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2012年7月16日 (月)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類の共通の敵である・33

 大津市で中学2年の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺したいじめ問題が騒がれている。
 このいじめ問題の根底には、日本人が日本人としてこの世に存在する絶対的条件である日本建国の〔愛〕の理念を失ったことが災いしていると考えられる。

 われら先人たちは日本国が誕生するときに伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を、この世における最も重大な真理であると定めることを願いつづけた。
 先人たちは250年ころから1738年まで、およそ1500年の長い間、日本建国の〔愛〕の理念を最も重大な真理であると定めることを、天皇と皇室に求めつづけた。
 この1500年にも及ぶ長いあいだ、先人たちが〔愛〕の理念を求めた歴史が教育の現場で語られていたならば――日本人は〔愛〕の理念のために生きているんだ、日本民族は〔愛〕の理念のために存在しているのでという日本人の精神性が教育現場に蔓延することになるから、いじめに対する憎悪が教育界を支配して、いじめ問題を解決する最強の手段になるにちがいない。

 日本人がとって、なんびとにも奪われていけない歴史があった。
 日本民族にとって、決して失ってはいけない歴史が存在した。
 この歴史は、日本国誕生史である。
 日本国誕生において、伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。
 1738年、『古事記』上巻に記述された伊耶那岐命と伊耶那岐命の説話は真実の歴史であると表示して、並々ならぬ決意のもとに霊元(れいげん)上皇は皇室の最大の神事の大嘗会(だいじょうえ)を復興させた。

 復興された大嘗会において、即位する天皇の頭上に高々とさしあげられる王冠は、小国・日本の女王となった伊耶那美命が国作りの柱と定めた〔愛〕の理念を表示する。
 天皇の王冠は「日本建国の〔愛〕の理念を失ったならば、日本人は日本人ではなくなる」と表示する。
 言い換えると、天皇の王冠は「いかなる強大な権力よりも、いかなる理念よりも、日本人にとって最もすぐれる真実は日本建国の〔愛〕の理念である」と表示する。
 今上陛下も、「日本建国の〔愛〕の理念こそ、最も強大な権力よりもいかなる思想よりも優る真実である」という儀式をおこなって天皇に即位した。

 天皇の王冠は上下二つの飾りからなる。
 天皇の王冠の上の飾りは〔愛〕の理念が提唱された歴史を知ることができる基礎知識となる〔夏音(かおん)文字の学芸〕をデザインするものとなる。
 天皇の王冠の下の飾り、すなわち即位する天皇の直接的な頭上となる下の飾りは“菅(すげ)”とよばれる野草で作られる笠(かさ)である。
 この天皇の王冠の下の飾りの管笠(すげかさ)は「水器(すいき)」または「水玉(みずたま)」と呼ばれる神具の蓋(ふた)をデザインするものであるので、天皇の王冠は「菅蓋(かんがい)」という名称となる。

 学者たちは、天皇の王冠によって表示された、日本人にとって最も大事な真実である歴史である夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を“文献批判”という方法を用いて抹殺した。
 もしも学者たちによって、この真実の歴史が抹殺されていなければ、学校現場では日本建国の〔愛〕の理念が絶対的な掟となり、教師たちはさまざまな価値観にあって日本人にとってなによりも最も大事な抜きん出て優る思想と精神は日本建国の〔愛〕の理念であるという信念を抱くことができ、いじめは〔愛〕に反する背信行為であると教育理念のもとにいじめ対策に対処できるにちがいない。
 この点からして、学者たちの“文献批判”という愚劣きわまりない「誤読の空論」をもって真実の歴史を奪った行為は、明らかに重大な犯罪行為と言わざるをえない。

 卑弥呼が登場する史料として有名な『魏志倭人伝』は、いくつかの記事をもって「2世紀末から3世紀半ばの倭には文字があった」と証言する。
 わが国の古代史学界は、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀であると定める。
 このため、『魏志倭人伝』の倭に存在したと証言するまた人名・小国名の証拠となるすべての記述は、日本古代史学界の定説は完全に誤っていると否定されることになった。
 これゆえ、学者たちは『魏志倭人伝』の倭の文字についてのすべての記述は“絶対に信用してはならない”と定める。

 『魏志倭人伝』には「倭の易に用いる卜辞は令亀(れいき)の法のごとしであった」、つまり「倭には殷代の亀の甲羅に刻む甲骨文字のごとくの文字と同じような文字があった」と書く記事がある。
 また、『魏志倭人伝』には「倭と魏の都や朝鮮半島の魏の出張機関がある帯方郡や諸韓国と交わす文書の漢字は差錯(ささく・相違)していたので、この文字の字義の相違によって生じる誤解が原因となるトラブルをふせぐために、倭の小国である伊都(いと)国の港で点検して、女王・卑弥呼の手もとに届いたときに間違いがないようにしていた」という、「倭に文字あった」と明記する記事が存在する。
 このほか、卑弥呼はじめとする人名と小国名に用いられる文字はわが国に確かに夏音文字があったと証明できる証拠資料となる。

 この『魏志倭人伝』の「倭に文字があった」という証言や証拠資料は世界史的にもきわめて重大なものとなる“人類共通の宝”である。
 なぜ“人類共通の宝”と讃えられるほど重大かと言えば、『魏志倭人伝』の人名と小国名に用いられる夏音文字と「夏音文字が存在した」と明記された証言は、中国の古代漢字や古代エジプト文字はじめとする地球上の【世界の古代文字】は【銀河各部の形状】であったことが科学的に確かに事実であると証明できる、おそらく現在において日本だけに唯一残って存在することになった貴重な史料だからである。

 全人類に共通した精神性というのか物欲と言うのか、その根底にあるものは独占欲なのかは、わたくしにはそれがなんであるのかよく理解できないが――銀河各部の形状を図案して作った文字は人類最大の偉大な発明となったのである。
 というのも、中国でも古代エジプトでも、文字の発明は神と直接する対話の方法、強大な権力を手に入れる方法、莫大な富を確保できる方法、最高の名誉を得る方法であったからである。

 帝王や王朝は文字の学芸を反体制側が手に習得して革命や反乱に利用したならば、容易に王朝は崩壊して滅亡すると警戒した。
 そこで、帝王や王朝は文字を独占管理して厳重な機密にした。
 この結果、銀河各部の形状から文字を発明した古代王朝は、〔文字が銀河各部の形状から図案された秘密〕を守る方法として一様に銀河各部に名称をつけなかった。
 このために、現在においても、不明確な形の星座には名称があっても、星座よりもはるかに印象的で鮮明な形を有する銀河各部には名称が存在しない。
 「古代エジプト文字」はギリシャ語で「ヒエログリフ」と称されるが、古代エジプト人は自らの文字を「メドゥウ・ネチェル」すなわち「神の言葉」と呼んでいた。
 この「神」は「古代エジプトの天頂にめぐってくる銀河」であり、古代エジプト人が「神」と呼んだ銀河全域からすべての漢字が作られた。
 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の口絵となる資料Bの「秋の銀河と夏の銀河」が古代エジプト人が呼ぶ「神」である。
 この本の資料Cは、私が名づけた漢字と古代エジプト文字などの世界各地の古代文字となった銀河各部の名称である。
 下に、拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の口絵となる資料Bの写真と資料Cの私が名づけた銀河各部の名称を表示した。

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 エジプト神話は古代エジプト文字は神(銀河各部の形状)から作られたことを表示するために、銀河各部の形状を神として語るものであったのである。
 エジプト神話は「神」と「文字」は異なるものという考えを利用して、反体制側の人々が「文字」と「神の言葉(メドゥウ・ネチェル)」はまったく別物だと考えさせるための工夫であり手段であったのである。
 その証拠に、現代においても学者たちは「文字」と「神の言葉」は別物と考えて古代エジプト文字が銀河から作られたことをまったく知らない。
 わたくしのブログ〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は“世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕のシリーズの1回から43回までのうち、14回~35回までで古代エジプト文字が銀河から作られた証明を解説したので、参照していただきたい。

 エジプト神話は、その秘密を厳重に守るために銀河各部の名称をつけなかったために、銀河各部の名称の代用として考案したものがエジプト神話であった。
 ゆえに、王と神官と書記は次から次へと神話を作って銀河各部の形状から作った文字数を増やした。
 古代中国でも古代エジプトと同じく、文字が銀河各部から作られた秘密を暴露した者は即刻死刑とされた。
 現在にいたっても、世界中さがしても銀河各部に名称が存在しないのは、世界各地の文字は一様に銀河各部から作られたという歴史の名残りである。
 この秘密が科学的に具体的に完璧に解明できる唯一の国が、わが国なのである。
 

 「わが国に夏音文字が存在した」と現在に伝える文献は『魏志倭人伝』でけでなく、『古事記』序と上巻も伝える。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く多数の1字1音文字が記載される。この現存する多数の文字が夏音文字である。
 『古事記』の序は冒頭部で「わが国に神産巣日神(かむむすひのかみ)の時代、すなわち今から約4050年前の中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭に、【銀河各部の形状】が【文字】となる夏音文字が伝来した」と難解な文章で証言する。
 そして、漢字の歴史は中国の五帝時代の刻木(こくぼく)、そして夏王朝2代帝王となった孫の王子と益氏の若者たちが日本列島に移住して夏音文字を根付かせた。
 以来、わが国では【銀河各部の形状】を【文字】とする夏音文字で止まっていた。
 それというのも、わが国に伝来した夏音文字は、“漢字の始祖”と崇拝される刻木を考案した五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が定めた――【文字】は【銀河各部の形状】とする。ゆえに、【文字】となる【銀河各部】には名称を付けない。【銀河各部の形状】を表現する図書すなわち刻木を書いて用済みになったならば、その刻木を必ず消さなければならない。この刻木を消し忘れた者は王朝の滅亡をはかる大罪人として直ちに死刑にする――と厳重に定めた掟をまもったいたからである。
 このために、夏音をあらわす銀河図書は地面・獣骨・木板などに書いてもすぐ消されるものであったので、出土して発見されないことになった。
 したがって、夏音をあらわす銀河図書すなわち通称“夏音文字”はわが国に伝来しなかった学者たちは早合点したのである。

 本来、今日の学者はじめわれわれが呼ぶ“文字”と呼ぶものは、「文字」と定義すべきものではなかった。
 倉頡は[文]という字をあらわす銀河部を定め、[字]という字をあらわす銀河部を定めて、【文字】は【銀河各部の形状】と定義する漢字作成原理「鳥獣の文」(「鳥獣の足跡」ともいう)を発明した。
 われわれが“文字”と呼ぶものは「偽りの文字」であった。というのも、[偽]の字が明確に示すように「人が為(つく)る銀河図書。人が為(な)す天文図書」であった。
 倉頡は、[文]の字源となった銀河部を「多数の文字を生む母」に見立てて、[字]のウ冠=[宀(べん)]は「すべての文字を生む子宮(すなわち、鳥獣の文)」、[宀]の下の[子]は「【銀河各部の形状】の【文字】」と定めた。
 また、[偽]の字源(字)となる銀河部は「書く」の[書]の字となる銀河部より外側の銀河部と定められて、現在のわれわれが「文字」と呼ぶ書いてあらわす記号は「偽りの文字」、【真の文字】は【銀河各部の形状】と区別された。
 このように原初漢字における【真の文字】は【銀河各部の形状】という考えに対して、古代エジプト王朝は【銀河各部の形状】を“神”と呼んで「文字」を【神の言葉(メドゥウ・ネチェル)】と称して、文字が銀河各部の形状から作られたことを厳重な機密としたのである。

 倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」と倉頡の【真・偽の文字】の定義の秘密はわが国では科学的に証明できるが、倉頡が生存した漢字の原郷の中国では科学的の証明することも解明することもできない。
 というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に「わが国に夏音をあらわす文字が存在したと」記載され、わが国には科学的に証明できる幾つかの史跡・遺跡・遺物が存在するからである。
 これら史跡・遺跡の代表的な❶秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)、❷『魏志倭人伝』と同時代に作られた静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、❸京都市右京区に所在する枯山水の平庭で有名な竜安寺(りょうあんじ)の石庭、❹1603年に着工して1622年に完成した現在の彦根市の行政区域をあらわす地図の形となる3千万坪の「夏音は習わず」と設計する大鳥の地上絵、❺将軍秀忠と江戸幕府から命令された伏見奉行の小堀遠州が1623年から1645年に病床に伏すまで情熱を傾けて作った桂離宮の庭園などである。
 他方、中国においてはそのような史跡・遺跡が存在しないと考えられる。

 というのも、わが国で【銀河各部の形状】が【夏音文字】であった間に、中国では甲骨文字、金文、篆文(てんぶん)、隷書、楷書というぐあいに、より短時間で表記できる簡略字である偽の文字が次から次へと考案されたからである。
 そして、いつしかこの「偽りの文字」が「文字」や「漢字」と呼ばれるようになり、「真の文字」の【銀河各部の形状】は「文字」と呼ばれないようになった。
 現在では、「【真の夏音文字】は【銀河各部の形状】であった」と指摘すると、これから解説する趣旨が要領が得ない説明になってしまう。
 ゆえに、この現在の慣例にしたがって、以後は【銀河各部の形状】を図案した記号を「偽りの文字」ではなく「文字」と称することにする。

 中国の歴代王朝の帝王たちは刻木(中国では「刻木」を「書契(しょけい)」または「契刻(けいこく)と呼ぶ」)、夏音文字、甲骨文字、金文、篆文、隷書、楷書の区別なく、これらすべての文字の字形を倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」の原理原則をまもって、【銀河各部の形状】から図案するものと定めて、より速く書くことができる文字の簡略化を努めた。
 このように、時代とともに中国で進化したのは〔より早く書くことができる文字の簡略化〕であって、このように進化しても紀元前21世紀の五帝時代初頭の原初漢字の書契から6世紀の隋代に完成した楷書まで、【文字】の図案モデルは【銀河各部の形状】は不変でまったく変わらなかったのである。
 このために、「【すべての文字】の字形は【銀河各部の形状】である」という学理が成立することになった。

 つまり、バラの花を時間をかけて描いた細密画のバラの絵も、抽象的に一分足らずでスケッチしたバラの絵も、「バラの花」をモデルとするものとなる。
 同様に、具象的な段階の象形文字の夏音文字も後世に考案された少し抽象的になった簡略字の楷書も同一の【銀河各部の形状】をモデルにして作られた。
 だから、「【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」という学理が実存することになったのである。

 『魏志倭人伝』が「倭に文字があった」と証言する記述はじめ人名・小国名に用いられる夏音文字は倭女王・卑弥呼が書く倭の国書に用いられる文字であった。
 この卑弥呼が書いた文書の夏音文字を、『魏志倭人伝』は「伊都国の港で魏・帯方郡・諸韓国の人々が読める楷書に改めた」と伝える。
 だから、倭には確かに夏音文字が存在したことになる。
 
 つまり、夏音文字も楷書も【銀河各部の形状】をモデルにして作成されるものであってゆえ、銀河を辞典にすれば伊都国の港において卑弥呼が書く夏音文字を魏・帯方郡・諸韓国の楷書に正しく改めることができたのである。
 だから、倭には確かに楷書に翻訳することができる夏音文字が存在したことになる。
 というのも、【すべての文字】は【銀河各部の形状】という学理は実在するものであったので、伊都国の港において夏音文字を楷書に改めて誤訳・誤解が生じないことができたのである。
 だから、学者たちがもしも“卑弥呼はじめとする人名・小国名に用いられる文字は楷書で表記されるので、楷書は楷書であって、夏音文字ではない”と反論しても、その論理はまったく成立しない口から出まかせの出鱈目(でたらめ)ということになる。
 というのも、上記の5つの史跡は「【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」という学理が存在したとを明示するものであり、この5つの史跡によって『魏志倭人伝』の「卑弥呼が用いた夏音文字を、伊都国の港で魏・帯方郡・諸韓国の楷書に誤訳・誤解が生じないようにすることができた」という説明は銀河を仰ぎ観れば成立したことが事実として証明できるからである。

 だから、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音の夏音文字はすべて楷書で表記されているが、“夏音文字と楷書は別物だから、夏音文字は存在しなかった”という短絡的な理屈はまったく通用しないので、わが国に確かに夏音文字は存在したことになる。
 『古事記』が完成した712年の10年前の702年に中国に渡った日本国の遣唐使は、中国王朝に「後稍(のちやや)夏音を習い云々」と述べた――という記事が、中国の正史『新唐書』日本伝にある。
 この日本国の遣唐使の「後稍夏音を習い……」という証言のとおり、壬申の乱の後、稍々すなわち〔音〕という注を付けて所々に夏音文字を習う(復興する)文献である『古事記』上巻が著作された。
 

 『新唐書』日本伝に――日本国の遣唐使が「わが国には夏音があった」と述べた――と記載された秘密は、『魏志』倭人伝が幾つかの記事群で「倭に文字があった」と伝える記述に共通し、卑弥呼はじめとする人名・小国名として現存することになった夏音文字である。
 この夏音文字について、『古事記』の序の末部は――楷書の「日下(にちげ)」は楷書で表記する夏音文字文字の「玖沙訶(くさか)」であり、楷書の「帯(たい)」は楷書で表記する「多羅斯(たらし)」である――説明する。
 この説明の先頭に「辞理(じり)」という語が登場する。
 この「辞理」は「【文字とことば】すなわち【辞】の原理は【銀河各部の形状】である」と表示するものである。
 ゆえに、『古事記』序の「辞理の見えがたきは、注を以ちて明らかにする」という文は「銀河各部の形状を具象的に表現する夏音文字と銀河各部の形状を抽象的に表現する簡略字の楷書の区別もなく、【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」と説明していることになる。

 学者たちが“文献批判だぜー”というお呪(まじな)いを使って“『古事記』序にそんなことは絶対に書いていない”と眼くじらを立てこめかみに青筋を立てて憤って否定するにちがいない。
 しかし、この学者たちの反論は無駄な抵抗である。
 上記の❶大湯環状列石、❷細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、❸竜安寺の石庭、❹彦根市の「夏音はなわらず」と設計する3千万坪の地上絵、❺桂離宮の庭園は、われわれに直接的に「【すべての文字】は【銀河各部の形状】だぜー」と学者たち頭ごなしに彼らの意見は根も葉もないウソ八百であると暴露してくれるからだ。
 つまり、上記の「【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった」という秘密を保存する5つの史跡によって、学者たちが『魏志倭人伝』と『古事記』序の全文を正しく読解できる能力をまったく有していない実態が明らかとなる。

 上記したように、この文字の秘密は世界史的にもきわめて重大な問題で、上記の日本の史跡によって、紀元前32世紀ころに出現した古代エジプト文字、紀元前20世紀ころに考案されたABCアルベットのルーツと指摘されるワディ・エル・ホル文字、紀元前16世紀ころから起源した原シナイ文字、紀元前11世紀ころから出現したフェニキア文字など、現在の世界の8割から9割の人々が使う文字の先祖となる【すべての古代文字】は【銀河各部の形状】から作られたことが事実となる。
 だから、『魏志倭人伝』と『古事記』序と上巻にきっちと明記された真実を、世にもくだらない“文献批判”という誤読で「わが国には夏音文字が無かった」と結論づけたわが国の学者たちのウソ八百は世界の人々をも侮辱する人類共通の敵となる。

 古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが文献批判した意見は誤読にもとづく空想であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。

 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は紀元前850年ころに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』の記述された。学者たちは文献批判を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史でない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。
 したがって、学者たちの文献批判による意見こそが空想であったと証明された。
 シュリーマンのトロイ遺跡発見が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実と証明できる、上記の赤い大きな字で示したとおりの絶対原理が存在する。

 同様に、上記の5つの史跡が明確に示すように、日本古代史には「【銀河各部の形状】は【文字とことば】すなわち【辞】の原理となる」という絶対的原理が存在し、「【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」という絶対学理が実在した。
 この事実は、上記の5つの史跡で科学的に証明できる。
 わが国で最初に漢字を習得したのは5~6世紀という定説は文献批判して捏造した根も葉もない誤読の空論であり、妄想であったのである。
 上記の5つの史跡は『魏志倭人伝』と『古事記』序と上巻が説明するすべての記事に対して合理で合致する。
 しかし、学者たちが文献批判して否定した意見は『魏志倭人伝』と『古事記』序と上巻の各部の記事に対して多くの矛盾と不合理を有する【科学】がまったく成立しない支離滅裂な意見である。
 『魏志倭人伝』と『古事記』序と上巻が指示するように、また5つの史跡が表示するように、『魏志倭人伝』と『古事記』序と上巻のすべての文字を銀河各部の形状に直すと歴史の真相が鮮烈によみがえる。

 天照大御神を皇室の至上神と崇拝する天皇と皇室は、下記の『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話に記載された、天照大御神の聖性をいちじるしく汚す史実を抹殺しようと躍起になった。
 『古事記』編纂スタッフは、天皇・皇室がいくら抹殺しようと躍起になっても天に輝く【銀河各部の形状】は消滅することができないので、【すべての文字】が【銀河各部の形状】の基礎知識となる夏音文字を利用して、後世に真実の歴史を解明する方法を『古事記』序で解説したのである。

 『魏志倭人伝』の末部は「卑弥呼がすでに死ぬ。大きな墓を作る。円墳部の直径は百余歩(約150m)。奴婢(ぬひ・奴である18歳くらいの青年と婢である13歳くらいの乙女)を百余人殺して、卑弥呼の墓に葬る徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。卑弥呼の後に男王を倭王に立てたが国中の人民は徇葬を憎悪して、倭王に服従せず武器を持って立ち上がって王朝軍と戦った。この戦いにおいて王朝軍は千余人の反乱者を殺した。また、倭王朝は13歳の時に卑弥呼が率いる巫女界の代表して倭国に服属することになった新生小国・日本国の女王として赴任させた壱与(いよ)を引き戻して、倭女王に立てると国中の反乱が遂に鎮まった」と説明する。

 そして、編纂スタッフが天皇と皇室の欲求に逆らって真実の歴史を伝える『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――日本軍の軍王である伊耶那岐命の正妃は伊耶那美命であり、第二后が天照大御神であった。政事は強大な権力こそ最も重視しなければならないと考える天照大御神は小国・日本で壱与すなわち伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を憎悪し敵視した。この〔愛〕の女王の壱与・伊耶那美命が没して墓が黄泉国すなわち熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に作られたとき、倭女王に就任した天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は伊耶那美命の遺志を無視して、人民が憎悪する多数の青年と乙女たちを殺す徇葬を決行して、その奴婢たちを伊耶那美命の墓に埋葬した。夫の伊耶那岐命は夜を待って配下の日本兵とともに伊耶那美命の墓の玄室に侵入して伊耶那美命の亡骸が納まる棺を奪うクーデターをおこした。伊耶那岐命は伊耶那美命の墓を守衛する倭王朝の大軍が逃げる伊耶那岐命一行の松明(たいまつ)の灯で追跡できる作戦を立てて、倭王朝軍を黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(現在の熊野速玉大社の境内)まで誘導して、待機する日本軍の本隊と熊野に住む戦士たちを指揮して倭王朝軍を撃破してクーデターを成功させた。捕虜になった天照大御神は黄泉比良坂(現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社の参道・熊野速玉大社の真南に所在する)の道を塞(ふさ)ぐ神倉神社の御神体となる千引(ちびき)の石(いわ・現在は“ごとびき岩”と呼ばれる)の前で、伊耶那岐命に離縁を言い渡された。この離縁の言に怒った天照大御神は「〔愛〕の理念を尊重する人々の母親たちの産道を狭くして、一日に千人の胎児の頭が狭い産道で絞め殺されるように、日々神に祈って祟(たた)ってやる」と誓った。伊耶那岐命は「吾は亡き妻の伊耶那美命がとなえた〔愛〕の理念を受け継ぎ、人民が一日に千五百の産屋を立てるようにする」と誓った。これゆえ、神倉神社の主神は天照大御神となり、天照大御神は“黄泉(よもつ)大神”とか“道敷(ちしきの)大神”などと呼ばれるようになったた――と記述する。

 このように『魏志倭人伝』の末部で登場する反乱を鎮めた倭女王・壱与の愛称は「伊耶那美命」であった。したがって、「壱与」は夏音名ということになる。
 13歳で小国・日本の女王となった壱与・伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定めた。
 だから、愛の女王・伊耶那美命が倭女王に就任したゆえ、反乱者たちは彼女ならば必ず残虐な徇葬を禁止するにちがいないと信じて武器を捨てたので、伊耶那美命の倭女王就任によって倭の国中の反乱は鎮まったのである。
 『古事記』を旅行カバンに突っ込んで熊野速玉大社とその真南の神倉神社を訪問すれば、黄泉国の伊耶那美命が伊耶那岐命に離縁された千引の石の前は、『古事記』の記述に合致する現在の神倉神社の御神体の“ごとびき岩”の前であると確信できる。
 熊野速玉大社には伊耶那岐命と伊耶那美命が祭られ、上記の❹の彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵に隣接する多賀町に所在する多賀大社の主神は伊耶那美命と伊耶那岐命となって合祀されるから、伊耶那美命は伊耶那岐命に離縁されていない。
 しかし、熊野速玉大社の起源を伝える『熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)』は「神倉山から現在地に移して伊耶那岐命(熊野権現)を祀ったから、速玉大社の地名は“新宮”と号することになった」と伝える。
 このように、始めは神倉山にある千引の石の前の歴史を後世に伝えるために、千引の石・神倉山(のちの神倉神社)に天照大御神と伊耶那岐命は合祀されていた。しかし、離縁した夫婦が合祀するのは不合理ということで、伊耶那岐命が指揮して倭王朝軍を撃破した黄泉比良坂の坂本=熊野速玉大社に伊耶那岐命を祭って地名を「新宮」とし、神倉山に天照大御神だけを祭ることにして現在に至った。
 ゆえに、伊耶那岐命が天照大御神に離縁を言い渡した場所は神倉山のごとびき岩(千引の石)の前、現在の神倉神社の社殿が建つ場所ということになる。

 『古事記』上巻に記述された伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の真相は、すべての文字を銀河各部の形状に直さなくても、熊野速玉大社と神倉神社を旅して『古事記』の文字面だけを読解する方法をもってしても、上記のごとく「黄泉国の伊耶那美命」は神倉神社に主神の皇祖・天照大御神であることは容易に理解できる。
 天皇・皇室が夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を1500年間も拒みつづけた原因は、夏音文字から【すべての文字】が【銀河各部の形状】であることが明らかとなると、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に書かれた皇室が崇拝する天照大御神が残虐な徇葬を決行し、ごとびき岩の前で「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と誓って日本建国の〔愛〕の理念を呪い祟り人民(人草)を苦しめたことが暴露されるからである。この天照大御神の呪いの言葉は、伊耶那岐命が「吾一日に千五百の産屋立てむ」と誓った言葉にある「産屋」と天頂にめぐってきた銀河部の形状から天照大御神は「日本建国の〔愛〕の理念を尊重するあなたの国の人々の母親の参道を狭くして、この狭い産道で一日に千人の胎児の頭が絞め殺されるように神に祈る」と意味することになる。
 このように、世界中の古代文字によっても成立する【すべての文字】は【銀河各部の形状】である学理によって、上記に示したように千引の石の前に誓った天照大御神の呪いは正確に解釈できるようになる。

 中国の正史『新唐書』日本伝は――『古事記』が完成した10年前の702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍夏音を習い、倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。云々」と述べた――と記す。
 壬申の乱の後、天武・持統の両天皇が〔皇祖・天照大御神が残虐きわまりない徇葬を決行した歴史を削除し、また天照大御神が伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を憎悪し侮蔑して人々を苦しめたなどの聖性を汚すいっさいの歴史を削除して、天照大御神が夏音文字の学芸に精通していたことを強調するために、夏音文字を稍々習う(復興させる〉偽書を作成せよ〕と欲求した命令を、遣唐使は「後稍夏音を習い」という暗号のような意味不明な短い言葉で中国王朝に伝えたのである。

 史書編纂スタッフは命を賭けて天皇と時の律令体制に反逆して、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話で小国・日本の女王の伊耶那美命が〔愛〕の理念を提唱し、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話で天照大御神は徇葬を決行したと真実の歴史を記載した。
 史書編纂スタッフは強大な天皇の権力よりも伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念のほうが優っていると表示した。
 『新唐書』の「倭の名を悪み、あらためて日本と号す」という文は「人民は倭王朝がおこなった卑弥呼の墓を作った時と天照大御神が伊耶那美命の墓を作った時の徇葬を憎悪して、“倭”の国号を伊耶那美命が〔愛〕の理念をとなえた時の小国の“日本”に改めるように欲求した」と意味するものだったのである。
 上記の❷細江町の1千万坪の地上絵、❹の彦根市の3千万坪の地上絵、❺桂離宮の庭園は皇祖・天照大御神が徇葬を決行したことと千引の石の前における呪いの誓いに対する激しい怒りと怨念(おんねん)によって作成されたものである。

 13歳の伊耶那美命が小国・日本に赴任したのは、233年ころであった。彼女が倭女王に就任して、徇葬を憎悪する反乱が鎮まったのは250年ころであった。
 以来、約1500年後の1738年まで、皇室は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の抹殺に躍起となり、熱き魂から熱き心に受け継いで先人たちが要求する夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を拒みつづけてきた。
 夏音文字によって【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった学理・真実が明らかになると、皇祖・天照大御神が決行した徇葬はじめとする、その聖性を汚す数々の歴史が白日のもとにさらされる。
 だから、およそ1500年の間、先人たちは夏音文字と日本建国の〔愛〕の理念の復興をセットにして皇室に欲求した。
 したがって、1738年の霊元上皇の大嘗会を本格的に復興して、即位する天皇の王冠の意匠で夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興を表示する考えは、上皇である以前に一人の人間に立ち返ってヒトとして行わなければならないと使命にもとづく、霊元上皇の並々ならぬ決意であったのである。
 現在において死語となる「倫命(りんめい)」という語は「人間として実行すべき使命」と意味するが、現代においてももとより教師にも「倫命」は存在するものであって、いじめの責任は教育者が取るものであって絶対に逃れることができる問題ではないのである。

 刻木が用いられた五帝時代初頭から隷書が考案された秦代まで、中国とわが国の天頂に「文字」の[文]の字となる銀河部がめぐってきた。
 この[文]の字となる銀河部は[大]と[丈]と[夫]の3字の銀河部でもあった。
 この[大・丈・夫]の銀河部における天頂点を重なる部位をキャッチすると精密に緯度と子午軸が測量できたので、大海を往来することができた。
 だから、日本語の「大丈夫」の語源は「天頂点をキャッチする眼力と技術をバッチリ体得したから、大海原で迷って漂流して藻屑(もくず)となって命を失うようなことはないので、必ず家族が待つ家に帰ってくるから心配無用である」であった。それゆえ、今日の「大丈夫」は「心配無用」と意味することになった。
 『魏志倭人伝』に「昔から、倭の使者たちは中国に到着すると皆自ら“大夫”と称する」という記述がある。この文に登場する「大夫」の2字の中間に[丈]という字を挿入すると「大丈夫」となる。これゆえ、「大夫」という語で倭の使者たちは「中国と日本列島の間の大海を往来できる天頂点をキャッチできる眼力と技術を身につけている」と自慢するものであったことになる。

 [文]、[大]、[丈]、[夫]の字となる銀河部は股を開いて[大]字形となる人の正面形と背面形に相似する。
 この[大]字形となる、開く股の左(東)の足は細く長く、右(西)の足は太く短い。
 この[大]の字形の西半分は、右(西)の腕の下の胸部に乳房そっくりに観える「M39」と天文学で呼ぶ散開(さんかい)星団があり、腰の部分の女性の子宮に相当する部分に指が3本の足のような形あるいは隹(ことり)の側身形をのような形をした銀河部があるので、太くて短い右(西)の足は妊婦のおなかのようにも観える。
 これゆえ、“漢字の始祖”と崇拝された倉頡は「すべての漢字を生む母」を[文]や[大]の字となる銀河部と定めた。
 そして、女性の生殖器は隹・小の側身形に相似し、子宮に宿る胎児はのジャコウウシの姿に相似し、また出産する胎児は逃げるのウサギのように猛スピードで産道を潜らないと誕生することができず、「すべての漢字を生む母」となる銀河部は[]の字となったので、倉頡が発明した漢字作成原理の名は「鳥獣の文」と称されることとなった。
 上記したように、「鳥獣の文」となった「すべての漢字を生む母の子宮」に見立てられた銀河部は3本指のの形に相似し、太くて短い右のにも観え妊婦のおなかの部分にわずかに外れて重なるように所在するので、倉頡伝説においては漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と呼ばれることになった。

 「すべての漢字を生む母の子宮(鳥獣の文)」となる[隹]の字となる銀河部は[字]のウ冠の[宀(べん)」となり、この[宀]の接する西隣の帯のように観える銀河部と連結する西側の銀河部は出産する胎児に観える。ゆえに、[字]の[宀]の下の[子]は「出産する胎児に観える銀河部」となった。
 このように、人間の正面形や背面形にそっくりの印象深い銀河部が天頂や時代が下ると天頂付近にめぐってきたので、銀河を仰ぎ見れば[文]の字となる「すべての漢字を生む母の銀河部」と、[字]の[宀]の字となる「漢字を生む子宮となる銀河部」と、[子]の字となる「出産する胎児に観える銀河部」によって、『古事記』序は【すべての文字】は【銀河各部の形状】であるという学理が実在するものであると目撃できて確信できたのである。

 「すべての漢字を生む母の銀河部」の東隣には円い「日輪」のような銀河部があり、「すべての漢字を生む母の銀河部」は[大]の上に[一]を加えた[天]の字となることも直ぐに察知でき、[子]の字となる「出産する胎児の観える銀河部」は「地上から天頂点をキャッチする人」に観える。
 楷書の「日下」にするには「日輪のような円い銀河部」を上にし「すべての漢字の母となる銀河部」が下になるようにしなければならない。
 このように「日下」の銀河の形状は〔天頂点をキャッチするときの人の正しい姿勢〕をあらわすことになる。
 天頂点をキャッチするとき、明るい光が瞳に入ると暗い銀河部がよく見えなくなるので、瞳孔の直径を最大7~8mmに拡大するために暗い木陰や草の下に隠れて天頂を見上げた。だから、夏音文字の「玖沙訶」は「草下(くさか)」であったのである。
 [玖沙訶]の[訶]の字義は「うた(歌)」である。[子]の字となる「出産する胎児のようにも観え、天頂点をキャッチする人のように観える銀河部」の開いた口に「漢字を生む子宮となる銀河部」から帯のような銀河部が垂れる。この「帯状に垂れる銀河部」は「歌」のイメージに合致するから、[訶]の字は「帯状に垂れる銀河部」となる。
 「帯状に垂れる銀河部」は「天から降る雨」にも観え、さらに〔雨が地上の河となる〕というイメージからして、「帯状に垂れる銀河部」は[可]と[河]の字となる。
 『古事記』序は楷書の[帯]は夏音文字の「多羅斯」であると指摘する。
 「帯状に垂れる銀河部」からして「多羅斯」と「垂(たら)し」であると察知できる。
 このように、楷書の「日下」は夏音文字の「玖沙訶」、楷書の「帯」は夏音文字の「多羅斯」という指摘は、【すべての文字】は【銀河各部の形状】であるという学理を解説するものであったのである。

 「多羅斯」を「垂し」と解釈すると、「太くて短い右足や・妊婦のおなかに観える銀河部」は古語の「垂乳根(たらちね)」の「母親の豊かな乳房」に観える。
 「すべての文字を生む母の銀河部」は[大]の字となり、「出産する胎児のように観え、また天頂点をキャッチするように観える銀河部の口の部分」は〔垂乳根の母の乳房が授ける乳を嘗(な)める口〕となる。この[大]の字と「嘗める」の[嘗]に2字は「大嘗」となる。
 だから、天頂付近にめぐってくる銀河を仰ぐと、天皇が即位するときにおこなわれる皇室の最大の神事の「大嘗会」は精密な天頂緯度測定(天頂点のキャッチ)を最も重視した夏音文字の学芸と、〔母親が授乳する〔愛〕の光景〕から日本建国の〔愛〕の理念を復興する儀式であることが明確に示される。
 
 その証拠に、この大嘗会において用いられる天皇の王冠の上の飾りは夏音文字の学芸を表現し、下の飾りは「水器の蓋」で日本建国の〔愛〕の理念を表現するものである。

 水器は多くの家々の神棚(かみだな)の中央で、ちょこんとすわっている神具である。
 それは、まるで白い花のように愛らしい神具である。
 水器は「〔愛〕の女王・伊耶那美命」を象徴する神具である。
 天皇の王冠は「水器」が「伊耶那美命」を象徴するので、下の飾りを水器の蓋を造形したのである。
 日本人は、神棚に置かれる「水器」が「伊耶那美命」を象徴することも、日本建国の〔愛〕の理念を造形することも知らない。
 また、「水器」は倉頡が定めた「すべての文字を生む母の子宮となる銀河部」の造形物であることも知らない。
 

 天皇の王冠を注目すると、毎朝、水器に入れるい水を取り変える、この水は子宮に宿る胎児の命をまもる「羊水」をあらわしていることを知ることができる。
 水器は妊婦の円いおなかをあらわし、また子宮・卵管・卵巣・産道などからなる女性の生殖器をあらわす。
 水器の蓋は、乳房にそっくりである。
 水器の蓋を指でつまむ突起部分は乳首となる。
 この乳首の部分は長く突起しているが、この乳首の先端となる「つまみの先端」は「天頂点」をあらわすものとなる。
 ゆえに、乳首の根もとを中心にして同心円の溝(みぞ)が彫られている。この「溝」は「天頂点から外側にひろがる緯度の目盛」となる。
 日本語の「大丈夫」という語に秘められているように、『魏志倭人伝』が大半の記事で明確に伝えているように、夏音文字の学芸は〔精密な天頂緯度測定〕を基軸として体系づけられた学芸である。
 だから、天皇の王冠と同じく水器は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念をあらわす日本人の命と魂の根元を示していることになる。
 したがって、「水器」は「神棚に飾られる天皇の王冠」ということになる。
 水器は、学者たちが主張する邪馬台国説と日本神話虚構説は文献批判に用いてデッチ上げた根も葉もないウソ八百であり、詐欺であると告げている。

 古代史学には「真実」であると断定できる絶対原理が存在する。
 この絶対原理は証言と証拠の合致によって犯罪や事件の「真実」を突き止める方法にも共通する。
 というより、古代史学における「真実」の絶対原理はこの世の万事の「真実」と共通する。
 先人の文献に記述された証言を、後世の学者が“絶対にウソである。絶対に信用してはならない”と言い張っても、先人が作った文献の記述に合致する史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、後世の学者たちが文献批判して否定した意見は空想・妄想であったことになる。
 上記の❶国の特別史跡の大湯環状列石、❷静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、❸竜安寺の石庭、❹彦根市の「夏音はならわず」と設計する3千万坪の大鳥の地上絵、❺桂離宮の庭園の5つの史跡によって、学者たちが文献批判で否定して主張する邪馬台国説と日本神話虚構説は完全なる誤読の空論であり、空想であり、妄想であったことが否定できない事実となる。
 この結果、文献批判で立論した邪馬台国説と日本神話虚構説は天皇の王冠と水器の造形で表示された日本人が日本人として生きる権利を奪うものであり、日本人の命の根元と深い魂を奪う、それは“大犯罪”というべきミスであることになる。
 そのミスの最大の原因は、学者たちが“文献批判”とよぶ【誤読】である。
 この【誤読】によって、われわれは1500年間も先人たちが欲求した願いと真実と日本人としての理念を失ったのである。
 この問題は歴史学に限られた問題ではなく、学者たちが文献批判を用いて日本人が日本人として生きる権利を奪った大犯罪であると同時に、世界の文字の起源を闇に葬るという重大な犯罪ということになる。

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