銀河の西部」である。
 だから、上記の青い大きな字で示した『易経』繋辞下伝の文中にある「仰いでは天象を観る」という文は「[天]の字源となる秋の銀河の西部と[象]の字源となる夏の銀河を仰ぎ観る」と意味するものとなる。
 大湯環状列石の万座遺跡は、その〔中央の土盛りの部分の中心に立てる[聿]の字源となる垂直に立てる柱〕で「秋の銀河の西部」の形状を示し、丸い〔特殊組石の日時計組石〕で丸い〔北アメリカ星雲・ペリカン星雲〕を表象(ひょうしょう)して「秋の銀河の西部と夏の銀河の東北部の境」をあらわし、〔東側の外帯部の配石群の平面図(地宜)〕で「夏の銀河の西南部」を象(かたど)る。
 だから、上記の青い大きな字で示した『易経』繋辞下伝の漢字の起源記事が証言するように、万座遺跡は「仰いでは天象(秋の銀河の西部と夏の銀河)を観て文字を作った」と伝える、今から約4050年まえに夏音文字がわが国に伝来したことが科学的に証明できる史跡である。

 上記で指摘したように、『魏志倭人伝』に記載された「倭の令亀の法のごとき卜辞」というのは「夏音文字の卜辞」のことであったのである。
 この「夏音文字の卜辞」は「秋の銀河の西部と夏の銀河の各部の形状を文字とする卜辞」であったことになる。
 上記した漢字の起源の秘密を伝える『易経』の繋辞下伝の文中にある「鳥獣の文」は今から約5000年前の五帝時代初頭(わが国の中期縄文時代初頭)に生存した“漢字の始祖”と崇拝される倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理の名称である。

 上記したように、字書の聖典『説文解字』は[天]の字源を「至高にして上なし。一大に従う」と解説する。
 この[天]の字源銀河の骨格は漢字の[大]の字形となる。
 [大]の字の頂上に[一]を加えると[天]の字となる。だから、『説文解字』は[天]の字源は「一大に従う」と解説した。
 また、『説文解字』は[大]の字源を「天は大なり。地は大なり。人もまた大なり。ゆえに大は人の形に象(かたど)る」と解説する。
 万座遺跡の中央の盛り土の中心に垂直の柱を立てる、この柱の先端は[天]の字源の「天頂点」(「至高にして上なし」の天体部)を指し示す。

 人が各地点で[天]の字源となる「[大]字形の銀河」に在る天頂点をキャッチすると、天頂緯度と同時に子午軸が精密に測量できる。この各地の天頂緯度と子午軸のデータを平面上に図化すると地宜(地図の形)となる。
 だから、『説文解字』は「天は大なり(天頂を通過する銀河の形は大なり)、地は大なり([大]字形の銀河から地宜を知ることができるから大なり)」と解説した。
 また、『説文解字』が「人もまた大なり。ゆえに大は人の形に象る」と解説したのは――天頂にめぐってきた[天]の字源銀河の骨格が〔人が股(また)を開く正面の姿、あるいは背面の姿〕に酷似(こくじ)するからである。

 そして[天]と[大]の字源銀河の形は〔東に向かって道を歩く大股の男の側身形〕にも相似する。
 また、[天]と[大]の字源銀河の形は〔地面から浮く西側の足(右足)〕に観える銀河部は〔妊婦のおなか〕のようにも観えるので、[天]の字源銀河は〔西に向かって道を歩く妊婦の側身形〕にも観える。
 この〔西側の足(右足)〕にも〔妊婦のおなか〕にも観える銀河部よりやや東側に〔子宮・卵管・卵巣・産道などからなる女性の生殖器(せいしょくき)〕に相当する銀河部が重なる。
 この〔女性の生殖器〕のように観える銀河部に注目して倉頡は、漢字作成原理「鳥獣の文」を発明した。
 倉頡は巨大な〔すべての銀河が作られた天象〕を一つの〔天頂を通過する[大]や[天]の字源銀河部〕に凝縮(ぎょうしゅく)できる考えれば――いいかえると、巨大な〔秋の銀河の西部と夏の銀河〕=一つの〔[大]と[天]の字源銀河〕と考えるようにして――この〔[大]と[天]の字源銀河部〕を〔すべての漢字を生む母体〕に見立てた。
 そして、この〔すべての漢字を生む母体〕となる銀河内にある〔生殖器に相当する銀河部〕を〔すべての文字を生む生殖器〕と定めた。

 〔女性の生殖器の側面形〕は〔水の側身形〕に相似し、〔子宮に宿る胎児の側身形〕は〔の[牛]の字源となったジャコウウシの側身形〕に相似し、また〔産道を潜りぬけて無事に生まれる胎児の様子〕は〔人が射とめようとした矢がはずれての兎(うさぎ)が猛スピードで逃げる姿〕のごとしであるので――漢字作成原理の名は「鳥獣の文」と称されるようになった。
 というのも、〔漢字を生む母体〕に見立てられた[大]や[天]の字源銀河は[]の字源ともなったからである。

 
 「すべての文字を生む生殖器の銀河部」の側身形は〈水鳥〉に相似する。
 この「文字を生む生殖器の銀河部」の正面形は〈菖蒲(しょうぶ)のような花〉や〈羊の顔〉に相似する。
 ゆえに、「文字を生む生殖器の銀河部」は〔女性の生殖器〕に相似しない。
 「文字を生む生殖器の銀河部」は5本指ではなく《3本指の人の足跡》に相似する。
 だから、倉頡について語る伝説では、漢字作成原理「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」と呼ばれた。

 

 倉頡が生存した五帝時代、夏音文字の夏代、甲骨文字の殷代、人々は精密に緯度と子午軸が測量できる天頂点をキャッチする眼力を鍛錬していた。
 生活必需品を物々交換するために遠くの地に旅するとき、あるいは集落から遠く離れた山野まで獲物を追跡したとき、深い森林に入って薬や野菜を求めるとき、大海に入って旅したときなど、人々は精密に天頂緯度測定すれば家族が待つ家に帰ることができた。
 この「家から遠く離れても必ず家に帰ることができる精密に天頂緯度を測定する術」が[易]である。
 ゆえに、『説文解字』は[易]の字源を「蜥易(せきえき)なり」と解説する。
 「蜥易」とは「トカゲ」のことである。
 『原色現代科学大事典 5-動物Ⅱ』(学習研究社発行)は191頁はトカゲの習性について「かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。
 〔漢字を生む生殖器〕に見立てられた銀河部の右足に接する西隣の銀河部の形は、[易]の字源となる〔トカゲの姿〕に相似する。
 この「トカゲの姿に似る銀河」は[大][天][文]の字源となる人の姿に酷似する「漢字を生む母体となる銀河」が歩く〔地面や通路〕のようにも観える。
 さらに「トカゲの姿に似る銀河」は〔頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)における胎児の姿〕にも相似する。
 だから、「トカゲの姿に似る銀河」は[子]の字源と定められた。

 というのも、旅の道中にあって、トカゲのように必ず家族が待つ家に帰るために天頂点をキャッチするときの心得は“生か死かと考えずに、産道を無心に潜(くぐ)る胎児のように無欲の心境になれ”であったからである。
 必ず天頂点をキャッチすると欲を抱くと、精密に天頂緯度が測定できず、迷って家に帰ることができなくなった。
 だから、「必ずもとのすみかにもどる帰家性を有するトカゲ(蜥易)の姿に似る銀河」は[易]の字源となり、この[易]の字源銀河は精密に天頂緯度を測定する心得を示す“無欲で産道を潜る胎児のようになれ”にもとづいて「トカゲの姿に似る銀河」は[子]の字源となったのである。
 [天][大][文]の字源となった〔漢字を生む生殖器〕に見立てられた銀河部は[宀(べん)]の字源となり、この[宀]に〔精密に天頂緯度を測定するときの心得〕を示す[子]が加わって、[字]の字源・本義・字形が成立した。
 したがって、[字]は〔漢字を生む生殖器の[宀]から出産した[子]〕ということになる。

 このような秘密が漢字の起源には存在するので、『魏志倭人伝』の夏音文字に関する記事は「倭の易には令亀の法のごとくの卜辞があった」となり、この夏音文字について説明する文の先頭は「その俗、挙事・行来(きょじ・こうらい)に云為(うんい)する所」と始まる。
 「挙事」は「さまざまな祭事をおこなうとき」と意味し、「行来」は「遠くの地へ行く旅に出て帰って来るとき」と意味するので[易]の字源の秘密を表示するものとなる。

 夏音文字の学芸は[文]と[字]の字源で表示される「精密な天頂緯度の測定(天頂点のキャッチ)」を基軸にして構築された。
 いいかえると、〔精密に天頂緯度を測定できる眼力〕を失うと【天象(秋の銀河の西部と夏の銀河)の各部の形状】を【文字】と定めた夏音文字の学芸は成立しないことになり廃絶(はいぜつ)されることになる。

 紀元前1世紀、中国では天の北極を最も重視するシナ天文が完成した。このために、〔精密に天頂緯度を測定できる眼力を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れ、【天象の各部の形状】を【文字】とする学芸は衰微した。
 しかし、紀元前1世紀の前漢王朝の帝王や3世紀において天下を手に入れようとした魏の曹操(そうそう)や呉の孫権(そんけん)あるいは蜀の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい)などは銀河から文字が作られた秘密は知っていた。
 というのも、【天象の各部の形状】を【文字】とする学芸は天下を手に入れる最も強力な権力基盤であり、不可欠であったからにほかならない。
 [字]の字源銀河の秘密は「天頂点をキャッチする」すなわち「地上の人が天頂点に命を委(ゆだ)ねる」の[委]、また[人]に[委]を加える[倭]の字源となった。
 卑弥呼が統治した国家には【天象の各部の形状】を【文字】として〔天頂点のキャッチ〕を基軸とする夏音文字が存在したので、正式な国名は「倭人国」、略称は「倭国」となった。
 上記したように、「トカゲの姿に似る銀河」は〔頭が誕生する娩出期の胎児の様子〕に観えるということで、[子]の字源・字義・字形となった。
 この「娩出期において誕生する胎児に似る銀河の頭」には1本の角(つの)が生えているので、「誕生する胎児に似る銀河の頭」とその南隣の「長方形の暗黒天体部」は[鬼]の字源となった。
 上記した[字]の字源銀河に表示される「地上の人が天頂点に命を委ねる様子(イメージ)」から生まれた字源[委]に、[鬼]の字源が加わって[魏]の字源が成立した。
 魏の〔山東半島〕は[委]の字源をあらわす銀河部に相似し呼応する地宜となった。このため、山東半島の西にある洛陽(らくよう)は[鬼]の字源「誕生する胎児の頭に似る銀河」と「長方形の暗黒天体部」に合致する方角に在るので、洛陽を都と定めた国の名は[委]に[鬼]が加わる「魏」となったのである。

 『魏志倭人伝』は「倭と魏は国交を結んだ」と証言し、また『魏志倭人伝』は魏と倭の国交の産物であったゆえ、倭には倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」と字源・本義を正確に知っていた夏音文字が存在して当然のこととなるる。
 『魏志倭人伝』に記載される34の小国名は、上記した青い大きな字で表示した『易経』繋辞下伝の「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る云々」という文に合致して、各々の小国の地宜(地図の形)をあらわすものとなる。
 つまり、旧国の地宜(範囲を示す地図の形)を基にして、字書に記載される字源解説の文と天象(秋の銀河の西部と夏の銀河の各部の形状)とそして旧国の地宜を合致させるようにすれば、『魏志倭人伝』に記載された34すべての小国の範囲と位置は解明できる。
 だから、わが国には夏音文字が伝来していたことは確かなこととなる。

 『魏志倭人伝』の時代(2世紀末~3世紀半ば)、“わが国に文字が無かった”と断定する学説は誤りであり、この学説は「出土史料が存在しなければ文字があったと証明できない」という固定観念にもとづく錯覚・幻想である。
 
 倉頡は反体制側の人々が文字知識を手に入れて革命に利用すると王朝が滅亡するにちがいないと警戒して、「文字」を「銀河各部の形状」と定めて、用済みになった文字を消さない者は直ちに死刑と定めた。
 だから、上記したように、国の特別史跡・大湯環状列石の万座遺跡は「文字は銀河各部の形状であった」と現在に伝える。
 文字となった銀河で『魏志倭人伝』のすべての文字の字源・本義を調べれば、「倭には銀河各部の形状を文字とした夏音文字が確かに存在した」と科学的に証明される。

 シナ天文がもっとも重視する天の北極では、緯度と子午軸の測量は精密に測量できない。
 だから、中国の人々は天頂点をキャッチする眼力を失って大海を渡ることができなくなった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「魏の出張機関がある帯方郡の使節一行は倭の使節一行が帰還する船に便乗して大海に入って倭に到着し、帯方郡と魏の都を行くことになった倭の使節一行の船に便乗して帯方郡の使節一行は帰還した」と記述する。
 このようにシナ天文が栄える魏と帯方郡の使節は大海を行来(往来)できなかったが、夏音文字が存在した倭においては天頂点をキャッチする眼力を鍛錬する習慣が継続されて栄えていたので、倭の使節は大海を往来できた。 

 約5000年前となる倉頡が生存した五帝時代初頭において、「漢字を生む母体の銀河の円形の頭部」が北緯35度~北緯36度の地所の天頂にめぐってきた。
 それゆえ、五帝時代より約2500年後に生存した孔子(紀元前552-同479年)の生地となり孔子廟(北緯35度36分)が所在することになった魯(ろ)の昌平邑(しょうへいむら)・現在の山東省曲阜(きょくふ)の天頂に〔漢字を生む母体となる銀河の頭部」がめぐってきたことになる。
 「歳差(さいさ)」と呼ばれる天文現象によって時代が下るごとに、次第に昌平邑の天頂を通過する銀河部位は「漢字を生む母体の銀河」のうちの「文字を生む生殖器の銀河部」がある腰のほうに向かって南下した。
 倉頡が生存した時代から約2500年後となる孔子が生存した当時、昌平邑・孔子廟の天頂に「文字を生む生殖器の銀河部」がめぐってきた。
 この時代、中国では精密に緯度と子午軸が測量できる天頂緯度を測定する眼力を鍛錬する習慣が早くも廃(すた)れはじめ、文字の字形も銀河各部の形状に相似する象形文字から脱皮しようとする記号化が始まっていた。
 そして、当時、中国では倉頡伝説に登場する漢字作成原理「鳥獣の足跡」について、「倉頡は雪や土の上に残る鳥と獣の足跡から文字を発明した」という俗説が横行するようになっていた。
 漢字作成原理「鳥獣の足跡」が俗説によって不正確になると、漢字の起源の真相も不正確となった。

 上記したように、孔子が晩年に弟子たちを集めて彼の思想を説く孔子廟の天頂に、漢字作成原理「鳥獣の文」のモデル〔女性の生殖器・子宮・卵管・卵巣・産道がある箇所〕に所在する「文字を生む生殖器の銀河部」が通過した。
 孔子の思想が書き残された『論語』に「子曰く、我に数年を加し、五十にしてもって易を学べば、もって大過なかるべし」という、老子が述べた言葉が記述される。

 “漢字の始祖”の倉頡は文字が最も強大な政権基盤となることに気づき、反体制側が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝が容易に滅亡すると警戒し、王朝が文字を独占管理して厳重な機密とした。
 倉頡は文字が銀河から作られたことを暴露する者は即刻死刑にすると定め、反体制側の人々が文字を学ぶ機会を少なくするために用が済んだならば書いた文字を消さない者も直ちに死刑すると定め、さらに文字となる銀河各部には名称を付けないと定め、書いた文字は文字ではなく真の文字は銀河各部の形状にせよと定めて、文字の学芸の厳重な機密化をはかった。
 『魏志倭人伝』に記述された易に用いられた卜辞の夏音文字が発掘されない原因は、倉頡が定めた厳しい掟をまもって用済みになると必ず夏音文字は消されていたので出土される史料にはならなかったからである。

 中国でもわが国でも象形文字で記された夏音文字は倉頡が定めた掟をまもって用済みになると必ず消されていた。このため、何かの原因で消されなかった事例は極めて稀(まれ)な特殊なこととなったので、中国でもわが国でもその出土例は極端に少なくわずか5種(5字)ぐらいしか存在しない。
 わが日本においては長野県茅野市の尖石(とがりいし)考古館が所蔵する石板画に刻まれた5種の図書が発掘された夏音文字であると考えられる。

 だから、孔子が生存した時代にあっても、文字が銀河から作られた秘密を暴露する者は王朝と国家を滅亡させる大罪人とみなされて死刑となった。
 このため、孔子は「死刑となる文字の研究は死が間近い五十から学ぶの大きな過ちではないが、五十以前から文字の研究する者は命を粗末にあつかう愚か者である」と説いた。
 当時、孔子と並ぶ思想家の老子が生存していた。
 老子は孔子より年上で、孔子は老子に教えをうけたと伝わる。
 老子が孔子に教えたものは、〔銀河各部の形状〕が〔文字〕となる知識であった。
 老子を教えを記述する『老子』は37の章に分かれる上篇(道経)と44の章に分かれる下篇(徳経)とで構成される。
 この37の章から成る上篇(道経)は孔子が命を粗末にする愚か者と批判した五十歳以前から老子が情熱を傾けた研究を説明するものであり、つまり「文字は銀河から作られた」と暴露するものであった。
 これゆえ、老子は国家と王朝を滅亡させる天下の大罪人となって、日々役人に追われる住所不定の宿無しの逃亡者となった。
 孔子は老子から文字の学芸を教わったこともあったので、孔子の「易は五十以後に学べ」という意見は「老子は愚か者である」と批判して侮蔑することなった。
 これゆえ、孔子は老子はじめ老子を尊敬する道家の人々の怒りをかうことになった。

 孔子は『易経』の「十翼(じゅうよく)」を著作した。「十翼」は「彖伝(たんでん)上・下、象伝(しょうでん)上・下、繋辞伝上・下、文言伝(ぶんげんでん)、説卦伝(せつかでん)、序卦伝(じょかでん)、雑卦伝(ざつかでん)」の十篇を加えて一書としたものである。
 ゆえに、孔子は漢字の起源の秘密が記載されるを『易経』繋辞下伝を著作したことになる。
 上記した青い大きな字で表示した『易経』繋辞下伝の漢字起源記事は下記の青い大きな文字で示す部分だけを用い、また「結縄」と記す部分を「文字」と改め、黒色の普通字で表記した他の箇所を省略したものである。
 この漢字の起源記事を全文は下記のごとくである。
 「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、結縄(けつじょう)を作った

 孔子は「五十歳以後に、易を学べば大過なかるべし」という考えの持ち主であったので、易のための記号・数詞であった結縄から漢字の歴史は起源したと思い込む、誤った先入観を抱くことになった。
 
 今から約6000年前、三皇時代初頭の包犧氏は結縄を考案した。
 この結縄は、精密に緯度と子午軸を測定できる天頂点をキャッチする易(遠くの地に旅した者が帰家するための術)のための図書や数詞などを図案するものであった。これゆえ、結縄は自らの氏族名はじめ万物の情に相似・類似する図書(象形文字)を作ることができない“文字”とは言えない未熟で不完全なものであった。
 天頂点をキャッチする術(易)は包犧氏が王となる以前から存在した。包犧氏は、この天頂点をキャッチする術の記号を考案したので、易は包犧氏から始まると定められた。
 孔子が生存した時代、倉頡は“漢字の始祖”と定められていた。
 だから、漢字の歴史は倉頡から起源したと考えるべきであった。

 今から約6000年前の中国の西安(せいあん)市郊外の半坡(はんぱ)遺跡から出土した、学者たちが“陶文(とうぶん)”と名づけた113種の図書こそが、包犧氏が考案した「結縄」であると考えるべきことになる。
 「歳差」を用いて6000年前の半坡集落(北緯34度16分)の天頂点となった銀河部を調べると――「文字を生む母体の銀河の円形の頭」が半坡集落の天頂を通過していたことが明らかとなる。
 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝に関する記事の中に「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、ぐるりと兵士をめぐらして自衛した」という文が登場する。この黄帝軍の駐屯するときの陣営は、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の「獣」となる〔子宮に宿る胎児の姿に相似するジャコウウシが天敵のオオカミから自衛するするときの円陣〕を再現するものであった。漢字作成原理「鳥獣の文」のモデルは「女性の骨盤・子宮・卵管・卵巣・産道からなる生殖器」であるので、胎児が出産するときに女体におきる「陣痛」という語の「陣」は「鳥獣の文字」の「獣」の「ジャコウウシが子どもたちを真ん中にかくしてつくる円陣」をあらわすものであると考えられる。
 天敵のオオカミに襲撃されると、円陣を組む牛たちが犠牲となる。
 「漢字を生む母体の銀河の頭部」は〔ジャコウウシの円陣〕の形に相似し、中央には円形の暗黒天体が占める〔円環〕の形となる。
 この〔円環〕の外側の環(わ)となる銀河の東西には切れ目があり、この切れ目を半坡遺跡の天頂点となる天頂緯度線が貫通していた。
 「漢字を生む母体の銀河の頭部」である〔円環の銀河の切れ目〕は〔オオカミに襲撃された子を真ん中に集めて円陣でむ牛たちにあって牲となったジャコウウシ〕のイメージをあらわすものゆえ「包犧」となる。
 このように、「漢字を生む母体の銀河の頭部」の円環状の銀河部を貫通する半坡集落の天頂緯度軸は「包犧」と表示するものとなるゆえ、半坡遺跡から出土した陶文は包犧氏が考案した結縄であったと考えるべきことになる。

 半坡遺跡から出土した113種の陶文では、「包犧」という氏族名をあらわすことができず、「結縄」という名もあらわすことができない。
 孔子は包犧氏が考案した結縄は自らの氏族名をあらわす図書を作ることができなかった未熟なものであることを知らなかった。
 孔子以前の先人たちは結縄を文字以前の図書と定め、倉頡が考案した書契(しょけい・わが国では「書契」を「刻木(こくぼく)」と言う)こそが“文字”と呼べるものと定めた。
 この結縄と書契の相違を、孔子は知らなかったのである。
 これゆえ、孔子の漢字の起源記事は不正確となった。
 現在の分子生物学のDNAは一つの小さな場に大きな多量の情報が入っていると定まる。
 この現在のDNA理論に先駆けて、倉頡は巨大な多量の形状からなる〔天象、すなわ(秋の銀河の西部と夏の銀河〕と一つの小さな場の「文字を生む母体となる銀河」と同一であると考えて、「文字を生む生殖器の銀河部」から文字を生み出すようにすれば多数の文字を作ることができる、漢字作成原理「鳥獣の文」を発明した。
 したがって、「包犧」という氏族名や「結縄」という名称をあらわす文字は倉頡が考案した書契によって作成することができるようになった。
 孔子は「易」イコール「文字」と考えたが、「易」イコール「文字」ではなかった。
 ゆえに、孔子が『易経』繋辞下伝に記載した漢字の起源を伝える文は、下記のごとく易に関する箇所の文を排除すれば正しくなる。
 「黄帝につかえた史官・倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、書契を作った」 

 『魏志倭人伝』は「倭には遠くの地や大海を行来するときに天頂点をキャッチして精密に緯度と子午軸を測定できる易を占う卜辞があった」と書くように、易に関して説明しても死刑にはならなかった。
 しかし、易の卜辞として用いた文字(夏音文字)が用済みになったときに消すことを怠った場合には死刑に処せられ、また文字は銀河から作られた秘密を具体的に暴露すると死刑に処せられた。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「甲骨文字」を「卜文」と表記し、[学]の甲骨文字の字形を注目して「卜文にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社形式と似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう。」と解説する。
 甲骨文字の[学]の字形は「わが国の神社建築に相似して、屋根のむねの両端にX字形に交差させた長い木材の千木(ちぎ)を設置するメンズハウス(学び舎(や))」を図案するものであるが、「漢字を生む生殖器の銀河部」より下部となる〔「漢字を生む母体の銀河の股」より南側の銀河部の形状〕が甲骨文字の[学]の字形に相似するので、この銀河部が[学]の字源であったことになる。
 わが国には、最古の甲骨文字より約750年前に夏音文字が伝来していたので、甲骨文字が図案した学び舎に相似する千木がそびえる神社建築が作られることになったのである。
 甲骨文字が用いられた殷代の文字の学芸を教える学び舎においては、文字は銀河から作られた秘密を漏らさないために、学生たちは秘密講的な厳しい戒律下の生活を送っていたのである。

 白川静著『字統』が甲骨文字の字形解説で指摘するように、[学]の字源には「文字が銀河から作られたことは厳重な機密となり、王政が独占管理して、この秘密を暴露する者は死刑になった」というタブーが秘められていた。
 しかし、『説文解字』が[易]の字源を「蜥易なり」と解説するように、[易]の字源には「文字が銀河から作られたことは厳重な機密となって、この秘密を明らかにする者は死刑に処せられた」というタブーは秘められていなかった。
 だから、『論語』の老子を愚か者と批判した文中の[易]という語は錯誤・間違いであり、「子曰く、我に数年を加し、五十にしてもってを学べば、もって大過なかるべし」というように[学]に改めれば正しい文となる。
 このように孔子の文字を研究して日々役人に追われる老子を愚か者と批判し、さらに老子の教えを無視して誤った漢字の起源の意見を抱くものであったため、道家の人々は孔子をそしり非難した。

 『論語』の微子(びし)には――孔子宅(孔子廟)の門を過(よぎ)り、「鳳(ほう)や鳳や、何ぞ徳の衰えたる」と、孔子をそしって歌う者があったという――記述がある。
 孔門の人々の拠点であった孔子廟の東方にはその地宜が鳳(大鳥)の顔に相似する山東半島が所在し、山東半島の付け根から南北に伸びる海岸線の地宜は鳳の両翼の形に相似する。ゆえに、道家の人々は鳳の心臓部に相当する昌平邑の孔子廟に住む孔子を「鳳」と表現した。
 道家の人々が孔子をそしった言葉にある[徳]の字源・本義は「天頂点をキャッチできる眼力と技(わざ)を修得した人格のこと」である。
 倉頡がつかえた黄帝を祭る廟とその墓は、陝西(せんせい)省黄陵(こうりょう)県に所在し、北緯35度35分に所在する。孔門の人々の拠点であった孔子廟は黄帝廟・黄帝陵の真東の北緯35度36分に所在した。このように、両地の緯度はわずか1分しか相違しないので、[徳]の字源を示す同緯度ということになる。
 それゆえ、道家の人々は孔子宅の門を通過しながら「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰えたる」と歌ってそしったのである。

 『老子』第20章は「学を絶てば憂い無し」という文から始まるが、この文は「銀河から作られた文字の学芸の研究をやめてしまえば命を失う心配はない」と意味するものとなる。
 次に続く「唯(い)と阿(あ)と、相い去ること幾何(いくばく)ぞ。善と悪と、相い去ること何若(いかん)。」という文は「ハイと答えるのとアアと気のない返事するのと、どれほどの違いがあるというのだ。善と悪とにどのような違いがあるというのだ。」と意味するが、この文は孔子の儒教の教えを譬(たと)えるものであり、この譬えをもって「孔子の教えは内容が空っぽで、深い思索(しさく)が感じられず、真理を述べるものではない」と痛烈に批判する言葉であったのである。
 この『老子』第20章は「我れ独(ひと)り頑にして鄙(ひ)に似る。我れ独り人に異なりて食母(しょくぼ)を貴ぶ。」という文で終わる。
 この文は「我れはひとり頑固に都会から遠く離れた銀河各部がよく見える灯火が乏しい田舎に住んで野暮くさい生活を送っている。我れはひとり人と異なって天頂にめぐってくる〔女性の生殖器に観える銀河部〕から生まれた文字の字源・本義が死滅しないように、文字の学芸に乳を与えて養う食母すなわち乳母(うば)のような生活を最も大切にして生きている。」と意味する。

 このシリーズの前回〔30〕で指摘したように、わが国にはすべての字源・本義を知ることができる字書の機能を有するとともに「真の文字は天象(秋の銀河の西部と夏の銀河の各部の形状)である」と科学的に明確に伝える3つの史跡が存在する。
 この3つの史跡は⑴『魏志倭人伝』と同時代の3世紀末に作られた1千万坪の建比良鳥(たけひらとり)の地上絵(現在の静岡県浜松市細江町の行政区域をあらわす地図の形)、
 ⑵徳川家康が命令して1603年から1622年まで20年間の歳月を費やして完成させた彦根の3千万坪の「夏音文字の学芸は未だ習わず」と設計する大鳥の地上絵(現在の彦根市の行政区域をあらわす地図の形)、
 ⑶当時の天才芸術家にして科学の才に秀でた小堀遠州が将軍・幕府に命令されて、1623年から1645年までの23年間情熱を傾けて作成した桂離宮の庭園である。
 この3つの史跡には倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文(鳥獣の足跡)」は正確に表示されている。
 漢字の起源の秘密を正確に保存するには、「倉頡は雪や土の上に残った鳥や獣の足跡をヒントにして文字を考案した」という俗説に惑わされないで、漢字作成原理「鳥獣の文」を正確に伝承する、これが最も肝心なことであり、この正確な知識を失ったならば漢字の起源の真相が不明となった。

 しかし、漢字作成原理「鳥獣の文」の正確な知識の保存はきわめて容易であった。
 というのも、天を仰いで「すべての漢字を生む母体となる銀河」となる人の正面形や背面形に見える銀河を注目し、またこの銀河は妊婦が西に向かって歩く側身形にも相似すると感知し、その妊婦のおなかあるいは右足に見える銀河部と重なる〔3本指の人の足の形〕に類似する銀河部を〔女性の子宮〕と見立てる習慣を継続すれば、漢字作成原理「鳥獣の文」は正確に知ることができたからである。
 このように人にとっては人の姿に酷似する「すべての文字を生む母体の銀河」は印象深く馴染み深いものであるので、天を仰げば正確に漢字作成原理「鳥獣の文」を理解することができる銀河は容易に目撃することができた。
 このよう次第であったから、漢字作成原理「鳥獣の文」と今から約4050年前に伝来した夏音文字の学芸は正確に伝えられ、上記の3つの史跡には正確なる漢字作成原理「鳥獣の文」の設計が作成されることとなったのである。

 ところが漢字が起源した中国では、キリスト、釈迦、ソクラテスとともに世界の四大聖人に数えられる孔子が、俗説に毒されたのであろうか、漢字作成原理「鳥獣の文」を正確に知っていなかった。
 知っていれば、上記したように[易]と[学]の取り違いもせず、文字は漢字作成原理「鳥獣の文」は発明した“漢字の始祖”の倉頡から起源すると考えることができたからである。
 “包犧氏から漢字の歴史は起源しない”と孔子以前の先人たちは定めた。これゆえ、包犧氏は“漢字の始祖”と崇拝されなかった。
 皮肉なことに、孔子廟の天頂には8度すなわち見かけの大きさが1m80cmぐらいの「文字を生む母体の銀河」がめぐってきた。
 また孔子廟の真上の天頂点となる位置には1.8度すなわち見かけ大きさが40cmぐらいの〔3本指の人の足〕の形に相似する「文字を生む生殖器の銀河」がめぐってきた。
 孔子が天頂を仰げば、漢字が起源した歴史の真相を正しく理解できる銀河が夜となれば輝いて「文字は倉頡が考案した書契から始まる」と明確に示していた。

 孔子と老子が生存した当時、[大]の字源となった「文字を生む母体の銀河のアゴ」の部分が現在の北京市の天頂点となり、「文字を生む母体の左足の底」は現在の江蘇(こうそ)省塩城(えんじょう)市の天頂点となっていた。
 このように、[大]の字源「漢字を生む母体の銀河」の各部位は中国北部・華北地方の天頂点となり、中国南部・華南地方では天頂間近にめぐってきた。
 『老子』第25章は「物有り混成し」という文から始まる。
 この『老子』第25章の文を注目すると、老子は「文字は銀河各部の形状である」と暴露するために王朝と国家の転覆をはかる大罪人と見なされていたことが明確にわかる。
 この『老子』第25章の文は、下記のごとくである。
 「物ありて混成し、天地に先だちて生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり、独立して改めず、周行して殆(つか)れず。もって天下の母と為(な)すべきも、吾れその名を知らず。これに字(あざな)して道といい、強いてこれが名を為して大という。大なれば曰(ここ)に逝(ゆ)き、逝けば曰(ここ)に遠く、遠ければ曰(ここ)に反(かえ)る。ゆえに、道は大なり、天は大なり、地は大なり、王もまた大なり、域中(いきちゅう)に四大有りて、王、その一(いつ)に居(お)る。人は地に法(のっと)り、天は道に法り、道は自然に法る。」

 この第25章に登場する「天下の母」は、天頂にめぐってきた「文字を生む母体の銀河」のことである。倉頡は銀河各部に名を付けることを禁じたので、老子は「吾れその名を知らず」と表現した。
 老子は[道]の金文形が「角(つの)が生えるオス鹿の横顔」であることを知っていた。[道]の金文形のモデルは「角」の部分が「天下の母の銀河(文字を生む母体の銀河)」であり、「鹿の横顔」の部分は「天下の母と接続する[学]の字源銀河とその南西の長方形の暗黒天体部、さらに長方形の暗黒天体部に隣接する銀河部」である。
 この[道]の字源銀河の「オス鹿の横顔に似る銀河」の北端から南端までの距離は緯度にして27度である。ゆえに、中国の南端となる海南島の南部は北緯18度であるからして、当時は「オス鹿の横顔に似る銀河の南端」を海南島よりさらに南の北緯16度の天頂緯度軸が貫通していたことになる。そして、「オス鹿の横顔に似る銀河の北端(角の先端部)」は北緯43度の土地の天頂緯度軸が貫通していた。したがって、「オス鹿の横顔に似る銀河」は中国全土の天頂にめぐってくるものであった。
 上記したように「オス鹿の横顔に似る銀河の鹿の角」となる「天下の母となる銀河の南端」すなわち「文字を生む母体の銀河の南端」を江蘇省塩城市の天頂緯度軸が貫通するものであったゆえ、老子は「天下の母」となる銀河を中国全土を包み込む字(じ・あざな)となる銀河に改めて「道」と言い直したのである。
 
 ゆえに、「これに字して道といい」という文は「文字は銀河から作られた」と暴露していることになる。
 “そんなことはない! 他の本は『老子』第25章の文を「文字は銀河から作られた」と語るものと解釈せず、もっと哲学的に深い思想に満ちた文で読解して訳している”と反論するかもしれないが……
 次に続く文を注目すれば、『老子』第25章は「文字は銀河各部の形状である」と伝えるものであることは明白となる。
 次に続く「強いてこれが名を為して大という」という文をもって、老子は「天下の母の銀河は[大]の字源銀河である」と暴露する。
 倉頡が考案した漢字作成原理「鳥獣の文」は――一日で一周する「子どもを生む母親の姿に似ている銀河」を〔子どもを生む母親〕に見立てて、その銀河体内にある「胎児が宿る母親の生殖器に似る銀河」を〔女性の生殖器〕に見立てて「生む」と考えるようにすれば、「天象」すなわち「秋の銀河の西部と夏の銀河の各部の形状」から、[文][天][地]そして[大]はじめとする万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を作ることができる――という発明であった。
 ゆえに、老子は漢字作成原理「鳥獣の文」と「子どもを生む母親の姿に似る銀河」を「天下の母」と名づけたのである。
 この「天下の母の銀河」の形は[大]字形であるので、[大]の字源となった。
 これゆえ、老子は「天下の母の銀河」を「道」と言い直し、さらに「強いてこれが名を為して大という」と言い直したのである。
 この[大]の字源銀河は天の北極を中心にして大きな円を描いて一日かかって一周する。だから、「曰(ここ)」は華北地方における[大]の字源銀河部位が重なる「天頂点」をあらわし、「大なれば曰に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る」という文は「天頂点と重なる[大]の字源銀河部位の日周運動」をあらわしていることになる。
 ゆえに、その文より前の先頭部にある「周行して殆(つか)れず」という文は、「[大]の字源銀河はじめすべての天体部は天の北極を中心にして一日に一周する円形の旅を永遠にくりかえし続けてもつかれず停止しない」と解釈できる。
 [道]の字源銀河のうちの「オス鹿の横顔に似る銀河の角」の部分は[大]の字源となるので、「道は大なり」とあらわした。「天は大なり、地は大なり」は、上記した『説文解字』の[大]の字源解説で説明した通りである。[王]の甲骨文字は[大]の字源となる「天下の母の銀河」を図案するものであり、上古の王は[大]の字源銀河を仰ぎみて天頂点をキャッチできる[徳]の眼力と技術を必ず修得しなければならなかった。だから、「王もまた大なり」と表現された。
 「道は大なり、天は大なり、地は大なり、王もまた大なり」であるからして、「王と道・天・地」は「四大」ということになり、[王]の字源銀河と[大]の字源銀河は同じであるので「域中に四大有りて、王、その一に居る」と表現したのである。
 最後の「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」という文は、壮大な銀河の形状を観て訳すると「人は地にのっとって存在し、地は天にのっとって存在し、天は天の北極を中心にして一日に一周する永遠の道(軌道)にのっとって存在し、道は自然にのっとって存在する」と解釈できる。
 同様に、壮大な銀河を観て訳すると先頭の「物有りて混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寥たり、独立して改めず」という文は、「[天](天下の母なる銀河)と[地](トカゲの姿に似る銀河と長方形の暗黒天体部)の字源銀河より北側の三皇時代より以前の天頂点となった銀河は何とも名づけようもなく形をとらえようがなく混沌(こんとん)としている。だから、この宇宙の光景が示すように、天と地に初めて分かれる以前の宇宙はおそらく混沌としていたにちがいない。銀河が輝く壮大な宇宙は果てしなくただただ寂寥である。天下の母たる銀河部は混沌とした銀河をバックにして独立して、原始のときから永遠に形をまったく改めずに同じ形で存在した」と解釈できる。
 以上のごとく、さまざまな訳本は銀河をまったく見ないで『老子』第25章の文は直接的に「自然は偉大である」と語っているものであると解釈するが、このような解釈は先ず直接的に「文字は銀河から作られた」と解釈したあとにおこなうべき間接的な拡大解釈ということになる。

 これまで説明してきた「文字となった天象」は、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bの「秋の銀河と夏の銀河」である。
 拙著の資料Cで「十字の銀河」と記した銀河部を、老子は「天下の母」と名づけたことになる。

 『老子』第25章は「文字はことばをあらわす記号」ではなく、「夏音文字、甲骨文字、楷書という区別を超越してすべての文字は銀河各部の形状であった」と語るものであったのである。
 『易経』繋辞下伝の「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る云々」という文は、要するに「天象と地宜は文字となった」と語っているように、『魏志倭人伝』に楷書で表記される夏音文字は34小国の地宜(地図の形)をあらわしていることが、実験してみれば証明できる。
 だから、「天象」も「文字」であった、「地宜」も「文字」であった、「象形文字で示す夏音文字」も「楷書で示す夏音文字」もまた同じく「文字」ということになる。
 
 『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名は楷書で表記される夏音文字であるが、“もしも夏音文字が存在したならば象形文字でなければならない。楷書で表記される夏音文字は夏音文字ではない”という意見は錯覚・幻想ということになる。
 上記したように、万座遺跡は「銀河各部の形状が文字であった」と現在のわれわれに伝え、『老子』は上篇(道経)の37の章で「銀河各部の形状が文字であった」と証言するように、【本来の文字】は【銀河各部の形状】であったからである。

 『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、その使が中国に詣(いた)るに皆みずから大夫と称す」という記述がある。
 大海を渡って中国に到着した倭の使者がみずから称した“大夫”という語のうちの[夫]の字源を『説文解字』は下記のごとく解説する。
 「丈夫なり。大に従う。(中略)。周制、八寸をもって尺となし、十尺を丈となす。人は長(たけ)八尺なり。ゆえに大夫という」
 この[夫]の字源解説は、つまり「丈夫の[夫]である。この字は[大]の字源に従う。(中略)。周代の度量衡の単位は八寸を一尺と定め、十尺を一丈と定めた。そして、人の背丈(せたけ)は八尺とした。ゆえに、丈夫の人を大夫という」と説明していることになる。
 周代の長さの単位は〔十寸を一尺〕と定める長尺と『説文解字』が指摘する「八寸を一尺」とする短尺があった。
 もちろん、周制では『説文解字』が指摘するように「十尺を一丈」と定めた。
 周制の〔一尺は今日の22.5cm〕であったので「八尺」は今日の「1m80cm」となる。
 そうすると「人は長八尺なり」という解説は「人の背丈は1m80cmなり」となる。
 しかし、赤ん坊や幼児はじめの人の背丈は1m80cmと決まっていない。だから、この解説は「人の背丈」についてあらわしたものでないことになる。
 老子が「天下の母」と表現した銀河は「人」の姿に相似し、しかも見かけの背丈は八尺・八度であり、その背丈は永遠に変わらないから、『説文解字』の「人は長八尺なり」は[大]の字源となる、老子が「天下の母」と表現した銀河であると考えるべきことになる。
 [夫]の甲骨文字と金文形の字形そして楷書の字形が示すとおり、[大]とその頭部に[一]の字が加わると[夫]と字となる。
 背丈が180cmもある人々は“すこやかに育った丈夫な人”と一般的に解せられる。これゆえ、見かけの背丈が180cmの「文字の母の銀河」が[夫]の字源銀河となるので、『説文解字』は「丈夫なり」と解説したのである。
 日本の古語において、[夫]は「つま」と読まれて男性の「夫・おっと」に意味となり、また「つま」と読まれる[夫]は女性の「妻・つま」を意味し、「つまの子」は「夫、または妻を親愛してていう語」になったのは、[夫]の字源銀河は〔東に向かって歩くく男性と西に向かって歩く女性(妊婦)の側身形が交差してダブルもの〕であったからにほかならない。

 『魏志倭人伝』は「大海を渡って中国に到着した倭の使節はみずから“大夫”と称した」と記述するが、当時(2世紀末~3世紀半ば)、[大]・[夫]の字源の「天下の母の銀河」は日本列島や中国の天頂を通過せず、「長方形の暗黒天体」がめぐってきた。
 ゆえに倭の使節は「大夫」と称するのは不合理となる。
 しかし、万葉仮名の「大夫」はすべて「ますらを」と読み、今日「ますらを」は「益荒男」と表記する。
 したがって、「大夫」という語は「その昔、夏音文字の学芸をもたらした益氏の王子一行が[大]と[夫]の字源銀河を羅針盤にして荒波逆巻く大海を渡ったように、吾もまた精密に天頂緯度を測定して大海を渡ってきた」という由来を表示するものであったにちがいないので――倭の使者たちが「大夫」とみずからを称した語は合理となる。

 『日本書紀』の神武天皇紀に登場する「天祖」は、『古事記』上巻の天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)説話末部の記事から「夏の始祖の禹(う)の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子」あることが明らかとなる。
 帝益の孫である王子と益氏の若者たちは中国から大海を越えて日本列島に移住して夏音文字の学芸を根づかせた。これゆえ、司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか)には「帝王になった益氏の子孫はどこの地に封ぜられたか不明である」という記事がある。このように、名門益氏の子孫は忽然(こつぜん)と中国から消えたと証言されるものであるゆえ、『日本書紀』の天祖の記事と『古事記』上巻の邇邇芸命説話末部の筑紫降臨説話に示される帝益に関する記事からして益氏は日本列島に移住したと考えてよいことになる。

 「卑弥呼」の[卑]と[俾]の金文形は同一形であるので、[俾]イコール[卑]となる。『説文解字』は「俾は益なり」と解説するゆえ、[卑]の字源は「益なり」となる。
 司馬遷著『史記』は「五帝時代の最後五番目の帝と舜(しゅん)が位についたときに、益氏は“虞(ぐ)”という重職を任命された」と記述する。
 中国全土を包む海岸線の地宜は〔虎〕の横顔に相似すると見立てられ、[虎]に[呉]をくわえて[虞]という字は「精密な中国の海岸線地図を作成する官職」をあらわすことになった。というのも、上記の3つの史跡からして[呉]は「海岸線より西側の沿岸地域」とあらわす字であったことが明らかとなるからである。
 [益]に三水偏が加わる[溢]の字義は「あふれる」。[益]に糸篇が加わる[縊]の字義は「くびれる」。
 満潮には湾岸地域に海水は溢れて湾の大きさは拡大し、また湾にそそぐ河口の幅も水が溢れて広がるが、干潮のときには海水が岸から引いて湾の大きさは縊(くびれ)て小さくなり、河口の水も引いて川幅が縊れて狭くなる。
 だから、水が溢れたり引いたりして湾の大きさや湾に合流する川の河口の幅が異なる、低い湿気のある卑湿な海岸線の地図を作成する「虞」の官職についた益氏によって、「卑は益なり」いう字源が成立することになったのである。

 日本列島に益氏が移住して夏音文字の学芸が伝来したので、わが国には夏音文字の学芸が伝来した痕跡が明確に残る大湯環状列石の万座・野中堂遺跡と夏音文字の伝来を明確に表示する3つの史跡が存在することになった。
 そして、『魏志倭人伝』は「夏音文字の学芸に精通する一女子を最高位の女王に選ばれ、その女王は“卑弥呼”という名になった」と伝える。
 「卑湿な中国全土を包みこむ海岸線」は[卑]の字源を示し、北部の「山東半島とその付け根より南北の鳥の翼に相似する海岸線」は「カンムリカイツブリ」という水鳥に見立ると定められて[弥]の字源をあらわすことになり、南部の「杭州湾(こうしゅうわん)」の形は「人の口(あるいは虎の口)」と「鳰(にお・カイツブリ)」という水鳥の姿に相似するので「呼吸」や「呼ぶ」の[呼]の字源を示すことになった。
 この中国海岸線の形によって成立した[卑][弥][呼]という3字の字源の秘密を、『易経』繋辞上伝は「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに能(よ)く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と文で表示する。
 この文中にある「弥綸」という語の意味は「洩れなく包みこみ、つくろいおさめる」である。
 山東半島はカンムリカイツブリの顔に相似すると見立てられ、山東半島の付け根から南と北へ伸びる海岸線はカンムリカイツブリの両翼に相似するので、この「中国全土を包みこむような山東半島とその付け根から南と北へ伸びる海岸線」は[弥]の字源となった。
 南へ伸びるカンムリカイツブリの翼に相似する海岸線は長江口と杭州湾の箇所で糸が輪をつくるように曲がりくねって綻(ほころ)ぶが杭州湾よりさらに南になると円いカーブを描くように繕(つくろ)いおさまる――この海岸線が[綸]の字源となった。
 だから、「弥綸」は「洩れなく包みこみ、つくろいおさめる」となり、「中国全土を包みこむ海岸線」は「弥綸す」と表現されたのである。
 中国全土を弥綸する海岸線は[卑][弥][呼]という倭女王名の字源を示すものであるゆえ、益氏の王子は中国の海岸線地図をたずさえて日本列島に移住したことになる。

 益氏は帝舜時代から禹の後を受け継いで帝王になる直前まで200年以上も代々、「虞」という官職について精密な中国全土を包みこむ海岸線地図を作成する業務に勤しむものであった。
 上記した『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に作られた⑴建比良鳥の地上絵の頭部(東)から右翼(南)にかけての境界線の形は、中国全土を包みこむ海岸線の地図の形に設計されている。
 ゆえに、益氏の王子は精密な中国の海岸線地図をたずさえて日本列島に移住したことは確かなこととなる。
 上記したように、秋田県鹿角市の国の特別史跡・大湯環状列石の万座・野中堂の両遺跡には夏代初頭の夏音文字の学芸の痕跡が明確に残る。
 ゆえに、「卑弥呼」や「益荒男」や『日本書紀』の天祖の記事と『古事記』の天孫邇邇芸命の筑紫降臨説話に示される帝益の歴史との関連性や『史記』陳杞世家の益氏に関する記述からして――建比良鳥の地上絵の東から南にかけて設計された中国の海岸線地図の形は名門益氏がもたらしたものであると限定すべきことになる。
 というのも、精密な中国の海岸線地図は最高級の機密であり、絶対に中国から持ち出すことはならぬと禁止されるものであったからである。
 このような最高機密の地図が持ち出すことができた人物は帝となった氏族にして、「虞」という官職に長い間ついた氏族の王か王子でなければならない。
 そうすると建比良鳥の地上絵に表示された中国海岸線地図は、倭女王「卑弥呼」の[卑]の字源は「益なり」からして、夏代初頭に日本列島に移住した名門益氏の王子がたずさえてきた地図のもとづく以外に考えられないことになる。

 『説文解字』は[夫]の字源を「丈夫なり」と解説する。
 この「丈夫」の[丈]を、『魏志倭人伝』に登場する「大夫」という語の真ん中に挿入すると「大丈夫」という語になる。
 老子がいう「天下の母」は[大]と[夫]とそして[丈]の字源となる銀河であったのである。
 益氏は[大][丈][夫]の字源となる「天下の母の銀河」を羅針盤にして大海を渡って日本列島に移住した。
 この益氏のごとく精密に天頂緯度を測定すれば大海を往来することができた。
 ゆえに、「大丈夫」は「天頂点をキャッチして大海を渡るから命を失うことはない! 心配無用」とあらわすものとなるので、今日の日本語の「大丈夫」は「心配無用」と意味することになったのである。

 天の北極で緯度を測量すると精密に測定できず不正確であるので、大海に入るや直ぐに迷うことになって大海原を漂流して命を失うことになった――この事実は、いかなる巧妙な弁解でも高名な大学の名誉教授という肩書をもってしても誤魔化すことができない事実である。
 この事実は、『魏志倭人伝』は「倭の載斯烏越(そしあお)等を遣わして郡にいたり、(中略)、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を遣わし」、あるいは「倭の大夫率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の液邪狗(ややこ)等二十人を遣わし、政等の還(かえ)るを送らしむ」という記事で明示される。
 中国では天の北極を最も重視するシナ天文が紀元前1世紀に完成したので、上古に栄えていた精密に天頂緯度を測定できる眼力と技術を鍛錬する習慣が絶えてしまった。
 また、魏が朝鮮半島に設営した出張機関の帯方郡政庁の人々も天の北極を最も重視するシナ天文のために緯度が正確に測定できなかったので、大海を渡ることができなかった。
 そこで魏と国交を結ぶ倭の使節の載斯烏越一行が大海を渡って帯方郡に到着し、帯方郡の使節・張政一行は倭の載斯烏越一行が帰還する船に便乗して倭に派遣された。この帯方郡使の張政一行は倭の大夫の掖邪狗一行の船に乗って帰還した。
 「大夫」また「大丈夫」 という語が示すように、倭の夏音文字の学芸は精密な天頂緯度測定を最も重視するものであったゆえ、魏と倭は国交を結ぶことができたのである。

 中国の海岸線地図を図化する1千万坪の建比良鳥の地上絵は天の北極で緯度と子午軸を測量する方法では絶対に作成することができない。
 この建比良鳥の地上絵は現在の国土地理院が作製する精密な地図と同じく、精密に天頂緯度と天頂点を中心にして直角に交わる子午軸の測量を基に、経緯度原点地を設置して三角形の網を形作って図化されている。この三角測量の基点は現在も明確に残っている。
 この建比良鳥の地上絵は銀河各部の形状と建比良鳥の地上絵と浜名湖の湖岸の各地の地名と地宜の形を合わせれば1400字前後の基本字の字源・本義が解明できる字書となる。
 さらに、この建比良鳥の地上絵の頭部と右翼の部分は益氏がもたらしたにちがいない、[卑][弥][呼]の字源を示す中国全土を弥綸する海岸線地図の形に設計されている。
 だから、『魏志倭人伝』の「倭に文字があった」という記述は史実を伝えるものであったと断定できる。

 「命を委ねる天頂緯度線」は[玄]の字源となり、[玄]は「4~6秒ぐらいの寸秒で精密に緯度と天頂点と直角に交わる子午軸を測定する、短い極細線」となった。
 これゆえ、遣唐使船は九州の港を出帆して朝鮮半島や中国に到着するときの海は「玄海灘」と名づけられた。遣唐使船の船乗りは[玄]をキャッチして精密に緯度と子午軸を測定していたのである。
 この[玄]と人が天頂点をキャッチ視線を図で示すと、[Τ]となる。[Τ]の〔頂上の横線〕が[玄]であり、〔垂直線〕は視線となる。
 天頂を通過した[大][天]の「文字を生む母の銀河」は南北に伸びるので、[玄]の天頂緯度線の軌道と[]に交わることになった。ところが、〈南北〉に伸びる「文字を生む母の銀河」を90度転回させて〈東西〉に伸びると想像すると、「文字を生む母の銀河」と[玄]の天頂緯度線は[Τ]のごとくなり、つまり「文字を生む母の銀河」が〔頂上の横線〕となり「[玄]の天頂緯度線」は〔垂直線〕となり、自分の家の緯度と旅の道中における場所の緯度の差も同時に知ることができた。
 だから、このような「文字を生む母の銀河」の〈南北〉を〈東西〉に転位するように想像して精密な天頂緯度を測定する方法が確立された。この方法は「命を委ねる」の[委]の字源となった。
 人の脳の想像によって「文字を生む母の銀河」の〈南北〉を〈東西〉に90度方位を変えるので、[人]に[委]を加える[倭]の字源に「文字を生む母の銀河の東→南→西への運行を基に、90度方位を転回させて〈東〉を〈南〉にする方位規定」が秘められることなった。
 この「転回方位」は[委]にも秘められることになったので、上記したように〔洛陽〕は[委]の字源に基に方位を90度転回して〈南〉が〈西〉になる地であると見立てて「魏」と国名を定めたのである。

 上記した⑴建比良鳥の地上絵を調査すれば、卑弥呼が統治した国の名の[倭]の字源は「方位が90度転回して〈東〉が〈南〉になる方位規定」であることが明らかとなる。
 中国全土を弥綸する海岸線は、中国全土の東側となる。
 上記した建比良鳥の地上絵の中国全土を弥綸する海岸線を設計する大半は南に配置される。そして、東にわずかに中国の海岸線地図の設計部分を配置して、[倭]の〈東〉を〈南〉に転位する字源を表示する。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は[倭]の字源に合致して「日本列島は東に伸びずに南に伸びる」といくつかの記事で説明する。
 卑弥呼王朝は、日本列島は東に伸びずに中国の南の方に伸びるにちがいないと誤った地理観を抱いたために、国名を「倭」と定めたのである。
 上記した⑵彦根の3千万坪の大鳥の地上絵にも、⑶桂離宮の庭園にも「卑弥呼王朝は〈日本列島の東〉は〈中国大陸の南〉の方に伸びると考えた。この方位が90度転位する方位規定は[倭]の字源となる」と明確に表示されている。

 〔緯度を測定する方法〕は【天頂緯度測定】と【天の北極】の二つしか存在しない。
 このうち、【天頂緯度を測定する方法】のみが大海を往来できることになる。
 だから、〔緯度の測定〕に論点を絞って考えると、学者たちが主張する邪馬台国説は支離滅裂の矛盾が満ち溢れる愚劣きわまりない妄想であることが小一時間あれば明々白々となる。
 『魏志倭人伝』の分化するように配置される各部の記事は、すべて相集まって【天頂緯度測定】の一つに統合されて科学が成立するように構築されている。
 だから、『魏志倭人伝』の全記事は【天頂緯度の測定】の一点に絞って思考すればすべて史実を伝えるものであることが明確にわかる仕組みになっている。
 新井白石以来280年におよぶ邪馬台国研究は、なぜ帯方郡の使節が渡ることができなかった大海を倭の使節は往来できるかという【天頂緯度測定】の一点に論点を絞って考えれば、至極簡単明瞭に真実が明らかになって片付くことができたのである。
 白石以来、学者たちが『魏志倭人伝』に加えた〔文献批判〕はすべて〔誤読〕であったのである。

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