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2012年8月14日 (火)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・37

 前回に続いて、学者たちが【誤読】でデッチあげた邪馬台国説と日本神話虚構説は“日本”と“日本人”を消滅するにちがいない、とんでもない祟りであり・妄想であることについて証明する。
 『魏志倭人伝』と『古事記』序と上巻には、学者たちが【誤読】で排除した共通した重大な史実が三つ存在し、そのうちの❷つ目の〔卑弥呼が立論した転回日本列島地理〕の秘密について解説する。

❷ 『魏志倭人伝』は幾つかの記事で〔卑弥呼が立論して倭王朝が制定した転回日本列島地理〕について説明する。
 この〔転回日本列島地理〕は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部にも記述されている。この記事の存在については、学者たちはまったく知らない。
 邪馬台国説学者たちは【誤読】(文献批判)を用いて〔転回日本列島地理〕は実在しなかったと推断するが、『古事記』上巻にも〔転回日本列島地理〕に関する記事が存在するということについて知らない。『古事記』上巻にも〔転回日本列島地理〕が記述されている、この事実は〔転回日本列島地理〕は倭の卑弥呼王朝が制定した地理観であったと考えるべきことになる。
 そして、『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作られた、現在の静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を示す地図の形として残った1千万坪の大鳥の地上絵によって、〔転回日本列島地理〕は卑弥呼王朝が制定した実在した地理であったことが明確に証明される。

 この〔転回日本列島地理〕は〔中国と日本列島を隔てる大海の緯度と子午軸を精密に測定する方法〕と同一問題となる。
 いいかえると、なぜ倭の使節は大海を往来できたのか、なぜ魏と帯方郡の使節を大海を往来できなかったのか――この秘密に一点に絞って考えると〔転回日本列島地理〕は実在したと確信できて、学者たちが〔転回日本列島地理〕を説明する幾つかの記事は信用できないと主張する邪馬台国説は100パーセント【誤読】の空論であったことが簡単明瞭に事実となる。

 この事実は――この回の末部にて『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻から引用した「緯度の測定」における科学的な指摘(天文地理学における事実)によって証明される。

 『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記述は1箇所もない。
 『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した王国は「邪馬壱(やまい)国」であると表記する。したがって、「邪馬台国」は【誤読】となる。
 
 晋(しん)の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』魏書東夷伝の末部にある〔倭人伝〕を、通称『魏志倭人伝』と呼ぶ。
 『三国志』は陳寿(233-297)が晋の武帝の晩年である太康年間(280-289)において、著作郎(歴史編纂官)であった時に著作されたと考えられる。
 ゆえに、『魏志』倭人伝は280年~から289年までに著作されたことになる。
 古代史研究家の古田武彦氏は、『三国志』全体に出てくる「壹」(壱)86個、[臺](台)56個の文字を丹念に調べて、[壹](壱)を[臺](台)と誤記した箇所が1例もないと指摘した。
 だから、倭女王・卑弥呼が住んだ王国の名は「邪馬壱国」であり、「邪馬台国」ではなかったことになる。

 『魏志』倭人伝の対馬国から邪馬壱国までの旅程記事のおける各小国間の方位と里数(距離数)を簡単な日本地図上にあらわすと、邪馬台国説学者たちも指摘するように、〔東〕へ伸びる日本列島は〔南〕へ伸びることになる。
 15世紀初頭に作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」(龍谷りゅうこく大学図書館蔵)には、〔南〕へ伸びる日本地図が描かれている。
 この「混一疆理歴代国都之図」に描かれる日本地図は『魏志倭人伝』に記載されるすべての方位記事と矛盾しない――このことは多くの学者たちも認めている。

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 「混一疆理歴代国都図」の〔東〕に伸びるではなく〔南〕に伸びて、方位が時計まわりに90度変位する〔転回日本列島地図〕は、戦後、古代史家の肥後和男氏が発見し、次いで民族学者の和歌森太郎氏も気づいた。両氏は下記のごとくに推論を立てた。
 「この日本地図は、中国人が古くから日本の地理についてもっていた考え方かもしれない。これゆえ、『魏志倭人伝』の著者もこのような地理観をもっていて、それにわずらわされて倭国の中心である邪馬台国への道程を南のほうに求めたのであろう。」
 この肥後氏と和歌森氏の推論によって、『魏志倭人伝』の南へ伸びる転回日本列島地理は著者・陳寿の誤った地理観にもとづくものであると定められた。
 逆に、肥後・和歌森両氏の推論を正しいと定めないと、『魏志倭人伝』の記述は正しいことになり、邪馬台国学説は【誤読】の産物となる。
 ゆえに、転回日本列島地理は古くから中国人が持っていた地理観に影響された陳寿の誤った地理観であるとこじつけられることなったのである。
 しかし、“倭の卑弥呼王朝が制定するものであったから中国の人々も日本列島は〔南〕へ伸びると誤った地理観を抱いた”という仮説・推論も立てることができる。にもかかわらず、この仮説・推論を立てる学者は一人もいない。
 このため、『魏志倭人伝』が幾つかの記事で証言する転回日本列島地理は〔中国人が古くから日本の地理についてもっていた考え方に倣(なら)って陳寿が誤って抱いた地理観である〕という推論が定説化した。これゆえ、相変わらず“文献批判”という名で巧妙に誤魔化す【誤読】を用いて歴史上の事実であった〔転回日本地図〕は廃棄処分されてしまった。

 『魏志倭人伝』の〔転回日本列島地理〕を証言する数か所に分かれる記事は、相互に関連しあって一つの統合体を組織して、そのすべての各記事は合理となり矛盾点は一か所も存在しないので【科学】が成立する。
 歴史学では【科学】が最も優先され、【科学】が成立する記述は史実であると考えなければならないという鉄則がある。
 『魏志倭人伝』のすべての方位記事は【科学】が成立し、しかも『魏志倭人伝』のすべての方位記事は「混一疆理歴代国都之図」にある〔転回日本地図〕に合致して証言と証拠が合致する【科学】が成立する。
 
 そして、『魏志倭人伝』の他に『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部における宗像(むなかた)大社の三女神の記述は〔転回日本列島地理〕について記述するものであることが、上記した細江町の1千万坪の大鳥の地上絵によって明らかとなり、『魏志倭人伝』と『古事記』に記述された〔転回日本列島地理〕は万全完璧なる【科学】が成立する。
 この結果、「混一疆理歴代国都之図」の〔転回日本地図〕に対する「古くから中国人が抱いていた地理観の影響を受けた著者の誤った地理観」という意見は【誤読】の空論であったことになり、「倭の卑弥呼王朝が制定した地理観」であったと決定すべきことになる。

 九州の宗像(むなかた)市の宗像大社の三女神は〔転回日本列島地理〕を祭る神である。
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話において、宗像大社の三女神が登場する記事の後に、「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」という記事がある。
 この遠江国造の先祖の建比良鳥命は、陳寿とほぼ同時代に生存して、上記に記した、また前回〔36回〕で紹介した細江町の1千万坪の大鳥(カンムリカイツブリと鳰の合体形)の地上絵を作成した。
 この細江町の1千万坪の大鳥の地上絵は『魏志倭人伝』(280-289年ころに著作された)と同時代の260~290年ころに作られた。
 この細江町の1千万坪の大鳥の地上絵には、『魏志倭人伝』のすべての方位記事は【科学】が成立するので“正しい”と伝える。また、「混一疆理歴代国都之図」における〔転回日本地図〕は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部にて表示される〔転回日本列島地理〕を伝えるものとなる。このように、細江町の大鳥の地上絵には、卑弥呼王朝が制定した実在した地理であった事実が約1700年後の今日でも実際に目撃できるように地図化されている。
 また、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話における宗像の三女神の秘密が明らかとなる細江町の1千万坪の大鳥の地上絵によって〔転回日本列島地理〕の「〔東〕を時計まわりに転回して〔南〕とする方位規定」は[倭]の字(字源・本義)となることが明らかとなる。
 だから、細江町の1千万坪の大鳥の地上絵によって、〔宗像大社の三女神は〔転回日本列島地理〕を祭る神〕であったことが証明される。
 この建比良鳥命が作成した「細江町の1千万坪の大鳥の地上絵」を、これより以降「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにする。

 

 『魏志倭人伝』は〔対馬から邪馬壱国の旅程記事〕を【誤読】をいっさい加えずに忠実に読解したものを日本地図上にあらわすと、日本列島の〔東〕は〔南〕に配置されることになり、倭国の王国・邪馬壱国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であったことになる。
 
 この〔転回日本列島地理〕の方位規定は、現在方位(天の北極にもとづく方位)の〔東〕を〔南〕に転位するゆえ、時計まわりに「東→南、南→西、西→北、北→東」となる。
 すぐ上の太い赤字の文中に示したように、この「〔東〕を〔南〕とする転回方位規定」は[倭]の字をあらわす。
 この〔転回方位〕は「混一疆理歴代国都之図」の〔日本地図〕に明確に示され、現在方位の〔北〕は90度時計まわりに移動して〔東〕となる。
 『魏志倭人伝』の記事を忠実に読解すると、対馬国→一大国→末盧(まつろ)国→伊都(いと)国→奴(な)国→不弥(ふみ)国→投馬(つま)国→邪馬壱国までの旅程は日本海沿いの山陰地方へと進入する。
 『魏志倭人伝』には「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡ること千余里にしてまた国有り。皆倭種なり」という記事がある。
 この記事にある〔東〕は現在方位の〔北〕となる。「皆倭種なり」は〔群島あるいは諸島となる多数の島々〕は一括すると「皆」と称されることになるので「群島あるいは諸島」ということになる。日本海沿岸地帯より〔北〕の海上には、萩市の見島、出雲北方の隠岐群島、越後北方の佐渡島、新潟県北部の粟島などがあるが、「皆倭種なり」という記事に適合するのは隠岐群島のみである。見島や佐渡島のように海上に浮か孤島は「皆」と表現しない。
 だから、卑弥呼が居住した王国・邪馬壱国の中心地は出雲であったことが簡単にわかる。

 2世紀の末、西日本は7、80年は乱れて戦乱状態であったが、一女子が“日本列島は〔東〕へ伸びているのではなく、中国大陸の〔南〕のほうに伸びている”という転回日本列島地理を立論した。
 すると、夏音文字の学芸に精通する有力氏族の王たちや巫女や神官たちは、この〔転回日本列島地理〕は天と地に棲む鬼神(かみ)が“戦乱を終息せよ”と告げる真理を示すものであるにちがいないと考えるようになり、この〔転回日本列島地理〕を立論した一女子を国王に選び、中国のように国家が創建されることになった。
 
 この様子を、『魏志倭人伝』は「その国、本亦(もとまた)男子をもって王と為(な)す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻討(あいこうばつ)して年を歴(ふ)。すなわち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰(い)う。鬼道(きどう)を事(まつ)りて衆を惑(まど)わす。」と記述する。

 日本列島は〔東〕へ伸びる。しかし、日本列島は中国海岸線の〔南〕の方へ伸びると考えるべきことになった。
 『魏志倭人伝』には「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という記事がある。
 この記事の会稽は現在の浙江省の紹興市、東治は福建省の福州市である。
 転回方位にもとづいて日本列島を時計まわりに90度転回すると会稽(紹興市)・東治(福州市)地方に相当するのは日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島となる。
 中国大陸の華北地方の山東半島沿岸地域は冷たい気候区であり、華南地方の会稽・東治海岸地域は暖かい気候区である。
 ゆえに、中国大陸の海岸線地域は〔北冷南暖〕となる。
 その道里を計ると会稽・東治にまさに東に在ることになる神津島と同緯度(北緯34度15分)の日本列島の西端の海上に沖ノ島が浮かぶ。
 沖ノ島は冬に雪が降るが、亜熱帯地区の神津島は冬にも雪が降らず暖かい。
 したがって、日本列島は〔西冷東暖〕の地となる。
 中国海岸線における〔北冷〕の地域と日本列島の沖ノ島の〔西冷〕は適合し、暖かい会稽・東治の〔南暖〕と日本列島の神津島の〔東暖〕が適合する。
 このように、中国の〔北〕の海岸線地域の気候と日本列島の〔西〕の沖ノ島の気候が適合し、中国の〔南〕の会稽・東治の気候と日本列島の〔東〕の神津島の気候が適合するので――日本列島の〔東〕にある神津島は当に中国大陸の〔南〕の海岸線地域の方に在ることになって〔転回日本列島地理〕が成立した。

 日本列島の〔東〕の神津島は〔南〕に在ると定める〔転回日本列島地理〕は『魏志倭人伝』の「其の道里を計るに当に会稽・東治の東に在るべし」という記事と合理となる。
 しかし、現在方位にもとづく〔東〕に伸びる日本列島地図は会稽・東治の東北に所在することになるので矛盾する。

 ゆえに、日本列島は中国海岸線の〔南〕の方に伸びるという地理は真理・真実であると夏音文字の学芸に精通する人々に絶賛されることになり、大乱は鎮静化してり国家が創建され、国家を統治する大王に一女子が選ばれた。
 このように夏音文字の学芸は最も偉大視されるものであり、最も強大な政権基盤となるものであったので、この〔転回日本列島地理〕を立論した一女子はわが国最初に創建された最高位の女王に選ばれた。

 中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)上伝に下記のごとくの文がある。
 「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能(よ)く天地の道と弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す。」
 この文の先頭の「易」の字源を、『説文解字』は「蜥易(せきえき・トカゲ)なり」と解説する。
 [字]の字における[子]の原字となる「鬼の姿に似る銀河」は〔トカゲの姿〕に類似する。
 『原色現代科学大事典 5-動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。
 [字]の[宀(べん)](ウ冠)は「すべての文字を生む母体となる銀河」・「すべての文字を生む母体の生殖器に相当する銀河部」、そして「天頂点」をあらわした。この[宀]を仰ぎみる[易]の字となる「トカゲの姿」に類似する「鬼の姿に似る銀河部」は「天頂点をキャッチせんとする人の姿」に観える。
 天頂点をキャッチすると海上にて精密に緯度(東西)と子午軸(南北)が測定できるので、大海を越えて中国に到着した後にまた日本列島の家にもどってくることができた。
 ゆえに、[易]の字源・本義は「遠くの地や大海を渡る旅において、トカゲの帰家性のごとく、必ず家族が待つ家に帰ってくることはできる方法、つまり天頂点をキャッチできる術」であったことになる。
 それゆえ「易は天地と準う」という文は「キャッチした天頂点の緯度が観測地の緯度となる」という、位置天文学の定理を説明するものであった。
 現在の精密日本列島地図を作製する基準となる経緯度原点は東京都港区麻布飯倉3-18の旧東京天文台の子午儀の中心である。
 このように国土地理院は、旧東京天文台の子午儀の中心の天頂点とこの天頂点と90度に交わる子午軸を測定して、精密日本列島地図を作製する。
 ゆえに、「易は天地と準う」という文は「天頂点をキャッチして経緯度原点となる地点を設置して、広大な地域の精密な地図を作製する」と意味することになる。
 だから、「易は天地と準う」という文に呼応して、後ろに「仰いでもって天文を観、俯いてもって地理を察す」という文が添えられる。
 「易は天地と準う」という文は、広大な地域の精密な地図を作製する方法の定式を表示するものであったのである。

 中国では今から約5000年前の黄帝の時代より今から約4070年前の夏代の始祖禹(う)と帝益の時代までの930年間、精密な中国海岸線地図を作製する事業が継続された。
 前回〔36回〕で解説したように、帝益の孫の王子と若者たちが日本列島に移住した名門益氏は、司馬遷著『史記』五帝本紀の四番目の帝となる堯(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝舜(しゅん)の時代には“虞(ぐ)”と呼ばれる官職を任命された。
 中国大陸を洩れなく包み込む山東半島の付け根より円弧状に曲がる海岸線は〔虎の横顔〕に類似すると見立てられた。また、精密な地図を作製するときに経緯度原点と同緯度の東の地に一等三角本点を設置された。この〔西〕の経緯度原点地から〔東〕の一等三角本点の〔西から東への地図作製基点の移動〕は時計まわりの逆方向であるゆえ、[呉]の字をあらわすことになった。
 [虎]に[呉]を加えると[虞]の字となる。ゆえに、益氏が就任したは“虞”は「精密な中国海岸線地図を作製する官」であった。
 帝舜以来夏代初頭までの200年余のあいだ、益氏は精密な中国海岸線地図作製に従事し、禹の後の帝王となったので王朝が独占管理して最も厳重な機密であった精密な中国地図を携えて日本列島に移住したのである。
 帝禹も精密な中国地図作製事業に努力したゆえ、禹の遺志を継いで日本列島に氏族共同体制を根づかせるために、精密な中国地図は必要となったから、当時の最先端科学の中国地図が日本列島に伝来することになったのである。

 上記した建比良鳥(たけひらとり)の地上絵(細江町の1千万坪の大鳥の地上絵)の中央には、都田川(みやこだがわ)が西に向かって流れる。
 この都田川より東南部から南にかけての大鳥(カンムリカイツブリ)の頭部と両翼の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は、中国の海岸線と華北平原・長江下流平原の地図の形となる。
 このように1千万坪の建比良鳥の地宜の地上絵は、益氏が日本列島にもたらした精密な中国地図の形を図化したものとなる。
 この中国地図となる大鳥の頭部・両翼部分を[呉]や[虞]の本義のとおりに時計まわりの逆方向に90度転回すると、頭部は中国の山東半島の地宜(地図の形)となり、両翼は山東半島の付け根より南北の海岸線の形となる。

 ということは、現在方位の東南部から南の建比良鳥の地上絵の頭部と両翼の形となる境界線は、[倭]の字に則って精密な中国の海岸線地図を時計まわりに90度転回して図化したものとなる。
 したがって、細江町の大鳥の地上絵における都田川の東南より南部の境界線は紀元前21世紀に日本列島に移住した益氏がもたらして3世紀後半まで保存されていた精密な中国の海岸線地図をこの目で見て“事実だ!”と確かめることができる――重大な歴史を今に伝えるものとなる。

 上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う」という文の後に続く「ゆえに能く天地の道を弥綸す」という文は「山東半島の北部にある廟島(びょうとう)列島より以南の中国の海岸線は中国全土を洩れなく包み込む」と意味する。
 [道]の金文形は「角(つの)をはやすオス鹿の横顔」の図案となる。
 この[道]の原字は「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
 この[道]の字となる「オス鹿の横顔に似る銀河の角となる部分」は「すべての文字を生む母体となる銀河」である。
 この「すべての文字を生む母体となる銀河」は三皇時代から秦の始皇帝の時代まで中国の天頂にめぐってきたので、大海の道・遠くの地に旅する道を行って家に帰って来ることができる、中国各地の緯度・子午軸を測量できる天頂点をキャッチする基準(物差し)となった。
 ゆえに、[道]の金文形の「オス鹿の横顔の角」の両側には「道を行く」の[行]の字形の半分の形がオス鹿の角の左と右に配置される。この半分に割ってオス鹿の角の左右に配置される[行]の字形は〔天頂点の両端の東・西と天頂点より上下となる南・北〕をあらわす「十字路」の形に図案される。したがって、「[行]の字形を二分形と中央の鹿の角の図案」は「天頂点をキャッチして精密に緯度と子午軸を測定して、大海の道・遠くの地に通ずる道を行って帰ってくる易の術」をあらわすものとなる。
 中国の「山東半島」は「鹿の横顔」に類似し、山東半島の北側の渤海(ぼっかい)の入口にある「廟島列島」は「オス鹿の角」のように見える。
 だから、中国の天頂を通過した「オス鹿の横顔に似る銀河」が「天の道」、「山東半島と廟島列島」が「地の道」となるので、「易は天地と準う。ゆえに能く天地の道」と表現されたのである。
 「天の道」の「オス鹿の横顔に似る銀河の顎(あご)」は〔南〕にあるが「地の道」となる〔オス鹿の横顔に似る地宜の顎〕となる「山東半島」の部分は〔東〕に所在する。この「〔南〕が〔東〕となる方位規定」は[呉]の字となり、「山東半島の付け根より南部の海岸線」の「虎の横顔」の[虎]と合体して、[虞]の字となった。だから、“虞”は「中国全土を洩れなく包み込む海岸線の精密地図を作製する官」とあらわすものとなった。

 高田真治・後藤基巳(もとみ)訳者『易経(下)』(岩波書店発行)は「弥綸」を「つくろいおさめる、洩れなく包みこむ」と意味すると指摘する。
 [弥](彌)の字となる銀河部は「北天の最輝部(さいきぶ)」である。
 「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が見える銀河部で最も輝く銀河部」のことである。この「北天の最輝部」ははくちょう座の中央のγ(ガンマ)星からη(エータ)星の中間にある。
 北天の最輝部は銀白色に輝く。カンムリカイツブりという水鳥の頸(くび)以下の体下面は北点の最輝部のようにすべて銀白色であり、また北天の最輝部の形状はカンムリカイツブリの頭部と頸以下の体下面の正面形に相似する。
 したがって、[彌]の右側の[爾]は「北天の最輝部の形」と「カンムリカイツブリの頭部と頸以下の体下面の正面形」を図案したものである。
  [彌]の偏の[弓]は〔カンムリカイツブリの銀白色に輝く頸以下の体下面の側身形が“弓”の形に相似する〕とあらわすものとなる。
 天の川各部の大半は銀白色に輝かない。天の川の各部は赤色であったり黄色であったり青色であったり黒色であったりするが、「天の川」は「銀河」と呼ばれる。
 というのも、「北天の最輝部」は〔銀白色に輝く〕ので「天の川」は「銀河」または「銀漢」という名になった。
 「銀漢から作られた字」を略した語が「漢字」であり、「天に万物の情(イメージ)に類似する文字が多数ありき」ことになったから、これを略して「天文」という語になった。
 [道]の字源地宜となる「山東半島と廟島列島」のうちの鹿の角に相当する「廟島列島」を除く「山東半島」は、[弥]の字源地宜となって〔カンムリカイツブリの顔〕の形に相似すると見立てられた。
 [弥]の字となる「カンムリカイツブリの頭から体下面までの正面形」に相似する「北天の最輝部」には〔嘴(くちばし)〕となる形状部が頸の箇所と重なって見えない(存在しない)。
 「カンムリカイツブリの顔」に見立てられた「山東半島」にも嘴の部分が存在しない。
 「山東半島の付け根から北と南へ伸びる海岸線」は「カンムリカイツブリの両翼」に相似する。また、「山東半島の付け根より南の長江口までの海岸線」は「カンムリカイツブリの弓のような形をした頸以下の体下面の側身形」に相似する。
 これゆえ、天の「北天の最輝部」と地の「山東半島と付け根の南北の両翼に相似する海岸線」によって、天地の[弥]が成立した。
 
 山東半島の付け根から北側の渤海南岸までは翼の形に観えるが、渤海から遼東半島にかけての海岸線は翼の形が綻(ほころ)びるような状況となる。しかし、山東半島の北にある〔遼東半島〕を〔[弥](カンムリカイツブリ)の顔〕に観えるので、遼東半島の付け根となる〔渤海と西朝鮮湾の北岸〕は[弥]の翼の形に相似する。この「[弥]の翼の形が綻び繕(つくろ)いおさまる(再び翼の形となる)糸のような海岸線」が[綸]の字義となった。
 山東半島の付け根より南の[弥]の翼の形に観える円弧状の海岸線は長江口(ちょうこうこう)の湾から杭州湾(こうしゅうわん)までの海岸線で綻び、杭州湾の南岸の東端から南部の海岸線はまた再び円弧状の海岸線となる。
 ゆえに、[綸]の「繕いおさめる」は「長江口の北岸から杭州湾の南岸」までとなる。
 このように、「山東半島の付けの根より北と南へ伸びる中国の海岸線」は[弥]と[綸]の字をあらわすものとなる。
 「中国全土を包みこむ海岸線」は[弥]と[綸]の字をあらわすものであったので、「弥綸」は「洩れなく包みこむ、繕いおさめる」と意味することになった。

 中国全土を弥綸する海岸線における〔山東半島〕は〔頭にかぶる笠〕、〔山東半島の付け根から南の海岸線〕は〔人の額(ひたい)から鼻すじ〕、〔長江口〕は〔鼻の孔〕、〔杭州湾〕は〔口〕に見立てれた。
 杭州湾には銭塘江(せんとうこう)の水が外(は)き出されて流れ込む。ゆえに、〔銭塘江〕は〔息を外くのど〕に見立てられ、〔杭州湾〕は〔息を外く口〕に見立てられた。
 『説文解字』は[呼]の字源を「息を外くなり」と解説する。
 ゆえに、〔息を外く口〕の形に観える「杭州湾」は[呼]の字源地宜となった。
 [呼]の字源となる「杭州湾の地宜」は〔鳰(にお・カイツブリ)の姿〕にも相似する。
 だから、「鳰」は[呼]の字をあらわすことになった。
 「すべての文字が作られた秋の銀河と夏の銀河」は各部が分化しているが相集まって統合されて「鳰の姿」に観えると、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」において定められた。この「鳰の姿に似る銀河」において、鳰の顔に嘴(くちばし)の部分の形は見当たらず存在しない。
 上記したように、鳰(カイツブリ)科に属する1種となる[弥]の「カンムリカイツブリ」の頭部から体下面までの正面形に相似する「北天の最輝部」にも〔嘴〕の形は見当たらず存在しない。
 [弥]の字源地宜となるカンムリカイツブリの顔となる「山東半島」にも〔嘴〕に相当する部分は見当たらず存在しない。
 この事例にもとづき、杭州湾に流れ込む〔銭塘江の河口付近の川岸〕は〔鳰の嘴〕に見立てることができるが、「鳰の姿に似る銀河」に則ると〔嘴〕と見立てるのは不合理であると定められた。
 鳰は水草の茎を支柱として、水面に草の葉茎等で浮巣(うきす)をつくる。
 この〔鳰の浮巣の支柱となる茎〕は〔杭〕に見立てられて、「銭塘江の河口付近の川岸」は「杭」に見立てると定められ、この定義は銭塘江の河口に近い地名「杭州」と湾の名「杭州湾」で表示されることとなった。
 五帝時代の最後の帝舜の時代より夏代初頭まで、代々200余年、益氏は“虞”という官職を任命されて、精密な中国海岸線地図の作製事業に従事した。
 この益氏の“虞”の官職の歴史によって、[卑]は中国海岸線にもとづいて「海に近い低い土地」という字義を有することになった。
 上記したように、「山東半島とその付け根より南北の海岸線」は[弥]の字となった。
 以上のごとく、中国全土を弥綸する海岸線は、[卑][弥][呼]の3字をあらわす。
 わが国において最初に樹立された国家の最高位の女王に即位した女子は、中国海岸線地域の〔北冷南暖〕の気候を基に〔転回日本列島地理〕を立論したので、彼女の名は「卑弥呼」となったのである。

 
 首が垂直に立てて真っ直ぐ立つ人の頭頂部の真上に天頂点がある。
 この天頂点をキャッチすると、精密に緯度と子午軸が測定できる。
 天頂点と重なる銀河部位は東から45度の東北の地平線から昇り、最も南の端は首を垂直に立てる人の頭頂部の真上となり、西から45度の西北の地平線に没する。
 この天頂点と重なる銀河部位の円周軌道の最南端となる天頂点は、日々鍛錬すればキャッチできるようになる。
 道路整備がなされていなかった縄文人や弥生人はじめとする古代の日本列島に居住する人々は、禽(とり)や鹿が通うような径(みち)を歩き、観測地点に適した土地を見つけると天頂点をキャッチして精密に緯度と子午軸を測量して、日用必需品や文化・知識を吸収するために遠くの地に旅して家族が待つ家に帰ってくる生活を営んでいた。
 卑弥呼王朝時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭の使節と船乗りは大海上において「産道」に見立てると定められた「長方形の暗黒天体部」の部位が重なる天頂点をキャッチして、朝鮮半島にある魏の出張機関がある帯方郡(たいほうぐん)政庁や魏の都を訪問して、帰路においても無事に大海を渡ることができて家に帰還した。というのも、彼らは日々鍛錬して天頂点をキャッチすることができる眼力と技術を体得するものであったからである。
 三皇・五帝時代から秦の始皇帝時代まで、中国と日本列島の天頂に「すべての文字を生む母体となる銀河」がめぐってきた。
 弥生時代に中国と日本列島の天頂にめぐってきた「長方形の暗黒天体部」は上記の[道]の字となる「オス鹿の横顔に似る銀河」の〔鹿の額(ひたい)から鼻すじ〕に相当する。
 したがって「長方形の暗黒天体部」は「オス鹿の横顔に似る銀河」の〔鹿の角〕に相当する「すべての文字を生む母体となる銀河」より南に位置する。
 ゆえに、「長方形の暗黒天体部」は三皇・五帝時代から秦の始皇帝時代まで天頂にめぐってこなかった。しかし、当時、「長方形の暗黒天体部」は天頂点をキャッチするに最も理想的な銀河部であると注目されて〔胎児が出産するときに通過する産道〕に見立てられた。
 というのも、「すべての文字を生む母体となる銀河」の「生殖器の銀河部」に当てはめて想定した〔娩出期(べんしゅつき)の終りとなる、産道を潜って出産した胎児の顔が母体の背側を向いたときの胎児の頭頂部〕は〔天頂点〕に見立てられたからである。
 〔娩出期の終わり〕は〔胎児がこの世に生命を与えられる〕瞬間であると定められ、「長方形の暗黒天体部」は〔天頂点をキャッチするのに、最も理想的な形状を有する銀河部〕であった。ゆえに、「長方形の暗黒天体部」は〔産道〕に見立てられ、〔娩出期の終わりの頭が誕生した胎児の頭頂部〕は「天頂点」をあらわすと定められた。
 これゆえ、「長方形の暗黒天体部」は〔この世に命を与えられるイメージ〕をあらわす銀河部となったので、[命]と[与]の字となり字形モデルとなりまた字源・本義をもあらわすことになった。

 卑弥呼が立論した〔転回日本列島地理〕における「〔東〕を天体が時計まわりに90度動いて〔南〕となる方位規定」は[倭]の字となった。
 ゆえに、転回日本列島地理によって戦乱を終息させて建国された国家の名は「倭」となった。
 当時(2世紀末から3世紀半ばまで)、日本列島の天頂に秋の銀河と夏の銀河の境目となる[命]と[与]の字となり「産道」に見立てられた「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。
 この「長方形の暗黒天体部」は〔胎児(人)が出産する産道〕に見立てられて[人]の字にもなった。ゆえに、卑弥呼が統治した国の名における「倭国」は略称、「倭人国」が正式国名となった。
 前回で解説したように、すべての漢字を作成することができる原理「鳥獣の文」は、「すべての文字を生む母体となる銀河」の腰の辺りにある「生殖器の銀河部」から胎児(人)が生まれるように想像して多数の文字を作るようにすると定められた。
 母体の子宮に宿る12週~20週の胎児(人)の頭は母体の頭のほうに向いているが、20週~28週の胎児の頭は180度転回して母体の足のほうに向く。産道を潜って誕生する娩出期の終わりとなる胎児は顔を母体の背側に向いた姿勢となる。
 この子宮に宿る胎児が頭が誕生する娩出期終了までの様子と「妊婦のような形をした銀河部」と「生殖器の銀河部」の形状から、[眞](真)と[倭]と[呉]の字が定義された。

 「母体の頭の方に頭が向く、子宮に宿る12週~20週の胎児」は[人]の字となり、 「母体の足の方に向く、子宮に宿る20~28週以後の胎児」は[人]の字を180度転回させた[匕]([化]の右側)の字となった。〔娩出期終わりの胎児の顔の正面と頭頂部〕は[匕]を90度横に転回させた[眞]の最上部の平べった「匕」となった。
 楷書のこの[人]が180度転回させて[匕]、[匕]を90度横転させて平たい「匕」になる様子は判別しにくいが、楷書より古い篆文(てんぶん)の[眞]の字形の場合は明確となる。
 楷書の[眞]の最上部の平たい[匕]は篆文の[眞]の最上部の[匕]を90度横転させた[匕]と同一形である。
 「[眞]の最上部の平たい[匕]」は[委]と[倭]の字をあらわして「〔東〕を〔南〕とする、時計まわりに90度転回させる方位規定」を示す。
 天頂点は天球面に対して観測者の視線が90度直角に交わるとキャッチできる。
 ゆえに、[眞]の中央の[目]は「観測者の目と視線」、[目]の下[∟]は「観測者の視線と天球面が90度直角(∟)に交わる」をあらわす。
 [眞]の最下部の[八]は「足」の図案であり、「生殖器の銀河部はべての文字を生む母体の銀河の足のほうにある」、また「胎児は母体の足の方から分娩する」とあらわすものとなる。

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 〔産道を通過して胎児の頭が誕生する娩出期の終わりの様子〕を「生殖器の銀河部」に当てはめると、〔母体の背側に胎児の顔〕は「生殖器の銀河部」の〔東〕側を向くことになり、上記にて指摘した〔天頂点〕に見立てられた〔胎児の頭頂部〕は〔南〕を指さすことになる。
 ゆえに、この「(胎児の顔の向きの)〔東〕が〔南〕(胎児の頭頂部が差し示す方角)になる」は[委]と[倭]の字をあらわすことになった。
 
〔東〕に顔を向ける胎児の頭が〔北〕となるは、胎児の頭が膣入口から引っ込んで通過できなくなって死産することになる。
 
この「〔東〕が時計回りの逆方向に転回して〔北〕となる」は[呉]や[誤]をあらわすことになった。
 [呉]の上部の[口]は「子宮口から膣入口までの産道」、下部は「身をくねらして産道を通過せんとしたが、途中で分娩(出産)できなかった胎児」をあらわす。

 天頂にめぐってきた「生殖器の銀河部」は〔南に向く3本指の人の足の形〕に相似する。
 この〔3本指の足〕のかかとの部分に四角形の暗黒天体部がある。このため、〔3本指の足〕を〔斧〕に見立てると、〔四角形の暗黒天体部〕は〔斧の柄を差し込む穴〕に観える。
 [正]の金文には〔3本指のいちばん上の指だけを直角状に曲げ、四角形の暗黒天体部の箇所から柄のように細い棒が上へ伸びて、その棒の先端が半円形となる字形〕がある。
 また、[正]の金文には〔3本指の足に、四角形の暗黒天体部から上へ伸びる棒が直角状に円弧を描く字形〕がある。
 これゆえ〔3本指の足〕と〔直角に曲がる〕を図案する[正]の金文形は「[倭]の時計まわりに90度転回する方位規定は正しい」と示すものとなる。
 

 人間の頭蓋骨は縫合(ほうごう)によって連結されており、頭頂部には前頭骨と左右の頭頂骨の間の〔冠状(かんじょう)縫合〕、頭頂骨の間の〔矢状(やじょう)縫合〕がある。
 娩出期の新生児はじめ生後2年ぐらいの小児は縫合が完成していないので、冠状縫合と矢状縫合の交点には「大泉門(だいせんもん)」と呼ばれる大きな膜で覆われるミゾの部分がある。
 新生児の頭頂部を真上から見て、眼窩(がんか)がある顔の正面を上にして前頭骨のフチ(縁)の中央を〔北〕と定めると、冠状縫合の膜のミゾは〔右・東〕になる側頭骨から円弧を描いて頭頂部中央の大泉門に至り、さらに円弧を描いて〔左・西〕の側頭骨に至る。
 この冠状縫合の膜のミゾは、天頂点と重なる銀河部位が東北の地平線から昇って・最南端の天頂点を通過し・さらに西北の地平線に没する日周運動の軌道と一致する形になる。
 だから、「大泉門」は精密に緯度が測定できる〔天頂点〕に見立てられた。
 後頭骨のフチの中央から左右の頭頂骨に分けて中央を〔北〕と定めた前頭骨のフチの中央に向かう矢状縫合の膜のミゾは、「大泉門」で〔十字形〕に交わる。
 ゆえに、〔矢状縫合のミゾ〕は〔天頂点の真北・天頂点・天頂点の真南〕を指し示す天頂緯度線と直角に交わる子午軸に符合する。
 この〔娩出期の終わりの胎児(新生児)の頭頂部の縫合の膜のミゾの形状〕を「生殖器の銀河部」に当てはめると――額となる前頭骨のフチの中央の〔北〕は〔東〕となり、つまり胎児が母体の背側の顔を向けて誕生する方角となる。
 だから、「〔北〕が90度時計まわりに転回して〔東〕となる方位規定」の[委]と[倭]の字をあらわすものとなる。

 天頂点をキャッチするとき“必ず天頂点をキャッチする”と欲を有すると、精密に緯度と子午軸が計測できなくなり、道に迷って命を落とした。
 天頂点をキャッチするときの心得は“産道を通過する胎児のように無欲になれ”であった。
 ゆえに、娩出期の終わりの〔胎児の顔と頭頂部の向き〕と〔胎児の頭頂部の縫合の膜のミゾ〕を基にして[眞][委][倭][正][呉][誤]の字が作られた。

 [委]は[禾(か)]に[女]が加わって成立する。
 [禾]は「穀類全般」を意味するが、[委]の[禾]は「水稲(すいとう)」すなわち「水田で作る稲」を意味する。
 [委]は[女]は「女性の生殖器」または「産道」をあらわす。
 人が命を委ねて食べる穀類の中で水稲は最も多くの水を必要として育つ。このため、最も雨乞いが祈願される食料である。
 胎児の頭が子宮頚管(けいかん)をおしひろげて子宮口にすっかり開くと、胎児の頭が下がり、母体の直腸をおさえるために反射的に自然に怒責(どせき)がおこって腹圧が加わるようになり、胎児の頭はしだいに押し下げられてゆく。
 「怒責」は「母体が神鳴り(雷)のごとくに、もの凄い大きな声をあげていきみきばる行為」である。
 「稲妻(いなづま)」すなわち「雷の光」が放たれて、もの凄い音が鳴りわたると、雨が降り水田に水が満ちて禾(稲)が育つ。
 これゆえ、「稲妻」という語は[委]の字の秘密から生まれた語であったのである。
 「雷鳴」と「怒責」は類似するということで同一視されて、「水稲」をあらわす[禾]の下に[女]すなわち「胎児の命が育つ子宮とこの世に出産するときに通過する参道」をあらわす[女]が加わって[委]の字が生まれた。
 そして、〔人は産道を通過する胎児のように無心で天頂点に命をゆだねる〕ものであり、また〔人は禾(穀類)を食べて命をゆだねる〕ものであったゆえ、[委]の字義は「ゆだねる」となった。
 いままで解説してきたように、「時計まわりの90度の転回」は天頂点と重なる銀河部位の円周運動をあらわすので〔人が命をゆだねる方法として正しい〕とされて、[委][倭][正]の字となった。したがって、「時計まわりの逆方向の90度の転回方位規定」をあらわす[呉]の字は〔命を委ねる天頂点と重なる銀河部位の日周運動に逆らう〕ことになるので、[呉]から[誤]の字が生まれた。
 このように、[禾]・[委]の字を基にして[倭]と[呉]の字が生まれるものであったので、「禾(稲)の実」の[米]に之繞(しんにゅう)を加える[迷]の字義は「まよう」となったと考えられる。
 また、[迷]の字は「倉黄(そうこう)」という語と密接に関連して生まれたのかもしれない。「倉黄」は「あわてふためく状況」をあらわす。つまり、「倉黄」は「日に干して黄色い稲穂から米を取り出すときに、にわかに雨が降りだしてあわてふためいて倉に収納する」から「あわてふためく」という意味になったと考えられる。遠くの地や大海を行く旅において、あわてふためいて天頂点をキャッチする必ず天頂緯度測定が誤って道に迷う。だから、「禾の実」の[米]と「行く」の[行]の之繞が組み合わさる[迷]の字義は「迷う」となった。
 

 

 司馬遷著『史記』五帝本紀に記載されるように、五帝時代の最後の帝舜の時代(紀元前23世紀ごろ)から“虞”の官職を任命されて以来――200余年、益氏は精密な中国海岸線地図を作製する事業に従事した。
 紀元前21世紀、帝益の孫の王子は精密な中国海岸線地図を携えて日本列島に移住した。
 2世紀末、中国海岸線地図と気候の夏音文字の学芸知識にもとづいて転回日本列島地理が立論されて大乱が鎮静化し、この転回日本列島地理を立論した女性は中国海岸線の字源地宜にもとづいて「卑弥呼」という名で呼ばれた。そして、卑弥呼が統治する国の名の略称は「倭」、正式名は「倭人国」となった。

 『魏』倭人伝』と同じ3世紀後半、遠江国造の先祖の建比良鳥命は1千万坪の大鳥の地上絵を作成した。
 建比良鳥命は大鳥の地上絵の中央を流れる都田川の東南(現在方位)に、[弥]の「山東半島」に類似する「カンムリカイツブリの顔」を配置した。
 上記したように、建比良鳥の地上絵において「カンムリカイツブリの顔」の付け根の「北と南の両翼」の部分の境界線は、益氏がもたらした中国海岸線地図の形に設計されている。さらに、この中国海岸線地図は[倭]の字の「〔東〕を〔南〕に転回する方位規定」に則って配置される。
 建比良鳥の地上絵の経緯度原点は、[卑]の字を表示する都田川河口に近い東岸が選ばれた。
 都田川の水は浜名湖の支湖となる「引佐(いなさ)細江」の東北岸に流れこむ。これゆえ、都田川河口の東岸は「低い卑湿な土地」であるから[卑]の字義を示すことになる。
 都田川の水は〔東〕から〔南〕の経緯度原点がある河口へと外(は)き出される。
 この都田川沿岸の沖積平野の形は、娩出期終わりの頭が誕生する胎児の姿によく似ている。
 つまり、経緯度原点がある河口近くの「気賀」という地名地域が胎児の頭となり、上流の沖積平野は胎児の胴体と足の形に相似する。
 したがって、都田川の沖積平野の周囲は子宮となり、「落合橋」という名の橋のあたりが子宮頸となり、落合橋から河口までの中間が膣入口となる。ゆえに、落合橋から膣入口となるまでの中間地域が産道となる。膣入口に相当する地点から河口までの「気賀」という地名で呼ばれる沖積平野の形は胎児の顔・頭に相似する。
 「生殖器の銀河部」に「娩出期の終わりの胎児」を当てはめると、〔母体の背側に向ける胎児の顔〕は〔東〕に向いていることになる。都田川の沖積平野の顔の形になる地域の正面に長楽寺(ちょうらくじ)が所在する。長楽寺は顔の形の地域から[北]に位置するので、〔北〕が〔東〕と解すれば[倭]、〔東〕が〔北〕となると解釈すれば[呉]と[虞]となる。
 都田川の沖積平野の頭頂部に相当するのは、河口から引佐細江の北岸となる。
 [卑]の字を示す〔南〕に所在する経緯度原点地から「く」の字に曲がって、頭頂部に相当する引佐細江の北岸は〔西〕へと食い込む。ゆえに、大泉門がある胎児の頭頂部にj相当する引佐細江の北岸は、経緯度原点地の〔南〕から隅丸角(すみまるかど)の曲線を描いて〔西〕に向かって食い込むので[倭]の字を表示するものとなる。
 このような諸々の状況からして、建比良鳥の地上絵における[卑]の字を示す経緯度原点は都田川の河口に近い東岸に設定されたのである。

 引佐細江は、〔[弥]の「カンムリカイツブリ」の右の翼〕に見立てれれた〔山東半島の付け根より南の海岸線〕を図化する境界線は引佐細江の湖口の東岸で区切られる。
 この引佐細江の東岸の対岸は、浜名湖に突き出る大崎半島から湖口に寸座岬(すんざみさき)があり、引佐細江の西岸となる。
 この大崎半島・寸座岬・引佐細江の西岸は、[字]の[子]の字となる「鬼の横顔に似る銀河」に酷似し、〔人の横顔・娩出期の胎児の横顔〕に酷似する。ただし、大崎半島は「鬼の横顔に似る銀河」の頭に生える角よりズット大きくて長い。
 この〔大きな長い角〕はオス鹿の角に観えるので、〔道〕の字における鹿の角となるので「すべての文字を生む母体となる銀河」に見立てられて、浜名湖に突き出る半島は[大]の字源地宜となった。というのも、「すべての文字を生む母体となる銀河」は[大]字形であるので、[大]の字をあらわしたからである。この[大]の字源地宜となっ半島は[崎]の字源を示すので、半島の名は「大崎」となった。
 〔大崎半島・寸座岬・引佐細江の西岸〕は[字]の[子]をあらわす「鬼の横顔に似る銀河」に相似するので――対岸の建比良鳥の地上絵(細江町)の境界線より北に所在する村櫛(むらくし)半島は、[字]の[宀(べん)]となる「すべての文字を生む母体となる銀河」に見立てられる地宜となった。
 村櫛半島の付け根あたりに「内浦」という名の浜名湖の支湖がある。この「内浦」は「生殖器の銀河部」に相当する。
 「引佐細江の西岸」は「人が息を外く口」の形となる。また、「都田川の水は引佐細江の東岸へ流れこむ」ので、〔引佐細江〕は〔中国の銭塘江の水に流れ込む杭州湾〕に見立てられた。
 ゆえに、「引佐細江」は『説文解字』が「息を外くなり」と字源解説する[呼]の字をあらわす地宜となる。
 [呼]の字源地宜の「杭州湾」は「鳰の姿」に相似する。
 だから、建比良鳥の地上絵の[弥]の「嘴が無いカンムリカイツブリの顔」の北側の細江町と引佐町の境界線が包囲する金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区の地宜は、[呼]の字をあらわす「嘴の無い鳰と浮巣の形」に設計されている。
 この「嘴の無い鳰と浮巣の形」のうちの「浮巣」の形をした井伊谷に、建比良鳥命は居住した。
 「嘴の無い鳰と浮巣の形」の地宜の金指・井伊谷地区は、「銭塘江」を〔鳰の嘴〕ではなく「杭」と見立てると定めた秘密と「杭州」という地名の由来を今に伝える貴重な史料となる。

 建比良鳥の地上絵の「経緯度原点地」は[卑]の字を、「建比良鳥の地上地の顔とその付け根より北と南へ伸びる境界線」は[弥]の字を、「引佐細江」と「金指・井伊谷を包囲する境界線」が[呼]の字を示して――結局、建比良鳥の地上絵は「卑弥呼」と表示する地上絵ということになる。

 建比良鳥の地上絵には、紀元前21世紀に日本列島した「虞」の官職に任命されて精密な中国海岸線地図の作成事業に従事した益氏が伝えた精密な地図作製方法が保存される。
 1千万坪の建比良鳥の地上絵の作成原理は、現在の国土地理院の精密日本列島地図の作製方法と同じである。
 国土地理院の地図作製の基準となる日本経緯度原点は、天頂点をキャッチして設置した旧東京天文台(東京都港区麻布飯倉3-18)の子午儀の中心である。
 精密日本列島地図は日本経緯度原点を基に三角形の網や鎖を形作って作製される。
 建比良鳥の地上絵は都田川河口に近い東岸に経緯度原点地(北緯34度48分)を設定し、この経緯度原点地において天頂点をキャッチして精密に緯度と子午軸を測量して、東の同緯度の滝峯(たきみね)不動尊の地点に一等三角本点を設置した。この滝峯不動尊でも精密に天頂緯度と子午軸が測量された。
 そして、経緯度原点地と滝峯不動尊の中間地点の真北に、ほぼ正三角形の頂角となる一等三角本点となる地点が測量された。この頂角は58度であるので、経緯度原点地から緯度軸に対して61度の東北を指さす線と滝峯不動線から緯度軸に対して61度の西北を指さす線の交点が、〔北〕の58度の頂角となる。
 この〔北〕の頂角に設置された一等三角本点は八幡宮である。この八幡宮は、[呼]の字を示す「鳰の姿」を形成する境界線に包囲される引佐町井伊谷に所在する。
 益氏が伝えた精密地図作製方法を表示する建比良鳥の地上絵における、〔西〕の経緯度原点から〔東〕の滝峯不動尊・滝峯不動尊から〔北〕の引佐町井伊谷の八幡宮に至る経路は時計まわりの逆方向となるので、代々200余年のあいだ益氏が従事した官職名の[虞]をあらわす。
 〔西〕の経緯度原点地から〔北〕の八幡宮・八幡宮から〔東〕の滝峯不動尊へ至る経路は、時計まわりにめぐることになるので[倭]をあらわす。
 以上のごとく、建比良鳥の地上絵は経緯度原点地で精密に天頂緯度と子午軸を測量して滝峯不動尊と八幡宮を測量して一等三角形を形成し、この一等三角本点を基に二等三角点や三等三角点やその他の基準点をふやして、ちょうど1千万坪の「卑弥呼」とあらわす形になるように図化作成されたのである。

 中央の都田川の沖積平野の西端より西方は〔象の頭と鼻の形〕に観えるように設計される。
 というのも、『易経』繋辞下伝は〔漢字の起源の秘密〕を下記のごとくに伝えるからである。
 「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、(中略)。もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作る。」
 この記事は、建比良鳥の地上絵によって誤っていることが証明される。
 文中の「鳥獣の文」は五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理の名称である。倉頡は「結縄」ではなく、「書契(しょけい)」(わが国では「刻木(こくぼく)」という)を考案した。
 包犧氏は“漢字の始祖”と崇拝されなかった。
 倉頡は“漢字の始祖”と崇拝された。
 倉頡は「万物の情(イメージ)に類似するすべての漢字」を作成することができる原理「鳥獣の文」を発明した。この倉頡によって、前回〔36回〕に詳しく解説したように【すべての文字】は【銀河各部の形状】であると定められた。
 『易経』繋辞下伝が記述する〔漢字の起源記事〕は下記のごとくに改めれば正しくなる。
 「黄帝につかえる史管(記録官)の倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、(中略)。もって万物の情に類して書契を作る。」

 上記の文中に登場する「天象」は【銀河各部の形状】を意味する。というのも、【銀河各部の形状】は「天にある象(かたち)」であるからである。
 【すべての文字】が作られた銀河の全範囲は「鳰の姿」に相似すると統括された。
 この「鳰の姿に似る銀河」は「秋の銀河(の西部)と夏の銀河」である。
 「夏の銀河」は「銀河系の中心がある西南部」と「秋の銀河(の西部)と繋(つな)がる夏の銀河の東北部」に分けられる。
 「夏の銀河の西南部」は〔象の頭〕の形に観え、「夏の銀河の西南部に繋がる、わし座α星(牽牛星)がある牛の正面の顔に観える銀河部」までは〔象の長い鼻〕の形に相似する。ゆえに、天には〔巨大な象の頭と鼻の形に相似する銀河〕が存在する。
 また、「鬼の姿に似る銀河」の心臓部に相当する箇所にある「北アメリカ星雲と東側の銀河部」も〔象の頭と鼻の形〕に観えると見立てられて、[象]や[為]や[偽]の字となった。
 このような「象の顔と鼻の形に相似する銀河」も「天象」となり、【すべての文字】が作られた「夜の天に輝く秋の銀河と夏の銀河各部の形象」もまた「天象」となる。
 この[天象]を建比良鳥の地上絵の西方の「象の頭と鼻」の地宜はあらわすものであったのである。
 また、この「象の頭と鼻」の地宜は、杭州湾の西方の「太湖(たいこ)」をあらわした。
 「太湖」は「象の姿」に観える。というのも、「太湖の南部」は「象の頭と鼻の形」に観えるからである。「太湖」の〔象の頭と鼻〕の部分は〔南〕から〔東〕へカーブするので「呉」の字をあらわすことになる。
 建比良鳥の地上絵の「象の頭と鼻」の地宜は〔北〕から〔西〕へカーブするように設計されているので、[呉]をあらわす。
 この「象の頭と鼻」の地宜は〔杭州湾〕に見立てられる〔引佐細江〕の支湖を包囲するようになっている。これゆえ、〔引佐細江〕は〔杭州湾〕に相当し、〔象の頭と鼻〕の「天象」の地宜は〔太湖〕に見立てられることになる。だから、〔北〕から〔西〕へカーブする「象の頭と鼻」の地宜は[呉]をあらわしていると証明される。

 建比良鳥の地上絵は❶中国海岸線地図を図化して「卑弥呼」とあらわす部分がある[弥]の顔(頭)と両翼の〔大鳥〕の東方地区と、❷娩出期終わりの胎児の顔(頭)と産道・子宮の形に類似する都田川の沖積平野の地区と、❸象の頭と鼻の形となる西方地区の3つに分化して一つに統合されて大鳥の形となる。

 建比良鳥の地上絵の大鳥(嘴の無いカンムリカイツブリ)の顔の正面は「夏至の日の出」の方角(東から29度の東北)を指し示して「夏音文字の学芸」または「夏音文字の学芸がわが国に伝来した」とあらわす。
 建比良鳥の地上絵の「大鳥の顔」は「東に向かって歩く人の足」の形に相似し、この「爪先が29度東北を指す足の形」は〔緯度軸〕が〔地面〕に観えるので「足跡」が連想できる。
 倉頡伝説では漢字作成原理の名は「鳥獣の足跡」である。
 建比良鳥の地上絵の東方地区は「鳥」の形、西方地区は「獣」(象)の形、「鳥の頭」は「足跡」を表示する。
 だから、建比良鳥の地上絵は「鳥獣の足跡」とあらわしていることになる。
 その証拠に、建比良鳥の地上絵の中央部は「すべての文字は女性の生殖器から胎児が生まれるように考えれば、鳰の姿の銀河各部の形状から万物の情を図案する多数の文字を作ることができる」と定められた漢字作成原理「鳥獣の足跡」(『易経』繋辞下伝の「鳥獣の文」)をあらわす「娩出期の終わりの頭が誕生する胎児と産道・子宮」の形となる沖積平野である。

 
 現在まで、建比良鳥の地上絵内(細江町内)から9口の銅鐸が出土している。
 建比良鳥の心臓部に相当する細江町中川区の「悪ヶ谷(あくがたに)」という名の山腹の地中から、1912年(明治45)、6区突線帯文の袈裟襷文(けさだすきもん)の銅鐸が出土した。
 この悪ヶ谷銅鐸は“銅鐸美術を代表する傑作の一つ”と評されて、地元の細江町に所蔵されず東京国立博物館が所蔵する。
 この悪ヶ谷銅鐸の最下部の袈裟襷文が包囲する横長の長方形の左右の区画の中に絵が画かれる。
 左の区画には「オス鹿」の絵が、右の区画には「2羽の鳥」の絵が画かれる。
 [弥]の字をあらわす「嘴のないカンムリカイツブリの顔とそのつけ根より南北の境界線」は「卑弥呼」とあらわす中国全土を弥綸する海岸線地図の形に作られている。
 この「卑弥呼」の3字をあらわす中国海岸線について、『易経』繋辞上伝は下記のごとく記述する。
 「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能(よ)く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(あきらかに)す」
 上記したように、[道]の字は「オス鹿の横顔に似る銀河」とオス鹿の横顔に相似する「廟島列島と山東半島の地宜」があらわす。ゆえに、悪ヶ谷銅鐸の「オス鹿の絵」は『易経』繋辞上伝の「ゆえに能く天地の道」という文をあらわすものとなる。 
 悪ヶ谷銅鐸の「2羽の鳥」の絵は[弥]の「カンムリカイツブリの顔と両翼」の形に相似する「山東半島とその付け根から北と南へ伸びる海岸線」を示し、また[呼]の字をあらわす「鳰の姿」に相似する「杭州湾」を表現するものと考えべきことになる。ゆえに、「2羽の鳥」は「弥綸」という語をあらわす。そして、建比良鳥の地上絵の頭とその南北の境界線はカンムリカイツブリの頭と両翼の形に設計され、北の境界線は引佐町の金指・井伊谷を包みこんで鳰と浮巣に形作られている。

 だから、建比良鳥の地上絵内の心臓部に相当する土地から出土した悪ヶ谷銅鐸の「鹿の絵」と「2羽の鳥」の絵は、『易経』繋辞下伝の「易は天地と準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す」という文を表現するものであるにちがいない。 それというのも、「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文の通りに、建比良鳥の地上絵は益氏が日本列島に根づかせた夏音文字の学芸の天文地理学における精密地図の作製方法の秘密が現在も保存されるているからである。だから、建比良鳥の地上絵は「易は天地と準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文が事実であることを具体的に明確に伝えるものとなる。
 このように、中国全土を弥綸する海岸線の上古地図は「虞」の官職に任命された益氏が作製したものとして、建比良鳥の地上絵の顔とその北と南へ伸びる境界線の形となって現存する。

 1987年12月24日、一等三角本点の滝峯不動尊から夏至の日の出の地点(29度の東北)の浜松市都田地区の前原Ⅷ遺跡から銅鐸が発掘された。この三遠(さんえん)式銅鐸は「前原銅鐸」と呼ぶことになった。銅鐸は前原銅鐸が発掘される以前、全国で約450個(文献上のものも含む)出土している。前原銅鐸のように埋めた当時のまま見つかったのは、徳島市の名東遺跡などで全国で3例しかなかった。
 銅鐸の身の両側の中央にj板状の縁(へり)が付いているが、これを「鰭(ひれ)」と呼ぶ。
 前原銅鐸は、片方の鰭を上にして鐸身の中心軸が緯度軸に合致するように埋めてあった。
 ということは、銅鐸を用いて精密に天頂緯度と子午軸を測量して建比良鳥の地上絵は作成されたと考えるべきことになる。
 天頂点をキャッチすると天頂緯度が測定できて、銅鐸の鰭はおのずと緯度軸に合致して東西を指す。
 この鰭の位置を銅鐸で天頂点をキャッチする左右の補助役の天文士が地面に正確に記すと、緯度軸が表示されて、緯度軸と直角に交わる子午軸も表示される。
 1989年12月28日、建比良鳥の地上絵内(細江町)の雑木林の地中から、埋めた当時のままの細江町内から発掘された9口目の銅鐸が発掘された。この銅鐸の出土地は「滝峯才四郎谷遺跡」と名づけられ、一等三角本点の滝峯不動尊から約360m離れた緯度軸に対して60度の東北の地点となる。この滝峯才四郎谷銅鐸も前原銅鐸と同じく、片方の鰭を上にして鐸身の中心軸が緯度軸に合致して埋まっていた。
 このように、前原銅鐸と滝峯才四郎谷銅鐸は、銅鐸は細江町の地図(建比良鳥の地上絵)を作製するための天頂緯度と子午軸を測量する道具であったと示す状態で出土された。

 細江町(建比良鳥の地上絵内)から出土した9口の銅鐸は「近畿式・三遠式」と分類される。
 この近畿式・三遠式銅鐸の製作・使用年代は、260~290年と考えられている。
 したがって、建比良鳥の地上絵は銅鐸を用いて260~290年ころに作成されたにちがいない。
 建比良鳥の地上絵の北の境界線が[呼]の字をあらわして「鳰と浮巣」の形で囲む、この井伊谷の盆地東部の丘陵上に北から南へ大型古墳が築造される。このうち、最古の古墳は350年ころに築造された北岡大塚古墳である。
 建比良鳥の地上絵は『古事記』の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部に「遠江国造の先祖の建比良鳥命」に記載される建比良鳥命が作成した。
 そうすると、350年ころに築造された北岡大塚古墳は建比良鳥命の子孫の遠江国造の墓であると考えるべきことになるゆえ、建比良鳥命は260~290年ころに生存していたというのは合理となる。
 1601年から彦根藩主となった井伊氏は建比良鳥命の子孫であるが、徳川家康の命令で近隣7ヵ国12大名の助勢も加わって伊氏は1603年から直行して20年後の1622年に、3千万坪のハジロカイツブリ・[弥]のカンムリカイツブリ・[呼]の鳰の姿を合体する3千万坪の地上絵を作成し、現在の彦根市の行政区域をあらわす地図の形として現存する。
 このように17世紀初頭に強大な権力を掌握した徳川幕府が作成した彦根の大鳥の地上絵は完成まで20年も費やしているので、3世紀後半の江戸幕府よりもはるかに弱小で財力が劣る遠江の一豪族が1千万坪の大鳥の地上絵を作成するには30年から40年の年月を費やしても当然のこととなる。
 近畿式・三遠式の銅鐸の製作・使用年代には諸説あるが、“260年以前から製作・使用されていた”という説は少数意見である。この少数意見を基にしても、1千万坪の大鳥の地上絵の作成するには30年の年月は必要となるので、建比良鳥の地上絵は『魏志倭人伝』が著作された280~289年と同時代の3世紀後半に作成されたことになる。

 1986年11月、私は細江町立姫街道歴史民族史料館の栗原雅也学芸員から建比良鳥の地上絵内の滝峯七曲りから出土した滝峯第1号鐸の寸法詳細図を提供していただいた。この資料を静岡市沼津市平町の渡辺板金所の主人・渡辺進一氏に渡して、滝峯第1号鐸の原寸大の模造鐸の製作を依頼した。
 渡辺氏が製作した模造鐸の筒(身)の中に頭を入れてしばらくすると、筒の中の暗闇によって自動的に瞳孔径(どうこうけい・瞳孔の直径)が最大(7~8mm)に拡大される。このように、瞳孔径が最大に拡大すると、筒の上(舞・まい)にある二つの孔から舞の中央に垂直に立つ厚さ2、3mmの薄い板となる鈕(ちゅう)の影が見えるようになる。この鈕の影は板ではなく細い1本の線となって見える。この線を両手で銅鐸の筒の傾きを操縦しながらゆっくっりと微調整して最も細くなるようにすると、鈕の幅が極細の線となるいわゆる「玄(げん)」が見える。この「玄」が見えると、銅鐸の筒はおのずと精確に垂直に立っていることになる。この極細線の「玄」の中央に、鈕の頂上に取りつけられる「渦巻状双耳(うずまきじょうそうじ)」という名の部分に刻まれる文様が矢を当てる的のように〔同心円形〕となるのが見え、その的の中心点(同心円中央の最小の円)に天頂点がピッタリと重なる仕組みになっている。
 このようにして銅鐸に頭を入れる天文士が天頂点をキャッチしたという合図をした時、上記したように、補佐役の左右の天文士が鰭の位置を精確に地面に印をつければ精密な緯度軸と子午軸が測量できる。
 以上のごとく、銅鐸で天頂点をキャッチして建比良鳥の地上絵は作成されたと証明される。

 『古事記』と『日本書紀』は成務天皇を13代とするが、『日本書紀』成務天皇紀の5年の記事に登場する「盾(たて)」は「銅鐸」の正式名、「矛(ほこ)」は「銅矛・銅剣・銅戈(どうか)」であると考えるべきことになるので、成務天皇は7代孝霊天皇や8代孝元天皇と同時代すなわち卑弥呼の同時代の生存したと考えるべきことになる。(「銅鐸」という名称は3世紀の名称ではなく、7世紀の天智天皇の時代以降の名称である)。
 左右2本の支柱が立つ門や鳥居の頂上部に横にして載せる笠木(かさぎ)のように置いた銅矛・銅剣・銅戈の刃を天頂に向けると、その中心にある“邪視文(じゃしもん)”で天頂点をキャッチできる。ゆえに、矛(銅矛・銅剣・銅戈)もまた銅鐸同様に天頂点をキャッチする道具であったと証明することができる。
 成務天皇は、『魏志倭人伝』に「租賦(そふ)を収めむるに邸閣有り。国々に市有りて有無を交易す。大倭(だいわ)をして之(これ)を監(かん)せしむ」と記載される、今日の蔵相に相当する「大倭」であったのではあるまいか。
 西日本全域各地から出土した“青銅祭器”と呼ばれる銅鐸と銅矛・銅剣・銅戈の製作・使用年代は卑弥呼が生存する以前のものもあるが、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばのものもある。建比良鳥の地上絵からも近畿式・三遠式銅鐸は3世紀後半に製造され使用されたと証明できる。
 【銀河の形状】で調べると、『魏志倭人伝』末部の「正始(せいし)八年(西暦247年)」の記述に登場する夏音名「載斯烏越(そしあお)」は9代開化天皇であると証明される。
 卑弥呼は、247年・正始8年以前に生存していたから、13代成務天皇は第9代開化天皇より以前の時代に生存していたことになる。
 奈良市山陵町に所在する成務天皇陵より約500m離れた北北西に神功皇后陵がある。
 『日本書紀』は神功皇后紀の箇所に『魏志倭人伝』に記載される年号を付く記事を挿入する。ということは、編纂スタッフは卑弥呼と神功皇后と同一人物であるまいかと混乱したにちがいない。さらに、神功皇后陵と成務天皇陵の両古墳は9代開化天皇陵よりも後に築造されたものであるので、編纂スタッフは開化天皇陵の後に神功皇后陵と成務天皇陵が築造されたことを示す資料を有していたと考えられるので、成務天皇は卑弥呼=神功皇后と同時代に生存したことになるので13代と考えるようになって誤ったと思われる。
 というのも、下記に示す『日本書紀』成務天皇の5年の記事は、卑弥呼が立論した〔転回日本列島地理〕を説明するものであると考えるべきことになるからである。ゆえに、成務天皇は開化天皇より以前に生存したことになる。

 『日本書紀』成義天皇紀の5年の箇所にある記事を現代語に訳すると下記のごとくになる。
 「5年の秋の9月に、諸国に命令して、国郡に造長(みやつこおさ)を立て、県邑(けんゆう)に稲置(いなき)を置いた。ともに盾と矛をあたえて、その表(しるし)とした。すなわち、山や河を境にして国県(くにあがた)を分け、阡陌(せんはく)にしたがって、邑里(さと)を定めた。こうして、東西を“日縦(ひのたて) ”とし、南北を“日横(ひのよこ) ”とし、山陽を影面(かげとも)といい、山陰を背面(そとも)といった。これによって、百姓すなわち諸々の氏族の人民は平安に暮らすことができ、天下に事(戦争や反乱)が起こらなくなった。」

 この記事は「盾(銅鐸)を卑弥呼が治める女王圏の象徴(しるし)にし、矛(銅矛・銅剣・銅戈)を九州の伊都国に居住する一大率(いちだいそつ)が治める男王圏の象徴にした」と説明するものとなる。ゆえに、卑弥呼と一大率は共立体制を組織して卑弥呼が男王圏を統治し一大率が卑弥呼を補佐することになった。このような共立体制が、現在のいわゆる“青銅祭器の分布状況”ということになる。
 『魏志倭人伝』の34小国の名に用いられる楷書を【すべての文字】となる【銀河各部の形状】で調べると、『日本書紀』の成務帝の5年の記事のとおりに「山や河を境にして分ける」34の各小国の地宜(平面的に図化した地図の形)が明らかとなり、卑弥呼が統治した「倭国」は遠江(静岡県西部)・越中(富山県)より以西の西日本であったと解明できる。
 上記したように、滝峯第1号鐸は鈕の影の極細線「玄」の中央にある、矢を当てる的のような「同心円の中心にある最小の円」で天頂点をキャッチできる。
 この天頂点をキャッチする「同心円」は「日輪」をあらわす文様となる。
 滝峯第1号鐸にて精密に緯度を測定できる「玄」は「鈕が作る極細線」であるからして、この「極細線」は「糸」と形容できる。ゆえに、成務天皇紀の「日縦」の「日」は「同心円文様の日輪」、「縦」の偏の「糸」は「極細線の玄」となるので、「日縦」は「鈕が作る玄がキャッチする緯度軸」と意味することになる。
 というのも、「鈕が作る玄」で最初に子午軸(経度軸)をキャッチしようとしても、〔子午軸に合致する玄〕を作ることは不可能だからである。子午軸は、最初に緯度軸を作らなければ測量することができない。
 だから、「日縦」は「天頂緯度線を作る玄」であると断定できる。
 その証拠に、成務帝5年の記事は「東西を“日縦”にする」と書く。
 「東西は緯度軸となる」から、「東西は“日縦”にする」という文は「緯度軸を“日縦”にする」と指摘していることになる。
 そうすると、「日横」は「天頂緯度線上の天頂点を貫通する南北の経度軸となる子午軸」となる。その証拠に、成務帝5年の記事は「南北を“日横”とする」と指摘する。
 これゆえ、「緯度」の[緯]の字義は「よこ(横)」であるので、「緯度=日縦」の「縦」は[緯=横]に対して90度方位が相違することになって、[倭]の字「〔東〕を〔南〕になるように転回する方位規定」に合致することになる。同様に、「日横」は「経度」の[経]の字義は「たて(縦)」であるので、これまた[倭]の字をあらわすことになる。
 「山陽を影面といい、山陰は背面といった」という文の「背面」の[背]の初文(最初の文字)は[北]である。
 現在方位における山陰は〔北〕、山陽は〔南〕であるからして、国内においては山陰出雲は〔北〕、山陽吉備は〔南〕と定めたが、[北]と[南]の字は転回方位の[倭]と[呉]を考えるときに用いる文字と定まるものであったので、山陰は「背面」、山陽は「影面」という語で国内用の方位名を定義したことになる。
 「東西を“日縦”とし、南北を“日横”とする」という方位規定は、中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕を基にして日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島の〔西冷東暖〕と中国海岸線地域の〔北冷南暖〕を合致させて卑弥呼が立論した〔転回日本列島地理〕をあらわすものとなる。
 したがって、卑弥呼王朝は中国の海岸線地域を基にする転回方位規定と現在方位と適合する国内用の〔北〕を「背面」・〔南〕を「影面」と定義する方位規定、この二つの方位規定を有するものであったことになる。
 成務帝5年の記事の「百姓(諸々の氏族)は平穏に暮らすことができ、天下に事が起こらなくなった」という説明は、『魏志倭人伝』の「住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴(ふ)。すなわち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼という。鬼道を事(まつ)りて能(よ)く衆を惑(まど)わす」という文をあらわすものとなる。
 というのも、「鬼道を事りて能く衆を惑わす」の真義は「鬼道(夏音文字の学芸)を祭って民衆を立派に統治した」であるからである。
 ゆえに、この文を「鬼道を祭って民衆を惑わして騙した」と訳するのは誤訳となる。
 このことは、[惑]の初文は[或]であり、[國]の字は[或(惑)]を[口]で包囲するものであるからして、[惑](或)は「惑わして騙す」と解釈できないからである。

 東北の地平線から昇って西北の地平線に没する天頂点と重なる銀河部位の大きな円形の軌道は、最南端の天頂点付近で西から東へ平らに横一直線の極細線の「玄」となる。
 この銀河部位は1日24時間より約4分短い23時間56分で一周する。
 そうすると23時間56分は86,160秒となる。
 「玄」は「4~6秒間ぐらいでキャッチする、天頂点を中央となる極細線」である。ゆえに、86,160秒の大きな円の軌道における1分60秒や2分120秒の軌道は直線に近い曲線となるが、天頂点を貫通する4~6秒間の緯度軸の「玄」は直線となる。
 だから、銅鐸の鈕や銅矛の刃が作る「玄」は精密に天頂緯度が測定できたのである。
 日々鍛錬して天頂点のキャッチできる眼力と技術がそなわる人々は、弓の弦や釣り糸や首飾りの緒(ひも)などの中央に小石や勾玉(まがたま)を結びつける道具を天頂に差し上げて天頂点をキャッチした。このときの「玄」の長さは観測者の耳から耳となり、天頂点は両耳中央にある観測者の〔鼻〕の正面に存在する。この〔鼻〕が定規となって子午軸をキャッチする。
 だから、「玄」を作って精密に緯度と子午軸を測量して自分が居る位置と方角を知るには〔鼻〕が重要な役割をはたしたので、「自分」の[自]の字義は「鼻」となった。ゆえに、『説文解字』は[自]の字形を「鼻なり。鼻の形に象(かたど)る」と解説したのである。

 ここまで解説してきた夏音文字の学芸知識を、『老子』第1章は下記のように表現する。
 「道の道とすべきは常の名に非ず、名の名とすべきは常の名に非ず。天地の始めには名無し。万物の母にて名有り。ゆえに常に無欲にして以てその妙を観、常に有欲にして以て皦(きょう)を観る。この両者は、同じく出て名を異(こと)にし、同じくこれを玄という。玄のまた玄、衆妙の門。」

 上記の『老子』第1章を現代語訳すると下記のごとくなる。
――ほんとう道は人が行き来する道路ではない。ほんとうの道は天頂にあり、廟島列島と山東半島の地宜である。この世における物の名をあらわす文字の真の文字は常日頃に用いられる〔ことばをあらわす記号〕として用いる文字ではなく、ほんとうの文字は銀河各部の形状である。天地の始めには文字(名)が無かったが、倉頡の発明によって天頂にめぐってくる[大]字形の銀河が「すべての文字を生む母体」と定められて「万物の母」となってから、【銀河各部の形状】が【文字)】となって名が有ることになった。天頂点をキャッチする時には産道を通過する胎児のように無欲になれば、妙なる極細線の天頂緯度線の「玄」が観測できるが、“必ず天頂点をキャッチするぞ”と欲を有すると「玄」がキャッチできないために焦(あせ)ってあわてふためいて道に迷って皦すなわち白骨死体となる。このように妙と皦はともに天頂点のキャッチする時の「玄」から出現するものであるにもかかわらず、両者の名は相違する。しかし、両者は同じく「玄」と云う。玄のまた玄、この「玄」は人々が寸秒で計測して命を委ねるものであり、この妙なる「玄」は人々が日頃通過する諸々の門の両側の柱の先端を結んで渡した笠木を仰いで凝視すると見える天頂緯度を示す極細線である。

 上記したように、銅鐸の筒が垂直に立つと鈕の影が極細線となり、この「極細線」が[妙]にも[皦]にもなる「玄」である。
 だから、「玄」は「精密に天頂緯度と子午軸が測量できる極細線」となる。

 上記したように、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部に登場する「宗像大社の三女神」は、卑弥呼が立論した〔転回日本列島地理〕を祭る神である。
 卑弥呼王朝は、宗像大社の沖津宮
(おきつみや)がある沖の島と同緯度(北緯34度15分)の伊豆諸島の神津島の〔西冷東暖〕と中国海岸線地帯の〔北冷南暖〕によって、日本列島は[倭]の字の基に日本列島の〔東〕は中国海岸線の〔南〕となるように転回すると定める〔転回日本列島地理〕を制定した。
 ゆえに、沖の島に「沖津宮」が設営され、宗像王の天菩比命
(あめのほひのみこと)は〔転回日本列島地理〕を祭神とする宗像の三女神に奉仕した。
 沖ノ島の地宜は『老子』第1章で「万物の母」と記された「すべての文字を生む母体となる銀河」の頭となる、この「頭となる銀河部」の中央にある暗黒天体部の形に相似する。
 宗像市玄海町の神湊(
こうのみなと)海岸沖の大島は天頂点と重なる銀河部位が昇る東北45度の水平線を指し、その地宜は3本指の箇所がないが「万物の母」の銀河の「生殖器の銀河部」に類似する。『老子』第25章が「万物の母」を「天下の母」と表現して「天下の母は強いてこれが名を為して大という」と表現するように、「万物の母」の銀河は[大]字形であり[大]の字となった。ゆえに、「万物の母」の銀河の「生殖器の銀河部」の形に地宜が類似する島の名は「大島」となった。「生殖器の銀河部」は「万物の母」の銀河の地面にふれる右足と重なるので、大島の東隣の島の名は「地島(じのしま)」となる。
 [倭]の字にもとづいて90度転回する宗像市玄海町の西隣の福津市津屋崎
(つやざき)町の海岸線とその内陸部の津屋崎町一帯は「万物の母」の胸部にある「M39」という名の肉眼で見える明るい散開(さんかい)星団の形に類似する。また宗像市玄海町の神湊は「生殖器の銀河部」に相似する大島の正面に立地し、神湊は天頂点と重なる銀河部位が没する45度西北の水平線を指さす。神湊のすぐ西北に「勝島(かつしま)」がある。この勝島の北岸は「生殖器の銀河部」の「3本指」のように三又に分かれ、「生殖器の銀河部」の3本指がある南部の形に相似する。現在の宗像大社の辺津宮(へつみや)が所在する玄海町田島・神湊・勝島を結ぶ線(ライン)は、大島の中央を貫通し、天頂点と重なる銀河部位が没する西北45度の水平線を指さす。この宗像大社辺津宮と神湊・勝島を結ぶ45度西北のラインが通過する地点に中津宮が立地する。

 〔転回日本列島地理〕は、日本列島の西端の沖ノ島と東端の伊豆諸島の神津島の〔西冷東暖〕にもとづいて立論された。
 宗像大社の中津宮の大島と神津島の地宜は相似する。ただし、大島は東北を向き、神津島は西南を向く。大島の地宜に相似する神津島の北岸には3本指のように三又に分かれていない。しかし、神津島は北岸が三又に分かれる宗像市の勝島の地宜に類似して、勝島と同じく西南を指さす。
 神津島には宗像大社の中津宮の立地に合わせた地に物忌奈命
(ものいみなのみこと)神社が鎮座する。物忌奈命は三島大社の祭神・三嶋明神の長子で、神津島の開祖とされる。
 この「三島大社の祭神・三嶋明神」という由来は、同緯度の沖ノ島の宗像大社の「三島」・「三嶋」と直接的に関連する。つまり、神津島が同緯度の宗像の「沖ノ島」、向きが反対であるが地宜が相似する「大島」、向きが同じ「勝島」の三つの島を「三島大社」とした。「沖ノ島・大島・勝島」の三島のうちで最大の大島と神津島の地宜は相似し、物忌奈命神社は宗像大社の中津宮の地点に合致して鎮座する。ゆえに、神津島は「三嶋明神の長子」となったのである。
 沖ノ島は玄海灘の漁師・船乗りたちに「お言わずさま」と呼ばれた。宗像の神官も時化
(しけ)を避けよんどころなく島に寄った漁師・船乗りも、“島から一つの石一本の草を持ちだしてはならない、島で見たことは帰って一言も口外してはならない”と厳重な掟が定められていた。このように、宗像大社の女神の霊威へのはばかりは玄海周辺の住民に徹底されて、卑弥呼王朝が〔転回日本列島地理〕を制定して以来戦前までずっと守りむかれてきた。というのも、沖ノ島から九州北部の海岸を見渡すことができ、『魏志倭人伝』に記載される末盧国→伊都国→奴国→不弥国の転回方位規定の誤り(90度の相違)が目撃できるからである。だから、〔転回日本列島地理〕の宗像の三女神の霊威を畏(おそ)れさせるために沖ノ島は「お言わずさま」と呼ばれたのである。
 同様に、神津島でも[倭]の方位規定の90度の誤りは目撃することができたので、神津島の開祖の名は「物忌奈命」となったのである。したがって、「物忌奈命」は「島で見たことは一言も語ってはならない」と意味するものであったことになる。

 卑弥呼王朝が制定した〔転回日本列島地理〕は同緯度(北緯34度15分)の日本列島の西端の玄海灘の孤島・沖ノ島と東端の伊豆諸島・神津島を結んで成立した。
 沖ノ島と神津島の同緯度は、天の北極では測量できない。
 沖ノ島と神津島の同緯度は、「寸秒(4~6秒間くらい)で測定する天頂緯度線」すなわち「玄」をキャッチすれば測量できる。
 だから、『老子』第1章が「名の名とすべきは常の名に非ず」と指摘するように、沖ノ島が浮かぶ海の名は[玄]の字が付く「玄海灘」であり、宗像大社の壮大な宮殿が建つ地の名は「玄海」となった。
 現在のように天の北極を基準とする地理であるならば、日本列島は東に伸びる。
 しかし、夏音文字の学芸(鬼道の学芸)は〔精密な天頂緯度測定〕を基軸にして体系づけられた。だから、倭の知識人の間で〔転回日本列地理〕が確立されることになった。
 というのも、建比良鳥の地上絵に保存されているように益氏によって精密な中国海岸線地図と気候知識がもたらされ、『魏志倭人伝』が「古来より皆“大夫”と称した倭の使者たちが中国に渡っていた」と記述するゆえ華北地方の気候は倭の知識人に知れ渡り、『後漢書』倭伝が「倭国の隣国の東鯷人
(とうていじん)国の人民は定期的に呉の会稽に到着して交易していた」と記述するので華南地方の気候の情報は倭の知識人に知れ渡っていたにちがいないからである。

 現在、宗像大社の三女神は沖ノ島・沖津宮にて田心姫神(たごりひめのかみ)を祭り、大島・中津宮において湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祭り、玄海町田島・辺津宮にて市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祭る。
 しかし、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部は「市寸島比売命(
いちきしまひめのみこと・市杵島姫神)は中津宮に坐す(玄海町田島の祭神は中津宮に鎮座する)、田寸津比売命(たきつひめのみこと・湍津姫神)は辺津宮に坐す(大島の祭神は辺津宮に鎮座)す」と記載する。ゆえに、中津宮と辺津宮は現在の宗像大社の配置と異なる。
 現在の宗像大社の三女神の配置は時計まわりの逆方向となるので[呉]または[虞]の字をあらわす。
 他方、『古事記』の宗像の三女神の配置は時計まわりであるから[倭]の字をあらわす。
 この『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部は「宗像の天菩比命の子は七人の建比良鳥命がいた」と記述し、「七人目の建比良鳥命が遠江国造の先祖」であったと記す。
 天菩比命が居住する宗像と遠江国造の先祖の建比良鳥命が住んだ引佐町井伊谷は、父と子の関係が成立するはずがないほどに両者の居住地は遥か遠くに離れる。
 だから、宗像王の天菩比命と遠江の建比良鳥命は父と子の関係ではなかったにちがいない。
 つまり、〔[玄]の天頂緯度線を祭る神に奉仕する天菩比命〕は[字]の[宀]に見立ると、〔七人の建比良鳥命〕は[字]の[子]に相当するので、『古事記』は「天菩比命の子、建比良鳥命」と記述したと考えるべきことになる。
 この七人の建比良鳥命は遠江の建比良鳥の地上絵が示すように、天頂緯度を精密に測定できる「玄」をキャッチできる倭国各地の豪族であった。そして、彼らは〔転回日本列島地理の鬼神となる宗像大社の三女神と神津島の物忌奈神〕を祭っていたことになる。

 『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社発行)における「緯度の測定」と題する文章は「天の北極」を単に「北極」と表記して、下記のごとく指摘する。

 「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算ができる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」

 上記の文が指摘するように、天の北極の高度で緯度を換算する方法は天頂緯度測定よりも不精確である。また、天の北極の高度で緯度換算する方法の場合は、上記の文が「時刻が決まれば」という条件を付けているように、今日のように精確な時刻を表示する時計が必要となった。しかし、古代においては今日のように精確な時刻を表示する時計が発明されていなかったので、天の北極の高度で緯度を換算して自分がいる位置を定めるとかなり不精確となった。
 天の北極の高度で緯度換算する方法だと――当時には現代のように精確な時刻を知らせる時計が存在しなかったうえに、当時の北極星は現在の北極星と違って天の北極から遠く隔たって円形の軌道を描くものであったので、当時の天の北極の高度は精密に測量できなかった。
 ゆえに、天の北極の高度で緯度換算する方法だと、『老子』第1章に記載される[妙]と[皦]が一体となる[玄]となる緯度線はキャッチできなかったので、沖ノ島と神津島の同緯度が測定できなかった。
 天の北極の高度で緯度で緯度換算する方法だと、「卑弥呼」をあらわす中国海岸線地図を図化するちょうど1千万坪にする建比良鳥の地上絵は絶対に作成することができない。

 ゆえに、天の北極の高度で緯度を計測すると、精密さを求められる大海においてはその不精確な緯度(位置)と経度(子午軸・子午線経過)の計測が命取りとなってしまい、迷って落命して家に帰ることができなくなった。

 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「倭国の隣の東鯷人国の人民は定期的に呉の会稽の港にやってきて交易した。しかし、中国の人々は東鯷人が往来する大海の道は遥か遠くで途中で道が消えていることになるので往来することはできない」と記述する。
 『後漢書』倭伝は「東鯷人国は、紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代、方士(天文地理学者)の徐福一行が日本列島に移住した国である」と説明する。
 このように、紀元前3世紀においては、[玄]をキャッチする方法で中国から大海を越えて日本列島に移住できた。しかし、6世紀後の3世紀になると中国の人々は[玄]をキャッチする眼力と技術を鍛錬する習慣を失ったので、大海を往来することができなくなった。
 この原因は、中国では紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文が完成したからである。
 このシナ天文が完成した紀元前1世紀の3世紀後の2世紀または4世紀後の3世紀になると、中国では精密に天頂緯度を測定できる[玄]をキャッチするための眼力と技術を鍛錬する習慣が廃(すた)れたために、大海を渡ることができなくなった。
 だから、『後漢書』倭伝は「日本列島に居住する東鯷人が往来する海の道は、中国の人々には往来することができない」と明記したのである。
 シナ天文が原因して魏の出張機関の政庁がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)の使節も日本列島に渡ることができなかった。そこで、『魏志倭人伝」は「倭から帯方郡に到着した載斯烏越(そしあお・伊耶那岐命・9代開化)一行が帰還する船に帯方郡の使節は便乗して倭に渡った。この帯方郡の使節は魏の都を訪問する倭の使節・掖邪狗(ややこ)等二十人が大海を渡る船に便乗して帯方郡に帰還した」と記述する。
 このように、「日本列島が〔東〕に伸びる」と定めることができる天の北極の高度で緯度換算すると大海を渡ることができなくなる。

 邪馬台国説の学者たちは頭の隅にある現在の天の北極を基準にする方位観に魂を奪われて、“『魏志倭人伝』が「日本列島が〔南〕に伸びる」と記載する〔転回日本列島地理〕を卑弥呼王朝は絶対に考えるはずがない”と断定する。
 だから、「混一疆理歴代国都之図」に画かれる〔転回日本地図〕は「著者・陳寿が抱いた誤った地理観である」と推断する。
 しかし。『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部にて「宗像王の天菩比命は〔転回日本列島地理〕を三女神と敬って奉仕した」と記述し、また「[字]の上部の[宀]に〔天菩比命〕を見立てると、[字]の下部の[子]となる七人の建比良鳥命の中に遠江国造の先祖が含まれる」と説明する。この遠江の豪族の建比良鳥命が1千万の大鳥の地上絵を制作して、今日、『魏志倭人伝』と『古事記』序・上巻のすべての記事は真実と真理を伝えるものであると科学的に証明できるようにした。

 ここまで長々と解説してきたが、学者たちは“文献批判”を用いて『魏志倭人伝』の「全記事は絶対に信用してはならない」、「『古事記』上巻の日本神話は虚構である」と断定するが、『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻が説明する「緯度の測定」の一点に絞って思考すると、邪馬台国説と日本神話虚構説が完全に【誤読の空論】であるとことが否定できない事実となる。
 というのも、邪馬台国説だと倭の使節も中国に渡ることができなくなるので、魏と倭が国交を結んで生まれた『魏志倭人伝』はもともと影も形もまったくこの世に存在しなかったものとなるゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は瞬間的にすべての文字が消えてしまわなければならないことになるからである――そうすると、『魏志倭人伝』には1字も書かれていないことになるので、「邪馬台国」という国名も所在地もまったく書かれていないことになってしまう。このように、学者たちの邪馬台国説は真っ赤なウソをマコトしやかに騙(かた)る詐欺でありペテンとなる。
 
 『魏志倭人伝』に記述された〔転回日本列島地理〕は、学者たちが“文献批判”を用いて「日本神話は虚構である」と断定した『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話に記述されて、宗像の三女神と神津島の物忌奈命神社として現在に伝えられ、「玄海」という地名が示す[玄]の秘密を解明すると日本神話は真実と真理を伝えるものであることが科学的に立証される。
  

 以上のごとく、すぐ前にて赤い太字に記して引用した『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻に記載される「緯度の測定」という天文地理における事実の一点に絞って考えれば――いままでの邪馬台国論争のごとく長い年月を費やしても論理の完結が得られないために解決できない状況を脱して、一日だけ論争すれば邪馬台国説と日本神話虚構説は【誤読】による妄想・空理空論であったと断定できて、歴史学の基本に立ち返れば真実・真理に到達できることが明らかになる。
 邪馬台国説と日本神話虚構説は歴史学における〔文献史料を忠実に読解しなければならない〕と〔歴史学では【科学】が最も優先される〕という基本中の基本ルールを知らない学者たちが【誤読】を用いてデッチで欺瞞であり詐欺であったのである。
 学者たちがデッチあげた邪馬台国説と日本神話虚構説は日本人のみなもとである命の叫びを奪い、「日本人は生まれてくる価値が無いゴミ屑だ。みんな死ね!」と日本民族を虐殺する祟
(たた)りであることを、次回で明らかにする。

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