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2012年8月28日 (火)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・38

 今回は、前々回(36回)と前回(37回)につづいて、❸日本国が〔愛〕の理念のもとに誕生したことを解説する。

 ❸ 『魏志倭人伝』末部は、日本建国の〔愛〕の理念に関する歴史を、下記のごとく記述する。
 「魏の正始(せいし)八年(西暦247年)ころ、卑弥呼はすでに死んでいた。卑弥呼を埋葬する大きな陵墓が作られた。墓の円墳部の直径は、百余歩(約150m)』である。この卑弥呼陵には奴(・18歳くらいの青年)と婢(・13歳くらいの乙女)たちが百余人も殺されて埋められた。この徇葬(じゅんそう)儀式を憎悪する反乱がおこって、卑弥呼の後に男王が倭の最高位の大王に就任したが国中が服従しないこととなった。このため、倭の王朝軍と反乱者たちは戦争して殺しあった。時にあたって、倭王朝は反乱者たちを千余人も殺した。また、倭王朝は卑弥呼の宗女(そうじょ)として13歳の時に(新生・小国・日本の)王となった壱与(いよ)を(日本国から倭国へ帰還させて)、倭女王に就任させた。この壱与の倭女王就任によって、倭における反乱はついに鎮静化して国中が安定した。」

 この壱与に関する歴史は、『古事記』上巻に詳しく記述されている。
 『古事記』は日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために編纂された。
 『古事記』上巻は日本建国の〔愛〕の理念をテーマとする史書である。
 『古事記』上巻に登場する伊耶那美命は小国・日本の女王であり、上記の『魏志倭人伝』末部に「壱与」と記載された倭女王である。
 倭国の小国・伊耶(いや)国・丹波の13歳の乙女が、卑弥呼が統治する倭国の35番目に服属することになった小国・日本の女王に選ばれた。この小国・日本の女王を『魏志倭人伝』末部は「卑弥呼の宗女の壱与年十三で王となりしを立てて」と記載した。
 ゆえに、西暦234年ころに13歳であった壱与は小国・日本の女王となり、『魏志倭人伝』が記述するように247年にあって27歳くらいであったであろう彼女は倭女王に選ばれたことになる。

 この「壱与」という名は夏音名である。
 壱与は伊耶国出身者であったから日本国の人民に“伊耶国出身の美しい女王”ということで“伊耶那美命”と愛称された。
 伊耶那美命の本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。
 竹野比売は倭の小国・伊耶国出身者であった。ゆえに、倭国の反乱を鎮めるために倭女王に選ばれた。
 竹野比売が小国・日本の女王であった時、彼女は国作りの柱を〔愛〕と定めた。
 竹野比売が日本国の女王になってから多分7,8年後であったであろう、卑弥呼が没して18歳ころの青年と13歳くらいの乙女を百余人を殺して卑弥呼の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)儀式がおこなわれた。
 この徇葬を憎悪する反乱がおきて倭国は乱れた。
 この反乱を鎮圧するために倭王朝は、人民に絶大な人気がある小国・日本の 〔愛〕の女王・伊耶那美命を倭女王に就任させて徇葬を憎悪する反乱を鎮静化させた。

 倭女王になった竹野比売・伊耶那美命は30歳ころに鉄製のスキやクワの刃先を作る製鉄事業における火災で火傷を負って、天の香具山の麓で没した。
 伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、夫の日本国の軍王・伊耶那岐命が受け継ぎ、伊耶那岐命の後を伊耶那美命と伊耶那岐命の息子の須佐之男命が継承し、その後を大国主神が、次に山幸彦(やまさちびこ)の火遠理命(ほおりのみこと)が受け継いだ。

 この伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を、天照大御神は憎悪して否定した。
 天照大御神は強大な権力と夏音文字の学芸によって国家が栄える、人民が欲求する日本建国の〔愛〕は国力を弱体化させると考えた。
 出雲王権を治める大国主神は、伊耶那美命を尊崇して彼女が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を国政の柱としたため、天照大御神は軍を遠征させて出雲国を征服した。
 また、天照大御神は孫の天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)が率いる大軍を、伊耶那美命を崇拝する天菩比命(あめのほひのみこと)が治める九州宗像(むなかた)に遠征させて、宗像王国を征服した。
 この大和王朝と国家の権力の強大化をはかる天照大御神の考えを海幸彦の火照命(ほでりのみこと)が受け継いだ。しかし、磯城(しき)の水垣宮(みずかきみや)から始まる海幸彦の火照命の奈良県・大和王朝は衰退し、伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊ぶ山幸彦の火遠理命から始まる河内王朝が栄えたと記述して、『古事記』上巻は終わる。

 したがって、『古事記』は大和王朝の基礎を築いた皇祖・天照大御神の聖性を著しく汚す反逆の史書・国民史書であったことになる。
 これゆえ、『古事記』を献上された元明天皇は怒って即座に拒否した。
 だから、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、『古事記』序に「和銅四年(711年)九月十八日、元明天皇は太安万侶(おおのやすまろ)に“旧辞を書物に著(あらわ)して献上せよ”と命じて『古事記』完成を催促した」という一件と、『古事記』序の末尾に記載された元明天皇に『古事記』を献上した和銅五年(712年)正月廿八日の一件は削除されて記載されないことになった。
 このように、『古事記』は元明天皇に認可されなかった反逆の史書である。

 『古事記』は献上拒否されて正史になれなかったので、8年後の720年、歴史局の総裁・舎人(とねり)親王は『日本書紀』を完成させて、元明天皇の娘の元正天皇に献上した。
 この『日本書紀』の献上は承認されて正史として認められた。
 というのも、『日本書紀』は日本建国の〔愛〕の理念の記述が不明曖昧(あいまい)であり、現在の学説のごとく記事の表層だけをつまみ食いした粗雑な読み方をすれば天照大御神を崇拝しているかのごとく解釈できるからである。このように反逆の度合いが薄まるものであるので、元正天皇以後の歴代天皇は『日本書紀』を正史としてあつかった。
 しかし、『日本書紀』を元正天皇に献上した舎人親王は、反逆の史書『古事記』編纂を指揮するものであった。
 このため、『古事記』献上を拒否した元明上皇は元正天皇が『日本書紀』の献上を認めたことに猛反対した。
 元正天皇は、元明上皇の娘(長女)である。
 元正天皇は母親の元明上皇の忠告に耳をかさなかった――というのも、元正天皇は舎人親王をいちずに愛していたからである。
 元正天皇は一生独身であった。舎人皇子を愛していたからである。
 『万葉集』の収録された元正天皇が作った大半の和歌は、舎人親王への恋慕を詠む。また、元正天皇は「舎人娘子(とねりのおとめ)」というペンネームで、『万葉集』の61番、118番、1636番を残している。この3首は、すべて舎人親王への愛を詠む。
 いちずに舎人親王を愛した元正天皇にとって、『日本書紀』は絶対に命に代えて献上を認めて正史にしなければならないものであった。

 ところが、舎人親王にとって『日本書紀』を完成させたものの、日本国誕生史の真実を後世に明確に伝えることができなかった、痛恨の失敗作品であった。
 現在は『日本書紀』と書名が呼ばれるが、舎人親王が元正天皇に献上した当時の書名は『日本紀』であった。
 『万葉集』巻二十の冒頭の4293番の和歌は元正天皇が詠む歌である。
 この歌で、天皇は『日本紀』を「山づと」すなわち「山のみやげ」と表現して、「わたくしに、山のみやげの『日本紀』をくれた」と喜んでいる。
 いっぽう、4294番の舎人親王が作った和歌は、4293番の天皇が作った和歌に応えるものである。この4294番の3句と4句で「山人の 心も知らず」と詠み、親王は「『日本紀』は失敗作である」と後悔をあらわしている。
 この「山人の 心も知らず」という表現には――陛下は『日本紀』を献上されて喜ぶが、陛下がわれら兵力の要(かなめ)となる大伴旅人を征西将軍に任命してその軍を九州に遠征させる失敗をおかしたために、上皇と藤原氏の一派が我ら編纂スタッフを皆殺しにする好機が到来したと喜んで着々とその準備して風雲急を告げる事態となった。ゆえに、やむを得ず吾は編纂スタッフの“命を失っては献上できなくなる”と言う意見に押されて献上を決意したものの、この『日本紀』は日本建国の〔愛〕の理念が後世に伝わらない失敗作だ。この我が後悔の念を、陛下はまったく知らない――という心情が込められていた。

 720年当時、伊耶那美命を崇拝する勢力は頭領の舎人親王、副頭領の弟の新田部親王を中心にして武家の名門の大伴旅人(大伴家持の父)と編纂スタッフとで構成されていた。
 いっぽう、天照大御神を崇拝する勢力は元明上皇を筆頭にして藤原不比等が従っていた。
 この両勢力の軍事力は舎人親王側の勢力のほうが優勢で、上皇側は劣勢に甘んじてじっと数年前から耐えている状況であった。
 しかし、この年(720年)の3月4日、元正天皇は舎人親王に従う大伴旅人を征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任命してたために、大伴軍は九州に遠征させた。これによって、舎人親王側の軍事力は優勢ではなくなり、じっと耐えていた上皇側にとって舎人親王側と戦うチャンスが到来したことになり、事態はにわかに風雲急を告げることになった。
 このように720年における4月・5月の状況は“いざ戦争だ!”という状況となったので、その前に『日本紀』を完成しようということになったために、編纂スタッフに任せて口出しを控えて監督していたにちがいない舎人親王にとって、『日本紀』の出来栄えはまったく満足できないものとなっていたのである。
 この失敗の原因は旅人軍を九州に遠征させた元正天皇にあると怨んで、舎人親王は「山人の その心も知らず」と詠んだ。
 しかし、『日本書紀』の失敗の原因は舎人親王が編纂スタッフを信頼しすぎたことにも一因があったことになる。親王は、編纂スタッフが上皇に処刑されるのを恐れて反逆の度合いを薄めることを予測しなかった。そのこともおそらく内心後悔していたにちがいないが、元正天皇の旅人軍の九州遠征の勅令が『日本紀』失敗の原因と怨んで舎人親王は「山人の その心も知らず」と詠んで天皇に怒りをぶつけたものと考えられる。

 『万葉集』4293番の題詞に記載されているように、元正天皇は「諸王卿らよ、反歌を作って『日本紀』を奉るがよい」と述べて直ぐに喜びの和歌を作り、この詔(みことのり)にこたえて舎人親王が4294番の和歌を作って『日本紀』は献上された。
 だから、正史『続日本紀』の養老4年(720)5月21日の記事は「これより先に一品(いっぽん)の舎人親王は、勅を奉(うけたまわ)りて、日本紀を修めたまう。ここに至りて功成り、紀三十巻・系図一巻を奏上したまう」と記載する。
 『万葉集』の4293番と4294番は舎人親王が元正天皇に『日本書紀』を献上した時に作られた和歌であるので、献上ではなく「奏上したまう」と記されたのである。

 舎人皇子が『日本書紀』は日本建国の〔愛〕の理念が後世に伝わらない失敗作であると後悔したように、『日本書紀』は完成直後から平安時代中期にかかるころまでの間、朝廷で講書(『日本書紀』を講義・研究すること)がおこなわれて尊重された。一方、舎人皇子が指揮して作成された『古事記』については朝廷はその存在を無視して焚書としたものとしてあつかった。

 『続日本紀』の天平8年(736年)11月11日の箇所に、舎人親王が『古事記』上巻に記述された日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えようとした動きを、下記のごとくに説明する。
 「天平5年(733年)、舎人親王と新田部(にいたべ)親王は、葛城王(かつらぎおう)と佐為王(さいおう)の兄弟が母・県犬三千代(あがたのいぬかいのみちよ)の橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を名乗る許可を聖武(しょうむ)天皇からたまわり、橘氏という格別の名を後世に伝え、万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)えたいと願っている事情をたずねた。この一件は舎人親王と新田部親王が聖武天皇を騙(だま)して葛城王(かつらぎおう)兄弟に日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える和歌集の編纂を命じる企てであった。ゆえに、葛城王兄弟は両親王に『死を覚悟して両親王の企てを必ずら聞きとげます』(原文は、昧死まいしして以聞いぶんす)と誓った。」

 日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える『古事記』は献上拒否されて焚書され、8年後に完成させた『日本書紀』は日本建国の〔愛〕の理念が不明になった失敗作であった。
 これを挽回するために企てられた日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える和歌集は、葛城王兄弟が「万歳に窮みなく、千葉に相伝えん」と述べた言から『万葉集』と名づけられた。
 また、「橘」は「『万葉集』の作成」をあらわす暗号となった。
 この舎人親王の『万葉集』編纂の陰謀は、親王が没する2年前のことであった。

 『古事記』上巻に記述された日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために、『万葉集』が編纂された。
 ゆえに、朝廷が無視してその存在をまったく認めなかった『古事記』の記事が、『万葉集』の注に引用されている。
 正史『続日本紀』は『古事記』作成に関する証言のすべてを削除し、その後の朝廷も『古事記』は存在しないものとして扱った。ゆえに、この状況を短絡的に考えて『古事記』は偽書であると考える学者たちがいる。しかし、『万葉集』には『古事記』の注があり、『古事記』上巻の記述は事実であったと後世に伝える幾つかの史跡もある。この史跡については、この回の末部に列挙した。
 だから、『古事記』偽書説の根拠・理由はまったく成立しない。
 『古事記』は伊耶那岐命の黄泉国訪問説話において「伊耶那美命の墓を作る時に、皇祖・天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)が残虐な徇葬を決行した」と後世に真実の歴史を伝える反逆の史書であったために、朝廷に徹底的に排除されることになったのである。

 葛城王は橘諸兄(もろえ)と姓名を改め、753年(天平勝宝5年)までに『万葉集』巻十六まで作成した。
 この753年、橘諸兄は70歳となっていた。
 聖武上皇・孝謙(こうけん)天皇に気づかれまいと密かにおこなう『万葉集』編纂状況は『古事記』上巻に代わって日本建国の〔愛〕の理念を後世に必ず伝えると舎人親王に「昧死して以聞す」と誓った約束は未だ十分でなく、諸兄にとっては巻十六までの『万葉集』は未完成であって満足できるものではなかった。
 70歳となってもはや死期が間近に迫る状況となった諸兄は、36歳の少納言の大伴家持(やかもち)に『万葉集』編纂を受け継ぐ役の白羽の矢を立てた。
 橘諸兄は、757年1月6日に死去した。

 『万葉集』編纂は受け継いだ大伴家持は、諸兄が編纂した巻十六に手を加えた。
 そして、家持は巻十七以後を759年(天平宝字3年)6月から764年(天平宝字8年)正月までに編纂した。
 その後、777年(宝亀8年)1月から778年(宝亀9年)1月までに、家持は全巻(巻一から巻二十まで)に目を通して修正を加え、『万葉集』を完成させた。
 『万葉集』の編纂目的である『古事記』上巻に記載された日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える機能は、『万葉集』巻二十の4321番から4436番までの116首の防人歌(さきもりうた)で表示された。
 防人歌は諸兄が編纂した巻十三や巻十四にも一部載せられているが、このような少数の防人歌では日本建国の〔愛〕の理念を明確に伝えることができず、『日本書紀』の失敗の二の舞を演じることになる。
 ゆえに、巻二十に『万葉集』編纂目的となった防人歌が多数収録されることとなったのである。

 〔巻二十の防人歌の作者たちの出身国の範囲〕が、13歳の壱与・伊耶那美命・竹野比売が赴任した「小国・日本」であった。ただし、「遠江」(現在の静岡県西部)は『魏志倭人伝』に記載される倭国に属する「不呼(ふこ)国」であった。遠江は伊耶那美命に熱烈に憧れる国であったので、天皇と律令国家体制は「小国・日本」に属する国と定めたのである。
 巻二十の116首のうちの110首(95パーセント)は、妻子や両親や恋人を思い気づかう兵士(防人)の愛の歌である。そのうち、残る6首の2首(4370番と4373番)だけは天皇への尊敬を詠むと思しき和歌であるが、残る4首の和歌は愛や天皇への尊敬を詠むものではない。
 このように、巻二十の防人歌は『万葉集』の作成目的であった『古事記』上巻に記述された日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるための役目を有するものであった。

 舎人親王をいちずに愛して一生独身を通した元正帝は、748年に69歳で死去した。
 したがって、橘諸兄の『万葉集』編纂を助ける後援者となった。
 舎人親王が失敗作と後悔した『日本書紀』は720年の5月21日に元正帝に献上された。
 橘の白い小さな五弁の花は、『日本書紀』が献上された5月の下旬に開き咲いていた。
 この『日本書紀』が奏上された『万葉集』4293番と4294番の和歌の題名は「山村(やまむら)に幸行(いでま)しし時の二首」であり、4293番で元正帝は『日本書紀』を「山人の 朕(われ)に得しめし 山づとそこれ」と表現し、4294番で舎人親王は「山人の 心も知らず 山人は誰(だれ)」と呼んで「山人というのは吾のことか!」と怒りを元正帝にぶつけた。
 この「山村に幸行しし時の二首」という題名にふさわしく、橘の木は近畿地方から西の暖かい海に近い山中に自生した。
 だから、「山中に自生する橘」は「山村に幸行しし時の山づと」となる。
 つまり、「橘」を暗号とする「『万葉集』」は舎人親王が元正帝に献上したかった「本意の山づと」ということになる。
 橘諸兄は元正帝に“720年の『日本書紀』は舎人親王にとって不本意の出来栄えであった。これゆえ、本意の『万葉集』を元正帝に献上するために「橘」という暗号を思いついた”と、舎人親王が『万葉集』編纂に託した思いを説明した。
 だから、元正帝への愛に報いるために、また愛していたことを伝えるために、そして舎人親王はおのれの遺志を元正帝に託するために、舎人親王は「『万葉集』作成」の暗号を「橘」とするものだったのである。
 橘諸兄は『万葉集』4293番の「山づと」は『日本書紀』ではなく、『万葉集』であると舎人親王の元正帝への思いを伝えた。
 下記の『万葉集』4058番が元正帝が作った和歌である。この和歌は、元正帝の辞世の和歌ではあるまいか。
 「橘の とをの橘 八(や)つ代(よ)にも 我は忘れじ この橘を」
 「武骨でぶっきらぼうなあの人は生前、私に一度もはっきりと愛しているなんて言ってくれなかった。しかし、諸兄から“橘”の暗号は私のために考えたことを知った。橘が、こんなにたわわになった橘の実がなっている。この橘であなたの心を知った。あなたがこんなに私を愛していたくれたことを知った。いつまでもいつまでも、わたくしはこの橘の光景を忘れない。あなたが愛してくれたことを忘れない」 

 上記したように、『古事記』は天皇と律令国家体制が至上神と崇拝した皇祖・天照大御神の聖性をいちじるしく汚す反逆の国民史書であった。
 これゆえ、『万葉集』もまた天皇と律令国家の強大な権力へ反逆する産物であったことになる。
 このため、大伴家持は〔天皇と律令国家に逆らって、謀反にかかわっているのではないか〕と3度も疑われて過酷な処罰を受けた。
 その最初は、763年4月におきた藤原良継(よしつぐ)たちの恵美押勝(えみのおしかつ・藤原仲麻呂)殺害計画が発覚し、家持はこの計画に加わったと疑われた。
 二度目は、782年正月に因幡守(いなばのかみ)の氷上川継(ひかみのかわつぐ)が謀反をおこし、これに連座した嫌疑で家持は官を解(と)かれ、居住地を京外(けいがい)に移された。
 三度目は、家持は785年8月に63歳で没した(陸奥桉察使持節征討将軍みちのくあんさつしじせつせいとうしょうぐんに左遷されて都から遠く離れる東方地方の多賀城にて死去した)が、その20日後に大伴継人(つぐひと)・大伴竹良(ちくら)らが藤原種継(たねつぐ)を殺害したので、家持はこの殺害計画に加わったと疑われ、この嫌疑で領地の越前国加賀郡の百余町などを没収され、家持の子・永主(ながぬし)は流罪となった。
 この過酷な処罰は、『万葉集』は天皇と律令国家体制に盾突いて日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるものであったからにほかならない。

 9世紀後半から10世紀中ごろ、日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える日本国最初の小説『竹取物語』が完成した。
 『竹取物語』のヒロインの「なよ竹のかぐや姫」のモデルは、『魏志倭人伝』の末部に記載される壱与であり、『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であり、『古事記』中巻の開化天皇紀に記載される正妃の竹野比売である。
 竹野比売をモデルとするため、竹の筒から生まれた「なよ竹のかぐや姫」という名になった。
 伊耶那美命は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ・クワやスキの鉄製の刃先を作る製鉄事業開発の製鉄炉)が爆発した火災事故で火傷を負い、天の香具山近くの泣沢神社で臨終したので、その製鉄炉の「迦具」と臨終した神社近くの山の「香具」の「かぐ」から「かぐや姫」と名づけられた。
 かぐや姫に求婚する五人の貴公子は〔愛〕の理念がかかげられた日本国誕生史の消滅をはかった権力者たちを風刺して侮蔑する渾名(あだな)である。
 1番目の「石つくりの御子」は蘇我大臣家の馬子・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)をおちょくり嘲笑する渾名である。
 2番目の「くらもちの皇子」は「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・天智天皇)とその奸智(かんち)に長けた権勢」をからかって軽蔑する異名である。
 3番目の「右大臣のあべのみむらじ」は「天武天皇王朝」をおちょくるものである。
 4番目の「大納言の大伴のみゆき」は日本軍が白村江(はくすきのえ)で唐軍に敗れた一件や中大兄皇子が強引に近江大津へ遷都した一件や持統天皇が日本建国の〔愛〕の理念を憎悪したことや、そして『古事記』献呈を拒否した元明天皇の歴史などをごちゃ混ぜにして、ギャクもシュールレアリスムのへったくれもあるものか、読者よ渾名について四角四面に考えずに脳味噌を絹豆腐のごとくやわらかくして想像をたくましくして考えろと言わんがごとく表現して、日本建国の〔愛〕の理念に背く事件や権力者たちをまとめて戯画化して嘲笑う箇所である。
 5番目の貴公子の「いそのかみのまろたり」は日本国誕生史の抹殺に最も積極であった藤原不比等だけは絶対に赦すことはできないと怒りを示すものである。ゆえに、ほかの4人のかぐや姫に求婚した貴公子は殺されないが、『竹取物語』は「藤原不比等」をあらわす「中納言のいそのかみのまろたり」だけは惨(みじ)めにお死(ち)んだと怒りをあらわに表現する。
 次に登場するかぐや姫に求婚する「御門(みかど)」のモデルは「聖武天皇」である。
 『万葉集』編纂は聖武天皇を騙して勅命(ちょくめい)を得て成立した。
 聖武天皇の時代は日本建国の〔愛〕の理念を敵視して憎悪した律令体制の最盛期であったと同時に、律令体制の基礎が根底から崩壊する時期でもあった。
 次に帝(みかど)〕につかえる「内侍(ないし)なかとみのふさこ」のモデルは聖武天皇につかえた「不比等の息子の中臣(なかとみ)・藤原房前(ふささき)」である。
 最後に登場する「つきのいはかさ」は「舎人親王」であり、舎人親王は上記したように『古事記』と『日本書紀』編纂を指揮し、『万葉集』編纂を企てて、日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えることにその一生をささげた万葉の反逆児である。

 だから、『竹取物語』は下記のような場面で終わる。
 「聖武天皇をモデルとする帝はかぐや姫からいただいた不死の薬に、手紙と壺とを添えて、御使(みつかい)に下された。この勅使には舎人親王をモデルとする調(つき)の岩笠(いわかさ)を任命して、(かつて小国・日本国であった)駿河の国にあるという山の頂上に持ってゆくように帝は命じた。そして、その嶺でしなければならない作業を指示なされて、帝がかぐや姫宛てに書いたお手紙と不死の薬をいれた壺とをならべ、火をつけて燃やすように指示された。その御沙汰(ごさた)をうけたまわって、調の岩笠は士(つわもの)たちを大勢連れて山へ登ったことからして、その山を(士が富むことから)『ふじ(富士)の山』と名づけた。その焼いた煙が、いまでも雲の中へ立ち上っていると言い伝えられている。」
 このように『竹取物語』のラストは――強大な天皇の権力よりも、誰もが望む不老不死よりも、舎人親王が命を投げうって守った日本建国の〔愛〕の理念のほうが遥かに優る、日本建国の〔愛〕の理念は永遠不滅の日本人の命と魂のみなもとで絶対に失ってはならない――と表現する。
 このように、日本最古の小説『竹取物語』は舎人親王が後世に残すことに情熱をかたむけた日本建国の〔愛〕の理念をテーマとする、反権力風刺小説の傑作だったのである。

 『魏志倭人伝』末部に表示された日本建国の〔愛〕の理念を伝える史料は、『古事記』上巻、『万葉集』、『竹取物語』などの文献史料だけでない。
 『魏志倭人伝』が作成された3世紀後半には、遠江国造(とうとうみのくにのみやつこ)の先祖の豪族・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)がちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を作成した。この大鳥の地上絵は、現在の静岡県浜松市北区の細江町の行政区域の範囲を表示する地図の形として残る。この1千万坪の大鳥の地上絵には、日本建国の〔愛〕の理念が明確に表示されて設計されている。というのも、この大鳥の地上絵には『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話と天照大御神と須佐之男命の誓約説話は史実であったと科学的に証明できる機能がそなわっている。だから、この細江町の1千万坪の大鳥の地上絵は日本建国の〔愛〕の理念を明確に表現する史跡ということになる。
 上記したように、日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える資料として利用された防人歌において、「遠江」は倭の小国「不呼国」であったために小国・日本ではなかった。しかし、遠江の豪族・建比良鳥命が日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために作成した1千万坪の大鳥の地上絵が現存することになったのは、遠江の人々が伊耶那美命に熱烈にあこがれ日本建国の〔愛〕の理念を尊重するものであったからにほかならない。このため、7世紀末から8世紀の朝廷は、本来、倭国の一員であった不呼国・遠江を小国・日本に組み入れたのである。
 現在の滋賀県彦根市の行政区域の範囲を示す地図の形は1603年に着工してから20年後の1622年に完成させた、3千万坪の大鳥の地上絵である。この彦根の大鳥の地上絵の設計テーマもまた日本建国の〔愛〕の理念である。この彦根の大鳥の地上絵は徳川家康が遠江の建比良鳥命の子孫の井伊氏を彦根藩主に就かせて、近隣7ヶ国12大名に助勢を命じて作成させたものである。ゆえに、現在の彦根市の行政区域を示す地図の形・大鳥の地上絵は徳川幕府が遠江の建比良鳥命の子孫の井伊氏に命令して20年の歳月を要して作成した日本建国の〔愛〕の理念を伝える史跡となる。
 1616年に家康は没したゆえ、1622年に完成した彦根の3千万坪の地上絵を、家康は見ていない。
 彦根の3千万坪の大鳥の地上絵に設計された日本建国の〔愛〕の理念の復興は、家康の遺志となった。
 このため、彦根の大鳥の地上絵が完成した翌1623年、家康の遺志を継ぐ将軍秀忠と幕府は当時の天才芸術家にして科学の才能に優れる小堀遠州に、日本建国の〔愛〕の理念の復興を皇室に欲求するための桂離宮の庭園(京都市)を作成するように命令した。
 これゆえ、桂離宮の庭園もまた日本建国の〔愛〕の理念を伝える史跡である。
 1608年、家康は30歳の小堀正一に建比良鳥命が作成した遠州(遠江)の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵の研究を命じた。ゆえに、この時から、小堀正一は「遠州」と号した。それ以来京都の伏見奉行にて69歳で死去するまでの40年間、遠州は細江町の1千万坪の大鳥の地上絵と片時も離れない人生を送った。この遠州の細江町の大鳥の地上絵の研究成果は、今日の桂離宮の庭園に設計されて残った。
 桂離宮の庭園もまた、日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える史跡である。

 1738年、桂離宮の庭園に表示された日本建国の〔愛〕の理念の設計を見て、霊元上皇は家康が欲求した日本建国の〔愛〕の理念を復興を決意した。
 霊元上皇は大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興して、即位する天皇の頭上に高くさし上げる王冠・菅蓋(かんがい)の意匠を上下二つにして、この上下の飾りの別々の造形にした。

 天皇の王冠の上の飾りは夏音文字の学芸を表現する細江町の大鳥の地上絵の造形物にした。というのも、桂離宮の庭園の中心にある池より東北に作られる庭園は、建比良鳥命が作った細江町の大鳥の地上絵の形となっているからである。
 桂離宮の庭園における日本建国の〔愛〕の理念と夏音文字の学芸知識を設計する中枢部は、この細江町の大鳥の形をした庭園部となる。また、画家が自分の絵にサインすると同様に、この池の東北部にひろがる遠州の細江町の大鳥の形をした庭園部は「桂離宮の庭園は小堀遠州が作った」と表示する署名の役割も有する。
 細江町の形をした庭園部は桂離宮の中枢部であり、「伊耶那美命」が容易に連想できる重大な箇所であったので、霊元上皇は天皇の王冠の上の飾りを細江町の大鳥の形の意匠にすると定めたのである。

 天皇の王冠の下の飾りは日本建国の〔愛〕の理念を提唱した「伊耶那美命」を象徴する神具「水器」の蓋(ふた)を菅笠(すげかさ)で表示した。
 この下の飾りとなった水器は、家々の神棚の上に置かれる神具である。
 水器を手の平にのせて間近に見れば、水を入れる容器の部分は妊婦のおなかを表現するものであることが理解でき、毎朝とりかえる「水」は「胎児の命をまもる羊水」をあらわし、「水器の蓋」は「乳房」の形であることに気づく。
 そして、「水器の蓋のつまみ」となる突起部は「乳首」の形となっている。
 「水器の蓋のつまみの根元」には同心円のミゾがあり、この「同心円のミゾ」は「天頂緯度(天頂点を中心として広がる緯度線)」をあらわす。
 また、「同心円のミゾ」は『古事記』序の末部に登場する夏音文字「玖沙訶(くさか)」の[沙]の字「胎児が通過する産道の壁にあるミゾ」をあらわす。[沙]の3水偏は「羊水」をあらわし、[少]は「砂漠の風紋によってできる砂模様に相似する小さな砂模様の形」であるので、[沙]の[少]は「羊水とともに通過する産道の壁にあるミゾ」、つまり「砂漠の風紋でできた砂模様を小さくした形に相似する、産道の壁にあるミゾ」ということになる。
 したがって、『古事記』序の末部に記載される楷書の「日下」を夏音文字では「玖沙訶」とする、この「玖沙訶」の語源は「すべての文字を生む母体の銀河の参道に相当する銀河部」であった。
 したがって、天皇の王冠の「水器の蓋」を表現する下の飾りの菅笠は、日本建国の〔愛〕の理念をあらわしていることになる。
 だから、天皇が即位するときに用いられる王冠の「菅蓋」という名称の[蓋]は「水器の蓋」のことであったのである。
 このように、天皇が即位するときに用いられる王冠は日本建国の〔愛〕の理念を表現する遺物・史料である。

 冒頭にて指摘したように、『魏志倭人伝』末部の壱与の記事は日本建国の〔愛〕の理念を示すものとなる。
 この日本建国の〔愛〕の理念は『古事記』上巻に記載され、『万葉集』に収録された〔愛〕の和歌はすべて後世に日本建国の〔愛〕の理念を伝えるものであった。そして、わが国における最初の小説『竹取物語』もまた日本建国の〔愛〕の理念を伝えるものであった。
 このような確かな文献史料による証言の他に、この証言は真実であると科学的に明確に証明できる細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、彦根市の3千万坪の地上絵、桂離宮の庭園という史跡が現存する。
 さらに、天皇の王冠もまた日本建国の〔愛〕の理念をあらわす史料となる。

 過去の人々の証言と過去の人々が作った証拠が科学的に合致してまったく矛盾しない不合理な点もなかったならば、これは絶対に事実ということになる。
 というのも、過去におこった犯罪における証言が状況証拠や刑事の独断・推理によって無視されても、確かな証拠が発見されて無視された証言通りに科学的に矛盾点がなく証明されたならば、無視された証言こそが真実であったことになるからである。
 だから、証言(文献史料)と証拠(史跡・史料)がそろって科学が成立する日本建国の〔愛〕の理念の歴史は事実であったと断定すべきことになる。
 いいかえると、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を“文献批判”という方法で削除した学者たちの邪馬台国説と日本神話虚構説は【誤読】による空論・妄想・ウソ八百であったことになる。

 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は紀元前850年ごろに生存したギリシャの詩人・ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは“文献批判”を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。
 したがって、学者たちの“文献批判”のよる意見こそが空想であったと証明された。

 シュリーマンのトロイ遺跡の発見が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対的方法)が存在する。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述されたとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが【文献批判して否定した意見】は【誤読の空想または妄想】であったことがなんびとにも否定できない決定的事実となる――このような絶対原理が存在する。

 このことは、上記したように、歴史学に限ったことではない。
 この世における【真実の法則】である。
 20年前におきたある殺人事件の証言とおりの物的証拠が発見されたならば、20年前の証言は真実であったことになる。
 10年前の科学者の理論が批判・否定されても、10年後に理論が成立する証拠が発見されたならば10年前の科学者の理論は真実だったことになる。
 5年前の妻が目撃した夫の浮気らしき行動が証明できなくても、5年後に確かな証拠が発見されたならば5年前に夫は浮気していたことが事実となる。
 だから、この世においては過去の人々の証言となる文献記事が後世の学者たちによって批判・否定されても、文献記事が事実であったと証明できる史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、後世の学者たちが“文献批判”した意見は【誤読の空論】であったことが決定的事実となる。

 『魏』倭人伝』のすべての記事を事実を伝えるものであると明確に科学的に証明できる確かな史跡は、わが国には幾つも存在する。
 したがって、「『魏志倭人伝』のすべての記事が正しいなんてことは絶対にありえない。個々の記事は十分に批判して読解しなければならない」と断定して、“文献批判”を用いて立論した邪馬台国説は正真正銘の【誤読の空論】であったことになる。
 この邪馬台国説が【誤読の空論】であったと明確に科学的に立証できる数々の史跡によって、『古事記』上巻に記載された事柄もまた史実あったと明確に科学的に立証される。だから、日本神話虚構説もまた【誤読の空論】であることはなんびとにも否定できない事実となる。 

 邪馬台国説と日本神話虚構説は、なんら根拠もない、この日本国を滅亡させる、日本民族を虐殺するウソ八百である。
 この両説は「日本人は生まれてくる価値が無いゴミ屑だ。みんな死ね!」と侮蔑して日本民族を虐殺する、あまりにもひどい暴言である。
 また、今上陛下は日本建国の〔愛〕の理念を造形する王冠を頭上に掲げて即位したゆえ、学者たちが邪馬台国説と日本神話虚構説を【誤読の空論】であると認めないかぎり、学者たちは「天皇陛下のクソたれ野郎! なにが日本建国の〔愛〕だ。くだらないことを尊重するにもほどがある」と蔑視していることになる。
 この事実を、今回において具体的に証明しようとしたが――この1回の解説では無理であることを思い知った。 
 今後、4回か 5回か、6回かになるかは予測できないが、邪馬台国説と日本神話虚構説が日本民族を虐殺するもっとも日本人が憎悪すべき空論・ウソ八百であることが明白になるようにするために、この両説はまともな根拠・理由が何ひとつそなわっていない世界中で最も愚劣きわまりないデタラメ・詐欺・ペテンであることが明確になるようにしたいと思う。 

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